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2021/07/19

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (3)



 古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕[やぶちゃん注:ママ。「羊」の誤字と推定する。後注参照。]を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時迄も石碑に詛詞を鐫て[やぶちゃん注:「ほりて」。]墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し、古傳に、サレー、ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒つて此所の民每に[やぶちゃん注:「つねに」。]此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢有り來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]之を拜せしを住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脫れ去るに蒞み[やぶちゃん注:「のぞみ」。]、彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め[やぶちゃん注:「うづめ」。]住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢卽ち消えて見えず。彼人城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く是は昔全盛だつた市街が沙漠となつたに附會した佛說で、其原話は元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王[やぶちゃん注:「うだえんわう」。]の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず。遊びに出た歸路迦旃延[やぶちゃん注:「かせんねん」。]が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉ずる者後に至つて土を除く、尊者言く、却後七日天土を雨して[やぶちゃん注:「あめふらして」。]土山城内に滿ち、王及び人民皆覆滅せんと。大臣之を王に白し[やぶちゃん注:「まうし」。]、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て天香花珍寶衣服[やぶちゃん注:「天、香花・珍寶・衣服」。]を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡緣ある者、善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]鐵關下り逃るゝに地無し。天便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]土を雨らし、彼大臣一人の外悉く埋滅さると出づ。

[やぶちゃん注:「古アツシリア人」アツシリアはティグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前六一〇年まで存続した。ティグリス・ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は、本来、フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後、セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(紀元前二三〇〇年頃)である。前二〇〇〇年頃はウル第三王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方及び北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われている。古アッシリアは紀元前二千年紀前半に当たり、この時期にアッシュールは独立した有力商業都市国家となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置いて、主に銅・錫の交易を活発に行っていた。機嫌前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダドⅠ世(在位紀元前一八一三年~紀元前一七八一年)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また、征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保と、その権益の擁護が主目的であったと思われる。しかし、このアッシリアもバビロン第一王朝のハムラビに屈し、独立国の地位を失ってしまった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。位置はウィキの「アッシリアにある、周囲との関連広域地図がよい。

「グデア」古代メソポタミアの都市国家ラガシュ第二王朝の王。在位は紀元前二一四四年頃~紀元前二一二四年頃か。シュメール時代の王中で最も名前の知られている人物の一人。「グデア」という名は「呼びかけられし者」の意(当該ウィキに拠った)。

「ダリウス」Ⅰ世であろう(在位:紀元前五二二年~紀元前四八六年)古代ペルシアのアケメネス朝の大王。国内の叛乱を鎮め、財政整備をし、中央集権を確立した。インドまで遠征して全オリエントを支配し、帝国の極盛期を築いた。ゾロアスター教を信じたが、被征服地の宗教には寛大で、バビロン捕囚から帰国したユダヤ人に好意を示し、エルサレム神殿再建を助けた。エジプトの叛乱を鎮めるために出征中、陣内で没した。ダレイオスとも表記する。マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅亡させられたアケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオスⅢ世まで含めるなら、彼の在位は紀元前三三六年から紀元前三三〇年である。

「C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175」イギリスの軍人で探検家クロード・レニエ・コンダー(Claude Reignier Conder  一八四八年~一九一〇年)の「人間の台頭」。彼はパレスチナを中心とした中東からエジプトに軍務で派遣される中、歴史的・民俗学的研究を多く残している(英文の彼のウィキを参照した)。Internet archive」のこちらで原本が見られるが、その指示ページに(右ページ下から三行目から次のページの頭。太字は私が附した問題個所)、

   *

   The power of a curse is the subject of another tablet — the curse of some one unintentionally wronged bringing misfortune — “ an evil cry cleaves to him ; the curse is a curse of sickness.  The curse slays a man like a sheep.  It makes his god punish his body.  His mother goddess makes him sad. The voice that cries cloaks him as a garment, and strangles him.”  It can only be removed through discovery of the cause, by intercession of the sun god with his all-wise father Ea.  The sun is called “the protecting hero,” and is described as the “ merciful one ” who “raises the dead alive" (in the other world) — a “saviour" from demons. From the earliest age (that of Gudea) down to the time of Darius curses were inscribed on monuments to preserve them from any future mutilation or alteration.

   *

とあるのが、南方熊楠の訳した部分である。これを読むに、

「罕」(音「カン」。「長い柄の附いた鳥を獲る」「柄の附いた旗」「稀れ・少ない・珍しい」)は、「羊」の誤字である

ことが判明した。推定だが、南方熊楠は「羊」の異体字のこれ(グリフィスウィキ)辺りを崩して原稿に書いたのを、植字工が「罕」と誤ったのではなかったか? それにしても、正直、発表から百六年も経った今まで、誰一人として原書を調べず、この「罕」のまま放置されて、補正注する者がなく、全集でさえ、ただのママ表記で済まされてきたことに、私は激しい驚きを隠せない。南方熊楠の研究者は一体、何をしてきたのだろう?

「東トルキスタンの最大都會ヤルカンド」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区にあるヤルカンド県(ウイグル語カタカナ転写)。漢字では莎車(さしゃ)県。新疆西南部の崑崙山脈北麓、パミール高原南面のヤルカンド川沖積平野に位置する。平均海抜千二百三十一メートル、山地が三十九%、平原が約六十一%を占める。暖温帯大陸性気候。四季は分明で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は摂氏十二・三度で、年平均降水量はわずか五十六・六ミリである。ヤルカンドは二千年あまりの歴史を有し、嘗て莎車国(前漢の時代)、渠沙国、ヤルカンド・ハン国を形成していた。

「四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し」河川水に何が含まれているのか、未詳。そもそもこれが一種の疾患なのかどうかも不詳。喉仏が民族的に大きいだけではないのか?

「サレー、ペイガムバール上人」以下の原本では綴りは‘Saleh Peygambär’。ネットを調べると、海外のものばかりで、はっきりとは言えないが、どうもイスラムの預言者としてはかなり有名な人物らしい。

「Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.」スウェーデンの地理学者にしてかの中央アジア探検で知られるスヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の中央アジア探検録の一巻。Internet archiveのこちらで原本当該部(右ページ上から三行目。古伝承)が読める。

「同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを……」同上のInternet archiveのここの左ページ下方の‘We also possess a legend about an image of Buddha,’で始まる次のページまで続く段落がこの話である。左ページ下から五行目に城の名‘Ho-lao-lo-kia’が出る。

「元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず……」これも同経の巻第「八」ではなく、巻第「十」にある。「大正蔵経」データベースのここの「T0203_.04.0494c24」の「優陀羨王縁」以下に、「T0203_.04.0495b20」以降で父を殺すシークエンスが出、「T0203_.04.0495c24」と次行で「而見尊者迦栴延。端坐靜處。坐禪入定。時王見之。便生惡心」とあり、「T0203_.04.0496a08」で、天が「香華珍寶衣服」を雨ふらして、「T0203_.04.0496a15」「此城。一日覆沒。雨土成山」というカタストロフが描かれている。]

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