芥川龍之介書簡抄102 / 大正九(一九二〇)年(七) 八通(現存する書簡の最古の河童図を含む)
大正九(一九二〇)年九月八日・田端発信・本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣・九月八日 芥川龍之介
啓
咋夕電氣と文藝社の事を賴みし人の所へ行き話したるにあの社の當事者は零餘子に万事を賴みし爲差當りその手から仕事を引き離す訣にも行かぬ由 しかし雜誌が零餘子ではうまく行かぬに相違なければ早晚何とか始末をつける事になるべくその節はよろしく願ふと云ふ口上だつた さう云はれて見れば仕方なき故君の名だけ先方に通じて戾つて來た どうもこの口は至急どうと云ふ訣には行かぬと思ふ
猶僕も外に何かあるか氣をつけて置くから精々君も當分は現狀に辛抱する事にし給へ 冗員淘汰がやかましい咋今だから改造の口もそんなに難有くないものではないのだよ 相談がてら君の所へ行く心算だつたが暑さに負けて手紙にした 以上
昨日作つた歌
石燈籠立ちの佗しき夕空にあがりて消えし螢なるかも
九月八日 我 鬼 拜
折 柴 先 生
[やぶちゃん注:「電氣と文藝社」『電氣と文藝』は創刊年月日は調べ得なかったが、高橋士郎氏のサイト内にあるこちらによれば、編集人は辻嘉市で、発行所は電気文芸社とある。科学記事と芸術・文芸記事を併載する変わった雑誌のようで、『文芸関係の欄には田山花袋・室生犀星・与謝野晶子・芥川龍之介・寺田寅彦・高浜虚子・菊池寛など、同時代を代表する文学者が寄稿』したとある。そういえば、私がブログで電子化した私の好きな俳人杉田久女の自伝的中編小説「河畔に棲みて」(三回分割。ここと、ここと、ここ)の初出発表誌がこれだったことを思い出した(この作品は大正六(一九一七)年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。その直後に高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたものであった)。本書簡に出る「零餘子」はその俳人長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)で、群馬県緑野郡鬼石町(現在の藤岡市)出身。本名は長谷川諧三(かいぞう:旧姓は富田)。東京大学薬学科専科卒。十六歳より俳句を始め、明治三八(一九〇五)年に新聞『日本』や『万朝報』に投句し、『日本』の選者であった河東碧梧桐の知遇を得、翌年、ホトトギス例会に出席するようになった。明治四十三年、俳人長谷川かな女と結婚し、婿養子として改姓、明治四五(一九一二)年には、高浜虚子に請われて『ホトトギス』編集部に入り、大正二(一九一三)年には『ホトトギス』の「地方俳句界」の選者となった。大正三年、『東京日日新聞』(『大阪毎日新聞』の系列紙)の選者となる。大正十年、『枯野』を創刊して主宰した。大正十五年には、講演概要筆記として「立体俳句論」を『枯野』に掲載、その幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た人物である。俳号はヤマノイモやオニユリなどに生ずる栄養体肉芽「むかご」に、「僅かな残り。端(はした)」の意を掛けたものであろう。ただ、ここで龍之介の不満ながらの辛抱を瀧井に言っている内容は、今一つ、はっきりとは分からない。既に虚子と親密だった龍之介にとっては、長谷川零余子とはぶつかりたくはないが、彼の文芸欄編集には大いに不満があり、自作を載せるのには躊躇する、という感じがあるようには見える。或いは後文から見るに、瀧井が『電気と文芸』の編集者として正規に雇って貰えないかと、龍之介に依頼したものかも知れない。
「冗員淘汰」(じようゐんとうた(じょういんとうた))とは「無駄な人員を整理すること」。
「改造の口もそんなに難有くないものではない」筑摩全集類聚版脚注に、『瀧井孝作はしばらく「改造」の記者をしていた』とある。なお、ウィキの「瀧井孝作」によれば、この年、彼は『改造』の文芸欄担当記者として、志賀直哉を知り、「暗夜行路」を『改造』に貰っている。]
大正九(一九二〇)年九月二十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十日 市外田端四三五 芥川龍之介
夕影の鞍馬の山に人住めり嘯虎と云ひてこの紙作る
はろばろと人が持て來し封筒の黃なるが裏に嘯虎の印あり
九月二十日 目下風邪引籠中 我鬼拜
大 芸 先 生
[やぶちゃん注:「嘯虎」(しやうこ(しょうこ))は佐々木茂索の兄。鞍馬寺に因んだ民芸品や玩具を製作していたらしい。
「大芸先生」芥川龍之介が佐々木を指して尊称したもの。恐らくは「たいうん・だいうん」と読む。「芸」は「藝」の略字ではなく、(くさかんむり)は間が切れる正字で、「藝」とは全くの別字である。これは本来は草の名で、地中海原産のバラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens を指す。本邦には江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに用いられ、料理の香りづけにも使われていたが、ウルシのように接触するとかぶれるなどの毒性があるとされ、現在は、殆んどその目的には使われていない。精油として採取されたルー油はグラッパなどの香り付けに使われている。漢字では「芸香」(うんこう)と書く。この成分故か、書物の栞(しおり)に使うと、本の虫食いを防ぐとされたことから、「芸」は転じて「書籍」を指すこととなり、古くは書斎のことを「芸室」(うんしつ)と称した。それを洒落たものであろう。私は大学時代に図書館司書の講座の中で(私は図書館司書及び司書教諭の資格も持っている)教わった「芸亭(うんてい)」を思い出す。日本最初の公開図書館で、奈良時代末に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が設立したもので、彼の旧宅を寺とし、その一隅に、漢籍を収めた書庫を設け、自由に閲覧させたというものである。]
大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・二十二日 我鬼(葉書)
赤らひく肌(はだへ)ふり■つゝ河童どちらはほのぼのとして眠りたるかも
この川の愛(めぐ)し河童は人間を得まぐとせしかば殺されにけり
短夜の清き川瀨に河童われは人を愛(かな)しとひた泣きにけり
この頃河童の画をかいてゐたら河童が可愛く
なりました 故に河童の歌三首作りました
君の画の御礼に僕の画をお目にかけ併せて歌
を景物とします 以上
大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一君(自筆繪葉書・前の葉書と共に投函されたものと推定される)
水虎文問荅之図
三拙漁人 我鬼
[やぶちゃん注:「我鬼」は朱の落款。画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にある、前の書信分とカップリングされたものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。前の書信は改めて以上の画像を視認して削除訂正も再現しておいた。]
大正九(一九二〇)年九月二十三日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十三日 芥川龍之介
腸の腐る病と聞きければわが腹さへも痒くなりにけり
氷囊の下にまなこをつぶりつゝわが腦味噌の腐る日おもほゆ
もう少しまじめに歌を考へん熱はあれども頭は鋭き
人つ日にさ庭の草のけむるときわが腦味噌の腐るを氣づかふ
目なかひにかゞやく星の今宵赤し人の膓腐れんとすも
屋根草のうら枯早み腐れたる膓持ちて生くる人あり
まだ熱あり、時々起きて原稿を書く、苦しみ云ふばかりなし、膓の腐る方が樂だといふ氣がする、あの藥もまだ使はない
病 我 鬼 拜
[やぶちゃん注:佐々木が罹患している「腸の腐る病」というのは不詳。一番一般的なのは腸捻転による捻転部の炎症腐敗である。芥川龍之介もこの九月下旬、風邪のために一週間ほど床についていた。
「目なかひに」「目交ひに・眼間に」。「目 (ま)の交(か)いに」で「目の先・目の前」の意。]
大正九(一九二〇)年十月十一日(年次推定)・田端発信・恒藤恭宛(転載)
松茸を澤山ありがたう
奥樣にもよろしく
風ひきてこやほどうれしはろばろと君がたばせし松茸一かご
籠とけば羊齒草がくれ松茸の匂ふはことにうれしきろかも
松茸はうれしきものか香を高みわが床のべを山になすかも
別雷神のみことのしづまらす糺の森の松茸かこれ
松茸の香深き森にすむ君のめぐし孤り子すこやけくあれ
松茸の香にこそ思へ如何ならむ君がなき子のおくつきどころ
秋を深み墓の木の枝うちなびき泣きてし心忘らえなくに
松茸の匂は高し夕されば羊齒草さへにうすじめりつつ
熱を高み咳にたへつゝ松茸の歌九首作る龍之介われは
十月十一日 病 我 鬼
恒 藤 恭 君
[やぶちゃん注:「羊齒草」「しだくさ」と読んでおく。贈られた松茸はシダを緩衝材として包装してされていたのである。
「別雷神のみこと」「わけいかづちのみこと」賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は現在の京都府京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(=上賀茂神社)の祭神。恒藤は当時、下加茂松原中ノ町に住んでいた。]
大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十六日 我鬼拜
新曲賣文八景
かなしきは、うき世なりけり身一つの、外にはたのむ椎の木の、木陰もさらに嵐ふく、鳰の湖(うみ)なる漁り舟、わたしや苫洩る雨にぬれ、身すぎ泣く泣く揖枕、夢もむすばぬ苦しさを、知るは浪風蘆ばかり、一つ浦屋の漁師さへ、粂も政二も榮一も、今夜ばかりは上機嫌、一盃機嫌、色機嫌、大津女郞衆の買ひ論に、さぞや顏にも夕燒けの、勢多の長橋なかなかと、時もうつれば唐崎や、まつ間せはしき夜の雨、比良の暮雪か女菩薩を、抱けば煩惱卽菩提、樣がためなら命も捨てよ、帶もやるやる笄ひも、閨の誓は堅田なる、雁の折り伏す蘆の穗の、寐くたれ居ろと思ふさへ、なじみ重ねたかの君に、わたしや粟津の靑あらし、つらいかなしい逢ひたいと、心矢ばせの歸り帆や、いつそこの儘向う地へ、舟をやろかと思つても、魚籃(びく)には魚もあら波の、しぶきうき世のすべなさに、男の意地を三井寺の、鐘鳴るまではやつしつし、やつと打つたる網がくれ、見えしは鯉か石山の、秋の月より夜もしるき、漁は金鱗二千丈、語るも聞くもいとほしき、作家修業の八景は、多情多恨のわが茂索、君が爲とぞ三重
しつかりし給へ さうしてえらくなつてくれ給へ 誰でもみんな樂ぢやないのだ
十六日午後 我 鬼 拜
佐 々 木 茂 索 樣 侍史
[やぶちゃん注:「新曲」は底本では右から左に横書きポイント落ち。全体は「近江八景」(琵琶湖南西部の八つの景勝。「石山の秋月」「比良(ひら)の暮雪」「瀬田の夕照」「矢橋(やばせ)の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田(かたた)の落雁」「粟津の晴嵐(せいらん)」。安藤広重の浮世絵でよく知られるが、もとは中国の洞庭湖の「瀟湘(しょうしょう)八景」に倣って選んだものである)を読み込みながら、しがない売文業のしがらみをカリカチャライズした小唄である。
「たのむ椎の木の」これは芭蕉の、「幻住庵の記」(大津の、門人菅沼曲水の別邸幻住庵在庵は元禄三(一六三〇)年四月六日から同年七月二十三日であるが、文の完成は翌八月。芭蕉四十七歳)の一末尾置かれた一句、
先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立(なつこだち)
であるが、その文末部分には芭蕉の観想する人生観が表明されているから、それを匂わせたととるべきであろう。以下に示す。
*
かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬(ぶつり)祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。『樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや。』と、思ひ捨てて臥しぬ。
先づ賴む椎の木も有り夏木立
*
「鳰の湖(うみ)」「にほのうみ」は琵琶湖の異名。「鳰」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei の古名。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照。「鳰の浮き巣」(カイツブリの巣。葦の間などに作られ、それが水に浮いているように見えるので、和歌・俳諧などでは「寄る辺ない哀れなもの」として詠まれる)が知られ、同じ芭蕉に、
五月雨に鳰の浮巢を見にゆかん
がある。貞亨四(一六八七)年夏に江戸で詠まれたが、彼はこの年の十月に、かの「笈の小文」の旅に出る。この句はそれを門弟に示したものであった。
「苫」とま。菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ蓆(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる。
「揖枕」かぢまくら(かじまくら)。舟中で寝ること。
「粂も政二も榮一」筑摩全集類聚版脚注に、『久米正雄、小島政二郎、岡栄一郎をさすのだろう』とある。
「女菩薩」「によぼさつ(にょぼさつ)」。といえば、私は即座に後の「藪の中」(大正一一(一九二二)年一月『新潮』掲載)を連想する(リンク先は私のもの)。
「煩惱卽菩提」既に述べた通り、龍之介の好んだ語。
「笄ひ」歴史的仮名遣は「かうがい」が正しい。元は、髪を搔き上げるのに使った箸(はし)に似た細長い道具。銀・象牙などで作るが、後に、女性の髷(まげ)に横に挿して飾りとした道具。金・銀・水晶・瑪瑙・鼈甲などで作るそれを指すようになった。
「閨」(ねや)「の誓」(ちかひ)「は堅田なる」。地名に男女の寝所での密やかな誓いが堅いことを掛けたのは言うまでもない。
「寐くたれ居ろ」しどけなく寝ていろ。しかし、意味からみるに「寐くたれ居(ゐ)ると思ふさへ」の方が躓かないのだが?
「わたしや粟津の靑あらし」「粟津の晴嵐」に「逢はず」を掛けたもの。
「心矢ばせの歸り帆や」「矢橋の帰帆」に「矢のように」を掛けたもの。
「三重」三味線楽の旋律型の一つ。浄瑠璃や長唄などで、一曲の最初や最後又は場面の変わり目などに用いる。義太夫節には、大三重(おおさんじゅう)・キオイ三重・引取三重など、種類が多い。本来は、高い音域の部分という意味からの名称である。ただ、ここで龍之介は訓じて「みつがさね」と読んでいるものと思う。]
大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信・小穴隆一宛
寂しもよ月の繪のある古德利誰か描きけんこの古德利
小(さ)柱に菊は香ぐはしとろとろと入谷の兄貴醉ひにけらずや
碧童は醉ひ泣きすらん隆一は眠るが常ぞ古原草は如何に
この鳥は何鳥ならん紅菊の菊の花見て啼けりや否や
隆一が醉ひて書きたる菊の花その花小さしあはれを感ず
御會式の夜ルをかきかく鰹節音冴えぬれば醉ひがてぬかも
男三人醉へばまさびしこの宵は日蓮上人の御命日かも
夜深み歸り來れば枕べに隆一が描きし菊の花あり
醉ひ居れば薄き羽織も脫がなくにただに筆とる龍之介われは
十月十六日
小 穴 畫 宗 梧右
[やぶちゃん注:「入谷の兄貴」小「碧童」既出既注。
「古原草」「こげんさう」と読む。遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。芥川龍之介らは彼の仕事と本名からしばしば「蒔淸(まきせい)」と呼んだ。『海紅』同人で、小澤碧童や滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合い、小穴とも交流した。
「御會式」一般名詞としては法会の儀式であるが、一般には専ら、日蓮宗の各寺において、日蓮の忌日(十月十三日)に営まれる、宗祖報恩のための法会を指し、「御影供(みえいく)」「御影講(みえいこう)」とも呼ぶ。また、特に「御命講(おめいこう)」(大御影供がなまって「おめいく」となる)と称して、弘法大師忌の御影供と区別することもある。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と、杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式は最も盛んで、本門寺の御会式は十月十一日から三日間行われるが、夜、花で飾った万灯を押し立て、団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし、題目を唱えた信者が群参する。既に述べたが、芥川家の宗旨は日蓮宗である。]
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