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2021/07/10

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)8 昭和二二(一九四七)年(全) / 梅崎春生 日記 電子化注~了

 

   昭和二十二(一九四七)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生、この年で満三十二。全集年譜と中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、一月、山崎恵津と結婚している。恵津は実践女子専門学校国文科卒で雑誌『令女界』や『若草』の編集者であった。新居は豊島区要町であった。三月「崖」(私のブログ版電子化注)を『近代文学』(二・三月合併号)に発表、五月、「茸の独白」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に、六月、「英雄」(沖積舎版全集に不載。私の『梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます 《2020年11月3日追記有り・ほぼ解決》』を参照されたい。私は現在に至るまで未読)を『小説と読物』に、「紐」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に発表している。八月号『新文芸』に「世代の傷痕」(私のブログ版電子化注)を、「蜩」(私のブログ版電子化注)を九月号『風雪』に、同月、「日の果て」(リンク先は「青空文庫」)を『思索』に発表した。十月、長女史子(ふみこ)が誕生し、世田谷区松原町三丁目に転居した。同月には『文藝』に「ある顚末」(私のブログ版電子化注)を、「行路」を『不同調』に、十一月、『日本小説』に「贋の季節」(私のブログ版電子化注)を、『光』に「亡日」(私のブログ版電子化注)を、『浪漫』に「鏡」(私のブログ版電子化注)を、『新小説』に「ランプの下の感想」(私のブログ版電子化注)を、十二月には『文芸大学』に「鬚」(私のブログ版電子化注)を、『文学会議』に「蜆」(リンク先は「青空文庫」)を、『文芸季刊』に「朽木」(近いうちに電子化する予定である)を、『別冊文藝春秋』に「麵麭の話」(本記事公開から数時間後に電子化公開した)を、それぞれ発表している。また、一月には岡本太郎・花田清輝・埴谷雄高・野間宏・椎名麟三・佐々木基一・福田恆存らと『夜の会』に参加、夏には武田泰淳・高橋義孝・日高六郎らと『近代文学』第二次同人拡大に加わり、また、親友霜多正次の紹介で『新日本文学』に加入、十二月には『序曲』創刊に埴谷雄高・野間宏・三島由紀夫・寺田透らと参加するなど、戦後派作家としての積極的行動が目立ち始めている。

 これを以って底本の「日記」パートは終わっている。]

 

三月十二日

 八時半頃起きて食事。サメの煮こごりなどで腹一ぱい食べ、また寢た。惠津子は私が眠つているうちに寶文館に行つた。そして眠りが覺めたのが午後二時。

 起き上つて頭が重く、ゼドリン服用せしも氣分晴れず、下高井戶まで散步に行く。戾つて來て「サーカス」を少し書いた。どうやら書けさうな氣もするが、今までの中で最も難物であることはたしかだ。漱石の「吾輩は猫である」を拾ひよみした。つまらない小說だと思ふ。

 五時、食堂に行き、飯をとつてくる。その間に、三島由紀夫君より電話かかりたるらし。今夜は「サーカス」の中の「鬼頭の獨白」を書く豫定である。

[やぶちゃん注:「惠津子」奥方の恵津さん。

「寶文館」『令女界』『若草』の出版元。

「ゼドリン」強い中枢興奮作用・精神依存性・薬剤耐性があり、中枢興奮作用を持つ、間接型アドレナリン受容体刺激薬アンフェタミン(amphetamine/alpha-methylphenethylamine)の武田薬品工業の商品名。現行では治療薬としてナルコレプシー及び注意欠陥・多動性障害(ADHD)のみで用いられ、本邦の「覚醒剤取締法」では「フェニルアミノプロパン」の名で覚醒剤に指定されている。思うに、梅崎春生の後年の精神変調の一因にこうした向精神薬の多用があるのではないかと疑われる。

「サーカス」恐らくは昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された「贋(にせ)の季節」(リンク先は私のブログ版電子化注)と思われる。但し、決定稿には「鬼頭」という人物は出ない。ただ、六月発表に「紐」(リンク先は私のブログ版電子化注)の主人公は「鬼頭」である。しかし、サーカスとはストーリー関連はない。サーカスも梅崎春生はしばしば舞台やロケーションに使うので、特定出来ない。]

 

三月十六日 日曜日

 朝食後また寢て、一時頃目覺めた。そしてまだ眠い。昨夜寢たのが午後八時頃だから、十六七時間寢てゐた計算になる。すなはち起きてゼドリンを服み、「ジユニアタイムズ」の「帽子」二枚ほどかく。それから經堂に行かうと思つて出かけたら門前にて兄とあひ經堂に行く。カステラ、チーズなどを馳走になる。それより又戾り、夕食を共にたべ、ざしきにて麻雀一莊。+(プラス)一五〇にて二位。

 どうも書けないのは、くさる。どうしたものであらう。

[やぶちゃん注:「帽子」不詳だが、少年誌(新聞?)からの依頼であったことから、後年の昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表されたアンソロジー「破片」(リンク先は私のPDF縦書版電子化注)の冒頭にある「三角帽子」の元原稿ではないかと私は思う。]

 

三月十七日

 また今日も十二時までねてゐた。

 「文學季刊」の小說、筋完成す。

 夕方部屋を整頓。夕食後、ハガキなどをしたためゐるうち九時となり眠氣きざす。

 近頃の日記はまつたく眠り日記なり。

[やぶちゃん注:『「文學季刊」の小說、筋完成す』この年の十二月発行の『文芸季刊』に発表した「朽木」。]

 

三月二十六日

 「高鍋」二十五枚ほど書いた。書いてみて、何か濁つた、スタイルの亂れた書き方を感じ、も一度書きなおさねばならぬと思ふ。私の癖である處の、低徊的な、不明確性だけが目立つてゐて、それが厭だ。

 だから、之は一週間ほど書かずに、おいておこうと思ふ。

 

 今の所、書かうといふ純粹な氣持ではない。書かねばならぬといふ重苦しい義務感。それが作品に打ち込むことから私を隔ててゐる。情熱がないのに、每日、何枚かを書かねばならない――書いてゐるかどうか他から監視されてゐる感じである。私は誰からも氣持の上で强請(ゆすり)を感じたくない。私は今まで、ほしいまま書いて來た。今スランプにある。これは事實だ。それはしかしあくまで私個人の問題で、外から批判されたり非難されたりすることぢやない。所詮文學とは孤獨の道だ。

 

 今、新宿から戾つて來た。新宿の人混みをわけて步いて、イライラした。街にも、何も刺激はありはしない。

 私を救ふものは何もありやしない。それは今に始まつたことではない。もとから判つてゐた。ただ時々の錯覺で救はれるものがあるかと思つたりするだけだ。

[やぶちゃん注:「高鍋」は私は「無名颱風」(リンク先は私のPDF縦書詳注附き電子テクスト)の原型と考えている。「無名颱風」は昭和二五(一九五〇)年八月初出であるから、実に三年半かかって完成させたことになる。梅崎春生には、かなり熟成させた作品が、思いの外、結構あるように感じられる。]

 

四月二十日

 高鍋 六十枚

 馬  六十枚

 英雄 三十五枚

にて皆放棄す。造形と言ふことのむつかしさ。今「外套」の下書き。成功すればいいが。今日は、土居氏等來る筈なり。

[やぶちゃん注:「馬」かなり長い作品だが、不詳。

「外套」既に述べたが、「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。されば、軽々にどの作品の元原稿とは言えないものの、感触としては、この年の十月に発表することになる「ある顚末」(私のブログ版電子化注)が私には浮かぶ。]

 

八月六日

 俺は、

  平和時代には資本の下に服從し

  戰爭時代には權力に屈し

  そして今もなお、生きるスベを知らぬ民衆を書く。

 

九月一日

 女が哀しい、のではない。

 女を眺める己の性欲が哀しいのだ。

   (女はただの個體)

 

九月二日

 絕望ぢやない。絕望への憧憬なのだ。あるいは絕望への鄕愁――。

 

九月二十二日

 人間としての保證のために、感動したふりをする。本當は感動していない。

 

十一月九日

 十八日までに「文藝春秋」

 十五日までに「花」

 今日からかきはじめて、今、三枚目。

 出來るかしら。

[やぶちゃん注:「文藝春秋」『別冊文藝春秋』に発表した「麵麭の話」。

「花」前との関係から雑誌名らしいが、不詳。対象作品も知らない。]

 

十一月十一日

 やつと八枚目まで書く。

 

 月評家とはなにか?

  それは、彼等が攻擊する風俗小說家と同位置だ。

 

 ほづつの響き  とほざかる

 あとにはむしも  こゑたてず。

[やぶちゃん注:「ほづつ」「火筒」で銃砲・火砲の意。]

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