小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (7) 三比事に書かれた犯罪心埋
三比事に書かれた犯罪心埋
櫻陰比事の作者井原西鶴、鎌倉比事の作者月辱堂、藤陰比事の作者無名氏が、各々その比事を書くに當つて、犯罪者なるものに關し、どれ程の硏究をしたかは知る由もないが、もとよりその當時系統立つた犯罪學書のあつた譯ではなし、又、彼等自身が犯罪者について特別な硏究をしたとも思はれず、恐らく、直觀によつて書きなぐつたものであるにちがひない。彼等は犯罪者が一種特別なタイプに屬する人間であるといふことはもとより知らなかつたであらうし、男性犯罪者の犯罪心理と女性犯罪者のそれとがある點に於て根本的にちがつて居るといふことなどもはつきり意誠して居なかつたであらうと思はれる。三比事の各種の物語中に、犯罪者の特種の容貌の描かれて居るのは一つもなく、又、女性が中心となつて居る犯罪の數は、男性が中心となつて居るものゝ十分の一にも達しない。尤も現今の探偵小說でも男性犯人を取り扱つたものが女性犯人を取り扱つたものよりも遙かに多いから、或は當然の現象といつて差支ないかもしれぬ。もともと探偵小說は興味を中心として書かれるものであるから、多くの作者は犯罪心理の考察などは第二の問題として居るらしく、現今の歐米の探偵小說を見ても、犯罪學者の硏究に資し得べきものは極めて少ないのであるから、日本犯罪文學の搖籃期を作つた犯罪探偵物語の犯罪心理を考察するなどは野暮の骨頂かもしれない。然し乍ら三比事の中には、作者が知つてか知らずにか、犯罪者の特殊な心理を巧みに描いて居る物語があるから、後に近松巢林子《さうりんし》などの文學を考察する際の比較のために、その二三を紹介して置かうと思ふのである。[やぶちゃん注:「近松巢林子」近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年)の号の一つ。既に注してあるが、再掲すると、井原西鶴著「櫻陰比事」は元禄二(一六八九)年刊、月尋堂著「鎌倉(けんさう)比事」、作者不詳の「桃陰比事」(後に「藤陰比事」は宝永六(一七〇九)年刊。近松の「最初の世話物」とされる名作「曽根崎心中」は元禄一六(一七〇三)年の上演である。]
犯罪者の心理を應用して探偵の實《じつ》をあげる物語については既に述べたところであるから、こゝではまづ鎌倉比事と櫻陰比事に描かれた女性の犯罪心理について述べて見よう。[やぶちゃん注:不木の謂いでは順序が逆で、以下は「櫻陰比事」の巻三の「九」に「妻に泣(なか)する梢の鶯」である。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここから。]
むかし都の町千本通りに一人の浪人があつた。音曲の名人で大名方へ呼ばれては生活を立てゝ居たが、あるとき某家に招かれると、庭に鶯が來て居て、主人は何とかしてあの鶯を飼鳥にしたいものだと言つたので、浪人はすぐ樣西の京の餌差《ゑさし》をよんで來て鶯を捕へさせた。主人は大に喜んで澤山の褒美を與へたので、浪人が翌目餌差のところへ挨拶に行く と、餌差の女房は浪人につかみついて、『良人をどこへ連れて行つのか』と泣きながらきめつけた。浪人は驚いて少しも知らぬといつたが女房はいつかな間き入れず、遂に御前へ訴へ出た。拷間の結果浪人はいさぎよく罪を引き受けて、自分の家で殺したといつたので、女房はさもさも悲しさうに浪人を怨んで泣いた。そこで御前は浪人に向つて、死體の在所をたづねられたが、意外にも浪人は言葉につまつたので、御前は犯人が別にあると睨み、死體を探させになると、餌差は以外にも竹田道で斬殺され居たので、御前は女房に向つて、多分强盜の仕業であらうが、不運とあきらめて良人の冥福を祈るがよい、明後十九日は、自分の家の法事をするので、お前の良人のためにも弔料《とむらひれう》を少し與へたいから、身内のものか、懇意のものを取りによこすがよいと諭して、女房を御かへしになつた。さて十九日になると年頃二十四五の男が弔料を取りに來たので、召捕つて色々拷問すると、たうとう、女房と密通し、二人で謀つて餌差を殺した旨を自白した。[やぶちゃん注:「餌差」ここでは単に小鳥を糯竿(もちざお)で刺して獲ることを生業としている者のことを指す。]
大岡政談の『鐡砲彌市の件』といふ物語もこれと同じやうな筋であるが、自分が殺す計畫をして置き乍ら、さもさも悲しいやうに裝ふ女性の犯罪心理は、この短い物語に、はつきり寫し出されて居る。女のかやうな僞善的な惡魔的な心は、姦夫といへども後には呆れ恐れるものであつて、鎌倉比事の『情は敵、怨は恩』の一篇の如きは、この間の消息を遺憾なく傳へて居る。[やぶちゃん注:「大岡政談の『鐡砲彌市の件』」国立国会図書館デジタルコレクションの「繪本大岡政談大全」(明二六(一八九三)年聚栄堂刊)のこちらから読める。但し、明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注によれば、『本章に酷似する話に、『棠陰比事物語』一の二七、「李傑買ㇾ棺」がある。これは『太平広記』一七一「李傑」(国史異纂)とほぼ同じ内容である』とある。前者は国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間板行の「棠陰比事物語」のここから読めが、草書体でかなり読みにくい。後者は「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で読める。一番いいのは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の山本北山閲になる訓点附きの刊本がよい。ここ(PDF)の29・30・31コマ目である。「棠陰比事」原拠のその話はもっと救い難く、寡婦が実の息子を親不孝として訴え出て、「死罪にしてくれ」と判事である李傑に乞い、傑は「処刑した息子の遺骸を収める棺を買ってくるがよい」と命ずる。しかし、実はそれは、その寡婦が道士と関係しているのを(中国では永く寡婦は死んだ夫の兄弟以外のものとしか再婚は出来なかった)、息子が咎めたことを根に持って、二人で結託してでっち上げたことであることが、傑の命じた捜査によって判明し、傑は最後に寡婦と道士を棒打ちの刑に処して、その棺桶に二人の遺骸を詰め込んで終わる。][やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]
『呂東萊《りよとうらい》が弱きは天下の大害なり、又學者の大患なり、人の善をなさゞるは志《こころざし》をたつる事の弱さ故なりといへり、すべて志のうすく根の弱きものは勞して功なし、善をするは則今よりこそなれ、萬《よろづ》の惡の源は弱きよりなるとなん鎌倉市町に魚屋半助といふ者の女房、あたりちかきも馬醫の新平といふ者と密通して、此四五年の間、夫半助七ツ[やぶちゃん注:午前四時頃。]起して魚市に出《いで》たる留守ごとに戀ひ人と不義の枕をかはしぬ。又も夫市に行きたるをうかゞひて新平忍び入けるところへ、半助道より小もどりして、今朝は霧ふかく風もはげし、我はとても道を行けば寒きを厭《いと》[やぶちゃん注:底本は「壓」であるが、訂した。]はんやうもなし、跡にてねざめ寒く、嘸《さぞ》くるしからん、此羽織を上に着よとて脫ぎ捨て走り行ぬ。女房跡にて、扨もうつけかな、己が寒きを苦にせいでと言ふを、密夫新平聞て淚を流し、夫の有る身として我になじむさへ恐ろしきに、夫の深き志をもわきまへず、惡言に及ぶ心底いかにしても堪忍なりがたしとて取て引よせ、たゞ一刀にさし殺して歸りぬ。其後夫歸りて盜人のしわざか不便やと歎く體《てい》、なほ新平心にこたヘてかなしく、我と此段々を書き附けて、最明寺殿へ申し上げ、密夫の御仕置のがれがたしと、いさぎよき覺悟の心底を御前にも御感じあつて、命を助け、此魚賣が奴《やつこ》[やぶちゃん注:下男。]となし扨《さて》殺されたる女房の死骸とならびに密夫新平と言ふ名ばかりを書附けて、諸人にさらし見せしめになし給ひぬ。最明寺殿の御慈悲、新平が誠、半助が情、時の人感じて、いよいよ女の死骸に唾をはきけるとなり。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの影印本ではここから。「呂東萊」は南宋の朱子学の源流に位置する儒学者呂祖謙(一一三七年~一一八一年)の通称。]
誠に立派な一篇の悲劇である。作者が、萬の惡の源を、『弱』に歸して居るのも、中々面白い考へだと思ふ。然し私たちは、女性の弱さが、ある場合には、『裝はれたる弱さ』てあることを忘れてはならない。
私は拙著『近代犯罪硏究』の中に『自白の心理』と題して、犯罪者が、その罪を自由するに至る心理の數々を述べたが、藤陰比事には、先天性犯罪者に見られる打算的な自白心理を取り扱つた、『大赦に漏る自業の訴訟』といふ一篇があるから、左に紹介しよう。[やぶちゃん注:「近代犯罪硏究」は大正一四(一九二五)年春陽堂刊。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇が読める。当該箇所はここから。なお、以下は底本では全体が一字下げ。「国文研データセット」版では、巻五の、標題は「㊀自業自得の火焙り」。ここと、ここと、ここと(見開き挿絵のみ)、ここ。]
『乍ㇾ言上仕候、私儀は山科より伏見へ每日のぼりくだりの步荷物《かちにもつ》を渡仕に仕り候久助と申すものにて御座候、當月二十一日大津の問屋《といや》、北國《ほくこく》より上り候ふ干鱈干鮭蒸鰈の荷物、ふし見へ持まゐれのよし、不斷出入仕候へぱ、大分の金銀にても、請取り申ほど數年顏見しられ、右の荷物をも相認《あひしたため》て狼谷《おほかみだに》の茶屋にかたを休め罷在候うち、一荷《いつか》ゆく方なくとられ申候につき、みちすぢ追かけ、ぎん味仕候へば、いなろりへにて右の荷物を荷ひ行《ゆき》候ものをとらへ、奪ひかへし申べく存候所、此盜人竹田髭六《ひげろく》と申す强力《がうりき》の雲助にて、かヘつて橫道《わうだう》[やぶちゃん注:道理から外れた不正な行為。]を申懸けかへし申さず候を、ねぢあひたゝきあひ申すにより、近所の者共出合、右の段々を申ことわり、町中へ預け置罷り候間、召出され、急度《きつと》荷物を返し候上、如何樣共《いかやうなるとも》被仰二付可被一下候はゞ、忝可ㇾ奉ㇾ存候以上
月 日 にあげ 久 助 判
地頭聞召しあげられ、大津の問屋ならびに、かの髭六を預け置たるいなり町の者共まで召出され、御穿鑿ありければ、髭六ちんじて私盜みたるにて御座なく候、麁相にて荷物取ちがへたるなどと申上げけれども、糺明のうへ落度《おつど》極り籠舍《らうしや》仰付られける、二十日あまり過ぎて天ドに大赦行はれねるにより、諸國私領公領の罪人、のこらずたすかりけれ共、此髭六と小罪の者二人そのまゝ籠に殘されしかぱ、此者共訴訟申上げるは、此たびの大赦には、極惡死罪の人數《にんず》さへ出籠仰せつけられ候うへは、我等事少分の御咎のもの共にて御座候へば、早速御たすけ可ㇾ被ㇾ下所、そのままこれあり苦しみ候間、急に出籠仰付られ下され候はば、有がたかるべきだん申上ければ、目代、これは御前へ申上るに及ばざる儀なり、其仔細は、最前籠舍御ゆるされありしもの共は、大罪の者共にて、かならず死罪に極りたる故に、早速御免ありしなり、其方共はいまだ、御仕置の品さだまりがたき程の小罪の故に相殘りたり、直訴申上たりともかなひがたかるべしと申聞せければ、扨は大罪の者はかへつてたすかるならば、我々も人知らぬ大科《おほとが》を申立御免をかうむるべしとて、舊惡をおもひ出して願ひ申上げる、一人は西樂寺の什物を盜み出し、金子百二十兩に賣り博奕を打、五百兩勝て町遊女かゝへてゆるりと渡世したりけるが、此科しる人なし、此度《このたび》籠に入しは、少の事をいひつのり、相手のあたまをたたき破りたりとへども、死ねる程の深手にあらず、され共、さきさまおびたゞしく訴へし故に、當分の籠舍と覺え候なり、大罪右白狀に相違なしと申す、一人は東國がたの者なりしが、十三年已前に生國にて人を切殺し、上方へにげのぽり、似せ銀《がね》を吹て渡世仕り侯へども、人知ることなし、此たびの寵舍はかけ落《おつ》者[やぶちゃん注:徒歩で走る運送業のことであろう。]の羽織をひとつ預りたる少科として、入籠付られけると申す、さて髭六は六年已前に盜賊に入、家内の者を柱にしばりつけ、金銀を取り、その家に火をかけ、首尾よく、その場をのがるといへども、その翌年より七年の間楊梅瘡[やぶちゃん注:梅毒。]を煩ひ、腰ぬけのごとく、大分の藥代等に、かの金銀をのこりなく、漸く命助かり、手と身にてかちにもち、前の惡事、人夢にもしらざうけるが、此たびの荷物わづかなる事にて此仕合と白狀申けるに、大赦の日限ははや過て、籠舍御免なり難く、右二人は磔《はりつけ》にかけられ、髭六は火あぶりになりけるとなり。』[やぶちゃん注:べらべら旧悪を語り出すところが実に面白い。なお、「已前」は底本も所持する刊本も総て『己前』とし、後者などでは『きぜん』などとルビを振っているが(こんな熟語はない)、原拠の原本を見るに、「已前」と判読出来るので、特異的に訂した。]
この外なほ犯罪者が、一女性の心に感じて改心する話が櫻陰比事にあり、放火者の心理を取り扱つたものが藤陰比事にあるが大して興味のある物語ではないから、その記述は省略する。[やぶちゃん注:作者が興味がないというものまで探す暇は私にはない。何かの機会に見つけたら、追記する。]
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