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2021/07/22

芥川龍之介書簡抄101 / 大正九(一九二〇)年(六) 避暑した青根温泉関連五通

 

大正九(一九二〇)年七月三十一日・田端発信・本鄕區東片町一三四 小穴隆一樣・七月卅一日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

啓みちのく靑根溫泉へ入湯に赴き候爲當分留守に致候碧童先生への御禮は歸京に節[やぶちゃん注:ママ。]に致す可く缺欠礼の段はよろしく御とりなし置き下され度候香取先生貴臺風景の畫を中々うまいと褒められ候も小生の軸の方よろしき由にてあの鷄一羽とられ候我鬼の印その後むやみやたらに本へ押し居り候二つ宛押したる本もあり自ら笑止に存居候碧童句集早く拜見致度候

   岩根踏みわが戀ひ行けばしらしらと靑峯の山に雲わくらんか

 七月卅一日         我 鬼 拜

   小 穴 隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこの翌日九月一日、宮城県柴田郡川崎町青根(あおね)温泉(グーグル・マップ・データ)に避暑に出かけ、同月二十八日頃まで滞在した。八月三日附小穴宛書簡(絵葉書)では、当地は、『海拔千何百尺とかの由 周圍の風物皆高山の趣あり』とし(青根温泉は単純泉で、宮城県南西部の蔵王山の東方にあり、標高千六百六十六メートルの後烏帽子岳(うしろえぼしだけ:国土地理院図)の東北山腹の標高約五百メートル(=千六百五十尺)にあって眺望がよい)、歴史ある不亡閣という宿の『土藏の二階を陣取り これから小說を書き出す所』とあるが、執筆は進まず(『中央公論』九月号発表予定であった「お律と子等」(後に「お律と子等と」に改題)は遂に脱稿出来ず、十月号・十一月号に分載となっている)、佐々木茂索には『便秘で困つてゐる』(八月四日附)、瀧井孝作に『便秘の爲頭の具合惡く碌な小說も書けさうぢやない』『肉食交合二つながら絕緣だ』などと書き送っている。この山間の温泉地を選んだ理由は定かでないが、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『あるいはこの時期』、交流が深くなって『いた与謝野晶子の勧めによるものであろうか。ちなみに晶子には青根の歌がある』とある。

「碧童先生」小沢碧童(へきどう 明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年)は俳人。東京出身。本名は忠兵衛。河東碧梧桐に師事し、東京上根岸の自宅を「骨立舎」と命名して俳道場とした。『日本俳句』『海紅』で活躍した。書や篆刻にも優れており、芥川龍之介と親交があり、龍之介自身が最も年長(十一年上)の友人と称して、終始、敬愛した。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月九日消印・青根温泉発信・東京市本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣(自筆絵葉書)

 

Jyukadokuza
 
 

               樹下独坐

                  我鬼画

もなか難有う 但悉つぶれて餡の塊りになつて來た 新潮の僕の小説 南部のなどとは品が違ふと思ふが如何 君の小説は、果して白眉だつたではないか 以上

                龍之介 記

 

[やぶちゃん注:画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。書信文は以上の原書簡画像を視認して表記通りに示し、一部に字空けを施して読み易くした。芥川龍之介自身を羅漢に模した、なかなかいい一枚である。

「もなか」採用しなかったが、瀧井には先に引用した八月四日宛の冒頭で『うさぎやのもなか送つて頂ける由難有し』とある。「うさぎや」というのは大の甘党であった芥川龍之介御用達の上野広小路の和菓子屋。現存する(グーグル・マップ・データ)。龍之介はここの名物「喜作最中」が大好物であった。店主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は東京生まれで、俳人でもあり、多くの文化人との交流があり、『海紅』『碧』などの俳誌に句や随筆を発表してもいた。芥川龍之介の葬儀でも世話役として気を配り(一説では葬儀全般を取り仕切ったともされる)、『小穴隆一 「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」』によれば、『燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つて』いたとある。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月十八日・消印宮城遠刈田二十一日・青根温泉発信・東京市本鄕區三組町三十九 瀧井孝作樣

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

葉卷やつとついた 最中も難有う 奧さんの御病氣如何

    十八日        我 鬼 拜

 

[やぶちゃん注:「赭土路」「あかつちみち」であろう。

「最中」も難有う」恐らく、前にあったように、先に送った最中が潰れて餡玉のようになっていたというのを受けて、包装を厳重にして、再度、「うさぎや」のそれを送ったものであろう。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十日青根発信・薄田淳介宛(絵葉書)

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

   行く春の山の巖間に水は滴り巖根を見れば苔靑む見ゆ

季節は歌の便宜上二月ほど繰上げそろ、年鑑、短篇承知仕候御手紙こちらへ轉送されし爲漸昨日拜見致そろ 以上

 

[やぶちゃん注:「年鑑」芥川龍之介は大正九年十一月二十日発行の『毎日年鑑』(大阪毎日新聞社編纂)に「大正九年の文藝界」を執筆しているので、その依頼であろう。

「短篇」不詳。毎日系列では、劇評なら十月十五日・十一月十三日に書いてはいる。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十一日・青根発信・松岡讓宛(自筆絵葉書)

 

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            樹下独坐

                我 鬼

 

[やぶちゃん注:画像は同じく「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした。前の瀧井宛の方が遙かによい。底本の旧全集ではモノクロームの画像のみ。掲げた画像から字を起こした。]

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