小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (3) 三比事に書かれた探偵方法 一
三比事に書かれた探偵方法
一
櫻陰、鎌倉《けんさう》兩比事にはユーモアの少ない代り、探偵方法に色々奇拔なものがあつて、その點は藤陰比事の及ぶところでない。
むかしの探偵方法には色々あるが、第一は直觀、第二は迷信的方法、第三はトリツク(詭計)を應用する方法、第四は手がかりから推理を行ふ方法などがこれである。三比事を通じて、直觀による探偵方法の應用された物語は相當に澤山あるけれども、その興味はむしろ、犯罪そのものにあつて、探偵といふ立場から見ては煩る物足らない。で、私は前述の第二、第三、第四の探偵方法の取り扱はれてある物語を順次に紹介しようと思ふ。
迷信的探偵方法とは迷信的な鑑定方法による探偵を意味するのであるが、現今から見れば『迷信的』であるものゝ、その當時に於ては、立派に『科學的』てあつたのである。だからその當時の『科學的鑑定』といへぬことはないけれど、その當時の『科學的鑑定』の意味は現今のそれと根本的にちがつたところがある。それは何かといふに、その當時に於て、鑑定の結果はその儘『動かぬ證據』であつたのに反し、現今では鑑定の結果は、推理の基となる一つの『手がかり』に過ぎないのである。言葉をかへて言ふならば、むかしの鑑定は絕對的で、今の鑑定は相對的である。こゝに所謂『見込搜索』と『科學的搜索』との區別が存在するのである。
さて、櫻陰、鎌倉比事の中にどんな鑑別法があるかといふに先づ第一には血液の鑑別法である。これはいづれ支那で行はれたものをその儘引用したらしい。櫻陰比事には男女の血液によつて、その男女が姦通したか否かを識別する話がある。
『昔都の町、猪熊通りより染帶を拵へて丹波の山家に通ふ商人あり、此者の妻、舊は御所方の末の女﨟役してありけるが、流石風儀は花の香今に殘りて人皆目に懸けける。身代輕きものなれば一人の留守を配慮(きづか)ひながら渡世は是非なし、殊吏此男悋氣深く、旅立つ折ふしは女の知らざるやうに守宮(やもり)の血を取つて左の肱《ひぢ》に附置ぬ。これを「蟲しるし」とて、其女、男にまみえねうちは何ほど洗ふても落ちざる例《ためし》あり、昔日《そのかみ》いかなる好色人かこれを工夫仕出されける。此商人の同町に浮世男ありて此女を眼にて忍び、ものは言はずしてこがれけるに、女も自然と此男に思入りしに、一夜枕並べし夢を見しに、男もまた其夜忍び入りて契をこめし夢見ること、互に不思議なる緣と思ひける折から、若い者大勢語りぬる中にて何の遠慮もなく、此事を夢談話の種として大笑ひ扨は世間は種々なり。其後彼の男丹波より歸りて心だめしの「蟲しるし」を見るに消えて跡なきを疑ひ出し、我女房の自由はさまざま無理に懸つて强く詮議すれば、罪無き身にも悲しく留守中の事は少しも包まじと、諸神を誓文に立て彼の男の夢までも語り聞かせければ、それは隱れなき美男にていよいよ氣を𢌞し、世上を聞き合すに、彼の男の夢物語彼方此方に沙汰あれば、扨は二人が不義外に知られて其口留に斯くはいひけると聞きたり、これは吟味すべき所と分別して、たとひ夢物語にせよ男のある女の事を身に添ひたるとの風聞堪忍ならず、女も夢に逢ひしといへり、此分にでは不思議晴れず、これ密通に紛れなしと此事御前へ申上げ、兩方召出され御聞屆け遊ばされ、これは不義の證跡《しやうぜき》なし、然れども夫のある女の事戯《たはぶ》れて取沙汰する事落度《をつど》なり、又女も夢なればとて無用の申事なり、愚なる男の疑ふも道理なり、密通が夢の契か、此二つをためし、其上にて申付くべしと、銀の猪口《ちよく》二つ御出し遊ばされ、女の指の血を兩方ヘ搾り込ませ、本夫の指の血一つに搾り入れさせ、又密夫の指の血を搾り入れさせ、少時置きて御覽なされけるに、本夫の血は女の血と一つに凝固りぬ、また密夫の血は女の血と筋立ちて分れぬ。これ眞の契を籠めざる證據見せたまひ、格別なる御詮議に男胸を晴らし、此女に仔細なく添ひけるとなり。』[やぶちゃん注:以上は。「櫻陰比事」の巻四の三「見て氣遣(きづかひ)は夢の契(ちぎり)」。国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴全集」のこちらから原文が読めるので、読みは一部の難読と判断したものに限った。]
『蟲しるし』の迷信、卽ち守宮の血を女の肱に塗ると、男に關係しないうちは消えぬといふ迷信はたしかに漢の武帝の故事から來たものであらう。端午に蜥蜴《とかげ》を捉へて丹沙《たんしや》の中に入れ置き、翌年の端午に之を碎いて丹沙と調合し、後宮の婦人の肱に塗ると男に關係して居ないものは洗へばすぐに消えるが、関係したものは赤い痣が殘るといふのである。趣は反對であるけれど、『蟲しるし』の迷信は支那から傳はつたものにちがひない。又銀の猪口の中へ男女の血を滴らして、肉體關係の有無を知る方法もかの洗寃錄などに記されてある『滴血の法』卽ち父子か父子でないかを、血を滴らしあつて見る方法から思ひついたものであるにちがひない。尤も洗寃錄が日本に廣く讀まれるやうになつたのは西鶴以後であるが洗寃祿の出來たのは宋時代であるから、西鶴は讀んだと見ても差支ないであらう。無論洗寃錄以前にもかういふ迷信はあつた筈で、いづれにしても支那から輸入されたものである。[やぶちゃん注:「丹沙」は水銀と硫黄とから成る鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料で、漢方では消炎・鎮静薬などに用いる。また、ここに出る奇体な「蟲しるし」は私の電子テクスト注である南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分、また、「譚海 卷之一 守宮幷やもりの事」等を参照されたい(因みに、近世まで本草書にあってもしばしばイモリとヤモリは混同されていたのである)。「洗寃錄」「洗冤集録」(せんえんしゅうろく)とも。南宋の司法官僚宋慈(一一八六年~一二四九年)の世界初の本格的法医学書。現存版で全五巻五十三章。当該ウィキによれば、『当時における検死の方法と注意する点などについて細かく記されており、遺体の死亡状況』『や損傷の具合などから死因や死亡時期などを鑑定する方法の判別方法が詳細に体系化されている。例えば、同じ死因でも遺体の特徴から自殺か他殺か、他殺の場合は素手によるものか道具を使ったものなのか』『などといった判別が簡潔に出来るようになっている。その他、まだ生存している者への蘇生法や応急処置、検死や遺体の取扱いに関連した法令などについての記述もなされている』。『書名』『は「冤罪を洗ぐ(そそぐ=洗い流す)」』『の意』。『記述された時代の医学水準の限界により、現代医学の観点から見れば』、『明らかな誤りや信じがたい記述も散見されるが』、『前述の利点により』、『この書は、中国で後々の治安・司法を扱う官僚たちにとって必須書とされたのはもちろんのこと、日本や朝鮮といった周辺諸国、更には遠くヨーロッパにまでも伝えられて、近代法医学の成立まで法医学の原典として世界的に重用された』とある。リンク先に示された本邦の紹介本も私は所持している。]
次に鎌倉比事には一旦刄について洗ひ落した血を再びあらはす方法が書かれてある。
『小人は閑に居てよき事をなさずとかや、鎌倉の靑侍に靑木藤内といふ者、稽古矢の遺恨によつて、山村平次といふ者を討果す期にのぞみて、傍輩共兎角とあつかひ、左右方《さうはう》宿意なく中和《なかなを》りして、後に藤内闇打にあひて死す。親類ども相手は平次なりとて敵にとらんといふ。平次大小を投げ出して身に覺えなし、一たび遺恨のやみて別心なきしるしに、盃《さかづき》までさしかはしたり、それに討べき仔細なし、腰物にふしんあらば、いかにも存分にならんといふ。さぱはいへ藤内が身にとりて意趣あるもの外になしとて御前に罷出ける。最明寺殿平次の大小を召され、御吟味の上にて仰せらるゝには、平次が所存覺束なし、武士のたやすく大小を投出して吟味を乞ふ段あるまじき仕方なり。さらば葦毛馬の糞にて血付の刄物をぬぐへば、さらにあとなし、しかれどもそれを火にてあぶれば其血の油あらはるゝなりとて、御前の火鉢にてあぶらせらるゝに、成ほど油のしとひ出たり。紙にてぬぐひ取りて見るに、血まざまざと付たり。扨も未練の心底やとて切腹にも仰せ付られず首を刎させ給ひけり。』[やぶちゃん注:以上は「鎌倉比事」巻六の「闇の夜(よ)心(こゝろ)の的(まと)」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから。「最明寺殿」北条時頼。]
上記の血痕鑑定法が支那から渡つたかどうかを私は如らない。西洋では百年ほど前に血液に硫酸を混じてガラス棒でかきまはすと、そのにほひによつて、男か女か、他の動物の血かわかるといふ血液鑑別法があつたが、いづれも現今の科學では說明することの出來ぬものである。
この外に櫻陰比事には迷信的な醫學鑑別法が二つ掲げられてある。一つは毒薬を飮まされて口のきけぬ男に、ある妙藥をのませると、飮ませた相手の名を呼ぶといふ迷信で『…殘らず召出され御詮議さまざまなれども、本人夢中なれば、いづれをさして御吟味なり難し、少時御思案遊ばされ、御手前醫者仰付られ、斯る時申傳へし妙藥を世のために呑せ見よとの御意にて俄に拵へける。故《ふる》き皷《つづみ》の破革《やぶれがは》を黑燒にして彼の病人に與へたまへば、腹中に入ると、毒を飮ませし相手の名を自然《おのづから》に呼ぶといふ事、唐土《もろこし》の醫書にある故、今此の不思議を見るなり、大事の聞きものぞと仰出されし時、これはと驚くものあり、また何をかと疑ふものもあり、各々心々に耳をすましけるに、しばらくあつて病人唇に動ありて、咽内《のんどうち》にてそれが名を指して太皷《たいこ》の茂六《もろく》々々といふ事ありありと聞え……』と書かれてある。[やぶちゃん注:これは巻一の「五」の「人の名を呼ぶ妙藥」。国立国会図書館デジタルコレクションのここから。具体な事件部分がカットされてしまっているので、是非、全文を読まれたい。なんと、佐渡から京へ来た隠居の持つ二千五百両という莫大な金子を殺して奪おうという話である。]
唐土の醫書とことわつてあるから、この迷信が支那の起原であることはいふ迄もない。今一つは罪を犯したものゝ脈はいかに平靜を裝つても地脈と異なつて大に騷いで居るといふ迷信である。これは支那から來たものかどうかわからない。一寸きくとミユンスターベルヒなどの提唱した心理學的探偵法に似たところがあるけれど、これで有罪無罪を決定するのは頗る危險である[やぶちゃん注:「ミユンスターベルヒ」現在のポーランド(当時はドイツ領)のグダニスクの生まれのアメリカの心理学者・哲学者ヒューゴー・ミュンスターバーグ(Hugo Münsterberg 一八六三年~一九一六年)の北ドイツ方言の読みらしい。彼のウィキを見ると、「応用心理学」の項に、『ミュンスターバーグは裁判への心理学的情報の応用についてもいくつかの論文を書いている。こうした論文の多くの主要対象は、目撃証人の証言の信頼性に関するものである』。一九〇八年『発表の』「証人の立場で」(On the Witness Stand )は、『裁判の結果に影響しうる心理学的要因について述べたもので、広く論争を呼んだ』とあり、一九〇八年の著作に‘Psychology and Crime ’というものもある。]。
なほ老人が生ませた子は旭日にうつしても影が出來ぬといふ迷信によつてある裁判を行ふ話もあるが、これ明かに支那の棠陰比事にある話を模倣したものである。[やぶちゃん注:不木の指摘しているのは「本朝櫻陰比事」の巻一の「二」の「曇(くもり)は晴(はれ)る影法師」のこと。国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。また、原拠として示すそれは、「棠陰比事」の上の三の「丙吉驗子(へいきつけんし)」。「中國哲學書電子化計劃」のここから次の二頁にかけて原文(影印本)が読める。そこに、「吾れ、聞く、『老人の子は寒に耐へず、且つ、日に中(あた)るも、影、無し。』と。」とある(訓読は私の我流)。]
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