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2021/07/17

芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集の第十一巻の「書簡 二」(同全集の書簡は二巻で終わりである)に入る。半分、来た。ここのところ、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」へのアクセスが急増している。心より感謝申し上げる。]

 

大正九(一九二〇)年一月十七日・田端発信・中戶川吉二宛(封筒に『小石川病院内流行性惑冒患者中戶川吉二樣』とある)

 

物干しへ蒲團と机とを出して原稿を書いてゐると僕の知つてゐる女が「これを捨てて下さい」と云つた受取つて見ると死んだ金魚だから物干しの下へ捨てた下には蒼い海が少し見えたするとその女が「あなたも捨てゝお貰ひなさいよ」と云つた「あなた」と云はれた女はお夏に違ひなかつたお夏は手のひらへ何か入つてゐるのを僕の手のひらの上へあけた見ると水の中にぼうふらが五六匹泳いでゐた何故かその時中戶川が燒かなければ好いがと思つた「水族館でござい」と云ふ聲がした聲の主は春樹さんだつたパツチに尻端折りで皮の鳥打帽をかぶつてゐた何が水族館かと思つたら扇子で僕の手のひらの中のぼうふらを指してゐた太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた雷が鳴つた僕の知つてゐる女が「雨がふるからこつちへおはいんなさい」と云つたその女はお夏と一しよに二階にゐた二階には朱ぶちの夏目漱石の額があつて鏡蒲團が澤山敷いてあつた お茶屋か何かの大廣間らしかつた實際雨がぽつぽつ降つて來た 上を見たら向うの屋根の上に繭玉のやうな雲が靑い空に白くぽっく浮んでゐた「あれは雷が鳴るから電氣で雲が細くなつたんだ」と僕が春樹氏に說明した春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて「田端は地震がなくつて好いな」と云つた僕は谷崎と田樂鍋を隔てて坐つてゐたそばに野上臼川君がゐたその外雜誌記者らしい人が二三人ゐた窓の下に稻田と雜木樹が見えた「狸はどうです」と野上君が云つた「狸は出る」と谷崎が云つた――そこで目がさめた「反射した心」を讀みながら寢てしまつたのだつた獨りでにやにや笑つた夢の中のお夏の顏は覺えてゐない

病中の御慰みまでにちよいと書いてごらんに入れた 以上

    一月十七日     病 我 鬼

   中 戶 川 樣

 

[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介満二十八歳。

「中戶川吉二」(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事。代表作「イボタの虫」。採用しなかったが、この同日か前日に彼から新著「反射する心」(当年一月十日新潮社刊。初版本が国立国会図書館デジタルコレクションで全篇視認出来る)を贈本されて、そのお礼を本書簡と同日発で述べている(恐らく葉書)。そこで芥川龍之介も『インフルエンザで寢てゐる』と記している。

「お夏」「春樹さん」「反射する心」の登場人物。主人公「私」は北川芳治(よしぢ)で、「お夏」はヒロイン格。龍之介の夢の中では中戸川自身が北川芳治扱いのようである。

「パツチ」パッチ。股引(ももひき)の一種。江戸では絹製のものを、関西では布地に関係なく、丈の長いものを指した。呼称は朝鮮語由来である。

「尻端折り」(しりは(ば)しより(しりは(ば)しょり))は、着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟み込むことを指す。

「太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた」反射する心」の最終の第三編のこで、芳治の友人山村が春樹のことを指して、「キザな男だね。あんなキザな男だの下品な女だのと、これからいろいろ交渉して行くんぢや君もなかなか堪らない……」と芳治へ語りかけるシーンがあり、すぐ後のここにも、芳治が自分で、『お千枝さん』(長いリーダ)『下等な女』(改行)『春樹さん』(長いリーダ)『キザな男』と悪戯書きをするシーンもある。

「鏡蒲團」蒲団の、裏の布を表に折り返して、表の縁としたもの。鏡の形に似ているところから、かく呼ぶ。

「春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて」私はここを読んで、思わず、ニンマリした。谷崎は気持ち悪いほど気障だから。

「野上臼川君」英文学者で能楽研究でも知られた野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)の号。「きゅうせん」(現代仮名遣)と読む。大分県臼杵市出身。臼杵中学・一高を経て、明治四一(一九〇八)年、東京帝国大学文科大学英文科卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいた。夏目漱石に師事した。帝大卒業後は国民新聞社の文芸記者となったが、翌年には法政大学講師、この大正九(一九二〇)年には同大学教授となった。後、法政大学総長。ここで芥川龍之介が彼を「君」と呼んでいるのは注目される。大正十二年から十三年にかけて、四通の書簡が底本には載るが、内容は能の関係書についての簡単な謝辞や能の会関連の書信でとるべき書簡ではない。それにしても九歳年上で、漱石山房及び英文学者としても直系の先輩(野上は龍之介も好きなバーナード・ショーなどのイギリス演劇の研究・紹介でも知られる)であるのに、「君」は意外である。或いは、芥川龍之介は彼のことを、英文学者としてはそれほど評価していなかった可能性、或いは、国民新聞社の文芸記者時代に龍之介と何かがあった可能性などが窺われるように私には思われる。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十七日 田端から 菅忠雄宛(葉書)

 

和加布難有う

      卽興

    春寒き小包解けば和布かな

    軒先に和布干したる春日かな

赤ん坊比呂志と命名菊池を名づけ親にしたのです先生によろしく 拜

 

[やぶちゃん注:この十七日前の四月十日、長男芥川比呂志が誕生した。盟友菊池寛の名から命名した。但し、出生届は早生まれ扱いにするために、三月三十一日生まれとなっている。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十八日京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・四月廿八日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

手紙及雜誌難有う 君の論文は門外漢にも面白くよめた 法律哲學と云ふものはあんなものとは思はなかつた 正体がわかつたら大に敬服した 外の論文はちよいちよい引繰り返して見たがとても讀む氣は出なかつた

本がまだ屆かない由 日本の郵便制度は甚しく僕を惱ませる 君のも入れると二十册送つた本の中先方へ屆かないのが既に四册出來た譯だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ 二三日中に今度は書留め小包で御送りする

素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん 第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に關る それより四月號の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ この方は五六行を除いてあとは大抵書けてゐると云ふ自信がある但しスサノオも廿三囘位から持直すつもりでゐる さうしたら褒めてくれ給へ 去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ 去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする 違つたら御免この間藏六が感服してゐるのを見たらふとそんな氣がしたのだ 赤ん坊は比呂志とつけた 菊池を God-father にしたのだ 赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね 赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね 經驗の上では片羽の人間だね 大きな男の子で目方は今月十日生れだがもう一貫三百目ある 今ふと思ひ出したから書くがこの前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう その時不二子さんの御亭主に遇つたらう あの御亭主の大學生は甚感じが惡るかつた あくる日の午過ぎ頃まで僕を不快にした こんな事を書いちや惡いかも知れないがほんたうだから申し上げる 久保正夫の講師は好いね 世の中はさう云ふものだ さう云ふものだから腹を立てる必要はない 同時にさう云ふものだと云つて詮め[やぶちゃん注:「あきらめ」。]切る必要もなささうだ 僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる もう少し成佛すると好い小說も書けるし人間も向上するのだが遺憾ながらまだ其處まで行かない 相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ 理屈で云へば平凡だがしみじみさう思ひ當る所まで行くと妙に自分を大切にする氣が出て來る 實際惚れるばかりでなく人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ 菊池は追々穩術家を癈業してソオシアリストの店を出しさうだ 元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる但しこの仕方がないと云ふ意味は實に困つてゐると云ふ次第ぢやない 當に然る可しと云ふ事だよ むやみに長くなつたからこの邊で切り上げる

     近作二三

   白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり

   晝見ゆる星うらうらと霞かな

   春の夜や小暗き風呂に沈み居る

奧さん――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく さやうなら

    四月廿七日     一人の子の父

   二人の子の父樣 梧右

二伸 僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相當に敬意を表する事もないではないが)

福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治などと云ふ奴は大泥坊だね 福田德三は小泥坊、

實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路なぞは其處へ行くと嬉しい氣がする但しその御弟子は皆嫌ひ

 

[やぶちゃん注:最後の「二伸」は底本では全体が二字下げ。そこに不規則に打たれる読点はママである。

国立国会図書館デジタルコレクションで同志社大學敎授恒藤恭「批判的法律哲學の研究」

(大正一〇(一九二一)年内外出版刊)が読めるが、或いはこの中に芥川龍之介が読んだ論文が含まれているかも知れない。

「本がまだ屆かない由……」一月二十四日に春陽堂から刊行した第四作品集「影燈籠」のことであろう。

「素戔嗚の尊」大正九(一九二〇)年三月三十日に『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載を開始し、前者は六月六日で、後者は六月七日で終わった「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」。その後、全四十五回の前半四十五回分(恒藤が感心したのはその頭の部分となる)は芥川龍之介は単行本に収録せず、後半のたった十回分を「老いたる素戔嗚尊」と改題し、そのコーダ部分を大幅に書き直して第六作品集「春服」(大正十二年五月十二日春陽堂刊)に収録した。個人的には、この作品は私は好きである。「青空文庫」で「素戔嗚尊」(但し、新字新仮名)と、改稿版「老いたる素戔嗚尊」(但し、新字旧仮名)が読める。

「秋」大正九年四月発行の『中央公論』に初出。素材提供者は龍之介の不倫相手秀しげ子であった。研究者の評価は頗る高く、関口安義氏が『短編作家芥川龍之介が、自己の特色を最大限に発揮した小説であったとしてよい』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」)と述べておられるほどである。しかし私は告白する。大学四年の一九七八年十月、入手した芥川龍之介全集の全巻通読をした際、芥川龍之介の小説の中で、ただ一篇、退屈で、途中から読むのがいやになりかけた唯一無二の作品である。

「去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた」「弟」は新原得二、「弟の母」は芥川龍之介の実母フクの妹で、龍之介の叔母にして継母に当たる、実父新原敏三の後妻フユ。この年の五月二十一日に亡くなった。享年五十七であった。

「藏六」藤岡蔵六。既出既注

「片羽」ママ。差別用語の「かたは(かたわ)」のそれは「片端」である。

「一貫三百目」四キロ八百七十五グラム。これは現在の標準体重から見ても太り過ぎである。

「不二子さんの御亭主」ウィキの恒藤恭の妻の父「恒藤規隆を見ると、規隆には『庶子としてフジ』がおり、『フジは男爵有馬純長と婚姻し』たとある。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。既出既注だが、再掲する。大学では哲学を専攻し、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。恒藤も一高時代に知っていた。彼が、第三高等学校講師になったことを恒藤が龍之介に前便で知らせたのであろう。

「active serenity」能動的平静。活発なる沈着。

「相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ」「煩惱卽菩提」は芥川龍之介の宿命的に愛した公案である。この惚れた相手は、まず、肉体関係まで進行してしまった秀しげ子を第一としてよいだろう。しかし、それ以外にも、じつはちらほらしている。どうしても挙げておく必要があるのは、平松麻素子(ますこ)である。平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)は戸籍上の名は「ます」で高輪の生まれ。芥川龍之介の妻文の幼馴染みで、文より二歳年下、龍之介より六歳年下であった。父平松福三郎は弁護士・公証人で、有楽町に法律事務所兼ねた公証人役場を営業していたが、大正八(一九一九)年に職を投げ打ち、出口王仁三郎の大本教に入信、東京支部長となった。麻素子は若くして結核に罹患、東京女学館を卒業後は家事手伝いをし、病気もあって婚期を逸していた。当初は、大正九(一九二〇)年三月頃、「秋」の執筆に際して、当時の女性の風俗を龍之介に解説して貰うために文自身が龍之介に紹介した女性である(芥川文述・中野妙子記「追想 芥川龍之介」(一九七五年筑摩書房刊)に拠る)。関東大震災で高輪に家を焼け出された平松一家は、一時、福三郎の長兄の住む田端に身を寄せたことなどから、近くの芥川家との訪問が頻繁となり、龍之介の晩年には文が龍之介の疲弊した神経を慰めて呉れるであろうこと、及び、彼の自殺を監視させる目的をも暗に含んで、龍之介との交際を文も勧めていたようである。父の縁で晩年の芥川の仕事場として、帝国ホテルを斡旋したのも彼女とされる。そして、彼女の出現をここで語っておかなくてはならないのは、二人は芥川龍之介が自死する昭和二年四月七日と五月下旬(或いは上旬ともされる)に二度の心中未遂事件を起こした時の相手であったからである。なお、彼女は戦後になって結核が悪化し、国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去した。

「ソオシアリスト」socialist。本来は「社会主義者」の意であるが、ここは、後の文藝春秋社創立に見るような、社会的事業家の意で用いている。

「福田德三」(明治七(一八七四)年~昭和五(一九三〇)年)は経済学者。東京神田生まれ。母がクリスチャンであったため、十二歳で洗礼を受けた。私立東京英語学校などを経て、高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学、学生時代、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動に参加し、明治二七(一八九四)年に同校を卒業し、神戸商業学校(現在の兵庫県立神戸商業高等学校)教諭となったが、翌年、教諭の職を辞して、再び高等商業学校の研究科に入学二年後に卒業後、翌明治三一(一八九八)年から文部省から命ぜられて、ドイツのライプツィヒ大学やミュンヘン大学に留学、一九〇〇年にミュンヘン大学で博士号を取得した。社会政策学派・新歴史学派として経済理論・経済史などを導入した。東京商科大学(現一橋大学)教授・慶應義塾教授・フランス学士院文科部外国会員などを歴任した。レジオン・ドヌール(L'ordre national de la légion d'honneur)勲章も受章している(当該ウィキに拠った)。

「賀川豐彥」(かがわとよひこ 明治二一(一八八八)年~昭和三五(一九六〇)年)はキリスト教社会運動家。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は「現代の三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。兵庫県神戸市生まれ。回漕業者賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれた。四歳の時に相次いで父母と死別し、姉とともに徳島の本家に引き取られる。徳島では血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられたが、「妾の子」と周囲から陰口を言われるなど、孤独な幼年期を過ごした。兄の放蕩により十五歳の時に賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移った。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通っていた明治三七(一九〇四)年、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションの宣教師H・W・マヤスより受洗、伝道者を志し、明治三八(一九〇五)年に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の明治四〇(一九〇七)年、新設の神戸神学校(後の中央神学校)に入学する。そこを卒業後、さまざまな下層階級と生活を共にし、結婚した。結核に苦しまされたが、大正三(一九一四)年には渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見つつ、プリンストン大学・プリンストン神学校に学んだ。大正六年に帰国すると、神戸のスラムに戻り、無料巡回診療を始め、また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、大正八年に友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となった。また同年には日本基督教会で念願の牧師の資格を得た。この大正九年には自伝的小説「死線を越えて」を出版、わずか一年で百万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。その後もベストセラー作家として、「一粒の麦」「空中征服」「乳と蜜の流るゝ郷」など、数々の小説を発表、これらの原稿料や莫大な印税は、殆んど、彼が関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て、現在の日本最大の生協「コープこうべ」)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。また、キリスト教系業界紙『キリスト新聞』(キリスト新聞社発行)を立ち上げてもいる(当該ウィキに拠った)。

「堺枯川」知られた社会主義者にして作家でもあった堺利彦(明治三(一八七一)年~昭和八(一九三三)年)の号(「こせん」と読む)。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。本名は弘治(ひろはる)。鳥取県の生まれ。仏教に信仰心厚い生家の影響を受けたが、若き日、キリスト教にも接近し、洗礼も受けた。明治三九(一九〇六)年東京帝大哲学科を卒業、在学時より同級の森田草平らと回覧雑誌を出し、馬場孤蝶に師事。雑誌『芸苑』に「小栗風葉論」(明治三九(一九〇六)年)を書いて注目された。与謝野晶子とも知遇を得て、「閨秀文学会」を作り、その聴講者に平塚らいてう等がおり、そこから『青鞜』が生まれた。この頃、佐藤春夫も長江に師事している。また、ニーチェの翻訳に没頭し、「ツァラトゥストラ」(明治四四(一九一一)年)などを刊行。ダヌンツィオ「死の勝利」(大正二(一九一三)年)、マルクス「資本論」(大正八(一九一九)年に第一部のみ刊行)、ダンテ「神曲」(昭和四(一九二九)年)などを訳出している。一方、作家論集「最近の小説家」(明治四五(一九一二)年)なども刊行、「自然主義前派の跳梁」(大正五(一九一六)年)は『白樺』派批判の論文として知られる。その後は宗教性を根底に置き、東洋回帰の論調をみせた。ハンセン病に罹患しており、後年には容貌が変容し、失明もしたが、活動は衰えなかった(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「和田三造」(明治一六(一八八三)年~昭和四二(一九六七)年)は洋画家・版画家。

旧朽木藩御典医を勤めた父の四男として兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)に生まれた。兄が大牟田市の鉱山業に従事したため、十三の時に一家をあげて福岡市に転居、翌明治三〇(一八九七)年に福岡県立尋常中学修猷館に進学したが、明治三十二年に画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事した。明治三四(一九〇一)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学した。青木繁・熊谷守一らと同期であった。代表作は明治四〇(一九〇七)年第一回文展に出品した「南風(なんぷう)」。

「鈴木文治」(ぶんじ 明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)は政治家・労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在とされる人物。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

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