芥川龍之介書簡抄93 / 大正八(一九一九)年(五) 小島政二郞宛
大正八(一九一九)十月二十七日・田端発信・小島政二郞宛
拜復 凡兆の佳句左の通り
時鳥何もなき野の門構
肌寒し竹切る山のうす紅葉
涼しさや朝草門に荷ひこむ
朝露や鬱金畠の秋の風
初潮や鳴門の浪の飛脚船
など君の選に洩れたれど大好きなり「禪寺の」「門前の」「灰捨てゝ」「下京や」皆好「町中や」は「時雨るゝや黑木むつ屋の窓明り」と共に巧を極めすぎたる氣がすれど如何
「枴」はオウコです但し假名遣ひは當てにならず「窓」は俗惡な創作生活を打破する記念に書いたのです澤木さんに獻じたのは慚愧の意を表し旁〻精進の志を決する爲でしたこれから手堅く押して行きたいと思つてゐますどうも今年の創作生活は新年から調子が狂つてゐた
廿四日待つてますからいらつしやい「何菊や」と云ふ句作つた筈はないが何ですか「白菊は暮秋の雨に腐りけり」ですかあれは新しがつたのですよこの間茂索折柴等を相手に歌を作りましたその時の僕の作を御披露します
秋雨の降り來る空か紅殼の格子の中に人の音すも
磯草に光はともし砂にゐて牛はひそかに限を開き居り
外の連中の歌も紹介しようと思つたがやめました 頓首
芥川龍之介
小島政二郞樣
二伸 「埋火のほのかに赤しわが心」は傑作だと思ふがどうですか やけて鑑賞的態度が不純になつてゐるとくだらなく見える惧がありますがな
[やぶちゃん注:「凡兆」彼に就いては「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 一」の私の注の冒頭を参照されたい。
「時鳥何もなき野の門構」下五は「もんがまへ」。「猿蓑」所収。
「肌寒し竹切る山のうす紅葉」「猿蓑」所収。三つの「季重ね」を敢えてやったところにきりっとくる寒さがよく現われて、視覚的にも上手い。
「涼しさや朝草門に荷ひこむ」中七は「あさくさ/もんに」。「朝草」は朝の涼しいうちに秣(まぐさ)などにする青草を刈る農事を指す。下五の「こむ」は「込」の漢字表記なので、「こみ」とも読める。夏の早朝の清涼感とその動的様態がよくマッチしている。「猿蓑」所収。
「朝露や鬱金畠の秋の風」これも三つの「季重ね」だが、少しもおかしくない。「鬱金畠」は「うこんばたけ」で、単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa の畑。熱帯アジア原産であるが、十五世紀初めから十六世紀後半の間に、沖縄に持ち込まれ、九州・沖縄地方や薬草園で薬用(根)及び観葉植物として栽培された。「猿蓑」所収。
「初潮や鳴門の浪の飛脚船」「猿蓑」所収。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の語注に、「初潮」は『陰暦八月十五日の大潮のこと。力強い高波になる。秋の季題』とあり、「飛脚舟」は『急ぎの連絡のため、日和や風向きに無関係に急行する小舟。飛脚小早(こばや)ともいう、数丁の艪で漕ぐ』とあり、評釈は、『一年中で潮の最も高くなる初潮の夜、満月の皓々と照る下、激しく渦を巻く鳴門海峡を、白い波しぶきをあげながら、一艘の飛脚舟が勇壮に疾走してゆく光景である。迫力満点のダイナミックな画面構成の句であるが、凡兆の足跡から推して、おそらくは想像によって描いたものであろう。「鳴門の浪の」と「ナ」の韻を重ねて弾みをつけた音調上の効果も見逃せない。森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』には、この句の背景に『平家物語』巻六「飛脚到来」の一場面――義仲挙兵に動揺した平氏一門に、さらに鎮西・伊予からも平家離反の知らせを運ぶ飛脚舟が到来して風雲急を告げるという場面があることを指摘しているが、その当否はともかく、実景というよりは想像の句であることは間違いないようである』とある。「平家」の歴史詠とする解釈は私は語るに落ちた解釈と思う。
以下、芥川龍之介が挙げた句の内、上五のみ示したものは、最後を除き、
禪寺の松の落葉や神無月
門前の小家もあそぶ冬至哉
灰捨(すて)て白梅(しらうめ)うるむ垣ねかな
下京や雪つむ上の夜の雨
で、「町中や」というのは、恐らく、凡兆の代表句と称してよい、
市中は物のにほひや夏の月
の誤りであろう。
「禪寺の松の落葉や神無月」「猿蓑」所収。
「門前の小家もあそぶ冬至哉」「小家」(こいへ)は参詣人相手の小さな店で、前掲の堀切実の注によれば、この「門前」は凡兆の足跡から推して、『京東山あたりの』『おそらく禅寺であろう』とされる。何故、禅寺かと言えば、『冬至』(陰暦十一月中旬。新暦では十二月二十二日頃)の日は、『この日から春がだんだん近づく日ということで仕事を休んで祝う。とくに医者と禅僧の祝い日であった。『滑稽雑談』に「和朝禅家において朝旦に限らず、毎年冬至を専ら賀す。前一日冬夜と称して弟子の徒師家を饗す。俗に冬夜振舞と云ふ。冬至の日、師家又門弟に酒飯を送る」とある』。
「灰捨(すて)て白梅(しらうめ)うるむ垣ねかな」「猿蓑」の句形。「梅の牛」では、
灰捨て白梅うるむ根垣かな
となっている。いかにも俳諧らしい取り合わせがいい。
「下京や雪つむ上の夜の雨」「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたいが、これは厳密には中七座五が凡兆、上五が芭蕉の合作である。
「時雨るゝや黑木むつ屋の窓明り」「猿蓑」「落柿舎日記」所収。同じく「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたい。これは語注なしでは、最早、多くの現代人は映像を想起出来なくなっている。
「市中は物のにほひや夏の月」「猿蓑」所収。同じく「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたい。私も凡兆が好きだが、確かに上手いが、かっちと決まり過ぎている感じがあって、ちょっと「にほひ」のきつく匂ってくるのが気にはなる。
『「枴」はオウコです但し假名遣ひは當てにならず』歴史的仮名遣は「あふこ」「あふご」で「朸」ともかく。基本は物を担のに用いる天秤棒。物に挿し通して両端を二人で担ぐものもあり、一人で両端に物を懸けたり、草や薪の束に突き挿して担うものもある。和歌では「會期(あふご)」と掛詞にされることが多い。単に「棒・杖」を指すこともある。私は常にこの言葉を見るや、直ちに、偏愛する「雨月物語」の巻之五の「靑頭巾」の最初の部分を想い出すのを常としている。
「窓」『東京日日新聞』の「日日文芸」欄に「窓(上)――澤木梢氏に――」を大正八年十月十五日附で、翌十六日附で同標題で「(下)」を発表したもの。実験的にモチーフを組み合わせた散文詩のように読める。「澤木梢」はペン・ネームで本名は澤木四方吉(よもきち 明治(一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)。西洋美術史家で、慶應義塾大学文学科及び美術・美術史科初代教授にして、『三田文学』の二代目主幹で、慶応大学英文科教授として芥川龍之介を招聘する話を小島とともに進めようとした人物であった。本作は元版全集では最終クレジットを「大正八年二月」とすると、底本「後記」にあるのだが、このデータは信用におけない。既にしてなかなかOKが出ない慶応大学教授招聘に待ちくたびれ、並行して話があった毎日新聞社友を受け入れた彼にして、それは一抹の淋しく「待つ」ったが来ない来客という主人公のそれに反映されているとも言え、それ故に運動を主導して呉れた「澤木さんに獻じたのは慚愧の意を表」すものだったというのえだろう。同作は「青空文庫」のここで読める(但し、新字旧仮名)。
「廿四日待つてますからいらつしやい」十二月二十四日だろうが、不詳。新全集宮坂年譜の十二月十七日と二十日の間に『この頃、自宅で運座の会を開く』とあるのが、書信からしっくりはくる。
『「何菊や」と云ふ句作つた筈はないが何ですか「白菊は暮秋の雨に腐りけり」ですかあれは新しがつたのですよ』採用していないが、先立つ大正八年十月十二日附瀧井折柴(孝作)宛書簡(葉書)にこの、
白菊は暮秋の雨に腐りけり
句を記した後、「この頃暮方寂しい時こんな句意に似た心もちがする 以上」と終わっている。俳人(新傾向から自由律俳句も作った)で小説家の瀧井折柴(明治二七(一八九四)年~昭和五九(一九八四)年:芥川龍之介より二歳年下。折柴は俳号。本名が孝作)については、『小穴隆一「二つの繪」(36) 「影照」(11) 『「無限抱擁」のヒロイン』』の私の注を参照されたいが、この大正八(一九一九)年に瀧井は『時事新報』の文芸部記者として芥川龍之介と知遇を得た。後に掲げるが、瀧井はこの翌月十一月に、友人の画家小穴(おあな)隆一を連れて芥川邸に訪れ、以後、龍之介と小穴は終生無二の親友となった点で、重要な人物と言える。
「埋火のほのかに赤しわが心」この大正八年十月十五日の南部修太郎宛書簡に、「小說は愚作を書くが句は大分進步した敬服させる爲に一句書く」として、
埋火の仄に赤しわが心
の表記で記す。ここでも小島に対して誇示している通り、この句、芥川の自信作であった。にも拘らず、彼が「澄江堂句集」にこれを採らなかった意味も――私には分かる――これは「愁人」秀しげ子への複雑な思いを詠んだものと思うからである。「やけて」(人間性が焼け干乾びての意か)「鑑賞的態度が不純になつてゐるとくだらなく見える惧」(おそれ)「がありますがな」とは、鑑賞態度なんぞではなく、龍之介よ、お前の文を裏切りしている現実であろう!]
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