ブログ1,570,000アクセス突破記念 梅崎春生 朽木
[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月発行の『文学 季刊』第五号に初出、翌年八月刊の講談社「飢ゑの季節」に所収された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。
傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本未明、1,570,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年7月30日 藪野直史】]
朽 木
……ときどき誰かが私にはなしかける。それはあつい膜を隔てたように、意味も内容もわかちない。遠くはるかな国から流れてくる声のようだ。しかしその度に私はうなずいたり、唇のはしであいづちをうったりしながら、そしてまたとろとろと眠りに入ってしまう。何か堅くつめたいものが、始終私の脇腹を押している。掌を額にあて、それによりかかって私は眠っているらしい。身じろぐたびにどこかで堅く重いものが軋(きし)るらしく、ぐるぐる同心円を描きながら次第に私はうすらあかりに浮びあがって来る。深い霧のなかからぼんやり物の形が現われるような風で、昏迷におちていた私の意識も、すこしずつ黒白をはっきりし始めてくるらしかった。
抵抗を感じながらけだるく開いた瞼のあいだで、外象がそれぞれぼんやりと形をとりはじめた。掌にあてていた顔の半分がねばっこく濡れていて、そして気がつくと私は妙な車のようなものに身体を曲げるようにして腰かけていた。
トロッコから三方の外蓋をとり外したような形で、くろずんだいろのその手車は、鉄の把手(とって)のついた外蓋を一方だけ残していた。脇腹をつめたく押していたのはこれである。身体を動かすたびに軋るのは、腰かけた台をささえる古びた車輪であるらしい。眼の前から混凝土(コンクリート)の床がぬめぬめとひろがり、電燈のひかりの及ぶもっともっとむこうまで、細長く帯のように連なっているらしい。彼方はふかい闇である。闇をながい天蓋がささえている。その下に梱包(こんぽう)がところどころ積んであるのを見れぱ、これは駅の歩廊にまぎれもなかった。
(そうだ)と、とつぜん私は頭のすみで憶い出した。(あれから電車に乗って、そのまま眠りこんだらしい。起されたのが此の終点で、おれはあの長い歩廊を、ぶったおれそうになるのを耐えながら、此処まで歩いて来たのだ)
口の中に酒精のにおいがのこっていて、からだの内側は熱っぽく乾いていた。先刻こちらにあるいてきながら、もう戻りの電車は出ないのかと訊ねたら、帚(ほうき)をもって歩廊にいた若い駅員がじろりと私を見返して、終電はとっくに出たよ、と無愛想に答えたのだった。私を乗せて来た空の電車は、車庫に入るらしく、人気の絶えた車内にあかあかと燈をともして、そのとき私のそばをゆるゆると逆行していた。吊皮だけが同じように揺れているのが、へんに印象的だった。そして私はぼんやり眼をひらいて遠くをながめていたのだ。改札のちかく荷受台のところが鍵の手になっていて、そしてそこに五六人のうずくまったちいさな人影を、私の視線は茫漠ととらえていた。ここで一夜をあかすとすれば、やはり風とひかりを避けたあのような片すみが適当なのだと、酔いでみだれた頭で私はしきりに合点した。それからがたぴしよろめきながら、私はここまであるいて来たのだ。ずいぶん長い時間がかかったような気がする。そして逆行する電車のおとも、何時までも何時までもつづいていたような気がする。それから此の手車にこしをおろして、隣にいる男となにか話しあったような記憶がある。男の話をききながら、うとうとと私はねむりこんだのだろう。「眼が覚めたかい」そのとき隣から声がした。「煙草もってたら一本お呉れよ」
軽く舌のさきで流すような口調である。この声と眠る前まで私ははなしこんでいたのだった。そうだ。それは船や波止場や熱い風のことを話していたのだ。だんだんはっきりしてくる。ポケットを探りながら私はからだをその男の方にむきかえた。車輪がギイと鳴った。
「何時ごろだろうな」
「さあ」男は軽くあくびをした。「もうそろそろ夜明けだろう」
押しつぶれて板のようになった箱をひらくと、平たくなった莨(たばこ)の棒が四五ほん、麻雀の籌馬(チューマ)みたいにならんでいた。マッチをすって火をつけ、しばらくだまって煙を吸った。ざらざらになった舌に、煙はへんないやな味がした。男は胸のひらいた派手ないろの襯衣(シャツ)をきている。鼻のしゃくれた浅黒い顔をしている。しだいに記億がもどってくる。――[やぶちゃん注:「籌馬(チューマ)」読み方は「チョーマ」が一般的のようだ。麻雀で用いる点棒のこと。]
鍵の手になった白い壁にそって、四五人がよりかかってうずくまっている。そろって膝な抱き、頭をふかく埋めている。荷受台の下にもひとり横になっている。ほとんどが襤褸(ぼろ)のかたまりだ。裾から見える両脚は、まるで牛蒡(ごぼう)のようだ。煙をふかぶかと吸いこみながら、私は暫くそれをながめていた。酔いがまだからだをみたしている。部分部分の感覚は正気にちかづいているのに、ぜんたいとしてはまだぶよぶよと呆けているのだ。前の夜からの記憶がさだかでないのが不安なので、頭や皮膚にのこる後感を心の中で手さぐりしていると、なにか幽(かす)かにつきあたるものがあった。それはそして記憶の形をなさないままながれてしまう。[やぶちゃん注:「後感」「こうかん」と読んでいるか。ある体験の後の感覚という意味であることは分かるが、私は使ったことがないし、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。]
「で、それからどうしたね」
なんだかそれではっきりしたようなつもりになって、私は男に話しかけた。そして短くなった莨をしきりに吸いこんだ。煙の影が白い壁にうすくみだれる。男は莨のすいさしを指で器用にはじきとばした。混凝土の床で赤い火は吸いこまれるように消えてしまう。
「それで出撃というわけさ」
男は満足したような落ちついた声で答えた。
「擬装だというのでね、馬鹿な話さ、マストから甲板から木の枝をうえてよ。島にみせかけようというんだ。だいいち島が動くかい。波止場をはなれて一時間たらずさ。まだ港が見えていたんだ。そこに空から飛んできたというわけなんだ」
「何という船だったっけ」
「そら、海二十九さ」
そうだ。この男は第二十九号海防艦の乗組兵だったのだ。そう私は思いだした。思いだしたつもりになっただけで、他への聯想(れんそう)はなにもうかんでこない。[やぶちゃん注:「第二十九号海防艦」「海防艦」は日本海軍の沿岸防御用の軍艦のこと。小型で喫水の浅い小戦艦や、大型砲艦のようなものもある。「第二十九号」のそれは、昭和一九(一九四四)年八月八日竣工(日本鋼管製)で、昭和二十年五月二十八日、触雷して航行不能となり、戦後の昭和二十二年、佐世保で解体された(ウィキの「丙型海防艦」に拠る)。以下の展開は、しかし、事実に基づいていない。]
「おれは高射機銃の第一射手だろう。かまえて見ていたんだ。ゆっくり旋回する。丁度(ちょうど)真上をゆきすぎる。一回目はおとさないんだ。いつもあいつはそうなんだ。二回目がこわいのだ。おれはそれを知っていたんだ。ぐるっと向うの方まで行って方向を変えようとする。おれはそのとき身体がつめたくなるような気がして、顔をあげてあたりを見廻したんだ。甲板を右往左往して叫んでいる。手すりのむこうは海だわな。おっそろしく青い海だ。どこまでもどこまでも拡がっている。みんなは気ちがいのような眼になって、飛行機をながめているんだ。大きく旋回して機首をこちらに向けた。それから――おれはどうしたと思う」
舌をまるめるようにして軽やかにわらった。
「おれはぱっと走りだしたさ。手すりをこえるとき、甲板士官がなにか大声でさけんだっけ。何とさげんだかわからない。まるでしめころされる女みたいな声だった。何かに二三度ぶつかりながらおれは落ちて行った。海面でぴしゃっと身体をたたかれて、それから水飴みたいにねばっこい水の中を、おれはむちゃくちゃにもがいたさ。スクリュウに巻きこまれては大変だからな。口から鼻から塩水がはいる。苦しくてしかたがないのに、いくらあばれても海面に浮びあがらないのだ。どのくらいもぐっていたのか知らないが、ほっとあたりが明るくなって、ぽっかりおれは浮きあがったという訳なんだ。おれは無茶苦茶に空気をすいこんだよ。見るとおどろいたねえ、二百米位先で、海二十九がそのとき爆発したところなんだ。只一発で命中したんだ。あれじゃあ乗組員も逃げる間もありやしない。皆こなごなだろう。またたく間に焰のかたまりが沈んでしまって、旋回していた飛行機も行っちまって、それからへんにしんとしちゃってねえ。日がぎらぎら照っているし、海は鏡みたいに静かだし、おれは背中を下にしてぼんやり浮いていたんだが、顔のところが変な感じなんで、ふと手をやってみたら、真紅な血だ。びっくりしてねえ、それが何でもありやしない。ただの鼻血だったんだ」
男は鼻をちょっとすすって、また軽やかなわらい声をたてた。
「それ以来、鼻血がでる癖がついて仕様がねえや」
「それじゃお前」視線を壁の方にうつしながら私はこたえた。「敵前逃亡としうわけじゃないか」
「そんなことになるかな」と男はまた短くわらった。
「あとで大発にひろわれたとき、ごまかすのにほんとに骨折ったよ。皆死んじゃっているのに、海に浮んでたのはおれだけだからな。しかもかすり傷ひとつ負ってねえ。爆風で吹きとばされたとかなんとかねえ」[やぶちゃん注:「大発」大発動艇(だいはつどうてい)の通称。一九二〇年代中期から一九三〇年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船の名称が使用されていた(ウィキの「大発動艇」に拠った)。]
壁によりかかって眠っている四五人のひとりは女であった。九月だというのに、まだ白い浴衣(ゆかた)を着ている。顔をうずめているから顔は判らないが、豊かな体つきであった。頭をうずめてかるく割った膝の、もっとおくは白瓜のような腿のいろで、私が眺めているのはそれであった。その女によりかかるようにして寝ているのは、十四五になるらしい少年である。これは顔を埋めていない。手足の割に大きな顔を、女の肩と壁に半々にもたせて、白眼をわずか開いて眠っているらしいのが、なにか脅えたように突然からだを動かして、くるしそうな声で何か叫んだ。その声に自分でびっくりしたらしく、ごそごそと起きなおった。
「あにき。あにき」
今度ははっきりとそう言った。そう言いながら手を前に伸ばして、空間を手さぐるような形をした。
「ふん。ねぼけてら」
隣の男がひくい声で呟いた。そして少年は意識をとりもどしたらしい。ぼんやり開いた瞳にしだいに暗くずるそうな光がもどってきて、しきりに背中を壁にこすりつけた。そのたびに女の体が邪険にゆれて、女は少年の方からしりぞくように肩をずらし、ゆっくり頭をもたげた。
「なぜそんなに動くのよ。なぜあたしを起したりするのよ」
「ナマ言ってらあ」[やぶちゃん注:「ナマ」「生意気」の略。]
少年はいやしく口をゆがめて、はぎすてるように言った。それは何か憎しみをおびていて、そのくせ少年の視線は弱々しく女から外れた。女の眼はそれを追って不安定にうごくらしかった。ちょっと見るとととのった感じの顔だが、視線に光がなくて、口辺にうかんでいるのは痴呆めいたうすわらいであった。
「こいつ、馬鹿なんだよ。兄貴」
少年は私達の方にむかってそんなことを言った。ずるそうな口調であった。隣の男がふと興味を感じたように女に話しかけた。
「ここに長いこといるのかい」
女はびっくりした顔になったが、すぐもとの放心した表情になって、抑揚のない低い声でこたえた。
「――そんなに長くはないわ。ずっと弱ってたからね。そら、お母さんが死んじゃったでしょう。着物だってこれっぎり、あとは屋根うらにかくしといたんだけれど、お祭りの晩におまわりさんが来てね。ねえ、あんたおまわりさん?」
「おれはおまわりじゃないよ」
「そう」女は急に安堵したような表情になった。「それで安心したわ。高い塀(へい)が立っててね、向日葵(ひまわり)なんかが咲いているのよ。窓から首を出して歌なんかをうたってるの。おなかがとってもすいたのよ。泣きながら線路づたいに走ったわ。八王子に兄さんがいるからね。食べるものが芋(いも)でしょう。芋だって高いのよ。だから呉れというの。そうするといくらでも持ってけとくるでしょう。そして頰ぺたなんかくっつけて来るの。あんた食べるものなにか持ってない?」
「ちょっとおかしいな」男は誰にともなくそう言った。
「おれは梨をもっているんだが、こいつは商売ものだよ」
「売りに行くのかね」と暫くして私が聞いた。
「そうだよ」男は手を伸ばして、足もとにおいたこぶこぶにふくらんだ袋を撫でるようにした。「ゆうべは一足ちがいで終電車をにがした」
「梨ひとつ呉れない?」女が突然口をはさんできた。「あたしとてもひもじいのよ」
男はそれに返事をしなかった。なにか考えこんでいる風(ふう)だった。
やがて沈んだような声になってぽつんと私に問いかけてきた。
「昨夜は酔っぱらっての乗越しかい」
「まあそんなものだ」
「どこで飲んだんだね」
昨夜のことを考えるのは苦痛なので、私は黙って女の方に視線をうつした。それを感じたらしく女は指で膝前をかき合せるようにした。私はそのとき兇暴な眼付をしていたのかも知れなかった。女は肩をすくめるようにして身ぶるいをしたらしい。その側で少年はふたたびうとうとと眠りかかっていた。隣で男が軽くあくびをした。
「さあ、一眠りすれば夜明けだい」
女の白い脚のいろが残像のようにのこっていて、ふしぎな嫉妬がしだいに私の胸をいっぱいにしはじめていたのである。
(ふじ子もあんな白い肌を写真にとられたにちがいないのだ!)
男は身体をかがめて袋の紐(ひも)をしっかりむすびなおしながら、斜にちらと私の顔を見上げた。陰翳(いんえい)をふくんだ妙な笑いが頰をかすめるようにはしった。
「眠ってるうちにかっぱらわれると大変だからな。こいつらはほんとにやくざな奴たちだからな」
「ひとつ分けてやれよ」と私はそっけなく言った。
「いやだよ」男は結びあげた袋を脚ではさみ、おおいかぶさるように眠る姿勢になった。
「やったって何にもなりゃしねえ。そんなことをおれはしねえたちなんだ」
女は梨のことなどすっかり忘れはてた顔になって、ぼんやり遠くの方をながめているらしかった。よごれた白い壁が女の背にあった。乏しい光のなかで、それはさまざまのしみを浮ぺていた。何故白い壁には、人間がかんがえつかないような形のしみや模様が、いつのまにかできてしまうのだろう。ふじ子の部屋の階段から登り口のところにも、白いよごれた壁があった。それに赤いしみと青いしみがついていた。赤いインクと青いインクのしみであった。それがふしぎに、赤いのは女の立った形に、青いのは男の立った形に酷似していた。それらはむき合って立っていた。どうしてこんな形にインクをこぼしてしまったのだろう。ふじ子の部屋に泊るたびに、私は枕に顎(あご)をのせて、此の壁の像に見入っていた。昨夜もそうだった。私は赤い女のレインコオトや、青い男の鳥打帽までも、はっきりその輪郭から感じとっていた。それはふたつとも、言いようもなく感傷的なポオズだった。私がそれに見入っている心の感じから言えば、私はあるかすかな嫌悪をおさえつけているようであった。その輪郭はうすれて、むしろ色褪せた感じであった。ふじ子が誤ってふりかけたインクの筈ではなかった。幾代も幾代も前のこの部屋の住人がこぼした跡にちがいなかった。色はぼんやり古びていて、リトマス試験紙のいろを聯想させた。その色あいに私が嫌悪をそそられているのかも知れなかった。その壁つづきにふじ子のまずしい家財があった。ふるぼけてがたがたになった食器棚や、壁にかけたくすんだ色の着物。ふじ子はまだ若いのに、何故こんな地味なものを着るのか。派手な着物は売りつくして、死んだ母親のものを着ているのに相違なかった。着物ひとつ買ってやれないという程度でなく、着物を売食いしているのをすら、手を束ねて私は眺めている他はなかったのだ。私は収入の乏しい小役人だったし、ふじ子はある個人商会の女給仕だった。二十四にもなって女給仕だなんて。ときに私がいぎどおろしく、また惨めな気持にそそられてこんなことを口走ると、ふじ子は真面目なかおになってそれをさえぎった。
「だってあたし、小学校も卒業していないのよ。みんなみんな良い人なのよ」
ふじ子の肌はしろくて熱かった。私が泊ると翌朝は必ず、階下の家主から厭味を言われるということであった。それをふじ子は辛がった。
「でも一緒になったら、あたしたちもっと不幸になるわね。今のままが一番いいのよ」
だから時期が来るまで待てぱいいという私の言葉を、ふじ子はうたがわず信じていた。ふじ子は私を信じているだけではなかった。世の中にあるものをすぺて信じていた。また将来にきっと暮し良い時代が来て、そこで人々の善意にかこまれて生きている自分を空想していた。その空想はふじ子にとっては言わば確信であるようだった。だからふじ子のいつもの表情に暗いかげはなかった。ただ金に困って何か着物でも売りたいと私に相談したりするときだけ、ふじ子の顔には暗く翳(かげ)がさした。私がだまって腕をくんでいると、ふじ子はあわてたように言葉をつぐのだ。
「いいのよ。いいのよ。私なんかもうこんな派手なのは似合わないのよ。今売ってしまったって、また金が出来たとき買いもどせばいいわね」
そしてそれが金にかわると、昔五十円で拵(こしら)えたのが、九百円にも買ってくれたと、びっくりしたように私に話すのだ。ふじ子はもうその喜びをかくすことが出来ない。マアケットの古着屋のおじさんがどんなに好意にあふれた善良な人物であったかを、私に判らせようとしてふじ子はどんなに言葉をつくすことか。そしてだんだん私が不機嫌になってくるのを見て、ふじ子はわけがわからない途惑(とまど)った表情になって、かなしそうに私を見上げながら言うのだ。
「ではこれで御馳走を買って来て食べましょうね」
そして私達はしみのある壁にふたつの影法師を投げながら、うすぐらい燈の下で、貧しい食事をしたためる。ふじ子はおいしそうにたべる。どんなものでも私と一緒にたベるときはふじ子はおいしいというのだ。ふじ子の顔は色がしろくて円い。頰がふっくらしている。食事をするときはなおのことそうだ。会社に出入するある「お客さん」が「空飛ぶ円盤」という綽名(あだな)をつけたと言って、ふじ子は時々思い出して笑うのである。ふじ子の写真をとったのはそのお客であった。それを昨夜私はふじ子を間いつめて知ったのだった。[やぶちゃん注:「空飛ぶ円盤」今は知らぬ者とてないが、実はこれは出来立てほやほやの新語であったのである。この半年足らず前の一九四七年六月二十四日、アメリカ人実業家ケネス・アルバート・アーノルド(Kenneth Albert Arnold 一九一五年~ 一九八四年)が、アメリカ西海岸のワシントン州のレーニア山附近上空を自家用機(単発プロペラ機)で飛行中、当時としては信じられないほどの高速で、編隊飛行をする九つの「三日月形」の奇体な物体を目撃したというのが始まりである。彼は新聞記者の取材を受けた際、「水面を ‘saucer’(受け皿)が跳ねながら飛んでゆくような独特の飛び方をしていた」(所謂、水面に石を飛ばして遊「水切り」のような運動を想起するとよい)と語ったことから、‘flying saucer’ という名称が独り歩きした結果、生まれた語で、その後に大発生するそれが、何故か円盤になってしまうという点で都市伝説の形成として面白いのである。因みに、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人でやらかしていた人間である。]
「でもあの人は芸術家なのよ。ほんとうに芸術的な立場から写真をとりたいと言ったのよ」
着物をすっかり脱いで撮らせたのかと、詰問しようとする声調がふいに力弱くなるのを感じながら私が言ったとき、ふじ子は子供のように素直にうなずいた。
「上半身だけじゃ金を払えないと言うんですもの」
私が黙っていると、やがてふじ子も悲しそうに黙ってしまった。ふじ子の給料が自分の口をやしなうにも足りないこと、段々売りに出すものも底をついてきたこと、それらのことを私は身体の熱くなって米るような衝動に耐えながら考えていた。そのことも私の責任であるのかも知れなかったが、私としてはどうするすべもなしことだった。ふじ子がつとめている会社は、ある新興の個人店であった。そのことだけで私はその会社の内容が想像出来た。したがってそこに出入する客というのも、派手な洋服やぞろりとした和服をきた卑しげな顔つきの男たちを、私は想像のなかにうかべていた。ふじ子の身体の写真をとった男というのも、やはりその類の男であるに違いなかった。その男のふじ子に対する、舐(な)めるような興味や嗜欲(しよく)をかんがえたとき、私は憤怒に似た暗く濁った亢奮(こうふん)が胸のなかに湧きあがって来るのを感じていた。やがてふじ子はふと思いついたように呟いた。
「金をもらったから、これで御馳走買って来ましょうね」
買物包みをもってもどってきたころは、ふじ子はすっかり明るさを取りもどしていて、自分の肌を見せたことなどすっかり忘れはてた風だった。そしていそがしく膳ごしらえをした。押入の中からビイル瓶につめた液体を膳の上に立てた。これもそのお客が帰りに呉れたというものだった。
「これ本物のウィスキイよ、本物だっていう話なのよ」
膳の上にごたごたならべられたのは、マアケットで売っている一個五円のコロッケや、黄色いわさび漬や、佃煮(つくだに)や、昨日のものと思われる揚物(あげもの)などであった。それらは膳いっぱいにひろがっていた。膳の上にのりきれない程であった。ふちの欠けた湯呑にウィスキイを注いだ。口にふくむとへんに舌ざわりが刺激的で、酒精のにおいがするどく口腔の中にひろがった。ふじ子は膳の上のものに箸を迷わしながら、喜びにあふれたような声でひとりごとのように言った。
「まあすてき。こんな豊富な夕食は天皇さまだって召し上らないわね」
そうだ、ふじ子。ソロモンの王様だって、こんなに高価な代償をはらった豪華な食事はとらなかっただろう。何故かはげしい羨望の念をふじ子にたいして感じながら、その瞬間私はそう胸のなかで呟いていた。ふじ子は円い顔をたのしそうにほころばせて、自分も湯呑のウィスキイを少し舐めたりした。
「まあ、本物ね。此のウィスキイはほんとに本物だわ」
そして私はもはや酔っていたのだ。飲んで飲んで酔いたおれたい気持だけが、しきりに私を駆っていた。写真機の前にたったふじ子の裸のすがたが、酔った頭の中をしきりに去来した。羽毛をむしられた鶏を私は思い浮べていた。やがて私はふじ子に、どんな風の部屋だったとか、どんな風に着物を脱いだとか、そのとき男はどうしたかとか、そんなことをくどくどと執拗(しつよう)に問いただし始めていたのだ。――
深夜の此の駅の白い壁を、そして今私は眺めているのであった。少年も女も、またもとの姿勢にかえって、しんしんと眠りに入るらしかった。隣の男もからだを伏せて、もう微かないびきを立てはじめるらしい。眼を覚ましているのは私だけであった。駅の構内はがらんと静まっていて、ときどぎ風のおとがした。歩廊の天蓋に点々とともる燈から、光の輪がつぎつぎならんでおちていて、その輪のひとつずつを順次に、塵埃(じんあい)がかろやかに騰(のぼ)った。風の速度がそれで判った。脚をふと手車の下にずらすと、靴の踵(かかと)がなにかぶよぶよしたものに触れた。車輪がぎいぎいと鳴った。身体を曲げて手車のしたをのぞきこんだ。
顔の長い小柄な犬が手車のしたにねそべっていた。
私の気配をかんじたのか薄眼をあけてこちらをちらと見たらしい。かすかに身動きしてまたふかぶかと瞼をとじた。曲げた脚が骨のままに細く、皮の毛は地図を描いたように処々すりきれていた。垂れた耳には毛は一本もなくて、まるでブリキみたいに堅そうな感じであった。うすくらがりの中で、その灰色の犬の形を私はまざまざと見ていたのであった。頭をさかさに垂れているせいで、顔中がはじけるように熱苦しくなって来る。しばらくして私は顔をあげた。もとの風景がまた眼の前にあった。頭に一斉に血がのぼったせいか、風物があからみを帯びていて、吹いてゆく風のおとが耳鳴りにまじって、へんに倒錯した感じであった。そして冷気がするどくせまって来た。
まだ夜明けは遠いらしい。此のしずかさの中で私ひとりが目覚めているということ、それが次第に私にはおそろしいことに思われ出した。手車の外蓋に腕をおき、しめって冷たくなった服の袖に顔をおしあて、やがてこみあげてくる混乱した想念を、私はひとつひとつ押しつぶしながら、麻をひっかきまわしたような断続した悪夢のなかに、うつつとも知れず引入れられて行った。……
しきりにぎいぎいと車輪がきしむ。重くつめたく執拗にその音は、ぼんやりと意識のなかにはいって来る。昏迷した意識で私は、あのごわごわした犬の耳の感じを、嘔(は)きたいような感じと共に思い浮べていた。そんなに手車を押したら、あの犬は轢(ひ)かれてしまうではないか。薄明のなかで私は懸命に気をもんでいる。意識が混濁したままするどく尖って、しきりにそこに走るらしい。あの冷たく重い鉄輪に轢殺(れきさつ)される感覚を、私は疲労した肉体のどこかにまざまざと感じとりながら、そこから脱出しようと必死に身もだえしている。ある現実的な気配がそのあつい腰をやぶって、いきなり皮膚を冷たくする。私はそしてどろどろした沼の中から浮き上るようにして目が覚めた。
女が私の前にいた。
私に横姿をみせて、白い浴衣の脇あけから軟かそうな皮膚が鳥肌になっていた。女の手がかすかに、そして素早く動いている。手のさきは、隣の男の果物袋の口に触れているのだ。紐がずるずると解かれる。女の手が男を目覚まさないように、ふしぎなくねり方をしながら、袋の中に入って行く。淡黄色のすべすべした大粒の梨が、ゆっくり引出されて来る。そしてまたひとつ。その梨の肌になにか電燈の光とちがう白っぽい光があると思ったら、天蓋のかなたに夜がしらじらと明けはなつらしかった。女はぎょっとしたように身をすくめた。眠っている男が何か言いながら身体をうごかしたからである。女はそしてゆっくり私の前をはなれた。男はそれきり動かない、幽(かす)かないびきがふたたび始まる。
女はもとの場所にもどって腰をおろした。胸をはだけて梨を入れ、両手でかたく襟(えり)をあわせるようなしぐさをする。安堵したような笑いが頬にうかぶ。あたりを見廻した視線が私にとまった。襟をおさえた女の指にふと力が入ったらしいが、そのくせ顔にはほのぼのと笑みをたたえて私をみつめて来る。その側で少年が薄眼をあけたような眠り方で壁によりかかっていた。
(あの笑いなんだな!)と何故ともなく私はいつまでも考えている。考えているだけで何も判りはしないのだ。ただ心の内側をなで廻しているだけだ。女はすでに私から視線かそらして、ぼんやりあちこちを眺めまわしているのに、私は何故か放っておけないような気がして、じっと女に視線をとどめている。口の中がねばねばして気持がわるい。酔いの醒めぎわのあの厭な悪感が、絶えず背筋をはいまわっている。歩廊にともった燈がしだいに光をうすれはじめ、遠くの森や家がくろく浮きあがって来た。女のすがたはしろっぽい暁方のひかりの中で、夜の感じを失って、だんだん生気をとりもどしてくるらしい。
隣でとつぜん男が唸り出す。しぼりだすような沈欝な声で、ちょっととぎれてはまた呻きはじめる。袋を脚ではさんだまま、上半身をそれにうつむけているのだが、手指が袋の外側を搔くようにしながら、段々苦しそうな声が高まってくる。額が汗でびっしょりだ。うつむいた顔に眉根をよせて、海防艦二十九号の旧乗組員は暗い翳(かげ)を顔いっぱいにたたえて、しきりに袋をかきむしる。呻声(うめきごえ)はひとをおびやかすような響きを帯びて、しだいに切迫して来る。女はふしぎそうな面もちでそれを眺めている。私はだんだん耐えがたくなって来る。少年やその他の連中も眼をさますらしい。欠伸(あくび)の声がする。
「おい。おい」
肩に手をかけて私はゆさぶった。男の首ががくんと揺れて、はっとしたように顔をあげた。表情を失った放心した眼が私におちる。やがてその眼にゆっくりと光が戻ってきた。
「……夢をみていた」
吐息と一緒に男はしばらくしてそんな言葉をはきだした。まだ夢が身体にのこっているような具合で、男は派手な襯衣(シャツ)の袖をしきりにひっぱった。
「ずいぶん苦しそうだったよ」
「……くるしかったなあ。ほんとにくるしかった。海の中におっこちてさ――海ん中におっこちて、それから無茶苦茶にもがいたんだが、なんだか海藻みたいなものにからんでさ、脚や手にべたべたまきついて来てさ、どんなにしても浮き上らねえ。呼吸がくるしかったなあ。ほんとにほんとにくるしかった」
男はだんだん調子を取りもどしてくる。額にばらばら乱れ落ちた髪を乱暴にかきあげた。
「うん、そうだ」舌を丸めるような元の口調になる。「さっきお前にあんな話をしたからだ。それできっと思い出したんだ」
「そう。そんなことはよくあるよ」
「――まったくそっくりだった。死ぬかと思った位だ」
男はゆっくり顔をうごかして遠くを眺める眼つきになった。
「夜があけたんだなあ。もう始発がやってくるよ」
「で、そんな夢をときどき見るのかい」肩にのしかかるにぶい苦痛を押えながら、暫くして私が聞いた。
「え。ああ夢のことか」男は手巾(ハンカチ)を出して首筋のへんを拭いた。「あまり見ねえな。見てもすぐ忘れてしまう」
「戦友のことなど思い出さないかい」
「戦友って軍隊のか」
「海二十九に乗ってた連中だよ」
「うん」急に冷淡な口調になって男はうなずいた。「思い出しもしねえな。思い出そうにも名前なんか忘れてしまった。ああ、あの甲板士官は何て名前だったっけ。四国の男だと言ってたが――」
夜明けの光に浮き上った男の健康そうな顔が、突然言葉を止めて凝縮した。
「おかしいな。紐が解けている」
急に兇暴ないろが瞳にあふれて、男は袋の口を押しひろげて中をのぞぎこんだ。そして紐をかたくしめなおしながら、四辺をぐるりと見廻した。
「たしか紐を締めておいたと思ったがなあ]
「締めわすれていたんだよ」と、私はふとこみあげてくる嘔気(はきけ)をおさえながらそう答えた。「忘れることはよくあることだ」
「そうかも知れないな」男はなぜか弾けるような声を立てて短くわらい出した。「お前食いたいなら、ひとつやろうか」
「そうだな」私は自分の食欲をちょっと確めてみた。「食いたくないけれど、呉れるなら貰うよ」
よし、と言いながら男は堅くむすんだ紐を、また力を入れてほどいた。生気にあふれたその横顔を眺めながら、ある茫漠たるものが、しだいに胸の中で形をとりはじめて来るのを私は感じていたのである。私は低い声で言った。
「皆にも分けてやんなよ。みんな腹へらしてんだろ」
「いやなこった。腹なんぞへらしているものか」
男から受取った梨ひとつを、私は掌にのせていた。それは実質のある重量感であった。私はそれをポケットにしまった。
「しかしこんな重いものを毎日かついで動き廻るのも大変だな。ずいぶんもうかるのかい」
「そんなでもないさ」紐を再び締めて男はむきなおった。
「見せてやろうか」
男はなにか真面目な顔つきになって、ポケットから厚い革の金入れをとりだした。それを開いて私の眼の前につきだした。その中に束となった紫色の紙幣を、私はある戦慄に似たものと共にはっきり見た。それは一寸位の厚さであった。すぐ金入れは鈍い皮のおとをたてて閉じられた。男の顔はむしろ堅く沈んだ色を浮べていた。だまって金入れをポケットに戻した。
「――おれは、朝という時刻がすきなんだ。さっぱりしていて、あかるくて」
暫くして男がそう言った。
駅の事務室に泊りこんでいたらしい駅員が、歩廊の水道で顔洗うのが見えた。ざわざわした朝の物音が、すでにあちこちから起りはじめて来るらしかった。男は靴のひもをしめなおすと、勢よく立ち上った。手車が強くきしんだ。
「おれはあっちで始発を待つぜ。おまわりなんかが来るとうるさいからな」
袋をかつぎあげると私に背をむけたまま、また会おうぜ、と言いのこしたままあるき出した。靴裏が混凝土(コンクリート)に触れるたしかな音が、反響しながら歩廊の方に遠ざかって行った。私は軽く眼を閉じてそれを聞いていた。眼のふちが幽かにふるえて、それまで耐えていた悪感がしきりに背をはしった。
(あれはきっと悪いアルコオルだったにちがいない)
昨夜から千切れ千切れになった記憶をむすびあわせようとしながら、私は次第に今日という日を負担に感じはじめていた。昨夜ふじ子は泥酔した私につきそって駅まで送って来たのだ。そのあたりをところどころ思い出せる。それから電車にのって終点まで眠りつづけて来たにちがいないのだ。そしてこんなに酔っぱらった私にたいして、あの男がどんなきっかけで軍隊のおもいで話などを始めたのか。それを酔った私がどんな具合に受答えたのか。何故昨夜はこんなに酔っぱらってしまったのだろう。
そうだ。あのときはまだラジオがなっていたのだ。膳のものは食べてしまって、私ひとりがしきりに湯呑のウィスキイを傾けていたとき、ふじ子は窓にこしかけてぼんやり外を眺めていた。はっきり覚えていないけれども、裸になったという事をわざと執拗にふじ子に問いただしていた記憶もあるから、あるいはそれを避けるためにふじ子は窓の方に立って行ったのかも知れない。はっきりと胸に残っているのは、そのとき私はしめつけられるような哀憐の情で、窓にいるふじ子を眺めていたのだった。そして私は、ふじ子が裸を売って得た金で今私が酔い痴れていることを、はっきり意識にきざんでいたのだ。ふじ子を眺めるその気持を、此の意識が二重に裏打ちをしていた。頭のかたすみで私はなにかをせせら笑いながら、そのくせ腹の中をまっくろに凝りかたまらせ、肩を張ってわざとその状態を育てるように、しきりにやけつくような液体を咽喉(のど)に流しこんでいたのだった。そのとき遠い町の光に影絵のように浮んだふじ子の顔が、何か口ずさんでいるのにふと私は気づいたのだ。私は飲む手をやすめて耳を立てた。それは幽(かす)かな無心なうた声だった。
夕やけ小やけのあかとんぼ
追われてみたのはいつの日か……
むこうの家のラジオがなっていて、それがふじ子の歌声に重なるのを見れば、ふじ子はラジオにつられてふと此の歌をうたい出したものにちがいなかった。ある言いようのないむなしさが私の身体を奔(はし)りぬけた。私はそれをごまかすために、あわててまたウィスキイを口の中に流しこんでいた。――それから記億がぼんやりしてしまう。ふじ子の背につかまって、暗い道をあるいていた。私は何かくどくどとあやまっていたような気もするし、また厭がらせを言っていたような気もする。そうだ。金などはつくってやるから、明日にでも沢山もってきてやるから、もうあんなことをやめるがいい、と何度も私はくりかえしてふじ子に言ったのだ。あんなことをやれば一生こころに傷を負うから、それは止めたがいい。そうするとふじ子は私を見上げてあえぐように言った。
「何でもないのよわたし。あなたはそんなに苦しまなくてもいいのよ」
そのときは明るい街に来ていたような気もする。私はふじ子のその声と見上げた円い顔をぼんやり思いだす。それから暫くして、何故泣いているの、と私の背をしきりに撫でていたのだ。私は電信柱の根元にしやがみこんでいた。記億がそこらで前後しているのかも知れない。私はなぜしやがんでいたのか。嘔(は)きたくてそうしていたのか、それは何もわからない。その瞬間のふじ子の声と私の姿勢が頭にうかんで来るだけだ。それから駅の明るい燈や、電車を待っている人々や、そんなものが瞼にちらちらしたようだ。いつ改札を通りぬけたか覚えがない。足もとがむやみにふらつくから、今日はずいぶん酔ったのだなと、階段をのぼりながら考えたようでもある。歩廊に風に吹かれて立っていた。ふじ子とむかい合って立っていた。そうだ。私はそのとき、その姿勢のままで、ふじ子の部屋の壁のインクのしみを頭にうかべていたのだ。何故かそのとき私は非常に露悪的な気持になって、わざとふじ子の顔に私の顔をちかづけてみたりしたような気がする。ずいぶん長い間そうしていたような気がする。ふじ子はその間にこにこと笑みをふくんで私をみつめていたのだ。壁のしみのように私たちはむきあっていたのだ。いや、そうじゃない。わらっていたのはふじ子じゃない。それは梨をぬすみおおせた女が、壁にもどって私にわらって見せたのだ。一瞬前にぬすんだことすら忘れ果てたような、あかるいほのぼのとした笑いだった。少しも傷つかないレンズのように透明なわらいだった。……
「兄貴。おい。兄貴」
耳のそばでそんな声がする。私はすこしうとうとしていたらしい。私を呼びさましたのはあの少年の声である。私のとなりに何時しか腰かけて、脚をゆすってわざと車輪をぎいぎいきしませながら、幅のひろい顔で私の方をのぞきこむようにした。そして私ははっきり眼がさめた。
「兄貴。病気じゃないのかい。顔色がひどくわるいよ」
気がつくと待合室のあたりにちらほら人影が見えて、歩廊にはすでに制服の駅員の姿が隠見して、床に積まれた梱包(こんぽう)を次々動かしているらしい。天蓋の稜線に断(き)りとられた空は、鈍い灰色に曇り、やがて始発車がホオムに入って来るような気配であった。少年は汚れた襯衣(シャツ)を着こんでいて、私にわらいかける瞳はなにかずるそうに光った。
「ああ、病気なんだ」
私は素直にそう答えた。視界がどこか白々しいと思ったら、壁にうずくまって寝ていた連中は、私の知らないうちに皆どこかに行ってしまったらしく、少しはなれた荷受台によりかかって、さっきの女がひとり梨をかじっているだけであった。さくさくと嚙む音がここまで聞えて来た。唾液にぬれた白いすこやかな歯を、私は女の唇の間に見た。
「病気かい。病気だろうなあ。おれも先刻からどうも変だと思っていたんだ」
脚にぶよぶよするものがさわって、ぎいぎい鳴る手車の下から、そのときやせて惨(みじ)めな犬の首がのぞいた。少年の足先がその耳のあたりをしたたか蹴とばした。犬は弱々しい声で一声啼(な)くと、すこしよろめきながら歩廊の方に出て行き、脚を前後につっぱるようにして伸びをした。少年は乾いた声をたててわらった。
「ねぼけてやがら。あいつ」
そして更に脚を揺って手車をぎいぎい鳴らした。
「お前、今からどこに行くんだい」
「今日かい。今日はねえ、仕方がないから田舎廻りだよ」
どんな意味か判らなかった。問い返すのもものうく私がだまっていると、
「あいつ、淫売なんだぜ」すりよって低い声でいった。「あいつ頭が馬鹿になってんだけど、あれでいい稼ぎやるんだぜ」
「淫売がどうしてこんな処で夜を明すんだね」
「昨夜はあぶれたのさ、あいつ」少年ははげしく舌打ちをした。「ちぇっ。梨なんか食ってやがら。先刻のやみやが呉れたのかい」
女をみつめる少年の眼はきらきら光っていた。女は身体でその視線を感じたらしく、こちらをふりむいた。おびえたように手の梨をうしろにかくすと、すこしずつ後ずさりはじめた。
「ふん、馬鹿にしてやがら」
少年はそして私にふり向くと、心配そうな声で言った。
「病気なら早くなおしたがいいぜ」
「うん。わかってるよ」
「ふん。やっぱり病気だったんだな。病気なら、ねえ、兄貴。兄貴はさっきの梨は食わねえだろ」
暗い可笑しさがふとこみあげて来て、私は頰をゆるめながらポケットを探った。冷たい梨の肌が手にふれた。私はそれをつかむと少年の方にさしだした。
「やるよ」
少年は有難うとも言わずそれを受取り、だまって口に持って行った。歯が梨に食いこむ音がした。上眼使いに私を見ながら、少年は更に次の部分を嚙んだ。私はぼんやり少年の顔をながめていた。そのとき何故か私は、先刻軽く眼を閉じてあの男の靴音が遠ざかって行くのを聞いていた気持を、漠然と胸によみがえらせていたのである。梨を嚙むさわやかな歯音と、堅く確かな靴のひびきが、ある気持を橋としてひとつにかさなった。私は少年から視線をそらして、遠く歩廊の方に瞼をあげた。線路の遙かから電車がゆるゆる逆行して来る。あれが始発電車になるらしかった。私は立ち上った。長い間腰をかけていたせいか、腰のへんが凝るように痛んだ。
(別れるときあの男は、どんなつもりで金入れの中などを見せようと思ったのだろう?)
紫色の紙幣の束を瞼のうらにあざやかに浮べたとき、不快な濁った亢奮(こうふん)が急速に湧きあがるのを感じながら、私は歩廊の方に足をひきずりひきずり歩き出していた。
盛り場のまんなかがぽっかり脱落したように建物にかこまれた小広場になっていて、そこに今日も聴衆がぐるりと輪をつくっていた。その輪の中央に不思議な容貌の青年が大きな身ぶりで手摺(ず)れのした手風琴をひいていた。午前の曇天の鈍色のひかりが、そこにも静かにおちていた。
青年の顔の中央にある鼻は、粘土のように黄色いセルロイドの代用鼻であった。顔全体を巨大な灼熱した物体が擦過(さっか)したような趣きがあって、あるべきところに器官が歪んでいたり、また無かったりした。髪だけが不気味なほど漆黒に、つやつやと光っていた。韻律は乱れながら小広場の果てに消えて行った。
輪をつくって囲んでいる人々は、皆おなじようなひとつの表情をうかべていた。彼等の耳がその手風琴の曲目にとらわれるよりもっと激しく、彼等の眼はその青年の顔にそそがれていた。人々の表情はみな眉根をかるくよせて、ある感じを露骨にただよわせていた。その感じは非常に複雑で、一口ではうまいこと言えない位であった。単に哀傷でもなく、単に憐憫(れんびん)でもなく、まして単に好奇でもなく、単なる嫌悪でもなかった。それらのものがみんな入り組んで、そしてそれが露骨にひとつの表情をつくっていた。そしてその表情が自然のものでなく、自分で無意識に強いたものであることに、人々は誰も自ら気付いていない風であった。人の輪からぬけでて来ると、人々はそこらに唾(つば)をはいたり、空を眺めたりして、それからトットッと何処かヘ急ぎ足で消えて行った。また通りかかった人々が新しい聴衆となって、人の背にとりついた。背伸びをして内をのぞきこむと、早速同じ表情を露骨につくり、青年の大げさな身振りとその顔に瞳を据えて見入るらしかった。
私もそのひとりになって聴衆の輪にまじって立っていた。あれから始発電車に乗ってこの盛り場にやって来て、そこらをやたらに歩きまわった揚句、ここに止っているのであった。私は一夜のために草臥れてしわだらけになった洋服を着て、よごれた顔をして楽師の顔をながめていた。
此の異相の楽師の姿を見るのは、私は今日が始めてではなかった。此の数年の間に、あちらの街角やこちらの広場で、何度も何度も私は此の楽師を眺めていた。特徴のある手風琴のおとが聞えれば、すぐそれとわかった。近頃では音楽が聞えずとも、その人の輪から離れてくる人の顔をひとめ見るだけで、そこに浮んでいる表情で判ることが出来た。今日もそれであった。私は吸いよせられるように人の輪にとりつき、いつもと同じように、なにものかをはっきり確めるような気持で、私は楽師の顔から眼をはなせないでいた。
顔?
それは顔ではなかった。顔の輪郭であるにすぎなかった。それにも拘らずそれは表情をもっていた。静かな曇り日のひかりのなかで、手風琴を大きく引き伸ばしながら、上半身を反らす。空を斜にあおぐ顔の痕跡には、たしかに一つの陶酔にまぎれもない表情がみなぎっているのだ。あの陶酔をささえているものはなにか?
やがて私はあわてたように楽師から眼を外らすと、押しわけるようにして人混みをぬけだした。土埃を踏みながら広場をよこぎった。広場の果ては建物の壁となり、それをヘだてる有剌鉄線の垣根があった。その根もとに材木が一本横たわっていた。湿気を吸って黒く沈んだ色であった。私はそれに腰をおろした。ふかぶかと肩につみかさなる宿酔の疲労をはらいのけるように、私はポケットからつぶれた莨をとりだすとライタアで火を点じた。ライタアの錆色(さびいろ)のはだに、髪の乱れた私のかおがぼんやりうつった。
莨(たばこ)の煙をふかく肺まで吸いこんで、私は何となく眼を閉じた。あの楽師の前にはふるぼけた帽子があって、それには聴衆が入れた紙幣がたくさん入っていた。それを前にして楽師は大きく身体を反(そ)らして手風琴をひいていたのだ。その旋律は幽(かす)かに乱れながら、今ここに腰をおろしている私の耳にまで届いてくる。私はふと昨夜のふじ子のかすかな歌声を思い出していた。今頃ふじ子は何をしているだろう。やはり弁当をかかえてあの会社に出て行ったにちがいない。みんなにお茶をついで廻ったり、銀行に使いに行ったり、皆から「空飛ぶ円盤」などとからかわれたりして、そして裸になって写真をとられたことなどすっかり忘れはてているだろう。昨夜私に酒をのませたことも、私が酔っぱらって厭味をさんざん言ったことも、ときどき微笑しながら思い出すだけだろう。たとえ着物の最後の一枚を脱ぐとき、耐えがたい苦痛をしのんだとしても、それはそのときですっかり終ってしまったのだ。今から先ときどきそのときのことを夢にみて、あるいは苦しそうな声を出して呻くだろうが、覚めてしまえばそれだけで忘れてしまうにちがいない。――
材木に深く腰をおろし、いらだたしく莨の煙をはき散らしながら、私はすこしずつ気持がたかぶりはじめるのを感じていた。それはなぜか判らなかった。こんな日のこんな時刻に、こんな場所に私がぼんやり腰かけているという、得体のしれない不安から来ているのかも知れなかった。しかし今ここに尾を引く気持の後感としては、私はむしろ誰かを憎んでいた。誰を憎んでいるのか。その気持を手探って行けぱ、突きあたるものは私の眼前に輪をつくっている人々であり、その中にいる異相の楽師であった。私は楽師をひっくるめた此の広場の群集を心のそこからにくんでいるのかも知れなかった。
(不幸というものは、あんなものではないだろう)
私は吸いさしを地面にぎりぎりこすりつけた。今日も人の輪にまじって、長いこと楽師を眺めていたというのも、私にははっきり判っていることであった。それは此の楽師の容姿をながめることが、私にいつもある刺戟をあたえるからであった。その胸を逆にこすりあげるような切なさが、むしろ私には甘美なものとして感じられるのだった。だから今日も長いこと立って見ていたのだ。しかし不幸というものがあんな形で肉体にあらわれ、あんな具合に人眼にさらされ、そして人々がそれに打たれるものとすれば、それは何と通俗で退屈なことだろう。まるで不幸の登録商標みたいに、あの楽師は立って手風琴をひいている。私は知っている。人の輪をくぐり出た人々の、眉をしかめた複雑な表情が、ものの一町もあるかないうちに次第に和んできて、やがて深い満足のいろがしたたか顔中にひろがり始めて来るのだ。人々は排泄(はいせつ)を終了したときのように、そこでほっと肩をおとすのだ。――
ふと気がつくと、私の手の甲を脚の沢山ある小さな赤黒い虫がゆるゆると這っていた。一匹かとおもうと洋服の胸のところにも膝のところにも、その小さな虫は無数にはいのぼっていた。ぎょっとして私は立ち上った。あわてて掌をふってあちこちからばたばたと払いおとした。虫たちは赤黒い点になって掌につぶれたり、地面に飛びちったりした。見るとその湿った材木は古くくされて、すでに朽ち果てているのであった。赤黒い虫は層をなしてむらがり動いていた。[やぶちゃん注:「赤黒い虫」所謂、「木食い虫」「蠹」であろう。赤黒いとなると、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目(亜目) Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ナガキクイムシ科ナガキクイムシ亜科 Platypus 属カシノナガキクイムシ Platypus quercivorus か。]
「――ふん」
肩のところを這っているのを横眼で見つけて、忌々しくそれをはたきおとしながら、私はのろのろと歩き出した。
堅い舗装路を人々は無表情なかおでぞろぞろあるいていた。私は柵を越えて路に出た。なにもかもむなしい気がした。人混みにまじって私は歩き出していた。背中に手風琴のおとがだんだん遠ざかる。今晩のあの終点の駅の風景は、もはや遠い世界のようにも感じられたけれども、またおそろしく身近にも感じられた。此の一夜が、朝が好きだという闇屋の男や、梨をぬすんだ女や、少年や犬が、しかし私にどんな関わりがあるのだろう。何にもないにきまっていた。しかし私は此の行きずりの人々を、今後ときどき思い起しては激しく嫉妬したり羨望したり憎悪したりするのかも知れない。それは愚かなことだ。しかし愚かといえば、酒に酔って前後不覚になって終点まで運ばれたことからして、全然おろかなことなのだ。そんなおろかなことを性こりもなく積みかさね積みかさねして、そしてそこで傷だらけになることで今までも、また今から先もすごして行くのだろう。正常な市民にもなれず、その反対のものにもなれず、自分の露床につきあたるのをおそれながら、毎日を身ぶりで胡麻化(ごまか)して行くのだろう。胡麻化そうとすることで剣は皆するどく、私のむねに刃を立ててくるだろう。揚句のはては自分の眼や心をも傷だらけにして、やがて私は一本の材木のように健康な感動をなくしてしまうだろう。そしてあの材木のように朽ちてしまうだろう。そのときになって朽木のような私を、どうして私は彫ることが出来るだろう。赤黒い小さな陰惨な虫たちだけが、私のむくろに根強く執拗に巣くうだろう。そしてそのときは私は生きながら死んでいるのだろう。――
両手をポケットにつっこみ、人通りの少い道へ曲りこみながら、昨夜ふじ子に明日金を持って来ると約束したことを私は思い出していた。日がかげっているので時間は判らなかった。遅刻はしても今から勤め先に行ってみようか、このまま下宿にもどって眠ろうかと、ぼんやり考えなやみながら、曇り日の下を私は欝々とうなだれてあるいて行った。
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