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2021/07/26

譚海 卷之四 常州筑波山幷椎名觀音の事

 

○筑波山は四時登山する也。結城よりのぼるには先(まづ)西の方男體山に登り女體に至る、男體女體の際六七十間ばかりあり、いとちかし。それより東へくだれば椎名の觀音に至る、大伽藍也、すべてかけこし三里也。山はみな巖石にて樹木も又おほし。落かゝる樣なる大石の下を通る、山中に人家なし。日出(いづ)れば麓よりのぼりて見せをひらき、餅あるひはだん子をうる也。水もふもとより汲來(くみきた)るゆゑ一椀五錢づつなり。東海を遙にのぞみて、風景言語同斷也とぞ。

[やぶちゃん注:【二〇二一年七月三十一日削除・改稿】「結城」は旧結城郡であろう。現在の結城郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下注記のないものは同じ)。

「男體山」「女體」国土地理院図のこちらで確認出来る。西側の男体山は標高八百七十一メートル、東側の女体山は八百七十七メートル。両者は直線で七百二十四メートルほど離れている

「六七十間」百九~百二十七メートル。これはそれぞれのピークの計測点を誤っているように思われる。或いは、六百七十間(一キロ百二十八メートル)の誤記かも知れない。高低差を入れて山道を実測すれば、それぐらいにはなりそうだ。現在の整備されたそれでは、登山サイトを見ると、両ピーク間は実測八百五十メートルで、時間にして片道三十分ほどかかるとある。

「椎名の觀音」距離から見ると、茨城県石岡市半田にある観音堂かとも思ったが、大伽藍ではない。嘗て大きな寺となら、この近くに関東八十八ヵ所霊場第三十六番札所の阿彌陀院があるが、観音はなさそうだし、だいたい、孰れも「椎名」という呼称と縁がない。お手上げ。識者の御教授を乞うものである。

【同前追記】いつも情報を指摘して下さるT氏より以下の旨のメールを戴いた(少し手を加えさせて貰った)。

   《引用開始》

上記項の元ネタは、「倭漢三才図会」の巻第六十六の「常陸國」の「筑波山權現」の記載で、国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここに、

   *

筑波山權現 在筑波郡【自椎尾三里】 社領五百石

 祭神 稻村權現   【別當眞言】知足院

 桓武天皇朝德一上人當山開基後万巻上人勸請

 權現鎭守 源家光公再興シ玉フ

 大御堂(ミトウ) 千手觀音 堂塔樓門最美ナリ

   *

と冒頭にあり、「椎名」は「椎尾」の誤写です。

椎尾は、現在の茨城県桜川市真壁町椎尾[やぶちゃん注:ここ。]で、「結城よりのぼるには」とありますが、実際は旧常陸国真壁郡椎尾から「男體山に」椎尾「よりのぼるには」が正しいということになります。

 観音は、以上に出る「知足院大御堂」「千手觀音」となります。知足院は明治の神仏分離で廃寺になった後、昭和五(一九三〇)年に再建されています。ウィキペディアの「筑波山神社」の「中善寺」の項や、坂本正仁氏の論文「近世初期の知足院」[やぶちゃん注:PDF日本印度学仏教学会『学術大会紀要』(二)・第二十六回学術大会・一九七六年]に知足院と幕府初期の関係が書かれています。

   《引用終了》

以上のウィキのリンク先には、『中禅寺(ちゅうぜんじ)は、筑波山神社拝殿』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を主とする一帯に存在した真言宗の無本寺寺院』。『山号は筑波山、院号は知足院(ちそくいん)。本尊は千手観音。また、坂東三十三箇所第25番札所であった』。『法相宗の僧、徳一が筑波山寺を開いたことに始まるとされ、筑波山寺の記載は鎌倉時代の』「元亨釈書」にもあり、『その開基年は、延暦元年』(七八二年)、『延暦年間』(七八二年~八〇六年)、『天長元年』(八二四年)、『天長年間』(八二四年~八三四年)』などと伝える。『この筑波山寺の開山に伴い、筑波山の男女二神は観音を本地仏とする「筑波山両部権現」として祀られるようになったという』。『筑波山は古くより山岳修行の場であったため、その後次第に寺勢が盛んになり、寺名も中禅寺(筑波山知足院中禅寺)と称するようになったとされる』。『中世には日光山(輪王寺)・相模大山(大山寺)・伊豆走湯(伊豆山三所権現)等とともに、関東では有数の修験道の霊場であったといわれ』、『その別当は筑波為氏(明玄)に始まる筑波氏が担った』。『中世の様子は詳らかでないが、江戸時代に入ると』、『幕府の鬼門の祈願所として庇護を受け、寺勢は再び隆盛した』。『徳川家康は』慶長五(一六〇〇)年『に筑波山別当から筑波氏を廃し、新たに宥俊を任命して中興の祖とし、慶長』七年『に神領として』五百石、慶長十五年『には寺領として』五百石を寄進し』ている。また、三代『将軍徳川家光は山頂の二社を修復するとともに、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、日枝・春日・厳島の各境内社を造営し』、五代『将軍徳川綱吉の時には「護持院」と改称され、寺領は』千五百『石を数えた』。『その後も江戸時代を通じて霊山として発展し、門前町も発達していった』が、『明治維新後、廃仏毀釈によって中禅寺の機能は停止し、一部の社殿を除いて堂塔は破壊され、法具も各地に散逸した』が、昭和五(一九三〇)年に『筑波山神社拝殿の南西に真言宗豊山派の寺院として大御堂(おおみどう)が再興され、現在に至っている』とあるここ。また、サイト「神殿大観」の「江戸・護持院」を見ると、『護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。本尊は不動明王。筑波の知足院の別院が起源。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。元禄寺とも。元号寺。真言宗新義派の江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。山号は筑波山、元禄山』と冒頭概説にある。護国寺は東京都文京区大塚のここにある。ウィキの「護国寺」を見ると、『護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した「護持院」(筑波山大御堂の別院)は、新義真言宗僧録であり、新義真言宗で最も格式の高い寺院であった。護持院は明治時代に護国寺に合併』とある。

 T氏の御指摘を受けて、国立国会図書館デジタルコレクションの原本活字本(底本の親本は狩野文庫本と加賀文庫本にこの国立国会図書館本を対照させたもの)を見たが、やはり「椎名」と誤っており、さらに今回さらに発見した「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見ても、「椎尾」ではなく、「椎名」と書かれているように見える(字の崩し方が激しく判読しづらいものの、「尾」よりも「名」の崩しである可能性の方が遙かに高い)ので、T氏の言うように、津村の原本からの写した際の誤写である可能性が高いように思われる(ただ、孰れも始めの「結城」の方もはっきりそう書かれており、「椎尾」ではないので、或いは津村の原本の崩し字自体が判読しづらいものであった可能性もある)。孰れにせよ、T氏の仰る通り、「結城」は「椎尾」の誤りであり、「椎名觀音」は「椎尾」の観音と考えるべきであろう。ここにはまた、今一つなやましいことがあるように思う。それは、筑波山知足院中禅寺は少なくとも現在の椎尾地区とは有意に離れていること、同寺の千手観音が「椎尾観音」と呼ばれていたことは奇異であり、資料でも確認出来ないことである。ともかくも、T氏に心より御礼申し上げるものである。]

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