芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)
大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・京都市外下加茂松原中ノ町 恒藤恭樣(書簡末尾に「恒藤雅子樣粧次」とも記す)・七月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
啓
君の手紙を見て驚いた 實際驚いた
郵便局の莫迦が始ははがきの㈡を置いて行き㈠は君の手紙と殆同時に來たのだ だから餘計驚いた
さぞ君も奧さんも御力落しだらうと思ふ 比呂志を見てこいつに死なれたらと思ふと君たちの心もちも可成わかるやうな氣がする 僕の子もいやにませてゐるから何だか不安にもなり出した おやぢが君の手紙を讀んで泣いた
おふくろや何かも泣いた 文子は泣きながらぽかんと坐つて「まあどうしたんでせう まあどうしたんでせう」と愚痴のやうな事を云つてゐた 女や老人は淚もろいものだと思つた それが羨しいやうな氣も少しした 二番目の御子さんはどうした?
病氣の名が書いてなかつたが何病かななどと思つてゐる
悼亡一句
五月雨や鬼蓮の莟咲きもあへず
七月二日 芥川龍之介
恒 藤 恭 樣
二伸
御悼みの歌一首
ひんがしの國にかなしき沙羅木(ぼく)の花さきあへぬ朝なるかも
恒 藤 雅 子 樣 粧次 芥川龍之介
[やぶちゃん注:岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)によれば、畏友恒藤恭(旧姓井川)と雅子夫妻の間には、大正六年に『長男信一が誕生したが、この年の六月二二日疫痢のために急逝した』とある。
「比呂志」既に見た通り、この三月前の四月十日に長男比呂志が生まれている。
「二番目の御子さん」石割氏の前掲書に、『恒藤の次男、武二は』、この前年の大正八(一九一九)年『八月誕生』とある。
「悼亡」(たうばう(とうぼう))は、ごく近しい人の死を悲しむこと。厳密には中国で「妻の死」を指した。中国には「悼亡詩」という妻の死を悲しむ詩群・ジャンルが存在する。中国では自身の妻に対する愛情を公然と表白することは避けられたが(妻は一族の者とは認められない伝統があるからである。さればこそ結婚しても姓は変わらないのである。中国や朝鮮の方が夫婦別姓で進んでいるなどとのたもうとんでもない輩がいるが、逆に極めて差別されていた故の別姓であったのである)、北宋の詩人梅堯臣が、その悼亡詩で「見盡人間婦 無如美且賢」(人間(じんかん)の婦(つま)を見盡くすも 如(か)くも美しく且つ賢なるは無し)と詠じたように(全篇は、優れた漢詩サイト「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを参照されたい)、悼亡詩の中でのみは許された。濫觴は西晋の潘岳に始まり、六朝時代に盛行したが、一時はマンネリズムに陥り、中絶したものの、中唐の韋応物や元稹が新たな生命を吹きこみ,詩の一ジャンルとして定着した。因みに芥川龍之介は悼亡句の達人であると私は思っている。
「鬼蓮」(おにばす)は双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox 。博物誌は私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照されたい
「沙羅木(ぼく)」は「さらぼく」(「しやら(しゃら)ぼく」とも読む。ここではどちらであるかは断定出来ないが、晩年の絶唱「沙羅の花」から考えると、「さらぼく」であると思う。「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇」も参照)と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科 Dipterocarpaceaeの娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta )に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った。グーグル画像検索「Stewartia pseudocamelli 」もリンクしておく)。「沙羅双樹」に無常を匂わせた一首である。]
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