芥川龍之介書簡抄97 / 大正九(一九二〇)年(二) 四通
大正九(一九二〇)年五月十八日・田端発信・小穴隆一宛
ふと君の事を思ひ出したる歌
つゆぐもの光かそけし隆一は鼻の先見てけふもゐるらむ
君が畫をかけてわがゐる草の家の天(あま)響かせて降る大雨かも
五月十八日 我 鬼
隆 一 樣
大正九(一九二〇)年五月二十二日・佐野宛(下書き)
啓この間は御祝下さつて難有う存じました
奧さんも御變りありませんか 御子樣はまだ御一人ですか
はつなつはまどにあかるしまどのへのゆり籃(ご)のあかごなかんともせず
五月廿二日 我 鬼
佐 野 先 生 梧右
[やぶちゃん注:これは、百%、旧海軍機関学校時代の同僚佐野慶造宛である。「奥さん」は無論、かの芥川龍之介が愛した花子である。「御子樣」とは後の昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)を出版した二人の娘旧姓佐野芳子のことである。私の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』をリンクさせておく。
「御祝」四月十日の龍之介の長男比呂志の誕生祝いへの返礼と思われる。]
大正九(一九二〇)年五月二十三日・宮澤虎雄宛(下書き)
啓先達は御祝辭難有う 別封哲學會雜誌所載の土居光知氏の論文面白いと思ふから御送りする 讀んで見てくれ給へ 暇があつたら橫須賀へ行つて諸先生に拜謁の光榮を得たい 頓首
五月廿三日 我 鬼 生
宮 澤 先 生 梧右
宮澤先生淸鑒
おそ春の入日きびしも平坂を宮澤虎雄今かねるらむ
わが宿の橿(かし)の若葉にさす入日光かなしきを君は知らざらむ
うち日さす宮澤虎雄今もかもうたひてあらん觀世の謠
我 鬼
[やぶちゃん注:「宮澤虎雄」海軍機関学校時代の同僚。物理担当。心霊学に関心を持ち、芥川の善人者浅野和三郎とも親しかった。芥川とは遠慮のない便りを交換し、宮澤は芥川に「紅楼夢」を贈っている(新全集「人名解説索引」に拠った)。名古屋大学大学院法学研究科公式サイト内の「日本研究のための歴史 情報『人事興信録』データベース」のこちらによれば、明治一九(一八八六)年一月生まれで(没年未詳)龍之介より六つ年上で、『海軍教授兼海軍技師、海軍機關學校教官』とあり、『東京府士族宮澤栞の二男にして』、『大正十四』(一九二五)『年家督を相續す先是明治四十二』(一九〇九)『年東京帝國大學理科大學實驗物理科を卒業し』、『同四十三年海軍機關學校物理學教授を囑託され』、『同四十五年海軍教授同機關學校教官に任ぜられ』、『練習艦隊司令部附呉海軍工廠水雷部々員舞鶴要港部々員に歷補し』、『現時前記官職にあり』とある(昭和三(一九二八)年七月時点の情報)。情報時は東京小石川大塚仲町に居住していた。彼は旧「東京心靈科學協會」の会員で、戦後の昭和二一(一九四六)年に設立された「財団法人日本心霊科学協会」の創設者の一人でもあり(同財団公式サイトの歴史年表にも名前がある)、国立情報学研究所公式サイトの「Webcat Plus」のこちらには、編著に日本心霊科学協会刊の「死後の真相」「霊魂の世界 心霊科学入門」という著書もあるようであり、そこにある出版年は戦後で、或いは一九七六年時点では存命(とすれば九十歳)だったのかも知れない。
「土居光知」(どいこうち 明治一九(一八八六)年~昭和五四(一九七九)年)は英文学者・古典学者。当該ウィキによれば、『高知県生まれ。東京帝国大学卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て』、大正一三(一九二四)年に『東北帝国大学教授』となり、退職『後に津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長』でもあった。『専攻は英国浪漫主義で、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、オルダス・ハクスリーを紹介した。文化人類学、比較神話学を学び、古代文藝、東西比較文学などを行い、その』「文学序説」(大正一一(一九二二)年岩波書店刊)は『文学研究者の必読書だった。他に』「古代伝説と文学」(昭和三五(一九六〇)年同書店刊)が知られる。また一九四七年七月十九日に『産声を上げた、世界で最初の民間ユネスコ運動「仙台ユネスコ協力会」の創始者の一人。当時のUNESCO(パリ本部)の事務局長あてに起草したメッセージは、日本の民間ユネスコ運動を世界に伝える第一報となったが、その手紙は戦後の窮乏生活のため、土居宅にあった障子紙に書かれていた』とある。ここで、芥川龍之介が送ったそれは、調べたところ、『哲學會雜誌』第三十五巻(大正九(一九二〇) 年度発行)の土居光知の論説「日本文學を通じて見たる文化の展開」であることが判った。
「淸鑒」(せいかん:「清鑑」に同じ)は、他人の鑑識の優れていることを敬っていう語。自分の詩文・書画などを人に見てもらうときなどに使用する。
「平坂」筑摩全集類聚版脚注は『不詳』とするが、私は横須賀の坂の名ではないかと直感した。則ち、「ねる」は「練る」で「そろそろと行く」の意ではないかと。調べてみると、「坂学会」公式サイト内のこちらに、横須賀市若松町二丁目及び三丁目の間から、上町一丁目及び深田台の間までの坂道「平坂」があった。リンク先に地図もある。
「うち日さす」「うちひさす」は「日の光が輝く」の意から、万葉以来の「宮」「都」に掛かる枕詞である。]
大正九(一九二〇)年六月三十日・田端発信(私の推定)・森幸枝宛(封筒欠)
冠省 玉簪をありがたう但し祖母樣のものをとりなぞしてはいけません あの簪はわたしが頂戴しますからその代りにあなた何か祖母樣に買つてお上げなさい 寫眞は事によるとなくなります 萬一なくなつたら 前向きの寫眞にします どちらでも好いのでせう 玉簪の歌を製造しました次手に御拜聽なさい
玉簪はうるみゐにけりなが雨はいまだ晴れずと思ひけるかな
手にとれば重きものかな玉簪の花つややかにうるめるあはれさ
六月卅日 我 鬼 生
森 幸 枝 樣 粧次
[やぶちゃん注:「森幸枝」なるさわまや氏のサイト「芥川龍之介私的データベース」の「人名録」によれば、『静岡県出身。静岡高女卒』。『日本女子大学校国文科在学中で小説家を目指しており』、この大正九年三月十七日に『初めて芥川に会った』。『以来』、『幸枝は、芥川に、博多人形・菓子などを贈り』(ここでの「玉簪」もそうした龍之介の気を引くための贈り物の一つとせば、甚だ腑に落ちる)、『翌年』八『月頃まで交際があった』。この二ヶ月後の大正九年八月『頃、縁談が起こり、中退して竹内猪之介と結婚したが』、『まもなく離婚。杵屋勝吉次について長唄を習ううちに彼に恋し、周囲の反対も聞かず』五、六歳年下であった『杵屋と結婚した。しかし、生活は苦しく』、『加えて結核に冒され』、昭和五(一九三〇)年四月に二十七歳で『死去した』。『幸枝は、芥川のほかに市川猿之助とも関係があったといわれ』ている、とある。新全集「人名解説索引」には、生没年は示さず、『女流作家を目指していた』。『芥川好みの美人であったとの和田芳恵』(明治三九(一九〇六)年~昭和五二(一九七七)年:男性で小説家・文芸評論家)『の証言がある』とある。前の引用の末尾や和田の謂いからは、芥川龍之介の軽い恋愛対象者の一人であった可能性が高い。
「玉簪」「たまかんざし」或いは「ぎよくしん」(短歌ではそう詠んでいるか)で、玉(ぎょく)で美しく飾った簪(かんざし)のこと。
「寫眞」これは恐らくは龍之介に作家修行を乞うた森幸枝が、芥川龍之介の例のかの右斜めを向いた肖像写真のことを龍之介或いは誰かから耳にし、「欲しい」と望んだのではなかったか?]
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