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2021/07/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)

 

 是ら何れも現存の人や物を詛ふのだが、回敎には死んだ人を詛ふのが有る。波斯(ペルシア)人は、每歲マホメツトの外孫フツサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 556) 蓋し回敎にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フツサインを正統の回主とするに、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]阿非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す、因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波斯人惡人を訕る[やぶちゃん注:「そしる」。]に彼はオマーだ抔と言ひ、祈禱の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベツクルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811, tom. Ix, p.36)

[やぶちゃん注:「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」ローマの貴族で作家・音楽家にして旅行家であったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)の旅行記。Internet archiveのイタリア語原本のこちらが指示ページであるが、どうもここに書かれた内容はそこにはない。ページが違うようである。幾つかの固有名詞で調べてみたが、よく判らない。なお、リンク先のタイトル、

‘Viaggi di Pietro della Valle, il pellegrino : descritti da lui medesimo in lettere familiari all'erudito suo amico Mario Schipano, divisi in tre parti cioè : La Truchia, La Persia, e l'India, colla vita dell'autore’

を機械翻訳を参考にすると、

「巡礼者ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅――学者にして親しい友人であったマリオ・スキパノに宛てた書簡で、著者の生涯とともに、トルキア・ペルシャ・インドの三部に分かれる。」

といった意味らしい。

「マホメツトの外孫フツサインが殺された」六八〇年十月十日に発生した、ウマイヤ朝軍のシーア派討伐「カルバラーの戦い」のこと。ウマイヤ朝カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体・国家の指導者にして最高権威者の称号)・ヤズィードの派遣した軍勢と宗祖預言者ムハンマドの外孫フサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いで、フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(六二六年~六八〇年:父はムハンマドの従兄弟で養子となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(六〇〇年頃~六六一年:イスラム教第四代正統カリフ(在位六五六年~六六一年)でシーア派初代イマーム(イスラム教の公的に認定された「指導者」の意)で、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー)が虐殺されたことを指す。

「追弔大會」アーシューラー(ペルシア語ラテン文字転写:Âshurâ)。これは本来はヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の十日目を指すが、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ウィキの「アーシューラー」によれば、『シーア派の信徒の間でアーシューラーはイマーム・フサインが殉教した日として特に重要視されている』。『ムハンマドの死から』五十『年後、ヒジュラ暦』六一『年アーシューラーの日(ユリウス暦』六八〇年十月一日)『に、初代イマームアリーと預言者の娘ファーティマの次男であり、シーア派の人々から第』三『代イマームとみなされるフサインが、現在のイラク、カルバラー付近の戦場でウマイヤ朝の軍隊によって殺害された(カルバラーの戦い)。シーア派の説によれば、フサインは、彼を指導者として推戴することを望むシーア派の人々の求めに応じ、父アリーの旧本拠地クーファに向かう途上、これを阻止しようとするウマイヤ朝カリフのヤズィード』Ⅰ『世の手にかかって殺されたということになっている。このため』、『シーア派の人々は、フサインをウマイヤ朝の手にかけさせてしまったことを哀悼し、タアズィーヤと呼ばれる殉教追悼行事を行うようになった』。『アーシューラーのタアズィーヤでは、フサインの殉教を哀悼する詩の朗読や、殉教したときの様子を再現する宗教劇が上演され、人々はフサインの死を大声で喚き、涙を流して嘆き悲しむ。さらに、フサインの棺を模した神輿が担ぎ出されたり、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる』。『宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、イラン革命においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った』とある。

「オマー」不詳。ウィキの「カルバラーの戦い」によれば、『ヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている』とあるが、ヤズィードの名や別称にはオマーに似たものはない。

「Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811」フランスに生まれ、後にイギリスへ亡命した商人ジャン・シャルダン(Jean Chardin 一六四三年~一七一三年:フランスのパリに富裕な宝石商の息子。フランスでは少数派だったキリスト教プロテスタントのカルヴァン派に所属していたため、身の危険を感じて、イギリスに移住し、王宮付き宝石商となり、チャールズⅡ世によりナイトの爵位を得た)は、二度、ペルシアへ旅行しており、一度目は一六六四年で、リヨンの商人とともにインドとペルシアへ向い、滞在中にサファヴィー朝王アッバースⅡ世の死去とスレイマーンⅠ世の即位に際会している。一六七〇年にフランスに帰国すると、「ペルシア王スレイマーンの戴冠」を出版したが、フランスにいてもプロテスタントでは出世が望めぬことから、一六七一年、再度、ペルシアへ出発し、イスタンブール・グルジアを経由して、一六七三、年ペルシアに到着、その後も商売のため、インドとペルシアを行き来し、最終的には、一六八〇年に喜望峰経由でフランスに帰国した。十四年余り東方で過ごし、ダイヤモンドなどにより、大量の利益を上げた一方、ペルシア語なども習得していて、現地人との交流も深かった。二度目の旅行から帰った後、イギリスの東インド会社に多額の出資を行ったが、役員選挙では落選している。そのためか、弟と新会社を設立し、一方では東インド会社の代表者としてオランダに赴任したりしている。一六八二年には王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society:ロンドン王立協会のフェロー・シップ(会員資格))に選出されている。一六八六年には二度目のペルシア旅行に関する「旅行記」を出版し、一七一一年までに、残る部分の旅行記を刊行している。当時、殆んど知られていなかったペルシアに関する旅行記は、当時大きな反響を呼んだ(当該ウィキに拠った))のその旅行記。Internet archiveのこちらで原本が見られるが、指示ページはここだが、これまた、どうも違うような気がする。幾つかの単語で調べてみたが、よく判らない。なお、この旅行記は日本語サイト「シャルダン 17世紀ペルシア旅行記図録 デジタルアーカイブ(Atlas of Chardin's Voyages from 17th-Century Persia Digital Archiveとして、図版を見ることが出来る。画像が非常に大きく、しかも美麗である。是非、見られたい。

「アブベツクル」アブー・バクル・アッ=スィッディーク(五七三年~六三四年)のことであろう。初代正統カリフ(在位六三二年~六三四年)で、預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリム(アラビア語で「神に帰依する者」の意で「イスラム教信者」のこと)であり、「カリフ」、則ち、「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」を名乗った最初の人物。但し、当該ウィキによれば、『アブー・バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では』、『本来』、『預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある』とある。

「オスマン」オスマン帝国のオスマン家。オスマン帝国は例えばイラクをスンニ派の住民を介して支配していたという。]

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