日本山海名産図会 第二巻 嬰萸蟲(ゑひつるのむし)
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「鷹が峯嬰萸虫(たかがみねゑつるのむし)」。]
○嬰萸蟲(ゑひつるのむし) 木の一名「野葡萄(のぶとう)」
山城國鷹が峯に出る物、上品とす。蔓・葉・花(はな)・實(み)ともに、葡萄(ぶどう)に異なることなし。「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」とは、是れなり。春月、萠芽(め)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を出して、三月、黄白(わうはく)の小花穗(せうかほ)をなす。七、八月、實を結ぶ。小にして、圓く、色、薄紫。其の莖、吹いて、氣(き)、出づ。汁は通草(あけひ)のごとし。蔓に、徃々(ところところ)、盈(ふく)れたる所ありて、眞菰(まこも)の根に似たり。其の中に、白き蟲あり。是れ、「小兒の疳を治(ぢ)する藥なり」とて、枝とも切りて、市に售(う)る。然(しか)るに、此の莖中(けいちう)に、薬とはすれども、尚、勝(まさ)れりとは云へり。南都に眞(しん)の葡萄、なし。此の實を採りて核(たね)を去り、煎熬(せんかう/いり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])して膏(あぶら)のごとし。食用とす。又、葉の脊(せ)に、毛、あり。乾して、よく揉めば、艾綿(よもき)のごとし。是れにて、附贅(いぼ)を治(ぢ)す故に「イホおとし」の名あり。中華には酒に釀(かも)し、「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」と唐詩に見へたるは、是れなり。
[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ち。]
【和名(わみやう)「エヒツル」とは、久しく誤り來(きた)れり。「エヒツル」は葡萄のことにて、「蘡薁(ゑびつる)」、「イヌエヒ」、又、「ブトウ」といへり。されとも、古しへより混していひしなるへし。】
[やぶちゃん注:まず、標題とされている「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」であるが、これは「葡萄蔓蟲」とも書き、蜂に見紛う形態をした蛾の一種、
ブドウスカシバ(鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目スカシバガ上科スカシバガ科スカシバガ亜科 Nokona 属ブドウスカシバ Nokona regalis )の幼虫
である。体長三センチメートルほどで、白っぽく、頭部は赤茶色を呈する。複数のブドウ目ブドウ科ブドウ属 Vitis の茎の内部に潜り込んでいる。ウィキの「ブドウスカシバ」によれば、『ブドウ園では、本種はブドウの主要害虫のため、見つけ次第捕殺される。ブドウ以外に、ノブドウ、エビヅル、ヤマブドウにも寄生するため、これらが付近にある場合、被害は深刻化する(これらのほうが寄生されやすい)』。『幼虫の被害にあった新梢は紫赤褐色に変色し、先端部は萎えて枯れる。しかし、先端部以外は枯れず、副梢が盛んに出現する』。大抵は、『被害部分からは虫糞が見られるが、部分や季節によっては、紡錘形のこぶが見られる』。『果実には、斑点が現れ、観賞価値を著しく低下させる』。一方で、小鳥の餌や、『渓流釣りにおいて良い餌であり、イワナ、ヤマメ、アマゴ、ニジマスを釣る際によく用いられ』、「かまえび」とも呼ばれるとある。現在、ここに書かれているような民間薬としての使用はないようである。
前後するが、成虫とライフ・サイクルも引用すると、『翅の開』長は三~三・五センチメートルで、『体は黒と橙黄色帯がある。体型はハチに似ているため、ハチと間違われやすい』。『年』一『回発生する。卵は』六『月頃に葉柄の基部に産まれ』、二『週間程で孵化する。幼虫は葉柄や新梢に侵入し』、二~三『回脱皮を繰り返しながら』、新しい梢や『幹の基部へと移動する。この移動は』八『月下旬あたりに行われる』。『基部へ移動して脱皮し、老齢幼虫になったのち、秋頃より越冬の準備に入る。幼虫は越冬場所の基部に紡錘形のこぶを作り、その中で翌年の初夏まで越冬する。越冬形態は幼虫・蛹である。初夏の』五~六『月頃、成虫が羽化する』。『体型や体色がハチに似ており、ベイツ型擬態』(ベイツ(Bates)擬態とも呼ぶ。自身は有毒でも不味くもないが、他の有毒であったり、不味いの種と形態・色彩・行動などを似せて捕食を免れる擬態を指し、発見者のイギリスの探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に因む。詳しくは「進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(5) 四 保護色(Ⅱ)」の「6」(まさにスカシバが挙がっている)の私の注を参照されたい。私は個人的にベイツ擬態とされる一部は言われるほどの有効性(天敵回避効果)を持たないものも結構多いように思うので、必ずしも総てを認めようと思わないが、この種の成体の形態と行動には確かにベイツ擬態を感ずる。少なくとも、熟知していない人間には蜂にしか見えないからである。グーグル画像検索「ブドウスカシバ」をリンクさせておく)『の一例だと考えられている。捕らえられると』、『体を曲げてハチが針を刺すような動作をするが、実際には毒針を持っていない』とある。
次に作者が指示する本体の「ゑひつる」であるが、これは、
バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅルVitis ficifolia var. lobata
である。当該ウィキによれば、本邦での漢字表記は「蝦蔓」「蘡薁」で、『雌雄異株。古名は』「山葡萄」とともに「葡萄葛(蔓)(エビカズラ)」(葡萄)と称した。但し、現在の『中国では「蘡薁」はVitis adstricta 』『という別の野生ブドウを指』おり、また、『学名にVitis ficifoliaを使われることが多い』(シノニムに Vitis thunbergii がある)ものの、『Vitis ficifoliaのタイプ標本は中国の桑葉葡萄につけられたもので、桑葉葡萄とエビヅルでは形態的な違いも大きい』とある。蔓『性の木本で』、『他の木本などに巻きひげによって』巻きついて這い上る。『巻きひげは茎に対して葉と対生するが』、三『節目ごとに消失していく。葉には葉柄があり、形は扁卵形で長さ』五~八センチメートルで、三つから五つに浅く或いは深く裂け、『葉裏にはクモ毛がある』。『花期は』六~八『月で、花序は総状円錐花穂で長さ』六~十二センチメートルに『なる。雄花、雌花ともに黄緑色。秋には直径』五~六ミリメートルの『果実がブドウの房状に黒く熟し、食すると』、『甘酸っぱい味がする。しかし、果汁にエビヅル臭という青臭いにおいを有するため、果実品質の評価は一般に低い』とある。『北海道西南部、本州、四国、九州、朝鮮に分布し、山地や丘陵地に』普通に見られる、とする。
但し、ブドウスカシバは限定的に産卵時にエビヅルを選ぶわけではないので、当時の「嬰萸蟲」を求めた人々が必ずエビヅルを選んで採取していたということは考え難いから、本邦産の真正の「ブドウ」である、
ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae (ヴィティス・コワネティアエ。古名を「えびかづら」(葡萄葛;「えび」を「ゑび」と書くのは歴史的仮名遣の誤りである)と言い、日本の伝統色で山葡萄の果実のような赤紫色を葡萄色(えびいろ)と呼ぶのは本種に由来する)
や、
ブドウ目ブドウ科 Vitoideae 亜科ノブドウ属ノブドウ変種ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
も示しておく必要があろう。というより、標題は「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」としながら、本文冒頭は明らかに実を食用とすることが記されているのであってみれば、作者は執拗ねく最後に否定しているが、エビヅルよりも、寧ろ、ヤマブドウ Vitis coignetiae をこそ採取し食に供するに足ると考える。
「山城國鷹が峯」京都市北区の鷹峯街道を中心に広がる地域、及び、その西南方に連なる丘陵の名称でもあり、旧愛宕(おたぎ)郡鷹峯村(たかがみねむら)の村名でもある。この広域(グーグル・マップ・データ航空写真)。
『「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」』「詩経」の「国風」の「豳風」(ひんぷう)の冒頭の「七月」の一節。この「七月」は「詩経」の「風」の中で最も長い詩である。yang氏のサイト「言葉と格闘する日々」のこちらに、『農事歴の歌であり、兄武王の死後、幼い甥成王の後見人となった周公が、新しい国家の出発にあたり、その遠祖たちが、まだ陝西奥地・豳の地方で農事に励んでいたころの生活を、民族の記憶とすべく、甥の成王に歌い聞かせるべく、歌ったものとされる』とある。「六月食鬱及薁」で「六月は鬱(うつ)と薁(おう)とを食らひ」。先のリンク先には訳文が載るが、私がネットをつなげて以来、最も信頼している植物サイトの一つである嶋田英誠氏編の「跡見群芳譜」のこちらに原文と訓読文が載る。そこで嶋田氏は「薁」をエビヅルに、「鬱」をバラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica に比定されておられる。当該ウィキによれば、『中国語では郁李』で、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来し』ており、『観賞用のために広く栽培されている』。『実は甘い香りがし』一・四センチメートル『ほどの大きさになり、パイやジャムなどに利用されることもあるが』、『味は』『酸味が強い』とある。
「通草(あけひ)」木通。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata 。
「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」知られた李白の次の一篇。
*
客中行
蘭陵美酒鬱金香
玉碗盛來琥珀光
但使主人能醉客
不知何處是他鄕
客中行
蘭陵の美酒 鬱金香(うつこんかう)
玉碗 盛り來たる 琥珀の光
但だ 主人をして 能く客を醉はしめば
知らず 何(いづ)れの處か 是れ 他鄕なるを
*
どうも、この条、叙述している対象がころころ変わっていて、非常に困る。ここは、また、もとのエビヅルの実に戻って、その実で作った葡萄酒の話になっている。しかも、「鬱金香」を酒の銘柄のように扱っている。実際には、葡萄酒に単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa の根茎を漬けて色と香りづけを施したものであろう。それならまだしも、呆けた連中はうっかり「嬰萸蟲」を漬けこんだ酒などと誤読しそうだ。]
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