梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)2 昭和八(一九三三)年(全)
昭和八(一九三三)年
[やぶちゃん注:梅崎春生満十八歳(二月十五日)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、五高『二年に進級すると同時に雑誌部委員となり、校友会誌「竜南」』(正式には『龍南會雜誌』)『に詩がのりはじめる。「自分の詩を自分で審査したのだから、お手盛りだ」と梅崎は晩年になってテレていたが、今日読みかえしてみても、青年らしい潔癖な抒情が、無為の日常の底でいらだたしく傷つき喘いでいるさまが繊細ににじみでていて、蹌踉として暗い青春の姿がかなり的確にとらえられており、後年の梅崎の才気の片鱗がうかがえる佳作である。この年に発表した詩には「死床」「カラタチ」』『「嵐」』『がある』とある(三篇の書誌情報が書かれてあるが、以下の私の電子化でそれぞれ同情報を明記してあるので略した)。前年の電子化注で既に述べた通り私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を総て(全部が初出復元版である)、ブログで電子化注し終わっている。その一括版である『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。以下、中井氏の挙げた詩篇を以下にリンクしておく。「死床」・「カラタチ」・「嵐」である。]
二月七日
去年の十一月八日は私にとつて一生忘るる能はざるの日であつた。私はその頃待望した嵐のやうな幸福の眞只中にまきこまれて、かへつてその絕大の幸福を悟り得ず、惱みに惱みぬいたやうに覺えて居る。私は人道的立場からとかからそれを見て、その事件の道德性を疑い――ああ私も平凡な人道主義者であつた――あのように惱んだのだ。しかし、今にして思えば、その惱みは何と言ふ幸福に滿ち充ちた惱みであつたらう。私達は人道的立場などを考へずに、唯感情のおもむくままを享樂すればよかつたんだ。いくら樂しんでも樂しみ切れない尊い三箇月ではなかつたか。私は今、ここに雙曲線をなして別れ去つた魂のかけらを胸にいだいて、暗黑の前途に慟哭する。私は、もうすべてを諦めよう、すべてを捨てよう。私の行くべき道には、暗黑なニヒルの世界が冷たくひろがつて居る。冬休みにあのやうに高調した熱情を、おお私は今どうしたらいいのだろらう。
[やぶちゃん注:「去年の十一月八日」既に電子化した通り、前年の「十一月七日」と「十一月九日」の日記はあるが、この「十一月八日」のそれはない。その前後の日記はかなり意味深長ではあるが、具体的な出来事を推理出来るだけのものはない。そこにこの日記を投げ込んでみても、やはりそれは何も返ってはこない。ただ、後の一周年の同月同日の日記をみても、何らかの女性との濃厚な関係を強く感じさせるものではある。]
二月七日[やぶちゃん注:ママ。]
試驗が終つてから新しい生活方針を立てやうと思ふ。
一、外出をしない事。外出する時は自分一人で行く
か、又は自分のすきな者と二人で、三人以上は
もういけない。
二、書物を讀む事。卽ち文藝に力をそそぐ事。
三、每日每日、少しづつの遊ぶ時間をのぞいてしま
ふこと。
四、勉强すること。
五、食後は一人の散步により瞑想にふけること。
試みに一日の時間割を作つてみる。
七時半 起床
三時―三時半 風呂
三時半―四時 掃除、手紙、其他
四時―五時 豫習
六時半―八時 豫習復習
八時―十時 試驗勉强
十時―十一時 讀書
背かれた者は再び劍を磨(と)ぎ始めた。
私は十一月八日以前の私にたちかへらう。
もつと深刻な憂鬱な男にならう。
もつと口數の少ない無表情の男にならう。
ニヒリストにならう。
[やぶちゃん注:太字「憂鬱」は底本では傍点「◦」である。箇条書き部分は二行目になると一字下げとなっているので、ブログで字を大きく表示した際の不具合を考慮して、一行字数を勘案してある。他の字配は底本通りである。]
三月一日
憂鬱のみが人生であらうか。悲觀的な言葉のみを日記帳に連ねて、悲哀の快感にふけらうとする私は、今までの態度に今しみじみと誤りを認識して居る。「淋しさ」「諦め」が人生の總てではないのだ。
六月四日
後藤農相の話を聞く。私も何時かはあの樣なおじいさんになつて、燃え切つた靑春の餘燼に手をかざして見ることもあるかも知れない。なつかしい高校生活よ、なつかしい友達よ、永久に私の事を忘れて吳れるな、いつまでも、いつまでも。
近頃友達の範圍がやつと限定されて來たと思ふ。私は私の友達を四層に分けて見て、
一、眞實の友、心の友
二、好意を感じて居る友 1・2
三、全然路ぼうの人 3・4・6・7・8・11
四、嫌な友(これでも友と言えるかしらん) 5
此の外に友達になりたいと思ふ人の數人がある。私はしかし彼等に對する情熱が一年生時代と比較して、ぐつと衰へて來た事を悲しく思ふ。かつて原勇策が、水前寺の行き道に言つた言葉――戀愛しようと思ふなら苦しむ事は無論覺悟して置くべきだ、樂しみを求めるための戀愛なら止めたがいい――と。私は、原君から言はれないでもその言葉のリアリテイは心の底から感じて居る事なんだ。
江波惠子と言ふ名前は私の一生の記億に殘るであろう、たとえ私が大臣になつても……
[やぶちゃん注:数字は総て縦書で、底本ではポイント落ち半角である。
「後藤農相」後藤文夫(明治一七(一八八四)年~昭和五五(一九八〇)年)は貴族院議員で齋藤内閣に於いて昭和七(一九三二)年五月に農林大臣に就任していた昭和九(一九三四)年七月、次の岡田内閣で内務大臣に再任されている。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後は、昭和二七(一九五二)年に財団法人電力経済研究所を組織し、原子力発電を含む電源設置を進めた(当該ウィキに拠る)。五高で遊説でもしたものか。
「江波惠子」石坂洋次郎(明治三三(一九〇〇)年~昭和六一(一九八六)年:青森県弘前市生まれ。県立弘前中学校(現在の弘前高等学校)から慶應義塾大学文学部卒。大正一四(一九二五)年以降、県立弘前高等女学校(現在の弘前中央高等学校)・秋田県立横手高等女学校(現在の横手城南高等学校)・秋田県立横手中学校(現在の横手高等学校)に国語教師として勤務し、昭和十三年に教員生活を終えて専従作家となった)の小説「若い人」(昭和八(一九三三)年八月から昭和一二(一九三七)年十二月まで『三田文学』に断続的に連載され、石坂の出世作となった)の登場人物。当該ウィキによれば、『北国の港町のミッションスクール』『に勤める』二十八『歳の教師・間崎慎太郎は、江波恵子という女生徒の作文を読んで、その激しい情熱に打たれる。一方、同僚教師の橋本スミは、間崎が女生徒にひかれていくのを戒め、間崎は恵子とスミの双方にひかれる。恵子は料亭を営む母と二人暮らしの私生児である。間崎は江波の母の料亭での喧嘩を仲裁して大けがを負うが、その晩』、『恵子と結ばれる。このことを知ったスミは、自宅で左翼非合法活動の集会を開いて検挙される』と梗概してある。本作は『好評を得て』、『石坂は』一躍、『人気作家となるが、一右翼団体が、その一部をとらえて、不敬の文言があるとして出版法違反で告訴した』(不起訴処分)騒動でも知られる。]
六月四日[やぶちゃん注:ママ。]
私は彼女の肩を抱いた。彼女の顏は私の面前にあつた。なめらかな皮膚、休臭、形のいい唇が私の官能を剌激した。彼女は瞳を閉じて私の胸に彼女の全重量をもたせかけて居た。私達の唇がこのままぴつたりと合ふのは偶然ではなかつた。自然な――私は唇をそつと彼女の唇に押しあてた。始めて知る唇の味。何と言ふ甘美な味であらう。私は彼女の唇を通して、躍動する、彼女の肢體を躍動するつつましやかな情欲を感じた。胸のふくらみが私の心臟と心に波うつて、完全に二體が一つになつた一時であつた。
私はも少し自分の本質に徹底した生活をして見たい。かつてあの事のあつた間は私も樂しかつた樣に、私は燃え上る炎の如く女を求める。私が今求めて居る女は。
一、女學生で
二、理智的で
三、情熱的で
四、美貌で
五、健康的な朗らかな女である。
そのやうな女が熊本に居るだらうか。
私は今、江波惠子の樣な女がほしい。
私の欲する江波惠子は、無論私の頭腦に描かれた友で、逢初夢子を髣髴(はうふつ)させる友である。
[やぶちゃん注:「逢初夢子」(あいぞめゆめこ 大正四(一九一五)年~?)は女優。本名は遊佐八千代(旧姓は横山)。『福島県耶麻郡猪苗代町』『生まれ』。『逢初が生後半年の時に公務員で』あった『父の横山次郎を亡くし』、十『歳の時には母のひで子も死去した』。『逢初は両親を失い、家財もすべて伯父に委ねて』、『兄と共に上京し、浅草区栄久町精華尋常小学校に入学』、『精美高等女学校を中退』した後、昭和五(一九三〇)年七月、十四歳で『東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団』、『「メリー・ゴーランド」で初舞台を踏み、この舞台で演じた海賊役で絶賛を浴びた』。昭和七(一九三二)年二月に『当時の所長である城戸四郎に、新時代の女性映画のホープとして松竹蒲田に迎えられ、菊池寛原作、成瀬巳喜男監督の』「蝕める春」で『同じ松竹歌劇団で活躍していた後輩の水久保澄子と共に銀幕デビューを果たした』。『デビュー』二『年後の島津保次郎監督作品の』「隣の八重ちゃん」に『主演し、一躍』、『人気女優とな』り、『逢初はモダン派のホープとして多くの作品に主演し、モダン派のなかでは他を断然』、『引き放すほどの存在であった』。この昭和九年九月には『協同映画社に移籍』している。昭和一七(一九四二)年、『ベルリンオリンピック金メダリストの遊佐正憲と入籍した』。『戦後も活躍し』、昭和二二(一九四七)年には、『没落していく華族の一家の姿を描いた傑作』「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督・新藤兼人脚本・原節子主演)で、『原節子、森雅之の姉役でも』、『気の強い女性を好演している』。昭和三〇(一九五五)年に『映画界を引退したが』、昭和四〇(一九六五)年の松竹映画「霧の旗」山田洋次監督・松本清張原作・橋本忍脚本]に出演している。詳しくは参照した当該ウィキを見られたいが(写真有り)、現在は『消息不明』とある。]
十一月七日
再び年が𢌞つて十一月七日が訪れて來た。私は經て來た苦難の一年を囘顧し、めぐり來る一年の將來を幻想する。二月五日の苦盃の思ひ出はつつましく一枚の畫となつて、私の心の隈にかけられてあり、うすれかけた事象の面影はなほ淋しく心の傷に剌激を與へる。淋しい夜だ。私はもうたぎり來る情熱を知らない。もう老い去つた人のやうに、空しい一年を反芻して見るばかりだ。近頃は口もきかないある友との交情は、永遠に思ひ出の中にこそ生きるだらう。しかし、何て樂しかつた寮の日日である事か。去年の今夜。私が官能のうずきにもだえた夜。私の心情は遠く靑い月夜の空氣に乘つて、遠く月の世界に旅行した。もう際限ない墮落だ。救はれないのだ。
(八時過、淚もて)
[やぶちゃん注:最終行は底本では下二字上げインデント。]
十二月八日
今日は原がやつて來たので、試驗前だと言うのにオリンピツクヘ電車に乘つて出かける。霧雨の降る夜であつた。あの少し苦(にが)みを帶びた香高いコーヒーの味も堪えがたく快いものであつたが、それより、高木淸子の淸麗な微笑を心から、何とかつ□た人のやうに嚙みしめた事だらう。知らず知らずの中に私の心の中に忍び込み、影のようにひろがつて私の心を占領してしまつた魔物――可愛らしい魔物。あの唇が、あの腕が外の男の唇に接し、他の男の手にからむ情痴の風景を心ならずも畫いて見ては、たまらない憤激におそはれる私なのだ。
[やぶちゃん注:「オリンピツク」カフェの店名か。]
十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]
一休此の不安は何處に胚胎するのだらう。あの樂しかつた夏休みの事柄をひたすらに慕ひながら、その日その日を嫌惡に溺らして行く。誰か鋭い劍をふりかざして、ざくりと私の心臟に突き剌して吳れないものかしら。苦痛もない心持の中に死んで行き、此の嫌な事象から緣を切りたい。風になつて、長崎あたりまで、――幸子さんの居る部屋の窓にそつとおとづれて見たい。今ごろ幸子さんは何をしてるだらう。ピアノかしら、アロハ・オエの旋律をつつましやかにたどつて居るかしらん。亦はつつましやかな一日を日記帳に寫し取つて居るかしら。あの日幸子さんが立ち上つた時裾からこぼれたあの脛の白さ――思はずくらくらとする心を引きしめながら、私は何とあの純潔な處女の肉體を戀した事だらう。信仰と藝術の中に汚れない肉體の哀愁を祕めて、あのひとは今日もアロハ・オエの悲しい旋律を思い出してはいないか。理智に勝つた瞳や容貌を思ひ出す每に、私は心からあの長崎の日日を慕ひ續けるのだ。長崎。詩の都長崎の一喫茶店。クリームの甘い舌ざはりを樂しみながら、今思ひ出すのは一枚の塵紙の中に祕められた彼女の純情さなのだ。何物にもまどはされない處女の純眞な心象なのだ。あの白紙の心を愛そうとする――白紙の心を汚してしまおうとする私の心ではあるのだが。
十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]
時には血管の中にうごめく血球の一つ一つがどつと聲をあげて、――ユキコ、ゆき子、幸子と叫びながら沸騰して來るかと思はれる。そんな時は、私は居たたまれない氣持にどうする事も出來ないで、あの慕はしい思ひ出の塵紙に頰をすりよせたりする。このようなひたむきな戀心をあのひとは一體どう考へて居るのであらうか。悲しい心持で長崎を離れようとする朝、玄關まで送つて來て吳れたのは良子さんと梅子さんだけで、幸子さんは結局姿も見せなかつた――そんな事や、ことさらに雜談を避けて行つた事なんか、あの人の性質としては、うけ取ることも出來ようけれども、私は矢張り物悲しい不幸な結末を考へて、思はず淚ぐましくなつて來るのだ。私達は――私はあの人と戀と名付けるべき感情を弄んではならない地位にありながら――心の琴線にふれて來たすばらしいピアニストの手をどうしてはばむ事が出來よう。あの長身のすらりとした姿や、理智に勝つた瞳、端麗な唇、ノーブルな鼻、柔らかな、なめらかな肌、乳房のふくらみを暗示する地味な落着いた着物と――いつもやんちやな心が彼女の中にひそんででも居るのか、私はいつも彼女と口爭ひした事を思ひ出す。そんな事も思ひ出となつて風の樣にうしろへうしろへと流れて行こうとして居るのだ。
十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]
水脈(みを)を引いて出帆する帆船。やがて古びた長崎の港に、うちふるふ神經のどらを打ち鳴らしながら、私の心は霧雨に濡れて居た。嵐の町。舖道を吹き拂ふ風の樣に、夜、激情をおさへかねて、私は幸子の白い顏を慕ふのであつた。垣根に咲く、白い木蓮の花、その香りに何時しか醉ひ、離れ得ぬ愛着の詩を心の石板に彫りつけながらも、――悲しく醉ひたい氣持を抱いて、長崎を去つて行つた私。さやうなら長崎よと、停車場より Farewell の言葉は、知らぬ間に心臟の裏側に刻まれてあつたと見えて、私の心は、常に忍びやかに、風に乘つて、潮に乘つて、月の夜に、雨の夜に、長崎を訪れるのだ。再び水脈を帆船のあとに眺めながら、私は埠頭に立つて、おお空ろなる物象よ、おお虛ろなる心情よと幾度も幾度も呟く――その聲は今、悲しくも下宿の部屋に陰々とこもつて。窓の外を彷徨する目に見えない魔物の吐く白い息に私は意外にも冷たい夜を自覺する。しかし、四肢は冷えても、私の心は、幸子の唇の樣に、幸子の乳房のやうに火の如く燃え上つて居る。たまらない欲情のふくらみをそつと着物で抑へつけたあの女の姿體。そして、夜、私の心は古典的な革表紙をなげすてて、新しい純情の港へと出帆する。うちふるふ神經のどら、運命的な戀慕のどらよ。さうして、長い長い、哀愁の水脈をはかない一すぢに引き連ねながら。
十二月十二日
晝寢。今日は西洋史が無かつたので早く歸る。試驗前、倦怠の一日である。戶島へ打つた電報が夕方返事が來て小康を傳へ、明日歸る由を告げる。風呂に入つて、足立と金子が來て、碁を打つ。
試驗前には、感情を喪失した機械になるべき運命を、義務を持つた私ではあつたけれども、絕えまなく昇華して來る情熱を、私は今どうしたら良いだらうか。高木淸子の淸麗な微笑をふと思ひ出してみる私なのだ。さうなると、河瀨も岡本も手につかない。幸子と淸子の顏がいりみだれて頁の上で私に笑ひかける。思わず抱きしめたいやうな衝動にかられて、思はず「ユキコさん!!」と叫んでみたりする。そんな事で混亂した頭はもはや勉强に堪へないで、終(つひ)には冷たい足を冷たいふとんに忍びこませて、昏々と眠らうとする私になつて行くのであつたが、眠れない感情、うつつ。ゆめの間にもやはり彼女たちは待ちかまへて居る。もう駄目だ。去年の今日も、やはり惱んだ。妖(あや)しい情熱は再びここに對象を改めて出現した。へうへうとなるのは冬の風であつたが、やはり、その風と共に一つの鳴きむせぶ物象が私の胸の中にはひそんで居た。ああ今年もこんな風に暮れて行くのだ。
十二月十二日[やぶちゃん注:ママ。]
歸る日、階下からアロハ・オエの旋律が流れて來て、離愁は私を淚ぐました。「エクラン」では小林十九二と田中絹代の戀物語であつたが、私は端麗なユキ子のプロフイルをぬすみ見て居た。………
あらゆる事物が日が經つに從つてだんだんと薄れて行く。私はそのイメージを取り逃すまいと一生懸命になる。ある日私はユキ子の面影を忘れて愕然とした。心の片隅につつましくもかざられてあつたユキ子の寫眞が、丁度ころがり落ちて、心の盲點の所に引つかかつて居たのかも知れない。私はすぐ探し出すと再び心のかたすみにかけておいた。もう外れ(はづ)れない樣にしつかりと釘で止めて。
ひたむきの心抱きて今日も亦
幸子の顏を 一目戀ひにき
情熱をおさへかねつつただひとり
小さき聲して 名をよびてみる
十二月十四日
獨りで碁を並べて見る。
奇怪な構圖であつた。白と黑とが互ひに組み合つて、四角な盤面に次第に奇妙な模樣を作つて行く。窓から入る光が白石に當る時、それは再び白色にこされて白い光の領域を盤面の上にただよはせる。黑色の石は色を吸ひとてしまふので亦そこに光の妖しい戲れがあつた。私は此の遊びを好んだ。自分で獨り奇怪な模樣を書いて行く時、築城師にでもなつたやうなメカニカルな快感を感ずるのであつた。時には私は白石となつて、壓迫して來る黑石を必死の力で擊退しようと試みたり――そんな時は私の意地惡の方の心が黑石をにぎつて、素直な方の心が白石をにぎつて無意識的な爭鬪を續けて居るのかも知れなかつた――常に此んな妖しい遊戲は私の感覺をたかぶらせて終るのであつた。
[やぶちゃん注:「こされて」には右手に底本編者によるママ注記が打たれているが、これは陽光によってハレーションが生じ、碁盤の全体が白く「漉されて」ゆくような感じを言っていると私は読んだので躓かなかった。]
十二月十六日
鏡を見る。今蒼茫と暮れて行く陰慘な物象があつた。まだ若かつた頃、戀慕の心情に若さを時雨したあの時の容貌は何處に行つたのだらう。私は暮れて行く曇り空の下に息づく華かな街の哀愁を感じ、照明華かな理髮店の雰圍氣を憧憬した。
[やぶちゃん注:「時雨した」には右手に底本編者によるママ注記が打たれている。確かに「しぐらした」という読みは今一つ意味がピンとはこない。「湿っぽく翳らせた」という意か。]
十二月十七日
試驗直前の日曜、金子と戶島の三人でつまらぬ漢詩を作る。
寥寥秋日前机苦
碧眼童子何憂々
抱獨逸書白日暮
忽然秀才訪我庵
註 一、二句 金子
三句 梅崎
四句 兩人デ
秀才とは畏友原勇策君を指す也
獨逸書とは渡邊さんの敎科書也
[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。
寥寥たる秋日 机を前にして苦しむ
碧眼の童子 何ぞ 憂々たる
獨逸(ドイツ)の書を抱きて 白日 暮れ
忽然として 秀才 我が庵(あん)を訪(おとな)ふ
七絶のつもりにしては、全く韻を踏んでいないし、「々」を使用するのは鼻白む。]
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