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2021/07/10

ブログ1,560,000アクセス突破記念 梅崎春生 麵麭の話

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月発行の『別冊文藝春秋』第五号に初出、翌年八月刊の講談社「飢ゑの季節」に所収された。「麵麭」は「パン」と読む。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 標題及び本文内の「麭」の字は「麥」の最終画が(つくり)の下に延びない字体であるが、表記出来ないので通字を用いた。

 文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが先程、1,560,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021710日 藪野直史】]

 

   麵麭の話

 

 日曜だというのに、なぜこんな混むのだろう。あいにく窓際に立ったばかりに、背後から押しつけられると、かたいかたい窓枠がいたく胸を衝きあげてくるのだ。外套を着ているとはいえ、それはじかに肋骨(ろっこつ)にひびいてくる。ぐっと押されるたびに呼吸がとまりそうだ。辛うじて腕で身体をささえ、眼の前にある窓ガラスに映った自分の顔を、彼は額に許をにじませたまま見つめていた。窓外を飛びさる風景のなかに、それは白日の幻のようにうすく浮び上っている。頰のこけた輸郭のなかに、眼だけが大きく見開かれている。その眼が彼を見ている。顔をそらしたいと思っても、押しつけられてしるからどうすることも出来ない。そしてまた、ぐぐっと押しつけられる。悪意あるもののように背後の圧力は、彼ひとりをめがけてあつまって来る。呼吸を止めた彼の顔に、ほの赤く血の気がのぼってくる。彼の背中の一部分を、なにか堅いものが押しているのだ。背に食いこむ感じからいえば、四角な箱の稜角である。うしろの人の荷物にちがいないのだ。

(荷物なら網棚にあげればいいではないか、網棚に――)

 怒りがこみあげてくるのを感じながら、彼はそんなことを考えている。ぎっしり詰っているので、ふりかえって背後を確める余裕がないのだ。全身のいらだちをそこにあつめて、彼はガラスの中の自分の顔に見入っていた。

 電車がきしみながらとまる。揺れが一時おさまるので、すこしばかり楽になる。扉が開くと人々が降り、また新しい人々が乗って来る。それが見えるわけではない。背中につたわる気配だけでそれを感じているのだ。あらあらしい身じろぎや烈しい声。そして扉のしまる音がして、がくんと電車が動き出す。

(まるで犬にそっくりだ!)

 ガラスの中の顔に視線をさだめながら、彼の胸に突然そのような観念が走る。それはいやな聯想をともなって来るので、彼の頰のあたりは苦渋をおびてすこし痙攣(けいれん)する。こけた頰や長い鼻。眼窩(がんか)が暗くおちこんでいる。段々ちかごろ瘦せてきて、今朝もズボンのバンドに新しく穴をあけた位だ。去年はそうでもなかったのに、今年は外套が風をはらんだようにぶかぶかだ。大き目の帽子の廂のしたの病犬のような顔。

 突然下腹のあたりがぐうと鳴る。腹が減っているのだ。腸のなかが乾いてくっついている感じだ。押しかえそうとりきむ力が、膝のへんで急に抜けてしまう。今朝彼は朝飯を食わなかったのだ。自分の丼はその息子にやってしまった。息子はまぶしそうな、そしてちょっと厭な顔をしてそれを受けとり、それでも全部かきこんでしまった。彼は空腹を忍びながら、じっと息子の食べ方を眺めていた。息子は食べ終ると、彼の眼をさけるようにして立ち上り、玄関の土間にしやがんで、あの犬の顔を一心に見詰めていた。犬は息子のまえで、長い舌をだして、しきりに自分のあごを砥(な)めた。あの子は切れ長の眼を一心不乱にそれにそそいでいたのだ。それによって父親の執拗な視線をのがれでもするかのように。そして彼も同じく犬の姿を、その時ある意味をもってじっと見詰めていたのである。

 ――あの子はそれほどあの犬が好きなのか?

 彼はしばらくして静かにそんなことを考えた。学校の戻りに魚の頭などを拾ってきて、あの子はだまってエダに食べさせたりしているのだ。エダとは彼の家に数年来かわれているその犬の名であった。エダはすさまじく瘦せている。飼いはじめの頃は毛なみがつやつやしていて、もっと肥っていた。ところが近頃では皮膚があちこち地図のようにすり切れ、肋骨が蒼黒く胸にあらわれているのだ。ろくに餌を食べないせいだ。眼ばかり大きくぎろぎろしている。あの子がどこからか拾ってきた魚の頭を、エダはほとんど血相を変えるようにして貪りたべる。その食い方は、まるでエダの全身が食慾のかたまりになったみたいだ。その光景をあの子は黙りこくって、しゃがんでじっと眺めている。自分の息子ながらその眼は妙に無気味で、なにかに憑(つ)かれたもののようだ。あの子はそれほどあの犬が好きなのか。それとも、――それとも自分の満たされない食慾を、エダの食慾に仮託して満足しようとしているのか? 此の前の日曜日のことであった。多田がある用件でやってきて、帰りしな玄関で靴の紐(赤皮のぴかぴかした立派な靴であった)を結び終えると、たたきにうずくまっているエダの姿を暫(しばら)くながめていたが、やがて片頰に笑いをうかべながらこう言った。

「――面白い恰好(かっこう)の犬だね。ほんとに面白い恰好だ。泰西名画に出てくる犬みたいだ。ぼくにこいつをゆずらないかね」

 あの子はやはり玄関にたってその言葉を聞いていた。

 その夜の食事どきのことであった。あの子はへんにぐずって、時には白い御飯も食べたいなどと無茶を言って、彼や彼の妻をこまらせた。彼のうちでは長いことそんなものは食卓にのぼせていないのだ。米の配給がたまにあっても、食いのばすために他のものと混ぜてしまう。そんな家計のくるしさもうすうす感じている年頃なのに、何故こんなに聞きわけのないことをいうのだろう。彼は次第に腹が立ってきて、その時言葉をあらくして叱りつけたのだが、すぐ可哀そうになって自分の丼を子供の方に押してやった。丼のなかに入っているのは、何やかやをどろどろに煮込んだ汁である。たった今白い飯を食べたいと言ったくせに、子供は涙をぽろぽろ流しながら彼の分もそのどろどろ汁を平げてしまった。だからその夜も彼は空腹のまま寝なければならなかったのだ。子供がこんなにぐずったというのも、単に発作的な物悲しさにおそわれたためか。あるいは昼間、多田が犬をゆずってくれと言ったのを、へんに気に病んでいたのかも知れない。しかし気に病んだとしても、たかが飼犬のことではないか。もし今日にでも彼がエダを手放したとしても、子供のことだから一週間もすれば忘れてしまうに違いないのだ。とにかく日曜日の夜というのは、彼も経験があるけれども、小学生にとっては一番ものがなしい気分のするものなんだから。――それから昨夕のことだ。

 昨夕、彼は役所から戻ってきて、誰もいないので何気なく台所の障子をあけたのだ。台所のすみで、急にあわてたように小さな人影が立ち上ったと思うと、それが彼の息子であった。乏しい光のなかで、その顔はまっさおであった。不自然にのばした右手の先から、なにか白いかたまりがぼとりと落ちた。短い時間のあいだに、彼ははっきりそれを見た。それは真白なコッペ麵麭(パン)であった。子供は彼の方に真蒼な表情をむけていたが、両掌を顔にかぶせると、静かな低い声を立てて突然泣き始めた。彼もそげた頰を紙のようにまっしろにさせて、しばらく身体を硬くしていたが、やがて障子を音のしないようにしめて、膝ががくがくするのを辛抱しながら居間に戻って来た。居間に戻って卓の前にすわってみても、脚のふるえは止らなかった。

「――どうにかしなくては。どうにかしなくては」

 痴呆のように彼はこんな言葉をつぶやいていた。どうすればいいのか。彼はきちんとそろえた膝がともすれば躍(おど)りだそうとするのを押えながら、閉じた瞼のうちに灼きついた一瞬の光景を想い返していた。まずしい、すすけた台所。乾いたまないたや庖丁。その光の射さない隅に、ぎょっとしたように立ちすくんでいる子供の姿。古びてぼろぼろのつぎがあたった小さな小倉の服から、小学校の三年にしては細すぎる手足が出ていて、それが不均衡に大きい頭蓋を支えているのだ。そして――子供の掌から生き物のように離れて落ちた真白な麵麭(パン)。それがしめった土間に音なき音をたてて落ち、一回転して横ざまにころがった。その土間のはしにエダが黒い影のようにねそべっているのを、その時彼は無意識に視野の端に収めていたのである。それが嘔きたいような生理的の収縮感とともによみがえってきた。

(あの麵麭はどうしたのか?)

 彼がただ障子をあけただけなのに、何故あのようにおびえたのか。そしてなぜあんなに泣きだしたのか。すべてを諦(あきら)めた死刑囚のように静かに。彼にはなにも判らなかった。判らなかったけれども、その感じからいえば正常でないものがそこにあった。暗い影をともなった歪んだものが彼の全身にいきなりぶつかってきたのはそれであった。――

 電車が駅に入るらしく、いやな音をたてて速度をおとした。背中に四角なものがぐっと食いこみ、彼は思わず窓枠に支えた腕に力を入れた。そのまま電車は止った。ふたたびあらあらしい波動を伴って、押しだされるように何人かが歩廊に降りて行くらしい。僅かにできた間隙を利用して、彼は顔を歪ませたまま身体をひねった。背中を圧していた箱は、持主といっしょにはずみを食って彼の横によろめいて来た。それは髪が灰白にみだれた六十歳ほどの小さな老婆であった。老婆は身を窓枠で辛うじてささえると、汗が滲みでた額を彼にふりむけ、かすれた声であえいだ。

「――すみ、ません、ねえ、ほんとに」

 老婆が手にしっかと持っているのは、盲縞(めくらじ)[やぶちゃん注:縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。グーグル画像検索「盲縞」をリンクさせておく。]の風呂敷につつまれた箱であった。彼の背中をいままで執拗に圧していたのはそれである。眉のあいだの影をいっそう濃くさせて、意地わるく老婆にからだをぶっつけてゆきながら、ほとんど反射的に彼は険しく口走っていた。

「なぜそいつを網棚にあげないんだ。あたりが迷感するじゃないか」

 無意識に彼の指先は憎悪をこめてその風呂敷の端にかかっていた。その瞬間老婆のからだは、ぎょっとしたように包みを守りながらちぢこまるらしかった。しかしそれは身体の姿勢だけで、老婆の小さな眼にはある必死な笑みが彼にむけられて浮んでいたのだ。それを見ると彼は衝動的に、発車のあおりを利用して、更につよく肱で老婆を突きやるようにしながら、そして勢に抗しかねて彼もよろめいた。老婆のよろめき方はもっと惨(みじ)めであった。よろめいたまま窓枠に押しつけられ、それでも老婆は懸命ないろを顔ににじませて、包みを抱きしめたまま起きすがって来た。彼にむけられていた笑みは、老婆の頰に硬(こわ)ばったまま貼りついていた。

「すみ、ません、ほんと」呼吸(いき)をぜいぜい切らせながら、老婆はやっとのことで口を開いた。「息子、がねえ、この先の、国立病院、にいて、食事がひどくて、おなかがすく、と言いますんでねえ」

 額のあたりをうす赤く充血させたまま、彼は老婆から険しい顔をそむけて、彼の指は食いこむように窓枠をにぎりしめていた。窓ガラスの中の山犬のような彼の映像は、ぼんやりした輪郭のまま彼を見つめているらしかった。老婆をよろめかすためにひねった腰のへんに、老婆を意識的に突きとばした肱(ひじ)のあたりに、いやな後味が筋肉にのこっていて、彼はことさら老婆から顔をそむけていたのだ。しかしあの何ともしれぬ怒りはおさまったわけでなかった。彼は身体をかたく構えたまま、頰に老婆の視線を感じながら、陰欝な表情になって硝子窓に対していた。生まの風景が幻の顔のなかをうしろへうしろへと飛びぬけて行った。

(あと二つとまると俺の降りる駅だ)

 頭の中からすべてのものを振りはらうようにして彼はそう考えた。その駅の近くに国立の病院があることも彼は知っていた。身よりや家のない復員病兵がそこに収容されていて、待遇のことなどで悶着をおこしているらしいことも、彼は新聞で読んだ記憶があった。彼がいま訪ねて行こうとする多田の家は、国立病院とは反対側にあった。彼はつめたいガラスに額を押しあてて、蒼ざめた頰をわずか動かして呟いた。

「――おれは何のために多田の家に訪ねて行こうとするのか? そしてほんとうに犬を売るつもりなのか?」

 一瞬ころがりおちた真白な麵麭(パン)の影像が、あの時からずっと彼の胸を貫きつづけているのであった。昨夕、それから暫(しばら)くして戻って来た彼の妻と、三人で貧しい食卓をかこんだ。彼は黙々として食卓にむかった。腹が減っているにも拘らず、食慾はほとんど無かった。子供は眼をあかくしたまま、これも黙って食べた。彼の妻は子供の眼のあかいのを見て、寒いのにまた遊び廻ってきたのだろう、と邪険に叱ったりしたが、その時でも彼はだまって沈欝に箸(はし)を動かしていただけであった。食卓に乗っているのは、葉を浮かせた団子の汁であった。団子は赤黒くかたまって丼の底にしずんでいた。彼は半分ほどで箸をおくと、妻が怪訝(けげん)の瞳(ひとみ)をむけるまでじっとしていた。そして低いおさえた声で聞いた。

「もすこしどうにかしたものがこさえられないのか?」

「配給だけではこれでせい一ぱいなのよ」

 妻もほつれ毛をかきあげながら、低い無感動な声で答えた。彼はだまって、黒い汚染[やぶちゃん注:「しみ」と読んでおく。]を浮かせた妻の眼のあたりから、視線をその横の息子の方にうつした。息子のこめかみは、赤黒い団子を歯でかみ合せる度にひくひくと動いていた。それは変におとなびた感じであった。細い土色の頸(くび)筋からこめかみにかけて、老人のように静脈が浮いていて、息子は彼の視線を意識するらしく、なにかぎごちなく眼を伏せて団子を嚙みしめるらしかった。ある荒々しいふるえが、その時するどく彼の背筋を奔り抜けた。彼はあたりまえの声を出そうと努力しながら、それでもかすれた声になって言った。

「――今日、白麵麭(しろパン)の配給があったんじゃないのか?」

 息子がぎくっと身体をすくめたのを、瞬時にして彼は瞳に収めていた。妻の無感動な答えが直ぐにもどってきた。

「ありませんでしたよ」

 ――彼をちらと見上げた息子の眼に、おびえたような暗い翳(かげ)がはしった。彼は呻(うめ)きたくなるのを唇の中で押えて、重い右手を努力しながら再び自分の箸の方にのばしていたのだ。

 ――線路がカアヴに入るらしく、またしてもぐぐっと倒れかかってくる。老婆のもった箱の角が、いきなり彼の脇腹をえぐる。彼の掌は必死に窓枠を支えながら、ふたたび冷たい汗が額に滲みでてきた。老婆の灰白色の髪が彼の外套を押しているのだ。彼の眼はとつぜん憎しみを帯びてきらきら光った。視線は老婆の頭におちているのだ。伜(せがれ)が国立病院に入っていて、それに食物をもって行ってやるということが、その食物の入った重箱で他人の脇腹を押す言いわけになるというのか。だいいちこんな年寄りが満員電車に乗りこんできたりして、始めから一台待てばいいではないか。一台待って空いたのに乗ればいいのだ。それを無理して乗りこんで、当然のような顔をして人を押しまくるのだ。またもぐっと脇腹をえぐって来る。窓枠にあてた掌が血の気を失うほどに耐えながら、とつぜん兇暴なものが彼を満たした。脇腹から背にかけて骨がこりこりと鳴って、灼けつくような圧痛が走ったとおもうと、彼は身体中が火のかたまりになったような憤怒とともに、ある感情の抵抗を烈しく意識しながらも、顔をまっさおにしてまた身体をぐいとひねった。窓ぎわの間に彼が必死にすかした隙間に、老婆ははずみを食ってはまりこみ、そのまま足がなえたように無抵抗に埋没しかかった。灰色の髪の下の小さな額を、べっとり汗に滲ませて老婆は絶え入るような悲鳴をあげる。

「旦那。且那さん。こ、これを、この膝を、あ、ああ」

 足をとられているのだ。上半身を無理な形に曲げて、片手を伸ばして何かを摑もうとあせっている。彼の膝頭と壁板の間に、かたいものがはさまる。彼の脇腹をえぐったあの箱だ。彼は顔をまっさおにしたまま、老婆を見おろしている。黄色くしなびたその顔が、起き上ろうとしてみにくく歪んで、それはまるで猿だ。絶望的な努力のために、しなびた額が汗でびっしょり濡れている。あの猛然たる衝動が胸のなかを貫いて、彼は歯を食いしばったまま、背後の力を利用して、そのままぐっと膝頭に力を入れた。膝頭と壁板のあいだで、箱がめりめりと音を立てる。そしてもう一押し。ぱりっと箱板がするどく亀裂する音。老婆のあえぐような悲鳴。そしてその瞬間、嘔(は)きたいような不快な衝動を咽喉(のど)に耐えながら、彼は膝頭に集めていた力をゆるゆると抜いて行った。――

 駅に近づくらしく、レエルに軋(きし)みを残しながら、電車は見る見る速度をおとし始めてきた。

 

 人柵の間から押しだされるようにして歩廊に降り立った。外套が押された形のままずれていて、彼は立ちどまったまましきりに両腕を動かした。彼につづいて次は五六人降りた。そして最後に押しだされてきたのは、あの老婆であった。老婆の着付はむざんに崩れていて、鼠色の下着が裾からはだけていた。茶褐色の細い脛(すね)がその間から見えた。そして手には大事そうに先刻の風呂敷包みをもっていた。その四角な形も、なんだか歪んでいるらしい感じであった。彼はあわてたように視線をそれから外らしながら、追われるように出口の方に歩き出した。すりへった靴の裏が歩廊の砂利にぎしぎしときしんだ。何もかも忘れようとするかのように、彼は更に歩を早めながら、頭を二三度つづけざまに強く振った。そしてポケットから切符をつまみ出しながら、前よりもいっそう険しい眼付になって、急ぎ足で改札口を通りぬけた。駅前の白く乾いた道をちょっと見廻して、彼は自分の胸のなかを探るように先刻とおなじことを唇の中でつぶやいた。

「――おれは何のために多田の家を訪ねようとするのか?」

 歩度がふとゆるんだが、すぐ彼は頭を立てて踏切をわたり、黄色い馬糞があちこちにおちている凸凹道をまっすぐに歩きだした。靴の踵(かかと)が地面を押すたびに、バンドでしめうけたからっぽの腹にずきずき響いた。そしてこんなことを考えた。それは今朝家を出るときから、何度か彼の胸に水泡のように浮び上ろうとしていた考えであった。

(あの申し入れを、俺は引きうけようと思っているのではないか?)

 そうはっきり考えると、顔中がつめたくなるような気がして、彼は外套のポケットにつっこんだ手をぎゅっと握りしめた。その申し入れをする時、多田はお茶を啜(すす)りながら、ごく何気ない調子で言ったのであった。それが此の前の日曜日のことであった。多田がわざわざ彼の家を訪ねて来たのも、それを打診したかったからに違いなかった。ざしきに上って暫く世間話など交していた時、その申し入れはあたかも世間話のつづきのようにして言われたのだった。彼は顔が急に充血してくるのを感じながら、いきなり掌を振っていた。

「そりや駄目だ。僕には出来ないよ」

「駄目なら駄目でいいんだよ」

 多田は肉付きのいい顔にちょっとずるそうな笑みを走らせて、探るような眼付で彼を眺めながら直ぐそうこたえた。それは彼の属する役所関係の建物の入札に関したことであった。そして彼はその係りをしていたのである。その係りは仕事の関係上、ことに誘惑の多い勤務であった。

「僕にはそんなことは出来ないよ。そんな――」

 曲ったことは、と言いかけて彼は力弱く口をつぐんでいた。恰幅のいい身体をゆすりながら、もうその時は多田はさり気なく話題を転じていた。多田の肥った片頰は、贅肉(ぜいにく)のせいか何時も笑いを浮べているような印象をあたえた。それから暫くして話題はいつのまにか役人の生活におちていた。それは彼が出した話題ではなかった。なにか押えつけられるような圧迫を感じながら、彼は多田の言葉に受けこたえていた。

「そりゃ苦しいことは苦しいな。ろくに闇(やみ)米も買えないしな」

「千八百円ベースといっても、なにやかや役得があるんだろうね」

「そんなものはありゃしないさ。役所から貰うものだけだよ」

「だってそれじゃ生活出来るわけがないじゃないか」

 身体を動かす度に、多田の胸にかけた時計の鎖が黄色く揺れうごいた。多田がしいている座布団は破れていて、汚れた綿がのぞいていた。彼の家にはそんな座布団しか無かったのだ。いつもはそう気にもならないが、多田がすわっているのを見ると、しんから惨めな気持が彼の心を衝き上げてきた。彼は自分の膝をのり出すようにして、無意識のうちに自分がしいている座布団を多田の眼からさえぎろうとしていた。それは多田のよりもっと汚れているのであった。そうしながら彼はふと気をそれにとられて、上の空で返事をしたりした。多田は時々探るような視線で彼を眺め、その話題から執拗に離れなかった。まるで役人の生活に特別の興味をもっているかのようだった。それは役人一般の生活として話がすすめられていたにも拘らず、彼は自分の生活を手探りされているような不快な圧迫を感じはじめていた。唐紙ひとつへだてた向うの部屋には、彼の妻と息子がいる筈であった。そこはしんとして物音はなにもしなかった。

(あの話を隣で聞いていたのかしら?)

 ――彼は肩をそびやかすような恰好で、凸凹道から右手に折れた道に曲りこんだ。曲りながら彼は突然唇をかんで、長くやせた鼻を幽かにならした。さっきの電車の中での濁った怒りがまだ身体の芯にのこっていて、それがある一つの苦痛を逆につきあげてきたのだ。かよわい老婆を押したおして苦痛をあたえたことが、ふと彼の胸にするどく錐(きり)を立ててきたのである。彼はその瞬間膝頭に、老婆の箱を押し割った瞬間の感覚を、なまなましくよみがえらせていた。膝の皮膚がそのとき傷ついたらしく、足を踏みだすたびにズボンの裏にふれてひりひりした。意識からそれをもみけすために、彼は再びつよく頭をふりながら、考えを他のことにふりむけようとした。そして彼の記億は、老婆のもっていた箱をとらえた。

(あの箱のなかにはどんなものが入っていたのだろう?)

 そう考えると彼はとっさの間に、ほかほかしたふかし芋やふくらんだ麵麭(パン)を想像した。舌の根からその時、唾がすこし流れてきた。外套のポケットの中の握りこぶしを脇腹に押しあて、あわててそのなまなましい想像からのがれようとあせりながら、彼はしきりにたまった唾をはき散らした。唾のひとつが低い石垣にとんだ。そこは小さな教会になっていて、多田の家はそこからまた曲るのであった。入口にはめられた色硝子と黒い掲示板が彼の眼に映った。掲示板には白いペンキでなにか文句が書きしるされてあった。小路に曲りこんだ彼の背後から、讃美歌をうたう声が流れてきた。

 それはその会堂の窓からであった。彼は胸の中に一種の衝動がその時湧きおこるのを感じながら、すこし足をゆるめた。それは子供の斉唱(せいしょう)であった。その衝動はなにか甘い亢奮(こうふん)になって彼の身内にひろがってくるらしかった。彼はほっと肩をおとして歩きながらつぶやいた。

「なるほど今日は日曜学校なんだな」

 彼が卒業した学校も、やはり基督教系の学校であった。その中学部で彼は多田と同級だったのである。彼の心を甘い亢奮となって動かしたその衝動も、そんな学生時代の追憶とその瞬間底でむすびついていた。多田はその頃から身だしなみのいい少年であったが、今みたいに肥ってはいなかった。彼が肥りはじめたのは、戦争中に建築会社を経営してからだった。昔は多田も品のいい顔をしていて、今のようなへんに複雑な笑いかたはしなかった。なぜあんな年配になると、あんないやな笑いかたをするのだろう。あの日戻りがけに玄関でエダを見て、此の犬をゆずれ、と言った時の多田の表情を、彼は今ありありと思いうかべていた。それは片頰だけをゆるめるようなわらい方で、そのくせ眼はさげすむような光を帯びて彼におちていたのだ。その時の多田の言葉を、彼は今すがるようにふたたび記憶の底からたぐり上げていた。

(ゆずって呉れと言っても、あいつはいくら位出す気なのだろう?)

 エダを多田に売ろうと決心したのは、今朝彼が眼をさました時だった。朝食のときも彼がじっと考えつづけていたのはこの事であった。しかし身仕度をして電車にのりこんだ頃から、彼はしだいにあるおそれを感じはじめていたのである。それは巨大な粘着力のある膜に抵抗して行くような不快なものを伴っていた。電車の中のあのいらだちも、奥底には此の不快感が横たわっているのを彼は絶えず意識していたのだ。

 ――犬をゆずれと言った言葉を、おれは真底から信じているのか?

 此の一週間、あの多田の申し入れにたいして、烈しい反撥と同時にある甘美な誘感を彼はずっと感じ続けていたのだった。ともすれば頭をもたげようとするのを、その都度つぶしてきた想念がこれであった。そして昨夕、息子の掌からはなれて土間に落ちた白麵麭(しろパン)を見たとき、彼が肉体の上だけでなく、心のどん底でもするどくよろめいたのも、すべてはそこにかかっているのであった。あの白麵麭を、息子がどこで手に入れたのか。貰ってきたのか、あるいは――。

 しかしそれはどちらでもいいことであった。彼の眼を忍んで台所のすみで食べていたということ、そしておびえて泣きだしたということ、彼に重くのしかかって来るのはその事だった。親子という関係をすら破壊しようとするのに対して、彼が言いしれぬ憤怒を覚えるものも、すべては彼自身にするどくはねかえって来るらしかった。腹の中がどろどろしたもので真黒になったような感じで、今日彼はここまでやって来る気になったのであった。

 歩くにつれて讃美歌の斉唱はだんだん遠ざかり、そして羽音のように幽かに消えてしまった。彼はふと、あの土間にころがった麵麭(パン)はどうしただろう、と考えた。考えるとすぐ、猛然たる食慾が彼の胃を刺激した。彼の想像の中でそれは焼きたてのようにふかふかして暖かった。歯でかんだ時の香ばしい匂いと味が、ほとんど現実的な感触とともに、その想像に加わった。前にのめりそうになるのをこらえて、前方の家と家のあわいに見える鉛色の空に瞳をさだめ、身体のなかに板みたいなしこりを感じはじめながら、彼はまっすぐに歩いて行った。

 

「それで――」鈍く光るライタアをかちりと鳴らして莨(たばこ)に点火しながら、多田が錆(さ)びた声で言った。ほんとに何気ない調子であった。

「決心はついたのかね」

 此の戦争で焼けてしまった母校の校舎のことを、彼は多田と話していたところであった。ざしきへ通ってから一時間ほども経っていた。それまで彼は用件を切り出さずにそんな話をしていたのだった。ふと話がとぎれて、冷たくなった茶に手を出そうとした時、多田のそんな言葉がそれをさえぎったのだ。彼はぼんやり顔をあげた。煙がゆらゆらと揺れて多田の表情をかくしたが、次の瞬間その言葉の意味が胸におちて、彼は顔がはっと青ざめてゆくのが自分でもはっきり判った。それでも茶碗をとると、ふるえる手でそれを唇にもって行った。茶碗のふちがかちかちと歯にあたって、にがい冷たい茶が唇をすこし濡らした。一口ふくむと彼はまたそれを卓の上にもどした。尿意をこらえる時の悪感が、腹の辺から膝へ走った。

 隣の部屋では多田の家族がいま食事をしているらしく、箸(はし)の鳴る音や茶碗のふれる音がしていた。物を煮る匂いは、彼が此の部屋に通されたときから絶えずしていたのである。ともすれば神経がそちらに行こうとするのをこらえながら、彼は先刻から早く犬の話を出してしまいたいとあせっていたのであった。あせりながらまだ機会をとらえないでいた。尿意を伴った空腹感が、波状的に彼をおそって来て、彼は気持が遠くなるような錯覚におちながら、そのくせ隣室の食卓の情況を、目も覚めるように鮮かな白い飯だとか、赤黒くちぢれた牛肉の形とかを、はっきりと頭のすみで想像していた。その時その言葉がおちて来たのだ。

 口に含んだ茶をぐっと飲みくだすと、彼は卓に片手をかけて、しばらく青い顔をしてだまっていた。多田は煙をうまそうにはき出しながら、うながすような眼付でちらと彼をみた。老獪な微笑が多田の片頰にふと浮んで消えたのを彼は見た。彼は膝に力を入れながら視線をおとし、しゃがれた低い声になって、何かを断ち切るようなつもりで言った。

「実は今日お伺いしたのは、犬のことなんだがね」

「犬?」多田の不審気な視線にすこしたじろぎながら、乗り越えるように彼は言葉をついだ。

「犬が、いただろう。うちの玄関にさ。君が帰るときに見て、売って呉れと言ったじゃないか」

 だんだん気持が惨めに折れ曲って来るのを感じながら、彼はそれを胡麻化すように早口になった。

「あの犬さ。あの犬は、もとは良い犬なんだ。素性も正しいんだ。貰ったやつなんだけれどね。芸当も出来るし、猟にも使えるんだよ。使ったことはないけれど――」

「ああ。あの瘦せた犬か」

 暫(しばら)くして多田はやっと思い出したようにそう答えた。そして、それきり黙って火箸でしきりに灰をかきならした。ある屈辱とひとつの期待で、彼は全身が熱くなってくるのを感じながら、多田のもつ火箸の動きをじっと追っていた。多田は灰をならしてその上に、犬という宇をいくつも書いているらしかった。そしてまたごちゃごちゃにかきならしながら、暫くして低い声で言った。その声はひどく冷酷にひびいた。

「僕は、犬をゆずって呉れとは言ったが、売ってくれとは言わなかったよ」

 多田は灰の方に視線をおとしたままそう言った。彼はその言葉を聞いた瞬間、みるみる顔がしろく血の気を失って来るのを感じた。彼は両膝に力を入れてぎゅっとしめ合せながら、片手で座布団の端をしっかり握っていた。やわらかい絹地の座布団であった。そのままの姿勢でしらじらしい時間がすこし流れた。そして多田がふと顔をあげた。

「あんまりあの犬がやせてたんでね、ゆずってもらってうちで肥らせてやろうかと、そう思ったんだよ。でも、そんな良い犬ならやはり君の家で飼ってた方がいいんだろう」

 おだやかな薄わらいが、やはり多田の頰にうかんでいた。彼は手や膝から急激に力が抜けて行くような気持になって、だまってうなずいた。それまで忘れていた尿意がさむざむと彼をそそってきた。彼は手を伸ばして、も一度冷えた茶を啜(すす)ると、何だかいたたまれないような羞恥を覚えながら、かすかに身ぶるいをした。そして語調を変えて聞いた。

「はばかりはどちらだね?」

 火箸をあげて指した通り、彼はすべりのいい唐紙をあけて廊下に出た。廊下はさむざむ光っていた。彼は誰もいない廊下にむかって思い切り舌を出してみたい衝動に駆られながら、唐紙を閉じた。物を煮る甘ったるい匂いが廊下にも流れていた。下腹が鳴るのを押えながら、彼はすべらないように一歩一歩廊下をあるいた。口の底からしきりに味のない唾が出て来た。教えられた便所は台所とむき合っていた。台所は廊下からあけ放されていた。棚にはごちゃごちゃと道具がならんでいて、大きな電熱器に鍋がかかっていた。そこでもなにか煮えているらしく、それには茸(きのこ)の香ばしい匂いが混っていた。電熱器のそばには籠があった。

 彼が見たのはそれであった。その籠には真白なコッペ麵麭(パン)がうずたかく積まれてあったのだ。昨夜土間にころがりおちた麵麭と同じ種類のそれであった。その色と形が、いきなり圧倒的な量感をもって、彼の視野にせまってきた。それはひとつの力ある実体として、いきなり彼の胸をかきむしって来た。彼はほとんど呻き声を洩らしながら、眼を据(す)えて凝然(ぎょうぜん)と立ちすくみ、そして振りはらうように頭を反らして便所の扉をあけた。スリッパがなかなか爪先にかからなかった。やっとかけると彼は二三歩よろめくように踏みこんだ。

 ある静かな戦慄に耐えながら、彼は首を垂れて、一筋の茶褐色のほとばしりを眺めていた。その先端は白い便器にあたって、やはり茶色の泡のかたまりになった。身体の暖かみをそれがそのまま持って行くらしく、臭いの強い湯気が彼の鼻にのぼってきた。彼はやせた長い鼻を神経的にすすって、茶褐色の一筋をじっと見守っていた。

「――何のためにはるばる俺はここまでやって来たのだ」

 頭を壁にぶっつけたくなるような自己嫌悪と共に彼はつぶやいた。たちまち昨夜から今にかけての出来事が、断続しながら記憶の中でひらめいた。薄暗い電燈のもとでどろどろの団子汁を啜っている妻子の姿や、歪みこわれた箱を抱いてやっとのことで電車から押しだされた老婆の泣き笑いに似た表情や、先刻隣室から聞えていた食事の音などが、連絡なく浮んで消えた。彼はぶるっと身ぶるいすると、顔をゆるゆる上げた。顔の前の小窓にはガラスが入っていて、そこにも鉛色の雲を背景にして彼の顔がぼんやり映っていた。

 ある兇暴な衝動がその時彼を走りぬけた。彼は呼吸をとめて、内臓の一部がぎゅっと収縮するのをありあり感じながら、ガラスの中にしばらく眼を据えていた。そして急にふりかえった。ひとつの予想が彼の動作をひどくぎごちなくするらしかった。しかし彼は用心して扉をそっと押し開くと、音のしないように廊下にすべり出た。廊下の前には、あけ放たれた台所の広がりがあった。

 彼はも一度舌を思いきり出してみたい露悪的な別の衝動におそわれながら、鈍い光をうかべた廊下を血走った眼で見とおした。そこにはさっきと同じく人影は見えなかった。そのとき再び彼の血走った視野のはしを、あの籠につんだ真白な麵麭(パン)のいろがするどく弾いた。彼は眼をきらきらさせながら、突然台所の方に身体の向きを変えた。

「よし!」

 それは言葉にならぬまま唇の端で消えた。彼はそのまま爪先を立て、不安定な姿勢のまま台所へ足をふみ入れた。ひやりとした空気がそこにあった。心臓がのどまで上ってきたようで、彼ははあはあと呼吸をはずませながら更に五六歩踏み入った。そこは麵麭の籠のところであった。ワイシャツの釦(ボタン)を外しながら、彼ははっとふり返った。ふりかえった姿勢のまま、急に全身を燃え出すような灼熱感がつらぬいで、彼はぎごちなく両手を伸ばして籠の中につっこんだ。ぶわぶわとした物体が指にふれたとき、彼は突然がたがたとふるえだしてそれを摑(つか)み、いきなりワイシャツの下にぐいぐいと押しこもうとした。手が定まらぬせいか、うまく入らなかった。彼は腹を凹めて、更にワイシャツをぐっと引っぱった。微かな音を立てて釦のひとつが弾け飛んだ。麵麭は変な形にねじれたまま、やっと脇腹の皮膚をこすって押しこまれた。彼は寒天のようにふるえつづけながら、まっさおな顔になって、身体ごとむきなおった。頭がいつもより五倍にもふくれ上ったようで、ふらつく足をしのばせて彼は一歩ふみ出そうとした。足の下で上げ板がカタリと鳴った。ぎょっと立ちすくんだまま、彼はびくびく動く指を忙しく動かしてワイシャツの釦をかけた。そしてその部分を掌でしかとおおった。

(人が来たら、手を洗いに入ったといえばいい)

 ふるえながら、乱れた頭で彼はそんなことを考えた。そしておおった掌で、脇腹にじかにくっついている麵麭を力まかせにぐりぐりと押しつけた。麵麭が平たくつぶれて拡がるのが、腹の皮膚にはっきり感じられた。

(これで大丈夫だ!)

 彼はそしてじっときき耳を立てた。何も物音はしなかった。

 ただ電熱器にかけた鍋がしゅんしゅんと律動的な音を立てているだけだった。その匂いが今になって彼の嗅覚にのぼってきた。

 上げ板を避けて用心してあるき、やっとなめらかな廊下の床をふんだとき、自分が背中にびっしょり汗をかいていることに彼は始めて気がついた。

 彼はも一度自分の上衣やワイシャツの具合をしらべて、そして廊下のはしをざしきの方に歩き出した。

 

 玄関まで多田が送って出た。彼は靴のひもがうまくむすべなかった。すり切れた自分の外套の背中に、彼は多田の大きな身体を感じていて、そのせいか指がすべって何度もしくじった。多田はなにかひっきりなしにしゃべっていた。彼が帰るといいだしてから、多田はへんに饒舌(じょうぜつ)になって、時々わらい声を立てたりした。彼が紐をむすび終えて立ち上ると、多田はふと言葉をつぐんだが、彼が立ったままでいるのを見て、妙にやさしい声音になってささやくように言った。

「困ることがあったら、いつでも相談においでよ」

 なぜか急に泣きだしたいような気持になって、彼は唇をゆがめていた。それはその言葉のためではなかった。むしろその語調は、彼の胸の中にはげしい憎悪をかきたててすらいたのである。彼は袖から出た多田の手首が、よく肥って紅い斑点があるのを、何となくじっと瞳に収めながら、ちょっと頭を下げた。そして外に出た。冠木門(かぶきもん)をくぐると道には風が吹いていた。風に顔をさらしながら、彼はもと来た道を逆に歩き出した。

 先程から持続していた緊張が、歩度につれてゆるんで来るらしく、丁度酒が醒めてゆくときのような不快な味が彼にかぶさってきた。肩の辺がきりきりと痛んで、口の中がからからに乾いて行くような感じであった。外套のポケットにつっこんだ指の先で、彼は苦痛を伴う背徳感を忍びながら、脇腹のあたりをときどき押えてみた。膚のあたたか味でなまぬるくなった麵麭(パン)の形がそこに感じられた。突然いいようもなく隔絶した孤独の思いが、彼の胸いっぱいに茫漢と拡がって来た。彼は顔をわざと冷たい風に吹かせながら、よろめくように足を進めて行った。

 曲角の教会では、いま日曜学校が終ったばかりらしく、子供たちが三々五々門を出てくるところだった。色ガラスの扉のところに、背の高い黒服の男が立っていてゝそれが何故かじっと彼の顔をみつめていた。それは牧師らしかった。非常にするどい眼付をした男であった。彼はその視線を頰にうけながら、子供たちにまじって角を曲った。子供たちがばらばらにうたっている歌も、やはり讃美歌だった。その声の中を彼もいっしょに歩きながら、も一度下腹の麵麭の形を恐いものをさわるようなやり方で押えていた。

(俺はなぜ麵麭などを盗んでしまったのだろう。しかも二個か三個の麵麭を?)

 身もすくむようないやらしいものを口の中に押しこまれたように、彼はぞっと肩をふるわせた。腹の中はからからに乾(ひ)からびた感じになっていて、もはや先刻の空腹感は跡かたもなく消えていた。感覚がすでにそれを通りすぎてしまったらしかった。腹部にあたためられたあの麵麭を口にすることを想像しただけで、彼は嘔きたいような気がした。彼の横を子供が二三人駈けて行った。子供たちは皆ととのった良い服装をしていた。ちゃんと靴下をはいて皮の靴をはいていた。かけて行った子供の一人が立ち止って、からかうような眼付で彼を見上げたりした。彼は沈欝な顔をくずさず、黙々とその子供のそばを通りぬけた。その子供はうす赤い皮帽子をかぶっていた。その色が彼に、さっきの多田の手首の色を思い出させた。

(あのとき多田はなにを考えていたのだろう?・)

 犬を買ってくれと彼が言葉を切ったとき、多田はうつむいてしきりに灰をかきならしていた。

 そのときのことを彼は今思い出したのだった。他人に借金を申しこむときと同じような屈辱と期待で、彼は身体をかたくして、少しうすくなった多田の前額部を一心に眺めていた。うつむいた感じからいえば、多田は笑いたいのを懸命にこらえていたのかも知れなかった。

(最も効果的におれを絶望させる言葉を、あのとき多田は探していたのではないのか)

 多田のそのときの冷酷な調子を思い出しながら、彼は漠然とそんなことを考えた。彼を絶望させることが、しかし多田にとってどんな意味があるのか、ということがつづいて直ぐ頭に来た。その先にもはや彼は、暗いおとし穴みたいなものを、ぼんやり感じはじめていた。彼は身ぶるいしながら、その想像を断ち切った。曲角がそこにあった。

 広い凸凹道へ出ると、風は再び正面から吹いてきた。鉛色の雲がゆるやかに形を変えていて、風はしっとりと湿気を帯びてつめたかった。彼はこの道をまっすぐ歩んで行くことに、なにかいやな抵抗があるのをはっきり感じていた。彼は歩きながら、その抵抗感の元を探ろうとした。そして彼は直ぐに、あの傾いた部屋の、汚れた寝衣をきた妻の姿と、老人みたいに背が丸い息子の姿を思いうかべた。

 そしてまた同時に明日から始まる勤務を、あの長い役所の階段をのぼって行くときの脚のだるさを、物憂(う)く思い浮べていた。そうしながら彼は外套の中の指で、確めるように麵麭の部分を探っていた。

 彼が歩いて行くにつれて麵麭はだんだん下の方にずりおちて行くらしかった。脱落して行くいやな感覚が、脇腹の皮膚を絶えずつめたくした。

 踏切がそこに見えた。遮断機が降りていて、立ちどまった彼の鼻づらを、風を巻きながら青黒い車体が奔りぬけた。そして遮断機はゆるゆる上った。彼は片掌で脇腹を押え、うつむきながら踏切をわたった。切符を求めて改札を通り、歩廊の上に立った。

 向うの歩廊にも人が群れていた。その人々の間を、さっきの子供たちが縫いながら追っかけっこをしているのが見えた。彼は駅名板によりかかって、深い深い疲労がいま全身を領して来るのを覚えながら、改札の方を沈欝な瞳で眺めた。改札を白い着物を着た男たちがそのとき入って来るところであった。今頃白い着物をきていることから、それはこの付近の国立病院の患者たちにちがいなかった。その瞬間彼の胸にさっきの老婆のことが、真黒な一点のようにあざやかに浮び上って来た。べっとりとほつれ毛を汗で貼りつけた老婆のちいさな顔貌が、錐(きり)になって彼に突きささってきた。

(入院しているという息子を、なぜ自宅に引取らないのか?)

 間借りか何かで、病人を引取る余裕がないのかも知れなかった。またあの老婆はどこかに住込みで働いている身分なのかもしれなかった。彼は想像のなかで、明日は伜(せがれ)に会えるというので、せっせと食物をつくっている老婆の姿を組み立てていた。そしてこわされた重箱を息子の前で泣き笑いしながら開く情景がそれにつづいた。彼はかすかに声を立てて、背中を駅名板にぐりぐりと押しつけた。

 改札を通りぬけた患者たちがこちらに近づいてきて、彼の前を通った。彼は眼を見開いてそれを見た。それは四人がつながった行列であった。先頭に立つ男は両腕がないらしく、その白い袖が風にふらふらと揺れた。この男が先導であった。次の男は黒い眼鏡をかけて、両掌で先導者の腰につかまっていた。その次の男も最後尾の男も同じだった。三人とも真黒な眼鏡をかけて、あぶなげに足を踏んでいた。眼が見えるのは、先頭の男だけであった。ときどき掛声をかけながら、背後の列に注意したりした。三人の盲者は、それに応じながら足並を小刻みにして蛇行した。三人とも神経を掌と脚先にあつめるせいか、口はぽかんとあけて呼吸をしていた。唇の中に汚れた歯が見えた。曇り空の下で、唇のいろは黄色に見えた。白くぼたぼたした患者衣は節目(ふしめ)節目が黒くよごれていた。この人間列車は彼の前をがたぴしと通りすぎた。鉛色に垂れ下った雲を背景にして、それは人世の病める結節に似ていた。

「――これでいいのか。これで?」

 彼は突然顔からつめたい汗が滲みでるのを感じながら、

そう口に出してつぶやいた。

 あの老婆の息子というのが、この中にいるかも知れないということを彼は考えてもいたのだった。そして向う側の歩廊にむれた人々が、あるいは背伸びしたり、ささやき合いながらこちらを眺めているのを、彼は乾いた眼をみひらいて眺めた。人と人の間を縫い走っていた子供たちが三四人集って、もうこの人間列車の真似を始めだしたのを、彼はそのときはっきりとらえていた。昨日から今日にかけての、彼を含めた人間の構図のなかに、重苦しく歪んだものがあることを、彼は今ある兇暴な戦慄とともに歴然とつかみとっていた。

 しかしそれがどんな原因で、どんな形に歪んでいるのか、それは彼には判らなかった。脇腹に密着していた麵麭のひとつが、そのときゆるんだようにずれて、股の部分にかさなった。そしてじわじわと辷(すべ)りおちるらしかった。外套の中でこぶしを固く握ったままつめたい駅名板に背をもたせ、自らも一枚の板となって、彼はしぱらくじっと呼吸をこらしていた。

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