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2021/07/03

芥川龍之介書簡抄(追加) 明治三八(一九〇五)年六月二日・日本海軍装甲巡洋艦「出雲」艦長(伊地知李珍大佐)宛・自筆絵葉書・軍事郵便・芥川龍之介満十六歳の現存最古の書簡

 

明治三八(一九〇五)年六月二日(消印)・帝國軍艦 出雲艦長殿(自筆絵葉書・軍事郵便)

 

Izumokantyouate

 

――――――

日本海々戰

の大捷を祝

し奉る

――――――

東京府立第三

中學校一年級

 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介満十六歳。府立第三中学校(現在の両国高等学校)一年。岩波旧全集では、最終巻第十二巻の追加書簡冒頭に置かれてある。そちらの画像はモノクロームであるが、ここでは「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の日本近代文学館蔵とするカラー写真のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。新全集の宮坂覺氏の年譜には、五月二十七日土曜日の条に、『日本海海戦の勝利を報ずる号外に感激する』とあり、『日本海海戦の勝利に際し、伊地知(いぢち)李珍』(すえたか)『(出雲艦長)に自筆絵葉書を送る。これが現存する最初の書簡である』とある。前者は、晩年の大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された「追憶」(リンク先は私の古い電子化注であるが、今回、表記をリニューアルした)に基づくとある。以下にそこから全部を引く。

   *

       日本海海戰

 僕等は皆日本海海戰の勝敗を日本の一大事と信じてゐた。が、「今日晴朗なれども浪高し」の號外は出ても、勝敗は容易にわからなかつた。すると或日の午飯の時間に僕の組の先生が一人、號外を持つて教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と聲をかけた。この時の僕らの感激は確かに又國民的だつたのであらう。僕は中學を卒業しない前に國木田獨步の作品を讀み、なんでも「電報」とか云ふ短篇にやはりかう云ふ感激を描いてあるのを發見した。

 「皇國の興廢この一擧にあり」云々の信號を掲げたと云ふことは恐らくは如何なる戰爭文學よりも一層詩的な出來事だつたであらう。しかし僕は十年の後、海軍機關學校の理髮師に頭を刈つて貰ひながら、彼も亦日露の戰役に「朝日」の水兵だつた關係上、日本海海戰の話をした。すると彼はにこりともせず、極めて無造作にかう云ふのだつた。

 「何、あの信號は始終でしたよ。それは號外にも出てゐたのは日本海海戰の時だけですが。」

[やぶちゃん注一:國木田獨步の小説に「電報」という小説はない。該当する獨步の作品は「號外」である。][やぶちゃん本日ここでの追加補注:「號外」は明治三九(一九〇六)年八月発行の雑誌『新古文林』に掲載、後に『濤聲』に所収された。リンク先は後に私が電子化したものである。]

[やぶちゃん注二:「朝日」は、明治三三(一九〇〇)年、イギリスのジョン・ブラウン社竣工の日本海軍の戦艦。主艦「三笠」とほぼ同型。日露戦争では第一艦隊第一戦隊に属し、二番艦として活躍した。大正一二(一九二三)年に特務艦となり、関東大震災の救助活動に活躍したが、「ワシントン条約」により、兵装を撤去し、工作艦兼潜水艦救難艦となった。「日華事変」の勃発により工作艦となり、「太平洋戦争」では馬来部隊に属し、南方勤務についたが、昭和一七(一九四二)年、アメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没した。]

   *

「出雲」日本海軍装甲巡洋艦。当該ウィキによれば、「出雲型」一番艦。艦名は出雲国に由来し、艦内には「くしなだひめ」(「やまたのおろち退治」の説話で登場する。大山津見神の子である「あしなづち」・「てなづち」夫婦の八人の娘の中で最後に残った娘。原文で「童女」と記述されるように、「くしなだひめ」未だ年端もいかぬ少女であった。「やまたのおろち」の生贄にされんとしたところを、「すさのおのみこと」により、姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変じ、「すさのおのみこと」は、この櫛を頭に挿して「やまたのおろち」と戦い、退治した)の神像を祀っていた。「日露戦争」では、『上村彦之丞提督(第二艦隊司令長官)率いる「上村艦隊」の旗艦として参加』し、「日本海海戦」では、『殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦』「磐手」(いわて)とともに『活躍している』。「第一次世界大戦」には、『メキシコの動乱に際して警備艦として派遣され』、『続いて』、『第二特務艦隊として地中海に派遣された』。『大戦終了後、練習艦(類別上は巡洋艦籍のまま)として遠洋航海に従事した』が、『旧式化により』大正一〇(一九二一)年九月より、『一等巡洋艦から海防艦』『に類別変更された』。『その後も』昭和七(一九三二)年『以降、第三艦隊旗艦としておもに上海黄浦江に停泊した』。昭和一二(一九三七)年七月以降の「第二次上海事件」及び「日中戦争」では、『支那方面艦隊旗艦として上海方面にあった』。同年八月には、『中華民国空軍の空襲をうけ、対空戦闘をおこなった(中国空軍の上海爆撃)』。昭和一六(一九四一)年十二月八日の「太平洋戦争」開戦時も、『支那方面艦隊旗艦として上海で迎えた』。昭和一七(一九四二)年七月一日、『日本海軍の海防艦定義変更にともない、「出雲」は一等巡洋艦に復帰し』、翌年、『中国大陸から内地にもどり、瀬戸内海で練習艦となった』が、「太平洋戦争」末期の昭和二〇(一九四五)年七月二四日、呉軍港への米軍の『空襲により』、『転覆・沈没した』。実に戦没するまで四十五年の間、現役にあった名艦であった。この当時の艦長は大佐であった伊地知季珍(いじちすえたか 安政四(一八五七)年~昭和一〇(一九三五)年)であった。彼は鹿児島県出身で、明治七(一八七四)年十月に海軍兵学寮(第七期)に入学、明治一六(一八八三)年に海軍少尉に任官。明治一九(一八八六)年に「金剛」(奇しくも芥川龍之介が先だって乗り込んだ軍艦である)分隊長となり、「愛宕」・「武蔵」・「筑波」の各分隊長、「龍驤」・「橋立」の各砲術長などを経て、明治二七(一八九四)年六月、「扶桑」砲術長に就任して「日清戦争」に出征、明治二八(一八九五)年二月には常備艦隊参謀に転じ、同年八月、初代「大和」(初代葛城型二番艦で三本マストの汽帆兼用の軍艦)副長となり、翌年四月、海軍少佐に昇進し、佐世保鎮守府参謀に着任。「扶桑」副長に異動し、明治三〇(一八九七)年十二月に海軍中佐に進級した。明治三一(一八九八)年三月、呉造兵廠検査科長に就任し、造兵監督官(イギリス出張)を経た後、「武蔵」艦長に就任、明治三四(一九〇一)年七月には海軍大佐に昇進した。「金剛」・「浪速」の各艦長を経て、明治三六(一九〇三)年九月に「出雲」艦長に着任し、「日露戦争」に出征、「蔚山沖海戦」及び「日本海海戦」に参加した。その後、「鹿島」回航委員長として渡英した後、同艦長を経て、舞鶴鎮守府参謀長に就任、海軍少将に進級、呉工廠長となり、海軍中将に進んだ。以後、第二艦隊司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・海軍将官会議議員を歴任。大正六(一九一七)年三月、後備役に編入となった(以上は当該ウィキに拠った)。海軍機関学校教官時代の芥川龍之介と接点があったら、きっと喜んだに違いにない。惜しい。にしても、この葉書、誰が提供したのだろう。ちょっと気になる。まさか? 伊地知本人!?

「大捷」(たいせふ)は「大勝(たいしやう)」に同じで、「圧倒的勝利」の意。]

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