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2021/07/09

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)6 昭和一四(一九三九)年(全)

 

   昭和一四(一九三九)年

 

[やぶちゃん注:この年で梅崎春生は満二十四歳。前に述べたように、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。底本や中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜にも昭和十二年は記載がない。昭和十三年の条は、後者によれば、『二月、脳溢血で倒れ長らく病床にあった父』梅崎健吉郎(歩兵中佐)『が、床ずれから敗血症を併発して死去。享年五十九歳。十二月、二週間かかって』『「風宴」を書きあげる』とある。この昭和十四年の条には、『霜多正次に「風宴」を見せたが、左翼づいていた彼は問題にしてくれず、井上達(靖の弟)が「改造」に交渉してくれたが、ここでも謝絶された。三月、自分で浅見淵』(ふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年:小説家・評論家。兵庫県生まれ。早稲田大学国文科卒業。大正一五(一九二六)年十月、『新潮』新人号に「アルバム」を発表、昭和三(一九二八)年には丹羽文雄らと『新正統派』を創刊したほか、多くの同人誌に加わった。私小説風の作品や作家論・作品論などを発表した)『のところに持ちこむ。八月「早稲田文学」新人創作特輯号に』『「風宴」が掲載され』たが、『商業誌紙の反響は皆無で、わずかに「早稲田文学」の次号で、匿名氏から、時局柄ふさわしくない神経衰弱的な青春像だとの酷評を受ける』とある。「風宴」は「青空文庫」のこちらで読める。]

 

四月三十一日

 蓬萊莊を出て、東陽館に引き移る。

 階下のうす暗い四疊半である。これがまあ、終(つひ)の栖(すみか)かと私は何とはなしに思つた。一先づ荷物を收めるところに收めつくした。

 今度の部屋は、押入が廣い。貧弱ながらも床の間がある。本棚をそこに入れた。

 窓を開くと、中庭に面してゐる。二坪ほどのへうたん池があつて、汚れた水をたたへてゐる。庭には、白い花片や、葉が落ちてゐる。

 

 夕食後、早稻田に行つた。

 淺見淵氏の家に行つたが、燈が消えて、誰もいなかつた。淸水さんの家に行く。

 淸水さんの弟(光男の兄)が來ている。軍醫となつて訓練されているらしいが、甚だしく知性の缺乏した容貌と語調を持つてゐる。此の前來たときも會つた。

 一郞さんと十錢賭けの碁を打つて、一勝一敗した。その後、淺見氏の家に行き、上つて暫らく話した。「風宴」は編集會議にかけなければ、のせるかのせぬか分らぬといふこと。

 「風宴」は、人事にうすく抒情が勝つてゐるといふこと。

 

 バルザツクを讀む。「グランドブルテーシユ綺譚」「復讐」「フランドルの基督」「海邊の悲劇」。

[やぶちゃん注:最後のフランスの巨匠オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)のそれは、ライン・ナップから、昭和九(一九三四)年岩波文庫刊の水野亮訳と推定される。]

 

五月一日

 九時起床。食欲うすい。

 學校に行つて、學生課に行つた。

 ぼんやりあそこで立つてゐると、家庭敎師が二口きまつた。豐富にあるのが嬉しいやうな、私をのけものにしてゐるのが口暗しいやうな氣分。

 なるだけ早くしてください、せつぱつまつてるんだから、と言つたら、皆が笑ふ。成程樂天的好人物と思つたんだらう。

 天氣が好いせいか、浮きうきして、浮世の苦勞といふことが、身について來ない。歌などうたひながら、東陽館にかへつて來た。そのうちに、「風宴」は發表されるし、家庭敎師はあるし、と言ふやうなことになるだらうと思つた。

 なるだけ外國の作品を讀まうと思つて、この間はジイドの「法王廳の拔穴」をよんだ。面白かつた。洒落ではないけれど、どこかに拔穴を感じる。

 今日はトルストイの「クロイチエルソナタ」を讀んだ。その後五十分ばかり晝寢をした。起きて、トーマス・マンの「ベニスに死す」。

 

五月二日

 學生課に行く。澁谷の方の家で、中學三年生。それはいいけれど、住込だといふ。私は澁つて、ことわつた。一度斷ると、もう世話してくれぬといふ話を私はいつかきいたことがある。悲しい氣持で、大學正門を出て、有斐閣の二階でしばらく音樂をきいた。沈鬱な氣持になつた。

 モーパツサンの「あだ花」「オト父子」をよむ。

 十一谷義三郞の「笑ふ男」「笑ふ女」をねながら讀む。前者は平賀源内のことをかいたもの。氣障(きざ)な小說だ。

[やぶちゃん注:十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう 明治三〇(一八九七)年~昭和一二(一九三七)年:神戸市生まれ。早く父を亡くし、苦学して東京帝国大学英文科卒業。在学中に同人雑誌『行路』を創刊。『文藝時代』の同人であり、このため新感覚派の一人とされるが、虚無的で知的な作風で知られ、新感覚派とは一線を画した。肺結核で没した。国立国会図書館デジタルコレクションの「笑ふ男・笑ふ女」(昭和七(一九三二)年白水社刊)で二篇通して読める。梅崎春生が読んだのも、本書の可能性が高い。異様に凝った装幀・本文組みで、それだけ見ても「氣障」という感じがするものである。]

 

五月三日

「背德者」ジイド 第一部讀み、晝寢。

「背德者」を終りまで讀む。

「橄欖畑」をよむ。モーパツサン。岩波文庫「あだ花」の中。

 ジイドの「狹き門」を讀了。アリサといふ女に濁つた不快を感じた。

 

五月四日

 質屋に羽織をもつて行く。今日の利子一圓五〇錢、十五日迄待つて貰ふ。

 午前十時より、机に倚り、午後三時まで、「赤と黑」を讀む。大へん疲れた。上卷讀み終り、下卷を少し。

 寢る、頭やすめた。オニールを讀まうとしたが頭に入らなかつた。

 夜、「赤と黑」讀了、午前三時頃也。

 

 私は道德家だ。しかし刺激を欲してゐる。だから、反道德的なことに興味をもつのだ。ジユリアン・ソレルは不快な生意氣な小僧だ。

[やぶちゃん注:ジュリアン・ソレル(Julien Sorel)はフランスの巨匠スタンダールの小説「赤と黒」(:一八三〇年) の主人公。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『片田舎の下層階級の出身ながら、才智と美貌に恵まれ、偽善を唯一の武器として立身の道を切りひらいてゆくこの青年は、しばしば野心家の代名詞とされるが、むしろ強調すべきは彼が挫折する野心家だという点であろう。偽善に身をよろいつつも』、『彼の本質は情熱的夢想家であり,明晰冷徹を旨としながら』、『彼は絶えず内面の情熱、自らの感受性に裏切られ続け、ついに破滅へと向かう。〈己の身分の卑しさに反抗した田舎者〉と自らを規定する彼は、時代が生んだ、時代に反抗する人物であり、時代に押しつぶされて死ぬほかない。それがこの作品の』〈一八三〇年年代史〉(=フランス王政復古時代)『という副題の含む告発なのである。モデルは作者の故郷に近い寒村で殺人未遂事件を起こした元神学生アントアーヌ・ベルテ』Antoine Berthet『で、事件の概要は作品中でかなり忠実になぞられている。しかし、いうまでもなく,最大のモデルは作者自身にほかならず、冷徹を希求する男がつねに自らの感性の犠牲になるという意味で、これは作者の自画像であり、最愛の分身なのである』とある。]

 

五月五日

 十時半起床。

 「都新聞」の中野重治の隨筆で、平林彪吾が死んだことを知つた。病名は敗血症。

 尾崎士郞の「夏草」という小說(オール讀物)をよんだ。

 

 尾崎士郞の惡い所が妙に魅力になつてゐるやうに思はれた。

 ツルゲネフの「ルーデイン」といふ小說をよんだ。始めよんでゐるうちに、一種の不快さを强いられたが、後半は、さういふ感じがなくなつた。ツルゲネフがルーデインに對する態度の二重性を感じるのは、私も感じた。

 阿波田正一と一脈通ずる所があるのを私は感じた。四時に讀み終へて、例のやうに、一時間程眠つた。眠る前に、「あひびき」といふのをよんだ。(二葉亭四迷の「片戀」の中より)

 

 今日はSERVANT[やぶちゃん注:縦書(以下も総て同じ)。「使用人」の意。恐らくはここでは新しい学生下宿「東陽館」の若い女中と思われる。後に出るそれは前の「蓬萊莊」のそれか。]が私を怒らせた。マツチのこと。私はあいつの心についていろいろ考へをめぐらした。

 あいつは私を友達と思つてゐる。(らしい) こんなことがある。二日程前、私がひるねしてゐた時、入つて來た。音を立てない。私はいらいらして、終に起き上つた。あいつは疊の上にねてゐた。眠つてすらゐたのだ。

 私は追ひ出すのに苦勞した。

 

 私が去年の十一月、何故此處[やぶちゃん注:これは「彼處」(あそこ)の誤りではないか? 前の「蓬萊莊」である。]を出たか? はつきり理由があつたんだが、時間がそれを妙な樣に變へてしまつた。あのころのうつとうしい沈鬱を憤怒を、今日のマツチの事件で思ひ出した。あいつらは私の爲になるやうなことは何もしない。もちろん進んでしようともしない。個人的に何かたのめば、官僚的と思はれる程の態度で拒絕する。かつと私はなる。あのみにくい顏や手足をばらばらに引きさきたい欲望にかられる。

 あいつが私になれなれしいのは、私を利用するためだ。(はつきり意識はしてゐないだらうけれど) 私の言ふことを眞にうけぬ。冗談を以て報いる。これは私が惡いかも知れぬ。さういふ風になれさしたのは私の罪かも知れぬ。私をさういふ風にとりあつかひなれなれしくすることに、あいつは快感を感じてゐるらしく見える。しかし、あいつは、まだよかつたのだ。(あの頃)も一人のSERVANTを、私は滿身の憎惡と嫌惡を以て今思ひ起す。赤門前の本屋の前で、そいつに私は出會つたのだ。あの、あんぱんのやうな顏をみて、私は憎惡を包みかくしながら、うはべはおだやかに冗談など言つて別れた。私は私の氣持が判らない。なぜあんなことをするのだらう。

 

 「赤と黑」その他、外國の小說を讀んでゐて、女の心について考へる。あんな風に行くものかと考へる。それだから、私は一つの實驗をしてみようと思ふ。

 先づ、もとからいるSERVANTをA、新しいSERVANTをBとする。私はBに近づいてみやうと思ふ。Bに愛想よくしてみようと思ふ。いろいろ話したり、しんみりしたりして。(ジユリアン・ソレルが露西亞の貴族から聞いた方法を、私の現實に變形してみて)Aに對しては、虛心坦懷、風の如くみる。その結果をはつきりしらべる。

 せめて、そんな實驗することによつて、今日のやうな不快から逃れ出たいと思ふ。

 

 私は偉くならねばならぬ。人間的にではなく、社會的に。私がいろいろ感ずる不快感は、自分が社會的に何等のこともなしてゐない、職にもついてゐないし、怠惰な學生で收入はない、さうした卑小感から出發するものである。それをなくす道は、ある種の支柱を必要とするのだ。心理的な支柱を。それには、社會的に、自分の位置がはつきりと自分でみとめられる支柱が、もつとも最初に私の目に映じて來る。

 私が今、最も近く望んでゐることは、「風宴」が「早稻田文學」にのることだ。これによつて、私の心は剌激されるだらう。又、外の小說を書こうといふ氣持にもなれるし、野心といふものが剌激によつて目ざめるだらう。エクスタシーの狀態が少なくとも三日間はつづくだらう。その間に、私は私の心の姿勢をととのへる。何物も恐ろしくないことをはつきり自分に言ひきかす。そして又、仕事!

 かいてゐるうちに、だんだん憂欝な氣持になつてくるから、止す。

 

 私の部屋の窓をあけたら、夕暮があつた。貧しい中庭を、私は意識的に觀察した。今日の夕食終へてすぐのことである。煙草一服ふかす時間のあいだ。その印象を記す。

 樹、松、八つ手、椿、紅葉。八つ手だけは四五本。その他いろんな木が生えてゐる。地にも落ちてゐる。白い花片に黑い斑點がある。松の木は眞中に生えてゐて、一番上は見えない。松の木があつたのか、と最初思ひ、不思議な感じがした。その次、外から見えるかな、と思い、ほとんど同時に、小學校讀本の、我が家といふ章を思ひ出した。此の連想は非常に自然である。

 庭の眞中に池がある。汚れた水が半分入つてゐる。木の葉や油がういてゐる。何の形をかたどつたものだらうと思つて、又、修猷館(しゆういうくわん)の九州池を思つた。

 何も象(かたど)つてゐない。出鱈目(でたらめ)な形だと私は思つた。その橫に岩がある。その上に、女がかめをもつた彫像が置いてある。ギリシヤ風の服裝をしてゐる。岩の上でなく、池のふちにおいたらいいだらうと私は思つた。さうすると、私の空想を剌激するだらう。高さ七八寸の彫像を等身大に見なすことによつて。

 庭のすみに女の下駄が二足あつて、兩方とも汚れてゐる。雨どひがある。ブリキで出來てゐる。船の古材のやうな感じのする五尺ほどの材木がそれに立てかけてある。とひには、毛蟲が一匹、くの字形にくつついてゐる。庭のむこうには部屋が□□ある[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]。

 電燈のついている部屋では男の頭が見える。夕食のライスカレーを食べてゐる。一言で言へば、貧弱な光景だ。佗しくて暗い庭だ。

 いまから先、どの位、私は此の庭を、あけくれ見てすごすことだらう。

 

 ゴーリキーの「零落者の群」を讀んだ。胸を打つて來る小說であつた。「死の家の記錄」より、浮浪人に作者の愛情はあたたかい。一時に眠る。

[やぶちゃん注:「平林彪吾」(ひょうご 明治三六(一九〇三)年~昭和一四(一九三九)年)は小説家で、鹿児島県姶良郡(現在の霧島市)生まれ(自作農家の三男)。本名は松元実。大正一〇(一九二一)年七月、日本大学高等工学校建築科卒業。昭和二(一九二七)年四月、詩・評論誌『第一芸術』を創刊・主宰した。同年五月、東京府復興局建築技手となり、関東大震災後の銀座での土地区画整理業務に携わり、現場監督などを務めた。昭和六(一九三一)年、「日本プロレタリア作家同盟」に加盟している。昭和十年に「鷄飼(とりか)ひのコムミュニスト」が『文藝』の懸賞に入選した。『人民文庫』に参加し、翌年「肉体の罪」で人民文庫賞を受賞した。敗血症のため、昭和十四年四月に築地海軍病院に入院したが、同月二十八日に死去した。満三十五歳。翌年三月、遺作集「月のある庭」が『人民文庫』同人と火野葦平の好意で出版された。

『ツルゲネフの「ルーデイン」』‘Рудин ’(ラテン文字転写:Rudin :一八五七年)は現行では一般には「ルーヂン」「ルージン」と表記されることが多い。

「あひびき」『二葉亭四迷の「片戀」の中より』イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Иван Сергеевич Тургенев:ラテン文字転写:Ivan Sergeyevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)は私がロシア文学者の中で最も愛する作家である。二葉亭四迷譯も、初版「あひゞき」、及び、改稿版「あひゞき」をサイト版で古くに公開している。その他の作品は私の「心朽窩 新館」を見られたい。

『ゴーリキーの「零落者の群」』書名はラテン文字転写で‘Bivshiye lyudi ’。私は読んだことがない。

「死の家の記錄」言わずと知れたドストエフスキーのそれ。‘Записки из Мёртвого дома ’(一八六〇年~一八六二年)。思想犯として逮捕され、死刑を宣告されたが、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライⅠ世からの特赦が与えられ(この経緯は総て初めから仕組まれたものであった)、シベリア流刑に処せられた著者の四年間に亙る獄中の体験と見聞の記録(一八四九年逮捕、オムスクで一八五四年まで服役)である。いつか電子化したい凄絶な作品である。]

 

五月六日

 オニールの「地平線の彼方」を讀む。

 

五月八日

 朝、晝、「白痴」を讀む。

 夜、白痴第二卷讀了。

 一時半に眠る。

 

五月九日

 「白痴」第三卷。

 

五月十日

 九時起床。

 朝食後、和泉軒にてミルク。

 下宿に戾つて、「白痴」をよむ。

 午後三時頃、讀み終えた。そして晝寢した。

 五月七日の夜のことであつた。私は早くから寢てゐたら、帳場の方で聲がした。烈しい𠮟咤のこゑがした。ここの主が女中をしかるのである。私は眠れないでいらいらしながらきいていた。だんだん、SERVANTがお客に友達のやうな話し方をするといふのでしかつてゐるといふことがわかつてきた。(三十分以上叱責がつづいた。)五月八日朝私がおきて顏をあらいに洗面所にゆくとSERVANT等は、外ゆきの着物のおびをしめていた。――そして出て行つたらしかつた。ひるはここの娘が客の用をきいてゐたやうである。(私のとこにもきた)

 三時頃SERVANT等はもどつて來た。私は夕飯をもつて來たSERVANT、Bをつかまえて、どこに行つたんだときいたら、奧さんと淺草に行き、「愛染カツラ」をみて來たと答へた。昨日叱り、今日活動か。面白いヤリクチだと私は思つた。――その日はSERVANT、Aは私のところに出入しなかつた。五月九日から出入し始めた。

少しくプンとしている。私がはなしかけても、ろくに返事しない。あの叱責のことを私がきいてゐたんだぞと言つたらSERVANT、Aは心の底までつきさされるにちがひない。SERVANT、Aは私がそれを知つてるのか知らないか、半信半疑であるらしかつた。――その夕方頃、私は何かの用事であの女をよんだ。私はまどにこしかけてゐた。私のちかくに笑はない顏を一尺ほど近くによせて來た。私はこしかけてゐるので、Aの顏は私の眞上に見えた。――Aの氣持を書かう。あたしは不機嫌なんだと、不貞くされた氣持と、(それは私に對するものと、主人に對するものが雜然とまぢり合つてゐる!)だから、なぐさめてもらひたい、(私はさうされるケンリがある!)それと、一種の孤獨感と、私に對するにくしみ、(これは、いろんな複雜な要素からなつてゐるので、いつか私は闡明(せんめい)したいと思ふ)以上の混然なるAの姿體であつた。私は、下から見上げてゐた。その時、私は何か外のことでイライラしてゐたことがあつた。(SERVANTと關係なく。)二重になつたあごと、アンパンのやうな顏と、下目使ひをした目のあり方を見上げながら、私は、どういふ具合かはつきり判らぬが、物すごい生理的嫌惡をAに感じた。その顏は、如何にも醜かつたのだ。

 動物はよし汚なかろうとも、醜くはない。――此の意味で、人間のみがもつ醜さの權化と私は感じた。私はもはやそれが放つネバネバした惡臭を感じた。私は踊り上つてAのほつぺたを毆り飛ばしたい欲望がむらむらと心中に起るのを覺えた。――此の氣持は今日のみでない。五月一日より以來は、初めてである。もう、一年間のここの生活で、私は數知れぬ程經驗した。Aと、も一人いたSERVANTに對して。――それ以來私はAにあまり口をきかぬ。Aは、又もとの狀態になり、無遠慮になつて、私の部屋に出入する。私は、この間の實驗を着々すすめてゐるけれど、まだ反應はないのである。――今日は電話室のところでBが私に、今日あなたに來た葉書よみましたと言つた。どんな葉書かねときいたら、きれいな人がよろしくの葉書だと答へた。上里重夫氏の葉書のことなのである。アホカイナ! と私は思つた。

 私が「寄港地」で「地圖」といふ小說をかいたとき、太田と下平と小松があつまつて、私がのちに堀辰雄のやうになりはせんかと言つた。もちろん、これは彼等の目の至らなさによるものではあるけれど、私はその後、堀辰雄と全然ちがつた、反對の道をあるいてきた。――此の世の中から、光よりも影を、美しさよりも醜さを、純粹よりも汚濁を見ながら生きてきた。此の道を、今更後悔しようとは思はぬが、それがため、私は私のモラルを喪失した。――私は趣味的な生き方をした。今、小說をかこうとするとき、一番困ることは、影だけでは、醜さだけでは、汚濁だけでは、小說が出來ないといふことを私が知つてゐることである。いや、そう信じてゐることである。なぜこんなことを信じてゐるのだらう? 私にははつきりわからない。しかし、こんなことを考へるのは、大して意味がない。さう私は思ふのである。――私は、ただ、目の前をチラチラする個々の人間を、私の小說的位置にまで定着したいのである。そして、それに確信を得たいのである。

[やぶちゃん注:「愛染カツラ」表記は「愛染かつら」(あいぜんかつら)が正しい。川口松太郎が昭和一二(一九三七)年から翌年にかけて『婦人倶楽部』に連載したものが原作の映画。「愛染桂」のモデルは長野県上田市別所温泉の北向観音境内に生育するカツラ(:双子葉植物綱ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )の巨木(♂株)で川口は、このカツラの木と木に隣接して建っている愛染明王堂に着想を得て本作を書き、大ヒットしたため、この木も「愛染桂」と呼ばれるようになったものである。ウィキの「愛染かつら」(シノプシス有り)によれば、映画は野村浩将(ひろまさ)監督で、人気二大俳優田中絹代・上原謙主演で松竹製作で「愛染かつら 前篇・後篇」(昭和一三(一九三八)年公開)とするが、これは現在、前・後篇ともにフィルムが完全な形で存在しない。その後、翌昭和十四年(この日記の年)に「續愛染かつら」・「愛染かつら 完結篇」(孰れも同監督。同俳優主演)で公開されており、どれを見にいったものか、よく判らない。但し、調べてみると、この昭和十四年の五月五日に「續愛染かつら」が公開されたというデータがウィキの「1939年の日本公開映画」にあったので、その可能性が高い。

「地圖」こちらPDF縦書版で私のオリジナル注附き(但し、新字新仮名)がある。]

 

五月二十四日

 昨日淺見淵氏からはがきが來て、「風宴」は早稻田文學の八月號にのせるといふことであつた。何だか中途半端な氣持になつた。又昨日は、「自然の驚異」と題する映畫のタイトルを和文英譯して、今日、京橋區西八丁堀四丁目六番地日東商事映畫社に持つて行き、三圓もらつて來た。これもやはり中途半端で、片づかない氣持がした。此の金で金子質店よりセルの着物を出した。

[やぶちゃん注:「自然の驚異」調べたが、不詳。]

 

六月一日

 朝七時半に女中が起しに來た。臺灣からのはがきをもつてゐる。現(うつつ)か夢かはつきり判らない狀態でそれを讀み、また昏々と眠つた。――十時半に又、おこしに來た。

 朝食がすんでぼんやりしてゐると、何もすることがない。昨夜から降り出した雨が今は物すごい勢いで降つてゐる。窓や、庭や、池の面にあたる雨の音、雨どひから放出する水の音、太い雨滴が、何か硬質のものにはねかへる音、それらの、ざあざあざあ、といふ音響を聞きながら煙草をすつた。少ししめつて不味(まづ)い。又、眠らうと思つた。床に入つて古雜誌をめくつてゐるうちに眠つた。――夢がいくつも斷(き)れたりつながつたり、時に目がさめそうになるのを押へつけながら、重い苦しさを私は感じて、此の世の汚穢や醜惡や卑劣や怠惰を一身にあつめて、豚のやうに眠つた。昏々と。

 四時頃やつと目がさめて、不味い夕食をたべた。そして島袋のところに行つた。一緖に靴を買ひに行つた。(ゴムの靴)ゴムの靴は統制以後にないのである。それから洋品屋に行つて彼は少し買物をした。――私は入口のところで、べンベルグや絹や、いろんな生地で出來たスリツプを眺めたり、手でさはつたりした。女體といふことが戰慄に似たものを伴つて思ひ出された。私の指の間でスルスルとすべるやうな絹のスリツプ、肩のところにかける細い紐が、何となく剌激的に思はれた。手でそれをさはるのが惡いやうな、さはつてゐるうちに自分が傷ついて行くやうな感じがした。

 田村に入つて珈琲(コーヒー)と洋菓子を食べた。眼鏡をかけた新しい女がいて、顏を近づけながら注文をとる。ここには何故眼鏡をかけた女ばかりゐるのだらう。山田新之輔ににてゐた。會話がはづまない。そこを出て西鄕のうちに行つた。職のことや、學問のこと、論文のことなどはなしてゐるうちに怖れに似たものが湧きおこつた。やり切れないものを感じて、私はうちしをれた。(久松敎授は、一日のうち二時間しか眠らぬ。五時間も眠ると、腋からかびが生えて來る。)島袋から五十錢借りた。足立のことなど。眼ぶたがちらちらする。神經衰弱になつたらしい。だんだん慘めになつて來る。いろいろやることが多いので、いやになつてしまふ。

[やぶちゃん注:「臺灣からのはがき」「昭和七(一九三二)年」の注で記した、五高の学資を援助して貰った台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父からのものかと思われる。

「統制以後」この前年の昭和一三(一九三八)年に第一次近衛内閣によって発議され、同年四月一日に公布・制定された「國家總動員法」によるもの。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定している。

「べンベルグ」Bemberg。ドイツのJ.P.ベンベルク社が一九一八年に製造を開始した銅アンモニアレーヨンの商品名。下着類や安価な和服生地に用いられている。「キュプラ」(cupracuprammonium rayon)とも呼ぶ。

「山田新之輔」不詳。映画俳優かと思ったが、見当たらない。

「久松敎授」国文学者で文学博士の久松潜一(明治二七(一八九四)年~昭和五一(一九七六)年)。愛知県知多郡藤江村(現在の知多郡東浦町)生まれ。大正八(一九一九)年、東京帝国大学文学部国文学科及び同大学院卒業後、一高教授・東京帝国大学国文学科助教授を経て、昭和一一(一九三六)年に同帝大教授となった。戦後の退官後は同名誉教授・慶應義塾大学教授・鶴見女子大学教授・國學院大學教授を歴任し、国文学会に君臨した。

 なお、昭和十五年から昭和十九年までの五年間の日記は底本にはない。★昭和二十年の日記★は同じ仕儀で、ここで電子化注済みである。

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