日本山海名産図会 第二巻 香蕈(しいたけ)
○香蕈(しいたけ)○一名「香菰(かうこ)」・「香菌」(かうきん)・「處蕈(しよじん)」
日向の產を上品とす。多くは熊野邉(へん)にも出だせり。椎の木に生ずるを本條とす。但し、自然生(しねんせい)のものは少なし。故に、これを造るに、椎の木を伐りて、雨に朽(く)たし、米泔(しろみつ)を沃(そゝ)ぎて薦(こも)を覆ひ、日を經て、生ず。又、櫧(かし)の木を伐りて作るもあり。採りて、日に乾かさず、炙り乾かす。故に、香氣、全し。又、「生(なま)乾し」とは、木に生ひながら、乾かしたるものにて、香味、甚だ佳美なり。是れを漢名「家蕈(かじん)」といふ。形、松蕈(まつたけ)のごとく、莖、正中(まんなか)に着くものを、眞とす。また、漢に「雷菌(らいきん)」といふ物あり。疑ふらくは、作り蕈(たけ)の類(るい)なるべし。「通雅」に云、『椿・楡・構抔(など)を、斧をもつて、うち釿(き)り、その皮を、久しく雨に爛(たゞ)らかし、米潘(こめのしる)を沃ぎ、雷の音を聞けは、蕈(たけ)を生ず。若し、雷、鳴らざる時は、大斧(おほおの)をもって、これを擊てば、忽ち、蕈(たけ)を生ず。』と云へり。是れ、香蕈を作る法のごとし。今、和州吉野、又、伊勢山などに作り出だせるもの、日向には勝(まさ)れり。其の法は、扶移(しで)の樹を、多く伐りて、一所にあつめ、少し圡に埋(うづ)め、垣(かき)を結ひまはして、風を厭(いと)ひ、其のまゝ晴雨に暴すこと、凡そ一年斗り、程よく腐爛したるを候(うか)がひて、かの斧をもち、擊ちて、目(め)を入れ置くのみにて、米泔(しろみづ)を沃ぐことも、なし。されども、其の始めて生ふるのは、すくなく、大抵、三年の後(のち)を十分の盛りとし、それより每年に生ふるは、すくなければ、又、斧を入れつゝ年を重(かさ)ぬなり。春・夏・秋と出でて、冬は、なし。其の内、春の物を上品として「春香(はるこ)」と稱す。夏は、傘、薄く、味も劣れり。又、別に「雪香(ゆきこ)」と云ひて、絕品の物は、緣も厚く、形勢(きやうせい)も、全く、備(そな)へり。是れは「春香」の内より撰(え)り出だせるものにて、裏なども潔白なるを稱せり。
[やぶちゃん注:菌蕈綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科 Pleurotaceae 或いはホウライタケ科 Marasmiaceae 或いはツキヨタケ科 Omphalotaceae )シイタケ属シイタケ Lentinula edodes 。当該ウィキによれば、種小名を『「江戸です」から採ったとする説があるが』、『イギリスの菌類学者マイルズ・ジョセフ・バークリー』による一八七八年の『原記載論文には学名の由来は記されて』おらず、『ギリシア語で「食用となる」という意味の語』を『ラテン文字に置き換えると edodimos となり、これに由来すると考えられている』とある。
「米泔(しろみつ)」以下、異なった表記や読みが出るが、孰れも米の研ぎ汁である。「ゆする」と統一して欲しかった。「泔坏(ゆするつき)」で知られ、本邦では平安以後に用いられた、調髪のための「ゆする」=「米の研ぎ汁」=「白水(しろみず)」をいれる容器をかく呼び、よく古文に出るからである。「白水」は、性が冷たいものであって、これを櫛につけて髪を梳(くしけず)ると、人の血気を下げる効用があるとされた。「つき(坏)」は、丸みのある器を指す。
『是れを漢名「家蕈(かじん)」といふ』真に受けてはいけない。調べて見ても、シイタケを「家蕈」と呼んでいる漢籍は殆んど、ない。「本草綱目」の巻二十八の「菜之五」の「芝栭(しじ)類」でも「香蕈」であり、現在の中文呼称では、それ以外に「香菇」「叫做冬菇」「北菇」「厚菇」薄菇」「花菇」「椎茸」とあり、「家蕈」など、ない。しかも、「漢籍リポジトリ」で「家蕈」を検索しても、元で一冊、清で二冊しか上がってこない(しかもそれがシイタケであるかどうかどうかも私には判らない)。従ってこの「家蕈」が漢名というのは噓である。序でに言っておくと、現在、シイタケを中国が大々的に栽培し出したのは、日本の一人の男性が始めた技術援助によるものであって、現在の中国産シイタケが市場を席巻していることからは信じられないかも知れぬが、中国での大規模なシイタケ栽培はごくごく最近のことなのである。何故、自信を持って言えるかって? 嘗て国外旅行をした際の団体の中の一人の老人が最初にその技術援助をなさった方で、非常に詳しく話を聴くことが出来たからである。但し、シイタケ自体の巨視的な栽培史は中国の方が遙かに古い。中文のシイタケのウィキには漢代に既に栽培されていたと載るが、それが記されているのは、元代に王禎(一二七一年~一三三三年)が書いた「王禎農書」(一三一三年成立:本邦は鎌倉末期)とあるのだから、ちょっと信用に措けない気がしたのだが、この本には明らかに近現代のシイタケ栽培と同じような手法が記されているようである。サイト「旧特用林産研究室」の「シイタケの話(一)」に、『既に「王禎農書」』『に香蕈の栽培法が載っている。「日陰の場所を選び、楓(フウ)、楮(カジノキ)、栲(シイ)などの木を伐り、斧で傷をつけ、土をかけて置く。数年できのこが発生する』」とあり、『また、榾木を槌で叩いて』、『きのこを発生させる手法も既にあった(「驚蕈」と呼んでいた)。この記述と同様のものが、日本の農業全書』元福岡藩士宮崎安貞著で元禄一〇(一六九七)成刊行)『にも載っている。ただし古くから栽培技術が開発された中国よりも、日本の方がシイタケ栽培が盛んになっていった』。水戸の本草学者佐藤(中陵)成裕の「五瑞編」(一七九六年)には、『詳しい栽培法が載っており、当時の栽培方法をうかがい知ることができる。シデ、コナラ、クヌギの原木に鉈目を入れて温湿度を管理し、自然にシイタケ菌が原木につくのを待つという方法であり、浸水打木、火力乾燥法についても詳しく載っている』。筆者は、また、『最近は中国産におされ気味のシイタケも、まだまだ食用きのこの代表選手ではある。さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。最も古いのは』、貞応二(一二二三)年に、『道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと』、『寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、「典座教訓」に載っている(シイタケではなく、桑の実であるという説もある)。その後は』、寛正六(一四六五)年の『日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが載っていたり、節用集(当時の辞典』(明応四(一四九五)年成立)『に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。これ以後は料理材料としてありふれたものになるのに、なぜだろうか?』と提起された上で、『シイタケは珍しいきのこではないから、古くから食べられていたのだろう。しかし生シイタケの状態では、マツタケやヒラタケのように、他のきのこに比較してきわだった香りや形の特徴があるとは言えない。このため一つの種としての全国的な認識が生まれなかったのかもしれない。その後、乾シイタケにして食べる方法が普及するにつれ、独特の香りから、シイタケの地位が向上することになったのではないかと思う。実は乾シイタケの料理法は、中国から伝わったのかもしれない』とある。以下、曲亭馬琴の「兎園小説」『日本のシイタケ栽培草創期の話がある』(第一集の巻頭を飾る「文政八』(一八二五)『年乙酉春正月十四日於海棠庵發會」の「沼津驛和田氏女兒の消息 海棠庵」で、本文標題は「文政六年の夏の末、駿州沼津驛和田傳兵衛といふものへ、娘より遣しゝふみの寫」である)『伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた』。十四『歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり』、三十『年近くたった。ある日』、『豊後の岡という所から』二十五『両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。重蔵は豊後で、シイタケの栽培法を教えたところ、国益になるということで、領主の召し抱えになった。毎年』七十『両の金を賜り、岡の岳山というところで、大きな家を建て、だんだん成功し、三百余人の召使いがいるまでになった。毎日シイタケを作り、串に刺して焼いて、大坂に出し、春と秋とで』二『万両も取る財産家になったという』。『ちなみに大分県では、豊後の源兵衛という炭焼きが、炭にする木に鉈目を入れたまま山に放置したところ、シイタケがその木から発生し、シイタケ栽培法を開発したということになっている。この鉈目栽培法は半世紀前まで行われていた栽培法である』とある。
「雷菌(らいきん)」静電気関連会社「テクノクリーン」の「きのこ増産装置『らいぞう』」のページに、『昔から『雷の落ちた場所には、きのこが良く生える』という言い伝えがあります』。『長年『雷』と『きのこ』の関係を研究されている 岩手大学の高木浩一教授の説によると、強い電流の衝撃を受け』、『「危機感」を抱いたきのこの菌糸が、子孫を残す本能で活発に生育するからではないかと言われています』。『この説を参考にして愛媛県の産業振興課が当社の高電圧装置を使用し、きのこ(しいたけ)増産効果の実証試験を行ったところ』、一・五~二・〇倍『の増産効果が認められました』とある。「大斧(おほおの)をもって、これを擊てば、忽ち、蕈(たけ)を生ず」とあるから、或いは有意な落雷による感電でなくても、菌糸に物理的な有意に強い力が加えられると、同じ現象が起こるのかも知れない。
「作り蕈(たけ)」「きのこ」の栽培種。
「通雅」明末清初の思想家方以智(一六一一年~一六七一年)の撰なる語学書。「爾雅」に倣って、物の名・訓詁・音韻などを二十五門に分類し、詳しく考証したもの。
「構」カジノキ(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )の本邦での古名。
「伊勢山」現在の三重県松阪市飯福田町伊勢山上(いせさんじょう)か(グーグル・マップ・データ)。奇岩と鬱蒼とした古木に包まれた絶景地で、大宝元(七〇一)年にかの役の行者小角(おずぬ)の開創になる霊場と伝えられる地である。
「扶移(しで)の樹」マンサク亜綱ブナ目カバノキ科クマシデ属 Carpinus に属するシデ類。硬く榾木にもなるので、シイタケ栽培にも使用できるであろう。本邦には、サワシバ Carpinus cordata ・クマシデ Carpinus japonica ・アカシデ Carpinus laxiflora ・イヌシデ Carpinus tschonoskii ・イワシデ Carpinus turczaninovii が自生する。
「春香(はるこ)」「雪香(ゆきこ)」「九州・高千穂郷の干ししいたけ専門問屋 杉本商店」の公式サイトの「椎茸の種類」に、『椎茸はほぼ』一『年を通して収穫されますが、最盛期は春・秋で、年間収穫量の約』七『割が春に収穫されます』として、『春子(はるこ)』として、二月から四月『頃採れる椎茸。重厚な味と香り。どんこ・香信・バレ葉の各グレードがバランスよく取れる。年間収穫量の』七『割がこの時期に採れる』とあり、次に『藤子(ふじこ)』として、『藤の花が咲くころに採れる。品質は悪く、虫の混入が多い』、次に『秋子(あきこ)』として、『薄葉で華やかな香り。高温期のため成長が早く、中葉以上のバレ葉が多い。どんこはほとんど採れない』とあり、最後に『寒子(かんこ)』とあり、『「石どんこ」とも呼ばれ、極限まで身の詰まった、うま味が濃厚で歯ごたえがある椎茸。収穫量が少ないため』、『通常流通しない』とあり、『「石どんこ」とも呼ばれ、極限まで身の詰まった、生産者が最も好んで食べる椎茸です。ぷりぷりとしたかんこ独特の歯ざわりは、まるであわびを食べているようです』とある。ここは場所柄で、九州北部以北ならば、「雪香」と呼んだとしてもおかしくない。]
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