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2021/07/03

芥川龍之介書簡抄90 / 大正八(一九一九)年(二) 六通

 

大正八(一九一九)年二月二十六日・田端発信・佐野慶造 同花子宛

 

御見舞難有うございます日頃煙草をのみすぎた事が崇つて咽喉を害し甚困却して居りますしかしもう大分よろしい方ですから乍憚御休神下さい

   病閒やいつか春日も庭の松

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、この先立つ二月十七日(火曜日)、芥川龍之介は『インフルエンザのため発熱し、田端で床に就く』。『月末まで床をあげられず、学校も翌月初めまで休んだ』。『スペイン風邪に罹ったのは、前年』十一『月上旬に続いて二度目で』、『この頃、久米正雄も肺炎を併発して重態になっている』とある。なお、同年譜によれば、この二日前の二月二十四日の項に、『この日までに、主任教授を通じて、海軍機関学校に退職願を提出』している、とあり、また、二十七日にはかなり快復したらしく、午後五時頃、『赤坂三河屋で開かれた「改造」発刊披露会に出席』しており、三月三日には田端から鎌倉へ戻っている。また、機関学校は龍之介の方は四月早々に辞める予定でいたが、学校側から『後任が見つかり次第の退職』を要請された。しかし、後任はすぐ見つかったらしく、実際の最後の授業は三月二十八日で(採用しなかったが、同日の岡栄一郎宛書簡に授業を終わって、教官室(推定)で、『敎科書その他皆ストオヴに抛りこんで燃やしてしまひました甚せいせいしてゐます早く東京へかへつてのらくらして暮らしたい』と記している。但し、晩年、龍之介はこの鎌倉時代の蜜月を想起して、一番、幸せだった、鎌倉を離れたのは失敗だった、と述懐していたと私は聴き及んでいる。

「乍憚」「はばかりながら」。この場合は、「自分でかく言っておきながら、変ですが」の意。

「休神」(きうしん(きゅうしん))は「休心」とも書き、「心を休めること・安心」の意で、多くここに出た形で手紙文で用いる。]

 

 

大正八(一九一九)年二月二十八日・田端発信・片山廣子宛

 

敬啓 御見舞下すつて難有う存じます私の方はもう二三日中に床をはなれられさうですがそちらの御病氣は如何ですか氣候不順の際吳々も御大事になさい私の方からも御禮旁御見舞まで 頓首

     卽景

   時雨れんとす椎の葉暗く朝燒けて

    二月廿八日朝       芥川龍之介

   片 山 廣 子 樣粧次

 

[やぶちゃん注:奇しくも「或阿呆の一生」(リンク先は私が電子化したもの)の中で複合表現した《月光の女》の候補たる二人――佐野花子と片山廣子――が並んでいる(底本の岩波旧全集で前者は書簡番号四九八、後者は四九九)。実際の廣子の見舞いは二十七日以前の直近と思われ、この時、病気の性質上、廣子は玄関先でフキか文にお見舞いを述べ、見舞いの品を渡し、龍之介とは逢わずに帰ったものと推察する。さればこその返礼である。但し、私は、これ以前、龍之介は廣子と佐々木信綱の「心の花」の歌会等で、面識や軽い対談は既にあったと考えている。無論、この時、龍之介はまさか彼女が、自分の最後に本気で愛する相手となろうとは、微塵も思いもせず、仮想すら出来なかったであろう。なお、この日から九日後の三月八日、遂に大阪毎日新聞社から客員社員の辞令が届いた。原稿料の他に報酬月額は百三十円であった。また、四月二十八日には鎌倉を引き払い、田端の養父母の芥川家へ轉居している。宮坂年譜には、この日の条に『二階の書斎に菅虎雄の扁額「我鬼窟」を掲げ、日曜日を面会日に決めて、他の日は面会謝絶とした』とあり、さらに『「大阪毎日新聞」の連載小説(四、五〇回位)の原稿依頼を受諾』し、六月三十日から八月八日(併せて四日休載)まで「路上」を連載した。

「そちらの御病氣」廣子の詳細年譜を調べたが、不明。]

 

 

大正八(一九一九)年五月八日・長崎発信・南部修太郞宛(絵葉書、菊池寛と寄書)

 

   天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも(大浦の天主堂)

                   龍

 

[やぶちゃん注:これに先立つ、三月十六日の朝、芥川龍之介の実父敏三が東京病院で亡くなっている(スペン風邪の重症化)。享年六十八であった。その末期の様子は名品「點鬼簿」の「三」に語られてある。さて。龍之介はこの五月四日から菊池寛とともに長崎旅行に出発した(但し、菊池は風邪による頭痛のため、岡山で下車し、龍之介は独りで尾道に途中下車するなどして、長崎に向かった)。五日に長崎に到着し、六日に大浦天主堂を訪ね、遅れて到着した菊池とと合流した。長崎滞在中は、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)の世話になった。宮坂年譜によれば、『菊池寛とともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵などを見たりして、大いに何番切支丹趣味を満足させた』とあり、また、『当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った』とある。同月十一日、長崎を発して、大阪に到着、『夕方、菊池寛とともに、挨拶を兼ねて大阪毎日新聞社を訪ね』、たまたま、『同社の編集会議の例会が開かれており、その席でスピーチをし』ている。十五日の条には、『京都で葵祭りを見物するか』とあり、翌十六日の午前零時過ぎ、『タクシーで嵐山の渡月橋へ月見に出かけるなど、翌日未明まで祇園で遊』んでいる。田端帰還は十八日夜であった。

「南部修太郞」(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年:芥川龍之介より八ヶ月歳若である)は小説家。土木技師である父常次郎の長男として宮城県仙台市で生れる。父の転勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と転住した。明治三八(一九〇五)年の春、父の転勤とともに東京に上り、赤坂・麹町・四谷と住み移ったが、麻布区新龍土町に家を定め、芝中学校に通った。明治四五(一九一二)年、慶應義塾大学に入学し、文学科露文学を専攻、大正六(一九一七)年に慶應を卒業後、大正九年まで『三田文学』編集主任を務め、文筆生活に入り、大正十年に結婚し、二人の男子の父となった。芥川龍之介を師と仰ぎ、小島政二郎・滝井孝作・佐佐木茂索とともに「龍門の四天王」と呼ばれた。慶大で友人だった理財科の秋岡義愛が川端康成の従兄だったため、中学時代の川端と文通した経験があった。脳溢血のため自邸前で倒れ、逝去した。満四十三歳であった。以上は当該ウィキに拠ったが、そこには最後に、『南部は経済的には恵まれていたが、身体的には病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃に命を落としかけている。作家としても、成功したとはいえない。現在では作品を手に入れることさえ困難である』とある。因みに、彼は翌大正九年七月には龍之介の「南京の基督」の批評を書くが、それに龍之介は強い不満を覚え、書簡上でかなり激しい反論を書き送っており(後に電子化する)、さらには、中国特派から帰った大正十年の九月には、龍之介は、隆之介の愛人秀しげ子が、何んと、この南部と密会しているところに、たまたま出合い頭に互いに遭遇してしまう、という大スキャンダルが発生することになる。大正十一年一月に発表したスキャンダラスな「藪の中」は、そうした龍之介・しげ子・修太郎の、猥雑にして痙攣的におぞましい三角関係が根底にあることは間違いない。]

 

 

大正八(一九一九)年五月十日・長崎発信・江口渙宛(絵葉書、菊池寛と寄書)

   瑠璃燈のほのめく所支那人(アチヤ)來たり女を買へとすゝめけるかも

                   龍

 

[やぶちゃん注:長崎では俗に中国人のことを古くから親しみを込めて「阿茶(あちゃ)さん」と呼んだ。小学館「日本国語大辞典」によれば、享保年間の幕府史料にその事実が記されてあり、語源は「大言海」には、『チュンコレン(中国人)のチュン(中)ををとってアチュン(阿中)か』とある。しかし、サイト「ナガジン!」の「唐人屋敷の生活~唐人屋敷で暮らしてみた!」には、中国から来た『?州人』(「?」は文字化け。ソースで見ても「?」である。冀(き)州人か?)『が目上の人のことを「アチャウ」と言っていたのを』、『長崎の人が聞き覚え、唐人に尊敬の意味を込めて「アチャ」と呼んだことがこの愛称の始まりのようで』あるとある。]

 

 

大正八(一九一九)年五月二十七日・田端発信・佐野慶造宛

 

啓 御無沙汰しました皆さん御變りもございませんか私は每日甚閑寂な生活をしてゐます時々、いろんな人間が遊びに來ては気焰をあげたりのろけたりして行きます所で橫須賀の女學校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等の大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範囲で御調べ下されば有難いと存じます 以上

 この頃や戲作三昧花曇り

               芥川龍之介

 佐 野 樣 侍曹

 

[やぶちゃん注:『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1』にも登場する書簡である。

「岩本京子」前の電子化注で私は以下のように注した。『不詳。但し、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八年の五月二十六日(本手紙の前日である)の条の末尾に、「受信、南部、岩井京子、野口眞造」とある。恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が花子の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう。』。

「侍曹」「じさう(じそう)」は「側(そば)に侍する者」の意で、手紙の脇付の一つ。侍史に同じ。]

 

 

大正八(一九一九)年六月十五日・田端発信・菅忠雄宛

 

拜啓 御手紙難有う 其後如例匆忙たる日を送つて居ます小說が一向捗取らないので大に閉口して居ます中戶川氏の小說は恐らく今月の創作中で第一の傑作だらうと思ひますあれでもう少し前半が油が乘つてゐたら更に申分がなかつたらうと思ひます

鹿兒島へ御出の由嘸御寂しいだらうと同情してゐます勉强も大事だが體も一層大切にしなくつちやいけません僕はこの頃大に感じる所があつて精々養生をしようと思つてゐます 次の歌は湯河原の久米へ送つたものだからその關係上君にも序に御覽に入れます

   谷水の光は寒し夕山のまほらを見れば人立てり見ゆ

   あしびきの岩根は濡れて谷水の下光りゆく夕なりけり

   夕影はおぎろなきかもほそほそと峽間を落つる谷水は照り

                  頓首

    六月十五日      芥川龍之介

   菅 忠 雄 樣

二伸 先生によろしく申上げて下さいこの頃拓本や法帖を見るのが面白くなりましたがこれは全く先生の所でいろんな書を拜見したおかげです一生の得をしたと思つてゐます吳々もよろしく申上げて下さい 猶荆妻からお母樣や姊樣によろしく申上げてくれと云ふ事でした末ながら私からも姊樣の御緣談を御緣談を御祝ひ申上げます 以上

 

[やぶちゃん注:「二伸」は底本では全体が二字下げ。実は、この四日前に芥川龍之介にとって、運命的な邂逅があった。宮坂年譜から六月十日の条を引く。『神田の西洋料理店ミカドで開かれた十日会』(作家・詩人の岩野泡鳴(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)が中心になって作った文学サロン。当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年からは、若い文学者や女流作家を集めた懇親会となっていた)『に初めて出席する。岩野泡鳴、菊池寛、江口渙、滝井孝作、有島生馬らが列席。女性も泡鳴夫人など四、五名が出席しており、秀(ひで)しげ子とも、この時初めて会った。さらにその後、室生犀星の『愛の詩集出版記念会に赴いたが、すでに散会後だったため、北原白秋、犀星らと食事をとった』とある。この秀しげ子こそ、芥川龍之介のファム・ファータルであり、この後、肉体関係を持った。しかし、後年、激しい嫌悪の対象と変じ、「或阿呆の一生」では『狂人の娘』とまで名指すことになる、「宿命の女」であった。偶然(私のチョイスは当初、これを意識していなかった)であるが、ここで佐野花子・片山廣子・秀しげ子が並ぶことに、私自身、何か重い感慨を抱かざるを得ない。詳しくは、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」を参照されたい。そこでは、龍之介が秀しげ子との爛れた関係に転落してゆく一部始終が読み取れるからである。

「匆忙」「そうばう(そうぼう)」は「忙しいこと」を言う。「怱忙」とも書く。

「小說が一向捗取らない」具体的には『中央公論』七月一日発表となる「疑惑」と、「大阪毎日新聞」連載(六月三十日初回)の「路上」の執筆が重なっていたことを指す。

「中戶川氏の小說」中戸川吉二(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年:小説家・評論家。里見弴に師事)の代表作である「イボタの虫」。

「鹿兒島へ御出の由」筑摩全集類聚版脚注に、『第七高等学校の入学試験受験のためか』とある。

「荆妻」(けいさい)の「荊」は「茨(いばら)」の意。後漢の梁鴻の妻が、着飾ることなく、逆に、荊(いばら)の釵(かんざし)と木綿(もめん)の裳(もすそ)を着用したところから、自分の妻を遜(へりくだ)っていう語。「愚妻」に同じ。

「お母樣」虎雄の後妻であろう。

「姊樣」忠雄に姉がいたのは、この書簡を読むまで気がつかなかった。

「おぎろなき」「賾なし」(「なし」は形容詞をつくる接尾語)で、「広大である・果てしなく奥深い」の意。]

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