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2021/07/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (7)

 

 東歐州に有りと信ぜらるゝ吸血鬼(ヴアムパヤー)は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)從つて葬式の誄(ダーヂ)に、子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は、印度のと同じく人を詛ふ時其人の後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に灰を撒く又詛害を除く水を調へ之を詛ふた者に飮せ若くは其戶前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正、怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正、後年基督敎を退き回敎に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を賴み僧主官許を得て、今は回敎僧だが昔取つた杵柄(きねづか)と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時[やぶちゃん注:「じじ」。その時。]尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存(のこ)つた。又十五世紀にコンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。基督敎の大僧正に詛はれた者は、地も其尸を壞らず[やぶちゃん注:「やぶらず」。]。數千年經るも太皷の如く膨れ色黑くて存するが、詛ひ一たび取り消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻、妖麗他に優れ淫縱度無かつたので、門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて、止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれ居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出して見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂圓に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歷て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督敎の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903,pp. 195, 211, 212, 226)。古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黃色の油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る「好色の道罪深きことなれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督敎と反對に吾が佛敎では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁」Internet archiveの原本のここの左ページ右の「VAMPIRE」の項の、そこの中央附近に、

The persons who turn vampires are generally wizards, witches, suicides and those who have come to a violent end or have been cursed by their parents or by the church.

という一文があり、引用で私が太字部にした部分が南方熊楠の言っている部分である。

「誄(ダーヂ)」「誄」(音「ルイ」)は「偲(しの)び言(ごと)」の意で、本邦で古くに「しのひこと」と訓じ、「死者を慕い、その霊にむかって生前の功徳などを述べる言葉・死者に対する哀悼の辞」を言う。「ダーヂ」は英語で、dirge。「葬送歌・哀歌・悲歌」の意。

「マセドニア」(英語:Macedonia)はバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域でアレクサンドロス大王が君臨したマケドニア王国が知られる。ギリシャ人が多く住んでいた。

「サロニカ」ギリシャのエーゲ海サロニコス湾に浮かぶ諸島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淫縱度無かつた」「度無かつた」は「どなかった」と読むか。淫(みだ)らなる振舞いを、程度というものを知ることことなく、続けた、と言う意ではあろう。

「G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903」Internet archiveで原本を見ることができ、195」はここで、211」はここ212」はここ、最後の226」はここである。但し、ここで熊楠が述べている部分は「211」から「212」「213」(ここは見開き)にかけての部分である。

「古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず……」以下の「慶澄注記の伯母、好色によりて、死後、黃水(わうすい)となる事」。

   *

 山[やぶちゃん注:延暦寺。]に慶澄注記といふ僧ありけり。件(くだん)の僧が伯母にて侍りける女は、心すきずきしくて、好色甚だしかりけり。年比(としごろ)の男にも、少しも、うちとけたる形を見せず、事におきて[やぶちゃん注:何かにつけて常に。]、色深く情けありければ、心を動かす人多かりけり。

 病ひを受けて、命、終りける時、念佛を勸めけれども、申すに及ばず、枕なる棹(さを)[やぶちゃん注:竹製の衣紋懸け。]にかけたる物を取らんとするさまにて、手をあばきけるが、やがて、息絕えにけり。法性寺(ほふしやうじ)邊に土葬にしてけり。

 その後、二十餘年を經て、建長五年[やぶちゃん注:一二五三年。]の比、改葬せんとて、墓を掘りたりけるに、すべて、物、なし。

 なほ深く掘るに、黃色なる水の、油のごとくにきらめきたるぞ、涌き出でける。汲みほせども、干(ひ)ざりけり。その油の水を、五尺ばかり掘りたるに、なほ、物、なし。

 底に棺(ひつぎ)やらんと覺ゆる物、鋤(すき)に當たりければ、掘り出ださんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを、手をいれて探るに、頭(かうべ)の骨、わづかに一寸ばかり、割れ殘りてありけり。

 好色の道、罪深きことなれば、跡までも、かくぞ、ありける。

 その女の母をも、同じ時、改葬しけるに、遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者なれども、その體、變らで、つづきながらぞ、ありける。

   *

「慶澄注記」人物は不詳。「注記」は延暦寺の六月会などに行われる豎義(じゅぎ:論議による学僧の資格試験)の際に筆記役を勤める僧を指す。さて、この話、最後の部分で何となく変な感じがあるのに気づく。「遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者」が、慶澄の母であるその女の母で、慶澄の伯母の母というのでは、何となく「ややこしや」で、違和感を感じるのである。だいたいが、改葬しているからには、親と慶澄の兄弟姉妹などの親族だけを分骨したと考えるべきであるからである。そこに伯母を入れ、さらにその伯母の母まで納めるというのは変だからである。ところが、本文及び注を参考にした「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)を見ると、実は別伝本では、最初の『件の僧の伯母』は『件の僧の伯女』となっており、この「伯女」とは慶澄の年上の姉と読めるのである。同書でも、『改葬を行った人物を慶澄と考えると、自分の長姉と』実『母との改葬をしたとみるのが自然なので』、冒頭の『「伯母」は「伯女」とあるべきかとも思われる』とあるのである。私もそれに無条件で賛同するものである。

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