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2021/07/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (2)

 

 印度にも古く詛言を太く[やぶちゃん注:「いたく」。]怖れたは根本說一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王[やぶちゃん注:「あくしやうわう」。]が苦母[やぶちゃん注:「くも」と読んでおく。]怖勸めにより[やぶちゃん注:後注参照。恐らく誤読。]、釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截らしめた時、佛其因緣を說て、迦葉佛の世に、此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ足を截られよと罵詈したので、無量歲の間地獄で燒れ後人間に生れても五百年中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて吳れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(ゴータマ)(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分(わか)る。十九世紀にも印度人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風[やぶちゃん注:「ふう」。]盛んだと Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897 に見え、古印度仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに、仙人其不妍[やぶちゃん注:「うるはしからざる」。]を見、怒て便ち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶雜事九」「根本說一切有部毘奈耶」(こんぽんせついっさいうぶびなや:現代仮名遣)は仏教経典で全五十巻。初唐の七〇三年に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部なもの。「大正蔵」で調べると、「雜事九」ではなく、「雜事八」である。標題は「第二門第四子攝頌之餘【說勝光王信佛因緣及惡生誅釋種等事】」。「240」コマの「T1451_.24.0239b27」の『時惡生王納苦母諫……』(「苦母怖勸めにより」ではなく、「苦母が諫めを納れ」である)から、「241」『苦母對曰。大王如乞索婆羅門入舍乞求。不得物時欲令其家。生百千種不吉祥事。何況沙門喬答摩。所有親族被王誅盡。寧無深重怨恨之言。隨其惡心而爲呪咀。王若懼者於後園中池水之内。』(最後は「T1451_.24.0243c15」)までが当該する話と読める。私が太字にした部分が熊楠の示したかった箇所である。

「Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897」作者ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師。「Internet archive」のこちらで同年版原本が見られる。

「西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れて……」「大唐西域記」の「卷第五 六國」の「羯若鞠闍國」(カーニヤクブジャ:現在の北インドの都市カナウジ。この伝承通り、「カーニヤクブジャ」とは「傴(せむし)の娘たちの町」の意)の条の冒頭の「一 國號由來」に(「維基文庫」のこちらのものを参考に漢字を正字化した)、

   *

羯若鞠闍國人長壽時。其舊王城號拘蘇磨補邏【唐言「花宮」。】。王號梵授、福智宿資、文武允備、威懾贍部、聲震鄰國。具足千子、智勇弘毅、復有百女、儀貌妍雅。時有仙人居殑伽河側、棲神入定、經數萬歲、形如枯木、遊禽棲集、遺尼拘律果於仙人肩上、暑往寒來、垂蔭合拱。多歷年所、從定而起、欲去其樹、恐覆鳥巢、時人美其德、號大樹仙人。仙人寓目河濱、遊觀林薄、見王諸女相從嬉戲、欲界愛起、染著心生、便詣花宮、欲事禮請。王聞仙至、躬迎慰曰、「大仙棲情物外、何能輕舉。」。仙人曰、「我棲林藪、彌積歲時、出定遊覽、見王諸女、染愛心生、自遠來請。」。王聞其辭、計無所出、謂仙人曰、「今還所止、請俟嘉辰。」。仙人聞命、遂還林藪。王乃歷問諸女、無肯應娉。王懼仙威、憂愁毀悴。其幼稚女候王事隙、從容問曰、「父王千子具足、萬國慕化、何故憂愁、如有所懼。」。王曰、「大樹仙人幸顧求婚、而汝曹輩莫肯從命。仙有威力、能作災祥、倘不遂心、必起瞋怒、毀國滅祀、辱及先生。深惟此禍、誠有所懼。」。稚女謝曰、「遺此深憂、我曹罪也。願以微軀、得延國祚。」。王聞喜悅、命駕送歸。既至仙廬、謝仙人曰、「大仙俯方外之情、垂世間之顧、敢奉稚女、以供灑掃。」。仙人見而不悅、乃謂王曰、「輕吾老叟、配此不妍。」。王曰、「歷問諸女、無肯從命。唯此幼稚、願充給使。」。仙人懷怒、便惡咒曰、「九十九女、一時腰曲、形既毀弊、畢世無婚。」。王使往驗、果已背傴。從是以後、便名曲女城焉。

   *

にあるのが、それ。]

 

 支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛、言怨上也、子罕曰、宋國區々、有詛有兕、亂之本也、康煕字典に書無逸を引て、民否則厥心違怨、否則厥口詛祝、是等は惡政に堪ざる民が爲政者を詛ふので、詩に此出三物、以詛爾斯、また晏子曰、祝有益也、詛亦有損、雖其善祝、豈勝億兆人之詛者とも有る。范文子使祝宗祈死、曰愛我者惟呪我、使我速死、無及於難范氏之福、是は死ねと詛われて速に死なんと望んだのだ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。以下は巻三百十五の「口咒・國詛」に連続した一文として出る。

「厥口呪詛……」「厥(そ)の口、呪詛すとは、上を怨むを言ふなり。子罕(しかん)曰く、『宋國、區々として詛あり。呪あるは亂の本なり。』と」。

「民否則厥心違怨……」まず、底本は「違怨」が「達」であるが、諸本と「書経」原本から訂した。「民、否とせば、則ち、厥の心、違怨し、否とせば、則ち、厥の口、詛祝(じゆしゆく)す。」。

「康煕字典に書無逸を引いて……」まず、「書無逸」は底本では「書無極」となっている。しかし、諸本及び以下に示す「康煕字典」を確認、これは「書経」の「無逸」の誤りであることが判明したので訂した。「康煕字典」のそれは、「口部」の「五」の「呪」の条である。「中國哲學書電子化計劃」のものを一部カットして加工した。

   *

呪 [やぶちゃん注:中略。]「廣韻」、『呪詛也。』。「戰國策」、『許綰爲我呪。』。「後漢・王忳傳」、『忳呪曰、有何枉狀。』。「關尹子・七釜篇」、『有誦呪者。』。又、「集韻」、『通作祝。』。「書・無逸」、『民否、則厥心違怨否、則厥口詛祝。』。「詩・大雅」、『侯作侯祝。』。「周禮・春官」、『有詛祝。』。「集韻」、『或作詶、亦作詋。』。

   *

「詩に出此三物……」「詩」は「詩経」。「此の三物を出だして、以つて爾(なんぢ)を詛ふ。」。

「晏子曰、祝有益也……」「晏子」に曰く、『祝は益する有るなり。詛も亦、損ふ有り。其れ、善く祝すと雖も、豈(あに)億兆人の詛ふ者に勝たんや。」。「晏子」は「晏子春秋」で、春秋時代の斉で霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)の、後代に作られた言行録。

「范文子使祝宗祈死……」まず、これは出典を示していないが、「春秋左氏伝」の「成公十七年(紀元前五七四年)で、「使我速死」は底本では「速」を「連」に誤っているので訂した(これは後の熊楠の謂いからもおかしいことが判る)。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、曰く、『我を愛する者は、惟(ただ)我を呪せ。我をして速やかに死せしめ、難に及ぶ無からしむれば、范氏の福なり。』と」。「范文子」は晋に仕えていた名臣士燮(し しょう ?~紀元前五七四年)の諡(おくりな)。「祝宗」は王の名ではなく、士燮の家で祈禱を掌った官。ウィキの「士燮」によれば(太字は私が附した)、紀元前五七五年に「鄢陵(えんりょう)の戦い」(同年、鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)で晋と楚が激突した戦い)が『起こって』楚との『講和は敗れてしまう。士燮は戦争を極力回避しようと働きかけるが、徒労に終わってしまう。更に、嫡子の士匄』(しかい)『が戦闘の開始を諸将に勧めるのを見るや、「国の存亡は天命であり、お前のような小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに勝手に発言するのは大罪である。必ず処刑されよう」と激怒し、戈を持って士匄を追い掛け回した』。『結局』、「鄢陵の戦い」は、『晋軍の勝利に終わったが、士燮は徳のない厲公が徳のある共王に勝ってしまったことをむしろ恐れ、家臣に自らを呪わせて死んだ』(☜)。『家督は士匄が継いだ。死後、恭謙な態度を生涯貫き通した事と、一時的ながら楚との和睦の大功を成した事から、諡号「文」を諡され、范文子と呼ばれる』とある。]

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