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2021/07/24

芥川龍之介書簡抄106 / 大正一〇(一九二一)年(一) 八通

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛

 

拜啓 咋夜は御來駕を得た所留守にて何とも殘念に存じましたしかも正月になつてから元日の夜は除きあの日始めて外へ出たのです大阪每日へ怪しげな小說を書き出した爲又多忙になりました但しこれは一週間ばかりすると片づきますその上でゆつくり優游します僕この頃思ふに雅號に二種あり一は支那直輸一は日本特製でありますつまり漱石は前者最仲は後者なのですなそこで僕も日本雅號を一つつけたいと思つていろいろ考へて見たのですがどうも好いのにあたりません光悅の子の空中、小堀遠州の宗中、なぞ中の字の號が好いと思つても最仲の向うを張る程のは一つも遭遇しないのです姓名判斷によると了中と云ふ號が好いさうですが何だか男藝者じみる爲ためらつてゐます序に見て貰つたら最仲はあなたに大へん好いさうです但しこの姓名判斷家は素人ださうですから餘り當てにはなりません日本及日本人の選句をなさる由僕は舊傾向故投句出來ません聊殘念な氣がしますそれから齋藤茂吉氏の「あらたま」一部差上げるつもりのがあります故御買ひ求めにならずに下さい可成好い歌があるやうです僕は歌も俳句もなまけてゐます唯この間人に金瓶梅を一部贈る時歌二首を添へてやりました御高覽に供します

   老らくの身を忘れむはこのふみに玉子の酒もけだし若かざらむ

   かにかくにこの長ふみを讀まゝくは霜月はつか藥喰ひの後

われわれの鬼趣帖に題して頂いた歌中ろくろ首の歌壓卷と存じます「ぬばたまの雨夜を化けて」の御歌にも敬禮したのですが「ぬばたまの」が「雨夜」にかかる例があるかどうか心配に思つてゐます近々御目にかかります 以上

     一月六日      我 鬼 拜

    最 仲 樣 まゐる

   二伸 別紙は前に書いて出さずにしまつた手紙です序に御らん下さい

 

拜 啓御手紙拜見しました今度も御歌は結構に存じます雅號の事最仲はモナカと讀む讀まないに不關だんだん好い氣がして來ました藻中、御尤好音悉最仲に及びません貌を御改めになるなら是非最仲になさい江戶百年の風流が上品にまとまるとあの號以外に出ない事になります雲田の惡口などはいくら云つてもかまひません遠慮なく申上げると僕の句なり歌なり或は又趣味全般はもつと露骨に批評して頂いた方が好いのですその批評が當つてゐたら僕はすぐ禮拜します當つてゐなかつたらもう一度押し返します古人は道の爲には師弟を問はないと云つたさうですが我々の間では風流が卽道ですから御互に遠慮のない方が道の爲になるだらうと思ひます僕は新到の雲水ですがそれでも說がある時は愚說でも僻說でも述べる氣でゐますまして久參の衲子たる先生は僕なぞの理窟に間違つてゐる所があつたらかまはずピシピシやつて下さい「山鴫」は全然出來そくなひました

 

[やぶちゃん注:「優游」(いういう(ゆうゆう))は「ゆったりとして心のままに楽しむこと。のどかでこせつかないこと」。

「僕は舊傾向故投句出來ません」小澤碧童は新傾向派の河東碧梧桐門下であり、龍之介はここでは自分は守旧派であるから、と言っているのである。但し、瀧井辺りからの感化から、龍之介は明白な新傾向や自由律さえも実は既に自作している。

『齋藤茂吉氏の「あらたま」』この一月に茂吉は第二歌集「あらたま」(春陽堂刊。作歌期間は大正二年から六年のもの)を刊行している。

「藥喰ひ」冬、滋養や保温のための薬と称して鹿・猪などの獣肉を食べることを江戸以前に言ったもの。殺生や差別観から、表向きは、獣肉は忌まれ、一般には食べなかったが、病人や好事家などはこういう口実を設けて、結構、食べていた。

「鬼趣帖」筑摩全集類聚版脚注に、『芥川と小穴の合作になる「鬼趣図」のこと。奉書に描かれ、大正九年十二月二十一日小沢宛に送られた。それに碧童が「鬼趣図をみてよめる狂歌」二首をつけた』として、その歌二首を引き、最後に括弧書きで『小穴隆一「鬼趣図」参照』とある。その参照元は私が既に『小穴隆一「二つの繪」(42) 「河郎之舍」(1) 鬼趣圖』で電子化注してある。そこに、

   *

   龍之介隆一兩先生合作

   鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞のきものの男の子なりけり

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

   *

とあるのがそれである。「鬼趣圖」の画像も添えられてあるが、ぼんやりとしていて、見るに堪えるものではないので、期待せずにリンク先を見られたい。なお、小穴は後の『「鯨のお詣り」(38)「河郎之舍」(1)「鬼趣圖」』(こちらも私の電子化注)でも前掲書に加筆したものをものしている。

「衲子」「なふす(のうす)」或いは「なつす(なっす)」と読む。「衲衣(のうえ:本来は、修行僧が俗人の捨てた襤褸を拾って縫った袈裟を指し、古代インドでは、これを着ることを「十二頭陀 行」の一つとしたが、中国に至って、実態は華美となってしまい、本邦では綾・錦・金襴などを用いた荘厳された「七条の袈裟」を指すに堕落してしまった)を着けた者」の意で、特に禅僧を指す。

「山鴫」大正十年一月一日発行の『中央公論』初出。龍之介の偏愛するトルストイとツルゲーネフの邂逅を切り取ったもの。トルストイとツルゲーネフを愛すること、特に後者については、龍之介に劣らぬ自信が私にはあるが、この作品は、あまり成功しているとは言えない。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・消印七日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一樣・一月六日 芥川龍之介

 

拜啓

昨晩はわざわざ御光來下さつた所留守にて恐縮 昨日始めて外へ出たのにてそれまでは每日ゐたのにと思つたそれから歲旦の名畫難有う 仲丙先生からも歌や句を貰つた僕何時ぞやのお降りの句以來句も歌も作らず 大阪の新聞へ變な小說執筆中 あの南畫の本もまだ一册しか見ず畫は一枚仿雲林をやつて失敗した天神の古道具屋の鉢君が買つたですか 咋夜行つたらもうなかつた 人手に落ちたのだと少し口惜しい 僕も中の字のつく號がつけたくなつた爲いろいろ考へた

宗中(コレハ小堀遠州の號)

空中(本阿彌光悅の子の號)

などつけたいのは人がもうつけてゐる 旦中としようかと思つたが未定、中の字のつく號は惡くすると男藝者じみるのでむづかしい

昌中、玄中、童中、呆中、寂中、景中、素中、了中、

皆落第 昌中はどうかと思つたがこれ亦未定 田中と云ふのを考へたらタナカだつたので困つたいづれ年始𢌞り完結次第仲丙先生を訪ねます

    一月六日       未生子旦中

   一游亭主人梧右

 

[やぶちゃん注:「仲丙先生」小澤碧童の篆刻家としての号。

「お降りの句」既出既注

「變な小說」「奇怪な再會」。『大阪毎日新聞』夕刊に大正十年一月五日から同年二月二日まで、休載を挟んで十七回で連載した。ジャンルとしては「開化物」の怪談である。

「仿雲林をやつて失敗した」「仿」(はう(ほう))は動詞では「ならふ」で「模倣する」の意。「雲林」は元末の画家で「元末四大家」や「金陵九子」の一人に数えられた倪瓚(げいさん 一三〇一年~一三七四年)の号。グーグル画像検索「倪瓚」をリンクさせておく。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月九日・田端発信・香取秀眞宛(封筒に「東南離芥川龍之介」とある)

 

この間は御歌を難有うございました惡歌を御返し致します

  一杯の酒ものまねど夜語りのあとはうつべしわれをよばさね

 

[やぶちゃん注:「あとはうつべしわれをよばさね」よく判らぬが、「うつ」は囲碁か将棋を「打つ」か? 「さね」は万葉以来の連語で上代の尊敬の助動詞「す」の未然形に、相手の同意・返答などを期待する意を表わす終助詞「ね」で、敬意を込めて相手に「是非ともそうして欲しい」という気持ちを表わすそれであろう。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十三日 大阪市東區空堀通二三三ノニ 玉林憲義樣

 

啓 今朝あなたの手紙を見ましたあなたの手紙は好い手紙です私は愉快に讀みました時に私の所へも知らない人が手紙をくれます書生に置いてくれと云ふ手紙もあります原稿を見てくれと云ふ手紙もあります色紙や短册を書けと云ふ手紙もあります私はさういふ手紙が來ると大抵顏をしかめますさうして斷りの返事を書きますあなたの手紙はそんな手紙ぢやないそれだけでも既に愉快ですその上あなたの手紙には我我三十前後の人間には失はれた純粹な感情があるやうですもう一度繰返すと私は愉快にあなたの手紙を讀む事が出來ましたしかしあなたを知らない私には何をあなたに注意して好いかわかりません唯私が誰にでも云ふ事を書けばあなたが何になるにしても勉强おしなさいと云ふだけです勉强おしなさい私も負けずに勉强します 以上

    一月十三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「玉林憲義(たまばやしのりよし 明治四〇(一九〇七)年~平成八(一九九六)年)は後のドイツ文学者。山口県生まれ。昭和五(一九三〇)年京都帝国大学文学部独逸文学科を卒業し、同大学院で修学、後に関西学院大学予科教授・文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任した。関西学院大学の独文学科設立の尽力者でもある。関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した(主文は当該ウィキに拠った)。但し、当時は未だ満十三歳であった。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十九日・田端発信・中西秀男宛

 

この間はわかさぎを難有うあのわかさぎはお母さんが送つて下すつたのですか

   わかさぎを火に炙りつついまだ見ぬ人のなさけを嬉しみにけり

   久方の霞が浦にとりにけむこのわかさぎの味のよろしも

羊羹もかたねりでうまいですねあれも難有う

   大寒や羊羹殘る皿の底

これはあの羊羹を食ひ食ひ夜原稿を書いた時の實景です土浦のお宅を知らせてくれゝばそちらへも御禮狀を出します序の節御しらせなさい小說は出來ましたか今度君にあつたら淺草文庫の批評をします小生は今大阪每日に「奇怪な再會」と云ふ怪談を書いてゐます 以上

    一月十九日      我 鬼 拜

   中西秀男樣 まゐる

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」既出既注

「淺草文庫」中西が嘗ていた東京高等工業(現在の東工大)の文芸部の機関誌。芥川龍之介は同雑誌の選者を引き受けていた。但し、中西は、この当時は早稲田大学高等師範部英語科に移籍しており、この年に卒業している。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月十二日・田端発信・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・十二日 市外田端四三五 芥川龍之介(葉書)

 

啓碧童大哥の都合さへよければ十六日に書く會をやらばやと思ふが如何僕校正が未にすまぬ 嫌で嫌で眞實へこたれた皆屎(クソ)の臭がする 且急用ありて大阪の社へも行かねばならん苦娑婆苦無限

 

[やぶちゃん注:「大哥」(たいか)は中国語で「兄・一番上の兄」の意。

「書く會」小澤碧童・小穴隆一・芥川龍之介の三人が集まっては、短歌・俳句・絵画などをものし合って遊んだ会合のこと。幾つものそれが現存している。

「急用ありて大阪の社へも行かねばならん」新全集宮坂年譜によれば、この七日後の二月十九日に『大阪毎日新聞社から下阪を命じる電報が届く』とあり、二十二日の夜、同新聞社の『接待を受け』たが、その席上で、同『新聞社から、海外視察員としての中国特派が提案され』、以前から中国に非常な興味を抱いていた龍之介は、『この提案を承諾し』、三『月中旬から三、四か月の予定で中国に特派されることが決まった』とある。されば、この一月の初旬頃には、内々に田端の龍之介に中国特派の慫慂が通知されていたものと考えられるのである。

 

 

大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛

 

 武士あり。郞等四五人と鹿獵に出でし歸途或寺の說法をきき、突然剃髮す。郞等共驚き悲めどせんなし。水干袴の代りに袈裟法衣を著、金鼓(こんぐ)を胸にかけ、「阿彌陀佛よや、おおいおおい」と呼びながら、西の方へ步き行く。阿彌陀佛は衆生渴仰の聲に、答へ給ふべしと聞きし故なり。西に大海あり。海邊に二股の枯木あり。その上に登り、海を望んで「阿彌陀佛よや、おおい、おおい」と言ふ。七日にして餓ゑて死す。そのほとりに住む僧一人、尋ね行きて見れば、枯木梢上の屍骸、口中より一朶の蓮華を生ぜしを見る。往生せしを知る。隨喜極りなし。[やぶちゃん注:ここまで底本では全体が一字下げ。]

この物語より畫二枚作られたし。二十六日までに國粹へ送られたし。屍骸は枯木より下さざりしなり。よろしく願ひ奉る。僕は向うより原稿を送るべし。二十六日までは好いと言ふ故、無理に書く事と仕つたのなり。

 

[やぶちゃん注:ここに描かれたシノプシスは芥川龍之介の「往生繪卷」(リンク先は「青空文庫」の同作)のそれである。同作はこの年の四月に雑誌『國粹』に発表された。その挿絵を小穴に依頼するものである(描いたか、採用されたいかは、孰れも不明)。「向う」は大阪。但し、実際の脱稿は大阪から帰京(二月二十四日夕刻)した、三日後の二月二十七日であった。評価は全体に低いが、私は好きな一篇である。なお、本作はシナリオ式のベーゼ・ドラマで、典拠は「今昔物語集」巻第十九の「讚岐國多度郡五位聞法卽出家語第十四」(讃岐國多度郡(たどのこほり)の五位、法を聞きて、卽ち、出家せる語(こと)第十四)である。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「金鼓(こんぐ)」「こんく」とも読む。仏家の楽器の一つ。銅製で、平たい円形で中空。仏堂で架に取り付けて打ち鳴らしたり、僧侶が行脚の際、首にかける小型の鉦鼓(しょうこ)のことも指す。ここは後者。前者は鰐口(わにぐち)とも呼ぶ。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月二十日・田端発信・小穴隆一宛

 

Mikanbakari

 

  ぬばたまの夜風に冴えは返る頃を一游亭よ風ひくなゆめ

  打ち日さす都をさかる汽車の窓に圓中なんぢを思ふ男あり

一日おくれ今夜發足同行は宇野耕右衞門二人共下戶故[やぶちゃん注:※1。]や[やぶちゃん注:※2。]はなし[やぶちゃん注:※3。]ばかり

                夜來花庵主

  小穴隆一君

 

[やぶちゃん注:※1・※2・※3とした部分は、絵。底本の岩波旧全集の活字部を消去して前に掲げた。上から※1(猪口=酒)、※2(ビール瓶=ビール)、※3(蜜柑)である。

「宇野耕右衞門」宇野浩二の渾名。宇野の小説「耕右衞門の改名」(大正七(一九一八)年発表)に由来するもの。]

   *

 なお、これ以降の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、その分はここでは再度取り上げるつもりはない。

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