《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋
[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)に「跋」として掲げられ、後、作品集「點心」「梅・馬・鶯」に表記の題で収録された。同句集は原本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。
底本は岩波旧全集に拠った。標題はママ。
本電子化は現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、行った。されば、注は附さない。この公開後に公開する「芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八)」を参照されたい。私は井月の生涯と俳句を偏愛する人間である。彼の漂泊の人生について、詳しくはウィキの「井上井月」がよい。龍之介のこの跋文についても言及されており、編者であった下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、この跋文は『芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』が、芥川がここで「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」を『井月の最高傑作と称揚しているが、皮肉にも』、『この俳句は井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』とあることは明記しておく必要がある。また、一ヶ所、「適く」は「ゆく」と読む。後日、語注を追加しようとは思っている。]
「井月句集」の跋
空谷下島先生の「井月の句集」が出るさうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云ふのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまづ編者の根氣に、敬服せざるを得ないものである。
井月の句集を開いて見ると、惡句も決して少なくはない。天明の遺音は既に絕え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも薰習を及ぼしたのである。しかし山嶽の高さを云ふものは、最高峰の高さを計らなければならぬ。井月は時代に曳きずられながらも、古俳諧の大道は忘れなかつた。「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」以下、集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、「幻住庵の記」等に至ると、入神と稱するをも妨げない。私は第二に烱眼の編者が、この巨鱗を網にした事を愉快に思はずにはゐられないのである。
が、私の編者に負ふ所は、これのみに盡きてゐるのではない。昔天竺の鹿頭梵志は、善く髑髏を觀察し、手を以て之を擊つては、死の因緣を明らかにした。たとへば「是男子なり。衆病集つて百節酸痛し、命終を取る。是人死して三惡趣に墮つ」の類である。しかし世尊が試みに、優陀延比丘の髑髏を與へて見たら、彼は唯茫然として、「男に非ず女に非ず。亦生を見ず。亦斷を見ず。亦同胞往來するを見ず。」と、殆答へる所を知らなかつた。無余涅槃に入つてゐた比丘は、「無終無始、亦生死無く、亦八方上下適くべき所無し」だつた爲、梵志の神識も及ばなかつたのである。これは優陀延に限つた事ではない。井月の髑髏を擊たせて見ても、梵志はやはり喟然として、止むより外はなかつたであらう。このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を傳して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。
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