ブログ開設十六周年記念 梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版) 始動 / 昭和七(一九三二)年(全)
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「梅崎春生 日記」を起動する。但し、昭和二〇(一九四五)年の「日記」は、以下に示した仕儀と同じ処理を施して、二〇一六年一月十一日のブログに「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」として既に公開してある(当該年に至ったら、再度、点検はする)ので、省略する。
底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」用いた。この全集所収の「日記」は抄録であるが、古林尚氏の解題によれば、『紙幅の都合から日記全体を収録することはできなかった。しかし、昭和八年(一行だけ割愛)、九年、十年度の分について言えば、ほぼ完全にその全体を収容した。たったあれだけで――と意外な顔をされる向きもあるかと思うが、もともと分量がきわめて少ないのである。これだけでの紙面からでも、日記の全貌はどうにか摑みとっていただけるものと思う』とある。
而して、この日記は、その殆んどが、戦前・戦中のものであり、敗戦後は直後の昭和二一(一九四六)年と昭和二十二年の底本で、それらは三ページ分しかない。そこで、私はオリジナルに表記の推定復元をすることに決した。則ち、恣意的に漢字を概ね正字化し、仮名遣を歴史的仮名遣に変更、促音・拗音を通用字に変えたのである。恣意的であっても、その方が日記原本にはより近いはずだと私は考えたからである。
なお、ルビは編者が添えた可能性が高いが(私は日記にはルビは振らない人間であった)、底本のまま後に添えた。「□」が何箇所かに見られるが、これは底本編者の判読不能字と思われるので、そのまま示した。
さらに、二枚の図が昭和十一年十月十九日の日記に出現するが(夢記述の挿絵)、指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。
注は、極力、押さえることにした。これは、だらだらとやるのが、厭だからである。短期決戦としたからである。それでも、私が注したいと思ったところでは、よく考えてストイックに附すこととする。全く不詳の人物などは注に出していない。年譜的事実は概ね、同全集別巻(昭和六三(一九八八)年)と、中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜に拠った。
なお、これは2005年7月5日に私のブログ「鬼火~日々の迷走」を開設して以来、十六年周年を迎えた記念として始動する。而して――気がついて見れば――私のブログの第二回目の記事は――何んと! 『「桜島」から「幻化」へ』であった! すっかり忘れていたよ! 春生! そのカテゴリ「梅崎春生」に追加しておくね。【2021年7月5日 藪野直史】]
昭和七(一九三二)年
[やぶちゃん注:梅崎春生満十七歳。前年昭和六年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となった。中井正義氏の前掲書によれば、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしいが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』した、とある。]
十月二十日
廢船の秋(津屋崎の秋を思ふ)
マストの上には澄み渡る秋
冷たい風に追はれた小波の慟哭
廢船の底に充たされた水溜り
白晝の鋭さを藏して狂女の淸澄
白い甲羅の小さな蟹が
のろのろと底をあるいて居る
津屋崎でのあの感情を再生する事は俺にはどうしても出來ない。
空しく机にもたれて津屋崎の秋を思ふ時、情趣は湧いて來るけれども、しかし、俺は言葉を持たない。
炎天下、歡樂を求めて津屋崎に赴き、遊樂に徹した。あの二日が、ここに感傷の種を卜(ぼく)して、――
つんでもつんでも芽ぐんで來る感傷。
[やぶちゃん注:「津屋崎」(つやざき)は現在の福岡県福津市のこの辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地区の西部から北部にかけて玄界灘に面している。ウィキの「津屋崎町」(旧福岡県宗像郡時代以来の町名)によれば、現在でも『自然豊かで海や空気がとてもきれいな土地である。町の海岸にはアカウミガメが生息しており』、『平野部には田畑の広がるのどかな町である。海岸は玄海国定公園に指定されている』とある。後のことだが、昭和十七年一月に東京市教育局教育研究所所員であった梅崎春生は陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんだが、その当初はこの津屋崎療養所で過ごしている(後には自宅でのんびりした)。]
十月二十一日
試驗前になると必ず湧然と起つて來るたまらない不安。おさへる事の出來ない、いらいらした氣分。勉强は何もしないのに勉强するより苦しい此の頃。常に首席を夢みながらも(かつてはそれを輕蔑した俺ではなかつたか?)悲しい諦めに墮(だ)そうとする此の心。
諦めに徹した心は水の如く冷たいであらう。より一步聖人のそれに近づいたものであろう。しかし俺には、おさえ得ない野心と慾望とがある。俺の心の中には常にジキルとハイドが爭つて居る。しかし俺はどちらがジキルでありどちらがハイドであるかを知らない。(何と言ふ悲み!)
櫻の木が枝ばかりになつて、枝ごしに赤煉瓦の巨大な建物が見える。
彼女の姿は秋そのものである。秋のにぶい日ざしをうつしたやうな赤煉瓦、やがては來るべき冬を思はせる冷たい瓦の色、黝(くろ)い雲を背景として、彼女は靜かに秋を息づいて居る。
十月二十二日
町に出る、東京庵の茶の爲に三時まで眠られず。
十月二十三日
試驗が刻々と迫つて來る苦しさ。晝から龍田山に登つたけれども少しも面白くない。東光原でラグビー見物、放送局城戶氏を見る。
夜もすがらようなき思ひに身もやせし咋夜の苦しさよ。
夜、歷史をする。
富とは何であらうか? 人生の目的が果して今まで思つて居たやうに富にあるであらうか?
宏壯な屋敷も、美々しい庭園も、畢竟(ひつきやう)それが何になると言うのだ。大堀公園をすら心から樂しいと思ひ得ない私にとつて、富に對する憧憬は單に幻にすぎなかつた。今日の細川邸を見て、あまりにも現實らしい姿にその幻をやぶられた私ではなかつたか?
(滿足な生活を人生の目標としなければならないのですか。飽きるだらう事は分つて居る、私は!)
[やぶちゃん注:「龍田山」熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの立田山(たつだやま・たつたやま)のこと。五高(現在の熊本大学)の北の後背地に当たる。]
十月二十五日
此の荒んだ生活から逃げ出したい。此の苦しい現實を逃避するのに私は何によるべきであらうか?
明日頑張らぬと又一學期の二の舞をやるかもしれない。今日は何故八時までも遊んだんだらう。點檢後何故集會所になんか行つたんだろう。又何故波多江となんかピンポンをやつたんだらう。
[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]
(後悔の淚を目がしらに感じつつ十一時半)
私の心はなつかしい受驗時代に飛んで。思い出はすべてを美しくする。懷しいあの頃は再び歸つて來ないと思ふと、何となく淋しい。
忠生は實に良い奴だつた、片意地な所はあつたけれども。彼と分れる二日前、千眼寺に行つた事を思い出す。
明日は久し振りに家と忠生とに手紙を書こう。[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]
(今日は何となく淋しい、泣きたいやうな氣がする)
[やぶちゃん注:「波多江」梅崎春生のエッセイ「日記のこと」に登場する「波多江」と同一人物であろう。この五高以来の古くからの友人であったことが判る。
「忠生」春生の弟。「狂い凧」(昭和三八(一九六三)年発表。リンク先は「青空文庫」)のモデルとされ、後、応召されて駐屯していた蒙古で終戦直前に自殺した。]
十月二十六日
夕飯後一人で龍田山に登る。これから夕方は必ず一人で散步しようと思つた位、一人の散步はいいものだ。
中村先生神經衰弱。今目の時間はお話。苦しい身の事を話されたにも拘らず皆の同情は一時的のものであつた。
一頁半位しかすすまなかつたのを喜ぶ程俺は利己主義な男にはなり得ない。キ印とまで冷評した人間。あいつはきつと感情を惡魔に賣り拂つたに違いない。冷笑、默殺を以て冷靜な批判と妄想する小才子奴!
日を繰つて勘定して見ると二學期の學期試驗は十一月二日より始めなければならないと言う結論に述した。
十二月の始め俺はきつと遊び暮すに違いない。忘れるな 今日の此の□言を!
[やぶちゃん注:底本は「忘れるな」で改行で続いているので、一字空けた。]
中村先生は御自分のレーゾンデートルを無視しておいでにはなりませんか。私のやうな弱氣の男でさへ過して行ける此の人生ですから。
明後日からの試驗を控へてお前は完全にやつたか。
否!
もし此の世で、中村先生の如くなる一番可能性の多い男は俺ぢやないかと思ふ。
十月二十七日
平田、奧村と龍田山に登る。
三千の俳句閱して柹三つ(子規)
たしかかうだつたかと思ふが、之を思ひ出してそぞろなる感慨に打たれる。
十月三十一目
今までの試驗は皆順調にやつて來た。何だか、此の大切な獨逸語を前に控へて少し氣持がゆるんだかと思ふ。
試驗を終へたら、本格的に詩の方面の勉强を始めようと思ふ。生れてから今までに集め得た俺の知識の少なさよ。詩の道に徽底しようと思ふ。
點檢後集會所に行く。
十一月七日
惱ましい。何故かう惱ましいのだらう。勉强をして居ると、すぐあれの事が心に浮んで來て、俺は一體龍南に何をしに來たのだらう。勉强しに來たんぢやないか。だのにあんな事に心を惑亂されてしまふなんて何と言ふ弱い心だらう。
しかし俺は遊戲的高校生活をその瞬間超越し得たんだ。冗談なんかとても言へない程の眞劍な□きつけた氣持なんだ。
堪まらなく惱ましい。昨日あんな事さえ起らなかつたならば、俺はまだ平平凡凡な生活を過し得たんだつたらう。しかし一番の生活は、かくの如き惱みもないしまた一層勉强に徹した生活だつたかもしれない。
刺激をかつては求めてやまなかつた俺ではなかつたか。
そしてあの事は、俺が妄想し待望した所のものではなかつたか。
俺は此の今、どうしたら良いのだらう。
そして此の結末はどうなるのだらう。
長い間長い間待設けて居た事が遂に……
[やぶちゃん注:「龍南」ここでは熊本第五高等学校の異名として使用している。第五高等学校の校友会の名称が「龍南會」であり、「熊本大学五高記念館」公式サイトの「五高の歴史〜生活/五高生と熊本の街〜」に、『「龍南」は龍田山の南という意味で、生徒の相談を受けた秋月胤永教授が名付けた』とある。この公友会の発行した雑誌『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(正式名称は『龍南會雜誌』)で、五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九年度には編集委員に名を連ねて多くの詩篇を発表している。私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を『梅崎春生 詩 「死床」 (初出形復元版)』から、総て、ブログで電子化注し終わっている。『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。]
十一月九日
惱み多き日。
夕飯もうまくなかつた。
龍田山に登る、スツカリ憂鬱になる。
十一月十五日
ああ日は落ちぬ有明の 綠をひたす波の果
不知火遠く夜は更けて 星光西にうつろへば
寄せてはかへす鄕愁の 胸にあふるる愁ひかな
神の怒りか大阿蘇の 煙はたぎる狂亂に
千里連なる山脈は 虛空に遠く影を引き
蒼茫はるか有明の 彼方に支那は遠ざかる
ほのかにゆるぐ哀愁の 淡き翅のうすみどり
ああ易水を忍ばする 悲愁の風にたたずめば
武夫原遠き草笛に そぞろにしめる心かな
むせぶが如き曠原の 草をば渡る秋風に
空行く雲の肅々と 遠鳴り低き足音や
落陽まさに色褪せて 煙は重う地に迷ふ
あふげば逢か聳え立つ 道き銀杏の追憶よ
閉せし過去の篝火に 劍も映えし壯麗も
やがては醒めん荒城の 盛枯のあとを問はんかな
さわれ果敢なき人の世の 長き旅路を龍南に
三年の翼今止めて 理想の鳥の影を追ひ
溢るる力止み難き 飛躍の力養わん
浦野氏の室を訪ねて之を呈す。
[やぶちゃん注:詩篇にはルビがあるが、がたがたして汚くなるので、ここで歴史的仮名遣に変換したものを纏めて以下に示すことにした。
・第一連二行目「不知火」に「しらぬひ」。
・第二連二行目「山脈」に「やまなみ」。
・第四連三行目「褪せて」の「褪」に「あ」。
・第五連一行目「聳え」の「聳」に「そび」。
・第五連一行目下段「追憶」に「おもひで」。
・第六連一行目「果敢なき」の「果敢」に「はか」。
「武夫原」は「ぶふげん」と読み、五高から現在の熊本大学に至る現在まで、同校グラウンドの呼称である。]
十一月二十三日
新嘗祭。
大友、奧村、奧平、平田、西鄕と熊本城に登る。三四郞に行く、ムゴウ疲れたり。晚憂鬱のとりことなる。
[やぶちゃん注:「西鄕」は恐らく同級生であった後の国文学者西郷信綱(大正五(一九一六)年~平成二〇(二〇〇八)年)であろう。
以上で底本の「昭和七年」パートは終わっている。]
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