梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)3 昭和九(一九三四)年(全)
昭和九(一九三四)年
一月十日
下宿を移つて來てから四日目。まだなれない、いらだたしい生活である。暗たんたる將來を見つめながら、私は今、數々の思い出を拾い上げる。美しい夢は破れた。それはそれは冷たい現實だ。唯生きて居るだけの生活だ。頽廢そのものだ。今日はゴタゴタした机をかきわけて、靑柳から借りて來た谷崎の「滴」を讀む。美代子と言ふ女性に對する主人公の感情が、丁度幸子さんに對する私の感情とよく似て居る事を發見する。やるせない惱みにおそはれて勉强が出來ない。足立に、西鄕を來らせるなと言つておく。
[やぶちゃん注:この年、梅崎春生満十九歳。
「西鄕」同級の西郷信綱であろう。]
一月二十九日
創作「明日」に書き記した頽廢の生活は、もう河原の雲影のやうに去つて行かうとする。今日は足立と玉突に出て行く。奧平の家に岡本をもどしに行く。もうこの生活ともお別れだ。明後日からは新しい勉强の生活だ。二月よ。それは勉强の月である。たのしい一日がくれて昏々と眠る時、それは何と樂しい心象であらうか。落第の夢がしきりと見られて、かなしいのです。苦しいのです。
[やぶちゃん注:「明日」昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第一号に発表された。現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)。先般、ブログで電子化した。]
二月五日
ああ傷ついた心。此の心臟の割目には常に幸子の白い顏が笑ひかけて居るのだ。多量の思慕が私を眠らせない。此の甘い苦しさの中に私は考へる事をしない。學ぶ事をしない。唯あの夏休みの甘い時間の流れを想ふだけだ。白い想い。白い顏。理智的な媚笑。媚笑。そつとゆれる春のやうな心持だ。
長い長い時間が、そつとそつと幸子の顏を心の中に刺靑してしまつた。もう消さうとしたつて、消す事の出來ない思慕の火だ。手を伸ばせば屆きさうだつたあの女の心が、意外にも遠く感ぜられたあの日だつた。それは遠い遠い存在のやうにも思はれたが、――ああ雙手をあげて私の心は追つかけるのだ。走つても走つても屆かない心地。そつと見つめながら居る想念だ。
二月二十二日
戶島が死んでから十日餘り。せぐり來るような淋しさを私はどうする事も出來ない。あの世をあげて祝酒に醉つた紀元節の日、一人淋しく散つて行く一つの生命を前にして、私は思はず泫然(げんぜん)として泣いた。尾池莊時代、共に苦しみ、共に樂しんだあの僚友が今は冷たい土塊(つちくれ)となつて、土の底で點々としみ落つる露を、音を聞いて居る――おかしな現實、奇妙な現實、悲しい現實、ああそれは生き長らへて居る私にとつて、何と錯雜した人生の象(かたち)であつたか。
[やぶちゃん注:「せぐり來る」底本では「せぐり」にママ注記があるが、不審。「せぐりくる」は「涙や吐き気などが込み上げる・堰きを切って上がってくる」で、多く、「せぐりあげる」「せぐりくる」などと複合語の形で用いる。
「紀元節」明治五(一八七二)年十二月に明治政府によって定められた神武天皇即位日とする祝日。現在の二月十一日の「建国記念の日」。大正一五(一九二六)年から敗戦までは、在郷軍人会・青年団・学校生徒を中心とする建国祭行事が各地で行われるなど、この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。「太平洋戦争」に際し、この日が「シンガポールの戦い」(昭和一七(一九四二)年二月八日から二月十五日。この実際の陥落日は奇しくも梅崎春生満二十七の誕生日であった)では、シンガポール陥落の目標日として設定されたことでも知られる。
「泫然」涙がはらはらと零れるさま。さめざめと泣くさま。
「尾池莊」学生下宿であろう。]
六月十二日
(ふと思ひ付いたまま)
「俺はもう止めるよ」
と彼は牌(パイ)から手を離すと椅子から立ち上つた。桂子は、ああ、もうついに行く所まで行きついてしまつたのだと今更のやうに慄然たる氣持に、背筋が冷たくなるほどの絕望感の中に、顏も上げ得なかつた。水谷が桂子のうつむいたひたいに一寸目を走らせながら、
「そうまでしなくても……」
と言いかけた時、彼は、
「いや、とにかく俺は止める、止めるんだ」
と牌をからからと卓子の眞中に投げだすと、こうふんにこめかみをびくびくさせながら荒々しく窓の方に步みよると、ポケツトをさぐつてホープの箱を出して一本取り出さうとした。もう三人は顏を見合はせては居たものの何とも言はなかつた。
[やぶちゃん注:創作の断片と思われる。この年で満十九歳。なお、日記がないが、この前の四月(恐らくは三月以前に通達されたものと思われるが)、梅崎春生は三年生への進級に落第して原級留置となっている(その結果として後の劇作家木下順二と同級になった)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『平均点不足』が理由とされており、『伯父からの学資供給が停止するかもしれぬ危惧感に悩んだが』(春生は昭和六(一九三一)年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となったが、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしい。ところが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』したのであった)、『病気だったということにして母が体面をつくろってくれた。作品活動のほうは、前年に引きつづいて』『龍南會雜誌』に「追憶」・「創痍」・「時雨」の『三篇の詩を発表。また同人誌「ロベリスク」に参加し』、既に掲げた習作「明日」及び「喪失」を『発表しており、そのほかにもエッセイ』「追悼の辭にかへて」(沖積舎版全集に不載で私は未見)と詩「海」を『寄稿している』とある(リンク先は総て既公開の私の正字正仮名版電子化注)。]
九月九日
若子がカルモチンをのみ自殺を企てた事を谷から聞いた。私が愕然としたのは、その事實じやなくて、死と言ふものが如何に手輕に目前に橫たはつて居るかを感じたからである。
[やぶちゃん注:「カルモチン」鎮静催眠作用のある化合物ブロムワレリル尿素(bromovalerylurea)の商品名。本邦では大正四(千九百十五)年に発売された不眠症治療薬の商品名「ブロバリン」にも含まれていた。過去に自殺に盛んに用いられた。現在でも銅化合物を含む睡眠剤は市販(原則一人一包装に制限)されている。]
十二月二十三日
「三Q」にて一坪に喧嘩を賣られ、しろみに遁逃し、便所に行くと、臺所には四本の庖丁が水のやうにとぎすまされて居た。人氣の無いのを幸ひ、私はその一本をとり、指でためし、腰間にさしはさみ、一坪を殺さんと道を戾つたが、事終(つひ)にならず、終に卑屈な一夜であつた。
[やぶちゃん注:底本では「しろみ」にママ注記がある。或いは「しろみ」は一膳飯屋か何かか? 熊本城由来の「城見」か? 冒頭の「三Q」はさすれば、「サンキュー」で、飲み屋の名か。しかし「一坪」が判らない。隠語でも見当たらない。珍しいが、「一坪」という姓は実在する。]
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