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2021/07/07

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)5 昭和一一(一九三六)年(全)

 

   昭和一一(一九三六)年

 

[やぶちゃん注:中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『二月』、詩「斷層」を『龍南會雜誌』に『発表。三月、五高を卒業。試験の成績が悪く、卒業を認めるか認めないかで、教授会が三十分以上も揉めたと後で知った。四月、東京帝国大学文学部国文科に入学。定員四十名のところへ四十一名の受験だった。国文科を選んだ理由は、前年に英文科に入学した』親友『霜多正次から、国文科がいちばんラクだと教わっていたからである。入学早々に「東大新聞」の編集部に応募したが不採用となりクサる。六月』、『霜多正次、土居寛之、太田克已、永井潔ら一高と五高出身の同人十名で雑誌』『寄港地』を『発刊、三百部印刷する。創刊号に二十枚ばかりの習作』「地圖」PDF縦書版で私のオリジナル注附き。但し、新字新仮名)を『発表』している。『文藝』(改造社)の『同人雑誌批評で「ビラビラした擬似のロマンティシズムを捨てよ」と批判されたが、大雑誌に論評されたのをむしろ喜んだ』という。『寄港地』は『二号で廃刊。以後』、『自分で勝手に留年延長した一年をふくめて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが、多少鬱病氣味でもあったらしい』(以下の冒頭の八月八日の日記には明らかに病的な追跡妄想が認められ、それ以降の日記の叙述にも強迫神経症的な対象事象に対する妙な拘りを持った意識推移が記され、創作素材とは言え、明らかに事実に即したと思われる犬の追跡妄想も出現する。この通院(ずっと続いている)の疾患名はちょっとよく判らない。精神科の治療にしては、複数回の「ワクチン」と称する注射や、カルシウム注射がおかしいように感じる。年譜には、この病気及び通院治療については全く出てこない。この不審な病気については本文内の後の方の注で私の推理を示しておいた)『十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とある。最後の経験は後に小説「その夜のこと」と、その続編「冬の虹」で、本格的に素材としている。私の『「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附) PDF縦書版』を読まれたい。なお、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。]

 

八月八日 晴

 十時、マガジン俱樂部に行き、 ROMAN を借りてくる。

 「音樂」(井上友一郞)、「靑いポアン」(神西淸)を讀む。

 十一時半、病院。亦、違つた注射をする。

 今までの靜脈注射にくらべると、量は極く少ない。副作用があるかと觀念の眼をとじてゐたが、別段さうしたものはなかつたので、ほつとした。水藥の出來る間待合室で新聞を讀む。村社(むらこそ)四等。

 

 病院の方に下りて行く道。あれはどうも妙な道だ。石がずつとしきつめてあつて、いつも勞働者が路ばたにこしを下してゐる。あかるい洋服をきた少女が二三人、私の前を下りて行つたが、勞働者たちはそれを見送りながらささやきかはしていた。卑しい冗談を言つてゐたのかも知れない。しかし彼らは、めうに疲れたやうな眞劍な表情をしてゐた。側を通る私にはほとんど注意をはらはない樣子であつた。しかし私は、彼等を背にしたとき、彼等の視線を背中に感じながら、やつこだこのやうに蹣跚(まんさん)と坂を下りて行つた。少女の群のまん中にゐた子の脚は白くて、素直であつた。少女たちは北の方にまつすぐにあるいて行つた。私は橫町を折れて病院の方にあるいて行つた。

 

 病院の二三軒手前に杵屋勝一穗とかいた長唄の師匠の看板があるが、あの橫町に折れこむ度に、私はすぐそれが目につく。口吟(くちずさ)んでみたり、唄の文句にしてみたり、そこを通りすぎるまで眼をはなさない。

 

 マガジン俱樂部に行つたついでに、日記帳を買はうと思つて本鄕正門前の方にゆるゆる步き出したのだが、今日は「ゆたか」のおばさんに會ふかも知れないと言う豫感がした。町をあゆみながら、むこうからやつてくる人々の顏を丹念にながめながらあるいた。靑い服を着た女が、電車に乘るために走つて行つたが、お尻の二つの半球がくつきりと衣服の外からうかがはれ、私は思はず立ち止つて見送つたほどであつた。女は電車にのつて行つてしまつた。おばさんにはたうとう、會はなかつた。つひぞ見かけないやうな大學生が一人二人あるいてゐた。帽子をみると帝大生のやうであつた。本屋で、日記帳のあたひを聞いたら六十錢だと言ふ。少し負けて吳れと言つたら五錢だけお引きしますと言ふ。四十錢なら買ふと言つたら、元値がきれるとか何とか、ぞんざいな言葉で言つて店の奧に入つて行つた。あきらめて下宿の方に步き出したが、しばらくして段々不快になつて來た。

 

 丸善インキと看板のある店に、病院の歸りに寄り、アテナインキを吳れと言つたら無いと言ふ。しかたなしにメトロインキと言ふのを買つて來た。表に BLUE BLAK [やぶちゃん注:横書き。]とかいてある。いんちきじみて厭である。今、そのインキで日記を書いてゐる。

 

 昨夜、寢ながら、下の應接室から持つて來たフイリツプ短篇集をよんだが、新靑年のコントみたいだ。面白いにはちがいないが、深味が無い。チエホフの方がずつとよい。まだよんだのは四つ五つである。今日も亦寢ながら讀むつもりである。

 

 私は今、一つのロマンの制作を志してゐるが、いはば此の日記をそれのメモにしたいのだ。私自身を主人公としたロマンの。憶ひ出したことなど。

 

 千九百三十五年の秋。去年の十一月、私は高等學校の四年目の秋であつた。土曜であつた。例の如く私は巷でおびただしい酒をのみ、夜の三時頃、よろよろしながら、あの、五高とセイセイコウとの間の、暗いみちを下宿の方ヘ步いてゐた。暗い、木々が頭の上におほひかぶさつたあの道を、十二時過ぎれば、私は醉つてでもゐなければ步くことは出來なかつた。いや醉つてゐても恐(こは)かつたのだ。その夜、うすら寒い夜風を頰に感じながら、ざわめく樹々に、なんでえ、化物めらが! と虛勢をはりつづけながら、ああ、もう恐怖に堪へられなくて唄でもうたひ出さうとしたその時、私は、私の背後四五間[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。]の所を、何ものかがはだしでひたひたと私をつけて來るのをはつきりと感じたのだ。總身の皮膚がきりきりと毛穴を立て、齒の根もあはぬおそろしい想念が私の頭をむしばみはじめた。血が凍るやうであつた。私は意を決して、そつと頭をめぐらすと私の背後にひろがる暗闇をそつとみつめた。その瞬間、黑いものが、そのひたひたと言ふあし音をはやめながら、私に急激に近づくと、私の足をかすめた。犬であつた。(此の邊中略す。面倒也)

 

 私のその聲を不當に思つたのであらう。下宿のおばさんが玄關の戶をあけて私の方をうかがつてゐたが、それが私であるといふことがわかると、びつくりしたやうな聲ではなしかけた。

「まあ、梅崎さんぢやありませんか。どうしたんです。こんなにおそく」

「犬なんです。犬がゐるのです」

 私はその頃、妙に感じやすくなつてゐて、さう言ひながら淚が頰をつたはり始めた。私は、そこで、犬をよぶのを斷念して、顏をおばさんにかくしながら、自分の部屋にもどつた。此の氣持だけは純粹であるなと、私は思つた。翌日、私は此の事件と、私の感情の推移を人々にかたつた。人々はその話をきき終つて、君はなるほど詩人だよと異口同音に答へた。みんな私の話は虛構であると斷じたのだ。そのやうな時代であつた。そのやうにさげすまれながらも私は猶生きてゐたのだ。(午後三時)

 

 今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた。

 

 夕飯が來るまでのひとときを、フイリツプの「邂逅」と言ふ小說をよんだら、之には胸をうたれた。

[やぶちゃん注:「ROMAN」雑誌名。詳細書誌は不詳。

 『(井上友一郞)』井上友一郎(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は大阪府西成郡中津町生まれの小説家。本名は友一。商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退、後、各中学を転々とした。昭和四(一九二九)年に関西大学第二商業学校を卒業し、翌年、早稲田大学専門部法科に入学した(後に仏文科に転部)。昭和六年に「森林公園」を発表して、川端康成に認められ、坂口安吾・田村泰次郎らと、同人誌『桜』で活動、昭和九年、「道化者」を発表している。この昭和一一(一九三六)年に早大仏文科を卒業後、『人民文庫』に加わり、同時に『都新聞』記者となり、昭和一三(一九三八)年には特派員として中国戦線に従軍している。昭和十四年に『文学者』に「残夢」を発表し、翌年「波の上」を刊行し、作家生活に入った。戦後は風俗小説作家として活躍し、雑誌『風雪』に参加した(当該ウィキに拠った)。「音樂」は不詳。

『「靑いポアン」(神西淸)』東京生まれのロシア文学者で小説家神西清(じんざいきよし 明治三六(一九〇三)年~昭和三二(一九五七)年)。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)露語部文科を卒業、ソ連通商部勤務を経て、チェーホフ・ガルシンなどの翻訳に従事する一方で、小説も書いた。「靑いポアン」は昭和五(一九三〇)年十二月発行の『作品』初出。

「村社(むらこそ)四等」村社講平(むらこそこうへい 明治三八(一九〇五)年~平成一〇(一九九八)年)は陸上競技選手で、この年に開催されたベルリン・オリンピック代表。後にマラソン指導者・毎日新聞記者となった。宮崎市出身。中央大学在学中だったこの年、日本代表として満三十歳で五輪に出場し、五千メートル・一万メートルで、四位入賞を果たした。

「蹣跚(まんさん)と」よろめくさま。

「アテナインキ」丸善製インキ。現在も売られている。これ(サイト「ミューゼオ」)。

「メトロインキ」不詳。

BLUE BLAK とかいてある。いんちきじみて厭である」「アテナインキ」もブルー・ブラックであるが、梅崎は色が違って見え(ブルー・ブラックは多種ある)、騙されたように感じている。

「フイリツプ短篇集」フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe  一八七四年~一九〇九年)。この時期では淀野隆三訳・堀口大學訳・白水社編輯部訳などが出ている。私は好きな作家だがね。

「新靑年」大正九(一九二〇)年創刊、昭和二五(一九五〇)年終刊の総合雑誌。博文館発行。一九二〇年代から一九三〇年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つで、都会的雑誌として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また。江戸川乱歩・横溝正史・牧逸馬・夢野久作・小栗虫太郎・久生十蘭といった多くの探偵小説作家・異端作家を輩出した。参照した当該ウィキによれば、『日本の探偵小説を語る上で欠かすことのできない雑誌であるが、探偵小説専門誌でもなければ小説専門誌でもなく、現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった』とある。

「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」の意。

「セイセイコウ」「濟々黌」で現在の熊本県立済々黌高等学校(グーグル・マップ・データ)。熊本県内で最も古い明治一二(一八七九)年創立の高等学校。旧五高(現在の熊本大学)の西に隣接している。

「今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた」華氏。

「八十度」は摂氏で約二十六・六六度、「八十六度」は三十度。

『フイリツプの「邂逅」』‘La rencontre ’。この邦訳題から、恐らく、梅崎春生が読んでいるのは、堀口大學訳「フィリップ短篇集」(昭和七(一九三二)年春陽堂刊・『世界名作文庫』百二十二)と推定される。]

 

八月九日

 昨夜のことを書く。

 

 三文オペラに行く。奇怪な圖繪であつた。印象的な場面がいくつもあつた。

 

 シネマパレスを出ると、雨が降つてゐた。松住町に出て、交番に、帝大にはどちらへ行きますかと聞いたら、帝大と言ふのがさだかに聞きとれなかつたと見えて、え? え? と二三度聞きかへした揚句、不愛想に敎へて吳れた。知らない街の舖道を雨にぬれながら步いた。うちわを腰にはさんで、ふところ手で步いて行つた。雨が衣服を通して素肌につめたく感じられた。こんど書く小說の筋など考へながら、めうに感傷的な氣持になつてゐた。まもなくすると、本鄕一丁目の所に出た。「ゆたか」の近くなので三丁目まで手巾で顏をおほつてあるいた。

 赤門前で、三錢で號外一枚かつた。百米自由型の結果であつた。三錢は暴利だなと思つた。何かとんでもないことをしたやうな、奇妙な後悔じみた氣持が、いつまでもはなれなかつた。下宿につくと、手紙さしに、(三十九番樣 岸本樣御來訪、七時)とかいた紙片があつた。私はそれをにぎつて、だまつて二階に上つて行つた。

 

 今日は病院で面白い注射をした。靜脈注射であるが、その注射液が體内に入つて二三秒すると、胸から腹へかけて、じんとするような灼熱感がひろがり、その感じが時間と共に、足の先や肛門の所や、背中などに移行した。丁度熱陽をあちらこちち浴せかけられたやうな感じであつて、汗がびつしより出た。そのあとで、めまひがしたので、ベツドの上で一分間ほどねた。そのあとでワクチン注射をした。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、新しい契約をして來た。

 

 夜、「笑の王國」に行つた。

 

 田原町から上野まで地下鐵で來た。今日は新しい浴衣を着てゐたので、私はいささか得意であつた。電車の中では、切符をうちはの柄にはさんだり、人のかほをじろじろみつめたり、いろんなことをした。地下鐵の中で私は何か考へてゐて、それを日記にかかうと、その時思つてゐたのであるが、今はそれを忘れてしまつた。上野の地下道を出た所で東京每夕を買ひ、ふところの奧におしこんで步いた。

 

 上野の丘から不忍池の方に下りる石段の所で、

「自意識の過剩なんか、われらの恥になりこそすれ、何等のほこりにはなりはしない」

 と、私が皆の前で言ふ所を想像した。さうすると、松井が、

「そりやちがふ」

 とか何とか抗議する樣子が髣髴(ほうふつ)とうかんで來た。私は、あちらをみたり、下をむいたりして、その想像から遠ざからうと努力しながら步いた。

 

 逢初橋の近くで氷やに入り、氷ぶどうを注文した。食べながら「富士」の一月號を見てゐると、渡邊篤と關時男の寫眞が出ていた。俗惡を極めたものであつた。

 私は何かしら辯護してやりたい氣持がした。さう言ふ氣持を、人はどう考へるだらうかなど考へながら、さじを動かしてゐた。私の前にゐた小憎は、アイスクリームを食べてゐた。ああ、俺もアイスクリームを食ふ筈であつたなと、その時始めて氣が付いた。地下鐵に乘る前から考へてゐたのである。

 

 此の間、梅澤と岸本と三人で不忍池でボートにのつたが、あのとき、池からみると、北の方に犬の形をした黑雲が出ていて、そのきばの邊から稻光りがさかんに見えてゐた。遠い夢のやうに夕もやがたてこめはじめる時刻で、サーカスの光がうるんでみえ、ジンタがかきならす古風な曲が池一ぱいにひろがつてゐた。私たちのボートは何故かしら同じ所をぐるぐる𢌞つてゐるやうな氣がした。大正初期の東京圖繪、さうした感じであつた。私は舷によりかかり、何か低い聲で唄をうたつてゐた。むかしの歌なのであつた。富士館で「街の入墨者」を見、安酒場で見知らぬ人から五十錢めぐまれた日のことである。

 

 昨日、雨に濡れながらシネマパレスからのかへりみち、USの前に來ると麥酒(ビール)をのみたいと言ふ激しい欲望にとらはれた。八月一日以來始めてのことであつた。

 表にたつてゐた店の少女が私の顏を直視したので、私は一寸たぢろいだ。浴衣がぬれて肌にくつついてゐたので、隨分みすぼらしい姿だつたらうと思つたのだ。

 

 淺草あたりをあるきながら、自分の善良さうな表情を、人にみられたなと氣のついたとき位、氣のひきしまることはない。いまいましいと言ふ氣持が、私の心をぎりぎりとかきまはす。今日も「笑の王國」の出口の所でさう言ふ氣持であつた。

 

 今、ラジオがかすかに聞えて來るが、日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい。かうなることは、はじめから豫想してゐたが、明日の新聞には、殘念! とか何とか大みだしをつけることだらう。

 

 幸子さんが東京にゐると言ふ意識が、私を時々いらだたせる。早く何とかしなければならないと言ふ氣持だが、まづさしあたり、幸子さんに會ひ、づつと東京に止まることを說くのがいちばんのやうだ。幸子さんが東京にづつとゐるとしても、私は氣が弱いから、ずるずると友達じみた關係(あるいは全然沒交涉)をつづけるであらう。それでいいのさと叫ぶものが心の一部にはあるが、あることはあるが、いささか、それでは、淋しいではないか。(午前○時十五分)

[やぶちゃん注:「三文オペラ」ドイツ(第二次世界大戦中はナチスの迫害を逃れて各国で亡命生活を送ったが、戦後は東ドイツに戻った)の劇作家オイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト(Eugen Berthold Friedrich Brecht 一八九八年~一九五六年)作の、クルト・ヴァイル(Kurt Weill 一九〇〇年~一九五〇年)が音楽(主人公のギャング「メッキー・メッサー(匕首)」のテーマ(Die Moritat von Mackie Messer )は英語‘Mack the Knife ’で知られ、ジャズを始めとして世界的なスタンダード・ナンバーとなっている)を担当した音楽劇で、一九二八年八月に初演された(原題:Die Dreigroschenoper )ものの、最初期の映画化。ドイツで一九三一(昭和六)年に製作された。監督はゲオルク・ヴィルヘルム・パブスト(Georg Wilhelm Pabst 一八八五年~一九六七年)。

「シネマパレス」当時の神田区淡路町二丁目、現在の千代田区神田淡路町二丁目(万世橋近く)にあった映画館。

「松住町」淡路町直近北の、万世橋の上流の昌平橋を渡った辺り

「本鄕一丁目」「三丁目」「今昔マップ」を示す。右の現在の地図地名と対応せれたい。

「笑の王國」浅草六区にあった常盤座で、昭和八(一九三三)年四月一日に古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが旗揚げ公演を行った軽演劇劇団「笑の王国」。常盤座はその常設劇場として賑わった。詳しくは、「梅崎春生 その夜のこと」の私の割注「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」で視聴覚素材も完備してあるので、是非、読まれたい。

「田原町」ここ。東京地下鉄銀座線は昭和二(一九二七)年に浅草―上野間で営業を開始した、日本で最初の本格的な地下鉄で、当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチ・コピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線であった(ウィキの「東京メトロ銀座線」に拠った)。

「東京每夕」『東京每夕新聞』。戦前に存在した。

「逢初橋」「言問通り」の根津交差点付近にあった地名。暗渠にするのはいいが、こんないい名前ぐらい残しとけや!

「富士」大日本雄弁会講談社発行の国民大衆雑誌。

「渡邊篤」(あつし 明治三一(一八九八)年~昭和四二(一九七七)年)は映画俳優。本名は総一。浅草オペラを経て、映画界入りし、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の代表俳優となった。戦中は古川ロッパと行動をともにし、戦後は黒澤明の作品に常連出演した(当該ウィキに拠る)。

「關時男」(明治四〇(一九〇七)年~昭和二〇(一九四五)年二月病死)は元撮影技師で映画俳優。当該ウィキを参照されたい。

「ジンタ」明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた。

「富士館」明治四一(一九〇八)年開業(昭和四八(一九七三)年閉館)の映画館。千八百人を収容する巨大な映画館で、戦後、浅草日活劇場と名称を変更した。

「街の入墨者」昭和一〇(一九三五)年に公開された山中貞雄監督の時代劇映画。長谷川伸原作。前進座と日活の提携作品で日活太秦撮影所製作。当該ウィキを参照されたいが、そこには、『原版フィルムが消失しているため』、『現在では観る事が出来ない』とある。

「US」不詳。「表にたつてゐた店の少女」とあるから、浅草にあった居酒屋の略称か。

「日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい」調べてみると、これは競泳男子百メートル自由形のことのようである。]

 

八月十日

 八時半に起きた。近頃は必ず八時半か九時に起きるのがならはしとなつたのは喜ばしい。しかも昨夜寢についたのは二時半なのだ。應接室で新聞をよむと、マラソンで孫が一着になつてゐた。

 

 朝食をすまして部屋を整理し、うちに手紙をかき、いささかすがすがしい氣持になつた。それより病院に行く。昨日二本注射を打つたので、今日はやらない。

 あの道の、杵屋勝一穗の看板が、今日はどうしたものか取り外されてあつた。あの橫町を曲るとき、おや此の風景には、どこか足りない所があるなと、すぐ氣がついた。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、雜誌三册をかへし、新しく一册かりてくる。丹羽文雄の「小鳩」と言ふ小說はいい。

 

 此のやうな平靜な生活をすることが出きようとは、夢にも思へなかつたが、これもやはり、生活の中に核が出きた故であらう。近頃の心境はまこと明鏡止水である。此のやうな病氣をした男の顏とは一體どんなものだらうと鏡をのぞきこんでみたら、さりげなくにこにこと笑つてゐた。これでいい、これでいい、私は滿足する。

 

 今日も淺草に行きたくなつた。小村麗子の顏もみたい。「笑の王國」のあの笑くぼの出る女、あれもいいな。一寸知念のむかしの戀人に似てゐる。(「三Q」にいた)

 誰か來ない限り、私を誰か誘はない限り、今日は淺草には行かない。うちで本でも讀んで居よう。

 

 夜食後、「紫苑」に行つた。紅茶のみながらワルツ合戰のうたを聞いてゐたら、さまざまな思ひが勃然とわきおこつた。一心に聞いてゐると悟られたくなかつたので、新聞を前にして目をそそいでゐた。字がかすんで一字もよめなかつた。お客は私一人であつた。

 以下 私と女との會話。

 

 私― 益山くん來ますか。

 女 ええ。いらつしやいますわ。今日も晝おいでになりましたわ。

   間

 私― 益山くんはここに來ても、やはり默つてるでせうね。

 女― ええ。むつつりして二時間も三時間もすわつてゐらつしやいますわ。

    こつちから話しかけると、ぽつりぽつり話しなさいますわ。

   長い間

 女― 近頃、何かお書きになつていらつしやいますの?

 私― いま、いま三百圓の懸賞をかいてます。三百圓もらつたらおごつてあげませう。

 女― いまからお禮申しておきますわ。おほほ。

 

 愚劣極まる會話である。これ位の會話しか出來ないのである。私が色魔になれないことはこれでよくわかる。此のあと、マダムが出て來て、武田麟太郞と矢田津世子が今日「紫苑」にくるかも知れないこと、二人の性質風貌などを話した。

 

 七時十五分前に「紫苑」を出て下宿に歸り、十時まで本をよんで、それから寢た。十二時半ごろまでねつかれなかつた。

 二囘便所に行つた。

[やぶちゃん注:「孫」日本統治時代の朝鮮の新義(シニジュ)州近郊出身のマラソン選手孫基禎(そんきてい:ソン・ギジョン 一九一二年~二〇〇二年)。家は貧しい雑貨商であった。一九三二(昭和七)年、京城の養正高等普通学校(内地の旧制中学校に相当。現在の養正高等学校)にスカウトされ、十九歳で入学、三年後の一九三五年十一月三日に東京の第八回明治神宮体育大会のマラソンで、当時の世界最高記録二時間二十六分四十二秒を樹立した。この年の三月以来、孫は未公認のマラソン・コースで世界記録を上回る実績を残していたが、この公認コースで世界記録を樹立したことで翌年のこのベルリン・オリンピックの日本代表有力候補として注目されるようになった。ベルリン・オリンピックには日本代表として出場、アジア地域出身で初めて、当時のオリンピック記録となる二時間二十九分十九秒二で金メダルを獲得した。現在のところ、オリンピックの男子マラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した唯一の例である。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた(以上はウィキの「孫基禎」に拠った)。

『丹羽文雄の「小鳩」』丹羽文雄(明治三七(一九〇四)年~平成一七(二〇〇五)年:三重県出身)の「小鳩」は単行本は昭和一一(一九三六)年信正社刊。

「小村麗子」不詳。舞台女優か。

「武田麟太郞」(明治三七(一九〇四)年~昭和二一(一九四六)年)は小説家。大阪市生まれ。旧制三高を経て、東京帝国大学仏文科に進んだ。その間、同人雑誌『真昼』を創刊。藤沢桓夫(たけお)らの『辻馬車』に参加、その頃から帝大セツルメント(労働者街やスラムに定住して住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉を図る社会事業)の仕事をするなど、組合運動にも加わり、その体験を生かして「暴力」(昭和四(一九二九)年)などのプロレタリア文学作品を書いた。しかし、一方その政治主義的偏向から脱出しようとして「日本三文オペラ」(昭和七年)のような庶民的な視点で当時の風俗を描いたいわゆる〈市井事もの〉の筆をとった。昭和八年には、川端康成・小林秀雄らと、『文学界』創刊に参加、「銀座八丁」(昭和九年)・「下界の眺め」(昭和十年から翌年)など、新聞連載という形で当時の風俗を描き出している。昭和十一年には、『人民文庫』を創刊し、「日本浪曼派」の詩精神に対抗して、散文精神を主張、その雑誌に、傾倒する井原西鶴についての小説を連載した。太平洋戦争中には、徴用作家としてジャワへ行ったが、この時期にはめぼしい作品はない。彼の小説は志賀直哉・横光利一及びプロレタリア文学や西鶴などの影響を受けたが、庶民的視点によって庶民を描くという点では終始変わることがなかった。肝硬変で没した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「矢田津世子」(やだ つせこ 明治四〇(一九〇七)年~昭和一九(一九四四)年)は小説家。秋田県出身。本名ツセ。東京の私立麹町高等女学校卒業。左翼思想への目覚めを基底に置いた作品を昭和四(一九二九)年頃から発表するが、昭和七年、芸術派に転身、坂口安吾・田村泰次郎らの同人誌『桜』、さらに『日暦(にちれき)』・『人民文庫』に参加する中で、本領を発揮していった。庶民の風俗と心理を客観的に、また、情緒豊かに捉える作風で、昭和一一(一九三六)年に「神楽坂」で芥川賞候補となり、文壇での地位を確立、以後、「茶粥の記」(昭和六年)などの佳作を残したが、戦時下に肺を病み、満三十六歳で亡くなった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

 

八月十一日 晴

 九時起床。床の中で莨(たばこ)を一服すふ。

 朝食後、しばらくして病院に行く。

 

 夕食後。

 キリストになれなければユダとなろう。さう呟きながら、今頃モラルのことなど騷ぎ立てる人々を、心の底からさげすんでゐた。

 

 今日は、病院の歸りと、夜八時からと、二度「紫苑」に行つた。紅茶を注文して、机上の雜誌を拾ひ讀みしたり音樂に耳傾けたりしながら、二囘とも一時間位づつ居た。あそこの女の、腕のつけ根の所の圓(まる)みが眼について困つた。

 

八月十二日 快晴

 昨夜、始めてオリンピツク放送を聞いた。河西の、女子二百米平泳決勝の放送は實によかつた。

 

 朝、九時半起床。

 病院で、今日は、ワクチンの靜脈注射をした。あの體の熱くなる注射は、カルシウム注射であると言ふことであつた。今日のワクチンも、カルシウムが、小量入つていたので、少しばかり胸とか腕が熱かつた。

 十一時半頃、「紫苑」に行つたが戶がしまつてゐたのでかへつてきた。

 

 あの橫町に、杵屋勝一穗の看板が亦出てゐた。

 

 大勝館の前に來ると、丁度益山君が切符を買つてゐる所であつた。私との間ほどは十間[やぶちゃん注:十八メートル強。]はなれてゐたので、彼は私に氣がつかないやうであつた。その上、彼の髮が顏の所までたれさがつて、私の方からも彼の顏はさだかに見えてゐなかつた。夕闇の中を。何と言はうか、私は、彼のあらゆる祕密を見てしまつたと言ふ氣がした。

 そして、その時、何故だらう、妖怪じみた、と言ふ形容詞が私の頭に浮んで來た。べつだん益山君の姿が古怪なわけではない。淺草はあかるくて、割り切れてゐるではないか。さうした不可解な形容詞が一體どこから、何のために出てきたのであらう。ぼんやり、さうしたことを考へながら富士館の方にひつかへして行つた。

 

 夜、十時半より、「紫苑」に行つた。四百米の決勝を聞きに行つたのである。

 

 マダムが、中井正文のことを話してゐた。私の「地圖」のことも出たやうであつた。また、太田と言ふ男の話も出た。私は莨をのみすぎてゐたので少し舌が𢌞らなくなつてゐた。十一時四十五分頃までゐた。かへりみち、書かなければならない、と思つた。

 床で湯淺克衞の「移民」といふ小說をよんだ。

[やぶちゃん注:「女子二百米平泳決勝の放送」言わずと知れた日本人女性初の金メダリスト(二百メートル平泳ぎ)前畑秀子(大正三(一九一四)年~平成七(一九九五)年:和歌山県伊都郡橋本町(現在の橋本市)生まれ。家は豆腐屋であった。名古屋の私立椙山女学校卒。結婚後の姓は兵藤)。当該ウィキによれば、同五輪のそれで、『地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて』、一『秒差で勝利する。日本人女性として五輪史上初めての金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、中継開始予定時刻の午前』零『時を過ぎたために「スイッチを切らないでください」の言葉からアナウンスを始めた』。『河西は興奮して途中から』、「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」と、二十『回以上も叫び、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた』とある。『引退後は岐阜市に在住し、椙山女学園職員として後進の育成に努め』た。

「大勝館」当時の東京市浅草区公園六区一号地(現在の東京都台東区浅草二丁目十番一号)にあった映画館。

「中井正文」(まさふみ 大正二(一九一三)年~平成二八(二〇一六)年:梅崎春生より二つ年上)は独文学者・作家。広島県廿日市市生まれ。後に広島大学教授・名誉教授。当該ウィキによれば、『中学校時代の修学旅行で訪れた九州地方に魅せられ、また、南九州出身の北原白秋の詩を熱心に読んでいたこともあり、旧制第五高等学校に進学する。詩作に傾倒し、五高在学中に作詩した「椿花咲く南国の」は同校寮歌となり、のちに加藤登紀子の歌唱でレコード化された』。『五高の同期に、当時作家志望だった土居寛之がおり、終生の友人となる。土居の影響で小説を書き始め、五高校友会誌『龍南』に作品を発表する』。昭和八年(一九三三)年、『東京帝国大学ドイツ文学科へ進み、成子坂のアパートに下宿する。当時まだ無名の石川達三と知り合い、石川の第一回芥川賞受賞作「蒼氓」が掲載された、同人誌『星座』に推薦され』、『参加する。『星座』は』昭和十年四月創刊で、『同人誌ながら、主催の矢崎弾の手腕により』、『順調に盛り上がりを見せたが、矢崎が反戦的人物として政府に監視され』同年七月号で『同誌が早くも発禁処分を受けたため』、『中井は作家志望の仲間と新たな同人誌の立ち上げを模索する』。『本郷に移っていた中井は、下宿先を同じくした五高の後輩梅崎春生、学友でかねてから付き合いのあり、近くに越してきた檀一雄、同じく下宿を近くする織田作之助、ドイツ文学科の佐藤晃一らと交流を持つ。ドイツ文学とトーマス・マンに傾倒していた佐藤に刺激され、佐藤も知らない作家を発掘してやろうと意気込み、発見したのがカフカの作品であったと中井は語っている』。『自身のあこがれていた北原白秋の故郷、柳川の生まれであった檀と交流を深め、檀の敬愛していた太宰治を紹介される。はじめ、太宰は檀を仲介して自身の参加していた同人誌『青い花』に中井の参加を依頼したが、中井は新たな同人誌の立ち上げ計画を理由にそれを断』った。『太宰は檀を伴い』、『中井の下宿を訪れ、『青い花』への再度の参加を促された中井は、それを承諾する。以降、太宰、檀、中井は東大前の落第横丁で酒を飲み交わす仲になる』。『中井はその頃、宮島の対岸を舞台とした恋愛小説「神話」を執筆中であった。中井の下宿を訪れた太宰がそれを目に留め』、『青い花』第二号への『掲載約束を互いに交わすも、太宰はじめ同人が揃って『日本浪漫派』へ活動拠点を移したため、『青い花』は創刊号のみの刊行に終わった』。昭和一三(一九三八)年、『中央公論』主催の『「知識階級総動員・論文小説募集」のスローガンを見た中井は、書き上げたのち』、『温めていた「神話」を中央公論社へ送』った。暫く経った同年中、『中井は中央公論社へ呼び出され、当時の『中央公論』文芸主任、畑中繁雄らに「神話」の一等入選を伝えられ』た。『しかし』、『戦時下の言論弾圧は文学界にも及んでおり、軍部からの恋愛小説掲載自粛の通達を受け、『中央公論』誌への「神話」の掲載は見送られることになる。「神話」は二等入選というかたちで紙面に紹介され、中井とともに入選した大田洋子の『海女』が単独掲載され』た。『二等に繰り下がった賞金の埋め合わせとして、畑中は中井にドイツの女流作家エレン・クラットの従軍記翻訳を依頼、『中央公論』『婦人公論』に掲載され』ている。昭和一六(一九四一)年、『中央公論編集長となった畑中は中井に、恋愛をテーマとしない小説の執筆を持ちかける。中井は五高山岳部を描いた「阿蘇活火山」を執筆し、『中央公論』』の翌年の二月号に『新人小説として掲載される。「阿蘇活火山」はドイツの文化雑誌に』も『中井の写真とともに紹介され』ている。『その後』、『中井はガダルカナル島への補充兵として福山の連隊へ招集され』たが、『除隊』となり、『広島へ引き上げ、女学校の教師として終戦を迎え』た。『広島市への原子爆弾投下時は』、『勤労動員の引率で宮島の工場におり、直接の被曝を逃れ』ている。また、この敗戦の年には、『「寒菊抄」で第』二十『回直木賞最終候補』となっている。昭和二一(一九四六)年、『休刊を余儀なくされていた『中央公論』復刊にあたり、畑中繁雄から「神話」の掲載を持ちかけられるも、中央公論社に原稿が残っておらず、中井の手元にもメモ程度しかなかったため、同作は世に出ぬまま戦乱』の中で、『のちに中井は「神話」の復元、再執筆を試みるも、満足のいくものとはならなかった』。『戦後は』『広島大学に教官として勤務。その傍ら、カフカの翻訳を進め、「変身」が角川書店から、「アメリカ」が三笠書房から』出版されている。一九七〇『年代から』、『自身の作品の発表を再開、最晩年に至るまで『広島文藝派』を主宰し、精力的に執筆、翻訳を続けた』とある。

『私の「地圖」』昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説。同誌は霜多正次ら十名で創刊した同人誌であったが、二号で廃刊した。当時、春生は東京帝国大学文学部国文科一年、既に二十一歳であった(既に述べた通り、中学浪人及び熊本第五高等学校二年次落第のため)。私はサイトでPDF縦書版で電子化している(但し、新字新仮名)。

『湯淺克衞の「移民」』小説家湯浅克衛(ゆあさかつえ 明治四三(一九一〇)年~昭和五七(一九八二)年)は香川県生まれ。本名は猛。小・中学校時代を朝鮮で過ごし、第一早稲田高等学院中退。昭和一〇(一九三五)年に『改造』懸賞小説二等となり作家デビュー。翌年、本庄陸男(ほんじょうむつお)・平林彪吾(ひょうご)・田辺耕一郎・伊藤整・井上友一郎らと第二次『現実』を創刊、次いで武田麟太郎・高見順らの『人民文庫』に加わり、プロレタリア文学に傾く。その後、植民地小説を書き、戦後はブラジル移民を主題とした。京城中学校時代の同級生に中島敦がいる(当該ウィキに拠った)。]

 

八月十三日

 病院に行き道、杵屋勝一穗の看板を盜みたい衝動にかられた。歸りみち、指でそつとつついたら、ぐらぐらと搖れた。

 

 マガジン倶樂部に行き、「文藝」の九月號を借りて、「紫苑」に行つた。レコードを聞きながら、岡本かの子の「渾沌未分」といふ小說を讀んだ。讀み終えると、何かしら濁つた、激しい亢奮がぐつと身内からわいて來た。さいごの所、女がひたむきに渾沌未分の世界に拔手をきつて行く所で、不快なたかぶつた感情が私におこつてきた。レコードの所爲かも知れない。じつは、此の小說をよむ前に、此の小說から何かヒントを得て、何か短篇の筋でも考へようかといふ心構へを持つてゐたのである。

 

 夜「紫苑」に行く。

 

 下宿の娘より、林芙美子の「野麥の唄」「旅だより」、大佛次郞の「樹氷」を借りる。「樹水」は一氣によんでしまひ、「旅だより」もほとんどよみ、「野麥の唄」のなかの短篇二つ三つ讀む。

 十二時 就床。

[やぶちゃん注:『岡本かの子の「渾沌未分」』作家岡本かの子(明治三二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年:本名はカノ。旧姓は大貫(おおぬき))が昭和一一(一九三六)年九月に『文芸』に発表した小説。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。]

 

八月十四日

 病院に行き、又、マガジン俱樂部に行き、「文學界」九月號を借り、「紫苑」に行く。

 今日心愉しき音樂。

  ブルー・ダニユーヴ。「アルルの女」のなかの

  メニユエツト。トロヴァトーレ。

  「アルルの女」の最初のフルートはこの間の

  ロシア映畫の笛によく似てたのしい。

[やぶちゃん注:以上の「ブルー・ダニユーヴ」以下は全体が二字下げなので、かく、した。]

 

 自らふるへ上るやうなすさまじい小說を考へる。八九十枚の豫定。題未定。

 

 夜、岸本來訪。

 共に淺草富士館に行く。山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」。川口松太郞の「風流深川唄」。

 

 二百米平泳準決勝を聞く。

 

 二時半就寢、うつしものに多忙。

 

 創作「祭日」八十枚程度。「展望」百二十枚程。

 この二篇を近日中に着手することになつた。當分倂行法を取る。原稿用紙には書かずに、此の日記帳にかいてゆくことにする。

 

   「展望」

大東京の片すみの奇妙な人々がすむ一劃。文科大學生橫紙象八はトリツペルにおかされ、經濟的事情のために此處に移り住んで來る。隣家の不思議な親子、亦、その親子の所に寄寓する奇妙な性格の旋盤工。橫紙が下宿する家のみにくい少女(世の習俗をてんでうけつけない偏執狂じみた女)、おひとよしだが、淫亂な主人。むかいの家の、かつては支那を放浪し、いまでは徒食してゐるのだが、その生活費が、どこから出るのかわからない愛想よき老人。みんなが夢をみたがつてゐることなど。

[やぶちゃん注:最後の小説「展望」の設定記載は底本では全体が一字下げである。

「ブルー・ダニユーヴ」オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家ヨハン・シュトラウスⅡ世(Johann StraussⅡ 一八二五年~一八九九年)が一八六七年に作曲した知られた合唱用ウィンナ・ワルツ「美しく青きドナウ」(An der schönen, blauen Donau )作品三百十四。

『「アルルの女」のなかのメニユエツト』フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が作曲した全二十七曲から成る、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet 一八四〇年~一八九七年)の同名の短編小説「アルルの女」(L'Arlésienne )及びそれに基づく戯曲の上演のために一八七二年に作曲された付随音楽。編曲された2つの組曲が一般には最も広く知られている。

「トロヴァトーレ」ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全四幕から成るオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore )。一八五三年にローマで初演された。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。原作はアントニオ・ガルシア・グティエレス(Antonio García Gutiérrez 一八一三年~一八八四年)の戯曲「エル・トロバドール」(El Trovador :「吟遊詩人」)を後人が補作台本としたもの。

『「アルルの女」の最初のフルート』知られた第二曲「メヌエット」(フランス語:menuet(ムニュエ))か。YouTube にあるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のそれをリンクさせておく。

「この間のロシア映畫の笛」う~ん、このソヴィエト映画、誰の何んという作品か、同定したい!

『山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」』山中貞雄(明治四二(一九〇九)年~昭和一三(一九三八)年)監督で、大河内伝次郎(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年)は主演のトーキー初期の剣戟劇映画。ウィキの「海鳴り街道」によれば、『上映用フィルム全篇は現存して』いない、とある。

『川口松太郞の「風流深川唄」』小説家・劇作家の川口松太郎(明治三二(一八九九)年~昭和六〇(一九八五)年)の老舗の料理屋を巡る人情話「風流深川唄」(昭和一〇(一九三五)年『オール讀物』連載。この作品他で川口は第一回直木賞を受賞)を原作とし、笠原和夫が脚色し、後に俳優としても知られた山村聡(明治四三(一九一〇)年~平成一二(二〇〇〇)年)が監督した、料亭の看板娘と板前との恋愛映画。

「二百米平泳準決勝」競泳男子二百メートル平泳ぎの決勝では葉室鐵夫が金メダル、小池禮三が銅メダルをとっている。

「祭日」不詳。

「展望」不詳。

「トリツペル」Tripper。淋病。実は、私は梅崎春生本人が、この淋病を罹患した経験があるのではないかと、疑っている。それは梅崎春生の自伝的要素が甚だ強い小説「その夜のこと」を電子化した際に感じたことである。そこで主人公の「僕」が、

   *

 その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。

 こうして僕の憂鬱な口々が始まった。

 Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。

   *

と述懐しているからなのである。而して、ここで梅崎春生自身が受けている奇妙な通院治療も、それなのではないかと、実は、疑っているのである。この昭和十一年、梅崎春生は満で二十一となっている。

 

九月二十五日

 久し振りに書く。一箇月以上日記を怠けた。いささかうちのめされた。今からだ。私にとつて一世一代の芝居が殘つてゐる。今日から何箇月か。今年中、此の芝居はつづく。不幸な悲劇の主人公。

 

 をはると私はひとりで手をたたかう。

 ああ私の中にゐる小さな病菌たちよ。

 

九月三十日

 小酒井博士の「殺人論」を讀む。近來、此の本ほど私を打つた本はない。昨夜の十一時から一時まで。今朝で讀了。色々私を啓發し、示唆して吳れた。

 私はいま「毒物學」の精密な書物がいちばんほしいのである。

 

 トリカブト。ジキタリス

 

 夜、西鄕と原と「南國」に行つた。

 

 「ちんば引いて步けば秋の廢園や」

[やぶちゃん注:「小酒井博士」医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。私の非常に好きな作家である。

「殺人論」大正一三(一九二四)年京文社刊の評論。「犯罪文学研究」(昭和二(一九二七)年春陽堂刊)とともに私が電子化したいものの一つである。没年に刊行された「毒及毒殺の研究」(改造社)も梅崎春生は味読済みというわけか。

「トリカブト」全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチン(aconitine)を含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根から製する猛毒。本邦では古くから「附子(ぶす)」として知られた。

「ジキタリス」タイプ種はシソ目オオバコ科ジギタリス属ジキタリス Digitalis purpurea 。ヨーロッパ南部原産で、別名キツネノテブクロ。各地で観賞用や薬用として栽植されているが、全草に猛毒を有する。本種及びケジギタリス Digitalis lanata の葉を乾燥させたものを生薬として「ジギタリス」と称し、強い強心作用を有する。「ジギタリス」には「ジギトキシン」や「ギトキシン」などの強心配糖体が含有されており、心筋に直接作用して、その収縮力を強め、刺激伝導系を遅らせて不応期を延長させ、拍動数を減少させて、心室筋の自動性を亢進させるなどの作用を持つため、鬱血性心不全に対して顕著な効果が認められる一方、消化管に作用して嘔気・嘔吐などの消化器症状、不整脈・動悸などの循環器症状、頭痛・眩暈などの神経症状、視野が黄色くなる視覚異常の他、過量すれば、重篤な心臓障害を起こすことが知られている。現在では生薬としてはほとんど用いられない。

「西鄕」既出既注の西郷信綱。]

 

十月十二日

 何だかもやもやとした不安が私をいらだたせてゐたのだ。原が東京驛に人を送りに行くと言ふので、私もいつしよに連れて行つて吳れとたのんだりした。旅情のあわただしさが私を救ふかも知れない。さう思つてみた。しかし、夜更けて、人に別れて、ひとり歸るあじけなさと苦しさを考へたとき、なにか心のなかで、へたへたとくづれおちるものを感じた。原とバスの停留所で別れて、下宿の方に步きながらも、一體何がくるしいのであらうと考へてみた。何も、はつきりした具休的な苦惱は思ひ出せなかつた。夜ねてからも、私はしばらくふるへてゐた。廊下を通る微かな跫音(あしおと)にも、ぎくりとして汗が出た。カルモチンの箱をしらべたら八粒のこつてゐた。そのうち四粒をてのひらにのせて洗面所に行つた。手がふるへて、水があごから胸へ流れて冷たかつた。私はも少しで泣き出す氣持を押しこらへて部屋にもどつて橫になつた。

[やぶちゃん注:「カルモチン」既出既注。]

 

十月十三日

  夜十二時。

  心ゆたかなり。

 

  カルモチンをのみて、ねむらんとす。

 

  ふみに つかれ むなし ひたひに ひえびえと

  ゆびをあてたり なにか かなしく

 

    永平寺貫首猊下(げいか)よわれがもつ

    虛無のおもひをいかにせましな

 

    君がためしょうそうこなんのをとめらは

    われとあそばずなりにけるかな

[やぶちゃん注:二首目の歌の上句は特異的に底本に近い表記で残した。底本では、

    君がためしょうそうこなんのおとめらは

という表記になっている。第三句は「乙女等は」で「をとめらは」でよかろうが、「しょうそうこなん」が全く判らない。「少壯」なら「せうさう」であるが、「乙女」の形容としては、すこぶるおかしい。「こなん」は単に中国由来の美称のそれで「湖南」でよいか? 「少壯湖南の乙女ら」? 何じゃか判らん。ともかくもしかし、第一首との対句を考えると、「永平寺貫首猊下(げいか)」(この呼び方は実際に普通に永平寺貫首を呼ぶもので、「猊下」は高僧に対する敬称である)に対応するから、「の」以前の「しょうそうこなん」は一続きの漢字文字列でなくてはおかしい。しかし、私には漢字も意味も相応しいものを想起出来ない。識者の御教授を乞うものである。

【二〇二一年七月八日追記】古い教え子のT君が『瀟湘(しょうしょう)を「しょうそう」と誤読していたのではないでしょうか。ただし、永平寺貫主と瀟湘湖南の乙女の対置がよくわかりません。ただただ、私の中では、禅宗のモノトーンの世界と、中国のイメージ上の乙女たちの柔らかな印象が、不思議な和音を奏でるだけですけれども……』と知らせて呉れた。それだ! 間違いない!

    君がため瀟湘湖南の乙女らは

    われとあそばずなりにけるかな

「瀟湘」は湖南省の名勝で、洞庭湖の南の「瀟湘八景」として、詩や絵画の主題に取り上げられて多くの作品が作られた。瀟は瀟水、湘は湘水で、この二つの川が合流して洞庭湖に注ぐ所は古くから絶景の地として知られ、夕照・秋月・夜雨・暮雪など、おもに夕暮れの勝景八つを取り上げて美景の名数となっている。則ち、「山市靑嵐(さんしせいらん)」(山中の町に霞の漂っている美しい風景の意) ・「漁村夕照」・「瀟湘夜雨」・「遠浦歸帆」・「烟寺晩鐘」・「洞庭秋月」・「平沙落雁」・「江天暮雪」の八景である。中国では宋代から絵画の題材として描かれ、本邦にはそれらの作品が鎌倉末から輸入され、玉澗や牧谿(もっけい)の作例が伝来している。また、本邦の初期の水墨山水画に鎌倉末の習作的な「平沙落雁」を描いたものが残っており、以後、狩野派を始め、漢画の主要な主題となった。なお、本邦の「大和八景」・「近江八景」・「金沢八景」など、後世これに倣って選ばれた名勝が各地に生まれて今に伝わっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。湖南はそれに附しても全く違和感がない。但し、「瀟湘」は歴史的仮名遣で「せうしやう」で、現代仮名遣に直しても「しょうしょう」である。しかし「湘」を「そう」と読み間違えることは奇異ではない。さらに私などは、目の覚めるような景観美の「瀟湘」がそのより大きな「湖南」地方を連想させる時、そこには中国の美しい乙女ら、美姫・美妓らが直ちに想起されるのである。それは芥川龍之介の名作「湖南の扇」(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)によるものである。しかして、この一首も感覚的には私は腑に落ちるものとなる。教え子に心より感謝するものである。

 

十月十九日

 目を覺ますと十一時半であつた。

 こんな夢を見た。

[やぶちゃん注:以下、夢記述は底本では全体が一字下げでポイント落ちである。]

 

 場所は熊本のやうであつた。一時間目の授業(學校は五高らしい)に出はぐれたので、私は下宿に歸つて、映畫でも見に行かうか(新市街に)と考へたが、何か下宿(森さんの家)に歸るのが背德のやうな氣がして、圖書館(これは東大の圖書館らしい)の方に步いて行くと、敎官の森大尉が私のそばにやつて來て、授業に出ないなら、一寸こつちに來いと言つて、小さな喫茶店(此の喫茶店は五高の武器庫の所にあつた)につれて行き、あの女を見張つていて吳れと私に賴み、どこかに行つてしまつた。私が見張りを賴まれたその女は、何か珈琲でも飮んでゐた。(私も何かのんだ)――いつの間にかその喫茶店が敎室に變り、丁度一時間目がすんだ所であつた。私が歸らうかなと思つてゐたら、扉を開いて小さな男が入つてきて敎壇に登り、大きな聲で講義を始めた。私の前には岸本がすわつてゐたので、あの男は誰だいと聞くと、あれが有名な末弘嚴太郞だと敎へてくれた。ぼくらは、あれをノートしなくていいのかと聞くと、(ぼくのまわりのひとびとはみんな熱心にノートをつづけてゐた)ぼくらは文科生だから、唯、聞いてゐさへすればいいんだよと岸本が答へた。しかし、そのとたんに末弘氏が階段を下りてぼくらの方に步いて來たので、ぼくはあわてて、そこらにあつた本をひろげてうつむいてゐた。不思議なことに、その本は、修猷館(しゆうゆうくわん)の同窓會雜誌であつた。となりに坐つてゐた男の所有品であつた。――いつの間にか私はひろびろとした博物館風の家の中をあるいてゐた。天井の高い、白いかべの建築であつた。左にその圖をかく。

 

Umezakinikki1

 

 此の建物には、私は一度來た事があつた。それは、Dと言ふ通路から先の建物の中の陳列品は、私はもう既にみたことがあるのであつた。私は、Eの所の壁にかけられた畫を一枚一枚見て行つた。(私は中島極らしい男と一緖にあるいてゐた。)その壁には、大きな、印象深い畫が二枚あつた。その畫を左に描く。

 

Umezakinikki2

 

 上の方の繪は、化猫が、虎とライオンとに戰を挑んでる畫で、此の日記帳にうつした畫はまずいが、下の方の猫が本當の化猫で、上の方のは、田舍の家にばけた猫なのである。私はその時、虎と猫とは同族であるが、どうして、それらが連合して獅子にあたらないのであらうか、やつぱり化猫である故、孤立してゐるのであらうかなど考へた。その下の小さな繪には、萬曆赤繪と言ふ貼紙がしてあつたけれど、何等變哲もない平凡な山水であつた。私は中島に此の繪の事をしらせようとしたが、もうその時は彼は近くには見當らなかつた。有名な萬曆赤繪とはこれかと思ひながらしばらく見てゐた。それからAに步いて行つた。Aは大きな水槽なので、その中に石で造つた蛙がたくさんゐた。

 しかし、よく見ると、皆生きているのだ。指でつつくと、背中は石だけれど、生々しい腹の肉を見せながら沈んで行つた。それから、ひろい大廣間の方に步いて行つたら、小便がしたくなつた。繪のBにあたる所が人口らしく、大きな戶があつて、机を四つ五つならべて、委員たちがこしかけてゐた。こんなひろい所に便所のない筈はないと思つて、あちこち見まわすと、Cの所が便所らしかつたので、そちらにあるいて行つたが、それは便所ではなかつた。そこの扉には、どういふ意味か知らないが、貼紙がしてあつて、東雲堂とかいてあつた。そこで目がさめた。尿意が激しかつた。

[やぶちゃん注:太字「東雲堂」は底本では傍点「◦」である。図は本カテゴリ始動の際に述べた通り、二図ともに指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。なお、この日の日記は異様に長く、面倒なので、夢記述の注をここで附す。

「修猷館」既に述べた通り、梅崎春生は昭和六(一九三一)年三月に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業している。

「萬曆赤繪」(ばんれきあかゑ(ばんれきあかえ))とは、中国の明の万暦年間(一五七三年~一六一九年)に、江西省にある知られた景徳鎮窯で焼かれた赤絵の磁器の総称。極めて美しかったことから一般化した、本邦での呼称である(中国では「万暦五彩」と呼ぶ)。薄い胎土に、白磁の染付(釉下コバルトによる藍の発色)にかけた釉(うわぐすり:これを「赤絵」と呼んだのである)が重厚な美を示すもので、実際には赤だけでなく、青・黄・緑なども配されてある色絵の白磁のこと。万暦時代のそれは特に華美で、官窯としても多量に製造されたが、輸出品も多く特に日本に多く残っている。日本では古くから「万暦赤絵」と呼ばれて尊重された。

「東雲堂」恐らくは、梅崎春生の故郷福岡で有名な和菓子店「東雲堂(とううんどう)」と同名であるから、彼の夢記憶を呼び出すキーとなったものと思われる。現在も福岡県福岡市博多区に本社を置く、和菓子製造企業である。郷土芸能である「博多仁和加(はかたにわか)」のお面を形どった「二加煎餅」(にわかせんぺい)は地元の福岡で今も非常に知られている。明治三九(一九〇六)年創業。私事であるが、私は、実は、あの「はかたにわか」の面が甚だ嫌いである。あれを見ると、強い嫌悪を感じる。理由は自分でも判らない。いや、実は、私が過去の嫌いな人間を想い出す時には、何故か、そいつは、必ず、あの面をつけているのである。あの面は、邪悪な内面を隠すもの、或いは人間としてのあるべき感情を持たないことを隠ぺいするものにしか、私には映らないように感ずる。]

 

 夢のことを言く事はむつかしい。正確に書くなら、いま書いた紙數の三倍の頁を要するであらう。今日の夢は、夢の中では、連續一貫した夢であつたのだが、書いて見ると、三つに分れた夢になつてしまつた。

 朝、目が覺めたとき、東雲堂のことをふと思ひ出したら、あとは糸をたぐるように次々に思い出した。しかし、一番始めの夢も、前からづつとつづいてゐたのであるが、それから前は思ひ出せない。此のゆめとは孤立してゐるが、友達と四人で家をかりた夢を見た。上二間、下四間の家であるが、岸本が專斷で一番良い部屋を取つて、一悶着起きたゆめであつた。

 

 今日は雨が降つてゐる。私は部屋の中に端坐して日記を書きながら、意識の腐敗して行く音を感じてゐる。

 今日あたり、誰か遊びに來て吳れると大いに助かるのだが、此の雨では誰も出て來ないであらう。

 

 月水金の芝の創作。駄作に戀幾(こひねが)はし[やぶちゃん注:底本はこのルビ附き漢字二字の右に編者によるママ注記がある。「こひねがふ」は「庶幾ふ」とは書く。]。こんなもの書いてどうする氣か。しかも卒業創作ではないか。

 

 綠川貢の「初戀」

 一讀して、呆然とした。ああ亦私は何をか言おう。これが日本一流の同人誌の誌面を堂々とかざる此の現狀。

 

[やぶちゃん注:以下、実在の人物名を挙げてのカリカチャライズのような、或いは、梅崎春生の想定した登場人物の設定なのかは、よく判らない。但し、底本編者は明らかに実在する人物と判断してフル・ネームを総て□の伏字にしてあり(最初のみ三字分)、その下方に『〈人名〉』という編注記をしている(除去した)。五名の人物まで、全体が名前の頭一字が突き出ている(一字下げ)だけで、全体は二字下げである。ブログのブラウザでは崩れて汚くなるので、適当な部分で改行して、字下げを施した。]

 □□□(ふきの煮付)

  小さな龜の子。秋の晝吹く風。

  村祭の日に、男がみちを步きながら、大學

  の講義の退屈さを思い出して、露店商人か

  ら龜の子一匹を買いました。少しばかり顏

  をあからめて。

 

 □□□□(牛肉寶來煮)

  新しいインクを買つて來て、一寸その色具

  合をみたいと思つたけれど、丁度近くに紙

  がなかつたのでその男は、そのインクを、

  下宿の部屋の白いかべにかけたら、鮮かに

  その色がつくだらうと思ひながら、めう

  にうそ寒く部屋の中にじつとしてゐました。

 

 □□□□(須田町食堂のメンチボール)

  タンクの無限軌道は、物すごい勢で土をは

  ねて進んで行つたが、中に乘つてゐる若い

  兵士は一體此のタンクはどこに行く氣だら

  うと、泣き出しさうな顏をして、機械をガ

  チヤガチヤと動かしました。

 

 □□□□(大根の煮付に、まちがえてソース

  をかけたやつ)

  男がいて、道を步きながら、情欲にかられ、

  ある空屋に入り、壁にむかつて Masturbation

  をしました。でも男は、汚れた壁を拭きもせ

  ず、まあいいや、人も見てないや、誰にも判

  る筈はないや、と呟きながら、その空屋を出

  て、步いてゆきました。奇妙に緊張した顏を

  して。

 

 □□□□(ひじきのこせう煮)

  殘忍な兎の子。チンポコが赤い。

 

 我が悲しみもここにあふれたり。新酒を酌み女を抱けば、幸福なほあらんか。

 現實をのりこしてしぶきをあげる。

 

 もう、今日は十二枚目だ。少し氣違ひ染みて來た。

[やぶちゃん注:以下、底本では、標題「創作の斷片」を除いて「由紀の饒舌はいとはかつた。」までポイント落ちで全体が一字下げ。]

 

 

    創作の斷片     十月十九日夜

 その男に、私はあるとき、外套をもらつたことがある。べつだん、私が、その外套を非常にほしがつたわけでもなかつたし、その男が、私の貧しさをあはれにおもつたわけでもなかつた。ただ、突然、私の下宿にやつてきて、この外套、君にあげる、と、めうに眞面日な顏で言ひ、着てゐた外套をわざわざ脱いで、私の部屋の壁にかけ、そのまま默つて歸つていつた。秋の終りのことなので、その男にしても、その外套は、冬を越すためには、必要なものであることは言ふまでもなかつた。

 

 私が高等學校に入り、寮の生活を始めたとき、橫紙が私の同室者であつた。此の高等學校の寮は、六疊の部屋に二人づつ入るやうになつてゐて、その組合せはどんな法則によつてゐるものかは知らなかつたけれども、橫紙も、私も、どちらも土地のものではなく、となりの縣出身であつたから、きつと、さういふ關係から二人が同室になつたにちがひない。

 

 舞臺には、大きな向日葵(ひまはり)を一本だけ畫いた、汚れた背景の布がさげてあつた。その巨大な植物は、ぎらぎら光る、毒々しい花をつけてゐて、その花は、幹に少しぱかり弧を描かせて、たゆげにうなだれてゐた。そして音樂の破れたラツパのよく響く、まづしい旋律と共に、眞紅な、奇妙な形の衣服をまとつた踊子が三人、右の袖の所から、ぴよんぴよんはねるやうにして出て來た。なぜ、あんな衣服を着なければならないのだらう。背景には、なぜ向日葵が一本きりしか描いてないのだらうか。そんな意味のない疑問が、頭の中にぐるぐるとまはり出すと、私は何かしら寒氣立つやうなはげしい恐怖におそはれた。

 

 墓の前にぬかづく由紀のすがたをみながら、私はわざと、その丸い腰のへんから心を外(そ)らしてゐた。由紀のやうに心汚れたをんなの、かうした神妙な姿は、白い光のやうに、妙にあざやかに、私の心を打つものであつた。此のをんなを間において、私と橫紙が、何故爭はねばならないのか。ぼんやりと遠い空を眺めながら、私はそんなことを考へてゐた。私は、いままで此の女に愛情をもつたことがあるのか。

 

 由紀のさうした姿だけが、私を救ふものだ。由紀のさうした神妙さだけが、私を浮び上らせるにちがひない。

 

「ぼくは矢張りあの女が好きだつたのだ。あの日ぼくは言ひそびれたやうだつたけれど、とほいとほいむかしからあのをんなのことばかり思ひつづけてゐたやうな氣がするのです。あのをんなさへ生きてゐて吳れるなら、ぼくはきつと此の生活から浮び上ることが出來る。ね。梅崎さん。あなたはぼくをひどく憎んでゐるやうだけど、此のをんなのことについてだけは、何もしないで下さい。もしあのをんなの心が、あなたに傾いたら、私は――あなたを殺す!」

「忘られないのか。それほど。」

 私は、さう呟いてゐた。何か目に見えないものが、私をぐつと押すのを感じながら、しかし、それは聲にはならなかつた。私はだまつて、橫紙が、卓子に伏して聲をはなつて激しく泣き出すのをみつめてゐた。聲を出すまい。そればかりじつと心に念じてゐたのだ。卓子の上にこぼれた酒が、くらい電燈の光をうけて、きらりと冷たく光つた。

 

「ね。あたし、踊つてるとき、決して見物の方を見ないのよ。あの小屋の、うしろの壁に、ほら、化粧品とか、カルピスとかの、宣傳のポスターが十枚ほど並べて貼つてあるわね。あそこばかり見ながら踊るの。けんぶつの顏みるのこわい。おどれなくなる。ときどき後の方で、あの物賣のばあさんが、知つてるでしよ。幕合にラムネとかピーナツを賣つてあるく、あのばあさんが、じつと立つて見てるのに氣がつくことがあるの。こわいのよ。とても無表情なかほで。」

 ちよつと言葉をとめて、そのまねの表情をした。

「じつとみつめてるのよ。いつもにこにこしたひとなんでしよ。それが白い眼をして、じつとあたしのはうばかり見てるやうな氣がするの。あたしが舞臺をとちるのも、きまつてそんな時なの。でも、もういいわ。あたし修業がつんだから、ポスターばかり目をつけて、そんな外のところに目をそらさない自信ができたのよ。もうせんは、あのポスター、カルピスのばかりだつたけど、今はいろんなものがあるのね。あたし、何と何とがはつてあるか、ちやんと覺えてゐるのよ。いつも見てるせいなのよ。あんた覺えてる?」

「いや」私は、あの小屋の妖しい雰圍氣を思ひ出してゐた。しかし、由紀の饒舌はいとはしかつた。

 

 改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ。太宰治のことを書いたるなり。天才。

 吾は頃日、太宰治を否定せんとして果さず。

 彼は天才である。故にこどくであるが。

[やぶちゃん注:ここでやっと「十月十九日」分の長い日記が終わる。

「綠川貢」(みどりかわみつぐ 明治四五(一九一二)年~平成九(一九九七)年)年)は小説家。本姓は内藤。東京生れ。中学中退。『日本浪曼派』や『人民文庫』に所属した。昭和一一(一九三六)年上期の第三回芥川賞候補者で、その対象作が、この「初戀」及び「花園」という小説らしい。詳しい事績は不明。

「寶來煮」こういう料理があると思って調べたが、ない。不詳。

Masturbation」自慰。オナニー。

「ひじきのこせう煮」「鹿尾菜の胡椒煮」だろう。

「創作の斷片」とある以下の話は不詳。但し、ここで出る「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。

「梅崎さん」梅崎春生は自作の小説の中で本名を使うことは、知る限りでは、ない。

『改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ』芥川賞が何としても欲しかった太宰が、無茶苦茶な茶番を起こし、その騒動と太宰の虚言に対して、師である佐藤春夫が堪忍袋を切らしてしまって『改造』に書いた「芥川賞――憤怒こそ愛の極点(太宰治)」という記事である。ロンバルジア氏のブログ「文芸的な、あまりに文芸的な」に詳しい経緯が書かれてある。興味のある方は、そちらをどうぞ。私は太宰は小説こそ好きだが、人間的には好きでない。彼の「小動の鼻」での十八歳の女給田部シメ子との心中未遂というのは、心中を装った彼の殺害ではなかったか? とさえ疑っている人間である。]

 

十月二十日

 昨日の新聞では、魯迅が死んだ。秋雨霖々。机冷えたり。莨(たばこ)不味し。本をめくる指、かなしく長し。

[やぶちゃん注:以下、「それが、素晴らしい美少年だつたのだ。」まで、底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。]

 

 何のために、あの男は、いちいち私の眞似をするのであらう。何のために。私は、彼の表情のどこかに隱されてゐる殘酷な美しさを思ひ出すとき、私の憎惡の、はてしれぬ深さとひろがりをまざまざと知るのである。白い道のはてに、追ひつめて、先は絕壁、兩側はきりぎし、にやにやわらひながら、唇歪めてせまつてくるその男の表情の、めうに殘忍な美しさが、私を絕望におもむかせた。

 あいつには反逆できるが、その美しさには、ああ、私にはどうしても反逆できない。

 

「いいな。此の詩は。ちよつと。」

 私は、外の原稿を整理しながら、忙しく番號を打つて行く、同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた。

「ちよつとうまいじやないか。誰だい、此の詩人は。」

「橫紙象八つて言ふ男だよ。新入生らしい。まだ逢つたことはないけど。」

 その男は頭も上げずに答へた。

 

「僕、橫紙ですが。」

 それが、素晴らしい美少年だつたのだ。

 

 夜、原とオペラ館に行く。淸水金一、よし。

[やぶちゃん注:「魯迅が死んだ」偉大なる中国の作家魯迅(ルーシュン 一八八一年~一九三六年:本名・周樹人)はこの前日の十月十九日、上海で国防文学論戦の最中、持病の喘息の発作で急逝した。五十五歳であった。

「霖々」(りんりん)は長々が降り続くさま。無論、魯迅への梅崎流の哀悼の辞である。

「同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた」このシチュエーションは五高の『龍南会雑誌』の編集作業がモデルである。

「オペラ館」東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草二丁目五番)にあった映画館・劇場である。関東大震災からの再建後はマキノ映画製作所が映画を供給したが、昭和六(一九三一)年十二月に新築オープンし、その「こけら落とし」に榎本健一・二村定一のダブル座長から成る軽演劇劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演を行って以降、軽演劇やオペラの劇場としても流行った。

「淸水金一」(明治四五(一九一二)年五月五日~昭和四一(一九六六)年:本名は雄三(のちに武雄)はコメディアン・映画俳優。浅草の軽演劇及びトーキー初期を彩るミュージカルや、コメディのスターとして知られる。愛称「シミキン」。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」や「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」の決まり文句で知られた。山梨県甲府市生まれ。上京し、昭和三(一九二八)年十六歳の折り、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、「清水金一」を名乗った。師匠金太郎は榎本健一(エノケン)と「プペ・ダンサント」(Poupée dansante:「踊る人形」の意)を結成したが、昭和九(一九三四)年四月に亡くなったため、金一はエノケンの師匠柳田貞一門下に入り、森川信らが、大阪千日前に結成したレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加した。昭和一〇(一九三五)年夏、浅草に古川ロッパが開いた先に出た劇団「笑の王国」に参加し、また、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍、一躍、軽演劇界のスターとなった(この頃、「シミキン」の愛称がついた)。その後など、詳しくは、参照した当該ウィキを参照されたい。]

 

十月二十二日

 大朝、橫山隆一の養子のフクチヤン、麻生豐の、只野凡兒以來のヒツトである。構想、繪と共に、ほめるに足る。

[やぶちゃん注:「大朝」てっきり、『大阪朝日新聞』のことかと思ったが、考えて見れば、東京の彼がわざわざかく言うのは如何にもおかしいので(次々注参照)、これは素晴らしい漫画を載せてくれた「大」新聞『朝日新聞』という謂いであろうから、「だいあさ」と読んでおく。

「橫山隆一」(明治四二(一九〇九)年~平成一三(二〇〇一)年)は高知県高知市生まれの漫画家・アニメーション作家。

「養子のフクチヤン」ウィキの「フクちゃん」によれば、この昭和一一(一九三六)年一月二十五日に『東京朝日新聞』で始まった連載四コマ漫画「江戸っ子健ちゃん」の脇役として登場したが、『着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて』、『主人公の健ちゃんよりも人気が出た』『ため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた』。その後も「フクちゃん」シリーズは、『連載媒体を幾度か変えながら』、昭和四六(一九七一)年まで、長期に亙って『連載された』とあり、また、『当初は「養子のフクチャン」の題で開始』され、『大阪朝日新聞』にも『数日遅れで掲載された』とある。

「麻生豐」(あそうゆたか 明治三一(一八九八)年~昭和三六(一九六一)年:本名はこれで「あそうみのる」と読む)は漫画家。「只野凡兒」は、彼が昭和七(一九三二)年に朝日新聞社に入社して、その翌年から昭和九(一九三四)年七月まで『朝日新聞』の夕刊で『只野凡兒 人生勉强』=『只野凡兒』を連載したもので、好評を博した。]

 

十月二十三日

 正午に起きいで朝髮をしたため、いま、机のまへにすわり、茫然と窓のそとをみてゐる。風がはげしいのだ。空が、おそろしくなるほど、蒼く、梢をはなれた木の葉が、ひよひよと、ななめに飛んでゆく。視野のどこかで、

Umenikkihibunnsyou

こういう形をしたものが、絕間なくうごいてゐる。また、神經が衰弱したものにちがひない。何かしら、私と、ぜんぜん關係のないものたちばかりが、私を取りまいてゐる。窓の前の木に、つめたい日の光がさしてゐるのだが、それが、映畫のやうに匂ひがないのだ。そして、風にあふられて、わやわや騷ぐのだが、それをみながら、私は、私の感官の、亂視になつてゐるのをかんじる。空のいろが、何かの憶ひ出につながつてゐさうな氣が、先刻からしてゐる。そして――生きてゐたな、ああ、よく生きてゐたな、と、淚ばかり出さうな氣持だ。

 

  日かげらば 土に燈をともせ 苔の秋

 

  秋風や 藥飮む舌も やせほそる

 

  白き小石も 風にふかれて 冷えにけり

 

 心にごり、にがきくすりを、わづかばかり飮む。いのちの痴呆じみた面貌の冷酷さが、どこか、たつといものに思はれる。

 

 なぜ、人間のゆびは、五本あるのか、なぜアルバムが、私のむかしのすがたを、繪卷のやうにならべてつめたいのであるか。なぜ、をんなの肉體が、あんなに汚れてるやうに見えながら、やるせなく慕はしいのであるか。なぜ、なぜ。さうした、いみのないやうに見える疑問が、解明される前に、私はまづ、あのくも一片もない大空の深さにおそれをののかねばならぬ。

 さうしたあらゆる原始的なぎもんは、恐怖を基(もとひ)としてひろがつてゐるやうだ。

 

 自虐の極、人間の風貌は痴呆に似た表情をただよはせてくるものである。そして、その時だけ、ほんとの夢がある。

 此の世で、ほんとの夢をもつものは、そんなひとびとと、ふうてん病院のかんじやたち。のこりのひとが夢といふのは、みんな下らない妄想のこと。

 

 夢をみてゐる人の世界では、「はい」と、「いいえ」が同義語であり、「よろこび」と「かなしみ」の區別がない。友達のまへで、おれは生きてゐるぞ、と昂然と言ひ放つことは、おれは死んでゐるぞ、と悄然と言ひ放つこととまつたくおなじことなのだ。無意味だと言ふことを止し給へ。言ふことだけに、意味がある。

 

 夢を見てゐる人の特徵は、ひそやかにも、心愉しいこと。ときどき、むいみなことをつぶやくこと。

 思い起す千古の傑作、牧野信一「天ぐどう食客記」

 

 小學校のとき、私は、ある同級の子がすきであつた。その子の眼が、たらのやうであるとおもつた。たら?

 私は今にいたるまで、たらと言ふ魚をみたこともないし、食べたこともない。なぜ、その眼が、たらを連想させたか。私の幼い夢がそこにあつた。そこから私の幼いゆめは發足した。去年、故鄕のデパートで、私は、成長した彼に出合つた。彼は中學校をでて、體操學校に行き、いまは、中學の體操の敎師であつた。彼は私に、「出世したね」と言つた。そして、二人で、食堂で、ライスカレーを食べた。話ししながら、彼は上目使いで私をときどき見た。やはりそれが、たらであつたのだ。一匹のたらが、目の中で、はつらつと泳いでゐた。

 

 世の中で一番たつといもの、それが虛無である。文學は社會を指導するものではない。人間性をみちびくものである。どこへ? 茫々たる虛無へ。

 

 虛無は心愉しい世界である。(心愉しい世界が虛無であるのではない)

[やぶちゃん注:この画像で示したそれは(実際には本文に組み込んであるが、改行して中央に配した)、拡大して見た結果(拡大したものを配した)、丸い粒状を繋げていることが判り、これは私には実に親しい馴染みのものであって、間違いなく、見事に病気ではない正常範囲内の物理的現象としての眼の硝子体の中の飛蚊症(ひぶんしょう)のそれである(梅崎春生は「神經が衰弱したものにちがひない」と言っているのは、寧ろ、問題であって、これを精神変調の結果とする全く誤った認識であり、その方が深刻と言えるのである)。私は小学生の低学年の頃から(恐らく二年生七歳の時を記憶している)、朝の朝礼で晴天の空を見上げると、視覚の一部に、これと全く同じ、透明な粒が絡まったようなものを見かけた頃から(それを動かして楽しんだ自分を想い出す)、現在に至るまで、見かける。今は、右眼は殆んどなく、左眼には十年程前から、ごく小さな蝌蚪(おたまじゃくし)が、一尾、泳いでいる。これは青年期に専門書で調べたが、正常範囲内の飛蚊(ひぶん)で、所謂、硝子体周縁を形成する正常な構造物である細胞や線維が遊離して硝子体内に出た物、後部硝子体が人によって剥がれ易いか、或いは経年変化で剥離して硝子体内に出た浮遊物である。これは治療の必要はない。私の現在の左の「蝌蚪ちゃん」も、一応、気になるので眼科医に見て貰ったが、「問題ない」とされ、「うまく硝子体の底に沈んで動かなくなって呉れると邪魔にならないんですがね」と言われた。時々、実際の虫が一匹飛んでいるのと間違えることがあるくらいが、少し面倒なこだけに過ぎない。但し、この飛蚊症が、今まで全く見られなかった人に突然、多量に発生することがあり、これは網膜裂孔や網膜剥離の前兆とされ、他にも、網膜の血管の疾患や、眼球内の感染症、或いはそうした疾患による硝子体内への出血などが疑われるため、直ちに眼科に見て貰う必要がある。以上は、念のため、「三和化学研究所」公式サイト内の「飛蚊症」を参考にした。気になる方は必ず見られたい。

「ふうてん病院」「瘋癲病院」。精神病院の古称。

「牧野信一」(明治二九(一八九六)年~昭和一一(一九三六)年)は小田原生まれの小説家。早稲田大学英文科大正八(一九一九)年卒。同年、「爪」で島崎藤村に認められ、「凸面鏡」 (大正九年) ・「父を売る子」(大正一三(一九二四)年)・「父の百ヶ日前後」(同前)などで作家としての地位を確立、その後、モダニズムの影響を受け、「村のストア派」(昭和三(一九二八)年)・「ゼーロン」(昭和六年) ・「鬼涙村(きなだむら)」(昭和九年) などでは、ギリシア・ローマ神話や中世騎士物語などを下敷きにして、日本では稀な幻想小説を生み出した、しかし「淡雪」・「裸虫抄」(孰れも昭和十年)に至って、再び初期の陰鬱な作風に戻り、小田原町新玉町の実家の納戸で自ら縊死を遂げた。享年三十九歳。

「天ぐどう食客記」「天狗洞食客記」。昭和八(千九百三十三)年作。「青空文庫」のこちらで読める(新字旧仮名)。]

 

十一月一日

 十二時超床。手紙を三本書き、外出。「紫苑」。

 

 白い道を步いてゐた。

 一人の子供が、めうに、眞面目なかほをして、一匹の犬をみつめてゐた。ほほをふくらませて。犬が近づくと、いきなり、ロから、多量の水をはき出して、犬にかけた。犬はおどろいて逃げさつた。子供は滿足げにつぶやいた。

「ああ、犬に水かけてやつた!」

 殘虐におもむく瞬間の表情の美しさ! 私は戰慄しながら、さう思つてゐた。

 

 「紫苑」にて、壇一雄と會ふ。眼鏡をかけた、面長の男である。麥酒(ビール)をのんでゐた。私は、ジヤム付トーストを食べた。外に出たら風がつめたかつた。

 

十一月二日

  舖道(ほだう)にも燈(ひ)はともりたり秋の雨よ

   人繁き巷(ちまた)にぎんぎんと降れ

 

 シネマパレスで「自由を我等に」「或る夜の出來事」をみる。どちらも古い感激を靴の修繕みたいに再生した。

[やぶちゃん注:「自由を我等に」私の好きな作品。ルネ・クレール監督の一九三一年のフランス映画(À nous la liberté )。大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品。映画音楽の大家として知られるジョルジュ・オーリック(Georges Auric 一八九九年~一九八三年)が音楽を担当している。翌年(日本ではこの昭和七(一九三二)年初公開)の「ヴェネツィア国際映画祭作品賞」を受賞し、本邦でも「キネマ旬報外国映画ベストテン」の第一位に挙げられた。

「或る夜の出來事」(It Happened One Night )は一九三四年製作(日本公開も同年)のアメリカのラヴロマンス・コメディ映画。監督はフランク・キャプラ(Frank Russell Capra 一八九七年~一九九一年)。主役はクラーク・ゲーブル(Clark Gable 一九〇一年~一九六〇年)とクローデット・コルベール(Claudette Colbert 一九〇三年~一九九六年)。同年のアカデミー賞の作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚本賞と主要五部門を総舐めにしたオスカーの特異点の作品である。]

 

十一月八日

 明日より、小說に取りかかることを誓ふ。

 

十一月九日

 松本と東宝に行く。茫々夢の如し。

 習俗とか、觀念とか、あらゆるものが、頭の中で轟然(ごうぜん)と音立ててなだれ落ちた。もう言葉はない。

 人の世の幸福だけが私と對立してゐるやうに思はれた。こいつだな。こいつだな。と絕えずつぶやいてゐた。私をいままでおびやかしてゐたのは、この氣持なんだな。爆彈投下。虛妄と死と。生きることの苦しさ。どこかで、頭の中のどこかで、巨大な水車が水を切つて、ごつとん、ごつとん、と𢌞つてゐた。

[やぶちゃん注:「東宝」の「宝」は正式会社名では正字「寶」だが、系列映画館の看板や同社の発行する映画雑誌の画像を複数見たところ、総て「宝」であるので、正字化をやめた。ここは旧日比谷映画劇場のことか。]

 

十一月二十八日

 日本文學を滅亡させるものは、「文學界」の連中である。橫光利一を默殺する彼等は、次代の若き作家らに默殺されるであらう。そして、その次代の作家らの特微は、マルキシズムの洗禮をうけなかつたことである。

 文學的精神が、如何に良質のものであらうとも、縛られたものは縛られた範圍に於て良質となるだけだ。總てに於て良質となるのではない。私達の精神は、藝術的であるべきではあるが、文學的であるべきではない。

 その意味において、私は先づ今までの文學を否定し、古典に歸るべきである。何故、今の文學が(所謂(いはゆる))文學的であるのか、私は、その責をマルキシズムに歸したい。偉大なる不具、橫光を默殺し得た「文學界」の連中が、わづかに身を以て逃れようとした「文學界」の六號雜記の卑俗的方向は、もはや、人の笑ひ草になるであらう。民衆が、それらを手を打つて歡迎した瞬間が、おそらく日本文學の滅亡であるにちがひない。物を知らなすぎると言つて、當代の文士ほど、ものしらずはいないであらう。見れば、ひとかどのさむらひたちのやうであるが、生れ落ちて今まで、一體何事をしてゐたのか?

 

 恐るべきは意識の卑俗であり警(いや)しむべきは精神の偏狹である。前者に傾けば市井の車夫ともえらぶ所なく、後者に陷らば文學靑年と嘲けられよう。

 

 理性は科學であり、感性は詩である故、感性は常に理性に先行すべきであるが、理性の橫暴が、ときとして、感性をとらへてはなさないことがある。謂(い)はば觸角を奪はれたかたつむりのやうなものであるが、人間の不幸、これに勝るものはない。島袋正次の悲劇もじつにここに淵源するものであらう。私の興味をそそるのは、壓迫に堪へかねた感性が弱々しく觸角をのばした方向が、實に浪漫であつたといふことである。

 これを私は、フロイド的な原因であると思ふのであるが、その相剋が、おそらく、彼の今度の題目であらう。柿は落ちないのが當然だ。柿をつつき落す鳥のことを考へるのは噴飯である。

 

 ××××[やぶちゃん注:底本に人名とあり、編者による伏字であることが判る。]の精神が、どうして、あのやうな偉大なる常識と合流するに到つたか、私は思ひをここに致さねばならんと思ふのだ。理性の脆弱性であるか、それとも、虛無への盲目性であらうか。

 

 航海において、羅針盤があり、羅針盤には度盛りがあり、また修正器もある。さうした分化した機能があつまつて一つの船を正しい方向に動かすのを考へたとき、私は人生に對して悲しい疲れを感じる。人間に對して美しい諦めを感じる。何故さう分化されたのか。

 もうそれは人間の業でない。背後に立つ神々の殘忍な微笑を、私は、精一杯な努力で、憎惡するのみだ。

 

 ちかごろ、人間でなくてはならんことをしみじみ感じる。ふしあはせな事には、私の「新風流」精神は他人の理解する所でない。俗惡なフオルマリズムをして此の精神を嘲笑せしめたのが、私の「過去」であつたと言ふことは、私がもつとも恥ぢなければならないことである。此の羞恥感を私は利用しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「文學界」当該ウィキによれば、『文藝春秋が発行する月刊誌で、文學界新人賞を主催する。文藝春秋の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『オール讀物』が大衆小説部門を担っているのと対をなす。この『文學界』と、『新潮』(新潮社発行)、『群像』(講談社発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ、これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い』。『当初』は昭和八(一九三三)年十月に『文化公論社より創刊される。当初』の『編輯同人は、豐島與志雄、宇野浩二、廣津和郎、川端康成、林房雄、武田麟太郎、小林秀雄の』八『名』であったが、『のちには、深田久弥らが編輯同人に加わった。同社では』翌年二月の第二巻二号まで刊行した。『この文芸誌の主な出版方針は、芸術至上主義であった。この年に六月に『文圃堂書店から復活』第一巻一号が刊行され、昭和十一年三月まで』続き、同年四月から同年六月までは『文學界社が刊行』したものの、『ここで経営不振により、小林が菊池寛に相談』し、『菊池の決定』により、『文藝春秋旧社が雑誌に庇を貸すことに決まり』、同年七月]『から文藝春秋社により刊行された。この時点では同人が編輯権を持ち、月』一『回編輯会議を開き』、三『ケ月交代で編輯当番を置いた。やがて』、昭和十二年三月からは『小林と河上徹太郎が常任編輯者となった』。『しかし』昭和十三年に、石川淳の「マルスの歌」を掲載したところ』、『反戦意識を高めるという理由で発禁にされ、作者と該当号の編輯主任河上徹太郎も罰金を払うことになった。このとき、菊池寛が罰金を肩代わりした』ことから、『その後』、本『雑誌は発行全体を文藝春秋が担うようになった』。昭和十五年四月には』、『小林が編輯委員を辞任』、昭和十七年九月号・十月号に『「近代の超克」座談会記事を掲載』、翌年八月には、遂に『経営編輯上の一切の責任が同人の手を離れ』、『文藝春秋社に委ねられ』た。しかし、昭和十九年四月、『雑誌統合を命じられ、廃刊』となった。戦後の昭和二二(一九四七)年六月』、『文學界社から再刊』、これは翌年十二月まで継続したが、昭和二四(一九四九)年三月より、再び『文藝春秋新社の刊行』、後、『現在に至るまで「文藝春秋」が発行している』とある。

「橫光利一」(明治三一(一八九八)年~昭和二二(一九四七)年)は福島県北会津郡東山温泉生まれだが、三重県東柘植村や伊賀の上野及び近江大津などで少年時代を過ごした。大正五(一九一六)年、早稲田大学高等予科文科に入ったが、学校には通わず、習作に努め、中退、菊池寛を知り、大正一二(一九二三)年創刊の『文芸春秋』の編集同人となり、同年発表の「日輪」「蠅」で新進作家としてデビュー、翌年の『文藝時代』創刊号の「頭ならびに腹」で〈新感覚派〉の呼称が与えられた。小説以外に評論・戯曲も執筆、私小説・プロレタリア文学に対抗し、昭和三(一九二八)から昭和六年にかけて「上海」を発表。昭和五年の「機械」から〈新心理主義〉の作品「寝園」「紋章」などを発表した。昭和一一(一九三六)年に渡仏し、帰国後、大作「旅愁」を書き始めたが、未完のまま病没(死因は胃潰瘍が腹膜腔に穿孔して急性腹膜炎を併発したものとされる)。因みに、彼は昭和一一(一九三六)年の第三回『文學界』賞を受賞している。因みに、彼は芥川龍之介から強い影響を受けていた。

「六號雜記」各種雑誌などで、六号活字で組まれた短いコラム記事。雑報や埋め草などが多かった。

「島袋正次」梅崎春生の親友で小説家の霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:梅崎春生より二歳年上)の旧姓。ウィキの「霜多正次」によれば、元日本共産党員。『沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後』、昭和一五(一九四〇)年に『応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった』昭和二〇(一九四五)年五月、『オーストラリア軍に投降し、捕虜となる』。『復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら』、『小説を書』き、昭和二五(一九五〇)年に雑誌『新日本文学』に『「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようにな』った。『このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めてい』き、昭和二八(一九五三)年、『初めて沖縄本島に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄本島を直接の題材にした作品を発表し始める』。昭和三一(一九五六)年に『新日本文学』に連載を開始した長編「沖縄島」で『毎日出版文化賞を受賞』、翌年には、『西野・窪田・金たちとリアリズム研究会を結成し、「現実変革の立場にたつリアリズム」を追求した。また、新日本文学会のなかでも幹事を歴任していたが、当時の会をリードしていた武井昭夫たちの文学方法との対立が激しくなり』、昭和三九(一九六四)年の第十一回大会に於いて、『幹事会の報告草案が部分的核実験禁止条約の支持を一方的に表明したり、アヴァンギャルドとリアリズムの統一という特定の創作方法を押しつけるようなものになろうとしたことに反対を表明し、同じく幹事であった江口渙と西野辰吉と共同して、相違点を保留して全体が合意できる一致点にしぼった対案を大会の場で提案しようとした。しかし、大会では対案の提出は認められず、大会の秩序を乱したという理由で、その後新日本文学会を除籍された。これは、新日本文学会と日本共産党との核兵器対策での路線対立も関係しており、日本共産党の意見に沿った霜多等は排除された』。昭和四〇(一九六五)年の『日本民主主義文学同盟創立の際には副議長に選出され、新日本文学会に代わる民主主義文学運動の団体として、運動の発展に貢献した』。昭和四六(一九七一)年には、一九六〇年代の『沖縄の現実を描いた長編』「明けもどろ」で日本共産党が設けていた『多喜二・百合子賞を受賞した。この時期を中心にして、多くの長編小説を書き、沖縄県や日本の現実の矛盾を深く追及する作品を書いた』。昭和五〇(一九七五)年には文学同盟議長に就任(昭和五八(一九八三)年まで)、それを『退任したあとは、主として同人誌『葦牙』に拠って活動し』、昭和六二(一九八七)年には『文学同盟も退会した。その後、日本共産党を除籍され、当時の自らの文学活動を省みる回想記』「ちゅらかさ」を発表している。

「フロイド的な原因」超自我による意識の検閲・抑圧のことか。

「××××」この人物、誰か知りたい。

「フオルマリズム」formalizm。元は一九一〇年代から二〇年代末にかけて、ロシアの文学研究者や言語研究者によって推進された文学・芸術運動。文学作品の自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明を目指した。構造主義や文化記号論の先駆と目される。「ロシア・フォルマリズム」とも呼ぶが、ここは広義の「内容よりも形式を重んじる形式主義」を指していよう。]

 

十二月一日

 小說八枚を書く。目鼻がつく。よみかへすと、どこか、すみわたらないものがある。具象性がないのだ。もともと、架空の物語ゆゑ、仕方もない話である。七八枚にいたり、やつとスタイルをとりもどす。

 

十二月十五日

 憂鬱な日なりし。

 

十二月二十八日

 劫初より末世に吹きとほるかぜのなかに、此のやうな憂鬱にひかるこの不幸。

 

 ひる、本鄕座で、「モンパルナスの夜」を見る。不吉の豫感あり。

 世界の終り、近づきたりし。悔い改めよ!

[やぶちゃん注:「本鄕座」現在の東京都文京区本郷三丁目にあった、元は明治初期から戦前まであった舞台劇場であったが、昭和五(一九三〇)年から松竹の映画館となり、第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。

「モンパルナスの夜」フランスの映画監督の名匠(脚本家・俳優でもあった)ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier 一八九六年~一九六七年)の一九三三年の映画‘La tête d'un homme ’(「男の首」:ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon 一九〇三年~一九八九年:ベルギー出身のフランス語で書いた小説家・推理作家)のメグレ警部物の推理小説(一九三〇年)が原作)の邦訳題。]

 

十二月二十九日

 原と本鄕座で「會議は踊る」を見る。

[やぶちゃん注:「會議は踊る」(Der Kongreß tanzt )は、ドイツ映画で、ナポレオン・ボナパルト失脚後のヨーロッパを議した一八一四年のウィーン会議を時代背景にした一九三一年製作のオペレッタ映画。本邦ではこの昭和十九年に公開された。監督はエリック・シャレル(Erik Charell:Erich Karl Löwenberg:一八九四年~一九七四年)。音楽(ウェルナー・リヒャルト・ハイマン(Werner Richard Heymann 一八九六 年~一九六一年)がよく知られる。私は好きな作品である。]

 

 ワーテルロー。

 お正月が早く來るか、お金が早く着くか。

[やぶちゃん注:「ワーテルロー」不詳。映画かと思ったが、この時期の製作には見当たらない。「お正月が早く來るか、お金が早く着くか」というジリ貧の極限を迎えたことを、ナポレオン最後の戦いにして彼の運命を決した宿命的な「ワーテルローの戦い」にカリカチャライズしたものか。]

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