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2021/07/22

芥川龍之介書簡抄104 / 大正九(一九二〇)年(九) 四通

 

大正九(一九二〇)十一月十六日・田端発信(推定)・空谷先生 侍史・十一月十六日夕 三拙生拜

 

伊豆ゆ來し蜜柑十あまり盆に盛りこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

井月のほ句寫し倦む折々はこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

 十一月十六日        我 鬼 拜

空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂覺年譜によれば、この日のまさに『夕方、久米正雄、菊池寛、直樹三十五、佐々木茂索、宇野浩二』、矢野橋村(きょうそん 明治二三(一八九〇)年~昭和四〇(一九六五)年:日本画家。愛媛県越智郡(現在の今治市)出身。本名一智。この翌年の大正十年には他の画家らとともに日本南画院を設立、大正十三年には、当時の大阪に美術学校がなかったことから、三十三の若さで大阪市天王寺区に私立大阪美術学校を設立して校長に就任し、自ら教鞭を取り、全国から南画家が結集、発表・研究の場をとなった。南画は南宗画(なんしゅうが)とも言い、元の四大家(黄公望・倪瓚(げいさん)・呉鎮・王蒙)によって大成された絵画様式。柔らかい筆致を重ねた淡彩の山水画を特色とする。日本では江戸中期に盛んとなり、池大雅・与謝蕪村らによって日本独自のものが確立され、のちに文人画と同義に用いられるようになった。なお、この彼が参加していたことは「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の本書簡(恐らくは葉書)の画像の解説で判明した。次の寄書にも登場する)、『らとともに、主潮社(日本画家の団体)主催の公開講座講演のため、大阪に向けて出発』とあるから、その出しなに投函したものと推測する。その前に、誰かに託して伊豆から送られてきた蜜柑を下島勳(空谷)の元へ届けたのであろう。]

 

大正九(一九二〇)年十一月十七日・大阪発信・岡榮一郞宛(葉書・寄せ書き)

 

Oosakagoninnotoko

 

   我鬼君の像

    宇野浩二筆       宗

        私はかり、

 上方は     色男かも橋村

  まがい真珠の    自画像

   菊池カン 純■      我鬼

 

       大阪表にて   五人の男

 

[やぶちゃん注:「宋」は丸印内(これは直木三十五の本名植村宗一の「宗」である。この右下のそれは植村(直木)の自画像か?)。大阪の彼らは前記注の通り。橋村は画家だから絵は避けて、言葉だけを載せたものか。同寄せ書きを画像で載せる本は幾つかあるのだが、殆んどが文字の完全な判読が出来ないほど状態がよくない。一番よく判読出来るのは、意外なことに(失礼)筑摩全集類聚版だったので、ここでは、それをトリミングして示した。宇野浩二・直木三十五・矢野橋村・田中純の作品は全員総てがパブリック・ドメインである。「純」の下に文字様のものが見えるが、判読出来ない。「も」或いは「也」か? 或いはただの「純」の字の余勢かも知れない。「大阪表にて」「五人の男」というのは表書きにあるようであるが、最後に配しておいた。

「私はかり」「私ばかり」の意か。

「まがい真珠」この年の六月九日から後の十二月二十二日まで、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞」に連載された菊池寛の長編小説「真珠夫人」は大ヒットとなっていたのを皮肉ったものである。ともかくも専従作家となった菊池を流行作家に押し上げた作品であった。シノプシスは当該ウィキを読まれたい。私は読んでいないし、向後、死ぬまで読むことはない。]

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十四日・諏訪発信・東京市牛込區天神町十三 佐々木茂索樣(絵葉書)

 

白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ來し

 二十四日              龍

二伸 但し宇野、僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「白玉」大切に思う人・大事なわが子などに喩えて言う語。

「ゆめ子」宇野の愛人であった鮎子(芸妓名。本名は原とみ)。宇野浩二の「諏訪物」と呼ばれる複数の作品に出る芸妓「ゆめ子」は彼女をモデルとしている。なお、彼女は宇野浩二の入れ込んだ女性であるが、現在の研究では、彼女とは肉体関係はなく、プラトニックな支えであったと考えられているようである。大阪の講演の後、龍之介は盟友宇野浩二とともに、京都に遊び、さらに宇野に誘われて木曾・諏訪方面に出かけ、二十三日昼過ぎに諏訪に到着して、この鮎子(ゆめ子)と会っているのである。宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」に、この時の芥川龍之介のかなり際どい彼女へのモーション行動などが赤裸々に語られてある。さすれば、この佐々木への禁止は、実は、芥川家の者へ伝えるなということではなかったか? そこに龍之介の「ゆめ子」への非常にアブナい執心が隠れていると読めるのである。次の書簡も――これ――必読である。

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十八日・田端発信(推定)・原とみ宛

 

拜啓

先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい

あなたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白狀すると私は少し惚れました もつと正直に白狀すると余程惚れたかもしれません但し氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい

その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい

こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら

   十一月廿八日    芥 川 龍 之 介

  鮎 子 樣 粧次

 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました

            龍 之 介 拜

 

[やぶちゃん注:何をか言わんや――ともかく目を疑う人は、宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」を総て読まれるがいい。そこには前の書簡も、この書簡も引かれてあり、さらに、もっとおぞましいことが書かれてあるから――何が「おぞましい」かって?――この原とみに送った手紙の言葉遣や言い回し……どこかで見たことはないかね?……そうさ!……結婚前の塚本文に送ったラヴ・レターのそれと――これ――全く同じ口調ではないかね!?!…………

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