甲子夜話卷之六 34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事
6―34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事
松平出羽守隱居、南海と稱せしは、茶事に名高く、且學者の人なり。出入の坊主衆某も、茶事に達したるを以て、常に懇遇なりしが、或時某が別宅へ日を訂して茶讌に赴んと、南海約せられければ、茅屋の光輝これに過ずとて、某善で諾す。その別宅は東山の根岸にありける。其日に及び、約期違はず南海訪問せられしに、門も鎖し住居も閉戶して塵も拂はず。從臣門番人へ尋れば、一向に知らずと答ふ。從臣の中一人、かねて某が茶室に至りし者ありて、自ら路次に入りて見れば、蛛網樹枝に纏ひ、通行すべきやうも無し。扨は日を誤訂したることよとて、君臣とも興を醒して、門を出行く。この時、小路の橫徑より、某蓑笠の形にて網を肩に掛け、從僕兩三、大なる桶を荷ひ來り、南海を見てこはいかにと云ふに、相共に驚き、今其宅に至り、しかじかなれば歸る所なりと云。某恐懼して、今朝より荒河へ鯉打んとて罷りしが、生憎不獵にて遲刻し、無興なりしことを頻りに陳謝し、何とぞもとの宅地に戾り玉へと乞へば、南海も止事を得ず、さらばとて立返らる。某先に立案内して、今度はかねてありし住居より、畑を越、遙か奧にて、樹竹生茂れる蔭に、新に設たる路次へぞ案内しける。飛石は新らしき土俵を以て、おもしろく道を取り、手水所は白木の湯桶にて、數奇屋一切新規に造作し、其席に入れば、白木の爐ぶちには釜かゝりて、はや勝手口より某茶具を持出るに、水指も建も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の今燒にて、茶を勸め、會席のときの椀も、皆陶器にて土器蓋、膳盆の類、悉皆白木造りにして、鯉一式の料理組なりしには、流石の南海も、意表に出て驚歎せられ、尤も興に入りしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「松平不昧【出羽守】」出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる。但し、「南海」とあるのは治郷の実父で先代藩主であった松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居後に入道した際の法号であるから、誤りである。
「坊主某」茶「坊主」の「某」(なにがし)。
「赴ん」「おもむかん」。「東洋文庫」版は『ゆか』とルビする。
「訂して」日時を取り決めて。
「茶讌」「ちやえん」。茶の会を設け、打ち解けて寛いで語り合うそれを指す。
「東山の根岸」「とうざんのねぎし」。現在の東京都台東区根岸(グーグル・マップ・データ)。「東山」は、江戸時代、ここは武蔵国豊島郡金杉村の一部であったが、正保三(一六四六)年に東叡山寛永寺領となったことによる。また、ウィキの「根岸(台東区)」によれば、金杉村の中央以南の地の字名(あざめい)は、旧村の南部を「根岸」とし、西北及び新田部分を「杉ノ崎」、東北を「中村」、そのさらに東北を「大塚」と分けて呼んだが、「根岸」が最も南側に当たるため、江戸では、これらの四つの地を纏めて「根岸」と呼んだ、とある。
「尋れば」「たづぬれば」。
「蛛網」「くも(の)あみ」。
「橫徑」「よこみち」。
「其宅」「そこたく」。そなたの屋敷。
「荒河」荒川。
「鯉打ん」「こひ、うたん」。
「無興」(ぶきやう)「なりしこと」は、不興な思いをさせてしまったこと。
「止事を得ず」「やむことをえず」。
「某先に立案内して」「某(なにがし)、先に立ち、案内して」。
「畑を越」「はたをこえ」。
「手水所」「てうづ(ちょうず)どころ」。手を洗うそれ。
「建」「けん」、茶道具の建水(けんすい)。茶碗を清めたり、温めたりしたときに使った湯や水を捨てるための入れ物。「こぼし」とも呼ぶ。形状は筒型・桶型・壺型・碗型などさまざまであるが、湯を捨てやすいよう、口は大きく開いているものが殆んどである。
も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の
「今燒」「いまやき」。広義には、古い伝統的なものや骨董の名品に対して、新しく焼かれた焼き物の謂いで、茶の湯では、歴史的には利休時代の「楽焼き」などを指すものの、慶長年間(一五九六年~一六一五年)には、茶入れ・黒茶碗・香合なども「今焼き」と呼ばれた。ここは、妙に御大層な逸品というわけでなく、各地の新しいもので、原義でよかろう。寧ろ、構える感じになる名器などでないところが、逆に気をつかうことなく、楽しく楽しめることを不昧は喜んだのであろう。
「土器蓋」「どきふた」か。素朴な素焼きの椀物などに被せてある蓋。
「悉皆」「ことごとく、みな」。
「料理組」「れうりぐみ」。献立が鯉尽くしであったのである。
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