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2021/07/30

伽婢子卷之七 雪白明神 / 卷之七~了

 

Yukisiromiyoujin1

 

Yukisiromiyoujin2

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。一枚目に使者の描いた横筋がないのが、少し残念。標題は「ゆきしろみやうじん」。]

 

○雪白明神

 

 長亨(ちやうかう)元年九月、將軍源義凞(よしてる)公、みづから軍兵を率して江州に發向し、坂本に陣をとりて、佐々木六角判官高賴(たかより)を攻めさせらるゝに、高賴、ふせぎかねて、城を落ちて、甲賀郡(こうかこほり)の山中に隱れ入りたり。

 高賴が郞等、堅田(かたゝ)又五郞といふものは、武勇ありて、力量、人に勝れ、然かも、常に佛神を敬まひ、後世《ごぜ》を願ふ心ざし、淺からず。「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」一返(へん)、「彌陀經(みだきやう)」一卷、念佛百返を以つて、每日の所作(しよさ)とす。

 已に、大將高賴、城を落ちければ、又五郞も、力なく、むかふ寄手(よせて)に切《きり》かゝり、終に大軍の中を切ぬけて、安養寺山の奧に落ち行《ゆき》たり。

 かくて、日、暮れたりければ、いづかたに出《いづ》べき道も、知らず。

 かたはらに、一つの藁屋(わらや)あり。

 谷陰に立《たち》ながら、内には、人、なし。

 まづ、此家に隱れ居(ゐ)たれば、軍兵、廿騎ばかりの音して、

「まさしく後ろ影は見えしぞ。さだめて、伊賀路(いがぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

といふを聞けば、我を討ちとめんとする追手の兵也。

 されども、隱れ居たる家には、目もかけず、やうやう、遠ざかり行く。

『今は、心安し。』

と思ふ所に、又、人の打ち過《すぐ》る音の聞えしかば、ひそかに窓より、覗(のぞ)き見れば、一人の女房、その齡(よはひ)四十ばかりなるが、勢(せい)、細く、高し。

 褐色(かちいろ)の中《なか》なれたる小袖着て、手に、美くしき袋、もちて、

「堅田又五郞殿は、こゝに在(おは)するや。」

といふに、又五郞、物をもいはず、忍び居(ゐ)たり。

 女房、打ち笑ひて、

「何をか、怖れて、忍び給ふぞ。少しも、苦しき事、なし。我はこれ、當國栗太郡(くりもとのこほり)におはします、『雪白(ゆきしろ)の宮《みや》』の御使ひとして、『君が心安くせん』とて、遣はされたり。ゆめゆめ、疑ひ給ふな。君、常に、慈悲深く、神佛を敬ひ、後世を求めて怠りなき故に、其の心ざしを感じて、『雪白の明神』、守り給ふなり。」

とて、すなはち、持ちたる袋の緖(を)をとき、燒餅(やきもちひ)、とり出《いだ》して、食(くは)せ、小き甁(かめ)に、酒を入れて、とり出して、飮ませけるに、又五郞、大《おほき》に飽(あき)みちて、かたじけなく、有難き事、譬(たと)へんかたなし。

 女房いふやう、

「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

とて、歸るか、とみえし、銷(けす)が如くに、失せたり。

 案の如く、夜半ばかりに、怪しき光り、ひらめき、輝きて、來《きた》る者、あり。

 又五郞、

『さればこそ。』

と思ひ、窓より、覗きければ、身のたけ、一丈あまりの鬼、赤き髮、亂れ、白き牙(きば)、くひちがふて、兩の角は、火のごとし。

 口は耳元までさけて、眼(まなこ)の光り、鏡の面(おもて)に朱をさしたるがごとし。

 爪は鷂(くまたか)の如く、豹(へう)の皮を腰當(こしあて)とし、直(ぢき)に内に駈(か)け入らんとするに、かの女房、庭の土に書きたる筋を見て、大《おほき》に怒れる。

 まなこのひかり、いなびかりの如く、ひらめき、口より、火を吐きて、立《たち》やすらひ、力足(ちからあし)踏みて、響(どよ)みける。

 其の有樣、身の毛、よだち、魂(たましゐ)きえて、恐しといふも、愚か也。

 鬼、すでに、筋を越(こゆ)る事、かなはず、怒りを抑へて、かたはらに立寄りし所に、軍兵(ぐんびやう)、又、十騎ばかり、追ひ求りて、

「又五郞は此家に隱れしと聞ゆ。出《いで》よ出よ。」

と、責めけるに、かの鬼、かけ出《いで》て、馬上の兵を摑(つか)み、馬を踏み殺して、食(くら)ふに、其外の郞等(らうどう)共は蛛(くも)の子を散らす如くに、足にまかせて、にげうせたり。

 夜、已に明方になりたれば、鬼も消えうせて、物靜か也。

 立出《たちいで》て見れば、馬のかしら、人の手足、血まじりに、散(ちり)みだれ、よろひ・甲(かぶと)・太刀、皆、ひき散らしてあり。

 又五郞、終に逃るゝ事を得て、それより、伊勢にくだり、白子(しろこ)と云ふ所より、舟に乘り、駿州にゆきて、今川氏親(うぢちか)を賴みて、身を隱し、後に、その終はる所を知らず。

 

伽婢子卷之七終

 

[やぶちゃん注:「長亨(ちやうかう)元年」一四八七年。正しい漢字は「長享」(ちょうきょう)で、歴史的仮名遣は「ちやうきやう」。

「源義凞(よしてる)公」室町幕府第九代将軍足利義尚(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年:在職:文明五(一四七四)年から没年まで)のこと。この翌年の長享二(一四八八)年)に改名して義煕と称した。当該ウィキによれば、ここに出る長享元年九月十二日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約二万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(「長享・延徳の乱」)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの一年五ヶ月もの間、近江鈎(まがり:現在の滋賀県栗東市(りっとうし)。ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)への長期在陣を余儀なくされた(「鈎の陣」)。そのため、「鈎の陣所」は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われた。彼は長享三年三月二十六日、近江「鈎の陣」中で病死した。享年二十五(満二十四歳)であった。死因は過度の酒色による脳溢血とされるが、荒淫のためという説もある、とある。

「坂本」不詳。琵琶湖南西岸に知られた地名(比叡山の東方の登り口)としてあるが、ここでは位置的におかしい。「新日本古典文学大系」版脚注でも注をしていない。

「佐々木六角判官高賴(たかより)」(?~永正一七(一五二〇)年)は大名。近江国守護佐々木(六角)久頼の嫡子。文明一五(一四八三)年には大膳大夫となり、その時既に高頼を名乗っている。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)においては、西軍(山名持豊方)に組みし、東軍(細川勝元方)の京極持清と結んだ従兄の六角政尭(まさたか)や、江北の京極氏と敵対した。近江国守護職については、たびたび、解任と補任を繰り返すが、これは「応仁の乱」による影響や、高頼が幕命に従わず、領国経営に傾倒したためであった。戦国大名化する六角氏による所領横領などの行為は、当然、幕府の許すところではなく、幕府はたびたび高頼討伐の軍を近江に出した。この年の将軍足利義尚の出陣は、最大規模のもので、長期に亙った。しかし、高頼は、その都度、巧みに甲賀郡や伊勢国に落ち延び、したたかに勢力を持ち直しては近江に君臨したのであった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の居城であった観音寺城はここにあった。

「甲賀郡(こうかこほり)」現在の滋賀県甲賀市

「堅田(かたゝ)又五郞」近江堅田(現在の琵琶湖南西岸の大津市堅田)に由来する姓であろう。

「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」「法華経」の中野「觀世音菩薩普門品第二十五」。

「彌陀經(みだきやう)」「佛說阿彌陀經」一巻。鳩摩羅什(くらまじゅう)訳。

「安養寺山」現在の滋賀県栗東市安養寺にある。標高二百三十七メートル。ここを山伝いに南西に向かえば、伊賀を経て、主君の落ちのびた甲賀へは行けるが、しかし、この山の北麓にある安養寺は、この時、将軍の本陣が最初に置かれた場所で(「鈎の陣」へは後に移った)、これはもう、幕府軍のテリトリーに入ってしまった形になり、甚だ「危険がアブナいよ」。

「まさしく後ろ影は見えしぞ」「さっき、確かには不審な者の後ろ姿を見かけたぞ!」。

「さだめて、伊賀路(いせぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

「勢(せい)」身の丈(たけ)。背(せい)。

「褐色(かちいろ)」染色の名で、中世以降、紺色乃至は黒みのある藍色を指す。

「中《なか》なれたる」ほどよく着馴れた感じのする。妙に新品だったりして目立たないいのである。寧ろ、その方が自然で、神の使者と聴いて、構えてしまい、警戒しない感じもしないでもない。

「栗太郡(くりもとのこほり)」滋賀県の旧栗太郡(くりたぐん:現在の草津市・栗東市の全域と大津市及び守山市の一部を含む広域郡であった)は古くは「栗太」「栗本」とも記され、「くりもと」と読んでいた。現在は郡そのものは消失している。

「雪白(ゆきしろ)の宮《みや》」現在の滋賀県栗東市高野にある高野神社。安養寺山の東北直近。公式サイトの「御由緒」に、『秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された栗太八座に一する位階ある式内社である。社伝によると、天智天皇の御代以降』、『高野造』(「たかののみやつこ」か)『なる人が』、『この地一帯を開墾開発し』、『高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間』(七〇八年~七一四年)『我が国で、最初に鋳造された「和銅開珍」の鋳師(鋳銭師)高野縮禰道経』(「たかのすくねみちつね」か)『一族が住んでいたことは有名であり、それ等の人々の氏神として祖先を祀ったのが、当社である。中世よりは、通称「由岐志呂宮」』(「ゆきしろのみや」と読める)『又「由岐宮」』(「ゆきのみや」と読める)『として尊崇されてきた。これは大同元年』(八〇六年)、『大嘗祭の悠紀方』(ゆきかた:大嘗祭で「悠紀の国」(神饌の新穀を奉るように卜定(ぼくじょう)によって選ばれる国。平安以後は近江国に一定するようになった)の神事の行なわれる東方の祭場。また、そこに関係する人々や事物を指す)『として新稲を進納したことに由来する。南北朝時代』、『戦火により社殿類焼するが、氏子等』が『仮殿を営み』、『祭祀十年余経て』、貞治元(一三六二)年・天文二(一五三三)年・寛永七(一六三〇)年と『改築修造を重ね』、天保三(一八三二)年に『現在の社殿を建立し』たとある。

『女房いふやう、「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」』どうもピンとこない箇所である。ここは錯文が疑われる。則ち、

   *

 女房、此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

   *

が正しいのではないか?

「鷂(くまたか)」この漢字「鷂」は現在のタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指し、「くまたか」という読みの方は、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis で種が異なる。ここは迫力から圧倒的に後者であり、だとすれば、漢字は「鵰」である。(但し、「鵰」の漢字は広義の大型猛禽類としてのワシをも指す)。

まあ、順番に、私の、

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」

を見て戴くのがよかろう。因みに、先般、電子化注したばかりの、

「日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹」

も参考になると思う。お暇な方は見られたい。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でも『鵰の誤り』とする。幾ら国文学的注とはいえ、「鷂」が何を指すかを示さないのはいかにも不親切である。

「豹(へう)」食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus 。丑寅の「トラ」としないところが、ナウい感じがする。

「力足(ちからあし)」「地團駄・地團太」(ぢだんだ:元は「地蹈鞴」(ぢたたら)の音変化への当て字)で、足で地を何回も踏みつけること。

「響(どよ)みける」使者の女の引いた筋の向こう側から、大声を立てて雄叫びを挙げながら、しかし、そこから前に進めずにいるのである。地団駄と絶妙のマッチングである。にしても、女の筋は呪的結界であることは判るが、この鬼は、どのようにして、どこから誰が遣わした者なのか、その辺りは必ずしも、分明ではないのが、ちょっと不満な気もするのである。

「魂(たましゐ)」元禄版の読み。歴史的仮名遣は「たましひ」が正しい。

「白子(しろこ)」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。白子港を持つ水産業の町で。江戸時代には紀州藩が手厚く保護し、伊勢湾内の物流の中核として発達した。

「今川氏親(うぢちか)」(文明三(一四七一)年或いは文明五(一四七三)年~大永六(一五二六)年)。父は駿河守護職今川義忠、母は北条早雲の妹北川殿。文明八年の父の不慮の死により、暫くの間は駿河小川城に避難したが、この長享元(一四八七)年、伯父に当たる北条早雲の援助で当主として国政を執り始めた。この時の発給文書に印文不詳の印判を捺しているのが、戦国期武将印判使用の第一号として知られている。また、検地の施行や分国法「仮名目録」の制定など、守護大名から戦国大名への脱皮を図っている。明応三(一四九四)年から、遠江への侵入を開始し、文亀元(一五〇一)年には、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を撃破し、永正一四(一五一七)年、遠江を平定した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

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