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2021/07/20

芥川龍之介書簡抄99 / 大正九(一九二〇)年(四) 二通

 

大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・中西秀男宛

 

啓 返事がおくれてすまないと思つてゐますその後引きつゞき忙しいのです六日(月曜)に暇だつたら來ませんか

(午後)僕は新聞では避暑した事になつてゐますが實は未だ東京にゐるのであれは客よけです ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュは好いでせう僕は昔からあの中の「スマトラの忘れなぐさの花」なぞと云ふ文句が好きなのです「月」「薄明り」「窓」その外まだボオドレエルの中には好い散文詩が多い筈ですゴオティエの名高いボオドレエル論を讀みましたか

   風ふけば心かなしもスマトラの忘れなぐさの香やふきて來し

    七月三日       我   鬼

   中 西 秀 男 樣

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」(明治三四(一九〇一)年~平成八(一九九六)年:龍之介より一つ年下)は英文学者。茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、東京高等工業(現在の東工大)に入学して文芸部員となり、そこで、同部と交流のあった龍之介と知り合い、以降五年近くも龍之介の家に出入りし、文学を志した。大正一〇(一九二一)年には移籍していた早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、早稲田中学校専任教諭となり、戦後、昭和二二(一九四七)年に母校早大の講師となり、翌年には助教授、翌翌年には教育学部教授となり、定年退任後、名誉教授となった。多くの英文学研究や翻訳で知られ、終生、芥川龍之介に傾倒し続けた(以上は当該ウィキ及び新全集「人名解説索引」に拠った)。

「ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュ」ボードレールが没してから二年後の一八六九年に発表された散文詩集「パリの憂鬱」(Le Spleen de Paris)に収録された「旅への誘(いざな)い」(L'Invitation au voyage )個人サイト「LA BOHEME GALANTE  ボエム・ギャラント」のここと(但し、そこに示されてあるのは同題(第一ヴァージョン)の韻文のそれ。詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :詩集初版は一八五七年刊だが、これに載る殆んどの詩篇は一八五〇年までに書かれた。次からが当該詩)、ここと、ここで、原文及び訳(朗読データ付随)が読める。原文のフル・テクストはフランス語の「ウィキソース」のこちらで読める。

「スマトラの忘れなぐさの花」上記詩篇の第六節の末尾に出る。‘un revenez-y de Sumatra’。この「スマトラの忘れな草の花」は、まさにこの大正九(一九二〇)年三月一日発行の『改造』に掲載された「沼」に既に登場している(リンク先は私の古いテクスト)。さらに、「江南游記 三 杭州の一夜(上)」(私のブログ分割版)にも出る。また、私は芥川龍之介が残した現在知られる生涯最後の漢詩(リンク先は私のブログ分割版。注解附き)にも登場していると信じている。因みに、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)で頗る印象的に、この言葉を、龍之介が少年の次男多加志に語る形で示している。私の「蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜」の注で、そこを引用してあるので、是非、読まれたい。そこで僕はこんな風に書いた。

……後の昭和二〇(一九四五)年四月十三日、陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士となっていた芥川多加志は、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦に於いて、胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死した。享年二十二歳。戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた、行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう……

 なお、この「スマトラの忘れなぐさの花」については、西川正二氏の論文「芥川龍之介の植物世界――感応する植物・植物への変容」(『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学』・二〇一二年三月発行・PDFでこちらからダウン・ロード可能)の「7. スマトラの忘れな草の花」で素晴らしい考察が示されてあるので、是非、読まれたい。

「月」筑摩全集類聚版脚注では、「パリの憂鬱」の「月の恵み」(Les Bienfaits de la lune )のことか、とする。

「薄明り」「パリの憂鬱」の‘Le Crépuscule du soir’。「夕暮れの薄明」。

「窓」「パリの憂鬱」の‘Les Fenêtres’。

「ゴオティエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。既出既注

「名高いボオドレエル論」ゴーティエの追悼文と評伝・作家論でもある新版「悪の華」の序文のことか。]

 

 

大正九(一九二〇)年七月八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓 今月のアララギを讀み御病氣の由承知氣になり候まゝこの狀認め候 御容態如何に候や時節がら隨分御大事になされ度候御職業がら御手落ちは無之事と存候へども念の爲申添へ候

この頃のうん氣にて小說家業もつらく僅に夜凉を迎へては息をつき居り候

   押し照れる月夜靜けみ動かざる鐘の上に馬蠅一つ

歌のやうなもの御一笑下され度候 草々

    七月八日       芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「うん氣」表面上は「溫氣」で、「暑さ・蒸し暑さ」であるが、これはわざわざひらがなにしたことが、暗に「運氣」、自然界の現象に現れる人間の運勢。天地・人体を貫いて存在するとされた五運と六気、人間の脈にも現れるとして漢方医に重視されたそれが示唆されているものと読む。]

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