芥川龍之介書簡抄89 / 大正八(一九一九)年(一) 薄田淳介宛三通(創作専念への運動の本格化)
大正八(一九一九)年一月四日・田端発信・薄田淳介宛(葉書)
世の中は箱に入れたり傀儡師
二伸これは新年の句本の廣告ぢやありません
[やぶちゃん注:芥川龍之介当年とって満三十七歳。この大正八年一月十五日に新潮社より第三番目の作品集「傀儡師」を刊行している。収録作品は。「奉敎人の死」・「るしへる」・「枯野抄」・「開化の殺人」・「蜘蛛の糸」・「袈裟と盛遠」・「或日の大石内藏之助」・「首が落ちた話」・「毛利先生」・「戯作三昧」・「地獄變」の十一篇で、多様な素材で、構成は妙を極め、ほぼどの作品も芥川龍之介の代表的名篇と言うに、遜色なく、恐らく作家芥川龍之介の生涯に於ける最上の作品集と言える。私は十三年前に「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」を作成している。これについては、それぞれの作品は、総て、それ以前に岩波旧全集版で「心朽窩旧館」で電子化しており、その両方が読めるようにしてある。一部ではその異同なども示している(例えば「蜘蛛の糸」))。是非、お楽しみあれ。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『敬愛する森鷗外は』本書について、『芥川に当てて』(大正八年一月二十九日附書簡)、『「文思涌くがごときの御近況、羨望のほかこれなく候」と書き送って』おり、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「傀儡師」の項には(清水康次氏執筆)、『新潮』大正八年一月号『などの新刊広告では、「新進作家の白眉芥川能之介氏、具に名匠の苦心をつくして一作をゆるがせにせず」、「ひとり新興文壇の一異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの、宝石の光輝と、古金欄の色彩とをそなへたる気品高き作品のみ也」という広告文が付されている』とし、また『小島政二郎「「傀儡師」と「心の王国」―菊池氏と芥川氏の新著―」』(『時事新報』同年一月二十八日・二十九日)『は、菊池の作品と比較しつつ、「芥川氏の作品を読んでゐるとプロポオションのよく取れた好い建築を見てゐるやうな気がする」と立体的な「組み立て」に注目し、また、「芥川氏位平凡嫌ひな人はあるまい。『傀儡師』の中に収めてあるどの作でも好い、一つ取り出して調べて御覧なさい。一つとして平几なテイマはない。一つとして平凡な交章はない」と評している』とある。
「傀儡師」は「くわいらいし(かいらいし)」と読む。この語は和語の古名で「くぐつし」と読む場合もある。「人形遣い」の古称。中国で操(あやつ)り人形を「傀儡」と呼び、本邦では平安時代に、日本古来の「くぐつ」の語を当て、「人形遣い」=「傀儡師」を「くぐつ・くぐつまはし」などと呼んだ。なお、日本の傀儡師は渡来人であったという説もある。古代には集団を成し、男子は狩猟、女子は遊女を業(なりわい)とし、人形を回した。中世後期になると、「くぐつ」の系統をひく「夷舁(えびすかき)」の一団が、摂津西宮神社を根拠地として、祝言を述べては夷(えびす)の人形を回しながら、各地を巡ったが、十六世紀末から十七世紀初めに(安土桃山から江戸初期)、彼らの一部は、「浄瑠璃節」と提携し、「人形浄瑠璃」を成立させた。これに対し、劇場に入らず、人形の抱えられるほどの箱舞台を首に掛け、街頭を流す人形遣いがおり、やはり「傀儡師」と呼ばれた。しかし後者は近世後期以後、衰微・消滅した(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
大正八(一九一九)年一月十二日・鎌倉発信・薄田淳介宛
拜啓 突然こんな事を申上げるのは少々恐縮ですが私は[やぶちゃん注:ママ。]あなたの方の社の社員にしてはくれませんか私は今の儘の私の生活を持續して行く限りとても碌な事は出來さうもない氣がするのです碌な仕事が出來ないばかりではないあなたの方の社から月に五十圓の金を貰つてゐながら一向あなたの方の社の爲になる仕事が出來ないだらうと思ふのです今の私はあなたの方の社から來る金と學校の報酬とで先づ生活だけは保證されてゐる訣ですがいくら飯を食ふ心配がなくつても自分のしたいと思ふ仕事も出來ずしなければ義理のすまぬ仕事も出來ないと云ふ事は決して愉快な事ぢやありませんそこでいろいろ考へた末にこの手紙をあなたへ書く氣になつたのです社員にしてくれませんかと云ふ意味は唯それ丈の外に私の知己としてあなたに相談する心算も含んでゐるのですあなたはこの問題をどう片づく可きものだと思ひますか社員になれるなれないの問題より先にこれに關して腹藏のないあなたの意見を聞かしてくれませんか
その爲に私の社員になると云ふ事の意味を說明します私が社員になると云ふのはあなたの方の社へ出勤する義務だけは負はずに年に何囘かの小說を何度か書く事を條件として報酬を貰ふと云ふ事です勿論さうすれば學校はやめてしまつて純粹の作家生活にはいるのですつまり私とあなたの方の此との今の關係を一部分改造して小說の原稿料を貰はない代りに小說を書く囘數を條件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈增して貰ふと云ふ事になるのですそれが出來たら私も少しは仕事らしい仕事に取りかかれはしないかと思ふのですこんな事を考へるのは或は大に虫が好すぎるかも知れませんしかし今の私はその虫の好さを承知の上であなたに相談しなければならない程作家生活の上の間題に行き惱んでゐるのです前にも書いた通り甚だ突然で恐縮だとは思ひますが一應私の爲に考へて見てはくれませんか實はこの事を考へた時大阪へ行つてあなたに會つてその上で御相談申さうかと思つたのですが差當つて原稿を書かなければならない爲に手紙で間に合はせる事にしました私の考へが手紙では十分徹しない憾があるのですがその邊はよろしく御諒察を願ふより外はありません 當用のみ 頓首
一月十二日 芥川龍之介
薄田淳介樣
[やぶちゃん注:遂に創作活動専念への具体な本格的企図が起動する。]
大正八(一九一九)年二十二日・鎌倉町大町辻発信・大阪市東區大川町大阪每日新聞社内 薄田淳介宛
芳墨拜誦。いろいろ御手數をかけ難有うございます。念の爲左記の事をはつきり伺ひたいのですが、如何ですか。
一、僕も時折外の雜誌へ書いてよいかどうか。これを前以て申し上げて置かうと思つて忘れたのですが、もしいけないとなると所謂文壇なるものと餘り緣が切れすぎて、作家としての僕の爲のみならず社員としての僕にも損ではないかと思ふのです。だから社の仕事を怠けない限りに於て隨意して頂ければ非常に有難いのです(尤も一年百二、三十囘の短篇を書く以上餘力があるかどうか疑問ですが)。それではいけませんか。
二、その一年百二、三十囘なるものも、嚴密に小說を百二、三十囘書く可きのですか[やぶちゃん注:ママ。]。時には隨筆(二、三囘のものでなく夏目さんの「硝子戶の中」のやうに數十囘つづくもの)もその百二、三十囘の中へ勘定して貰ふと甚難有いのですがそれではいけませんか。
三、菊池と二人で月評をかくと云ふ件につき、東日と大每とに同時に文藝欄を作る事は出來ませんか。
もし大阪のあなたと東京の我々とが連絡をとつて東西の文藝欄を維持して行けば、今の日本の文壇のオオソリテイになれると思ふのですが如何ですか。この件は細目に亘つていろいろ御相談する必要があると思ひますが、先、文藝欄を作れるか否かを先決問題として伺ひます。勿論さうなれば菊池も僕も時々東日の社へ出たり寄稿を依賴に行つたりしてもよろしい。
以上三點につき御返事下されば難有いと思ひます。菊池と二人で一度そちらへ行つて御相談したいのですが、今、久米がインフルエンザから肺炎になり可成重態なのでちよいとそう云ふ都合にも行きません。猶三月から入社する件は僕の學校に後任が出來るかどうかの問題もあるので、さう云ふ運びがすぐつくかどうか判然しません。上記三點がきまり以上、兎に角辭表だけは早速出します。菊池も社員として廣告する事は勿論差つかへあるまいと思ひますが、いづれ菊池からも御返事を出すでせう。以上。
二月十二日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:本書簡は底本にしている岩波旧全集には所収しない。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)にあるものを、過去の私の芥川龍之介の電子化の表記の経験に基づき、恣意的に漢字を概ね正字化し、仮名遣を歴史的仮名遣(拗音・促音は正字化した)に変更した。句読点や段落成形は、思うに、同書の底本である岩波新全集に従ったもので、私の経験則から、実際には句読点の大部分はなく、段落は存在しても、頭の一字下げなどはない可能性があるが、そこはそのままとした。少なくとも、原書簡により近づいているものとは思う。なお、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、先立つ二月八日頃、『当時「時事新報」記者だった菊池寛の大阪毎日新聞社就職の仲立ちをする。薄田泣菫』(淳介のペン・ネーム)『からの要請によるものと思われる』とある。
「嚴密に小說を百二、三十囘書く可きのですか」の「小說」に石割氏は注されて、『芥川は『大阪毎日新聞』に六月から八月八日まで』小説『「路上」を三六回にわたり連載した』とされる。
「硝子戶の中」「がらすどのうち」と読む夏目漱石の随筆。当該ウィキによれば、『こゝろと『道草』の『間に書かれた夏目漱石最後の随筆で』、大正四(一九一五)年一月十三日から二月二十三日にかけて三十九回に亙って『朝日新聞』に掲載されたもので、「内容」は、『ガラス戸で世間としきられた書斎で、単調な生活を送っている作者のもとに時々は人が入ってくる。それらの自分以外にあまり関係ないつまらぬことを書くと前置きして、身辺の人々のことや思い出が綴られる。自分が飼ったヘクターと名づけた犬の死の話。身上話を漱石に小説にしてもらいたがった女の話。旧友O(太田達人)』(おおたたつと 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年:陸奥国岩手郡東中野村(現在の盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友であった)『の訪問と短い交流の話。画を送ってきて賛を強要する男の話などから始められ、後半は漱石の若い時代の思い出の話が主となる』とある。
「菊池と二人で月評をかく」石割氏注に、『芥川は六月三日から一三日まで「六月の文壇」を連載』したとある。但し、宮坂年譜によれば、この『「東京日日新聞」への文芸欄設置は実現しなかった』とある。]

