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2021/07/05

伽婢子卷之七 飛加藤

 

Tobikatou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。飛加藤が直江山城守邸に侵入し、衆目監視の中、まんまと長刀(なぎなた)と直江の妻に仕える女(め)の童(わらわ)を奪って逃げるシークエンスである。門口で、哀れ、名犬「村雨」が息絶えている。門に設けられた屋根の内側の軒の反りが全く見えず、少し描き忘れているように感じられはする。この時の直江家の家紋として「三葉柏紋」が左の幕に見える。実際の三葉柏そのまんまでちょっと奇異。この直江は後に養子となる知られた直江兼続の義父であるが、その家紋はもっと紋様化がされたもののようである。サイト「戦国ヒストリー」のこちらを参照されたい。]

 

   ○飛加藤(とびかとう)

 越後の國長尾謙信(ながをのけんしん)は、春日山の城にありて、武威を遠近〔をちこち〕に輝かし給ひける所に、常陸國秋津郡(あきつのこほり)より、名譽の竊盜(しのび)の者、來れり。しかも術(じゆつ)、「品玉(しなだま)」に妙を得て、人の目を驚かす。

 或る時、さまざまの幻術を致しける中に、ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり。

 一座の見物、きもをけし、

「奇特の事。」

に、いひけるを、其の場の、かたはらなる松の木に登りて見たる者ありて、

「只今、牛を吞みたりと見えしは、牛の背中に乘り侍べり。」

と、よばゝるに、術師、腹をたて、其場にて夕顏(ゆふがほ)を作る。

 二葉より、漸々(ぜんぜん)に、蔓(つる)、はびこり、扇にてあふぎければ、花、咲き出つゝ、忽ちに、實(み)、なりけり。

 諸人、かさなり集まり、足をつまだてゝ見るうちに、かの夕顏、二尺許りになりけるを、術師、小刀を以つて、夕顏の帶(ほぞ)を切りければ、松の木に登りて見たる者の首、切り落とされて、死〔しに〕けり。

 諸人、奇特(きどく)の中〔うち〕に、怪みをなし、眉を顰(ひそ)めたり。

 謙信、聞き給ひ、御前に召して、子細をたづねられしに、

「幻術の事は、底をきはめて、得たり。手に、一尺餘りの刀を持ちては、いかなる堀・塀をも飛び越し、城中にしのび入〔いる〕に、人、更に知らず。此の故に『飛加藤』と、名を呼び侍べり。」

といふ。

「さらば、試しに、奇特をあらはし見せよ。」

と、の給ふ。

「今夜、直江(なをえ)山城守が家に行〔ゆき〕て、帳臺(ちやうだい)に立〔たて〕置きたる長刀〔なぎなた〕、取りて來れ。」

とて、山城守が家の四方に、隙間もなく、番をおき、蠟燭を間ごとに、ともし、番の者、男女〔なんによ〕ともに、おく・はし、皆、まだゝきもせずして居(ゐ)たりけるに、内には「村雨(むらさめ)」とて、逸物(いちもつ)の名犬あり。怪しき者を見ては、頻りに吠え怒り、然も、賢(かしこ)き狗(いぬ)にて、夜(よる)は少しも寢(ね)ず、屋敷のめぐりを、打ちまはり、打ちまはり、猪(ゐ)のしゝといへ共〔ども〕、物のかずとも思はぬ程の犬也。

 これを、放ちて、門中の番に添へたり。

 飛加藤、已に夜半ばかりに、かしこに赴き、燒飯(やきいひ)、一つ、二つ、持ちて行〔ゆく〕かと見えし。

 犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す。

 かくて、壁をのり、垣を越えて、入〔いり〕けるに、番の者、半(なかば)、ねふりて、知らず。

 曉(あかつき)がたに、立〔たち〕歸る。

 帳臺に有りし長刀、並ひに、直江が妻の召し使ふ女(め)の童(わらは)の、十一になりけるを、うしろに、かき負ひて、本城に歸り來〔きた〕るに、女の童、深くねふりて、これを覺えず。

 番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず。

 謙信、これを見給ひ、

「敵を亡(ほろぼ)すには、重寶(ちようほう)の者ながら、もし、敵に内通せば、ゆゝしき大事也。この者には、心許して召し抱へ置く者に、あらず。たゞ、『狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』といふものなり。いそぎ、うちころせ。」

と、のたまふ。

 直江(なをえ)、すなはち、わがもとによびて、めしとりて、ころさんと、はかりけるを、加藤、これを、さとりて、出〔いで〕て、いなんとするに、諸人、これを、まぼり居たれば、かなはず。

 加藤いふやう、

「なぐさみのため、面白き事して、見せたてまつらん。」

とて、錫子(すゞ)一對(つい)をとりよせ、前に、をきければ、錫子の口より、三寸ばかりの人形、廿ばかり、出〔いで〕てならびつゝ、おもしろくをどりけるを、座にありける人々、目をすまし、見けるほどに、いつのまにやらむ、加藤、行〔ゆき〕がた、しらず、うせにけり。

 後に聞えしは、甲府の武田信玄の家にゆきて、跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)につきて、奉公を望みしに、「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)に手ごりして、ひそかに、うちころされし、といへり。

[やぶちゃん注:「飛加藤」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「飛」は空中に跳躍する徑瓶な人物の意。甲陽軍鑑末書結要本』(まっしょけつようぼん)『九ノ十三・まいす者嫌ふ三ケ条に武田信玄への仕官を望んだ忍びの者として登場する』とある。「朝日日本歴史人物事典」には「加藤段蔵」の名で載り、『生没年不詳。戦国時代の忍者。常陸国(茨城県)秋津郡または甲賀か伊賀の生まれという。一匹狼の忍びの者で』、『跳躍の達人だったことから』、『「飛び加藤」と呼ばれた。越後国春日山城下で呑牛術や生花術などの幻術を演じて噂を広め』、『上杉謙信に謁見する機会を得た。謙信から試しに重臣の直江実綱邸にある秘蔵の薙刀を盗むことを命じられると』、『それを果たして』、『仕官を望んだとされる。しかし逆に忍技の見事さを危険視され』、『刺客を向けられたことから』、『甲斐国に逃れ』、『跡部大炊守勝資を頼って武田信玄に引見された。信玄はその忍技を恐れたのか』、『密偵と疑ったのか』、『召し抱えるとして』、『段蔵を油断させたのち』、『剣の達人土屋平八郎に命じて暗殺させたという』と載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書写本のここの三行目に、『㐧意一 武田信玄』の条に、『とび加藤』として出、抱えた『隱蜜』とあり、確かに『成敗』されたように書かれてあり、最後にこの事件を『永祿元年午ノ年也』とある。永禄元年戊午(つちのえうま)は一五五八年である。この年の一月、武田信玄は信濃守護となっている。

「春日山の城」現在の新潟県上越市にあった長尾氏の居城春日山城(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。主に越後守護代長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。

「常陸國秋津郡(あきつのこほり)」この名の郡は常陸国には存在しない(「新日本古典文学大系」版脚注でも『所在不明』とする)。ただ、茨城県行方(なめがた)郡に秋津村は存在した。現在の鉾田市の旧鉾田町の西部に位置する。この附近か。

「品玉(しなだま)」小学館「日本大百科全書」によれば、『曲芸の一種で、いろいろの品物をいくつも投げ上げては受け取るもの。弄玉(ろうぎょく)ともいう』「信西古楽図(しんぜいこがくず)」(平安時代の舞楽・雑楽・散楽などの様子が描かれた巻物。作者不明。平安初期の成立か)にも『みえる散楽雑伎(さんがくざつぎ)の一種』で、石や茶碗、『小さいものでは豆の類まで、多くの品物を投げ上げて手玉にとるもの。本来は』一『人で行うものであったが、のちには』二『人あるいはそれ以上でも演ずるようになり、刀をやりとりするのは「刀玉(かたなだま)」とも称された』。猿楽・田楽を経て、『江戸期には大道芸から見せ物に入り、太神楽(だいかぐら)の演芸に含まれて今日寄席』『芸としてみることができる。子供のお手玉遊びもここから発している』とある。

「ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり」先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本の、『とび加藤』の次ぎに、『㐧二 長尾謙信』の条に、『牛を吞術を仕來て』とあり、本篇の内容と同じ形で、木の上から見た者が、牛を呑んだのではなく、牛に載っているだけだ、と見破ったのを、遺恨に思い、『其塲にて則夕㒵を作り扇にてあふき花をさかせ實をならせ』、かの見破った者の『くびを切』とあり、謙信はこの者を『隱蜜にて成敗也永祿二年末ノ年之事也』とある。

「帶(ほぞ)」「蔕(へた)」のこと。

「直江(なをえ)山城守」直江景綱(永正六(一五〇九)年?~天正五(一五七七)年)は越後国の守護代で戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の三代に亙って仕えた宿老で、奉行職を務め、主に内政・外交面で活躍した。また「七手組大将」の一人として軍事面で活躍することもあった。直江親綱の子として生まれた。直江氏は、元は越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の被官であったが、永正一一(一五一四)年、守護代長尾為景によって飯沼氏が滅ぼされると、その居城本与板城(もとよいたじょう:後に与板城)の城主となっていた。天文八(一五三九)年からの守護上杉定実の養子問題を巡る「天文の乱」では、中条藤資(なかじょうふじすけ)や平子氏らとともに、入嗣推進派を形成した。養子問題に関しては、直江氏と長尾氏の立場は相反し、直江氏は長尾氏とは一線を画していたものと思われる。天文一一(一五四二)年には、伊達家へ時宗丸(伊達実元)の迎えの使者にあたっている。天文一二(一五四三)年、長尾景虎は病弱な兄晴景の名代として栃尾城(現在の長岡市・旧栃尾市域)に入った。天文十五年、景虎は兄晴景に反抗していた黒田氏一族を黒滝城(弥彦村)に攻めた。この事件を契機として、病弱の晴景に代わり、景虎を守護代に擁立しようとする動きが出てきた。この動きを進めた一人が、与板の直江景綱であった。景綱と景虎との関係は、景虎が栃尾周辺で活躍していた頃に築かれたものと思われる。天文十六年に長尾氏家中で兄晴景と弟景虎との間に抗争が起こった際には、藤資や本庄実乃(ほんじょうさねより)らとともに景虎を支援した。弘治二(一五五六)年、景虎の出家騒動中に、藤資らが、守護譜代の大熊朝秀を追放したのを機に、実乃らとともに奉行職として政務の多くを任されるようになる。永禄二(一五五九)年の景虎二度目の上洛の際には、神余親綱(かなまりちかつな)とともに朝廷及び幕府との折衝にあたり、翌三年、前関白の近衛前久(さきひさ:但し当時は前嗣(さきつぐ))が越後に来訪した際には、その饗応役を務めた。また、同年からの相模国の北条氏康討伐のために景虎が関東に出陣している間、春日山城の留守居を吉江景資と共に任されている。永禄四年の「川中島の戦い」(第四次合戦)では、小荷駄奉行として出陣し、武田義信の軍を敗走させるなどの功を立てたという。永禄五年、大和守に任官し、「政綱」と改名し、永禄七年には、謙信の嘗ての諱(いみな)である「景虎」から、一字を拝領し、「景綱」と名乗ることになった。天正三(一五七五)年の「上杉家軍役帳」によると、三百五名の軍役を課せられていたとあり、旗本衆の中でも、とりわけ、重きを成していたことがわかる。以後も、天正四年からの能登遠征に従い、石動山城を守るなど、謙信に従って各地に従軍したが、翌年、病没した。景綱には男子がなく、婿養子となっていた直江信綱(長尾氏出身)が後を継いだが、後に信綱が毛利秀広に殺害されると、大身の直江家を押さえようとした上杉景勝の命で、景勝側近の樋口兼続(直江兼続)が信綱未亡人を娶り、直江家を相続した(以上は当該ウィキに拠った)。

「帳臺(ちやうだい)」屋敷の主人が居間や寝間に当てる室。

「おく・はし」「奥・端」。場所ではなく、以下に続く形で屋敷の奥向きに当たる者や、端(はした)の下役の者の意。

「まだゝき」瞬(まばた)き。

「内」「うち」で屋敷内。屋敷の屋形の外周内。

「門中」前注の意で「かどうち」と読んでいよう。

「燒飯(やきいひ)」握り飯を火に炙って焦げ目をつけたもの。

「犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す」「燒飯」に毒を仕込んだか。図の死んだ村雨の遺骸を見てみると、口を開いて、舌を垂らしているから、それが強く疑わられるように思う。

「女の童、深くねふりて、これを覺えず」暗示的な催眠術を用いたのであろう。

「番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず」直江の家内の警備の兵らも眠ったつもりは全くなかったのに、少しもそれに気付かなかった。実際には幻術で起きながらにして検討識を失わされていたということか。

「狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』知られた諺では、「虎を養ひて患(うれ)ひを遺す」であろう。「史記」の「項羽本紀」の一節。紀元前二〇三年、項羽と劉邦は四年に亙る闘争を続けてきたが、結着がつかず、和議を結ぶこととなった。その直後、劉邦の近臣張良や陳平は、疲弊しきって引き揚げてゆく項羽の軍勢を、後ろから不意打ちにすることを提言する。こちらもいい加減疲れ切って西へ帰ると決めていた劉邦は躊躇ったが、二人は、「今釋弗擊、此所謂養虎自遺患也。」(「今、釋(す)てて擊(う)たずんば、此れ、所謂(いわゆる)、『虎を養ひて患(うれ)ひを遺(のこ)す』なり。」)と応じた。取り除いておくべきものを取り除かないと、後日、災いを引き起こすということの喩えである。

「まぼり居たれば、かなはず」直江の屋敷に呼ばれて、仕官を匂わされたものの、加藤は、それを逸早く罠と察して、屋敷を逃げ出そうと考えたが、見れば、大勢の家子(いえのこ)連中が、そこここにいて守りを固めていたため、それが叶わなかったのである。

「なぐさみ」ちょっとした気晴らし。

「錫子(すゞ)」錫製の銚子・徳利。

「目を、見けるほどに」奇体なことなので、思わず、そちらを見つめてしまったところが。「跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)」武田信玄の侍大将で信濃出身の跡部勝資(あとべかつすけ ?~天正一〇(一五八二)年:大炊助・尾張守(受領名))。信玄の死後はその子勝頼に仕えた。武田氏滅亡の時、諏訪で討死にした。

『「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)』後の巻之十の「竊(しのび)の術」の一節に、

   *

……今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ、怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、申信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞もとめさせらる。

「此所、他人、更に來るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「『古今』の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣も、手を握りて、怖れあへり。[やぶちゃん注:まだ続くが、ここで先まで出しては、面白くなくなるので下略する。]

    *

とあるのに対して、「新日本古典文学大系」版で脚注を附し、『「今川家の秘蔵に仕る定家の伊勢物語を酒に酔たるふりをなされ、信玄御取候とて」(甲陽軍鑑十一上。氏真降参船にて小田原へ退事)』とある。私なら、定家筆写の「古今和歌集」よりは、定家筆写の「伊勢物語」の方がいいがな。

「手ごり」「手懲り」。すっかり懲りてしまうこと。]

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