芥川龍之介書簡抄107 / 大正一〇(一九二一)年(二) 中国特派帰国後 三通
[やぶちゃん注:「108」末尾に示した通り、これ以前の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、そちらを見られたい。]
大正一〇(一九二一)年八月三日・消印四日・田端発信・長野縣中央線洗馬驛志村樣方 小穴隆一樣・八月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
支那がへり我鬼は病みゝ汝を待てり洗馬ゆかへらばとひ來ませすぐ
病めばまだ入谷もとはずこもり居り草の家にふる雨をききつつ
汝がために筆と墨とは買ひ來しもよきや惡しきやためしもまだせず
八月三日夜 夜來花庵主
一 游 亭 樣
[やぶちゃん注:三月十九日に東京を経って(風邪のために大阪で静養したため、実際に日本を離れたのは三月二十三日であった。また、上海でも到着(三月三十日)早々に治りきっていなかった感冒に乾性肋膜炎を併発して四月一日に日本人医師経営する租界の里見病院に入院、退院したのは四月二十三日で、最初の一ヵ月は実は物理的にはあまり動いていない)、四ヶ月に及んだ中国特派旅行から田端に帰ったのは(北京から天津・奉天・釜山経由)七月二十日頃であったが、以後、一ヵ月以上に亙って体調がすぐれず(特に胃腸障害が甚だしかった)、寝たり起きたりの生活が続いた。
「洗馬」「せば」と読む。長野県の旧東筑摩郡洗馬村。現在の塩尻市大字洗馬及び松本市空港東に当たり、木曾街道の入り口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父はこの中山道洗馬宿の旧家である志村家の出であった。
「入谷」小澤碧童を指す。]
大正一〇(一九二一)年八月二十七日・田端発信・蕪湖唐家花園 齋藤貞吉宛
床の上にこの頃わびしさ庭べの百日紅もちりそめにけり
心なき我と思ふな床の上に蟬を聞きつゝ晝もねむるに
八月二十七日 病 我 鬼
さいとうていきち樣
二伸 あとは後便筆をもつのは面倒臭い故 支那紀行少し書いたもう見て居るだらう五郞のこともつと傷心せよ傷心はくすりなり
[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国の安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた(グーグル・マップ・データ)。旧姓西村であったが、結婚で改姓した。「長江游記」の「一 蕪湖」等も参照。芥川龍之介とは、この二伸でも、龍之介は結構、きつい調子で物言いをしているが、「僕」「お前」と呼び合う、ごく親しい間柄であったせいでもある。
「支那紀行少し書いたもう見て居るだらう」身体の状態が悪い中、大阪毎日新聞社からの要求で、「上海游記」の執筆を八月初旬に始めて、『大阪毎日新聞』に八月十七日から九月九月に六回の休載を挟んで連載した(『東京日日新聞』では八月二十日から)。
「五郞のこと」不詳。]
大正一〇(一九二一)年九月十四日・田端発信・森林太郞 與謝野晶子宛(宛名は破れており、上記は推定の旨の記載が底本の岩波旧全集にはある)
拜啓 明星御發刊のよしまづ御よろこびを中上げますそれから私をも同人の一人に御加へ下すつたよし御厚意難有く御禮申しますしかし明星は同人以上に執筆を許さない雜誌でせうかもしさもなくば私は同人の列に加はらずに寄稿したいと存じますと云ふのは私の我ままですが、どうも同人と云ふ名から生ずる束縛の感じが苦しいのですたとひ實際は自由であつても兎に角同人一人前の責任を持つのが苦しいのですいや責任は持たなくても責任のありさうな氣がする事がそれ自身もう苦しいのです私は既にその點では大阪每日新聞社員と云ふ、厄介な荷を背負つてゐますですからもうこの上にはなる可く氣樂にしてゐたいのですどうか幾重にも不惡この我儘を御恕し下さいさうしてもし同人以外の原稿も載せる時があれば私の作品を御加へ下さい私は現在四百四病一時に發し床上に呻吟してゐますその爲にこれも十分に文意をつくせたかどうかわかりませんどうかよろしく御判讀下さい 頓首
九月十四日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「森林太郞」森鷗外。彼はこの翌年の大正一一(一九二二)年七月九日に委縮腎及び肺結核で満六十歳で没した。
「明星御發刊」第二次。大正一〇(一九二一)年十一月、與謝野鉄幹らにより復刊された。森鷗外は同人ではないと思うが、大反響を惹起した第一次(明治三三(一九〇〇)年四月~明治四一(一九〇八)年十一月)の折りに上田敏とともに後援した経緯から、今回も名が列記されていたことから、御大に敬意を以って宛名に彼の名を先に挙げたのであろう。
「不惡」「あしからず」。
「四百四病」(しひゃくしびょう:現代仮名遣)は仏教で言う人の罹る病気の総体。人体は地・水・火・風の四つの四大(しだい)元素から構成されており、これが不調になると、それぞれが百一の病気を生ずるとされる。]
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