日本山海名産図会 第二巻 砥礪
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「砥石山(といしやま)」。]
○砥礪(といし)【精(こまか)かなるものを「砥(と)」といひ、粗きものを「礪(れい)」といふ。】
諺に「砥は王城五里を離れず、帝都に隨ひて、產す。」と云ふも、空(そら)ことにも、あらすかし。昔、和刕春日山の奧より、出せし白色の物は、刀劔(かたな)の磨石(あわせと)なりしが、今は堀ることなく、其の跡のみ、殘れり。今は、城州嵳峩邉(へん)・鳴瀧・高尾に出だす物、天下の上品、尤も他に類(たぐ)ひ鮮(すくな)し。是れ、山城・丹波の境(さかい)、原山(はらやま)に產して、内、曇り、又、「淺黄(あさき)」ともいふ。又、丹波の白谷(しろたに[やぶちゃん注:刻字はこう読むにはかなり厳しい。])にも出だせり。是等、ともに、刀劔(かたな)の磨石(あわせと)、或ひは、剃刀(かみそり)其の余(よ)、大工・小工、皆、是れを用ゆ。又、上刕「戸澤砥(とさはと)」は、水を用ひずして、磨(と)くべき上品にて、參河(みかわ)「名倉砥(なくらと)」は淡白色に斑(またら)あり。「越前砥」は俗に、「常慶寺(じやうけんじ[やぶちゃん注:ママ。])」と唱ふるもの、「内曇(うちくもり)」には劣れり。以上、磨石(あはせと)の品(しな)にして、「本草」、是れを「越砥(ゑつと)」と云ふ【いつれも、石に皮あり。山より出だす時は、四方に長く切りて、馬(むま)に四本宛(づゝ)、負(お)ふすを規矩(きく)とす。】。
○「靑砥(あをと)」は、平尾・杣田(そまた)・南村(みなむら)・門前・中村・井手黒(いでのくろ)・湯舩(ゆふね)等(とう)なり。中にも南村・門前は、京より七里ばかり東北にありて、周𢌞(まはり)七里の山なり。丹波に猪倉(いのくら)・佐伯(さいき)・芦野山(あしのやま)・扇谷(あふきたに)・長谷(なかたに)・大淵(おほぶち)・岩谷(いわたに)・宮川(みやかわ)、其の外、品數(ひんすう)、多し。肥前に、天草、豫州に、白赤(しろちや)、等(とう)、すべてを「中砥(ちうと)」とも云う。尤も、各(おのおの)、美𢙣(びあく)の品級(ひんきう)、盡く、弁ずるに遑(いとま)あらず。右、「磨石(あわせと)」・「中砥」ともに、皆、山の圡石に接(まじ)はる物なれば、山口(やまくち)に坑塲(しきあな)を穿ち、深く堀り入りて、所々に窓をひらき、榮螺(さゞゐ)の燈(ともし)を隽(たづさ)へて、石苗(いしのつる)を逐ひ、全(まつた)く金山(きんさん)の礦(まぶ)を採るに等し。石、盡きぬれば、かの搘架木(つかき[やぶちゃん注:「架」の字にはルビがない。「つかかけき」「支架(つかが)け木(ぎ)」で、崩落しないように支えとして配していた木の意か? しかし、この「搘」には後で注するように本来の木製の石研ぎの意がある。])を取り捨てて、其の山を崩(くず)せり。故に、常も、穴中(あなのなか)、崩るべきやうに見へて、恐ろしく、其の職工にあらざる者は、窺がふて、身の毛を立てり。○石質(せきしつ)によりて其工用に充つるものは、下に別記す。中にも、鏡磨(かゞみとぎ)、又、塗物の節(ふし)、磨くには、對馬の「蟲喰砥(むしくひと)」なり。是れ、水に入りては、破割(わる)ゝ物なれば、刀磨(かたなとぎ)には用ひざれども、銀細工の摸溶(いかた)には適用とす。但し、䋄(あみ)の鎭金(いは)[やぶちゃん注:漁網の錘。]などを鑄(い)る溶(かた)には、伊豫の「白砥」を用ゆ 此の「白砥」は、又、一竒品にして、谷中(こくちう)に散ち集まりし石屑(こつば)、久敷(ひさしく)すれば、ともに和合し、再たび、一顆塊(ひとかたまり)の全石(せんせき)となるなり。故に、偶(たまたま)、木(こ)の葉を插(さしはさ)んて、和合し、竒石の「木の葉石」となるもの、多くは、此山に得る所なり。
○礪石(あらと) 肥前の唐津紋口(もんくち)・紀州茅(かや)が中(なか)・神子(みこ)が濱、或ひは、豫刕に出だすものは、石理(いしめ)、やや精(くわ)し。是等(これら)、皆、堀り取るにはあらず、一塊(いつくわい)を山下(やました)へ切り落とし、それを幾千挺(てう)の數(かず)にも頒(わ)かちて、出だす。
○工用(こうよう)は、 刀劔鍛冶(かたなかぢ)に、臺口磨工(たいくちときや)に、靑茅(あをかや)・白馬(しろむま)・茶神子(ちやみこ)・天草・伊豫、又、浄慶寺(じやうけんじ[やぶちゃん注:ママ。漢字表記が前のものと異なるが、同一であろう。]等(とう)、次第に精(くわしき)を經て、猪倉(ゐのくら)・内曇(うちくもり)に合はせて後(のち)、上引(うはひき)をもつて、靑雲の光艷(ほや)を出だす【「上引」とは内曇りの石屑(こつば)なり。但し、「鳴瀧(なるたき)の地地艷(ちつや)[やぶちゃん注:三文字へのルビ。]」ともいひて、猪倉の前に用ゆることあり。是れを「カキ」ともいふ。】○剃刀は、荒磨(あらとき)を、唐津・白馬(しろむま)・靑神(あをみこ)・茶神子(ちやみこ)。天草に抵(あて)て、鳴瀧・高尾等(とう)に、合はせ、用ゆ。○庖丁は、「たばこ庖丁」は、臺口(たいくち)・中砥(なかとき)・平尾(ひらを)・杣田(そまた)等(とう)に磨ぎて、磨石(あは)すには及ばず。また、薄刄(うすば)・菜刀(ながたな)の類(るい)は、荒磨(あらとぎ)は臺口・白馬・靑神子・茶神子・白伊豫、上(うえへ)は引きにて、色付けとす。○錢(せに)は、唐津・神子濱(みこがはま)に磨ぎて、豫刕の赤にて瑳(みが)けり。○大工幷箱細工(はこさいく)・指物(さしもの)等(とう)は、門前(もんせん)・平尾・杣田(そまた)の靑砥にかけて、鳴瀧・高尾等(とう)に磨(あは)す。○料理庖丁は山城の靑。○小刀(こかたな)は南村(みなむら)。○竹細工は天草。○針・毛拔は、荒磨(あらとぎ)を圡佐(どさ)にて、豫州白赤に瑳(みが)く。○形彫(かたほり)は豫刕の白。○紙裁(かみたち)は杣田。大抵、かくのごとし。凡そ工用とする所、硬き物は柔和(やわら)かなるに抵(あ)て、柔軟(やはらか)かなるは硬きに磨(と)くとはいへども、たゞ金質(きんしつ)・石質、相ひ和(くわ)する自然ありて、一概には定めがたし。
[やぶちゃん注:「砥石(といし)」「砥礪(といし)」一般論はウィキの「砥石」を参照されたいが、そこに本邦の『大工の世界では、「穴掘り三年、鋸五年、墨かけ八年、研ぎ一生」と言われるくらいに、納得できる仕事に至るまで』の修業が『長い技術である』とあり、別にウィキには「日本刀研磨」があり、それは『他の刃物研磨と相異する部分が多く、他の刃物の砥師が兼業していることは少なく、また日本刀の砥師が他の刃物を砥ぐこともほとんどなく、独立した分野と言える。また、他の刃物研磨が「切れ味が悪くなった物を砥ぎ直す」と言うことを一番の目的にしているのに対し、日本刀の研磨は、刃を付け斬れるようにすることを前提としつつも、さらにそこから作業を進め、刀身の地鉄、刃文の見所を良く見えるように、また、それを引き出すために砥ぐ、ということを主要な目的としている点が、一番の相違点と言える』として詳しい解説が載るので、そちらも見られたい。また、本条のために、先程、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』を電子化注して公開したので、そちらも参照されたい。また、地名・砥石名の注をするのに甚だ困窮し果てていた最後になって、ギター製作家田中清人氏のサイト「楽器工房 Kiyond」の「天然砥石の歴史」で、この「砥石」の条が、既に電子化され、一部で詳しい注やリンクも施されたものが存在することを知った。現代語訳もされてあり、もっと早く気付くべきであったと思ったが、後の祭り。私の注は、特にそちらを参照することは敢えてやめた(孫引きは本意でないから)ので、不審な箇所はそちらを、是非、読まれたい。
「和刕春日山」現在の奈良県奈良市春日野町にある春日山。春日大社の東側にある標高四百九十七メートルの花山(はなやま)、若しくは西隣りの標高二百八十三メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称。御蓋山を「(春日)前山」・花山を「(春日)奥山」と区別する場合もあり、また、両山および芳山(五百十八メートル)などの連峰の総称としても用いられ、ここは最後の意であろう。
「磨石(あわせと)」この場合は、砥石にぴったりと合わせて研ぐ砥石の意であろう。
「嵳峩」嵯峨に同じ。
「鳴瀧」京都市右京区の鳴滝山(この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。山名は確認出来ない。
「高尾」京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町。古くは「高尾」とも書いた。サイト「天然砥石採掘・販売 砥取家(ととりや)」の「天然砥石について」の解説冒頭に、『京都で産出される天然仕上砥の成り立ちは今から』二億五千万年前、『太平洋赤道付近の深海底に』一『千年に』一『ミリメートルという気の遠くなるような時をかけて降り積もった火山灰や放散虫(海産プランクトンの一種)の遺骸などの堆積物が、地殻変動の圧力や花崗岩マグマの熱により変化し、海洋プレートの移動によって京都付近の地表まで運ばれてきたものとされています。いわば悠久の時と地球のダイナミックな活動がもたらした宝物と言えるでしょう』。『京都天然砥石の発祥は』八百『年以上に遡るとされています。鎌倉時代の高尾』(☜)『の重要文化財・神護寺領絵図では「砥取峯」が図示され、又、日本における最も古い記録では奈良時代の正倉院文書』『で青砥という記述が確認されています』とある。
「原山(はらやま)」現在の京都府南丹市園部町竹井の原山峠付近か。
「淺黄(あさき)」「浅葱」とも呼ぶか。「としのブログ 大工の とし の日々の出来事」の「浅葱という砥石」でその現物(採掘場所は不明)が見られる。
「丹波の白谷」不詳。
『上刕「戸澤砥(とさはと)」』群馬県甘楽(かんら)郡南牧(なんぼく)村砥沢の産か。
『參河(みかわ)「名倉砥(なくらと)」』、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』の「參州名倉」の私の注を参照されたい。
『「越前砥」は俗に、「常慶(しやうけんじ)」と唱ふるもの』後で「浄慶寺(じやうけんじ)」と出るものと同一と採る。個人ブログ「一乗学アカデミー」の「浄慶寺砥石採掘場探訪」に、『一乗城下町の発掘調査では、砂岩系の荒砥から粘板岩系の仕上げ砥まで各種の砥石が出土している』とあって、『第』四十四『次調査出土の砥石未使用品は、「浄慶寺砥石」(江戸時代の』「和漢三才図会」に、『浄教寺町で採掘される刀剣用の中砥としてその名が全国に知られていた)ではないかと考えられている』とあり、サイト「FUKUI MUSEUMS」の「一乗谷の石製品」にも、『一乗谷では谷の奥、浄教寺の砥山(標高』四百六十五メートル)『で産出する石材の中砥が認められ』、『この砥石は江戸時代に越前の產物となっていたようで、全国古今の產物を記した寛永』一五(一六三八)『年成立の俳諧書である「毛吹草」にも「浄慶寺砥」の名が見え』、また、正徳二(一七一二)年『成立の類書(百科事典)である『「「和漢三才図会」では、刀剣の砥石として「越前浄土慶寺村の砥石」が全国で三番目の評価が与えられたように、全国的にも優れた産地として知られていたようで』ある、とある。以上の地名のブレからも私は同じものと考えてよいと断ずるものである(ただ、「慶」を「けん」と読んで作者が平気でいる点が解せないのだが。或いは彫り師の誤りかも知れない。「ひ・い・ん」の崩しは、所謂、「烏焉馬の誤り」のそれにごく近いと思っている)。国土地理院図で見ると、「砥山」はここにあり、グーグル・マップ・データ(以下同じ)で見ると、地名の「浄教寺」はその北一帯に広がって現存し、この地区はまさしく一乗谷の奥であり、「一乗滝」もあり、また、寺は「光教寺」というのが現存することが判る(寺院と地名を同じにすることを憚る習慣は広く日本の各地で見られるから、奇異ではない)。既に電子化注した『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』も参照されたい。
「内曇(うちくもり)」『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』の『山州嵯峨の「内曇(うちぐもり)」』の注で示した通り、砥石の一種。京都市右京区の鳴滝山(この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。山名は確認出来ない)から産出する。黄白色に紫色の模様がある。刀剣を砥ぐために用いる。鳴滝砥。
「規矩(きく)」取り決めた仕来たり。
「靑砥(あをと)」『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』に「庖丁刀(ほうちやう)砥」「青砥(あほと)」とするもの。色が青く、肌理(きめ)の細かい粘板岩で作った砥石。中研ぎに用いる。
「平尾」特定不能。
「杣田(そまた)」京都府相楽郡和束町(わづかちょう)杣田(そまた)。
「南村(みなむら)」「門前」「南村・門前は、京より七里ばかり東北にありて」とあるが、特定不能。
「中村」特定不能。
「井手黒(いでのくろ)」この地名では見当たらない。これは商品名を誤って混入させたものかも知れないが、「井手」では、それらしい砥石を産出した場所もないではないが、やはり特定不能である。
「湯舩(ゆふね)」特定不能。
「猪倉(いのくら)」京都府亀岡市宮前町猪倉か。
「佐伯(さいき)」京都府亀岡市稗田野町佐伯(さえき)か。
「芦野山(あしのやま)」不詳。
「扇谷(あふきたに)」不詳。京都府京丹後市峰山町丹波に扇谷遺跡というのはある。
「長谷(なかたに)」不詳。兵庫県丹波市春日町国領に長谷大池(ながたにおおいけ)という池はある。
「大淵(おほぶち)」不詳。兵庫県丹波篠山市大渕はある。
「岩谷(いわたに)」不詳。兵庫県丹波篠山市藤岡奥に岩谷城跡はある。
「宮川(みやかわ)」不詳。兵庫県神戸市長田区宮川町はあるが、位置的に違うか。
「榮螺(さゞゐ)の燈(ともし)」栄螺灯(さざえび)・栄螺の灯(ともしび)。昔、金山などの坑道で坑内に持って入った灯火。一説にサザエの貝殻に油を入れて火を灯すものという。
「石苗(いしのつる)」意味不詳。
「礦(まぶ)」地中から掘りだしたままの金属の原石を指す語。
「搘架木(つかき)」本文内に注した通りで、意味不明。そもそもが、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』で語られ、そこで注したように、この「搘」とは、元、刀剣等を磨くための木(樹皮?)を指したもので、ここでの謂いでは、まるで意味が判らない。
『對馬の「蟲喰砥(むしくひと)」』小学館「日本国語大辞典」に、長崎県対馬に産する剃刀砥(かみそりど)・対馬砥の異称とある。中世から使用されていたようである。
「摸溶(いかた)」鋳型と同義か。
『伊豫の「白砥」』グーグル画像検索「伊予 白砥」をリンクさせておく。見事に白い砥石である。
「全石(せんせき)」完全な石。
「木の葉石」広義には、現在、植物の葉化石、又は、石灰華や珪華(けいか)のような温泉沈殿物中の葉化石様のものを指す。一般には、泥や砂或いは火山灰に木の葉が埋もれて固まった植物化石のことをいう場合が多い。木の葉の化石は、嘗ての湖・潟・内湾に堆積した地層から発見されることが多い。栃木県那須塩原市の第四紀(二百五十八万八千年前から現在までの期間)の湖成層から産するものが有名である。
「肥前の唐津紋口(もんくち)」唐津の地名では確認出来ない。
「紀州茅(かや)が中(なか)」和歌山の地名では確認出来ない。
「臺口磨工(たいくちときや)」以下の本文を見るに、「臺口」というのは、少なくとも、狭義には「研ぎの最初の工程」を言うものらしい。
「靑茅(あをかや)・白馬(しろむま)・茶神子(ちやみこ)・天草・伊豫」これらは多くの異なった砥石の呼称である。以下にも再度出るが、いちいち調べる気はない。悪しからず。
「石屑(こつば)」石木端(いしこっぱ・いしごっぱ)。石の刻み屑(くず)。
「たばこ庖丁」煙草の葉を刻むための専用庖丁。「JT」公式サイト内の『「細刻みたばこ」作りの道具たち』に現物写真も載り、詳しい。そこに、『たばこが伝わってきた当初、刻みたばこは「たばこ包丁」と呼ばれる専用の刃物を使って、手刻みで葉たばこを刻んで作っていました。使用されたたばこ包丁は、当初は葉たばことともに輸入された舶来品。しかし、江戸時代初期』(十七世紀前半)『を過ぎ、国内で葉たばこの栽培や喫煙風習が広まるにつれ、各地で国産のたばこ包丁が製造されるようになります』。『また、こうした喫煙風習の広まりにつれ、葉たばこを刻んで売る「刻みたばこ屋」も全国で見られるようになり、より細く刻む技術も磨かれていったのです』とある。]