芥川龍之介書簡抄105 / 大正九(一九二〇)年(十) 五通
大正九(一九二〇)年十二月三日・消印四日・田端発信・本柳區東片町百三十四 小穴隆一樣・十二月三日 市外田端四三五 芥川龍之介
啓
この間辛氣くささのあまり碧童先生を訪ねいろいろ聞いて貰ひましたおかげで家へかへつたら小說を書く氣分になれましたこの頃人に四王吳惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます
碧童先生の所で見た君の歌皆よろしあの中僕が頂戴した二首で云へば後の歌の方より好きなり今度大阪にて矢野橋村と云ふ南畫家の御馳走になる健筆家です六月から今日までに屛風六枚折二双二枚曲二双尺八位な絹本双幅十便十宜の小幅幷せて二十一枚その外長卷も一つ書いてゐます但し畫品は君に比べると段違ひに下等です
ぬばたまの夜さりくればその空にいまあかあかと彥星たるる
註に曰これでも戀歌です 頓首
十二月三日 我 鬼
倪隆一先生 侍史
二伸 大阪堀江の妓僕に曰
と云ふのがよめますか僕曰よめない妓曰敎へて上げまほか僕日敎へてくれ妓曰
油ハタカシ夜ハナガシコマル=マル大コマル
さうだつしやろ僕曰なある程 以上
[やぶちゃん注:「二伸」にある「判じ絵」は、底本の岩波旧全集をトリミングし、印刷された「油」の字を消して、新たに私が活字を挿入して合成した。
「辛氣くささ」「辛氣臭さ」。思うようにならないず、じれったい感じがすること。気がくさくさして滅入ってしまう状態。翌月の新年号(実際の発表作は九編)の執筆に追われていた。
「四王吳惲」(しだいごうん)は中国の南宗画系の呉派の正系を受継ぐ明末清初の王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)と呉歴・惲寿平(うんじゅへい)の六人の画家のこと。「清初の六大家」ともいう。当時の画壇の指導的役割を果すとともに、清代の山水画・文人画の発展の基礎を築き、四王の立論や完整な画風は清代宮廷絵画様式の基礎となった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「南田」(なんでん)は前注に出た惲寿平の号。本邦では号の方がよく知られる。清初の文人画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年)。初名が格、字(あざな)を寿平であったが、後、寿平を通常の名とし、常州(江蘇省武進県)出身で、もとは名家の出であったが、彼の生まれた明末には貧窮し、在野の画家として一生を過ごし、清貧のうちに五十六歳で没した。詩文とともに書もよくした。王翬と親交を結び、王翬の山水に優れているのをみて、山水画を断念して花鳥画に専心したとも伝える。着色没骨(もっこつ:筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に描く技法)の写生画風を以ってそれまでの花鳥画に新生面を開き、以後の清朝花鳥画の一典型となった(小学館「日本大百科全書」)。
「矢野橋村」前回の最初の書簡で既注。グーグル画像検索「矢野橋村」をリンクさせておく。
「屛風六枚折二双二枚曲二双」屏風の呼び名の違いは、正しくは「曲」が屏風を折り畳んだ面の数を指し、「隻(せき)」は面がが繋がったものを、「双(そう)」は面が連なった隻が、二つで一組になったものを呼ぶ。よく判らぬが、龍之介の謂いは「屛風六枚折」が「二双」(この様式はかなり稀なものらしい)、「二枚曲」が「二双」の意か。
「尺八」筑摩全集類聚版脚注に、『紙・絹などの幅が一尺八寸』(五十四・五センチメートル)『のもの』とある。
「十便十宜」(じふべんじふぎ)は、元来は清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活を詠った詩「十便十二宜詩」の内の十便十宜(二つの宜の詩は見つかっていない)のことで、この詩は、草蘆を山麓に結んで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうと評されたのに対し、「便」(便利なこと)と「宜」(よいこと)の詩を作って答えたというものである。この故事に基づいて明和八(一七七一)年に南画家池大雅が「十便帖」、俳人で絵もよくした与謝蕪村が「十宜帖」を描いて合作した画帖「十便十宜帖」が専らよく知られる(特にその中の大雅の「釣便」が著名)。但し、ここは元の故事に基づく画題を指している。
「二十一枚」オリジナルに一枚を加えているものか。
「長卷」「ちやうかん」と読むか。絵巻物。日本水墨画中の傑作として有名な雪舟の描いた山水画「山水長巻」は「さんすいちょうかん」と読む。]
大正九(一九二〇)年十二月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛
合掌 御手紙難有く頂きました相不變每日原稿に惱まされてゐます 昨日も折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事にて今日は嫌々ながらずつとペンを握りつづけですその後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか 小穴先生に聞けば蜆川あたりはの御歌畫䇳紙に御書きになつたのがある由頂戴出來るなら頂戴したく思ひますそれから河郞舍の印も頂戴しないとつぶされてしまふ由欲張つてゐるやうですが頂かせて下さいこれも小穴先生の入知惠です何しろ原稿の催促ばかりされてゐる爲一向歌も句も出來ません仕事をしまつたら一日ゆつくり風流三昧にはひつて見たいと思つてゐます風流三昧と云へば小穴先生に素ばらしい鷄の畫を貰ひました意淡にして神古るとでも云ひたさうな畫ですあゝなると河童ではとても追ひつきませんこの頃でも時々氣が滅入つて弱ります
僅に一首
苦しくもふり來る雨か紅がらの格子のかげに人の音すも
その内又參上愚痴を聞いて頂きます 頓首
十二月六日 龍 之 介
[やぶちゃん注:「折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事」『改造』の大正十年新年号に発表された「秋山圖」。新全集宮坂年譜によれば、前日(十二月五日日曜日)に来たのは、編集者瀧井と社長の山本実彦で、翌日までの脱稿が求められている。流石に社長直々の懇請に、確かに六日に龍之介は改造社に原稿を送ってはいるが、『(途中まで)』とあり、同日中に、それの『改稿を』書簡で『瀧井孝作に送る』という複雑なことをしている。これは、やはり執筆に難渋している龍之介の脱稿引き延ばしの戦略のようである。実際の「秋山圖」の脱稿は十二月九日頃であったらしい。採用していないが、その瀧井宛の「二伸」に『今日は一枚なり あと少しかきたれど持つてかれると續けるのに困る故止める事にした』とあり、最後に『約束の日限なれど もう眠くて書けぬ。山本社長には平あやまりあやまる故、明日夜まで待つてくれ給へ。中途え切るのは困る。よろしくたのみ入り奉り候』とある。龍之介の原稿小出し作戦の様子が見て取れる。さらに、先の書簡で、どうも他者へ移籍したい希望があった瀧井に対して、「改造の口もそんなに難有くないものではない」などと助言しているのは、実は「おためごかし」で、『改造』に瀧井がいれば、原稿脱稿の遅れなどで融通が利く「渡りに舟」の存在だったからなのではないか? と勘繰りたくなった。]
大正九(一九二〇)年十二月十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十二月十日 市外田端四三五 芥川龍之介
啓 驚いた事には咋日が九日だつたさうだ 僕は今日が九日だとばかり思つてゐた その爲折角君の所へ行かうとしたのは駄目になつた 今度は原稿の片づき次第にする 十二日の日曜は執筆多忙の爲面會謝絕だ まだ改造と赤い鳥の續稿を書いたばかりだ 中央公論の山鴫は未に出來ん
春日さす樺の木の芽の事を繁みわが山鴫は立ちがてぬかも
と云ふのは歌になりませんか
今樗陰先生來り三汀が行方不明で困ると云つてゐた 以上
十二月十日 雲 田 生
大 芸 先 生
[やぶちゃん注:「赤い鳥の續稿」「アグニの神」。これは新年号と二月号に分割されている。原稿二十枚半だが、恐らくは『赤い鳥』側は一回完結にしたかったのではないかと私には思われる。ただ、この小説、文体こそ子ども向けになっているものの、私は『赤い鳥』に載せるには、ややグロテスク過ぎる気がする。展開も如何にも人工的で、私はおどろおどろしさは評価しても、作品としてはそれほど認めていない。
「山鴫」は間に合った(脱稿日不明)。
「三汀」久米正雄の俳号。]
大正九(一九二〇)年十二月二十八日・上野投函・小潭忠兵衞宛(葉書二枚、小穴隆一と寄書)
水鳥の一羽はかなし松にゐて羽根切るは見ゆ音は聞えず 我鬼卽景
大年や藥も賣らぬ隱君子
[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔我鬼醉墨。德利の繪あり〕』とある。]
歲末青蓋翁へ御歲暮一句
鳥瓜届けずじまひ師走かな
小穴先生の驥尾に附するの句
お降りや竹ふかぶかと町の空
[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔小穴隆一筆、門松の傍に子供に似たる犬の繪あり〕』とある。]
淸凌亭の御稻さんの御酌にて小穴先生と飮み居候 我鬼拜
[やぶちゃん注:掲げた画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)に載る本書簡の後半部分の画像をトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。それを視認して、底本の岩波旧全集の表示字体や配置をそこだけ一部、変えておいた。同引用書の解説には、『子犬を描いたのは小穴、松』(下方のそれ。門松らしいが、松に見えぬ)『と竹を書き添えたのは龍之介。大事にしていた矢立を初めて表に持ち出した記念に、龍之介は葉書の表の、自分の名の上に、小さくその絵を描いている。なお、青蓋翁とは碧童のこと』とある。
「羽根切る」筑摩全集類聚版脚注に、『羽ばたきする』とある。
「大年」「おほとし」或いは「おほどし」。大晦日。
「驥尾に附する」「驥尾(きび)に附(ふ)す」は、青蠅が名馬の尾につかまって一日で千里の遠方に行ったという「史記」の「伯夷傳」の故事から、「優れた人に従って行けば、何とはなしに物事を遂げられるの意で、先達(せんだつ)を見習って行動することを遜った気持ちで言う語句である。
「お降り」「御降り」は「おさがり」と読み、季語で、元日、又は、三が日の雪、又は、雨を指す。この句は芥川龍之介の自身作で、旧全集の正規の「發句」にも、
お降(さが)りや竹深ぶかと町のそら
の表記で載り(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)、「點心 芥川龍之介 《初出復元版》 附やぶちゃん注」でも冒頭に配されて、長い随想の後に置かれてある。
「淸凌亭」上野不忍の池の池之端にあった日本料理屋。この中央附近にあった(グーグル・マップ・データ)。
「御稻さん」後の作家佐多稲子(明治三七(一九〇四)年~平成一〇(一九九八)年)。当時、この料理屋で一年ほど仲居をしていた。未だ満十六歳であった。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、この年の五月頃、『上野の清凌亭で仲居をしていた佐多』(当時は田島姓)『稲子を知り、友人としばしば通』ったとあり、コラム『文学女中――佐多稲子』に『佐多稲子』『の前半生は数奇に富んでいる。中学生の父と女学生の母の間に生まれ、その母は七歳の時に死に、生活困窮のため小学校を五年でやめたあと、キャラメルエ場・中華そば屋などを転々とする。一六歳の大正九年には上野池之端の料亭清凌亭の座敷女中として一年ほど奉公する。稲子の月収は七〇円ぐらいだった(ちなみに帝大出の芥川の初任給は六〇円)。その時に芥川の顔を知っていたところからその係となる』とあり、昭和五八(一九八三)年中央公論社刊の「年譜の行間」か引用されてある。『「芥川さんをはじめて清凌亭に連れていらしたのは小島政二郎さんのようですが、(略)あたしが『あれは芥川龍之介という小説家だわ』とその係の人に言ったら、その女中さんが芥川さんに『先生を存じあげてる者がおりました』と伝えたのね、それを芥川さんが、こういうところで自分の顔を知ってる女中がいるというのは面白いとお思いになったの。(略)文学少女がいるというので、菊池さんも久米さんも芥川さんも、きっと面白かったのでしょう、よく来てくだすった。(略)『僕の掌は鶏のようだ』と芥川さんが自分の掌をひろげながらおっしゃったとき、あらほんとだわって思ったし、また、ひとりの芸者の身ごなしがどうもちがうと思ったら、やはり父親がお茶の宗匠だそうだ、なんて言われたのを聞いたときは、やはり作家というのは人を見てるのだなあと思いました。(略)江口渙さんの書かれたものに、清凌亭時代のあたしが芥川さんに本をもらったということがありますが、その事実はありません」』。以下、鷺氏の文。『のち、稲子は自殺直前の芥川と再会し、彼女の自殺末遂の経験について質問され』ていることは、かなり知られている。]
大正九(一九二〇)年(年次推定・月不詳)十八日・田端発信(手渡し)・香取先生 侍史・十八日夜 龍之介
啓吉井勇の歌御めにかけます内鐙で吉井にさゝげる歌を作りましたから是亦御らんに入れる事にしました 天岡氏の宿所書序を以て使の者に御渡し下されば幸甚です 頓首
我 鬼 生
香 取 先 生
ひさかたの天主の堂に糞長くまりはまるとも歌なよみそね
長崎の南京でらの瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも歌なよみそね
黑船の黑き奴の瘡の膿なめばなむとも歌なよみそね
[やぶちゃん注:「香取先生」芥川家の隣りに住んでいた著名な鋳金工芸作家で歌人でもあった香取秀真(ほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。学問としての金工史を確立し、研究者としても知られ、美術の工芸家として初の文化勲章を受章している。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授。
「天岡氏」天岡均一(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。兵庫県出身。東京美術学校卒。高村光雲らに学び、明治三六(一九〇三)年の第五回内国勧業博覧会で「漆灰製豊公乗馬像」が三等賞となった。大阪難波橋の「ライオン像」の作者としても知られる。彼であることは、芥川龍之介の「小杉未醒氏」(大正一〇(一九二一)年三月発行の『中央美術』に「小杉未醒論」の一編として「外貌と肚の底」の表題で掲載。後に改題して大正十五年の作品集「梅・馬・鶯」に収録)で確定。同作は「青空文庫」のこちらで見られたい。
「宿所書」「やどところがき」。住所。]
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