「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (1)
[やぶちゃん注:本篇初出は大正四(一九一五)年四月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十卷四号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。
初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は引用古書(「古事記」「古事記傳」など)を調べて訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない。また、上代歴史的仮名遣文脈の引用部はほぼ返り点もない白文であり、甚だ読み難いので、可能な限り原本に当たって訓読した。しかし、それを本文内に入れると、熊楠の本文が甚だ読み難くなるので、今回は特異的に「選集」が恣意的に成形された段落(底本はベタで一段落も成形されていない)を参考に、仮に段落を作り、その直後に纏めて挿入して示し、そのソリッドな注の後は一行空けた。必要と考えた短い割注も入れてある。
因みに、「詛言」は「そげん」で(和訓としては「古事記」で「とこひい」・「のろひごと」などの訓が試みられている。「とこいひ」「とこい」という語は、古くは「呪詛」と感じを当て、古神道に於いて、神に祈って他人に災禍を蒙らせようとするブラック・マジック、「呪(のろ)い」を指す。因みに、そのために使う物を「詛戶(とこひど)」とも言った。恐らくは本邦のもっと古い原始社会に於いて発生したもので、シャーマンの呪術に関わるものが淵源と思われる。]
詛 言 に 就 て
人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に、誓言(英語で Swearing)の事を述べたが爰には詛言(英語で Curse)に就て少しく述よう。詛言とは他人が凶事に遭へと自分が望む由罵り言ふので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ[やぶちゃん注:ママ。]」抔いふのがそれだ。今日何の氣もなくそんな語を吐く人が有る樣だが、實は甚だ宜しくない。英米に最も盛んなゴツデム(神汝を罰す)又デム何某(罰當りの何某)抔は、嚴戒の神名を呼ぶ上に詛を兼ねた者故、極めて聞苦しい。是も彼方[やぶちゃん注:「あちら」。]で幼年から口癖になって止められぬ人が多いらしい。然し往古は詛言は必ず詛する人の望み通りの凶事を詛はれた[やぶちゃん注:「のろはれた」。]者に生ぜしむると信じ隨つて甚だ詛言を怖れた。例せば古事記に天若日子[やぶちゃん注:「あめのわかひこ」。]葦原中國[やぶちゃん注:「あしはらのなかつくに」。この地上世界の呼称。]に到て下照比賣[やぶちゃん注:「したてるひめ」。]を娶り八年に至るまで復奏[やぶちゃん注:「かへりごと」。高天原への報告の上奏。]せず。雉名鳴女[やぶちゃん注:「きぎしのなきめ」。キジの人神化。]天神の命を奉じ視に往しを天若日子射殺し、其矢天の安河[やぶちゃん注:「あまのやすのかは」。]の河原に達す。之を檢して[やぶちゃん注:「けみして」。]高木神[やぶちゃん注:「たかぎのかみ」。「高御產巢日神(たかみむすびのかみ)」の異名。]言く、是は天若日子に賜ひし矢也と。卽ち諸神に示し、今此矢を返し下さんに、若し天若日子命を違えず[やぶちゃん注:「たがえず」。ママ。]惡神を射し矢の來つるならば此矢彼れに中らじ。若し彼れ邪心あらば此矢に麻賀禮(まがれ)と言て、矢の穴から其矢を返すと天若日子の胸に中つて死んだと有る。本居宣長言く、「先づ萬づの吉善(よき)を直(なほ)と云に對ひて[やぶちゃん注:「つひて」。ママ。]萬の凶惡[やぶちゃん注:「あしき」。]を麻賀[やぶちゃん注:「まが」。]と云ふ。故に御祓の段に禍(まが)[やぶちゃん注:以上の「(まが)」はルビではなく、本文。]と書けり。扨其は體言なるを用言にしては麻賀流と云ふ。物の形の枉曲るも其中の一也。されば麻賀禮と云ふは、言は凶くなれ[やぶちゃん注:「ことはあしくなれ」。]と云ふ事にて、意は乃ち死ねと詔ふ也(麻賀禮、卽ち今の「くたばれ」だ)。書紀には其時天神乃取矢而呪之曰、若以惡心射者、則天稚彥必當遭害云々、此當遭害を「まじごれなむ」と訓るは[やぶちゃん注:「よめるは」。]御門祭詞に天能麻我都比登云神乃(あめのまがつびといふかみの)言武(いはむ)惡事爾(まがごとに)相麻自許理(あひまじこり)云々と有るに同じ。上に曰呪[やぶちゃん注:「呪(とこ)ひて曰はく」。]と有る呪は字書に詛也と有る意にて、俗に所謂麻自那布(まじなふ)なれば麻自許流(まじこる)はまじなはるゝ也。凶くまじなふを俗言にまじくると云も是也。さればかの當選害と此の麻賀禮とは、言は別なれども末は一つ意に落めり[やぶちゃん注:「おつめり」。]。故に當遭害と書かれたる字は麻賀禮に能く當れり(古事記傳十三)。
[やぶちゃん注:「人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に」「誓言の事を述べた」これは「鼈と雷、附たり誓言に就て」という記事(初出は見ることが出来ない)。これは本書の後に出る「鼈と雷」の第「三 附たり誓言に就て」の本文である。先に読まれたい方は底本のここから読める。
「誓言(英語で Swearing)」スゥェリング。「誓い」の意もあるが、ここは「罵り・悪たれ口(ぐち)」の意。
「詛言(英語で Curse)」カァース。「人などに災厄や不幸が降り懸かるようにと呪い、罵る」の意の動詞。
「ゴツデム(神汝を罰す)」goddamn。ガァデッム。「God」(神が)+「 damn」(人を永遠に罰する。地獄に堕とす)。
「デム何某(罰當りの何某)」Damn you!(「こん畜生め!」)・Damn it!(「クソ!」「いまいましい!」)等。
「天若日子……」以下の話はウィキの「あめのわかひこ」を、まず、参考に読むと、すっきり読み通すことが出来る。
「まじごれなむ」「古事記傳」では『麻自許禮那牟』の漢字に以上の読みがルビで振られてある。
「故に」「古事記伝」の原文での読みは「故れ」(かれ)である。これは「古事記」に多用される「そこで」「だから」の語である。
「古事記傳十三」以上は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部(見開き中央の右ページの後ろから二行から)を見られたい。]
又書紀卷二に、天津彥火瓊々杵尊、大山祇神の女木花開耶姬の美貌を見初め召れしに、大山祇其二女姊妹を進む。皇孫姊の方は醜くしとて妹木花開耶姬のみ幸し、一夜で孕ませ玉ひしかば姉磐長姬大慙而詛之曰、假使天孫不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存、今既然、唯弟獨見御、故其兒必如木花移落、一云、磐長姬耻恨而唾泣曰、顯見蒼生者、如木花之俄遷轉、當衰去矣、此世人短折之緣也、古事記には此時大山祇神長女が納れられざりしを恥じて詛(のろ)うたので、今に至るまで天皇命等の御命長くまさゞる也と有る。
[やぶちゃん注:読みが五月蠅くなるばかりなので、煩を厭わず、訓読を以下に示す。昭和八(一九三三)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読 上巻」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)を参考にしたが、必ずしもそれに従わずに判り易く変えてある。一部で送り仮名・句読点・記号を変更・追加した。
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天津彥火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、大山祇神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)木花開耶姬(このはなさくやひめ)の美貌を見初め召れしに、大山祇、其の二女姊妹を進む。皇孫、「姊の方は醜くし」とて、妹木花開耶姬のみ、幸(みとあたへ/め)し、一夜で孕ませ玉ひしかば、姊の『磐長姬、大いに慙ぢて、之れを詛(とこ)ひて曰く、「假使(もし)天孫(あめみま)、妾(やつこ)を斥けずして御(め)さましかば、生めらむ兒は壽(いのち)永きこと、磐石之常存(ときはかきは)のごとくなりまし。今は既に然らず、唯、弟(いろと)のみ獨り御(め)せり。故(かれ)、其の生めらん兒、必ず、木の花の移(ち)り落つるがごとくならん。」と。
一に曰く、『磐長姬、恥ぢ恨みて、唾(つば)泣(いざ)ちて曰く、「顯見蒼生(うつしきあをひとぐさ)は、木の花のごとく、俄かに遷轉(うつろ)ふがごとく、當に衰へ去るべし。」と。此れ、世人の短折(いのちみぢか)き緣(えにし)なり。』と。
*]
伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男、天の逆手を拍て呪(のろ)ふ事見ゆ。本居氏說に、上古は呪を行ふに吉事凶事共に天の逆手を打つたが、伊勢物語の頃は人を詛ふのみに用ひたらしいと(古事記傳十四)上古の呪ひには斯る作法も種々有ただらうが追々作法を廢して口許りで詛言を吐く事と成たは同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに、何の仇にか思ひけん、よしや草葉のならんさが見んと云ひければ、男、「罪もなき人をうけひば忘れ草おのが上にぞおふと云なる」。是は一話一言十八に、童部の誓言に大誓文齒腐れ、親の頭に松三本と云るは、頭に松を生ずる事には非じ、墓の木の拱せるを云るなるべしと有る如く、自死し墓の上に忘れ草が茂れと詛ふためだろ、忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ。それから大分後建長四年に成った十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に、女房車をやりて過ける、牛飼童の、詛(のろ)ひ言(ごと)しけるを聞きて、彼車を止めて尋ね聞ければ、ある殿上人の車を女房達の借て物詣でしけるが、約束の程過て、道の遠くなるを腹立つなりけり。大貳言れけるは、女房に車貸す程の人なれば、主はよも左樣の情なき事は思はれじ己れが不當にこそ迚、牛飼をば縛らせて主の許へ遣けり云々」。是は今日歐米の車夫抔が客を侮り辱めて詛言する如く、吾邦にも中世下等人は動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば輕々しく詛言した證でも有れば、又歐米と等しく其頃は詛言者を犯罪として縛り罰し得た徵[やぶちゃん注:「しるし」。]でもある。
[やぶちゃん注:「伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男……」第九十六段の以下。
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昔、男ありけり。女をとかく言ふこと、月日、經にけり。石木(いはき)にしあらねば、『心苦し』とや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。
その頃、水無月の望(もち)ばかりなりければ、女、身に、かさ、一つ二つ、いできにけり。女、いひおこせたりける。
「今はなにの心もなし。身にかさも一つ二ついでたり。時も、いと暑し。少し秋風吹きたちなむ時、かならずあはむ。」
と言へりけり。
秋まつ頃ほひに、ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり。さりければ、女の兄(せうと)、にはかに迎へ來たり。さればこの女、かへでの初紅葉(はつもみぢ)をひろはせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。
秋かけて言ひしながらもあらなくに
木の葉ふりしくえにこそありけれ
と書きおきて、
「かしこより、人おこせば、これをやれ。」
とて、いぬ。
さて、やがてのち、つひに今日まで知らず。良くてやあらむ、惡しくてやあらむ、往(い)にし所も知らず。
かの男は、天(あま)の逆手(さかて)を打ちてなむ、のろひをるなる。
むくつけきこと、人ののろひごとは、負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ、「今こそは見め」とぞ言ふなる。
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「かさ」は汗疹(あせも)。『ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり』「あちらこちらから、『例の男の所へ行こうとする女がいるらしい』という噂が立った」の意。「書きつけておこせたり」は後の「と書きおきて」の衍文であろう。「かの男は、天の逆手を打ちてなむ、のろひをるなる」「かの男の方はといえば、自身が訪ねなかったことを棚上げしておき、逆に、天の神に向かって普通と異なった尋常ではない方法で手を打っては(後述する)、この女のことを呪い続けて日を暮らしておるということである」の意。「むくつけきこと」何とも不気味で気持ちの悪い話。「今こそは見め」『「今に見ていろ! 呪いが効くぞ!」と、かの男は言うておるとのことである』の意。
さて、ここで熊楠はこの「天の逆手」を出すために、これを出したわけだが、これの元はは「古事記」の「神代巻」中の、所謂、「国譲り」のシークエンスで、八重事代主神が、
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恐之。此國者立奉天神之御子。卽蹈傾其船而。天逆手矣。於靑柴垣打成而隱也。
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「恐(かしこ)し。この國は謹しんで天つ神の御子に獻(たてまつ)りたまへ。」といひて、その船を蹈み傾けて、天(あま)の逆手(さかて)を靑柴垣(あをふしがき)にうち成して、隱りたまひき。(武田祐吉氏の訓読に基づく)
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である。しかし、この場合の「天の逆手」は、少なくとも原型ではどうであったかは別問題として(私は容易に「国譲り」をするこの場面が恐ろしく奇体に思われ、本来の国つ神の原神話は全く違うものと考えている)、表面上・展開上では、ある対象を呪詛する言葉なんぞではなく、乗っている船を青柴垣に変じせしめるための呪文のように見える。しかし、考えて見れば、この「国譲り」という深刻な事態のなかで、たかが、船を青柴垣に変容させるために御大層な呪文や印が必要だったとは、これまた、さらさら思えない。これは私には非道な天つ神族の不当な強要・侵略・掠奪をした相手を呪詛した原神話と残存と読む方が何もかも腑に落ちるのである。話を戻す。そもそもが、この「古事記」のこの「天の逆手」がいかなるものであったかは、古くから異説が多く、現在でも定説がない。よく知られものが、本居宣長の「古事記伝」の十四で、まさにこの「伊勢物語」のこの部分を引き(以下は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部を視認した)、
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天逆手(アマノサカデ)は、「伊勢物語」に、『天(アマ)の逆手(サカテ)を拍(ウチ)てなむのろひ居(ヲル)なるとあると、相ヒ照して思ふに、古へに逆手を拍て、物を咒(カシ)る術(ワザ)【俗にいふ麻自那比(マジナヒ)なり、】のありしなり。さて彼ノ物語なるは、人を詛(ノロ)ふとてしけるを、上ツ代には、然(サ)る惡事(アシキコト)のみならず、吉善事(ヨキコト)にも渉(ワタリ)て爲(シ)けむこと、此(コヽ)の故事(フルコト)にて知れたり、此(コヽ)は船を柴垣(フシカキ)に變化(ナサ)むための呪術(カシリ)なり。さて逆手(サカデ)を拍(ウツ)と云ふ拍状(ウチザマ)は、先つ常に手を拍ツは、掌(タナウラ)をうつを、此レは逆(サカサマ)に翻(ウチガヘ)して、掌を外(ト)になして拍ツを云ふか、又は常には兩(フタツ)の掌を同じさまに對(ムカ)へて拍ツを、此レは左と右との上下を、逆(サカサマ)にやり違(チガ)へて拍ツを云か、此ノ二ツをか、此ノ二ツの間(アヒダ)今定めがたし。
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と記した後、さらに、僧契沖と賀茂真淵の両説を示しつつも、それらは誤りであるとし、結局は、具体的にどのような手の打ち方(手の打ち方なのかどうかも実は判らない)であるかは不詳とするのである(長いので、カットした。先のリンク先で以下を読まれたい)。ただ、呪詛として考えると、「後方手(しりへで)」は、手を後ろの方に回して、相手に判らぬように呪文を発することと私は同義ではないかと考えている。民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)の昭和五(一九三〇)年大岡山書店刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代」「第五章 巫女の作法と呪術の種類」「第一節 巫女の呪術的作法」(「巫研 Docs Wiki」の電子化)にある「一 逆手」でも最後に中山氏は、この「古事記」の「天の逆手」は『凶事にのみ用いる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、「日本書紀」の一書に、海神が彦火々出見尊に教えて『此の鈎を汝の兄に与へたまはん時に、即ち貧鈎(マチチ)、滅鈎(ホロビチ)、落薄鈎(オトロヘチ)と称へ、言ひ訖りて後手(シリヘデ)に投与へたまへ、向ひてな授けたまひそ』とあるように、これは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれていたことが知られる。「釈日本紀」巻八に『今世厭(マジナフ)物之時、必以後手也』と述べたのも、決して虚構だとは想われぬ。私は逆手は此の後手と同じほどの内容を有するものと信ずるのである』と述べておられる。
「同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに……」「伊勢物語」第三十一段。
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むかし、宮の内にて、ある御達の局(つぼね)の前を渡りけるに、なにのあたにか思ひけむ、
「よしや草葉よ、ならむさが見む。」
といふ。
男、
罪もなき人をうけへば忘れ草
おのが上(うへ)にぞ生(を)ふと言ふなる
と言ふを、ねたむ女もありけり。
*
「御達」普通の女房たちとはちょっと違った上位の別格の女房。「あた」仇。ここは他者に対して害を成す悪しき存在といった謂い。ここは局の前を通った「男」を指す。「よしや草葉よ、ならむさが見む。」「まあ、仕方がないわねぇ、今は見栄えもいいけれど、所詮、草花に過ぎぬもの、末はどうなるか、分からないわね、その哀れなそれを見届けてやるわ。」。但し、角川文庫の石田穰二訳注「新版 伊勢物語」(昭和五四(一九七九)年刊)の補注によれば、これは室町後期の三条西実隆の「伊勢物語直解」に、「続(しょく)万葉集」(「古今和歌集」の「真名序」に名が見える歌集。同和歌集の成立過程で諸家集や古歌を集めて献上されたもので、「古今集」編集の一材料であったかとされる。現存しない)の巻八にある、
忘れ行くつらさはいかに命あらば
よしや草葉よならさむを見む
の下句が元であるとされ、『歌意は、恋しい人を忘れようとするつらさはいかばかりであろうか、もしつらさに堪え切れずに死ぬおうなことがないならば、ままよ、たかが草葉に過ぎないことだ、自分の忘れ草がどのように生い繁るか、それを見届けよう、となる。したがって、この物語では、この歌の下句を借りて、(あなたは私を忘れたが)あなたの心の中の忘れ草がどのように生い繁るか、見届けましょうよ、の意となろう』とされ、そうした恨み節(呪詛)に対して「男」が詠んだ歌の意は(現代語訳部分から引用)、『罪もない人を呪うとわが身の上に負う』(太字は原文は傍点。以下同じ)『というではありませんか、忘れ草はあなたにこそ生える――生う――ことになりますよ』となり、「ねたむ女もありけり」は恨み言を鏡返しで『うまくしてやられたと思う女もいたことだった』と訳されてある。
「一話一言十八」「一話一言」は太田南畝の考証随筆。同書を調べたが、見出せない。
「親の頭に松三本」「中川木材産業株式会社」公式サイト内のこちらに、『親の頭に松が三本生えるようなことがあっても、決してうそは言わない、 あるいは、「親の頭に松三本」が生えようとも約束は守るという意』。『また、「親の頭に松が三本生える」と声に出していうことはタブーで、これ以上の悪いことはないという地方もあった。 親の死を意味する言葉であったからと言われている』とある。
「忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ」これは巻第三十一第二十七話「兄弟二人殖萱草紫苑語第二十七」(兄弟二人、萱草(かんざう)・紫苑(しをに)を殖(う)うる語(こと)第二十七)。
*
今は昔、□□の國□□の郡(こほり)に住む人、有りけり。男子(をのこ)二人有りけるが、其の父、失せにければ、其の二人の子共、戀ひ悲しぶ事、年を經れども、忘る事、無かりけり。
昔は、失せぬる人をば墓に納めければ[やぶちゃん注:土葬にしたことを指す。]、此れをも納めて、子共、祖(おや)の戀しき時には、打ち具して彼(か)の墓に行きて、淚(なむだ)を流して、我が身に有る憂へをも歎きをも、生きたる祖などに向ひて云はむ樣に、云ひつつぞ、返りける。
而る間、漸く、年月積みて、此の子共、公けに仕へ、私(わたくし)を顧みるに堪へ難き事共有りければ[やぶちゃん注:公務が忙しく私事を顧みる余裕がなくなってしまったので。]、兄が思ひける樣、
「我れ、只にては、思ひ□べき樣無し[やぶちゃん注:欠字であるが、「このままでは自身の父への思いさえ慰められそうにもない」の意であろう。]。萱草と云ふ草こそ、其れを見る人、思ひをば忘るなれ。然(さ)れば、彼の萱草を墓の邊(ほと)りに殖ゑて見む。」
と思ひて、殖ゑてけり。
其の後、弟、常に行きて、
「例(れい)の[やぶちゃん注:何時ものように。]墓へや參り給ふ。」
と兄に問ければ、兄、障りがちにのみ成りて、具せずのみ成りにけり。
然れば、弟、兄を、
『糸(いと)心踈(こころう)し。』
と思ひて、
『我等二人して祖(おや)を戀ひつるに、懸(かか)りてこそ、日を暗(くら)し、夜を曙(あか)しつれ。兄は既に思ひ忘れぬれども、我は更に祖を戀ふる心、忘れじ。』
と思ひて、
「紫苑と云ふ草こそ、其れを見る人、心に思ゆる事は忘れざなれ。」
とて、紫苑を墓の邊りに殖ゑて、常に行きつつ見ければ、彌(いよい)よ、忘るる事、無かりけり。
此樣(かやう)に年を經て行きける程に、墓の内に、音(こゑ)、有りて云はく、
「我れは汝が祖の骸(かばね)を守る鬼也。汝(なむ)ぢ、怖るる事、無かれ。我れ、亦、汝を守らむと思ふ。」
と。
弟、此の音を聞くに、
『極めて怖ろし。』
と思ひ乍ら、答へも爲(せ)で聞き居たるに、鬼、亦、云はく、
「汝ぢ、祖を戀ふる事、年月を送ると云へども、替る事、無し。兄は同じく戀ひ悲みて見えしかども、思ひ忘るる草を殖ゑて、其れを見て、既に其の驗(しるし)を得たり。汝は亦、紫苑を殖ゑて、其れを見て、其の驗を得たり。然れば、我れ、祖を戀ふる志(こころざし)の懃(ねむご)ろなる事を哀れぶ。我れ、鬼の身を得たりと云へども、慈悲有るに依りて、物を哀れぶ心、深し。亦、日の内の善惡の事[やぶちゃん注:その日のうちに起こる吉事・凶事。]を知れる事、明らか也。然れば、我れ、汝が爲めに見えむ所有らむ。夢を以つて、必ず、示さむ。」
と云ひて、其の音、止みぬ。弟、泣々く喜ぶ事、限り無し。
其の後(のち)は、日の中に有るべき事を夢に見る事、違(たが)ふ事、無かりけり。身の上の諸(もろもろ)の善惡の事を知る事、暗き事、無し。此れ、祖を戀ふる心の深き故也。然れば、
「喜き事、有らむ人は、紫苑を殖て、常に見るべし。憂へ有らむ人は、萱草を殖ゑて常に見るべし。」
となむ語り傳へたるとや。
*
「萱草」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva 。本邦にはヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso ・ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba ・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea ・ニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca ・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が自生する。
「紫苑」双子葉植物綱キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus 。
「建長四年」一二五二年。
『十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に……』以下。
*
大宰大弐高遠の、ものへおはしける道に[やぶちゃん注:ある所へいらっしゃる途次。]、女房車をやりて過ぎける牛飼童部(うしかひのわらは)、のろひごとをしけるを聞きて、かの車をとどめて、尋ね聞きければ、ある殿上人の車を、女房たちの借りて、物詣でせられけるが、約束のほど過ぎて、道の遠くなるを、腹立つなりけり。
大弐、言はれけるは、
「女房に車貸すほどの人なれば、主(あるじ)は、よも、さやうの情けなきことは思はれじ。おのれが不當にこそ。」
とて、牛飼を走らせて、主のもとへ、やりけり。
さて、わが牛飼に、
「この女房の車を、いづくまでも、仰せられんにしたがひて、つかふまつれ。」
と下知せられける。
すき人はかくこそあらめと、いみじくこそ思(おぼ)ゆれ。
この人、はかなくなられてのち、ある人の夢に、
「『ふるさとへ行く人もがな告げやらん知らぬ山路に一人迷ふと』、ながめて居給へる。」
と、見えけり。
いかなるところに生れたりけるにか[やぶちゃん注:転生したものか。]、あはれにおぼつかなし。
*
「大宰大弐高遠」公卿・歌人で正三位・大宰大弐であった藤原高遠(天暦三(九四九)年~長和二(一〇一三)年)。中古三十六歌仙の一人で、笛の名手として知られる。享年六十五。]
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