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2021/07/08

カテゴリ「小酒井不木」始動 /小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附)(1) 序・目次・「はしがき」・「日本の犯罪文學」・「櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事」

 

[やぶちゃん注:医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。私の非常に好きな作家である。言っておくが、主に彼の評論が好きなのであって、私は探偵小説自体をそれほど好む人間ではない。医学者であって小説も書いたというところに惹かれるのである。

 本書は『新靑年』に大正一四(一九二五)年六月号から翌年の九月号まで連載されたものに、大正一五年八月増刊号に発表した「マリー・ロオジエー事件」を『ポオの「マリーロジエー事件」』と改題して、併載したもので、不木の著作の中でも私が高く評価している評論である。

 底本は昭和二(一九二七)緣一月三日発行春陽堂刊の「犯罪文學研究」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を元に視認して電子化した。不審な箇所は、所持する国書刊行会一九九一年刊の『クライム・ブックス』の「犯罪文学研究」(新字新仮名で底本以外の作品も収録しており、「犯罪文學研究」パートは初出誌に基づいた翻刻である。しかし、古典籍のルビの中には私の確認した影印本などとは異なるルビが振られており(歴史的仮名遣ではある)、正直、信頼出来ない箇所があることを断っておく)を参考にした。因みに、既に探偵小説並みの不審があって、国書刊行会本の「収録作品解題」では、本単行本の発行を昭和元年十二月二十八日とするのだが、底本の奥付では、「印刷」と「發行」の部分に明らかな別印刷の紙が貼られてあって、そこでは『昭和元年十二月廿九日印刷』とあるその上に、明らかに細い筆(墨)で『廿九』の部分に削除線が引かれ、『三十一』と手書き(削除線とも)で記されてあり、発行の部分も『昭和二年一月  日發行』(恐らく空欄はママ)とあるものに、同じく手書き筆字で『三』と書かれていることである。【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、この謎が判明した。

   《引用開始》

国立国会図書館デジタルコレクションの『犯罪文學研究』は、標題ページに

「昭和二・一・一五・内交」

の判が押されています。これは、内務省納本正・副の内、副本が帝国図書館に交付された日付です。

底本の奥付に別印刷の紙が貼られて手書き修正があるのは、

「大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御、即日昭和元年十二月二十五日昭和天皇即位」

の大騒ぎが関係しています。

サイト『「もる」氏の小酒井不木 著書目録』

には、『犯罪文學硏究』の奥付は

「大正151225日印刷 大正151228日発行 定価230銭」

と出ています。「もる」氏は所持されていない本には「(未所持)」と丁寧に注記されています。これによって、市販品は

「大正151225日印刷 大正151228日発行」

で出回っていたことが判ります。

「奥付」と「内交」については、

書物蔵(id:shomotsubugyo)氏のブログ「奥付研究、というか検閲研究か?」

に、

   《引用開始》

納本の期日と、奥付の月日

・納本の3日前は、厳重に守られていた。

・納本が遅れたら、奥付の月日を訂正しなければならない。

・遅れても発禁の対象にならないもの(とくに官庁出版物)は、説明し、月日の訂正捺印で受理してもらいやすいと聞いた(伝聞)。

奥付の月日 内交本(検閲本)と市販本(流布本)のズレ

・内交本の月日が訂正されていれば、それが法定納本の正式な月日。

・市販本は訂正されていないらしい。

   《引用終了》

従って、印刷してしまった「大正十五年十二月二十五日印刷 大正十五年十二月二十八日発行」では、納本ができません。春陽堂は、納本に合わせて、別紙を大急ぎで準備したと思います。

「納本日」が未定のため、空欄にしたが、実際の「納本」で印刷日と発行日の訂正を行ったものと思われます。

則ち、 国書刊行会本の解題にある『昭和元年十二月二十八日』は、市販本の『大正十五年十二月二十八日を書き直しただけです。

   《引用終了》

お調べ戴いたT氏に深く感謝申し上げる。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた(本文中、一部の漢数字がゴシック太字になっているので、その太字は別)。但し、底本の本文末尾に『〔正 誤〕 本文中「靑砥藤綱摸稜案」の「摸」の字が「模」となつて居るのは誤であるから訂正する。』とあることから、この誤記部分は総て訂正して示すこととした。そこは最初の箇所を除いて後は断っていない。但し、一般名詞の熟語としては後で注するように「模稜」でも誤りではない。

 注は私が躓いたところ、及び、若い読者に判りにくいと思った箇所や(但し、手取り足取りはしない)、資料を示し得ると思われた部分にストイックに附す。難読と思われるものは、原拠が視認出来る場合はそれを参考にしつつ(実は原拠のルビ等は歴史的仮名遣の誤りが多いので、無批判には従っていない)、その他は推定で歴史的仮名遣で《 》で読みを示し、表記上の不審点などにも割注した。底本のルビは( )で区別した。字配は必ずしも一致させていない。また、特に古文の引用では、句読点の不足が目立つので、私が原拠と照合の上、句読点を追加・変更した箇所も多い。それは五月蠅いだけなので、特に注していない(かなりの数に及ぶ。ないとおかしい不木自身の本文にも苛ついた箇所ではやはり挿入し、注記しなかった)。さらに本電子化注のオリジナルな特異点として、不木が紹介する作品の内、国立国会図書館デジタルコレクションその他で、原拠或いは同等のものの全話を視認可能な場合は、出来る限り、それをリンクで添えた。本書を十二分に熟読出来る仕組みとして、内心、自負を持っている部分ではあるからして、お楽しみあれかし。【二〇二一年七月八日始動 藪野直史】]

 

 

犯罪文學研究

 

醫學博士

小酒井不木 著

 

 

東京

春陽堂版

 

 

犯罪文學の硏究は自分の畢生の事業である。本書はいはゞその發端といふべきものであつて、もとより未熟なものであるが、後來の完成を期しつゝ、こゝに敢て公にするに至つたのである。

  大正十五年十二月

           小 酒 井 不 木

 

 

   目    次

 

はしがき

日本の犯罪文學

櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事

探偵小說としての三比事

三比事に書かれた探偵方法

三比事に書かれた特種の犯罪方法

三比事に書かれた犯罪心理

詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

兩用心記の比較

兩用心記に書かれた詐欺方法

曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

靑砥藤綱の『裁判』に對する態度

『摸稜案』の最初の物語

暗號解讀

『摸稜案』に書かれた女性の犯罪心理

犯罪文學と怪異小說

江戶時代の怪異小說

主觀的怪異を取扱つた物語

ラフカヂオ・ハーンの飜譯

古今奇談英草子

淺井了意と上田秋成

伽婢子と雨月物語の文章

近克巢林子とシェクスピア

『マクベス』の硏究

默阿彌の惡人

ポオの『マリー・ロオジェー事件』の硏究

[やぶちゃん注:リーダーとページ番号は略した。作品書誌や人名の内、必要と思ったものはチョイスして本文で注するが、ここでは少し「語」の意味を注しておく。

「比事」とは「類似した事件を比較すること」を意味する。

「騙盜」は「へんたう(へんとう)」と読み、「騙(だま)し、誤魔化して横領する」の意。

「摸稜」は「もりよう(もりょう)」は実は「模稜」とも書き、「事柄を明白にしないこと・曖昧にしておくこと」の意。初唐の政治家で宮廷詩人としても知られた蘇味道(六四八年~七〇五年)が宰相の時、事を決めるに当たって、自分の信ずる所を言わず、ただ、自分の席の稜(かど)を手で摩(さす)っているだけであったという故事に基づく。この馬琴の命名になる「摸稜案」とは、ばっさりと裁断してしまうのではなく、黙考して真相を推理すること、それを匂わせる、というような意味で用いているようである。]

 

 

犯罪文學硏究

 

      は し が き

 文學に現はれた犯罪又は犯罪者の硏究は可なりに古くから行はれて居る。古いと言つても、犯罪學そのものが比較的新らしい學問であつて、犯罪學らしい犯罪學の發達したのは、所謂、犯罪人類學の開祖たるロムブロソー以後のことであるから、まだ凡そ六七十年にしかならず、從つて文學にあらはれた犯罪又は犯罪者の硏究が科學的に試みられるやうになつたのも、五六十年來のことである。

 實際、文學に描かれた犯罪者を科學的に硏究した最初の有明な著述は、ロムブロソーの高弟で、犯罪社會學を開いたエンリコ・フェリの『文學に於ける犯罪者』であつて、これは一八九二年ピサで講演した所を補つて一册の書物としたものである。この中にはシエクスピアの戯曲、『マクベス』、『ハムレツト』、『オセロ』を始め、シルレルの『群盜』、ユーゴーの『死刑囚の最後の日』、ゾラの『テレーズ・ラカン』その他、及び、イブセン、トルストイ、ドストイエフスキー、ダヌンチオ等の作品が硏究され、なほガボリオーやサルドゥーの探偵小說まで硏究されである。

 フェリのこの硏究の要點は、フェリの『犯罪者の分類』を文學的作物によつて證明しようとした所にある。フェリは犯罪者を五種類に分つた。卽ち一、狂的犯罪者、二、先天的犯罪者、三、常習性犯罪者、四、偶發性犯罪者、五、情熱性犯罪者がこれであつて、彼は文學に描かれたところの犯罪者も畢竟この五種以外のものはないことを指摘し、それと同時に『犯罪人類學』は、犯罪人類學を知らなかつた文豪たちによつて、知らず知らずに理解されて居つたといふことを論じて居る。

 フェリ以後は、コーラー、ゴル等幾多の犯罪學者によつて、部分的に文學の犯罪學的硏究が行はれたけれども、最も徹底的な硏究をしたのはドイツのエーリツヒ・ウルフェンである。ウルフェンはフェリとちがつて、圭として犯罪心理學の立場から、文學にあらはれた犯罪者を硏究し、その著『シエクユピアの大犯罪者』と『ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲』は極めて名高いものである。前者にはマクベス、オセロ、リチヤード三世の性格と犯罪との關係が遺憾なく說明され、後者にはハウプトマンの戯曲十種に就て、深い犯罪心理學的硏究が試みられてある。

 犯罪の硏究も詮じつめて見れば『人間』硏究の一部分である。そして人間をよく知るためには『科學』ばかりでは不充分である。『科學』は主として、多數の材料をあつめて、そのうちから共通な點を歸納しようとするのであるが、そればかりによつて人間硏究を完うすることが出來ると思つては間違ひである。だから偉大なる科學者は必しも『人間をよく知つて居る人『[やぶちゃん注:二重鍵括弧はママ。](卽ちドイツ語で所謂『メンシエン・ケンネル』)ではない。否、『メンシエン・ケンネル』は、古來、むしろ偉大なる文豪に多かつた。從つてそれ等文豪たちの作品には、科學者達の普涌氣附かぬ人間の性質が描かれてある。こゝに於て文學の科學的硏究の必要が起つて來るのであつて、かういふ立場から、『文學の犯罪心理學的硏究』を試みたのがウルフェンである。その著『シエクスピアの大犯罪者』一卷は、むしろシエクスピアが如何に人間をよく知つて居たかを證明したものといつた方が適當であつて、『文學の犯罪學的硏究の價値』を說いたものと見ても差支ない。例へば輓近《ばんきん》[やぶちゃん注:近来。近頃。]明かにされた『不具と犯罪性』との關係は『リチヤード三世』の中に遺憾なく描かれ、『癲癇と犯罪性』との關係は『マクベス』の中に說き盡されて居る。だから優れた文學的作品の硏究は犯罪の科學的硏究の先驅たり得る見込さへあるのである。

 さて、犯罪に關する文學といへばその範圍は極めて廣い。善と惡との葛藤を描いた文學はある意味に於ては悉く犯罪文學と言つても差支ない。西洋ではホーマーの二大詩篇も見樣によつては一つの犯罪文學である。然し乍ら、犯罪を描いた文學が、犯罪文學として、特に人々に興味を與へるやうになつたのは、犯罪が如何に探偵されて行くかといふことが西洋の探偵小說の鼻祖は通常エドガー・アラン・ポオとされて居るから、所謂犯罪文學の勃興は第十九世紀の半ば以後のことである。

 チヤールズ・ホーンはその著『小說の技巧』の中に、探偵小說を『技巧の小說』の一種と見倣し、その特徵は、構想が故意に逆に示されてあつて、讀者は自分自身の機智を働かして、謎を解く努力をし、探偵の仲間入りをし得る所にあると言つて居るが、この點がやがて讀者の興味の中心となることは言ふ迄もないことである。又、必ずしも構想が逆に示されて居なくても、犯罪が一步々々わかつて行く經路の描かれてあるものは同樣の興味を與へるものてあつて、ドストイエフスキーの『罪と罰』や『カラマゾフ兄弟』の面白味は、その探偵味をたつぷり含んだところにあるといつても、恐らく誰も異存はあるまいと思ふ。

 近頃では『探偵小說』なる名稱が廣い意味に用ひられ、ホーンの所謂技巧の小說(恐怖、密謀、探偵、ミステリーを取り扱つたもの)を始め、ある種の冒險小說をも含ませらるゝに至つたので、探偵小說は必ずしも犯罪文學ではなくなつたけれど、やはり探偵小說の名の示すとほり、犯罪の探偵を取り扱つたものが、數に於ては一ばん多いやうである。これはいふまでもなく、人々が犯罪といふものに一種の魅力を感ずるためである。このことに就ては拙著『殺人論』に述べたことであるから、玆に繰返さないけれども、センセーシヨナルな殺人事件があると、各新聞紙はその紙面の大部分を割いて之が報導[やぶちゃん注:ママ。]に力を注ぐところを見ても、思ひ半ばに過ぎるであらう。

 近時、實際の犯罪探偵に科學が應用されるに至つたゝめ、探偵小說にも主として科學的捜査による探偵事件が描かれるけれども、やはり、興味の多いのは心理的に、所謂人間性を巧みに應用した探偵事件である。さういふ探偵小說は、シエクスピアの戯曲その他の純文學的作品と同じく、犯罪學的に硏究する價値があるのである。

 それ故私はこれから犯罪に關する文學の犯罪學的考察を試みようと思ふのである。主として探偵味を合んだ文學に就ての硏究ではあるけれども、さもないものについても硏究の步を進めて行くつもりである。

[やぶちゃん注:「ロムブロソー」イタリアの精神医学者で犯罪学の創始者チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso 一八三五年~一九〇九年)。ベローナ生まれ。パドバ・パビーア・ウィーンの諸大学で医学を修め、軍医に従事したのち、一八六四年パビーア大学教授となり、一八七〇年、ペザロの精神科病院の院長に就任した年、サル以下の動物の頭蓋に存在するが、人間には極めて稀にしか見られない中央後頭窩を、ある犯罪人の頭蓋に発見し、後年の主張の契機を得た。一八七六年、トリノ大学教授に転じ、そこで終生犯罪の人類学的研究に没頭した。彼は犯罪者の頭蓋三百八十三個を解剖し、また、五千九百七人の体格を調査したうえ、犯罪人の人類学的特徴というものを措定し、特に隔世遺伝による生来的犯人という観念を明らかにした。そして、犯罪人総数の約三分の一は、この生来的犯人であって、この種の犯人は、その素質に基づき、因果的必然的に罪を犯すものであるから、これに対し、責任を負わせるわけにはいかないが、危険な存在であるから、国家はこれに対し、一定の対策を講じなければならない、と主張した。このような実証主義的犯罪観は、その後、特にイタリアにおいて発展し、所謂、近代学派の刑法理論及び犯罪の自然科学的研究、則ち、「犯罪学」を生み出す契機となった(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「エンリコ・フェリ」(Enrico Ferri 一八五六年~一九二九年)はイタリアの刑法学者・犯罪学者・社会学者。サン・ベネデット・ポー生まれ。ボローニャ大学で法律学を研究し、さらにパリに留学、フランス犯罪統計学派の影響を受ける。帰国後、ロンブローゾに師事した。一八八〇年、ボローニャ大学助教授・教授となり、犯罪人類学を主唱、一八八四年に『犯罪社会学』を著した。一八九四年には政界入りし、社会党議員としても活躍した。彼は、「犯罪原因の三元説」(人類学的要因(年齢・性別など)・物理的・風土的要因(人種・気候・地理・季節・気温など)、社会的要因(人口密度・慣習・宗教・政治など)を犯罪の原因として挙げたもの)、「犯罪飽和の法則」(「一定の個人的・社会的条件の備わった、一定の社会において発生する犯罪の量は一定である」)を提唱、具体的な分類に従って各種犯罪者の個別的対策論を示し、一九二一年には「イタリア刑法」草案(「フェリ草案」)を起草、そこでは応報刑論が抹消され、刑罰と保安処分を同じ「制裁」と捉え、一元化することが試みられている。このため、本草案は「責任と刑罰のない刑法典」と呼ばれた。主に参照した当該ウィキによれば、『フェリはロンブローゾのように犯罪の人類学的要因に拘泥こそしなかったが、犯罪原因の中で人類学的要因が中核であると確信しており、その意味でロンブローゾの犯罪生物学の最大の擁護者といえる。彼の有名な言として「社会環境は犯罪に対して形式を与えるが、犯罪の要因は反社会的な生物学的構造の中にある」というものがある』。『にもかかわらず、彼が犯罪の社会的要因を強調した所以は、フェリがマルクス主義者であり、社会変革によって社会悪を解消することが犯罪の減少に結びつくと考えていたことと関連がある』とある。「文學に於ける犯罪者」は一九二三年刊行。

「ガボリオー」フランスの小説家エティエンヌ・エミール・ガボリオ(Etienne Èmile Gaboriau 一八三二年~一八七三)。シャラント=マリティーム県ソージョンに公証人の息子として生まれた。公証人の見習いとなり、二十歳の時、騎兵隊に入ったが、アフリカで病気になり、除隊、パリで、暫く仲買人に雇われ、二十五歳の時、週刊誌『ジャン・ディアブル』誌に入社し、アレクサンドル・デュマと知り合う。当時の大衆小説の大家ポール・フェヴァルの秘書として代作をするようになり、その材料を仕入れるために警察やモルグ(遺体置き場)を回り歩き、後に探偵小説を書くようになってから、これらの知識が役に立つことになった。新聞小説だけでなく、新聞付きの文芸誌に連載小説を発表するようになってから、ガボリオの名声は上がりはじめ、彼が原稿を一枚書くごとにメッセンジャー・ボーイが印刷所へ運ぶ有様だったという。このような生活を十三年間送り、二十一の長編を書いたが、肺出血のため、パリで四十一歳で死去した。ガボリオは家庭のスキャンダルをテーマにした普通小説の他に、探偵小説の範疇に入る約八作品(長編六作・短編集一冊・未収録作品集一)を残している。第二作以降の主役である探偵ルコックは、シャーロック・ホームズなど後世の探偵小説に多大な影響を与えた。黒岩涙香によるガボリオの翻案と紹介の意義は大きい。また、若くして他界したガボリオを惜しんで、「鉄仮面」(Les deux merles de m. de Saint-Mars  :「サン=マルス氏の二羽の鶇(つぐみ)」。一八七八年。海外では殆んど忘れられた作品である)で有名な小説家フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ(Fortuné du Boisgobey 一八二一年~一八九一年)は名探偵ルコックのその後の活躍を「ルコック氏の晩年(La Vieillesse de Monsieur Lecoq )」のタイトルで執筆している。日本では、これも黒岩涙香が「死美人」のタイトルで翻案しており、更に江戸川乱歩が同タイトルでリライト(実際は氷川瓏(ひかわろう)の代作翻案)している(以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「サルドゥー」フランスの劇作家ヴィクトリアン・サルドゥ(Victorien Sardou 一八三一年~一九〇八)ではなかろうか。オペラの名編として知られるプッチーニの「トスカ」(Tosca)は彼の戯曲「トスカ」(La Tosca :一八八七年)に基づくもので、犯罪劇である。但し、小説ではなく、あくまで戯曲である。もし、他の作家の誤りであるとならば、御教授願いたい。

「フェリの『犯罪者の分類』」この二重鍵括弧は書名ではなく、学術用語。後の『犯罪人類學』も同じ。

「フェリは犯罪者を五種類に分つた。卽ち一、狂的犯罪者、二、先天的犯罪者、三、常習性犯罪者、四、偶發性犯罪者、五、情熱性犯罪者」ウィキの「エンリコ・フェリ」によれば、「犯罪対策論」の条で、『犯罪者の分類に応じ、対応方法を提示した』として、『生来性犯罪者』は『無期の隔離』、『精神障害犯罪者』は『精神病院へ収容』、『激情犯罪者』は『損害賠償、移住命令』、『機会犯罪者』は『労働、損害賠償、移住命令』、『慣習犯罪者』は『改善可能な場合は労働、損害賠償、移住命令。改善不可能な場合は無期の流刑』とあり、最初の二つが入れ替わっている他は、ほぼ一致を見る。

「コーラー」【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、判明した。ドイツの法学者(法学博士)で作家・詩人でもあったヨーゼフ・コーラー(Josef Kohler 一八四九年~一九一九年)。邦文の彼のウィキには、『比較法学を進展させた。その研究は、穂積陳重』(のぶしげ)『や岡松参太郎を通じて』、『日本の法学研究にも影響を与えた』とある。ドイツ語の彼のウィキには、法学以外の著作も記載されている。

「ゴル」デンマークの法学者オーガスト・ゴル(August Goll 一八六六年~一九三六年)であろう。デンマーク語の彼のウィキを機械翻訳すると、犯罪学者としての一面があるように見える。彼の著作には英訳で‘Criminal Types in Shakespeare ’というのがあるから、彼であろう。

「エーリツヒ・ウルフェン」ドイツの犯罪学者ヴォルフ・ハッソー・エリッヒ・ウルフェン(Wolf Hasso Erich Wulffen 一八六二年~一九三六年)。ドイツ語の当該ウィキを見られたい。

「シエクユピアの大犯罪者」‘Shakespeares große Verbrecher: Richard III., Macbeth, Othello. ’ 。一九一一年刊。

「ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲」‘Gerhart Hauptmann vor dem Forum der Kriminalpsychologie und Psychiatrie: Naturwissenschaftliche Studien. ’(「ゲアハルト・ハウプトマンについての犯罪心理学と精神医学の公開討論:科学的研究」の意か)。一九〇八年。

「メンシエン・ケンネル」‘Menschen kennr’(メンシェン・ケンナァ)か。ここは人間鑑定家・精神鑑定人の意であろう。

「チヤールズ・ホーン」【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、判明した。英文の彼のウィキに、アメリカの作家チャールズ・フランシス・ホーン(Charles Francis Horne 一八七〇年~一九四二年)。彼は生涯に百冊以上の本を書いたり、編集したりしており、その殆どは歴史作品であった。ニュー・ヨーク市立大学の英語教授であったとある。彼の「小說の技巧」についても、T氏から原題は‘The technique of the novel -the elements of the art, their evolution and present use ’ (「小説の芸術の要素としての技術及びそれらの進化と現在の用法」。一九〇八年初版か)で、国会図書館デジタルコレクションに、大正一三(一九二四)年内外書房刊の尾崎忠雄訳「小說の技巧 小說の起原と近代小說の發展」があることもお教え戴いた(全文が読める)。その訳者の序を読むと、ニュー・ヨーク市立大学での講義を纏めたものとある。]

 

    日本の犯罪文學

 

 探偵事件を取り扱つた小說が、日本で廣く世に行はれるやうになつたのは德川時代以降である。慶安四年、支那の裁判小說『棠陰比事』の日本語譯『棠陰比事物語』が刊行されて非常な人氣を得てから、これに類似した裁判小說が續々刊行された。卽ち元祿二年には井原西鶴によつて、櫻陰比事が書かれ、寶永五年には月尋堂《げつじんだう》の鎌倉(けんさう)比事、次で寶永六年には、作者不詳の桃陰比事(後に藤陰比事と改題された)が出た。この外に、裁判小說專門ではないが、安樂菴策傳の醒睡笑(寬永五年)の中に、板倉伊賀守の取扱つた裁判物語が書かれてあつて、これは多く實談であるらしいが、兎に角物語として讀んでも甚だ面白く、鎌倉比事の中には、この中の話を燒き直したものもある。

 この外、支那の杜騙新書、騙術奇談と類を同じくする騙盜を取り扱つた物語に、西鶴の弟子團水の著はした『晝夜用心記』(寶永四年)と月尋堂の『世間用心記』(寶永六年)とがあつて、いづれも、多大の人氣を得ることが出來た。

 これ等の小說が出てからは、江戶の末期に至る迄類似の書物の刊行がなかつたやうであるが、馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』[やぶちゃん注:ここは底本では「模」となっているが、冒頭注で述べた通りの仕儀で訂正する。]が出るに及んで、裁判物語中、人氣の焦點となつた。又、かの『大岡政談』として現今に至るもよく讀まれて居る實錄小說は、誰の作かはわからぬけれど、棠陰比事などの物語も可なり澤山取り入れられて居るやうであつて、『靑砥藤綱摸稜案』も、大岡越前守の政談がその骨子とされて居る。

 明治の中葉には海外の探偵小說の飜譯が盛んに紹介され、次で現今の最隆盛期に達したのであるが、海外小說の影響を受ける以前の日本の探偵文學はその源を支那の棠陰比事に發すると見て差支ないのである。棠陰比事は、宋の桂氏の著はした小說で、約百五十ばかりの短い話が集められてある。現今の言葉でいへば民事上の裁判も刑事上の裁判も含まれて居るのであるが、犯罪搜査にしても、審問にしても、裁判官一人の智慧で行はれるのであつて、單ての經路などはあまり書いては無く、多くは裁判官の機智によつてたちどころに明快に決斷されて居るが、中には犯罪者の性行を穿つた探偵方法も書かれてあつて、犯罪學的考察に値するものが少なくない。

 櫻陰比事以後の日本の探偵物語も、騙盜を取扱つたものゝ外は、棠陰比事と同じく、裁判官が中心となつて事件を解決するやうに書かれてある。もとより短い話ばかりで、叙述の仕方も、あまり巧いとは言へないけれど、その當時の世相をしのぶことが出來ると同時に今も昔も變りない犯罪者の性質を伺ふことが出來るのである。西鶴にしろ、月尋堂にしろ、かやうな探偵小說は人間の『智』的慾望を滿足せしめるために書かれねばならぬものだとたは思つて居なかつかつたらしく、やはり通俗小說と同じく犯人が早く罰せらるればよいといふ氣で書かれたらしい跡がありありと見える。

 私は左に櫻陰、鎌倉、藤陰、三比事について考察して見たいと思ふのである。

[やぶちゃん注:「慶安四年」一六五一年。第三代徳川家光が没した(慶安四年四月二十日)年。但し、後注で示した通り、慶安二年の誤りである。

「棠陰比事」(たういんひじ(とういんひじ))は南宋の桂万栄が編纂した裁判実話集。戦国時代から宋代に至る古今の名裁判の公案(判例)百四十四件が二話ずつ対比され、合計七十二組が収められている。自序によると、桂万栄が建康の司理参軍(獄の審理官)在任中だった時期、南宋嘉定四 (一二一一) 年に編纂完了とある。岩波文庫で訳本が出ており、大変、面白い。

「日本語譯『棠陰比事物語』」「棠陰比事」は江戸初期に日本に伝来し、林羅山が元和元(一六一五)年に訓点をほどこし、羅山の門下生が伝写して次第に世間に広まり、慶安二(一六四九)年には安田十兵衛開板の仮名草子風にした「棠陰比事物語」などが出版され、元禄年間には広く流布するようになった。林羅山旧所蔵の抄本は内閣文庫に収蔵されている(前の注とともにウィキの「棠陰比事」に拠った)。

「櫻陰比事」井原西鶴著になる裁判小説集「本朝櫻陰比事」。元禄二(一六八九)年刊。★国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』「西鶴全集 第二」(昭和四(一九二九)年日本古典全集刊行会刊)のここから全篇が読める。

「鎌倉(けんさう)比事」公事物・裁判物の浮世草子。平凡社「世界大百科事典」では宝永五(一七〇八)年刊とし、現行知られたものは享保三(一七一八)年板行の六巻本がある。鎌倉幕府の北条執権の裁判に仮託したもので、内容的には単純で日常的なものが多く、その裁断も常識的。著者の月尋堂は詳細事績不明。★国立国会図書館デジタルコレクションで影印の享保三年版が読める。

「桃陰比事(後に藤陰比事と改題された)」初名は「日本桃陰比事」。宝永六(一七〇九)年刊。七巻七冊。作者不詳。★「国文研データセット」のこちらで影印本が総て視認出来る。

「安樂菴策傳の醒睡笑(寬永五年)」「醒睡笑」(せいすいしょう:現代仮名遣)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京の僧で、戦国から江戸前期にかけての浄土宗の僧安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年:美濃出身。京の誓願寺第五十五世法主。安楽庵流(織部流分派)茶道の祖。金森定近の子といわれる。明治末期に「落語の祖」と称されるようになった)。写本八巻八冊で千三十九話を収録する。書名は「眠りを覚まして笑う」の意。元和九(一六二三)年成立。岩波文庫で読める。一話がかなり短いのが玉に疵。「板介伊賀守の取扱つた裁判物語」とあるのは、家康に重用された初代京都所司代板倉勝重(寛永元(一六二四)年~天文一四(一五四五)年:彼の政務や裁判の実録は「板倉政要」に記録されており、卓越した政治手腕と名裁判官ぶりが窺える)の政談は九編が並んで載る。★国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」第二十二巻(国民図書・昭和三(一九二八)年刊)のここから読める(左ページ三行目以降)。

「杜騙新書」(とへんしんしょ:現代仮名遣)は明朝末期に張應俞撰で出版された、様々な詐欺事件を題材とした短編小説集。

「騙術奇談」明の克利夫撰。

「西鶴の弟子團水の著はした『晝夜用心記』(寶永四年)」井原西鶴の高弟北条団水(寛文三(一六六三)年~宝永八(一七一一)年:俳人で浮世草子作者。幼少時の経歴は不明。西鶴の門下で俳諧を学び、京都で俳諧師として活躍、元禄六(一六九三)年に西鶴が没すると、大坂に赴き、主なき西鶴庵を七年に亙って守り、遺稿「西鶴置土產」「西鶴織留」「西鶴俗つれづれ」「西鶴名殘の友」の四部を整理・刊行した。その後再は京都に戻り、俳人・浮世草子作者として活動した。「晝夜用心記」は宝永四(一七〇七)年刊。裁判よりも犯罪のそのものに焦点を当てた浮世草子。★国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正四(一九一五)年珍書会刊の活字本が読める。

「月尋堂の『世間用心記』(寶永六年)」宝永六(一七〇九)年以降の板行。内容は「晝夜用心記」に同じ。

「靑砥藤綱摸稜案」曲亭馬琴の読本。二編、各五巻。葛飾北斎画。文化九(一八一二)年江戸で板行された。北条時頼の家臣青砥藤綱(実在した可能性は低い)の名裁判によって事件が解決される形式をとる。歌舞伎の「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」はこれに基づく。★同じく国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」第十六巻のこちらから全篇が読める。

「大岡政談」大岡越前守忠相(ただすけ)の裁きぶりを描く、長短九十話ほどの説話群の総称。「白子屋阿熊(おくま)一件」(髪結新三(かみゆいしんざ))以外は仮託(例えば、「天一坊一件」は勘定奉行稲生下野守のもの)又は虚構といわれている。実録小説としては「隱祕錄(いんぴろく)」(明和六(一七六九)年)が古く、「板岡政要」「大岡政要記」「大岡仁政錄」などの書名で行われており、幕末期まで成長し続けたが、諸本の関係は未だ整理されていない。講談化された時期は定かでないが、馬場文耕の「近世江戶著聞集」宝暦七(一七五七)年)に「白子屋一件」があり、初代森川馬谷(ばこく)は正月の初席に「大岡仁政錄」を読んだといわれている。「娘の手を引くの件」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四五(一九一二)念至誠堂刊大町桂月校「大岡政談 上卷」の当該部。以下同じ)はソロモン伝説に類似し、「小間物屋彥兵衞一件」(七編から成る)は中国の「龍圖公案」(りゅうとこうあん)に拠っているが、逆に馬琴の「靑砥藤綱摸稜案」後集(文化九(一八一二)年)は「越後傳吉一件」(リンク先は桃川如燕述の「大岡政談 越後伝吉」(昭和一一(一九三六)年大川屋書店刊の国立国会図書館デジタルコレクションのもの。非常に長い)に、河竹黙阿弥作の歌舞伎「勸善懲惡覗機關」(かんぜんちょうあくのぞきからくり:文久二(一八六二)年)は「村井長庵一件」に拠るなど、後世に影響を与えた。ともあれ、個々の説話の生成変移・相互関連は極めて複雑である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

      櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事

 

 この三つの比事はその書き方が皆一樣であるから、一しよに論じようと思ふのである。藤陰(桃陰)比事の序を讀むと『棠陰比事あり、櫻陰比事あり、このごろ又鎌倉《けんそう》[やぶちゃん注:影印原本のママ。]比事あり、棠陰は唐土事《もろこしごと》にして、和朝の者《ひと》心をみがく種《たね》とはなりがたし、櫻陰、鎌倉《かまくら》[やぶちゃん注:影印原本のママ。]の兩比事は、又作意のみにて誠《まこと》なし。今此書《ふみ》は昔、賢君の世に在《いまし》て萬民の鏡とならせ給ひ、くもらぬ御惠《めくみ》を今の世によに語り傳へて悅びをのべし賤《しつ》が物語を綴り集めて七卷《なゝまき》とし、唐土《もろこし》の書になぞらヘ桃陰比事といふ事しかり。』と書かれてあるけれど決して櫻陰、鎌倉をけなし得るだけの優れた物語ではないのである。尤も匿名の出版だから、かうした思ひ切つた事が言へたのかもしれない。さすがに月尋堂は、そんな惡口は言はないで、その鎌倉比事の序に『棠蔭櫻蔭は和漢の兩比事にして、世の人知るところ、其言の葉茂れり。予がなせる全部六卷の書は、往昔の物語を集め、これを狂言綺語になぞらへ、北條家のまつりごとをしるし、鎌倉比事《けんそう》と爾《しか》いふ。』とおとなしい文字をつかつて居る。西鶴の櫻陰比事には、かくのごとき序がないからわからぬが、何れにしてもこの三つの比事は作者こそちがへ、同じ行き方である。尤も文章そのものにはそれぞれその特色があつて、西鶴の筆は如何にも冷靜な運び方で、かうした探偵物語を書くにふさはしいやうである。西鶴のどの小說を讀んでも、恍然として威興に乘じて書いて居ると思はれる所はなく、いつも冷かな理性を以て、批評しつゝ書いて居るやうに見える。かういふ筆の持主が探偵小說に成功するか否かの議論は別として、兎に角、櫻陰比事の書き方は如何にも冷靜そのものゝやうである。今その一例として、第四卷の『善惡二つの取物』といふ物語を原文の儘揚げよう[やぶちゃん注:以下の読みは所持する明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」を参考にした。先に示した国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここ。]。

『昔都の町に車の玉鉾《たまぼこ》の道筋を狹めて、祗園祭の眞似して童子《わらべ》集《あつま》り山の形を造りなせるに、守《もり》も無い子に無用の刄物を持たせける、其の中に七歲の童子《どうじ》遊び所を爭ひ、九歲になる兒《こ》を大小刀《おほこがたな》にして目を突裂き、立所を去らず相果てける、死《しな》せたる方《かた》の親の歎き殺せし方の親の迷惑、一町の詮議にも未だ智慧無きものゝ仕業、とかくは堪忍したまへとさまざまあつかひしに、なかなか合點いたさず、是非に敵《かたき》を取るべしと人のいふ事うけ入れず、殊に母親辨別《わきまへ》なく御前《ごぜん》へ駈出づるを引留め、神主出家《しゆけ》衆を賴み一代坊主にいたし、其兒の後を弔はすべしと、二親を詑びても取合はず、遂に御前に出でける。未だ七歲ならば何の差別もあるまじきと仰せければ、人を殺すほどの存じ立《たち》[やぶちゃん注:人を殺そうと思い立つほどの子どもですから。]常々も外の忰《せがれ》とは格別と申上ぐる、時に機關細工《からくりざいく》の人形、金子一兩御出し遊ばされ、此二種を明日其童子に取らして見るなり、金子を取れば心あるによつて命を取るなり、人形を取れば命を助くるなり、善と惡との大事ここに極むるなり、兪《いよい》よ明日連れて罷出づべしと仰付けられ、いづれも罷立ち宿に歸り、一門懇ろの衆中集りて御前で見しに變らぬ人形を調(ととの)へ、これを小判と排《ならべ》置き、金子を取れば命の果つると嚇し、夜中《よぢう》同じ事を百度も敎へて、又其朝も言聞かせて兩方御白洲に出でける。時に件《くだん》の二種を御出し遊ばされ、人形取れば助くる小判取れば命を取るぞとの御意ある時、此の童子《どうじ》立行き小判を取れば、殺されし方の親類進みてかやうの不敵者《ふてきもの》と申上ぐる、又一方の一家は唯悲しくて覺えず聲を立てゝ歎く、仰せ出されしは、扨は智慧なき忰に極まるなり、命を取るといふに構はず小判を取る所僞《いつはり》無し、命の外大切のものありや、こゝを以て助《たすけ》置くと仰せ出されけるなり。』

 全篇みなかうした書き方であつて、いかにも冷かに筆が運んである。鎌倉比事も藤陰比事も書き方はこれによく似て居るけれど、全體を讀んで見ると、多少の暖かさがないでもない。今左に比較のため、鎌倉、藤陰比事から、物語を一つゞつ選んて、原文の儘掲げよう。

[やぶちゃん注:「藤陰(桃陰)比事の序」「棠陰比事あり、櫻陰比事あり、このごろ又鎌倉比事あり、棠陰は唐土事《もろこしごと》」にして、和朝の者心をみがく種とはなりがたし、櫻陰、鎌倉の兩比事は、又作意のみにて誠なし。今此書は昔、賢君の世に在て萬民の鏡とならせ給ひ、くもらぬ御惠を今の世によに語り傳へて悅びをのべし賤が物語を綴り集めて七卷とし、唐土の書になぞらヘ桃陰比事といふ事しかり』「国文研データセット」のこちらと、こちらで視認出来る。本文の読みはこれを視認した。

「鎌倉比事の序」「棠蔭櫻蔭は和漢の兩比事にして、世の人知るところ、其言の葉茂れり。予がなせる全部六卷の書は、往昔の物語を集め、これを狂言綺語になぞらへ、北條家のまつりごとをしるし、鎌倉比事と爾《しか》いふ」国立国会図書館デジタルコレクションの影印のここから。本文の読みはこれを視認した。なお、初出準拠の国書刊行会本は「と爾《しか》いふ」の部分を「とはいふ」としてあるのは、誤りである(初出で不木がそう誤っているいるのだろうが)。

 

        鎌倉比事卷の三『命は入相の金子』

 

『人の身はつぼのごとし、魂《たましひ》は雀に似たり、鳥の來てつぼの中に入る、網をもつて口をおほふ、網破るれば飛んで空ににげかへるとかや、其頃鎌倉米町《こめまち》に天まやといふ兩替屋ありしが、ある日小者《こもの》に同商賣《どうしやうばい》のかたへ、取替金百兩もたせ遣しけるが、此小者道より行がたしれず、いまだ取逃げ欠落《かけおち》をする時分にてもなし、主人も小者が親も、草を分けてたづねれども、さらに行方《ゆくゑ》なし、二日過ぎて暮方に鎌倉東土手をたづねてあるきしところに、鴉のあまた集りて嗚くを不審に思ひかなたこなたをうかゞひ見る所に、土手の下に埋《うも》れ井あり、中に小者が死骸切殺して有りけるをもとめ出しぬ、親どもの歎き、主人も召使ひなるものゝ事なれば、ふびんに思ひ、此段を經時公《つねときこう》へ申上げる、上より死骸を御あらためなさるゝに小者が口に木綿着物の裾らしき物をくはへて死けり、是は切殺さるゝ時、下よりしがみ付《つき》裾をくはへるたるが、裾はなれぬ故に切殺したる者己《おのれ》と着物の裾をきつて捨ぬると御覽じて、扨此くはへたる裾を御詮議の種とおぼしめして、主人に何にても思ひあたる事はなきかとの御たづねの時、私《わたくし》近所に梅野《むめの》古兵衞と申して、日ごろ男だてをしてその日すぎの者にて御座候が、此男のかねて小者に衆道《しゆだう》の色あるよしを申かけしを小者承引致し申さず候よし、日ごろ承はり候へども、此度の儀につき疑はしきことは御座なく候、此外に別《べち》に心にかゝる事、さしあたりては御座なきと申上る、そのものに女房はあるかとの御たづねにて、吉兵衞が女房召出され、おのれ少しもいつはるな、花いろの布子の裾は何としたぞと御たづねあれば、女房、その布子の裾は夫《をつと》が炬燵《こたつ》にてあやまちに焦し申されて、つぎをいたし候、只今にても御覽下さるべく候と右の布子をさし上るに、つぎのあたり焦てあり、おのれ惡事は顯れたぞ、まことに燒けたらば、この焦たる分を殘らず取かゆべきに、所々焦《こげ》た所を少しづつ殘したは何事ぞ、此布の焦たか焦ぬかとの詮議が何としてあらんと思ひけるぞ、有體《ありてい》に申せ、己《おのれ》いつはるに於ては、いはせやうがあるぞと仰せらるゝときに、女房恐れ乍ら是までは陳《ちん》じ申たり、有體に申上べし、私《わたくし》夫かの小者を切殺し候よしをひそかにかたりしゆゑ、それはいかなる事ぞとたづね候へば、夫が申すに、かねて其方にはかくし、かの小者とは兄弟分の約束せし所に、ふと、いきぢをいひつのり、むねうち[やぶちゃん注:峰打ち。]を二つ三つ打ちしが思はず刄《は》がまはりて疵を付たり、主人もあることなれば後日の難儀を思ひ一向に切殺したり、此上は我も腹切らんと申せしを押しとゞめ、何とぞつゝまれんだけはかくし給へと、達《たつ》て私の申せしなり[やぶちゃん注:私がかく提案申したので御座います。]、女の身にて何とやら嫉妬がましく思はれん事もかなしく、一つは夫が難儀を救はんと存じて布子《ぬのこ》のつぎを右の通りに拵らへ申候、是につけても夫の吉兵衞にはうらみ御座候、其金子《かね》を奪ひ取り申され候事、ただいままでも私には知らせ申されずと一々に申上げける、此おもむきを吉兵衞に御たづねありければ、陳じ申すに及ばずつひに刑ををこなはれける[やぶちゃん注:影印原本では『刑にをこなはれける』となっている。]。』

[やぶちゃん注:標題は「㊃命(いのち)は入相(いりあひ)の金子(かね)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの影印本はここから。読みはそれを参考にした。

「鎌倉米町」ここは考証がちゃんとしている。「新編鎌倉志」巻七に、

   *

〇大町【附米町】 大町(ヲホマチ)は、夷堂橋(エビスダウバシ)と逆川橋(サカガハバシの間(アイダ)の町なり。大町(ヲホマチ)の四つ辻より西へ行(ユ)く橫町(ヨコマチ)を、米町(コメマチ)と云。大町(ヲホマチ)・米町(コメマチ)の事、【東鑑】に往々見へたり。

   *

とあり、そこで私は、

「逆川橋」大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている。この「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたものである。

「米町」鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(こくまち=米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

と注した。現在、具体的な位置は不詳だが、若宮大路と大町大路が交差する東北を「米町」とする明応年間(一四九二年~一四九九年)の寺の絵図が現存するので、現在のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が比定候補地となる。なお、以上から、国書刊行会本が『よねまち』とルビするのは誤りである。

「經時公」鎌倉幕府第四代執権北条経時。執権在職は仁治三(一二四二)年から寛元四(一二四六)年。北条氏得宗家一門。第三代執権北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)。第五代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄である。幕府将軍は、在任中、第四代将軍藤原頼経と次代の藤原頼嗣。当該ウィキを見ると、『執権就任後、経時は訴訟制度の改革を行ない』、寛元元(一二四三)年二月十五日に問注所での判決草案作成について重要案件は』二『か月、中程度は』一『か月、それ以外は』二十『日と期限を定めた』。二月二十六日には評定衆を三つの『グループに分けて、それぞれ月に』五『日ずつ会議日を定めて訴訟を担当させたが、これは従来の全員参加の評定では欠席も多く、裁判の迅速と正確を期するために行なわれたもので、後の時頼時代に定められた引付衆制度の先駆けとなった』。七月十日には『問注所での訴訟において、原告と被告双方の書類が整っている場合は対決を省略して判決を定める事』、九月二十五日には、『判決原案を将軍に見せてから裁決の下知状を作成するという手続きを簡素化して、将軍に見せる』ことなく、『原案に従って奉行人が下知状を作成するようにしている』とあるので、実際に裁判制度改革に力を入れていた人物であることが判る。]

 

        藤陰比事卷の三『隱家を知る道角が耳』

 

『當二十七日よりのかた、手負《ておひ》の療治仕りたる外科(げくわ)本道(ほんだう)のこれあるに於ては、早々申來るべし、隱密に致し置、後日にあらはるゝにおいては曲事《くせごと》に可申付者也《まうしつくべきものなり》、地頭御在判

 乍恐《おそれながら》言上仕候《ごんじやうつかまつりさふらふ》、私儀は磯木村に住宅(ぢうたく)仕候若田道角と申す外科にて御座候。一昨日二十七日の夜、無僕にて庚申參詣仕り下向の節、松井橋を渡り候所に、向ふより虛駕籠《あきかご》を舁來《かつぎきたり》候者、若田道角とさヘたづね申さばまぎれあるまじと物がたりいたし通り候故、まさしく私をはじめて尋ねまゐる者と存じ、道角は某事《それがしこと》なり、いづかたよりの使とうけ給り候へば、黑雲町澤田屋松右衞門方に急病人これあるよしにて、むかひ駕籠つかはし申すの口上ゆゑ、しかと近付とは覺えず候へども、私失念を致したるか、又醫家のならはしにて承はりおよびて參候ものもあまた御座候へば直《すぐ》にかの駕籠に打のり罷越候所に、手負三人御座候ゆゑ外治内藥餘慶の望みにて[やぶちゃん注:これは原本の「餘計」の誤字であろう。必要以上に薬を要求したのである。]、又駕籠にて送られ、私宅へ罷歸り薬をつかはし候へば、程なく夜も明《あけ》候て、つくづく思案仕るに、闇の夜大雨なり駕籠にて十四五町[やぶちゃん注:一キロ半から一・六三六キロメートル。]まゐるほどの間とは存じ候へども、方角東西のわかちも覺えず、そのうへ今月三日何の沙汰も申來らず、不審に存じ、黑雲町澤田屋方相尋ねさせ候所、黑雲町と申所も、澤田屋と申者も、當地には御座なく候よしにて、兎角方角しれ不申、始終こゝろもとなく奉存候處、御觸のおもむき拜見仕候ておどろき入、御斷《おんことわり》申上候、麁忽《そこつ》なる儀を仕り後悔不念《こうくわいぶねん》千萬に奉存候故、一札《さつ》さし上《あげ》候以上。

   月 日    礒木村 若田道角判

 地頭仰られしは、手負の療治は此方《こなた》より指圖なくては致さぬ筈、卒爾に仕るのみならず、その病家も覺ざるとは段々不屆なり、右の手負の宿所よく見屈けずしては、こゝろ覺えになる儀はなきかと御たづねあるに、つり鐘の聲ちかく聞え候と申す、寺町ちかき所にはいづかたも同前にちかう聞ゆれば、證據には成がたし、其外には琴三味線尺八の音仕りたると申す、それも家々に慰みに仕るか、瞽女《ごぜ》座頭は常に指南仕る所ōあまたあれぱ、それ等を證跡に所は知れ難しと仰せあるに、道角又おもひ出し、瀧の音手ぢかく聞え候と申す、しからば山よせの家なるべしと、すでに瀧ぢかき寺壯民家御詮議に極るとさ、公事役の老體まかり出、これもたしかに所はさゝれ申まじく、大雨の夜《よ》なれば築山《つきやま》の谷あひ、泉水などに落こむ音、時ならぬ瀧に相きこゆることあるべし、其外にしかといたしたる手がかりを思ひ出さねば、其方の難儀なりとあるに、道角眉をひそめ、しばらくありて申上るは、私むかしある國の守《かみ》の側ちかく奉公仕候所に、古主能藝《のうげい》好《すき》申せしが、大事に仕るほどの音曲うけ給り覺たり。しかるに此手負の合壁《がつべき》[やぶちゃん注:壁を一つを隔てた隣の家。]に、石橋(しやうきやう)の獅子の笛をひそかに吹《ふき》すさむ音《おと》相聞え候と申上る、地頭役人これ詮議の種なりしかれども一儀相濟までは道角は町内へ御預けにて、扨此石橋の笛のゆるしを得たる者吟味あるに、二人のうち一人は關東にくだり、今一人の住居せし町内の名主五人組をめしよせられ、町中に裏座敷か隱居がまへの貸屋もちたる者の屋敷を微細に詮議あるに、笛吹甚四郞が北隣のうち座敷に、月切《さかやき》にかりたる者共、手負てしのび居たりけるが、盜賊におし入ける高家方《かうけがた》にて、見合《みあは》されて[やぶちゃん注:見つかって、逆に。]切たてられし者共にてめしとられけるとなり。』

[やぶちゃん注:文章は改行して続くのだが、ここでインターミッションを入れる。この不木の引くそれは、「藤陰比事」と改題する前の「桃陰比事」では標題が「㊂聞覚へたる石橋(しやうきやう)の笛」と全く異なっている。「国文研データセット」のここに始まり、ここ(挿絵のみ)と、ここと、ここまでであるが、内容の一部も、若干、異なっている。読みはそれを参考にした。

「石橋」(しゃっきょう:現代仮名遣)は能の作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞で知られる。囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物であり、往古は特別な場合以外では演ずることが許されていなかったのであろう。始まりの「名乗リ笛」や「獅子」登場の冒頭の激しく笛が吹かれて始まる「乱序」(緩急独特な序の音楽)等、調べる限りでも、この曲での笛は特別なものらしい。私は不学にして見たことがないが。道角がたまたま抱えられていたさる国主から以前に聴かせて貰ったことがあったことから、その秘曲を名指し得たことが、盗賊団召し取りのきっかけとなるというとびっきりの風雅をアイテムとした洒落た展開である。]

 この二つの探偵物語の構想は可なりによく出來て居るが、後者は板倉伊賀守の裁判談の燒き直しである。京都のある外科醫が駕籠に迎へられてある山奥に連れられて行き、金創の治療を賴まれて歸される。で、不審に思つて屆出ると、板倉は何か手がかりになるやうな事はなかつたかときく、すると醫師は佛法僧といふ鳥の鳴く聲をきいたと答へる。板倉は直樣松尾山へ捕手を向けると、果して山賊どもの隱れ家が發見された。これは板倉が、松尾山に佛法僧のなくといふ古歌を知つて居たからである。

 前者の物語も或は何處かにあつた話の燒直しかも知れぬが兎に角探偵味には富んで居る。布子の燒けた部分をつぐのならば、燒けた部分を皆切取つてつぐべきであるのに、所々燒けた所を殘して置いたのは怪しいと睨むところ、一寸シヤーロツク・ホームズめいて居る。

 桜陰、鎌倉、藤陰の三比事の中には、この外に、まだ可なりに探偵味に富んだ物語が數多くあるけれども、どれも皆何となく物足らぬところがある。尤も文章が短かいための物足らぬ感じもあるけれど、初め相當に讀者に期待を抱かせて、結末は平々凡々に終るのが、物足らぬ原因の主要なものである。結末に於て讀者の意表に出るといふ書き方のものは一つもなく、いわば尻切れとんぼの感じがある。その例として、私は鎌倉比事中の『茜細工は奧の間のたたみ』といふ物語を述べて見よう。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの影印本では「卷之三」の「茜細工(あかねざく)は奧間(おくのま)のたたみ』で、ここから。]

 鎌倉谷の末町に家來を一人召し使つて居る浪人が住んて居た。日ごろ出入りする絹屋手代が節季に金を取りに來たのて、いつもより機嫌よくあしらつて金子を渡して請取を書かせ、さてそれから、奧の間に見せるものがあると言つて手代を導き、家來と二人して斬り殺してしまつた。

 先日末、この浪人は細工をするといつて茜を買ひ、夫《それ》を戶障子や壁にこぼして、血の樣に見せかけて置いたので、手代を殺した血が飛散しても、旨く茜のとばつちりと紛れて了つた。

 それから其浪人は絹屋方へ人を遣はし、長前手代に金を渡す時に註文した羽二重をまだ持つて來ないのはどういふ譯かと尋ねさせた。すると絹屋の方では、まだ手代が歸りませんから、歸り次第樣子をきいて御屆しますと答へた。が、手代はその日から行方不知になつたので、絹屋では、その手代が懸金を集めて逃げたのだらうと推定し、請人と親許へ談判した。

 話變つて、每晚浪人の門では、夜更けに犬が頻りになくので附近の噂の種となつた。この噂を聞いた手代の母親は、上へ訴へ出て、『私の忰が每晚夢にあらはれまして、自分は人に斬り殺されたから、どうか敵をとつてくれと、申しますから忰が懸金にまはつた先を御調べに預りたい。』と歎願した。上では之を尤もに思ひたまひ、手代が當日𢌞つた先を一々御調べになつたところ、浪人の言ひ分に曖昧こところがあつたので、浪人の家來を別室に御招きになつて、『主人が白狀した上は主人に科はない、汝は默つて居たから、科人は汝にきまつた。』と、高飛車に仰せになると、家來は驚いて罪狀を逐一自白し、『先日來、手代の死骸を捨てようと思つて、夜更に門を出ますと犬が頻りに吠えますので、幾度もかつぎ出しては戾り、只今は座敷の下に御座ります。』と言つた。

 この自白を書き取らせて今度は浪人に御見せになると、浪人は其場で恐入つた。『私は西國方の武士の忰で御座いますが、御主人の勘當を受けて鎌倉へ參りました。その節には少少全銀の貯へもありましたが、龜ケ谷の遊女町へ足を踏み入れたが病附《やみつき》で、しまひには武具馬具迄賣拂つてしまひました。ところが馴染の遊女の親が永々のわづらひで困却して居りました擧句、愈《いよい》よ飢ゑ死しなければならぬやうになりましたので、遊女は年期を切增すと申しましたのが不憫になり、何とかして金を拵らへてやりたいと思ひまして、惡いこととは知り乍ら、絹屋の手代を殺して、その懸金を奪つたので御座います。一人の家來はその節國許へ遣はしてありましたので、その場の手傳ひを致したのでは御座いません。歸つて來ました時にその話を聞かせたので、うろたへて、そのやうに白狀したので御座いませう。絹屋の手代一人を殺すに何として家來などに相談致しませう。私一人の仕業で御座います。』

 かういって浪人は家來の罪を潔く我身に引受けて刑に行はれた。――

 讀者はこれを讀んで、これだけの材料があつたなら、もつと面白く書くことが出來たらうに、と思はるゝであらう。手代を殺すために、豫め、茜を買つて、細工ものをすると見せかけ、赤いものを疊や壁に打かけるなど、中々巧妙な計畫といはねばならない。その折角の計畫も、物語りの中では一向花を咲かせて居らない。又夜更けに犬の吠える話も頗る興味があるけれど、それがあまりに呆氣なく手代の母親に知れてしまふのは何となく物足らない。

 之を要するに、三比事に載せられた探偵物語は、讀者に考へさせるといふよりも、やはり感じさせるやうに書かれて居るに過ぎないのである。

[やぶちゃん注:実は私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」』で、この「本朝藤陰比事」の「石橋」絡みの話が出、その注で「関田耕筆」(江戸後期の随筆集。四巻四冊。伴蒿蹊(ばんこうけい)著・田中納言画。寛政一一年(一七九九)刊。天地、人、物、事の四部に分類された見聞録など二四八編を収める)から、板倉の「佛法僧」(ここは声のブッポウソウで、実際にはフクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウEurystomus orientalis の鳴き声ではないことが判ったのは、僅か八十六年前の昭和一〇(一九三五)年のラジオ放送がきっかけであった)を電子化してある。

「鎌倉谷の末町」「鎌倉谷」という谷は、現在、存在しないし、嘗ても存在しなかったと私は思う。では「谷の末町」というのはどうかというと、これも聴いたことがない。言っておくが、私は鎌倉の郷土史研究もしている。

「龜ケ谷の遊女町」この「亀ケ谷坂切通(かめがやつざかきりどおし)」から下った亀ケ谷附近は鎌倉時代には、かなり繁華な場所(辻)ではあったから、遊女がいた可能性は十分ある。また、この南西直近に知られた「化粧坂(けわいざか)切通」は、一説にはここに娼家があったことからの名称ともされるが、これは余りあてにならない。]

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