フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 日本山海名産図会 第五巻 阿蘭陀船 / 第五巻本文~了 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄89 / 大正八(一九一九)年(一) 薄田淳介宛三通(創作専念への運動の本格化) »

2021/07/01

日本山海名産図会 第二巻 目録・石品

 

日本山海名産圖會巻之二

 

  ○目録

○豊島石(てしまいし)

○御影石(みかけいし)

○龍山石(たつやまいし)

○砥礪(といし)

○芝(さいはいこけ)

○日向香蕈(ひなたしいたけ)

○熊野石耳(くまのいしたけ)

○同 蜂蜜(はちみつ) 蜜蝋(みつらう) 會津蝋(あいづらう)

○山椒魚(さんせううを)

○吉野葛(よしのくず)

○山蛤(やまかへる)

○鷹峯蘡薁虫(たかみねゑびつるのむし)

○鷹羅(たかあみ)

○鳬羅(かもあみ)

○豫刕峯越鳬(よしうをこしのかも) 摂刕霞羅(せつしうかすみあみ) 無雙返(むさうかへし)

○捕熊(くまとり)【墮弩(おし)  洞中熊(ほらのくま) 以斧撃(おのをもつてうつ) 取膽(きもをとる) 試眞偽(しんきをこゝろむ) 製偽膽(にせをせいす)】

[やぶちゃん注:以上は概ね、二段組であるが、一段で示した。また、最後の「捕熊」の後は二行割注式で小文字表記されているが、以上のように示した。また、その冒頭の「墮弩(おし)」の「墮」は完全な(こざとへん)になっており、(つくり)は「左」の下が「土」となっている変体字であるが、「国立国会図書館サーチ」の「山海名産図会」の書誌注記に従って、この字を採った。主標題の意味はそれぞれのパートに譲るが、「墮弩(おし)」だけ、まるで判らず、気になる方がいるかも知れぬので、フライングしておくと、同パートに図が出る(底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれ)。「墮」(おとし)「弩」(ゆみ:大弓。城攻めの際の投石機。通常は巨石を強力に弾き出す兵器)である。]

 

 

石品(いしのしな)

石は山の骨なり。「物理論(ぶつりろん)」に云ふ、『土精(とせい)、石となる。石は氣の核(たね)なり。氣の石を生ずるは、人の筋絡爪牙(きんらくさうげ)のごとし。』云々。されども、其の石質においては、萬國萬山(まんこくまんさん)の物、悉く、等しからず。是れ、風土の變更なれば、即ち、氣をもつて生ずること、しかり。又、草木魚介(さうもくぎよかひ)、皆、よく、化して、石となれり。「本草」に「松化石(せうくわせき)」、「宋書」に「柏化石(はくくわせき)」、稗史(ひし)に「竹化石(ちくくわせき)」あり。「代醉編」に、『陽泉夫餘山(ふよさん)の北にある淸流、數十步(すとうぼ)、草木(さうもく)を涵(しつめ)て、皆、化して石となる。』。また、イタリヤの内の一國に、一異泉あり、何(いつれ)の物といふことなく、その中に墜(お)つれば、半月(はんげつ)にして、便(すなは)ち、石皮(せきひ)を生じ、その物を裏(つゝ)む。また、歐邏巴(わうろつば[やぶちゃん注:ママ。])の西國(にしこく)に一湖有り、木を内に插(さしは)さんで、土に入る。一段(いつたん)、化(くわ)して、鉄(てつ)となる。水中(すいちう)は、一段、化して、石となる、といへり。本朝、また、かかる所、多し。凡そ、寒國(かんこく)の海濵湖涯(かいひんこがい)、いづれも、しかり。すべて器物(きぶつ)等(とう)の化石(くわせき)も、其の所になると知るべし。また、石に鞭(むち)うちて、雨を降らし、雨をやむる「陰陽石」ありて、日本(につほん)にても、寶龜七年、仁和(にんな)元年、及び「東鑑」等(とう)にも、その例(れい)、見えたり。江刕(かうしう)石山(いしやま)は、「本草」にいへる「陽起石」にて、天下の竒巖(きかん)たり。また、「日本紀」、『雄畧の皇女(こうによ)伊勢齋宮(いせさいぐう)にたたせ給ひしに、邪陰の御うたがひによりて、皇女(くはうによ)の腹中(ふくちう)を開かせたまひしに、物ありて、水のごとし。水中に石あり。』といふこと、みゆ。これ、醫書に云う「石瘕(せつか)」なるべし。然(しか)れば、物の凝(こり)なること、理(り)においては、一なり。品類(ひんるい)においては、鍾乳石・磁石(じしやく)・礜石(よせき)・滑石(くわつせき)・礬石(はんせき)・消石(せうせき)・方解石・寒水石(かんすいせき)・浮石(かるいし)、其の餘の竒石・怪石・動物などは、曩(さき)に近江の人の輯作(しうさく)せる「雲根志」に盡きぬれば、悉く辨ずるに及ばず。

○「イシ」といふ和訓は「シ」といふが本語にて、「シマリシツム(沈[やぶちゃん注:「シスム」の右に小さく打たれている。])」、俗に「シツカリ」などのごとく、「物の凝り定まりたる」の意なり。○「イハ」とは「石齒(いは)」なり。「盤(いは)」の字を書きならへり。かならず、大石にて、齒(は)・牙(きば)のごとく、「健利(すると)き」の意なり。○「イハホ」とは「巖」の字を充てゝ、「詩經」、「惟(これ)石(いし)巖々(がんがん)」と、いひて、おなじく、尖利立(するとくた)ちたる意なり。「萬葉」には「石穗(いわほ)」とかきて「秀(ほ)出(いづ)る」の議(ぎ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]なり。又、「いはほろ」とも、いへり。かたがた轉(てん)して、惣(すべ)てを「いし」とも、「いは」とも、「いはほ」とも通じて、いへり。○日本(にほん)にして器用(きよう)に造る物、すくなからず。就中、五畿内・西國に產するがうちに、「御影石」・「立山石(たつやまいし)」・「豊島石(てしまいし)」等(とう)は、材用に施し、人用(にんよう)に益して、翫物(くわんぶつ)にあらず。故に其の三、四箇條を下(しも)に擧げて、其の余(よ)を畧す。○「和泉石(いづみいし)」は、色、必ず、靑く、石理(いしめ)、精(こまか)にして、碑文(ひもん)等(とう)を刻す。又、阿刕より、近年、出だすもの、これに類(るい)す。その石、「ねぶ川」に似て、色、綠に、石の形、片(さき)たるがごとし。石質(せきしつ)は硬からず。また、城州にては、「鞍馬石」・「加茂川石(かもがはいし)」・「淸閑寺石(せいがんじいし)」等、是れを、庭中(ていちう)の飛び石・捨て石に置きて、水を保(たも)たせ、濡れ色を賞し、凡(すべ)て、貴人茶客(きじんさかく)の翫物(くわんもつ)に備ふ。

[やぶちゃん注:「物理論(ぶつりろん)」三国時代を終わらせた西晋(二六五年~三一六年)の、呉の処士で思想家であった楊泉が撰した自然哲学書(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」の同書を見ると、各部が後代の叢書類の引用であるから、原本は伝わらないようである)。楊泉は漢及び六朝の唯物論的思想を継承し、中国思想史に於ける自然観の発展の中にあって、先駆的な認識論に立った人物である。上記ページを見るに、『土精爲石』。『石氣之核也。氣之生、石、猶、人筋絡之生爪牙也』(句読点は私が打った)とある。

「本草」に「松化石(せうくわせき)」明の李時珍は「本草綱目」巻九の「金石之三」の末尾の「石芝」の「集解」の中で、「松化石」を挙げている(この「石芝」は、現行では、仙人が食用とするとされた茸である菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ(霊芝) Ganoderma lucidum 辺りに比定されているが、この場合、時珍は、実は、「松化石」という名詞を出しているのではなく、

   *

嘉靖丁巳[やぶちゃん注:明の嘉靖三十六年で、西暦一五五七年。]、僉事の焦希程、詩を賦して之れを紀(しる)し、「比康子、斷松、石に化するの事を以つてす。而れども其の名、知れず。時珍、圖及び「抱朴子」の說を按ずるに、此れ、乃(すなは)ち、石桂芝なり。海邊に、「石梅」有り、枝幹、橫斜なり。「石柏葉」。「側柏」のごとし。亦、是れ、「石桂」の類と云ふ。』と。

   *

とある。裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis のことであるが、ここで問題なのは、「海邊」で、これは海辺の陸地部分ではなく、沿岸の浅海と読めることである。而して、松のようにゴツゴツした感じ、松ぼっくりのような感じで、潮下帯に棲息するものとすれば、直ちにサンゴ類が思い到る(「本草綱目」は海産生物には誤りが多いのだが)。而して、実は「石芝」には現在、今一つ、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目クサビライシ科フンギア属 Fungia のクサビライシ類

を指すのである。円形の単体で、群体を作らず、クサビライシ Fungia scutaria は最大長径が二十五センチメートルにも達する大型サンゴで、ポリプは共生藻を持ち、造礁サンゴに属するが、造礁サンゴの中で群体を造らないイシサンゴ類は本種のみである。「くさびら」は「きのこ」の古名であり、形がキノコの傘に似ていることに由来し、前のレイシとの親和性がある。上面の中央に細長い溝があり、そこから多くの襞が放射状に並び、茸の笠の裏側にも似る。襞の間から、太く短い触手を出してプランクトンを摂餌する。熱帯太平洋のサンゴ礁の水深一~四メートルの砂底に普通に見られ、本邦では小笠原諸島・奄美諸島以南のサンゴ礁浅海に普通に棲息している。

『「宋書」に「柏化石(はくくわせき)」』「宋書」は中国の正史二十四史の一書。全百巻。南朝梁の沈約(しんやく)らになる奉勅撰。四八八年完成。中文サイトで調べたが、見当たらない。

「稗史(ひし)」「はいし」が正しい。書名ではなく、正史に記録されていないか、正史とされなかった民間で編纂された史書・伝聞記録・民間伝承及びそれらに基づいて編纂された書物を包括して指す語である。

「竹化石(ちくくわせき)」竹の化石とされるものは実在する。但し、そう思われていたものが実は針葉樹の化石だったというケースもある。

「代醉編」「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書(百科事典)。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

「涵(しつめ)て」「沈めて」。

「イタリヤの内の一國に、一異泉あり、何(いつれ)の物といふことなく、その中に墜(お)つれば、半月(はんげつ)にして、便(すなは)ち、石皮(せきひ)を生じ、その物を裏(つゝ)む」不詳。次注参照。

「歐邏巴(わうろつば[やぶちゃん注:ママ。])の西國(にしこく)に一湖有り、木を内に插(さしは)さんで、土に入る。一段(いつたん)、化(くわ)して、鉄(てつ)となる。水中(すいちう)は、一段、化して、石となる、といへり」「livedoor NEWS」の『なんでも石に変えるイギリスの「ナレスボロの泉」 真相は』に、『イギリスにある「ナレスボロの泉」はその水に触れたものが何でも石になってしまうと言われています』。『ここまで聞くと、言い伝えとか伝説なのではないかと思ってしまいますが、真相はまるで反対』で、『動画をチェックしてみればわかる通り』(英語のYouTube の動画有り)、『泉の周りにはほうきや、仮面、ロブスターなど石化してしまったさまざまなものがぶらさがっています』。『この泉の形がどくろに似ていることから、地域の人々には呪われた泉であると考えられてきましたが、近年、この泉の水が非常にミネラル豊富であることがわかりました。物体が泉に触れると、そのミネラル分が表面に』層を成して『固まり、石化してしまうのです』。『石化するには数ヶ月かかるそうで、最近では地元の人がテディベアなどを石化させて、お土産屋さんで販売するなどしているそうです』とある。「ナレスボロの泉」(Knaresborough)は Mother Shipton's Cave にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイド・パネルの石化物の写真も見られたい。

「寒國(かんこく)の海濵湖涯(かいひんこがい)、いづれも、しかり」「涯」は「果て」の意で、ここは北の寒い国というより、北方に辺境、人が余り立ち入っていない場所を指していよう。而してそういうところの断層や崖には化石が、ワンサカ、獲れるので、腑に落ちる。縄文・弥生の遺物も当時は石化した奇物と見えたであろう。

『また、石に鞭(むち)うちて、雨を降らし、雨をやむる「陰陽石」あり』中国ではこの手の話が多い。八木章好氏の論文「石痴の話――『聊斎志異』「石清虚」賞析」(PDF・慶應義塾大学藝文学会発行『晋文研究』(第八十七巻・二〇〇四年十二月発行)に、

   《引用開始》

 石は、古来民間伝承の上で天候と密接な関係を持つと考えられている。いわゆる「陰陽晴雨石」の話では、陰の石を打つと雨が降り、陽の石を打つと晴れるとされる[やぶちゃん注:ここに注記号があり、そちらには『明・陶宗儀撰『綴耕録』巻六に載せる「宝晋斎硯山図」に付した添え書きに拠る』といった注がある。]。石に水をかけたり、泥を塗ったり、或いは生け贄の血を塗ったりして雨を降らせるというように、石が雨乞いの対象となる話は数多い。また、雲が水蒸気から成ることを知らない古代人は、雲は山奥の岩石の間や洞窟の中から生成されると信じており、詩語で岩石を「雲根」というのは、岩や石を雲の生ずる根源とする発想からであり、晋・陶淵明「帰去来兮辞」に「雲無心以出岫、鳥倦飛而知還(雲は無心にして以て岫を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る)」とあるのも、雲が山中の洞穴から生じるとする考えに由来する。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。

『寶龜七』(七七六)『年、仁和(にんな)元』(八八五)『年及び「東鑑」等(とう)にも、その例(れい)、見えたり』「吾妻鏡」のどこを指しているのか、今のところ、不明。「吾妻鏡」には何度も雨乞いの記事はあるが、それを今、凡て調べる気にはならない。発見したら、追記する。

 

「江刕(かうしう)石山(いしやま)」滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗大本山石光山石山寺(いしやまでら)の本堂が建つ、国天然記念物指定「石山寺硅灰石」の珪灰石(wollastonite:ウラストナイト。石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入してきた際、その接触部付近に形成される)は、鉱物(ケイ酸塩鉱物)の一種の巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来となっている。

『「本草」にいへる「陽起石」』巻十一「金石之五」の「太陽石」の羅列された石名の中に出現する。他に「猪牙石」「菩薩石」「金精石」などがでるところを見るに、勃起したリンガ様(よう)のもののように思われる。時珍もよく判っていないようだ。

『「日本紀」、『雄畧の皇女(こうによ)伊勢齋宮(いせさいぐう)にたたせ給ひしに、邪陰の御うたがひによりて、皇女(くはうによ)の腹中(ふくちう)を開かせたまひしに、物ありて、水のごとし。水中に石あり。』といふこと、みゆ』「日本書紀」の雄略天皇三年(四五九)年の条に、

   *

三年夏四月、阿閉臣國見(あへのおみくにみ)【更(また)の名は「磯特牛(しことひ)」。】。栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人廬城部連武彥(ゆゑのいほきべにむらじたけひこ)とを譖(しこ)ちて[やぶちゃん注:謗って。]曰はく、

「武彥、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり。」

と【「湯人」、此れを「臾衞(ゆゑ)」といふ。】。武彥の父枳莒喩(きこゆ)、此の流言を聞きて、禍(わざはひ)の身に及ぶことを恐れ、武彥を廬城(いほき)の河(かは)に誘ひ率きいて、僞りて、鸕鷀沒水捕魚(うかははしむるまねして[やぶちゃん注:鵜飼いがするように魚を捕らえる真似をして。])して、因其不意(ゆくりもな)くして、惟(こ)れを打ち殺しつ。

 天皇(すめらみこと)聞こしめし、使者を遣はして、皇女を案(かんが)へ問はしめたまふ。

 皇女、對(こた)へて言(まう)さく、

「妾(わらは)は識らず。」

と。

 俄かにして、皇女、神鏡(あやしきかがみ)を賷-持(も)ちて、五十鈴(いすず)の河の上に詣でて、人の不行(あるかぬところ)を伺ひて、鏡を埋(うづ)めて經(わな)ぎ死ぬ。

 天皇、皇女の在(ま)さざるを疑ひ、恆(つね)に、闇の夜に、東西、求-覓(もと)めしめたまふ。乃(すなは)ち、河上に於いて、虹の見ゆること、虵(をろち)のごとくて、四、五丈の者あり。虹の起(た)つ處を掘りて、神鏡を獲(え)たり。移り行くこと未だ遠からずして、皇女の屍を得つ。割(さ)きて之れを觀れば、腹中に、物、有りて水のごとし。水の中に、石、有り。枳莒喩、斯(こ)れに由りて、子の罪を雪(すす)ぐるを得、還つて、子を殺せしを悔い、報(たむか)ひに、殺さむとす。國見、石上神宮(いそのかみじんぐう)に逃げ匿(かく)る。

   *

鏡のアイテムの意味(恐らくは栲幡皇女は巫女であり、シャーマンの用いる神鏡・魔鏡の類いではあったろう)や、この栲幡皇女の体内の状態の意味するものが今一つよく判らないが(彼女が「湯人廬城部連武彥」とまぐわって子ができていたとする見解が誤りとすれば(「日本書紀」の記者はその冤罪をはっきりと語っているととれる)、妊娠「水」は羊水様(よう)のもので、そこに「石」があるとすれば、これは双生児の一方が正常に生まれた者の体内に残存するところの「奇形囊腫」を私は直ちに想起した。手塚治虫先生の「ブラックジャック」のピノコは元はそれである)、妙に惹かれる話である。恐らくは、これは唐突に出現する話で、本来は全く別な土地神の神話やシャーマンの話に属するものではなかったかと私は感じている。

「石瘕(せつか)」この語は広く動物に見られる体内結石を指す語である。

「礜石(よせき)」猛毒の砒素を含む鉱物の一つ。「砒石」(ひせき)とも呼ぶ。白いらしい。信頼出来る学術的データによれば、平安初期(十世紀)には文献に登場しており、石見国鹿足(かのあし)郡にあった旧笹ヶ谷鉱山が産地であったとされる。注意したいのは、ここは石見銀山とは百キロメートル近くも離れていること、さらに「石見銀山鼠捕り」で知られたそれは、実はこの笹ヶ谷でとれたものから作られていた事実である。ウィキの「石見銀山」によれば、『石見銀山では砒素の鉱石は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは』亜砒酸(三酸化ヒ素。As2O3)『主成分とし、殺鼠剤として利用された。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』とある。それを一家心中に使った黒澤明の「赤ひげ」の長坊(長次)のエピソードは作中の白眉と言える。

「滑石(くわつせき)」(talc:タルク)は珪酸塩鉱物の一種。食品添加剤・黒板用のチョーク・裁縫の時に使うチャコなどで知られ、玩具やベビー・パウダー(これは別に「タルカム・パウダー」とも呼ぶことがあるが、これは以上の英名に由来するものである)などの化粧品類や医薬品・上質紙の混ぜ物としても知られる。

「礬石(はんせき)」明礬石(みょうばんせき)。カリウムとアルミニウムの含水硫酸塩鉱物。白色・灰色・桃色で、ガラス光沢を有する。火山岩が変質した所に多く、繊維状・塊状で産出する。ミョウバンやカリ肥料の原料である。「AFPBB News」のこちらの記事によれば、二〇一八年に洛陽市紗廠西路で発掘された前漢時代の墓から出土した『青銅の壺に入っていた液体は、硝石とミョウバンの水溶液「礬石水(ばんせきすい)」で、古代人が硝石とミョウバンを使って調合していたという文献の記載と一致しており、液体が「仙薬」であることが分かったと発表した』とある。

「消石(せうせき)」石灰石(岩)であろう。

「寒水石(かんすいせき)」茨城県日立市助川付近に産出する大理石の石材名。一般には純白の大理石をも指す。古生代の結晶質石灰岩で、白地に灰色の縞があり、結晶粒も大きい。建築用内装材、彫刻材、配電盤用絶縁材などに用いられる。

「浮石(かるいし)」火山性岩の「輕石」に同じい。

「雲根志」本草学者で奇石収集家として知られる木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年:近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)生まれ。捨井家に生まれたが、母の生家である木内家の養子となった。養子先の木内家は栗太郡山田村(現在の草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄であった。幼い時から珍奇な石を好み、宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃から、物産学者津島如蘭に本草学を学び、京坂・江戸その他各地の本草家や物産家と交流、物産会でも活躍した。「弄石社」を結成して奇石を各地に訪ね、収集採集も盛んに行った)が、生涯をかけた収集歴訪をもとに、独自に鉱石類を分類して発刊したのが、奇石博物誌として名高い、私の偏愛する名奇著「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)である。彼は当時流行の弄石の大家ではあるが、その態度はすこぶる学究的で、「石鏃人工説」を採るなど、実証的見解を示し、我が国の鉱物学・考古学の先駆的研究を果たしたと評される。シーボルト著の「日本」( Nippon :一八三二年~一八八二年)の中の石器・勾玉についての記述は彼の業績の引用である。津島塾では大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった本書の作者ともされる木村蒹葭堂と同門であり、宝暦六(一七五六)年に江戸に移って田村藍水(栗本丹洲の実父)に入門した時には、同門下の一人であった平賀源内らとも交流している。作者(この場合、蒹葭堂でも蒹葭堂でない人でも構わないと思う)が、斯界では、よくしられた作者の名を出さなかった辺りは、作者に、ちょっとライバル意識があったからのようにも思われるところである。

『「イシ」といふ和訓は「シ」といふが本語にて、「シマリシツム(沈[やぶちゃん注:「シスム」の右に小さく打たれている。])」、俗に「シツカリ」などのごとく、「物の凝り定まりたる」の意なり』小学館「日本国語大辞典」によれば、語源説は(よく意味の判らないものはカットした。出典は示さない)一番目に『イは発語の詞。シは沈むの意』とし、他に『イは発語。シは下の意』とか、『ヰシムル(居占)ものであるから、ヰシという。ヰは動かぬこと。シはしまり堅いこと』、或いは、『イと小の意をもつシとを結んで岩の小破片から生じた物の名とした』などというのが載る。漢字の「石」は「崖」(「厂」)の下に横たわる「□」(石の形)の象形である。

『「イハ」とは「石齒(いは)」なり。「盤(いは)」の字を書きならへり。かならず、大石にて、齒(は)・牙(きば)のごとく、「健利(すると)き」の意なり』同じく小学館「日本国語大辞典」の語源説では、『イハ(石歯)の意』とするのを最初として、『イハホ(石秀)の略言』とか、『イシハ(石大)の意。ハは張り太った義』とか、『イは接頭語。ハはホ(秀)から分化した語か。山の石すなはち岩の意で、磯の石すなはちイシに対する語』(これは個人的には面白いと思う)他がある。漢語は「山」と「石」の合字で会意文字であるが、この漢字は元来は「巖」の俗字である。

『「イハホ」とは「巖」の字を充てゝ、「詩經」、「惟(これ)石(いし)巖々(がんがん)」と、いひて、おなじく、尖利立(するとくた)ちたる意なり』これは前の「イハホ」(岩秀)がそれらしい。石漢語は形声で、「巖」は「山」が意符で、「嚴」(「ゲン」・転音「ガン」)が音符であると同時に、「きびしい」の意も表わす。原義は、切り立って峻(けわ)しい山の崖の意であり、ひいてはそこに表出した岩頭、「いわお」を指す。

『「萬葉」には「石穗(いわほ)」とかきて「秀(ほ)出(いづ)る」の議(ぎ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]なり』「万葉集」の巻第三の「挽謌(ばんか)」の一首である「石田王(いはたのおほきみ)の卒(みまか)りし時に丹生王(にふのおほきみ)の作れる歌一首幷(あは)せて短歌(二首ある)の内の反歌(短歌)の第一歌(四二一番)、

     反歌

 逆言之 狂言等可聞 高山之 石穗乃上尓 君之臥有

   *

 逆言(およづれ)の

     狂言(たはこと)とかも

   高山の

    いはほの上に

      君が臥(こや)せる

   *

『「いはほろ」とも、いへり』「ろ」は上代の接尾語。名詞について語調を整える。但し、東歌・防人歌・「常陸國風土記」などに集中して見られることから、東国方言かとも考えられている。「万葉集」の(三四九五番)、

   *

 巖(いはほろ)の

      岨(そひ)の若松

   限りとや

        君が來(き)まさぬ

         心(うら)もとなくも

   *

男の絶えて来ぬことを断崖絶壁の端の松に喩えたもの。

「御影石」日本の墓石に使われている代表的な石。花崗岩。名の由来は旧兵庫県武庫郡御影町の一帯で、この地で採掘されていた本御影石が花崗岩の代表的な銘柄として全国にその名前を知られたことで、日本では花崗岩を「御影石」と呼ぶようになった。なお、ここには「澤之井」という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」という名の起源とされている。御影石は地下のマグマが地殻内の深いところで冷えて固まった結晶質の石材で、硬く、風化に強く、重さもあり、他の石に比べて吸水率も低いという特徴を有する。耐久性に優れた丈夫な石として古くから道標・石鳥居・石垣などに使われてきた。現在でも墓石を始めとして、建築物の外壁材・造園・舗道用石材などの構造物に最もよく用いられる馴染みの深い石材である。その硬い性質のため、加工技術の発達していない時代の石造物には、ごつごつとした鑿跡が残るものもあります。御影石(花崗岩)の特徴の一つに、石を生成する石英・カリ長石・斜長石・黒雲母・白雲母・普通角閃石などの鉱物の混ざり方が、どれも一定ではないという点があり、同じ御影石であっても、様々な模様や色のものが採れ、産地によっても違いがあるだけでなく、同じ産地内にあっても採石される場所が違うだけで、模様や生成物の比率が有意に変わる(以上は「一般社団法人 全優石」の「御影石について」を参照した)。

「立山石(たつやまいし)」これは「竜(龍)山石」(たつやまいし:「宝殿石」とも呼ぶ)の誤り。兵庫県高砂市で産出する。この附近とか、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真。「ストリートビュー」に切り替えて見ると、雰囲気が判る。前者が以下の石材店のある場所に近い採石場である)。当地の「松下石材店」のサイトから引用する。『古代より』(古墳時代は確実)『現在もなお』、千七百『年ものあいだ同じ場所から採石され続けている歴史ある石材は国内で唯一』、『竜山石だけです。均質で粘りがあり、細かい加工が可能です』。『石色も青色・黄色・赤色(希少)の』三『色があり、水磨きをすることでやさしい肌ざわりを得ることができます。上品さと素朴さが共存し』、『優しい表情、柔らかな表情を持つ石であり、時に重厚感・高級感を演出します』。『どのような所へ使用しても周囲の環境との見事な調和がとれ、古代から現代に至るまで、人々の心に響き、人の心へ安らぎの空間を感じさせる石です』。『現在では採掘元が数件となり、希少価値が高まっています』。『高砂市の中央に位置する伊保山を中心とした山々は、垂直に切り立った石切場の岩肌がどこからでも眺められ、高砂の風景の一つとして親しまれています』。『当社の採石場所は竜山の北に位置しています』。以下、「竜山石の歴史」の条。凡そ一億年前の『白亜紀後期、西日本の各地で大規模な火山活動が起こ』り、『すでに堆積していた流紋岩が水中で粉砕され、流紋岩溶岩のかけらが堆積し再固結してできるハイアロクラスタイトという稀な石となる』。『古墳時代』には、『東は滋賀県、西は山口県までの広範囲で高級石材「大王の石」として、大王や有力豪族の石棺に使用される。また当時造られた』「石の宝殿」(これは私の「諸國里人談卷之二 石宝殿」で詳注を附しておいたので是非読まれたい。ここはいつか行ってみたい場所である)『は、宝殿山の中腹にある約』五百『トンの浮石で、生石神社の祭神として祭られ、江戸時代の末にはシーボルトによりヨーロッパにも紹介されている』。『鎌倉~室町時代』には、『五輪塔・石仏などが製作され』、同国『内や大阪・京都・奈良に大きく広がっていく』。『江戸時代』には、『姫路城や明石城の石垣など、建築構造資材として大量に使用される』。『その後、姫路藩の専売品となり』、『鳥居・燈籠・狛犬・石臼・石垣・石段などに広く利用され』、『全国に供給されていく』とある。実は後で正しく「龍山石(たつやまいし)」として立項されている。

「豊島石(てしまいし)」香川県小豆島の西方にある豊島(てしま:現在、小豆郡土庄町の属する)から産出する岩石。安山岩の下にある凝灰角礫岩で、炉石・石灯籠などの細工石として用いる。次で独立項として出る。

「和泉石(いづみいし)」大阪府阪南市付近から産する砂岩。大阪から九州にかけても分布する。青緑色又は緑灰色を帯び、石質が硬く、石碑などに用いる。近世に於いて、和泉国日根郡(現在の大阪府阪南市・泉南市・泉南郡岬町)付近を本拠に全国で活躍した石工集団である泉州石工(せんしゅういしく)の当該ウィキも、是非、読まれたい。

「ねぶ川」根府川石。神奈川県小田原市南方の根府川駅から白糸川中流及び米神(こめかみ)にかけて採石される安山岩の石材名。この安山岩は箱根火山の古期外輪山を形成する溶岩の一部に相当し、東方の海岸方向に流出した溶岩流部分が採掘されている。鉄平石(てっぺいせき)と同じく板状節理が進んでいるために「へげ石(いし)」(「へぐ」は「剝ぐ」で「薄くはがす」の意)とも呼ばれ、古くから石碑・敷石・壁面装飾用の石材として利用されてきたが、現在では採石量が少ない。

「鞍馬石」京都の銘石として全国的な知名度を誇る庭石。硬質で濃い茶褐色の落ち着いた色合いを特徴とし、樹木や芝生の緑とよく調和する。

「加茂川石(かもがはいし)」代表的な水石(山水景情石の略。手頃な大きさの自然石で、観賞して山水の景情を楽しめるものを指す)の一つ。京都の北山を水源とする清流が高野(たかの)川や賀茂川に合流する辺り一帯から産するもので、古くから最高の質を備えた雅石として名高い。俗に「加茂の七石」といわれているが、産出する場所によって石質や味わいに次のような差異がある。(一)「八瀬真黒(やせまぐろ)」は高野川上流八瀬の産で、落ち着いた黒い色調に「巣立ち」と称される粒状の小穴が無数にある。(二)「賤機(しずはた)」。静原(しずはら)川の産で、珪石に糸を巻いたような「糸巻石」が出る。(三)「鞍馬石」。既注。(四)「畚下(ふごろし)」。鞍馬川と貴船(きぶね)川の合流点から産出する茶褐色のチャート。(五)「貴船」。貴船川産。帯紫色の雅石。(六)「雲ヶ畑(くもがはた)」雲ヶ畑産。黄褐色のチャート。(七)「紅加茂」市ノ瀬産。赤色のチャート(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「淸閑寺石(せいがんじいし)」「平家物語」の悲恋で知られる高倉天皇と小督局所縁の、京都市東山区にある真言宗歌中山(うたのなかやま:山号)清閑寺(せいかんじ)の南に清閑寺山があったとされ(現在、山は特定されていない)、その付近で盆石に用いられた石を産出しており、それがかく呼ばれたらしい。]

« 日本山海名産図会 第五巻 阿蘭陀船 / 第五巻本文~了 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄89 / 大正八(一九一九)年(一) 薄田淳介宛三通(創作専念への運動の本格化) »