日本山海名産図会 第二巻 御影石
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「攝刕御影石(せつしうてみかげいし)」。左のそれは本文の「打ち附け割(わり)」の手法が描かれてある。なお、以下の解説は原画を見て戴くと判るが、「﹆」が随所に打たれてある。但し、現在の感覚からは、「、」とも「。」ともあるべきところが多いので、今回は再現するのをやめた。]
○御影石
攝州武庫(むこ)・菟原(むはら)の二郡(にくん)の山谷(さんこく)より出だせり。山下(ふもと)の海濱、御影村に石工ありて、是れを器物にも製して、積み出だす。故に御影石とはいへり。御影山の名は、城刕加茂、「あふひ」を採る山にして、此の國に山名あるにあらず。ただ、村中に「御影の松」有りて、「讀古今集(しよくこきんしう)」[やぶちゃん注:「讀」の漢字はママ。「續」の誤刻。]に基俊卿の古詠あり。元、此の山は海濱にて、徃昔(むかし)は牛車(うしぐるま)などに負ふすることはなかりしに、今は海渚(かいしよ)、次第に侵埋(うもれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]て、山に遠ざかり、石も、山口(やまくち)の物は、取り盡きぬれば、今は、奧深く採りて、二十丁[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]も上の「住よし村」より、牛車を以つて繼(つ)いで御影村へ出だせり。有馬街道生瀨川原(なませかわら)などの石も、この奧山とは、なれり。此の上品の石といふは、至つて、色、白く、黒文(くろふ)、なし。これは、昔に出でて、今は鮮(すく)なし。されども、その費用をだに厭(いと)はずして、高嶽深谷(かうがくしんこく)に入りては、得ざるべきにあらずといへども、運送・車力(しやりき)の便(たより)なき所のみ多し。
○石質(いしのしやう) 文理(いしめ)は「京白川(きやうしらかは)石」に似て、至つて、硬(かた)し。故に、器物(きぶつ)に制するに、微細の稜尖(かと)も手練(しゆれん)に應ず。白川は、酒落(ほろほろ)して、工に任(まか)せず。石工、大なる物に至つては、難波(なには)天王寺の鳥井などをはじめ、城廓・石槨(せきくわく)・佛像・墓碑・築垣(ついかき)に造り、啄磨(たくま)[やぶちゃん注:漢字はママ。]しては、皮膚のごとし。是れ、萬代不易(ばんだいふへき)の器材、天下の至寳なり。
○品數(ひんすう) 直塊(のつら)は、大鉢(おほはち)・中鉢(ちうはち)・小鉢(こはち)【鉢とは手水鉢(てうずはち)に用ゆるにより、本語(ほんご)とはすれども、柱礎(はしらいし)・溝石(みぞいし)などをはじめ、その用、多し。】、頭無(づなし)は、大きさ、大抵、一尺五、六寸にして、その上の物を「一つ石」と号(なづ)く。又、「六人」といふは、「一荷(か)に六(むつ)づつ擔ふ」の名なり。「栗石(くりいし)」は小石にして、大雨(たいう)の時には、山谷(さんこく)に轉(ころ)び落つる物ゆえ、石に稜(かど)なし。これは、鉢前(はちまへ)・蒔石(まきいし)等(とう)に用ゆ【石を「くり」といふこと、「應神記」の歌に見えたり。また、「萬葉集」に、『興津(おきつ)いくり』ともよみて、山陰道の俗語なりとも、いへり。大小にかかはらず、いふとぞ。】
割石(わりいし)は大割(おほわり)・中割・小割・延條(のべ)【長く切りたる石なり。】・蓋石(ふたいし)【大抵、長二尺斗。幅一尺一、二寸。厚三、四寸。】、いづれも築垣(ついがき)・橋臺(はしたい)・石橋(いしばし)・庭砌(ていれき)・土居(どゐ)など、その用、多し。また、石橋に架(か)くる物、別に河刕(かしう)より出だす石も有るなり。○切り取るには、矢穴(やあな)を掘りて、矢を入れ、「なげ石」をもつて、ひゞきの入りたるを、手鉾(てこ)を以つて、離し取るを、「打ち附け割(わり)」といふ。また、橫一文字(いちもんじ)に割るを、「すくい割(わり)」とは、いふなり。
[やぶちゃん注:「御影石」「石品」の私の当該注を参照されたい。
「攝州武庫(むこ)」摂津国の現在の兵庫県内にあった郡。「武庫」の名は、大阪湾を挟んで難波津の対岸である「向こう」の岸に当ることに由来するとも、或いは、神功皇后が「三韓出兵」の後に兵庫(兵器蔵)を埋めたことに由来するともいわれる。明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の尼崎市の一部と、宝塚市の一部(武庫川以南)及び西宮市の大部分に相当する。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「菟原(むはら)」摂津国の古郡名。「うはら」「うばら」が正しい。「万葉集」では「宇奈比」とあり、「海辺」の意と思われる。「和名類聚抄」以後、「宇波良」と読む。美少女「菟原處女(うないをとめ)」伝承で知られる(「菟原壯士(うないをとこ)」と「血沼(ちぬ)壯士」に求婚されて悩み、生田川に身を投げ、二人の男も後を追うという悲劇。「万葉集」で高橋虫麻呂や大伴家持らの歌に詠まれ、「大和物語」・謡曲「求塚」、森鴎外「生田川」の題材ともなった)。明治二九(一八九六)年に兵庫県武庫郡に合併後、廃止された。兵庫県西宮市常磐町に伝承比定地の碑が建つ。
「御影村」兵庫県神戸市東灘区御影附近。
『御影山の名は、城刕加茂、「あふひ」を採る山にして、此の國に山名あるにあらず』加茂という地名では残らないが、鴨川と合流する比叡山の麓の高野川左岸の「御蔭山城跡」のある山のことか。この山は「二葉山」とも呼ばれ、この辺りに「二葉葵」(被子植物門双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens )が自生したことに因むという。葵祭と密接な関りがあるこの山の北西にある御蔭神社の秘儀等については、参照したサイト「京都観光」の同神社の解説を読まれたい。
「御影の松」兵庫県神戸市東灘区御影本町六丁目にある浄土真宗西方寺境内にある。個人サイト「すさまじきもの ~歌枕★探訪~」の「御影(神戸市東灘区)」を見られたい。そこに『海に面した御影の地は、松の景勝地だったらしい』とあり、『初代は明治時代に枯れたらしく、これは二代目』とあって、和歌も載る。
『「讀古今集(しよくこきんしう)」に基俊卿の古詠あり』「續古今和歌集」は全二十巻。正元元(一二五九)年、後嵯峨院の院宣により藤原基家・為家・行家・光俊が撰し、文永二(一二六五)年に成立した。撰者は、当初はは為家だけであったが、途中から加わった光俊の発言力が強く、「反御子左家」的性格が強い。藤原基俊のそれは、
世にあらば
また歸り來む
津の國の
御影の松よ
面(おも)がはりすな
である。
「住よし村」御影の後背地に兵庫県神戸市東灘区住吉台やその手前に住吉山手がある。最住吉台最深部を平地部分から調べると、確かに一キロ百八十メートルほどとなる。
「有馬街道生瀨川原(なませかわら)」住吉台北部から計測すると、東北に十キロ近く離れるが、兵庫県西宮市生瀬町(なまぜちょう)のことであろう。ここは武庫川右岸に当たり、有馬街道沿いでもある(私の「諸國里人談卷之四 皷瀧【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】」の注を参照されたい)。
「黒文(くろふ)」「黑斑」。
「京白川(きやうしらかは)石」白川石は、京都市左京区北白川から比叡山にかけて産する黒雲母花崗岩の石材名。全体として白色で、中粒又は粗粒であるが、時に斑状を呈する。古くから利用された有名な御影石であるが、玉石から採石されるために、大材が得られず、僅かに建築用材として利用されるほか、石碑や石灯籠に加工されている。また、附近を流れる白川の川砂は、白くて綺麗なため、「白川砂」として京都御所、天皇陵や各地の神社仏閣で古くから利用されてきた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「稜尖(かと)」人工的に削った「角(かど)」。
「酒落(ほろほろ)して」「酒」は「洒」の誤刻か。曝されて硬度が失われ、ぽろぽろと崩れる謂いであろう。
「鳥井」鳥居。
「石槨(せきくわく)」現代仮名遣「せきかく・せっかく」。本邦では古墳時代に見られる死者を葬るのに用いられた石製の棺、及びそれを入れる外箱、或いはそれを安置する構築物である古墳の石室部分や古墳(埋葬施設)全体を指す場合もあるようである。本来は遺骸を納める棺が直接土に触れぬように棺の周りを囲む木製の外箱を「槨」と言う。中国では「棺」と「槨」が共存したことが明らかであるが、「三国志」の魏書東夷伝倭人(ぎしょとういでんわじんの)条には、「其死有棺無槨」と、中国風の「槨」が、わが国の墓制にないことを記している。この「槨」と「棺」の字義については、嘗て論争があったが、日本では「粘土槨」・「木炭槨」・「礫槨」などのように、古墳の埋葬施設の内、「木棺をくるむ部分をさす語」として使われている。ここも木製の棺を封入するためのさらなる外周を包む石製容器としておく。則ち、厳密には、遺体を直接納める石製容器を指すのが「石棺」であるが、しかし考古学者の論文でも「石棺」と呼ぶ場合、遺体を入れた「木棺」を納める「石槨」以外に、火葬骨や改葬骨を収納する「石製蔵骨器」、或いはその「蔵骨器」を入れるための「石櫃(せきひつ)」等、本来は呼び分けられるべきものも含まれている場合が少なくない。また、箱式石棺のごとく,土壙内に自然の板石をただ組み合わせただけで、多くの場合、底石もない小構築物をも「石棺」或いは「石槨」と言う語を用いてるケースがある。
「築垣(ついかき)」「築垣(つきかき)」の音変化で、これがさらに「築泥(ついひぢ)」から変化したのが「築地(つひぢ)」である。これは通常、土で造った垣根で、両側に板を立てて内に土を詰め、つき固めて造った塀であるが、ちゃんとしたものは、基盤に石組の基礎を打つ。ここはそれ。
「直塊(のつら)」「野面」で、山から切り出したままで加工してない石の表面。或いは、その石を全体を指す。ここは後者。
「頭無(づなし)」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。複数の地学論文を見ると、磐梯山のごく古い崩落に「頭無崩れ」という名称を用いてあるが、これはかなり会津盆地を挟んだ西方の地名として残っている。調べてみると、「頭無」という地名は、本来は、「水源がはっきりしないところ・水の流入が判らないところ」を指すという記載があったが、石にそれを使われても意味が判然としない。方向の定まらない波状紋があるということだろうか? いや、そもそもが、これは前の「直塊(のつら)」の対語であるはずだから、何らかの人為的加工を加えて、小さくした物を指していると読むべきであるように思われる。お手上げ。識者の御教授を乞う。
「鉢前(はちまへ)」手水構(ちょうずがまえ)の一形式で、「縁先手水鉢」ともいう。縁先の一隅に構える。普通は、座敷の外或いは縁の外に濡れ縁を付けて、その前方に手水鉢を据え、周囲に役石(やくいし)を配し、縁との間に「海」を形成し、排水のための「吸い込み」をつくる。役石には「蟄石(かがみいし)」・「覗(のぞき)石(清浄石)」・「水汲(みずくみ)石」・」「水揚(みずあげ)石」がある。水鉢の背後には、植え込みや袖垣を作り、近くに鉢明かりの灯籠を配置する。灯籠は軒に釣灯籠を下げることもある。縁の上から手水を使うため、水鉢は台石にのせるか、背の高いものを据える。書院で茶の湯を行うための設備であったが、建物と庭を繋ぐ重要な役割を演じ、書院にはなくてはならない装置として普及し、濡れ縁を含めて鉢前の構成には趣向が凝らされている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。
「蒔石(まきいし)」茶室の庭などに、蒔いたように所々に置く飛び石。
『石を「くり」といふこと、「應神記」の歌に見えたり』応神天皇三一(三〇〇)年八月の条に出る天皇の歌として、例の船「枯野(からの)」の余りで作った琴(こと)の音への祝歌、
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加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
枯野を 鹽に燒き 斯(し)が餘り 琴に作り 搔き彈くや 由良(ゆら)の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に ふれ立つ 撫(な)づの木の さやさや
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を指すものと思われる。「撫(な)づの木」は前の情景から海藻を指している。
『「萬葉集」に、『興津(おきつ)いくり』ともよみて』巻第六の山部赤人の天皇の国納めを言祝ぐ一首(九三三番)、
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天地(あめつち)の 遠きがごとく 日月(ひつき)の 長きがごとく 押し照る 難波(なには)の宮に わご大君(おほきみ) 國知らすらし 御食(みけ)つ國 日の御調(みつき)と 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)の海人(あま)の 海の底 沖つ海石(いくり)に 鰒玉(あはびたま) さはに潛(かづ)き出(で) 船並(な)めて 仕へまつるし 貴し見れば
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である。
「山陰道の俗語なりとも、いへり。大小にかかはらず、いふとぞ」小学館「日本国語大辞典」の「くり」に『石。特に小石をいう。石ころ』とあり、新井白石の「東雅」を引き、『栗(クリ)古語に石を呼びてくりといへり』とし、さらに「物類称呼」(俳諧師越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された江戸後期の方言辞典。安永四(一七七五)年刊)を引き、『縊死 いし 畿内にて、ごろたと云は 石の小なる物を云〈略〉山陰道にては、くりと云<細小なるものか>〈略〉江戸にて、じゃりと云』とある。「方言」欄には、『③石垣を積む時に使ったりする握りこぶしぐらいの大きさの石』として、『《ぐり》』の方言採集地の中に『島根県那賀郡』・『山口県』が含まれる。但し、この記載は、作者の言うような「大小にかかはらず、いふとぞ」というのとは齟齬する。
「橋臺(はしたい)」「はしだい」。橋の下部構造で、橋の両端に設けられた台状のもの。橋桁などの上部構造の端部を支持し、橋の荷重を地盤に伝える。
「庭砌(ていれき)」「砌」は「水限(みぎ)り」の意で、雨滴の落ちる際、また、そこを限るところからの呼称であるから、ここは庭に面した軒下などの雨滴を受けるために石或いは敷瓦を敷いた所を指す。
「土居(どゐ)」既注。ここは、「建物や家具などの土台」のことであろう。
「河刕(かしう)」大阪府南東部の旧国名河内国。同国は優れた石工の出身地でもあった。
「矢穴(やあな)を掘りて、矢を入れ」楔(くさび)穴及び楔のこと。図の左手を参照されたい。
「なげ石」図の一番左端の石工が持ち上げて、楔に打ちつけようとしている。
「ひゞき」罅(ひび)に同じ。
『手鉾(てこ)を以つて、離し取るを、「打ち附け割(わり)」といふ』図上中央部参照。
「すくい割(わり)」「掬(抄)ひ割り」「すくふ」には、「下から持ち上げるようにして横に掃(はら)う」の意がある。]
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