伽婢子卷之七 菅谷(すげのや)九右衞門
[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。]
○菅谷(すげのや)九右衞門
天正年中に、伊勢の國司具敎(とものり)公をば、「武井(たけゐ)の御所」とぞ云ひける。民部少輔具時(ともとき)は國司の甥(をひ)にて、南伊勢の木作(こづくり)といふ所にすみ侍べり。此の郞等《らうどう》に柘植(つげの)三郞左衞門・瀧河三郞兵衞とて、二人の侍あり。武勇智謀ある者なりければ、時にとりて、名を施しけり。
然るに、國司具敎、その甥民部少輔、おなじく奢り(おごり)を極め、國民をむさぼり、侫奸(ねいかん)の者に親しみ、國政、正しからざる故に、
『行末、賴もしからず。』
と思ひ、柘植と瀧川、二人、心を合はせ、信長公に屬(しよく)せしめ、國司を亡ぼし、すなはち、勸賞(けんじやう)をかうふり、立身して、權(けん)を取り、威を震ひけり。
其ころ、伊賀國に一揆起り、近鄕のあぶれもの、武井の城(じやう)の餘黨ども、多く集まり、要害を構へて楯こもり、土民百姓を惱まし、國郡村里を掠(かす)めしかば、信長公、
「早く是れをせめほさずば、大なる難義に及び、諸方の手づかひ、障(さはり)とならん。」
とて、軍兵を差向けられし所に、城中、强くして、人數、多く損じける中に、柘植・瀧川、二人ながら、打たれたり。
是れによりて、あつかひを入られ、終に、信長公に隨ひけり。[やぶちゃん注:『そこで、信長は「あつかひ」(調停・仲裁)を伊賀との間に入れ、伊賀の衆や「近鄕のあぶれもの」や「武井の餘黨」は、皆、信長に従った』。]
其後、一年ばかりを經て、信長公の家臣菅谷(すげのや)九右衞門、所用ありて、山田郡(《やまだ》のこほり)に行ける道にて、柘植・瀧川に行合《ゆきあひ》たり。
菅谷、思ひけるは、
『此の二人は正しく打ち死《じに》したりと聞しに、是れは夢にてやあるらん。』
と怪しみながら、立向ひ、物語するに、柘植、云やう、
「久しくて對面す。いざ、こゝにて、酒ひとつ、のみ給へ。」
とて、召し連れたる中間に仰付けて、小袖ひとつ、持たせ、酒屋に遣はし、質物(しちもつ)として、酒、取りよせ、むしろを借(かり)て、道端の草むらに敷かせ、柘植・瀧川・菅谷三人、打ち向ひて、數盃(すはい)を傾けたり。
瀧川、云やう、
「昔、もろこしの諸葛長民と云《いふ》人は、劉毅(りうき)が殺されし時、これがために軍兵(ぐんひやう)を催し、亂を作《な》さんとして、未だ、思ひ定めず。かくて曰はく、『貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ。富貴になれば、かならず、危き事に逢ふ。其時、又、「元の貧賤にならばや」と思ふとも、是れも又、かなふべからず。腰に十萬貫の錢を纒(まと)ひて、鶴にのりて楊洲に登る』といふ。思ふ儘なる事は、なし。武士(ものゝふ)と生れ、其名を後代に傅ふる程の手柄なき者は、必ず、耻を萬事に殘す事、いにしへ、今、ためし多し。遠く他家に求むべからず。織田掃部(おだかもん)は、さしも勳功を致せしか共、終に日置(へき)大膳に仰せて誅せられ、佐久間右衞門は、信長公草業の御時より忠節ありけれ共、忽ちに追ひはなたれて、耻に逢ひたり。歷々の功臣、猶、かくの如し。まして、其の外の人、更に行末、知り難し。」
といふ。
瀧川がいふやう、
「下間(しもづま)筑後守は越前の朝倉に方人(かたうど)して、木目(きのめ)峠の城に籠りしを、朝倉、うたれて後、平泉寺に隱れて跡をくらまし、醒悟發明(せいごはつめい)の道人《だうにん》となりて、
梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは
今宵の月をいかでまちみむ
と詠ぜしは、名を埋(うづ)みて道(だう)に替へたり。荒木攝津守が家人《けにん》小寺官兵衞は、主君の逆心を諫めかねて、髻(もとゞり)きりて、僧になりつゝ、
四十年來謀二戰功一
鐵胃着盡折二良弓一
緇衣編衫靡二人識一
獨誦二妙經一詢二梵風一
[やぶちゃん注:返り点のみで示した。底本の訓点に従った訓読を以下に示す。
*
四十年來 戰功を謀(はか)り
鐵胃(てつちう) 着盡(きつ)くして 良弓を折(くじ)く
緇衣(しえ)編衫(へんさん) 人の識ること靡(な)し
獨り妙經(めうきやう)を誦(じゆ)して 梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ
*]
という詩を題して、世を逃れたるもたふとしや。此の二人は、其の身、逆心の君《くん》に仕へながら、終に、よく、禍ひを免かれたり。是れ、智慮の深きに侍べらずや。」
といふ。
柘植、うち笑ひて、いふやう、
「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」
といふ。
瀧川、
「いや、其事は、只今、又、いふべきにあらず。思へば、口惜しきに、たゞ、酒のみ給へ、菅谷殿。」
とて、互ひに、盃(さかづき)の數、かさなりて後(のち)、菅谷、二人に向ひて、
「如何に、かたがた、日來(ひごろ)は、數奇(すき)の道とて、もて遊ばるゝに、今日(けふ)の遊びに、一首、なきか。」
といふ。
「されば。」
とて、打案じつゝ、柘植三郞左衞門、
露霜ときえての後はそれかとも
くさ葉より外(ほか)しる人もなし
瀧川三郞兵衞、
うづもれぬ名は有明の月影に
身はくちながらとふ人もなし
と、よみて、二人ながら、そゞろに淚を押し拭(ぬく)ひけり。
菅谷、歌の言葉、いとゞあやしく、又、この有樣、心得がたく驚き思ひて、
「いかに。日ごろは、武勇智謀を心に掛けて、少しも物事によわげなき氣象のともがら、只今の歌のさま、哀傷(あいしやう)ふかく、淚を流しけるこそ、怪しけれ。」
といふに、二人ながら、更に言葉はなく、大息(《おほ》いき)つきて、嘯(うそふ)きつゝ、酒、已になくなれば、
「今は。是までなり。」
とて、座をたち、暇乞(いとまご)ひして半町ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。
菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。
日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。
人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、
「ほろほろ」
と碎けて、土ほこりの如くになれり。
菅谷、いそぎ、歸りて、密かに僧を請じ、二人の菩提を吊(とふら)ひけると也。
[やぶちゃん注:「菅谷(すげのや)九右衞門」菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年:通称に九右衛門)は織田信長の側近。姓は「菅谷」とも書かれる。長頼は織田信房次男。但し、信房は織田氏一族ではなく、別姓を名乗っていた信房が、その功績により織田姓を与えられたと伝わる。長頼が生まれた時期は明確ではないが、史書には一五六〇年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる。長頼、菅屋姓を名乗った時期は、諸史料から、元服前後と考えられる。初見は山科言継「言継卿記」の永禄一二(一五六九)年三月十六日の条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らとともに接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。同年八月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」(さくきわまわりばんしゅう:旗本格)として前田利家らとともに戦っている。元亀元(一五七〇)年六月には「姉川の戦い」の前に近江北部に布陣している様子が確認できる。信長の家臣としては馬廻役であったが、ただの馬廻役よりも高位であったことが諸事実から伺える。同年九月の「志賀の陣」に参陣したが、この時、馬廻ながら、足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り次いだりしていることから、前線には出ず、信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。同年十月二十日、信長の使者として朝倉義景陣中へ赴き、織田軍との決戦に応じるよう、促したが、不調に終わった。初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになった。天正元(一五七三)年九月、鉄砲による狙撃で信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問役と、鋸挽きによる処刑を執行している。天正二(一五七四)年三月の東大寺蘭奢待切り取りの際の奉行の一人を務め、同年七月二十日には羽柴秀吉が長頼と相談の上、朝倉氏旧臣たちの知行の割当てを執行すると通達している。天正三(一五七五)年八月二十日、「越前一向一揆」討伐のため、越前日野山を前田利家とともに攻め、一揆一千名余りを討ち取り、また捕らえた捕虜百名も即刻、首を刎ねている。天正六(一五七八)年十一月の「摂津有岡城の戦い」では鉄砲隊を率いる一人として有岡城を攻撃した。天正八(一五八〇)年からは能登・越中など北陸の政務を担当するようになった。翌年三月には、七尾城代として能登入りし、以後、暫く直接の政務にも当たっている。また、上杉氏に対する外交担当も務めていたらしい(かく鎮撫が済んだ能登は前田利家に与えられた)。かく北陸方面で政務に実績を残した長頼であったが、この間、北陸方面軍を統括する柴田勝家や越中の一職支配権を持っていた佐々成政らに了承などを仰いだことは一度としてなく、信長から遣わされた「上使」として、単独で政務を執行できるだけの強い権限を与えられていたことが窺われる。天正一〇(一五八二)年の「甲州征伐」には信長に近侍して三月中に出馬し、四月に甲斐入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘はなかった。五月二十九日、信長に従って上洛、六月二日に発生した「本能寺の変」においては、市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることが出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条新御所で信忠に殉じた。子として角蔵・勝次郎の二人の息子がいたが、「本能寺の変」において角蔵は本能寺で、勝次郎は長頼とともに二条新御所で討死しており、子孫は伝わっていない(私は名すらも知らない人物なので、以上は当該ウィキに拠った)。
「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦はカトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。その実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)としている。
「伊勢の國司具敎(とものり)」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は戦国武将。伊勢国司(南北朝初めの北畠顕能(あきよし)以来、七代に亙って世襲)は、北畠晴具の長男、母は細川高国の娘。天文六(一五三七)年叙爵以降、朝位朝官を歴任し、弘治三(一五五七)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが、永禄一二(一五六九)年八月、織田信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(現在の三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ、信長の次男茶筅丸(ちゃせんまる:後の信雄(のぶかつ/のぶお)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立したが、七年後の天正四(一五七六)年、具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(現在の三重県大台町)で暗殺され、北畠氏は滅んだ(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「武井(たけゐ)の御所」北畠氏が本拠地とした、伊勢国一志(いちし/いし)郡多気(たげ)にあった霧山城の別名多気城のこと(現在の三重県津市美杉町上多気及び美杉町下多気。ここ一帯。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「民部少輔具時(ともとき)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『北畠支流木造家に具時の名は見えない。ここは木造具政が当たるか。北畠晴具の三男。「国司の甥に民部少輔といふ人は南伊勢の木造といふ所に城をかまへてをかれたり(古老軍物語・』『伊勢の国司ほろびし事)』とある。木造具政(こづくりともまさ 享禄三(一五三〇)年~?)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・公家。堂上家・木造家の最後の当主。参議・北畠晴具の三男。左近衛中将木造具康の養子。北畠家第七代当主北畠晴具の三男(次男説もある)として生まれたが、父の命で木造具康の跡を継いで、分家の木造家の当主となった。天文一三(一五四四)年に従五位下に叙爵し、侍従となり、天文二一(一五五二)年には正五位下・左近衛少将に叙任され、翌年、従四位下・左近衛中将に昇った。天文二十三年には戸木城(現在の三重県津市戸木町)を築城している。永禄一二(一五六九)年五月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄具教に背いて、信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男織田信雄の家老となった。信長没後も信雄に仕え、天正一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」では戸木城に籠城して、羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結んだことから、城を退去した。後の行方は不明か(当該ウィキに拠った)。
「南伊勢の木作(こづくり)」三重県津市木造町(こつくりちょう:現在の地名は清音)。
「柘植(つげの)三郞左衞門」柘植保重(つげ やすしげ ?~天正七(一五七九)年)は織田氏家臣。通称は三郎左衛門。柘植氏の出身で、確証は得られていないが、伊賀国の土豪福地宗隆の子で、滝川雄利(かつとし:本「瀧河三郞兵衞」のこと。後注参照)の姉の夫、或いは雄利の実父との説がある。初め、木造具政に仕えたが、織田信長が伊勢攻めを開始した際、具政に対し、北畠家から寝返るよう説得し、滝川雄利らとともに信長に降った。この時、保重が北畠家に人質に出していた妻子は磔(はりつけ)にされている。永禄一二(一五六九)年、信長の軍勢七万(実数は五万とも)が北畠領に侵攻すると、織田軍とともに、国司北畠具房(具教の子)の居城であった大河内城を攻めた。信長の次男茶筅丸(信雄)を北畠家の養子に入れることで、具房は織田家と和睦し、これ以降、保重は茶筅丸付きの家老となった。天正四(一五七六)年、「三瀬の変」(同年十一月二十五日、伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件)では、保重は北畠具教と、未だ三歳の徳松丸、一歳の亀松丸らを討ち取るべく、三瀬御所に向かい、これらを殺害したグループに属している(但し、「勢州軍記」では三瀬御所ではなく、大河内御所である大河内教通の宿泊所を襲ったとある)。天正七(一五七九)年、主君の信雄に従い、伊賀国に攻め込むが、信雄軍は伊賀の諸豪族の抵抗に遭い、戦況が不利となったため、退却した。この撤退時の殿軍(しんがり)を務めた最中、保重は伊賀側の植田光次に討たれた(「第一次天正伊賀の乱」。以上は当該ウィキに拠った)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「木作殿の郎等につげの三郎左衛門といふものは、男がら人にすぐれ兵法に達し智慮さかしき武勇のものなり」(古老軍物語六・伊勢の国司ほろびし事)』とある。
「瀧河三郞兵衞」滝川雄利(天文一二(一五四三)年~慶長一五(一六一〇)年)は伊勢国一志郡木造生まれの大名で、伊勢神戸城主、後の常陸片野藩初代藩主。伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。「寛永諸家系図伝」の「木造氏系図」では具康の娘、「星合(ほしあい)氏系図」では俊茂の娘と北畠氏家臣柘植三郎兵衛の間の子とし、「滝川氏系図」では具康の子とする。また、「寛政重修諸家譜」の編纂時に、滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた。さらに、「系図纂要」では俊茂の子となっている。初め、出家して源浄院の僧主玄を称したが、後に還俗して、滝川一益(かずます/いちます)から滝川の姓を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。一益との関係は、娘婿に迎えられたとも、養子とされた可能性も指摘されている。一益没落の後も、豊臣政権下で重用され、従五位下下総守に叙任、羽柴氏を賜姓された。江戸幕府に仕えた晩年まで、羽柴下総守と称し、滝川に復姓したのは子息正利の代である。永禄一二(一五六九)年、織田信長の北畠家攻略戦の際、信長の家臣滝川一益の調略を受け、柘植保重とともに当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きして、その勝利に貢献した。この時、一益は源浄院の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川姓を与え、自身の甥として織田信長に仕えさせた。初め。通称を兵部少輔、諱は自署によれば友足(ともたり)で、後、別名として伝わる一盛(かずもり)・雅利(まさとし)に改めたと思われる。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(後、信意(のぶおき)、さらに織田信雄に改名)の家老となり、通称を三郎兵衛に改めた。天正四(一五七六)年、他将とともに軍勢を率い、北畠具教の居城三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(「三瀬の変」)。「勢州軍記」によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという。天正六(一五七八)年、信意の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修復するが、伊賀の国侍衆(くにざむらいしゅう)の反撃に遭い、伊勢国へ敗走した(「第一次天正伊賀の乱」)。「伊乱記」によると、この時、比自岐(ひじき)附近で合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ、伊賀衆に攻めあぐねさせ、遂に夜間のうちに抜け出し、無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も、戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という。天正九(一五八一)年)の「第二次天正伊賀の乱」の際には、主力とともに近江側から侵攻する信意に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った。雄利は伊賀衆を調略して結束力を弱めて勝利に貢献し、伊賀国中三郡を得た信意によって伊賀国守護に任命されている。雄利は大寺院・丸山城・滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き、伊賀国を支配した。翌天正十年、「本能寺の変」の後、伊勢で蜂起した北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかった際には、「大剛之者也」と評される活躍ぶりで、これを鎮圧した。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると、重ねて偏諱の授与を受け、雄利(かつとし)と改名した。天正十二年、信雄が羽柴秀吉に通じたとして津川義冬ら三家老を殺し、「小牧・長久手の戦い」を起こすと、雄利も秀吉の誘いを受けたが、拒絶した。雄利は信雄によって津川の居城であった松ヶ島城に日置大膳亮とともに入れられ、徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し、四十日に亙って籠城したが、奮戦及ばず、開城して尾張に退いた後も、北伊勢の浜田城に入って、再び籠城している。信雄が和睦を決意すると、義父(岳父)の一益を通じて秀吉に接近し、単独講和を実現させ、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣されている。豊臣秀吉の下では羽柴姓を賜り、信雄重臣として北伊勢の運営を任された。天正十三年の「織田信雄分限帳」では3万八千三百七十貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。翌天正十四年には、秀吉の意を受けて、家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した。その後は九州平定に参加し、戦後に石田三成・長束正家・小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している。同年七月十三日、伊勢神戸城二万石を領し、織田信雄改易の後も、そのまま領国を安堵され、秀吉直臣となり、秀吉の御伽衆に加えられた。「文禄の役」では肥前名護屋城に参陣し、文禄三(一五九四)年には伏見城普請に加わって七千石、翌文禄四年には、さらに伊勢員弁(いなべ)郡五千石を加増された。同年の「秀次事件」にも連座したが、叱責されただけで、特に処罰は受けずに済んでいる。慶長三(一五九八)年の秀吉の死に際して遺物金十五両を拝領した。慶長五年の「関ヶ原の戦い」では西軍に与し、軍勢四百名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城神戸城に籠城した。このため、戦後に改易された。後に徳川家康に召し出され、常陸国片野二万石の所領を与えられ、再び出家し、刑部卿法印一路と号し、徳川秀忠の御伽衆となった。慶長十五年に死去し、片野藩二万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永二(一六二五)年に所領を幕府に返上し、片野藩は二代で終わった。一方、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承し、子孫は四千石の旗本として幕末まで続いた。また、幕末の大目付滝川具挙(ともたか)は、その分家千二百石の当主であり、その次男海軍少将滝川具和を通じて子孫は明治以降も存続している(以上は当該ウィキに拠った)。さても、以上の史実から、本話の三人の登場人物は、
菅屋長頼は信忠に殉じて天正一〇(一五八二)年に自死
柘植保重は「第一次天正伊賀の乱」の伊賀撤退の際に天正七(一五七九)年に討死
滝川雄利は江戸時代初期まで生き延びて慶長一五(一六一〇)年)に数え六十八歳で遷化
しており、事実と「瀧河」に関しては全く齟齬することが判明する。
「勸賞(けんじやう)」「かんじょう」「けじょう」とも読む。主君が、功労を賞して、官位や物品・土地などを授けること。
「山田郡(《やまだ》のこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『三重県阿山郡大山田村および上野市の一部』とあるが、現在は統合により、伊賀市となっている。この附近であろう。
「小袖」大袖或いは広袖の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物のこと。初めは筒袖で、平服として、また大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされ、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の中心となった。縫箔(ぬいはく)・摺箔(すりはく)・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じて最もはなやかな衣服であった。ここではエンディングでの重要なアイテムとなる。
「諸葛長民」(しょかつ ちょうみん ?~四一三年)は東晋末期の武将・政治家。本貫は琅邪郡陽都県。文武に才能があったが、行いが悪く、郷里での評判は挙がらなかった。桓玄によって参平西軍事に取り立てられたが、貪欲で、民衆から厳しい搾取を行ったことにから、免官された。桓玄が安帝を廃して皇帝に即位すると、豫州刺史刁逵(りょうき)の左軍府参軍・揚武将軍となるが、劉裕(後の南朝宋の武帝)らの桓玄打倒の計画に参加し、歴陽で劉裕らと呼応する約束をした。劉裕が挙兵すると、諸葛長民は期日に間に合わず、刁逵に捕らえられたが、護送される途中で救い出され、輔国将軍・宣城郡内史に任じられた。劉敬宣とともに桓歆(かんきん)を討ち破り、新淦(しんかん)県公に封じられた。南燕の慕容超が下邳(かひ)を攻めると、武将の徐琰(じょえん)を派遣し、これを撃退し、使持節・都督青揚二州諸軍事・青州刺史・晋陵郡太守に昇進した。四一〇年、盧循が反乱を起こして首都建康に迫ると、諸葛長民は都を守るため、軍を率いて建康に入り、劉裕の命令で劉毅(?~ 四一二年:東晋の武将。沛国沛県の生まれ。四〇三年の桓玄の帝位簒奪に際して、翌年に劉裕や何無忌らと共に反桓玄の兵を挙げこれを打倒し、また、その後の盧循の乱の平定に貢献、衛将軍・荊州刺史に就任した。しかし以下に見る通り、劉裕への不満を抱いていたことを逆に察知され、攻められて敗死した)と北陵を守備して石頭城を援護し、反乱軍を撃退した。盧循が平定されると、都督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史・淮南郡太守に転任した。四一二年、劉裕は劉毅を討ちに江陵に向かう際、諸葛長民を監太尉留府事に任じて首都の留守を任せた。これより以前、諸葛長民は調子に乗って驕慢になり、政務に励まず、財貨や女性を集め大邸宅を築くなど、乱脈な行いで民衆を苦しめていた。劉裕はこれを大目に見ていたが、諸葛長民は自分の不行跡が法に触れていることに、常々、恐れを抱いていた上、劉毅が誅殺されたことで、次は自分も粛清されるのではないかと疑心暗鬼に陥り、劉裕に対して謀反を考えるようになった。弟の諸葛黎民(れいみん)は、劉裕が都に戻る前に決行を勧めたが、諸葛長民は実行をためらった。劉裕は諸葛長民の動きを察知すると、予め、都に戻る期日を伝えながら、期日通りには戻らず、諸葛長民ら公卿以下を待ちぼうけさせる一方で、密かに軽舟に乗って東府城に戻った。劉裕の帰還を知った諸葛長民が驚いて出向いてみると、劉裕は人払いをして諸葛長民を普段以上に歓待した。諸葛長民が喜んで安心したところ、帳に隠れていた壮士の丁旿(ていご)が、背後からこれを殺害した。諸葛長民の弟の諸葛黎民・諸葛幼民も誅殺された(以上は当該ウィキに拠った)。
「貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『世に諸葛長民の言として膾炙。事文別集二十九(富貴・群書要語・諸葛長民云)などにも同文』で載るとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここ(二行目から三行目)に冒頭部に類似した、
*
貧賤常ニ思フ二富貴ヲ一富貴必履(フ)ム二危機ヲ一宋諸葛長民云
*
がある。但し、調べた限りでは、漢籍にこの全文と全く同じ文字列はないようである。
「織田掃部(おだかもん)」織田忠寛(?~天正四(一五七七)年)は織田信長に仕えた武将。織田一族である織田藤左衛門家の一人。津田一安又は官途名の掃部助から織田掃部と称された(他に丹波守とも)。法号は一安。尾張国日置城主。信長に仕え、永禄年間は織田氏の対武田氏外交を担い、永禄一二(一五六九)年五月には甲府に派遣されている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄八年九月九日に武田信玄の許へ派遣され、信長の養女(龍勝院)と信玄の嗣子勝頼との婚姻を纏めたとされるが、文書上からは確認されない。また、後には、信長の庶子坊丸(勝長、信房)をおつやの方の養子とする縁組を纏めたともいわれている。「甲陽軍鑑」によれば、忠寛は信長に勘当され、十一年間、甲府に滞在していた経歴があったという。永禄一一(一五六八)年二月の北伊勢侵攻後、忠寛は北畠家への押さえとして安濃津城に入れおかれた。翌年の「大河内城の戦い」に参加し、北畠具教・具房が信長の次男茶筅丸(信雄)に家督を譲って退去すると、滝川一益とともに大河内城を接収、茶筅丸の入城に際してはこれに伴っている。天正三(一五七五)年の「長篠の戦い」や「越前一向一揆討伐」にも参加している。しかし、この武田家との繋がりが遠因となったのか、後に信長の不興を買い、誅殺されたという。或いは、追放を受け、信長の死後に出家し、羽柴秀吉に仕えるも、信長の遺児信雄に誅された説もある。また、「勢州軍記」には、天正四(一五七六)年十一月二十五日、北畠具教ら北畠一族が信雄に暗殺された際(「三瀬の変」)に、その親族を養い扶助すると言った(忠寛は北畠家と縁戚関係を結んでいた)ことを柘植保重・滝川雄利に讒言されたために、二十日後の同年十二月十五日、田丸城の普請場にて、日置大膳亮により討たれたと記述されている(当該ウィキに拠った)。この最後の記載が事実とすれば、ここでの「瀧河」の謂いは、「ぬけぬけぬけぬけよくまあ言ってくれるじゃないの!」ということになる。
「日置(へき)大膳」(へきだいぜん 生没年未詳)は北畠具教の家臣で松ヶ島細首城主。サイト「戦国武将列伝Ω 武将辞典」の彼の記載によれば、寺社奉行を務めていたようで、兄高松左兵衛督は大河内城旗頭であった。永禄一二(一五六九)年に織田信長が伊勢を攻めた際、彼は居城である細頸城(松ヶ島細首城)を焼き払って、大河内城で籠城した北畠具教に合流し、家城之清(家城主水)、長野左京亮らと織田勢に対した。籠城戦では池田信輝らの織田勢と戦い、彼は池田恒興・丹羽長秀・稲葉良通らの夜襲を撃退するなど、劣勢な北畠家の中でも奮戦したようである。北畠具教が織田勢に屈したあとは、織田信雄の家臣となって活躍した。元亀三(一五七二)年、北畠家が誅殺された際、田丸城にて、土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らと、北畠一族の長野具藤・北畠親成・坂内具義・坂内千松丸・波瀬具祐・岩内光安などの惨殺に関与した。その後、北畠一族を庇おうとしたことが露見した津田一安の斬首では、織田信長の命を受けた日置大膳亮が首を刎ねたとされる。生き残りの北畠具親が、家城之清(いえしろゆききよ)などの旧臣らと再起を図った際にも、日置大膳亮と日置次太夫の兄弟らは、鳥屋尾(とやお)右近将監の富永城を攻略するなどし、反乱軍を二回も破っている。天正七(一五七九)年の「第一次天正伊賀の乱」では織田信雄の軍勢に柘植保重らとともに加わり、伊賀に侵攻したが、松ヶ島城が陥落し、その後、尾張に落ちると、弓の達人でもあった彼は徳川家康から頼まれて、徳川家に仕えたようであるが、まもなく亡くなったようである、とある。
「佐久間右衞門」佐久間信盛(大永七(一五二七)年~天正九(一五八一)年)は織田家家臣。佐久間信晴の子として尾張に生まれる。初め、牛助、次いで出羽介、右衛門尉を称した。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角義賢(よしかた)の勢力を掃討するに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の「遠江三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫している。「長篠の戦い」、伊勢長島一向一揆との戦い、越前一向一揆との戦いなど、信長の戦闘の殆んどに参陣しているが、中でも、天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、その中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の同八年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、実際、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われているが、真相は不明で。信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子正勝は、後に許されて、織田信長に仕え、不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「下間(しもづま)筑後守」下間頼照(しもつまらいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は下間頼清の子。官位が筑後守であったことから、通称を筑後法橋(ほっきょう)という。下間氏は親鸞の時代から本願寺に仕えた一族で、頼照はやや傍流にあたるが、顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣され、「朝倉始末記」の記述や、その発給文書から、実質的な越前の守護或いは守護代であったと認識されている。名は頼照のほかに頼昭・述頼(じゅつらい)がある。頼照の前半生については詳らかではなく、記録が残るのは天正元(一五七三)年頃からで、同年、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされ、越前国が織田勢力下に置かれたが、翌年一月、越前で守護代桂田長俊(かつらだながとし)に反発する民衆を誘って富田長繁が指導者として土一揆を起こし、長俊を滅ぼした。だが、長繁と一揆衆はまもなく敵対し出し、一揆衆は長繁に代わって、加賀国から一向宗の七里頼周(しちり よりちか:武将で本願寺の坊官)を呼んで自らの指導者とし、長繁を滅ぼした。こうして、越前を平定した後、頼照は顕如によって一向一揆の新たな総大将として派遣され、豊原寺を本陣として越前を平定し、実質的な本願寺領とした。しかし、一揆の主力である地元の勢力は、大坂から派遣された頼照や七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱を企てた。天正二(一五七四)年閏十一月、頼照はじめ、本願寺側勢力はこれを弾圧した。天正三年夏には織田の勢力が越前に進攻、頼照は観音丸城に立て籠り、木芽峠で信長を迎え撃つ準備をする。八月十五日、信長は一万五千の軍をもって越前総攻撃に着手すると、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり、織田方の猛攻に拠点の城は落城し、頼照は海路で逃れようとしたが、真宗高田派の門徒に発見され、首を討たれた(当該ウィキに拠った)。
「方人(かたうど)」味方。誤り。上記の史実から、浅井は何か勘違いをしている。
「平泉寺に隱れて跡をくらまし」そういう説があるのか。「平泉寺」は福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。珍しく私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。
「醒悟發明(せいごはつめい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『すべてをはっきりと悟ること』とある。
「道人《だうにん》」同前で、「日葡辞書」から、『仏法語。禅宗の観念・瞑想において完全の域に達した人』とある。
「梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは今宵の月をいかでまちみむ」「梓弓」(あづさゆみ)は「引く」の枕詞。原拠ないか。
「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。
「小寺官兵衞」ご存知、黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。播磨出身。初姓は小寺(こでら)。法号は如水。織田信長に仕え、信長死後、羽柴秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では徳川方についた。キリシタン大名で受洗名は「ドン・シメオン」。
「四十年來謀二戰功一……」の漢詩は、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠とした「剪燈新話」巻之一の「華亭逢故人記」の「詩を題して云はく、『鐡衣 着け盡して 僧衣を着く』……」に『基づき、特に』同書の『句解注「四十年前馬上ニ飛ブ功名、蔵尽キテ僧衣ヲ擁ス…天津橋上人識ル無シ」の辞句や心情を翻案したもの』とある。私は原拠考証をしないことにしているが、同句解の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該部の画像をリンクさせておく。右頁である。
「良弓を折(くじ)く」「新日本古典文学大系」版脚注に、『立派な弓も折り捨てた』とある。
「緇衣(しえ)」僧侶の着る墨染めのころも。転じて「僧侶」の意でもある。
「編衫(へんさん)」「偏衫」「褊衫」の誤字。僧衣の一種。両袖を備えた上半身を覆う法衣。下半身に裙子 (くんす:黒色で襞の多い下半身用の僧衣) をつける。転じて広義の「僧衣」の意でもある。
「妙經(めうきやう)」ありがたい経典。特に「法華経」を指す。
「梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏の教えを求めること』とある。「詢」音「ジュン・シュン」で、訓は「とう・はかる・まことに」の意がある。
「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」「きゃつらは、あの折りの貴殿や私の正統にして戰さの道理に基づいた奮戦を見て、さて、恥ずかしくはないのだろうか? さても! あの、伊賀の一揆どもの謀略は、全く以って拙(つた)ないものだったに!」。
「露霜ときえての後はそれかともくさ葉より外(ほか)しる人もなし」原拠はないか。
「うづもれぬ名は有明の月影に身はくちながらとふ人もなし」同前。「有明」(ありあけ)の「有り」に「在り」が掛詞。
「氣象」「氣性」に同じ。
「半町」五十四・五四メートル。
ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。
菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。
日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。
人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、
「ほろほろ」底本は「ぼろぼろ」だが、元禄版・「新日本古典文学大系」版に従った。]
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