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2021/07/04

芥川龍之介書簡抄92 / 大正八(一九一九)年(四) 佐々木茂索宛(如何にも怪しい奇体な内容――秀しげ子との致命的不倫関係の深みへ沈む芥川龍之介――)

 

大正八(一九一九)年十月二十日・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十月廿一日 田端四三五 芥川龍之介

 

手紙のなくなるのは不安だな あの中には君に封筒を書いて貰つた禮や何かあつたから餘計僕も不安だよ さう云へば少しのろけてもゐたやうな氣がする それを君以外の人間に見られるのは恐れるな

この間は君がむきになつて怒つた所を見て甚愉快だつた 瀧井の怒るのは度々僕が怒らせつけてゐるから珍しくもないが君のは始めてだから面白かつたよ 君は怒ると平生不明瞭な言語が急に明快になる あれは怒の一德だ その上色が白いから艷且凄だよ これからもあゝ云ふ場合には遠慮なく怒り給ヘ

丁度この手紙を出して一日位すると君の書いた封筒の手紙が屆く筈だから返事を書くのは見合せてくれ給へ ぶつかると可笑しいから

その後多忙で句所ぢやない 今强ひて歌一首を案ずれば

   秋を深み古江に落つる夕山の木草の影は澄み徹るも

                   龍

   茂 索 先 生 梧下

  二伸 号を何とかつけないかね手紙をかくとき無風流でいけないから

  澄心亭主人とか綠梅洞々主とか僕の持合せの号を進上しようか

 

[やぶちゃん注:実は芥川龍之介は、六月十日に知り合った秀しげ子と、その翌日から、性急なターゲット行動に移って親しくなり、この前月の九月には、後戻り出来ない深刻な不倫関係へとひた走りに走ってしまっていたのである。詳しい時系列考証は、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」を読まれたいが、高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊。秀しげ子と野々口豊との関係を深く掘り下げたもの)によれば、同年六月十一日に、芥川は、しげ子へ、手紙と自分の作品集(直近の「傀儡師」か)を送っている。高宮氏はこの事実は、この日の早朝(当時の郵便局の窓口の営業開始は午前六時)早くに速達で出され、夕方に届けられたと推定、宇野浩二が芥川を『早業の達人』(宇野浩二「芥川龍之介」)と呼んだ所以であろう、と記されておられる(リンク先は私のテクスト)。その手紙には『昨夜は愉快でした。貴女が私の最も好きな或る女性に似ておられたので、などと歯の浮くような文句がつらねられていた』とし、また、それら(この手紙の内容)が同年九月号の『新潮』に「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」と題するゴシップ記事として取り上げられてしまったのである。この内容漏洩については、関口定義氏は「芥川龍之介とその時代」(筑摩書房一九九九年刊)で『彼女には芥川の手紙の一件をたちまち公開するはしたなさがあった』とリーク元をしげ子自身としている。

 採用しなかったが、この九月十四日(年次推定)の富田碎花宛書簡(転載)で(富田砕花(とみたさいか 明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人・歌人。岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。石川啄木の影響を受けて歌人として出発したが、大正四(一九一五)年、最初の詩集「末日頌(まつじつしょう)」を上梓、大正詩壇に於ける民衆詩派の詩人として活躍した)、

   *

恐縮つづきで手紙も書けません 原稿送ります なる可く誤植を少くして下さい 唯さへ詩文の價値が怪しいのだから 誤植があるとゼロになるのです それから「解放」でも僕のゴシップなぞ餘りのせないで下さい この頃少しゴシップに祟られすぎてる 實際問題として困る事が持ち上ると迷惑だから

   *

と書いている。正確には確認出来なかったが、どうも富田はこの頃、雑誌『解放』の編集を手伝っていたようである。富田はアメリカの国民的詩人ウォルター・ホイットマン(Walter Whitman 一八一九年~一八九二年)の代表詩集で一八五五年刊の「草の葉 ウオールト・ホヰツトマン 富田碎花譯」をこの年の「ホイットマン生誕百年祭」に合わせて、翌年にかけて大鐙閣(だいとうかく)から刊行している(龍之介もその訳詩集を富田から貰っている)が、この大鐙閣というのは、雑誌『解放』の出版元だからである。とこかくも、ここで珍しく龍之介が苛立っているのは、先に示した九月号『新潮』の「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」というゴシップ記事を指していることは明らかである。しかも、このゴシップはデッチアゲでも何でない、確かな事実だからこそ、龍之介は激しく苛立っているのである。

 以下、「我鬼窟日錄は、明らかな芥川龍之介の精神的変調を、短い記載の中によく伝えている。

   *

  九月十日 雨

 午後菊池の家へ行く。宮島新三郞が來てゐる。三人で月評を作る。

 夕方から十日會へ行く。

 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。

   *

この「夕方から十日會へ行」ったことと、「夜眠られず」には連関が疑われる。そこには秀しげ子が出席していた――芥川の恋情が揺す振られ出した――いや、何らかの秘密の逢瀬が約束された――だから……眠れない……鷺年譜では『恐らくこの夜も秀しげ子に会い、密会の連絡をしたと思われる』と踏み込んだ記載をなされており、こうしたことに禁欲的な宮坂年譜でも『夕方、十日会に出席し、秀しげ子と会うか。夜、眠れない』と意味深な書き方がなされている。高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」でも、ここで運命の日、『同月十五日の逢い引きの約束がなされたと思われる』とある。

   *

九月十一日 雨

 妖婆續篇の稿を起す。

 この頃どう云ふものか傷神し易し。努めてむづかしき本を讀む事にしたり。

   *

「妖婆」の後篇を起筆した、正にこの日附の書簡(旧全集書簡番号五七六)で、南部修太郎(既出既注)の『妖怪が谷崎程書けていない』という「妖婆」批判に対し、かなり厳しい口調で反論している(私は南部が谷崎の名を出して比較したのが災いしていると思う)。最後には『あれでも路上より傑作だと思ふが如何』と、放り投げた「路上」と比較して『傑作』という辺り、芥川らしくない。やっぱりおかしい。――芥川君、何か変だよ。――南部との書簡の応酬は、この後も十三日・十六日・十八日と続いている。「傷神」は傷心で、心に痛手を受けて悲しい思いに沈むことを言うが、これは芥川が妙に食い下がっている南部の「妖婆」批判などとは、実は無縁な気がする(しかし、正にこのタイミングで南部の名が出てくるのには正直、因縁を感じる。後に秀しげ子は南部とも関係を持ち、芥川がそれを知って愕然とするという衝撃的な事実があるからである)。これは寧ろ、秀しげ子に止めどもなく傾斜してゆく自分の心への、良心の警鐘の忸怩たる思いの反映した抑鬱気分である。

   *

 九月十二日 雨

 雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。

   *

「雨聲繞簷」は「雨聲(うせい)  簷(のき)を繞(めぐ)る」である。「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。

   *

 そして――遂に――その運命の日――大正八年九月十五日――がやってくる。芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」から引く(古い不全な電子化注なので、一部の漢字を正字化し、多少の修正を加えた)。

   *   *   *

 九月十五日 陰

 午後江口を訪ふ。後始めて愁人と會す。夜に入つて歸る。

 心緖亂れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。

[やぶちゃん注:「午後江口を訪ふ」高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」によれば、江口は当時、『谷中清水町一番地に住んでいた(『わが文学半生記』)』とあり、また、この「わが文学半生記」と小島政二郎の「長編小説 芥川龍之介」には、『しげ子が上野桜木町十七番地の弟の家へときどき遊びにきていたことが記されて』おり、『谷中清水町と上野桜木町とはすぐそばにあ』るから、『江口訪問後の芥川と弟の家へ遊びにきたしげ子のふたりは、両家の近くで落ち合ったという推理』をなさっておられる。そこから、ここに芥川龍之介がしげ子とのランデブウを下敷きにしたと高宮氏が言う「妙な話」を傍証として、二人が落ち合った場所を上野停車場と措定されるのである。その後、まず向島の料亭へ行き、そこで芥川は『自分をゲーテにし、彼女をゲーテの何番目かの恋人にして口説いたそうだ』(いずれも小島の前掲書に拠り、小島はこれを直接秀しげ子から聞き取りしたとしている)とある(高宮氏はこの向島の料亭も同定されている)。その後――二人は人力車を雇って――向島から深川へと向かった(高宮氏推定)。これが「或阿呆の一生」(リンク先は私のテクスト)の「二十一 狂人の娘」の情景であるという高宮氏の推定は私も以前から、そう考えて来た。

   +

      二十一 狂人の娘

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後うしろの人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり强い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

   +

そうして……この後は……是非、当日の気象状況や当時の調べ得る限りの資料を渉猟して、正にホームズのように、二人のしけ込んだ待合を特定するに至る、高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊)をお読み戴きたい。――最後には、以前に私が「藪の中」の最終講義で明かした(ブログでも記載したが、ここではネタバレの謗りを受けぬよう、厳に伏せておくこととする)――驚愕の事実が――待っている……。

……ともかく、早くは(一九九二年)鷺只雄氏がその年譜で、この日、

――『秀しげ子と初めて二人だけで会い、恐らくワリナイ仲とな』った――

と記したように、

――芥川龍之介はこの日、秀しげ子と肉体関係を持った――

と明言してよい。それは、この日録本文末尾の、芥川苦渋の感懐が如実に物語っている。ただ、「或阿呆の一生」の芥川の心境部分は正に死を決意して後に書かれた後年のものであり、共時的に真実を語っているとは必ずしも思われない。ただ、芥川がこの体験の前後に、彼自身が論理的に納得出来ないような、ある『ぼんやりとした不安』(「或舊友へ送る手記」)を感じていたことは、想像に難くないのである(リンク先は私のテクスト)。なお、芥川龍之介の妻芥川文は後年の「追想 芥川龍之介」(芥川文述・中野妙子記 一九七五筑摩書房刊)で、

   *

『或阿呆の一生』の中に現われる、月の光の中にいるような彼女であり、狂人の娘であったり、□夫人であったりした彼女だと、私は思うのですけれど、はじめのうちは、日曜ごとに私の家を訪れて、主人と話をして帰りました。

 私にも、高価な刺繡の半襟や、その他のものを贈物にしました。

 老人達はあまりにもしげしげと訪ねて来る彼女に不審を抱いている様子でした。

 そんな時に私は、言訳役に廻って老人達の不審をといていたほどで、あまり気にかけておりませんでした。

   *

と述懐している(当該書を所持しているが見当たらないので、山崎光夫氏の「藪の中の家」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)から孫引きした)。しげ子は面会日を必ずターゲットとしてやって来るのだ。芥川家の文を除く親族が皆、不審がるほどの親密さだ。この叙述は恐らく、芥川龍之介と関係を持ってからのことと考えてよい。一部に、芥川龍之介や周囲の取り巻きが、秀しげ子を不当に悪女に仕立て上げたとして彼女を再評価する論評が一部に見られる。勿論、それは大切な視点ではある。しかし、この芥川文の控えめな一文は、逆に、しげ子の内に潜在しているところの真の『ファム・ファータル』の要素を、如実に示しているように思われてならないのである。

   *

 九月十六日 陰 時二雨

 終日鬱々。夜岡榮一郎を訪ふ。

悶々とした芥川の複雑な孤寂――良心の呵責としげ子の実像を知った戸惑い、しかし、その誘惑を断ち難いというアンビバレンツ――が「終日鬱々」の四文字に凝縮している。

   *

 九月十七日 晴

 午後大彥來る。一しよにミカドへ晩飯を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて歸る。

 不忍池の夜色愁人を憶はしむる事切なり。

やはり、あの日以来、錯綜し、ブレる、感情的複合コンプレクスが収まらない様子が見て取れる。「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」と読む。広義には寝床のことだが、ここは寝椅子であろう。

   *   *   *

 而して、この何やらん、悪事を働いているらしい、龍之介の佐々木宛書簡となるのである。しかもそれは、この十月二十一日よりもかなり以前から行われていたことが、冒頭の龍之介の謂いから窺われるのである。それは――ある人物からの来信を、家人にそれと気づかれて、不審がらないようにするため、恐らくは何十通分も、封筒の表書きを佐々木茂索に依頼して書いて貰ったものを、纏めてその人物に渡し、その人物が龍之介に送る書信をそれに入れさせ、投函させていた――ということを意味すると推理するのが、この何だか読み心地が如何にも気持ちの悪い内容を、よく説明するものである(しかもここで龍之介が言っている不安は別に佐々木が龍之介から受け取った手紙が、知らないうちになくなっていたということを龍之介に書信し、それを龍之介が不安がっているという痙攣的な非常事態をも述べているのである。異様極まりない!)。この封筒の偽造依頼は後日の二十七日朝執筆の書簡でも言及しており、『この頃君の手紙が一週に二三通來るので家中君の健筆に敬服してゐる』と、厭な感じの滑稽を語っているのである。ある女性について、宮坂年譜は『秀しげ子か』と、わざわざ割注されている。必ずしも断定出来るだけの物理的根拠はないが、まあ、それ以外には考えられないだろう。また、同年十一月二十五日には、ある女性と深夜まで会っており、別れ際に、この女性から粋な財布を贈られている。この事実を家人に隠すために、芥川は翌二十六日附で岡榮一郎に宛てて封函葉書を出している。その中で芥川は『昨夜おそくまで 君のうちへすはりこみその上意氣な紙入れまで貰つて歸つた だから今度君が來ると僕のうちで誰か禮を云ふかも知れんその節よろしく御含みを乞ふ但しこれは久米なぞへ内證々々』――この夜は、岡の家にいたことにしてもらい、財布も岡に貰ったことにして口裏を合わせて呉れ――という主旨を含ませた奇妙な書信を認(したた)めているのである。この、ある女性について、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、『馴染の芸者か』と割注されている。確かにこれは意気な財布という辺りは芸者っぽい感じはしないではない。しかし、秀しげ子であった可能性も排除は出来まい。ともかく、芥川龍之介の手紙の中では、特異的に「いやな感じ」のする書簡である。文との結婚から一年半――私は余りに早過ぎる不倫と断ずるしか、ない。

「佐々木茂索」(もさく 明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年:芥川龍之介より二歳年下)は小説家・編集者。後に文藝春秋新社社長。当該ウィキによれば、京都府出身で、実家は代々の種油製造業であったが、父親の代に没落して、人手に渡っていた。京都府第一中学校中退後、一時、朝鮮の仁川にいた叔父の元に身を寄せたが、大正七(一九一八)年に内地へ戻り、雑誌記者や、新潮社・中央美術社・時事新報社などで働き、大正八(一九一九)年に『新小説』に「おじいさんとおばあさんの話」を発表し、作家デビューを果たし、芥川龍之介に師事した。大正一四(一九二五)年に発表した「曠日(こうじつ)」が芥川の賞賛を受ける。同年、芥川の媒酌で大橋房子(佐佐木ふさ)と結婚した。長編小説一編と短編小説約九十編をものした後、昭和五(一九三〇)年を最後に、作家としては筆を折り、『文藝春秋』の幹部として活動、昭和一〇(一九三五)年には、菊池寛らと芥川龍之介賞・直木三十五賞を創設した。戦後の公職追放により、出版界を一時退いたが、戦後改組して発足した文藝春秋新社(現在の文藝春秋)の社長として復帰、没するまで活動した、とある。]

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