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2021/08/31

芥川龍之介書簡抄133 / 大正一五・昭和元(一九二六)年五月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年五月一日消印・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・五月一日 鵠沼西海岸塚本八洲氣附 芥川龍之介(葉書)

 

拜啓、君或は君の奧さんに頂戴した栗は非常にうまかつた。但し食ひすぎて胃中の酸が殖ゑ、翌朝非常に難流した。健全なる君はあれを試みて見給へ。實にうまいよ。ここにゐると割合に好い。齋藤溥士の診察によれば血壓百十故海岸も差支へなきよし。但しまだ疲れ易いのに弱る。目下散藥、水藥、注射藥幷用。定刻散步。屁も餘り出ない。

 

 

大正一五(一九二六)年五月九日・鵠沼発信・山本有三宛

 

冠省。御手紙ならびに高著ありがたう。あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり。頓首

 五月九日   鵠沼にて   芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「高著」山本有三の直近の刊行は大正十五年三月刊の「途上」。確認したところ、新全集の宮坂年譜でそう指示してあった。

「お禮」筑摩全集類聚版脚注に、『興文社から出した「近代日本文芸読本」に採録した作家へのお礼のこと』とある。

「口數」「くちすう」。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」によれば、「近代日本文芸読本」の収録作家は百十九人(収録作品は百四十八篇(短歌・俳句は数首・数句を纏めて一篇と数えて))に及んだ。同年譜のこの日の条に、『編集を務めた『近代日本文芸読本』で儲けて書斎を建てた、などという妄説に悩み、三越の「十円切手」を、遺族も含め、作品収録作家一一九名全員に分配したものと思われる』とある。

「義弟」塚本八洲。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十一日・鵠沼発信・平木二六宛(絵葉書)

おん句拜見、皆々近頃のおん句よりも面白く存候小生も句あり

   さみだれや靑柴つめる軒の下

   うららかに毛蟲わたるや松の枝

    二十一日       龍 之 介

 

[やぶちゃん注:平木二六(ひらきにろく 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人。東京市日本橋区横山町生まれ。東京府立三中卒。室生犀星を知り、詩作を始め、この大正十五年元日に犀星の序文と、芥川龍之介の跋文をつけた詩集「若冠」を発表し、同年、中野重治・堀辰雄らと『驢馬』を創刊した。戦後は『日本未来派』同人。ペン・ネームは「平木二六(じろう)」。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十二日(消印)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木ふさ樣(絵葉書)

 

又々栗を頂戴し何とも御禮の申上げやう無之候。佐々木君と二人にて仲よく食べ候間左樣御承知下され度候。今度は食ひすぎぬやうに氣をつけ居り候。頓首

 房子女史十才の像[やぶちゃん注:底本にはここに『〔繪葉書の草原に坐せる少女の姿を指す〕』と記す。絵は載らないが、市販のもので、芥川龍之介の自筆の絵ではないと推定される。]

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日頃に夫佐佐木茂索が、房子からとして栗を持って訪問したとある。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十四日・鵠沼発信・山本有三宛

 

拜啓、手紙をありがたう。そんなに心配して貰ふと、恐縮に堪へない。しかし吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる勇氣があればそれはもう病氣でも何でもない――と云ひたくなる位だ。中々そんな勇氣は出ない。しかし藥や溫灸はやつてゐる。それから何月號といふ約束はおやめ[やぶちゃん注:ママ。]にした。唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる。右御禮かたがた御返事まで。

    五月二十四日     芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「そんなに心配して貰ふ」例の「近代日本文芸読本」の一件。

「吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる」不詳。山本のある仕事場への行き来を指しているか、或いは、大正八(一九一九)年三月に再婚したはな(旧姓井岡)とのエピソードかも知れない。よく判らない。

「唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる」不詳。以降のこの年の発表作には戯曲やレーゼ・ドラマはない。但し、翌年まで広げて、シナリオ形式も含めるならば、翌年四月一日に発表される素敵に慄っとする「誘惑―或シナリオ―」(『改造』)と、私の特に偏愛する「淺草公園―或シナリオ―」(『文藝春秋』)がある。リンク先は孰れも私のもの。前者はオリジナル詳細注附き。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛

 

冠省御手紙拜見仕り候。上京するならば五月二十五日より六月中旬までに來給へ。その後は東京にゐないかも知れない。君の字變に角張つて來て、どうも愉快に眺められない。神經衰弱には毒だよ。今度からはもう少し柔かにしてくれ給へ。頓首

    二十五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

 

[やぶちゃん注:この手紙については、既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十九日・きくや二六君坐敷にて 芥川龍之介

 

冠省今平木二六の下宿に來てゐる 日本詩人所載野口米次郞の會の事を書いた萩原朔太郞君の文章を見て大いに感動した 敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ

     破調

   兎も片耳垂るる大暑かな

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月二十九日    龍 之 介

   室 生 犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:この芥川龍之介書簡の「敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ」は、龍之介の書簡中の一句として、しばしば引用される有名なものである。新全集の宮坂覺氏の年譜(或いはこの言い方を五月蠅く思われるかも知れない。しかし、私には必要なことなのである。私は、その新全集の年譜のコピーに拠って今まで語っているのであるが、私は別に一九九三年岩波書店刊の宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 附年譜」を持っているからである。そこには、新全集版のそれの原型となった、宮坂氏渾身の年譜があるからである。なお、恐らくこれを新し買おうという人は、まず、おるまい。何故なら、その「芥川龍之介全集」とは正字版の岩波旧全集を指すからである。しかし、岩波旧全集に拘る私は、この本に今も助けられている。この場を借りて宮坂覺氏に御礼申し上げるものである)によれば、この日の条に、『室生犀星に、萩原朔太郎「中央亭騒動事件」』(『日本詩人』大正十五年六月号の『靑椅子』欄初出。正確には表題は下に『(實錄)』が附く。なお、月刊雑誌等が実際の発行日よりもフライングして発行されるのは、今も昔も同じである)『を読み、感動したことを伝える。この事件は』、この五月十一日に『に行われた野口米次郎の『日本詩集』出版記念会』(以前からずっと気になっているのであるが、あらゆる研究書や年譜(筑摩書房の「萩原朔太郎全集」の年譜でも)でこの出版会を「『日本詩集』出版記念会」とするのだが、野口に「日本詩集」という詩集はない。これは、この日に、次号の「詩話會」の機関誌『日本詩人』の、この五月号が「野口米次郞記念號」として特集扱いで発行され、同時に詩人としての生活三十周年と満五十歳(野口は明治八(一八七五)年十二月八日生まれ)の誕生を祝賀する会が東京丸ノ内にあった「中央亭」というレストランで「詩話會」主催で多くの詩人らを集めて開かれたのである)『に出席した朔太郎が絡まれているのを見て』(正確には絡まれていると誤認して、である)『犀星が親友の危機と』早合点し、『椅子を振り回し』て、『加勢に駆けつけた』という一件である。この出来事は、萩原朔太郎の「中央亭騷動事件(實錄)」を読んで貰うに若くはない。「青空文庫」で、新字であるが、ここで読まれたい。因みに、そこでは朔太郎に絡んだかのように見えた、事件の発端の開いてしまった一人が、詩人岡本潤であったことも記されている。岡本潤(明治三四(一九〇一)年~昭和五三(一九七八)年)は本名保太郎で埼玉県生まれ。大杉栄・クロポトキンらのアナキズムに共鳴し、大正九(一九二〇)年に同年に結成された「日本社会主義同盟」に参加し、その頃から詩作を始めた。大正十二年には前衛詩運動に参加し、壺井繁治・萩原恭次郎らと、詩誌『赤と黒』を創刊した。昭和三(一九二八)年に処女詩集「夜から朝へ」を刊行、次いで昭和八年には第二詩集「罰当りは生きてゐる」を出したものの、発禁処分・押収となった。昭和一〇(一九三五)年十一月、治安維持法違反容疑逮捕され、翌年二月に釈放されるまで拘留された。昭和十一年一月に京都のマキノ正博による「マキノトーキー製作所」の陣容が発表されているが、岡本はその「企画部」のメンバーに名を連ねている。脚本を書いたようだが、当時のペン・ネームは不明で、同社は昭和十二年四月には解散している。昭和十五年に花田清輝らと『文化組織』を創刊、翌年には第三詩集「夜の機關車」を刊行、昭和十七年、大映多摩川撮影所に勤めている。戦後、敗戦から四ヶ月後の十二月二十七日公開の田中重雄監督の映画「犯罪者は誰か」の脚本家として「岡本潤」でクレジットされている。昭和二二(一九四七)年、アナキズムから共産主義へ転向している。

「きくや」不詳。可能性の一つとして、ひらがなの崩しで「ひらき」と書いたのを、編者が判読を誤った可能性がある。「飛」をもとにする「ひ」は「き」に、「良」をもとにする「ら」は「く」に似て見えるからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日・田端発信・薄田泣菫宛(転載)

 

拜啓過日は泣菫文集御惠投下され難有く存じます。裝幀が上等で紙が上等なのに驚きました。これからぼつぼつ拜見致します。なほちよつと鵠沼へ行つてゐた爲御禮狀が遲れ申譯なく存じて居ります

     鵠沼所見

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月三十日      芥川龍之介

   薄 田 樣

 

[やぶちゃん注:「泣菫文集」は大正十五年五月八日発行。無論、大阪毎日新聞社刊である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇視認出来る。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日」牛込區矢來町三新潮社氣附 木村毅樣・五月三十日 芥川龍之介

 

冠省。高著文藝東西南北頂戴いたし難有く存候。あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され恐縮に存候。Browning  Dramatic lyric が小生に影響せるは貴意の通りなり。これは報恩記のみならず「藪の中」に於ても試みしものに御坐候。尤も小生の南蠻小說などはいづれも餘り上出來ならず、唯小生はきりしとほろ上人傳だけは或は今でも讀むに足る乎と存じ居り候 頓首

    五月三十日       芥川龍之介

   木 村 毅 樣

 

[やぶちゃん注:「木村毅」(きむら き 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)は文学評論家・明治文化史研究家・小説家。岡山県勝南郡勝間田村(現在の勝田郡勝央町)生まれ。少年時代から文士を志し、『少年世界』や『文章世界』に投稿した。高等小学校卒業後、三年間、独学し、その後、早稲田大学英文科に入学、大正六(一九一七)年卒。当該ウィキによれば、『隆文館、次いで早稲田で同級だった植村宗一(直木三十五)らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も』詩人で宗教家であった宮崎安右衛門の「乞食桃水」や、宗教家西田天香「懺悔の生活」等のベストセラーを企画した。大正一〇(一九二一)年には、『『都新聞』に連載され』、『その後』、『私家版で書き継がれていた中里介山』の長篇時代小説「大菩薩峠」を『知り、出版を社長に提案し、宮崎安右衛門の紹介で介山と交渉して刊行したところ、大評判となった。関東大震災を機に』、『春秋社をやめ』、『評論』・『翻訳活動を行』うようになった。「小說硏究十六講」(大正一三(一九二四)年)は好評を博し、『川端康成に影響を与え、松本清張はこれを読んで小説家志望の念を固めた』という。『また』、『改造社の社長山本実彦』(さねひこ)『の依頼で』「現代日本文学全集」(大正一五(一九二六)年)を『編集し、その後』の『ブームとなる』所謂、「円本」の『嚆矢となった』(最後のそれは芥川龍之介が自死の前月まで宣伝講演で東北・北海道を巡回させられたそれである)。「明治文化研究会」『同人となり、のち第』三『代会長も務め』た。昭和三(一九二八)年には、『ヨーロッパへ渡り、デュマの遺跡探訪や、改造社の依頼でコナン・ドイルの翻訳権交渉なども行った』。小説・実録・『評論のほか、明治文化・文学を研究し』、『多数の著作を残す一方、日本フェビアン協会、労農党に参加。社会運動にも挺身した』。ここに出る「文藝東西南北」(大正一五(一九二六)年五月三十日刊)からの『明治・大正文学の研究は大きな業績で、この序文で内田魯庵は「木村君は東西古今に亘る多読家を以って知らる。就中明治文化に就いては夙に潜思して博渉最も力む。日に古書肆を採訪して露店までも漁って倦まず、往々意外の逸書を掘出して忘れられたる資料を捜り当てるあて第六感を持つてをる」と評された。また尾崎秀樹は「明治・大正文学研究をそれぞれの時代状況や社会の推移と照応させ、明治文化の全体像の中に位置付けようとした」「東西文化・文学との比較研究」「資料渉猟に基づく実証主義的な研究態度」「文学の社会的研究」をその評価、特色として挙げている』。戦後は、『早稲田大学百年史編纂委員、神戸松蔭女子学院大学教授を勤め』た、とある。なお、岡山県勝田郡勝央町(しょうおうちょう)にある勝央美術文学館の「文豪からの手紙」の「芥川龍之介と木村毅」のパンフレットPDF)が見逃せない。芥川龍之介の木村宛書簡(本書簡のそれもある)の写真も載る。必見!

「あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『『文芸東西南北』所収の「南蛮文学概説」で、木村は「南蛮小説」「芥川氏の独擅場」と評している』とある。

「Browning  の Dramatic lyric」イギリスの詩人ロバート・ブラウニング(Robert Browning 一八一二年~一八八九年)。本邦では、上田敏の訳詩集「海潮音」(明治三八(一九〇五)年)の中で愛誦される詩の一つにブラウニング「春の朝(あした)」がある。当該ウィキを見られたいが、そこには、ここで龍之介自身が記しているように、『芥川龍之介は自ら「ブラウニング信者」と称し、ブラウニングの』「指輪と本」を『意識的に下敷きにして』、かの「藪の中」(リンク先は私の古い電子テクスト。私の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』もお勧めである)『を書いたとされる』とある。

「報恩記」大正一一(一九二二)年四月『中央公論』初出。「切支丹物」。前掲書の石割氏の注に、『木村は「報恩記」に「ブラウニングの劇的抒情詩の様式の影響」を見た』と記され、また、『木村は、芥川の南蛮小説で「第一に好きな」作品とした』とある。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。「青空文庫」のこちらで、新字であるが、読める。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟

 

   ○古狸の筆蹟

世に奇事怪談をいひもて傳ふること、多くは狐狸のみ。貒、狢、猫の屬ありといへども、これに及ばず。思ふに狐の人を魅(バカ)す事、甚、害あり。狸の怪は、しからず。かくて古狸の、たまたま書畫をよくすること、世人の普くしるところにして、已に白雲子の蘆雁の圖は、寫山樓の藏にあり、良恕のかける寒山の畫は、蘐園主人、示されき。その縮本、今、載せて「耽奇漫錄」中に收めたり。これまさしく老狸の囮けるものにして、諸君と共に目擊する所なり。しかるに、その書をかけることを、予、甞て聞けるは、武州多摩郡國分寺村、名主義兵衞といふ者の家に、狸のかきたりし筆跡あり。三社の託宣にて、篆字、眞字、行字をまじへ、文章も違へる所ありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし、これは狸の、僧のかたちに化けて、此家に止宿し、「京郡紫野大德寺の勸化僧にて無言の行者」と稱し、用事は、すべて、書をもて、通じたり。邊鄙の事故、有り難き聖のやうにおもひて、馳走して留めたり、といふ。その後、武藏の内にて、犬に見咎められて、くひ殺され、狸の形をあらはしゝとのことなりし、とぞ。その頃、此事を人々にも語りしに、友人鹿山の、「同日の談、あり。」とて、いへらく、「予、往年、鎌倉に遊びしとき、川崎の驛に止宿し、問屋某の家に藏する所の『狸の書』といふものを見たり。『不騫不崩南山之壽』と書けり。その書體、八分にもあらず。眞行にもあらず。奇怪、言ふべからず。いかにも『狸の書』といふべし。問屋の話に、『鎌倉の邊の僧のよし』にて、其あたりを勸化せし事、五、六年の間なり。果は、鶴見・生麥の邊にて犬に食はれしよし、此事は、さのみ、久しき事にあらず。予が遊びし十年も前の事なり。」といふ。此二條、その年月を詳にせずといへども、今その墨跡の、現に、その家に存したれば、疑ふベからず。

[やぶちゃん注:以下の一段は、底本では全体が二字下げ。]

因に云、「五雜俎」曰、『狐陰類也。得陽乃成。故雖牡狐必托之女以惑男子也。』といへり。吾邦にも、むかしより、とかくに狐は婦人に化けたるためし、多かり。しかるに、狸は、いかなる因緣かありけん、茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや。

[やぶちゃん注:再び行頭に戻る。]

又、いとちかき年に、一奇事あり。或人の筆記に、文化四年丁卯、ある人のもとにて、狸のかける書といふものを見たり。

此書をもらひし書通、あり。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「宇兵衞樣」まで全体が二字下げ。]

此間、御話申上候たぬきの事、被仰下致承知候。則書付入御覽候。乍然是は此方にて願

 

Tanukinohisseki

 

[やぶちゃん注:底本の図を底本と同じ位置に配した。白抜きの大きな文字は恐らくは「竹」の崩しである(後に電子化する著作堂馬琴の附記を参照)。左下に「万十才」或いは「百十才」(後者か)「田ぬき」とある。長寿を言祝ぐものか。]

 

掛致候間、願之叶候と申事にも無之、あの方へ參り、直に、たぬきへ願申候と申事に御座候間、此段、篤と御相談被成候て、御願かけ可被成候。委細は左之通御座候。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

右之所に御座候。成田へ御參り候道より、餘ほどより候由、江戶より、廿二、三里、御座候由、成田之道にて承り候得共、人々存罷在候よし、

 先方へ參り候ても、みだりには、たぬきに逢候事、出來不申候。

  江戶藥硏ぼりにて みの田吉右衞門當時隱居 有甫

右之仁、如何の譯やら、たぬきと懇意之由。下谷之去る御屋敷方より、先日、人被遣候節、「右有甫より、手紙もらひて參り候。」と申事、御座候。是は、只一通り見物に參るにて、願かけには無御座候。咄之通、至て、奇怪之咄、御座候。近所之者抔は「病氣。」と申し、「願ひ參候ものも、見かけ候。」と申事故、御人にても、被遣候はゞ、右之有甫より手紙もらひ不申候而者、陣屋之事に御座候間、内へは入申間敷被存候。外に餘り知れ不申樣致し候よしに付、江戶より參候と申候而者、中々、たぬき殿へ逢せ候事、出來間敷候間、此段、態々、御考、御願かけ可被成候、やがて、神に祭り候と申事にて、「實見大明神」と申名を付候て、祭り可申と申事之由、咄承り申候。

 眞に右之通、御座候。右之名にて願掛可被成候。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

[やぶちゃん注:次の段は行頭から。]

右一條、いと近き事ながら、世上に知らるゝを嫌ひて、深く祕めかくしゝにや。噂をだに聞かざりし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、全体が最後まで二字下げ。]

附けて云、中橋にすめる醫生の、いとも、狸を好める癖ありて、みづから、名を「狸庵」としも、號のれる[やぶちゃん注:「なのれる」。]人ありて、書に、畫に、何くれのものにても、「狸。」とだに、いへば、求め得て、藏め、もたるよし、聞けり。且、「そのこと、しるしたる隨筆めくもの、あり。」といへど、予は、いまだ見るに及ばず。これらの事も載せたりや、しらず。

   文政乙酉[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]五月朔     山崎美成記

[やぶちゃん注:「貒、狢」先行する「むじな・たぬき」の私の注を参照されたい。

「白雲子」不詳。

「寫山樓」南画家谷文晁(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の号。

「良恕」後陽成天皇の弟で天台座主(就任は寛永十六年)となった良恕入道親王(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)和歌・書画に優れた。

「寒山の畫」伝承で実は狸が良恕に化けて描いたとする「寒山図」があった記録がある。サイト「浮世絵文献資料館」の「古画備考」こちらの「良恕」の条を見られたい。

「蘐園」(けんゑん)は荻生徂徠の別号。

『「耽奇漫錄」中に收めたり』これ(国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該図)。次の頁に短い説明が載るが、前注のリンク先にある「江州相原郡今益田村」(旧近江国野洲郡相原庄で、現在の滋賀県野洲市大篠原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を中心とした一帯か。しかし「今益田」も「上野原」も見当たらない)が一致する。こ奴も、以下のケースと同じく、後に、その村の近くの「上野トイフ原ニテ大」(=犬)「ニ喫殺」(くひころ)「サレテ其古狸ノカセシヿ」(こと)「ヲ知ルト云」とある。

「武州多摩郡國分寺村」現在の東京都国分寺市

「三社」伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社或いは春日大社。別に、「さんじや」で東京都台東区浅草の浅草神社の俗称。同神社は江戸時代まで「三社権現」「三社明神」と称していた。

「友人鹿山」不詳。

「不騫不崩南山之壽」所謂、「南山之壽」(なんざんのじゅ)。「南山」は終南山(陝西省にあり、一般的には秦嶺山脈の中央附近を指す。道教の発祥の地の一つであり、仏教の南山律宗・華厳宗・三論宗の発祥の地でもあって、宗教を超えた霊地として知られる)その終南山が永久に変らないように、「長寿がいつまでも続くことを願う」語とされる。原拠は「詩経」の「天保」の一節「如南山之壽、不騫不崩」(南山の壽のごとく、騫(か)けず、崩れず。)に基づく。「騫」はここでは「缺」の意。

「八分」(はつぷん(はっぷん))で、漢字の書体の一種の名である「八分体」。隷書の一種で、漢代に蔡邕(さいよう)が、或いは、秦代に王次仲が創り出したとされる。その書体が「八」の字が分散しているように見えるところから名づけられたとも、また、篆書が二分ほど、隷書が八分ほど混ざった書体であることから名づけられたとも言う。「八分字(はふじ)」「八分書」「八分体」とも呼ぶ。

「眞行」「眞」は楷書、「行」は行書。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻九「物部一」の以下の一節の部分。

   *

狐千歲始與天通、不爲魅矣。其魅人者、多取人精氣以成内丹。然則其不魅婦人、何也。曰、「狐、陰類也。得陽乃成。故雖牡狐、必托之女。以惑男子也。然不爲大害、故北方之人習之。南方猴多爲魅、如金華家貓、畜三年以上、輒能迷人、不獨狐也。

   *

この引用部は「狐は陰の類なり。陽を得て、乃(すなは)ち、成れり。故に、牡狐と雖も、必ず、之れ、女に托して、以つて、男子を惑はすなり。」であろう。

「茂林寺の守鶴」このために、急遽、本早朝より六時間ほどかけて「甲子夜話 卷三十五 十五 分福茶釜」を電子化注したので、そちらを見られたい。

「文化四年丁卯」一八〇七年。本発表は文政八(一八二五)年五月一日。

「書通」(しよつう)は「書簡の遣り取り」の意。

以下の地下文書の書簡は、一部が非常にまどろっこしく、意味がとり難い部分があるので、書き直しておく。書簡の切れと思う箇所に「*」を入れた。

   *

此の間、御話申し上げ候ふ「たぬき」の事、仰せ下されしは、承知致し候ふ。則ち、書付、御覽に入れ候ふ。然りながら、是れは、此の方にて、願(ぐわん)掛け致し候ふ間、之れ、願ひ叶ひ候ふと申す事にも、之れ、無く、あの方へ參り、直(ぢき)に、「たぬき」へ願ひ申し候ふと申す事に御座候ふ間、此の段、篤(とく)と御相談成され候ふて、御願(ごくわん)かけ成らるべく候ふ。委細は左の通りに御座候ふ。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

   *

この「香取郡大貫村」は現在の千葉県香取郡神崎町(こうざきまち)大貫。「忰」は猿山源兵衛の「せがれ」。若くて、見習い中なのであろう。「藤堂和泉守樣御陣屋」とあるのは、芭蕉に因みある伊賀国の津(藤堂)藩は、飛び地領として、元和三(一六一七)年に下総国香取郡の十四ヶ村三〇〇〇石を与えられていたことによる出先役所である。

   *

右の所に御座候ふ。成田へ御參り候ふ道より、餘ほどより候ふ由、江戶より、廿二、三里、御座候ふ由、成田の道にて承り候得(さうらえ)ども、人々、罷り在り存じ候ふよし。

 先方へ參り候ふても、みだりには、「たぬき」に逢ひ候ふ事、出來申さず候ふ。

  江戶藥硏ぼりにて みの田(みのだ)吉右衞門 當時 隱居 有甫(いうすけ)

   *

右の仁(じん)、如何(いかなる)の譯(わけ)やら、「たぬき」と懇意の由。下谷の、去る御屋敷方より、先日、人遣はされ候ふ節、「右、有甫より、手紙、もらひて參り候。」と申す事、御座候ふ。是れは、只、一通り、見物に參るにて、願かけには御座無く候ふ。咄(はなし)の通り、至つて、奇怪の咄、御座候ふ。近所の者抔は、「病氣。」と申し、「願ひ參り候ものも、見かけ候ふ。」と申す事故(ゆゑ)、御人にても、遣はされ候はゞ、右の有甫より、手紙もらひ申さず候ふては、陣屋の事に御座候ふ間、内へは入れ申すまじく存じ候ふ。外(そと)に餘り知れ申さず樣(やう)致し候ふよしに付き、「江戶より參り候」と申し候ふては、中々、「たぬき殿」へ逢せ候ふ事、出來まじく候ふ間、此の段、態々(わざわざ、御考へ、御願(ぐわん)かけ成らるべく候ふ。「やがて、神に祭り候ふ。」と申す事にて、『「實見大明神」と申す名を付け候ふて、祭り申すべし。』と申す事の由、咄、承り申し候。

 眞に右の通り、御座候。右の名にて、願掛け、成らるべく候ふ。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

   *

「中橋」(なかばし)は恐らく、日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、安永三(一七七四)年には既に埋め立てられて「中橋広小路」という町となっていた。『盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集ま』っていた場所という。現在の八重洲通りと中央通りの交差する附近こちらの解説に拠った)。]

甲子夜話 卷三十五 15 分福茶釜(フライング)

 

[やぶちゃん注:本話は、現在、電子化注の作業中である『曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟』(山崎美成の発表)の「茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや」の注を附すに、こちらを電子化するに、如くはなし、と考えたので、遙かなフライングであるが、電子化することとした。「つぶやき」も何時もと異なり、詳細な注とした。

 

35-15 分福茶釜

「池北偶談」に、僧の鶴に化して飛去しこと見ゆ。吾國にも上野の茂林寺にて貉の僧となりて、後に飛去りしことあり。始は僧にもせよ鶴の飛去るは有るべきが、貉の飛ぶは何なることや。この貉は人と化して名を守鶴と云ける。鶴と云こと飛に緣なきにあらず。世に謂ふ分福茶釜と云ふは、この僧の嘗て所持の釜なり。緣記[やぶちゃん注:ママ。]あり。こゝに附出す。今館林侯の領邑なり。

南昌府驛路精舍。去ルコトㇾ江不ㇾ遠。溪水𢌞繞、修竹萬个、風景淸幽。康煕初忽偉丈夫。襆披シテ來宿。貌甚雄奇ナリ。居止旬日、語西音。自カラ風土、欲ㇾ爲ントㇾ僧。難ㇾ之。曰。吾橐中有百金。盡以相付セン。但仰饘粥。於ㇾ此レリト矣。乃從ㇾ之。遂落髮。每日粥飯外、卽面壁シテ不ㇾ語。或竟夕不ㇾ臥。亦不ㇾ經ㇾ禪。如クナルコトノㇾ是六七年、初メヨリ不ㇾ解ㇾ衣。或窃ルニ兩臂、皆有銅圏ㇾ之。莫ㇾ測ルコト也。一日與儕輩江上。有數人ㇾ舟ㇾ岸。望シテ、趨前シテ揖スレバ、則揮シテㇾ手ムルㇾ之耳。語移シテㇾ時。戊申歲、忽沐浴シテㇾ佛、遍レテ寺僧云。明日當シト二涅槃。衆皆不ㇾ信。至ㇾ期ㇾ臺ㇾ坐。少頃ニシテ火自鼻中、煙焰滿ㇾ空。有白鶴頂中、旋空際。久フシテㇾ之始。大衆皆見。周伯衡時南昌憲副。述其事化鶴ノ記

往昔茂林寺に守鶴といふ老僧あり。應永年中、開山禪師にしたがつて館林に來り、茂林寺十世岑月禪師まで隨從す。此僧有德碩學にて又能書なり。茂林寺七世月舟禪師の時會下の衆僧千人にこへ、法幢さかんなること他にたくらぶるなし。然るに茶釜小さくして茶行わたらざるをなげきければ、守鶴いづくともしらず一ツの茶がまをもち來り茶をせんじけるに、晝夜くめどもつきることなし。人々ふしぎにおもひ其故を問。守鶴曰。これは分福茶釜とて何千人にてのむとも盡ることなし。殊に此釜八ツの功德あり。中にも福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は、一生かはきのやまひを煩ふ事なく、第一文武の德を備へ、物にたいしておそるゝことなく、智惠をまし諸人愛敬をそへ、開運出世し、壽命長久なるべし。此德うたがふべからずとなり。それより年月をへ、十世岑月禪師の代にいたり、或時守鶴一睡のうち手足に毛はへ、尾見えたりなど、たれとなくさゝやきければ、守鶴早くさとり、方丈に向つて曰。我開山禪師に隨しより當山にあること百弐拾餘年になりぬ。然るに今化緣つきてしりぞき侍る。我誠は數千載をへたる貉なり。釋尊靈就山にて說法なし給ふ會上八萬の大衆のかずにつらなり、それより唐土へわたり、又日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せしより、今に至るまで由來の高恩言語にのべがたし。今はなごりをおしまんため、源平八嶋のたたかいを今あらはして見せ申さんと、一つの呪文をとなふるうちより、寺内たちまちまんまんたる海上となり、源氏は陸、平氏は船、兩陳[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。「陣」。]たがひにせめたたかふ有樣、恰も壽永の陳中にあるがごとし。人々ふしぎと見るうちに、あとかたもなくきえうせぬ。又釋尊靈山會上說法のていを拜せ申さん。しかしかりの戲れごとなり、とふとしと思ひ給ふことなかれとて、又も呪文をとなふれば、庭上梢紫雲たな引、空に花ふり音樂きこえ、七寶のようらく、千しゆのせうごん、ありありと釋尊獅子の寶坐に說法あれば、あまたの御弟子羅漢たち、かふべをうなだれ聽聞のてい、今見ることのありがたさよと、皆一同にふしおがめば、守鶴今はこれまでなりと、正體あらはし貉となりて飛さりぬ。方丈はじめ一山の僧俗、みどり子の母にわかるゝごとく、なげきしたはぬはなし。其のち神に祭り、守鶴宮とて一山の鎭守となり、今にれいげんあらたなり。扨守鶴能書なりといへども、筆跡皆うせて直堂の札のみのこれり。今打碑して人にあたふ。是をかけおけば、惡魔をはらひよろづの災難をのぞく。信ずべし。又茶釜の茶にてねり丸する守鶴傳の妙藥あり。その功神のごとし。右にいふごとく守鶴むじなとなり、飛さるといへども、まことは是羅漢の化現なりといふ。實に左もあるべし。百有餘年のうちの善功善行、子弟をおしへ、俗をみちびく。皆よのつねの人のよくおよぶところにあらず。とうとむべし、敬ふべし。

          上州館林靑龍山茂林寺

■やぶちゃんの呟き

「分福茶釜」(ぶんぷくちやがま)と茂林寺についての学術的考証は、榎本千賀(ちか)氏の論文「茂林寺と分福茶釜」(『大妻女子大学紀要』一九九四年三月発行)がよい。こちらからPDFでダウン・ロード出来る。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。

「上野の茂林寺」群馬県館林市堀工町にある曹洞宗青龍山茂林寺(もりんじ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。公式サイトはこちら。以下、当該話は、巻二十五の「化鶴(くわかく)」で維期文庫のこちらで電子化原文が確認出来る。また、「中國哲學書電子化計劃」のこちらでは影印本の当該箇所が視認出来る。静山の写した漢文(かなり正確)を訓読しておく。不足していると私が判断した部分に独自の句読点・送り仮名を附し、一部は従わずに、私の読みで示した箇所がある。読みやすくするために段落を成形した。

   *

 南昌府[やぶちゃん注:現在の江西省南昌市。]驛路の旁らに精舍有り。江(かう)を去ること遠からず。溪水、𢌞繞(くわいねう)し、修竹(しゆちく)萬个(ばんこ)、風景淸幽たり。

 康煕[やぶちゃん注:一六六二年~一七二二年。]の初め、忽ち、偉丈夫有り。襆披(ぼくひ)して[やぶちゃん注:旅姿で。]來宿す。貌、甚だ雄奇なり。

 居止すること、旬日、語は西音を操る。自(みづ)から言ふ。

「此の地の風土を愛し、僧とたらんと欲す。」

と。

 之れを難ずるに、曰く、

「吾が橐中(たくちゆう)[やぶちゃん注:袋。]に百金の裝(さう)有り。盡(ことごと)く以つて相ひ付せん。但だ、饘粥(せんしゆく)を仰ぐのみ[やぶちゃん注:ただ、日々の斎料(ときりょう)の粥を頂戴したいだけである。]。此に於いて足れり。」

と。

 乃(すなは)ち、之れに從ふ。

 遂に落髮す。

 每日の粥飯の外は、卽ち、面壁して語(ご)せず。或いは竟夕(きやうせき)[やぶちゃん注:一晩中。]臥さず。亦、經を誦し、禪に參ぜず[やぶちゃん注:ここは連用中止法で、「経も読まず、~」である。]。

 是(か)くのごとくなることの、六、七年、初めより、衣を解かず。或いは窃(ひそ)かに兩の臂(ひ)を視るに、皆、銅圏有りて、之れを束(そく)す[やぶちゃん注:「両の腕に銅の輪があって、それでもってぎゅっと締めている」の意か。]。測ること莫し[やぶちゃん注:それら理由は推察してみてもさっぱり判らなかった。]。

 一日(いちじつ)、儕輩(せいはい)[やぶちゃん注:同じ修行僧ら。]と晩に江上(かうしやう)に立つ。數人有りて、舟を泊め、岸に登る。之れを望見して、大きに驚き、趨前して[やぶちゃん注:素早く前方へ進んで、]、揖(しふ)すれば、則ち、手を揮(き)して、之れを止むる[やぶちゃん注:この「揖」は「楫」(かぢ)の意ではあるまいか? 空舟が流れ出そうになったのを、舟に飛び乗り、楫を揮(と)って戻したのであろう。]。「語(こと)の移る時を耳(き)きたり。」とて[やぶちゃん注:ここは維期文庫のそれで訓読してみた。]、別れ去る。

 戊申(ぼしん)の歲、忽ち、沐浴して、佛に禮し、遍(あまね)く寺僧に別(れをい)ひて云はく、

「明日(みやうにち)、まさに涅槃すべし。」

と。

 衆、皆、信ぜず。

 期(とき)に至り、臺に登りて、坐を敷く。少頃(しやうけい)にして[やぶちゃん注:暫くして。]、火、鼻中より出で、煙焰(えんえん)、空に滿つ。

 白鶴有り、頂(うなじ)の中(うち)より、飛び出で、空際(くうさい)に旋繞(せんねう)す。

 之れ、久ふして、始めて沒す。

 大衆、皆、見る。

 周伯衡[やぶちゃん注:不詳。]、時に南昌憲副たり。其の事を述べて、「化鶴(くわかく)の記」を作る。

   *

これは仙道で言う「屍解仙」である。

「應永」一三九四年から一四二八年まで。

「開山禪師」茂林寺公式サイトのこちらによれば、開山は大林正通(だいりんしょうつう)で、応永三三(一四二六)年、『正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結び』、『応仁二』(一四六八)『年、青柳城主赤井正光(照光)は、正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号し』『た。正光(照光)は、自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務め』たとある。

「茂林寺十世岑月禪師」「しんげつぜんじ」。「信濃史料」に、「慶長二 後陽成天皇、高井郡常樂寺住持壽淸天庵ニ、岑月圓光禪師ノ號ヲ援ケラル」(ADEAC」の画像資料を視認した)とある。そのクレジットは慶長二(一五九七)年十月十八日であるから、百六十九年である。但し、以下の茂林寺公式サイトの解説では十世を天南正青とする。まあ、伝説であるから、齟齬や史実を云々するまでもあるまいと思う。

「茂林寺七世月舟禪師」月舟正初(げつしうしょやうしよ)。茂林寺公式サイトの「分福茶釜と茂林寺」に、『寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました』。『元亀元』(一五七〇)年、『七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました』。『その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます』。『人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから』、『百六十一年の月日が経っていました』。『後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」』(ぶんぷくちゃがま)『として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました』とある。リンク先の上にその茶釜の写真があり、現在も本堂北側の一室に安置されてあるとある。

「會下」「ゑげ」「ゑか」。「会座」(えざ)に集まる門下の意で、禅宗・浄土宗などで、師の僧のもとで修行する所を指す。

「法幢」(ほふどう(ほうどう))は、原義は「仏法」(仏法を敵を圧倒する猛将の幢(旗鉾(はたほこ)に喩えたもの)。禅宗では説法があることを知らせるために立てる幟(のぼり)の意もある 。

「たくらぶる」「た比(較)ぶる」。比べる。平安末期以降の用語。

「此釜八ツの功德あり。中にも」㊀「福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は」㊁「一生かはきのやまひを煩ふ事なく」㊂「第一文武の德を備へ」㊃「物にたいしておそるゝことなく」㊄「智惠をまし」㊅「諸人愛敬をそへ」㊆「開運出世し」㊇「壽命長久なるべし」で八つある。

「百弐拾餘年」自称の割に過小表現である。

「化緣」(けえん)は「衆生を教え導く因縁・化導(けどう)の因縁」或いは「仏菩薩の教化を受ける衆生の側の力・教えが説かれるためにもともと衆生の持っている機縁」の意。

「靈就山」(りやうじゆせん)は漢訳語は「靈鷲山」(りょうじゅせん:現代仮名遣)が一般的。インドのビハール州のほぼ中央に位置する山(この中央附近)で、大乗経典にでは、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山として知られる。サンスクリット語では「グリドラクータ」、パーリ語では「ギッジャクータ」。

「會上」「ゑじやう」。会座のほとり。場。

「唐土」「もろこし」と訓じておく。

「日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せし」数えで単純換算すると、西暦で六二七年で、本邦へ彼が渡ってきたのは、推古天皇三十四年となり、これは聖徳太子が亡くなった五年後、蘇我馬子の没した翌年に相当する。

「守鶴宮」現在、茂林寺境内に守鶴堂としてある。茂林寺公式サイトの境内案内のページを参照されたい(写真有り)。本堂の脇の建物には正通大和尚像と守鶴和尚の像もあるとある。

「直堂」(ぢきだう)は禅宗の寺院で衣鉢を看守する当番のこと。或いは僧堂の守り役を示すもの。この「札」の現存は、不明。

「打碑」拓本にすること。

「ねり丸」練(ね)り丸薬(がんやく)。

「その功神のごとし」「その功(こう)」(効能)たるや、「神」妙(しんみょう)なるに似たり。

「化現」仏・菩薩などが世の人を救うために姿を変えてこの世に現われること。

「實に」「げに」。

2021/08/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事 / 第四集~了

 

[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖草加屋安兵衞娘之事】」とある。「一錢職分由緖」は前に分離して出した。短歌は底本では三字下げであるが、引き上げた。]

 

○兩國藥硏堀うなぎや草加屋安兵衞は、紀名虎が末流のよし、娘は松平越中守殿につかへけるが、あるとしの冬の夜、此娘、御側に侍りける時、折ふし、あられ、降り來りければ、守の殿、此音を聞き給ひて、「かゝるさむけき夜も、今、泰平の御代に生れあひぬれば、寒き事も、おぼえず。かく、ゆたかにあるこそ、實に有りがたき事なれ。」と仰せられて、

こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく

と詠み給ひて、「其方も、紀氏の末流なれば、卽詠せよ。」と仰せありける時、此むすめ、

あつぶすまかさねても猶さむき夜に道ゆく人の聲ぞきこゆる

後に此娘、御いとま給はりて、牛込御納戶町近江屋半三郞といふ者のかたへ嫁すべき時に、殿の御歌、

一かたに心さだめよ小夜ちどりいづくの浦に浪風はなき

といへる御歌を給はりき、となん。此安兵衞の遠祖は、駿河大納言につかへ奉りて、其比、堀田三郞兵衞といひしよし。君、御生害の後、武州草加に、ゆかり、もとめて、百姓となり居たりしかば、今の安兵衞より三代まへの事なりと、いへり。

[やぶちゃん注:以下は底本では最後まで全体が三字下げ。]

右白川侯の御歌は、鎌倉の右府實朝公の御歌に、

武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原

「續後拾遺集」に見えたり。此歌を思し召し合せ給ひて、よみたまひしなるべし。

先祖堀田三郞兵衞、大納言の君、御生害の後、追腹もきらず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衞に至りて「うなぎや」となりしは、先祖が腹をきらぬかはりに、今、うなぎの脊をさくも、をかし。

[やぶちゃん注:「兩國藥硏堀」小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋二丁目の両国橋西詰の付近にあった堀。日本橋付近の米・竹・材木などの蔵に物資を運送する水路として利用されたが、御米蔵の築地移転後に一部を残して埋め立てられ、その一帯の地名として残った。踊子と呼ばれた女芸者が多く住んでいた。また、付近には堕胎専門の中条流の女医者も多かった』とある。切絵図を見ると、現在の中央区立日本橋中学校敷地内の同地区と接する部分に「薬研堀」の名残が認められるから、この中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北から南西にかけての位置が狭義の薬研堀のように思われる。

「紀名虎」紀名虎(きのなとら ?~承和一四(八四七)年)は平安前期の官吏。娘の種子(たねこ)を仁明天皇の。静子を文徳天皇の更衣とし、惟喬親王を始め、多くの皇子・皇女の外祖父となり、承和十年は正四位下に進み、中務大輔(なかつかさのたいふ)を経て、翌年には刑部卿となったが、藤原氏との勢力争いに敗れ、要職には就かずに終った(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。系図を見ると、かの紀貫之の曽祖父の弟である。

「松平越中守」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。

「こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく」整序すると、

 籠手の上に降りし世知らで厚衾重ねて夜の霰をぞ聽く

か。「籠手」手首の保護に当てる武装具。

「牛込御納戶町」現在の新宿区納戸町

「駿河大納言」徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は駿河国駿府藩藩主。徳川第二代将軍秀忠の三男。第三代将軍家光の弟。母は秀忠の正室崇源院(於江与)。秀忠夫妻が才智に恵まれた忠長を寵愛したため、次期将軍になるという風評があり、危機感を抱いた家光の乳母春日局が、駿府の家康に嘆願し、家康の指示で、家光が世子と決定した(家康は元和二年没で、世子決定は元和年間とされるので、元和元年からそれまでの閉区間となる)。元和四(一六一八)年、甲斐国を領地として与えられ、同六年に元服、従四位下・参議に叙任された。寛永元(一六二四)年、駿府藩主となり、駿河・遠江両国五十五万石を領した。同三年八月には従二位権大納言に叙任されたので、世に「駿河大納言」と称された。同五年頃から、忠長の行動が荒れ、同八年に入ると、家臣を手討ちにしたり、仕えていた少女を殺害して唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始め、江戸で頻発していた辻斬りも忠長の仕業であると噂された。同年八月末、付家老の朝倉宣正の切腹を上訴したことから、秀忠は忠長を付家老鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させた。同十年九月、前年の一月の秀忠の死後、親政を行っていた家光が重病に陥ると、世間では「忠長与党の大名が反乱を起こそうとしている」という噂が飛び交った。そのため、危機感を抱いた家光は、病気回復後、忠長を安藤重長の領地上野高崎に移し、阿部重次を派遣し、自害を命じた。自害の場所は高崎の大進寺であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」の一首(三四八番)、

   霰

 もののふの矢並繕ふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

この「矢並」(やなみ)は矢を収納する胡簶(やなぐい)・箙(えびら)の中の矢並びを実戦に備えて整えること。

「續後拾遺集」「續(しよく)後拾遺和歌集」は後醍醐天皇の命になる勅撰和歌集。全二十巻。二条為藤・二条為定(為藤の甥で彼の死後を引き受けた)撰。正中三(一三二六)年撰進。十三代集の第八番。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 壹錢職分由緖之事

 

[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖草加屋安兵衞娘之事】」とある。「草加屋安兵衞娘之事」は次に分離した。]

 

   ○壱錢職分由緖之事

一職分之儀者、文永中

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 人皇八十九代御帝龜山院樣御宇、上北面にて

       北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿

故有之、流浪長門國下之關邊居住、子息三人有之。嫡子北小路大藏亮藤原基詮右四人流居之内、吉岡久左衞門以介抱渡世、大藏亮太物賣、兵庫亮染物師、采女亮儀は父基晴卿爲養育髮結職と相成、難ㇾ顯面體往來住宅、雨落より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡障子三尺寸法と相定致渡世の内、父基晴卿經年月死去之後、關東鎌倉繁花の時、居住桐ケ谷にて松岡と號し、采女亮七代之孫北小路藤七郞、從美濃國岐阜、元龜天正之比、流浪於遠江國比久間味方ケ原、東照大權現樣、甲駿信之押武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と御一戰被爲有、比者元龜三 壬申年十月十四日、東海道見附驛之間道一言坂より池田迄、及夕陽總御同勢共、濱松之御館へ御引揚被爲遊候時、其日大風雨にて、東海道天龍川滿水にて渡船難相成に付、渡守仕候者共、我家々へ引取り川端に壱人も不居合、御渡船難被爲游候。然る所に北小路藤十郞行掛候に付、奉蒙嚴命。尤水練功者之事故、奉畏川淺瀨踏に御案内奉申上候。右に付無御難。濱松之御城に御引揚相濟、御悅喜有之。以來諸國關所川々渡場等迄、無相違御通し下置候なり。尤其節、後殿之義、本多中務大輔忠勝殿被相勤候事、猶又其後三河國碧海郡原之鄕迄奉御供、其砌蒙嚴命、東照源大神君樣奉ㇾ揚御髮、當座之爲御褒美金錢一錢、御笄一對、榊原式部大輔康政殿御取次を以頂戴之。以來結髮之總名を一錢と可唱者也と蒙ㇾ仰、直に御暇被下置流浪して、一錢職分渡世致來候處、其後慶長八卯年關東武場へ德川樣御入國被爲有、其砌一錢職分繁七郞、東部繁花之地と相成候に付、武藏國芝口海手邊に罷出居住渡世致來候所、其刻預御召、先年之爲御褒美靑銅千疋、伊奈熊藏殿御取次を以頂戴之。愈益一錢職分致來候處、其後萬治年中、嚴有院樣御代、北小路藤七郞四代之孫北小路總右衞門、神田三河町へ引移居住、御府内一錢職分株敷御願申上候處、御糺の上、由緖有之に付御取立被爲遊、御公儀樣御朱印被下置、株敷被成下。其上尙御燒印之御下札等頂戴之仕候に付、株敷補ひ一錢職分渡世相續致來候處、其後享保年中、有德院樣御代、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ諸職人被召出、株敷有之者共、夫々之御役義被仰付、其砌一錢職分之者へは、先年神君樣天龍川御難儀之刻、淺瀨御案内奉申上候由にて、御役義御免と被仰出候得共、一錢職分之者共、一同株敷被下置候。爲冥加相應之御役義奉願上候に付、御聞濟有之、以來出火之砌、兩御町奉行所へ缺付、御記錄入御長持御役義相勤株敷渡世相續致來候事。

相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。]嫡男幸次郞依幼年、不ㇾ辨於職分由緖與ㇾ書者也。

 享保十二丁未年九月十二日 北小路宗四郞藤原基之

前書之趣に付、諸國諸武家落人百名以上之面々、虛無僧と一錢職分に相成、忍渡世にて先君へ召通し可相待者也以上。

 慶長八卯年

 大御所樣於御前本多上野介正純を以、東都酒井讃岐守殿へ仰渡置、此段道中奉行松浦越前守殿へ被仰達置候事。仍而如件。

 右髮結職と相成、鬢盥持參して渡世之事は、萬治元年八月十六日よりはじまりしといふ。

 

[やぶちゃん注:「壱錢職」(「分」か当該「職分」(地位・資格・公的約定の意)は「一錢剃(いつせんぞり)で近世の初め、道端に仮屋を構えて男の月代(さかやき)や髭を剃り、髪を結うことを職とした者の呼称。後の「髪結床」の前身。その料金が一人に付き一銭(一文)であったことによる。「一文剃り」「一銭職」「一銭」とも呼んだ。以下、全部の訓読を試みる。読点は返り点と本文挿入のひらがな以外は一切ないので、誤読も多いとは思うが、見た目、文意が通ずるように、勝手に送り仮名を添えておいたし、場所によっては返り点のない箇所でも返って読んだ。また、一部の助詞・助動詞でない漢字を読み易さを考えてひらがなにした。なお、先に私の後注(引用)を読んだ方が、理解しやすい

   *

   ○「壱錢職」分の由緖の事

一、職分の儀は、文永[やぶちゃん注:鎌倉時代で、一二六四年から一二七五年まで。天皇は亀山天皇・後宇多天皇。幕府将軍は宗尊親王・惟康親王。執権は北条長時・北条政村・北条時宗。]中、

 人皇八十九代御帝龜山院樣御宇[やぶちゃん注:在位は正元元(一二六〇)年から文永十一年一月二十六日(一二七四年三月六日)までであるから、弘長四年二月二十八日(一二六四年三月二十七日)の文永への改元から上記までの閉区間となる。]、上北面(しやうほくめん)にて[やぶちゃん注:「北面」は院の御所の北面にある詰所。四位・五位の諸大夫で北面の侍となって院への昇殿を許された者の詰所。]。

       北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿

故、之れ、有り。長門國下之關邊に流浪して居住せし、子息三人、之れ、有り。嫡子北小路大藏亮藤原基詮、右四人、流居の内、吉岡久左衞門、介抱を以つて渡世と爲し、大藏亮は太物賣(ふとものうり)[やぶちゃん注:「太物」は絹織物を「呉服」というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物の総称。]、兵庫亮は染物師、采女亮儀は、父基晴卿、養育爲して、髮結職と相ひ成り、面體、顯はれ難きやう、往來・住宅は、雨落[やぶちゃん注:屋根からの雨垂れが落ちる所。軒先の真下。]より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡・障子三尺寸法と相ひ定め致して渡世の内、父基晴卿、年月を經て死去の後、關東鎌倉、繁花の時に、居をうつし住み、桐ケ谷(きりがやつ)[やぶちゃん注:現在の鎌倉市材木座(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあったとされるが、限定不能。地形上からは南東部のどこかかであろうとは推測される。]にて「松岡」と號す。采女亮が七代の孫北小路藤七郞、美濃國岐阜より、元龜・天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七〇年からグレゴリオ暦一五九三年。]の比、遠江國比久間味方ケ原(みかたがはら)[やぶちゃん注:静岡県浜松市北区三方原町近辺。「比久間」は不詳。或いはここは「比久間・味方ケ原」で、三方ヶ原のかなり北ではあるが、静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間の誤りかも知れない。]に流浪す。東照大權現樣、甲・駿・信の押しにて、武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と、御一戰爲される有り、比(ころ)は元龜三壬申年十月十四日[やぶちゃん注:一五七二年。この年の秋に甲斐の武田氏による西上作戦が発動され、三河の徳川領を北・東の二方面から同時に侵攻が始まった。「遠江三方ヶ原の戦い」で家康が武田勢に大敗するのは十二月二十二日であった。]、東海道見附驛の間道一言坂より、池田まで、夕陽に及び、總ての御同勢ども、濱松の御館(みたち)へ御引き揚げ、爲され遊され候ふ時、其の日、大風雨にて、東海道の天龍川、滿水にて、渡し船、相ひ成り難きに付き、渡守仕り候ふ者ども、我が家々へ引き取りて、川端には、壱人も居合はせず、御渡し船、爲され難く游ばされ候ふ。然る所に、北小路藤十郞、行き掛り候ふに付き、嚴命を蒙り奉りて、尤も水練の功(たく)みなる者の事故、畏れ奉りながら、川の淺瀨を踏(ふむ)に、御案内奉り申し上げ候ふ。右に付き、御難、無し。濱松の御城に御引き揚げ相ひ濟み、御悅喜(およろこび)之れ有り。以來、諸國の關所、川の川渡し場等まで、相違無く御通し下さえ置き候ふなり。尤も其の節、後殿(しんがり)の義、本多中務大輔忠勝殿、相ひ勤められ候ふ事、猶、又、其の後、三河國碧海郡原之鄕まで御供奉り、其の砌り、嚴命を蒙り、東照源大神君樣の御髮を揚げ奉り、當座の御褒美金として、錢一錢・御笄(かうがい)一對、榊原式部大輔康政殿の御取次を以つて之れを頂戴し、「以來、結髮の總名を『一錢』と唱ふ者なり。」との仰せを蒙れり。直に御暇(おんいとま)、下され置き、流浪して、「一錢職」分の渡世致し來たり候ふ處、其の後、慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年。この二月十二日に徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府した。]、關東武場[やぶちゃん注:「武陽」の誤読或いは誤植。]へ德川樣御入國爲さるる有り。其の砌り、「一錢職」分繁七郞、東部繁花の地と相ひ成り候ふに付き、武藏國芝口の海手(うみて)邊りに罷り出で、居住し、渡世致し來たり候ふ所、其の刻(きざ)み、御召しに預りて、先年の御褒美として、靑銅千疋、伊奈熊藏殿、御取次を以つて之れを頂戴す。愈(いよい)よ、益(ますま)す、「一錢職」分、致し來たり候ふ處、其の後、萬治年中[やぶちゃん注:一六五八年から一六六一年まで。将軍は徳川家綱。]、嚴有院樣御代[やぶちゃん注:家綱の諡号。将軍在職は慶安四(一六五一)年から延宝八(一六八〇)年。]、北小路藤七郞四代の孫北小路總右衞門、神田三河町[やぶちゃん注:現在の千代田区内神田一・二・三丁目及び神田司町二丁目附近。]へ引き移りて居住し、御府内の「一錢職」分の株敷[やぶちゃん注:「かぶしきで、後注引用にある髪結いの共同組合のことか。]、御願申し上げ候ふ處、御糺(おただ)しの上、由緖之れ有るに付き、御取り立て爲し遊ばされ、「御公儀樣御朱印」下し置かれ、株敷も成し下されり。其の上、尙ほ、御燒印の御下札[やぶちゃん注:「おさげふだ」か。ここは幕府公認を示す焼き印を捺した営業許可証か。]等、之れ、頂戴仕り候ふに付き、株敷も補ひ、「一錢職」分の渡世、相續致し來たり候ふ處、其の後、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年から一七三六年まで。]、有德院樣御代[やぶちゃん注:吉宗の諡号。在職は正徳六・享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年。隠居して大御所となった。]、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ、諸職人、召し出だされ、株敷、之れ有る者ども、夫々(それぞれ)、御役義、仰せ付けられ、其の砌り、「一錢職」分の者へは、先年、神君樣、天龍川御難儀の刻(きざみ)、淺瀨御案内奉り申し上げ候ふ由にて、「御役義御免」と仰せ出され候得(さふらえ)ども、「一錢職」分の者ども、一同、株敷、下され置き候。爲めに、冥加相應の御役義、願ひ上げ奉り候ふに付き、御聞き濟み、之れ、有り、以來、出火の砌り、兩御町奉行所へ缺(か)け付け[やぶちゃん注:「驅けつけ」。]、御記錄、御長持入るる御役義、相ひ勤め、株敷の渡世も相續致し來たり候ふ事なり。

相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。「當」の誤字か。]嫡男幸次郞、幼年により、職分の由緖を辨ぜざれば、書を與ふる者なり。

 享保十二丁未年[やぶちゃん注:一七二七年。]九月十二日 北小路宗四郞藤原基之

前書の趣に付き、諸國・諸武家・落人(おちうど)、百名以上の面々、虛無僧と「一錢職」分に相ひ成り、忍べる渡世して、先君へ召し通し、相ひ待つ者なり。以上。

 慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年・]

 大御所樣、御前に於いて本多上野介正純を以つて、東都酒井讃岐守殿へ仰せ渡し置く。此の段、道中奉行松浦越前守殿へ仰せ達し置かれ候ふ事。仍つて件のごとし。

 右、「髮結職」と相ひ成りて、鬢盥(びんあらひ)持參して渡世の事は、萬治元年八月十六日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一六五八年九月十三日。]より、はじまりし、といふ。

   *

ここに示されたものは「一銭職分由緒書」としてかなり有名なものらしい。ウィキの「藤原采女亮政之」に以下のようにある(太字下線は私が附した)。日本に於ける「理美容業の祖」とされる人物に藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけ まさゆき ?~建武二(一三三五)年の旧暦四月或いは七月或いは十月十七日没)がおり、『昭和のはじめ頃まで』は、『全国の理美容業者は采女亮の命日である』十七『日を毎月の休みとした』。『功績により』、『従五位』が追贈された。『京都生まれ』で、『藤原鎌足の子孫である藤原晴基(或いは基晴の三男』。『亀山天皇の時代、京都御所の警備役だった』『晴基が宝刀の九王丸』(又は九龍丸)『を紛失、責任をとって浪人』『となる。長男元勝(反物商)次男元春(染物師)は京にとどまり』宝刀を『探したが』、『采女亮は探索のため』、『諸国行脚の旅に出る晴基』『に同行した』。文永五(一二六八)年、晴基は、宝刀の国外流出を防ぐために朝鮮半島に近い下関に下った。これは『元寇に備え』、『武士が集まっているとにらんだ』ことによるとする。『刀を捜し続ける一方、髪結職で高い収入を上げていた新羅人に親子で学び』、下関の『亀山八幡宮裏の中之町』(ここ)『に武士らを相手にした』『髪結所を開く。この店に床の間があり』。『亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから「床屋」と呼ばれるようになった』『といわれる』弘安元(一二七八)年、晴基は宝刀を見つけられぬまま没し、弘安四(一二八一)年に、『采女亮は鎌倉に移』した。建武二(一三三五)年に采女亮は没したが、彼の『髪結いの技術が』高く『評価され』、鎌倉『幕府』時代には『重宝されたという』なお、『下関 「床屋発祥の地」記念碑の碑文では』宝刀は『後に采女亮が発見』と記されてある。ここに出た「一銭職分由緒書」は、『江戸時代から各地に伝えられている』三種の『史料』があり、『この史料に「三男・采女亮政之とともに』『(中略)』『下関に居を構え、髪結業を営み』『(中略)』『これが髪結職の始めなり」とあり』、『采女亮が理美容業の祖と言われる根拠となっている。また、采女亮の子孫は代々』、『髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され』て『敗退』した『際』。十七『代目北小路藤七郎が天竜川を渡る手助けをしたことから』、『褒美と銀銭一銭を賜り』「一銭職」と『呼ばれるようになった(なお』、『理美容業の定休日が』十七『日だったのは家康の命日が』四月十七日『であるためという説もある』という)。その後、『「御用髪結」を務め』、二十一『代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を申請した』。『史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する』(本状がそれ)。

芥川龍之介書簡抄132 / 大正一五・昭和元(一九二六)年四月(全) 八通

 

大正一五(一九二六)年四月一日・田端発信・小穴隆一宛

 

けふ西田外彥氏夫妻並びに民子さんが來られた。西田氏夫妻の話を聞いて見ても、さう根深く君の緣談の邪魔をしてゐるとも思はれない。就いてはあの手紙は西田さんの手もとへ行かないやうにしてはどうか。それよりも若し必要があつたら、やはり西田さんと面談することにしてはどうか。右とりあへず當用のみ。どうも僕自身神經衰弱のせゐか、荒立てずにすめば何事も荒立てずに解決したいと思ふ。頓首

    四月一日        芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:全く進展しな状態がずるずると続く小穴の縁談話。これもまた、神経衰弱・鬱気分・不眠症状を亢進させる(以下書簡参照)一要因となってしまっており、最後のある種、もうこの問題とは正直、距離を置きたい気持ちが露わになっていることが判る。「芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通」参照。「西田外彥」は哲学者西田幾多郎の息子夫妻で、高橋民子が小穴の縁談の相手で、西田幾多郎の姪にして哲学者。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月五日・田端・渡邊庫輔宛

 

冠省、君に手紙書かずにゐてすまない。しかしその後あひかはらず神經衰弱はひどし、胃腸は惡いし、痔にも惱まされて鬱々と日を送つてゐる始末だ。君のゐた頃を何度もなつかしく思ふ。新聞まい度ありがたう。あれは齋藤さんからでも古今書院へ話して貰つてはどうか。この體では今どうにも出來ない。お父さんやお母さんによろしく。

    四月五日    床上にて   龍

   庫 輔 樣

 

[やぶちゃん注:門下生渡邊は恐らくは前年大正十四年の年初に父親の病気を理由に一時帰郷していた(四月十六日(採用していない)の修善寺からの書簡では『異國關係び歷史などいくらやつても語學の出來ぬ君に駄目』で、『精々長崎の』『無學なる』『考證家』になるだけだから、『一月に一度、二月に一度でも兎に角小說らしきものを書き、僕の所へ送つてよこせ』と一喝している)。なお、この十五年には再び上京して再び龍之介の通い書生となっている(五月下旬から六月中旬の間。後に示す五月二十五日附渡邊庫輔宛書簡に拠る)。しかし、父親が昭和二年年初に他界し、結局、龍之介の自死後は、長崎に帰って永住し、後、郷土史家として大成した。実際、龍之介が、堀辰雄を除いて、最も期待していた弟子であったともされる。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月九日・田端発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・四月九日夜 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省、いろいろお見舞の品を頂き、難有く存じ奉り候。いつも頂戴ばかりしてゐて申訣無之.さてアロナアル・ロツシユ、君は一錠にて眠られると言ひし故一錠のみし所、更に眠られず、もう一錠のみしが、やはり眠られず、とうとうアダリンを一グラムのみて眠りしが、アロナアルの効力は細く長きものと見え、翌日は一日懜々然[やぶちゃん注:「ばうばうぜん」。]として暮らしたり。右御禮かたがた御報告まで。頓首

    四月九日夜      芥川龍之介

   佐 佐 木 茂 索 樣

二伸 奧樣にもよろしく願ひ奉る。この頃下島さんに賴まれ、悼亡の句一つ。

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

 

[やぶちゃん注:先月十六日に肺炎で急逝した下島の養女で小学校六年生であった行枝(龍之介が可愛がっていた。因みに、龍之介は也寸志が生まれる前の書簡(採用せず)で、次は女の子は欲しいと漏らしている)への悼亡句はこの四日前の六日の午後に訪れた下島から依頼されて作ったもの。新全集宮坂年譜によれば、この句は、『芥川の筆跡で行枝の墓碑裏面に刻まれた』とある。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「下島医師の娘の死」には、下島の書いた随筆「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の中の「それからそれ」(目次を見るに少なくとも半分以上は芥川龍之介関連の追想である)の中の『娘行枝の死にまつわる回想を引いて』おられる。歴史的仮名遣が用いられているので、漢字も正字と推定し、ここでは、鷺氏の引かれたものを恣意的に概ね正字化して示す(一ヶ所ある振り仮名は歴史的仮名遣に直した)。下島勲氏の著作はパブリック・ドメインである。

   *

『墓のことで思ひ出すのは、大正十五年の春私の娘が十四歲で病死した。平常可愛がつた芥川氏をはじめ犀星氏や久保田氏が自分の子供のやうになげき悲しんでくれたのである。また告別式には菊池氏や菅氏なども來て下さるといふやうなわけで、何のことはない少女文藝葬のやうな觀を呈し、大いに面目をほどこしたことであつた。それにつけても當時、供物として脇本樂之軒氏から贈られた春蘭が、すがれながらに三つの蕾を孕んで、現に私の机の傍らに寂しい影をつくつてゐる。

 遺骨は鄕里信州上伊那郡中澤村字原區の、恰度[やぶちゃん注:「ちやうど」で切れる。]村の臍にでも相當する丘の裾の墓所に埋葬した。當時芥川室生久保田の三氏から贈られた悼亡句は、早速娘の晚年の手すさびに成る、刺繡の薔薇の花を配して帛紗[やぶちゃん注:「ふくさ」。]に染めぬき、學校の先生朋友知人そのほか緣故の方々へ記念として贈つたのであつた。その悼亡句は

 更けまさる火かけやこよひ雛の顏  龍之介

 うちよする浪のうつつや春のくれ    万

 若くさの香の殘りゆくあはゆきや   犀星

 その後私の考案になる墓碑を建てたのであるが、村は鄕里三峯川(みぶかは)產の堅質できめのこまかい光澤ゆたかな靑石を撰び、刻は久しく谷中天王寺前で修業したといふ石工の技術、表面の戒名は私の自筆、その裏面へ三氏の俳句を肉筆さながらに彫刻したもので、一寸類の尠ないハイカラな形ちと趣きを現はした墓碑だと思つてゐる』

   *

鷺氏は、『このユニークな墓碑は下島の記す通り駒ケ根市中澤の下島家墓地に現在も殘されている』とある。見てみたい。調べて見たが、位置が判らない。行枝さんの魂の安寧のためには、そっとしておくのが良いのだろう。

「アロナアル・ロツシユ」allonal roche。スイス・バーゼルのエフ・ホフマン・ラ・ロッシュ社製の非アルカロイド睡眠・鎮痛剤。大正一一(一九二二)年に本邦で市販許可がなされている当時は新しい薬である。宮坂年譜の四月上旬の条に、『湯河原で一時やめていたアダリンの服用がまた始まる。もはや通常の量では足りず、三倍以上の二グラム程度を服用した。佐佐木茂索からもらった』この『アロナール・ロッシュ』も、『この頃から時々服用するようになり』、『以後長く常用することとなった』とある。当時の医学会では薬物依存症への殆んど配慮がなかったと思われ、強い睡眠薬の市販も普通にされていた。また、龍之介は齋藤茂吉を含む親しくなった複数の医師から、かなりの量の薬物を入手しており、多量服用による副作用と耐性化が依存症への拍車をかけたといってよい。

「アダリン」既出既注

「懜々然」はっきりしないぼんやりした状態。

 この四日後の四月十三日に、病的な自身の怪奇談集「凶」(未定稿。生前には発表されず、死後の全集で公開された。リンク先は私のマニアック注附版)を脱稿している、と宮坂年譜にはある。

 翌々日の四月十五日、小穴隆一が来訪したが、小穴によれば、この日、芥川龍之介は彼に自殺の決意を告げた、とする。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照。

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十二日・田端発信・南條勝代宛(葉書)

冠省 御手紙拜見仕り候今日よりちよつと鵠沼へ養生に參り候間來月廿日以後にお出下され度願上候 頓首

    四月廿二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:宮坂年譜によれば、この二十二日に『文と也寸志を連れて、鵠沼の東屋(あずまや)旅館へ静養に出かけ』ている。既に述べたが、『当時、鵠沼には』結核症状が顕在化していた文の弟『塚本八州の療養のため、塚本一家が移住して』おり、『以後』、この大正十五年『年末まで、鵠沼が』(住居は同鵠沼の中で移動している)芥川龍之介夫婦と三男の『生活の主』な『拠点となった』とあるが、『鵠沼では』思いの外、『来客が多く』、逆に『疲労感をつのらせる』結果ともなり、この凡そ一ヶ月余り後の六月一日には(後に掲げる)、『鵠沼に一月ゐる間の客の数は東京に三月ゐる間の客の数に匹敵す』などと書き送って』いるありさまで、『来客中は元気に振る舞ったが、客が帰ると』、『額から脂汗を流し、縁側に倒れてしまうようなことがあった』とある。なお、この東屋旅館は明治三〇(一八九七)年頃(本誌の発行の前年)から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館で、多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や、斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 東屋」及び『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 鵠沼の図』に掲げた挿絵を見られたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十三日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)

 

「馬の脚」の出てゐる新潮二册蒲原の來る時に託されたし。間に合はねば小包みにて送られたし。以上

    二十三日       龍 之 介

二伸伯母さんの健康に氣をつけられたし。

又カラカミの本棚の一番上の段に山路愛山著孔子論並びに何とか氏著孔子とその徒ありそれもついでに送られたし。

 

[やぶちゃん注:「馬の脚」前年大正十四年一・二月発行の『新潮』に発表されたもの。単行本未収録。最後の作品集「湖南の扇」に載せるつもりがあったものか。ロケーションからは腑に落ちる。

「蒲原」通い書生の蒲原春夫。

「伯母さん」芥川フキ。

「カラカミの本棚」唐紙障子の引き戸のついた本棚。

「山路愛山著孔子論」評論家・歴史家・思想家であった山路愛山(元治元(一八六五)年~大正六(一九一七)年:本名は彌吉。独特な思想家で、元は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示して、独自の国家社会主義思想を標榜したことで知られる)の「孔子論」(明治三八(一九〇五)年民友社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「何とか氏著孔子とその徒」安藤円秀(生没年確認出来ず)著「孔子とその徒」(大正一二(一九二三)年日本堂刊)であろう。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。著者は「農学事始」「諸経随筆」などの著作があり、また、僧侶で、愛知県碧南市にある浄土真宗大谷派龍蓬山安専寺第四十一世住職として、こちらに名が揚っている。別な資料では、東京帝国大学教授でもあったとある。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十三日(年次推定)・鵠沼発信・芥川比呂志同多加志宛 (絵葉書)

コレハヂビキアミデス。ヒロシハミテシツテヰルデシヨウ。タカシノビヨウキハドウデスカ。

    二十三日       龍 之 介

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛(底本注に、封筒に『一人にて見るべし』との断り書きある旨の附記がある)

 

冠省。この間君のことで武川君が來た。君の手紙も見た。僕が永見よりも君を重んじてゐる事は君自身も知つてゐる筈だ。破門されたなどと莫迦なことを言ふものには僕の手紙を見せろ。僕はまだ體惡く弱つてゐる故、長い手紙は書けない。僕は時々君がゐれば好いにと思つてゐるぞ。右當用のみ。頓首

    四月二十五日     芥川龍之介

   渡邊庫輔樣

二伸 僕は女房や子供と鵠沼の東屋へ來てゐる。好學心もなければ性欲もなし。鬱々たるばかりだ。

 

[やぶちゃん注:人物は判っているが、どうもそれらの関係がはっきりとしないために、今一つ、状況がよく判らない。次の書簡によれば、この日の朝には胃酸過多で吐きそうなったとある。

「武川君」作家武川重太郎(むかわじゅうたろう 明治三四(一九〇一)年~昭和五五(一九八〇)年)山梨県出身。「アテネ・フランセ」に学び、少年時代に小栗風葉に師事し、上京して玄文社記者となり、その傍ら、この前年の大正十四年より、『不同調』同人として創作活動に勤しんだ。後、『富士の国』を主宰した。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十六日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(葉書)

 

冠省 伊藤さんは時々來てくれるか? 猿山の卓の如きものは預つておいてよろし。きのふの朝ひどい胃酸を叶きさうになつた。又昨日蒲原が來て夕がたかへつた。お前の風は如何。文子曰多加志の病氣は如何?

    四月二十六日     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「伊藤さん」伊藤和夫(?~昭和四〇(一九六五)年)は龍之介の三中時代の同級生。

「猿山の卓の如きもの」不詳。]

2021/08/29

伽婢子卷之八 歌を媒として契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は、状態のよい、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)をトリミング補正(原画の汚損、及び、読み取り時に不要な影が写り込んでしまったため、清拭をしたが、そのために一部の枠や雲形の一部を恣意的に除去してある)して用い、私が適切と判断した箇所に挿入した。]

 

   ○歌を媒(なかだち)として契(ちぎ)

 

 永谷(ながだに)兵部少輔といふ人あり。一條戾橋(もどりはし)のほとりに居住す。年廿一歲、極めて美男のほまれあり。色好みの名を取り、才智、人に越え、常に學問を嗜み、三條坊門の南萬里小路(まてのこうぢ)の東に、北畠昌雪(きたはたけしやうせつ)法印とかや儒學に長ぜし人の許(もと)に行通ふて、學業を勤め、講筵につらなる。

 神祇官のわたりに、富裕の家あり。其かみは、山名が一族なりしに、武門を出て、都に居を占め、名を隱して、密かに身を修め、すべて、大名高家に通路を致さず。

 娘、たゞ一人、持ちたり。牧子(まきこ)と名づく。年、十六、七ばかり、顏かたち、世にたぐひなく、繪書き・花結び・たちぬふことに、手、きゝて、しかも、よろしかねども、哥の道に心を懸け、情の色、深く、花にめで、月にあくがれ、紅葉の秋、雪の夕べ、折にふれ、事によそへて、哥よみ、嘯(うそふ)きて、心を痛ましむ。

 ある時、兵部、書を懷ろにして、萬里小路に、まうでける。

 

Makiko1

 

 道のついで、牧子が家のつい地のもとに休みて、少しくづれたる所より、内を覗きければ、時しも春のころ、柳の糸、枝たれて、櫻の花、綻(ほころ)び、ひわ・こがら、爭ひ囀づり、其の傍らに、座敷、しつらひ、簾(すだれ)掛けたるを、半ば、まきあげ、ひとりの女、はし近く居て、小袖縫ひけるが、針をとゞめ、打ち傾(かたふ)きて、

 ほころびてさく花ちらば靑柳の

   糸よりかけてつなぎとゞめよ

兵部、其姿を見て、此歌をきくに、限りなくめで惑ひ、心も空になり、足元、たどたどしく、思ひの色、深く染みて、堪へかねたるあまり、暫し、立休らひて、覗き居たりければ、牧子は、是れをも知らず、庭に下りたちて、つい地のもとにめぐり來て、兵部と目を見合せしかば、又なく、あてやかなる美男なり。

 牧子、是れを見るに、心移りて、此人にあらずは、誰にか、枕を並びの岡、時雨に染(そむ)る紅葉《もみぢ》ばの、色に出つゝ、かくぞ、云ひける。

 我が門のそともにさける卯の花を

   かざしのために折るよしもがな

兵部、いよいよ堪へかね、聞書(きゝかき)のため、もちたる矢立、取出し、哥二首を雜紙(ざつし)に書つけ、小石につなぎ添へて、投け入れ侍べり。

  いのちさへ身の終(をはり)にやなりぬらむ

   けふくらすべき心地こそせね

 入《いり》そむる戀路はすゑやとほからむ

   かねてくるしき我かこゝろかな

牧子、これを取りあげ、二返し、三返し、詠みて、いつしか、心あこがれ、短册(たんざく)取出し、哥を書き、石につなぎて、投げ出し侍べり。

 あぢきなし誰もはかなき命もて

   たのべばけふの暮れをたのめよ

兵部、これを取りて、家に歸り、其の夕ぐれを待けるぞ、久しけれ。

 夜にいりて、かの方に赴き、つい地をめぐりて見れば、櫻の枝一つ、つい地より、外にさし出て、花田の打ち帶一筋、繩のやうなるを、懸け置きたり。

 兵部、心得て、これを手(た)ぐり、築地を越えて、下り立《たち》ければ、春の物とやおぼろの月、東の山の端(はし)に出て、花の影、庭にうつり、そら薰(だき)の匂ひにあわせて、いとど、しめやかなり。

『是は、そも、人間世(にんげんせい)の外(ほか)、三(みつ)の嶋、十(とを)の洲(くに)に來にけるか。』

と、怪しみながら、忍ぶ夜の習ひ、身の毛よだちて、凄(すさま)じくも覺ゆ。

 女は、宵より、木のもとに待ち侘び、兵部を見て、

 うつゝともおもひ定めぬあふ事を

   夢にまがへて人にかたるな

兵部、とりあへず、

 また後(のち)の契りはしらず新まくら

   たゞ今宵こそかぎりなるらめ

と、いひければ、牧子、打ち恨みて、

「『君と契り初(そ)め侍べらんには、千歲(ちとせ)ののち、こん世も、同じ契り、絕ゆまじ。』とこそ思ひ侍べれ。如何に、かく賴みなくは、おぼす。みづから、命かけて、心を餘所(よそ)に移すことは、夢、あるまじきを、親のいさめて、みづからを責め給ふとも、君ゆゑ、死なば、恨みは、あらじ。

 たのまづばしかまのかちの色を見よ

   あひそめてこそふかくなるなれ

と、俊成卿の詠み給ひけん歌の心を、思ひ給へ。」

といふ。

 

Makiko2

 

[やぶちゃん注:庭にあるのは蘇鉄か。]

 

 宮仕への女(め)わらはに仰せて、酒、取りよせて、兵部にすゝめたり。

 巳に、夜、更け、人、靜まりて、物音も聞えず。

 兵部、密かに、

「こゝの家は、誰人《たれひと》にておはする。」

と、問ふ。

 女、物語しけるは、

「二人の親は山名の支族にて侍べり。久しく武門を離れて、財賽、ゆたか也。一族の中、大名多く侍べれ共、交りちなむ事も、なし。只、身を修め、名を隱して、世を打ち過し給ふ。みづから、たゞ一人娘にて、又、兄弟、なし。甚だ、いとほしみ深く、別(へち)に、この花園をこしらへ、部屋をしつらひ、春の花、秋の月に、心を慰め給ふ。親のおはする所は、少し隔りて侍べり。」

など、いふに、兵部、少し、心、寬(ゆる)やかに覺ゆ。

 世にもれむ後の浮名を歎くこそ

   逢ふ夜も絕えぬおもひなりけれ

女、返し、

 ながれては人のためうき名取川

   よしや我か身はしづみはつとも

かやうに語らひつゝ、かたしく袖の新枕(にゐまくら)、交はすほどだに有明の、つきぬ言の葉とりどりに、はや、告げ渡る鐘の聲、うちしきる鳥の音(ね)に、起き別れゆく露淚(《つゆ》なみだ)、雲となり、雨となる、陽臺(やうたい)のもとぞ、思はるゝ。

 兵部、

 ちぎりおくのちを待つべき命かは

   つらき限りの今朝のわかれぢ

女、返し、

 くらべては我か身の方や勝るべき

   おなじわかれの袖ななみだは

 兵部は、櫻の枝を傳ふて、朝まだきに、家路に歸りても、心そゞろに、學道も身にしまず、暮《くる》るを「おそし」と出て、夜每に通ふ。

 或日、兵部が父、問ひけるやう、

「汝は、學文(がくもん)に、物憂き心の付き侍べるかや。朝(あした)に家を出て、暮(ゆふべ)に歸り來る事は、是れ、學文を勤めて、其道を行はむ爲なり。然るを、汝、此頃は、日暮になれば、家を出て、曉方(あかつき《がた》)に立歸る。是れ、何事ぞや。必ず、輕薄濫行(けいはくらんぎやう)のたぐひを求めて、人の壁(かべ)をこぼち、墻(かき)を踰(こ)して、正(まさ)なき拳動(ふるまひ)するか、と覺ゆ。その事、顯れ侍べらば、身は、生きながら、泥淤(どろどぶ)に沈み、名は、それながら、塵芥(ちりあくた)に汚がされ、世になし者と、なり果つべし。若(も)し、又、語らふ女、定めて、高家の娘ならば、必ず、汝が爲に門戶(もんこ)を汚され、其の身、淺間(あさま)しくすたれ給はんのみならず、罪科(ざいくわ)は、定めて、我が門族(もんぞく)に及ばむ。其事、極めて大事也。今日よりして、門より外に出《いづ》べからず。」

とて、一間(《ひと》ま)の所に押し籠めて、殊の外に戒めたり。

 女は、ゆふべ、ゆうべ、花苑(《はな》ぞの)に出て待けれ共、廿日餘り、更に、音づれなし。

 女、思ふやう、

『飛鳥川(あすか《がは》)の淵・瀨(せ)さだめず、變り易きは、人の心なれば、又、ゆきかよふかた有て、我をば、思ひ捨てたるにや。又は、病に臥して、いたはりつゝ侍べるやらむ。』

と、童(わらは)を遣はして、密かに聞(きか)せしかば、

「かうかう、押し籠められ侍べりて、出入《いでいる》ともがらも、こととひかはす事、かなはず。」

といふ。

 女、聞きて、歎きに沈み、重き病ひになりつゝ、思ひの床(ゆか)に起き臥し、湯水をだに聞入れず、時々は思ひ亂れし言葉(ことば)の末、物狂(《もの》ぐる)はしきこともあり。

 肌へ、かじけ、色、衰へて、物悲しく、只、淚をのみ、流す。

 さまざま、藥を求め、神佛(かみほとけ)に祈れども、露ばかりも、しるし、なし。

 今はこの世の賴みもなく見えしかば、ふたりの親、歎きて、

「思ふ事、ありけるや。」

と、問へども、定かに答へも、せず。

 箱の底に、兵部が哥、ありけるを見出して、大きに驚き、童(わらは)を近づけて、問ければ、有りのまゝに語る。

 

Makiko3

 

[やぶちゃん注:上記のシークエンス。縁にいるのが牧子お付きの女の童で、座敷内の男が牧子の父、その左に右を立膝(これが当時の中世の正式な女性の座り方)した女性が母。彼女の頭部に白っぽいものがあるのは、真綿を広げて作った被り物で、主に防寒用であった置き綿帽子である。「被 (かず) き綿」「額 (ひたい) 綿」とも呼び、これが後に新婦の角隠しとなったともされる。]

 

 親、きゝて、

「たとひ、如何なる人にもあれかし、いとおしき娘の、思ひ懸けたらむには、何か苦しかるべき。」

とて、やがて、なかだちを以つて、

「かうかう。」

と、いはせければ、兵部が父のいふやうは、

「我子、已に、器用(きよう)あり。學を勤めて、官(くはん)につかへ、親の跡をつがすべき者也。妻、求めて、身を、くづをらすべきや。其の事は、いまだ、遲からず。」

といふ。

 牧子が親、重ねて云ひ遣はすやう、

「日比に聞及ぶ兵部少輔は、今、わづかに潜み隱るゝ共、終に、これ、池にあるべきたぐひならず。されば、我が一人娘に緣(えん)を結ばれんには、我が家、又、誰か、その跡を望まん。殘りなく、讓りて、兵部を、子とせむ。」

とて、はや、吉日を選びて、兵部を呼びて、聟とす。

 娘、心地、をどり立ちて、惱み、已に、怠りぬ。

 兵部、

 いのちあればまたも逢瀨にめぐりきて

   ふたゝびかはす君が手まくら

女、限りなく嬉しくて、

 初月(みかづき)のわれて見し夜も面かげを

   有明までになりにけるかな

  かくて、比翼のかたらひ、今は忍ぶる關守の恨みもなかりし所に、細川・山名の兩家、權(けん)を爭ひて、應仁の兵亂、起こり、京都の大家・小家、皆、燒け亡び、諸國の武士、都に集まり、亂妨・捕り物・狼藉、いふばかりなし。

 女をば、藥師寺の與一が手に捕り物にして、その顏かたちの美しきを以つて、犯し汚さんとす。

 牧子、大に呼ばゝりけるは、

「みづから死すとも、田舍人(ゐなかうど)の穢(きたな)き者には、なびくまじ。たゞ、殺せよ。」

といふに、軍兵(ぐんびやう)等、怒りて、女をば、刺し殺しぬ。

 兵部は、兎角して、逃(のが)れ隱れ、其の年の冬、暫く、京都、靜まりければ、都に歸り來れば、家は、やけて、跡、なし。

 妻が家に行て見れば、人も、なし。

 父は、山名が手に屬(しよく)して討ち死し、母は、盜賊に、はがれて、殺さる。

 兵部たゞ一人、牧子が部屋にたゝずみ、淚にくれて居たりしに、その夜、夢の如く、牧子、歸り來る。

「是れは。如何に。」

とて、手を取り組み、淚を流す。

 女、いふやう、

「みづから、君と別れ、ちりぢりになり、武士(ものゝふ)の手にかゝり、あへなく、殺され、尸(かばね)を道のほとりに曝し、『憐れ』と見る人も、なし。みづから、貞節の義に死せし事を、天帝、憐れみ給ひ、君が心ざしに引かれて、今、現れ參りたり。」

といふに、兵部、悲しき中に、なき人に逢ふ事の嬉しさを取り加へて、淚は、雨の降るが如し。

 夜もすがら、語らふ。

 曉方(あかつきかた)になりければ、兵部、なくなく、

 思はずよまためぐりあふ月かげに

   かはるちぎりをなげくべしとは

女、返しとおぼしくて、

 行末をちぎりしよりぞ恨みまし

   かゝるべしともかねて知りせば

そゞろに泣き焦(こが)れて、別《わかれ》をとり、影の如くになりて、うせにけり。

 兵部は、是れより、發心して、東山の寺に籠り、幾程なく、病ひに取ち結びて、終に、はかなくなりぬ。

 人みな、聞傳へて、『憐れにも奇特(きどく)の事』に思へり。

 

[やぶちゃん注:作品内時制は「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年勃発)の勃発直前から直後。

「永谷(ながだに)兵部少輔」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の脚注には、『不詳。架空の人だが、西洞院兵部少輔あたりがモデルか』とある。「西洞院兵部少輔」というのはよく判らないが、「応仁の乱」以前に亡くなっている、西洞院に邸宅を持っていた赤松兵部少輔左京大夫満祐(弘和元/永徳元(一三八一)年~嘉吉元(一四四一)年)のことか。

「一條戾橋(もどりはし)」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。嘗て安倍晴明が式神を塒とさせていたことで知られる心霊スポット。

「三條坊門の南萬里小路(まてのこうぢ)の東」この附近

「北畠昌雪(きたはたけしやうせつ)法印」不詳。

「神祇官」前掲書注に、現在の『中京区西洞院通りに、神祇官官舎があった(『京雀』)』とあり、「新日本古典文学大系」版脚注では、推定比定地として『中京区西洞院通丸太上ル夷川町』に狭めてある。ここ

「山名」「応仁の乱」の足利義尚を奉じた西軍の大将山名宗全(応永一一(一四〇四)年~文明五(一四七三)年)。名は持豊。宗全は法名。同乱の陣中で病死した。

「通路を致さず」一切の交流を持たずにいた。

「花結び」「伽婢子卷之二 狐の妖怪」で既出既注

「たちぬふこと」「裁ち縫ふ事」。裁縫。

「よろしかねども」下手乍らも。

「萬里小路に、まうでける」師である北畠昌雪法印のもとに行くので敬語「詣づ」を用いた。

「つい地」「築地」。

「ひわ」「鶸」。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。本邦の種は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」の注を見られたい。

「こがら」「小雀」。スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ亜種コガラ Poecile montanus restrictus 。同じく「和漢三才圖會第四十三 林禽類 小雀(こがら) (コガラ)」を参照されたい。

「ほころびてさく花ちらば靑柳の糸よりかけてつなぎとゞめよ」前掲書の高田氏の注に、『「ほころびて」は、開花と小袖をかけたことば。花の散るのを惜しみ、自己の小袖縫いのわざに託して、この春の美景が少しでもながく続くことを望んだ歌』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、「古今和歌集」の巻第一の「春歌上」の紀貫之の一首(二六番)、

 靑柳の糸よりかくる春しもぞ

   みだれて花のほころびにける

に基づくとし、『「花ほころぶ」とい』ひますが、『衣ならば』、『ほころびを針でもってつぎを当てもし』ましょうが、『桜の花の場合は散らないように青柳の糸をよってつなぎとめるのがよいでしょう』と訳しておられる。

「枕を並びの岡」高田氏注に、現在の『右京区御室にある丘陵』双岡(ならびがおか)の『地名と「枕を並べ」のかけことばとして用いた』とある。

「我が門のそともにさける卯の花をかざしのために折るよしもがな」高田氏注に、『「垣の外の卯の花を私のかざしにするために折りとる方法があるといいのだけれど」。外にいる男に思いをつたえる歌』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、『垣間見する美男の兵部を卯の花に喩える』とする。

「雜紙(ざつし)」雑記を記すためのメモ紙。

「いのちさへ身の終(をはり)にやなりぬらむけふくらすべき心地こそせね」「新日本古典文学大系」版脚注に、浅井が今までもしばしば原拠とした、『「題林愚抄・恋二・昼恋・隆信朝臣(六百歌合・昼恋)』とする。この歌集は安土桃山から江戸前期の成立で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その第七巻(PDF)だと、「37」コマ目の右丁の終りから4行目で、異同はない。

「入《いり》そむる戀路はすゑやとほからむかねてくるしき我かこゝろかな」「新日本古典文学大系」版脚注に、やはり『「題林愚抄・恋一・初恋・後法性寺入道関白(続古今集・恋)』とする。同前で、その第七巻(PDF)だと、「5」コマ目の左丁の和歌提示の5首目で、異同はない。

「あぢきなし誰もはかなき命もてたのべばけふの暮れをたのめよ」全く同前で、『「題林愚抄・恋一・契恋・定家朝臣(六百歌合・契恋)』とする。同前で、その第七巻(PDFだと、「16」コマ目の右丁の後ろから2首目で、異同はない。

「花田の打ち帶」「花田」は「縹」で色名。高田氏注に、『薄い藍色の紐で編んだ帯』とある。

「春の物とやおぼろの月」「新日本古典文学大系」版脚注に、『春こそわが季節と我がもの顔の』朧月が、とある。

「三(みつ)の嶋」中国で不老不死の神仙が住むとされた想像上の三つの島。蓬萊・方丈(方壺)・瀛州(えいしゅう)で東方の三神山とされ、渤海湾に面した山東半島の遙か東方の海上にあるとされた。徐福伝説を記した司馬遷の「史記」の巻百十八「淮南衡山列傳」にも記されてある。

「十(とを)の洲(くに)」漢の武帝が西王母から教えられたとされる、八方巨海の中にある同じく仙人の住むとされる十の大きな想像上の大陸。祖洲・滅洲・玄洲・炎洲・長洲・元洲・流洲・生洲・鳳麟洲・聚窟洲を数える。

「うつゝともおもひ定めぬあふ事を夢にまがへて人にかたるな」同前で、『「題林愚抄・恋二・忍逢恋・前大僧正聖兼(新後撰集・恋三・忍遇恋を)』とする。同前で、その第七(PDFだと、「22」コマ目の右丁の4首目で、異同はない。「まがへて」は「鈖へて」で「夢だと思い違いになって」の意。

「また後(のち)の契りはしらず新まくらたゞ今宵こそかぎりなるらめ」「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」で萩原の歌として使用済みの一首の使い回し。そちらの「また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)たゞ今宵こそかぎりなるらめ」の私の注を参照。同じく「題林愚抄」「恋二」の「初遇恋」の国冬の歌。

「みづから」自称の一人称代名詞。

「たのまづばしかまのかちの色を見よあひそめてこそふかくなるなれ」高田氏の注によれば、これは「新續古今和歌集」の巻十三に載る藤原俊成の一首とする。

 初逢戀の心を賴まずは

    飾磨(しかま)の褐(かち)の

   色を見よ

      あひそめてこそ

            深くなりぬれ

で、「新日本古典文学大系」版脚注では、『「しかまのかち」は、播磨国名産の褐色染』(かちいろぞ)めのことで、『「飾磨のかちん」とも』呼び、『墨色に下染めしてから』、『藍染め』をし、『深い色になる』ものを指す旨の記載がある(飾磨は地名。姫路市南部の飾磨区として現存する)。また、一首について、『この恋の行末に不安があるなら』、『飾磨の褐を見てみるがよい。藍染めにすると深い色となるように、恋もまず』、『逢ってみれば、次第に情が深まろうというものよ』と訳しておられる。因みに、これも『「題林愚抄・恋二・初遇恋・俊成(新続古今集・恋三)』からの孫引であるとする。同前で、その第七(PDFだと、「21」コマ目の左丁の4首目である。

「宮仕への女(め)わらは」この「宮仕へ」は、単なる身分の高い人にお仕えする者の意で、年少の侍女。

「別(べち)に」別荘として。

「世にもれむ後の浮名を歎くこそ逢ふ夜も絕えぬおもひなりけれ」同じく『「題林愚抄・恋二・忍逢恋・瓊子内親王(新千載集・恋三・忍逢恋といふ事を)』とある。同前で、第七(PDF)だと、「22」コマ目の右丁の5首目で、異同はない。

「ながれては人のためうき名取川よしや我か身はしづみはつとも」同じく『「題林愚抄・恋一・惜人名恋・式部卿久明親王(新千載集・恋一・惜人名恋といへ心を)』とある。同前で、その第七(PDF)だと、「13」コマ目の右丁の一首分削除の白枠の後で、異同はない。

「雲となり、雨となる」男女の仲が睦まじいことの喩え。「手を翻せば、雲となり、手を覆せば、雨となる」が原拠。楚の懐王が、昼寝の夢の中で、神女と契りを結び、別れ際に彼女が、「朝には雲となり、夕暮れには雨となってお慕いします」と言ったという故事による。次の注も参照。

「陽臺(やうたい)」「やうだい」は現在の四川省巫山県の城内の北の角にある山。巫山の女神がこの山の上に住んでいたと伝えられる。「文選」の宋玉の「高唐賦」の「序」の中に書かれているのが前注の話。サイト「今日の四字熟語・故事成語」の「朝朝暮暮」を読まれたい。

「ちぎりおくのちを待つべき命かはつらき限りの今朝のわかれぢ」同じく『「題林愚抄・恋二・契別恋・平清時(続拾遺集・恋三・契別恋といふことを)』とある。同前で、その第七(PDF)だと、「24」コマ目の右丁の7首目であるが、

 ちきりおくのちを待へき命かはつらきかきりのけさのわかれに

と末尾が異なる。

「くらべては我か身の方や勝るべきおなじわかれの袖ななみだは」原拠は不詳か、浅井のオリジナルか。

「泥淤(どろどぶ)」泥水。「淤」は「溝(どぶ)」・「澱(おり)」の意。

「世になし者」世に無用な者。

「飛鳥川(あすか《がは》)の淵・瀨(せ)さだめず」「古今和歌集」の巻第十八の「雜歌下」巻頭にある、読み人知らずの一首(番)、

   題知らず

 世の中はなにか常なるあすか川

   きのふのふちぞけふはせになる

を受けたもの。

「出入《いでいる》ともがらも、こととひかはす事、かなはず。」「家中に出入りを許された知れる者たちでも、会話をすることさえ、許されておらぬとのことです。」。

「湯水をだに聞入れず」食べ物は勿論、湯水さえも受けつけようとはしない

「肌へ、かじけ」「悴(かじ)く」は、第一義は「手足が凍えて自由に動かなくなる・かじかむ」であるが、ここは「瘦せ細る」或いは「衰え弱る」の意。

「なかだち」正式な仲人。

「器用(きよう)」心身ともに優れた技量。

「遲からず。」「急ぐ必要などない!」。

「池にあるべきたぐひならず」前掲書の高田氏の注に、『池から出る昇竜のごとく必ず立身するだろう』とある。

「娘、心地、をどり立ちて」ここは底本は「娘心地を取立ちて」とあるが、表記は元禄版を用いて表記した。高田先生の岩波文庫版は後者を採り、「新日本古典文学大系」版脚注は「をどりたちて」と総て平仮名表記としており、注もない。私はここは「踊り立ちて」として、劇的採り、さればこそ「惱み、已に、怠」(おこた)「りぬ」(「を」は歴史的仮名遣の誤り。「怠る」には「病気がよくなる・快方に向かう」の意がある)と続くのである。無論、「心地を」正常な状態に「取り立ちて」で、「娘は、そこで、一気に正気を取り戻して」の意で採ることは出来るものの、それでは、読んでいて、インパクトに大いに欠けるので、私は採らない。

「いのちあればまたも逢瀨にめぐりきてふたゝびかはす君が手まくら」岩波文庫の高田氏の注に、「続後拾遺和歌集」の巻十四所収の、

 命あれば又も逢ふ夜にめぐり來てふたたび鳥の音をぞ恨むる

に依るとされる。「新日本古典文学大系」版脚注はこれを挙げない。

「初月(みかづき)のわれて見し夜も面かげを有明までになりにけるかな」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『激しく恋こがれた末にあなたに逢えたのは三日月のころ、その面影を再び確かめることができた今夜、月はもう有明にまで押し移っていました』と通釈され、またしても原拠は『「題林愚抄・恋二・日比隔恋・為家(玉葉集・恋二)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の後ろから二行目であるが、

 みる月のわれてあひみし面影の有明まてになりにけるかな」

である。

「細川」管領細川勝元。

「亂妨・捕り物・狼藉」物資の強奪、婦女の凌辱目的の掠奪、暴力や殺人行為諸々。

「藥師寺の與一」細川京兆家の重臣で後に摂津国守護代となった薬師寺元長(?~文亀元(一五〇二)年)。細川勝元に仕えて、その偏諱を賜り、元長と名乗った。通称は与一。「応仁の乱」では東軍の首魁勝元に従って摂津を転戦し、丹波国の西軍と戦った。その功績で摂津守護代に任命され、勝元の死後は政元に仕えた。政元のもとでも細川家の重鎮として摂津の統治を任されており、細川家に反抗的な摂津国人の茨木氏や吹田時通らの追討で功績を挙げている。その後、正式なものではなかったが、実弟の薬師寺長盛に権限の一部を分け与え、長盛は「奥郡守護代」とも称せられた(当該ウィキに拠った)。

「はがれて、殺さる」衣服を剝がれて丸裸にされた上(凌辱を受け)、殺されていた。

「思はずよまためぐりあふ月かげにかはるちぎりをなげくべしとは」同じく原拠は『「題林愚抄・恋二・寄月絶恋・後醍醐院(新千載集・恋五)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の後ろから四行目であるが、

 おもはすよ又めくりあふ月をみてかはる契をかこつへしとは

で、第三句・第五句に変更が加えられてある。

「行末をちぎりしよりぞ恨みましかゝるべしともかねて知りせば」同じく原拠は『「題林愚抄・恋二・恨恋・前関白太政大臣』(二条兼基)『(新後撰集・恋)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「31」コマ目の右丁の四行目。

「奇特(きどく)の事」不思議な出来事。]

芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通

 

大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛

 

冠省。聖書けふ頂きました。難有く存じます。今山上の垂訓の所を讓みました。何度も今までに讀んだ所ですが、今までに氣づかなかつた意味を感じました。右とりあへず御禮まで。

    三月五日       芥川龍之介

   室 賀 文 武 樣

 

[やぶちゃん注:底本の旧全集には、この二通しかない(新全集には最低でも四通あるようである)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、この二日前の三月三日の条に、『古本屋で祈禱書を買い求め、感心しながら読む。室賀文武が来訪し』たので、『知人に貸して手元にないので聖書を送ってもらえるよう』室賀に『依頼した』とある。

「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし、明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。リンク先は芥川龍之介の書いた「序」の頭)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まることがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。

「山上の垂訓」「マタイによる福音書」の第五章三節から第七章二十七節までに記されているイエスの説教。「山」に登り、そこから語りかけるという設定であるため、この名称が生まれた。「ルカによる福音書」第六章十七~四十九節にも、これとよく似たイエスの説教があるが、語られた場所は「平地」となっている(二つの福音書に見られるこのような変化は、おのおのの福音書記者が共通の資料を用いながら、自らの考えに基づいて編集を行ったことを示すものである)。「山上の垂訓」は、「平地の垂訓」よりも遙かに長く、「マタイによる福音書」全体の構成に於いても重要な位置を占め、説教の内容は、「地の塩・世の光」「主の祈り」「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」など、一般によく知られた主題や句を含んでおり、、後代の文化の諸領域に大きな影響を与えてきた。そこではユダヤ教の倫理が批判されているが、最終的には、それは決して廃棄されるのではなく、寧ろ、徹底化されている。イエスの意図は、人間が道徳的理想を達成し得るかのように考える楽観主義を超越し、神の要求の徹底的性格を明らかにすることにあった。ここまでは小学館「日本大百科全書」の解説に基づくが、以下、「ブリタニカ国際大百科事典」を部分引用すると、この「山上の垂訓」は、まさに『イエスの説教の集』大『成』というべきもので、『旧約聖書の律法や預言を廃するためではなく』、『成就するために来たものとしてイエスが説いた中心テーマは』、『神の国の義についてであった。ここでイエスはまず』、『祝福の辞を与え』、『次いで「地の塩」「世の光」としての弟子の道を説き』、『彼らの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるべきであるとして』、『旧約聖書の』六『つの戒めに再解釈を施し』、『それを徹底化し』、『真の義』、『真の敬虔について教えている』。衣・食・財・『健康などについての一切の人間的な思いわずらいを捨て』、『「まず神の国と神の義とを求めなさい」とすすめるイエスの言葉は』、『「狭い門からはいれ」との言葉どおり』、『きわめて厳格な要求であった。この説教をイエスの福音との関係においてどう解釈するかは』、『キリスト教各派ないし時代によって相違があり』、『神学上の問題となっている』とある。マタイの方のWikisourceにある「明治元訳新約聖書」(大正四(一九一五年版文語訳)の第五章をリンクさせておく。]

 

 

大正一五(一九二六)年三月十一日・田端発信・杉本わか宛

 

拜啓、わざわざ御見舞を頂き難有く存じます。蔓性[やぶちゃん注:ママ。]の神經衰弱故徐ろに快復を待つ外はありません。別封の品は御返しまでに差上げます。お氣に入らぬかも知れませんがどうか御落手下さい。頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   杉 本 わ か 樣

二伸 けふ午後永見君が來ることになつてゐます。逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります。

 

[やぶちゃん注:「杉本わか」名は「ワカ」のカナ書きが一般的。長崎の丸山遊廓の芸妓「照菊(てるきく)」の本名。大正一一(一九二二)年五月の長崎再訪の際、五月十八日に渡邊庫輔・蒲原春夫と丸山の待合「たつみ」で初めて呼んで出逢った。サイト「ナガジン!」の「コラム:長崎が舞台の小説を読んでみた」によれば(龍之介の河童図では最大の力作として知られる、この照菊に描き与えた河童銀屏風「水虎晩歸圖」と呼ばれている「萱草も咲いたばつてん別れかな」彼女への餞別句を添書(「萱草」は「くわんざう(かんぞう)」。現在は長崎歴史文化博物館所蔵。)の写真や彼女の写真も有り、必見要保存)、『芥川は、「堂々としていて立派」「東京に出て来ても恥ずかしくない女」と照菊のことを大変気入り、滞在中の宴席にたびたび呼んでいます。照菊の願いに応じて、二枚折の銀屏風に河童の絵を描き与えました。照菊(本名 杉本ワカ)は芸妓の籍を抜いた後、昭和』八(一九三三)年に、『本古川町に「料亭菊本」を開業し、女将を務めました』とある。

「永見君」既注であるが再掲すると、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)。芥川龍之介は二度の長崎行で非常に世話になっている。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム記事によれば、永見は、この『大正一五年』に『上京し、戯曲集や南蛮研究書を出』したとあり、龍之介の「逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります」というのは、それらの出版を永見が龍之介に頼った可能性、龍之介は或いはそれらの原稿の内容をてんで評価していなかった可能性などが想起される。なお、鷺氏の解説には、永見は『戦後に没落し、自殺した』とある。

 この月の書簡が少ないのには、以前として体調が優れなかったことの他に、友人としても親しくしていた芥川家主治医下島勳の養女が急逝したことが挙げられる。宮坂年譜によれば、三月十六日午後一時十五分、『下島勲の養女行枝(当時小学校六年)が肺炎のため死去。前日までは小学校に通っていたが、帰宅後、四二度の発熱をして肺炎に罹り、徹夜の看病もかなわなかった。行枝を大変可愛がっていた芥川は、知らせを受けて驚愕』し、『下島家には、芥川をはじめ、やはり下島と交わりのある『室生犀星、久保万太郎らが駆けつけた』とあり、翌十八日の午後十二時に行われた行枝の『葬儀に、菊池寛、室生犀星、久保田万太郎らとともに参列する。列席者は百数十名に及んだ』とある。翌月四月九日の佐佐木茂索宛書簡に出るが、その頃に下島に頼まれて、龍之介は、行枝への追悼句として、

   *

   悼亡

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

   *

の一句をものしている。また、月末の三月二十九日には、文と也寸志を連れて鵠沼に静養(恐らくは老舗東屋旅館であろう)に出かけている(鵠沼には当時、塚本八州の療養のために、塚本一家が移住して住んでいた)が、三十一日には龍之介自身の体調がよろしくなくなったために、急遽、『夜、鵠沼から田端の自宅に戻』っている。]

2021/08/28

芥川龍之介書簡抄130 / 大正一五・昭和元(一九二六)年二月(全) 二十一通

 

大正一五(一九二六)年二月二日・消印三日・湯河原発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・二月二日 相州湯河原中西内 芥川龍之介

 

冠省。御手紙拜見仕り候。西田さんから、どう言ふ意見を求められる乎わからぬ故、何とも唯今は申上げ兼ね候ヘども小生の所存だけは勿論申しのべるつもりなり。君の手紙と一しよに高橋文子女史からいつかへるかと言ふ手紙が來た故 十五日―二十日間にかへるつもりのよし返事をさし上げ候。僕はそんなことなら、この間ちよつと歸つた時、君に會へばよかつたと思つて後悔してゐる。文子女史の手紙はいつものやうだが、君の手紙には 興奮を感ずる故、どうも多少氣がかりだ。僕の神經衰弱、胃腸病共に依然たるものあり。欝々として消光罷在候。

    二月二日       芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 月末のお金御不足ならば御遠慮なく文藝春秋出版部からとつてくれ給へ。僕の印税からでも何でも繰り合せはつくから。

 

[やぶちゃん注:前月分の一月二十一日附小穴隆一宛の私の注で完全に注は不要と思う。相変わらず、ぐだぐだして二人の縁談は一向に進展しないのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月五日・湯河原発信・齋藤茂吉宛

 

冠省、御手紙拜見仕り候。いろいろ御親切に預り、難有く存候。煙草は早速節すべく候。それから神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候(コレハ本當ニ御次手ノ節ニテヨロシク候)なほ又神保さんのお名前も伺ひたく存候。土屋君と當地へお出でのよし承り居り候へども、その後如何に相成り居り候や。小生は十五日より二十日までの間に歸京仕らん乎と存じ居り候。書きたきものも病弱の爲書けず、苦しきことは病弱の爲一層苦しみ多し、御憫笑下さるべく候。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「神保さん」内科専攻の医学博士神保孝太郎(明治一七(一八八四)年~昭和一三(一九三八)年)。d.omura編集になるサイト「歴史が眠る多磨霊園」のこちらに、『山形県出身。東京帝国大学医学部卒業。医学博士。同郷のアララギの歌人で精神科医の斎藤茂吉と友人』。大正二(一九一三)年に『東洋毛様線虫』線形動物門双腺綱円虫目毛様線虫科トウヨウモウヨウセンチュウ(東洋毛様線虫:「様」を付けない表記も見かける)トリコストロンギルス属 Trichostrongylus orientalis  はヒトの小腸上部に寄生し、毛状で♂の体長は四~六ミリメートル、♀は五~七ミリメートル。主として経口的にヒトに感染する。多数の寄生が起これば、腹痛・下痢・全身倦怠などを引き起こす。日本(嘗ては東北・北陸地方で多く確認された)・中国・朝鮮半島・台湾などに分布する]『を発見発表した。東京大学内科教室においてアンチホノレミンとエーテルを用いる独自の集卵法により入院患者、病院使役人および院外者』百四十六『名を調べて、十二指腸虫卵と誤られつつある』一『種の寄生虫卵を』四十九名(検査全体人数の三十三・六%)から『検出して、その形状を記載した。引き続き』十三遺体の『主として十二指腸内容物を調べ』十九対(保持検体の十六名は女性)の『成虫を採集し』、『その形態を詳細に観察。人間への寄生虫である東洋毛様線虫として発表した』。『芥川龍之介著の『病中雑記』によると、芥川龍之介の神経衰弱から来る不眠症を対応していた齋藤茂吉の紹介で、神保孝太郎は芥川龍之介の診察をした。診察内容は神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー』(胃下垂に同じ)『等の診断を下し、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」と申し渡したそうだ』。『斎藤茂吉著の『島木赤彦臨終記』によると神保孝太郎は胃腸病院の内科医として、斎藤茂吉の診察をしたとされる』とある。因みに、引用しておいて何なんだが、芥川龍之介の『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』(まさにこの大正十五年二月及び三月発行の『文藝春秋』初出。リンク先は私の詳細注附きサイト版)には、上記引用にあるようなことは書かれていない。或いは、誰かが私の以上のリンク先の冒頭注で、『この頃、不眠と痔に悩まされ、1月15日から2月19日まで湯河原中西屋旅館で湯治。更に、齋藤茂吉の紹介で内科医神保孝太郎の診断を受けたところ、神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー等の診断を下され、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」を申し渡された(同年2月8日付片山廣子宛旧全集一四四四書簡)。なお、小穴隆一によれば、この年の4月15日に芥川は自裁の決意を彼に伝えたとする』と記してあるのを見て、ちゃんと本文を読まず、安易に芥川龍之介の「病中雜記」に書かれいる、などといい加減なことを書いた誰彼の記事を見て誤られたものかと存ずる。

 さて。それにしても、この書簡、どうも気になる。「神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候」の部分である。今現在、芥川龍之介は湯河原中西屋旅館にいるのである。新全集の宮坂覺氏の年譜でも、突然、二月五日頃として『神保孝太郎(内科医)の診察を受ける。神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニーと診断され』、『「この儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひ」などと言われた』(後出の二月二十日附佐藤春夫書簡の引用)。『この診断にはこたえたらしく、しばしば』書簡で『言及している』(後の書簡参照)とあるのだが、どこで診察を受けたのだろう? しかも薬の処方まで受けている。繰り返す。彼は湯河原の温泉にいるのである。「先月末の一月二十八日に一時帰宅しているから、その時、東京近辺のどこかの病院で診察して貰ったのでは?」という意見には、全く従えない。彼は「診察料、處方料とも」受け取っていないと言っており、更に龍之介はそれではあまりに悪いのでお返しをしたく思い友人である茂吉に「御宿所お知らせ下さ」いと言っている。正規の病院で診察を受けたのなら、「診察料、處方料とも」に受け取らないといのはあり得ないことである。しかも、手紙を送りたいのなら、細かな住所など書かずに、その病院気付で手紙を出せば済むことである。さて、そこで私は、以下のように考える。この時、たまたま湯河原に神保医師は滞在していたのではないか? 茂吉の友人でもあり(或いは前の茂吉の書簡で「丁度、今、神保君は湯河原に行っているとはずから、探して相談してみてはどうか」というような書面があったのかも知れない)親しくなり、自身の病状を語ったところ、以上の病名を確定的に告げ、電話で自身の勤める病院、或いは、町の病院、或いは、薬局に出向いて自身の身分を示し、処方を受け取り、龍之介に渡し、その直後に湯河原を発ってしまったという可能性である。有り得ぬことではない。

「土屋君」土屋文明。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月八日・湯河原発信・片山廣子宛

 

冠省、唯今宅より手紙參り、御見舞のお菓子を頂いたよし、難有く存じます。この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます。さもなければ、こちらへ頂戴いたし、この手紙をしたゝめる頃には賞玩してゐたらうと思ひますから。僕は神經衰弱の上に胃酸過多症とアトニイと兩方起つてゐるよし、又この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし、實に厄介に存じてゐます。何を書く氣も何を讀む氣もせず、唯德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史を讀んで人工的に勇氣を振ひ起してゐる次第、何とぞこのリディキユラスな所をお笑ひ下さい。(但し僕自身は大眞面目なのです。)湯河原の風物も病人の目にはどうも頗る憂鬱です。唯この間山の奧の隱居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に澁茶を飮ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。が、梅園のお婆さん(なもと言ふ岐阜辯を使ひます。)と話して見ると、この梅園を讓り受けるとして、地價一萬二三千圓、家屋新築費一萬圓、溫泉を掘る費用一萬圓、合計少くとも三萬二三千圓の遁世費を要するのを發見しました。その上何もせずに衣食する爲に信託財產七八萬圓を計上すると、どうしても十萬圓位入用です。西行芭蕉の昔は知らず遁世も當節では容易ぢやありません。さう考へたら、隱居梅園も甚だ憂鬱になつてしまひました。いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉體的並びに精神的病狀を申し上げます。

   道ばたの墓なつかしや冬の梅

    二月八日       芥川龍之介

   片山廣子樣粧次

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。数少ない旧全集元版時に廣子から提供された一通(提供書簡はたった四通)である。「この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます」とあるから、湯河原へ行く直前か、湯河原からの発信があったのであるが、それは提供されていない。私は既に「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡15」で本書簡を電子化注済みであるが、今回、零から電子化した。以下の注は、そこでやった注の表記を少し変えて示した。

「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」前月分で注済み。

「リディキユラスな所」ridiculous。「おかしな・馬鹿げた・途方もない・嘲笑に値する」の意の英語。

「山の奥の隱居梅園と申す所」現在、湯河原の知られた梅園幕山公園の梅林は、非常に新しく、これではない。同定不能。郷土史研究家の御教授を是非とも乞いたい。

「修竹」長く伸びた竹の意。

「十萬圓」この書簡の六年前の大正九(一九二〇)年のデータで恐縮だが、内閣総理大臣の月給は一千円、国会議員月給二百五十円、公立小学校教員初任給五十円である。昭和元年とあるデータでは、白米十キログラムの値段が三円二十銭から二円五十二銭であるから、十万円というのは、これ、途方もない巨額である。この叙述――その不可能なこと――即ち、廣子と一緒になること――を暗に示す叙述のようにも読めるが……豈図らんや、廣子がその気なら――彼女にはその気は十分にあったと私は思っているが――それを叶えるだけの財力も決心も覚悟も――彼女には――あった――と、私は思っている――。

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

固形スウプありがたう。はたきを送つた後で落手。頂戴ばかりして汗顏の至りなり。久米をピカ一と言ふ、按ずるに合評會のくづれに花をひきしならん。(サイコアナリシスの手腕驚くべし。)大橋さんへは月末參上仕るべし。どうもまだ僕の神經は弱つてゐる。夜など時々思ひ出していかん。頓首

    九日         龍 之 介

  奧さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:「はたき」湯河原の土産物屋で買い送ったそれか。私も佐渡で買った藁製の机上叩きを人に贈ったことがある。

「くづれ」久米正雄が自らを「ピカ一」と自慢する不審な手紙をよこしたが、これは恐らくは文芸合評会がそのままただの歓談酒宴となり、さらに「花」(花札)賭博となって、久米が大勝ちをしたことを謂っているのだろう、と龍之介が推理しているのであろう。

「サイコアナリシス」psychoanalysis。精神分析学。ここは花札賭博での他の連中の意識を巧みに察知分析して勝ったという意であろう。

「大橋さん」前月分で既注の、夫が「變死」した、佐佐木模索の妻の姉で養母の大橋繁のこと。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・蒲原春夫宛(絵葉書)

 

御手紙拜見。いろいろ御苦勞さま。三人となると、三人だけのこすのは殘念な心もちもする。乙字は碧童さんにこちらから問ひ合せよう。美妙、篁村、わかる方法なきや。それから加能君から借りた本、訂正をすませたら、加能君へ返却してくれ給へ。大阪よりまだ返事なきや。右こちらも要件だけ。

    九日             龍

 

[やぶちゃん注:結局、芥川龍之介は最も厭な仕事を書生の蒲原春夫に殆どやらせていることが判る。ちょっと厭な感じだ。

「乙字」俳人大須賀乙字。大正九年に没している。例の「近代日本文藝讀本」に所収した彼の著作権料を払うべき遺族・著作権継承者が判らないのであろう同「讀本」第四集には彼の俳句「春月や」其の他が収録されてある。

「碧童」小澤碧童。既出既注の芥川龍之介の最も年齢の上の友人で俳人。因みに、彼の作品も第一集に「冴え返る」其の他が収録されてある。

「美妙」小説家山田美妙。明治四三(一九一〇)年没。同第一集に「嗚呼廣丙號」が収録されている。

「篁村」小説家饗庭篁村(こうそん)。同書第四集に「與太郞料理」が所収。

「加能君」小説家(評論・翻訳もこなした)加能作次郎(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年)。石川県羽咋郡西海村風戸(現在の志賀町西海(さいかい)風戸(ふと)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中の明治四四(一九一一)年四月に「厄年」を『ホトトギス』に発表して作家デビューし、大正七(一九一八)年十月に『読売新聞』紙上で連載を開始した「世の中へ」によって作家としての地位を確立、自然主義の流れを汲む、人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入ってからは低迷した(当該ウィキに拠る)。同第三集に小説「祖母」が所収されており、これは金星堂から大正一一(一九二二)年に刊行されているので、或いは、所収分のそれに誤植があったのを、当人から借りた原本で訂正作業をしていたものかとも思われる。

「大阪よりまだ返事なきや」不詳。『大阪毎日新聞』には一月三十一日附で「虎の話」を発表している。それに関わる何かかも知れぬし、新たな原稿依頼への体調不良を理由とした断りへのそれかも知れぬ。判らぬ。なお、この後の三月八日には同誌の系列紙『東京日日新聞』に『「輪𢌞」讀後』を発表してはいる。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・谷口喜作宛

 

冠省、今日お菓子澤山頂き、難有く存候。小生は目下神經衰弱の外にも胃酸過多症とアトニイとを倂發致し居り候へば少々づつ食後に頂戴仕る可く候。當地の風物、孟宗は黃に梅花は白く既に春意を帶び居り候へども病人の目には憂鬱に相見え、快々と日を暮らし居り候右とりあへず御禮のみ 頓首

    二月九日       芥川龍之介

   谷口喜作樣

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)

 

   山襞の雪消えにけりいたづらにきのふもけふも君を待ちつつ

モウ一二首速成シヨウト思ウタガ面倒故ヤメニスル。コノ頃沈丁花ノ莟大イナリ。來レバイイニ。僕ハマダ不眠ダ。

    九日      中西うち 龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・消印十日・湯河原発信(推定)・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント 小穴隆一樣

 

冠省、その後御變りなく御淸光の事と存候。この間遠藤光子孃來られたれど、不幸にもまはり合せ惡く 一度も拜顏の機を得ず大いに殘念に存候。それからけふは兎屋居士よりお菓子を澤山頂き、大いに恐縮に存候。どちらも御次手の節よろしく申上げてくだされたし。又小峯よりも手紙參り、裝幀出來のよし伺り[やぶちゃん注:ママ。] 難有く存候。小峯へは既に當方より手紙を遣し居り候間お小遣ひ御入用の節は御遠慮なく御徴發下され度候。伯母は十二三日頃に來るよし さすれば小生も二十日前には歸らるるや否やわからず、しかしなる可く二十日までには歸らんと存居り候。この頃も不相變不眠にて弱り居り候。但しアダリンを用ひぬだけ幾分快方に迎ひしならん乎。數日前佐佐木茂索遊びに參り、二泊して歸り候。滯在中大いに小生の不養生を苦諫致しくれ、澄江堂主人一言も無之仕義に立ち至り候 實はかかる駄弁を弄しながら高橋さんの一件氣がかりなり。尤もこれは神經の弱り居る爲かも知れず、遠藤君の手紙によれば、每日元氣に御制作中のよし、そんな事を考へて多少の安心を强ひ居り候。匆々

    二月九日       龍 之 介

   隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:「遠藤光子」不詳。筑摩全集類聚版脚注も新全集の「人名解説索引」も同じで、後者には、新全集でも、この書簡にしかこの姓名は載らない旨の記載がある。しかし、小穴宛にこう書いていることから、小穴がよく知っている人物であることが判るから、或いは小穴が、一度、龍之介に逢わせた知人の女流画家なのかも知れない。

「アダリン」既出既注

「高橋さんの一件」「127」「129」で既出既注。

「遠藤君」俳人で蒔絵師の遠藤古原草。既出既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十二日・湯河原発信・里見弴宛

 

冠省、高著緣談窶[やぶちゃん注:「えんだんやつれ」。]を頂き、難有く存じます。東京から𢌞送して二三日前に落手しました。早速拜見するつもりです。なほこの頃滿潮を拜見しましたが、作者の滿潮を好まれないのは部分的の出來不出來を誇張して考へられるからではないでせうか?「惡き讀者」僕はやはり中々感心しました。右とりあへず御禮まで 頓首

    二月十二日      芥川龍之介

   里 見 弴 樣

 

[やぶちゃん注:「緣談窶」大正十四年十二月改造社刊の短編集(十一篇)。

「滿潮」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『大正十二年八』月から『十二月作』とある。里見自身は失敗作と公言していたのであろう割には、調べると、大正十四年に新潮社から単行本で出している。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十四日・湯河原発信・芥川比呂志宛(絵葉書)

 

コレハダルマダキトイフタキデス。コノタキハオトウサンノヰルトコロノスグソバニアリマス。

ヲバサンモ、オトウサンモ二十三チ[やぶちゃん注:ママ。]ゴロカヘリマス。タカシトケンカヲシナイヤウニ、オトナシクオアソビナサイ。

    二月十四日          龍

 

[やぶちゃん注:「ダルマダキ」「だるま滝」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ペンションはな」公式サイト内こちらに解説と写真がある。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)

 

御手紙拜見いろいろ御手數をかけ多謝。水滸傳所々拜見。思つたよりも上出來なり。裝幀もそんなに惡くないぢやないか? 近世日本史もう皆讀んでしまつた。頭の具合惡く當分仕事は出來さうもない。

        湯河原中西  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「水滸傳」調べてみると、蒲原春夫現代語全訳として、興文社(例の「近代日本文藝讀本」の出版社である)から前編がこの大正十五年に刊行されている(後編はネット上では確認出来ない)。

「近世日本史」既出既注の「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」のこと。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)

 

この頃叔母東京より參り、一しよに暮らし居り候。胃腸の具合も神經衰弱も同じやうにて閉口致し居り候。

    二月十五日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、フキの来訪は二月十三日土曜日頃とする。

「叔母」芥川フキ。通常、龍之介は「伯母」と書くが、「叔母」でも誤りではない。実母フクから見れば「伯母」、であるが、養父道章から見れば「叔母」だからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

その後御淸適なるべしこの間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた。熱を出してゐた、この頃伯母東京より參り、一しよに入湯中、胃に未だ鈍痛あり春光太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]晴やかならず。頓首

    二月十六日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:前月分の最後の、一月二十八日附湯河原発信の菅虎雄宛書簡の私の注を参照されたい。「この間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた」とあるが、この当時、萩原朔太郎は実は、田端にはもういなかった。妻稲子の健康が優れなかったため、田端への転居から七ヶ月ほど後の、大正十四年十一月下旬に鎌倉町材木座芝原四八一番地(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番に移っていたのである(所持する筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」の、昭和五三(一九七八)年刊の初版第十五巻にある詳細年譜で確認した)。ここは菅虎雄の家とは、滑川を挟んで、丁度、対称位置にある。そうして、そこを正三角形の一辺とすれば、三つ目の頂点部分がズバり小町園のある場所なのである。されば、龍之介は先に朔太郎を訪ねて、午後四時に菅邸へ行ったと考えるが普通であろう(夕刻以降に萩原朔太郎を訪ねるのは少し失敬だと私は考えるからである)。さすれば、この言を素直に真に受けるならば、龍之介は菅から漱石の短冊の箱を受け取ったその足で、日暮れ時以降に湯河原へ帰ったことになる(江ノ電で藤沢に出る方法もあるが、藤沢までの時間がかかるから、横須賀線で大船で東海道本線下りに乗り換えて行く方法を採ったと思われる。孰れにせよ、夜にはちょっと面倒だねぇ、湯河原に帰らねばならない理由がないとなら、私だったら、断然、小町園に泊まるね)。しかし、私の疑惑は、それでも、少しも晴れないのである。則ち、やはり、一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたと断言出来ないことは変わりなく、一月二十八日に自宅へ戻るや、必要な口頭指示を家人らに伝え、最小限の必要な書物・物品を持って、すぐに自宅を出て、小町園に行き、泊まったとも考え得るからである。しかも、ここで犀星に朔太郎を見舞った事実以外は事実を語らなければならない理由はないわけだから、龍之介は菅邸から小町園に行って泊まり、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、同じように証明されないのである(なお、二月二日の午後に湯河原にいたという事実は先の小穴宛書簡で取り敢えずは真とし得る。但し、厳密には、その消印が湯河原管内であることを現認しないうちは私はそれも確実とはしないものであるが)。やはり小町園に五泊居続けしたかも知れないという私の疑惑は、そのままに残るのである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・眞野友二郞宛

 

冠省。度々御手紙難有く存じます。小生は先月以來當溫泉に靜養して居ります。今月末には歸京致しますから、畫帖はその節必ず何か書きなぐります。(前に送つて頂いた畫帖もそのままに相成り居り、厚顏なる小生もさすがに恐縮に存じて居ります。)小生の病はアトニイと酸過多[やぶちゃん注:ママ。]と神經衰弱とのよし、日々藥を三つものまねばならず、不景氣な顏をして暮らして居ります。右とりあへず、(お手紙は東京から轉送して來る爲、大分遲れましたが)御返事までにこの手紙をしたためました。頓首

    二月十六日      芥川龍之介

   眞野友二郞樣

 

[やぶちゃん注:「眞野友二郞」既出既注であるが、再掲すると、新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、旧全集で宛名書簡は十三通を数え、他の通信文から見ても、芥川龍之介の熱心な読者で、龍之介も丁寧に書簡で応じていた人物であったと考えて問題はないと思われ、また、既に示した彼宛の書簡では、薬物を送って貰っていることから、本業は医師である可能性もあるように思われる。而して、ここまで来て、私は、この愛読者は、やはり医師ではないか? と疑り始めている。芥川龍之介は医師と親しくなることで、ともかくも、普通は手に入らない薬物(自殺するための劇薬に限るものではない。催淫剤などだってあり得る。実際に龍之介は、この後、小穴にその入手(但し、表向きはあくまで自殺するための劇薬として)を頼んでいるのである。既注を入手する便宜を図ってもらおうとする傾向がかなり前からあったのではなかったか? と、疑り始めているのである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・消印十八日・東京市小石川區丸山町小石川アツパアトメント 小穴隆一樣(絵葉書)

 

一昨日小峯、拙著二種持參致候。裝幀澁くして上等なり。第一朱字のうまいのに驚嘆致し候。お禮はあの本より印税に致し度、爾今二分だけお納め申さす可く候。それからお尋ねの件、ポルトレエにてよろしく候。小生病狀依然。

十六日                龍

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜に、この二日前の二月十四日日曜日に『小峰八郎(文芸春秋社出版部部長)が湯河原を訪れ』、小穴隆一の装幀になる『再刊本『地獄変』『或日の大石内蔵之助』を見せられ』たとある。発行は二月八日であった。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十九日・湯河原発信・鹽田力藏宛(絵葉書)

 

御手紙ありがたく拜見仕り候、仰せの旨菊池へ申し遣り候間返事有之次第、高敎を仰ぐ事も御座侯べくその節は何分よろしく願上げ候右とりあへず御禮まで

    十九日  相州湯河原 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「鹽田力藏」(しおだりきぞう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年)は陶磁器研究家。陸奥国福島出身で、福島師範学校(現在の福島大学)卒。明治三一(一八九八)年に岡倉天心が日本美術院を創立した際に学術部に参加し、以後、日本及び中国の陶磁器の研究・啓蒙に尽した。著書に「陶磁器工業」「寂円叟―陶雅新註支那陶器精鑑」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「菊池」は菊池寛であろうが、話の内容はよく判らない。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省改造社の人に聞けば君のお父さまの御病氣の爲君も國へ行つたよし御容態如何かと思ひ、この手紙をしたゝめ候僕の病は君の奧さんの御料理の所爲ならば幸福だが酸過多とアトニイと神經性消化不良と併發しこの儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひと云ふのだから往生した目下詩も何も作る勇氣なし況や小說をや何だかお父樣の御病氣見舞の手紙に駄辯を弄して相すまぬがこの前の手紙に返事を書かなかつた故それを兼ねたものと勘辨してくれ給へ 草々

    二月二十日      龍 之 介

   春 夫 兄 侍史

二伸 僕の叔父腦溢血にて半身不隨になり、その爲に咋日湯河原から歸つた

 

[やぶちゃん注:この前日の二月十九日に亡き実父新原敏三の弟細木元三郎(ほそきもとさぶろう)万延元(一八六〇)年~昭和六(一九三一)年)が脳溢血で倒れたという急報が入ったため、龍之介は、急遽、フキとともに田端へ戻っている。予定では二十三日頃まで滞在する予定であった。ここで一言言っておくと、この細木元三郎は、無論、元新原姓であったのだが、彼は、実は、幕末の大通で俳人でもあった、

細木香以(ほそきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の孫娘(香以(本名は藤次郎)の実子桂次郎の一人娘)であった「ゑい」に婿養子として入って細木姓となった

である。則ち、

芥川龍之介の実母フク及び継母に当たるフクの妹フユの孰れもが、香以の直孫細木ゑいは義理の叔母に当たる

ことになるのである。しかし、

実はそれに留まらぬ細木香以との多重的関係が龍之介にはある

のである。それは、

養母の芥川儔(とも)の母親が――これまた――細木香以の妹――須賀である

という驚天動地の事実である。こうした系図関係は、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「系図」に拠ったが、恐らくは現在でも、この系図が、容易に見られて、しかも、信頼度も高い芥川龍之介に纏わる系図の一つである。手軽に見られるものでは、少し古いようだが、より緻密な新原家関係の系図では、森本修氏の論文「『芥川龍之介伝記論考』補遺――新原家をめぐつて[やぶちゃん注:ママ。]――)」PDFでダウン・ロード出来、そこに載る系図を見ても、新原家の方の関係は確認が出来る。則ち、しばしば見かける芥川龍之介の記載にあるところの「細木香以の姪がフク及びフユである」という謂いは(例えばウィキの「細木香以」には『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある)、

新原家系図だけを見ていたのでは、全く判らず、芥川家の儔(とも)の系図を辿ってみて、初めて判ること

なのである。実は、この関係表記は、こうした二家の交差を理解せずに書いたために生じた誤りが、以前からしばしば見られ、例えば、私の「宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1)」では、宇野は、

「芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(儔〔とも〕)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。」

と述べており、細木香以の直系の「実の孫」である「えい」を「細木香以の姪」とするとんでもない誤りを犯してしまっているのである。これらの誤解や錯誤の淵源は恐らく、森鷗外の「細木香以」にあると考えてよい。但し、そこには芥川龍之介も関係しており、そこに文壇情報屋的な厭らしい小島政二郎も絡んでいる。それを話し出すとキリがないので、私の「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい。なお、そちらでは注がゴタゴタするのが厭だったので、新原家の方からの細木香以との縁戚関係は敢えて触れていないことを先に申し上げておく。また、興味を持たれた方は、「芥川龍之介 手帳補遺」も強力にお勧めである。是非、読まれたい。謂わば、「孤獨地獄」の創作メモを含むものである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十一日・年次推定・田端発信・與謝野寬宛

 

冠省御手紙ありがたく拜見仕り候但し小生は舊臘來體を損じ居り月々の仕事も出來ず、難澁致し居り候間まことに恐縮には候へども講演の儀は當分御免蒙り度願上候なほ又末筆ながらこの間は奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし難有く御禮申上候右とりあへず御返事まで 頓首

    二月念一日      龍 之 介

   與 謝 野 樣

 

[やぶちゃん注:「舊臘來」「きうらうらい(きゅうりょうらい)」。昨年の十二月以来。

「奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし」與謝野晶子がどの作品を褒めたのかは不詳。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十三日・田端発信・竹中郁宛

 

冠省 黃蜂と花粉 を頂きありがたく存じますいつぞやお約束した「樹」はもう少々お待ち下さい右とりあへず御禮までにこの手紙をしたゝめました 頓首

    二月念三日      芥川龍之介

   竹 中 郁 樣

 

[やぶちゃん注:「竹中郁」(いく 明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は詩人。本名は育三郎。兵庫県神戸市兵庫区出身で、生家は裕福な問屋であったが、一歳の時に紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西(かんせい)学院大学文学部英文学科卒。中学時代から北原白秋に傾倒し、『近代風景』・『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としてスタートを切った。大正一三(一九二四)年の『日本詩人』(「新詩人號」)で詩壇に登場し、「海港詩人俱樂部」を結成、詩誌『羅針』を編集する一方、北川冬彦・安西冬衛らのグループ『亜』とも交流を持ち、モダニズムのスタイルの影響を受けている。この大正十五年に処女詩集「黄蜂と花粉」を発表した。昭和三(一九二八)年に渡欧し、二年間に及ぶパリ生活で、モダニズムの美と思想を満喫し、特にジャン・コクトーやマン・レイと芸術的交遊を結んだ。帰国後、『詩と詩論』にシネ・ポエムを発表し、衝撃を与え、昭和七(一九三二)年には、昭和詩史の詩的青春を飾るエスプリ・ヌーボーの記念碑的詩集「象牙海岸」を刊行した。『ドノゴトンカ』・『詩法』・『四季』に参加し、第二次世界大戦中は、「中等学生のための朗読詩集」(昭和七年・湯川弘文社)や「新詩叢書」(全十七巻・同社)を企画し、詩の危機を乗り越えた。戦後は、児童文学誌『きりん』を指導するなど、詩の社会化を志向した(以上は当該ウィキの頭と、小学館「日本大百科全書」をカップリングした)。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十六日・田端発信・室生犀星宛

 

咋日は失禮仕り候石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候なほ又女性六月號おかし下され候はば幸甚に御座候いつもいろいろ御厄介ばかり相かけ恐縮の外なし右あらあら當用のみ 頓首

    二月念六日          澄

   魚 先 生

 

[やぶちゃん注:「石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候」芥川家の石油ストーブが壊れたか? 前に犀星が予備のストーブを持っていることを聴いていたのかも知れない。

「女性六月號」芥川龍之介は前年の六月一日発行の『女性』に「溫泉だより」を執筆している。同小説を芥川龍之介は自死の直前の最後の作品集となる「湖南の扇」に収録していいる。或いは、同誌や原稿を紛失したかして、後の作品集収録のために、筆写・修正するために借りたものかも知れない(当該作は原稿用紙十六枚半)。因みに、初出と作品集「湖南の扇」では四ヶ所の相違がある。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十八日・田端発信・南條勝代宛

 

冠省、御手紙拜見仕り候。來月四日午後二時にお出で下され候はば幸甚に御座候。但しまだ健康恢復せず、元氣無之候間碌な事はしやべられぬものと御覺悟なされ度願上候。頓首

    二月二十八日     芥川龍之介

   南 條 勝 代 樣

  二伸「お安じ」はいけません。「お案じ」です。

 

2021/08/27

芥川龍之介書簡抄129 / 大正一五・昭和元(一九二六)年一月(全) 二十七通

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の自死まで、一年と七ヶ月足らずとなった。以下、底本の岩波旧全集では二百五通を残すのみである(末尾に配された「年月未詳」書簡は除く)。されば、龍之介の自死に至る痕跡を書簡でも追って見たく感ずるので(それがはっきり見えると言っているのではない。痕跡を検証するための方途としての最低限の処理として、の意ある)、以下、この二百五通総てを電子化することとした。中には、ほぼ定式の挨拶や事務処理の内容も多いが、年初より、有意に身体と精神の著しい変調が綴られてあり、時に不定愁訴にも近いかとも思われる記述が見えることに気づくであろう。但し、今までのような、神経症的な注は附さないつもりである。悪しからず。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかない。なお、旧全集の日付で確認出来る狭義の昭和元年の芥川龍之介書簡は瀧井孝作一通(擱筆十二月二十五日・消印十二月二十六日)のみである。]

 

大正一五(一九二六)年一月一日・田端発信・石黑定一宛(年賀状(恐らくは印刷)に書き添え)

 

あなたも二人のお子さんのお父さんにおなりだと思ふと實際年月の流れるのを感じます

[やぶちゃん注:「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)は岩波新全集の「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺両氏編著)によれば、芥川がこの二年前の大正一〇(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人』で、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)卒で、当時は三菱銀行上海支店に勤務しており、後に『同行名古屋支店長をつとめた』とある。龍之介の「侏儒の言葉」の中の「人生」に唐突に「――石黑定一君に――」として名が出るので、知っている人も多いであろう。但し、『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生(三章)』で考察したように、この献呈の意味は特に明らかにされていないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月八日・田端発信・谷口喜作宛

 

冠省無精の爲御年始も申上げず失禮いたして居ります又昨日は結構なものを頂き、難有く存じます尤も小生目下胃腸を害し居る爲あの一口最中も一度に三つしか食べられず太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]殘念ですが如何とも致されません右とりあへず御禮まで 頓首

    正月八日夜       芥川龍之介

   谷口喜作樣

 

[やぶちゃん注:甘党の首魁芥川龍之介にして、新年早々、大好物であるはずの「うさぎ屋」の小さな一口最中さえ、ろくに食せないというのは、冗談ではなく、頗る深刻な様態と言える。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月九日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

謹賀新年

十二三日頃湯河原へ湯治に出かける筈、二三週間はゐる、君は來ないか? 奧さんにもよろしく

               芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:体調不良改善の目的で、芥川龍之介は、結果して、この一月十五日の午後に静養湯治のために湯河原に出かけ、中西屋旅館(「湯元通り」にあった老舗であるが、現存しない)に翌二月十九日まで、凡そ一月余り滞在した。南部が湯河原へ来た形跡はない。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十二日・田端発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省朶雲奉誦仕り候御令息にはいつも御厄介に相成り居り候次手を以てお父樣にもお禮申上候扨小生は小學時代より字は下手にていつも乙や丙ばかり貰ひ居り、今日も誰にも褒めめられたる事無之、小生自身も古今の下手を以て任じ居り候所思ひがけなくもお褒めにあづかり大いに嬉しく候へども汗顏千萬にも存じ居り候就いては御令息の御煽動により、大膽にも駄句を書きたる小帖一册お手もとにさし上げ候間御笑覽下され候はば幸甚と存候なほ末筆ながら寒氣きびしき折から御健勝のほど祈り上げ候 頓首

    一月十二日      龍 之 介

   佐 藤 樣

 

[やぶちゃん注:「佐藤豐太郞」(文久二(一八六二)年~昭和一七(一九四二)年)は医師であった作家佐藤春夫の父。佐藤家の家系は代々紀州の現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で医を業とし、父の豊太郎までに九代を数えている。豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもあり、鏡水を号した。春生は長男である。豊太郎は和歌山医学校で医学を修め、後に順天堂に学んで、新宮町登坂で熊野病院を開業していた(ここに移ったのは豊太郎の先代から)。

「駄句を書きたる小帖一册」龍之介が直筆で俳句(或いは絵も。以下の佐藤春夫書簡参照)を記した贈呈用画句帳と思われる。知られる刊本の「澄江堂句集」は、龍之介自死後の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月で、香典返しとして配られたものであるので、注意されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十三日・田端発信・東宮豐達宛

 

朶雲奉誦どうか御遠慮なくお譯し下さい名前はアクタガハリユウノスケであります なほ又どうかこれをお譯し下さいと申上げるほど自信のある作品もありません右とりあへず御返事まで 頓首

    一月十三日      芥川龍之介

   東宮豐達樣

 

[やぶちゃん注:「東宮豐達」(とうぐうとよたつ 明治二七(一八九四)年~昭和二(一九二七)年)は筑摩全集類聚版脚注によれば、東京帝大『医科卒のエスペランチスト』で、芥川龍之介の『「開化の殺人」などのエスペラント訳を試みた』とあり、新全集の「人名解説索引」には、『東京生まれ』とし、『父は神道の一派の教主であったが』、『本人はキリスト者』で、『海軍軍医をつとめた後』、『小田原・別府・長野県中野・広島県庄原などで病院長を歴任するかたわら』、『武者小路実篤の作品や『歎異抄』などのエスペラント訳を出している』として、この書簡のことが書かれ、龍之介が承諾した旨まで記されてあるが、『作品選定もなされ』、九『月頃には』翻訳作『業が始まったが』、『東宮の他界で実現はしなかった』とある。エスペラント(Esperanto)語はポーランド(出生当時はポーランドは帝政ロシア領)のビアウィストク出身のユダヤ人眼科医ルドヴィコ・ザメンホフ(エスペラント語:Lazaro Ludoviko Zamenhof 一八五九年~一九一七年:心臓病による病死)が一八八七年七月に‘Unua Libro ’(エスペラント語で「最初の本」)で発表した国際的人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、国際補助語としては最も世界的に認知されているもので、普及の成果を収めた言語となっている。「エスペラント」は同言語で「希望する人」の意である。ラテン系語彙を根幹とし、母音穂五、子音二十三を使用する。基礎単語数は千九百ほどで、造語法もあり、文法的構造は極めて簡単。日本では、明治三九(一九〇六)年に「日本エスペラント協会」が設立されている。私は感情表現に劣るという批判を聴いたことがある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十四日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省先達は御馳走さま、畫帖は小さいのを一つ君のお父さんに贈つたそれから堀口君に支那游記を送らんとするに「冥途」を送る次手あれば、君の所ヘ一しよに送る同君に獻上されたし僕胃を病み、腸を病み、更に神經性狹心症を病み、今夜か明日湯治に出かけるこれでもう雜用紛々の爲、三日も四日も延ばしたのだ、新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや「戀の歐羅巴」は奔放自在なる餘り却つて人をして憂鬱ならしむ、どうも僕の狹心症は多少あの本に祟られたやうだ 頓首

               芥川龍之介

   佐藤春夫樣

二伸 生田さんの會のこと僕の權利は全部君にまかせる適當に所理[やぶちゃん注:ママ。]してくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「支那游記」既出既注。前年の大正十四年十一月三日に改造社から刊行された中国紀行集成「支那游記」。

「堀口君」詩人でフランス文学者の堀口大學(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年:龍之介と同年)。春夫が明治四三(一九一〇)年上京して、生田長江に師事すると同時に、與謝野鉄幹の新詩社に入った際の同人に大學がおり、それ以来の友人であった。

「冥途」龍之介の友人で作家の内田百閒(明治二二(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)の処女作品集(大正一一(一九二二)年刊)。

「神經性狹心症」主にストレスに拠る自律神経失調症に起因する狭心症。心臓の血管が狭くなることから起こり、強い胸の痛みを伴うこともあり、場合によっては、心筋梗塞を引き起こすもの。

『新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや』原句知りたや。「佐藤春夫全集」には載っているだろうなぁ。

「戀の歐羅巴」これは佐藤春夫の作品ではなく、堀口大學の翻訳本。作者はフランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二年)と「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベスト・セラー作家となっていた(孰れも二年後に堀口が訳している)。「恋のヨーロッパ」(L'Europe galante)はこの前年一九二五年の発表で、十四篇から成る短篇小説集。堀口は同年大正十四十二月に早くも出版している。堀口のこの頃の翻訳は、原初の刊行から、あまり時を移さずに素早い。

「生田さんの會」「北さん」は生田長江(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)で既出既注。佐藤春夫は彼の直弟子であったが、この頃から、長江が罹患していたハンセン病が進行し、容貌の変容と失明にも至ったが、それでも活動は衰えなかった。この会もそうした弟子や作家仲間の激励会なのであろうが、春夫は立場上、音頭をとる役なのであろうけれども、春夫は実際には、かなり以前から彼の罹病を嫌って避けていたようである。「僕」芥川龍之介「の權利」というのは、よく判らない。ある種、病的な潔癖症でもあった龍之介は、この会には呼ばれても出る気は全くなかったことは明らかである。ハンセン病は当時(というより、今も)、差別的に忌み嫌われた病いであったのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省先日はいろいろ御厄介に相成り難有く存じ奉り候友人蒲原君に持たせ候品つまらぬものながらおん目にかけ候なほ伊藤左千夫先生の御遺族の宿所、蒲原君にお敎へ下され候はば幸甚に御座候 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

二伸 今日これより湯河原へ參り候 頓首

 

[やぶちゃん注:「蒲原君」既注だが、再掲する。弟子渡邊庫輔の友人で長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)。前回の長崎行で非常に親しくなり、渡邊と一緒に上京して龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして、多くの仕事を手伝った。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。

「伊藤左千夫先生の御遺族の宿所」これは推理に過ぎないが、既刊(この前年)の「近代日本文藝讀本 第五集」に『「天地の」其の他』として伊藤の作品が載っており、その著作権料を遺族に支払おうとしているのではないかと私は思う。次の次で著作権に触れて述べているが、前にも述べた通り、「近代日本文藝讀本」(興文社刊・芥川龍之介編集・全五巻・大正十四年十一月八日全巻同時刊行)の著作権や印税のトラブルは、徳田秋声の強烈な抗議を始め、この後もずっと続き、芥川龍之介を激しく悩ませる大きな一因となっていた。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・菅虎雄宛

 

冠省先生には不相變益御健勝の事と存候先達は又忠雄さんを煩はし箱書きのことを御願ひ致し、失禮の段不惡御ゆるし下され度候右夏目先生の短尺の箱はいづれ小生參上頂戴仕る可く候間それまで御手もとにおとどめ置き下され度候右我儘ばかり申し恐れ入り候へどもよろしく御取り計らひ下され度願上げ候小生目下胃腸を害し居りこれより湯河原へ避難する所に御座候 頓首

     一月十五日     龍 之 介

   菅 先 生

  二伸不相變惡筆無双なる事おわらひ下され度候

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、この日の午後に芥川龍之介は湯河原へ発った。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・湯河原発信・山本有三宛

 

冠省、その後胃腸は惡いし神經衰弱は强いし、痔は起るし、大いに閉口 唯今ここに半病人生活を送つてゐる。

扨著作權法の事なるが

㈠有報酬たると無報酬たるとを問はず作家の許可だけは請ふ事にしたし。これは若し請はれれば、テキストを敎ヘられるだけにても便宜なり。

㈡それから遺族は少し古くなると中々宿所わからず、その宿所錄を作る事も著作家協會の仕事としてよからん。

㈢それから「正常の範圖内にて拔萃蒐輯する事」と言ふのは如何にや。十七字の俳句、三十一文字の歌などは五六字づつとられるやうに聞えざる乎。拔萃は選擇とか何かした方よからん

㈣「正常の範圍内にて」も曖味なり。僕の讀本なども知らず識らず頁數殖えたれば正當の範圍を越えたるやも知れず。正當の範圍を越えたりとて罰せられればそれ迄なり。(勿論罰せられては困るが)何册何頁以下と制限する方よろしからん乎。尤も活字の號や行數によりてはそれも確かには行かなかるべし。

宿所錄を拵らへる事等の費用には僕の讀本の印税を當ててもよろし。

今日夕刊にて大橋さんの變死を知り、なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した。菊池は旅行中のよし保險會社の人に聞きし故とりあへず君にこの手紙を出す。

なほ上記四件は委員會へかける前に菊池に一應話して見てくれ給ヘ

    一月十五日      芥川龍之介

   山本有三樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介とは年上乍ら、山本有三は第四次『新思潮』の同人同志であり、菊池寛や芥川龍之介らと、「日本文藝家協會」を結成しており、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。ここは、より緻密な著作権法案を協会として、政府に示すための発議案の作成に伴うやり取りと推定される。「近代日本文藝讀本」でさんざん塗炭の苦しみを現に受けている芥川龍之介には、生身に染みた実作業上での重要な体験見解に基づく発言であると言える。

「大橋さん」芥川龍之介が媒酌をつとめた弟子の佐佐木茂索の夫人房子は、十一歳で実の姉であった大橋繁の養女となっていたが、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では、その養母で実の姉の『繁の主人が急逝した』とある。新全集の宮坂覺氏の年譜では房子の『実父が変死』とあるが、次の次の大橋繁宛書簡で前者の方が正しいことが判る。「變死」とは穏やかでないが、詳細は不詳。

「なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した」前記石割氏の注に、『佐佐木茂索と大橋房子の結婚、それに作家岡栄一郎と野口功造』(芥川龍之介の幼馴染みの親友)『の姪野口綾子の結婚に際しても媒酌をつとめたが、岡夫妻』の方はじきに『離婚した』とある。後者の件は既に注してある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

湯河原中西の二階に在り、ちよつと游びに來ては如何、梅は既に開きたれど、寒さは大して東京と變らず、(尤も女中に聞けば、これは今日だけのよし)

   栴檀の實の明るさよ冬のそら

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「栴檀」既出既注。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。実(み)は暖かな場所では、一月半ばでも落ちずに見られる。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・大橋繁宛

 

拜啓御主人御長逝の趣承り御哀悼の情に堪へず候小生自身も神經衰弱の爲、當地に養生致し居り候へば一層默然たるもの有之候 頓首

    一月十六日夜     芥川龍之介

   大 橋 樣

 

[やぶちゃん注:この文面から見るに、やはり、単なる病死ではないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)

 

昨夜ここへ參りました 地震で山が崩れたり、宿(中西)が全く別な所に移つてゐたりして甚だ有爲轉變を感じました どうかそのうちにお遊びにお出で下さい 頓首

    十六日 相州湯河原中西  龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)

 

織田時代上下篇なる可く早くお送り下され度候 こちらに參ると、何もする事なければ本を讀む速力早くなり候

それから書齋に赤松月船と言ふ人より送り來れる小包みあり、それも次手にお送りを乞ふ 頓首

    十六日

 

[やぶちゃん注:「織田時代上下篇」後の芥川道章宛書簡及び翌月の二月八日附片山廣子宛書簡から、民友社の徳冨蘇峰の「近世日本國民史」の「織田氏時代」と断定出来る。かつて調べた際、同前のシリーズの第一巻から第三巻の「織田氏時代」パートで、「織田氏時代前篇」が大正七(一九一八)年十二月に、「織田氏時代中篇」が 大正八年六月に、「織田氏時代後篇」が同年十月に初版が出ている。「上下」とあるが、これは、ただ、「中」を書き忘れただけであろう。

「赤松月船」(明治三〇(一八九七)年~平成九(一九九七)年)は詩人で曹洞宗僧侶。 岡山県浅口郡鴨方村(現在の浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、十三歳で得度し、大正三(一九一四)年から新居浜の瑞応寺で修行、大正五年より総本山永平寺で修行したが、大正七年に僧籍を離れ、上京して、生田長江に師事した。佐藤春夫・室生犀星らと交流して文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加した。昭和一一(一九三六)年に岡山県に帰り、僧籍に戻り、洞松寺(矢掛町)・善福寺の住職となった。後、曹洞宗特派布教師・正教師を歴任し、昭和六〇(一九八五)年には曹洞宗権大教正となっている(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十八日・湯河原発信・東京市小石區丸山町小石川アツパアト・メント内 小穴隆一樣(絵葉書)

 

每日退屈に日を暮らしてゐます。大橋女史のお父さんが變死したので又ぞろ少々憂鬱になりました。どうも小生の關係する緣談は皆惡い事を招くやうな氣がする。

君も精々氣をつけ給へ。どうもかう内外多事ではやりきれない。春陽會の畫出來つつありや否や。

    十八日            龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・下島勳宛(絵葉書)

 

こちらはさすがに暖く梅花も滿開に御座候但し胃の具合あひかはらずよからず、就いては散藥儀あます所二日半と相成り候へば、もう二週間分ほど頂戴仕り度候。尤も次手有之候へば、わざわざお送り下さらずとも宅より頂戴に出るものにお渡し下され候はば結構に御座候。

    一月二十日 湯河原    龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月二十日 湯河原中西 芥川龍之介

 

冠省。御手紙東京より同送し來りて拜見、尤もその前に大橋樣へはお悔み狀を差し上げ、(番地わからねど、三溪園近傍としたり)宅へは荆妻に大橋樣へお悔みに參るやうに申しつけ候。小生自身參上しなければならぬ所なれど、何分胃は惡し、腸は惡し、神經衰弱は甚しいし、大いにへこたれ居り候へば、歸京の節にても大橋樣へは參上仕るつもりに候。どうか右惡からず思つてくれ給へ。小生は二月近くの不眠症未だに癒らず、二晚ばかり眠らずにゐると、三晚目は疲れて眠るには眠るが、四晚目は又目がさえてしまふ。かかる間に大橋樣の訃に接し、すつかり神經的に參つてしまひ候。岡と云ひ、君と云ひ、僕の關係する緣談は悉不幸を齎すに似たり。實際ここに欝々と日を送つてゐると、(それも下島先生所方の胃の藥と齋藤茂吉所方の神經衰弱の藥とをのみつつ)遁世の志を生じ候。奥さんも定めし弱られ居るべし。どうかよろしく申にげてくれ給へ。兎に角生きてゐるのは樂じやない。正宗白鳥は國へひつこむよし、健羨に堪へず。右とりあへずお悔みかたがた御返事まで、頓首

    一月廿日       芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 高作「靑きを踏む」第一ならん乎。「ふるさとびと」も結構なれど少々書きかた不丁寧なり。僕の夢を冒頭に使つたのは前には唯「子供の病氣」あるのみ。「度々使つた技巧」には抗議を言ふよ。この頃サラアベルナアルのことを書いたメモアを一讀、これも遁世の念を生ぜしめただけだ。橫濱まで參らるる次手にちよつとここまで足をおのばしになることは出來ずや。世の中の憂きことどもの話をしたい。

 

[やぶちゃん注:「靑きを踏む」前掲書の石割氏の注に、『佐々木茂索の『女性』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「ふるさとびと」同前で、『佐々木茂索の『中央公論』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「子供の病氣」大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に掲載され、後に作品集「黄雀風」(大正一三(一九二四)年七月一八日刊行)及び「芥川龍之介集」に所収された。本作は次男芥川多加志の発病から入院、後に全快するという、大正一二年六月八日(金曜日)の朝から十一日(月曜日)深夜までの事実に基づく四日間を主に描いた小品である。この出来事は既に既注であるが、「子供の病氣――一游亭に―― 芥川龍之介 附やぶちゃん詳細注」を参照されたい。

「健羨」(けんせん)は「非常にうらやましく思うこと」の意。

「サラアベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)は天才として伝説化された、フランスの「ベル・エポック」時代を象徴する大女優として知られるフランスの大女優。パリ生まれ。本名はロジーヌ・ベルナール(Rosine Bernard)。演劇学校卒業後、普仏戦争前後が女優としてのキャリアの開始で、一八六二年に「コメディー・フランセーズ」(Comédie-Française)にデビューし、一八七五年には同劇団の正式座員となった。一八七九年には巨匠ヴィクトル・ユゴーの戯曲「リュイ・ブラス」(Ruy Blas )の女王役で評判となり、イギリス・アメリカを巡演し、世界的名声を得た。一八八〇年に退団して、私設劇場を転々としつつ、「椿姫」・「トスカ」などのロマン派的悲劇のヒロインを演じ、大成功を収めた。一八九九年、「サラ・ベルナール座」を設立し、「ハムレット」の男役ハムレットを演じた。愛国精神に富み、第一次大戦時には戦地慰問を行った。彼女は天性の美貌と美声に加えて、卓越した演技力で人気を博し、世紀末の演劇の華で、国葬の栄誉を受けた。ユゴーには「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持った。十九世紀フランスに於ける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられている。ジャン・コクトーは「聖なる怪物」とも呼んだ。キャリアの終りの頃は、初期の新興メディアであった映画が制作された時代と重なっているため、数本の無声映画にも出演している。社会史の観点からは、一つの文化圏・消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及される。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」(Art nouveau)という当時の新芸術運動の中心人物であった(以上は当該ウィキと日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」の記載を参考にした)。

「メモア」フランス語「mémoire」。追想記。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・湯河原発信・山本有三宛(葉書)

 

冠省 この間は秦へお金や雜誌をとどけて頂いて難有う。秦のお父さんからお禮狀を貰ひ大いに恐縮した。ここも毛の足袋を必要とするほど寒い。但し梅花は滿開。

    一月二十一日     芥川龍之介

二伸それからこの前書き落したが著作權法の「修身書及讀本」も變だね。「敎科書及副讀本」位ではどうかね?

 

[やぶちゃん注:「秦」芥川龍之介の友人秦豊吉。既出既注。やはり、私には芥川龍之介の彼へのこういう謂いは、かなり違和感がある。龍之介が、何故、彼にこれほど親密なのかが、今一つ、判らぬからである。

「秦のお父さん」東京府東京市牛込余丁町の裕福な薬商であった秦鐐次郎。秦家は元は三重県東員町(とういんちょう)長深(ながふけ)で土建業をしていた一家で、四日市北町で「寿福座」という芝居小屋も経営していた。明治一一(一八七八)年に豊吉の祖父専治が上京し、饅頭屋を経て、日本橋で生薬問屋「専治堂」を開業、豊吉の父親はその長男で、家業と祖父の名・専治を継ぎ、西洋雑貨なども扱った(以上はウィキの「秦豊吉」に拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・芥川道章宛

 

一、御手紙二通拜見、比呂志籤に通りたる段祝着に存候文子、佐佐木へ參り候事も名案に御座候。小生は大橋さんへ悔み狀を出し置きたり。歸りにでもちよつと寄るか、出直して悔みに參るべし。文子御苦勞樣に御座候。

二、女中力石にたのみやり候へば、そちらにても精々御さがし下され度候。

三、をばさんなる可く早くお出で下され度候。一人にてぽつねんとしてゐるのはやり切れず、今月中にお出で下されずは歸京する外は無之候。アダリンを使はず、夜中起きてゐる時などは實に閉口致し居候。

四、本の外に心を慰むるものなし。この手紙つき次第、蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册(合計九圓)至急お送り下され度候。先便お送りのはもう一册讀了いたし候。なほ又それをお送り下され候節、梁塵祕抄(これは書齋の床の間の側の芭蕉布の戸棚の中にあり)もお送り下され度候。本は義ちやんにもおたのみ下され度候。

五、小包みは二つ受けとり候一つは明石の原稿と近世日本國民史、一つは猪狩史山の女禍傳(大阪屋出版)に御座候。義ちやんより大雅堂の本を送りし由なれど、それはまだとどかず候。

六、胃の具合未だわるく、散藥缺乏につき、下島さんへもう二週間分願ひ候へども、御發送の手數をかくるは御氣の毒につき、本を送る中へ入れてお送り下され度候。

七、寒きうちは腦溢血患者多きよし、平生よりお酒すごさるる事禁物に御座候。おばあさんも炬燵にゐて風をひくべからず。

八、小生留守中は義ちやんも何かと不便多からん。よろしく御面倒を御覽下され度候。

九、也寸志の便祕なほりたりや。湯河原は下痢を直すのに特效あるせゐか、小生も便祕して困り居り候。(伯母さんお出の節ビオフェルミン一罎御持參下され度候。お送りには及ばず)比呂志、試驗に通るやうに存じ候へども親の慾目にや。

十、土屋の番地知らねば、小生宅氣附にて手紙を出し候間、ちよつとおとどけ下され度候。土屋のうちの位置は左の通り。

[やぶちゃん注:底本にはここに数ポイント落ちの編者注で『〔ペン書きの地圖あり〕』とあって、地図は載っていない。]

十一、當地は梅も開き居り候へば、幾分か東京よりも暖からん乎。宿は目下滿員にて朝夕は湯にはひるのに困り候。

    一月二十一日     龍 之 介

   父 上 樣

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「比呂志籤に通りたる段」筑摩全集類聚版脚注に、『小学校〔高師付属小学校〕』(東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)『の入学試験は抽選で銓衡』されたとあり、比呂志は、無事、試験も合格して、この年の四月初旬に同小学校に入学している。

「女中力石にたのみやり候へば」「力石」はこの当時は『改造』の記者をしてた、まさにこの神奈川県足柄下郡湯河原町出身の作家で龍之介の書生のようなこともしていた力石平蔵(明治三一(一八九八)年 ~昭和五〇(一九七五)年)は芥川龍之介作の「トロツコ」(大正十一年)・「百合」(同前)・「一塊の土」(大正一三(一九二四)年)の元となる作品を芥川に提供したことで知られる。但し、少なくとも「トロツコ」については、私は、龍之介が手直しして呉れる思って力石が渡した原稿を、龍之介が徹底的に書き換えて、自作として発表し、それを見た力石は、力を落して「私の作品ではなくなった」と妻に呟いた、という文章を読んだ記憶があり、かの名品「トロツコ」は正直、芥川龍之介による残念な盗作レベルの仕儀と断じてよいように考えている。確かに、或いは力石の作としてそのまま発表したら、衆目の眼に留まることはなかったかも知れないし(そういうことを芥川龍之介は力石に直接語ったという風にも私は聴いている)、「トロツコ」は芥川龍之介の作品の中でも一際光りを放っている珠玉の小品であるのは、芥川龍之介が彫琢した結果であるのかも知れない。にしても、盗作は盗作である。これは厳に言い添えるべきものと考えている。平三・平造とも書くが、本名は平蔵である。当該ウィキによれば、湯河原の実家の家業は石材業で、高等小学校卒業後(在学中はトップに近い成績で、読書好きであったとされる)は家業に従事したものの、十四歳の時に父が、十八の時に母が逝去してしまった。二十二歳の時、近くの二歳下の女性と親しくなったが、先方の親が交際に否定的であったため、二人で「駆け落ち」の体(てい)で上京した。相手も彼と同じく文学好きであったことから、たまたま彼が龍之介と知り合った結果、芥川家に出入りするようになった(後に二人は結婚している)。『芥川は書簡で』、『力三と思われる人物の就職斡旋を依頼したり』しており、また彼は『芥川が湯河原で湯治をする際の手配、芥川の自宅の家政婦の手配をするなど』(この書簡部分がそれ)、『両者は親しい関係を築』いたように傍目には見えたようである。『「トロツコ」の末尾の段落に「(主人公の)良平は(中略)校正の朱筆を握つてゐる。」とあるのは』、発表当時、『力石が出版社の校正係をしていたことに基くものであると見られている』。『本人の作品としては』大正一五(一九二六)年第一回『文藝春秋』懸賞小説募集に「父と子と」を「力石平三」の名で応募し』、『文藝春秋』の、まさにこの翌月の大正一五(一九二六)年二月号の『創作欄に掲載されているものがある』(恐らくは芥川龍之介が菊池寛に推薦したものと推察されるが、平然を装っていた龍之介も流石に「トロツコ」のそれについては、どこかで落とし前をつけてやらねばならないと考えていたのではあるまいかと私は推理している)。『戦後は横浜市の運輸会社に』、『一時期』、『勤務した後、子孫に囲まれて余生を送った』とある。

「をばさん」芥川フキ。

「アダリン」Adalin(ドイツ語)。一九一〇年にドイツの製薬会社バイエル社が製造し、催眠薬として発売した、微苦味を有する白色無臭の結晶性粉末。催眠・鎮痛剤の一種。「アダリン」は商標名で、一般名は「カルブロマール」(Carbromal:英語)で、化学名は「ブロムジエチルアセチル尿素」(2-Bromo-N-carbamoyl-2-ethylbutanamide)。日本では「日本薬局方」に掲載されていたが、昭和四六(一九七一)年の改正により、削除された。ここにある通り、龍之介や太宰治ら作家が好んで常用していたことでも知られる(当該ウィキ及び同英文ウィキ他を参照した)。

「蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册」先に注した徳冨蘇峰著のシリーズ「近世日本國民史」の第四巻から第十巻の「豐臣氏時代」パート。「豊臣氏時代甲篇」が大正九(一九二〇)年三月に初版が出て、以降、「豊臣氏時代 乙篇」(大正九年十二月)・「丙篇」(大正十年六月)・「丁篇 朝鮮役上卷」(大正十年五月)・「戊篇 朝鮮役中卷」(大正十一年一月)・「己篇 朝鮮役下卷」(大正十一年五月)・「庚篇 桃山時代槪觀」(大正十一年九月)に初版が発行されている。民友社の昭和十年刊でよければ、ここで「甲篇」から読める(乙・丁篇も続けて「後の巻号」で読める)。

「義ちやん」葛巻義敏。

「明石」(明治三〇(一八九七)年~昭和四五(一九七〇)年)は長崎県南松浦郡岐宿村出身の作家。慶応義塾大学普通部中退。同中退後、家業の酒造業を手伝ったが、それに馴染まず、上京して正宗白鳥、次いで、芥川龍之介に接近して教えを請うた(採用しなかったこの前の大正十四年四月十六日附の修善寺発信の渡邊庫輔宛書簡には、日曜面会日の常連の一人として出、龍之介は三百枚もの長篇を読まされたが、「相當に書けてゐる」と評価している)。この大正十五年に「父と子」・「半生」を発表したが(筑摩全集類聚版脚注では『のちにプロレタリア文学に転じた』とする)、十分な世評が得られぬまま、帰郷した。没年には「あのころの芥川龍之介」を発表している(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「猪狩史山」猪狩又蔵(いかりまたぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)は教育者・漢学者。福島県田村郡滝根村(現在の滝根町)出身。史山(しざん)は筆名。東京英語伝習所及び東京文学院哲学科卒(明治二六(一八九三)年)。商業との兼業農家の二男に生まれた。幼年時代から漢籍や書を学び、十四歳の時、福島市に養子に出されたが、不満が爆発し、養家を脱走したが、果せず、暫くは郷里で准教員を勤め、明治22(一八八九)年に、再度、出奔し、苦学しながら、東京文学院を卒業、日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)の教師となった。大正三(一九一四)年、杉浦重剛(じゅうこう)が東宮御学問所御用掛となり、御進講の「倫理」の草案づくりに着手すると、よき女房役として七年間、奉仕した。昭和八(一九三三)年から昭和一七(一九四二)年まで日本中学校校長を務めている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「女禍傳(大阪屋出版)」この大正十五年に大阪屋號書店から刊行されていることが、古書店の情報で判った。内容は不詳。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』としつつ、古代中国神話で人類を創造したとされる女神女媧の解説を「女禍」と表記してやらかしてあるのだが、それって「女媧」で「女禍」とは書かないぜ? まあ、龍之介が誤記した可能性は高いけれどね。

「土屋」恐らくは後に書簡がある土屋文明のことであろう。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・消印二十二日・湯河原発信・東京小石川區丸山町三十小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・一月廿一日夜 湯河原中西内 芥川龍之介

 

冠省、君の手紙を見てまた少しまゐつた。お腹立ちの事など何にもない。唯、この頃鬱々として日を送つてゐるものだから、大橋さんの變死に神經を起しただけだ。それから本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし。(これは改めんと思ひつつ、いつも忘れしもの)それから西田さんより同封の手紙來る。西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう。不眠は相かはらず。胃はまだ痛む。小康を得たのは痔だけ。實際くさくさしてしまふ。春陽會のハン入の節は御遠慮なく義ちやんを使つてくれ給へ。君の画の展覽される頃にはもう少し樂な氣になつてゐたい。

     一月二十一日        龍

   一 游 亭 樣

 

[やぶちゃん注:『本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし』小穴隆一が装幀を担当していた文藝春秋社出版部から刊行予定の再刊本作品集「或日の大石内藏之助」のこと。二月八日に同社同再刊本作品集「地獄變」とともに同日発売されたが、新全集宮坂年譜では、前者は守られたものの、後者は「之」が入ったままのようである。

「西田さん」西田幾多郎。以下の『西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう』は既に書いた通り、小穴と幾多郎の姪高橋文子の縁談が進展しないことを、龍之介が、気を揉んでいる小穴を慰める内容である。

「ハン入」作品の「搬入」。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)

 

冠省。每日無聊に消光、但し胃はあひかはらず惡い。不眠もなほらん。讀本の方はどうなりしか。氣になるゆゑ、ちよつと知らされたし。まだ皆すまずば、薰さんと協力し、お骨折りを得ば幸甚。神經衰弱は如何せしや。湯にはひるか、散步するか、つとめて血行をよくし、僕のやうにヒドイ目にあふことなかれ。

    相州湯河原中西内   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「讀本」例の「近代日本文藝讀本」のゴタゴタの後始末が全然終わっていないのである。

「薫さん」不詳。板元の興文社の担当編集者か?]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省、かかる紙にて失禮に候へどらも當地にはこの書簡箋の外無之候間これにて御免下され度候。御臥床中のよし、寒氣嚴しき折から何とぞ御大事に願上げ候。拙句惡書多少なりとも御病間を慰め候はば幸甚と存候。小生も若き癖に寒さに中てられ、胃を損じ、腸を害し、おまけに神經性狹心症さへ生じ今月半ばより當地に入湯罷在候。とりあへず御見舞まで 頓首

     一月廿二日     龍 之 介

   佐 藤 樣

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十三日(年次推定)・湯河原発信・塚本八洲宛(絵葉書)

 

その後御病氣は如何ですか僕はこの頃少し元氣を恢復しました。しかしまだ不眠症は癒らず、胃病も癒りません。ここはもう梅はさいてゐますが、寒氣は東京と同じ位です。少くとも同じ位の氣がします。いつもお母さんに何か送つて頂くのは恐縮故、今度は何もお送りないやうに願ひます。その代りに君の容態を知らせて下さい 頓首

          相州湯河原中西内 龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・南條勝代宛(絵葉書)

 

この間は病氣の爲不愉快な顏をしてゐてあなたまでも不愉快にしたらうと思つてゐますさうしてお氣の毒に思つてゐますわたしは來月中旬までこちらにゐようかと思つてゐます「思つてゐます」ばかりつづいて變ですが常用のみ。

    二十六日  中西にて 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)

 

朶雲拜誦來月十五日頃迄はゐるつもりだが、來月はじめには伯母が來るかも知れない。ぜひ來給へ。僕も體力恢復次第、仕事にとりかからうと思つてゐる

    二十六日  ゆがはら中西 龍之介

  二伸 待つてゐるよ。

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・東京府中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月廿七日 湯河原中西うち 芥川龍之介

 

冠省、やうかんお送り下され難有く存候。勿論奧さんの御厚意ならんと存じ居候。但しあれを食ひすぎ候せゐか咋今腹中異狀を生じ、屁も何も出ず、何やら鳴動致し居候。この宿のお上さんと病を語り候へば 何も彼も割り符を合はすやうにて 得體の知れぬ胃膓を患ふるもの小生一人のみにあらざるを知り、何やら天下を擧げて病人なる乎の感を生じ候。當地は梅など開き居り候へども寒氣中々きびしく(梅も唯習慣上開きしにや)これにも亦難澁致し居り候。この分にては來月もここにゐることとならん乎 思へば、思へば、云々のはがきを拜受したる頃はまだしも健康なりしの感に堪へず。ひそかに維洮曼靑居士と號さん乎と思ひ居り候 末筆ながら奥さんによろしく 頓首

    廿七日            澄

   藝 先 生

二伸 この前の手紙はゆきちがひになりたりと覺ゆ。御一遊の志なきや。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「云々のはがきを拜受したる頃」時期特定不能。前の一月二十日の佐佐木宛では「御手紙東京より同送し來りて拜見」とあるが、それではたった一週間前のことになり、おかしい。というより、この手紙、全体に、何やらん、奇体な印象を受ける。貰った羊羹のお礼で始めながら、それを食ってから、昨日から今日にかけて腹が異状を呈し、鳴っても、糞も屁も出ないと尾籠なことを述べた上、世を挙げて、一国、皆、病人なるか、という感じを持っていると言い、ちょっと前の君から手紙を貰ったあの時分、具合が悪いと感じていたのだが、実は「まだしも健康」だったのだと今更にひどく感じている、と言い、自分でしょうもない戯れの戒名(「維洮曼靑居士」「いてうまんせいこじ」の上の部分は「胃腸慢性(ゐちやうまんせい)」の語呂合わせである)をつけて興じているのも、何となく過ぎた躁的な演技も感じられる。少なくとも、軽度ではあるが、一種の不安神経症の症状を示しているようにも感ぜられるのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・佐藤春夫宛(絵葉書)

 

君のお父さんよりお禮狀を貰ふ。御病中のよし字も亦仰臥して書かれたらしかつた。ちよつと氣になり、このはがきを認む。どうか君からもよろしく。

  二十七日 相州湯河原中西 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十八日・湯河原発信・菅虎雄宛

 

冠省その後御淸適の事と存じます先達お願ひいたした箱書を來る卅一日の日曜の午後(四時頃になるかと存じます)頂戴に上るつもりでございます恐縮ながら御在宅を願へれば幸甚に存じます右とりあへず當用のみ 頓首

    一月廿八日夜     龍 之 介

   菅 先 生

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、芥川龍之介はこの日に、一度、田端へ帰宅している。そして、三十一日の午後四時頃、芥川龍之介は予告通り、鎌倉の菅虎雄邸を来訪している。そして、その足で再び、湯河原へ戻っているのである。但し、私はこの一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたとは断言出来ない気がしている(二十八日の条には、帰宅の件と、『帰途、萩原朔太郎を見舞うか』と年譜にはあるのみ。この朔太郎見舞いの件は後の二月十六日附室生犀星宛書簡で考証する)。さらに言えば、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、これまた、ない、ということに気づいた(年譜と書簡日付から)。何を言いたいかって? 鎌倉の小町園だよ! 最大で四、五日、彼は強く惹かれている女将野々口豊のいる小町園に泊まっていた可能性があることを示したかったからだよ! 「何でそんなに野々口豊にこだわるの?」だって? あんたも鈍感だね! この年の年末から翌昭和二年にかけて、「芥川龍之介の小さな家出」とも称される事件が起こるからさ! 龍之介が実家に確かには告げずに、小町園に居続けをして、彼女の世話を受けているのさ! この時、龍之介は、豊に心中を持ちかけたとする説さえもあるからさ! だ、か、ら、だよ!

「淸適」(せいてき)は「気持よく安らかなこと」。多く書簡文で相手の無事や健康を祝って言うのに用いる。]

2021/08/26

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 一

 

      「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理

 

         

 摸稜案の中には、三つの中篇小說があつて、そのうちの一つは、前囘に紹介した『縣井司三郞』の事件であるが、その他の二つは、いづれも女性の犯罪心理をうかゞふに足る物語であるから、左にその梗槪を紹介して、併せて作者馬琴の女性觀に就て述べて見たいと思ふ。[やぶちゃん注:底本では、次の段落は頭が二字下げになっており、以下、長い梗概部分全体が全部一字下げになっている。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本原本はここから。読みはそれに概ね従った。「池子」は現在は「いけご」であるが、原本に従った(現在は池子は逗子市であるが、鎌倉時代は御府内であった)。「しちりのはま」「はまぐりのかひ」等も同じである。]

 先づ『牽牛星(ひこぼし)茂曾七《もそしち》殺害事件』から始める。相模國鎌倉郡池子《いけこ》村に、牽牛星茂曾といふ農夫があつた。牽牛星といふのは綽名であるが、何故さういふ綽名をつけられたかといふに、家に牡と牝の上疋の牛を飼つて居たのと、妻り專女(おさめ)[やぶちゃん注:原本では「をさめ」。歴史的仮名遣では「を」が正しい。]が、年若い美人で機をよく織つたので、里人にねたまれたがためである。さほど富んでは居ないけれど、少しばかりの田畑があつて、近頃までは弟の曾茂八《そもはち》が同居して居たが、嫂のことで、兄と仲が惡くなり、腰越村の式四郞《しきしらう》といふ知己の家に身を寄せることゝなつた。

 妻の專女は、やはり近村の生れてあつたが、僅かの間に四人ほど亭主を持つて死に別れたので、その村では誰も彼女を貰ふものがなかつたのに、茂曾七は色ごのみの男であつたから、一目見て彼女を戀し、十五六も年下の女を妻として呼び迎へたのである。これを見た弟の曾茂八は至つて正直な性質てあつたから、世間で爪はじきされて居る女を貰ふことに極力反對したのであるが、兄は弟の諫言に耳を傾けずして專女を娶り、結婚後間もなく彼は、妻の讒言によつて、弟の曾茂八を體よく追ひ出したのである。

 曾茂八が身を寄せた式四郞は小動《こゆるぎ》[やぶちゃん注:腰越の七里ヶ浜と腰越漁港の間にある岬が「小動の鼻」であるのに掛けた名前。]といふ一人娘と暮して居たが、老年にもなつたことではあるし、曾茂八が實直に働くのを見て、聟にしたいと思ひ、その旨を曾茂八に告げると、喜んて承諾をしたので、一家はその後圓滿な日送りをすることが出來た。

 一方、池子村の茂曾七は前に述べたごとく年來、二疋の牛を持つ居て、そのうちの一つは黃牛(あめうし)で牡、今一つは靑牛(さめうし)[やぶちゃん注:「白毛の牛」或いは「両眼の縁の白い牛」或いは「虹彩の白い牛」を指す。]で牝だつたから、黃牛を弟に牽かせ、自分は靑牛を牽いて、田を耕やし、時には江の島詣での旅客を乘せて、駄賃を取つて居たが、弟曾茂八が居なくなつたので、黃牛を賣るのも惜しく、村はづれに字平《あざへい》といふ二十八歲の獨身の男があつたのを幸ひに、專女と相談して、雇ひ入れることにしたのである。字平は牛を牽くことが極めて上手で、頗る忠實に働いたので、大に主人夫婦の氣に入つた。

 さて、その年も暮れて春も彌生の末となつたある日、曾茂七は、靑牛を牽いて七里濱《しちりのはま》に赴き、江の島詣での客を乘せようと思つて、朝から晚まて海濱を徘徊したが、生憎その日は一人の客をも乘せ得なかつたので、非常に落膽して步いて來ると、忽ちうしろから『その牛に乘らう』と呼ぶ者があつた。茂曾七が振ろ向くと、それは若宮巷路《わかみやこうぢ》の賣卜者《うらやさん》『貝《かひ》の翁《おきな》』と呼ばれる人で、もとは鶴岡若宮の禰宜をして居たが、年老いたので賣卜を事とし、春になると貝を拾つて來ては、都人の土產に資’り、今日も、貝拾ひに來て、あまりに多く取つたので、牛を雇はうとしたのである。

 茂曾七は喜んで翁を乘せ、やがて若宮巷路へ來ると、翁は錢を與へて、ふと茂曾七の顏を眺め、『其許のたすけで、澤山の貝をうちへ持つて來ることが出來たから、その御禮に一寸話して置かう。其許の顏色を見ると、遠からず橫死する相がある。だから今のうちにその禍を除かねばならない』と告げた。茂曾七は大に驚いて、『その禍を除くにはどうしたら宜しいでせうか』といふと、翁は『外に術はない、たゞ、さめを捨てたらよい。』

と答へたまゝ、疲勞のためにその場で寢入つてしまつた。

 茂曾七はなほよく事情をきゝたいと思つたが、翁は熟睡したので、そのまゝ歸路についた。これ迄翁の言ふことはよく適中するといふ評判元なので、『さめを捨よ』といふ言葉をいろいろ考へた結果、さめとはこの靑牛のことであろうと考へ、然し捨てるのも惜しいから、誰かに賣らうと決心して延明寺《えんみやうじ》[やぶちゃん注:こんな寺は昔も今も鎌倉には存在しない。若宮大路下馬四つ角近くの延命寺のズラしであろう。]の辻のところへ來ると、思ひがけなくも、久し振りに、弟の曾茂八に出逢つた。

 兄弟同士のことゝて、二人はたちまち、親密に話し合つたが、やがて弟は、家の牛が病死したので、今日戶塚の牛市へ出かけ力が、思はしいのがなかつたと告げた。これをきいた兄は大に喜んで理由あつてこの靑牛を賣りたいからこれ牽いて行かないかといふと、弟も非常に嬉しく思ひ、その價を問ふと、まあいゝから牽いて行き、序の時に錢を屆けてくれと言つて、その儘靑牛を渡してやつた。

 茂曾七は心にかゝる靑牛を弟に渡して、ホツとしながら家に歸り、事の一次第を專女と字平につげると、二人は口を揃へてあざ笑ひ、ことに、專女は、弟曾茂八に賣つたことを難じて、恐らく、牛の代金は吳れまいから、明日は取りかへしに行つて來なさい、と勸めた。然し茂曾七は易者の言が氣になるので、たとひ弟から代金を屆けなくても[やぶちゃん注:ママ。]、身の禍さへのがれゝばそれでよいと言つて肯《き》かず、黃牛一つになつたから、明日から字平には暇を出さうと言ひ出した。これをきいた專女は大に驚いて、字平を解雇することに極力反對したが、茂曾七は一旦言ひ出したからには後へ引かずニケ月分の給金を與へて、たうとう字平をかへしてしまつた。

 とろこが、專女の豫言が當つたのか、十日あまりを經ても、曾茂八の方から何のたよもなかつたので、ある日茂曾七は牛の代金を受取り、かたがた弟の家をたづねようと思ひ、この旨を妻に話し、酒一瓢《ひとひさご》と、乾魚《ほしうを》一籠とを黃牛の背につけて、午の貝吹く頃、わが家を立ち出でたのである。

 丁度その同じ日、貝の翁は、いつものやうに海濱に赴きあちらこちらを徘徊して居ると、はるか彼方の浪打ち際に溺死人が浮き沈みして居るので、驚いて駈け寄り、渚に引き揚げて、用意の定心丹《ぢやうしんたん》[やぶちゃん注:原本にあるが、不詳の漢方薬。]を口中に塗りつけ、頻りに呼び活《いか》したけれども、多量の水を飮んで居るらしいので、何とかして先づ水を吐かせようと思ふと、突然彼方から一疋の主なき牛が來たので、大に歡び『死骸を牛の背中に、うつむきに橫はらせたなら、水を吐くだらう』と思ひ、牛を巡れて來て死人を抱き上げ、よく見ると、その人もその牛も、先日、自分のところへ來たものたちであつたから、自分の豫言の當つたことを不憫に思ひ、息を吹き返したら手當をしてやらうと覺悟して、再たび貝を拾ぴにかゝつたが程なく頭をあげて見ると、牛の姿が見えなかつたので、はつと思つて由比が濱の方へたづねに走つたけれども、もはや、何處にも見つからりず、そのまゝ、若宮巷路の我家に歸つた。

 話變つて、腰越村の曾茂八は、兄から讓つて貰うた靑牛を牽いて我家にかへり、養父式四郞と妻小動に事情を話すと、二人とも大に喜び、早速明日にても牛の代金を持つて行くがよいとすゝめたので、あくる日は朝から土產物などの用意をしたが、式四郞は曆を見て、來る二十八日は丑の日で『よろづよし』とあるから二十八日にせよといつたので、その言菜に從つたが、二十七日の夜に突然式四郞は卒中で半身不隨となり、そのため、思はず日數を過してしまつた。

 ところが、兄から讓り受けた靑牛は、どうかすると繩を脫け出して、東の演邊へ二三度も行ったが、その都度曾茂八は追ひ留めた。牛でさへ、故主の恩を慕つて歸らうとするに、自介が恩義を忘れては相すまぬと、心ははやつても病人を殘して出ることもならず、又兩三日を送ると、靑牛は再び繩を拔け出し、その一日に限つて病人の容態がわるかつたので、曾茂八夫婦は少しもそれに氣附かなかつたのである。

 夕方になって、雨が降り出したので小動が牛小屋へ見に行くと、牛の居らぬのに大に驚き、良人に事情を告げた。曾茂八は、直ちに簑笠とつて打かつぎ、濱邊を東に追つて行くと、向ふから主なき牛が一疋こちらへ步いて來た。さては靑牛かと喜んで近よつて見ると、意外にも見覺えのある黃牛て、鞍の前輪に、酒と乾魚とを附けて居た。よつて多分兄の茂曾七が後から來るにちがひないと、暫らく待つて居たけれども、その姿が見えぬので、一先づ黃牛を我家に牽いて來てつなぎ、小動に事情を話して、兄の來訪を待つのであつた。

 あくる日になつても何の音沙汰もないので、曾茂八は兄の家を訪ねようと思つたが、養父の病が、急に重つたので出拔け難く、雇ふべき人足もないので心配のうちに夜になつてしまつた。すると五更[やぶちゃん注:午前四時或いは午前五時前後。]のころ、捕手の兵士が五六人、字平を先に立たせて、曾茂八の家に窺ひより、彼の在宅を見つけ、門の戶を破つて亂れ入り『兄を殺して牛を奪つた曾茂八、索《なは》にかゝれ』と呼んで召し捕らうとした。曾茂八は大に驚き、少しも身に覺えのないことだと言ひ譯すると、捕手の兵士はこゝに證人があるといつて字平を指した。

 字平は進み出て、曾茂八に向つて言つた。            

『貴様は嫂に心をかけ、戀のかなはぬ意趣ばらしに、家の物をさらつて逐電し、式四郞の婿となつても、兄が物を返さず、剩へ、先日延明寺の辻で、兄をだまして靑牛を奪ひ、兄がそれを取り返すつもりで黃牛に酒肴を負はせて、この家へ來ると、一層の惡念を起して兄を殺し、死骸を靑牛に負はして、海底に沈めるつもりだつたらうが、天網はのがれ難く、靑牛は主の屍を負つて池子村へ歸つて來たのだ。そこで俺は、貴樣の所爲《しわざ》だらうと思つて、昨夜ひそかにこゝへ來て牛小屋の中をうかゞふと果して黃牛が居るではないか。だから俺は、汝の所爲だと思ひ、雇はれた恩義に報いるために、專女後家を助けて事の趣をおかみに訴へたのだ。』

 曾茂八は兄の橫死をきいて胸が塞がり、その上寃罪に陷れられたので、あまりのことに默つて居ると、兵士どもは程なく彼と黃牛と馳引き立てゝ文注所へ連れて來た。

 時に建治元年[やぶちゃん注:一二七五年。執権は北条時宗。]四月九日、靑砥藤綱は曾茂八を獄舍から引出させ、訴人の專女字平等を呼寄せて吟味を始めた。先づ曾茂八を近く召し寄せてたづねると、彼は、池子村を立ち去つた理由から、黃牛を我が家へ連れて來た顚末まで殘らず物語つた。藤綱はしづかにそれをきいて居たが、やがて曾茂八に向ひ、靑牛を兄から買つたとき何故貝の翁に吉凶を問はなかつたか、又十日あまり何故兄のところへ音づれをしなかつたか。汝の言ふ所には證據が更にないではないかといひ懲《こら》し、次に專女と字平とを近くに召し寄せ、專女に向つて、靑牛が良人の死骸を乘せて歸つたときの爲體《ていたらく》と靑牛を賣つた次第とをたづね、茂曾七の死骸の着て居た衣服をとりよせて檢査し、次に字平に向つて、汝は右の食指《ひとさしゆび》を布の片《きれ》で包んで居るがそれはどうしたのかとたづねた。すると字平は、先日鰹を切るとて刄《やいば》を走らし、傷をしたので御座いますと答へた。

 そこで藤綱は二人に向ひ、汝等の言ふ所頗る胡亂《うろん》である。茂曾七が貝の翁に諭されて靑牛を賣らうと思つたのならば、曾茂八がかたり取つたのではないぢやないか。又、昨日、汝等が訴へたとき、茂曾七はもはや療治が屆かなかつたかとたづねたら、死んで時がたつて居たので藥はのませなかつたと言つたが、今この衣服を見ると藥の匂がするのはどういふ譯か、なほ又、この衣服は雨に濡れただけならば一晚竿にかけて置けば半ばは乾くのに、今なほ大へん濡れて居るのは潮水につかつた證據である。して見ると、字平の推量とはちがひ、曾茂八は海へ沈めたものを再び引揚げて牛に負せたことになるが、それはどう說明したらよいかと詰問すると專女はもとより、字平も適當な說明を與へることが出來なかつた。

 そこで藤綱は、人を若宮巷路へ走らせて、貝の翁を呼ばしめようとすると、丁度その時貝の翁自身が出頭したので、藤綱が喜んで來意をたづねると、今日文注所で、しかじかの罪人の審問があるときゝ、罪を救ふために來ましたと答へた。

 『先日、あの牛飼の人相を觀ましたところ、女難の相があつたので、女房を捨てたらよいと思ひましたが、あからさまには言ひ難いのでさめを捨てよと申しました。さめの一字は添言葉でたゞ卽ち妻を捨てよといふ意味で御座いました。ところが、その後、海濱で貝を拾つて居ますと溺死體が打ち寄せられましたので、助かるものなら助けようと藥を口の中に塗りますと、舌の上に妙な物がありましたので、殺されものであらうと思ひ、後の證據に取り出して懷へをさめると、主なき靑牛が來たので、始めて先の牛飼であると氣づき、水を吐かせるつもりで牛に負はせましたが、をのうちに牛の行方がわからなくなりました。ところが今日、腰越村の曾茂八といふものが、兄を殺して死骸を牛へ乘せ海に沈ませようとしたことが發覺して吟味されるときゝましたので寃罪にちがひありませんから、曾茂八を救はうと思つて參りました。これが、死骸の口中にあつた物で御座います。』

 かう言つて貝の翁は蛤貝《はまぐりのかひ》の中へ入れたものを差出したので、藤綱が開いて見ると、人の指がはひつて居た。

 藤綱は直ちに左右のものを顧みて、字平と專女とを捕縛せしめると、字平は大に抗辯したが、食指の繃帶を解かしめたところ、果して嚙み切られて居たので、翁の持つて來た指が動かぬ證據となつた。然し中々實《まこと》を吐かぬので、先づ專女に鞭一百を加へると、苦痛に堪へず自白した。それによると彼女は去年から字平と密通して居たが、良人曾茂七を殺したことは字平一人の所爲で、私は知りませんと言つた。それから字平を鞭つて二百に及ぶと、彼もたうとう白狀した。その日彼は由井ケ濱に侍伏して、後から茂曾七の咽喉を絞めにかゝると、誤つて右の食指を彼が口中に突入れ、その際嚙み切られたが、遂に縊め殺して海に投げ入れ、茂曾七の家に行つて專女と樂みを取つて居ると、靑牛が死骸をのせて歸つて來たので、一旦は驚いたけれども、曾茂八に罪をきせるには好都合であると思ひ、曾茂八のところへ來て見ると、黃牛が居たので、專女をすゝめて訴へさせたといふのである。で、藤綱は次の宣告を與へた。

『……宇平はもとより、雇夫にて、主從の義なしと雖も、犯す所の罪、もつとも輕からず、又專女は字平とともに茂曾七を殺さずといふとも、既に字平と密通して、不義の情欲よlり事起りて、茂曾七を殺すに至る、その罪は字平と又何ぞ異ならん、これ亦決して赦し難し、此彼もろ共に、近日、由井濱(ゆゐのはま)に引出して、誅戮(ちうりく)すべきものなり…………』

 かくて、茂曾八の放免されたことはいふ迄もなく、養父の病さへ五六日が程に本復した。[やぶちゃん注:ここで梗概は終わって、行頭からに戻る。]

 以上の筋書を讀まれた諸君は、最後に至り茂曾七殺しに專女が關係して居ないことを知つて、頗る意外に思はれたであろうと思ふ。始めに、彼女の淫奔な性質を述べて、犯罪性に富んで居ることを暗示して置き乍ら、終りに至つて情夫のみの犯罪としたことは、頗る物足らぬ感がある。而も、字平については、實直に働いて主人夫歸の信用を博したと書かれてあるから、兪よ以て奇怪な感じを抱かせられるのである。作者馬琴は『靑砥藤綱摸稜案』に於ても、彼のもちまへなる勸善懲惡主義を鼓吹しようとして居るらしいから、犯罪者の性格などには重きを置かず、只管《ひたすら》事件の推移に心を懸けたのであらうが、若し、正直な字平が專女のために、だんだん深みへ行き入れられ、遂に專女にそゝのかされて、茂曾七を殺すといふ風に書かれてあつたならば、その方が遙かに自然であるやうに思はれる。尤も馬琴の書いたやうな事實が世の中に決して無いといふことは斷言出來ないが、それならば、そのやうに、物語の始めに暗示を與へて置くべきである。例へば宇平が專女との不義の現場を茂曾七に見つけられたならば殺害の動機は成立する。又字平が茂曾七の少しばかかりの財產に目をかけ、それを專女もろ共我がものにしようとするのでも殺害の理由にはなり得るのである。利慾を離れた純然たる性的犯罪ならば、女に敎唆されて大罪を犯すといふ風に書いた方が、どう考へて見てもいゝやうである。ことに、茂曾七が弟のところヘ出立することを知つて居るのは專女ばかりあるから、專女がそれを字平に知らせて、良人を殺させるやうにしたならば筋の通りも遙かに良い。[やぶちゃん注:ここは完全に不木に賛同する。茂曾七が專女と結婚する前、彼女は若いのに「四人(よたり)ばかり夫(をとこ)をかさねたるに、その夫どもみな短命なる」(原文)というのも、如何にも怪しい前提ではないか? それらもたまたまのことであったなどという完全受身形の「ファム・ファータル」(Femme fatale)なんどいいう設定は、これ、話にならぬ。]

 一般に馬琴の作物の中にあらはれる人物の性格は、あまりはつきりして居ない恨みがあつて、女性犯罪者のうちでも、八犬傳の船蟲などは比較的よく書かれては居るが、この物語の專女などは隨分ぼんやりした描き方だと思ふ。犯罪者にも善心があるといふことはこれ迄よく紹介されて居る所であるが、それは多くは男性犯罪者に適用することで、女性犯罪者ことに所謂毒婦と稱せられる女子には、善心は殆んど認められないといつてよいくらゐである。だから毒婦を描く場合には徹底した惡性を帶ばしむるのが適當であろうと思ふ。この一つの物語から馬琴の女性觀を判斷するのはもとより亂暴ではあるが、ことによると、馬琴は女性犯罪者には男性犯罪者と同じ程度の善心は必ず存在するものと考へて居たのかもしれない。[やぶちゃん注:男女の真正シリアル・キラー或いは連続殺人犯の、偶発的な良心の発露を女性には認めないというこの不木の犯罪学説は、現代では認め難い女性差別である。よろしくない。「船蟲」はウィキの「南総里見八犬伝」の「対牛楼(たいぎゅうろう)の仇討ち」以下を読まれたい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事

 

[やぶちゃん注:前と同じく文宝堂の発表。]

 

   ○駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事

江戶本鄕加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日、雪ふりたる所也。其雪、富士の形につもりたるゆゑに、其所へ淺間の宮を造立し、每年六月朔日、まつりをなす。其比、本鄕に桔梗屋何がし、水野兵九郞、源右衞門といふもの三人にて、萬の事を取りはからひけるとぞ。其後、右淺間の宮の所も、加州御やしきへ圍ひこみとなりても、以前のごとく參詣ありて、御屋敷の御門を出入しけるを、「いかゞしき。」とて、同所御弓町眞光寺へ淺間の宮を引き移されしが、「此地、不淨なり。」といふ夢の告ありしによりて、程なく駒込の原へ遷座あり。今の「駒込の富士」、これなり。駒込へうつされしは、寬永三戌年なり。享保二年六月朔日より、鐵砲洲船松町より每年五月晦日の夜、「かけ念佛」にて、駒込富士へ萬度を一本持ち來りて、これを納むる事、今にたえず。此事はいかなるゆゑにか。猶、たづぬべし。

  此一條、本鄕六町目駿河屋喜太郞話なり。

[やぶちゃん注:「江戶本鄕加州御屋敷」現在の東京大学本郷キャンパス相当。

「慶長八癸卯年六月朔日」グレゴリオ暦一六〇三年七月九日であるから、積もるほどの降雪というのは、ひどく稀れな異常気象である。

「加州御やしきへ圍ひこみとなり」徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開府したのは慶長八(一六〇三)年二月十二日であるから、この降雪の当時のこの場所は、加賀藩の氷室ではあったものの、未だ加賀藩上屋敷の敷地内ではなかったということになる。以下の「駒込の富士」の☜部も参考になる。

「いかゞしき」藩邸内に町人が自由に入るというのはいかがなものか。

「同所御弓町眞光寺」天台宗富元山瑞泉院眞光寺の寺自体は、現在は東京都世田谷区給田に移転しているが、墓地地と薬師堂及び露座の十一面観音像が旧地(東京都文京区本郷四丁目。グーグル・マップ・データ)に残されてある。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「御弓町」で、切絵図で旧寺域が確認できる。「天台宗東京教区」公式サイトの同寺のページ(現在地の地図有り)によれば、移転(東京大空襲により焼失)は戦後のことで、特に、この寺の薬師如来像は『「本郷薬師」と称され』、『多くの人々の信仰を集め、毎月』八日・十二日・二十二日の『縁日は江戸三縁日と呼ばれる程、賑わいました。この賑わいは、明治・大正・昭和初期まで続き、泉鏡花の「婦系図」、樋口一葉の日記にも賑やかな情景が描写されています。この薬師如来は、慈覚大師の一刀三礼の彫刻によるものと伝えられています』とある、非常に知られた寺であったことが判る。

「駒込の富士」現在の東京都文京区本駒込五丁目にある駒込富士神社。祭神は無論、木花咲耶姫。当該ウィキによれば、『建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚』『の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている』。『天正元』(一五七三)年、『本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した』寛永』五(一六二八)年、『加賀前田氏が屋敷(上屋敷になったのは明暦の大火』(明暦三年一月十八日~二十日(一六五七年三月二日~四日)『以降)』(☜)『をその地に賜る』(されば、富士型がここに移ったのも加賀藩が絡んでいると考えてよいだろう)『にあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町』『に移し、その後』、『現在地に合祀した』。『江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり』、『町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消の纏(まとい・シンボルマーク)を彫った石碑が数多く飾られている』。『初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった所、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた』。『「一富士二鷹 三茄子」は江戸時代中期の』享保一八(一七三三)年に『江戸で刊行された』節用集(日曜実用本)「悉皆世話字彙墨寶(しつかいせわじいぼくはう)」(儒学者中村平五三近子(なかむら へいご さんきんし 寛文一一(一六七一)年~元文六・寛保元(一七四一):幼時に山崎闇斎から直接に教えを受けている)著)に、『駒込富士神社にまつわる縁起物を詠った川柳「駒込は 一富士二鷹 三茄子」が文献上最古の記述として掲載されている。しかし、「一富士二鷹三茄子」を紹介する文献は同時代に数多く見られ、その中でこの時代より前』『に広く流布していたことが解説されている』。『縁日の山開き』(現在は六月三十日から七月二日まで)『では土産の駒込ナスが名物だったが、現在では周辺の宅地化により』、『茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている』。今は『駒込天祖神社が当社を兼務しており、授与品や朱印は天祖神社の方で行う。また、氏子地域も無い』とある。

「寬永三戌年」一六二六年。しかし干支は誤りで「丙寅」である。干支の誤りは、鈔的には著しく史料としては価値が減衰する、寛永の戌年は寛永十一年(甲戌)がある。

「享保二年」一七一七年。

「鐵砲洲船松町」(ふなまちつやう)は現在の中央区湊三丁目。駒込富士神社までは実測で八キロメートルはある。

「かけ念佛」念仏講などの講中で、鉦や木魚を叩き、高声で掛け声して念仏を唱えること。「かけねぶつ」とも読む。

「萬度」長い柄取り付けて捧げ持つ行灯(あんどん)のこと。祭礼などで四角な木の枠に紙を張って箱形に作り、「何々社御祭禮」などと大書し、その下に町名や「氏子中」・「子供中などと書き、これに花などを飾る。古くは棒の先に白幣を付け、その下に大神宮の一万度の御祓箱を結びつけたが、後には大きい傘に短い幕を廻したものなどもある。「万灯」(まんどう)とも呼ぶ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 夢の朝顏

 

○湯島手代町[やぶちゃん注:「てだいまち」或いは「てだいちやう」。現在の文京区湯島三丁目(グーグル・マップ・データ)。]に岡田彌八郞といひて、御普請方の出方をつとむる人あり。此人のひとり娘、名を「せい」とよびて、容儀もよく、殊に發明なれば、兩親のいつくしみふかく、しかも和歌に心をよせ、下谷邊に白蓉齋[やぶちゃん注:西島姓。]といふ歌よみの弟子となりて、去年十四歲にて朝がほのうたをよみしが、よくとゝのひたりと師もよろこびける。その歌、

    いかならん色にさくかとあくる夜をまつのとぼその朝顏の花

其冬、此むすめ、風のこゝちにわづらひしが、つひに、はかなく成りにけり。兩親のなげきいふべくもあらず。朝夕たゞ此娘の事のみいひくらしゝが、月日、はかなくたちて、ことし亥の秋、かの娘の、日頃、よなれし[やぶちゃん注:「世馴れし」。ここは普段から愛用していた、の意。]文庫の中より、朝顏の種、出でたり。一色づゝに、「これは『しぼり』」、あるは「るり」など、娘の手して、書き付け置きたるつゝみをみて、母親、猶更、思ひ出ゝ、「かく迄しるし置きたる事なれば、庭にまきて娘のこゝろざしをもはらさん。」とて、ちいさなる鉢に種を蒔きて、朝夕、水そゝぎざなど、したるほどに、いつしか、葉も出で、蔓も出でたれど、花は、一りんもさかざりければ、「すこし、時刻[やぶちゃん注:「じき」と当て訓しておく。]おくれにまきたるゆゑ、花のさかぬ成るべし。されども、秋に、秋草の花さかぬ事やは。」とて、さまざまにやしなひしが、さらに花の莟だに、なし。ある日、父彌八郞は、東えい山の御普請場へ出でたるあと、母は娘が事のみ、わすれかね、朝顏を思ひながら、うつらうつらと、ねむりたるが、娘の聲にて、「おかゝさま、花がさきました。」といふに、驚き、さめぬ。あまりいぶかしく思ひければ、朝顏のそばへゆきみれば、一りん、さき出でたり。いよいよ、『あやし。』と思ひて、夫彌八郞が歸るを待ちかねて、此よしをもかたり、花をも見せしよし、此はな、晝夜にさきて、翌朝までしぼまずしてあり、となん。

 右は文化十二乙亥年[やぶちゃん注:一八一五年。]の事なり。花のさきしは翌子年なり。

  文政乙酉孟夏朔    文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:とてもしみじみとしたいい話である。なお、本話は町人で粉屋を生業とした考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六一)年)が文化文政期の二十六年間の出来事・巷談を集めて綴った随筆「街談文々集要」の巻十五の「朝顏之奇怪」にも載るが、座敷浪人氏のサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学の壺」のこちらに現代語訳が載るものの、それは本文と原文が殆んど同一と読め、この「兎園小説」の本篇を転写したものに過ぎないと思われる。

「文政乙酉」文政八(一八二五)年。]

2021/08/25

「日本山海名産図会」内標題・序(木村蒹葭堂孔恭)・跋(作者事績不詳)・附記(絵師蔀関月の記名)・広告文・奥書/「日本山海名産図会」オリジナル電子化注~完遂!

 

[やぶちゃん注:「国立国会図書館サーチ」の本書書誌の「注記」によれば、『木村蒹葭堂の漢文序によれば、物産の学については、稲生若水の著書『採薬独断』があったが、秘書としたため』、『人間』(じんかん)『に伝わらなかったことを遺憾とし、同書に擬して『名物独断』数巻を編んだが、家の多難に遭い』(これは蒹葭堂が過醸の罪により寛政二(一七九〇)年から同五年まで、伊勢川尻村に退隠したことを指す旨の補注が入る。同人のウィキによれば、寛政二年五十五歳の時、『密告により』、『酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。酒造の実務を任されていた支配人宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で』、『大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう』とあり、『蒹葭堂は直接の罪は免れたが』、『監督不行き届きであるとされ』、『町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受け』、『伊勢長島城主増山雪斎を頼り、家名再興のため』、『大坂を一旦』、『離れ』、『伊勢長島川尻村に転居』したことを指す。但し、『二年の後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営』み、『その後、稼業は栄え』、『以前にも増して蒹葭堂は隆盛となった』とある)、『公にすることが出来ずにいたところ、書肆某が本書を携えて訪ね』、『序を請うた旨を記す』とある。この内容だと、「日本山海図会」の作者は木村蒹葭堂孔恭であるということになる。

 ところが、本書には最終第五巻の末尾に「跋」があり、そこには本文の著者は別人であるという記載があるのである。これについて上記「注記」では、「みち」或いは「ミち」或いは「三古」(?)なる『人物による難読難解の和文跋文には、「こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の下露を、みなの川波のかす++[やぶちゃん注:「++」は原文を見るに踊り字「〱」を変えたものと思われる。]になん、かきなかしぬる関月かいさほし也けり」「かくてまなひ子藍江その名残につきて、露けし袖の外に、ほころふるふしををきぬひ侍り、おのれ亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つゐによるせありて、いつもの花の五巻とはなりぬ」とあり、補世』、『つまり』、この「日本山海図会」は、『大坂の書肆作家、平瀬輔世(徹斎)こと』、『千種屋新右衛門』『の編著で』あって、『同人の没後、画工の蔀関月(千種屋一統の書肆千種屋柳原源二郎)が業を継ぎ、その没後には』、『関月門人の画工中井藍江が補い、跋者が解説を補』って『完成させたもの』と読める旨の記載があるとある。則ち、「日本山海図会」は大阪の書肆の主人で千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世(「すけよ」か)が原著者であるというのである。

 「朝日日本歴史人物事典」に拠れば、この真の著者とする平瀬徹斎(生没年不詳)は江戸中・後期の大坂の書肆「赤松閣」の主人で、名は「補世」(これだと「ほせ」か)、通称「千草屋新右衛門」、「徹斎」は号。各地名産物の生産・採取の技術を図示解説した「日本山海名物図会」宝暦四(一七五四)年に著した。他に「放下筌」(ほうかせん)などの著作がある(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原刊本らしきものが読める)。徹斎は大坂の金融業者平瀬家の一族ともみられているが、確証はない、とあり、講談社「日本人名大辞典」の「平瀬徹斎」には、やはり生没年未詳とし、江戸中期の版元で、大坂の人。「赤松閣」の主人。自身も「売買出世車」(恐らく国立国会図書館デジタルコレクションの「通俗経済文庫巻一」所収の東白著とある「米穀売買出世車附図式」が同じものである。書肆はここで平瀬の活動期と一致し、大阪での出版である)や「書林栞」(しょりんしおり:明和五(一七五八)年刊。国文学研究資料館のここで原本が視認出来る)などを書いている。編著に日本各地の産物の採取法,製法などを絵図でしめした「日本山海名物図会」(長谷川光信画)がある。宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に活躍した。名は輔世。通称は千種屋(ちぐさや)新左衛門、とある。 

 取り敢えず、「序」「跋」他を活字に起こすが、蒹葭堂の「序」は漢文であるが、日本漢文としては、やや破格部分が見られ、よく判らない人物になる「跋」に至っては、上記の書誌を書かれた方が述べる通り、判読さえ難しく、しかも文意が極めて採り難いものである。私の翻刻を信用せず、各々、原画像で挑戦されたい。

 底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、

内標題と「序」はここから(六丁に及ぶが、一丁目だけを内標題とともに示す)

「跋」はここから

であるが、一部、私には判読しかねた部分があるので、「序」と「跋」は総てを国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングして掲げた。どうか、御自身で判読された上で、私の誤判読や、判読不能字が読み解けた方は、どうか、御指摘願いたい。心よりお待ち申し上げる。

 なお、第一巻の表紙の題箋は、

山海名產圖會   一

で、ここだが、特に画像では示さない。

 「序」では字に横に圏点「◦」があるが、通常の句点に代えた。「■」は判読不能字。]

 


Jyo1

 

法 橋 關 月 画

 

                

 山海名產圖會

                

 


Jyo2

 

Jyo3

 

Jyo4

 

山海名產圖會序

中古人士之於物産也。率本於本草。而山產海錯。認而無遺漏者。自向觀水稲若水松怡顏彭水之徒。才輩實不匱焉。余預其流。于今既費數十年之苦心。見人之所未見。辨人之所未辨。實爲索隱探竒之甚焉。曽聞。稲氏若水著採藥獨斷。示平生所深致意也。然終爲幃中禁秘耶。抑成蔵諸名山奥區耶。竟不傳人間。上可惜也。余不勝慕藺。因竊擬其意。著書數巻。號曰名物獨斷。愈勤愈詳。猶泉源袞々出而不休焉。故其名物品類之無窮。亦隨四序節。蔵蓄之冝。奥造釀之法。然及藁甫脱也。値家多難。災厄兼到。幾流離塗炭。在今固爲一憾事矣。間者書肆某。携一部画册。殷勸徵序文。題曰山海名產圖會。取而繙之。輙擧吾 [やぶちゃん注:字空けはママ。]東方各従其地產。竒種異味。而特名者。一一見之図。乃至其制作之始末事實之證據。則後加附釋。雖婦児輩。使通知之。頗似有酬余之始顚者。畫上成於亡友蔀關月手。於是乎不可以不序。因備。論辨之本意。而及此書緣起如此。嗟乎雖芥珀磁䥫。其理皆出于自然。不可得而強也。天地間產類千万以辨博爲要。否則自百藥物。而至瑣瑣食品。不免謬採焉。况於君子藏天地之韞匱。與天下共者乎。

寬政戊戌午臘月旦浣

      木邨孔恭識

        [落款][落款]

 

[やぶちゃん注:以下、「序」「跋」等は本文で加工用に使用させて貰った「ARC書籍閲覧システム 検索画面 翻刻テキストビューア」にも電子化されておらず、私は一切の参考に出来る補助資料を持たない。されば、全くの我流のみで訓読する。

   *

「山海名產圖會」序

中古の人士の物産に於けるや、本(もと)を本草に率(よ)りて、山產・海錯、認めて、遺漏の無き者なり。自ら向ふは、觀水・稲若水・松怡顏・彭水の徒なり。才輩の實、匱(とも)しからず。余、其流に預り、今に既に數十年の苦心を費す。人の未だ見ざる所を見、人の未だ辨ぜざる所を辨ず。實(まこと)に索隱探竒の甚しきを爲す。曽つて聞く、稲氏若水「採藥獨斷」を著すと。平生、深く意を致す所を示せるなり。然れども、終(つひ)に幃中(ゐちゆう)の禁秘と爲すや、抑(そも)、諸名・山奥の區々(くく)たるを蔵(かく)し成すや、竟(つひ)に人間(じんかん)の上に傳はらざる、惜しむべきなり。余、慕藺(ぼりん)[やぶちゃん注:優れた人を慕い敬うこと。]に勝へず、因りて、竊(ひそ)かに其の意を擬(なずら)へ、書數巻を著はす。號づけて曰はく、「名物獨斷」。愈よ、勤め、愈よ、詳かにす。猶、泉源、袞々とし出でて、休まず。故に、其の名物・品類、窮み無し。亦、四つの序節に隨ひ、蔵蓄の冝(ぎ)、奥(おくぶか)き造釀の法、然も、藁甫脱[やぶちゃん注:意味不明。稲穂の実を採る方法か?]にも及べるなり。家、多難に値(あ)ひ、災厄、兼ねて、到れり。流離塗炭すること、幾(いくば)くぞ。今に在りて、固(もと)より、一つの憾み事と爲れり。間者(このごろ)、書肆某、一部の画册を携へ、懇ろに、序文を徵(しる)さんことを勸む。題して曰はく、「山海名產圖會」、取りて之れを繙(つまびら)けば、輙(すなは)ち、擧げて、吾が東方の、各(おのおの)の其の地の產により、竒種・異味、而して、特に名あるをば、一一(いちいち)、之れを見、図し、乃(すなは)ち、其の制作の始末・事實の證據に至れり。則ち、後(あと)に釋(しやく)を加へ附す。婦児の輩(はい)と雖も、通じて之れを知らしむ。頗る、余の始顚に酬ひる者有るに似たり。畫上(ぐわじやう)[やぶちゃん注:「上」は語素で、漢語名詞に付いて「~に関する」の意を示す。 ]、亡友蔀關月が手に成れり。是れに於いてか、不可以つて序せざるべからず、因つて、逑(あつ)むる所の牚(はしら)を備へ、論辨の本意、而して、此の書の緣起に及ぶこと、此くのごとし。嗟乎(ああ)、芥(あくた)・珀(はく)[やぶちゃん注:宝石。]・磁[やぶちゃん注:磁器。]・䥫(てつ)と雖も、其の理(ことわり)、皆、自然より出づ。得べからずして強なり。天地が間の產類、千万、以つて博(ひろ)く辨じて要と爲せり。否、則ち、百藥物より、瑣瑣たる食品に至れるも、謬りて採ることを免かれず。况んや、君子の天より藏するの地の韞匱(うんい)[やぶちゃん注:「韞」は「藏」に同じで「収蔵する」の意で、「匵」は「箱」の意。]に於いてをや。天下に與(くみ)して、共(きやう)する者なり。

寬政戊午臘月旦浣(たんくわん)[やぶちゃん注:寛政十年戊午十二月一日、或いは、十日、或いは、その間の意。グレゴリオ暦では、この十二月一日は、既に一七九九年一月六日である。

      木邨孔恭(きむらこうきやう)識

        [落款][落款]

   *

「邨」は「村」の異体字。落款の上のものは「木孔龔」(本名の孔恭の別字であるが、「龔」の歴史的仮名遣は「きよう」となる)、下のものは「木世肅」(蒹葭堂の別号)と思われる。孰れも唐風名である。

【2021年8月26日:本文及び訓読の修正と追記】早速、私の古参の教え子S君がFacebookで、末尾の判読不能の一字と私の誤判読(数字有り)の指摘とともに、末尾部分を現代語訳して呉れた。以下に示す。『天地の千万もの産物を弁別して役に立てる。さもないと、百薬の類から瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ。ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも(間違いが生じてしまう)。(だからこの著作を)天下に対(与)して、共(供)するものだなあ! 』。心より感謝申し上げるものである。なお、これに伴い、注の一部も修正してある。【2021年9月2日:本文及び訓読の修正と追記 】今朝、同じS君が上記全文について、判読と以上の全訳を試みて呉れた。やはり複数の誤判読があったので、即刻、訂正した(訓読も修正した)。また、S君の現代語訳は非常に判り易いので、少し私が割注を入れたものを以下に示す。

■S君の現代語訳(一部の表現に私が手を加えた。S君の了解を得てある)

 一昔前の人が物産に対するに、「本草綱目」に導かれ、山海の夥しい産物を認識して、漏らすところがなかった。向観水(こうかんすい)にはじまり、稲若水(とうじゃくすい)・松怡顔(しょういがん)・島彭水(とうほうすい)などの人々は、まことに秀でたもので、物産を網羅するに欠けるところがなかった。

[やぶちゃん注:「向観水」向井元升(むかいげんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)は江戸前期の医師・儒学者。肥前国神崎(かんざき)生まれ。初名は玄松で、晩年に元升と改めた。号に観水子があり、ここはその唐風名。二十歳で医業を始め、筑前の黒田侯や皇族の病気を治療して、名声を揚げた。私塾「輔仁堂」を開き、堂内に孔子の聖廟を建てて、儒学を教えた。門人に貝原益軒がいる。松尾芭蕉の高弟向井去来は彼の次男である。

「稲若水」初名は稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は江戸中期の本草学者。名は稲生正治或いは宣義で、号を若水としたが、後に唐風に稲若水を名乗りとした。父は淀藩の御典医稲生恒軒で、江戸の淀藩の屋敷で生まれた。医学を父に学び、本草を福山徳順に学んだ。元禄六(一六九三)年に金沢藩に儒者役として召し出され、壮大な本草書「庶物類纂」の編纂を命ぜられた。同書は三百六十二巻で未刊に終ったが、後に丹羽正伯が引き継ぎ、一千巻とした。著書はほかに「食物伝信纂」・「炮灸全書」・「詩経小識」・「本草綱目新校正」などがあるが、ここで蒹葭堂の言及する「採薬独断」という書は、調べても、見当たらない。現存しないものと思われる。

「松怡顔」松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は江戸中期の本草家で京都出身。名は玄達。別号の怡顔斎(いがんさい)で知られ、ここはそれと姓と結合した唐風名。儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に、本草を前に注した稲若水に学んだ。享保六(一七二一)年、幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した。門弟に、かの小野蘭山がいる。

「島彭水」津島恒之進(つねのしん 元禄一四(一七〇一)年~宝暦四(一七五五)年)は江戸中期の本草家。越中国高岡の酒屋照成の三男として生まれた。名は久成で、後に恒之進と変えた。彭水は号の一つで、ここは姓との結合縮約した唐風名。京都に出て、先に注した松岡恕庵に入門し、その塾頭となった。宝暦元(一七五一)年頃から、毎年、大坂に下り、本草会を開催している。この会は数年しか続かなかったが、後に本草家によって、江戸や関西各地で開かれる「薬品会」(物産会)の先駆けとなり、「薬品会」は自然物の展示のみに留まらず、広い意味での知識の交流、啓蒙の場となり、明治中期まで続いた。門下から、この木村蒹葭堂や「雲根志」で知られる石フリークの木内石亭らが出た。以上の注は総て信頼出来る辞書や資料を、複数、見て、合成した。]

 私は、その伝統を預かり、今まで、数十年の苦心を費やし、人がまだ見たことのない物を見、人が判断したことのない物を判断し、まこと、隠れた道理と、世の不思議の探求を極めたのであったよ。

 聞くところによると、稲氏若水(とうしじゃくすい)は「採薬独断」を著したという。平生から深く思いを致し、最終的に帳の内深くに隠され、秘書とされたのだった。

 そもそも、あらゆる物が山奥に秘匿され、人の世に伝わらないというのは、実に惜しいことだ。

 私は先人たちを慕う心に堪え切れず、彼らのやり方を密かに真似て、数巻の書を著し、「名物独断」と名付けたものの、勉めれば勉めるほど、事実は複雑で、泉のように滾々と湧き出でて、これ、尽きることがないがゆえに、産物の名を挙げきることは、できなかった。

 また、四つの序節に於いて、保存の方法、発酵させる方法、さらには脱穀の方法にまで記述が及んだ。

 しかし、まさに家が多難を受け、災厄が立て続けに襲い来たって、幾度、塗炭の境遇に落ちたことか! 今、その一事を、甚だ、遺憾に思うのである。

 そうしている頃に、書肆某が、画帖一部を携えて現われ、

「序文を、ものしてくれ。」

と求めてきた。

 その題は「山海名産図会」というものだった。

 これを繙いてみれば、吾が東方の産物や、奇種や、特産品などを挙げ、新たに名付けたりしている。

 一つ一つの図を見てみれば、その制作の成り行きの実際の証左となっており、注釈までつけて、相手が婦女子や子供であっても、これを知らしめるようにしてある。

 ここには、すこぶる、私自身の取り組みに報いてくれるものがあるようだし、さらに言えば、絵は、今は亡き友の蔀關月の手になるものなのだ。そうであってみれば、序文を書いてやらぬ手はない。

 冊子に添えて支えとするものとして、思うところを論じてやった。この書の縁起は斯様なものである。

 ああ! 塵芥(ごみ)も宝石も磁器も金属も、みな、自然から来たったものであり、それだけで永遠に存在する強い物では、ないのだ!

 天地の千万もの、産物を弁別して、役に立てるべきだ!

 さもないと、百薬の類から、瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ!

 ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも間違いが生じてしまう!

 だからこそ、この著作を天下に対して、供するものである! 

 

 以下、「跋」と附記(絵師蔀関月の記名)及び広告文と奥書。「跋」は私には判読できない部分が多いが、力技でやっつけた(唯一、先の書誌情報のみが前半の判読の頼みの綱である)。画像と比較して読まれる読者のために、「□翻刻1」では底本通りに読点を打ち、改行も同じにした。意味は無論、ところどころしか判らないが、「□翻刻2」では、牽強付会の謗りを気にせず、ゴリ押しで意味の通りそうな部分を試みに読み換えてみた。

【2021年9月1日追記:今朝方、判読不能字を再度、検証し直してみた(現在まで援助者は上に示した教え子の一つきりである)。崩し字の判読によく使う「人文学オープンデータ共同利用センター」の「くずし字データベース検索」を利用し、判読不能字(私の勝手な判読でである)を一字だけにすることが出来た。】

 以下、「跋」。画像は後の絵師蔀についての補記と広告文を一緒に載せた。]

 

Batu1

 

Batu2

 

□翻刻1

 

こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の

下露を、みなの川波のかすかすになん、かきなかしぬる

関月かいさほし也けり、そも、遠つ國のことうかまは、

かこのよすかもとむなとしつゝとしこすのへおく

をめさるものにて、なとなとまうさんきはになん、あから

さまにあつめぬるか、ゝつ、おもはすかし云とそ聞ゝぬ、

かくて、まなひ子藍江その名殘につきて、露けし

袖の外に、ほころふるふしをきぬひ侍り、おのれ

亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つひによるせありて、

いつもの花の五卷とはなりぬ抑むかし、高く好すに

しられ、をさして、寶のくにと聞ゝしはそかことや、あかれ

りしよの心のヿしらねと、そのかみ、とうへて、はちめし

らぬ、稲田のひえにて、もし、■にあらはし字は、なく、

人わろけにもやあらんかし、ましてかしこくも、なよたけ

恋よしになんふりにたる、みをくのあまりて、四民のとれる

なるわさにまれ、おのれまちにさらんと、みをつくし

ふかふかたとり、山の井とあさはかなる事たにつゆたらさる

時なし、さるは、人のくにの方物をは、ゝかにひえ田のあ

れのみなかかす事をへす、されはあめの下にして、

寶のくにといはんまて、こゝをおきて、いつれか、後つかふ、

蓬萊の玉の枝、つはめの巣の子やす貝なともいてき、

なを、此編のゝちのことことさふのて、あしふきのもく

さたるらん、

  寛政十嵗、むまのとし 勢都都、那尓波江

  迺、みち、しるす

 

□翻刻2(無理矢理に段落を成形し、推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。思うに、この筆者は原著者と言っている人物の妻かと思われる。但し、仮託の可能性を否定出来ない。)

 

 こよ[やぶちゃん注:「此世」或いは「今宵」か?]、補世[やぶちゃん注:「朝日日本歴史人物事典」では平瀬徹斎の名を「補世」とする。輔世と同じで、「すけよ」と読むか。]、ありしほどに、憶ひは、しめに[やぶちゃん注:「濕に」。]、たる木[やぶちゃん注:「垂木」「椽」。]の下露を、みなの川波の[やぶちゃん注:「みなの川」は「男女川」で現在の茨城県つくば市を流れる利根川水系の河川。筑波山から南流して、つくば市で桜川に注ぐ。「水無川」とも称し、歌枕として知られる。ここは「數々」を引き出すための枕詞。]、かずかずになん、かきながしぬる関月[やぶちゃん注:本書の絵師。]がいさほし[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「勳(いさを)し」。功績。この文は歴史的仮名遣の誤りもあって、何重にも読み難い。]也けり。そも、

「遠つ國のこと、うかまば[やぶちゃん注:「浮かまば」。]、かこ[やぶちゃん注:「浮く」に掛けた「水主」(船頭)であろう。]のよすがもとむ[やぶちゃん注:「縁(よすが)求む」か。]などしつゝ、としこすのへ[やぶちゃん注:「年越すの端」か。]、おくを、めざるものにて[やぶちゃん注:意味不明。]などなど、まうさんきはになん、あからさまに、あつめぬるが、かつ、おもはずかし。」

云ふとぞ、聞きぬ。

 かくて、まなひ子[やぶちゃん注:愛弟子。蔀関月の、である。]藍江、その名殘(なごり)につきて、露けし袖の外に、ほころぶるふしを、きぬひ侍り[やぶちゃん注:「絹地で補綴致しました」の意か。]、おのれ、亦、かたはらの、ことがきを、たちいらへつ[やぶちゃん注:この筆者が補注を「截(た)ち入れた」というのである。]。

 つひに、よるせ[やぶちゃん注:「寄る瀨」。「援助して呉れる人物があって」か。]ありて、いつもの[やぶちゃん注:書肆としての常の仕事として。]、花の五卷とは、なりぬ。

 抑(そも)、むかし、高く好ず[やぶちゃん注:「好事」。]にしられ、をさして[やぶちゃん注:「長」であろう。代表の先導者となって。]、

「寶のくにと聞ゝしは、そがことや。」

あかれりしよ[やぶちゃん注:意味不明。「上がれり書」で板行した本の意か。]の心のこと、しらねど、そのかみ、とう、へて[やぶちゃん注:「薹、經て」か。]、はぢめしらぬ[やぶちゃん注:「始め知らぬ」か。]、稲田のひえ[やぶちゃん注:「稗(ひえ)」か、]にて、

「もし、■[やぶちゃん注:「猥」(みだり)を想定してみたが、(つくり)の部分がしっくりこない。]にあらはし字[やぶちゃん注:「事」の可能性もあるが、崩しとしては「字」に分がいい。]は、なく、人わろげにもや、あらんかし[やぶちゃん注:転じて、謙遜で、『人によっては、「たいした作品でもなく、体裁や外聞が悪いね」とも感ぜらるるかも知れぬ。』という意か。]。まして、かしこくも、『なよたけ』、恋し。」[やぶちゃん注:全体に意味不明。「なよたけ」(細くしなやかな竹)が如何なる対象を指すか不詳。この筆記者を指す愛称ととると、腑には落ちる。]

よしになん、ふりにたる。

 みをく[やぶちゃん注:「身奥」で「内心の深い執着の思い」か。]のあまりて、四民のとれるなるわざにまれ、おのれ[やぶちゃん注:自然に。]、『まちにさらん』[やぶちゃん注:意味不明。]と、みをつくし、ふかぶか、たどり、山の井ど、あさはかなる事だに、つゆ、たらざる時、なし[やぶちゃん注:「みをつくし」は「身を盡し」に「澪標」を掛けて「山海」の「海」を匂わせ、「深々」とそこを辿って行くと、陸の水脈から「山の井戶」へと導かれて、「山海」の「山」に通ずるという趣向となっている。]。

 さるは、人のくにの方物[やぶちゃん注:その地「方」で知られる「物」産の意か。]をば、はかに、ひえ田のあれの[やぶちゃん注:「稗田阿禮」。「禮」の崩し字を縦覧したところ、悪筆の場合、「豐」だけの崩しとしたものに酷似したものがあり、更に「れ」の「連」の崩しの中にも酷似したものがあったので確定した。]、みな[やぶちゃん注:「皆」或いは「御名」か。孰れでも意味は通るから、掛詞かも知れない。]、かかす事を、へず[やぶちゃん注:「得(え)ず」の意であろう。かの「古事記」の筆録者とされる稗田阿礼に譬えた謂いである。]。

 されば、あめの下にして、「寶のくに」といはんまで、こゝを、おきて、いづれか、後(のち)、つかふ、「蓬萊の玉の枝」・「つばめの巣の子やす貝」なども、いでき。

 なを[やぶちゃん注:「猶」(なほ)。]、此編のゝちのことごと、さふのて[やぶちゃん注:意味不明。「双(さう)の手」か?]、あしふきのもくさ[やぶちゃん注:「足吹きの艾(もぐさ)」か? 枕詞「あしびきの」のパロディであろうが、何を言いたいのか判らぬ。「両の手足に灸を据えては、頻りに頑張ってはみるけれども。」の意か。]、たるらん[やぶちゃん注:「足るらん」。「効果があるかどうか?」の意か。全体に朦朧な表現だが、この掉尾の部分は本書の続編(後注参照)を出版する予定があったことを示唆しているようには読める。]。

  寛政十嵗 むまのとし 勢都都(せつつ)[やぶちゃん注:「攝津」。最初の字は「勢」の、最後の字は「都」の、それぞれの甚だしい崩し字に似ており、以下の「浪華江」の前にあるべきものでもある。] 那尓波江(なにはえ)[やぶちゃん注:「浪華江」。]迺(の)「みち」 しるす。[やぶちゃん注:当初、「しはす」で「師走」と判読していたが、どうもここで頭の年から離れて末尾に月を出すのはおかしいこと思い、よく見ると、この二つ目の字は「波」の崩しであることに気づいた。されば、「記す」で擱筆に相応しくなる。]

[やぶちゃん注:癖の激しい崩し字で、地下文書として見てもかなり難物である。筆者は総合的に見て、女性で、相応の和歌の知識なども持ち合わせている。素直に読むなら、千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世にごく親密であった妻かとも思われてくるのだが、 女性とするのは、仮託の可能性もある。そもそも木村蒹葭堂が「序」の中で、この跋文に全く触れていない(それが唯一の本跋文筆者を明らかにする唯一の場所であるのに、である)ことが、大きな不審であり、蒹葭堂が販売促進のために(「不思議な一文が載ってるぜ」と噂が立てば、当然、売れ行きは上がる)知られた書肆主人の平瀬を想起させるようにでっち上げた文章である可能性も否定出来ないように思われる。

 

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 𤲿圖   法 橋 關 月 [落款]

 

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[やぶちゃん注:落款は蔀関月の名の「德基」である。

 以下、広告。解説部は字下げが行われてあるが、無視した。]

 

日本山海名物圖會 長谷川光信画全五冊

金銀銅鉄の仕製(しせい)、漁人の鯨をとるの擡功(だいこう)なる、有馬細工の竒巧なる、凡そ山川(さんせん)毎陸(まいりく)の產物を画圖にし、これに注釋を加ふ名產圖會となし、はせ見るへき、ひとへに世の宝とすべきの業(しよ)也。

 

[やぶちゃん注:酷似した書名であるが、全くの別物で、本書「日本山海名産図会」の真の作者ともされる平瀬徹斎著で長谷川光信画。「文化遺産オンライン」の当該書の解説に、『日本各地の産物の生産や捕採の技術を図示し』、『解説を加えた本。全』五『巻からなり』、一『巻に鉱山』、二『巻に農林系加工品』、三・四『巻に物産』、五『巻に水産に関することが記されており、その中には豊後の物産として「河太郎」(=河童)のことも紹介されている。所収された画図は全部で』九十三『図におよび、採鉱用の諸道具、製鉄用のたたら、樟脳製法の図などは技術史上貴重なものとされている。なお本書は』、宝暦四(一七五四)年の『初版から』、実に四十三年も経った、本書刊行の前年の寛政九(一七九七)年に『再版された』とある。その寛政九年版は国立国会図書館デジタルコレクションで全巻を視認出来る

 なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年版では、版組みが異なっていて、こうなっているが、そこには、この広告ではなく、「山海名産圖會 續編 近刊」とあり、本書の再版と思われる寛政十一年版の時点では、続編が予定されていた(これは「跋」の終りの部分にも仄めかされている)ことが判る。但し、実際には続編は刊行されなったものと思われる。

「擡功」高々と掲げるに足る鯨捕りの勇猛果敢さの謂いであろう。

「はせ見るへき」「馳せ見るべき」の意でとった。書肆に駆け込んで見るに値する本というキャッチ・コピーと読んだ。

「業(しよ)」読みは書(しょ)の当て訓。

 以下、奥書。画像はリンクのみとした。字の大きさは再現していない。]

 

寬政十一未年正月發行

 

               吉 田 松林堂

             梶木町渡邊筋

               播磨屋 幸兵衛

  浪華書林      心齋橋南久太郎町

               鹽 屋 長兵衛

             

               鹽 屋 卯兵衛

[やぶちゃん注:改丁。]

 

 和漢

   書籍賣捌所

 西洋

――――――――――――――――――――――――

    大阪心齋橋通北久太良町

  積 玉 圃  栁 原 喜 兵 衛

 

[やぶちゃん注:町名表記の違いはママ。おや? この「南久太郎町」は知ってるぞ! 芭蕉が最期を迎えた花屋仁左衞門の家のあったところじゃないか。偽書であるが、長く一級資料とされてきた私のPDF縦書版電子化注である文曉「芭蕉臨終記 花屋日記」を見られたい。4コマ目中央より少し前に出る。]

2021/08/24

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 虛無僧御定

 

[やぶちゃん注:以下底本では、各条の頭の「一」のみが行頭で、二行目以降に亙る場合は、一字下げになっている。「一」の後に字空けを行った。句読点は今まで通り、私の判断で読み易さを考えて追加・変更してある。疑問があれば、吉川弘文館随筆大成版を見られたい。標題は「こむそうお(ん)さだめ」。発表者は「文寶堂」である。]

 

   ○虛無僧御定

一 日本國中、虛無僧之儀は、勇士・浪人、一時之爲、隱家之[やぶちゃん注:底本ではここに『(本ノマヽ)』と傍注が付されてある。底本の現代の編者に拠るものか。]不入守護之宗つゝ、依之て、下々、家臣・諸士之席に可定之條、可得其意事。

一 本寺へ宗法出置たる其段、無油斷、爲相守可申候。若、相背者於有之は、末寺は本寺も[やぶちゃん注:底本ではここに『(マヽ)』と傍注が付されてある。同前。]、虛無僧は其寺より、急度、宗罪に可行事。

一 虛無僧之外、尺八吹申者於有之は、急度、差留可申事、尤、懇望之小寺は、本寺より免し出爲吹可申候。勿論、諸士之外、下賤之者へ、一切、尺八爲吹申間敷候。尤、虛無僧之姿爲致申間敷候事。

一 虛無僧多勢集り、逆意申合者於有之者、急度、遂吟味、本寺幷番僧に至迄、可爲重罪事。

一 虛無僧托鉢修行之者、同行二人之外、許不申候事。

一 虛無僧渡世之義、所々、專と仕之候。其段差免申候。一編修行之内、於諸國々法抔と申虛無僧、麁末慮外之體、又は托鉢等に障、六ケ敷義出來候はゞ、子細改、本寺へ可申達候。於本寺不相濟之義は、江戶奉行所へ可告來事。

一 虛無僧托鉢に罷出、或は道中宿往來所々何方にても、天蓋を取り、人に面を合せ申間敷事。

一 虛無僧托鉢之節、刀・脇差、幷、武具之類、一切、爲持申間敷候。總而、いかつかましきなり形、致間敷候。尤一尺下之刄物爲懷刀と差免可申事。[やぶちゃん注:「嚴がましき形(なり)・形(かたち)」で、「嚴(いかつ)し」(強い・乱暴な)の語幹に「望ましくない様子である」「不快な傾向を帯びた」の意味の形容詞を作る接尾語「がまし」を接続させたもので、「なり・かたち」は「姿・格好」。護身用の短い懐剣の所持は許容するというのである。]

一 虛無僧勇士之道、敵體尋𢌞國抔之義も有之、依而、芝居・渡舟等に至迄、往來自由に差免之事。[やぶちゃん注:料金を払わずともよいということらしい。]

一 似虛無僧於有之は、急度、宗法に可行候。若、又、賄賂を見遁し抔致候はゞ、番僧に至迄可爲重罪、總而、猥に無之外可申付事。

一 托鉢に罷出、下賤之者之痛を不顧、托鉢不可致、勿論、辯舌を以、遊興・賄賂預・饗應事、堅停止、總而、正道一己之情無之者、本則を取上可則申事。

一 虛無僧、自然、互に敵に候はゞ、還俗申付、於寺内勝負可爲致候、勿論、諸士之外一切、不差免之贔屓を以、片落なる取扱、堅、停止之事。[やぶちゃん注:「たまたま、仇討ちの当事者同士が虚無僧であった場合は、その場で二人に還俗(げんぞく)を申し付け、寺内に於いて勝負を致そうとする場合は勿論、その他の武家の虚無僧及びそれ以外の虚無僧らは、一切、本寺が許容していないところの、双方孰れかへの贔屓(ひいき)を以って、片方に不利になるような取り扱いをすることは、これ、堅く、禁ずる。」というのであろう。]

一 諸士、人を切、血刀、提、寺内へ逃込候共、留置、子細を改、不寄何事、武士之道に候はゞ、宗法に可仕候。科有る人は、一切、隱置申間敷候。若、隱置、後日に顯候は、難遁義に付[やぶちゃん注:「のがれがたきぎにつき」。]、早速、繩を掛、差出可申候事。

一 虛無僧に罷出敵討仕度者於有之候は、其段、子細相改、差免可申候、乍、倂、多勢相集申間敷候。同行一人は免可申候。諸士之外、一切、不差免事。

一 往來之節、馬・駕籠、一切無用、所之關所・番所に而は、無沙汰無之樣、本寺より之本則、往來出爲相改、通り可申事。

一 住所に離れ、他國所々、城下、幷、町、托鉢修行、滯留一日之外、堅無用。若、鳴物停止等、告來候は、宗門傳學之虛無僧之外、吹申間敷事。

一 虛無僧之義は、天下之家巨・諸士之席に相定候上は、常に武門之正道を不失、何時にても還俗申付候間、表には僧之形を學、内心には武者修行之宗法と可心得者也。爲、其日本國之内往來自由に差免置候樣、決定如件。

 慶長十九年戊寅正月  本田上野介 在判

            板倉伊賀守 在判

            本多佐渡守 在判

右上意之趣、相渡申候間奉拜見、會合之節、能々、爲申聞可爲守者也。

[やぶちゃん注:上の最終行のみは行頭から。

 以下は、画像中にも注を入れたが、底本の図版ページに従い、活字を新たに起こして、オリジナルに翻刻・作図したものを画像として取り入れ、それに底本の印形画像(原本の「文寶堂」に拠るキャプションを含む)の全部で六図十種(ソリッドに纏めてトリミングした数が「六」。実際の印形は十個)を合成したものである。従って、これは底本の編集権を侵害しない。なお、画像作成のために電子化した文字データを念のため(私は、その意味まで注する気はさらさらないが、普化宗を調べようとする人には価値があるやも知れぬので)、後に添えておく。なお、「天蓋」以下では底本では活字のポイントが落ちているが、読み難くなるだけなので、合成画像でも、ここでも、同ポイントで示した。

 

Komusou1

 

[やぶちゃん注:印形(「普化正宗■本■」。篆書は守備範囲外)のキャプションを電子化しておく。右側のそれは、右手に縦の長さで、

一寸三分

上部に、

白字

で、実際には、字が白で、周囲は朱ということであろう。而して、下部に横の長さで、

四分

とあり、左側のそれ(全く読めない)は、右に、

白字

二寸五分知四方

とある。

その左の印形(「金光■■金龍山之印」)は右に、

朱字

とあり、左側に、

二寸六分

ろある(四方長)。但し、「二」は「三」の欠字である可能性がないとは言えない。]

 

Komusou2

 

[やぶちゃん注:一番右の印形(「金龍■」)で、右に、

朱字

とあり、左に縦幅を示す記号の間に、

一寸五分

とあって、下部に、

■■五分

とある。「ヨコ」或いは「ココ」か。「一月寺」の下方には、印形(「■■月■」)とあって、右に、

八分

とし、下部に、

朱字

とある。

その左の上が、丸い印形(「桀秀」)の上に、

白字

とあって、左に、

八分

とし、下方の四角の印形(「看我」)で、左に、

七分五厘

とあって、下部に、

朱字

とする。

最後の三つの図は、上方右手の印形(「金龍山」)の右手に、

朱字一寸五分

とあって、左に、

ヨコ五分


か? その左の正方形菱形の印形(上は「佛」だが、他の三字は判読不能。右は「烙」に見えるも、字の順列も定かならず、判読不能)の右上には、

白字

で、左手に、

一寸二分四方

である。下部のそれは、印形ではなく、「掟書」の奉書の外包の封書と思しく、右手に、

本則の紙は、鳥の子、反切、丈、六寸七分。表包帋は粘入紙立二ツ折りニテ

とあって、表書に、

普化禪林[やぶちゃん注:「化禪林」は囲み字。]

 本則[やぶちゃん注:「則」は上を頂点とした四角で囲われてある。

とあって、下方の左に寄せて、

   授與

    何 某

と記す。]

 

普 化 常 於 街 市 搖 鈴 曰 明 頭

來 明 頭 打 暗 頭 來 暗 頭 打 四

方 八 面 來 旋 風 打 虛 空 來 連

架 打 臨  今 侍 者 去  纔 見 如

是 道 使 把 住 日 總 不 與 麽 來

時 如 何 普 化 托 開 曰 來 日 大

悲 院 裡 有 齋 侍 者 囘 擧 似 濟

濟 曰 我 從 來 疑 者 這 漠

尺 八

夫 尺 八 者 法 器 之 一 也 謂 尺 八

大 數 也 取 三 節 之 中 定 上 下 之

長 短 各 有 所 表 三 節 者 三 才 也

上 下 之 二 竅 者 日 月 也 表 裏 之

五 竅 者 五 行 也 此 是 萬 物 之 深

源 也 吹 之 則 萬 物 與 我 融 冥 而

心 境 一 如 也

 

天 蓋

  夫 天 蓋 者 莊 嚴 佛 身 之 具 也

  故 我 門 準 擬 之 也

          靈 山 一 月 影

           輝 萬 派

       普 化 孤 風 德

           馥 三 州

       下總國葛飾郡風早莊小金

           金龍山梅林院

               一  月  寺

             院 代

               傑 秀 看 我

文化八年辛未年五月

               授 與 何 某

 

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げで、曲名は九段組みであるが、一段で示した。]

        尺八曲名

無磚箇(ムカヒジ)

虛 空(コクウ)

靜 攬(スガヾキ)

瀑布音(タキオトシ)

休 愁(キウシウ)

厭 足(アキタ)

座 草(ヲクサ)

善 哉(ヨシヤ)

賤 子(シヅ)

意 子(イス)

雲 井(クモヰ)

興(キヨウ)

夕 暮(ユウグレ)

波 間(ナミマ)

獅子吼(シヽクルヒ)

盤 涉(バンシキ)

虛 靈(コク)

巢 鶴(スゴモリ)

         右十八曲

          倫 絕(リンゼツ)

          櫓 骨(ウチアヘ)

          鈴蒼挑(レイボウガシ)

      凡二十一曲、是を表組といふとぞ。

[やぶちゃん注:以下最後まで、底本では全体が二字下げ。]

此外に、猶、裏組もあるよしなれど、いまだゆるしなければ、しらざるよし。右十八曲の中に、「こくう」といへる名、二つあり。はじめにあるは、普化禪師相傳の曲にて、あとのは、後人の作りし曲なり、といヘり。

 文政八年正月朔     文寶堂 しるす

 

[やぶちゃん注:ウィキの「普化宗」を引いておく。同宗は本来は、禅宗の一つで、九世紀に、唐代、『臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い』、時代劇で『虚鐸』(きょたく:現在は尺八の異名。元は始祖普化禅師が鐸(大型の鈴)を振り鳴らしつつ、辻説法をするのを常とし、その音を慕った者が竹管でその鐸の音を模して吹奏し、その曲を「虚鐸」と名づけたのが濫觴とも言われる)『(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で』お馴染みである。建長六(一二四九)年、『日本から』南宋『に渡った心地覚心が、中国普化宗』十六『代目張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の』四『人の在家の居士を伴い』、建長六(一二五四)年に帰国したことで、『日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て』、『居所とした』四『人の帰化した居士は、それぞれ』四『人の法弟を教化し』て、十六『人に普化の正法を伝え』て、十六の『派に分かれ』『た。後に宝伏の弟子の』二『人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭』(ふれがしら:設置は後の室町時代で、江戸時代には幕府及び藩の寺社奉行の下で、各宗派ごとに任命された特定の寺院のことを指した。本山及びその他の寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った)『として支配下に入り』、『存続した』。『心地覚心の法孫にあたる靳全』(きんぜん)『(金先古山居士)がでて、北条経時』(北条氏得宗家一門で第四代執権となった)『の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺』百二十『あまりの触頭となった』。『普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである』。『江戸時代に』於いては、虚無僧集団が『形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した』。慶長一九(一六一四)年に『江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」』(☜この条に示されたものがそれであろう)『により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど』、『組織化され、諸国通行の自由など』、『種々の特権を持っていたため』、『隠密の役も務めたとも言われる』(☜時代劇は噓じゃないわけだ!)。『江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により』、明治四(一八七一)年に解体されてしまい、『宗派としては失われている。また、その後』、『一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし』、『尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上』、『重要な存在である。』。なお、昭和二五(一九五〇)年には、『宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された』ともあり、京都市東山区にある普化正宗総本山虚霊山明暗寺である。本尊は虚竹禅師(元は心地覚心の門弟寄竹)像で、尺八根本道場でもある。

「二つ」の「こくう」とは「虛空(コクウ)」と「虛靈(コク)」のことであろう。

 一日かけての迂遠な画像制作に、ほとほと飽きた。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 虹霓 伊勢踊 琵琶笛 奇疾

 

[やぶちゃん注:発表者は乾齋。雑駁なので、段落を成形した。]

 

   ○虹霓 伊勢踊 琵琶笛 奇疾

 虹霓[やぶちゃん注:「こうげい」ではなく、「にじ」と訓じておく。]の立ちて西に有るは、明日、必、雨、降り、東に見ゆるは、必、風、吹く。切れ切れに光り散るは、風、起る。日暮に東南に見ゆるは、天風なり。

 稻光の、坤[やぶちゃん注:「ひつじさる」。南西。]の方に見ゆるは、天氣、はる。乾[やぶちゃん注:「いぬゐ」。北西。]の方に見ゆるは、雨、降る。亂開するは、雨、晴れて、風も、なし。夏の風は、稻光の方より來る。秋の風は、光りの方へ向ひて吹くなり。

[やぶちゃん注:底本でも、ここは改行。後の半分は稲光の予兆で、虹ではないので、改行した。

「亂開する」雷電が一定方向ではなく、あらゆる方向に散乱するように発生することを謂うのであろう。]

 享保十四年[やぶちゃん注:一七二九年。]八月の頃、本所石原德山五郞兵衞中間八郞、俄に尻に犬の尾を生じ、五日の朝飯、食し兼ねしこと、ありき。摺鉢に食を入れ、與ふれば、快く食す。夫より、人相も、犬に變じ、全く、犬の如し。夜中、犬の聲を聞くときは、必、飛び出だす。「日ごろ、犬を殺しゝ祟。」と、皆人、傳へ云ひき。

[やぶちゃん注:妄想傾向の強い統合失調症、或いは、脳梅毒による精神異常であろうという気がする。]

 寬永元甲子[やぶちゃん注:一六二四年。]の歲二月上旬より、諸國に、自然と、「伊勢踊」、大に流行す。「泊舟」「傳馬」「人夫」[やぶちゃん注:総て湧いて出た神の名前。]と號し、太神宮を送り來る。耕作を妨げ、措生業一、費精力。此事達上聞ければ、則、吉田家に可相尋とて、子細を板倉勝重・同重家方へ嚴命有り、則、板倉より吉田家へ申し遣す。吉田某按諸傳。曰、「伊勢國度會郡内外の神を鎭めしより、四時の祭、禮不ㇾ怠。然るに、内外の神、何を以て、飛びたまはん。是等の事、諸民の兒戲、生者のものゝ、かずとする所に非ず。」と云ふ。將軍家、尙、御僉議あり。去る慶長十九甲子年[やぶちゃん注:一六一四年だが、干支は誤りで「甲寅」でなくてはならぬ。]年、「神踊」、京より始めて、駿州に至りぬ。東照大權現、嚴禁せられし所、程無くして、大坂兵亂。又、元和二丙辰年[やぶちゃん注:一六一六。]春の頃、「伊勢踊」、流行す。後、果して東照大權現、御他界あり。「先幾を考ふるに、皆、是、不吉の兆なり。」とて、御評定、一決して、彼邪神を野外に送り捨つ。於是、人馬の勞弊止む、といふ。

[やぶちゃん注:「伊勢踊」伊勢参宮信仰に伴って、近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり:中世の民間芸能の「風流」に起こり、現在も諸国各地の「念仏踊」・「太鼓踊」・「獅子踊」・「小歌踊」・「盆踊」・「綾踊」・「奴踊」などに伝わる集団舞踊。所謂、民俗舞踊の大部分を占める踊りを広く指す)の一種。庶民の伊勢参宮流行の歴史は、現在、承平4(九三四)年の記録まで遡ることが出来るが、慶長一一(一六一四)年、「大神宮が野上山に飛び移った」(本文で神道家の吉田が否定していることである)という流言が発生し、俄かに「伊勢踊」が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。寛永一二(一六三五)年に、尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した「伊勢踊」は、裏紅の小袖に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯に、晒の鉢巻をした姿で、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これは どこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われてある。慶安三(一六五〇)年(慶安3)に「お陰参り」が始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての「伊勢踊」の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。これは、所謂、幕末の「ええじゃないか」と同じ一種の集団ヒステリー、民俗学で言う「ペイバック」(payback)で、社会への大きな不安や大規模な自然災害(それが来るという流言)、或いは公的な禁忌・抑圧などが引き金となり、一時的に、有意な集団が、一斉に精神に変調をきたして躁状態となって踊り狂う民俗的現象である。

「措」「さしおき」と訓じておく。

 底本でも、ここは改行。]

 甞て、民間に、「琵琶笛」、流行し、其弊、郡下に、亦、流布せり。石厓と云ふ人、有ㇾ詩。又有ㇾ序。戲に記ㇾ之。

[やぶちゃん注:「石厓」不詳。

 以下は底本では、石厓の詩のみが行頭からで、他は全体が二字下げ。詩は句点打ちのベタだが、一段組みで句点を排除して示した。]

笛本津輕民間玩器。或呼爲津輕笛。近日都下童稺盛玩ㇾ之。其制鐵片三寸許。拗成成ㇾ環。環之兩端所ㇾ餘各寸餘。展成双股。削鋭如ㇾ錐。環内植ㇾ舌。精鋼薄片爲之舌。長於股三四分。少鈎上向。口橫銜吹ㇾ之。指※連鼓[やぶちゃん注:「※」=「月」+「主」。]。舌鼓與吹桐。成ㇾ音。其音錚々有ㇾ似琵琶。葢因以得ㇾ名云。文獻通考云。民間有鐵葉簧。豈簧之變伴歟。余因謂。琵琶笛鐵葉簧之又變者歟。戲作ㇾ詩詠ㇾ之。在昔武伯蒼汴州聞ㇾ角。詩曰。單于城上關山曲。今日中原總解吹。余則非必有此感而作也。

裂石餘聲尙可ㇾ尋

誰銜寸鐵龍吟

尖形半噤金鴉觜

巧舌全磨玉女針

風珮鏗鏘成急調

綿弓嘈囋送繁音

抹挑都在兒童口

解否潯陽曲理心

乾齋評ㇾ之曰。當今天下之害。莫ㇾ如於夷狄。嘗夷狄寇於海濱。知幾君子畏無ㇾ歎乎。夫琵琶笛者。軍中之所ㇾ用。今自然吹ㇾ之。有嚴命禁ㇾ之。宜哉。

 文政八年乙酉孟春朔   乾齋中井豐民識

[やぶちゃん注:我流で訓読してはみる。

   *

笛は、本(もと)、津輕の民間の玩器なり。或いは、呼んで「津輕笛」と爲す。近日、都下の童稺(だうち)、盛んに之れを玩(もてあそ)ぶ。其の制は、鐵片三寸許りにて、拗(ひね)り成して、環と成し、環の兩端の餘れる所、各々、寸餘り、展(ひろ)げて双股(ふたまた)と成し、削り鋭らすこと、錐のごとく、環の内、に舌を植(い)れ、精鋼の薄片、之れを舌と爲す。股まで長ずること、三、四分。少し鈎(かぎ)を上向にし、口の橫に銜へて、之れを吹く。指※、連鼓して[やぶちゃん注:「※」=「月」+「主」。]、舌鼓と吹桐と、音を成す。「其の音、錚々として、琵琶に似たる有り。葢し、因りて、以つて名を得。」と云ふ。「文獻通考」に云はく、『民間に「鐵葉簧(てつえふくわう)」有り。豈に簧の變に伴へるものか。』と。余、因りて謂はく、「琵琶笛は鐵葉簧の、又、變ぜる者か。戲れに詩を作り、之れを詠ず。在りし昔、武伯蒼、汴州(べんしう)に角(つのぶえ)を聞く。詩に曰はく、『單于(ぜんう)の城(しろ)の上 關山の曲 今日 中原 總て解かれえ吹かれたり』と。余、則ち、必しも、此の感、有りて、作るには非ざるなり。

裂石 餘聲 尙ほ尋ぬべし

誰(たれ)か 寸鐵を銜へて 龍吟を學ばんや

尖れる形は 半ば噤(つぐ)む 金鴉(きんわう)の觜(はし)

巧みなる舌(した)は 全き磨玉(まぎよく)の女針(ぢよしん)たり

風珮(ふうはい) 鏗鏘(かうさう)として 急調を成し

綿弓(めんきゆう) 嘈囋(さうさつ)として 繁音を送る

抹(こす)り挑(かか)げて 都(すべ)て 兒童の口に在り

解くには否(あら)ず 潯陽(じんやう)の曲の理(ことわり)の心を

乾齋、之れを評して曰はく、「當今、天下の害、夷狄に如(し)くは莫(な)し。嘗つて夷狄、海濱に寇(あだ)し、知んぬ、幾(いくばく)の君子、畏れ、歎くこと無かるかを。夫れ、琵琶笛は、軍中、之れ、用ひらる。今、自然(おのづ)と、之れを吹けり。嚴命の有りて、之れを禁ずるは、宜(むべ)なるかな。

 文政八年乙酉孟春朔   乾齋中井豐民識

   ?

「琵琶笛」江戸末期に流行した玩具楽器。細長い鋼鉄を笄(かんざし)のように二股に拵え、その間に針のような鉄を附けたもの。根元を口に銜(くわ)え、間の鉄を指で弾いて鳴らす。「きやこん」「くちびわ」「びわぼん」とも称し、所謂、アイヌの「ムックリ」に代表される「口琴(こうきん)」の一つである。

「津輕笛」現行のものは横笛である。サイト「津軽笛の会」のこちらを参照されたいが、石厓は明らかにアイヌの「ムックリ」のような口琴のことを指しているようにしか見えない。

「童稺(だうち)」児童・幼児。

「舌」ここは前の実際の「舌」ではなく、リードの意であろう。

「指※、連鼓して」(「※」=「月」+「主」)意味不明。

「舌鼓と吹桐と」意味不明。正直、漢字の誤字が疑われる気がする。

「文獻通考」上古から南宋の寧宗の開禧(かいき)三(一二〇七)年に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書。元の一三一七年に馬端臨が完成させた。

「鐵葉簧(てつえふくわう)」「簧」(コウ)は雅楽器の笙のリード。銅などの合金製で、竹管の下方に鑞(ろう:錫と鉛の合金。ハンダの類い)で取り付け、息を吹き込んだり、吸いこんだりして、それを振動させて音を発生させるもの。

「武伯蒼」中唐の宰相で詩人の武元衡(七五八年~八一五年)の字(あざな)。

「汴州(べんしう)」現在の河南省開封市(グーグル・マップ・データ)。

「角」角笛。

「單于」匈奴の君主の称号。

「風珮」その音が風を佩(は)いたように流れ渡るさまであろう。

「鏗鏘」金や石の鳴り響く音のさま。琴などの楽器の美しい響きのさま。

「綿弓」繰り綿を、打って、不純物を除き、柔らかくして、打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦は古くは牛の筋を用いたが、後、鯨の筋を用いた。弦を弾いて、綿を打つようになっている。「わたうちゆみ」「唐弓(とうゆみ)」とも呼ぶ。

「嘈囋」がやがやと雑然として五月蠅いさま。

「潯陽の曲」潯陽江は江西省北部の九江付近を流れる揚子江の異称であるが、ここは同名の邦楽の曲名。白楽天の「琵琶行」に基づいて作られた曲を指す。

 以下は底本では全体が一字下げで、下部は十一字上げインデント。]

               著作堂附記

琵琶笛、童稺、訛りて「ビヤボン」といふ。文政七年甲申[やぶちゃん注:一八二四年。]の冬十月上旬より、江戶中、流行す。春に至りて、彌、甚し。その製作、鐵をもてす。一笛の價、錢百文より銀五匁に至るものあり、といふ。大小の搨物[やぶちゃん注:「うちもの」或いは「すりもの」。]等、多く、これを擬したり。その他、新作の「おとし咄」も「駝駱」とゝもに、この事、多し。又、「小うた」にも作りて、うたへり。遂に、「風俗の爲よろしからざる」よしにて、八年乙酉の春二月、禁止せらる。いまだ、いくばくもあらずして、「松風こま」、流行し、同年夏四月に至りて、又、「雲雀こま」といふものを作り出だせり。「ひばりこま」は「眞ちう」をもて、これを作る。その價六十四文。「松風こま」は、はじめは、竹、或は、鯨の鰭にて作り、後には「ちりめん」の裂[やぶちゃん注:「きれ」。]にても、つくれり。その圖は「耽奇漫錄」中にあり。

[やぶちゃん注:「雲雀こま」不詳。

「耽奇漫錄」考証随筆。全二十集二十冊。山崎美成序・跋。文政七年から八年(一八二四年から一八二五年)の成立。美成のほか、谷文晁や曲亭馬琴らが、「兎園会」に先行して開いていた好古・好事の者の会合「耽奇会」に持ち寄った古書画や古器財などの図に考説を添えたもの。別に馬琴の序の五巻五冊本もある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで前者原本の記事を見つけたので、図を添えて電子化する(次の丁に左の紐の一部が切れて載り、記載者名が記されてある)。推定で句読点及び濁点を添えた。判読に誤りがあれば、御指摘戴きたい。

 

Matukazekoma

 

去年十月の頃より、「口琵琶」といふもの、大きに流行す。しかるに、今年二月のころに至り、公より、「風義よろしからず」とて、御停止[やぶちゃん注:「ごちやうじ」。]の儀、出づ。此三月のころより、又、この「こま」、流行す。竹にて作り、「くじら」にてもつくり、また、象牙、あるひは、鼈甲にてもつくるよし、きけり。こは、むかしより、ある所の「松風こま」にして、花のかたちなど、つくり、圖のごとく、「縮緬にしき」なんどにて、張ふり、そのこゑ、松風にさも似たるをもて、名づけたるものなり。童稺の翫物といへども、そのうつり換るを見れば、後の考えに、なるべきこともあんなれば、かゝることまでも、かきとめ置べきことぞかし。

   右、松蘿舘藏

   *

この後には、物を提供した「松蘿館」が、風聞宜しからざる故に処罰された譴責帰藩蟄居の別れが迫ったので、これを含めた三品の提示した旨の添書が載る。遂に彼は結局、江戸へ戻ることは出来なかったことを考えると、この短いそれには、何かしみじみとしたものを私は感ずるのである。]

2021/08/23

芥川龍之介書簡抄128 / 大正一四(一九二五)年(九) 五通(参考・一通/参考・河童図)

 

大正一四(一九二五)年九月二十五日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省、小病小閑を得、この手紙をしたためる。濱木綿の畫ありがたう。それから女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り、大いに恐縮した。君はもう書き了つたか。僕はまだ百枚ばかり殘つてゐる。この頃なる可くものを書かずに飯を食ふ工夫をしてゐるが、それは却つてものを書くより骨が折れる事になりさうにて所詮は賣文到死かと思つてゐる。目下支那游記の校正中。床の上にて校正の傍ら別紙抒情詩一篇を作る。御愛誦御隨意たるべし。この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ。夜來秋雨。墜葉處々黃なり。ワギモコによろしく。(夜長如年把燭寢顏を見よや。)

    九月二十五日     澄 江 子

   曾 枝 亭 先 生

 

   風きほふゆふべなりけむ、

   窓のとにのびあがりつつ

   オルガンをとどろとひける

   女わらべの君こそ見しか。

   男わらべのわれをも名をも

   年月のながるるままに

   いまははた知りたまはずや。

   いまもなほ知りたまへりや。

 

[やぶちゃん注:この抒情詩篇に登場する「女わらべの君」は明らかに吉田彌生の面影である。

「小病小閑を得」芥川龍之介軽井沢(九月七日帰京)で罹患した風邪の症状が思わしくなく、この五日前の二十日まで横臥していた。

「女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り」これにはちょっと説明がいる。しかも採用していない書簡をここで示さないと話がすっきりしてこない。されば、例外的にその書簡、四ヶ月前の佐藤春夫宛芥川龍之介書簡を、まず、この注の中で以下に電子化することとする。採用する気はなかったことは変わりはないので、注は本文に入れ込む(太字にした)。

   *

大正一四(一九二五)年五月十七日・田端発信・佐藤春夫宛

冠省ここに下山霜山[やぶちゃん注:「しもやまそうざん」(現代仮名遣)と読む。書画商。詳細事績未詳だが、共著で「新撰俳句大觀」(大正五(一九一六)年実業之日本社刊)があり、以下の謂いから見ても、俳句も捻ったらしい。]と言ふものあり。今度作家十二人に短尺を書かせ、大いに私腹を肥やさんとす。就いては君にも彼を儲けさせる一人になつて貰ひたきよし、僕から賴んでくれろと言ふ。それを引受けしはずつと前なれど、荏苒[やぶちゃん注:「じんぜん」。物事が延び延びになるさま。]として今日手紙を書くに至る。尤も小山内氏[やぶちゃん注:既出既注の小山内薫。]より前にちよつと手紙の行つたことと思ふ。正直に言へば、この擧は千枚や二千枚の短尺を書かされる事故、必しも樂ならざるべし。然れども君にはひつて貰へば啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]下山霜山の喜びのみにあらず、僕や室生犀星も同じ地獄に君と相見する底の[やぶちゃん注:「體(てい)の」に地獄の「底」を掛けた洒落であろう。]惡魔的歡喜あらん。君の外に書かされる連中は泉[やぶちゃん注:鏡花。]、德田[やぶちゃん注:秋声。]、永井[やぶちゃん注:荷風。]、里見[やぶちゃん注:弴。]、長田(幹)[やぶちゃん注:長田幹彦。]、久米[やぶちゃん注:正雄。]、小山内、久保田[やぶちゃん注:万太郎。]、上司[やぶちゃん注:小剣。]、室生、僕の十一人なり。書くものは俳句。何分よろしく願ひ奉る。下山むやみに急いでゐれば、電報位打つかも知れず。それも前以て斷り奉る。この頃田端に萩原朔太郎來り、田端大いに詩的なり。僕は軒前に竹三百竿を植ゑた。矢竹[やぶちゃん注:私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』の「矢竹」の注を参照。因みに「早川孝太郎の「猪・鹿・狸」には極めて好意的な芥川龍之介の書評「猪・鹿・狸」がある。]は三百竿二三坪にをさまる。風流下圖の如しと知るべし。頓首々々[やぶちゃん注:ここに底本(岩波旧全集)編者による『〔ペンの小さき畫あり〕』が、絵は省略されて存在しない。]

    五月十七日      芥川龍之介

   佐 藤 春 夫 樣

   *

次に、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注を見ると、「女性の隨筆で」という部分が明瞭となる。則ち、この月の雑誌『女性』の『九月号掲載の佐藤春夫』の随筆『「恋し鳥の記」は、「十二ケ月揃へ」た俳句を「短冊」に書くべく依頼された』という芥川の依頼した事実から『書き出されている』のであるが、実は以上の注で出した前の書簡では『「十二ケ月の事」は記』し忘れていた(以上で石割氏の注は終わり)ことを、この随筆を読んだ龍之介が思い出したのであった。しかも自分は、まだ、百枚も残っているというのである。恐らく、佐藤は下山から連絡が行き、「十二ケ月揃へ」の句という条件を理解していたのであろう。なお、新全集の宮坂年譜では、この短冊について、九月二十五日の条に『文士真蹟短冊頒布会の短冊』と記している。

「支那游記の校正中」既出既注だが、再掲しておくと、この凡そ五ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(「自序」の後、「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の構成配置となっている。私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。小穴隆一装幀。

「この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ」この言説は非常に興味深い。所謂、定型抒情詩へと恐るべき執拗(しゅうね)き思い入れを以って傾いてゆき、遂には『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』(リンク先は私のブログ・カテゴリ)の淵へと遠く去った龍之介の闡明であると思うからである。

「夜長如年把燭寢顏を見よや」中途半端なもので、こなれていないが、恐らくは、秋の「夜の長きこと 年のごとく 燭(しよく)を把(と)りて 寢顏を見よや」であろう。筑摩全集類聚版では『よながとしのごとくしよくをとつて』とルビするが、「夜長 年のごとく」は私には、それこそ龍之介ではないが、韻律に於いて甚だ戴けない。]

 

 

大正一四(一九二五)年九月二十五日・田端発信・中根駒十郞宛

 

冠省。先達渡邊君より尊臺御光來下さるやうに伺ひ居り候へば、御光來下さるものと相定め、この手紙したため申候。其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」古今同歎とはこの事なり。何とぞ御光來の節はお金三百圓ばかり御融通下され度願上候。文章倶樂部のゴシツプによれば千葉の海に命を失はむとなされ候よし、それは小生にお金を渡さざる祟りなり。今度のお金も御延引なされ候に於ては自動車か電車に轢かれ御落命の惧有之るべき乎。急々如律令。急々如律令。[やぶちゃん注:最後の繰り返しは「きふきふによりつりやう」と読む。]

    九月二十五日     龍 之 介

   駒 十 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「中根駒十郞」既出既注。「新潮社の大番頭」の異名を持った彼に芥川龍之介はひっきりなしに金を無心していることもそちらで書いた。あまりに度々なために、ここでは、いつもの低姿勢懇請型ではなく、とんでもない呪詛脅迫型を採っているが、面白いものの、やはりちょっと厭な感じが拭えない。龍之介は養父・養母・伯母フキ・妻文・子ども二人(後に三人)の生活を一手に支えねばならず、どうしても、金に対しては、ある種、「せこい」というか「ずる賢い」一面があった。そうして、そのせびる方法が、一種、慇懃無礼であったり、トリッキーに細かかったりして、相手を眩ませるのである(恐らく、実質的にこの時までに、本来は芥川龍之介自身が負担すべきものを多額に払わされたのは、大阪毎日新聞社であると私は思っている。特に中国特派では、巧妙な龍之介の要望を受け入たために、相当額の不要な支払いをしていると私は感じている。ただ、芥川龍之介の死後を考えると、芥川龍之介全集を遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)で破棄された新潮社が、結果して長期的展望から言って最大の損失者であったとは思う。それを受け入れた新潮社は大したものだと、心底、私は思っている。

「渡邊君」芥川龍之介の通い書生渡邊庫輔。

『其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」』これは「爐開(ろびら)き」の誤りであろう。私の柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 三」に(漢字を正字化した)、

  三年成就の圍に入

 爐開や汝をよぶは金の事   其 角

とあるからである。「圍に入」は「かこひにいる」で「爐開き」のこと。冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉を開いて用いること。茶の湯では、十月の終わりから十一月初めにかけて行う。また、その行事で、季題としては冬である。対する「爐塞(ろふさ)ぎ」の方は、冬の間、使ってきた囲炉裏を春になって塞ぐこと。茶の湯では、炉を塞いで、風炉(ふろ:茶の湯で釜の湯を沸かすための火鉢状の道具)にすることで、季題は春である。投函日は九月末であるから、後者に誤ったか、或いは意図的に季節を合わせるために季題を変えたかである。しかし、金がかかるのは、「爐塞ぎ」よりも、年末の掛け取りとダブって「爐開き」の方であろうから、この変更は無効である。

「千葉の海に命を失はむとなされ候よし」不詳。或いは、海水浴で溺れかけたというようなことか?

「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう:現代仮名遣)は、漢代の公文書で、本文を書いた後に、「この主旨を心得て、急々に、律令のごとくに行なえ」という意で、書き添えた語で、後に、転じて、道家や陰陽家の「咒(まじな)い」の詞(ことば)となり、また、「悪魔は速やかに立ち去れ」の意で祈禱僧が咒いの詞の末に用いた。その後、武芸伝授書の文末などにも書かれて、「教えに違(たが)う勿(なか)れ」の意を表わしたりもした。]

 

 

大正一四(一九二五)年十一月一日・田端発信・南條勝代宛

 

オケイコハサハリアル故コノ次ノ月曜日マデノバシテ下サイ

  (これは三十一文字の手紙です)

 十一月朔          芥川龍之介

南條勝代樣

 

[やぶちゃん注:完全な戯歌で、詩想も永遠なる零であるが、短歌形式である以上、採用した。

「南條勝代」(生没年未詳)新全集の「人名解説索引」によれば、二歳から十八歳までをヨーロッパで過ごした女性で、『如何なる経緯かは不明だが』、芥川龍之は大正一四(一九二五)年九月頃から、翌年の四月頃まで、彼女を自宅に呼んで、『日本文学一般についての個人教授をしている』とある。]

 

 

大正一四(一九二五)年十一月二十五日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省かまぼこ澤山ありがたう存じました河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました次手を以て河童の歌を一首御披露いたします 頓首

   ワガ愛ヅル河ノ太郞ヲ畫ニカケリコハクナクトモ少シコハガレ

    十一月二十五日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は、結果から言うと、最後まで一人長生きした夏目漱石の直弟子で大分県北海部郡臼杵町生まれの野上弥生子の弟である。弥生子の父角三郎(酒造業にして資産家で「第二十三国立銀行」監査役)の弟(弥生子の叔父)である小手川金次郎は「フンドーキン醤油」の創業者で、当主である兄角三郎の酒造の空いている時期の「麹むろ」を使用して、醤油・味噌の製造を手掛け、金次郎の次女のテツを角三郎の長男次郎(弥生子の異母兄)に嫁がせ(但し、後に離婚)、兄角三郎の次男武馬を養子に貰って、二代目金次郎とした、とウィキの「野上弥生子」にある。この二代目が、この宛名の相手である。生年は「名古屋大学大学院法学研究科」公式サイト内の「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」で確認した。

「野上さん」野上弥生子の夫で英文学者にして能楽研究者でもあった野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)。当該ウィキによれば、『大分県臼杵市出身。臼杵中学、第一高等学校を経て』、明治四一(一九〇八)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業』した。『同級生に安倍能成・岩波茂雄・藤村操が』おり、前二者とともに『夏目漱石に師事した』(藤村操は漱石が「君の英文学の考え方は間違っている」と叱った直後に自殺しており、それは後年の漱石の精神疾患の原因の一つとも言われている。また操の妹の夫となったのが安倍能成である)。『東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者とな』ったが、明治四二(一九〇九)年に『法政大学講師となり』、大正九年(一九二〇)年には『同大学教授とな』った。『予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘』するなどしたが、昭和八(一九三三)年に『学内紛争(法政騒動)で辞職』(但し、昭和一六(一九四一)年に復職している)、昭和一四(一九三九)年には『文学博士の学位を受け』た。『終戦直後の』昭和二一(一九四六)年、『法政大学総長に選ばれ、戦争で被害を受けた大学の復興にあたった。総長在任中』『に脳出血のため』、『世田谷区成城の自宅で死去』した、とある。

「河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました」「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にここで言っている河童図と指示するものをトリミングして以下に示す(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

 

Kappazu

 

ただ、カメラの寄りが近過ぎるか、冊子編集の過程で上下を少しカットしてしまったものらしく、特に上部は河童が押さえ込まれているようで、甚だ残念である。所持する二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」によれば(こちらで見られんことをお薦めする。カラーで、河童の肌の色や背負った葭の穂の墨痕も細部まで観察出来、全体に破綻なく絶妙で、その河童に表情は、一種、鬼気たるものをさえ感じさせる一枚である)、この河童図は現在は日本近代文学館蔵で、状態は紙本・軸装・墨書、サイズは二十八・五✕四十八・五センチメートル、署名は御覧の通り、「澄江堂」である。]

 

 

大正一四(一九二五)年十二月二十九日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省この間はかまぼこを頂き難有く存じます早速となりのいもじ秀眞先生に御裾わけして頂だい仕りました早速御禮申上げるつもりでしたが、新年號なるものにひつかゝり居候爲、ついつい今日に相成り甚恐縮に存じてゐます次手に河郞の歌を御披露します

   橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま

   わがめづる河の太郞を𤲿にかけり怖くなくとも少し怖がれ

御一笑下さい

    十二月二十九日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(2) / 日本山海名産図会 本文電子化注~了

 

釀酒★(さけのもと)【米五斗を「一★」といふ。「一つ仕𢌞(しまい)」といふは、一日、一元づゝ、片た付け行くを、いふなり。其余倚(よはい)余倚[やぶちゃん注:後者は底本では踊り字「〱」。しかし、「余倚」の意は不明。以下の述部を見るに、「その他にオプションで必要とする処理・作業」の謂いであろうか。]は酒造家(さかや)の分限に應ず。】[やぶちゃん注:「★」=「酉」+「胎」。酒造段階での隠語の漢字ではあろう。しかし、実際、この後でも前に出た判読不能字の「※」と同様に「もと」と読んでおり、読者の中には、『「※」と「★」は同じ「酉」+「胎」なのではないか?』と思われる方も多いかと思う。但し、「胎」の字の崩しを見たが、「指」のようになったものは、見受けられないことと、さらに言うなら、現在の底本頁を見て戴きたいのだが、右頁三行目の項名の「釀酒★(さけのもと)」や、割注のごく小さい「一★」の「★」は、はっきりと「酉」+「胎」であるのに、その解説文内の右頁後ろから三行目下から八字目の「※」は、明らかに「酉」+崩した「指」のような字体で彫られてあるのである。彫り師が違うならまだしも、どう見ても、同一人が彫った版木の中で、しかも同じ頁の中で、同じ字をこんなに違った彫り方をするとは、私には思えなかったのである。「字の大きさで違うんじゃない?」と言われるなら、「割注の小さな字は、何故、崩しでないのか?」と逆に問おう。しかし乍ら、叙述の内容からは、確かに、この「※」と「★」は同じ「もと」で別な「もと」とは思われない。しかし、私は本電子化では、あくまで表記には拘って濁音であるべきところも、清音のママなら、そうしてきた。されば、私は「※」と「★」を使い分けておくこととする。しかし、言っている傍から、「※」=「★」であることが証明される一字が出現してしまうのであるが。]

定(しやう)日三日前に米を出し、翌朝(よくてう)、洗らひて、漬(ひた)し置き、翌朝、飯に蒸して、筵へあげて、よく冷やし、半切(はんきり)[やぶちゃん注:「はんぎり」。「半桶」「盤切」とも書き、盥(たらい)の形をした底の浅い桶。「はんぎれ」とも呼ぶ。以下の「其三」に描かれた大きな丸い桶のことであろう。]八枚に配(わか)ち入るゝ【寒酒なれば、六枚なり。】。米五斗に麹一斗七升・水四斗八升を加ふ【増減、家々の法あり。】、半日ばかりに水の引くを期(ご)として、手をもつて、かきまはす、是れを「手元」と云ふ。よるに入りて、械(かひ)にて摧(くだ)く、是れを「やまおろし」といふ。それより、晝夜(ちうや)、一時に一度宛(づゝ)拌(か)きまはす【是れを「仕こと」ゝいふ。】。三日を經(へ)て、二石入の桶へ、不殘、集め収め、三日を經(ふ)れば、泡を盛り上(あぐ)る。是れを「あがり」とも、「吹き切り」とも云なり【此の機(き)を候(うかゞ)ふこと、丹練の妙ありて、こゝを大事とす。】。これを、復た、「※(もと)をろし」の半切二枚にわけて、二石入の桶ともに、三となし、二時にありて、筵につゝみ、凡そ六時許には、其の内、自然の温氣(うんき)を生ずる【寒酒は、あたゝめ、桶に湯を入て、「もろみ」の中へ、さし入るゝ。】を候(うかゞ)ひて、械(かい)をもつて、拌(か)き冷(さま)すこと、二、三日の間(あひだ)、是れ又、一時、拌(かき[やぶちゃん注:ママ。「かく」の誤刻か。])なり。是までを「★(もと)」と云ふ。

(そへ)【右※(もと)の上へ、米麹・水を、そへかけるをいふなり。是を「かけ米」、又、「味(あじ)」ともいふ。】

右の※(もと)を、不殘、三尺桶へ集め收め、其の上へ、白米八斗六升五合の蒸飯(むしはん)、白米二斗六升五合の麹に、水七斗二升を加ふ、是を「一★(=※)」[やぶちゃん注:これが「※」=「★」の証拠である。底本のここの左頁の四行目下から十二字目。この字は「酉」の右手(漢字の中央)に「子」の崩しのような字が挟まり、その右手には明らかに「台」があるからである。但し、以下でも字体の識別は行う。]といふなり、同じく晝夜、一時、拌きにして、三日目を「中(なか)」といふ、此の時、是れを、三尺桶二本にわけて、其の上へ、白米一石七斗二升五合の蒸飯、白米五斗二升五合の麹に、水一石二斗八升を加へて、一時拌(か)きにして、翌日、此の半ばを、わけて、桶二本とす。是れを「大頒(おほわけ)と云ふなり。同く、一時拌きにして、翌日、又、白米三石四斗四升の蒸飯、白米一石六斗の麹に、水一石九斗二升を加ふ【八升は「ほんぶり」といふ桶にて、二十五盃なり。】。是れを「仕廻(しまい)」といふ。都合、米・麹とも、八石五斗、水、四石四斗となる。是より、二、三日、四日を經て、氳氣(うんき)[やぶちゃん注:発酵による熱と蒸気。]を生ずるを待ちて、又、拌きそむる程を候伺(うかゞ)ふに、其の機發(きはつ)の時あるを以て、大事(たいし)とす。又。一時拌として、次第に冷まし、冷め終るに至つては、一日、二度、拌とも、なる時[やぶちゃん注:「馴る」か。攪拌しても、発酵が有意に怒らなくなる時か。]を、酒の成熟とは、するなり。是を三尺桶

 

S3

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(以下同じ)。キャプションは、

其三

★おろし

である。]

 

四本となして、凡、八、九日を經て、あげ、桶にてあげて、袋へ入れ、醡(ふね)[やぶちゃん注:この字は「酒を搾る」の意だが、ここでは入れ物の意で用いている。]に滿たしむる事、三百餘より五百までを度(ど)とし、男柱(おとこはしら)[やぶちゃん注:搾酒機の突き出た太い棒。「其五」の右上に雲の下に隠れて少しだけ見えるそれ。]に、數々の石をかさねて、次㐧に絞り、出づる所、淸酒なり。これを「七寸」といふ。澄(すま)しの大桶に入て、四、五日を經て、その名を「あらおり」、又、「あらばしり」と云。是を四斗樽につめて出だすに、七斗五升を一駄として、樽二つなり。凡、十一、二駄となれり。○右の法は、伊丹鄕中(がうちう)一家(か)の法をあらはす而已(のみ)なり。此の余は、家々の秘事ありて、石數(こくすう)・分量等(とう)、各(おのおの)、大同小異(たいとうしやうい)あり。尤(もつと)も、百年以前は八石位より、八石四、五斗の仕込にて、四、五十年前は、精米八石八斗を極上とす。今、極上と云ふは、九石余、十石にも及へり。古今、變遷、これまた、云いつくしがたし。○「すまし灰(はい)」を加ふることは、下米酒(しまひしゆ)・薄酒(はくしゆ)、或ひは*酒(そんじさけ)の時にて[やぶちゃん注:「*」=「罃」-「缶」+「酉」。行程を仕損じた酒の謂いであろう。]、上酒に用ゆることは、なし。○間酒(あひしゆ)[やぶちゃん注:初秋に造る酒。今で言えば、九月下旬の残暑の厳しい折りに醸造する酒を指す。乳酸菌の発酵が容易であるなどのメリットはあったが、強烈な臭気を放ったとされる。]は、米の増し方、むかしは新酒同前に三斗増なれども、いつの頃よりか、一★(もと)の酘(そへ)[やぶちゃん注:「そひ」とも読む。「添」の意で、清酒の醸造過程で、酴(もと)[やぶちゃん注:濁り酒。どぶろく。]を仕込んで、一定期間後に加える、蒸した白米と麹と水との総称。]、五升増、中(なか)の味(み)、一斗増、仕𢌞(しまい)の増、一斗五升增とするを、佳方(かはう)とす。「寒前」・「寒酒」、共に、これに准ずべし。「間酒」は、「もと入」より、四十余日、「寒前」は七十余日、「寒酒」、八、九十日にして、酒を、あくるなり。尤も、年の寒暖によりて、増減駈引(かけひき)・日數(かず)の考へあること、専用なり、とぞ。○但し、昔は「新(しん)酒」の前に「ボタイ」といふ製ありて[やぶちゃん注:ウィキの「菩提酛」に詳しい製法が記されてあるので見られたいが、非常に古い醸造法で、『平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質な清酒であった南都諸白のとりわけ奈良菩提山(ぼだいせん)正暦寺(しょうりゃくじ)で産した銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』を醸していた』。『時代が下るにつれ、やがて正暦寺以外の寺の僧坊酒や、奈良流の造り酒屋の産する酒にも用いられ』、『室町時代初期『御酒之日記』、江戸時代初期『童蒙酒造記』などにその名を残し、当時の日本酒の醸造技術の高さを物語っている』。『今日でいうザルの一種である笊籬(いかき)を使うことから「笊籬酛」とも呼ばれた』とあり、近年、再現に成功しているそうである。]、これを「新酒」とも云ひけり。今に山家(やまか)は、この製のみなり。大坂などゝても、むかしは、上酒は、賤民の飲物にあらず、たまたま嗜むものは、其家に、かの「ボタイ酒(しゆ)」を釀せしことにありしを、今、治世二百年に及んて、纔(わづ)か其日限りに暮らす者とても、飽くまで飮樂して、陋巷(ろうこう)に手を擊ち、「萬歲」を唱(との)ふ。今、其時にあひぬる有難さを、おもはずんば、あるべからず。

(こめ)

★米は地𢌞(ちまは)りの古米、加賀・姫路・淡路等(とう)を用ゆ。酘米(そへまい)は、北國(ほつこく)古米、㐧一にて、秋田・加賀等を、よしとす。「寒前(かんまへ)」よりの元は、高槻・納米(なやまい)[やぶちゃん注:前後から見ると、現在の大阪府内にあった地名と推理はするが、ネットでは全くヒットしない。]・淀・山方(やまかた)[やぶちゃん注:並列地名から見て、江戸時代から明治の初頭にかけて美作国大庭郡にあった村名か? 古見村が古見村山方と古見村原方に分村したとされる。ここは個人サイト「民俗学の広場」の「地名の由来」の『「やまがた」の地名』に拠った。]の新穀を用ゆ。

 

S4

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

其四 酘中大頒(そへなかおほわけ)

である。]

 

舂杵(うすつき)

酛米(もとまひ)は、一人、一日に四臼(ようす)【一臼(ひとうす)一斗三升五合位。】。酘米(そへまひ)は、一日、五臼、上酒(じやうしゆ)は四臼、極めて精細ならしむ。尤も古杵(ふるきね)を忌みて、これを継(つ)くに、尾張の五葉(ごよう)の木[やぶちゃん注:杵材には樫や檜が用いられるが、マツ類には五葉のものがあり、後者の檜は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae であるから、それか。]を用ゆ。木口(こくち)、窪(くぼ)くなれば、米、大きに損ず故に、臼𢌞(うすまは)りの者、時々に、是を候伺(うかゞ)ふ也。尾張の木質(きしつ)、和らかなるを、よしとす。

洗浄米(こめあらい)

初めに井の經水(ねみづ)[やぶちゃん注:漢字はママ。ここは滞留した古い汚れた水の意であろう。]を汲み涸(か)らし、新水(しんすい)となし、一毫(いちごう)の滓穢(をり)も去りて、極々、潔(いさき)よくす。半切一つに、三人がかりにて、水を更(か)ゆること、四十遍、寒酒は五十遍に及ぶ。

家言(かけ)[やぶちゃん注:醸造業者の専門用語の意であろう。]

○杜氏(とうじ)【○酒工(しゆこう)の長(てう)なり。また、「おやち」とも云。周の時に杜氏の人ありて、その後葉(こうよう)杜康(とこう)といふ者、よく酒を釀(かも)するをもつて、名を得たり。故に擬(なそら)えて号(なづ)く。】

○衣紋(ゑもん)【○麹工の長なり。「『花を作る』の意をとる」と、いへり。一說には、中華に麹をつくるは、架下(たるのした)に起臥して、暫くも安眠なさざること、七日、室口(むろのくち)に「衞(まも)る」の意にて「衞門(えもん)」と云ふか。】

釀具(さかだうぐ)

「半切」、二百枚余【各(おのおの)、一つ、「仕廻(しまい)」に充てる。】。○「酛おろし桶」、二十本余。○「三尺桶」、三本余。○「から臼」、十七、八棹。○「麹盆」、四百枚余。○「甑(こしき)」[やぶちゃん注:日本酒の原料米を蒸すための大型の、蒸籠(せいろ)に似た蒸し器。]は、かならず、薩摩杉の「まさ目」を用ゆ。木理(きめ)より、息の洩るゝを、よしとす。其の余の桶は「板目」を用ゆ。○「袋」は、十二石の醡(ふね)に三百八十位。○「薪」、入用は一酛にて、百三十貫目余なり。

製灰(はいのせひ)

「豊後灰」壹斗に、「本石灰」四升五合、入れ、よく、もみぬき、壺へ入れ、さて、はじめ、ふるひたる灰粕(はいかす)にて、「たれ水」を、こしらへ、「すまし灰」の、しめりにもちゆ。尤も、口傳あり。

なをし灰(はい)

「本石灰」壹斗に、「豊後灰」四升、鍋にて、いりて、しめりを加へ、用ゆ。○「圍酒(かこひさけ)」[やぶちゃん注:一般には、清酒を火入れの後、貯えておくこと。また、その酒を指し、仕込み期間の最後の火入れ工程の後に、一定期間「囲い酒」として貯蔵される。但し、以下の「入梅」とあることから、これは「夏囲(なつがこ)い」で、火入れをした清酒を夏期に貯蔵することで、当時は「夏囲い桶」という真新しい大桶に入れられたが、夏場の保存は困難を極めたであろう。]に火をいるゝは、入梅の前を、よしとす。

味醂酎(みりんちう)

 

S5

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

其五

もろみを拌(か)く

袋にいれて醡(ふね)に積む

酒「あげすまし」の図

である。]

 

燒酎十石に糯白米(もちこめ)九石貳斗、米麹二石八斗を、桶壹本に釀す。翌日、械(かい)を加へ、四日目、五日目と、七度ばかり、拌きて、春なれば、廿五日程を期(ご)とすなり。昔は、七日目に拌きたるなり。○「本直(ほんなを)し」[やぶちゃん注:味醂の醪(もろみ)に焼酎や酒精(アルコール)を加えて製した甘い酒。「なおし味醂」「柳陰(やなぎかげ)」などとも称した。]は、燒酎十石に糯白米貳斗八升、米麹壹石貳斗にて、釀法、味醂のごとし。

 

釀酢(すつくり)

黑米(くろこめ)二斗、一夜、水に漬たして、蒸飯(むしはん)を和熱(くわねつ)の侭(まゝ)、甑(こしき)より、造り桶へ移し、麹六斗、水壹石を投じ、蓋(ふた)して、息の洩れざるやうに、筵(むしろ)・菰(こも)にて、桶をつつみ纒(まと)ひ、七日を經て、蓋をひらき、拌(か)きて、また、元のごとく、蓋(ふた)して、七日目ことに、七、八度宛(づゝ)、拌きて、六、七十日の成熟を候(うかゞ)ひて後(のち)、酒を絞るに同し【酢は、食用の費用は、すくなし。紅粉(へに)・昆布・染色(そめいろ)などに用ゆること、至つて夥し。】これまた、水(すい)・圡(ど)、家法の品、多し。中(なか)にも、和刕小川[やぶちゃん注:現在の大阪府松原市小川か。]・紀の國の粉川(こかわ)[やぶちゃん注:和歌山県紀の川市粉河(こかわ)。]・兵庫北風(きたかぜ)[やぶちゃん注:後注参照。]・豊後舩井(ふない)[やぶちゃん注:不詳。大分県大分市府内町なら行ったことがあるが?]・相州・駿州の物など、名產、すくなからず。

[やぶちゃん注:「兵庫北風」これは地名ではなく、兵庫の海浜部一帯に上古より勢力を持った「北風家」一族の内の、最初に北国廻船(ほっこくかいせん)を開いた北風六右衛門家系の一属とその関係者のことであろう。ウィキの「北風家」によれば、第四十七『代良村の後、本家は』二『家に分かれ、宗家は六右衛門』を『嫡家は荘右衛門』『を代々』、『名乗った。宗家は酢の販売』(☜)を、『嫡家は海運業を主に取扱い、張り合いながら』、『繁栄した。今は生田裔神八社の』一『社とされているが、七宮神社は出自が敏馬神社か長田神社といわれ、元々会下山に北風家が祀っていた。また、菩提寺については』、『元々』、『西光寺(藤の寺)であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立』って、寛永一六(一六三九)年に『加賀藩の用命』を受けて、『北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』、慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である』(☜)(☞)『さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』、「北風酢颪」(きたかぜすおろし)という『看板を出す酢屋もあったという』(☜)とある。]

[やぶちゃん注:以下は底本では、有意な字下げが行われてある。発句を除いて、総て引き上げた。]

袋洗(ふくろあらひ)○新酒成就の後(のち)、猪名川(いなかわ)[やぶちゃん注:伊丹を南北に貫流する。]の流れに、袋を濯(あら)ふ。その頃を待ちて、近郷の賤民、此の洗瀝(しる)を乞(こ)えり。其の味、うすき醴(あまさけ)のごとし。これまた、佗(た)に異なり。俳人鬼貫、

  賤づの女や 袋あらひのみつの汁

[やぶちゃん注:死後刊行の明和六(一七六九)年刊の「鬼貫句選」に所収し(本「日本山海図会」は寛政一一(一七九九)年刊)、

     伊丹帒洗(ふくろあらひ)

   賤(しづ)の女や帒あらひの水の汁

とある。上島鬼貫(うえじまおにつら)は万治四(一六六一)年生まれで、元文三(一七三八)年に没している。]

愛宕祭(あたこまつり)○七月二十四日、「愛宕火(あたこひ)」とて、伊丹本町通りに、燈を照らし、好事(こうす)の作り物など營みて、天滿天神(てんまてんしん)の川祓(かわはらひ)にも、をさをさ、おとること、なし。この日、酒家(さかや)の藏立(くらたて)等(とう)の大(おほひ)なるを見ん、とて、四方より、群集(くんじゆ)す。是れを題して、宗因、

   天も燈に醉ていたみの大燈篭

[やぶちゃん注:俳人で連歌師の西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二(一六八二)年)は大坂天満宮連歌所の宗匠であった。]

酒家の雇人(ようにん[やぶちゃん注:当て読み。])、此日より、百日の期(こ)を定めて、抱(かゝ)へさだむるの日にして、丹波・丹後の困人、多く、愊奏(ふくそう)すなり。

[やぶちゃん注:「困人(きうしん)」ここは仕事がなく困っている人で、読みは「窮人(きゆうじん(きゅうじん))」を当てたもの。歴史的仮名遣は誤り。

「輻輳・輻湊」が普通。車の輻(や:放射状に出て車輪を支える部分)が轂(こしき:車輪の中央にある「輻」の集まる部分)に「集まる」の意から、「四方から寄り集まること・物事が一ヶ所に集中すること」を言う。]

 

[やぶちゃん注:以下、第一巻の最終頁。「伊丹莚包(いたみむしろつゝみ)の印(しるし)」の図版と、「池田薦包(いけだこもつゝみ)の印(しるし)」図版。それぞれ最後に「餘畧」とある。]

 

Smk

 

[やぶちゃん注:なお、後は本第一巻の標題と木村蒹葭堂孔恭の「序」、及び、第六巻掉尾の「跋」だけを残すが、判読が甚だ困難で(特に後者は難物な上に、文意も採り難い)、暫く、時間がかかる。悪しからず。]

2021/08/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 風神圖說

 

[やぶちゃん注:標題はない(上記のそれは目録から)。最後にある通り、好問堂の発表。段落を成形した。短歌と漢詩は引き上げ、漢詩は二段組を一段組にした。]

 

Huujinzu

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは、

 風神圖 一名「片輪車」とも云ふといへり。

である。]

 

 寬保[やぶちゃん注:一七四一年~一七四四年。]のころ、あやしきものを見たり。

 その形は、人にして、年の頃、廿あまりなるが、髮の結ひやう、首の際より、まげの末まで、壹尺五、六寸、伊達もやうの下着、袖口より、五、六寸計長く、羽織は、地を引くばかりに、五尺あまりの紐を附けたり。黑塗の下駄をはきたりしが、羽織の紐、ときどき、足駄の齒にからみて、是を、はづさんとすれば、髮のまげ木の枝にかゝり、袴は、下駄の齒のかくるゝばかりなりければ、行きなやみたる風情なり。

 脇指は、二尺五、六寸もあらんと覺ゆるに、刀のやうなるものを、わきばさみたれども、立てざまに差したれば、柄は脇の下にかくれて、見えず、棒やらん、刀やらん、おぼつかなし。

 手には、八尺あまりの煙管を持ちたり。そのあやしさ、いはんかたなし。家にかへりてこれを圖して、

「是は、何といふものぞ。」

と、人にとへども、さらにしる人、なし。

 異國の人か、化物か。鳥獸蟲魚の類ならば、「本草綱目」にやあらんと、醫師にとへども、

「斯る者は知らず。」

と答ふ。「三才圖繪」にやあらんと、普く尋ねもとむれども、似たるもの、更になし。

 或人、

「是は、世に云ふ『風の神』ならん。その故は、近年、「文金風」、あるひは「豐後節風」などいふ。前々よりも「辰松風」・「助六風」など、みな「風」の字を氏にして、「釆王」・「大王の風」・「庶人の風」と、いひし。庶人の中にも、至りて惡き風なり。若し、これに逢ふもの、風を引き、煩ふのみならず、心の臟に入りて、狂氣のやうになり。身を亡し、家を破る。」

と、なり。

 偖は[やぶちゃん注:「さては」。]、道にてあはんをさへ心うきに、家の内へ來らんことは、いと、心うかるべし。『かやうのあやしきものは、和歌にて鎭む。』と云ふこと、むかしより聞き傳へ侍りければ、一首の歌を詠じて、これをまじなひける。

道しらぬ友にひかるゝ小車のこれも片輪のたぐひなるらん

あはれぞと見るさへうしや小車のかたわとて世に引く人もなし

有レ人告ㇾ予曰。近時有風塵先生者。其容見ㇾ人矣。畫工圖ㇾ之以示於世。足下稍似ㇾ之。豈爲ㇾ士者之風俗乎。予聞此言。不ㇾ忍默止。賦以解ㇾ嘲。   無名人

枯楊蕭寂不ㇾ生ㇾ春

莫ㇾ道娼家對ㇾ酒人

縱有秋來俠名士

淸操豈得ㇾ混風塵

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

人、有りて、予に告げて曰はく、「近時、『風塵先生』なる者、有り。其の容(かたち)、人に見えず。畫工、之れを圖し、以つて、世に示す。足下、稍(やや)、之れに似たり。豈に士たる者の風俗か。」と。予、此の言を聞くに、默止(もだ)すに忍びず、以つて賦して、嘲りを解く。

枯れし楊 蕭寂として 春に生ぜず

道(い)ふ莫かれ 娼家 酒に對せる人

縱(たと)ひ 秋來つて 俠名の士 有れども

淸操 豈に風塵を混ずるを得んや

か。]

 この一條は、よしなきことながら、當時の手ぶりをまのあたり見る心地にて、うつし出でぬ。その中、「文金風」・「辰松風」などいへるは、いづれもみな、髮の結ひやうを、いへるものなり。「文金風」といふは、元文元年[やぶちゃん注:一七三六年。]より、上方、上るりの大夫の髮の風を學び、油にて、かため、毛筋、われめなく、元結、少し卷き、入れ髮をいれ、「宮古路風」ともいへり。又、「辰松風」といへるは、享保[やぶちゃん注:]のころ、辰松八郞兵衞と云ふ人形遣、この風にゆふをもてなりとぞ。

 いでや、何ごとにまれ、今よりして古を見る時は、ことたらはぬことのみなりけり、と疑はるゝもの、多かり。

 むかし、蠟燭のながれを、油にとき、ゆるめ、文七元結もなくて、こよりにて、結びたりしことも、なほ、なき世の人は、飛蓬[やぶちゃん注:「ひほう」。髪が乱れたさまの喩え。]の如くにやありけん。此後、「伽羅の油」[やぶちゃん注:「きやら(きゃら)のあぶら」は近世初期に京都室町の「髭(ひげ)の久吉」が売り始めた鬢付け油の一種。胡麻油に生蝋蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。]といふもの、いできたりしより、髮結わざも、おのがさまざまになり行くめり。婦人の髮は、そのゆひざまの異なれば、おのおの、其名のわかるゝも、ことわりなれど、男子の髮は、もろこしの「斷髮束之」といひけんごとく、いかにもせんやう、なかるべきに、「蟬折」・「なましめ」・「をし鳥」・「本田」・「いてう」・「引出し」・「二つをり」・「まるまげ」など、くさぐさの名目ありと、きけり。あな、ことわざしげき世にてぞある。

  文政八年四月朔     好問主人謾書

[やぶちゃん注:正直、絵を見た瞬間、「これって、平賀源内でしょ?」って思ったが、彼は享保一三(一七二八)年生まれで(讃岐国)、江戸に来たのは宝暦六(一七五六)年だから、植木等の「お呼びでナイ!」というわけ。にしても、「風神」と言い、「片輪車」と言うも、私のよ~うく知っておる妖怪「片輪車」とは、これまた、全く話にならないくらい全然全く一致しない(私の電子化した怪奇談には多く見られるが、「一昨日きやがれ!」って感じで、話にならないほど違う。絵姿も如何にも洒落たつもりが、ドン臭いありさまで、「即刻退場!」でしょ? 注を附する気にもならんわ! 当世、傾奇者(かぶきもの)ってか? 上方の義太夫が嘗てしていた髪型まで言い及んで、古い髪型尽くし、これはもう、明らかに、馬琴への挑戦、見え見えでんな! 「古い御仁は、基本、新しい文化・知識は想像だに及ばぬでしょう?」という嫌味もあるか?(美成は馬琴より二十九も年下である) 或いは、この条全体が、とんでもない何物(馬琴自身か或いは幕府の政策等)かへの壮大なカリカチャアを含んででもいるものか? 私には判りまへんわ!]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12・2) 暗號解讀

 

      暗 號 解 讀

 暗號がしばしば探偵小說の題材となつて居ることは今更言ふ迄もなく、すてに、鎌倉比事の中にも取り扱はれて居ることは前に述べた所である。摸稜案の中にも暗號解讀に似たやうな『遺言判讀事件』があるから、それをこゝに紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの「前集 卷之四 藤綱六波羅に三たび獄(うつたへ)を折(さだ)むる事」の冒頭の話がそれである。「折(さだ)む」とは「判決を下す」の意。読みはなるべく原本の読みに従った。]

 これは靑砥藤綱が北條時宗の命を受け、京都に赴いて裁判した三ツの事件の一つであつて、短篇小說の形になつて居る。三條の醫師山道《やまぢ》某が死んで庶子《てかけのこ》の加古飛丸《かこひまる》とその姉聟の鏡岱《きやうたい》との間に遺產相續の爭ひが起つた。加古飛丸は母と共に法廷へ出たが、母の陳述するところによると、山道は年五十に至るも本妻との間に子がなかつたので、彼女を妾《をんなめ》として加古飛丸を擧げた。山道は大に喜んで加古加古と呼んで大に愛したが、本妻の手前さすがに家へ出入はさせなかつた。ところがいつの間にか本妻はこれをきゝ出して、嫉妬のあまり良人にすすめて自分の姪を養女として長ずるに及んで鏡岱を聟に迎ヘたのである。然し五年前本妻が死んでからは本宅に出入りするやうになつたが、どういふ譯か鏡岱夫婦はそれを喜ばず、いつも不快な思をせねばならなかつた。すると去年山道が病氣にかゝつたので、加古飛丸母子は看病したく思つたが鏡岱夫婦が之を許さず、やがて山道が死んでも、遺言狀を楯に葬式にも列することを許さず、況んや一文の財產も分ち與へなかつたが、何分遺言狀があるので度々訴へても御取り上げがなかつたといふのである。

 そこて藤綱は、法廷に呼び出した鏡岱夫婦に向つて、何故に加古飛丸母子を近づけないで、山道の實子であるにも拘はらず財產を別ち與ヘなかつたかと詰《なじ》ると、鏡岱の言ふには、それは、全く父親の意志であつて、彼は臨床の時に鏡岱を呼んで、加古は實を言ふと自分の子ではない。加古の母は淫奔な性質で他に情夫を拵らへて居るらしい。それ故、自分が死んでも決して財產を分與する必要はないと言つてその通り讓り狀を書いたから、たゞ父親の意志に從つたに過ぎないと答へた。

 そこで靑砥藤綱は、然らばその讓り狀なるものを見せよといつたので、鏡岱が恐る恐る差出すと、藤綱は暫らく讀んで居たがやがてにこにこと笑つて、『この讓り狀を見ると、加古飛丸こそ、山道の家を繼ぐべき者である。汝等は實に、思ふに似合はぬしれものである』と叱つた。

 これをきいた鏡岱は、決してそんな筈はありませんと言つたので、藤綱は然らばこゝで讀んで見よといつて讓り狀をさしつけた。その文句は次のやうに書かれてあつたのである。

    可家業相續讓受資財事

  加古非吾兒家財悉與吾女婿外人不可爭奪者也仍如件

   年 月 日       山 道 判

 これを鏡岱は次のやうに頂んだ。『家業相續して資財を讓り受くべき事。加古は吾が兒に非ず、家財悉く吾が女婿に與ふ。外人爭奪すべからざるもの也。仍て件の如し。』

 藤綱はこれをきいて頭を左右に振る、この讀み方はちがつて居る。かう讀むのが正しいといつて、次のやうに讀んだ。

『加古非は吾が兒なり、家財悉く與ふ、吾が女婿は外人、爭奪すべからざるもの也、仍て件の如し。』

 藤綱はなほも言葉を續けた。『思ふに、汝等は父に迫つて、汝等の都合のよいやうに讓り狀を書かせたのであらう。だから父は斷ろ兼ねて、加古飛の飛を非にかへて、汝に讓るやうに見せかけだのだ。さすがに醫師だけあつてその頓才《とんさい》[やぶちゃん注:臨機応変に機転を効かせる才能。]には感心すべきである。どうだそれにちがいなからう。さすれば、財產は加古飛に皆與ふべきである。』

 かういつて藤綱は鏡岱夫婦を追放の刑に處し、加古飛丸に山道家を相續せしめたのである。純然たる暗號ではないけれども、遺言狀の讀み方が主になつて居るだけに頗る興味が多いやうに思はれる。この外、藤綱が六波羅で行つた裁判事件の中に、今一つこれに似たやうな事件があるけれど、あまり長くなるからその紹介を省略する。

[やぶちゃん注:ここで不木が指すのは、続く、「六波羅の中(ちう)」である。禅僧の偈の読み換えである。]

 以上私は、馬琴の、探偵小說材料の取扱ひ方について述べたから、次には、摸稜案にあらはれた犯罪心埋、ことに女性の犯罪心埋について考へ見たいと思ふのである。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 耳の垢取

[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]

   ○耳の垢取

 慶長年中、唐山の漂流船一艘、水戶の浦に着きたり。

「異國の者か。」

と問ひければ、

「大明太原縣の者なり。」[やぶちゃん注:山西省太原市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となるが、不審。とんでもない内陸である。]

とて、七人、乘組なり。

このよし、威公[やぶちゃん注:常陸水戸藩初代藩主にして水戸徳川家の祖徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)の諡。彼は慶長一四(一六〇九)年末に常陸国水戸二十五万石に転封され、慶長十六年中に元服して頼房と称した。慶長二十年七月十三日(一六一五年九月五日)に元和に改元しているから、凡そその五年半の閉区間の出来事となる。]に申し上げ、かく、そのものどもに尋ねさせ給ふやう、

「汝等、國に歸りたくおもはゞ、送り遣るべし。此國に居りたくば、置くべし。」

と仰せ下されければ、御國に居りたきよし、願ふ所なり、と申すにより、みな、江戶に召して、藝能をたづねさせ給ひければ、王春庭三宮[やぶちゃん注:ママ。後で「三官」と出る。そっちが正しかろう。]といふもの、

「按摩・導引をなす。」

と申す。

「さらば。」

とて、御側勤のものに試みさせ給ふに、

「妙手なり。」

と申すにより、威公、御自ら、療をさせ給ふに、無比類[やぶちゃん注:「ひるゐなき」。]名人なり。

 殊に、

「御耳の垢をとり、内を掃除する事、これまでなき術なり。」

とて、大に、おぼしめしにかなひ、日每に昵近して奉りければ、

「永く御舘にめしつかはるべし。然るうへは、此國の風俗になれ。」

とて、月代をそり、衣服を改め、遠藤氏の女をめとりて、「遠藤勘兵衞」と改めたり。

 さて、男子出生しければ、名を賜はりて「造酒之助」[やぶちゃん注:「みきのすけ」の読んでおく。]と稱す。

 是より、代々、當主は「勘兵衞」、總領は「造酒之助」といふ。

 この造酒之助、成長せしかば、

「何役にても望み候へ。」

と仰せ下されしより、いかゞおもひけん、能役者を願ふ。

 ねがひのごとく、仰せ、かうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。

 六世孫迄は嫡流にて有りしが、部屋住にて歿し、男子、なかりしかば、其弟を總領にして家をつがせしに、それも、男子、なかりしかば、從弟を養ひて、つがせたり。

 英一蝶がかける「耳の垢とり」は、此乘組の内歟。もしは、王春庭が弟子にても有りしなるべし。

 二代造酒之助、家督をとりて「勘兵衞」と改めけるは、義公の御代なり。

 或時仰せ有りける家[やぶちゃん注:底本に編者傍注して『にカ』とある]は、

「汝が親は、太原の王氏なるに、『遠藤』をなのりて、『藤の丸の紋』付くるは、和漢の故事に、かなはず。今より、『太原』とかきて、『おほはら』と、なのるべし。紋も

Waukoji

如此、あらためよ。これ、「王」の字の古文なり。」

と仰せられしより、今に至るまで、これを用ふ。[やぶちゃん注:底本からトリミングし、清拭した。一ヶ所、汚れか、小さな点か不明な部分があったが、「王」の字の古字を一覧したところ、そのような点を有するものがなかったので、底本の汚損と考え、消去した。但し、ここに出るような「王」の古字体は見当たらない。]

 王春庭、身まかりしかば、伊東子長應寺の後山に葬る。

 その時、遺言にまかせて、衣服および隨身の器物を、のこらず、墓にうづめたりとて、家につたはるものは、琥珀の觀音一體有るのみなり。

 五世の孫も長生にて、予が、わかゝりし時、八十有餘なりき。

 すこぶる好事にて、

「我ならば、おやの遺言、そむきても、遣愛の物をうづめずして家に傳ふべきを。」

とて、常に歎息せしなり。

 予、かつて、そのはかじるしを摺てたり。

「大明國王春庭三官」

と題せり。この文字は次の耽亭[やぶちゃん注:「耽奇會」の会合。]に出だすべし。

   乙酉四月           輪 池

[やぶちゃん注:「王春庭三宮」「三官」は判らないが(字(あざな)や通称にはある)、山崎美成の随筆「海錄」の十五の四百十七に「明歸化人王春庭の事」があり、随筆「道聽」(作者は鯖江侯お雇いの儒者信齋大鄕良則)の三の三十六に「王春庭の碑」なるものがあると、こちらの「随筆索引」PDF。岡島昭浩氏の電子化画像)で判った。前者は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で当該部が確認でき、そこでは「兎園小説」のこの記載を指示しつつ、『且、卜幽軒稿に、王春庭に代りて唐土へ贈る文一篇を載す、そのこと甚奇なり、可併錄』とあり、後者も「道聽塗說」が正式書名で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で活字本でここで読むことが出来、概ねこの本文と同じ内容が記されてある。ただ、作者大郷良則の菩提寺が以下の長応寺であることから、石碑を実見している点で確かなものである。ただ、そこには「三官」の名はない。

「高安」能の流儀の一つ。当該ウィキによれば、ワキ方と大鼓方があり、『ワキ方高安流は金剛流の座付として活動した流儀で、河内国高安の人高安長助を家祖とし、子の与八郎が金剛座の脇の仕手であった金剛康季(後に十世宗家となる)の養子に入って、家芸を興した。その後、初世高安重政(高安寿閑)が金春流のワキ方春藤友尊の女婿となって修行し、流儀を確立した。一説には春藤友尊を芸祖ともし、寿閑によって下掛りの芸風が完成され、本格的なワキ方の家として活動を行うようになったらしい』とある。

「伊東子長應寺」この寺は目まぐるしく日本中を移転した特異な寺で、現在は東京都品川区小山一丁目に現存している日蓮宗の寺であるが、江戸時代には寛永一二(一六三五)年から、ずっと、芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)にあったから、この「東」は誤記か誤判読か誤植と思われる。品川区が作成した「品川区史跡めぐり」のこちらのパンフレットPDF)を参考にした。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代觀音

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]

   ○身代觀音

 善光寺如來の、百姓幸助が身代にたゝせ給ひし事は、あまねく、しる所なり[やぶちゃん注:「百姓幸助身代り如來の事」。]

 享和年中[やぶちゃん注:文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]、淺草觀音の影像、身代の事を、きけり。そのさま、幸助が事に、さも、にたり。

 ある田舍人【名所はよく糺すべし。】、靈嚴寺の塔頭に逗留して、日每に江戶見物にいでけるが、七月中、淺草觀世音にまうで、還向[やぶちゃん注:「げかう」。神仏に参詣して帰ること。]して、新吉原の燈籠を見、かヘり、二更[やぶちゃん注:亥の刻。午後九時或いは午後十時からの二時間を指す。]過ぐる頃、歸路に趣きし所、土手にて、酒狂人、有り。白刃を振り、群集の人々、あわて、さわぎけるに、かの田舍人、あやまちて、刃にあたり、たふれふしたり。

 かたへの人は、まさしく、

「殺害。」

と見たり。當人も、

『きられたり。』

と覺えつゝ、倒れて、氣絕しけり。

 そのひまに、酒狂人は、行方しれず、人々、寄りて、是を見るに、刄傷の樣子にも、なし。

「いづ方の人にか。息たえたれば、尋ねとはんやうもなく、とやせん、かくや。」

と、いひあへる折から、一人がいふ、

「この者、晝のほど、觀音境内の何屋といふ茶店にて、見しものなり。」

と、いひければ、

「いでや。」

とて、駕籠にのせて、其家に、つれ行き、

「いづ方の人にか。」

と問ひけるに、茶店のあるじも、

「あからさまに立ちよりし人なれば、住所もしらず。」

といふ。

「こは、いかゞせん。」

と、當惑しける折から、ふと、いき出でたり。

 よつて、其住所をたづねければ、

「そこそこ。」

と、こたふ。すなはち、深川の旅宿に、つれ行きたり。

 宿坊にては、深更に及びてもかへらねば、

「いづこにか、やどりつらん。」

とて、戶かぎをしめて、ねたり。さるに、曉に及びて、音づるゝにより、さしつる戶をあけて、

「たぞ。」

とゝへば、

「某[やぶちゃん注:「なにがし」。]、歸りたり。」

と云ふ。

「いかにして、おそかりし。」

と、いへば、

「しかじか。」

と答ふ。

「『まさしく切られたり』とおもひしかども、身の内に、きず付きし痕も、なし。」

「さらば、尊き守りにても、かけたりや。」[やぶちゃん注:「守り」は「お守り」のこと。]

とゝへば、

「さる物もゝたず。懷中に有る者とては、淺草觀世音の御影のみなり。」

とて、取り出でゝ、ひらき見れば、不思議なるかな、紙にすりし御影、きれて、有り。

「さては。我が身がはりにたゝせ給ひしならん。」

とて、渴仰の淚、おきあへず、頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、上のくだり、ゑがゝせ、ゆゑよしを、しるして、觀音堂の内に揭げて有りしを、享和年中、檜山坦齋、まのあたり見たりといへり。「今はなし」とぞ。

[やぶちゃん注:「檜山坦齋」(ひやま たんさい 安永三(一七七四)年~天保一三(一八四二)年)は国学者。名は義愼(よしちか)。書画の知識が深く、鑑定に優れ、裏千家の千柄菊旦(ちがら きくたん)に学んで、茶人としても知られた。渡辺崋山とも親しかった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 建治の古碑武市兄弟

 

   ○建治の古碑武市兄弟  海棠庵 記

武州埼玉郡戶が崎村の農家道祖土(サイト)三郞右衞門といふ人あり。こは、余が相知れる友なり。三郞右衞門、過ぎし文化十年癸酉[やぶちゃん注:一八一三年。]の正月、その住居の西なる山をほるとて、大なる杉の丈餘ばかりとも思はるべき根に、掘り當てたり。とかくして、ほり起すこと、六尺あまりにして、忽、古井あり。水、いと淸冷なりけるが、石塔婆めくものをもて、おほひありける。取り上げてきよめみれば、阿彌陀佛供養の碑にして、則、「建治二年丙子十一月日。願主敬白」となん、刻みたる、今を距ること、五百四十年、古木の下に埋もれしも、いく星霜をか、經にけん。そのゆゑよしをしらねばとて、井をば、そがまゝ、又、埋め、碑は藏弃なせしとて、摺りて、贈りぬ。案ずるに、建治は、後宇多帝の御宇、鎌倉惟康親王【北條七代時宗執權たり。】の時に當る。三郞右衞門云、「餘が祖先は道祖土下總守長之とて、惟康親王に屬して、一方の大將たりき。もしくは、供養せられしものにや。そは、その舘の跡さへ、詳ならねば、いかにとも、さだめがたし。」となり。二月の會に、北峯子[やぶちゃん注:「北峯」は山崎美成の号の一つ。]の出だされし多摩郡なる古碑[やぶちゃん注:「武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話」。]と、年號もはるかに、四、五年の違にて、又、掘出せるも十年を隔つるのみ。かくて、同じ武州の内にして、あまりによく似たることのありしも、奇といふべし。

土州候の臣武市兄弟のもの、去りし文政七年[やぶちゃん注:一八二四年。]の秋、父を農民禮作なる者に打たれ、復讐のねがひ立てゝ、侯より、公に告げ給ひ、今年正月、本國を立出しことよし、書けるを、この頃、その藩士より得て讀むに、彼の小田原侯なる淺田兄弟の志に繼くべく思へば、そがまゝしるして、後の忘に備ふ。その本懷を達せん日、また寫し添へて、終始全からんことをまつにこそ。

[やぶちゃん注:「建治」文永の後で、弘安の前。一二七五年から一二七八年まで。なお、碑銘の「建治二年丙子十一月」とあるが、同年十一月は、月の後の方が、西暦ではユリウス暦も換算されたグレゴリオ暦でも一二七七年になる。

「武州埼玉郡戶が崎」現在の埼玉県三郷市(みさとし)戸ヶ崎(グーグル・マップ・データ)。

「道祖土(サイト)下總守長之」変わった姓で興味が惹かれるが、不詳。

「小田原侯なる淺田兄弟の志」個人ブログ「大佗坊の在目在口」の「小田原 浅田兄弟敵討」に、『浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元』(一八一八)年『七月、小田原藩足軽浅田唯助は』、『乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年』、『水戸願入寺領磯浜村祝町』(現在の茨城郡大洗町)『にいた万助を討取った』一件とあり、『浅田兄弟は敵討ちの成功により』、『下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された』とある。

 以下は底本では「今日、申渡事。」までは全体が一字下げ。また、それぞれの上申書の冒頭の肩書は、ブラウザでの不具合を考え、下方を改行した。]

 

   公邊へ之屆書

    松平土佐守家老山内昇之助組付

       一領具足門田力右衞門厄介

          武市善次郞 二十三歲

          同 爲次郞  十三歲

右之者父武市琢八義、當申閏九月九日、土州高岡郡於宮内村百姓禮作致無禮及爭論、禮作義、琢八を棒に而打候處、琢八義、右疵に而、翌十日、相果申候に付、禮作、其村役人共より番人を付置、右之趣、城下へ及、注進候に而、禮作義、番人を散々致打擲、逃去候に付、國内は勿論、隣國迄も嚴敷尋申付候得共、行方相知不申候、右に付、衯[やぶちゃん注:底本の右に原本のものと思われる『本ノマヽ』の傍注がある。]善次郞・同弟爲次郞、御府内幷何國迄も相尋、親の敵打留申度段、願書承屆、仍之見[やぶちゃん注:「これによつてみるに」か。。]、逢次第打留候はゝ、其所之役人等へ相斷可申段申渡候に付、御帳へも披付置候樣致度候、此段以使者申入候。

 十一月

     松平土佐守使者     宮井守衞

 土州候にて被申渡候書付

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人

        門田善次郞事 武市善次郞

        門田爲次郞事 武市爲次郞

右之父敵追放者霊作行方相尋打果申度段、願出、達御聽候處、神妙に被思召、公儀御帳にも付候間、勝手次第可致出達候。且、爲御介補東[やぶちゃん注:「東」では読めない。何かの字の誤記か誤植ではないか?]三拾兩被告下置候、首尾能打果候はゝ、其所之役人へ始末相屆、御作法之通被計、御國幷京、大坂江戶之内、最寄之御屋敷へ可相屆、其節檢使被差立候間、諸事麁勿之振舞無之樣、急度可相心得候。

  正月廿日

 右於御目付方に仰付之

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人 門田善次郞

                 同 爲次郞

右之父之敵追放者禮作行方相尋打果申度願書差出、於江戶御詮義有之候處、鄕士之名前に而者差閊[やぶちゃん注:「さしつかへ」。]候を以、一領具足より御屆に相成、且、本姓武市を唱候樣に仰付候。

公義御帳にも、「一領具足門田力右衞門厄介武市善次郞・同人弟爲次郞」と被付置候。

 右之通彼被仰付、今日、申渡事。

[やぶちゃん注:以下二行は行頭から。]

一京都御築地之内、江戸御曲輪之内、兩山などは可致遠慮、其外、右に準候場所者憚候而可然事。

一禮作病死之趣等、急度相分候はゝ、慥成證據以立戾可申事。

    御差添         足輕 五左衞門

                同   萬十郞

                下番  惣九郞

    御雇御賄方使番          宋平

  文政八年乙酉夏四月朔   海棠庵 錄

日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(1)

[やぶちゃん注:非常に長い(第一巻全部)ので、分割する。語注も、もう、精神的に疲れたので、手取り足取りはやめた。悪しからず。]

 

   ○造釀(さけつくり)

酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず。日本(にほん)にては、「酒」の古訓を「キ」といふ。是れ、則ち、「食饌(け[やぶちゃん注:二字へのルビ。])」と云ふ儀なり。「ケ」は「氣」なり【字音をもつて和訓とすること、例(れい)あり。「器(き)」を「ケ」といふがごとし)。】。神に供し、君に献(たて)まつるをぱ、尊(たつと)みて、「御酒(みき)」といふ。又、「黑酒」(くろき)・「白酒(しろき)」といふは、「淸酒」・「濁酒(だくしゆ)」の事と、いへり。○「サケ」といふ訓儀は、「マサケ」の畧にて、「サ」は助字、「ケ」は、則ち、「キ」の通音なり。又、一名(いちめう)、「ミワ」とも云。是れは、「酒を造る」を「釀(かも)す」といへば、「カ」を畧して「味」の字に冠(かんむ)らせ、古歌に、「味酒(うまさけ)の三輪(みわ)」、又、「三室(みむろ)」といふ枕言(まくらことば)なりと、「冠辭考」には、いへり。されども、「味酒(うまさけ)の三輪」・「味酒の三室」・「味酒の神南備山(かみなみやま[やぶちゃん注:「備」にはルビがない。以下のルビ配置から見て、「び」は前の「み」に吸収されている。]」とのみ、よみて、外に用ひて、よみたる、例、なし。神南備(かみなみ)・三室とも、これ、三輪山の別名にて、他(た)には、あらず。是れによりて、おもふに、「萬葉」の「味酒神奈備(うまざけかみなみ)」とよみしを、本歌として、三輪・三室ともに、神の在(いま)す山なれば、「神(かみ)」といふこゝろを通じて、詠みたるなるべし【「ちはやふる神」と云うを、「ちはやぶる加茂(かも)」「ちはやふる人(うち[やぶちゃん注:「氏(うぢ)」の当て訓。])」と、よみたる例のごとし。】。これによりて、「三輪の神(かみ)」・「松(まつ)の尾の神」をもつて、酒の始祖神とするも、その故なきにしもあらず。又、「日本紀」崇神天皇八年、高橋邑人(さとひと)「活日(いくひ)」をもつて、「大神(おほかみ)の掌酒(さかひと)」とし、同十二月、天王(てんわう)、「大田田根子(おほたたねこ)をもつて、倭大國魂(やまとおほくにたま)の神を祭らしむ。「大國魂」は「大物主(おほものぬし)」と謂ひて、三輪の神なり。されば、爰(こゝ)に掌酒(さかひと)をさだめて、神を祭りはじめ給ひしと見えたり【今、酒造家に帘(さかはた)にかえて、杉をば、招牌(かんばん)とするは、かたがた、其の緣なるへし。】。又、此の後(のち)、大鷦鷯(おほさゝき)の御代(みよ)に、韓國(からくに)より參來(まうき)し、兄曽保利(えそほり)、弟曽保利(おとほり)は、「酒を造るの才あり」とて、麻呂(まろ)を賜ひて、酒看良子(さかみいいらつこ[やぶちゃん注:「い」のダブりは恐らく衍字。])と號し、山鹿(やまか)ひめを給ひて、酒看郞女(さかみいらつめ)とす。酒看酒部(さかみさけべ)の姓、是れより始まる。是より、造酒(さうしゆ)の法、精細と成りて、今、天下日本の酒に及ぶ物なし。是れ、穀氣(こくき)最上の御國(みくに)なればなり。それが中(なか)に、攝刕・伊丹に釀(かも)するもの、「尤も醇雄なり」とて、普(あまね)く、舟車(しうしや)に載せて、台命(たいめい)[やぶちゃん注:貴人の命令。]にも應ぜり。依つて「御免」の燒印を許さる。今も遠國にては諸白(もとはく)をさして、「伊丹」とのみ稱し呼べり。

 

S1

 

[やぶちゃん注:底本からトリミングした(以下同じ)。キャプションは、

 伊丹酒造(いたみしゆさう)

 米あらひの圖

である。]

 

されば、伊丹は、日本上酒(じやうしゆ)の始めとも云うべし。是れ又、古來、久しきことにあらず。元は文祿・慶長[やぶちゃん注:一五九二年から一六一五年まで。]の頃より起こって、江府(かうふ)に賣り始めしは、伊丹隣鄕(りんごう)鴻池村(かうのいけむら)山中氏(やまなかうぢ)の人なり。その起こる時は、纔か五斗一石を釀して、擔(にな)ひ賣りとし、あるいは、二十石・三十石にも及びし時は、近國にだに、賣りあまりけるによりて、馬に負ふせて、はるばる江府に鬻(ひさ)き、不圖(はからず)も多くの利を得て、其の價(あたひ)を、又、馬に乘せて帰りしに、江府、ますます繁盛に隨ひ、石高も限りなくなり、富、巨萬をなせり。繼いで起こる者、猪名寺屋(いなでらや)・升屋と云て、是は伊丹に居住す。舩積(ふなづみ)運送のことは、池田滿願寺屋を始めとす。うち繼いで、釀家(さかや)、多くなりて、今は伊丹・池田、その外、同國西宮・兵庫・灘・今津などに造り出だせる物、また、佳品なり。其の余、他國に於いて、所々、その名を獲(え)たるもの、多しといへども、各(おのおの)、水圡(すいど)の一癖(いつへき)、家法の手練(しゆれん)にて、百味(ひやくみ)、人面(にんめん)のごとく、また、つくし述べからず。又、酒を絞りて、清酒とせしは、纔か、百三十年以來にて、其の前は、唯(たゞ)、飯籮(いかき)[やぶちゃん注:糯米を蒸したりする際に用いる竹製の米揚げ笊(ざる)。]を以、漉したるのみなり。抑(そもそも)、當世、釀する酒は、新酒(しんしゆ)【秋彼岸ころより、つくり初(そ)める。】・間酒(あいしゆ)【新酒・寒前酒の間に作る】・寒前酒(かんまへさけ)。○寒酒(かんしゆ)【すへて、日數も、後程、多く、あたひも、次第に高し。】等なり。能中(なかんつく)、新酒は、別して、伊丹を名物として、其の香芬(かうふん)、弥(いよいよ)、妙なり。是れは、秋八月彼岸の頃、吉日を撰(えら)み定めて、其の四日前に、麹米(かうしこめ)を洗ひ初(そ)める【但し、近年は九月節「寒露」[やぶちゃん注:秋分の後の十五日目、現在の新暦で十月八、九日頃。露が寒冷にあって凝結しようとするの意で、秋の深まりを意味する命名。]前後より、はしむ。】。

[やぶちゃん注:「酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず」中国由来の酒は天が人に与えたものとする「酒星酒造説」。「中国における酒文化の発展と酒市場の現状」(PDF・二〇一四年十月自治体国際化協会・北京事務所製作)によれば、『中国では古来より、酒は天の酒星が作ったという伝説がある。晋の歴史を記した『晋書』の中に「軒轅の右角南三星を酒旗と曰う、酒官の旗なり、宴饗飲食を主る」と、酒旗すなわち酒星に関する記載がある。なお、軒轅も星に付けられた名前である』。『酒旗星の発見は、今から』三千『年近く前に書かれた儒教経典の一つである『周礼』に記載があり、古代祖先はこの星が宴饗を司る星と考えたため、酒旗星という名を付けている』。『唐代の詩人、李白の『月下独酌・其二』に、「天若し酒を愛せざれば酒星天に在らず」と、天がもしも酒好きでなければ、天に酒星という星はなかったであろうという詩句がある』。『また、宋の時代の竇苹は『酒譜』の中で、「天に酒星有り、酒の作らるるや、其れ天地と并べり」と、酒造りは酒星に始まり、天地が誕生するとともに存在したと述べている』とある。

「松(まつ)の尾の神」古来、酒の神松尾神(由来不明。ウィキの「松尾大社」によれば、『松尾大社側の由緒では渡来系氏族の秦氏が酒造技術に優れたことに由来するとし、『日本書紀』雄略天皇紀に見える「秦酒公」との関連を指摘する』。『しかし、酒神とする確実な史料は上記の中世後期頃成立の狂言「福の神」まで下るため、実際のこの神格の形成を中世以降とする説もある』。『それ以降は貞享元年』(一六八四年)『成立の『雍州府志』、井原西鶴の『西鶴織留』に記述が見える。社伝では社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っている』とある)を祀る、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社(グーグル・マップ・データ)。小原隆夫氏のサイト内の謡曲「松尾」に解説に、『この社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれる。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林業を興したが、大宝元』(七〇一)年『に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平』五(七三三)年『に社殿背後より泉が湧き出たとき、『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。社殿には沢山の酒樽が寄進されている。また亀がこの社の神使とされ、松尾山から流れた渓流が「霊亀の滝」となり、霊亀の滝の近くに「亀の井」と名付けられた霊泉がある。酒造家はこの水を持ち帰り、醸造時に混ぜて使うという。また、この水は長寿の水として知られているようで、多くの人がこの水を汲みに訪れているようである』とある。

「鴻池村」兵庫県伊丹市鴻池。]

酒母(さけかうじ)【むかしは、麥にて造りたる物ゆへ、文字(もんじ)「麹」につくる。中華の製は、甚だ、むつかしけれども、日本の法は便(びん)なり。】

彼岸頃、※入定日(もといれじやうじつ)四日前の朝に[やぶちゃん注:「※」は判読不能。底本のここの左頁の五行目四字目。ただ、「もと」という読みから、酒母=「酛(もと)」と思われる。但し、「酛」の字の異体字には見あたらない。見た感じは、「酉」+「指」の崩し字のように見える。後の文に出る「★」の私の注も参照されたい。 ]、米を洗ひて、水に漬す(ひた)こと一日、翌日、蒸して、飯となして、筵にあげ、柄械(えかひ)[やぶちゃん注:「其二」の図の、右側中央の男が持って均すのに使っている長い柄で先が太い櫛状(恐らく五本櫛)になった木製具の名であろう。]にて拌(かきま)せ勻(なら)し、人肌となるを候(うかゞ)ひて不殘(のこらす)、槽(とこ)に移し【「とこ」とは、飯(めし)いれの箱なり。】、筵をもつて、覆ひ、圡室(むろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のうちにおくこと、凡そ半日、午の刻ばかりに、塊りを摧(くた)き、其の時、「糵(もやし)」[やぶちゃん注:次項参照。食べる「もやし」ではない。]を加ふ事、凡そ、一石に、二合ばかりなり。其の夜(よ)、八つ時分[やぶちゃん注:午前二時頃。]に槽(とこ)より、取り出たし、麹盆(かうじふた)の眞中へ、「つんぼり」と盛りて、拾枚宛(づゝ)かさね置き、明くる日のうちに、一度(いちと)、飜(かへ)して、晚景(はんかた)を待ちて、盆(ふた)一ぱいに拌(か)き均(なら)し、又、盆を、「角(すみ)とり」にかさねおけば、其の夜(よ)七つ時には、黄色(わうしよく)・白色(はくしよく)の麹と成る。

麹糵(もやし)

かならず、古米(こまひ)を用ゆ。蒸して飯(めし)とし、一升に欅灰(けやきはい)二合許[やぶちゃん注:「ばかり」。]を合せ、

 

S2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

 其二

 麹釀(かうじつくり)

である。]

筵、幾重(いくへ)にも包みて、室の棚へ、あげをく事、十日許りにして、毛醭(け)[やぶちゃん注:黴(かび)。酒や酢の表面にできる白黴。]を生ずるをみて、是れを麹盆(かうじぶた)の眞中へ、「つんほり」と盛りて後、盆、一はいに搔きならすこと、二度(と)許りにして、成るなり。

2021/08/21

芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二五)年(八) 軽井沢より三通

 

大正一四(一九二五)年八月二十五日・軽井沢発信・東京市小石川區丸山町三十小石川アパアトメント 小穴隆一樣・二十五日 かるゐざはつるやうち 芥川龍之介

 

御手紙拜見仕り候。改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に存候。それから高橋文子女史より來翰、(田端へ)その中に西田さんの手紙も同封しあり。西田さんの手紙には「眞に人物がまじめにて將來發展の天分がたしかならば、今の所少し苦しくとも面白いとも思ひますが」云々の語有之候。いづれ歸京後は君も小生と共に得能さんに會ふ事と相成る可く、その段御覺悟ありて然る可く候。輕井澤はすでに人稀に、秋凉の氣動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日歸る筈、片山女史も二三日中に歸る筈。二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」小生も九月の始めにかへる筈、その頃七十五円を利用し、ちよつと一度御來遊ありては如何(七十五円とはケチ也 百圓くれるかと思つてゐた)但し前にて申上げ候如く既に避暑地情調は無之ものと御覺悟なさるべく候 頓首

    八月二十五日     龍 之 介

   隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭部は、芥川龍之介と小穴隆一の二人句集(各五十句で計百句)の「鄰の笛」の予告広告(公開は大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』)への不快感の表明である。同句集は新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、前月の七月二十七日に編集を開始し、八月十二日頃に編集を終えたとある。恐らく脱稿も、その直後であろう。なお、当該の合同句集については、ブログで『鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)』として公開してある。芥川龍之介はその後、八月二十日夕刻に軽井沢へ発ち、翌二十一日に到着し、前年に避暑したのと同じ鶴屋旅館に、翌九月七日まで滞在した。おかしいとは思わないか? 書面を見ても判る通り、軽井沢は秋の様相を呈しており、避暑するには遅過ぎ、十日もしない間に、友人の室生犀星も、片山廣子・總子母娘も帰京してしまっている(室生は八月二十五日に帰っているから五日だけ、片山母娘は推定で八月二十七日か二十八日の帰京(採用しなかった後の九月一日の軽井沢からの芥川龍之介の室生犀星宛書簡に『片山さんも二十七日か八日にかへつた』とあるのである。これ、帰った日を覚えていないのではなく、犀星に自分の内心が焦がれる如くに穏やかでないことを悟られないためのポーズと言えるのではなかろうか?)で八日ほど一緒だっただけである。これは実は、強い恋情を持ち続けている片山廣子との接触を、龍之介が意図的に避けるための苦渋の決断であったのである。それほど、龍之介の廣子への愁心は、自分で抑制しなくてはならぬほどに、反対に燃え上がっていたのである。

 なお、私はサイトの「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」でも「■書簡13 旧全集一三五八書簡 大正14(1925)年8月25日」として本書簡を電子化注している。そちらも見られたい。そこにも書いたが、この八月二十六日から二十七日の間で(新全集年譜に推定)、龍之介は堀辰雄と片山廣子・總子と追分にドライヴに行っており(運転は恐らく鶴屋主人佐藤不二男)、後に堀辰雄はこの時の経験を、多分、ほぼそっくり、「ルウベンスの僞𤲿」(昭和二(一九二七)年二月号『山繭』初出)に利用している。リンク先に該当箇所を引用してあるので読まれたい。

 そうして、一般の研究者の資料では、これが最後の軽井沢となった、とされるのである。

――しかし、私は実はその後

――自死の年の五月二十四日或いは二十五日から五月二十七日或いは二十八日の三日間若しくは五日間

――芥川龍之介は軽井沢にいた

と考えている。そうして

――彼は片山廣子と逢っていた

と思っているのである。それを元に、私は『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』を書いてサイトで公開している。是非、読まれたい。

 また、芥川龍之介には、この書信を書いた前日八月二十四日(この日に萩原朔太郎が妹のユキとアイを連れて室生犀星を訪ねて来たので、堀辰雄も交えて談話しており、このメモはその直後に書かれたものと推察される)の日録メモが実は存在する。私のサイト版の「芥川龍之介輕井澤日録二種」の「大正14(1925)年8月24日(月)芥川龍之介輕井澤日録〔やぶちゃん仮題〕」を見られたい。但し、これは、岩波版旧全集第十二巻の「雜纂」パートに「〔輕井澤日記〕」という編者の仮題のもとに納められているもので、その後記によると、元版全集では「手帳十二」として納められていたものを、公開を意図したものではない私的日録類として独立させたものである。人物は謎めいて殆んどがイニシャルにしてあるが、一人を除いて完全に実在する人名に還元出来る(その私が作成したリストも載せてある)。そこで「K」とあるのが、片山廣子である。

「高橋文子」筑摩全集類聚版脚注にも、更には、新全集の「人名解説索引」にも載らないが、新全集の翌大正十五年四月一日の条に、『西田外彦』(哲学者西田幾多郎の息子)夫妻と『高橋民子が来訪する。昨年から続いていた小穴隆一と高橋文子(幾多郎の姪)の縁談の件と思われるが、話がうまく進まずに苦慮する』とあるので、判明。正確には、高橋ふみ(明治三四(一九〇一)年~昭和二〇(一九四五)年)である。西田幾多郎記念哲学館の企画展「未完の女性哲学者―西田幾多郎の姪、高橋ふみ―」(PDF・写真有り)によれば、現在の石川県かほく市木津出身で、『母は哲学者・西田幾多郎の妹(すみ)。石川県立第一高等女学校、東京女子大学哲学科を卒業後、東北帝国大学法文学科へ入学。石川県女性として初の学士となります。宮城県立女子師範学校、自由学園などで教師を務めたのち、ドイツへ留学。ベルリン大学在学時には時事通信特派員としてベルリン』・『オリンピックの取材も行いました。フライブルク大学ではハイデッガーの演習に参加。伯父・西田幾多郎の哲学論文を独訳するなどしますが、戦争と病のため』、『帰国。ふるさとで療養し』、『幾多郎の死の直後に』四十三『才の若さで亡くなりました』とある。

「西田さん」西田幾多郎(明治三(一八七〇)年~昭和二〇(一九四五)年)。

「得能さん」哲学者得能文(とくのう ぶん 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。越中国生まれ。明治二五(一八九二)年、東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校(金沢大学の前身)・東洋大学・日本大学・東京帝国大学講師・東京高等師範学校教授を歴任した。四高嘱託教師時代に西田幾多郎の同僚で、学内の内紛で一緒に解雇されていることが、同じく西田幾多郎記念哲学館の企画展「西田幾多郎の就活」(PDF・解雇された際の送別会の二人の写真が有る)を見られたい。

『二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」』新全集年譜では八月二十三日頃と推定している。

「七十五円」『改造』の「鄰の笛」の小穴隆一分の稿料。]

 

 

大正一四(一九二五)年八月二十九日・輕井澤発信・塚本八洲宛

 

その後體は日にまし好い事と思ひます。こちらもお客はもう大抵かへり、宿もがらんとしてしまひました。餘り颱風が來たり何かする故、わたしも碓氷あたりで生埋めにならぬうちに歸ることにしようかと思つてゐます。二三日前文子より手紙參り、オバルチンを送つて頂いた事を知りました。どうも難有う。文子の手紙に曰「自分が病氣にかかつてゐる爲でせう私の事まで氣を揉むで居ると見えます。何となくやしまがかわい(=ノ「ワ」ノ字原文ドホリ)さうになつてしまひました。」文子の爲にも勉强して早く丈夫におなりなさい。目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、こい間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿(シユク)はづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別莊を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツグに近い豪傑です。これが大の輕井澤通(ツウ)で、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勸誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をする事は受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。けふは幸ひ晴天です。しかし雨がふると、セルに袷羽織を重ねなければなりません。桔梗が咲きつくつく法師がなき、あたりの風光はもう殆ど秋です。九月にはひればわたしの外に滯在客は一人もゐなくなるかも知れません。右いろいろ暇つぶしまでに。

               芥川龍之介

   八 洲 樣

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、妻文の弟は結核を患っており、この年の五月と六月には芥川龍之介が彼を転地療養させようと、転地先を自ら探して出向いて調べたりしていた。

「オバルチン」Ovaltine。当該ウィキ(日本版の他、英語版も参照した)によれば、スイスの製薬会社ノバルティス(Novartis International AG)の関連会社ワンダー・アーゲー(Wander AG)が開発・製造する粉末麦芽飲料のブランド。現在、Ovaltineの商標権はイギリスにある多国籍企業アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズ(Associated British Foods plc)が所有している。スイスの化学者で薬剤師のアルベルト・ワンダー博士(Albert Wander 一八六七年~一九五〇年:これはドイツ語版の本人のページを参照した)が配合を考え、一九〇四年に「オボマルチン(Ovomaltine)」の商標で発売された。ラテン語で卵を意味する「Ovum」と英語で麦芽を意味する「malt」を入れ込んだ造語で、元々の主要成分を表わしている。スイス・フランス・ポルトガルなど、国によっては現在も「オボマルチン」の商標が使われているが、成分は麦芽・ココア・砂糖などに変わっている。調整ココアとは異なり、冷たい牛乳にも溶けやすい工夫がされている。一九〇九年にイギリスで製造発売するに当たって、英語として言いやすい「オバルチン」の商標が使われた。アメリカ合衆国では一九一五年に製造が始まり、本邦では昭和一一(一九三六)年頃の雑誌に広告が掲載されており(この部分は不審)、また、カルピス食品工業(現在のカルピス)が販売権を取得し、一九七〇年代から一九八〇年代に販売したが、現在、日本では、一部輸入品を除いて、販売されていない、とある。

「馬をさへながむる雪のあしたかな」松尾芭蕉の最初の紀行文「野ざらし紀行」(「甲子吟行」とも呼ぶ。貞享元(一六八四)年八月、門人苗村千里を伴って、深川の芭蕉庵を出立し、東海道を上って伊勢・伊賀・大和を経て、以後は単独で吉野へ行き、九月下旬に美濃大垣から桑名・熱田・名古屋を経て後、伊賀上野に帰郷して越年し、翌春の大和路を辿って京へ出、近江路から江戸への帰るという凡そ八ヶ月に亙る紀行を題材とした句文集。刊本は元禄一一(一六九八)年の芭蕉撰・風国編「泊船集」に所収されたが最初。掲句は、名句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」に始まる「名護屋に入(いる)道の程(ほど)、風吟ス。」という前書の四句目に、

   *

  旅人をみる

馬(うま)をさへながむる雪の朝(あした)哉

   *

と出るのが初出。熱田での吟である(熱田の閑水邸で熱田連衆とともに巻かれた四吟歌仙の発句)。屋内から街道筋を眺めた体(てい)で、雪中を馬に乗って行き過ぎる旅人の旅愁から、眼目は小さくなってゆく馬の姿へと凝集し、自らが孤独で苦しい馬となっている。名句である。この医学博士は語るに落ちた大阿呆である。病気の八洲を慮って悪口を言っていないが、龍之介はこの医者を心底、軽蔑し、甚だ不快に感じていた。その証拠を示そう。芥川龍之介の例の片山廣子への恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」の「二」にある、

   *

腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。

馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。

   *

の「醫者」がこいつなのだ。こいつが、鶴屋旅館で廣子と一緒にいるところに割り込んでくるのを、龍之介は激しく憎んでいたのだ。私の記事『無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス』がよかろう(あの池内のトンデモ誤謬本はまだ売られているらしいなあ。げっそりだぜぃ!)

 

 

大正一四(一九二五)年八月三十一日・軽井澤発信・芥川比呂志宛(絵葉書)

 

コレハアタゴヤマトイフ山デス。アタゴヤマニハセイヤウジンノベツサウガタクサンアリマス。ソレカラ多加志ニヤツタノハウスヒタウゲノトンネルデス。イマハキクワンシヤハツカズ、デンキキクワンシヤガキシヤヲヒイテヰマス

 

[やぶちゃん注:「多加志ニヤツタノ」私が所持している二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」には、それが表裏ともに写真版で載っている(岩波旧全集に所収いないのは、そもそも書信がないからである)。それは、表書は、上面に(印刷で上部に右から左で「郵便はがき」、「壹錢五厘」切手(消印同月同日)の下に左上を上にして小振りで「UNION POSTALE UNIVERSELLE」、その下に有意に大きく、「CARTE POSTLE」(洒落てるね、フランス語だぞ)と印刷してあるある。

東京市外

田端四三五

 芥川夛加志樣

とあるだけで、下方の罫線下の書信パートは空白である。

Usuibasi

裏は写真絵葉書で、右上の空の部分に右から左で「碓氷トンネル碓氷橋」とあり、その直下に「The Usui Tanal Usuibashi.」と印刷されてあり、下方からのアオリの写真で、トンネル入り口の一部が左の方に見え、三連アーチの大きな橋が架かっている。その橋上に、芥川龍之介が、トンネルから出てきた蒸気機関車が煙を靡かせて客車を四両引いている絵を描き添えているのである(但し、比呂志宛にある通り、当該路線は既に電化されていた)。微笑ましい仕儀であるが、しかし、多加志は大正九(一九二〇)年十一月八日生まれであるから、もう満四歳と九ヶ月であったから、「何か書いてやればいいのに」とも思わぬでもない。ところで、私が現物画像に当たって正確に示した以上の裏(碓氷トンネル碓氷橋の写真)の写真が、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に画素が甚だ粗いが、掲載されていることに気づいた。こちらには、五月蠅い複写禁止の注意書きはない。というより、何度も言っている通り、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解であるので、せめても、龍之介が多加志のために描き添えた機関車のタッチだけでも味わって戴こうと、上に掲げておいた。]

日本山海名産図会 第一巻 造醸 目録・「酒樂歌」の図

 

[やぶちゃん注:これより、残っている冒頭の第一巻に戻って、電子化注を行う。本書全体の標題・見開き・序は最後に電子化する。]

 

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日本山海名産圖會巻之壹

 

   〇目 録

 

  攝刕伊丹酒造(せつしういたみさけつくり)

 

 

             藍江■

[やぶちゃん注:画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングした。非常に雅趣のある竹の絵。「藍江」は本書の挿絵全部を担当している蔀関月の弟子の絵師中井藍江(らんこう明和三(一七六六)年〜天宝元(一八三〇)年)と思われる。大阪出身の画家で、関月に日本画を学んだ。他に詩文を中井竹山に学び、茶の湯も嗜んだ。署名の下に落款があるが、判読不能。但し、藍江の名は「直」又は「眞」であり、その孰れかと推察する。「直」の方がそれらしい。]

 

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[やぶちゃん注:底本からトリミングした。以下、キャプション。]

 

酒 樂 歌(さかほかひのうた)

 

此の御酒(みき)を釀(かも)す人人は、其の鼓臼(つゞみうす)に立てて、うたひつゝ、釀すれるも、舞ひつゝ、釀すれかは、この御酒のみ、

あやに、轉(うた〔[やぶちゃん注:下の「楽」に引かれて「うたた」を脱字してしまったものか。])、楽(たの)し。サヽ

 

[やぶちゃん注:以下は画像の通り、底本では全体が前の文よりも一字下げ。]

 

是れは應神天皇、角鹿(つのか)より還幸(かんかう)の時、神功皇后(しんくうかワウこう[やぶちゃん注:ママ。])、酒を釀し侍りて、いはひ奉り、哥(うた)うたはせ給ふあり。武内宿祢(たけうちすくね)、天皇に代はり奉り、荅(こた)へ申歌なり。是れを「酒楽(さけほかひ)の歌」といふて、後世、大嘗會の米(こめ)、舂くにもうたふと也。

   右、「古事記」。

 

[やぶちゃん注:「古事記」のそれは、原文ではとても私には読み切れないので、加藤良平氏の「上代におけるヤマトコトバの研究論文集」という副題を持つブログ「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の『「酒楽の歌」とは』を読まれたい。驚くべき詳細な解説が載り、およそ、私の如き「古事記」に冥い人間には注を附す資格がないほど凄い。なお、以上の部分は加工データとしているARC書籍閲覧システム」の翻刻(新字)にはないので、総て底本を視認して作成した。]

2021/08/20

芥川龍之介書簡抄126 / 大正一四(一九二五)年(七) 三通

 

大正一四(一九二五)年五月七日・田端発信・赤木健介宛

啓、咋日修善寺より歸京。今朝この手紙を書きます。但し君の宿所がわからぬ故(君の手紙には書いてなかつた)學校宛にして出すことにします。君のやうに感激したり苦しんだりしたものは古來何干萬人もあつたのです。しかしその中から逞しい魂の持ち主になつたものは一パアセントにも足りなかつたのです。これは殘酷な事實ですが、兎に角事實には違ひありません。この事實を目前に据ゑて、君自身の實力をお鍛へなさい。「我笛吹けども汝等踊らず。」笛を吹いてさへ踊らない彼等は笛も何も聞かないのに踊る筈はありません。それを彼等に期待するのは期待する方が間違つてゐます。何を措いてもあなた自身笛の吹けるやうにおなりなさい。その後でなければ「汝等踊らず」の歎を放つ資格は出來ないのです。君はマテリアリストでせう。それならばこそ勇敢にこの殘酷な事實をお認めなさい。カラマゾフを讀んだのは甚だよろしい。小生もカラマゾフをドストエフスキイの作中の第一位に數へてゐます。その外のドストエフスキイの作品も暇があつたら讀んでごらんなさい。それから小生はせつかちな革命家には同情しません。(あなたは若いから仕かたがないが)ブルヂョアジイは倒れるでせう。ブルヂョアジイに取つてかはつたプロレタリア獨裁も倒れるでせう。その後にマルクスの夢みてゐた無國家の時代も現れるでせう。しかしその前途は遼遠です。何萬人かの人間さへ殺せば直ちに天國になると言ふ訣には行きません。あなたはコンミュニズムの信徒でせう。それならば過去數年來、ソヴィエト・ロシアが採つて來た資本主義的政策を知つてゐる筈です。又資本主義的政策を採ることを必要としたロシアの、――少くともレニンの衷情を知つてゐる筈です。我々は皆根氣よく步きつづけなければなりません。あせつたり、騷いだり、ヒステリイを起したりするのは畢竟唯御當人の芝居氣を滿足させるだけです。尤も小生自身にしても、悠々迫らずなどと言ふ大自在は得てゐません。まづ多少役立ち得る齒止めを具へた馬車位の極小自在を得てゐるだけです。しかしまあ餘り癇をたかぶらせずに步いて行きたいとは思つてゐます。あなたも息切れのしない爲にはやはり氣長になる工夫が必要でせう。現に西洋の革命家も存外短兵急ばかりではないやうです。あなたはさうは思ひませんか?

これから每日の仕事にとりかかりますから、この手紙をやめることにします。なほ小生の筆不精は今後あなたに對しても返事を怠らせることが多いかも知れません。それは豫め承知してゐて下さい。以上

    五月七日       芥川龍之介

   赤木健介樣

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版では、宛名を『赤木寿』とする。それが正しいのではないかと思う(以下参照)。ウィキの「赤木健介」によれば、赤木健介(明治四〇(一九〇七)年~平成元(一九八九)年)は詩人・歌人・編集者・歴史家。本名は赤羽寿(ひさし)。青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代(恐らくはこの書簡当時、満二十歳であるから、ここに在学中である)から『アララギ』に投稿、昭和三(一九二八)年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身、昭和七(一九三二)年には「唯物論研究会」に属し、日本共産党に入党したが、翌年、検挙され、投獄。昭和十年に出獄し、渡辺順三らの『短歌評論』に参加したが、昭和一三(一九三八)年、一斉検挙に遭った。昭和十六年に判決が下り、下獄した。この間の昭和十五年に発刊された「在りし日の東洋詩人たち」で第四回透谷文学賞を受賞している。敗戦後の昭和二十年十月に連合軍により解放され、戦後は、「民主主義科学者協会」に所属、翌年、再び日本共産党に入党し、昭和二四(一九四九)年には『アカハタ』編集部文化部長となった。「新日本歌人協会」に所属し、また、雑誌『人民文学』にも関わり、昭和二六(一九五一)年には同編集長に就任した。昭和三一(一九五六)年から昭和五五(一九八〇)年までは、春秋社に勤務した。『左翼として戦後』に『活躍した赤木だが、伊豆公夫』(きみお)『名義で』昭和一七(一九四二)年に出版した歌集「意慾」では、『太平洋戦争開戦を礼讃する「決戦」という歌が掲載されていた。戦後の赤木は』、『古本屋を廻って』は、『この本を買い集め、自宅で焼いたと噂されて』おり、『この』七『首の短歌について』は、『「私の戦時中のレジスタンスの汚点」「終生の汚辱」と』、『のちに述べ』ている。また、昭和二九(一九五四)年に刊行された詩集「スターリン讃歌」の『編集も務めており、同書には、彼の詩も収録されている』とある。

「マテリアリスト」materialist。唯物論者。

「カラマゾフ」「カラマーゾフの兄弟」の注をしようというのではない。あなたも知っている、ある有名な美人女優の愛読書も同書だったことを、あなたは知っているか? と記したかっただけさ! あの全裸で変死した(謀殺された可能性が大)Marilyn Monroe(一九二六年六月一日~一九六二年八月五日)さ!

 

大正一四(一九二五)年五月二十二日・田端発信・麹町區下六番町二十六 泉鏡太郞樣・五月二十二日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省先だつては何とも彼とも言はれぬものを頂戴いたし難有くうれしく家内中にて天下の春を舌の先におしみし次第、何とぞ奧さまによろしくおんつたへ下され度願上候 實は今日拜趨仕る可く存居候所急に下町へ出かける用事出來いたし候ままとりあへずこの手紙をしたゝめ候

   箸あげてしんとんとろりとけふも食へる木の芽草の芽の味のよろしさ

                     頓首

    五月二十二日       芥川龍之介

   泉 先 生

 

 

大正一四(一九二五)年八月十一日(年次推定)・渡邊與四郞宛

 

ウツシ身ハ恙ナケレド汗ニアヘテ文作ラネバナラヌ苦シサ

君ガ讀ミシ高須ノ朝臣梅タニノ議論モヨマズ事ノシゲサニ

サマザマノ氣モチヲ持テバソノ中ニホ句ニスベキヲホ句ニス我ハ

ココニ書ケルハ歌ニハアラズ返リ事ヲ三十一文字ニツヅリタル文

 八月十一日           芥川龍之介

渡邊與四郞樣

 

[やぶちゃん注:短歌でないと芥川龍之介は言っているが、戯歌も総て拾ってきたため、採用した。なお、この凡そ一ヶ月前の七月十二日には、三男也寸志が生まれている。命名は例によって盟友恒藤恭の名を訓読みして漢字を当てたものである。

「渡邊與四郞」不詳。

「高須ノ朝臣梅タニ」文芸その他の評論家高須梅溪(たかす ばいけい 明治一二(一八八〇)年~昭和二三(一九四八)年)。大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。「為替貯金管理所」への勤務から明治三一(一八九八)年に上京し、早稲田大学文学部英文科を卒業。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行し、また、佐藤義亮(新潮社創立者で芥川龍之介とは関係が深い。同社とは、遺書で、死後の全集の刊行の約束を破棄し、岩波に変えたことが知られる)が創刊した『新声』の編集に加わって、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄などがいた。その後、『国民新聞』・『東京毎日新聞』・『二六新報』などの記者を務めた。明治三四(一九〇一)年に刊行した「文壇照魔鏡」では、与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられている。後に明治文学史や水戸学の研究に専念したが、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った(以上は当該ウィキに拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第四集) 七ふしぎ

 

[やぶちゃん注:以下の条は著作堂馬琴のもの(但し、「馬琴雑記」には見当たらないので、吉川弘文館随筆大成版を加工底本とした)。段落を成形した。] 

   ○七ふしぎ

 あやしき事のかさなれるを、俗に「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水[やぶちゃん注:漢字ルビ。])」・「土中の火」・「三度栗」など、他鄕にはなき奇しき事の、七つまで、あればなり。そは、只、越後に限れるのみ。一時、

『怪異の、なゝつまで、かさなる事の、あるべしやは。』

と、かねては、思ひおきてたりしに、寬政のあはひ[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]に至りて、予が視聽を經たるもの、ふたゝびまで、ありければ、けふのまとゐの草紙料に、かきしるすこと、左の如し。

[やぶちゃん注:以上の序は、底本では全体ベタで二字下げ。

『「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水)」・「土中の火」・「三度栗」』たまには、こういう、「昔、やっといて、ほんと! 良かったな!💛!」と思うことがなきゃ、やってらんねえわ! 私のカテゴリ「怪奇談集」の「北越奇談」(越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆)の、

北越奇談 巻之二 七奇辨

北越奇談 巻之二 古の七奇

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート4 其三「鎌鼬」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート5 其四「四蓋波」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート7 其八「湧壷」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート8 其九 「塩井」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート9 其十 「逆竹」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート10 其十一 「即身仏」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート11 其十二 「七ツ法師」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート12 其十三 「八房梅」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート13 其十四 「風穴」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート14 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」)

を、どうぞ!

 以下は行頭から。]

寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]亥年、甲斐國に「七奇異」あり【甲斐に「六奇異」あり。遠江に「一奇異」あり。合して「七奇異」とす。】。當時、ある人の消息に云く、

一、甲州善光寺の如來、當春、二、三月、汗、かき、寺僧兩人づゝにて、日夜、拭ひ候事。

一、甲州切石村百姓八右衞門家の鼠、大さ、身一尺餘、爲猫之聲候事。

一、右村より一里許山に入、石畑村に而、馬爲人話候事、尤、一度切にて、後、無其事。

一、同八日市場村・切石村・荊澤村にて、牝鷄、各、化爲牡鷄候事。

一、同東郡一町田中邊、三里四方許之間、五月、雹、降り、深さ三尺餘、鳥獸、被打殺候事。

一、同七面山嗚御池の水、濁渾[やぶちゃん注:「にごりまぢり」と訓じておく。]候事。

一、遠州豐田郡月村百姓作十郞方の鍬に草生候事、乃、先より三寸、一本枝、十六本、如杉形、三日にて花を開、似櫻花。枝・木・花、共に皆、鍬のかねなり。

[やぶちゃん注:以上の項目が二行に亙る場合は二行目は一字下げ(但し、底本では、二行に亙っているのは、一行字数の関係上、実際にそうなっているのは最後の一条のみである。

「甲州切石村」現在の山梨県南巨摩郡身延町切石(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。富士川右岸。

「石畑村」「今昔マップ」で発見した。

「八日市場村」切石の南の山梨県南巨摩郡身延町八日市場

「荊澤村」富士川の上流の甲府盆地内に山梨県南アルプス市荊沢(いばらざわ)がある。

「東郡一町田中」山梨県山梨市一町田中(いっちょうたなか)。

「七面山嗚御池」「七面山」は山梨県南巨摩郡早川町赤沢のここにある(国土地理院図)。「嗚御池」というのは、地図上で見る限り、東北の尾根上にある日蓮宗敬慎院の「一ノ池」しかないように思われる。公式サイトの記載に、七面大明神がお住みなっている御池とある。但し、「嗚御池」(「なきおいけ」か)という呼称は現在はないようである。

「遠州豐田郡月村」静岡県浜松市天竜区月(つき)。

 以下、クレジットまでは、底本では全体が一字下げ。]

 大人星[やぶちゃん注:不詳。]出づる年は、怪しき事有りといへり。當年、星合、これにあたる、といふ。且、「五穀無實・兵動」と申事に御座候。

 右之外、越後高田、大風雨、人、多、死す。信州松本、大地震之由。

   寬政三年七月

[やぶちゃん注:以下、割注の「なくて、やみにき。」までは全体が二字下げ。]

 這個の一通は、寬政十年の冬、家兄羅文の遺筐中に得たり。解云、唐山の歷史中、必、「五行志」あり。そのこと、漢魏六朝より京房・管給・郭璞等にまじはりて[やぶちゃん注:底本は「まじ」の右にママ注記。「はじまりて」の誤りであろう。]、隋唐の時、いよいよ、盛に、諸子百家の書に至るまで、禎祥妖孽、書せざることなく。禍福吉凶、推ざる[やぶちゃん注:「はからざる」。]ことなし。その不幸にして當れるもの、十に、七、八なり。君子はこゝに於て、愼み怕れ、小人は是において、喋々たり。豈、多端ならずとせんや。もし、房・璞のともがらを、今の世に在らしめて、この寬政の怪異を示さば、渠[やぶちゃん注:「かれ」。彼。]、將これを何とかいはん。しかれどもこの時に當りて、五穀、倉庫に充ち、四境、兵疫の愁をしらず。[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]

 國家の動きなきこと、五嶽をかさねたる如く、四海安靜なること、三春の風なきに似たり。國道あれば、鬼、亦、鬼ならず。妖の盛德に勝たざること、只、寬政中のみならず、二百年來、すべて、かくの如し。仰ぐベし。亦、歡ぶべし【翌年壬子の夏、米穀高直につき、江戸中、「粥をたべよ」と、町ぶれ、有りけり。しかれども、粥をくらふものは、なくてやみにき。】。

[やぶちゃん注:「這個」「しやこ(しゃこ)」と読み、「這箇」とも書く。「這」は宋の俗語で、指示語の「此」(これ)の意で、「これ・これら」。

「家兄」馬琴(本名興邦)には長兄興旨と次兄興春がいたが、孰れも他家に移り、馬琴より先に亡くなっている(次兄の急死は天明五(一七八五)年の実母の門の死後まもなくか)。ここは「羅文」(らぶん)から寛政十年に亡くなった長兄興旨のこと。長兄は俳諧を好み、俳号を東岡舎羅文と称した。

「五行志」独立した書名ではなく、記載内容の呼称で、中国の正史の中の「志」の中の特殊な記載でさまざまな災異とそれについての解釈を記した部分を総称する。「漢書」の「五行志」にはじまる。

「京房」(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。

「管給」不詳。三国時代の占い師であった管輅(かんろ 二〇九年~二五六年)の誤記か編者の誤判読或いは誤植ではないか?

「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。

「禎祥妖孽」(ていしやうえうげつ(ていしょうようげつ))は「めでたいしるし(吉兆)と、不吉なことが起こる前触れ(凶兆)」。

「喋々たり」「てふてふたり(ちょうちょうたり)」。互いに無駄な議論し合ってただ五月蠅いこと。

「多端」物事が(無駄に)煩瑣なこと。多事。

 以下、行頭から。]

 寬政十一年[やぶちゃん注:一七九九年。]己未の夏、江戸馬喰町に、亦、七奇異あり【馬喰町に七奇異あり。岡附鹽町に一奇異あり。合して七奇異とす。】。彼町人等は、予が相識のもの、多かり。當時、その人々に聞ける趣をもて、しるすこと、左の如し。

[やぶちゃん注:「馬喰町」日本橋馬喰町一・二丁目。南東で以下の日本橋横山町に接する。

「岡附鹽町」サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、伝馬塩町・小伝馬下町(後の通塩町)の俗称とし、名の『由来は』、『馬に野菜を積んでくる近郷の者が塩を積んで帰ったため』とあり、現在の中央区日本橋本町四丁目・日本橋横山町・日本橋馬喰町一丁目相当とする。ここのかなり広域

 以下、冒頭の「一」のみ行頭からで、二行目以下は底本では一字さげ。]

一 寬政十一年夏六月、馬喰町なる板木師金八にて、ある夜、あやしき獸をとらへ得たり。そのかたち鼠に似て、常の鼠より、甚、大きく、胸より腹に至りて、虎斑あり。もとも非常の獸なれば、翌日、將て[やぶちゃん注:「いて」。持ち連れて。]まゐりて官府に訴ふ。當時、その獸の名をしるもの、なし。或は「『まみ』ならん」といひ、或は「雷獸にや」といへり。その言、みな、非なり。おもふに、蝦夷鼠の類なるべし。

[やぶちゃん注:「蝦夷鼠」蝦夷に拘るなら、北海道にのみ棲息する複数の動物種を考え得るが、当時の江戸に蝦夷地のそれらが、夏場の暑い時期に、木材や荷の中に迷い込んでやってくるというのは可能性としては極めて低いと思う。だいたい、そうした北海道にしかいない特別な種群に馬琴が詳しかったとも思えず、これは巨大なドブネズミミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus )を指しているのではないかと思う。私は一九六五年前後に家のそばの崖下の溝に尻尾を含めずに有に三十センチメートルはある死にかけた巨大ドブネズミを見たことがある。それは、汚れかも知れぬが腹部の毛が斑を呈していた。殆んど化け物だった。しかし、以下のより詳しい実況記載によれば、オランダ渡り(途中のユーラシア大陸のどこかで手に入れたものであろう)の本邦にいない獣であることが記されている。しかし、生態記載が少な過ぎて、私には同定出来ない。当時のオランダとの通好記録などを見れば、ヒントはあろうが、そこまでやる気は全くない。悪しからず。

 以下は底本では、「一」別項の前まで二字下げ。]

 この事、金八が家の向ひ長屋に、おうな隱居、住めり。ある宵に、行燈[やぶちゃん注:漢字表記は底本のママ。「灯」ではない。]の油を舐ぶる[やぶちゃん注:「ねぶる」。]もの有りけり。此おうな、

『鼠ならん。』

と、おもひつゝ、蚊屋の内より、これを追へども、驚き走らず。

 あやしみて、つらつら見るに、いとおそるべき獸なれば、おうなは、いたく、うち騷ぎて、

「妖怪あり。」

と叫びしかば、板木師金八、その隣人と、もろともに、走り來て、うちに入る程に、件の獸は、はやくも逃げて、金八が家に入りぬ。

 金八等は、又、にぐるを追うて、蠟燭に火をともしつゝ、

『先、そのかたちを見ん。』

とせしに、件のけもの、飛びかゝりて、その蠟燭を啖ふこと、兩三度に及びけり。既にして、けだものは隱れて、竃の下にをり、金八等、はか(相計[やぶちゃん注:漢字のルビ。])らひて、米櫃のからなりしを、橫さまにしつゝ、追ひこめて、やうやくに、とらへたり。後に聞くに、かの獸は、ある人、長崎より求め來て、このごろ家にかひおきたるに、箱鐵網を咬ひ破りて、急に逃げたるなり。しかれども、異國の獸を私に[やぶちゃん注:「ひそかに」と訓じておく。]かひける故にや、とらへられしを知りながら、そのぬしはしらず貌して、終に、いふよし、なかりけり。官府にては、件のけものを、しばらく留めおかれしのみにて、そがまゝ返し給ひにければ、憗に[やぶちゃん注:「なまじいに」。敢えて。]はなちも、やられず、その餌かひ[やぶちゃん注:「ゑかひ」。「餌飼ひ」。]には、日每々々に、油揚の豆腐、十五、六枚を、くらはする事にしあれば、金八は困じ果て[やぶちゃん注:「こうじはてて」。]、後悔しつ、と聞えたり。扠[やぶちゃん注:「扨」(さて)に同じ。]そのゝちは、いかにかしけん。後々までは知らず。

[やぶちゃん注:以下は総て、底本では、条の本文が二行目に亙る場合は一字下げが基本(附記がある箇所は二字下げ)。]

一、同年同月、おなじ町なる布袋屋といふ商人の裏借屋に住める人の女房【その良人の名を忘れたり】、卵を產みけり。これも、「まさしき事なり」と、その隣なる人の話なり。しかれども、卵にはあるべからず。そは「ふくろ子」のたぐひなるべし【布袋屋のうちにて、「袋子」をうみたるも、名、詮、自稱歟[やぶちゃん注:「な、せんずるに、じしやうか」。家主の屋号に洒落たつもりの厭な感じの評言である。]。】。

[やぶちゃん注:奇形胎児であろうか。]

一、又同月、同町壱丁目なる木戶際にて、一疋の牝犬に、二疋の牡犬、同時につるみたり。これを觀るもの、堵[やぶちゃん注:「かきね」。垣根。]の如し。

一、又同月、同町にて、四つになりける小兒、水溜桶におちいりて死にき。

[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]

 こは、商人の店の前におくなる、天水桶といふものなり。夏の日の事なれば、その桶の水、涸れて、なかばゝかりに、たゝへたり。しかるに、その小兒、手にもてる人形を、件の桶におとしゝを、「取らん」としつゝ、あやまちて、さかさまにおちいりしを、あたりに人の見るものなくて、たすけ出さんともせざりしかば、そがまゝに、死したるなり。

「天水桶に入水して、はかなく命をおとしゝは、一奇事なり。」

といふもの、多かり。

一、又、同月、同町に、若き者共の爭論あり。仲人、和睦をとり結ばせて、酒くみかはしなどせし後に、そが相手のもの、湯がへりを、したまちして[やぶちゃん注:「下待ちして」。秘かに待ち伏せして。]、したゝかに斫りてけり[やぶちゃん注:「きりてけり」]。手疵、廿五ケ所なり。この他、手負、猶、あり。

「和睦して後に斫りしは、是もめづらしき事なり。」

といへり【これらの人の名、みな、忘れたり。】。

一、又同月三日、馬喰町と鹽町のあはひなる「三日月井戶」を晒しける日、綱曳のものども、鬪爭して、遂に出訴に及びしに、次の月の三日に至りて、やうやくに和睦しつ。まうしおろして[やぶちゃん注:「申し下(降)して」。互いに、相手に願い出て、取り下げさせて。]、事、をさまりぬ。

[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]

 「三日月井戶」は、井の水中に、板を建てゝ、左右の「しきり」にせしものなれば、そのかたち、半輪のごとし。よりて「三日月井戶」と呼びなしたり。初、この井を掘りしとき、双方の地主、こゝろを合せて、共に雜費を出だしゝに、後に、迭に[やぶちゃん注:「いれかはるに」か。当事者の誰彼が抜けて、他の者と代わったところが。]、不足起りて、遂に鉾盾[やぶちゃん注:「あらそひ」と訓じておく。]に及びしかば、所詮、井をしきらんとて、井の中に界[やぶちゃん注:「さかひ」。]を立て、南なる店子どもは、南のかたなる「しきり」の内の水を汲むのみにして、界の外へ、吊桶を卸すことを免されず。北なる店子も亦、かくの如し。今は、さまでにあらねども、「三日月」の名の高かるに、

「百日咳を愁ふるもの、この井に、しばしば祈るときは、應驗あり。」

と、いひもて傳へて、朝、とくまゐるものゝあれば、井に立てたりし「さかひ木」は、今もなほ、とり除かで、もとのまゝにて有りと、いへり。しかるに、その月、三日のあらそひ、「三日月井戶」より、事、起り、又、月の三日に至りて、和睦しけるも、奇なりといヘり。

一、これも又、おなじ年の夏の比、馬喰町に相隣る岡附鹽町なる旅人宿庄兵衞が客なりける、奧州のたび人鳥海何がし、しばらく江戶に遊歷して、更に又、鎌倉に赴きつゝ、御靈の社にまゐりし折、左の眼、にはかに失けり[やぶちゃん注:「うせけり」。眼が見えなくなった。]。その人、江戶にかへりて來て、庄兵衞等に告げていふやう、

「某[やぶちゃん注:「それがし」。]、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]鎌倉にて、御靈の神を、をがみし折、譬へば、豆を彈くが如く、左の眼中、ハツシと音して痛むこと、甚し。

「こは。いかに。」

と、驚きあわてゝ、神前をまか出つゝ、かくして、雪の下なる旅宿にかへりて、人に見せしに、めのたま(目子[やぶちゃん注:漢字のルビ。])、既に碎けたり。初、かの、みやしろは、何等の神を祭れりとも、しらずして、をがみしに、かくなりて後に、聞けば、『鎌倉權五郞景政を祭る。』と、いへり。故こそあらめ、某は彼景政が眼を射て、答の箭[やぶちゃん注:「とうのや」。応じて射た矢。]に命をおとしゝ鳥海の彌三郞が後裔なり。數ふる年の後にして、某が身に及ぶまで、今なほ、神怒のさがなる、いとおそるべき事なり。」

とて、頻に嘆息したりとぞ。この一條は、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]のころ、件の庄兵衞、予が爲に、いへり。こは「池北偶談」に載せたりける。宋の秦會が後裔秦某、明朝に仕へしとき、みづから、嶽飛を廟に祭りて、血を吐きて死せし事と、日をおなじくして、かたるべし。

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。]

 愚息琴嶺、興繼、この稿本を閱して云、

「景政の神靈、誣ふ[やぶちゃん注:「しふ」。罪のない人を有罪に陥れる。]べからずといへども、彼鳥海生が一眼の瞽[やぶちゃん注:「めしひ」。]せし事、その「風眼」のわざなるべし。大約[やぶちゃん注:「おほよそ」。]、「風眼」の病たる、にはかに、瞳子[やぶちゃん注:「どうし」。瞳。]の破るゝ事、あり。その破るゝとき、必、音あり。譬へば、豆を彈くが如し。渠も病症といふときは、神靈を誣ふるに似たり。又、神罰といふときは、病症に欵ひ[やぶちゃん注:「疑ひ」の誤記か判読の誤りであろう。]あり。この書、本日披講の後に、諸君の批評を聞かまほし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで一字下げ。]

 解云、予、寬政中には、上にしるしゝ馬喰町なる「六奇異」を聞きしのみにて、いまだ、鳥海が事をしらず。後に彼庄兵衞に、その事を聞くに及びて、歲月時日を敲きしに[やぶちゃん注:「ききしに」と訓じておく。]、

「これも寬政十一年夏、四、五月の事なりき。」

と、いへり。しからば、上の「六奇異」と同年同時の事にして、前件は馬喰町第一・第二の町に在り。後の一條は、相摸なる鎌倉にての事なれども、そが旅宿は、これも亦、馬喰町の隣町なり。こゝに至りて、同年同所に、又、「七不思議」ありしを知れり。抑、寬政兩度の「七奇異」、就中、鍬の鐵より花卉を生じ、二牡犬、同時に一牝犬に合したることなどは、もとも奇中の奇といふべし。前記を藏めし[やぶちゃん注:「をさめし」。]家兄は、さらなり、後の「七奇異」をつげ(報[やぶちゃん注:漢字のルビ。])たる人も、多く鬼籍に登るものから、今も、彼町々にて、四十歲已上の人は、記隱したるも、なほ、あるべし。筆錄の際、懐舊に、得、たへず、こゝにすぎ來しかたを思へば、ほとほと、三十許、年なり。

  乙酉夏孟朔𪈐齋老人書于著作堂南窓綠樹深處

[やぶちゃん注:「鎌倉」「御靈の社」とは、現在の鎌倉市坂ノ下にある御霊神社のこと。祭神である鎌倉權五郞景政や、ここで語っている失明事件等については、「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の私の注を見られたいが、私はこの事件については、鎌倉の郷土史研究を始めた十代の終りから、よく知っている話なのである。さらに附言しておくと、ここでは、わざわざ松前藩医員であった息子の興継の見解を直接話法で附しているが、これは馬鹿親父解(とく:馬琴)の息子の知力の巧妙な宣伝行為なのである。しかも、興継がそう言ったというのも、実は馬琴自身がそう考証したことを、息子の手柄として書いた可能性が極めて高いのである。

「風眼」(ふうがん)今の若い連中は知らない病名だろうが、所謂、性病の淋病の淋菌が眼に入ることによって発生する急性の眼疾患の俗称で、盲目になるケースもあった。正式には、淋菌性結膜炎(gonorrheal conjunctivitis)という。感染経路が判らなかったことから、古くは、風や空気が原因で、発症するとされたことから、非常に古くから、この名で呼ばれた。淋菌によって起こる結膜炎であるが、強い眼瞼及び結膜の腫張と、大量の膿様眼脂(目ヤニ)を伴い、病変は、しばしば角膜にも達し、角膜穿孔を起こし、或いは白い癒着白斑を残す。耳前リンパ節は疼痛を伴い、腫張する。潜伏期はごく短く、数時間から三日程度で突然、発症する。私は医学書で感染した幼児の古い写真を見たが、両目の瞼が卵大に腫れていた。この病気は、高校時代に保健体育の授業で高齢の男の先生が詳しく説明して下さったのを、昨日のことのように記憶している(四十九年も前なのに)。「淋菌がどうして眼に入る?」ってか? 銭湯さ! 近代以前の銭湯(江戸では「湯屋(ゆうや)」と呼んだ)湯の温度が低く、しかも、湯の入れ替えも杜撰で、非常に汚れていた。「あやしき少女の事」で注したが、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、湯が汚いことは入っている客には、まるで判らなかったのだ。而して、四角い湯舟の場合、温度が下がり、しかも細菌類が集まり易いのは、内側の角の部分だった。大人ならば、そこに顔をつけることはまずないが、子どもは、違う。そして淋菌が眼に入ったのだ(授業では先生は湯舟の図を描いて細かく説明されていた)。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。

「宋の秦會」「秦檜」(一〇九一年~一一五五年)が正しい。南宋の宰相。金との講和を進め、和議を結んだが、その過程で、岳飛(一一〇三年~一一四二年)ら抗金派の政府要人を冤罪を負わせて謀殺した。

「𪈐」音「ライ」。鳥の名という以外に情報なし。「𪈐齋」は馬琴の号の一つ(「只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注」を参照されたい)で、この最後の端書は、「文政八年乙酉(一八二五年)の夏の孟朔(旧暦四月一日)、𪈐齋老人が著作堂として書いた。南の窓の綠樹の深き處にて。」という意味であろう。]

2021/08/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) むじな・たぬき 猫虎相似附錄 猫虎相似の批評 / 第三集~了

 

[やぶちゃん注:底本標題は「むじなたぬき」で「・」はない。太字は底本では傍点「ヽ」。段落を成形し、直接話法を改行した。]

 

   ○むじな・たぬき    海棠庵 記

 ある人のいふ、

むじなたぬきは、雌雄にて、雌をむじなといひ、雄をたぬきといふ。」

と、かたりき。

 されど、さだかならぬことにて、いと心得がたく思ひしに、このごろ、羽州由利郡の農民與兵衞といふもの、來にけり。[やぶちゃん注:「由利郡」は「ゆりのこほり」。出羽国にあった郡。現在の由利本荘市、及び、にかほ市の全域と、秋田市の一部に相当する。この中央の南北附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 この與兵衞は、むかし、獵人[やぶちゃん注:「かりうど」。]にて、南部より出づるといふ免狀てふものまで所持して、をさをさ、巨魁なりしと、聞えければ、まねきよせて、むじなたぬきまみなど、問ひしに、答へていふ、[やぶちゃん注:「巨魁」「きよくわい(きょかい)」。荒々しい猟師集団の中でも頭目・親分格と畏敬された存在であったことを言っている。]

むじなたぬきまみ、皆、よく似たるものなれど、各[やぶちゃん注:「おのおの」。]、別種にて、みな、雌雄あり。まみむじなとは、毛いろも、肉の肥えたるも、わきがたきまで、よく、似たり。只、その別なるところは、まみは四足ともに、人の指の如く、方言に熊の『あらし子』【落胤といふが如し。】といふ。むじなは四足犬に類す。狸は、あくまで、瘦せて、胴のわたり、長し。やつがれ、十七歲より山がつの業になれて、はや、六十餘歲に及び、獸の事は、よく知り侍る。」

など、かたりぬ。

 「和名鈔」にも、「狢」・「狸」・「猯」、おのおの、わかちあれば、

『「むじな」・「たぬき」、雌雄なり。』

といふ俗說は、固より、とるには足らねど、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]曲亭ぬしの「まみ考」の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]もあれば、そゞろに聞きしまゝにしるすのみ。

[やぶちゃん注:以下の海棠庵の署名までは、底本では全体が二字下げ。]

 彼[やぶちゃん注:「かの」。]與兵衞いふ、

「熊に『つきのわ』とて、咽喉の下に白き毛あり。形、月の輪の如くなれば、しかいふ。」となん。さるに、そのつきの輪に不同あり。圓なるあり、半輪あり、纖月[やぶちゃん注:「ほそきつき」と訓じておく。]のごときあり。また、『つきのわ』のなきあり。こは、その熊の生るゝ日、十五日なれば、輪圓なり。晦日なれば、輪、なし。餘は月の盈缺[やぶちゃん注:「みちかけ」。]によりて准知すべし。」[やぶちゃん注:「准知」(じゆんち(じゅんち))は「或る対象・状態を目安にして他のものを理解すること」を指す。]

といふ。一奇事なり。[やぶちゃん注:底本でもここは改行している。]

 佛庵老人の云、

「日光鉢石町の人の話に、『黑猫にも、月の輪めきたるものありて、月の盈闕[やぶちゃん注:同前で読む。]によりて、あると、なきと、あり。』と、かたりしが、今、熊の事につきて思ひ出だしぬ。」

と、かたられき。[やぶちゃん注:「鉢石町」「はついしまち」と読んでおく。現在の栃木県日光市の中鉢石町(なかはついしまち)。日光東照宮参道前の大谷川右岸のメイン・ストリート周辺。]

  乙酉三月         海 堂 庵

 

[やぶちゃん注:前の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に 「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (1)』及び「同(2)」を参照されたいが、そこでもはっきりと示した通り、私は、

本邦の「狸」は、

亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である)

であり(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)」を参照)、

「狢(むじな)」と「猯」は、孰れも、

本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 

でよいと述べた。この見解は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」、及び、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」、更に、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 (くわん) (同じくアナグマ)」もご覧になれば、お判り戴けると思うのだが、少なくとも、江戸前期から、殆んどの本草学者でさえも、これらをずっと、別個な生物種と誤認し続けてきたのである。いや、近代に至っても、大正一三(一九二四)年に栃木県上都賀郡東大芦村(現在の鹿沼市)で発生した狩猟法違反事件「たぬき・むじな事件」(リンク先は当該ウィキ)に見るように、専門の狩猟者でも、「タヌキ」と「ムジナ」は別種という弁別混乱(法律用語で「事実の錯誤」)が平然として「あった」のである。因みに、

私の以上の見解は、この事件の大審院判決(無罪)の「狸」=「貉」規定とは異なる

のである。何故か? 大審院の判定は「貉」が全国に於いて一律にタヌキの別名であったと認定しているのではなく、当該事件に於ける被告の個別認識に於ける錯誤を指摘するために持ち出した非民俗学的・非動物学的な個別事例判断に過ぎない、と考えているからである。私は、

近代以前の「狸」がイコール「貉」「狢」であったとは全く考えていない

のである。言おうなら、民俗学的には、

「小泉八雲の名編“ MUJINAを読んで、あなたはこの巧妙に人を化かした相手が「狸」=ホンドタヌキだと自信を持って名指して言えるか?」

と私は問いたいのである。則ち、

「貉」「狢」には、そうした妖獣としての得体の知れない仮想動物像が、非常に古くから有意にダブってしまっており、その正体を外延へと致命的に浸潤させてしまっている

と考えるのである。この場合、

「外延」とは、まさしく似て非なる動物であるニホンナマグマのことを私は指している

のである。さればこそ、グチャグチャ同義文字をクロスして指摘せずに、

『「狸」のみを真正のホンドタヌキとし、その他は総てニホンアナグマであると疑え。』

というのが、最も誤謬・誤認を起こしにくい言説(ディスクール)と心得ているからである。

「熊」「月の輪」食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)の胸部の三日月形、或いは。「V」字状の白い斑紋は、この斑紋が極薄くて有意な形に見えない場合や、全く斑紋がない個体さえもいるので、ここでの変異の話は、何ら驚くに値しない。因みに、北海道に棲息するクマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis の頸部や前胸部に、長方形や縞状に白色帯がある個体がおり、現代でも、そのヒグマを「月の輪」と呼ぶことを知っている人は、それほど多くないと思うので、追記しておく。

「南無佛庵」書家中村仏庵。既出既注

『「和名鈔」にも、「狢」・「狸」・「猯」、おのおの、わかちあれば』一部を既に出したが、別々に示すのが面倒なので、ここで一括して示す。源順の「和名類聚抄」(「鈔」とも書く)の巻十八の「毛群部第二十九」・毛群名第二百三十四に、先に、

   *

狢(ムジナ) 「說文」に云はく、『狢【音「鶴」。「漢語抄」に云はく、『無之奈(むしな)』。】は、狐に似て、善く睡むる者なり。

   *

があり、「野猪(クサヰナキ)」を挟んで、以下二つが並んで出る。

   *

狸(タヌキ) 「兼名苑」に云はく、『狸【音「𨤲」。和名「太奴木(たぬき)」。】は、鳥を摶(うち)て粮(らう)と爲す者なり。

猯(ミ) 「唐韻」に云はく、『猯【音「端」。又、音「旦」。和名「美(み)」。】は、豕(いのこ)[やぶちゃん注:猪。]に似て肥えたる者なり。』と。「本草」に云はく、『一名「獾㹠(くわんとん)」【「歓」・「屯」二音。】』と。

   *

 以下は、目録では「猫虎相似附錄 好問堂」とするもの。]

 

 美成云、右佛庵翁の黑猫と熊と似たる話、世人のかつてしらざる事にて、いと珍らし。又、猫と虎とは、形狀も、よく似て、歌にも猫を「手がひの虎」など、よめり。しかるに、その所爲も亦、おなじき事あり。「無寃錄」【卷下八十二丁。】云、『虎咬死』云々。『一云。月初咬頭頂。月中咬腹脊。月盡咬ㇾ足。猫咬ㇾ鼠亦然。』。これら、うきたることにあらず。奇といふべし。

[やぶちゃん注:「手がひの虎」「手飼ひの虎」。飼猫のこと。「古今六帖」の「第二 山」に、

 あさぢふの

     をののしのはら

   いかなれば

     てかひのとらの

          ふしところみる

   *

とある。

「無寃錄」(むゑんろく)は元の司獄官王与が一三〇八年に編述した法医学書。同系の専門書は既に南宋の理宗の撰述になる「洗冤録」(一二四七年)や、同時代の「平冤録」があったが、本邦ではこの「無冤録」が最も読まれた。特に元文元 (一七三六) 年に河合甚兵衛がこれを抄訳して「無冤録述」を著わし、これが明和五(一七六八)年に刊行されて以来、明治三四(一九〇一)年頃まで、再三、増刊され、死体検案などの実地面でのマニュアル的書物として広く活用された。「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで、嘉永七(一八五四)年版の状態の非常にいいものが視認でき(67コマ目)、そこでは読み下してあるので、それを参考に以下に訓読しておく。因みに、「虎咬死」は標題で、「ココウシ」と読みが振られており、大陸には虎がいるので、それに咬まれて死んだ遺体検分が原書らしく、上記訳本では、「此方ニハ虎ハ無キモノナレ𪜈熊狼の類ノ猛獸ニ害セラレタ時ノ考ニモ成ベキモノナレハ此ニ譯ス」とある。則ち、虎が、人間のどの部分をいつ噛むかという末尾に附言した一説である。一部で字を補足・変更してある。

   *

一つに云はく、「月の初めには、頭(かしら)・頂(いただき)を咬み、月の中比(なかごろ)には腹・脊を咬み、月の末には足を咬む。猫(ネコ)の人を咬むも、亦、然り。

   *

 以下は、目録では「猫虎相似の批評 著作堂」とするもの。]

 

 解云、象と熊とは、その膽、四時にしたがひて、その在る所の異なるよしさへ、古人、辯じおきたれば、右の「月の輪」の說なども、ことわり、或は、さるよし、あらん。しかれども、猫と熊とは、おなじかるべくも、おぼえず。めのをんなの、わかゝりし時、好みて黑猫をかひしこと、年ごろをふるまゝに、その年々にうませし子も、多くは黑猫なるをもて、これらのうへは、予も、よく知れり。しかるに黑猫每に、胸のあたりに月の輪めきたるもの、あるにあらず。稀には、あるもあれど、そは黑白のぶちなれば、熊の月の輪に類すべからず。いかにとなれば、熊はすべて雜毛なく、猫には雜毛多ければなり。かゝれば、鉢石なる人の說も、ひたすらには、うけがたく、「無寃錄」に載せたる說も、必と、すべからず。虎は皇國になきものなれど、猫の事は知り易かり。大約、猫の鼠をとるに、必、先、その吭(ノドブエ)を拉きて[やぶちゃん注:「ひしきて」。ひしぎて。噛んで押し潰して。]半死半生ならしめつゝ、弄ぶこと、半時ばかり、既に啖はんとするにおよびて、必、鼠の頂より啖ひはじめて、扨、全身を盡くすものなり。或は巢たちせし雛鼠などをば、只一口にくらふこと、あり。或は、多くとり得し時、又は、大鼠にして、飽く時は、その

頭頂より啖ひはじめ、その足より啖ふことは、絕えてなし。こは予が、さかりなりし時、凡、はたとせあまりの程、いくたびとなく見し事なれば、遠く書をあさるに及ばず。もし、疑ふ人もあらば、ためし見て、予が言の誣へざる[やぶちゃん注:「しへざる」か。欺いていない。]を知りねかし。

[やぶちゃん注:以下の一段は底本では全体が一字下げ。]

 附けていふ、猫の純黑なるものは、尤、得がたし。その純黑と見えたるも、その毛をわけてよく見れば、必、白き「さし毛」あり。よしや、「さし毛」なきものは、或は、その爪の白く、或は、あなうらの白きあり。かの藥劑に用ふといふ眞の純黑の得がたきこと、かもの如し[やぶちゃん注:「がもの(の)ごとし」。「求めても、まず、手に入らないから、意味がないので、同じように無意味ことだ。」の意か。]。かゝれば、黑猫の胸の白きは、偶然たる「ぶち」にして、熊の月の輪と異なり。

[やぶちゃん注:「象と熊とは、その膽、四時にしたがひて、その在る所の異なるよし」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 象(ざう/きさ) (ゾウ)」に「象の膽〔(きも)〕【苦、寒。微毒。】目を明らかにし、疳を治す【其の膽、四時に隨ふ。春は前の左足に在り、夏は前の右足に在り、秋は後ろの左足に、冬は後ろの右足にあるなり。】。」とあり、また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)」に「膽、春は首に近く、夏は腹に在り、秋は左足に在り、冬は右足に在る。」とある。

 次の一行のみ行頭からで、後は全部が一字下げ。]

 

 木村默老云ふ、

 「熊膽、四時によりて、其在所をことにす。」と云へるは、聊、受けがたし。小子も初、「本草綱目」抔を見て、

「信なり。」

と存ぜしに、後に隣國阿波祖谷[やぶちゃん注:「いや」。]の深山中、久保と云ふ所の獵師八郞なる者、小子が宅ヘ一隻の熊を、一昨日、鐵砲にて打ちたるを、齎來て[やぶちゃん注:「もたらしきたりて」。]、安達了益と云ふ醫と、同時にて解體せしめて、膽をも獲たり。其時は秋なりしが、膽の在所、本草の如くには非ず。猶、右の八郞も疑問せしに、

「是迄、おのれ等が取りたる熊に、四時によりて、膽の在所かはることは、覺えず。」

と答へき。

 且、其以前、是も祖谷より齎來りし熊を、高原通玄なる醫、解體せし事あり。是も、膽の在所、替はることなし。故人の說、いかゞにか。

[やぶちゃん注:正直、最後の木村氏の部分だけが正当で、私には他の前の記載は悉く、「どうでもええわ!」って感じやね。

「阿波祖谷の深山中、久保」現在の徳島県三好市東祖谷久保。]

ブログ1,580,000アクセス突破記念 梅崎春生 流年

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年九月・十月合併号の『小説界』に初出。単行本には未収録。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 誤解があるといけないので、若い読者のために断っておくが、本作品内の短い冒頭部分での時制は戦前で、「高校」は旧制高校である。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、つい数秒前、1,580,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021819日 藪野直史】]

 

   流  年

 

 椎野貫十郎は二十歳のときに初恋をした。彼が田舎の高校生のころで、相手は下宿のとなりの家の女医学生であった。思いはだんだんつのって、ついにはその女医学生の姿をちらと見るだけでも、彼は緊迫感のため全身から汗が流れ出るようになった。どうにかしなければならない、と若い貫十郎はかんがえたが、どうにもいい方法が思い浮ばなかった。恋文を書くには文章に自信がなかったし、往来でいきなり話しかけるには、失敗して元も子もなくなる危惧(きぐ)があった。そして彼はやっと彼らしいひとつの方法を思いついた。それは自分の戸籍謄本を女に手渡すことであった。自分がこういうものであるということ、決して怪しいものでないということを、この行為は示すだけでなく、それ以上に、ふかい信愛の念を女に伝えることができるものと、彼は信じた。自らの出生の経緯を知らせること、しかも権威ある公の書類によってそれを示すことほど、適切な信愛の表現が他にあるだろうか。

 そして彼はある夕方、封筒に入れた戸籍謄本を、隣家の門口で女医学生に手渡すことに成功した。門燈をかすめて蝙蝠(こうもり)が飛んでいて、女医学生はどこからか戻ってくるところだった。彼女は不審気な顔でそれを受取ったが、貫十郎はその瞬間、非常に重々しいものが自分を満たしてくるのを感じた。小走りで家の中に入ってゆく女を、彼はへんに緊張した、すこし傲(おご)りの色をうかべた表情で見送っていた。女の姿が見えなくなると、彼は気負ったような、また幾分さびしそうな歩き方で、自分の家にもどってきた。

 しかしこの恋愛は失敗に終った。

 女医学生に手渡した戸籍謄本が、いつの間にか、彼の保証人の教授に回送されていて、彼はその教授に呼びだされて、散々注意をうけたのである。そのあとで教授は、すこし顔をゆるめて、それにしてもどういうつもりであんな物を渡したのか、と彼に訊ねた。自分の気持をうまく説明できそうになかったから、両掌を膝につぎ、うなだれて彼はだまっていた。

 それで彼は女医学生のことはあきらめた。やはり嫌われたのだとは思ったが、あの行為によるためだとは思えなかった。彼はときどき鏡を出して、自分の顔をうつしてみた。色白な顔に、眉毛が茫々とふとく映っていた。眉毛の色は濃いというのではなかった。うすく、幅ひろく、眼の上にかかっていた。この眉の形が、彼のきわだった特徴になっていた。上下を剃りこんで細い眉にすれば、いい形になるかも知れないとも思ったが、彼はそうしなかった。彼の父親も祖父も、同じ眉毛をもっていた。祖父の例をみても、この眉毛は白毛になると見事になるのであった。

 それから十数年経(た)った。兵隊にとられたり、色々なことがあったりして、彼はもう三十歳をこしていた。古本屋をひらいて、その主人になった。初恋のことなど、遠く彼の脳裏からうすれかかっていた。あの頃からみると、身体もすこし肥り、世の中のこともあれこれ判るようになった。店頭に坐っていると、すくなくとも四十歳以上には見えた。まだ独身で、兵隊にいた頃から、酒をすこし飲むようになっていた。酒もべつだん種類をえらばなかったし、場所もどこでもよかった。店を閉じると、彼はよく行き当りばったりに、飲屋に入って飲んだ。酒の量は多くなかったが、酔うと低声で歌をうたう癖がついた。それも歌おうとおもって歌うのではなく、自然と文句が唇に出るからであった。歌は古い歌にかぎられていた。明治時代の、「ああ世は夢か」とか「妻をめとらば」とか、唇にのぼるのはそんな歌詞ばかりだった。それらは皆、子供時分に、家にいた老婢が彼に教えた歌であった。[やぶちゃん注:「ああ世は夢か」サイト「心に残る家族葬」のこちらが異様に詳しく音源動画もある。聴けば、「ああ、あれか。」と誰もが知っているメロディである。原曲は「美はしき天然」或いは「天然の美」という題で、小・中学校で盛んに歌われていた唱歌である。明治三五(一九〇二)年に発表され、作詞は国文学者で詩人の武島羽衣、作曲は佐世保海兵団学長を務めた田中穂積である。但し、この曲の再ヒットが超弩級の猟奇事件(犯人は野口男三郎)と関係があるので、読まれる際には自己責任でお願いする。

「妻をめとらば」「人を戀ふる歌」。与謝野鉄幹作詞・奥好義(おく よしいさ)作曲。通称「若き支那浪人の歌」として、明治・大正・昭和の初期にかけて、特に学生たちを風靡した愛唱歌である。歌詞とミディ音源がこちらから手に入る。]

 彼が民子を初めて見たのも、そんな飲屋の一軒であった。民子は細い身体にゆるやかな上衣を着て、料理場から酒をはこんだり肴(さかな)を持ってきたりしていた。焼跡にたてられた貧しい構えの造りで、軒にあげられた看板は、去年の大風で曲ったままになっていた。二坪ほどの土間で、壁には「氷アズキ」「氷イチゴ」などと書いた紙が剝がれかかって揺れていた。古本市の帰りに、彼は偶然そこに寄ったのであった。

 どこかで見たような顔だと、ちらちら民子を眺めながら飲んでいたが、丁度(ちょうど)二本目を飲み終えたとき、貫十郎は突然おもい当った。それは十数年前の、あの女医学生に似ていたのである。顔立ちの、また身体つきの、どこが似ているというのではない。ただ、ある感じが、この女の身のこなしにあらわれていて、それが彼の胸のなかで、女医学生の記億と突然つながったのであった。思いがけないことだったので、彼は思わず盃(さかずき)をおいて、女の動きをみつめた。料理場に通じるのれんの処に、女はかるく腕を組んで立っていた。ゆるく束ねた毛髪が額にななめにかぶさり、いくぶんきつい感じの眼が彼を見下していた。うすい肩が、裸電燈の光のしたで、稚(おさ)ない影をつくっていた。その感じを胸に手探るように、彼はちょっと瞼を閉じたが、すぐ眼をひらいて、卓を指でたたいた。そして新しくお酒を注文した。新しい酒がくると、それを盃に受けながら、彼は女に聞いた。

「名前は、何というの」

「民子」

 澄んだ、抑揚のない肉声であった。その感じを耳にたしかめながら、彼はかさねて訊ねた。

「そして歳は?」

「十九よ」

 そう言って民子は笑った。断ち切るようなごく短い笑い声であった。あまり短い笑いなので、さげすむような感じが伝わった。徳利をおくと、そのまま民子は彼から離れた。

 十九といえば、あの女医学生もそうだった、と彼は思いながら、民子の方をちらちらと眺めていた。むこうの方の椅子にもたれて、民子は無関心な横顔をみせていた。ときどき立ち上って、料理場へ入ったり、何かもって出てきたりした。光線が民子の顔にかげる具合で、ひどく子供っぽい表情になったり、高慢そうな印象になったりした。灰色がかったゆるやかな上衣で、袖は肩のところでひろく断ちおとしてあったから、ふとしたはずみに鳶色(とびいろ)の脇毛が見えた。女医学生の俤(おもかげ)は彼の記億から消えていたが、あの時の自分の感じは酔いとともに強く、彼の身体によみがえってきた。

 いつもの色のわるい顔が、酒とともにうす赤くなって、幅のひろい眉を動かしながら、彼は盃をなめたり、民子の方をながめたりした。

 いつもより余計酒がはいったが、身体が熱っぽくなるだけで、ほんとに酔ったような気持にはならなかった。そのくせ、眼はちらちらして、帰途を彼はよろめきながらあるいた。その夜、彼は寝つきが悪かった。寝がえりをうつたびに枕が鳴って、いつまでも眠れなかった。

 

 三日経って、彼はその店にふたたび行って酒を飲んだ。それから二日して、また行った。その翌日も、すこし早目の時刻に出かけていった。

 客はまだ誰もきていなかった。なんとなくあたりを見廻しながら彼はいつもの卓にかけた。酒をもってきた民子が、ふと驚いたように言った。

「あら。ほこりのような臭いがするわね。あなた」

 彼は民子の顔を見上げた。民子の顔は無邪気な笑みをきざんで、へんに平たく見えた。

「古本の臭いなんだよ」

「あら。本屋さんなの」

 民子は壁側の椅子にかけて、小指で髪をかきあげる仕草をした。指は細く反って、透き通っていた。

「私も本は好きなのよ。毎晩読むわ」

 赤い造花を頭につけていて、それが民千を子供っぽくみせた。あたりに残った黄昏(たそがれ)の色のせいなのかも知れなかった。盃をふくみながら、彼はぽつりぽつりと話を交した。彼が自分の店の場所を話したとき、民子は短い声をたててそれをさえぎった。

「知ってるわ。曲角から二軒目の家でしょう。ああ。あれがあんたの店なの」

 民子の口調が急になれなれしくなったように思ったが、彼はむしろ荘重な顔になって黙っていた。自分の店さきに、この民子を坐らせることを、ふと彼は思っていたのである。そうするとある重々しいものが、胸を満たしてくるのを彼は感じた。彼はしばらくして言った。

「読みたかったら、貸してあげるよ」

 民子はまた短い笑い声をたてた。この笑い方は彼女の癖であるらしかった。笑い声が急に断(き)れると、民子はかなしそうなぼんやりした顔になるのであった。

 この感じなんだな、と彼は思いながら、つめたくなった酒を唇にはこんだ。女医学生の俤(おもかげ)も、十数年来彼の胸に死んでいたが、このようなかなしそうなぼんやりした感じだけは、確実に尾を引いて彼にのこっていた。民子を見て、似ていると感じたのも、このせいに違いなかった。すると身体が裏がえしになるような遙かな感じが、遠く彼におちてきた。

 逢(あ)うたびにだんだん苦しくなる、と帰り途(みち)に彼はかんがえた。店にいる間は心のどこかが緊張して、すっかり酔い切れない感じなのに、外に一歩出ると酔いが一時に廻って、ひとつことばかり彼は考えているのであった。

「妻をめとらば才たけて……」

 低声でそんなことをぶつぶつ呟(つぶや)きながら、彼はよろよろ歩いた。この五六日、夜の眠りが浅くて、酔いがひどくこたえるのであった。さっき店の中で、この歌を口吟(くちずさ)んだとき、民子がそれを笑った響きが、なお彼の身体にのこっていた。彼の酔態をさげすむような響きも帯びていたが、それはむしろ彼に快よい韻律(いんりつ)となって残っていた。――自分の心が民子にとらえられていることを、彼はそのとき確実に知った。

 

 民子を妻にむかえて店頭に坐らせることを、彼は本気で空想しはじめていた。その気持は一日一日強くなった。

 民子の店へは、彼は一日おき位に出かけて行った。酒をのみながら、ちらちらと彼女を眺めたり、ときには話をしたりした。そして民子の挙止や話し振りを、その度に印象にとどめた。民子の話し振りは、気易くなれなれしい時と、妙に高慢な感じがする時とがあった。またそのふたつを、同時に感じさせる場合もあった。それは民子がまだ稚ないせいだと、彼は思ったりした。民子の内部がまだ熟していなくて、それがそんな形であらわれるものらしかった。――民子の顔もなにか不均衡で、美人とは言えなかった。眼はかたく強すぎたし、顎(あご)のへんが野卑な感じさえうかべていた。それにも拘らず、その全体として民子はつよく彼を引きつけるようであった。引きつけられている自分を理解できないまま、彼は彼女の店にかよっていた。そうしてだんだん彼はくるしくなってきたのであった。

 自分の気持を民子につたえようと考えると、彼は高い飛込台から青ぐろい海を見下すような気分におそわれた。このような甘い切なさは、十数年来彼の情感のなかに死んでいたものであった。古本屋の店に坐っているとぎも、彼はぼんやりして、民子の細い身体のことなどを考えていた。しかしそれを抱く自分は、想像のなかで実感はなかった。彼はときどき店頭にかけられた鏡を横目でにらんだ。幅広い眉をもった肥った顔が、鏡のなかから彼をにらみかえした。中年という言葉がいちばんぴったりするような顔だと思うと、彼はなにかあせる気持で胸がいっぱいになった。そして古雑誌をよみふけっている若い店員を意味もなく叱りつけたりした。

 ある朝、店を店員にまかせて、彼は身仕度して出て行った。区役所の建物の前にくると、立ちどまって入って行った。そして三十分経って出てきたときは、右手に戸籍謄本を持っていた。

 その夕方、彼は民子の店の卓にひとりで坐っていた。客はまだ誰もきていなかった。徳利をもってきた民子は、卓の上にのせられた封筒に、ふと眼をとめた。その封筒からは、和紙を綴った部分がすこしはみ出していた。

「それはなに?」

 民子は酒を注ぎながら聞いた。掌を膝にのせてかけていた彼は、そうなるまいと努力しながら、かえって物々しい口調になって答えた。

「上げるよ。これ」

「本かしら」

 民子は卓から取り上げたが、ちょっとそれを引きだしてみて、失望したような顔をした。

「本じゃないのね。あら、なぜ変な顔してるの」

「君にいちど話したいことがあるが」

 彼はすこし普通の声になって言った。

「どこか外で逢えないかね」

 民子は妙な表情になったが、突然さげすみに似た短い笑い声をたてた。そして自分の笑い声を恥じるように、幾分うす赤くなって、封筒をもったまま、彼の卓から離れて料理場の方に入って行った。

 大風が身体の内を吹きぬけたような気持になって、彼は味のうすい酒を口にふくんだ。それから二三人、油障子を引きあけて、お客が入ってきた。料理場から再び出てきたとき、民子は何でもないような稚ない表情をしていた。それを追う彼の眼は、据傲(きょごう)と寂寥(せきりょう)とをないまぜたような光を帯びていた。ふしぎな力に駆られて、十数年前と同じことをしてしまったことを、彼は考えていた。

 その夜、彼はいつもより一本余計に飲んだ。そして歌もうたわず、割合たしかな足どりで、家へ戻ってきた。

 それから二三日、酒場に行かず、彼は家にじっとしていた。四日目の昼過ぎに、彼が店頭に坐っていると、表の方に人影がして、見ると民子が入って来た。そして民千は本棚のかげから、目顔であいさつをした。

「本を見にきたのよ」

 素直な声でそう言った。それから彼女は本棚を順々に見てあるいた。ただ背文字を見てあるくだけであった。ぐるっと廻って駄本を積みかさねたところへ来ると、今度はひっくりかえして丹念にしらべ始めた。長いことかかって一冊えらびとると、それを彼のところへ持ってきた。

「これ、下さいな」

 受取って見ると、講談本の水戸黄門漫遊記であった。民子は無邪気ににこにこしていた。

「こんな本なら、只であげるよ」

「貰うのはいやだわ。借りるか買うかよ」

「じゃ貸してあげるよ」

 民子の着ているゆるやかな灰色の上衣は昼間見ると古びていて、処々すれているのが眼についた。彼の視線に気づくと、民子は急にきつい眼をした。

「こんな講談本が、好きなのかい」

「講談でも、水戸黄門だけよ」

「どこが好きなのかね」

「どこって――何となく、気持がすっとするのよ。水戸黄門ってえらい人でしょ。それが身分をかくして、いよいよの時まで、じっと辛抱してるでしょう。そんなところなの」

 しやべっているうちに、民子は彼の横に腰をかけた。ふと思いついたような顔をして、彼は言った。

「二三日のうちに、多摩川一緒に行こうか」

「多摩川で何かあるの?」

「何もないけどさ。川を見にゆくんだよ」

 民子はまぶしいような顔になって、彼を見た。そして黙っていたが、急に立ち上って、頭を下げた。

「お店にもいらっしゃいね」

 逆光線になっているので、民子の胸の線がふとしたはずみに透いて見えた。彼は包み紙を出して、水戸黄門漫遊記をていねいにつつんでやった。

 

 それから三日経って、彼等は多摩川に行った。風のつよい日で、遊歩には適当でなかった。だから川から外れて、にぎやかな道をあるいた。

 民子は今日は水色の服を着て、白いバンドを腰にしめていた。残暑という程ではなかったが、あるいていると汗がすこしにじんだ。民子は道をあるくのに、いっこう落着きがなかった。露店をみつけると、寄って行って、しきりにチョコレートや飴を買いたがった。そして買い求めると、ポケットに収めて、少しずつ出して食べた。

 道ばたにデンスケ賭博にむらがっている群があった。そこに足をとめると、民子はなかなか動こうとはしなかった。彼等はしばらく勝負をながめていた。あたしもやってみたい、と民子は彼にささやいたが、彼は聞かないふりをしていた。それから歩き出しても、民子はきょろきょろして、遠足にきた千供のように落着かなかった。[やぶちゃん注:「伝助賭博」移動しやすい台(これを「デンスケ」と呼ぶ)を使って街頭で行うイカサマ博奕。煙草の箱を使う「ピース抜き」・「モヤ返し」、円盤に回転する針を仕掛けておき、その円周上の文字に賭けさせ、針を回して、回転が止まって針の指したところが「当り」となる「ドッコイ・ドッコイ」、そのほか、「モミダマ」・「赤黒」など、多数ある。孰れも手捌きで誤魔化したり、仲間の「サクラ」に「当り」をとらせたり、時には暴力沙汰にも及ぶイカサマ賭博である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 にぎやかな場所をぬけると、彼等は川の方にあるいて行った。昼をすこし廻っていたから、土堤のかげに、風を避けて弁当をひらいた。遠くの方では川水が光って、子供たちが泳いだり走ったりしているのが見えた。

「あなたの名前は、まるで悪代官なのね。椎野貫十郎だなんて」

 民子の境遇を遠廻しに訊ねかけたとき、民子はそんな事を言い出して笑った。それで彼も黙ってしまった。民千はそれから言葉をついで、この間の水戸黄門漫道記の話を、彼に話してきかせた。そのなかに貫十郎という代官が出てくるというのであった。民子の様子はたのしそうで、笑い声もいつもと違って高かった。その笑い声も、時に調子を外れて、ヒステリックな響きを立てることがあった。

 ――どういうつもりで今日此処にきたのだろう。遠くの河面をながめながら、彼はぼんやりそんなことを考えた。昨夜あの飲屋で、彼は民子に多摩川行きを誘ってみたのであった。そのつもりでは、民子のことをよく知りたいと考えていたのだが、いまは彼は妙に疲労して、勢を失っていた。だから斜面にころがって、後ろ手に頭を支え、河の方を眺めたり眼を閉じたりした。なんだか不安定な感じで、彼は暫(しばら)くそうしていた。女とふたり連れだってあるくことは、彼にも始めてであったが、それがこんなに疲れることとは予想もしていなかった。

 彼の視野のはしに、白いものが見えていた。それは民子の脚であった。民子も彼と同じように斜面に背をもたせて、寝ているらしかった。ときどきその脚はかるく動いて、組合わさったりした。風の音が聞えたり止んだりして、身体ごと、土堤のなかに沈下してゆくような気がした。遙かなむなしい感じが、すこしずつ彼にひろがってきた。

「あなた、お父さんいるの?」

 頭の方から民子のそんな声がした。近くにいるのは判っていても、なんだか遠くから聞えてくるような気がした。実体を失ったような素直な響きであった。

「いない」

 眼を閉じたまま、彼は答えた。

「おやじも、おふくろも、死んでしまった」

「あたしもひとり」

 少し経って民子がそう言った。それからしばらく、彼女は彼が問うままに、自分のことを話した。伯父の家にいたのだけれども、そこを飛び出して、間借りをしていることを、民子はぽつりぽつり話した。その部屋は四畳半で、ぼろぼろなところだということであった。彼は突然、その部屋を見たい衝動にかられた。

「遊びに行ってもいいかい」

「いいわ。きたないところよ」

「今日、いまから――」

 民子はびっくりしたように身体を起したらしく、脚がふいに動いたが、直ぐ短い笑い声が彼におちてきた。へんに乾いたような響きをのこして、それはすぐ止んだ。

 十分の後、彼等は立ち上って、土堤にそって歩いていた。疲れが収まったので、彼もいくぶん元気が出た。河のむこう岸を綺麗(きれい)な色の自動車が走っていたが、彼が指さしてやっても、民子には見えないらしかった。

「あたし眼が悪いのよ。ずっと前から」

「眼鏡かけた方がいいな」

「おお、いやだ」

 民子はわざとらしく、そう言ったが、語調をかえて、

「でも、眼鏡かげた人好きよ」

 そして民子は眼鏡をかけた女流名士の名前を二三挙げた。婦人雑誌ででも覚えたものらしかった。

「あたしも偉くなりたいわ。早く」

「そんな偉くならなくてもいいだろう」

「なりたいわ。馬鹿にされずにすむもの」

「今だって、馬鹿にしやしないだろ、誰も」

 民子は頸(くび)をふった。そして少し冗談めかした口調で言った。

「判らないわ。あなただって、あたしを馬鹿にしてるでしょ。飲屋の女だと思って」

 あとの方は真面目な調子になったので、彼は民子の顔をちらと見た。民子はきつい眼をしていた。

 駅まで来たら、果物屋があって、また民子はいろんなものを食べたがった。そこで林檎などを買って、電車に乗った。電車は混んでいて、自然彼は民子と身体を接して立たねばならなかった。くっついていると、民子の身体は肉が薄くて、ひよわな感じであった。丸いものが当ると思ったら、それは民子が手にした林檎であった。民子は首をまげて、窓の外をながめていた。かなしそうな、ぼんやりした民子の表情が彼の前にあった。虚しい哀憐の情が彼にあった。それは民子をあわれむのか、自分をあわれむのか、彼にもはっきりしなかった。そんな彼等をのせて、吹きぬける風の中を、電車は走って行った。

 民子の家は、ごみごみした家並の、露地の奥にあった。急な階段がついていて、そこは暗かった。民子の部屋は、二階の一間であった。あたりの家も不規則な建て方をしているのを見れば、ここらあたりは震災にも焼け残った地区らしかった。階段をのぼるとき、民子は階下に気がねするように、低い声で、あぶないのよ、とささやいた。

 民子の部屋は畳が古ぼけていて、襖(ふすま)にはいくつもつぎがあたっていた。貧しい調度があって、壁には見覚えのあるあの灰色の上衣がかけてあった。それを見たとき、彼の胸のなかで、民子がぐっと身近に寄ってくるのが感じられた。しかし民子は座布団を彼の方に押しやりながら、彼をここに連れてきたことをちょっと後悔するような表情をした。

「いい部屋だね。まったくいい部屋だ」

 彼はそう言った。そうして四辺(あたり)を見廻した。自分の言った言葉が大して意味はないにも拘らず、重い意味をもつものとして、彼におちてくるのが判った。しばらくいろんな会話をした。つまらない話題ばかりであった。民子は林檎の皮を剝き出した。

「この部屋にいつまでも住んで行く気かね」

「追い立てられてるのよ。ここも」

 民子は林檎の皮をむきながら、そう答えた。ゆるくたばねた髪が額にふさふさとかぶさって、民子はうつむいて一心にナイフを動かしていた。彼は視線を窓の方にむけた。窓は屋根屋根の風景を収めていた。窓硝子のひびの入ったところを、紙片で補綴(ほてつ)してあって、それが次に彼の眼に入った。引きの強い紙らしく、けば立って硝子に貼りついていたが、それに黒いインクで小さな文字が書かれてあった。彼はすこし顔を近づけてその文字を読んだ。

「……宮司村大字拾七番地椎野貫太郎長男トシテ大正参年弐月拾五日出生」[やぶちゃん注:梅崎春生はいい加減に村名をつけたのかも知れないが、梅崎春生の故郷である福岡県に宮司(みやじ)地区がある(全国的に宮地という地名は多いが、宮司はそう多くない)。福岡県福津市宮司があり、その周辺の接する地名の一部にも「宮司」がついている。春生の実家は福岡市内であるが、私はここでは、この地名を採ったもののように感じている。]

 読んでいるうちに、彼の頰は力んだような感じとなり、幅の広い眉のあたりが薄赤くなってきた。それはこの間手渡した戸籍謄本の切れ端にちがいなかった。汚れた硝子に貼りついて、窓の外の風景をさえぎっていた。

「とうとう切れなかったわよ」

 そのとき民子が甲高い声をたてた。民子の小刀から林檎の皮がくるくる巻いて、えんえんと垂れ下っていた。垂れている長さは三尺ほどもあった。民子は邪気のない眼で、うながすように彼を見た。

「僕と結婚しないか」

 とつぜん彼は言った。そしてあわてたように坐りなおして、両手を膝においた。

 民子もびっくりしたように、坐りなおした。林檎の皮は渦を巻いて、畳におちた。ナイフを掌にしたまま、民子は急に短い愚かしい声を立てて笑ったが、笑いやめると、押しひしがれたような惨めな表情になった。

「そんなことなの。どういうこと……」

 彼女は言いかけて口をつぐんだが、ぐっとあかくなった顔を立てて、こんどは早口に言った。

「そんなこと出来ないわ。まだわたしは若いし……それに馬鹿なんだから」

 そう言うと、民子の顔は急に堅く凝った[やぶちゃん注:「こごった」。]ようになり、どこか驕慢(きょうまん)な感じにもなった。

 その顔を見つめながら、彼は頭のなかを流れ去るいろんなものを感じていた。それは形もない、色彩もないものであった。自分がその中で微粒子のような位置にあることを、彼は意識した。彼はどもりながら、さっきの言葉をも一度くりかえした。

 

 二箇月経って、ふたりは結婚した。すると民子はすぐに身ごもって、まもなく子供を産んだ。男の子であった。民子は一日中、おむつを洗ったりお守りをしたり、家の用事をしたりした。忙がしいことには、あまり不平を言わないようであった。貫十郎はその点で民子に満足していた。

 貫十郎は少しまた肥って、時には本を買う客に愛想を言ったりした。酒は相変らず飲んだ。民子はそれにも不平は言わなかった。ふたりとも平凡に満足しているように見えた。

芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)

 

大正一四(一九二五)年五月二日・修善寺発信・東京市外田端四三八 下島勳樣・五月二日朝 修善寺新井うち 芥川龍之介 (明日歸る筈)・(絵図のみで書信はない

 

Syuzenjizukan

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。で掲げた佐佐木茂索宛の同「画巻」を完全に改稿したもの。キャプションは、標題は枠内で右上部に右から左へ、

 修 善 寺 画 巻

で、右から左に、右手に枠内で、

 澄江堂先生讀書之図

とあり、その簷の上に指示線附きで、

 コレハ鶺鴒

とあり、中央上に指示線附きで、

 コレハ

  修善寺ノ

  鐘ツキ堂

とある。その中央池中に指示線附きで、

 コレハ鯉

とあり、下方に右から左に枠内に、

 澄江堂先生散策之図

とあり、「澄江堂先生」の背後の壁に「へのへのもへじ」の落書きがあり、「澄江堂先生」のの前方に指示線附きで、

 蠅ニアラズ

   蝶々ナリ

と注意書きしている。

左最上部には、枠内で、

 鏡花先生喋々喃々之図

として、少し下方の玄関の間のところに指示線附きで、

 コレハ カバン

とある(初稿と同じく、向いが泉鏡花、背を向けて対座しているのが鏡花の妻「すず」)。「喋々喃々」(やや「喋」の字は書き方が雑である)「てふてふなんなん(ちょうちょうなんなん)で、「喃喃」は「小声で囁くさま」で、「小声で親しげに話しあうさま」であるが、特に「男女が睦まじげに語り合うさま」を言う。ちょっと気になるのは鶺鴒(せきれい)で、本邦種として知られるものでは、修善寺にいておかしくないのは、スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)・セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis ・セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea(九州以北)であり、これだけを見ると、全く以って疑問はないのだが、直前のスケッチと推定される初稿と比較すると強い疑念が生ずるのである。則ち、そちらでは、彼の部屋から見える位置に飛んでいる鳥を、カタカナで「ミソザザイ」と記しているからである。思うに、私は芥川龍之介は「みそさざい」を、この改稿版では、漢字で書こうとして、「鷦鷯」と書かねばならないところを、「鶺鴒」とやってしまったのではないかと考えている。二図は明らかに、同一のシーンのモザイク合成画であり、この鳥だけを「みそさざい」から「せきれい」に変える意味がないからである。だいたいからして新婚の佐佐木に送るなら「みそさざい」ではなく、伊耶那岐・伊耶那美に「みとのまぐはひ」の仕方を教えた「せきれい」こそ、寧ろ、相応しいではないか。相合傘なんぞより、ずっといいと思う。セキレイの博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)」を参照されたい。

芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」

 

大正一四(一九二五)年五月一日(推定)・佐佐木茂索宛(封筒欠)

 

Syuzenjiemaki

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。「初稿」としたのは、二日の下島勳宛(後で掲げる)でも同名のスケッチが載るが、明らかに改稿した絵であるからである。キャプションは、標題は二十枠内で、

 修善寺画巻

で、右から左に、中央と、その下(指示線附き)に、

 澄江堂先生閑居之図

 コノ本 片ヅイタコト ナシ

とあり、その左空中に指示線附きで、

 コノ鳥ハ

   ミソサザイ

とあり(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい)、その中央の池中に指示線附きで、

 コレハ鯉

とある。その中央最下部に指示線附きで、

 澄江堂先生散策之図

とあり、その「澄江堂先生」は吹き出しで喋っており、

「オソロロシイモノヂヤ ココマデ評判ヂヤ」

とあって、その視線の先の土塀には、相合傘(仐)に、右に、

 もさ

左に

 ふさ

と落書きされているのが判る。これは茂索(もさく)と妻のふさ(房子)のことである。二人は、この前月三月末に龍之介の媒酌で結婚しており、新婚ほやほやだったのである。その土壁の角の折れた左方には、

 バンガイ

とあって、左に「へのへのもへじ」の落書きもある。左上方には、

 鏡花先生同令夫人御幽棲之図

とある。向いが泉鏡花、背を向けて対座しているのが鏡花の妻「すず」である。

左下方には指示線附きで、

 蠅ニアラズ

    蝶ナリ

と注意書きしている。

 なお、以下の標題の「新曲」は、底本では、ポイント落ちで、右から左へ横書き。]

 

    【新曲】修善寺  いでゆもすみえ太夫作

思へば九月一日の、地震に崩れかかりたる、門や土塀を修善寺や、五分すすみし時計ゆゑ、六時五分は午後六時、君をはじめて御幸橋(みゆきばし)、酒のまぬ身のウウロン茶、カフエ、コカコラ、チヨコレエト、ヴィタミンCのありと言ふ綠茶はのめど忘られぬ君を藝者と菊屋にも、電燈ともる夕まぐれ、2×2=4(に にん が し)とは思へども、2×2=5六(に にん が ごろく)、七八度(ななや たび)、橋のたもとへ出て見たる、人の心も白糸の、瀧の英語はカタラクト、ラクトオゲンは滋養劑、自由にならぬ世の中の、波も新井屋わが宿に晝間來てゐる君見れば、ウタヒガタリあらかなしや、雪と見えしはおしろひの、剝げてわびしきエナメルやエナメルや額はビルディング千丈の壁を削り、眼(まなこ)凹(くぼ)める凄(すさま)じさはリフトの穴と申すべし、さりとはよもや賴家の墓もはかなき夕明り、ちらりと見たる祟りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける。

 

[やぶちゃん注:「御幸橋(みゆきばし)」修善寺温泉の入り口近くの、桂川に架かる橋の名であるが、前から「見ゆ」に掛けてある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。左手中央に現在もある新井旅館(桂川左岸)。

「コカコラ」現在のアメリカのThe Coca-Cola Companyの発売している「コカ・コーラ」(Coca-Cola)は、商品そのものとしては(最初の製造会社は全く別)、一八八六年(明治一九年)五月八日に販売を開始しており、日本では明治屋が大正八(一九一九)年に「コカ・コーラ」として発売を始めたのが、大々的な本格的普及の始まりのようである。但し、知られた高村光太郎の詩集「道程」(大正三(一九一四)年)に収録されている「狂者の詩」(明治四四(一九一一)年十一月二十一日のクレジットがある)に既に『コカコオラ』として銀座のカフェらしきところで飲んでいる場面が出るので、ハイカラな飲み物として明治末期には飲食店では既に供されていたことが判る。「国文学研究資料館電子資料館」の「近代画像データベース」のこちらで、当該詩集原本のその詩が読める。

「カタラクト」cataract 。但し、大きな瀧を指す語である。

「ラクトオゲン」英文綴りは Lactogen。粉ミルクの一種。北多摩薬剤師会」公式サイト内の「おくすり博物館」の「おき薬紹介シリーズ」のこちらに、本邦の古い新聞広告画像と説明があり、そこには『いわゆる人工栄養、人工乳は大正に入って発売されましたが、そのうち』、『オーストラリア・メルボルンから輸入していた製品にラクトーゲンがあります。その』大正一〇(一九二一)年三月二十日附の『大阪朝日新聞』(芥川龍之介は依然としてここの社友であるから、恐らくはこの広告を見ている)『の新聞広告の裏面を御覧下さい。 広告の描かれた表面は後日ミルク、哺乳瓶等と一緒に解説いたしますが、多分』、『ラクトーゲンを飲んで育った子供達の投稿写真と思われる顔写真であふれています』。『明治維新』『から約半世紀で』、『ずいぶんと子供達を取り巻く医療、衛生、経済』等『の環境が激変したことに驚かされる次第です。それにしても大正時代は戦争の影も少なく、現代と比べても』、『ずいぶんとモダンな子供達も多く大事にされていたことにも驚かされます』とある。

「新井屋」宿泊してい旅館の名に「荒い」を掛けたもの。

ウタヒガタリあらかなしや」「ウタヒガタリ」の文字は底本では「「あら」のルビのように打たれてあるが、これは浄瑠璃の調子を示すものであるから、前に上付きで示した。

「リフト」エレベーター。

「ちらりと見たる祟りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける」戯歌ながら、最後には、龍之介お得意の「煩悩即菩提」の片山廣子への切ない恋情が匂っている。佐佐木もそれを感じたに違いない。

芥川龍之介書簡抄123 / 大正一四(一九二五)年(四) 修善寺より小穴隆一宛 「歎きはよしやつきずとも 君につたへむすべもがな 越の山かぜふきはるる 天つそらには雲もなし」

 

大正一四(一九二五)年四月二十九日・修善寺発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・四月二十九日 靜岡縣修善寺町新井うち 芥川龍之介

 

原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行にかいてしまつた。勿論書けてゐるかどうか心もとない。今泉鏡花先生滯在中、奧さん中々世話やきにて、僕が仕事をしてゐると、「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」などと言ふ。屋前屋後の山々は木の芽をとほり越して若葉なり。一夜安來節芝居を覗いたら、五つになる女の子が「蛸にや骨なし何とかには何とかなし、わたしや子供で色氣なし」とうたつてゐた。大喝采だつた。うちの子も五つになるが、ああ言ふ唄をうたつて大喝采をうけぬだけ仕合せならん。この間又夜ふかしをして、湯がなくなつた故、溫泉で茶を入れたら、變な味がしたよ。ちよつと形容の出來ぬ、へんな味だ。その癖珈琲に入れると、餘り變でもない。僕はいつも溫泉へ來ると肥るのだが今度はちつとも肥らん。遠藤君によろしく。前の家だと尾張町だけでも手紙が出せるが今度はさうも行かない。又今樣を作つて曰く、

   歎きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな

   越(コシ)の山かぜふきはるる

   天つそらには雲もなし

    二十九日           龍

   隆   樣

 

二伸 惡錢少々同封す。支那旅行記の裝幀料と思はれたし。

 

[やぶちゃん注:室生犀星とこの小穴隆一、そして弟子格である堀辰雄の三人は、芥川周辺でも、廣子への龍之介の執心の核心を理解していた数少ない人々であった。無論、この書簡も「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡12」として採用しているが、ここで再掲する。これは私のカテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』に当然の如く掲げるべきものであったが、見落としていたようなので、そちらのカテゴリにもこの記事をリンクさせておく。

「例の大男の話」既注であるが、再掲すると、大正一四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『女性』に発表した修善寺の民話を素材とする「溫泉だより」を指す。作中に「丈六尺五寸、体重三十七貫」の大工萩野半之丞が登場する。「温泉だより」起筆は四月十六日。

「今樣」これも廣子への恋情切々なるを詠じた一首。

「遠藤」既出既注だが、再掲すると、遠藤古原草(明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年 本名清平衛)。俳人・蒔絵師。「海紅」同人。小穴を通した共通の友人で俳句仲間でもあった。

「支那旅行記の裝幀料」この六ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。装幀は小穴隆一。この時、既に小穴から装幀案が示されていたのものかも知れない。]

芥川龍之介書簡抄122 / 大正一四(一九二五)年(三) 佐佐木茂索宛(修善寺での長歌并びに短歌)

 

大正一四(一九二五)年四月二十九日・消印三十日・修善寺発信・東京市下谷區眞島町二ノ五號 佐佐木茂索樣・二十九日 しゆぜんじあらゐうち あくた川龍のすけ

 

  不可出於新聞長歌幷短歌

空ゆくや、照る日も見えず、湯けむりの、立ち立つむろに、さにづらふ、赤裸なる、二はしら、神のみことの、老いたるは、請負師かも、若かるは、官吏なるらし、二人とも、流しにゐまし、たるちしら、うら樂しけく、天ざかる、鄙の藝者に、惚れられし、話をすると、えらえらに、笑ひどよもし、ざぶざぶに、湯をあみませば、鴨じもの、わが沈みゐる、石ぶねの、湯ぶねの空ゆ、時じくに、雨ぞふりくる、ぬえ鳥の、なげかひ居れど、神えらぎ、やむときしらに、今しかも、醜(しこ)のつかひ湯、わが顏に、さとぞたばしる、ますらをと、おもへる我の、丸ビルは、海に入るとも、口つぐみ、あるにたへめや、湯の中に、い立ち上らひ、「おい、こら」と、雄たけびすれば、老いたるは 平にあやまり、若かるは、あつけにとられ、湯けむりの、千重(チヘ)に五百重(イホヘ)に、なびかへる、着ものぬぎ場へ、こそこそに、逃げてぞゆける、千早ふる、神わざならず、現し世の、人わざにして、二はしら、神のみことを、やらひたる、我はも美(は)しと、己(し)が姿、かへり見すれば、翠鳥(ソニドリ)の、靑き湯のへに、かなしもよ、天津麻宇羅は、ながながと垂れゐたるかも、

 二はしら神の命をやらひたる天津麻宇羅見らく愛しも  龍

 

   大 藝 先 生 梧右

二伸 一月ほど文藝欄を見てゐると、いろいろ面白い。廣津和郞先生は higher文學靑年だね。

 

[やぶちゃん注:「不可出於新聞」「新聞に出だすべからざる」。筑摩全集類聚版脚注に、『当時』、『佐佐木が時事新報に関係していたため』に断りを入れたものとする。ただの戯れの添え書きのようには見えるものの、先年初めの毎日新聞社馘首未遂事件(既注)などから、小品でも新聞系への自身の作品の掲載(しかもこれは依頼稿ではない)には神経を使っていたからでもあろう。

「むろ」所謂、岩窟風に造った岩風呂であろう。

「さにづらふ」連語「丹づらふ」。元は清音。元は「赤く照り輝いて美しい」の意で、転じて「色」「君」「我が大君」「妹」「紐」「紅葉」を形容することばとして用いられ、そうした「赤」を連想させる対象に広く掛かる枕詞となった。

「請負師」土木・建築工事などの請負を職業とする人。修善寺修復か温泉旅館のそれかも知れない。今一人が官吏だとすると、前者かも知れない。或いは、知人ではなく、たまたま風呂で一緒になっただけかも知れない。若い方がそそくさと出ているところからは、そっちか。

「たるちしら」筑摩全集類聚版脚注に、『足ることを知らず。「ち」は接尾語、「しら」は知らずの意味に用いようとしたのだろう』が、『正しくない用法』とする。

「鴨じもの」鴨のような。「じも」は接尾語で形容詞の活用語尾「じ」に形式名詞「もの」が附いたもので、名詞に付いて、「~のようなもの・~であるものとして」の意で、比喩的に言うもの。

「時じくに」時ならず。意想外に急に。

「ぬえ鳥」ズズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma だが(博物誌や伝承幼獣は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を参照されたい)、ここは、その荒涼にして悲しげな鳴き声から、以下の「なげかひ」(歎かひ)の枕詞(「うら歎(な)く」「のどよふ」「片戀ひ」などにも掛かり、万葉以来の用法である)。

「えらぎ」「ゑらぎ」の誤り。「ゑらぐ」は上代語で「楽しみ笑う」の意。

「翠鳥(ソニドリ)」鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis の古名だが(博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたい)、ここはその羽色から「靑き」の枕詞。修善寺にはおり(実見した)、ロケーションからもいい使用法である。

「天津麻宇羅」「あまつまうら」。自身の男根(芥川龍之介は巨根であったという)を戯れて呼んだもの。

「廣津和郞」(ひろつかずお 明治二四(一八九一)年~昭和四三(一九六八)年:芥川龍之介より一つ年上)は小説家。東京市牛込区(現在の新宿区)矢来町に硯友社の著名作家広津柳浪の次男として生まれた。大正二(一九一三)年、早稲田大学英文科卒業。在学中に葛西善蔵らと『奇蹟』を創刊し、評論活動を経て、小説に転じ、「神経病時代」(大正六年)が出世作となった。後に総合誌『洪水以後』の文芸時評欄を担当して評論でも名を上げた。敗戦後はカミュの「異邦人」をめぐる中村光夫との論争や、「松川事件」の政治性の闇と正面から取組んだ評論「松川裁判」などで知られた。

「higher」高級。]

2021/08/18

芥川龍之介書簡抄121 / 大正一五(一九二五)年(二) 芥川文・芥川富貴宛/修善寺関連スケッチ三品

 

大正一四(一九二五)年四月二十二日・修善寺発信・芥川文 芥川富貴宛

 

改造の紀行、文藝講座、文藝春秋、女性、とこれだけ書いた。今文藝講座をもう一つ書いてゐる。まだその外に鶴田の爲に「平田先生の飜譯」と云ふものを書いた。根本(女性)と鶴田の所の男とつききりだつた。泉さんの奧さん曰「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」

二階の壁ぬりや庭も出來つつあるよし、おぢいさんいろいろお骨折りの事と存ず よろしく御禮を申されたし。八洲の所へ行つたのなら、八洲の事をもつと詳しく書け。あちらから甘栗を貰つた。原稿ぜめでまだお禮も出さない。これと一しよに出す。但し栗はみんな食つてしまつた。

それから今客がなくて閑靜故、をばさん、おばあさん二人でちよつと遊びに來ないか。汽車は十二時キツチリの明石行にのると四時三十九分に三島へつく。三島へついたらプラットフォームの向う側に修善寺行の輕鐡がついてゐる故、それへ乘れば六時には修善寺へつく。修善寺驛から新井までは乘合自働車、人力車何でもある。時間がわかれば僕が迎ひに出る。

切符は東京驛より修善寺迄買つた方がよし。(三島迄買ふと又買ふと又買はねばならぬから面倒臭い、東京驛で修善寺までのを賣つてゐる)

 

Misimaeki

 

[やぶちゃん注:画像以下の二枚も含めて、底本の岩波旧全集からトリミング補正した。ここのキャプションは、右上に(下方に煙を吐く機関車と車列)、

 明石行 ←―――

中央囲みホーム部分と、その下部の外に、

          プラツトフォオム 三島

左に(下方上部に軽便鉄道車列。掛線のパンタグラフを左端に描いているので判る通り、電化されていた。最後の大仁(おおひと)と修善寺間が開業したのは、この前年の大正一三(一九二四)年八月一日であった)、

 修善寺行←―――

 以下は、底本で挿絵の下に活字だけで示されてあるもの。なお、この「三島駅」は現在のそれとは違う「三島駅」で、東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線の静岡県駿東郡長泉町(ちょうせんちょう)下土狩(しもとがり)にある下土狩駅=旧「三島駅」(現在の三島駅の西北西一・五四キロメートル位置にある)である。この修善寺までの路線も現在の伊豆箱根鉄道駿豆線ではなく、駿豆鉄道であった。

 

ツマリノリカヘハ

コノ□□[やぶちゃん注:底本は二字分の長方形。底本編者の判読不能字。]ヲ右カラ

左へ二三間[やぶちゃん注:三・六~五・五メートル。]步クダ

ケユヱ造作ナシ

 

來れば一しよに鎌倉まで歸る。修善寺も湯が昔から見ると、へつたよし。それでも唯今風景は中々よろしい。考えへてゐると億劫だが、汽車にのつて見れば訣なしだ。シヤ官や植木屋位文子にまかせておけばよろし。シヤ官はもうすんだらう

泉さんはあしたかへる。奧さん中々世話やきにて菓子を買つてくれたり、お菜を拵らへてくれたり、もう原稿はおよしなさいなどと云ふ。下齒が上齒よりも前へ出てゐるお婆さん也。泉さんは來て腹ばかり下してゐる。床をしきづめにしてごろごろねてばかりゐる。誰も來なければ月末にかへる。をばさん、おばあさん、ちよいと二三日お出でなさい。ここのお湯は

 

Yudono

 

[やぶちゃん注:ここにポイント落ちで『〔右下圖參照〕』とあり、この後の「この家も」の下にも『〔下圖參照〕』という割注があるが、これは恐らくは底本編者による挿入と私には思われるので、本文に入れなかった。こういうくだくだしいやり方は芥川龍之介はやらないわけではないが、好まなかったと思うからである。その代わりに、それぞれその絵を挟んでおいた。

 キャプション(反時計回りに。総て、指示線附き)。

コヒ[やぶちゃん注:鯉。]

ガラス窓
 [やぶちゃん注:何かを書きかけて、その一字分を潰した感じ。判読不能。]

ミシ[やぶちゃん注:「ミゾ」の誤字か。]

コレハ 湯]

 

言ふ風になつてゐて水族館みたいだ。これだけでも一見の價値あり。この家も

 

Niwatoike

[やぶちゃん注:キャプションは右側(上から下へ。以下同じ)に、

 ■霧[やぶちゃん注:意味不明。]

 水音ザアザア[やぶちゃん注:指示線附き。]

 木 沢山[やぶちゃん注:「たくさん」。]アリ

 月[やぶちゃん注:芥川龍之介が滞在している総室(棟)名。]

 玄関

中央に、

 山[やぶちゃん注:指示線附き。]

 池[やぶちゃん注:少し左。]

 島

 木 沢山アリ[やぶちゃん注:少し右。]

左に、

とある。]

と言ふ風に建つてゐる。僕は月の五番卽ち三階にゐる

 

[やぶちゃん注:「改造の紀行」後の六月一日発行の『改造』に発表された「北京日記抄」(リンク先は私の詳細オリジナル注附き一括版)。

「文藝講座」前年の九月から開始された菊池寛篇編になる講座叢書「文藝講座」の第一回配本分の「文藝一般論」の最終部の大正十四年四月二十五日発行分(「青空文庫」のこちらで新字正仮名なら読める)。

「文藝春秋」これは前の講座の発刊元を書いたものと考える。六月一日発行の『文藝春秋』の「尼提」(「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)があるが、それをこんなに早く脱稿するとは、とても思われない。

「女性」六月一日『女性』に発表された「溫泉だより」(「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)。

「文藝講座をもう一つ書いてゐる」同前の五月十五日発行分。

「鶴田」玄黄社及び国民文庫刊行会社主であった鶴田久作(明治七(千八百七十四)年~?)。筑摩全集類聚版脚注によれば、『平田禿木を中心に欧米の翻訳文学集たる国民文庫叢書を出していた』とある。

「平田先生の飜譯」恐らく現在まで初出誌未詳(新全集宮坂年譜も『未詳』とし、推定でこの年の四月の著作リストに入れてあるが、その根拠はこの書簡であろう)。筑摩全集類聚版脚注には、『大阪毎日新聞大正十四年三月に発表』とあるが、何かの間違いであろう。龍之介が修善寺に来たのは、四月十日であるし、所持する他の諸資料でも初出は全くの未詳である。

「根本(女性)」前の『女性』の原稿の居催促のために、出向いてきた同誌の編集者根本茂太郎。新全集の年譜では、十九日から来ていたように書かれてあり、原稿催促の電報がその十九日までに十本に及んだともある(と言っても、総て書簡根拠)。

「泉さん」泉鏡花。この四月二十日に鏡花は愛妻すずさんと一緒に修善寺を訪れ、同月三十日まで同宿した。龍之介は鏡花には深い敬意を持っており、鏡花も彼の理解者であった。龍之介の自死に際しての追悼文はまず素晴らしいものである。

「八洲」妻文の実弟塚本八洲。結核による喀血は注で既に述べた。

「一しよに鎌倉まで歸る」『何故、田端まででないのか?」って? だからね! 何度も言ってるでしょうが! 鎌倉の割烹旅館「小町園」に泊まって、愛する女将野々口豊と逢うためだっうの! 芥川龍之介は共時的に複数の人間へ強い恋愛感情を抱くタイプなのだ。それを否定したら、千年経っても、彼を理解することは出来ないぜ! 表向き「品行方正」な研究者さん、よ!

「月の五番」当時の新井旅館(三十年も前から行って泊まろうと思いながら、機会を逸している)の室号名。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 「摸稜案」の最初の物語

 

      「摸稜案」の最初の物語

 摸稜案の最初に收められた『縣井司三郞《あがたゐつかさぶらう》』の事件は、棠陰比事の最初の物語がその骨子となつて居るやうである。棠陰比事の物語は極めて短く事件も至つて簡單であるが、それを基として作つた『縣井事件』は極めて複雜で且巧妙に出來て居る。私はそれ故、馬琴が如何に想像力の發達した人であるかを示すために、先づ棠陰比事の物語を左に譯出しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、訳文は底本では全体が一字下げ。]

『丞相向敏中が西京《さいけい》といふ所の裁判官をして居た時のことである。一人の行脚僧が、ある村にさしかゝると、日がとつぷり暮れたので、ある家に一夜の宿を求めたところ、主人が許さなかつたので、せめて門外に休ませてくれと賴むと、主人は澁々ながら承諾した。すると夜中に、その家に盜人がはいつて、一人の女に澤山の財寶を持たせ、垣を越えて出て行つたので、行脚僧は自分に盜人の嫌疑がかゝつては困ると思ひ、夜の明けぬ先に出立して、野中をずんずん急ぐうち、誤つて古井戶の中に落ちこんだ。ところが、ふと、氣がついて見ると、先刻盜人と同行した女が、同じ井戶の中に切り殺されて居たので、はつと思つて逃げようとしたけれども、深い井戶のことゝて、どうすることも出來なかつた。そのうちに夜が明けると、件の家の主人は盜難に氣づいて追跡して來たが、やがて古井戶を發見して、中に居た僧を捕へ、役所に訴へ出た。行脚僧の衣の裾には生々しい血がついて居たので、役人たちが、嚴しく責め立てると、行脚僧はとても罪を免れることは出來まいと覺悟して、女と共に彼の家にしのび込んだが、發覺を怖れて女を殺し、井戶の中へ投げ込まうとした拍子に自分も誤つて落ちこんだと自白した。賍品《ぞうひん》[やぶちゃん注:「贓物」(ぞうもつ)におなじ。]と女を殺した刀とは井戶の傍へ置いたけれども、何人が持ち去つたか自分は知らないと說明したので、役人たちはそれを眞實の自白だと思つた。たゞ裁判官の向敏中だけが、賍品と刀の無いのに不審を抱いて、色々に僧を問ひつめると、僧も包み切れずに、何事も囚緣と諦めて無實の罪を背負ひ込んだ旨を告げた。そこて向敏中は部下の役人に意を含めて、眞實の盜賊の行方を搜させたところ、部下のものが、村の茶店に休憩して居ると、老婆が茶を出しながら、この頃捕へられた行脚僧はどうなりましたかと訊ねた。役人が僞つて昨日死刑に處せられたよと答へると老婆は嘆息して、若し本當の賊が出たらどうなりますかときいた。そこで役人は、僧が殺された以上たとひ眞犯人が出てもかまひなしだと告げると、老婆は、それならば申しますが、あの女を殺したのは此村の誰それですよと敎ヘた。役人は忽ちその者を捕へ、行脚僧は放免されたのである。』

 縣井事件では、この物語の趣向は、後の部分に出て來るだけであつて、中心となる事件は全く別の趣向である。

[やぶちゃん注:「棠陰比事」の原文は標題「向相訪賊錢推求奴」(目録は頭の「向相訪賊」)で「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらから次のページにかけてで、本文は僅か二百十二字である。因みに、岩波文庫の本訳版では、後に宋代の鄭克(ていこく)という法学者の評言が附帯しており、そこでは、裁判官はあくまでも「推定無罪」の立場で裁きに向かわねばならないという旨を記している。素晴らしい! また、以下の示される「靑砥藤綱摸稜案」の巻頭を飾る「前集 卷之一」の「縣井司三郞禍(わざはひ)を轉じて福(さいはひ)を得たる事」は国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系第十六卷」(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。但し、これ、第二巻を丸々「縣井の中」「縣井の下」として続けて終わる、これまた、非常に長い作品である。以下の読みはそれを見て附してある。]

 伊勢國鳥羽の湊に、縣井魚太郞《あがたゐなたらう》といふ商人があつて、毎年鰹節や茶や山田の塗折敷《ぬりをしき》などを持つて船で鎌倉に行商し、大小の武家を得意先として𢌞り乍ら、凡そ半年ほど逗留するのが例であつた。彼はその性質が至つて實直で商人に似合はず和漢の學に通じて居たが、少しもその才を誇ることがなかつた。

 ところが魚太郞と同鄕の商人に金剌利平二《かなざし りへいじ》といふ男があつた。この男もやはり、魚太郞と同じく鎌倉の行商に出たが、うはべは濶達に見せて居ても、心の中は非常に吝嗇で、魚太郞の商品よりも高かつたけれども、口先がうまいために商賣は繁昌した。そして魚太郞と同じく和漢の學に通じて居たので、人々は彼の話に釣り込まれ、いつとなく丸めこまれる程であつた。

 あるとき縣井魚太郞と金剌利平二とが同船して鎌倉に行く途中、魚太郞は何となく塞ぎ込んで居たので、利平二がその理由をたづねると、魚太郞の言ふには、實は自分には小太郞といふ男の兒があつたが、先年母の大病の時、佛菩薩に祈願して、母が平癒しますれば、小太郞を出家させますと誓つたところ、幸に母が平癒したので、小太郞が八才のとき寺に遣したが、程なく住持と共に筑紫へ行つてしまつて、今年で三年になるが何の音沙汰もなく、母は先年死んえ、女房は去年女の子を設けたが生れて間もなく死に、その後また女房は姙娠して、今八ケ月であるから、女房のことを思つて氣が勝れないといふのであつた。これを聞いた金剌は大に同情し、實は自分の女房も今八ケ月の身重であるから、思ひは同じである。かうして同じ商賣をして居る以上、いつそ生れる兒同志を許嫁にして親戚の緣を結ばうではないかといひ出したので魚太郞は大に喜んで、その場で親戚となることに決した。

 かくて二人が前後して鎌倉から歸ると、縣井の女房は男の兒を生み、金利の女房は女の兒を生んだので、男の兒を司三郞《つかさぶらう》、女の兒を十六夜《いざよひ》ともけて許嫁とならしめ、兩家はめでたく親威となつた。ところが司三郞、十六夜が七歲のとき、縣井魚太郞は重病にかゝつて、とても恢復の見込が立たなかつたので、金刺利平[やぶちゃん注:ママ。]を枕元に呼んで、鎌倉の得意先を讓り、司三郞のことをくれぐれも賴んで、程なく死亡した。利平二は約束を守つて魚太郞の遺族を親切に待遇し、司三郞に學問を授けたので、十一二歲の頃には司三郞は大ていの書物を讀むほどになつた。

 その頃鎌倉では北條顯時が、金澤なる稱名寺のほとりに文庫を建て、各方面の圖書を蒐集して學問所を開いたので、全國の各地から、多くの學徒が集つて來たが、適當な學頭がなくて困つて居たところ、金刺利平二は商人に似ず學問が勝れて居たので、顯時は利平二を召して、學頭になる氣はないかと話した。利平二は大に喜んでその場で御受けを致し、すぐさま鳥羽へ歸つて事情を話し、女房と十六夜と、老僕の繁市《しげいち》と、その娘の弱竹《わかたけ》とを連れて鎌倉へ參り、金澤文庫のほとりに大きな邸宅をかまへ、若黨十人あまりを召使つて金刺圖書の名を貰ひ學顛としての威嚴を示した。はじめ人々は、彼が商人であることを知つてあまり寄りつかなかつたが、上流の人々にぼつぼつ金を貸したりしたので、後には執權時宗にも見參し得る程の勢力となつた。

 これに引きかへ、縣井司三郞とその母は、金刺に去られてから、何の音沙汰もなかつたので、二人は苧《そ》を績《つむ》いだり、磯網を編んだりしてその日その日を貧しく生活せねばならなかつた。司三郞は母に孝行する傍、學問に餘念なかつたので、年を經るに從つて、金刺圖書などよりも遙かに上達することが出來たのである。かくて、司三郞が十八歲の時、母は我が子り將來を憂ひ、ある日司三郞に向つて、貯へた十貫文の金を渡し、鎌倉へ行つて金刺に身を任すやう勸めたので、司三郞は母と共に、鎌倉へ參り、一先づ旅宿に落ついて、翌日司三郞一人で、金刺圖書を訪問した。

 ところが圖書は司三郞の姿を見てあまり喜ぶ樣子もなく、今日は忙しいから、追て沁汰する迄宿に居るがよからうと告げて、すげなく歸してしまつた。圖書の妻はその時屛風の蔭から司三郞の姿を見ると、男振りもよく、動作も立派なので、司三郞が歸つてから、何故もつと親切にしてやらなかつたかと詰《なじ》ると、圖書は、娘十六夜を北條殿の一族のものへ與へたい願であるとて、却つて妻を叱るのであつた。

 一方司三郞は旅宿へ歸つて、圖書の不機嫌てあつたことを母に告げたが、母は圖書の内儀の心を信じて、まだ四五貫文の金が殘つて居るから、金刺圖書から呼出しのある迄待つやうにすゝめた。ところが三十日經つても圖書からは使ひが來ないので、司三郞は不安に感じ、每日、金澤文庫のほとりを徘徊して、學徒たちの講書の聲をきいて心を慰めて居た。

 ある日の夕方、彼が金刺の第宅《やしき》[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ九行目)に従った。国書刊行会版では『ていたく』とする。]の後ろを通ると、丁度、その時、十六夜は腰元の弱竹と二人で庭に出て居たが、弱竹に敎へられて、司三郞の姿を見て、大いに顏をあからめ、司三郞もその時十六夜の姿に心を奪はれてしまつた。で、その後司三郞は毎日金剌の第宅の裏をとほつて居たが、そのうちに弱竹の媒介で、ある夜人目をしのんで、十六夜の許に一夜を明し、あくる朝、別れ際に十六夜は、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》と、白銀《しろがね》の指環[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ後ろから二行目)は「ゆびのわ」だが、梗概だから「ゆびわ」でいいだろう。]を、生活の助けにもといつて司三郞に與へた。司三郞は、今後、每晚訪ねて來ることを約東して歸つたが、どうした譯か、十日ばかり姿を見せなかつた。

 話變つて、金剌圖書の第宅から百歩ばかり東の坊に、一軒の質店があつた。主人は子母家利三郞《しぼやりくらう》と呼れて、裕福に暮して居たが、司三郞と十六夜とが會合してから丁度十日過ぎた夜、件の質店へ一人の行脚僧がたづねて來て、一夜の宿を求めた。小僧たちは夜も大分更けたことであるから、宿を斷ると、僧はせめて軒下でも貸して頂きたいと言つて其處にしやがんで朝を待つた。するとその夜二人の大男が質店に盜みにはひつたので、これを見た僧は大に驚いて、自分に嫌疑のかゝることを怖れ、あたふた軒端を逃げ出したが、あまり急いで野中の古井戶に落ちこんでしまつた。(この邊、棠陰比事の趣向である。)

 一方、金刺の裏庭では腰元の弱竹が、今夜こそは司三郞が來るかと、夜更まで待つて居たところ、垣の外に跫音がしたので、さては司三郞であろうと思つて呼びかけると、意外にも一人の大男がぬつとはひつて來た。弱竹は大に驚いて『盜賊《ぬすびと》、盜賊』[やぶちゃん注:原文では「賊あり、賊あり」(右ページ一行目)と叫んでいるが、その後(二行目以下に複数あり)で「盜賊」が出、それにかく読みが振られているので、それを採用した。]と叫ぶと、賊は刀を拔いて弱竹を切り殺し、次で十六夜の室にはひつて、衣栢調度を手當り次第に奪つて立ち去つた。

 やがて金刺圖書の家では大騷動となり、老僕の繁市は娘弱竹の死骸を抱いて歎き悲しみ、人々は盜賊の行方を搜したが、もとより知れる筈はなかつた。あくる日弱竹の葬式をすましてから、圖書は繁市に向ひ、自分はどうも司三郞が怪しいと思ふから、娘の菩提のためにも、司三郞の樣子をさぐつて見よと告げるのであつた。翌日繁市が司三郞の旅宿を窺はうと思つて出かけると、道て與野四郞《よのしらう》といふ小間物賣に出逢つたが、與野四郞が、頭に玳瑁の笄をさし、左手に銀の指輪をさして居たのに不審を抱き、かねて十六夜のものだと知つて居たので、繁市は與野四郞に向つて、それをどうして手に入れたかと訊ねた。すると與野四郞は、昨日ある旅宿の前をとほると、中から若者が出て來て之を買つてくれといつたから買つたのだと告げた。それを聞いた繁市はその若者が司三郞であることを知り、與野四郞を巡れて來て、圖書にその委細を告げた。

 金刺圖書目の前に十六夜の所持品を見て、弱竹を殺したのは司三郞にちがひないと思ひ、妻が諫めるのをもきかずに、鎌倉へ行つて、主の顯時に事の次第を告げ、文注所へ訴ヘたのである。

 靑砥藤綱は訴への文書を讀んで、圖書と與野四郞とに事情をたづね、彼等を退《のか》せてから、直ちに人を遣して司三郞の逮捕に向はしめた。かやうなこととは夢にも知らず、司三郞は十日前から母親が急病に罹つたので、晝夜その枕元に附きつて居たが、そのうちに旅費が盡たので、昨日、通りかゝつた小間物屋に、十六夜から貰つた笄と指環を賣り、今日その金で藥を買ひに出かけると、途中で捕手のために縛《から》められてしまつた。

 司三郞が文注所へ引張られて來ると同時に質屋利九郞が先頭になつて、一人の法師に繩をかけ、この法師は先夜私の家に泊めてくれと申して來ましたが、斷つたところ、その夜家内へしのび入つて、多數の品を持ち去り、行方不明になつて居ましたが、天罰を免れることが出來ず、三四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]彼方の古井戶の中に落ちて居ましたから、引き連れて參りましたと訴へ出た。

 藤綱は先づ司三郞を召し寄せて訊問し、この僧は多分汝の同類であろうときめつけた。そこで司三郞は自分の生立《おひたち》を始め、金刺圖書との關係や、笄と指環は十六夜から貰つたことなどを述べた。藤綱は之をきいて打ち笑ひ、然らばどうして十六夜に面會したかとつき込むと、司三郞ははたと返答に行き詰つた。

 そこて藤綱は一方の法師に向ひ、その身許をたづねると、法師がいふには、自分は筑前のもので景空《けいくう》と申しますが、此度《このたび》師父に別れて東國に行脚しましたところ、路銀がなくなつたため惡心を起し、質屋をはじめ、金剌の家にしのび入りましたが、その時女に見つけられましたので一刀のもとに切い殺しました。ところが逃げのびる途中で誤りて井戶に落ち、かうして捕へられましたが、すべて私一人の仕事で、こゝに居る若人とは關係のないことですから、どうかこの若人をゆるしてやつてくれと、意外な自白をした。

 これをきいた藤綱はにこにこと笑つて、然らばその賍品[やぶちゃん注:原本では「ぬすめるもの」と読んでいるが、ここは梗概だから、前の「ぞうひん」でよかろう。]と刀とは何處にあるかとたづねた。この質問に僧ははたと行詰つたらしかつたが、暫くしてから言ふには逃げ出して井戶へ落ちたときに落してしまつたと答へた。藤綱は利九郞たちに向つて、井戶の近所に何か落ちては居なかつたかときくと、この頭陀袋と菅笠一枚きりでしたと答へた。藤綱はその二つの品を手に取つて暫らく檢べて居たが、やがて打ちうなづいて利九郞等を一先づ退かせた。

 あくる日藤綱は司三郞を召し出して、十六夜との關係について詰問したので、司三郞も今は包み切れずに密通の次第を物語つた。そこで藤綱は金刺圖書を呼ぴ出して十六夜と司三郞との關係を告げたが、圖書は大に怒つて娘は決してそんな淫奔《いんぽん》なものではないと言ひ張つた。そこで藤綱はたうとう十六夜を呼び出して訊問したところ、十六夜は非常に恥かしい思ひをしながらも、事實のまゝを申述ベた。圖書はこれを聞いて、事の意外に驚いたが、如何ともする術なくたゞ、畏《かしこま》つて居るより外はなかつた。

 これで司三郞に罪のないことはわかつたが、法師の景空の自白が信じ難かつたので、藤綱は圖書父娘を鎌倉にとゞめ、司三郞と景空を文注所に居らしめ、その間に、雜色《ざふしき》二人に計略を授けて金澤へ遣して眞犯人を捜させた。二人の雜色がある茶屋に憩ふと、茶屋の老婆は、先日捕へられた二人の犯人はどうしましたかとたづねた。(この邊棠陰比事の趣向である。)二人はこゝぞと思つて、二人とも由井濱《ゆゐのはま》[やぶちゃん注:原文(右ページ六行目)に従った。]で首を刎ねられ左と告げると、老婆はしきりに念佛を唱へたので、二人がその理由をたづねると老婆は眞犯人が外にある旨を告げた。そこで二人が僞つて、もはや眞犯人の名を告げても罪にはならぬと語ると、老婆は、我來八《がらはち》と與東太《よとうだ》といふ無賴漢の仕業だらうと言つた。そこで、忽ちその二人を捕へて吟味したところ、彼等は包み切れずに何もかも白狀して、賍品を提供したのである。

 これでもう殘る疑問は景空の虛僞の自白であるが、それは藤綱が景空の頭陀袋の中にあつた度帖《どてふ》[やぶちゃん注:「度牒」が正しい。「度」は「得度」の意。寺や師僧が得度した僧に書き与える身分証明書。]を見るに及んではつきり解決された。卽ちこの僧こそは、司三郞の實兄で、祖母の病氣平癒と共に出家し、後筑紫へ行つた小太郞てあつた。近ごろ夢見が惡かつたので師僧に乞うて郡里へ歸つて見ると、母と弟とは鎌倉へ移つたとの事で、又もや遙々たづねて來ると、圖らずも文注所で弟の司三郞に逢つたので、それといはずに弟を助けるため、無實の罪を自白したのである。

 かくて事件はめてたく落着し、景空は法華堂[やぶちゃん注:現在の源頼朝の墓と称するものの階段下、左手にあった頼朝の本当の廟所のこと。]の別當に補せられ、司三郞は金刺圖書に代つて金澤文庫の學頭に任ぜられ、十六夜と結婚することになり、司三郞の母はうれしさのあまり、日ならずして、大病も癒えた。

 縣井事件の紹介が意外に長くなつたけれど、讀者はこれによつて、棠陰比事の短い物語を骨子として曲亭馬琴が如何に巧妙に、その筋を立てたかを知られたであろうと思ふ。摸稜案は、數多い彼の作物中で、さほど有名なものではないが、物語作者としての馬琴の腕は、こゝにも十分に認め得られると思ふ。

 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 染木正信

 

   ○染木正信

御天守番飯島平次郞話。「予が相番に、染木某が祖先は、韓人にして、李氏なり。豐太闇の時に、童にて、姊とゝもに、片桐市正にいけどられて、皇國に來れり。市正、此二人に唐山の童子の衣服をきせて、臺にのせ、天樹院君にまゐらせたり。姊は成長して『早尾』といふ。弟は老女『染木』が養子になりて、染木八右衞門正信といひて、兩人ともに、生涯、つかへ奉り、その子を利右衞門正美といひて、是も、おなじ君につかへて、添番をつとめたり。然るに、實子なくて、血脈は絕えたりとぞ。家の傳ふる所は、族稱・本氏ともに『染木』なり。」と、いヘり。

  文政八三朔          輪  池

 

[やぶちゃん注:「染木正信」(そめきまさのぶ 生没年未詳)は織豊から江戸前期の武士。で朝鮮の人。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の際、片桐且元(かつもと 弘治二(一五五六)年~慶長二〇(一六一五)年:豊臣家直参の家臣で豊臣姓を許され、「関ヶ原の戦い」以降は家老として豊臣秀頼に仕えたが、「方広寺鐘銘事件」で大坂城を退出して徳川方に転じ、大和国竜田藩初代藩主となった。官位は従五位下・市正(ひがしのいちのつかさ)に捕らえられ、姉とともに日本に連行された。豊臣秀頼の妻千姫(号・天樹院の添番を、生涯、つとめた。本姓は李。通称は八右衛門(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「御天守番」は元来は江戸城天守を守衛する職名。当該ウィキによれば、『その創置は寛永』一四(一六三七)『年以前であるということ以外わからない。江戸城五重の天守は』、明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した「明暦の大火」で『焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた』ものの、『その職のみは存置された。人員は』四十『名、これを』四『組に分けた』。百『俵高』五『人扶持で躑躅間詰。天守下番』二十一『人とともに天守番頭』四『人が』、『それぞれ』一『組を支配した』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 山王靈聖

 

   ○山王靈聖       輪 池 堂

駱駝の故事、諸家の纂むる[やぶちゃん注:「まとむる」。]ところ、各、「網羅せり」と見ゆるに、「山王靈聖」とあがめて拜せし事と、その糞を線[やぶちゃん注:「すぢ」か。]にぬきて、頸にかけしことは、いまだ、いはざることにや。よりてこゝに錄す。「能改齋漫錄」、宋吳曾云、『李昉言、建隆初。王師下湖南。澧・湖[やぶちゃん注:同書の複数のデータを見るに、地名であるが、複数の州名で「澧・朗」が正しい。訓読では訂した。]之民。素不ㇾ識駱駝。隨ㇾ軍負荷。頗有此畜。村落婦女見而驚異。競來觀ㇾ之。有拜而祝者。曰山王靈聖。願賜福祐。及ㇾ見屈ㇾ膝而促。又走避ㇾ之。曰、卑下小人。不ㇾ勞山王返拜。軍士見者無ㇾ不大噱。又拾其所ㇾ遺之糞。以ㇾ線穿聯。戴子[やぶちゃん注:以下のリンク先では『於』。「于」の誤記であろう。]男女項頸之下。用禳兵疫之氣。南中相傳以爲突。』。[やぶちゃん注:底本には「突」に右編者注して『笑カ』とある。漢籍リポジトリ」の「能改齋漫錄」の巻十五の「駱駝」を見たところ、確かに「笑」であることが確認出来た。]

 

[やぶちゃん注:「駱駝」西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、

ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries

と、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、

フタコブラクダ Camelus ferus

の二種のみが現生種。ここは後者であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)」を見られたいが、糞のネックレスの話は、そこには載らない。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八九年平凡社刊)の「ラクダ」を参考に調べると、本邦への渡来の現存する初見は「日本書紀」で、巻第二十二の推古天皇紀に、推古天皇七(五九九)年秋九月の条に、「百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。」とあり、これが恐らくは初渡来と考えてよく、その後の推古天皇二六(六一八)年八月にも高麗の貢献品に『駱駝一疋』と見え、更に、巻第二十六の斉明天皇紀の斉明天皇三(六五七)年に西海使が百済より帰還した際、「獻駱駝一箇・驢二箇。」と見え、更に巻第二十九の天武天皇紀の下に、天武天皇八年の条に、新羅からの貢献品として『調物、金・銀・鉄・鼎。錦・絹・布。皮。馬。狗。騾。駱駝之類十餘種』とあって、上代には駱駝は貢献品として人気があったことが窺える。しかし、その後、一千百年余りの間は記録が全くなく、江戸時代の享和三(一八〇三)年になって、アメリカの船が交易を求めてきた船中にフタコブラクダ一頭が乗っていたものの、幕府は追い返しており、上陸さえしていないようである。しかし、この四年前の文政四(一八二一)年六月、オランダ船が長崎に雌雄一対二頭のヒトコブラクダを齎した(ペルシア産であったという)。この二頭は当時の出島の商館長ブロムホフが入手し、将軍徳川家斉に献上しようとしたが、家斉は断った。ブロムホフは、そこで、この二頭を馴染みの遊女糸萩に贈り物として与えたが、彼は糸萩と別れ、文政八(一八二三)年に帰国してしまった。この間に、糸萩は土地の者に身請けされ、駱駝の処置に困って、早々に香具師(やし)に売り飛ばしていた。かくして二頭は見世物とされて、九州・四国へ哀れな道行と相成ってしまう。文政六年四月に大坂、八月に京都、その翌七年八月には江戸両国・広小路と各地で興行に引き廻されたのであった。特に江戸では大評判となり、翌八年春まで引きも切らない大盛況を呈したといい、遊郭では「ラクダ節」なる小唄が流行り、駱駝に因んだ錦絵や玩具まで氾濫した。また、この二頭が非常に仲が良かったことから、上方では、街中を歩く二人連れを「ラクダ」と呼んで囃したともいう。この二頭の駱駝は、その後、東国から越前・加賀・尾張名古屋を回って、再び大坂で興行した後、またしても北国を巡るうちに、寒さのために亡くなったと伝えられるが、詳しい事実は判らないとする(高島春雄「動物渡来物語」(昭和三〇(一九五五)年学風書院刊を原拠とするとある)。荒俣氏も最後に悲哀の感懐を記されているが、まさにこれ、……灼熱のシルク・ロードならぬ……吹雪の越路(こしじ)の道行……そこに命を絶った二人は、これ、いかにも、哀れを誘う…………

「能改齋漫錄」南宋の官人で作家の吳曾(生没年不詳。七十三歳で病死)が一一六二年に板行した書で、見聞した史事や詩文・曲・名物・社会制度などを記録したもので、当時の知られた作家の逸詩・逸文も記し、唐宋両代の文学史的资料として第一級の物とされる。古い医処方や臨床例などの資料としても価値があるという。なお、彼は民衆を救うことを旨とした名官吏であったらしい。

 以下、漢文部を我流で訓読する。一部は返り点に従わなかった。

   *

 宋の吳曾、云はく、

『李昉(りばう)言はく、

「建隆の初め、王師、湖南に下る。澧(れい)・朗(らう)の民、素より、駱駝を識らず。軍に隨ひて、荷を負はせ、頗る、此の畜、有り[やぶちゃん注:多くの駱駝を軍事物資の運搬の役用に従軍させていたという意であろう。]。村落の婦女、見て、驚異し、競ひ來つて、之れを觀る。拜して祝ふ者、有りて、曰はく、

「山王靈聖(さんわうれいせい)たり。願はくは、福祐(ふくいう)を賜へ。」

とて、見るに及びて、膝を屈して促(うなが)すも、又、走りて、之れを避く。曰はく、

「卑下の小人(しやうじん)なり。山王が返拜をば、勞(いた)はらず。」

とて、軍士の見る者、大ひに噱(わら)はざるは無し。

 又、其の遺(のこ)せる所の糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね、男女、項頸(うなじ)の下に戴けり。用ふるに、『兵・疫の氣を禳(はら)ふ』となり。

 南中、相ひ傳ふ、

『以つて笑ひと爲(す)。』

と。

   *

「李昉」(九二五年~九九六年)は宋の学者で官人。「太平広記」や「太平御覧」といった膨大な類書(百科事典)の編集者の一人として知られる。「建隆」は北宋の太祖趙匡胤(ちょう きょういん)の治世、宋朝最初に用いられた元号で九六〇年から九六三年まで。「王師」皇帝直属の軍隊。「澧」「朗」は湖南にある二州の名で、前者は岳州府に、後者は常徳府に属したが、二州で武陵の桃源郷のあるとされた所として知られた。現在の湖南省常徳市桃源県(グーグル・マップ・データ)がある附近。「山王靈聖」不詳。土俗の考えた神の使者ということであろう。中国の幻獣的神像には駱駝をハイブリッドしたものがあるようである。「福祐」幸福や裕福。「糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね」ラクダの糞は黒い球状を成すので、それを紐で貫いて、数珠のようにして首に掛けたものと思われる。「兵・疫の氣」戦乱や疫病を起こす悪しき気の意であろう。]

甲子夜話續編 卷三 (「続」3―15 高松侯の臣に沼田逸平次と云あり……)

 

[やぶちゃん注:本話は、先程公開した『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高松邸中厩失火之事』(筑後国柳河藩士西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年:号は一甫(いっぽ))の発表)を調べるうちに、ここに同じ内容を記したものがあることを知ったので、遙かなフライングであるが、電子化することとした。なお、本巻は目録が本文と異なるため、標題を示すことが出来ないので、以上のような標題とした。リンク先で附した注で判ることは繰り返さないので、そちらを、まずは読まれたい。]

 

高松侯の臣に沼田逸平次と云あり。馬乘を役として、傍ら好事の人なり。古昔の圖書若干を藏して、己の著書も亦、有り。近年、侯邸の厩より、火を失して燒亡せしとき、初め、火の起りし折、馬添の者、狼狽して爲ん所を知らず。沼田、其子某と共に進で、炎中に入り、侯父子の乘馬に、皆、具を調へ、焰々を脫れ出、侯父子を騎せしめ、邸を立退しむ。因て、侯、危難をまぬかる。沼田、思へらく、『この如き急火、貯る所の物一も焚を免かれじ。』と。途中より、還て、火を視るに、刀箱、烟中に在て、火、既に遍く、木・鐵、皆、燃へ、その間に掛幅の如きもの、有り。忽、思ひ出すは、『是、侯家、常に敬藏する所の神祖の御畫眞歟。』と。廼、火中より引出すに、燒痕、なし。開て見れば、尊容、嚴然として故の如し。人皆、駭かざる者、なかりし、とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「爲ん所」「なさんところ」。

「進で」「すすんで」。

「立退しむ」「たちのかしむ」。

「貯る」「をさむる」。

「焚」「やくる」。

「刀箱」藩重宝の名刀を入れた箱であろう。

「神祖の御畫眞」神祖徳川家康公の御真影。「御畫眞」の読みは不明。「おんぐわしん」と一応、読んでおく。

「廼」「すなはち」。

「開て」「ひらきて」。

「駭かざる」「おどろかざる」。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高松邸中厩失火之事

 

[やぶちゃん注:長くはないが、全体にベタで続いている箇所が多く、だらだらして読み難いので、段落を成形した。太字は底本では傍点「ヽ」。]

    ○高松邸中厩失火之事 松羅舘記

 文化八年乙酉[やぶちゃん注:おかしい。文化八年は辛未である。文化八年が正しいなら一八一一年だが、最後に「文政乙酉」とあるから、元号の誤りである。文政八年乙酉は一八二五年。]二月廿三日の夜、小石川御門内なる高松の邸の厩より、失火せしよし、聞えしかば、沼田は【逸平次[やぶちゃん注:「いつぺいじ(いっぺいじ)」と読んでおく。]といふ馬役なり。】いかに燬[やぶちゃん注:「き」。火災。]をのがれし歟、

『書籍・卷物などは、いかにしけん。』

と思ひつゝ、ひと日、二日と過ごす程に、あちこちより、風說、聞えて、

「馬、あまた、燒殺せし。」

といふに、うちもおかれず、物なれたる人を遣して、その安否を問はせしに、家の内のものどもは、恙もあらず候へども、さきの日、

「見よ。」

とて、

「寄せられし鑣[やぶちゃん注:「くつわ」或いは「くつばみ」。]は、皆、燒けたり。」

とて、燒け殘りたる卷物の紙に包みて、返してけり。

 抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、

「わが此鑣は、古書に載せたることもありや、よく見て、考へ給ひね。」

とて、沼田に預けおきしなり。しれる人に問はまほしさに、今、圖する事、左の如し。

 木村默老云、

[やぶちゃん注:以下は、図の前までは、底本では全体が一字下げ。]

此銜[やぶちゃん注:「はみ」。]二つは、小子も以前藏弃[やぶちゃん注:「ざうき」。整理せずに所蔵していた。]せり。師傳にては、朝鮮國の調馬轡なりと云ふ。甞て乘馬にかけ試みしに、用ひ樣によりて、大に益あり。存するなり。

「唐山馬櫛」と云ふものも、疑ふらくは、非唐山之物歟。蘭人ケイヅルなる者の書ける書册中に、此物、見えたり。

全體、此沼田逸平次、國勝手へ申付たる節、在國にて委敷儀は不知ども、此書面とは相違のある樣に存ずるなり。

 

Kutuwakusi

 

[やぶちゃん注:図のキャプション(反時計回りで)。

この大輪を上にしたること、「月山のハミ」と云ひ、下にしたるを、「山月のハミ」といふとぞ。

櫛ノ「ウラ」。

鑣は此外にふたつあり、今、畧す。

唐山馬櫛。以鉄造之。

 なお、以下の「いひおこせり。」までは底本では行頭からで、字下げなし。]

 

 この時、沼田が口狀に、「和君も、はやく、柳川へかへり給へ。長居は、實に、おそれあり。われら、けふまで、江戶にあらずば、この災をのがるべきに。」と、かごとがましくいひおこせけり。

[やぶちゃん注:以下「いへるなり。」までは底本では一字下げ。]

 沼田は、おとゝし、家老の處分にて、

「國勝手たるべし。」

といひつけられしに、目黑にまします老君の聞こしめして、

「今、故もなく、逸平次を國勝手たらしめて、子どもが馬術の師範には、誰をかする。」

と問はせたまふに、老臣等は、閉口して、今に何の沙汰もなく、そがまゝ、江戶におかるゝなり。

 予も去歲[やぶちゃん注:「いんぬるとし」。]の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では「怪有なる事になん。」までは、行頭からべったり。]

 風說、とかくに定かならねば、

『みづから安否を問はん。』

と思ひて、其日の黃昏に、沼田がり、おとづれしに、宿所は、なほも、上屋敷にて、假住居なる玄關には、冑の鉢・鐙・挾箱の鐵物・藥鑵の類の燒けたるを、處せきまで、積みかさねたり。かくて沼田が子息源太郞、出で迎へて、

「かゝる仕合、賢察を給へかし。おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ。」

といふ。

 嘆息の外、なかりけり。

 そのとき、あるじ逸平次は、麻上下の下のみを着て、いそがはしく立ちいでつゝ、

「見給ふごとく、かゝる仕合、今朝しも、使を給はりしに、今、又、みづから訪はせ給ふ。おんこゝろばへ、淺からず。いとよろこばしく候。

といふ。

 物のいひざま、眼ざしさへ、怒りをふくめるやうに見えたり。

 逸平次、又、いふやう、

「きのふ、『見よ』とて、つかはされたる鑣も、殿[やぶちゃん注:「しんがり」。]に火中に入りぬ。今さらに面ぶせなり。殊さら、遺留物の唐鞍なども、灰になりて候はん。」

といふ。

「そは、ものゝ屑にも、あらじ。彼書籍・卷物なんどは、燒やしたる。」

と尋ねしに、

「さればとよ、非常の時の爲にとて、長櫃にいれたりしがまゝ、燒けて殘るものなり。只、これらのみならず、十二疋有りける馬を、馬は十疋、人、三人まで、燒殺して候なり。きのふ、高松へ飛脚を立たせて、一くだりは申しつかはし、けふ又、つばらに云々と申しつかはすべき爲に、飛脚の用意はしたれども、下役のものどもを、日に日によびて、問ひ質せども、そのたび每に、いふよし、たがひて、書きとゞむべくも、あらず。ほどほど、當惑至極せり。」

と、詞、せはしく、物がたれり。

「そは、やすからぬことなりけり。はや、その事を果し給へ。又こそ、來らめ。」

と別れを告げて、そがまゝに、まかりぬ。

 猶、問はまほしき事はあれども、さる、いとまある時ならねば、思ひながらに、默止せり。

 孔子の馬を問ひ給はざりしは、只、人畜輕重のわいだめ[やぶちゃん注:「辨別・分別」で「わきだめ」の音変化。古くは「わいため」とも。「区別・差別・けじめ」の意。]にこそあらめ。

 いまの諸侯の厩には、馬一疋に、或は二人、或は一人、隷かぬはなし[やぶちゃん注:「つかぬはなし」。]。そが爲に奉公せんもの、預かられたる馬を殺して、わが身に恙なければとて、人には、面を、むけがたかるべし。

 世の風說を傳へ聞くに、

「彼死したる三人のうちに、一人は馬の轡づらにすがりつゝ死してありし。」

といへり。これらは特に賞すべし。

 

 予、甞て馬を好む癖あり。その馬を預けおくものを「馬持」といふ。俗には「別當」とよびなせり。されば、この別當には、あだし中間・小ものより、一しほに心をつけて、折々、よびて、酒などのませ、馬の事を問ひなどして、

「手いれを等閑になせそ。」

といふ。則、これ、子につけたる乳母にひとしく、子を愛する情に、近し。そを、十疋まで燒き殺したる沼田が意中、いかにぞや。いとも怪有なる事になん。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 此頃、黑澤竹所より、よせられし簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]のはし書に、

「この比、高松藩失火之節、厩より出候事故、沼田逸平次、誠に丸燒、一向、諸道具等、持出し侯隙、無之候由、私も一兩度相尋申候、氣之毒成事仕候。殊に私は、貸置候書籍燒失、是非なき事なり。あなたよりも、貴藏の書、參り居候よし、如何候哉。多分、むづかしく候半と奉存候。」下略

 文政乙酉春三月朔       松蘿山人

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、会員の一人「松蘿館」西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年:号は一甫(いっぽ))は筑後国柳河藩士。幼少より江戸で生活し、定府藩士として、留守居役・小姓頭格用人などを勤めた。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に、後の「兎園会」にも参加したものの、この文政八(一八二五)年の翌月四月、驕奢遊蕩を理由としてか、「風聞宜しからず」によって、幕府から国元筑紫(柳河藩)への国元蟄居の譴責を受け、江戸を退去させられている。天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲して終わった(ここでは当該ウィキに拠った)。冒頭の大槻氏の序の解説を参照。

「小石川御門内なる高松の邸」この讃岐高松藩上屋敷でこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「沼田」「逸平次」讃岐高松藩大坪流馬術師沼田美備(びび)。この人物、かなり知られた馬術家で、馬術書「騎格順道」であるとか、地獄極楽を舞台に馬術を主題とした滑稽な読本「冥冥騎談」などの著作がある。後者は「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」には詳しい奇想天外な内容の梗概が載る。また、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでは、彼の肖像画さえ見られる。絵師は栗原信充で、左手に『沼田逸平次美備【嘉永元年七月廿二日【七十八】】』とある。

「默老翁」既出既注だが、再掲しておく。木村黙老(安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。砂糖為替法の施行や塩田開発などで藩財政を再建したことで知られる。馬琴と非常に親しくした友人で、馬琴との交際は江戸勤番中の、天宝年間から始まり、江戸詰が終わって高松に帰ってからも親交が続いた。蔵書家として知られ、浄瑠璃・歌舞伎・読本・合巻などの戯作に精通し、自身も大著の随筆「聞まゝ記」、戯作者の小伝「戲作者考補遺」などを書いている(以上は三宅宏幸氏の論文「木村黙老の蔵書目録(一) ―多和文庫蔵『高松家老臣木村亘所蔵書籍目録残欠』(上)」(愛知県立大学『説林』愛知県立大学国文学会編 ・二〇一八年三月)に拠った。PDFでダウン・ロード可能)。

「師傳」黙老の師匠の教え。

「唐山馬櫛」「たうざんばしつ」或いは「たうざんのむまぐし」か。「唐山」は中国の意。

「蘭人ケイヅルなる者の書ける書册」ハンス・ユルゲン・ケイズル(Hans Jurgen Keijser 一六九七年~一七三五年)は江戸中期に来日したオランダ人馬術家。本邦で最初に西洋式の騎法を公開演技した。享保一一(一七二六)年に来日、同年三月一日には将軍徳川吉宗の乗馬上覧に浴し、同十四年・十五年・二十年と四回に渡って実演した。「有徳院殿御実紀」には「幕府はケイズルを江戸に呼びよせて遊覧させ、また、斎藤盛安や馬役富田又左衛門らの幕士にも学ばせた」と記されている。約十年間の長きに亙って幕府と関係を持ち、オランダの馬術の紹介に努めた労として、彼のために江戸大川で花火が催されてもいる(ここまでは生年を除いて「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。講談社「日本人名大辞典」では上記の生年を明記し、来日した翌年には吉宗に洋馬を献上し、その後もたびたび江戸で洋式馬術を披露する一方、馬の飼養法・病馬治療法なども斎藤盛安らに教授したが、これを今村英生(えいせい)が「西説伯楽必携」として刊行したとあり、黙老の見たのも、この本であろう。なお、ケイズルは一七三五年十二月五日、日本からの帰国途上の船中で殺された(事件不明)とある。

「目黑にまします老君」高松藩江戸下屋敷は、現在の国立科学博物館附属自然教育園(旧白金御料地)にあった。「老君」は第八代藩主松平頼儀(よりのり 安永四(一七七五)年~文政一二(一八二九)年)は文政四(一八二一)年に婿養子頼恕(よりひろ:水戸藩第七代藩主徳川治紀(はるとし)の次男)に藩主を譲って、隠居していた。

「予も去歲の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり」これは発表者西原好和が、幕府からの譴責を受けて国元へ退去を命ぜられている事実を隠して、既に国元へ帰ることになっていたのだが、ちょっとした訳があって、遅れていたのを、来月に帰藩することに決めたものであると、誤魔化しているように感ぜられるが、如何?

「おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ」実際には三人と十頭が焼死しているわけだが、その事実を幕府に伝えれば、出火・消火・救助の管理が全く行われなかったとして、かなり重い処罰が担当者や藩に下されるためであることは言うまでもない。

「面ぶせ」「面伏(おもてぶ)せ」。恥ずかしくて顔を伏せるほどであること。不名誉。「おもぶせ」とも読む。「面目ない」に同じ。

「孔子の馬を問ひ給はざりし」「論語」の「郷党篇第十」の以下。

   *

廄焚。子退朝曰、「傷人乎。」不問馬。

(廄(うまや)焚(や)けたり。子、朝(てう)より退(しりぞ)きて曰はく、「人を傷(そこな)へるか。」と。馬を問はず。)

   *

「黑澤竹所」西原の知人らしいが、不詳。]

2021/08/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 安宅丸御船修造之節の漆の事

 

   ○安宅丸御船修造之節の漆の事

武州草加宿百姓大岡八郞右衞門といふ者、町奉行所より御差紙にて、御呼出し有之候。其趣。

「むかし、『安宅丸』御船出來之節、右、大岡先祖、此御船を塗りたるよし。其節の漆調合之法、今、以、書留有之哉。」と御尋なり。然るに、今、八郞右衞門事、「今は百姓なれば、一向、右樣之書物など、有無とも辨へず。いづれ相尋候上にて、御請可申上。」とて、夫より、家内に昔より持ち傳へたる簞笥等、吟味したるに、其中より、右「安宅丸漆塗之法書」等、其外、右に付きたる書物共、出でたれば、大によろこび、早速、上へ差し出だしたり。右書物にて考ふれば、平日、家内にて遣ふ、給仕盆三枚、硯箱壱つ、硯ふた一面とも、昔の漆のあまりにて、ぬりたるものゝよし、則、此三品をも差し出だしたれば、給仕盆一枚、とめおかれ、「殘の品は、隨分、大切に所持いたし候樣に。」と、被仰渡て下しおかれしとなり。

  此大岡氏は、本町藥店小西九郞兵衞の内緣あるものゝよし。

  右、小西かたにつとめたるものゝ話にて、これも文化子年の事なり【文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし。】[やぶちゃん注:頭書。]

   文政八三月朔   文 寶 亭 誌

 

[やぶちゃん注:「安宅丸」(あたけまる)は冒頭の目録で注した。但し、これは安宅丸を修理するためではない。安宅丸は天和二(一六八二)年に幕府によって解体されているからである。では、何のためか? 或いは、安宅丸なき後、幕府が将軍の御座船として幕末まで保有し続けた関船(中型軍用船)「天地丸」(てんちまる:寛永七(一六三〇)年六月に時の将軍徳川家光により試乗が行われた)の修理に際して、特定の箇所の修繕の参考にする必要があったのではなかったろうか?

「草加宿」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「本町」(ほんちやう)で旧日本橋本町か。現在の中央区日本橋本町附近

「文化は元年と十三年と子年ふたつあり」文化元年甲子(一八〇四年)に始まるが、文化十五年戊寅(一八一八年)まであるので、文化十三年丙子(一八一六年)がある。]

芥川龍之介書簡抄120 / 大正一四(一九二五)年(一) 三通 「また立ちかへる水無月の」の初出

 

大正一四(一九二五)年二月五日・田端発信・香取先生 侍史・龍之介

 

鴨ヲ難有ウ存ジマス

   たてまつる蕪の鮓は日をへなばあぶらやうかむただに食したまヘ

    二月五日       龍 之 介

   香 取 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介は満三十三歳になった。]

 

 

大正一四(一九二五)年二月十四日・田端発信・與謝野晶子宛

 

冠省先達は御本をありがたうございました。病中床の上でゆつくり拜見しました。あの連作のお歌は地震のならば地震の、溫泉のならば溫泉のと言ふやうに別丁を一頁づつ入れて頂くと讀む方で大へん助かりますが如何ですか。それから假名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました。但し小生のは要するに啖呵を切つたやうなものですが。この手紙と同封して旋頭歌を少々御覽に入れます。御採用下さるのならば明星におのせ下さい。落第ならば御返送下さつても結構です。小生自身には大抵落第してゐる歌ですから。右とりあへず當用のみ 頓首

    二月十四日      芥川龍之介

   與謝野晶子樣

 

[やぶちゃん注:「御本」この年の一月十日にアルスから発行された與謝野晶子の第二十歌集「瑠璃光」。

「小生も改造に(三月の)惡口を書きました」芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」この翌月の三月一日発行の雑誌『改造』に発表された。私は彼の義憤に完全に賛同するものである。私はサイト版で、この「文部省の假名遣改定案について」の初出形を公開しているので、是非、読まれたい。

「旋頭歌」五・七・七・五・七・七の六句形式の歌で、「片歌」を繰り返した形である。上代に多く、記紀歌謡に見られ、「万葉集」にも六十二首があるが、平安になって殆んど姿を消し。「古今和歌集」「千載和歌集」などに数首あるに過ぎない。「旋頭」とは「頭句に還る」の意で,五・七・七の三句を繰り返す詩形の意であろうとされる。この時に晶子に送ったその旋頭歌群は採用され、同じく三月一日発行の『明星』で公開された。それこそが芥川龍之介が片山廣子に向けて捧げた恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」であったのである(リンク先は私のサイトの古い電子版であるため、漢字の正字化が不全であるが、許されたい。縦書もある)。なお、芥川龍之介の秘密の片山廣子のラヴァー・ネームについては、誰も確証を感じさせる答えを出していない。私は全くオリジナルに考えたものがある。興味のある方は、『やぶちゃんの片山廣子の「越し人」考』を読まれたい。

 

 

大正一四(一九二五)年四月十七日修善寺から室生犀星宛

 

澗聲の中に起伏いたし居候。ここに來ても電報ぜめにて閉口なり。三階の一室に孤影蕭然として暮らし居り、女中以外にはまだ誰とも口をきかず、君に見せれば存外交際家でないと褒められる事うけ合なり。又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。

 

   散きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな。

   越のやまかぜふき晴るる

   あまつそらには雲もなし。

 

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

但し誰にも見せぬやうに願上候(きまり惡ければ)尤も君の奧さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。末筆ながらはるかに朝子孃の健康を祈り奉り候この間君の奥さんの抱いてゐるのを見たら椿貞雄の畫のとよく似た毛糸の帽子か何かかぶつてゐた。以上

    十七日朝       澄 江 生

   魚 眠 老 人 梧下

二伸 例の文藝讀本の件につき萩原君から手紙を貰つた。東京へ婦つたら是非あひたい。御次手の節によろしくと言つてくれ給へ。それから僕の小說を萩原君にも讀んで貰らひ、出來るだけ啓發をうけたい。何だか田端が賑になつたやうで甚だ愉快だ。僕は月末か來月の初旬にはかへるから、さうしたら萩原君の所へつれていつてくれ給へ。僕はちよつと大がかりなものを計畫してゐる。但し例によつて未完成に終るかも知れない。

 

[やぶちゃん注:以上の二首の内、後ろのそれは、恐らく芥川龍之介の定型詩の中で最も人口に膾炙した決定稿で、後に「マチネ・ポエティク」の連中が近代定型詩中希有の珠玉の一篇と持ち上げた、

   *

   相聞

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

   *

の、現存する中で最も最初の形である。公開の最初は大正一四(一九二五)年四月発行の『文藝日本』に掲載された歌謡六篇・短歌三首・俳句一句の計十作からなる「澄江堂雜詠」で、 その二ヶ月後の六月発行の『新潮』に掲載された同名異作の「澄江堂雜詠」にも含まれており、芥川龍之介が強い自信とともに、強い癒し難い恋情を以って公開していることが判る。無論、ここ「かなしき人」(愛しき人)とは、片山廣子その人以外の誰でもないのである。龍之介が、この一篇を犀星に最初に見せたことからも、それは判るのである。なお、この一篇については、私の『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇』で詳しく遷移を考察しているので、是非、読まれたい。なお、この書簡は「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡11」で既に電子化してあるが、片山廣子との関係で、非常に重要な書簡であることから、改めて零から電子化し、注も新たに附した。

「澗聲」谷川の流れる音。芥川龍之介はこの四月十日に病気療養(二月中旬に流行性感冒で臥せった予後、ずるずると病気がちであった。但し、それには精神的な負担も加わっていた。二月十八日に、以前に述べたが、仲人をした友人岡栄一郎夫妻が不仲になって、離婚話が持ち上がって(姑と妻の確執に基づくもので、結局、離婚した)、岡がやり場のない鬱憤を媒酌人の龍之介に向けたことや、同日夜に文の弟塚本八洲が三度目の喀血を起こし、以後、その見舞いなどで忙殺されたこと、幼馴染みの友人清水昌彦が結核で倒れたことを知ったりといったことが彼の神経をさらに擦り減らしたのであった)のために修善寺温泉の新井旅館で翌五月三日まで湯治していた。

「奥さん」とみ子。結婚は大正七(一九一八)年二月。

「朝子孃」犀星の長女。

「椿貞雄」(明治二九(一八九六)年~昭和三二(一九五七)年)は洋画家。

「文藝讀本」興文社から依頼を受けて芥川龍之介が編集した明治・大正の作家の作品を収録したアンソロジー集「近代日本文藝讀本」(全五巻)。関東大震災当日の午前中に同社から依頼を受け、この年の十一月八日に全巻を同時刊行した。今、そのライン・ナップを見ると、非常に優れた作品選びが行われているのであるが、刊行直後から、無断収録や印税分配問題が勃発し、龍之介個人への根拠のない誹謗なども発生し、そのトラブルのために永く悩まされることになった。

「萩原君」萩原朔太郎(明治一九(一九四二)年~昭和一七(一九四二)年:龍之介より六つ年上)。朔太郎は、この四月上旬に大井町(同年二月に前橋から上京していた)から田端に転居しており(同年十一月には鎌倉に転居)、既に彼と旧知の仲となっていた犀星を介して、恐らくはこの言い方からみて、この書簡以降に朔太郎と逢い、親交を結ぶことになったものと思われる。

「ちよつと大がかりなものを計畫してゐる」これ以降で、めぼしい中編作となると、「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』初出。リンク先は私のサイト版)だが、後過ぎる。思うに、これは実は、この年の一月一日発行の雑誌『中央公論』には初回を発表した、「大導寺信輔の半生 ――或精神的風景畫―― 」の続行を意味しているのではないかと私には思われる。同作は結局、単発で終わったのだが、その末尾には、

   *

 附記 この小說もうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。

   *

と明記しているからである。これは続けられたとすれば、「或阿呆の一生」の如き、万華鏡みたようなモザイク画の朦朧としたトリッキーな半生の擬似告白ではなく、相当に気骨に富んだものとなったであろうに。非常に惜しい気が私はしている。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事

 

   ○あやしき少女の事   文寶亭 錄

新肴町嘉兵衞店大工傳吉儀、先月廿五日朝五時比、七歲に罷成候娘「かめ」と申す者を連れ、弓町大助店忍冬湯と申す藥湯渡世致し候榮吉方へ入湯に罷越候處、十一、二歲位に相見え候女子、髮ゆひ候者、右女子同樣に入湯いたし居、右「かめ」と、友達の樣に、心やすく咄などいたし、傳吉歸り候節、娘「かめ」には、よきものを遣し可申間、殘し置候樣、申候に付、何の心も不附殘し置、傳吉、罷歸り申し候處、しばらく過ぎて、右之女子、「かめ」を連れ、傳吉宅へ參り。なれなれ敷いたし、右かめの髮など、ゆひ遣し、菓子抔、遣し候に付、住所相尋候得ば、右之「忍冬湯向米屋の娘」之由申聞、夫より、直に「かめ」をつれ。木挽町芝居に參り、歸りに。同人伯父のよし、同所二丁目裏屋へはいり、「かめ」へ古き丹後島の帶壱筋、木綿島子供前埀壱つ、黑縮緬おこそ頭巾壱、右三品を吳れ、相歸し申候。又候[やぶちゃん注:「またぞろ」。]、翌朝、德利へ、酒壹合程、入、持參、「母より遣候」趣、申候。卽刻、又々、酒少々、德利へ入れ、「めざし鰯」一くし持參、自分と、かんをいたし、たべ、傳吉方に有合候淺漬香の物を貰ひ、たべ、「是は何方にて何程に買ひ候哉」と承り、相歸り、又候、間も無之、右淺漬一本、調ひ、持參、自分、洗ひ、一寸位づつ、大きく、きり、不作法にたべ、相歸り申候に付、不思議に存じ、同夜、傳吉妻「いく」と申者、右之忍冬湯向米屋へ禮に參り候處、「一向相知れ不申」候。猶、又、翌朝、廿八日早朝に、右之娘、參候間、住所、再應、相尋候得共、彼是申し、紛し候に付き、右「いく」・同人忰兼次郞と申す十六歲に相成候者、兩人にて、「行先を見屆可申」と申合、右娘、歸り候節、跡をつけ參候處、南橫町より、西紺屋町河岸へ、足早に參候間、『見屆可申』と存候内、何方へ參候哉、見失ひ、一向行方相知れ不申候に付、右町内を、近邊とも、再應、承り合候處、右の少女、此節、處々へ參り、娘の子の髮など、ゆひ遣し候に付、宿を承り候へ共、家々にて、替り候名前のみ、申候」儀に付、全く、狐狸の成す業にも可有之哉。此節、專ら處々方々にて、右體の取沙汰御座候に付、此段申上候以上。

 子十二月十一日

  新肴町名主後見 西紺屋町名主 彌五右衞門

右書上げのまま寫し、こは、文化元甲子年の事なり。

 

[やぶちゃん注:私は既に、高校国語教師時代のオリジナル古典教材としての教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」によって、古典の授業で何度も実際に扱った。そちらでは、私の現代語訳も附して詳細注も施してあるが(但し、原文は高校生対象なれば、新字表記である)、今回はその注を元に、ブラッシュ・アップして、以下に注する。元は高校生向けの注なので、不要なものもあるが、私の教師時代の思い出として、項目はカットせずに示した。

「文寶亭」「兎園小説」の冒頭に添えた大槻修二氏の序によると、亀屋久右衛門、本名不詳。飯田町で薬種を商い、後に二代目蜀山人の号を継いだ、とある。

「新肴町(しんさかなまち)」現在の銀座三丁目の西。この中央の区画(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「店」(たな/ここでは連濁して「だな」)貸家。江戸時代、長屋全体には所有する大家の名前や通称地名等を付けて呼んだ。

「儀」(主に文章語として)人を示す体言に添えて、「それについて言えば」の意を示す。特に訳す必要はない。

「罷成候」(まかりなりさふらふ)町方役人に提出するための上申書であるため、全文が候文の丁寧表現であり、また、その殆んどの場面で、庶民の行動が謙譲表現になっている。この「罷る」は単に自己側の行動を卑下した謙譲表現である。「なる」は準公式文書の改まった表現であって、全体を訳すと「参りました」となる。

「弓町」(ゆみちやう)現在の中央区銀座二丁目三番から五番。新肴町の東北で道を介して接する。

「先月」十一月。末尾に「子十二月十一日」(「子」(ね)文化元年は以下に示されるように干支は甲子(きのえね/かつし)であるので、こう記載した。当時の年号記載では極めて一般的である。そもそも最近のことを記載し、それがアップ・トゥ・デイトに読まれるものであるならば、干支の十二支の部分をのみを記せば、まず誰も年を誤ることなかったからである)「文化元甲子年」のクレジットがある。グレゴリオ暦ではちょっとややこしい。上申書を差し出した「十二月十一日」は一八〇五年一月十一日であるが、事件の初回は旧暦十一月二十五日で、一八〇四年十二月二十六日に当たる。

「朝五時」「あさいつつどき」。「朝五ツ」は不定時法で、真冬であるから、丁度、冬至を過ぎた頃であるから、午前八時半前頃であろう。

「薬湯」(やくたう)薬風呂。薬草・薬石等を混入した風呂であるが、これは江戸期の湯屋(ゆうや=銭湯)であるので、蒸気の中に薫蒸した薬草等を入れたものである可能性もある。

「渡世」それを生業としていることを指す。営業。

「罷越候処」「まかりこしさうらふところ」。

「十一、二歳位に相見え」後にも多出する「相」(あひ)は漢文脈によく現れる用字で、ある動作や状態の場面において、何か対象が存在することを示しており、「互いに」という意味ではなく、訳す必要はない。

補説㊀

 ここでは「相見え」の部分に着目しておこう。この少女は実際には、子供っぽい顔であったのかもしれない。もっと年上の可能性が大きい。それは次の「髮ゆひ候者」という部分が根拠となる。これは当時の髪上げの習慣が十一歳が下限であったからこそ、このように述べていると考えられるからである。すなわち伝吉は専ら少女の髪形に引かれる形で年齢を推定をしているのである。

「居」(をり)これは、当時の湯屋の構造から、湯に膝まで浸かっていたか、板敷きに座っていたかの二様に取れるが、実際には、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、後者で取るべきである。

「咄」「はなし」。

「節」(せつ)は「折・時」の意。

「娘かめには、よきものを遣し可申間、残し置候樣」ここは少女の言葉の間接話法。

「遣す」(つかはす)は「やる・与える・贈る」。これは本来、尊敬語である(「遣ふ」未然形+尊敬の助動詞「す」)が、現代語の「あげる」(「やる」の尊敬語)同様に、江戸期には敬語の意味を喪失していた。

「可申間」(まうすべきあひだ)は「~しようとしておりますので」。この助動詞「べし」は予定・予想の用法。

「何の心も不附」(なんのこころもつけず)。「こころつく」は他動詞下二段なので(四段ならば、自動詞)、①「心をとめる・執心する」、②「注意する・警告する」であるが、ここでは②で、「気にかけない」の意味である。そうすると、伝吉が、何故、気にかけなかったのかが、問題となる。これは、彼が、この少女を、自分の知らない、娘「かめ」の知り合いの友達だと早合点したからである。でなければ、不用意に娘を託すはずがないからである。父は大工で、しかもこの子は女の子であるから、「かめ」と遊ぶのは、家内でのことで、実際の「かめ」の親しい遊び仲間などさえも、およそまるで知らなかったに違いない。

「なれなれ敷」(しく)。「敷」は形容詞の活用語尾。よくこのように漢字表記した。文章からは、余り、そのような印象を受けないが、事実は伝吉一家がびっくりするような馴れ馴れしい行動があったか、若しくは、後述の翌日の小娘らしからぬ行動等が、この文書作成時の証言に影響したものかもしれない。

「菓子抔遣し」「抔」は「等」の異体字。ここでは、少女が菓子を与えていることに注意しておきたい。以下、この少女、子供にも関わらず、物持ちで、大人びた余裕もあるのである。

「相尋候得ば」「あひたづねさうらふえれば」。尋ねて見ましたところ。接続助詞「ば」は順接の確定条件なので、とりあえず文法的に正しく、「得」は「うれ」と已然形で読んでおく。但し、実際にはこれは、当時は「さうらえば」と読んでいた。

「右之忍冬湯向米屋」「みぎの、にんとうゆ、むかひ、こめや」。

「夫」「それ」。

「直に」「ただちに」。「ぢきに」と読んでもよい。

「木挽町」(こびきちやう)は現在の銀座四丁目の歌舞伎座がある場所を中心に北東から南西にかけて、当時の三十間川(堀)沿いに南東へ長く存在した。上記の町名も含め、「古地図 with MapFan」で見るのが、実は手っ取り早い。

「裏屋」裏長屋。

「丹後島の帶」「島」は「縞」。丹後国(現在の京都府北部)与謝(よざ)地方から産出した縞の紬(つむぎ)織物。丹後産のものは最高級品である。

「前埀」(まへだれ)はエプロン。

「縮緬」(ちりめん)生地の表面に細かな縮(ちじみ)じわ(=しぼ(皺))のある絹織物。やはり、丹後が随一とされた。

「おこそ頭巾」方形の布に耳掛けの紐輪をつけたずきん。主として冬季、防寒のために着装したもので、上等品は「浜ちりめん」(滋賀県長浜市を中心に生産される高級絹織物の総称。「丹後ちりめん」とともに「ちりめん」の二大産地の一つ)で作ったという。黒縮緬の子供用ともなると、これはどうみても、大変な高級品ということになろう。

「持参」「もちまゐり」。

「遣候趣申候」「つかはしさうらふおもむき、まうしさうらふ」。『「母から、『持って行って差しあげるように、と言われました。』というような内容のことを、この少女が、申しました』。

「自分と」「おのづと」と読みたい。「自分から・勝手に」の意である。

「かん」酒のお燗。

「たべ」これは持参した目刺しの鰯を肴にして、酒を飲んだことを指している。見た目が十一、二歳の少女では、これはやはり、当時としても相当に奇異なものに見えたことであろう。

「有合」「ありあはせし」。あり合わせの物。たまたまあったもの。おかずの余り、ほどの意であろう。

「是は何方」(いづかたにて)「にて何程」(いかほど)「に買ひ候哉」「哉」は「や」で疑問の終助詞。

補説㊁

直接話法の記載が臨場感があってよい。その様子がありありとよく想起出来る。さて、ここで、是非、着目して貰いたいのは「何程に」という表現である。これは「どれくらい」という意味である。単に、この「おこうこ」(漬物)が気に入ったのならば「何方にて」で十分なはずである。伝吉や記載者である名主弥五右衛門が、わざわざ、この部分を直接話法で書いたのは、まさに「何程に」と、少女が言ったことが、いかにも奇異に感じたからに相違あるまい。即ち、この少女は、実は当たり前の「おこうこ」が、いかなる形状をしているかを知らないからこそ、「何方にて」「何程に」という頓珍漢な質問をしたのでないだろうか。「おこうこ」を知らない庶民の子はいない。さて? この子は一体、何者か?

「又候、間も無之」「またぞろ、まもなく、これ」。「之」は少女。「またしても、その日のうちに、間もなく、すぐやってきまして」

「調ひ」「ととのひ」。「準備する・そろえる」。

「自分」先と同じで「おのづと」或いは、これで「おのづから」と読ませているかも知れない。

「一寸」約三センチメートル。「おこうこ」の切り方としては、大変な厚さである。やはり、彼女は「おこうこ」を知らないのだ。

「不作法」「なれなれ敷」に次いで出現する批判的な言辞である。確かに――一日に二度も来訪し、「おこうこ」をどでかく切って、それをバリバリと食べ、酒を飲む、十歳余りの少女――は、これ、強烈である。

「一向」(いつかう)は副詞で、下に打消を伴って「全く(~ない)」の意。

「再応」(さいおう)は「再度・再び」。

「共」(ども)は逆接の接続助詞。よく漢字表記をする。

「忰」伜(せがれ)。

「見届可申」『「見届け申すべし」と申し合はせ』。「見届けるのがよかろうと話し合い。「べし」は適当の用法。

「南橫町」現在の神田岩本町が、嘗ての紺屋町二丁目横町を明治二年に合併していることまでは突き止めた(教案作成当時、「神田ふれあい通り商店会」公式サイト内の「神田の土地、町名の移り変わり 其の三」を参照したが、現在、このページは存在しないようである)が、現行の岩本町では、ロケーションが北に飛び過ぎるから、違う。正式な町名ではなく、一般名詞の「南」にあった狭い「橫町(よこちやう)」を抜けて、の意でとるべきであろうか。或いは南紺屋町が、次注のリンク先の北に道を隔てて接しているから、「南」紺屋町の「橫町」(よこちょう)から「西紺屋町」に抜けたというのを略したものかも知れない。

「西紺屋町」現在の中央区銀座二丁目二番・銀座三丁目二番・銀座四丁目二番にあった町の名。現在の有楽町駅の南東に北東から南西に、山下堀の堀沿いにあったことが、「古地図 with MapFan」で判る。

「河岸」(かし)は河川の舟から、人や荷物を上げ下ろしする場所。但し、「西紺屋町」は山下堀にしか面していないので、川ではない。ただ、北直近(南紺屋町)で京橋川と接続しているから、そこから舟は入ることが出来るので、西紺屋町の堀側には河岸があっても不自然ではない。

「哉(や)」前出の疑問の終助詞。

「近邊とも」「共」で、「右町内」だけでなく、その辺縁の近辺を何カ所も、という意であろう。或いは、「共に」の「に」の脱字で、『「いく」と兼次郎二人一緒に』の意味かもしれない。

「承り合」(うけたまはりあひ)は「謹んで(少女のことについて、二人で)聞き回って」。

「可有之哉」(これあるべきかな)の「哉」は「や」と読んで疑問の終助詞とも取れるが、風聞になっている内容を考えると、詠嘆の終助詞の方が、お上へのインパクトが強くてよいと思う。

「右體」(みぎてい)の「體」は名詞の接尾語的な用法で、「~のようなもの・~風な」。以上のような話が。

「此段申上候以上」「このだん、まうしあげ、さうらふ、いじやう」。地下文書の常套的な擱筆の措辞。

「名主」近世における村の長。「庄屋」「肝煎(きもいり)」等の称があり、一般的には東国では「名主」、西国では「庄屋」が多い。ここで「新肴町名主後見 西紺屋町名主」という名義になっているのは、新肴町名主が若いか、もしくは何らかの理由で不在・職務遂行不能なために、隣町の西紺屋町名主弥五右衛門が代理人となったということであろう。

補説㊂《狐狸妖怪か? はたまた、時空を越えたタイムトラベラーか? 少女の正体は?》

 この少女は何者であったのか?

 人々は狐狸の変化(へんげ)と捉え、その不可解さゆえに役所への上申さえ行っている。しかし、どうであろう、この少女は当時の法どころか、公序良俗に著しく反するような行為は何もしていないのである(敢えて言うなら、伝吉の家での飲酒や無作法・住所詐称していることを挙げることは出来ようが、それによって、誰かが大きな不利益を被っているわけでもない)。上申の意図は、まさに狐狸のような行い(あくまで「ような」である。人々は全部が全部、実際に「狐狸のしわざ」と思い込んでいたのではあるまい。何らかの悪党の大働きのための下調べのような人物(「引き込み」)として、彼女の行動を現実的に捉えてもいたのかも知れない)であるであるから、きっと、今に何かの悪事に繋がるであろうと考えて、何らかの探索や予防策を含めて、怪現象の終息を官憲に望んだのであろう。

 しかし、少なくともそれに繋がる異変は起こらなかったと見てよい。「兎園小説」成立の一八二五年まで、二十一年が経過している。もし、何らかの影響関係のありそうな事件が出来(しゅったい)しておれば、考証オタクの馬琴が黙っているはずがないからである。そんな、この怪しい話を面白くするような珍事件があれば、彼は真っ先に飛びついたはずだからである。

 狐狸妖怪の類いでないとしたら、どのような解釈が可能であるか。そのヒントは、やはり原文の中に見いだし得ると思う。

 補説㊁で述べたように、この少女は極めて一般的な下層庶民伝吉の家にあった粗末な浅漬けの香の物の実物さえ知らないのである。これは庶民ではあり得ないし、当時、差別されていた非差別民であった穢多・非人層等でも、なおのこと、あり得ないことである(因みに、話は外れるが、当時の江戸の穢多・非人層が我々の想像とはかなり違って、相当な生活レベルを維持しており、弾左衛門らを統率者として、ある種の組織的民主的とも言える生活を営んでいたことは是非知っておいて貰いたい)。

 この少女、気前がいい。七歳の「かめ」にお菓子をやるどころか、芝居を見に連れて行くわ(当時、子どもから観劇料を取ったかどうかは分からないが、取ったとすれば、少女が払ったとしか思えない)、その帰りには伯父と称する者の家に行き、目ん玉が飛び出るような高価な品々をプレゼントしているのである。因みに、この「かめ」に、その伯父の「裏屋」なるものが何処であったかを尋ねていないのが、甚だ、悔やまれる。

 そもそも、これは、七歳の「かめ」が語った言葉であり、訳した如く、本当に「裏長屋」であったのかどうかでさえ、私は疑わしいと思っている。しがない大工の七歳の子どもである。武家屋敷に裏から入ったり、武士や豪商の別宅や別荘のひっそりとした場所に連れて行かれても、正確にその場を表現し得たとは思われないのである。

 しかし、豪商の娘ならば、それなりに正体は、ばれよう。隠す意図を、本人が、まずは、持たないと思われるし、町屋ならば、人が聞き回り、噂になれば、自ずと特定されるからである。

 さて、現代からタイムスリップした少女といった超常現象や都市伝説を排除するならば、而して、この少女は、間違いなく、武家の、それも、相当な上流階級の娘なのではあるまいかというのが私の推測である。

 そうなると、これはもう、テレビの時代劇にありそうなエピソードを想起させる。どこぞの、やんちゃで、お転婆なお姫様が、日に日に、お忍びで、町へ出て、遊興する。気弱な家臣達は彼女に振り回され、言われるがままに、プレゼントの品を取り揃えておいたりしては、ご機嫌を取るしか、これ、方法が、ないのである(しかし、そこに遠山の金さんや、水戸黄門が現れて話をもっと面白くするというのは、私の夢想の埒外である)。

 さて、しかし、「そんな話が、これ、本当にあったのか?」って? 私も、勿論、類する実話を聴いたことは、ない。しかし、そんな事実は、どう考えたって、武家の恥であり、記録に残りようがないものであろう。しかし、だからと言って、「なかった」とは断言出来ない。否定するのなら、君は、どんな真相をここに打ち立てるか? 是非、私をうならせてくれる見事な仮説立ててくれ給え!

 言っておくが、もし、これが正式な上申書であったとしたら、「いたずら」なんかでは決してあり得ないということに気づかねばならぬ。そもそも、実在する地名・屋号・人名でなかったら、この話は版行されるはずがないのである。というより、万一、上申書を偽造し、噓の話で世俗を騒がせたとなれば、「兎園会」の全員が芋蔓式にしょっ引かれて、大目玉を喰らうことは明らかである。さればこそ、すぐに分かるようなレベルの嘘を、少なくとも、天下の戯作者馬琴と、その一党が、つくはずもないのである。そんな嘘なら、戯作として、あり得ないことがはっきりと判るように、幾らでも書ける(大名や幕府批判をして手鎖になったり、処刑されたケースもあることはご存知の通りである)。本話に散見される細部に渡るリアリティ、これはまさに――事実としてあった――と、私は確信している。

 ともかく、真相があるにせよ、ないにせよ、この少女、リアルでありながら、同時に極めてファンタジックだ。何より、まずは――必ず――妹のような幼少の子の髪を結い――好きなことをして――好きなことを言って――そして――忽然と――消えてしまう。それでいて――正真正銘――人を傷つけずに――ふっと――消えてしまう……こんな純粋な子って、今時、珍しくはないか? 私はこの少女に是非とも逢って見たい気がずっとしている。そうして……一緒に……ふっと……この少女と一緒に……消えてしまいたいような気も、するのである…………

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 於竹大日如來緣起の辯・勘解由に見あらはされ

 

   ○於竹大日如來緣起の辯  好問堂稿

安永六年丁酉[やぶちゃん注:一七七七年。]七月、江戶にて於竹大日如來の開帳あり【此より先にも開帳ありや、しらず。】その緣起に云ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では、「玄良坊」の署名まで全体が一字下げ。]

抑、當山の靈像於竹大日如來の權輿を尋ぬるに、文祿年中[やぶちゃん注:一五九三年~一五九六年。豊臣政権による最初の改元。]の頃、武江佐久間何某召し仕ふところの婢女に、「たけ」といふあり。深く三寶に皈依[やぶちゃん注:「歸依」に同じ。]し、雜染浮花[やぶちゃん注:「ざふせんふくわ」。一切の煩悩を増長するところの、上辺は華やかであるが、実質の乏しい現世の対象物。]世間の樂しみを、よしと、願はず。たゞ白淨信心にして、常に愼むところを見るに、日々三時、おのが喫歿する分量の喫食(シヨク)をとゞめて、困餓窮飢の者に施し、朝暮烹炊につき、自ら流れすたる所の粒飯(メシツブ)をおそれうやまひ、厨下流盤(ダイドコロナガシ)のすゑに茶袋を羅布(アミシキ)て、是に止まる淡薄の麁食[やぶちゃん注:「そしよく」。]を嘗めて、自活の料とし、專ら卑下柔順にして、慈悲、曾て怠ること、なし。その頃、同國比企郡に、湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ、此山にあゆみをはこぶこと、年、あり。ある夜の夢に、「汝、生身の如來を拜せんとならば、武江佐久間氏何某の下女を拜せよ。」とて、夢、覺めぬ。斯[やぶちゃん注:「かく」。]の如きの異夢、二度に及びければ、疑ふことなく、武城都下に尋ね來り、夢の告なるよしを語り、佐久間主人に物して、ひそかに竹女が面容を拜すれば、光明輝然として、十方をてらし、尊貌、紫磨[やぶちゃん注:「紫磨金(しまごん)」。紫色を帯びた純粋真正の黄金。]の全身なりければ、主客ともに驚嘆不思議の感淚に咽び、禮拜恭敬して、大悲難思[やぶちゃん注:「だいひなんじ」。大いなる無限の大日如来の慈悲が人間には論理的には理解出来ない不可思議なるものであることを言う。]の應用、末世の奇瑞、心肝に徹して、ふかく渴仰の思をなせり。不思議なるかな。如來は隨處應度[やぶちゃん注:仏が人の心や性格や素質などの違いを超えてそれぞれに応じて説法・教化を施す意。「隨類應同」が一般的。]の悲願に酬いて、難化利益[やぶちゃん注:「なんけりやく」。「け」「やく」はともに呉音。困難な、衆生を教えて善い方向に教化することを、仏があざやかに成就して与えること。]の機關を上人及び勘解由[やぶちゃん注:佐久間主人を指すのであろうが、不審。これは江戸時代は勘定方の異称であるからである。後に附された文を参照。]に見あらはされてや。咫尺の間[やぶちゃん注:「しせき」。ごく近くで。]、竹女が容、消然として[やぶちゃん注:ふっと消えてしまって。]、去るところをしらず。人々、驚愕し、悲慕搜索すれども、跡を認むべきなし。常に起臥せし小房をひらき見れば、只、靈香、馥郁[やぶちゃん注:「ふくいく」。]と薰じ、光明、まさに、眼裏にあるごときのみ。宜哉[やぶちゃん注:「よろしきかな」。]。擧家[やぶちゃん注:「きよか」「いへをあげて」。]、只、聚頭傷々とし[やぶちゃん注:皆々、悲しみ。]、如來お竹、年ごろ、馴親し[やぶちゃん注:「じゆんしんし」と音読みしているか。「なれしたしみ」。]、離情の切なるに、叫び、佛陀善巧の恩德に、なくのみなり。此に於て、勘解由、若干の負財を擲ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山靈場の麓に奉納し、永く靈像の檀那となり、黃金堂に安置し奉る所なり。星霜いまだ遠からず。此こと、人口に膾炙して、世人、おのづから「お竹大日如來」と稱しならはせり。【下略。】

       出羽國羽黑山麓別當 玄良坊

世にありとある神社・佛利[やぶちゃん注:「佛舍利」のことか。]の緣起といふものに、妄誕ならざるは、いと稀なり。此に載する緣起を、かゝるを、實にありと思ひて、疑はざるものあらんは、愚に近し、とこそいはめ。されど、あながちに無しとせんも、又、誣ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」ハ行上二段活用の「しふ」が室町頃に転じたもの。事実を曲げて言う。作りごとを言う。欺く。]に似たり。こゝに於て、今、この緣起を左に辯ぜん。

  文祿年中の比、武江佐久間何某召ふ[やぶちゃん注:「めしつかふ」。]ところの婢女に「竹」といふあり。

「玉滴隱見」に云、『江戶大傳馬町の名主の佐久間善八といひける者の召仕なる「竹」と云ひける下女、去年三月廿一日に死したり。此「竹」こと、主の善八は問屋にて有りければ、大勢の者の食餌にかゝづらひけれども、聊も穀三寶を麁抹にせずして非人を憐み、其雜火[やぶちゃん注:「ざふくわ」で余り物の謂いか。]の餘を以て、牛馬を飼ひ抔して、一生を送りしが、死して其儘、羽州湯殿山麓に金色[やぶちゃん注:「こんじき」。]の光り、一度の内にあらはして、「竹」は中尊裟婆[やぶちゃん注:「そは」でここでは大日如来のこと。胎蔵界大日如来に祈る際の真言は「阿毘羅吽欠裟婆呵」(あびうんけんそわか)であり、「阿毘羅吽欠」は「宇宙一切の生成要素たる地・水・火・風・空」を表わして大日如来の内証を表わす。但し、「裟婆呵」自体は呪言の結句に過ぎず、広義の「成就吉祥」の意である。]にて、主なりし佐久間夫婦は兩脇立と成りて今に有りと云々。此こと、彼御山の佐藤宮内と云ふ神人[やぶちゃん注:「じにん」。下級の神官。]語ㇾ之。また、淺草新寺町獅子吼山善德寺に、如意輪觀音の石塔あり。性岸妙智信女、延寶八庚申[やぶちゃん注:一六八七年。]天五月十九日と彫刻したり。是、「お竹が墓なり」と云ふ。此二條を倂せ案ずるに、「玉滴隱見」、何れの年、誰の撰と云ふこと詳ならねど、その書を閱するに、寬文ごろ[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の事、いと多く見えたれば、そのころのものと、しらる。扨、墓碑の延寶とあるに合へり。されど、その月日の違へるを思ふに、墓碑の正しきは論ずべくもあらず、書に記したるは、遠く出羽の人の傳聞なれば、もとより聊の違ひは、あるべきことなり。されば元祿[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]としもいはんは、さることなれども、文祿とするは、いと謬なり。再びおもふに、かゝること、いと近き世のことは、憚りなきにあらず。その比、忌むところありて、しか記したるも、しるべからざれば、强ひて咎むべきにあらずかし。【此墓碑の事、「溫故名蹟志」・「淺草志」等には漏らしたりき。】

  湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ云々。

此一條は、書寫上人の、生身の普賢を見奉るべきよしを祈請し給ひ、夢の告ありて、神崎の遊女を尋ね給ひし事【詳見古事談僧行篇。[やぶちゃん注:詳らかには、「古事談」の「僧行篇」を見よ。]】を附會したるものと思はる【「書寫上人」とのみにては詳ならず。「書寫山の性空」とあるべし。こは童蒙にいふのみ。】[やぶちゃん注:頭書。]

 

[やぶちゃん注:ウィキの「於竹大日如来」によれば、於竹大日如来(元和九(一六二三)年~延宝八(一六八〇)年)は『江戸時代の女性。名を竹(以降「お竹」)といい』、『周囲からは大日如来の化身とされ、尊崇を集めた』。現在の東京都北区赤羽西にある浄土宗獅子吼山専稱院善徳寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『境内にある墓石の脇には、高さ』五十センチメートル『ほどの石碑があり、以下の文言が刻まれている』。

 お竹大日如來尊影

  延宝八年五月十九日 上天せらる

『ただし、お竹の生没に関しては異説が存在する』。『お竹は現在の山形県庄内地方に生まれ』寛永一七(一六四〇)年、十八歳の『ときに郷里を離れ』、『江戸大伝馬町一丁目に居を構えていた伝馬役で名主の佐久間家に奉公に出た』。『お竹は、佐久間家が廃絶して役を返上するに伴い』、『佐久間家と姻戚関係にあり、同じく伝馬役年寄を務めていた大伝馬町二丁目の名主の馬込家に、他の奉公人とともに移ったものと推測されるが、小津清左衛門長弘(後述)が佐久間家から独立開業したのは』、承応二(一六五三)年と、お竹が三十歳に『なった』時『より』も『後のことである』。歴史学者『幸田成友によると、佐久間家と馬込家の姻戚関係は』『馬込家』三『代目当主の喜與(大給松平家よりの婿養子)が、妻・香の死去』(慶安四(一六五一)年)『後に、佐久間善八の娘を後妻に迎えたことに始まる』。「於竹大日如来井戸跡」の碑文によれば』、『「その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため』、『於竹さんのいる勝手元からは』、『いつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ』、『「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き』、『勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後』、『念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う」、暮らしぶりであった』。先立つ寛永二〇(一六四三)年三月、『後の小津清左衛門長弘は、佐久間家に奉公に出る』。『このとき、長弘は』十九歳、お竹は二十一歳であった。『現在の小津商店の礎を築いた創業者の長弘とお竹は、同じ佐久間家の奉公人として』十『年ほどの時を過ごしている』。承応二(一六五三)年、『小津長弘は佐久間家に隣接する紙商・井上仁左衛門の商売を受け継ぎ』、二十九『歳にして独立開業してほどなく多額の借財も返済し、現在の小津商店の礎を築いた』。『小津長弘は、佐久間家に奉公する以前に一度、呉服商での奉公のため江戸に出ているが、三年後に一旦帰郷しており、翌年には、佐久間家での奉公に出ている。長弘にとって、お竹との交流が如何なるものであったか、想像の域を出ないものの、何かしら特別な想いがあったとしても、不思議ではなかろう』。『お竹は』延宝八年五月十九日(一六八〇年六月十五日)に『逝去した』。『お竹の死後、小津家では、関東大震災で焼失するまで、高さ約』三『尺の於竹大日如来の木像を祀り、毎月』十九『日を命日として同像を開帳していた』とある』。現在は港区東麻布にある浄土宗心光院の『寺伝によると、江戸幕府』五『代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺内の心光院に堂宇を創らせ、お竹大日如来像と、お竹が使用したという流し板を寄進・奉納した。しかし、心光院は』昭和二〇(一九四五)年の戦災によって、『山門と本尊頭部を残して』、『すべてが焼失した。現在の『お竹堂』ほかは、戦後に再建されたものである』とある。なお、サイト「猫の足あと」の心光院の解説の中で、「麻布區史」を引いて、『當寺には節婦竹女(お竹大日如來)の遺物が藏されてゐる』とある。次の附録を参照。

「玉滴隱見」作者不詳。天正(一五七三年~一五九二年)の頃から延宝八(一六八〇)年に至るまでの種々の雑説を年代順に記したもの。 斎藤道三が土岐家を逐う出世話・「本能寺の変」・「関ヶ原の戦い」・「大坂の陣」・「島原の乱」・「慶安事件」・「伊達騒動」・密貿易事件、武将の逸話・幕臣や大名に係わる風聞、江戸を中心とした世上の事件・落書・落首までも収めている。]

 

  ○勘解由に見あらはされ

佐久間氏は勘解由にあらず。「玉滴隱見」に、善八と見えたり。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

「事跡合考」を案ずるに、佐久間平八といふものは元祿後、斷絕とぞ。『菩提所增上寺中心光院佐久間下女の「ながし板」あり』と見ゆ。佐久間氏の名、孰れか是なるを、しらず。けだし「合考」の方、實に近からん。

しかはあれど、「勘解由」と記したるは、「新著聞集」に、『佐久間勘解由』と誤りしによりしものなるべし。

  竹女が容消然として去るところをしらず。

是また、妄誕なること、辯をまたずしてしるものから、佛家にはかゝる奇瑞をいふこと、常なり。愚俗は、あざむくべし[やぶちゃん注:ママ。受身の誤りであろう。]。敢て識者を誣ゆべけんや。已にしるしたるがごとく、今、墓碑、現に存せり。且、「玉滴隱見」に、死をしるし、「新著聞集」に、『精進にして大往生をとげし』と見えたるを、倂せおもふべし。

  勘解由、若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山雲場の麓に奉納し、

「玉滴隱見」に、湯殿山麓に金色の光を顯したるよし、見え、「新著聞集」に、『近所のもの、湯殿山に詣うで竹にあひたりといへるを謬り傳へしものならんか。』。於竹がこと、右二書より外に、詳に、且、誕[やぶちゃん注:底本の吉川弘文館随筆大成版は、この字の右に編者によるママ注記を打っている。]ずべきものなし。されば、これをおきて、もとづくべきなく、その他は、みな、妄誕なること、論をまたず。

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

此會、かねて、けふをしも、「おのれが宅に。」と約したるに、「上巳[やぶちゃん注:上巳(じやうし/じやうみ)は旧暦の五節句の一つ。三月三日。「桃の節句」。]のまへは、ことしげゝれば。」とて、「節過ぎて後こそ、よからめ。」と、かたりあひしに、思はずも、曲亭子に促され、著作堂に集ふことになりければ、『何をか、しるさん。』と枕をわるの思ひなりしが、過し比、小梅村の南無佛庵をとぶらひける道のほどにて、この「お竹」がことをかたり出でたるに、「來れる月の『兎園會』にものせよ。」とありけるを、思ひ出でゝ、そのよしを記して、小說の料に充つと云ふ。

  文政八年乙酉春三月朔

 

[やぶちゃん注:「事跡合考」江戸中期の国学者柏崎具元(とももと ?~安永元(一七七二:本姓は北畠。名は要・具慶。永以などを号した。持明院基輔門人)が江戸開城の様子を述べた書。開幕の諸相を懐古の対象としながら、客観的な叙述に徹しており、大田南畝や山東京伝など、後々の考証家の間で広く読まれた。

「新著聞集」寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めている。 八冊十八篇三百七十七話。永く著者不詳とされてきたが、森銑三の指摘により、紀州藩士で学者の神谷(かみや)養勇軒が、藩主の命によって著したことが定説となっている。但し、厳密には俳諧師椋梨一雪の説話集「続著聞集」を再編集したもので、神谷は編者に過ぎないと考えられている。実際、他の説話集や怪奇談集からの丸ごと写しただけのものも有意に多い(私は怪奇談集で、先行する他者の作品に酷似した箇所を幾つも発見している。ここで挙げた当該条は、「往生篇 第十三」の以下(吉川弘文館随筆大成版を礼の仕儀で正字化した。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを入れた)。

   *

   ○佐久間の竹黃金宮に生ず

江戸大傳馬町、佐久間勘解由召つかひの下女竹は、天性仁慈の志ふかくて、朝夕の飯、我分は乞丐人(こつがいにん)[やぶちゃん注:乞食。]にほどこし、その身は、あがり膳のくひ殘し、又は、流しの隅に網をあて置(おき)、そのたまりし物を食し、つねに、口にまかせて、稱名してけり。ある時、頓死せしに、身も溫(あたたか)なりしかば、「若(もし)やは。」と、人々、守り居たるに、遂に蘇生したり。「いかに。冥途の事は。」と問ば、「されば、いづくともなく廣野を往(ゆき)しに、黃金(わうごん)の宮殿あり。佛、ましまして、『これは、汝が來(きた)る臺(うてな)なり。』と、しめしたまへり。」となり。扨、そのゝち、念佛、いよいよ、精進にして、大往生をとげし。近所のもの、湯殿山に詣(まうで)て、竹に逢(あひ)たり。竹が曰(いはく)、「我は安養世界に住(すみ)侍りし。おのおのも、かならず、念佛したまへ。又、他をめぐむ心あらせよ。」と云(いひ)て、うせしとかや。竹、つねに網をあてし「流し」は、今、增上寺念佛堂心光院の門の天井に、かけ有りけり。

   *

この話では「念佛」と言っており、心光院は浄土宗であるから、そこで唱え、彼女を救ったのも、大日如来ではなく、阿弥陀如来ということになる。

「小梅村」「今昔マップ」で調べたところ、現在の東京スカイツリー周辺であることが判った。

「南無佛庵」書家中村仏庵(宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。名は蓮・連。「南無佛庵」は号。身分は町人であったが、旗本格の待遇を受け、昌平坂学問所で学んだ。書に堪能で、特に梵字に才能を発揮し、仏教学の見識が広いことで知られていた。当代一流の文人たちとも交流があった。著書もある。]

2021/08/16

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(8)~完遂!

 

 文政元年戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬のころ、老侯、又、駿馬を求得(もとめえ)て、「錦帆(きんはん)」と名づけ給ふ。

 則、撫養(ぶやう)の方(かた)を替へて、其厩(むまや)に屋を葺かず、又、板をしも敷(しく)こともなく、只、その牧にありけん如く、馬の、まにまに、せられたり。

 かくて二年の春二月、

「錦帆馬(きんはんば)を試みよ。」

とて、長臣礪﨑氏(かきざきうぢ)【左兵衞廣晃。後に、あらためて「采女」といふ。】を乘せて鎌倉に遣し給ふに、其月の十四日・十五日の兩日に、往返(わうへん)、既に両度(りやうど)に及べり。こは、未曾有の事なれば、老侯、特に歡びのあまり、解に其記を求め給ひき。

「おのれは、わきて、漢文を、ようせず、能文(のうぶん)の儒者、おほかるに、この義は、ゆるし給へかし。」

と、頻に推辭(いなみ)まうしゝかども、

「あだし人には望みなし。とにもかくにも、綴りてよ。」

と、のたまはするに、免れがたくて、俄に創(そう)して、まゐらせたり。然るに、きのふ、ゆくりなく、その草稿を探り出しつ。いと、をこがましきわざながら、錄して、數(かず)に充(みつ)るのみ。

[やぶちゃん注:「礪﨑「左兵衞廣晃」「後に」「采女」不詳だが、蠣崎氏は松前氏とイコールで、戦国時代から蝦夷を本拠とした大名の氏族である。ウィキの「蠣崎氏」によれば、糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して「蠣崎氏」を称した家系があり、その子孫であるとの説がある。『江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き』、『蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある』とあった。

 以下の「駿馬錦帆記」の漢字の順列・返り点・句点位置は必ずしも底本に従わず(おかしなところが相当数あって訓点に従っても正常な訓読が出来ない)、吉川弘文館随筆大成版を参考に、私の判断でいじってある。必ず、底本と吉川弘文館随筆大成版を比較して見られんことを望む。

 

駿馬錦帆記

松前老侯使者副ㇾ予曰。吾老君性愛ㇾ馬。頃購得良馬因徵叟其記是以傳ㇾ命。予謹對曰。昔者秦少浮序八駿。杜甫賛韓幹馬。八駿韓幹卽𤲿馬也。若李伯樂相馬經及劉禹錫說驥。雖ㇾ云生馬。而非一馬爲ㇾ之者。解之寡聞。加ㇾ之昧于馭法何以能ㇾ之。然懇命不ㇾ可得而辭。敢問老侯之愛ㇾ馬。爲武備乎爲畋獵乎。又唯爲衣以文繡一。置以華蓋。席以露牀。啗以棗哺。以倣楚莊之顰乎。天下不ㇾ憂ㇾ無千里之駒。千里之駒。獨苦於不ㇾ遇伯樂。貴使所謂良馬者何也。曰四蹄疾如飛禽乎。曰三鬃𩭟如貞松乎。逸態稜々爲虎文者乎。駿骨超然擬神龍者乎。甞所ㇾ牽於大宛乎。抑所ㇾ出ㇾ自月支乎。願聞其詳矣。使者莞爾笑曰。僕也以ㇾ叟爲通達洒落之士。不ㇾ憶言之悖于此夫善騎者。知ㇾ驥而取ㇾ之。猶明君知ㇾ賢而用ㇾ之。安俟伯樂。然後求良馬之爲哉。齊景公馬有千駟。而孔子譏ㇾ之。楚莊王馬以士禮。而優孟諫ㇾ之。吾老君亦以爲話柄。大約馬之用。在載而馳。奔蹄速爲ㇾ良。遲爲ㇾ蹇。蹇驢服駕無ㇾ用。是以人々却ㇾ之。良馬武事有ㇾ用。是故人々求ㇾ之。雖則求ㇾ之。然良馬難ㇾ致。非良馬之難一ㇾ致。知ㇾ之之難也。骨法卓然。未ㇾ足以爲一レ良。毛色鮮明。未ㇾ足以爲一ㇾ良。飾以錦繡。置以銀鞍。非ㇾ所以愛一レ馬。加ㇾ之以衡扼。齊ㇾ之以月題非ㇾ所以養一レ馬。吾老君毫無ㇾ取焉。唯考其臧否。而擇ㇾ馬養ㇾ馬。厩櫪中如牧馬一般。蓋隨馬性也。是以馬力壯勇。驚馳如ㇾ意。褊藩甞有駿馬一瞬。得之薩摩侯封内喜入野。至享和元年五月九日斃。老君乃請山本北山其顚末。一瞬冢記是已。今之所ㇾ獲。不ㇾ讓於一瞬。名曰錦※[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]。是馬出於下總州葛飾郡小金原中野。其園人吉野嘉橘。養ㇾ之七八年矣。奔蹄神速。不群馬。村翁牧童。曽稱龍種。吾老君聞而徵ㇾ之。其牽來之日。初見ㇾ之。全身薄黃。卽騧馬也。其高勝常馬四寸。年紀八歲于此。左右稱ㇾ良。老君慾ㇾ試ㇾ之。卽命家臣蠣﨑廣晃。遠到于鎌倉。時二月十四日。廣晃跨錦※馬。曉天【寅三㸃。】出ㇾ邸。辰牌【辰鼓過六分。】到鎌倉。謁鶴岡神廟。是日申牌【申正鼓。】還ㇾ邸。明曉【十五日寅一㸃。】廣晃鞭錦※馬一。復赴鎌倉。巳牌【巳鼓過八分。】謁鶴岡神廟。進退如ㇾ昨。社人安田進吾。謂廣晃曰。江府騎馬之士。約往返一日而詣本宮者。爲ㇾ不ㇾ尠矣。其名簿歷々在於此。然同人同馬而連日造於此者。未之有也。宜竹帛以藏神庫。歎賞不ㇾ已【明日神主大伴氏、與廣晃書。以慶賀焉。】。此夕【戌二㸃。】廣晃還ㇾ邸。邸在江戶下谷三絃塹上。至相摸州鎌倉郡鶴岡八幡宮。坂東道一百里又二町。【天朝之制。揣里數段町。六十間爲一町。一町卽三十六丈也。昔者關東。六町爲一里。謂之坂東道。今則三十六町爲一里。坂東道一百里又二町者。今之十六里又二十六町也。下谷三絃塹至日本橋三十町。日本橋至品革驛二里。品革至河崎驛三里四町。此間有餘戶二十六町。加以爲云云。河﨑至程谷一里九町。程谷至戶塚驛二里。戶塚至鎌倉四里六町。土俗私以五十町一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】両日路程。無慮四百里而有ㇾ餘也【以今之里數。卽六十六里三十二町。】。而錦※馬。四蹄無一蹶。廣晃亦不敢曰一レ勞。其詰旦使於簑輪鄕某侯。亭午返命。進退自若。僕所聞見類如ㇾ此。敢請叟文ㇾ之則足也。夫予聞ㇾ之。瘦膝交進。不ㇾ覺灸痂之潰[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]喟然嘆曰。善哉老侯之愛ㇾ馬也。能養ㇾ士。然後養ㇾ馬。是以其食足矣。其食足。則其材美矣。非獨其馬有千里之蹄。其家臣亦有千里之能。可ㇾ謂士馬之養得其方矣。因語使者曰。解先人亦有馬癖。甞善一條駄法。解也不幸。髫歲喪ㇾ親。犬馬之齡。五十有三。不ㇾ知鞭駒爲何等之物。雖狗才愧驥德。將ㇾ始ㇾ自ㇾ隗。冀稱先人之遺志。使者欣然竟去矣。明日乃綴是記未ㇾ遑ㇾ易ㇾ稿。使者再來。誅求甚急。纔補誤脫以呈焉。文政二年己卯春三月飯台瀧澤解撰

 

[やぶちゃん注:底本も吉川弘文館随筆大成版も以上の訓点以外のものは附帯しない。全くの我流で訓読する。長いので、段落を成形した。一部に勝手に敬語を用いた。面倒なので、本文内に注を入れ込んだ。「じっくり読むのでないから、五月蠅い」という学ぶ気のまるでない御仁のために、下線を引いて、飛ばして読めるようしておいた(リンクを附したものには引いていない)。

   *

 

   駿馬「錦帆」の記

 

 松前老侯、使者を予に副(そ)へて曰はく、

「吾が老君、性、馬を愛す。頃(このごろ)、良馬を購(あがな)ひ得られ、因りて叟に其の記を徵(しる)すこと、是れを以つて、命じ傳ふ。」

と。

 予、謹んで對して曰はく、

「昔は、秦少游[やぶちゃん注:北宋の詩人で政治家であった秦観(一〇四九年~一一〇〇年)か、彼の字(あざな)は少游である。底本では「少浮」だが、全然、掛かってこないので、吉川弘文館随筆大成版の「少游」を採用した。]、「八駿」[やぶちゃん注:紀元前十一世紀頃の周王朝の穆王が所有していたとされる中国の伝説に登場する八頭の駿馬「穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)」を絵にしたものか。但し、秦観との関係は不明。思うに、知られたもので、柳宗元に「觀八駿圖說」があるんだがねえ?]を序し、杜甫は韓幹の馬を賛す[やぶちゃん注:韓幹(七〇六年頃~七八三年)は盛唐の画家で詩人王維に画才を見出されて王維は彼のパトロンとなった。人物画や鞍馬画に長けており、まさに馬の画法は後世に大きな影響を与えた。]。「八駿」・「韓幹」は、卽ち、𤲿(ゑが)ける馬なり。李伯樂が「相馬經」[やぶちゃん注:「伯樂相馬經」(はくらくそうばきょう)は伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。]及び劉禹錫(りゆううしやく)「說驥」[やぶちゃん注:中唐の知られた詩人劉禹錫(七七二年~八四二年)が書いた馬の飼育その他について書いた随筆。]のごとし。生きたる馬と云ふ雖も、一馬をして、之れを爲す者は非ず、解(とく)[やぶちゃん注:馬琴の本名。]は之れ、寡聞なり。加之(しかのみならず)、馭法に昧(くら)く、何を以つてか、之れを能くせんや。然れども懇ろなる命を、得て辭するべからず。敢へて問ふ、老侯の馬を愛さるるは、武備の爲めか、畋獵(てんれふ)[やぶちゃん注:狩り。]の爲めか。又、唯だ、文繡を以つて衣(ころも)とし、置くに華蓋を以つてし、露牀[やぶちゃん注:竹で作った涼しくするための床。]を以つて席とし、啗(くら)ふに棗(なつめ)・哺(ほじし)を以つて以つてし、楚莊の顰(ひそみ)に倣ひて爲(な)さんとせらるるか。天下は千里の駒の無きを憂へず、千里の駒は、獨り、伯樂に遇はざるを、苦しむのみ。貴使の、所謂(いふところ)の、「良馬」とは何ぞや。曰四蹄の疾すること、飛ぶ禽(とり)のごときを曰ふか。曰三つの鬃𩭟(たてがみ[やぶちゃん注:二字目の意味は不明。誤魔化した。])貞(ただ)しき松のごときなるを曰ふか。逸態[やぶちゃん注:素早く走る姿。]の稜々として虎の文を爲せる者か。駿骨の超然として神龍に擬せる者か。甞つて、大宛に牽かせるものか。抑(そも)、月支(げつし)[やぶちゃん注:中央・東・南アジアにかつて存在した民族月氏及びその国。]より出されしものか。願はくは、其の詳らかなるを聞かさせんことを。」

と。

 使者、莞爾として笑ひて曰はく。

「僕や、叟を以つて『通達洒落(つうたつしやれ)の士』と爲せり。憶せざる言は、此れに悖(もと)る。夫(そ)れ、善き騎者は、驥を知りて、之れを取る。猶ほ、明君の賢を知りて之れを用ふるがごとし。安(なん)ぞ伯樂を俟(ま)たんや。然る後に、良馬を求め、之れを爲さんや。齊景公、馬、千駟(せんし)[やぶちゃん注:四千頭。或いは四頭立馬車千台。]有り。而して、孔子、之れを譏(そし)る。楚莊王、馬に士の禮を以つてす。而して、優孟[やぶちゃん注:楚の荘王に仕えた倡優(しょうゆう:宮廷附きの道化師)の名(芸名であろう)。]、之れを諫む。吾が老君も亦、以つて、話柄を爲されり。

『大約、馬の用は、載りて馳せるに在り。奔・蹄・速の良を爲す。遲きものは、蹇(けん)[やぶちゃん注:足の具合が悪いこと。]と爲し、「蹇驢服駕(けんろふくが)」にて、用ふること、無し[やぶちゃん注:これは「楚辭」の王褒「九懷」の「株昭」の一節を用いたものである。「蹇驢服駕」とは「足を引きずっている驢馬を車に繫ぐこと」を意味する。因みに吉川弘文館随筆大成版では「服」を「股」とするが、誤りである。]。是れを以つて、人々、之れを却(す)つ。良馬は武事に用有り。是の故に、人々、之れを求む。則ち、之れを求むと雖も、然かなる良馬は致(まね)き難し。良馬の致き難きには非ず。之れを知るの難なり。骨法は卓然たり[やぶちゃん注:真の奥義というものは恐ろしゝ頭抜けたものである。]。未だ以つて良と爲(す)るに足らず。毛色の鮮明も、未だ以つて良と爲るに足らず。飾るに錦繡を以つてし、置くに銀の鞍を以つてするも、以つて馬を愛す所に非ず。加之(しかのみならず)衡扼(かうやく)を以つてす[やぶちゃん注:「衡軛」は牛馬の頸を結びつけるための横木。]。之れを齊しく、月題を以つてす[やぶちゃん注:「月題」が判らない。月ごとにしか厩を掃除しないことか。或いは、月に一度しか馬を厩から出さないことか。]。馬を養ふ所以(しよい)に非ず。』

と。吾が老君、毫(ごう)も取ること無し。唯だ、其の臧否(ざうひ)を考へらる。而して馬を擇(えら)び、馬を養ふ。厩櫪(きゆうれき/むまや)の中(うち)、牧の馬(むま)の一般に同じ。蓋し、馬の性(しやう)に隨ふなり。是れを以つて、馬、力、壯勇たり。驚馳(きやうち)すること、意のごとし。

 褊藩(へんぱん)[やぶちゃん注:領地が狭い藩。]、甞つて、駿馬「一瞬」有り。之れ、薩摩侯の封内の喜入野より得たり。享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月九日に至りて斃(たふ)る。老君、乃(すなは)ち、山本北山に請はれ、其の顚末を識させしむ。『「一瞬冢(いつしゆんづか)」の記』、是れのみ。

 今、之(ここ)に獲(え)し所のもの、「一瞬」に讓らざるなり。名は「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。仮に「きんぷう」と読んでおく。]と曰ふ。是の馬、下總州(かづさのくに)葛飾郡(かつしかのこほり)小金原の中野より出づ[やぶちゃん注:千葉県松戸市小金原(グーグル・マップ・データ)。]。其の園人は吉野嘉橘(かきつ)。之れを養ひて、七、八年たり。奔蹄・神速にして、群馬とは俱(とも)にせず。村翁・牧童、曽つて「龍種(りゆうしゆ/たつのこ)」と稱せり。

 吾が老君、聞きて、之を徵(ちゃう)さる。其の牽き來れるの日、初めて之れを見らる。

 全身薄黃、卽ち、騧馬(くわば)なり[やぶちゃん注:口先が黒く、黄色い毛色の馬。]。其の高(たけ)、常馬より勝れて、四寸(よき)[やぶちゃん注:一メートル三十三センチメートル。「寸(き)」は馬の背丈(文字通り、頸の後部の跨る背の前部まで)を示す専用の助数詞で、標準の高さを四尺(一・二一メートル)とし、それよりも一寸(すん)高い物から一寸(ひとき)と数えていった。因みに、中世までの日本産の馬の大きさは想像以上に小型であった。例えば、義経の「鵯越え」の発案に、畠山重忠は反対しているが(大事な馬の脚が折れる危惧があるという理由である)、決行された。その際、重忠は自分の愛馬を背負って徒歩で崖を下っているのである)。]。年紀、此のとき、八歲なり。

 左右、「良き。」と稱せり。

 老君、之れを試みんと慾され、卽ち、家臣蠣﨑廣晃(かきざきひろあき)に命ぜられ、遠く鎌倉に到らせらる。

 時に二月十四日、廣晃、「錦※馬」に跨り、曉天【寅の三㸃[やぶちゃん注:午前四時頃。]。】、邸(やしき)を出づ。辰の牌(こく)【辰の鼓(こ)の過ぎ六分。[やぶちゃん注:午前八時六分か。]】、鎌倉に到る。鶴が岡の神廟(しんべう)を謁し、是の日の申の牌【申の正鼓。[やぶちゃん注:午後四時。]】、邸に還る。

 明くる曉(あかつき)【十五日の寅一㸃。[やぶちゃん注:午前三時。]】、廣晃、「錦※馬」に鞭(むちう)つて、復た、鎌倉に赴き、巳の牌【巳鼓過八分。[やぶちゃん注:午前十時八分か。]】鶴岡の神廟に謁し、進退、昨(きのふ)のごとし。

 社人安田進吾、廣晃に謂ひて曰はく、

『江府の騎馬の士、約(およ)そ、往返(わうへん)一日にて、本宮(ほんぐう)に詣(まう)ずる者は尠(すくな)からず爲(な)せり。其の名簿、歷々、此(ここ)に在り。然るに、同人・同馬にて、連日、此れを造(な)せる者は、未だ、之れ、有らざるなり。宜しく、竹帛(ちくはく)に錄し、以つて神庫に藏(をさ)むるべし。』

と、歎賞、已まず【明日(みやうじつ)、神主大伴氏、廣晃に書(ふみ)を與へ、以つて慶賀せしむ。】。此の夕(ゆふべ)【戌二㸃。[やぶちゃん注:午後七時。]】、廣晃、邸に還る。邸は江戶下谷三絃塹(さんげんぼり)上(うへ)に在り[やぶちゃん注:俗称「三味線堀」。現在の台東区台東二丁目附近であろう。御徒町駅の南東直近。]。相摸州(さがみのくに)鎌倉郡(かまくらこほり)の鶴岡八幡宮に至るまでは、坂東道(ばんどうみち)[やぶちゃん注:「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称し、古い特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、以下で馬琴も説明している通り、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いたものと思われる。]にて、一百里、又、二町なり[やぶちゃん注:六十五・六一八キロメートル。]。【天朝の制は、里數を揣(はか)るに、段・町を以つてし、六十間を一町と爲す。一町は、卽ち。三十六丈なり。昔は關東にては、六町を一里と爲せり。之れを「坂東道」と謂ふ。今、則ち、三十六町を一里と爲す。坂東道の「一百里」、又、「二町」とは、今の「十六里」、又、「二十六町」なり。下谷三絃塹より、日本橋に至れるは、三十町。日本橋より品革驛(しながはえき)は、二里。品革より河崎驛(かはさきえき)は、三里四町。此の間、餘(よ)の戶(こ)[やぶちゃん注:行政区分としての町。]は二十六町、有り。加以(しかのみならず)云云(しかじか)と爲す[やぶちゃん注:「それだけではなく」としつつ、以下の町の間は、くだくだしくなるだけで不要なので略す、という謂いであろう。]。河﨑(かはさき)より程谷(ほどがや)に至りては、一里九町。程谷より戶塚驛に至るは、二里。戶塚より鎌倉に至るは、四里六町。土俗、私(わたくし)に、五十町以二一一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】[やぶちゃん注:試みに、三味線堀附近から、ここに示された宿駅を考慮して、鶴ヶ岡八幡宮までを比較的旧道沿いに実測してみたところ、五十六キロメートルはあった。経過時間が確認出来る二つの内、一番早かった一日目の往路が僅か四時間であるから、時速十四キロメートル、二日目の往路が七時間で時速八キロメートルであったことになる。馬は現在のサラブレッドで最大時速六十~七十キロメートル出せるが、これは数分間しか維持出来ない。通常歩行では時速約十三~十五キロメートルであるが、それもまた維持出来るは一時間程度とあるから、この馬は並の速さではない。しかも延べ二百キロメートルもの距離を二日に分けて走っているのである。]両日の路程は、無慮(おほよそ)四百里にて餘り有るなり【今の里數を以つては、卽ち、六十六里三十二町なり。[やぶちゃん注:二百六十二・六九キロメートル。]】。而して「錦※馬」は、四蹄(してい)、一つの蹶(けつ)[やぶちゃん注:躓くこと。]も無し。廣晃も亦、敢へて勞りを曰はず、其の詰旦(きつたん)[やぶちゃん注:翌朝。]、簑輪鄕の某侯へ使ひし、亭午(ていご)[やぶちゃん注:正午。]に返命せり。進退、自若にして、僕[やぶちゃん注:使者の自称。]の聞見さるる類ひは此くのごとし。敢へて請ふ、叟(さう)[やぶちゃん注:相手の馬琴を指す。]、之れを文(ふみ)よ。則ち、足れるなり。」

と。

 夫(それ)、予、之れを聞き、

瘦せし膝を交(あは)せて進み、灸の痂(あと)の潰るるを覺えもせず[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]、喟然(きぜん)して[やぶちゃん注:溜息をついて、]、嘆じて曰はく、

「善きかな、老侯の馬を愛すや、能く、士を養ひ[やぶちゃん注:ここは特にその家臣の内でもこの見事な説得を述べた使者(後で「長尾友藏」と出る)の磨かれた才智を讃えているのである。]、然(しか)る後、馬を養ふ。是れを以つて、其の食、足れり[やぶちゃん注:私の心の内は感動で盈ちたというのであろう。]。則ち、其の材の美なり。獨り、其の馬千里の蹄(ひづめ)の有のみに非ず。其の家臣も亦、千里の能(のう)有り。『士馬の養(やしな)ひ』の、其の方(はう)を得たると謂ふべし。」

と。

 因りて、使者に語りて曰はく、

「解(とく)の先人も亦、馬癖有り。甞つて一條の駄法を善くす。解や、不幸にして、髫歲(うないがみのとし)[やぶちゃん注:七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの。]に親を喪(なく)す。犬馬の齡、五十有三。鞭(べん)・駒(く)の何等の物たるかを知らず、狗才(くさい)の驥德(きとく)に愧(は)ずと雖も、將に、隗(くわい)より始めんとす。冀(ねがはく)は、先人の遺志を稱さん。」

と。[やぶちゃん注:「先人」瀧澤馬琴解(とく)の実の父のことを言っている。旗本であったが、馬琴が九歳の時に亡くなった。]

 使者、欣然として竟(つひ)に去る。明日、乃(すなは)ち、是の記を綴れり。未だ、稿を易くする遑(いとま)あらず。使者、再び來りて、誅求(ちゆうきふ)、甚だ急なり。纔かに誤脫を補ひ、以つて呈せり。文政二年己卯(つちのとう/きばう)春三月飯台瀧澤解撰[やぶちゃん注:「飯台」「飯台陳人(はんだいちんじん)」。馬琴の号の一つ。]

   *]

 

 この記文(きぶん)の事、その年の春三月十六日に、老侯の使者【長尾友藏。】來訪して命を傳(つとふ)るにより、同月十八日に創しつゝ、廿日に、これを、まゐらせにき。駿馬の名、はじめは「錦帆」と書かれしを、予がこの記を綴るに及(および)て「帆」を「※」に作れり。使者、この義を詰(なじ)りしかば、予、答へて、

「『※』は『帆』と通ふ義あり。且、字書に、『水行曰ㇾ「帆」。陸行曰ㇾ「※」』とも候。駿馬の爲(ため)には、舟帆(しゆうはん)の『帆』たらんより、その字、『馬』に從はんこそ、勝(まさ)れるやうに覺え侯。いかゞ侍るべからん。」

といひしを、使者、やがて歸りまゐりて、

「云々。」[やぶちゃん注:「しかじか」。]

と申しゝかば、老侯、領き給ひしとぞ。

 かくて次の年にやありけん。聊(いさゝか)、所要の事有て、書肆(ふみや)より、「淵鑑類函」両三帙(ちつ)を借りよせつ。是彼(これこれ[やぶちゃん注:ママ。])と披閱(ひえつ)せしそが中に、第四百三十三卷「獸の部」、「馬の三」に、「古今註」を載せて、『曹眞有駛馬【駛、音「史」。卽。「駿」也。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はこれを頭書とする。]。名驚帆。』といふよし、見たり。かゝれば、唐山(からくに)にて、魏の時、はやく、「馬」の名に「帆(ほ)」をもて、しつることは、ありけり。これによらば、「錦※」も、はじめのごとく、舟帆の「帆」に作るも、よしなきにあらず。拙文のうち、この故事を引きもらしたりしのみ、今しも堪(たへ)ぬ恨(うらみ)にぞありける。【右、「二馬」之二。】[やぶちゃん注:この割注は底本にはない。吉川弘文館随筆大成版で挿入した。以下の「追錄」というのは全体が一字下げ。なお、この「追錄」は吉川弘文館随筆大成版には後の「第六集」の中にほぼ同内容の追記として出てくる。少し表現が異なるので後にそれを示しておいた。]

 

追錄。「宛委餘篇」云、『呂布玉追。曹眞驚帆。曹洪白鶴。』。又、云、『驚帆、魏曹洪所ㇾ名駿馬也。馳馬吳孫權所ㇾ名快船也。二事正相及而又相對。出一時甚竒。』。この條の曹洪とあるは、曹眞の誤なるへし。駿馬(ときむま)に「帆」をもて名づけ、快船(はやふね)に馬をもて名づけし事、共に三國鼎立(ていりつ)にあれば、實に竒也。

□曲亭馬琴「兎園小説」正編第六集所収の「五馬 三馬 二馬の竒談」への附記

  前々會拙編中補遺附錄

「宛委餘篇」云、「呂布有赤兎。張飛有玉追。曹眞有驚帆。曹洪有白鶴。又云、驚帆魏曹洪所ㇾ名駿馬也、馳馬吳孫權所名快舫也。二事正相反。而又相對出一時甚奇【見第三八丁右。】。」。この條の「曹洪」とあるは、「曹眞」の誤なるべし。とき馬に「帆」をもて、名づけ、「はやふね」に「馬」をもて名づけし事、共に三國鼎立の時にあれば、實に奇なり。この事、季春の集合に出だせし拙編「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]の條にいふべかりしを、うち忘れたりければ、追うて、こゝにしるしおくのみ。六日のあやめ、十日の菊、おくれて、いまだ遠くもあらぬを、見かへる人もあらんかとてなり。  解   再識

[やぶちゃん注:「宛委餘篇」明の官僚王世貞の著になる随筆。漢文部を訓読して見る。

   *

呂布に「赤兎」有り、張飛に「玉追」有り、曹眞に「驚帆」有り。曹洪に「白鶴」有り。又、云はく、『「驚帆」は、魏の曹洪が名づくる所の駿馬なり。馳(と)き馬にして、吳の孫權の名づくる所は「快舫」なり。二つの事、正に相ひ反す。而れども、又、相ひ對して、一時に出ずるも、甚だ奇なり。』と。

   *

南船北馬の中国ならではの馬のネーミングとして甚だ腑に落ちる。

「三國鼎立」中国の蜀・魏・呉による時代区分の一つで、三国が鼎立した二二二年から、蜀漢が滅亡した二六三年までを指す。]

 

[やぶちゃん注:以下の本条全体の跋は吉川弘文館随筆大成版にもある。但し、最後の馬琴の「著作堂解識」は底本にはないので、同版で補った。]

 

右「五馬」・「三馬」・「二馬」の拙編、おもひしよりは、ことの多くて、紙の數は、かさなりぬ。世にいふ「下手(へた)の長談義」なるべし。文政八年乙酉三月朔 著作堂解識

[やぶちゃん注:「長尾友藏」サイト「伊達の香りを楽しむ会」の「箱崎村の松五郎とその遺愛の馬、忠孝の名馬」(「五馬」の一の話の梗概と馬琴に伝わるまでの話が読みやすく記されてある)に『家臣長尾友蔵(所左衛門)』とあった。他に、「五馬」の二の話も「飼い主を噛殺した狂馬の話」として略述されてある。]

 

2021/08/15

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(7)

 

〇かさねていふ、松前の老侯は、をさをさ、馬を好み給へば、「乘(のり)くら」のかへなども、大かたならず、と聞えたり。さればにや、寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、鍾愛の駿馬あり。老侯、みづから、これに名づけて「一瞬」といふ。蓋(けだし)、「一瞬」は『瞬目(またゝく)の間(ま)に走ること、いくばく里にか、及ぶ』の義なるべし。この馬は前薩摩侯(さきのさつまこう)【中將重豪公[やぶちゃん注:島津重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)。]。】より贈られし。その封内(ほうない)なる「喜入野(きいりの)の牧(まき)」より出でしものなりとぞ。かくて、亨和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]の夏、「一瞬」、病(やみ)て、死せり。實に五月九日也。老侯、則、その尾をもて、拂子(ほつす)とし、又、その鬣(たてがみ)を駒籠(こまごめ)なる吉祥禪寺に送りて葬らしめ、その上に碑を建つるに及びて、碑文を山本北山子に徵(もと)め玉ひき。かの寺の學寮のうしろなる「一瞬冢(いつしゆんづか)」、是、のみ。江戶にて、駿馬の碑を見ること、いとめづらかに覺ゆれば、錄すこと、左の如し。

駿馬一瞬碑文

良馬世多有。然傳爲者無ㇾ幾何也。非良主其能。不ㇾ得其力而盡其用、主亦或有爲ㇾ之輝揚威悳於一代。關侯赤兎。翼悳玉追是也。若能傳ㇾ後長存者。在辭以文ㇾ之。漢武蒲稍以樂府。楚項烏騅依悲歌。享和元年五月初九。松前老侯愛馬一瞬。病死于廐櫪。侯雅善ㇾ騎。無二駿稱ㇾ意。聞薩摩國出良馬。求之薩摩重豪(シゲヒデ)[やぶちゃん注:前の二字へのルビ。]。辭云。吾不敢欲少年輩所ㇾ愛。鬃毛如ㇾ油。髀項如腴。步驟恊聲律。馳驅合曲度。唯神速若掣電流星則足矣。至旋毛古凶。尾鬣疎密。毛色驥黃。皆非ㇾ所拘論云。公壯ㇾ之。贈封内喜入野所ㇾ出駿馬。一瞬是也。亡ㇾ論眼如ㇾ鈴。蹄如ㇾ鐵。形色大小。不更細說。人望知其爲神駿。自薩摩江戶。路程數千里。跋涉嶮岨力不少罷蹄不少損。精神自若。無ㇾ異常日。於ㇾ是乎侯喜可ㇾ知也。試其能。繫紅練於尾後。驅而奔ㇾ之。一匹練長引不ㇾ墮。如紅虹絰ㇾ天。脚下颼颯。只聞風聲。瞬目間盡調馬上。力猶有ㇾ餘也。侯鍾愛之。朝夕撫養以爲ㇾ樂。及其死。不ㇾ能ㇾ割ㇾ愛。乃取其鬃。瘞于江戶駒込吉祥寺後山。取其尾拂子。朝夕手執ㇾ之。寓愛惜之意。又欲北山信有辭。以傳于後。嗟呼。一瞬遇良主。幸也夫。

  享和元年辛酉夏五月北山信有撰

文化の末にやありけん。老侯、ある日、興繼に告げてのたまはく、

「我、曩(さき)には、只、馬に乘るゆゑをのみ知りて、馬を養ふみちを知らず。さるにより、彼(かの)『一瞬』に乘る每(ごと)に、色衣(いろきぬ)なんどを引かするに、その絹の地に着(つ)かで、いと長くひるがへるを、興あることに思ひしは、甚しき誤なりき。若(もし)、さる事をせざりせば、彼の馬をば、殺すまじきに。今に至りて、三折(さんせつ)の效(かう)を悟るも、甲斐なし。」

とて、いとをしみ玉ひしとぞ。

 此ごろ、使者をもて、予に、「馬尾(ばび)の拂子」を見せさせて、

「いまだ、この拂子の箱、書(かき)つけ、なし。何とか、かゝすべき。」

と問はせ給ひしかば、

「『驥拂(きふつ)』とや、あるべき。『孟反拂(もうはんふつ)』なども、しかるべからん歟。」

と答へまうしき【右、「二馬」之一。】。

 

[やぶちゃん注:駒籠(こまごめ)なる吉祥禪寺」曹洞宗諏訪山吉祥寺(きちじょうじ)は東京都文京区本駒込三丁目に現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、ネットで調べる限りでは、「一瞬塚」はないようだし、碑が残っているかどうかも判らない。ただ、サイド・パネルを開くと、大きな碑が数枚立っている画像があり、或いはこの中に現存しているのかも知れない。いつか、行って調べてみたい。

「封内(ほうない)」領国内。

「喜入野(きいりの)の牧(まき)」鹿児島県鹿児島市喜入町(きいれちょう)はあるが、ここかどうかは判らない。

「山本北山」(宝暦二(一七五二)年~文化九(一八一二)年)は儒者。信有は本名。二十代から三十歳代の著作「作文志彀」(さくぶんしこう)・「作詩志彀」で古文辞学の詩文観を批判し、清新性霊の説を唱えて、漢詩文界に大きな影響を与えた。博学で天文・兵学・医卜などにも通じた。「寛政異学の禁」では、異学の五鬼の一人に挙げられたが、自説を曲げなかった気骨の人でもある(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「駿馬一瞬碑文」「重豪」のルビ以外は返り点のみである(吉川弘文館随筆大成版も同じ)。我流で訓読してみるが、一部で返り点の掟破りをしている。読み易くするために段落を成形した。

   *

 

    駿馬「一瞬」碑文

 

 良馬は世に多く有り。

 然れども、傳へ爲(な)す者は、幾何(いくばく)も無きなり。

 良き主(あるじ)に遇ひて其の能を知るには非ずして、其力を奮して、而(しかれ)ども、其の用を盡くすことを得ず。

 主も亦、或いは、威悳(いとく)[やぶちゃん注:威厳と勇猛なることを誇示すること。]に於いて、一代を輝揚し、之れを爲さしむるは有り。

 關侯の「赤兎」、翼悳の「玉追」、是れなり。

 若(も)し、能く、後に傳へて、長く存する者は、辭に以つて、之れを文にする在り。

 漢の武蒲、稍(やや)、「樂府(がふ)」を以つてす。

 楚の項(こう)、烏(う)にて、騅(すゐ)、悲歌に依(よ)せり。

 享和元年五月初九、松前老侯愛馬「一瞬」、病みて、廐櫪(きうれき)に死す。

 侯、雅(が)にして、騎を善(よ)くし、駿が意を稱(はか)ること無し[やぶちゃん注:「駿馬の意志を探らなければならないということは一度もなかった」の意で採った。]。

 薩摩國に良馬の出づるを聞き、之れを、薩摩重豪(しげひで)公に求む。辭に云はく、

「吾れ、敢へて、少年の輩より愛せるは、鬃毛(そうまう)、油のごとく、髀(はい)[やぶちゃん注:太腿。]・項(うなじ)、腴(ゆ)[やぶちゃん注:脂(あぶら)。]のごとく、步驟(ほしゆう)せば、聲律を恊(あは)せ、馳驅(ちく)すれば、曲度に合はせるがごときをは、欲せず。唯、神速にして、掣電流星(せいでんりゆうせい)のごとき「則足」なり。旋毛、古くして凶(あらあら)しく、尾・鬣(たてがみ)の疎密にして、毛色は驥黃(きわう)に至れば、皆、拘論する所に非ず。」

と云ふ。

 公、之れを、

「壯(さう)なり。」

とし、封内「喜入野」に出づる所の駿馬を贈る。

 「一瞬」、是れなり。

 眼(まなこ)の鈴のごとく、蹄(ひづめ)の鐵のごときは、論、亡く、形・色・大小、更に細說せず。

 人、望めば、其れ、「神駿」たるを知れり。

 薩摩より江戶に至るに、路程、數千里。嶮岨を跋涉して、力、少しも罷(つか)れず、蹄、少しも損ぜず、精神、自若として、常の日と異なること無し。

 是れに於いてや、侯の喜び、知るべし。

 其の能を試むれば、紅(べに)の練(ねりぎぬ)を尾の後(うしろ)に繫ぎ、驅けて、之れを奔(はし)らせば、一匹の練、長く引きて、墮ちず、紅(くれなゐ)の虹(にじ)の天(そら)を經(ふ)るがごとし[やぶちゃん注:「絰」では意味が通らないので、ここは吉川弘文館随筆大成版の『経』に代えた。]。脚下の颼颯(さうさつ)、只、風の聲と聞けり。瞬目の間に、盡く、馬上にて調(てう)して、力、猶、餘り有るなり。

 侯、之れを鍾愛し、朝夕、撫でて養(か)ひ、以つて、樂しみと爲す。

 其の死に及んで、愛(かな)しみを割(た)つこと能はず、乃(すなは)ち、其の鬃(たてがみ)を取り、江戶駒込吉祥寺の後山に瘞(うづ)み、其の尾を取りて、拂子(ほつす)と爲し、朝夕、手にて之れを執り、愛惜の意を寓(よ)す。

 又、北山信有が辭を求め、以つて、後に傳へんと欲す。

 嗟呼(ああ)、「一瞬」、良主に遇ふ。幸ひなるかな。

  享和元年辛酉(かのととり/シンユウ)夏五月 北山信有 撰

   *

正直、言おう。この訓読は楽しかった。

『關侯の「赤兎」』曹操が関羽を懐柔するために与えた「赤兎馬」(せきとば)。「三國志」及び「三國志演義」に登場する馬で、「演義」では西方との交易で得た「汗血馬」といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる。ともかくも「赤兔馬」自体は固有名詞でなく、そうした種群を指す一般名詞である。詳しくは参照したウィキの「赤兎馬」を見られたい。

『翼悳の「玉追」』同じく民間伝承で、張飛の愛馬の名前が玉追であるとネットにあった。張飛の字(あざな)は「翼であるとあるから、恐らく、この誤記であろう。

「漢の武蒲」不詳。ただ、漢の武帝は宮中の音楽署「楽府」を創設し、そこで盛んに楽府が製作された。しかし「帝」の誤記にしてはおかしい。

「楚の項(こう)、烏(う)にて、騅(すゐ)、悲歌に依(よ)せり」項羽は最後に烏江に追い詰められ、愛馬「騅」だけを渡し場の亭長に託して郷里楚へ帰そうとした。しかし、項羽が川岸で討ち死にするや、騅は、一声嘶き、舟から烏江へ身を投げて死んだ。「悲歌」は垓下で虞美人と別れるに臨んで彼女と騅を詠んだ有名なあの一篇を謂う。私は漢文であの烏江の最期のシークエンスを教えると、つい涙が出そうになるのを常としていた。詩は、

   *

 力拔山兮氣蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可奈何

 虞兮虞兮奈若何

   *

である。

「文化の末」文化は十五年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に文政に改元している。

「孟反拂(もうはんふつ)」「論語」の「雍也第六」にある「子曰孟之反不伐章」に基づくか。「Web漢文大系」の当該部を参照されたい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(6)

 

〇附ていふ、文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。干支は「みづのえむま」。]の春閏正月十六日、戲作者式亭三馬、死す。享年四十七歲なり【三馬は江戶の人、名は太助。板木師菊池茂兵衛が子なり。】。同年の夏六月二日、鳥亭焉馬(うていえんば)、死す。享年八十歲。【焉馬も江戶の人、名は和肋。はじめは大工なり。後に商人となりて、足袋を鬻げり。】。同年月日、錦馬(きんば)、死す。享年七十許歲(ばかり)なるべし【錦馬は、富本豐前太夫が俳名なり。その實名を「午之助」といへり。よりて、その親しきものは、渠を「午」とのみ呼びしとぞ。】。識者、戲れにいへること、あり。今茲(ことし)は、支干、「壬午」に當れり。「壬」は「水」なり。逝(ゆき

てかへらぬ象(かたち)あり。

「この春、三馬が死せしより、焉馬・錦馬も亦、死せり。かくて、「三馬」の名の數の、空しからぬも、竒なり。」

とぞ。ある人、これを予に報(つげ)て、

「和君(わぎみ)も、用心し給へかし。」

といはれしに、予答へて、

「いな。その數には入るまじ。錦馬は、素より、識る人ならず。焉馬・三馬等とは、この年來(としごろ)、絕えて、親しく交(まじは)らず。忌嫌(いみきらは)るゝこと、聞えしに、いかでかは伴ふべき。且、そのわざは似たれ共、行ひさまの異(こと)なるを、閻王は、よく、しろし食(めし)けん。かゝれば、氣づかひ、あるべからず。」

と、うち戲れたりければ、ある人、いたく、笑ひにけり。これらは要なき事ながら、そゞろに筆の走ればなん【右、「三馬」。】

 

[やぶちゃん注:「式亭三馬」(安永五(一七七六)年~文政五年閏一月六日(一八二二年二月二十七日))は本業として薬種屋を営み、作家で浮世絵師でもあった。滑稽本「浮世風呂」や「浮世床」などで知られる。本名は菊地泰輔とするもの、名は久徳で字が泰輔とするものもある。浅草田原町(現在の東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師菊地茂兵衛の長男として生まれた。

「鳥亭焉馬」(寛保三(一七四三)年~文政五年六月二日(一八二二年七月十九日))は戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖ともされる。本名は中村英祝。本所相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務め、大工と小間物屋を営んだ。大田南畝宅を手がけた他、足袋・煙管・仙女香(白粉(おしろい)の商品名。江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋で売り出した。歌舞伎役者三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」に因んで名づけられたもので「美艷仙女香」とも称した)も扱った。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自らも浄瑠璃を書いた。四代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」・「太平樂卷物」・「碁太平記白石噺」などがある。

「錦馬」「富本豐前太夫が俳名」富本節の太夫の名跡の二代目富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう 宝暦四(一七五四)年~文政五年七月十七日(一八二二年九月二日))江戸出身。初代富本豊前掾(初代は本名が福田弾司で、宮古路豊後掾の門弟。「富本豊志太夫」と名乗って富本節を興し、後に富本豊前掾藤原敬親、次いで筑前掾となっているが、実際にはこの「富本豐前太夫」は名乗っていない)の実子。初名を富本之助という。幼くして父と死別し、明和三(一七六六)年夏、中村座で「文月笹一夜(ふみづきささのひとよ) 下の卷」で床に登った。明和七年に父の名二代目豊志太夫、安永六(一七七七)年に二代目豊前太夫として襲名。文化一四(一八一七)年には受領して「富本豊前掾藤原敬政」と名乗った。面長な顔から「づら豊前」と言われ、美声で人気を誇った(以上はウィキの「富本豊前太夫」に拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(5)

 

〇又、一奇事あり。松前の藩中にて、しかるべき輩(ともがら)は、馬、一、二疋をもたぬは、なし。

 しかるに、ともすれば、夜中(やちう)に、熊の厩(むまや)に入りて、馬を啖(くら)ふこと、あり。殊にすぐれし大熊は、まづ、その馬をくらひ殺して、おのが背(そびら)に引かけつゝ、走りて、山にもてゆく、とぞ。

 これにより、おのもおのも、厩の戶鎖(とざし)を固くして、その害を防ぐこと、夜盜(よたう)を禦(ふせ)ぐに異ならねども、これらは、常の事なれば、彼の地の人は、何とも、おもはず。

 それにも、まして、めづらかなりしは、文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。]の春のころ、松前の家臣何某(なにがし)が【その姓名をわすれたり。】、厩の馬、ある夜、頻りに狂ひ騷ぎて、いと苦しげに嘶(いなゝ)きたり。

 あるじは、これに驚き寤(さめ)て、

「厩に、熊や、入りにけん。みな、とく起きよ。」

と呼び覺(さま)して、下部(しもべ)に紙燭(しそく)をとらせつゝ、出(いで)て、厩にゆきて見るに、戶ざしは元のまゝにして、物の入りたるやうにも、あらず。

 戶を推(おし)ひらきて、内を見るに、目にさへぎるものも、なし。

 されども、馬は苦しげに嘶くこと、はじめの如し。

 こゝろ得がたく思ひしかば、紙燭を高くあげさせて、猶、あちこちを、つらつら見るに、あやしむべし、ひとつの鼬(いたち)、馬の項(うなぢ)にうちのぼりて、その鬣(たてがみ)を啖破(くひやぶ)りつゝ、血を吸ふてぞ、をれりける。

「さては。彼奴(かやつ)がわざなりけり。要こそ、あれ。」

と、持ちたる棒を取りなほさんとする程に、鼬は、はやく、飛下(とびくだ)り、袂(たもと)の下を潛ると見えしが、ゆくへもしらず、なりにけり。

 げに、繫(つなが)れたる馬のうなぢを、鼬に啖れては、せん方なきも、ことわりなり。そのきずは、いと深くて、拳(こぶし)も入るべきばかりなるを、酒にて洗ひ、藥を傅(つけ)て、とりどり、すれども、久しく癒(いえ)ず。

 凡、ニヶ月あまりにして、漸く、おこたり果てしかど、その處にのみ、鬣、なくて、疵物にこそ、なりにたれ。

「鼬の馬を啖ひし事は、松前にても珍らし。」

とて、人みな、舌を卷(まき)しとぞ。

 この一條(ひとくだり)は、礪﨑(かきざき)生【字[やぶちゃん注:「あざな」。]は三七。】、その年文月の初めつかた、我庵を訪はれし日、云々(しかじか)と話せられたり。おのれ、是を打聞(うちきゝ)ておもふに、

『天智(てんぢ)の帝(みかど)の御宇、高倉の御時に、鼠が、馬の尾に憑(つき)て、巢(す)をくひけるは、事はふりにたり。新奇に走る今の世には、鼬が鼠に代るべく、亦、その尾にはつかずして、鬣をこそ、くひつらめ。』

と、あからさまに答へしかば、礪﨑生は、手をうちならして、ほとほと、笑評(ゑつぼ)に入りにけり【右、「五馬」之五。】。

 

[やぶちゃん注:「鼬」既出既注。ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(日本固有種。本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入によるもの))。博物誌は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。

「礪﨑(かきざき)生【字は三七。】」松前藩家老で画家としても知られた蠣崎波響(宝暦一四(一七六四)年~文政九(一八二六)年)がいるが、流石に家老を「生」呼ばわりはすまい(いや、馬琴ならやりかねないか?)。その縁者か?

「天智(てんぢ)の帝(みかど)の御宇、高倉の御時に、鼠が、馬の尾に憑(つき)て、巢(す)をくひける」前者は日本書紀の天智天皇元(六六二)年四月の条に出る、鼠が馬の尾の中に子を産んだ事件。

   *

夏四月。鼠產於馬尾。釋道顯占曰。北國之人將附南國。蓋高麗破。而屬日本乎。

(夏四月、鼠、馬の尾にて產(こをう)む。釋(はうし)道顯(だうけん)占ひて曰はく、「北國の人、將に南國を附せむとす。蓋し、高麗、敗れ、日本に屬せむか。」と。)

   *

後者は「平家物語」巻第五にある「馬の尾に鼠巢食ふ事」(「物怪之沙汰」とも)の一節。清盛の馬の尾に鼠が巣を作った事件。

   *

 また、舍人(とねり)あまたつけて、ひまなく撫で飼はれける馬(むま)の尾に、一夜がうちに、鼠、巢をくひ、子をぞ產みたりける。

「これ、ただごとにあらず。」

とて、七人の陰陽師に占はせられければ、

「重き御愼み。」

と申す。

 この馬は、相摸の國の住人大庭(おほば)の三郞景親が、

「東(とう)八箇國一の馬。」

とて、入道相國に參まゐらせたりけり。黑き馬の、額の少し白かりければ、名を「望月」とぞつけられたりける。やがて、陰陽頭(おんやうのかみ)泰親(やすちか)にぞ賜はりける。

 昔、天智天皇の御宇に、『寮の御馬の尾に、鼠、巢をくひ、子を產みたるには、異國の凶賊、蜂起したける。』とぞ、「日本記(につぽんぎ)」には記されたる。

   *

 以下は「五馬」の馬琴による纏め。辛気臭いものである。]

 

 すべてこの「五馬」の奇談は、いぬる文政二年より五年までの事にして、予が聞く所、かくの如し。されば、宇宙の廣大なる、かゝる事は、いくらもあらん。よりて竊(ひそか)に評すらく、

「かの箱﨑なる農家の馬は、神にして、且、義烈なるもの。又、簗川(やなかは)の近村なる農夫の飼(かへ)るは、『惡馬(あくば)』なり。これらは、上に論じたり。川越なるは、『靈馬』にして、高輪なるは、『狂馬』なり。又、松前の家臣の馬は、是を『痴馬(ちば)』ともいふべし。しかれども、身を絆(はん)【音「牟」。】に繫(つなが)れては、虎狼なりとも、いかゞはせん。譬(たとへ)ば、人の利祿(りろく)に繫れ、或は、妻子に繫がれつゝ、愛惜嗜慾(あいじやくぎよく[やぶちゃん注:「ざ」はママ。])[やぶちゃん注:「あいじやくしよく」が普通。ある対象や状態を大切にして手放したり、傷つけたりするのを惜しむことと、欲するままにある行動をしようと思う欲求。]に榮衛(えいえい)[やぶちゃん注:漢方用語だが、正常な生命体としての個体の維持の意で採ればよかろう。]を滅却せらるゝものに似たり。利祿・妻子は緣なり。愛惜嗜慾は鼬の如し。これを『火宅(くわたく)の煩惱』といふ。かゝれば、人の賢不肖・禍福・得失・寵辱(ちようじよく)・榮枯、皆、この『五馬』の中にあり。『莊子が一馬』、『禪家の十牛』、及(また)、『劉安が塞馬』の言(こと)も、よに、この外は、あらずかし。

 

[やぶちゃん注:「莊子が一馬」「莊子」(そうじ)の「斉物論第二」の一節。論理派のソフィストのチャンピオン公孫龍の「白馬非馬論」(「白い馬」とは「馬」ではないとする詭弁)を念頭に置いてそれを喝破したもの。

   *

以指指之非指。不若以非指喩指之非指也。以馬喩馬之非馬。不若以非馬喩馬之非馬也。天地一指也。萬物一馬也。

(指を以つて、指の指に非ざるを喩(さと)[やぶちゃん注:「諭」と同義。]すは、指に非ざるを以つて、指の指に非ざるを喩すに若(し)かざるなり。馬を以つて馬の馬に非ざるを喩すは、馬に非ざるを以つて馬の馬に非ざるを喩すに若かざるなり。天地は一指なり。萬物は一馬なり。)

   *

「禪家の十牛」禅宗の「十牛圖」(じゅうぎゅうず)のこと。悟りに至る階梯を十枚の絵図と詩で表したもの。「真の自己」を「牛」にシンボライズし、「真の自己」を求める「自己」は「牧人」の姿で表わされる。最初の作者は北宋の臨済宗楊岐派の禅僧廓庵(かくあん)とされる。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「劉安が塞馬」誰もが漢文でやった「塞翁が馬」のこと。同話は前漢の皇族で学者であった淮南王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)の「淮南子」(えなんじ)の「人間訓」に載る。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(4)

 

〇又、一奇事あり。文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。]の春三月廿一日、品川大木戶の西の方(かた)、高輪の初の町の海邊(うみべ)にて、荷を負(おは)せたりける馬を、杭に繫ぎ置(おき)たりしに、空車を推すものゝ、走りて其處(そこ)を過ぎ(よぎり)しかば、この馬、いたく驚きて、飛あがり、飛あがり、兩三度、狂ふ程に、ゆくりなく、杭の頭に、馬の腹を衝(つき)あてたり。其(その)勢(いきほひ)や、はげしかりけん、忽ち、腹を突破(つきやぶ)りて、背までぞ、拔けたりける。

 馬は、頻に苦しみて、いよいよ狂ひ騷ぐ程に、終には杭を推し折りけり。

 その時、馬奴(まご)、走り來て、杭を拔かんと、立ちよりしを、なまじひに、馬に踶(け)られて、

「阿。」。

と叫けびつゝ、仆(たふ)れたり。

 見る人、あわて、まどふのみ。おそれて、近づくものも、なし。

 とかくする程に、馬は、やうやく、狂ひつかれて、そが儘に、死にき。

 馬奴は、なほ、半死半生なりけるを、その町より轎(かご)に乘せて、宿所へ送り遣(つかは)しけり。

 こは、目黑のほとりより、牽(ひき)もて來つる馬なり、とぞ。

 予が相識(あひし)れる豪家(がうか)の老僕(をとな)、

「この日、高輪なる薩摩侯の屋鋪(やしき)へまゐるをり、親しく目擊したり。」

とて、おなじ月の廿六日に、予が爲に、いへり。

 これも怪有(けう)なる事にあらずや【右、「五馬」之四。】。

 

[やぶちゃん注:この悲惨な死を遂げた馬も、前に注した「頽馬(たいば/ぎば)」に襲われたものと思われる。

「品川大木戶の西の方(かた)、高輪の初めの町の海邊(うみべ)」東海道から江戸府内の入口及び南の出入口として設けられた高輪大木戸(宝永七(一七一〇)年設置)。東京都港区高輪二丁目に遺跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「古地図 with MapFan」で見ると、大木戸は完全に江戸湾岸直近にあり、この近くの海辺の「高輪の初」め「の町」というのは、南南西直近の「高輪北町」で、「西」というのは、あまりよい表現とは言えない。この中央附近に当たる。

「高輪なる薩摩侯の屋鋪(やしき)」現在は東京都品川区東大井であるが、位置関係から見て、「旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡」がそれであろう。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(3)

 

〇又、一竒談あり。武藏國入間郡(いるまのこほり)河越の城下なる石原の里人(さとびと)に、增田半藏と云ふものあり。其性(さが)、俠氣(けふき)あるものなれば、人の爲には骨を折(をり)て、貨材(たから)をも惜しとせず。されば、親に愛を失ひし不肖の子、良人(おつと)に飽(あか)れて去られし妻、或(あるひ)は、若人(わかうど)の物あらがひしたる、或(ある)は、男女(なんいよ)の癡情によりて相攜(あひたづさへ)て奔(はし)りし類(たぐひ)も、

「たのむ。」

と云へば、身に引(ひき)うけて、必、和睦をとり結ばせて、その本(もと)にをさむるを、よにおもしろき事に思へり。

 しかるに、文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八一九年。]の春、ある夜、あやしき夢を見たり。

 譬(たとへ)は、一匹の良馬(りやうば)、忽然と半藏が枕に立(たち)て、さながら、人のもの云ふ如く、いとうれはしげに、告(つげ)ていふやう、

「それがし、初(はじめ)は、何がし侯の乘馬(じやうめ)にて候ひしを、後(のち)、故ありて、馬商人(うまあきひと)の何某(なにがし)に買(かひ)とられ、遂に又、賣(うり)かえられて[やぶちゃん注:「え」はママ。]、果(はて)は農家の駄馬となれり。この故に、水田を鋤(すき)ては泥に塗(まみ)れ、糞土(ふんど)を負(おふ)ては穢(けがれ)に犯さる。百折千磨の艱苦(かんく)によりて、いく程もなく斃(たふ)れたるわが亡は、榎の木野に、擡出(もたげいだ)して棄(すて)られたり。かくて屠兒(とじ)に皮を剝(はが)れ[やぶちゃん注:ママ。]、鳶・鴉に宍(しゝむら)を啖(くは)はれて、只、よのつねなる駄馬にひとしき死ざまをしつる事、耻(はぢ)て、且、歎くにも、あまりあり。願ふは、和君(わきみ)、愍(あはれ)みて、我が亡骸を埋(うづ)め玉へ。我身には、よき玉あり。そはなき骸の背簗(せなか)のあたり、隆(たか)き所にあらんずらん。聯(いさゝか)これを報とす。探りとり玉へかし。」

と、云ふか、と思へば、覺(さめ)にけり。

 半藏、驚き、あやしみて、半信半疑しながらも、天明(よあけ)て、その野にゆきて見るに、果して、馬の屍(しかばね)あり。いはれしあたりを搔撈(かきさ)るに、既にして、玉を獲(え)たり。其大さ、毬(まり)の如し。

 則、これ、「鮨答(さてふ)」なり。俗には「へいさらばさら」といふ歟。西域の人、尤、至寶とす。密呪(まじなひ)して、雨を禱(いの)るもの、是のみ。

 半藏、既に玉を獲て、里人によしを告げ、

「その馬の亡骸を葬らん。」

とて、議する程に、近鄕の民、傳へ聞きて、力を勠(あは)せ、錢を集め、遂に石原の町、觀音寺に葬りて、上に建つるに碑をもてし、稱(たゝ)へて「馬頭觀世音」といふ。碑銘は、則、同鄕の士小島蕉園(こじましやうゑん)の創するところ、今、錄する事、左の如し。

[やぶちゃん注:以下の碑銘は底本では訓点(送り仮名を含む)が付されてあるが、今までは平然と附してきたのだが、実は私は元国語教師として、横書きの漢文に訓点を打つことに、激しい嫌悪感がある。ここでは白文(但し、句読点は残した)で示し、直後に底本の訓点に従って書き下したものを添えた。

   *

馬靈誌 幷(ならびに) 銘

天地之大。庶物之夥。有足稱怪者聖人特不語耳。不可謂無也。河肥石原里。有増田半藏者。夢一良馬來謂曰。我本侯家乘馬得寵久矣。後有故獲於商人家。又轉貨農家。耕田駄糞。體羸力竭。無幾而斃。棄之榎野。獸工剝皮。烏鳶啄肉。竟莫異於凡馬之死也。願子埀憐瘞之。我有良玉。在吾屍背隆然處。聊以報子。窹而異焉。往視果有馬屍。獲玉大如毬。所謂𩿞答也。乃謀所以葬之。近里傳聞。𢬵資勠力。葬諸里中觀音寺建碑其上。稱以馬頭觀音云。聞半藏性任俠。好趨人急。意駿馬之靈。知之來託也。可不謂怪乎。余因某請略記來由。係以銘。銘曰。

   生一獲寵 可謂遇伯樂之知

   死祀以佛 鹽車之困彼一時

  文政年春三月     小島蕉園誌

 

[やぶちゃんの書き下し文:読みは振られていないので、私が推定で歴史的仮名遣で添えた。句点は一部を読点に代え、一部で読点を追加した。

馬靈誌幷(ならびに)銘

天地の大、庶物の夥(おびただし)き、怪と稱するに足る者、有り、聖人、特に語らざるのみ。無しと謂ふべからざるなり。河肥(かはごえ)なる石原の里に、増田半藏といふ者、有り。夢に一(いとつ)の良馬(りやうめ)、來(きたり)て謂(いひ)て曰(いはく)、「我は、本(もと)、侯家の乘馬、寵を得ること、久し。後(のち)、故(ゆゑ)有(あり)て、商人家に獲(と)られ、又、農家に轉貨(まはしうり)やられ、田を耕し、糞(くそ)を駄(だ)し、體、羸(つか)れ、力、竭(つき)て、幾(いくば)くも無(なく)して斃(たふ)る。之(これ)、榎野(えのきの)に棄(すて)て、獸工、皮を剝(む)き、烏・鳶、肉を啄(ついば)む。竟(つひ)に凡馬の死と異なる莫(な)し。願くは、子、憐(あはれみ)を埀れ、之を瘞(うづ)めよ。我に良玉(りやうぎよく)あり。吾(わが)屍(しかばね)の背(せ)、隆然(りゆうぜん)たる處に在り。聊(いささか)、以、子(し)の報(むくは)ん。窹(めざめ)て、焉(これ)を異(あやし)み、往(ゆき)て視るに、果して、馬屍(むまのかばね)有り。玉の大(おほい)さ毬(まり)のごとくなるを獲(とり)たり。所謂、「𩿞答(さたう)」なり。乃(すなはち)、之を葬(はふむ)る所以(ゆゑん)を謀るに、近里、傳へ聞(きき)て、資を𢬵(わ)け、力を勠(あは)せ、諸里中の觀音寺に葬(はふ)り、碑を其の上に建て、稱するに「馬頭觀音」を以てと云ふ。聞(きく)、半藏、性(しやう)、任俠、好(このみ)て人の急(きふ)に趨(おもむ)く。意(おも)ふに、駿馬の靈、之を知(しり)て、來り、託せしなり。怪と謂はざるべきか。余、某(なにがし)の請(こひ)に因(より)て、來由を略記し、係(つな)く[やぶちゃん注:「つなぐ」であろう。]に銘以[やぶちゃん注:「銘を以つてす」]。銘に曰(いはく)、

   生(せい)には 一たひ 寵を獲たり

   伯樂の知に遇へりと 謂ふべし

   死して 祀るに 佛を以てす

   鹽車(えんしや)の困(こん) 彼(か)も一時(いつとき)なり

  文政辛巳(かのとみ)年春三月     小島蕉園誌(しるす)

   *

非常に読み易い碑文である。一点だけ注しておくと、銘の最後「鹽車之困」は吉川弘文館随筆大成版では『塩車之因』であるが、これは「戰國策」の「楚策」中に出る「夫、驥之齒至矣。服鹽車而上太行。」(「夫れ、驥(き)[やぶちゃん注:駿馬。]の齒(よはひ)至れるも、而太行(たいかう)[やぶちゃん注:山脈の名。]の上にて鹽車に服す。」)による。「駿馬として最もいい状態に成長したにも拘わらず、伯楽がいないために見出されることなく、太行山脈の上であたら塩運びの車を引くのに使われている。」に基づく故事成句で、「才能のある者が世に認められないでいること」の喩えとしてある「驥、塩車に服す」或いは「塩車の憾(うら)み」「驥も櫪(れき)に伏す」などという成句が知られる、それを述べたものであるから、私は吉川弘文館随筆大成版の「因」は誤りで、「困」が正しいと判断した。

「文政辛巳(かのとみ)年春三月」文政四(一八二一)年の旧暦三月一日はグレゴリオ暦では同年四月十一日である。暖かな春の光が馬頭観音と、この碑文に射している。]

 

辛巳の夏六月二十七日、予、この寫本を獲(え)て、聞くこと、上にしるすがごとし。傳寫の誤(あやまり)多かりしを、意をもて、僅(わづか)に是を補ひ、㸃を加へて語勢をたすく。文は雄固(ゆうこ)に似ざれども、その事は、これ、實なるべし【右、「五馬」之三。】。

 

[やぶちゃん注:「武藏國入間郡(いるまのこほり)河越の城下なる石原」現在の埼玉県川越市石原町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「鮨答(さてふ)」「へいさらばさら」「𩿞答(さたう)」現行では一般には「鮓答」(さとう)と表記する。各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと思われ、漢方では現在でも高価な薬用とされているようである。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」の注を読んで戴くのが一番、手っ取り早い。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」もある。古い記事では、根岸鎭衞の「耳嚢 巻之四 牛の玉の事」(オリジナル詳細注と現代語訳附き)があり、比較的新しいものでは、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(6:牛)」が参考になろう。

「觀音寺」天台宗高澤山妙智院観音寺(本尊は聖観音像)として埼玉県川越市石原町一丁目に現存する。裏が見えないので本碑銘があるかどうかは判らないが、サイド・パネルの写真に「馬頭觀音菩薩」と彫った碑の正面写真も見つかった。いつか訪ねてみたい。

「小島蕉園」(明和八(一七七一)年~文政九(一八二六)年)は武士。幕臣(因みに、彼の父は狂歌師として「唐衣橘洲」(からころもきっしゅう)の名でとみに知られた田安徳川家家臣小島恭従(たかつぐ)である)。文化二(一八〇五)年、田安領甲斐田中の代官となり、仁政で領民の信頼を受けた。同四年、職を辞し、江戸で町医者となったが、文政六(一八二三)年、悪政のために一揆が発生していた一橋領遠江相良(さがら)の代官を命ぜられた。因みに、彼は、江戸四谷忍原横町の生まれであるから、この文中の「同鄕の士」というのは、曲亭馬琴の添え書きしたものである。こういう仕儀は気に入らねえな。]

2021/08/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(2)

 

〇こは、又、其次の年、同州(おなじくに)おなじ郡(こほり)、梁川の近村なる貧民の、駄馬一疋を、もてる有り【その人の名をわすれたり。】。

 かくて、あら田をかへす日も、この馬をもて資(たすけ)とし、又、耕作の暇(いとま)ある日は、薪(たきゞ)を負(おは)せ、旅客(りよかく)を乘せて、駄賃をとること、大かたならぬに、その馬、素より柔順にて、主のこゝろに隨ひければ、世に亦二(に)なきものに思ひて、年來(おしごろ)を歷(ふ)る程に、その年【文政三年。[やぶちゃん注:一八二〇年。]】の夏の頃、ある日、又、物を負はして、近鄕に赴きつ、足(そく)を獲(え)てかへるさに、家路も近くなりし時、その馬、忽ち、くるしげに一聲高く嘶(いなゝ)きしを、『見かへらん』とするほどしもあらず、馬は、はやくも、走りかゝりて、その肩さきに、くらひ着きけり。

「こは、そも、いかに。」

と、驚き叫びて、牽放(ひきはな)さんと、すまひしかば、ひとへ衣(きぬ)もろともに、しゝむらを、啖(くひ)とられけり。

 さばれ、しばしは、苦痛を忍びて、とり鎭(しづめ)んとしつれども、かなふべくもあらざれば、林の中に逃げ走りしを、馬は透(すか)さず、追ひかけ來(き)て、仰(あふのけ)さまに噬倒(かみたふ)し、又、胸さきにくらひ着(つき)て、頻(しき)りに、その血を吸(すふ)程に、ぬしは、忽ち、息絕えけり。折から、旅ゆく獨(ひとり)の武夫(ぶふ)【足輕體のものなりしといふ。】、そのありさまを見てければ、林の中にわけ入りて、絆(ほだし)のはしを取りあげつゝ、牽(ひき)はなさんとしたれども、馬は、そがまゝ、ちつとも、動かず、眼中、血、はしり、人を射て、鬼燈(がゞち)の如く、赤かりける氣色、寔(まこと)にすさまじきを、すてゝゆかんは、さすがにて、その刀をもて、鞍ながら、馬の尻を擊(うつ)ほどに、終には𩋡(さや)をうち摧きて、したゝかに砍(き)りてけり。きられて、すこし肘怯(ひる)みし馬を、やうやくに牽(ひき)のけて、絆(ほだし)を取(とり)つめ、樹の幹に繫ぎ留めんとする程に、あたりを過(よぎ)る里人等(さとびとら)、追々に來にければ、件(くだん)の武夫は、初(はじめ)より見しありさまを告(つげ)しらせて、馬を里人にわたしつゝ、林を出でゝ、ゆきにけり。

 後に聞くに、この武夫は二本松の藩中にて、何がしといふものなりとぞ。

 さる程に、農夫の子は、里人等がしらせによりて、あわてまどひて、走り來つ。

 領主に訟(うた[やぶちゃん注:ママ。])へ、撿使を請うて、親の亡骸を葬むるものから、猶、そのうらみのやるかたなさに、馬は、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、その處に、生(いき)ながらに、これを埋めて、竹槍をもて、思ひのまゝに刺殺したり、といふ。

 こは、當時、松前家の領分の事なりければ、老君の、興繼に物がたらせ給ひしを、おのれも傳へ聞きしかど、書きしるさんともせざりしかば、今は、その農夫の名も、村の名も、みな、忘れたり。こは、文政二年、三年と打續(うちつゞ)きたる事にして、おなじ郡の百姓の貧富、おのおの、異なれども、等しく愛せし馬なるに、松五郞が遣愛の馬は、古主の爲に賊を禦(ふせ)ぎて、鄕(さと)に「忠義」の譽(ほまれ)を得たり。又、この農夫が愛せし馬は、故(ゆゑ)なく、主(ぬし)を啖殺(くひころ)して、「五逆」に漏れれぬ罪を釀(かも)せり。おもふに、この件(くだん)の馬は、その途中より、ゆくりなく、疫熱(えきねつ)の疾(やまひ)をうけて、狂亂したるものなるべし。人にも亦、かゝる事、あり。牛馬にのみ限るにあらねど、畜生は、猶、測りがたかり。されば、牛・馬・猢猻(さる)をもて、世をわたるもの、多かれども、やすきに馴(なれ)て、用心に憚り、動(やゝ)もすれば、その害にあふものも亦、すくなからず。それ、身の爲には、この一條を警(いましめ)とすべきのみ【右、「五馬」之二。】

 

[やぶちゃん注:これは間違いなく、馬が突然、狂ったように暴れ出して、即死するケースもある怪異「頽馬(たいば/ぎば)」である。「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」の本文と私の注を参照されたいが、実際に発生する。そこで真犯人として最も私が疑っているものは、『虻(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera に属する一群の総称)のような吸血性昆虫を原因とする伝聞も』あり、『確かに』、『それらが耳・鼻などの奥に侵入して吸血行為を行ったなら』、『狂騒する可能性は高いが、それだけで致命的な死に至ることがあるという点では疑問が残る。但し、そうした中でも、馬伝染性貧血は注目しておく必要があるであろう。これは馬伝染性貧血ウイルス(レトロウイルス科レンチウイルス亜科レンチウイルス属(EIA: Equine infectious anemia virus )に分類されるRNAウイルス)による感染症で、ウイルスを含む血液が虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans )などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類(奇蹄目ウマ形亜目ウマ上科ウマ科 Equidae)にのみ感染するもの』である。

「二本松の藩」二本松藩。現在の福島県二本松市郭内にあった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第三集) 五馬 三馬 二馬の竒談(1)

 

[やぶちゃん注:以下は例の国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記巻第二下編」に載るものを視認した。吉川弘文館随筆大成版は題名からして「五馬 三馬 二馬」と異なり、細部に異同がある。標題下の作者のそれは、吉川弘文館随筆大成版のものを添えた。またしても、非常に長いので、段落を成形し、分割して示す。読みは一部に留めた。「兎園小説」では、以下は「第三集」となる。

 

   ○五馬 三馬 二馬の竒談   著作堂稿

 陸奧の國伊達郡(だてこほり)箱﨑の農民傳兵衞が子に、松五郞と呼ばれしものは、その性(さが)、馬を好むにより、栗毛の馬を一疋もてり。

 されば、をりをり、乘り走らするに、その秣(まぐさ)飼ふことも、又、撫で洗ひする事も、よろづ、人には任せずして、手づからするを、たのしと、思へり。その馬、既に五歲になりける文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の冬のころ、松五郞は、病(やみ)わづらひて、その年の十二月十二日に、身まかりぬ。享年二十なりけるとぞ。

 さは、獨子(ひとりこ)の事にしあなれば、親のなげきは、いふべくもあらぬを、貧しくもあらぬ民なれば、松五郞が器用・調度のめでたしと思ひしものは、その亡骸と、もろ共に、みな、只、棺に斂(をさ)めつゝ、家を去ること、二、三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]なる田の畔(くろ)の墓所に送りて、かたのごとくに葬りけり【田舍は亡者を寺に送らず、その所持の田の畔を墓塋[やぶちゃん注:「ぼえい」。墓地。]として葬むること、此わたりには限らず、關東、大かたは、かくのごとし。】。

 されば、松五郞が遣愛の馬は、ぬしの不幸の事に紛れて、誰とて見かへるものもなく、纔(わづか)に抹を與(あたふ)るのみ。

 厩(むまや)に繋ぎ置(おき)たりしに、その次の夜の子の時ばかりに、馬は、にはかに狂ひたけりて、絆をちぎり戶を蹴(け)はなちて、いづことはなく、馳(はせ)出でたり。

 あるじは、さらなり、僕(をとこ)共も、この物音に驚き覺(さめ)て、

「こはいかに。まさしく馬こそはなれたれ。とく、追ひとめよ。」

と罵り騷ぐに、眞夜中の月、鮮やかなれば、松明(たいまつ)を把(と)るまでもなく、索(なは)を腰にし、棒を引提(ひきさげ)て、おのもおのも、追ふ程に、馬は、はやくも、松五郞が墓所の邊(ほとり)に馳せゆきて、其處(そこ)につどひし癖者(くせもの)等を、馳けたふし、踶(ふみ)にじる勢ひ、特に猛くして、當るべくもあらざりけん、矢庭に、四、五人、蹴仆(けたふ)されて、しばしは、起も得ざりし折(をり)、傳兵衞が奴僕等(ぬぼくら)は推(おし)つゞきて、追ひかけ來つ。

 此ありさまに、又、おどろきて、あたりを見るに、松五郞が新墓(あらはか)を發(あばか)れたり。

「扨は。しやつらが所爲(しわざ)にこそ。みな、逃(にが)すな。」

と罵りて、ひとりも漏さず、生捕りけり。

 その時、主人(あるじ)傳兵衞も、やゝ走り來て、驚嘆しつゝ、まづ癖者等(くせものら)を責め問ふに、つゝみ果つべくもあらざれば、

「『なき人の棺の中には、物、あまた、入れられし』といふ風聞に、惡心おこりて、是彼(これかれ)、示し合せつゝ、竊(ひそか)に墓を發く折、この馬、忽(たちまち)、走り來(き)て、某等(それがしら)を踶仆(けたふ)したり。筋骨、痛みて、阿容々々(をめをめ)と搦捕(からめとら)れたりければ、後悔、その甲斐なけれども、命ばかりは助けたまへ。」

と、異口同音に、わびにけり。

 傳兵衞これをうち閒きて、

「この馬、わが子の恩を感じて、その別れを悲(かなし)みけん。かの目よりして、はかはかしく抹だも、食(くは)ざりき。それだに、奇特の事なるに、その身は厩に繫(つなが)れながら、今宵、この盜人等(ぬすひとら)が、わが子の墓を發(あばく)るを、よく知りたるは、奇といふべし。もし、この馬のなかりせば、誰か又、我子(わがこ)の爲に、この辱(はづかっし)めを雪(きよ)むべき。能くこそ、したれ。」

と馬を譽(ほめ)て、感淚を拭ひつゝ、獨、つらつら思ふやう、

『翌(あす)、この事の趣を領主に訴へまうしなば、怨(うらみ)をかへすに似たれども、今、この五人の惡者等(わるものら)は鄰村(りんそん)の百姓にて、面(おもて)を識れるものどもなるに、墓の土こそ掘りおこされたれ、いまだ、棺は發くに至らず。よしなき罪を造らんより、我子の菩提の爲にも。』

とて、その非を譴(せめ)めて、向後(きやうご)をいましめ、そのまゝ放ちかへせりとぞ。

 されば、又、松前の老君は、殊さら、馬を好み給ふに、これらの由を傳へ聞きて、

「われ、其馬を得まくほりす。縱令(たとひ)、他領の百姓なりとも、價(あたひ)は論ぜず。買ひとれ。」

とて、梁川(やながは)にをる家臣等に下知せられたりければ、家臣何某(なにがし)、うけ給はりて、箱﨑に赴きつゝ、

「云々(しかじか)。」

と、かたらふに、傳兵衞、つやつや諾(うべ)なはず、

「千々(ちゞ)のこがねを賜はるとも、この馬のみは、まゐらせがたし。」

と、言葉をはなち、推辭(いなみ)まうして、その子の在りし時にかはらず、寵愛しつ、と聞えたり。

 抑(そもそも)、この一竒譚(いつきだん)は、箱﨑のほとりなる鍼醫(はりい)正宅(しやうたく)といふもの、松前家の太夫(たいふ)の子礪﨑(かきざき)生【字[やぶちゃん注:「あざな」。]は三七。】に消息(せうそこ)して、

「云々。」

と告(つげ)にければ、江戸の邸(てい)にも、はやく聞えて、老君にも、しろし召され、次の年の睦月の末に、その臣長尾友藏【後に名を改て、所左衞門といふ。】を以て、解に告させたまひしかば、「雜記」中に書きつけおきしを、今、又、こゝに抄出せり。おもふに、此松五郞が遣愛の馬は、かの宋の周密(しうみつ)が「齊東野語(さいとうやご)」【卷七。】に載せたりし、畢再遇(ひつさいぐう)が遺愛の名馬「黑大蟲(こくだいちゆう)」にも、一しほ、優(まさ)りて、多く得がたき美譚(びだん)といはん歟。世に人の老僕たる者、忠臣節義の心薄く、「ばか」の馬にだも、恥ぢざらんや。この一條は、勸懲(かんちよう)の端(はし)なるべければ、はじめに出しつ[やぶちゃん注:「いdしつ」。]【右「五馬」之一。】

 

[やぶちゃん注:「伊達郡(だてこほり)箱﨑」福島県伊達市箱崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「松前の老君」当時の蝦夷地にあった松前藩藩主は松前章広であるが、先代の父は隠居して生きていたので、松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)である。ウィキの「松前道広」によれば、文政三(一八二〇)年に『医師の滝沢宗伯が藩主章広出入りの医者として新規に』江戸の藩邸に『召し抱えられた。この宗伯は』、当時、既に「椿說弓張月」や「南總里見八犬傳」などで、『著名であった曲亭馬琴(滝沢馬琴)の子供』瀧澤興繼(おきつぐ:本「兎園會」では「琴嶺舍」とする。但し、その殆どは父馬琴の代筆であった)『である。当時馬琴は生活が安定しておらず、また』、『武家の出身である馬琴は滝沢家の復興を悲願としていた。この医師である息子の登用により、馬琴の願いが叶った形となったが、この雇用は馬琴の愛読者であった隠居の道広による好意に拠るものであった』(但し、馬琴が期待をかけた彼は、病気がちで、天保六(一八三五)年に数え三十九で亡くなってしまう)とあり、この話が松前藩を経由して馬琴が知り得た内幕がよく判る。因みに、馬琴が武家の出というのは事実で、ウィキの「曲亭馬琴」によれば、馬琴は明和四(一七六七)年に江戸深川(現在の江東区平野一丁目)の旗本『松平信成の屋敷において、同家用人』『滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれ』た。名は「興邦」であったが、後年、「解(とく)」と改めた。安永四(一七七五)年、馬琴九歳の時、『父が亡くなり、長兄の興旨が』十七『歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永』五(一七七六)年に『興旨は家督を』十『歳の馬琴に譲り、松平家を去って』、『戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった』。『馬琴は主君の孫』『八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが』、『癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永』九(一七八〇)年、十四『歳の時に松平家を出て』、『母や長兄と同居した』。天明元(一七八一)年、『馬琴は叔父のもとで』、『元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた』。十七『歳で吾山撰の句集』「東海藻」に三『句を収録しており、このとき』、『はじめて馬琴の号を用いている。天明』七(一七八七)年、二十一『歳の時には俳文集』「俳諧古文庫」を『編集した。また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ』。『馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」』『と回想している。天明』五(一七八五)年)、『母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた』。寛政二(一七九〇)年、二十四『歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることを』許し、寛政三(一七九一)年正月には、『折から』、『江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙』「盡用而二分狂言(つかひはたしてにぶきやうげん)」を『刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年』の『秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった』とある。

「梁川(やながは)」福島県伊達市梁川町。ここは幕末には松前藩領であった。

「齊東野語(せいとうやご)」宋末元初の学者周密(一二三二年~一二九八年:官人であったが、宋の滅亡後は節を守って仕官せず、泗水潜夫とも号して作詩・著作に耽った)が書いた随筆。なお、この語は一般名詞でもあり、「齋東野人語」の略。「旧斉国東部(現在の山東省)の田舎者の野卑で下品な言葉遣い」の意から、田舎びた言葉、転じて、信ずるに足りない下品で愚かな話の意でもある。

『畢再遇(ひつさいぐう)が遺愛の名馬「黑大蟲(こくだいちゆう)」』「中國哲學書電子化計劃」こちらから影印本で読める。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩頭蛇 / 第二集~了

 

   ○兩頭蛇

 

Ryoutouda

 

[やぶちゃん注:図は底本よりトリミング補正した。キャプションは、訓読すると、

両頭蛇

背通リ、黒キ島に、筋、アリ。

の頭ハ、余程、こぶりに御座候。

此の所、穴、之れ、有り。便道と相ひ見申し候。

鱗合せめ、此くの如し。

腹の筋目は、此の所、圖のごとし。

「鱗合め」は「うろこ」の「あはせめ」であろう。]

 

 深川六間堀町淸兵衞店 源兵衞召仕 卯之助

當申【文政七年。】十一月廿四日夕七時頃、本所竪川通り町方掛り浚場所より、右卯之助、土船、乘、人足に罷出候處、一の橋より二十町程東之方、川内にて、土、浚上げ候節、鋤簾え、掛り、長さ三尺程、有之候、兩頭之蛇を引掛申候。名主・町役人、立合、見分之上、筒井伊賀守殿え、申立差出申候。

  右者、數原淸庵、病用にて、本所竪川肝煎名主

  關岡長兵衞方え、見舞、蛇一覽、書寫。

 右ニケ條

  乙酉仲春端八         海棠庵

 

[やぶちゃん注:しばしば発生する双頭型二重体奇形である。

「文政七年」一八二五年。

「深川六間堀町」例のサイト「江戸町巡り」のこちらによって、現在の江東区森下一丁目、及び、常盤一・二丁目、及び、新大橋二・三丁目であることが判った。この中央附近、隅田川左岸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「本所竪川通り」現在の首都高速七号小松川線が上を通っているこの中央の川のことである。西で隅田川に注ぎ、東で大横川と交差する。現在は非常に見え難いが、「古地図 with MapFanですっきりと江戸切絵図に「竪川」と見える。

「土船」(つちぶね)河川・堀・濠の底の土砂を浚って運ぶ舟。

「一の橋」ここ

「二十町」二・一八二キロメートル。この附近に相当する。「古地図 with MapFan」で見ると、江戸切絵図では「三ツ目之橋」とある、その東附近で、現在の錦糸町駅の南、東は亀井戸村で江戸の東の外れで、市街地ではないことが判る。

「鋤簾」(じよれん(じょれん))は土砂やごみなどを、搔き寄せるために使われる道具で、一般的な形は鍬に似ている。こちらに写真とともに解説が載る。

 以下、底本では全体が二字下げ。海棠庵のクレジットと署名の後は、ここまで総ての曲亭馬琴の「兎園小說」第一集・第二集全体への跋文である。

「右者」「みぎは」。上申書と絵のこと。

「數原淸庵」「寛政重脩諸家譜」に數原宗信 (内藏助・宗安・淸庵・日實 ?~享保一八(一七七三)年)が載るらしい(ここに拠った)。時制が古いが、号も同じで、「病用」とあり、号がいかにも医師っぽいから、この人物の後裔であろう。]

 

予が藏弃せる、この壹・貳の合卷一册、いぬる壬癸の冬十二月より今年癸巳の春夏の間にや、紛失したり。さりとは思ひかけずして、ふ月なかばに、所要ありて、とりいださんとしつる折、あらずなりしに心づきて、家の内、いへば、さらなり、猶、あちこちと、あさりしかども、終に、是、あること、なし。予は書を愛すること、大かたならねば、貸進の折などには、そを、心じるしつけて、等閑にせざりしに、此ひとまきのうせたるは、あやしきまでにおもふものから、せんすべも、なかりしを、いぬるとし、默老翁に、この書をかして、かしこにて寫しとどめられしかば、そを、又、こゝへ、備へん、とて、謄寫すること、四日ばかり、やゝ足らざるを、補ひ得たり。【再云、この、一・二の卷のうせしを、甲午の春、ゆくりなく見いだしたれど、前本は寫し宜しからざるもあれば、これをもて、正本とす。この書、知音の者、一兩人の外は、見ることを、ゆるさず。まいて、謄寫をゆるしゝは、只、二度のみなりき。】[やぶちゃん注:頭書。]時に

  天保四年秋七月二十八日  著作堂主人識

 

[やぶちゃん注:「藏弃」(ざうき(ぞうき))の「弃」は「棄」と同義であるから、ちゃんと整理せずに投げ出すように所蔵していることを言うのであろう。

「壬癸」十干二字はおかしな表記である。「癸巳」は最後のクレジットである天保四年の干支であるから、天保三年「壬辰」の誤りと考えられる。

「ふ月」文月。旧暦七月。

「默老翁」木村黙老(安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。砂糖為替法の施行や塩田開発などで藩財政を再建したことで知られる。馬琴と非常に親しくした友人で、馬琴との交際は江戸勤番中の、天宝年間から始まり、江戸詰が終わって高松に帰ってからも親交が続いた。蔵書家として知られ、浄瑠璃・歌舞伎・読本・合巻などの戯作に精通し、自身も大著の随筆「聞まゝ記」、戯作者の小伝「戲作者考補遺」などを書いている(以上は三宅宏幸氏の論文「木村黙老の蔵書目録(一) ―多和文庫蔵『高松家老臣木村亘所蔵書籍目録残欠』(上)」(愛知県立大学『説林』愛知県立大学国文学会編 ・二〇一八年三月)に拠った。PDFでダウン・ロード可能)。

「甲午」天保五年甲午。

「ゆくりなく」思いがけなく。突然に。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書  海棠庵

   ○兎圖會第二集小話    海棠庵 識

[やぶちゃん注:以下の口達部分の前振りは底本では全体が二字下げ。]

下總國藤代村にて、八歲の女子が、子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば、疑感もおこらんかし。よりて、こと、ふりにたれど、余が藩より、公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日 御勘定奉行柳生主膳正樣へ口達

       土屋洽三郞使者 大村市之允

拙者在所下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害忠藏娘「とや」と申、當中八歲罷成候者、去月十一日曉、出產之處、男子致出生候段、屆出候に付、年頃不相當之儀に御座候間、見分之者、差遣樣子相糺候處、同人儀、文化二丑年五月十一日致出生、四歲之頃より、經水之𢌞り有之候得共、病氣と心得罷在候。然所、去秋の頃より、腹滿之氣味有之、醫師へ爲見候處、「蟲氣にても可有之哉」に申間、腹藥・灸治等、無油斷相用候得共、相替候儀、無御座、當春に相成、彌、致腹滿候に付、種々、致療治候得共、同篇にて、猶又、醫師にも相尋候處、「病氣に相違は有之間敷候得共、萬一、懷胎にても可有之哉、容體難決」段、申聞候。其後、近比に相成、乳も色付、不一、樣子に付、「彌、懷胎に相違も有之間敷」段、醫師申聞候間、右之致用意罷在候處、去月二日夜中より、蟲氣付、翌三日曉、平產、母子共、丈夫にて、乳汁も澤山に有之由、且又、「とや」儀は、年頃より、大柄に相見え候。出生之小兒は、並々之小兒より、產髮、黑長き方に有之、其外は相替候儀無御座候由、申聞候。依之、當人は勿論、兩親初、三吉家内之者、其外、村役人・組合之者へも、委敷相尋候處、「幼少之儀、是は如何と心付候儀も無御座候。尤疑敷風聞等も一向及承不」申候段、一同、申聞、口書・印形、差出申候段、在所役人共より、申越候に付、此段、以使者申述候。

 

[やぶちゃん注:【後日追記】★実は、この話、二〇一五年三月十八日に、本ブログのカテゴリ「耳囊」の「耳囊 卷之十 幼女子を產し事」で、一度、電子化していたのだが、完全に忘れていた。そこでは、以下の私のアッサリ系の注とは、うって違って、かなりディグした注をものしており、さらに、現代語拙訳も載せてあった。そちらも、是非、お読みあれかし!

「下總國藤代村」「下總國相馬郡藤代村」現在の茨城県取手市藤代(グーグル・マップ・データ)。

「こと、ふりにたれど」文化九年は一八一二年。本兎園会は文政八(一八二五)年二月八日開催であるから、十三年前の出来事である。

「洽三郞」「かふさぶらう」。

「厄害」姓としては「厄難と災害・厄難による被害」の意でおかしい。思うに、「厄介」の意で、居候、或いは、それに準じた者の意か、とは思われる。

「當中八歲」「當(まさ)に八歲に中(あた)り」か。

「四歲之頃より經水之𢌞り有之」満三歳で月経が始まるというのは、あまりに異常である。或いは二重体(「ブラック・ジャック」のピノコのようなケース)か?

「同篇」(どうへん)変化がないこと。

「不一」普通でない。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 元文五年の曆のはし書 文寶堂

 

   ○元文五年の曆のはし書

世俗、「一晝夜」と云ふは、明け六時を一日の初とし、次の明六時迄を終とす。月食をしるすことも、俗間にしたがひ、右之通、用ひ來れり。然れ共、元より、子・丑・寅・卯の四時は、次の日の處分なる故に、今より後、此四時には、翌の字を附けて、是を知らしむ。幷に、二十四節・土用も、皆、右の如し。自今已後、此例にしたがふなり。重ねて斷ずるにおよばず。

       澁川 六藏源則休

               謹誌

       猪飼豐次郞源又一

 此古曆は、元飯田町釘屋權兵衞所持す。

   右三ケ條

    乙酉二月初八     文 寶 堂

 

[やぶちゃん注:「元文五年」一七四〇年。

「明け六時」(あけむつ)は定時法では午前六時頃であるが、江戸時代によく用いられた不定時法では、夏至で午前四時、春分・秋分の頃で五時半、冬至で六時半である。

「子・丑・寅・卯」午後十一時頃から翌日の午前七時頃まで。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 銀河織女に似たる事 文寶堂

 

   ○銀河織女に似たる事

南亞米利加のうちに、「アマソウネン」といふ所あり。此所の山に女ばかりすみて、一年に一度河を渡りて男に逢ふといふ。その河の名を蠻語にては、「リヨデラタラタ」といひ、紅毛語にては、「シリフルリヒール」といふ。「シルフル」は「銀」なり。「リヒール」は「河」なり。もろこし人のいひ傳へし銀河織女の事などは、かゝる事を聞き傳へたるにや。その山の邊に、男つねにかよへば、竹鎗にて、ふせぎて、入れず、といふなれば、「阿蘭陀通事、今村金兵衞、話なり。」と、蜀山翁、申されき。【解、按、「坤輿圖說」、「韃而靼・附錄」、「亞瑪作搦」條下曰、『迤西舊有女國。曰亞瑪作搦。最饒勇善戰甞破名郡一國俗惟春月容男子。一至其地。生ㇾ子。男輙殺也。今又爲他國所ㇾ倂。今村生所ㇾ話、亞瑪作搦女國事、蓋據ㇾ之也。著作堂追記。】[やぶちゃん注:頭書。「解」は馬琴の本名。]

 

[やぶちゃん注:前の前で本電子化冒頭に述べた掟を破って。えらい時間をかけて注を施してしまったので、この馬琴の頭書もスルーしようと思ったが、幸いにしてchinjuh 氏のブログ「ネタ袋」の「兎園小説より抜き書き」で、かなり詳しい注を附しておられるのを見出したので(多言語にお詳しい方である)、引用させて戴く。

   《引用開始》

# アマソウネン…オランダ語でアマゾンのことか。

# リヨゲラタラタ… スペイン語の Rio de la Plata リオデラプラタが訛ったものか。

# シリフルリヒール… ロシア語で銀は серебро シリブロ、川は река リカーである。

# ■…漢字が出ない! しんにょう+施の旁の部分[やぶちゃん注:「迤」。「迤西」は雲南省の旧称であるが、そこを指しているかどうかは判らない。「迤西」には広義の「西洋」の意味もあるからである。ただ、以下の記者の注からすれば、「迤西」は一般名詞で広義の中国の西の方でタタールと一致する。]

# 亜瑪作搦…北京語読みでは Yà mǎ zuò nuò であるからアマゾンの音写であろう。

# 漢文の"極めて"おおざっぱな意味は、「『坤輿図』の韃而靼(タタール?)の附録、アマゾンの条に、女国がある、勇ましい男子がその地におもむいて子を作るが、男は殺されてしまう、今では他の国の一部になっている、とある。本文の元ネタはこれなんじゃないの?著作堂(馬琴のこと)追記。」という感じ??ギリシア神話のアマゾーン(アマゾネス)は黒海沿岸の部族だったと言われているので、『坤輿図』に書いてあるというのもアメリカ大陸のアマゾン川のことではないかもしれない。そういえば韃而靼(タタール)って書いてあるし。

# アマゾン川でとれる微斜長石の一種を天河石(アマゾナイト)というが、天河は銀河のことでもあるのでイメージの連鎖が面白い。天河という訳語が日本で作られたものならばアマゾンのアマを天で音写したものと考えられるが、尼でも雨でもなく天を使うのは、アマゾネスの伝説を織女と重ね合わせたからではないかとも想像できる。いや、単なる偶然のような気もするが。天河という言葉のルーツもさぐりたくなってくる。

   《引用終了》

この注、甚だ面白い。感謝する。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 駿河町越後屋替紋合印の事 文寶堂

 

   ○駿河町越後屋替紋合印の事  文 寶 亭

 

Eigoyamon

 

挑灯などに此しるしあり。これは、「江戶四里四方、丸で十分に商いをする」といふしるしなり。[やぶちゃん注:画像の右端のもの。]

 

芝口松坂屋も、三井の持にて同店なり。暖簾につくる松のしるし、葉形かくのごとくなるは、「三井」といふ文字なりといへり。[やぶちゃん注:画像の右端のもの。松葉の交差する左右に「井」の字が見えるが、四つある。]

 

此しるしは、表方立番などの者の半臀などへ付くるしるしなり。「〇〇」二つは、二わ、「○」は「まはり」、「∧」は「人」といふ字にて、「『庭まはりの人』といふ『合じるし』なり」と、三井本店につとめ居たる兵七といふものゝ話なり。されども此[やぶちゃん注:ここに一番左の紋が組み込まれてある。]印は、長崎西築町乙名荒木宗太郞といひしもの、元和八壬戌年、御朱印頂戴し、異國渡海の船を金札船と稱したるよし、その船のしるしに、此印あり。されば、三井にては、後に考へて付けたるものなるべし。

 

[やぶちゃん注:画像は底本のものをトリミング補正した。

「元和八壬戌年」一六二二年。]

芥川龍之介書簡抄119 / 大正一三(一九二四)年(二) 七通 「越し人」片山廣子との邂逅 そして 恋情の発露(イタズラ葉書は現物写真を視認してリロードした)

 

大正一三(一九二四)年七月二十三日・輕井澤発信・芥川皆々樣(「KUSATU RAILIWEY OF KARUIZAWA」「草津鐡道小瀨柳橋進行」(右から左へ)と白枠下方左右にある軽便蒸気機関車が客車を牽いて橋を渡りつつある写真絵葉書)

東京市外田端
四三五

芥 川 皆々樣

        輕井沢鶴屋内
          龍之介
         二十三

昨日カルイザハの[やぶちゃん注:「カルイザハの」は吹き出しで追加したもの。]停車場より宿へ
行く途中、自働車にのりし
にその自轉車[やぶちゃん注:ママ。]、向うより來
る自働車をよけんとして
電柱に[やぶちゃん注:抹消字は「働」の「亻」が「彳」になったもの。]衝突し、乗合ひ
の中学生一人重傷を負ひ僕
は田の中へ投げ出され、そ
の拍子に左の腕を折り、目下
輕井沢病院に入院中 院
長は亜米利加人にて中々 親
切なり 誰も來る必要なし一週
間中に退院の筈。(但シコレハミナウソ)[やぶちゃん注:以上は宛名書の下方の書信。上部に右から左に独特の面白い丸文字で「郵便はがき」とあり「一錢五厘」の切手(消印は上記同月同日)の下方に「POST CARD」と印刷されており、中央の印刷された横引罫線左右の間の上方に「K. MAYEJIMA. PHOTOGRAPHER KARUIZAWA JAPAN」、下方に「PICTURE POST CARDS MEDE TO ORDER」と印刷されてある。さらに表面最下部左には、右から左で「信州□□□ □□□□□□□」と印刷してあるが、殆んど判読出来ない。]

原稿用紙ヲオクラレタシ 五トヂバカリ[やぶちゃん注:写真の右白枠内に縦書。これは底本には活字化されていない。

コノハガキヲ夛加志へ見セ、コレハ何トキクベシ[やぶちゃん注:写真の左白枠内に縦書。]

 

[やぶちゃん注:――ワタシハ逆立チシテモ、コンナ忌マハシイハガキハ出セマセン――芥川龍之介はこの年の夏、初めて軽井沢に避暑した。七月二十二日午後一時頃に到着し、鶴屋旅館(現在の表記は「つるや旅館」。ここ。グーグル・マップ・データ)に八月二十三日まで一ヵ月余りも長期滞在した。涼しさが気に入り、翌年の夏も滞在している。というより、この初めての軽井沢滞在の中で、龍之介は、彼の最後の運命の女性「越し人」片山廣子と親密になったのであった。この滞在が長期に亙ったのも廣子との邂逅による恋情の炎上故と考えてよい。私は既にサイトで「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を公開しており、詳細なオリジナル注もつけており、ここで屋上屋をするつもりはないので、そちらの軽井沢滞在期間内の以下の四書簡

■書簡4 旧全集一二二二書簡 大正13(1924)年7月28日 軽井澤発信(室生犀星宛)

■書簡5 旧全集一二三四書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(同前)

■書簡6 旧全集一二三五書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(小穴隆一宛)

■書簡7 旧全集一二三六書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(同前)

を見られたいが、特に、その「■書簡6」が注目されるのである。その書簡の中で龍之介は、

   *

僕は短篇を一つしか書かず、無暗に本をよんでゐるしかしもう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる 事によると時候のせゐかも知れない。事によると、何か書けるかも知れない

   *

と小穴に告白しているのである。私はそちらの注で(少し補足した)、

   *

ここで、龍之介が「もう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる」というのは、八年前、芥川龍之介満二十四歳、大正五(一九一六)年の、後の妻塚本文への八月二十五日のプロポーズの手紙(上総一宮発信)に始まる、その顕在的な恋情から同年十二月の婚約の頃の心情を指している(或いはさらに、その二年前の大正三(一九一四)年七月に吉田彌生宛で出した、或いは出そうとした、同じ上総一宮で書かれたラヴ・レター(日付不詳であるが、葛巻氏の提示が順列であるとすれば、七月二十日以降から二十八日までとなる)に遡っても別に何の問題もない)。この時、龍之介は遠い花火ではない、瀧の如く振り注ぐ花火の火の粉を受けながら、若き日と同じ懸恋の切ない情と、そのエクスタシーに浸っているのである――

   *

と感傷的に注してしまった(そちらでは塚本文のみを示したが、今回、吉田彌生も同格、或いは、その失恋の痛恨の心傷(トラウマ)から考えれば、燃えるような恋情とは、寧ろ、彌生へのものの方が相応しいとも言える)。【2021年8月21日手紙改訂】所持する二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」にこの絵葉書の裏表が写真で載っているのに気づいたので、それで本文を改訂した。文字列は原文と同じ箇所で改行した。

 

 

大正一三(一九二四)年七月二十五日・輕井澤発信・芥川宛(絵葉書)

 

昨夜淺間山大いに鳴動し、戶をあけて外に出て見れば、まつ赤なる煙、去年の震災の火事の如く立ち居たり。灰少々ふる。今日は爆發を恐れ、歸京する人多し。一昨日來た市川左團次一行も歸る。鳴動は未だにやまず。伯母さん、伊藤さんに來て貰ひしや左團次は滿洲へゆくよし

 

[やぶちゃん注: 浅間山の小噴火である。二十四日に始まり、この二十五日も鳴動が止まなかった。……そう……それは……龍之介よ……お前の恋情の炎上の……予告だったのだな…………

「伯母さん」芥川フキ。

「伊藤さん」不詳。

「左團次」歌舞伎役者(新左團次二代目)市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年:旧左團次から数えると五代目に当たる)。伝統歌舞伎で活躍する一方、劇作家で演出家でもあった小山内薫とともに翻訳劇を中心に上演する「自由劇場」で演劇革新運動を行ったことでも知られる(明治四二(一九〇九)年〜大正八(一九一九)年)。明治四五(一九一二)年には座元であった明治座を売却、松竹の専属になった。また、後の昭和三(一九二八)年にはソ連で史上初の歌舞伎海外公演を行って、「戦艦ポチョムキン」(一九二五年)の監督として知られる巨匠セルゲイ・エイゼンシュテインと知り合い、以後、親交を深めた。彼の「イワン雷帝」(一九四四年)は全編に亙って歌舞伎的ショットや演出がふんだんに用いられている。「滿洲」着実に日本が将来的な実行支配を目論んで、多くの権益を広げつつあった、日本からの移民もいた中国東北部の満州地方への興行であろう。]

 

 

大正一三(一九二四)年七月二十七日・輕井澤発信・久米正雄宛(絵葉書・山本有三・高田保と寄書)

 

   靜脈の浮いた手に杏をとらへ(グリインホテルにて)   龍之介

 

   落葉松の山に

   白塗りのホテル

   平らか

                   龍

來い來い

 

[やぶちゃん注:以上の二つの詞章は、私は孰れも新傾向俳句と見做して、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」に採用している。

「山本有三」既出既注

「高田保」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十七(一九五二)年)は劇作家・随筆家。早稲田大学英文科卒。大学時代に宇野浩二と知り合っている。映画雑誌記者を経て、浅草オペラの代表格「金龍館」文芸部に入った。大正十一(一九二二)年に帝国劇場の戯曲懸賞に応募した「案山子」が入選、昭和四(一九二九)年には丸山定夫や山本安英が結成した新築地劇団に加わるも、翌昭和五(一九三〇)年には検挙されて転向、昭和八(一九三三)年には『東京日日新聞』へ入社(同期に大宅壮一)するが、昭和十三(一九三八)年に退社して新国劇の脚色家兼演出家として活躍した。戦後は昭和二十三(一九四八)年から『東京日日新聞』に随筆「ブラリひょうたん」を連載、軽妙な文体で、鋭い時事批評を展開、『昭和の斎藤緑雨』と称せられた(以上は主にウィキの「高田保」によった)。

「グリインホテル」この前年八月一日に開業した「グリーンホテル」。ここ(千ヶ瀧)にあった(今昔マップ)。

 なお、「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」に採用している、この翌日の七月二十八日に輕井沢から室生犀星宛で送った絵葉書には、

 左團次はことしは來ねど住吉の松村みね子はきのふ來にけり

という短歌を記している通り、この前日――かの片山廣子(「松村みね子」は翻訳家としての彼女の当時のペン・ネーム。雨の日に見知らる少女が持っていた傘に記された名であったと本人が述べている。後にこの筆名を彼女は使わなくなった)が鶴屋旅館に入ったのであった――「住吉」は大阪市南西部にある、現在の住吉区と住之江区の一部を指す旧地名(古くは「すみのえ」と呼んだ)。住吉神社を中心に美しい松原があったことから「松」の歌枕で、廣子のペン・ネーム「松村」を引き出すための枕詞に過ぎない。さらに言っておくと、その書簡には、「二伸」があり、そこで「クチナシの句ウマイナアと思ひましたボクにはとても出來ない」と龍之介は書いている。この犀星の「クチナシの句」は不詳であるが、私はドキッとしたのである。何故なら、犀星は、実は既に知人であった廣子を「梔子夫人」(「無口な」の意を利かせた掛詞)と秘かに呼んでおり(また、最初に廣子に恋情を抱いたのは龍之介ではなく、自分だ、と犀星が応じたという話もある)、これ以降、芥川もその符牒を盛んに用いていたから、この犀星の「クチナシの句」は、既にして廣子を言外に詠んだものである可能性が高いと私は考えている。

 

 

大正一三(一九二四)年八月十三日・軽井澤発信・東京市外田端四三五 芥川富貴樣 芥川儔樣

 

おばさんとおばあさんと無精を云はずに來なさい切符を買つて送つてもよろしい晝は八十五度位になれど朝夕は非常に涼しい 中央公論まだ出來ず弱つてゐる 十六七日頃かへるつもり、ぜひ來なさい 來れば二三日近所を御案内申上げ候

                   龍

コノオンナノコハオトコノコガネマシタカラ、シヅカニオシナサイト、イツテヰルノデス

   ヒ ロ シ ニ

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこれ以前にも芥川家宛(八月十日(年次推定))及び養父芥川道章宛(八月十三日(同前))で、養母儔(とも)と伯母フキを軽井沢に来るようにと書信している。本書簡は、宛名がこの二人になっている点、及び、「フキ」の名を漢字で「富貴」と記している点で、トビッキリの特異点であるために、特に採用した。私は多くの龍之介の研究書を見てきたが、龍之介を最も愛し、彼もそうであった「フキ」の名が漢字で「富貴」であることを明記したものは殆んど目にした記憶がないからである。

 

 

大正一三(一九二四)年八月十三日・輕井澤発信・芥川文宛(絵葉書)

 

こちらは涼しいと云ふよりも夜は非常に冷える三十錢の懷爐を買つた。ビオフェルミンはみんなのんでしまつた。但し藥屋は聖ルカもある。橫文字の本を二十圓ばかり買つた。岡から結婚屆の印をとりに來たら(ホショウ人の)捺つてやつてくれ同じ宿に原善一郞もゐる。片山廣子女史もゐる

                   龍

 

[やぶちゃん注:「聖ルカ」かの聖路加国際病院の聖路加軽井沢診療所のことであろう。場所は不詳。

「岡から結婚屆の印をとりに來たら」既出既注。この直前の六月二十五日、芥川龍之介・文夫妻は岡の結婚式の媒酌(龍之介は仲人はこれが初めてであった)を勤めていた。相手も龍之介の幼馴染みで染物屋「大彦」の跡取り野口功造・真造兄弟の姪であった。しかし、姑との仲が上手く行かず、翌年の春に女児を出産後、直ちに離婚し、その前後、鬱憤冷めやらぬ栄一郎がお門違いの仲人芥川龍之介に八つ当たりして、龍之介の神経を悩ますこととなった。

「原善一郞」既出既注。あの厭な奴も一緒だったか。

 さて。新全集の宮坂覺氏の年譜には、八月五日の条に、『犀星の部屋で、片山広子を交えて談笑し、犀星には片山を「いつか二人で晩食に呼ばうよ」などと語る』とあり、八月八日の条には、『夜、片山広子・総子親娘、室生犀星と四人で散歩をする』とあり、さらに、八月十三日の夜には、『室生犀星、片山広子・総子親娘、鶴屋旅館主人と自動車で碓井峠へ月見に行』っている。そうして、この辺りで、遂に決定的な龍之介の片山広子への激しい恋情が芥川龍之介の内に宿ることになったのである。八月十九日には、『片山広子、鶴屋旅館主人と追分(おいわけ)に出かけ、美しい虹を見る』『(この』時の『虹は、のち』に『堀辰雄』の『「楡の家」にも描かれた)この頃から』、芥川龍之介は『片山広子に「愁心」を感じ始めており』、冒頭注で示した通り、八月十九日には『小穴隆一に「無暗に本をよんでゐるしかしもう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる」』と書き送り、『佐佐木茂索にも「僕、此処へ来てから短篇を一つしか書かず 本ばかり読んでゐる しかももう一度廿五才になつたゆな興奮を感じてゐる」』(八月二十日消印)と書信しているのである。さらに、★この思いが、全くの龍之介の一方的な片思いに過ぎなかったわけではなかった★ことが、永い間、幻しとして公開されていなかった、片山廣子の同大正一三(一九二四)年九月五日附片山廣子芥川龍之介宛書簡によって明らかになったのである。 同書簡は私の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」を見られたい。

 

 

大正一三(一九二四)年九月二十五日・田端発信・小酒井光次宛

 

冠省過日は高著を頂戴いたし難有く存じます又拙作をおよみ下さるよし御厚志を忝く存じます伊藤女史より御病臥のむね伺ひましたが季候不順の節どうか一層御大事にお體をおいたはり下さいとうに御禮の手紙をさし上げる筈の所、ついつい延引し申訣ありません小生も持病の胃腸を患ひ、床の上に日を送つてゐる始末であります

     卽景

   朝寒や鬼灯のこる草の中

御一笑下さらば幸甚です 頓首

    九月二十五日     芥川龍之介

   小 酒 井 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「小酒井光次」(こさかいみつじ)は医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)。私の『カテゴリ「小酒井不木」始動 /小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附)(1) 序・目次・「はしがき」・「日本の犯罪文學」・「櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事」』の冒頭注を参照されたい。彼は若い頃から結核に罹患していた。]

 

 

大正一三(一九二四)年十月十一日(年次推定)・田端発信・石原新之助宛

 

冠省御手拜見しました兎に角强盜と云ふものは恐しいものに違ひありませんわたしも大いに恐しく感じました殊にその靑年强盜が甚だ强盜的訓練を缺いてゐるのを發見した時は一層恐しく感じたものですそれから金をやつたのは勿論怪我でもさせられるのはいやだと思つた結果です尤も强盜は五十圓出せと云ふのですが五十圓やるのは困りますから、然る可く交涉を重ねた末、二十圓に値ぎりました兎に角わたしの經驗によれば、强盜にはひられたり何かしても、餘り狼狽はしずにすみますが恐しい事は確かですまづ、ちつとも恐しくなかつたと云ふ人がゐたら、噓をついてゐるとお思ひなさい少くともわたしならばその人を噓つきだと思ひます勿論强盜をつかまへても、强盜に道を說いて聞かせてもその人は必ず怖しかつたのに違ひないと思ふのですね尤も恐しさの持續する時間は人によつていろいろ違ふ筈ですが、――わたしなどはその後考へて見ると、三分以上は確かに恐しかつたやうですなほ又金をやる事の可否は生命を失ふのをいやだとすれば可否の問題ではなくなる訣でせうわたしは由來手紙の返事などは滅多に書かぬ人間ですが餘りあなたの手紙が靑年らしい質問故、これだけの事を書きましたどうかこれを例とせずに下さい右とりあへず御返事まで 頓首

    十月十一日       芥川龍之介

   石 原 新 之 助 樣

 

[やぶちゃん注:実は芥川家には、この年の、軽井沢へ発つ十三日前の七月九日の午前三時頃、便所から強盗が侵入し、龍之介ら家人は短刀を突きつけられ、二十円を奪われていた。参照した新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この書簡の五日前の十月六日に犯人が逮捕されたが、その『犯人は一六歳の早稲田実業本科生で』あったとある。

「石原新之助」不詳。熱心な読者の一人かと推察される。恐らく、前注の犯人逮捕の新聞記事を受けて、作品を愛読していた龍之介へ書信を出し、この人物が恐らく犯人とごく近い年齢であったことから、龍之介は例外的に返書をしたものと推察される。]

2021/08/13

芥川龍之介書簡抄118 / 大正一三(一九二四)年(一) 正宗白鳥宛

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この年の一月十日頃、『大阪毎日新聞社とトラブルが生じ(入社後、目立った仕事がないことに不満が生じたか)、社』(系列新聞の東京日日新聞社であろう)『を訪れ、事情を説明する』とあるが、参考資料として同月十八日附『よみうり抄』の引用で、『芥川龍之介氏 「大阪毎日新聞」嘱託であつたが解任になつた』とある。また、同年一月十一日(年次推定)の小穴隆一(宛名「一游亭先生」)宛書簡の中で数日前の外出して不在だったことを弁解して、『僕の馘職事件が起つた爲ちよいと社へ行く用もあつた』と述べているから、この十一日から十八日の間で――芥川龍之介は大阪毎日新聞社社友を社側によって解職となった――というニュースが流れたのは確かである。但し、年譜本文には解職されたとする明記はない。また、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」には『大阪毎日新聞社で「芥川の馘職事件」(詳細は不明。恐らく病気を口実に大毎には余り執筆しないが、他誌には小説を書いていることに対する不満が社内に高まった結果と思われる)があり、そのため』、龍之介自身が日日新聞社に『赴き』、『事情説明をし、いちおう収まる』とある。その後も『サンデー毎日』・『東京日日新聞』・『大阪每日新聞』に芥川龍之介は作品を発表しており、馘首・解任はされなかったと考えてよい。]

 

 

大正一三(一九二四)年二月十二日・田端発信・正宗白鳥宛

 

冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來最も嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生畫卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中からも是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ましい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今でも後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます 最後に國粹などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首

   二月十二日       芥川龍之介

  正 宗 白 鳥 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「文藝春秋の御批評」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『『文芸春秋』二月号掲載の正宗白鳥「郷里にて」』であるされ、『「一塊の土』(『新潮』一月号発表)『につき、芥川の作品の中で「これほど、力の籠もった、無駄のない、気取りの気のない、奇想や美辞を弄した跡のない小説を私は一度も読んだことがない」と賞賛した』とある。白鳥は芥川龍之介の自死に際して昭和二(一九二七)年十月号『中央公論』に「芥川龍之介氏の文学を論ず」を発表しており(後に「芥川龍之介」と改題して「現代文芸評論」(昭和四(一九二九)年)及び「作家論(二)」(昭和一七(一九三二)年)に所収)、私は古くにサイトでそれを公開しているのであるが、その中でも、『作家の好みはさまざまである。お染久松を「松染情史」として書かうとも、自己の生活の直寫をしないで、平安朝物や切支丹物に於て人間を書かうとも、それは作者の自由である。しかし、芥川氏は、現代の寫實に於ても、可成りに傑れた技倆を現はしてゐる。「秋」には若い姉妹の心の動搖が巧みに描かれてゐる。ことに「一塊の土」はいい。「地獄變」と相並んで、この作者の全作中で、最高位に立つものである。お民といふ田舍女の忍苦の生活には、作者自身の心が動いてゐる。そして、自然主義系統の作家の作品に比べると、秩序整然として冗談がない。……私は數年前「新潮」に掲げられたこの小說を、故鄕で讀んだ時、芥川君もこんなに現代の寫實に巧みであるのかと感歎して、直ちに讀後感を書いて「文藝春秋」に寄稿したことがあつた。……しかし、この小說以後の芥川君の作品には殆んど一つも感心しなかつた』と述べている。但し、冒頭注で出した鷺只雄氏は前掲書のコラムで、まさに、この白鳥の「芥川龍之介氏の文学を論ず」の「一塊の土」の賞賛部を引かれた上で、『しかし、この作品は白鳥の賞讃が見当違いのものであったことを示していはしないか。農村を舞台に農婦の生涯を描いている点で従来と違った素材の新しさ、時流の動きはある。しかしここにはどんな「現代の写実の巧み」さがあるか、土の臭いや労働の実態があるであろうか。舞台は変っても、作品の眼目はエゴの剔抉にあるわけで、本質的には何も変ってはいない』と批判しておられる。私は――鷺氏の意見に賛同する。「一塊の土」は農村農民を描いたリアリズム小説ではなく、今まで通りの、龍之介の冷徹な人間のエゴイズムを抉り出すことを主眼とした物語であると、今も昔も捉えている。

「往生畫卷の御批評」「往生繪卷」は大正十年四月『國粹』発表。既出既注。同前の石割氏の注に、『正宗白鳥『泉のほとり(一九二四年一月、新潮社刊)収録の「ある日の観想」(初出、『国粋』一九二一年六月号)』がそれであるとされ、『白鳥はここで「往生絵巻」を寸分の間隙もない傑れた小品』と評価しながら、最後の蓮花の箇所は「芸術家の小細工」と評した』と記しておられる。白鳥は、前掲の「芥川龍之介氏の文学を論ず」の「二」で(太字はそちらでは傍点「ヽ」)、

   *

 小品「往生繪卷」も「孤獨地獄」と同じやうな意味で私には面白かつた。……五位の入道は、狩りの歸りに、或講師の説法を聽聞して、如何なる破戒の罪人でも、阿彌陀佛に知遇し奉れば、淨土に往かれると知つて、全身の血が一度に燃え立つたかと思ふほどに、急に阿彌陀佛が戀しくなつて、直ちに刀を引き拔いて、講師の胸さきへつきつけながら、阿彌陀佛の在所を責め問うた。そして、西へ行けと敎へられたので、彼れは「阿彌陀佛よや。おおい。おおい」と物狂はしく連呼しながら、西へくと馳せてゐたが、やがて、彼れは波打際へ出て、渡るにも舟がなかつた。「阿彌陀佛の住まれる國は、あの波の向うにあるかも知れぬ。もし身共が鵜の鳥ならば、すぐそこへ渡るのぢやが、しかし、あの講師も、阿彌陀佛には、廣大無邊の慈悲があると云ふた。して見れば、身共が大聲に、御佛の名前を呼び續けたら、答へ位はなされぬ事もあるまい。さすれば呼び死に、死ぬまでぢや。幸ひ此處に松の枯木が、二股に枝を伸ばしてゐる。まづこの松に登るとしようか」と、彼れは單純に決心した。そして松の上で、息のある限り、生命の續く限り「阿彌陀佛よや。おおい、おおい」と叫んで止まなかつた。……彼れはその梢の上でつひに橫死したのであつたが、その屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐて、あたりに異香が漂うてゐたさうである。

 この小品の材料は、この作者が好んで題材を取つて來た今昔物語とか宇治拾遺とか云ふやうな古い傳說集に收められてゐるのであらう。その傳說が作者の主觀でどれだけ色づけられてゐるのか分らないが、私はこの小品を「國粹」といふ雜誌で讀んだ時に、非常に興味を感じた。ことに「孤獨地獄」と對照すると、藝術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤獨地獄に苦しめられてゐるある人間が、全身の血を湧き立たせて阿彌陀佛を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覺える人間が現出するのであつた。しかし、これ等を取扱つてゐる芥川氏の態度や筆致が、まだ微溫的で徹底を缺き、机上の空影に類した感じがあつたので、私は龍之介禮讚の熱意を感じるほどには至らなかつた。

 私は、この小品の現はれた當時、その讀後感をある雜誌に寄稿した雜文の中に書き込んだ……五位の入道の屍骸の口に白蓮が咲いてゐたといふのは、小說の結末を面白くするための思附きであつて、本當の人生では阿彌陀佛を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、惡臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古傳說の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の藝術家芥川氏が衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。藝術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。

 かういふ私の批評を讀んだ芥川氏は、私に宛てて、自己の感想を述べた手紙を寄越した。私が氏の書信に接したのは、これが最初であり最後でもあつたが、私はその手跡の巧みなのと、内容に價値があるらしいのに惹かれて、この一通は、常例に反して保存することにした。今手許にはないので、直接に引用することは出來ないが、氏は白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた。「求めよ、さらば與へられん」と云つた西方の人の聖語を五位の入道が講師の言葉を信じて疑はなかつたと同樣に、氏は信じて疑はなかつたのであらうか。

 私はさうは思はない。氏は、あの頃「孤獨地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同樣に、專心阿彌陀佛を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聽明な學者肌の人であつたに違ひない。禪超や五位の入道の心境に對して理解もあり、同情をも寄せてゐたのに關はらず、彼等ほどに一向きに徹する力は缺いてゐた。

   *

と批評している。因みにここに出る龍之介の「孤獨地獄」は私の偏愛する一篇であり、先般、正字正仮名・草稿附きのオリジナル注附き縦書PDFを公開してある。サイト横書版や、ブログ版もあるので、お好みに合わせて見られたい。而して、このエンディングを白鳥の言うような死臭の満ちたリアリズムで演出したら、レーゼ・ドラマの読者たちは、仮想の芝居小屋から直ちに鼻を押さえ、反吐を吐きながら退散してしまうであろう。芥川龍之介は冷厳な自然主義作家や悲惨描出に拠ってプロパガンダするプロレタリア作家ではない。人間の持つ存在悪をフラットに語りかけてくるストリー・テラーに他ならないのである。

「今昔物語に出てゐる所によると」既に、こちらで原拠原文を注で示してある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (2)~同条完結

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考。幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 (2)

[やぶちゃん注:これ以前は、吉川弘文館随筆大成版を底本としたが、以下の部分は例の国立国会図書館デジタルコレクションの渥美正幹編輯になる「曲亭雜記」第一輯下編の、こちらにある「○ねこま。いたち考 奇病評附」に従う。やはり、吉川弘文館随筆大成版の「兎園小説」のものとは微妙に異同がある。読みは一部に留め、送り仮名として出した部分もある。また、返り点など、一部に明らかな誤植があるので、訂した。それはいちいち断らない。

 

    ○「ねこま」・「いたち」考 奇病評附

猫は「和名鈔」【「毛群部」。】に、『和名(わみやう)、「禰古萬(ねこま)」なり。』。しかるに、中葉(なかごろ)より下略(げりやく)して「禰古」といへり。「枕草紙(まくらざうし)」【「をきな丸」の段。】に、『うへにさふらふおんねこは云云』[やぶちゃん注:「おんねこ」は底本では「おへねこ」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]といひ、又、「源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」【「義仲跋扈」の段。】に、猫間中納言の猫に、「間」の字を添へたり。こは、「猫」一字にては、「ねこ」と讀む故に、「猫間」と書きたる也。これ、ふるくより、「ねこま」といはず、「ねこ」とのみ唱へ來れる證(あかし)なり。しかれども、彼を呼ぶときは、上略して「こまこま」といふ事、「枕草紙」【これも「おきな丸の段」。】に見えて、今も亦、しかなり。いづれまれ、略辭なれば、物には「ねこま」と書くこそ、よけれ。「契冲雜記」に、『猫は「ねこま」、「鼠子待(ねづみこまち)」の略歟。鼠の類に、「つらねこ」といふあれば、「ねこ」といふは、略語の中に、ことわり、背くベし。猫の性(せい)は、鼠にても鳥にても、よくうかゞひて、「必、とり得ん。」と思はねば、とらぬものなり。よりて、待(まつ)とつけたる歟。』といへり。その書の頭書に、『眞淵(まぶち)云、ねこは、たゞ、「睡獸(ねむりけもの)」の略なるべし。「けもの」ゝ「け」の字、反(かへし)、「こ」なり。或る人、『「苗(なへ)」の字につきて、なづけしもの歟。』といへるは、わろし。』といへり。解、按ずるに、兩說共に、ことわり、しかるべくも、おぼえず。「鼠子待」は求め過ぎたる憶說なれば、今さら、論(あげつら)ふべくもあらず。「ねむりけもの」ゝ義といへるも、いかにぞや、おぼゆ。大凡、睡きを好むけものは、猫にのみ限らず、狸・狢(むじな)・鼬の類、みな、よく睡るもの也。わきて、陽睡(そらねむり)を「たぬきねむり」と唱へて、ねむりは、「ねこ」より、「たぬき」・「むじな」のかたに、名高し。是等の和名(わみやう)に、「ねもし」をかけて唱へざりしをもて、「ねこま」の「ね」も、「ねむりけもの」ゝ義にあらざるを知るべし。さばれ、狸・狢の類(たぐひ)は、眞(まこと)の睡りにあらず、「そらねむり」なれば、「ね」といはずといはん歟。猫とても、熟睡(うまい)は稀にて、多くは「そらねむり」なり。かれが、いざときをもて、知るべし。且、『「けもの」ゝの字反、なり』[やぶちゃん注:底本は下線は右の二重傍線。以下同じ。]とのみいひて、下の「マ」の字を解かざるは、いかにぞや。前輩(せんはい)千慮の一失歟。いと信じがたき說(ときこと)なり。按ずるに、猫を「ねこま」と名づけしは、さるよしにあらずかし。猫は「ねうねう」と鳴くけものなれば、「ねこま」と名づけたり【猫の「ねうねう」となくよしは、是も「をきな丸の段」に見えたり。】。「こま」のと、五音、通へり。と、是れも、音、かよへり。こまけもにて、「けもの」ゝを略したり。是れ、『「ねうねう」と鳴く「けもの」』といふ義にて、「ねこま」といヘり【今も小兒は、猫を「にやあにやあ」といふ。その義、自然と、かなへり。】。かゝれば、「ねこ」とのみいへば、ねけ也。「こま」とのみいへば、けもなり【「の」ゝ字を略せり。】。いづれも略語の中に、ことわり、背くと、いふべからず。然れども、「ねこま」といふに、ますこと、なし。又、鼠の類(るゐ)なる「つらねこ」のねこは、「ねこま」のねこと、おなじかるべくも、あらず。こは、よく考へて追つてしるすべし。又、鄙言(ひげん)に、猫の老大なるものを、「ねこまた」といへり。この事、「つれづれ」に見えたり。又、くだりて、貞享中の印本(いんほん)、「猫又づくし」といふ繪草紙あり。又、「今川本領猫股屋敷(いまかはほんれうねこまたやしき)」といふ、ふるき淨瑠理[やぶちゃん注:ママ。]本もあり。此「ねこまた」は、丸太に「こた」などの如く、「ねこま」に「た」を添へて唱ふるにはあらで、「猫岐(ねこまた)」の義なるべし。猫の老大に至りて、變化自在(へんくわじざい)なるときは、尾のさきに、岐(また)、いで來て、ふたつに裂くることあり、といへば、老大にて岐尾(またを)なるものを、「ねこまた」といふ歟。こは、またく、俚言(りげん/サトビゴト[やぶちゃん注:右/左のルビ。]なり。又、按ずるに、に作るを正とす。「埤雅」に、「陸佃云、『鼠ㇾ苗。貓ㇾ鼠。故字從(シタガ)フㇾ苗。』。」[やぶちゃん注:「陸佃が云はく、『鼠は善く苗(なへ)を害す。貓(ねこ)は能く鼠を捕ふ。故、字、「苗」に從(したが)ふ。』。」。]といへり。「ねこま」を「なへけもの」ゝ義といへるは、これより出でたり。すべて、字體によりて、和名をとくものは、附會なり。信ずるに足らず。

 

[やぶちゃん注:『猫は「和名鈔」【「毛群部」。】に、『和名(わみやう)、「禰古萬(ねこま)」なり。』。』「和名類聚抄」の巻十八「毛群部第二十九」の「毛群名第二百三十四」に、

   *

猫 野王、案ずるに、『猫【音「苗」。和名「禰古万(ねこま)」。】は虎に似て、小なり。能く鼠を捕へて粮(らう)と爲す。』と。

   *

この「野王」は中国では既に失われた梁の顧野王「玉篇」の日本に伝わった古写本残巻によるもの。

『「枕草紙(まくらざうし)」【「をきな丸」の段。】』「枕草子」の通称「翁丸(おきなまろ)の段」(「をきな丸」の歴史的仮名遣は誤り)。但し、これは犬の名。一条天皇が寵愛し、あろうことか五位の位まで叙されていた猫「命婦(みやうぶ)のおとど」を襲ったため、蔵人たちに打たれて追放された哀れな犬である(猫の世話係りとされた「乳母(めのと)の馬(むま)の命婦」が、戯れて、寝ていて起きない猫を「食べておしまい!」と翁丸に命じたために飛びつこうとした事件(襲われてはいない)で、「乳母の馬の命婦」も更迭された)。この同書の初めの方にある長い話の主人公は、その犬の「翁丸」であるので注意されたい。されば、引用はしない。「うへにさふらふおんねこは」はその章段の冒頭。

「猫間中納言」藤原光隆(大治二(一一二七)年~建仁元(一二〇一)年)。ウィキの「藤原光隆」によれば、官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された』。「『平家物語」巻第八「木曾猫間の対面」においては、寿永二(一一八三)年に、入洛した『源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲の家で光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸』( 菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus )『の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである』とある。最後の話は、「芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 三 最後」の私の注で原話を引いてあるので読まれたい。壬生は一時期、「猫間」という地名を持っていたのである。馬琴の言はハズレである(大体からして彼の飼っていた猫を猫間にして、それを通称したというのは本末転倒で、凡そおかしなことではないか)。今はあまり聴かないが、古くは「猫」を含んだ地名や川名が、結構、あった。

「いづれまれ」吉川弘文館随筆大成版も同じで、そちらには「まれ」の右に『に脱カ』と編者註がある(「孰れにまれ」)。私は違和感なく読めてしまったが、確かに「いづれまれ」の用法はないようだ。

「契冲雜記」「万葉集」古注で知られる真言宗僧の古典学者で歌人の契沖(寛永一七(一六四〇)年~元禄一四(一七〇一)年の随筆「圓珠庵雜記(ゑんじゆあんざつき)」(元禄一二(一六九九)年成立・文化九(一八一二)年刊。古語の考証や解釈を中心としたもの。円珠庵は契沖の住んでいた庵の名。「古事類苑」の「動物部三」の「獸三」の「猫」の項に引いて、

   *

圓珠庵雜記 猫子コマ鼠子待(ネコマチ)の略か、鼠の類に「つらねこと」いふあれば、「ねこ」とのみいふは、略語の中に、ことわり、背くべし。猫の性は、鼠にても、鳥にても、よくうかゞひて、かならず取り得んと思はねば、とらぬものなり。よりて、「待ち」とつけたるか。

頭註

【眞淵云、「たゞ、睡獸の略なるべし、「けもの」ゝ反となり、或人、「苗」の字につきて、「なへけもの」か、といへるは、わろし。】。

   *

ここにあるように、嘗ては「鼠」(恐らくは大型のドブネズミ)を指して「つらねこ」「こねら」と呼んでいた事実があるようである。「産物帳記載の獣名一覧」というページには、「羽州庄内領産物帳」に載ることが示されてあり、一部表記が「■」であるが、『鼠,はつかねずみ,のらね(のねずみ),■■(つらねこ,こねら),水鼠(みずねずみ)』と前後が鼠である。

「睡獸(ねむりけもの)」吉川弘文館随筆大成版では『ネフリケモノ』とルビする。

『「けもの」ゝ「け」の字、反(かへし)、「こ」なり』よく意味が判らない。反切ならば、二字だから「け」(ke)の「k」と、続く「も」(mo)「の」(no)のそれぞれ共通の「o」を合わせて「ko」=「こ」ということだろうか。馬琴は直後に「も」を解説していないとあるから、ここは「け」と「の」の反切ということらしい。

「陽睡(そらねむり)」深い眠りではなく、意識が有意に覚醒している状態(「陽」)で寝ている、或いは、寝た振りをしているような状態として意味は分かるが、この漢字表記の方が、私は「いづれまれ」よりも躓いた。

「熟睡(うまい)」「熟寢」とも書き、「い」は「寝ること」の意で、ぐっすりと眠ること。熟睡。「うまいね」「うまね」とも。「日本書紀」に出る上代からの古語。

「いざとき」「寢聡き」。目が覚めるのが早い。目が覚めやすい。現代語でもある。

「五音」(ごゐん)は 五十音図の各行の五つのかなを表わす音。

「ますこと、なし」「增す」で、意味がさらに加わることか。

「つれづれ」「徒然草」。「古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀教法印の事」の注で電子化してある。

「貞享」一六八四年~一六八七年。

「猫又づくし」不詳。

「今川本領猫股屋敷(いまかはほんれうねこまたやしき)」「今川本領猫魔館」の誤りか、異名外題であろう。今川家の「お家騒動」に化け猫を搦めた、文耕堂・千前軒・三好松洛らによる合作人形浄瑠璃。元文五(一七四〇)年四月、大坂竹本座初演。

「埤雅」は「ひが」と読む。宋代の文人政治家陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)の著わした訓詁学書。]

 

猫よりも、猶、よく、鼠を捕ふるものは、鼬なり。この字、に從ひに從ふ[やぶちゃん注:下線は底本では一本傍線。以下同じ。]。按ずるに、に從ふよしは、形狀(かたち)をもて、す。に從ふよしは、は、讀みて、「猶豫(いうよ)」の「猶(いう)」の如し。鼬も、その性(せい)、疑ふものにて、人を見れば、走りつゝ、しばしば、見かへるものなり。よりてに從ふなるべし。譬へば、「狐」の字のに從ふが如し。は讀んで、「孤獨」の「狐」の如し。狐は郡居せざるものなり。よりて、その字、に從ふ。【「瓜」は、卽、「孤」なり。】

又、按ずるに、「いたち」は和名鈔【「毛羣部」。】に、「爾雅集註(じがしつちゆう)」を引きて、『鼬鼠(いうそ)【上ノ「由」音。】、狀(かたち)』云々(しかしか)、『今、江東呼(よんで)(なす)ㇾ鼪(せい)ト【音「生」。】和名(わみやう)「以太知(いたち)」。「揚氏漢語抄」云、鼠狼(そらう)也。』といへり。「いたち」の釋名(しやくみやう)は、白石の「東雅」、「契冲雜記」にも見えず。按ずるに、「いたち」の言は、「きたち」なり。又、「火たち」にも、かよふべし。と[やぶちゃん注:この二箇所はまた二十右傍線になっている。なお、吉川弘文館随筆大成版では『イとキとヒと』と「ヒ」も加わっている。]連聲(れんせい)なればなり。さて、鼬(いう)を「いたち」と名づくるよしは、此けもの、夜は樹にのぼり、或(ある)は、むらがりて、氣を吹くときは、火氣、天に冲(のぼ)ること、あり。俗にこれを「火柱(ひばしら)」といふ。この故に「いたち」と名つく。卽ち、「氣立(きたち)」也。又、「火起(ひたち)」也。「鼬(いたち)の火ばしら」の事、「本草綱目」に載せず。李時珍は知らざりしか。漏らせし歟。「大和本草」には、この事あり。鼬の怪は、これらにすぎず。彼が群居せし事は「平家物語」に見えたり。さばれ、させる怪には、あらず。しかるに、近頃、異聞あり。そは、「いたち」には、あらじ、とおもへど、因みに附錄すること、左の如し。

 

[やぶちゃん注:「鼬」ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(日本固有種。本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入によるもの))。博物誌は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。

『「いたち」は和名鈔【「毛羣部」。】に、「爾雅集註(じがしつちゆう)」を引きて、『鼬鼠(いうそ)【上ノ「由」音。】、狀(かたち)』云々(しかしか)、『今、江東呼(よんで)(なす)ㇾ鼪(せい)ト【音「生」。】和名(わみやう)「以太知(いたち)」。「揚氏漢語抄」云、鼠狼(そらう)也。』といへり』「和名類聚鈔」巻十八の「毛群部第二十九」の「毛群名第二百三十四」に、

   *

 鼬鼠(いたち) 「爾雅集注」に云はく、『鼬鼠【上音「酉」。】は、狀(かたち)、鼠のごとし。赤黃にして、大尾。能く鼠を食らふ。今、江東に呼びて「鼪」と爲す【音「性」。和名「以太知(いたち)」。「楊氏漢語抄」に云はく、『鼠狼(そらう)』と。】。

   *

この場合の「江東」は近江から東を指す。所謂、漠然とした広域の東国の意である。

「連聲(れんせい)」同じ「い」段であることを言うか。

なればなり。さて、鼬(いう)を「いたち」と名づくるよしは、此けもの、夜は樹にのぼり、或(ある)は、むらがりて、氣を吹くときは、火氣、天に冲(のぼ)ること、あり。俗にこれを「火柱(ひばしら)」といふ。この故に「いたち」と名つく。卽ち、「氣立(きたち)」也。又、「火起(ひたち)」也。「鼬(いたち)の火ばしら」の事、「本草綱目」に載せず。李時珍は知らざりしか。漏らせし歟。

『「大和本草」には、この事あり』次いでなので、電子化しておく。巻之十六の「獸類」である(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを視認し、私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】』の時と同じ仕儀で推定訓読した)。

   *

鼬(いたち) よく鼠と魚を、とる。家鴨〔(あひろ)〕に付きて、其の血を、すふ。鼠の血をも、すふ。體肉をは、食〔(くら)〕はず。身、軟かにして、竹筩〔(たけづつ)〕の内を、反轉して、出入りす。夜、樹木に上りて、焰氣を起こし、又、地上にも焰氣を發し、柱の形のごとし。俗に「火柱〔(ひばしら)〕」と云ふ。人、以つて「妖」と爲す。朝鮮に獷毛を以つて筆とす。是れ、鼬なり。又、山鼠〔の〕毛を用ゆ。一名は靑鼠。

   *

さても「血を」吸い、「體肉」は「食はず」とは既にしてヴァンパイア的大妖怪としての誤認である。イタチは非常に凶暴な肉食獣で、小型の齧歯類・鳥類のみならず、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する。「竹筩の内を、反轉して、出入りす」確かにイタチは柔軟な体を持ち、非常に狭い所でも体を上手くくねらせて、よく通り抜け通るが、私はこの益軒の謂いは、妖獣・妖怪としての「くだぎつね」(管狐)を連想していると考える。「くだぎつね」はごく小さく、竹筒の中に入ることが出来るとも言われるからである。「くだぎつね」はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは触れない。例えば、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の本文及び私の注を見られたい。

「山鼠」現行では齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus を指す。

『彼が群居せし事は「平家物語」に見えたり』「平家物語」巻第四の知られた「鼬沙汰」。紺雀(こんじゃく)氏の「日本古典文学摘集」のこちらで原文が読め、もある。]

 

文政四年辛巳の夏、江戶牛込袋町(ふくろまち)代地(たいち)なる町人友次郞が妹(いもと)【名は「梅」。】十四歲、奇病あり。このとし五月、神田佐久間町の名主源太郞が、この事を官府へ訴へ奉りし「うたへぶみ」の寫しを見たり。今その實を傳へん爲に、俗文ののまゝ謄錄(とうろく)す。かゝる事は、風聞、聽くとて、その事、實(じつ)なれば、向寄(もよせ)の肝煎・名主より、町奉行所へうたへまうす事なりとぞ。是も、そのひとつなるべし。

           牛込袋町代地金次郞店

                 友次郞妹

                    む め 巳十四歲

右友次郞儀者、當巳十七歲罷成り。時之物商賣致候者ニ而、店借名前ニ御座候得共、内實九歲之節より奉公致シ居、母・祖母・妹むめ、三人暮シにて、平生、洗濯物等致シ、聊之賃錢を取、漸、取續罷在候ものに御座候處、去辰八月中、むめ儀、下谷小島町藥種店に而松屋次助と申者、兼而、懇意ニいたし、無人之由申候間、右之者方へ預置候處、次助儀、同十月新右衞門町へ引越シ、むめ義も連參候處、一體むめ義、持病ニ癪有ㇾ之候處、新右衞門町へ引越シ候後も、何となく氣分惡敷罷成リ、入湯致シ候節、手足其外處々、腫、色付候儀なども有ㇾ之、奇病之樣子ニ而、次助儀、藥種渡世致候事故、藥用も致シ遣シ候得共、同樣ニ候間、去辰十二月中、宿へ引取候處、其砌、腕並ニ足膝等痛候義も兩度有レ之而已ニテ、追日、全快致候に付、先月晦日、神田お玉池御用達町人川村久七ト申者方へ、奉公に指出し候處、両三日過候得ば、亦又、氣分惡敷罷成り、食事も致兼候樣子に付、暇取、當月九日九時過、引取、介抱致候處、身ノ内處、頻ニ痛候旨申シ、甚苦ミ候間、痛ミ候處、捺リ遣シ候得共、乳之下、皮肉之間に針有ㇾ之、皮を貫き、先、出候に付、爪ニテ引拔遣シ候得者、猶又、同樣、襟ヨリ【襟は、猶、頂[やぶちゃん注:「うなぢ」。]をいふか如し。】一本、膝ヨリ二本、小用之節、隂門ヨリ三本、九日・十日兩日ニ出。何レも錆(サビ)無之絹縫針に有ㇾ之、右之趣、外科にも爲ㇾ見候得共塲處惡敷候故、療治致シ兼候段申ㇾ之候間、致方なく其儘差置候得者、同十四日・十五日頃より、段々快方ニ罷成リ此節、全快致候へ共、水落之邊ニ【「水落」は、猶、「鳩尾」といふが如し。】針、四、五本、殘り居候樣子に而、同廿三日朝、同所より長さ二寸餘も有ㇾ之候。木綿仕付針壹本、錆(サビ)候儘に而出候段、むめ、並に、同人母きん、申し候間、右ニ付、何ぞ存當り候も無ㇾ之候哉ト承糺候得者、むめ義、小島町に罷在候節、次助宅座敷、並に、二階等へ小便致シ候樣子に而、疊ヨリ床迄通シ濡有ㇾ之候義、度々、御座候に付、「若もむめニハ無之哉[やぶちゃん注:「もしも、『むめ』には之れ無きや。」であろう。]」と疑心を請候義も有之、且、又、新右衞門町へ引越候後、夜分、むめ、臥居候側を、鼬、驅[やぶちゃん注:「かけ」。]あるき、又ハ、同人蒲團之下へ這入、夥數、小便致候義、每度之樣ニ相成、追々、氣分惡敷罷成候段申ㇾ之候。全く狐狸の所爲にも可ㇾ有ㇾ之哉、專、奇病之趣、此節、近邊取沙汰仕候ニ付、取調此段申上候。

            右最寄組合肝煎

               神田佐久間

              名主  源 太 郞

かくて、おなじ年の六月廿七日、小濱(こはま)の醫官杉田玄白、わが庵(いほり)に來訪して、「鼬の妖怪、狐狸にひとしきなる事ありや。」と問はれしに、予、答へて云、「鼬の怪は「平家物語」に、治承四年五月十二日午の刻ばかりに、鳥羽殿に、いたち、おびたゞしく走りさわぎしかば、法皇、やがて、近江守なかかね【時の藏人。】をもて、安倍泰親(あべのやすちか)にうらなはせたまひしに、泰親、すなはち、「今、三日が中に、御よろこび、並に、御なげき、あらん。」と、うらなひ申しけるに、はたして、その事おはしましゝよし、見えたり。この他、狐狸にひとしき怪談は、和漢に所見なし。」といひしに、玄白、すなはち、前件を擧げて、「先月、既にこれらの事あり。いかゞ思ひ給ふにや。」と、又、問はれしに、予、答へて、「こは、その鼬と思ひしも、鼬にはあらずして、『尾さき狐』の所爲歟。」といひしを、なほこゝろ得ざりけん、「尾さき狐は、いかなるものぞ。」と請ひ問はれしに、ふたゝび答へて、「尾さき狐は、上毛(かみつけ)・下毛(しもつけ)に多かり、戶田川をさかひとして、江戶には、絕えて入らずとなん。その狀(かたち)、鼬に似て、狐より、ちひさし。尾は、きはめて、ふとかるに、尾さき、裂けて、岐(また[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『エダ』とする。])あれば、『尾さき』の名さへ負はせしならん。上毛・下毛のみに限らず、武藏といふとも、北のかたには、此けもの、稀にあり、ともすれば、人の家につくこと、ありといふ。そが、一たび、つきたる家は、貧しかりしも、ゆたかになりぬ。しかれども、多くは、その身(み)一期(いちご)のほど、或は、その子の時に至りて、衰へ果てずといふこと、なし。そが、既に憑(つ)きたる家の、年々、ゆたかになるまゝに、狐の種類も、次第に殖えて、むれつどふこと、限りなし。もし、その家のむすめなるもの、他村へよめりする事あれば、尾さき狐も相わかれて、婿の家につく、といふ。こゝをもて、人、忌み嫌はざるものなく、寇(あだ)を防ぐが如し、となん。近頃、伊豆の三島のほとりにて、「尾さききつね」をつかふもの、あり。この事、江戶に聞えしかば、有司(いうし)うけ給はりて、彼(か)の地に赴き、「狐つかひ」を搦め捕りて、やがて將(ゐ)て參る程に、川崎の泊りまでは、夜每(よごと)に、鼬の、あまた、鳴きしこと、夜もすがら、絕えざりしに、六鄕川(ろくがうがは)を渡りては、さる事も、なかりしとぞ。これらを合(あは)し考ふるに、件(くだん)の少女(むすめ[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『ヲトメ』とする。])梅(むめ)が奇病も、鼬にはあらずして、「尾さき狐」の所爲(わざ)なるべし。しかれども、かの狐は、戶田川を界(さかひ)として、江戶へは絕えてより來ず、といふ。げに、さる事もあるべきにや。彼の三島なる「狐つかひ」も、川崎の宿(しゆく)までは、猶、その狐のつきそひ來(き)けんを、六鄕川を界として、江戶へは、終に入らぬなるべし。いとも、かしこき御膝もとのおほんいきほひにこそ、あんなれ、かゝれば、件のあやしき病を、『「尾さき狐」のわざなり』と、さだかにいふべきよしも、なけれど、又、かの狐をつかへるもの、他鄕より來ぬる事、亦、これ、なしとすべからず。さても、『此「尾さき狐」は、唐山(からくに)にもあるものならん、その漢名をしらまくほし。』とて、年來(としごろ)、ふみども、あさるものから、未だ見る所もあらず。和君(わぎみ)は二世の蘭學者なり。蠻名(ばんみやう)などをも、考へて、しらせ給へ。」と、云ひし事あり。例の蛇足の辯ながら、ありつるまゝに、しるすのみ【乙酉きさらぎ初八草。】

 

[やぶちゃん注:驚くべきことに、この時の実際の取り調べ書きの写しが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」(PDF)にある! 思うに、「梅」のこれは、彼女自身が演じた、かなり危険な詐病と私は思う(針の出現はそれ以外には考えられない)。実家から方々へ奉公に出されたことへの不満から神経症を発症し、実家へ戻り、親に奉公をさせないことを目的として、意識的或いは半意識にやったことのように思われる。但し、その原因の中には、奉公先で何らかの堪え切れない暴行や、性的嫌がらせ等を、主人その他から受けたことによる可能性も排除出来ない。

「文政四年辛巳」一八二一年。

「江戶牛込袋町(ふくろまち)代地(たいち)」「牛込袋町」は現在の新宿区袋町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、個人サイト「江戸町巡り」の「牛込袋町」を見ると、享保一六(一七三一)年の『大火に類焼、町域の大半を火除地として収公され、筋違橋外御用屋敷を代地として給された』とあり、この「筋違橋外御用屋敷」は、同サイトの「神田仲町」の解説の中に、その代地として移転してくる二年前にそこは『「筋違橋外新地」といわれたが、間もなく「御用屋敷」と改められた』とあるから、ここは現在の千代田区外神田一丁目が正しいことになる。

「神田佐久間町」千代田区神田佐久間町。前注の最後に示した外神田の直近である。

「謄錄(とうろく)」写して記録すること。

「向寄(もよせ)」「最寄(もよ)り」に同じ。

「下谷小島町」台東区小島二丁目

「新右衞門町」中央区日本橋二丁目

「腫、色付候儀なども有ㇾ之」自傷行為が疑われる。

「神田お玉池」東京都千代田区岩本町二丁目にあった池。現存しない。リンク先では「繁栄お玉稲荷 (お玉が池跡)」とある。

「小濱(こはま)」杉田玄白は若狭国小浜藩医であった。

「尾さき狐」私は先に示した「くだぎつね」と同義と思う。小学館「日本国語大辞典」にも「おさきぎつね」(御先狐・尾(を)裂狐)として、『人間に憑()くとされる狐。関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。管狐(くだぎつね)。おさき。』とある。

「戶田川」現在の埼玉県戸田市附近での荒川(同市南部の東京都板橋区との境を流れる)の古い呼称かと思う。

「寇(あだ)」「仇」に同じ。特にこの場合は、「恨みに思って仕返しをされること」を意味する。「くだぎつね」を飼っている人間に恨まれると、禍いが起こるというのは、よく言われることである。

「有司(いうし)」役人・官吏に同じ。

「六鄕川(ろくがうがは)」東京都の南境を流れる多摩川の下流部の呼称。多摩川大橋附近から下流を指し、東京都大田区と神奈川県川崎市との境でもある。

「唐山(からくに)にもあるものならん」玄白先生、狭義の「くだぎつね」=「おさきぎつね」(後者の呼称は「山海經」の「南山經」に出る「九尾狐」がルーツではある)は本邦の土俗で発生・発展した日本固有の妖怪と思います。中国の妖狐は多様でありますが、私は一種の平行進化と考えております。

「二世の蘭學者」玄白の父杉田甫仙もオランダ流医学を学んだ若狭国小浜藩藩医であった。

「初八草」不詳。八日を指すものであろう。

 以下は底本では全体が一字下げ。これは本記事に近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)が批評を加えたものだが、一緒に電子化しておく。無論、吉川弘文館随筆大成版には存在しない。]

 

百川云、こゝにいふ「ねうねう」と鳴くことは、「源氏物語」の「若菜」の巻にも見えたり。鳥・獸の名をその聲によりて、つくるとこと。漢土(からくに)にも多くあることなり。烏(からす)は「烏々(あゝ)」となき、鴨(かも)は「鴨々(おふおふ)」とと鳴くをもて、その名とせり。その餘(よ)數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。猫(みやう)もまた、その聲によりて名づけしにや。さらば、「ねこま」は和漢同日の談なるべし。鼬の怪談は、世に有るべうもあらぬ物がたりなり。一種の奇病と、みるべし。「尾さき狐」の所爲(しわざ)などいふは、兒童の見(けん)に近し。これ、智者の一失(いつしつ)歟。

 

[やぶちゃん注:『「ねうねう」と鳴くことは、「源氏物語」の「若菜」の巻にも見えたり』「若菜」の下で、秘かに愛している父光源氏の妻女三宮から愛猫の唐猫(からねこ)を預かり受けることに成功して、自邸に猫を連れて帰り、

   *

 つひに、これを尋ね取りて、夜も、あたり近く臥せたまふ。

 明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人氣遠かりし心も、いとよく馴れて、ともすれば、衣の裾にまつはれ、寄り臥し、睦るるを、

『まめやかにうつくし。』

と思ふ。いといたく眺めて、端近く寄り臥したまへるに、來て、

「ねう、ねう。」

と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、

「うたても、すすむかな。」

と、ほほ笑まる。

「戀ひわぶる人のかたみと手ならせば

     なれよ何とて鳴く音なるらむ

これも昔の契りにや。」

と、顏を見つつ、のたまへば、いよいよ、らうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。御達(ごたち)[やぶちゃん注:柏木を幼少の頃から知っている年配の女房。]などは、

「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの、見入れたまはぬ御心に。」

と、とがめけり。

 宮より、召すにも、参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。

   *

というシークエンスである。因みに、一読お判り頂けるものと思うが、「ねう、ねう。」という猫の鳴き声を聴いて、「寢む、寢む」(共寝しよう)と言う意味に擬えて、「お前は、いやに、積極的じゃあないか。」と興じている性的な隠喩としているのである。]

2021/08/12

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に 「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (1)

 

[やぶちゃん注:かなり長く、つい、やらないと宣言した注に、案の定、ハマってしまったので、分割して示す。以下の底本は吉川弘文館随筆大成版。] 

   ○「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に「ねこま」・「いたち」和名考・奇病附錄

              著作堂主人稿

江戶麻布長坂のほとりなる「まみ穴」は、いと名だゝる地名なれば、しらざるものなし。沾凉が「江戶砂子」には、「雌狸穴」と書きたり。「雌狸」を「マミ」と訓ずるは、何に憑れるにや、しらず。こは、記者のあて字なるべければ、論ずべくもあらねど、貝原が「大和本草」には【卷の十六「獸の部」。】、稿を「マミ」とす。篤信が云、『マミ。タヌキとも云ふ。野猪に似て、小なり。形、肥えて、脂、多く、味よくして、野猪の如し。肉、やはらかなり。穴居す。其四足の指五つ、恰如人手指[やぶちゃん注:「恰(あたか)も、人の手の指のごとし。」。]。獵師、穴をふすべて捕ㇾ之。行くこと、おそし。獾は貒の類なり。狗に似たり。並に穴居す』といへり。又「本草綱目」【「卷五十一獸之二」。】、「獾」の下に、稻若水、和名を剿入[やぶちゃん注:「そうにふ」。立ち入れ書きをすること。単に挿入ではなく、独自の判断で敢然とするニュアンスである。]して、「マミ」とす。李時珍云、「貒豬也。獾狗獾也。二種相似而略殊。狗獾似小狗而肥。尖喙矮足。短尾深毛。褐色。皮可ㇾ爲裘領。」[やぶちゃん注:脱字がある(後注のリンク先原本で見られたい)。補って我流で訓読すると、「貒(たん/かん)は豬獾(ちよくわん)なり。獾は狗獾なり。二種は相ひ似るも、略(おほよそ)は殊(ことな)れり。狗獾は小さき狗(いぬ)に似て、肥えたり。尖れる喙(くちはし)、矮足(わいそく)たり。短尾にして、毛、深し。褐色。皮は裘領(きうりやう)[やぶちゃん注:毛の附いた皮革製の襟巻。]に爲すべし。」。]といへり。かゝれども、和名を「マミ」といふけだものは、なし。益軒、岩水の兩老翁、或は、「猯」を「マミ」と訓じ、或は、「獾」を「マミ」と讀ませしは、訛をもて訛を傳ふ、世俗の稱呼に從ふのみ。今、按ずるに、「獾」は「和名鈔」に見えず。「猯」は、和名「ミ」なり。「和名鈔」【卷十八。】「毛群部」、「猯」の下に、「引唐韻云、猯【音「端」。又。音「且」。和名「美」。】、似ㇾ豕而肥者也。「本草」云、一名「獾㹠」【「歡」「屯」二音。】。」と、いへり。只野必大が「本朝食鑑」にのみ、「和名鈔」を引きて、「貒」を「ミ」と讀めり。必大云、「貒頭類ㇾ狸、狀似小㹠。體肥行遲。短足短尾。尖喙褐色。常穴居。時出窃爪菓間食。本邦處々山野有ㇾ之。人多不ㇾ食。憔言能治水病。予昔略見ㇾ狀。然未ㇾ試ㇾ之。則難ㇾ辯爾。」【卷之十一「獸畜部」、「狸」の附錄に見えたり。】と、いへり[やぶちゃん注:正しくは「狸」ではなく「貍」の部のそれ。なお、馬琴の引用にはやはり脱字や誤字がある。補って訓読する。「貒(まみ)は、頭、狸の類にして、狀(かたち)、小さき㹠(ぶた)に似たり。體、肥え、行くこと、遲し。短足・短尾。尖喙(くちさき)、褐色。常に穴居す。時に出でて、瓜菓(くわくわ(かか))を窃(ぬす)み間食す。本邦、處々の山野に、之れ、有り。人、多く、食はず。惟(ただ)、言ふ、『肉の味、甘酸。能く水病を治す。』と。予、昔、略(ほぼ)狀を見る。然れども、未だ、之れを試みず。則ち、辯じ難きのみ。」。]。これらの諸說を合はせ考ふるに、近來、世俗の「マミ」といふけだものは、「ミ」を訛れるに似たり。則、「瑞」なり。又、田舍兒(ヰナカウド)は、是を「ミタヌキ」といふ。その面の、狸に似たればなり。いづれにまれ、「ミ」とのみは唱へがたきにより、或は「マミ」といひ、或は「ミタヌキ」といふにやあらむ。かゝれば、麻布長坂なる「マミ穴」も、むかし、「猯」の棲みたる餘波(ナゴリ)にて、その穴の、ありしにより、「マミ穴」と唱へ來れるなり、といはゞいふべし。しかれども、「猯」を「ミタヌキ」と云は、よりて來るあり。いかに、となれば、「猯」は、その頭、狸に似たり。「ミ」とのみは、唱の不便なるによりて、「ミタヌキ」といふ歟。又、「猯」を「マミ」といへるは、よりどころ、なし。いかにとなれば「猯」に、眞僞のふたつ、なければなり。よりて、再、按ずるに、かの麻布なる「まみ穴」の「マミ」は、元來、「貒」の事にはあらで、「鼯鼠」をいふなるべし。「鼯鼠」は和名「モミ」、一名は「むさゝび」なり。「和名鈔」、「鼯鼠」の下に、「引本草云、『鼺鼠【上音「刀」・「水」反、又「刀」・「追」反。】、一名「鼯鼠」【上音「吾」。和名「毛美」。俗云「無佐々比」。】』。「兼名苑注」云、『狀如ㇾ猨而肉翼似蝙蝠能從ㇾ高而下、不ㇾ能從ㇾ下而上。常食火姻。聲知小兒者也。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。いらんものがついたり、やはり字を誤っている。概ね画像に従って訓読する(一部の読みは推定)。「鼯鼠(モミ/ムサヽヒ) 「本草」に云はく、『鼺鼠(るいそ)【上音「力」・「水」の反、又、「力」・「追」の反。[やぶちゃん注:意味不明。「力」ではなく、カタカナの「カ」か。]】、一名は「鼯鼠(ごそ)」【上音「吾」。和名「毛美(もみ)」。俗に云ふ、「無佐々比(むささび)」。】』と。「兼名苑注」に云はく、『狀、猨(えん)[やぶちゃん注:ここは広義の猿の意。]のごとくして、肉の翼、蝙蝠に似たり。能く高きより下り、下より上ること、能はず。常に火姻を食らふ。聲、小兒のごとくなる者なり』と。」。]。かゝれば、「鼯鼠」の和名は「毛美」なれども、いとふるくより「むさゝび」とのみ、唱へたるにや。歌にも「モミ」とはよまず。「萬葉集」第三に、「むさゝびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも」といふ歌あるを見ても、知るべし。しかれども、古言は、多く田舍に遺るものなれば、むかし、關東にては、「鼯鼠」を、をさをさ、「モミ」とのみ、いひしなるべし。その證は、今も日光山のほとりにては、「鼯鼠」の老大なるものを。「モモンクワァ」といヘり。「モモン」は、「モミ」の訛なり。「クワァ」は、そが、鳴く聲なるべし。又、「高老」の義にても、あらん。物の老大なるを、「高老を歷たり」といふ、是なり。さて、この「もみ」を、下野にては「もんぐわあ」と唱へ、又、武藏にては、「まみ」といへるなるべし。【「モ」と「マ」と、音、通へり。】かくて、昔、麻布長坂のほとりには、人家もあらで、樹立、隙なく、晝も、いと闇かりけるころは、「鼯鼠」などの多く栖むべき所なり。故に「モミ穴」の名は遺れるにや。今も、小兒を㩲(オド)すに、「もんぐわあ」といふ。「鼯鼠」の狀は、いとおそるべきものなればなり。「マミ穴」の名の高かりけるも【今は、この穴、なし。】、これらを、もて、おもふべし。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]その處に、「鼯鼠」の棲みたる事は、あらずとも、いとおそるベき穴なりければ、「モミ穴」といひけんかし【今も、おそるべきものを、「もんくわあ」といふが如し。】。さるを、後の人は、「モ」を「マ」にかよはして、「まみ穴」と唱へしは、是亦、「魔魅」にもかよひて、「おそるべき」の義なり。且、「モミ」を「マミ」といふよしは、今、俗の、「のほきり」を「のこぎり」、「わたゝび」を「またゝび」といふたぐひなるべし。しかるに、本草者流は、その物をこそ、よく辯ずれ、多くは古言に疎く、和名にくはしからねば、「貒」、又、「獾」を「マミ」と訓ぜしのみ。そを、「當れり」と、すべからず。俗にいふ「マミ」は鼯鼠の事なるを、遂にいよいよ訛りて、「貒」の事とす。かゝれば、麻布なる「まみあな」を、眞名には「鼺鼠穴」と書くべし。江戶の地名を誌しゝものに、かばかりの考だもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。

[やぶちゃん注:以下の二段落、「奇病の評等、卽、是なり。」までは、底本では全体が一字下げ。]

附けていふ、安永七年の夏、信濃なる善光寺の阿彌陀如來、囘向院にてをがまれ給ひしとき、兩國橋の東のつめにて、「千年もぐら」といふ物を見せたり。「もぐら」は「ウクコモチ」の訛にて、「鼢鼠」の事なり。おのれ、尙、總角[やぶちゃん注:「あげまき」。]のころなりければ、親しく目擊したりけるに、その形は、小狗[やぶちゃん注:「こいぬ」。]に類して、毛は短く、薄黑に褐色を帶びたり。喙、尖りて、狸の如く、四足は「鼢鼠」に類して、人の手の指に似たり。その物、鐵の條もて、繫がれたるが、いと疲勞(ツカレ)たるやうにて、頭だも得擡げず。築山の如くに積みたりける砂の上に、臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは「鼢鼠」には、あらず、まことは「猪獾」にして、「貒」なること、疑なし。見せ物師などいふものは、只、あやしう珍らかなるを旨とするなるに、「貒」といふとも、「マミ」といふとも、大かたの江戶人は聞きしらぬものなれば、『「鼢鼠」の千載を歷たるなり』とて、欺きたるなり。當時の巷談に、「こは。本鄕なる麹屋の空室(アキムロ)より、夜な夜な、出でゝ、食を窃みしを、生捕りたるなり。」といへり。虛實はさだかならねども、空室の内なればとて、市中に栖むべきものにあらず。おもふに、好事のものゝ、畜ひけん[やぶちゃん注:「かひけん」。]貒の、放たれしより、麹屋の空室のかたに、穴して、久しく捿[やぶちゃん注:「棲」に同じ。]みたるものにやあらん。遙かに過ぎ來しかたをおもへば、こもはや四十八年のむかし語になりけるなり。

再いふ、松蘿館の「つくしだち」も程遠からねば、この小集をなごりとす。こは、いと、あかぬこゝちすなれば、又、一、二條を附錄とす。そは、『「ねこま」・「いたち」の和名考』・「奇病の評」等、卽、是なり。

 

[やぶちゃん注:『江戶麻布長坂のほとりなる「まみ穴」』現在の港区麻布狸穴町と麻布台二丁目の境界をにある長い坂「狸穴坂(まみあなざか)」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『沾凉が「江戶砂子」には、「雌狸穴」と書きたり』菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)。「江戸砂子」は江戸地誌。享保一七(一七三二)年刊。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

   *

○雌狸穴 長坂のひかし[やぶちゃん注:東。]。これも坂なれとも、こゝ、さのみ、穴ゝ斗いでて、坂とはいはす[やぶちゃん注:「言はず」。]。むかし、「此坂に雌狸(まみ)の住し大なる穴あり」とぞ。

   *

とある。

『貝原が「大和本草」には【卷の十六「獸の部」。】、稿を「マミ」とす』馬琴の引用は全文で、ほぼ正しく引用している。確認されたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここである。

「篤信」益軒の本名。

『「本草綱目」【「卷五十一獸之二」。】』「獾」国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年刊の訓点附きのここを見られたい。非常に読み易い。李時珍は別に、この直前で「貉」、次に「貒」を立項している。馬琴は無批判にそれらを引いて、そこに出る「貒豬」「」「」などを、ろくに種も判らぬくせに、ぞろぞろと出してしまっている。これには当時の読者にも甚だ戸惑ったはずである。そのくせ、前巻の終りの方に出る「狸」を指示していないのも致命的に拙い。無論、時珍は「狸」と「貉」と「貒」を主としては全く別のものとして認識しているのである。しかも、時珍自身の誤認もあり、大陸のそれであるからには、本邦にいない生物種である可能性もはなはだ高いのである。それに困ったのは、例えば寺島良安である。

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)」

は食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides であるが、本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である)。大陸産には幾つかの亜種がいるようではあるが、「本草綱目」では他に「貓貍」・「九節貍」・「五面貍」(別名「牛尾貍」)などという怪しげな類種をさえ掲げている。一方、「狢(むじな)」は本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma でよい。

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」

をまず見られたいが、良安は生物部では、明の王圻(おうき)と次男王思義によって編纂された類書「三才圖會」(一六〇九年出版)ではなく、「本草綱目」にメインの記載の殆んどを拠っているため、馬鹿正直に、同定しようがない、

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」

「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 (くわん) (同じくアナグマ)」

まで立項してしまっているのである。後二者はリンク先の私の種同定を見て戴きたいが、日本にはいないと判っていても、本邦の本草学者にとってはバイブル的な存在である「本草綱目」に従わざるを得ない状況が、蘭学が抬頭してくる幕末近くまで延々と続いたのである。しかし、馬琴は民間(但し、出は武家)の文人であり、生物種に特に詳しかったとは私には思われない。こういう机上で容易に得た智を中途半端に鬼の首を捕ったように披歴する傾向は、この時期の好古家に共通する悪い癖であり、その痛い部分をつつかれると、前に書いた美成と馬琴のような絶交状態に陥るという不幸がどこにでも頻繁にあったのである。

「稻若水」(とうじやくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は本草学者。元は稲生(いのう)若水と号したが、後に唐名風に姓を変えた。父稲生恒は淀藩(現在の京都市内)藩医。同藩江戸屋敷に生まれた。十一歳の時、大坂へ出て、古林見宜(ふるばやしけんぎ)に医学を、伊藤仁斎に経学を、福山徳潤に本草学を学んだ。延宝八(一六八〇)年、京都に移り、本草学を以って身を立てることとなった。元禄六(一六九三)年には金沢藩主前田綱紀に仕官し(隔年で藩詰)、「物類考」(後に「庶物類纂」と改名)の編纂を始め、中国(一部で朝鮮を含む)の古典籍数百点から、そこに記載された動植物・農作物・金石などに関する記事を書き抜き、これを種類別に纏めて再編集する壮大な企画で、全二十六類一千巻となる予定であった。しかし二十二年後に九類三百六十二巻(前編)まで脱稿したところで病没した。これは未完のまま前田綱紀から将軍吉宗に贈られている。「本草綱目」を始め、多数の漢籍から諸物のデータを集大成した意義は大きく、未完部分(後編六百三十八巻)と増補五十四巻が、後に門人丹羽正伯に編纂が命ぜられ、延享四(一七四七)年に完成した。若水の本草学は薬物・食物に留まらず、動植物全般を研究する博物学へと進み、弟子の松岡恕庵や恕庵の弟子小野蘭山らに受け継がれ、京都本草学の中心的役割を担った(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「岩水」若水の誤記。或いは底本の誤植。

『「和名鈔」【卷十八。】「毛群部」、「猯」の下に、「引唐韻云、猯【音「端」。又。音「且」。和名「美」。】、似ㇾ豕而肥者也。「本草」云、一名「獾㹠」【「歡」「屯」二音。】。」』源順の「和名類聚抄」(「鈔」とも書く)の巻十八の「毛群部第二十九」・毛群名第二百三十四に、

   *

猯 「唐韻」に云はく、『猯【音「端」。又、音「旦」。和名「美(み)」。】は豕(いのこ)[やぶちゃん注:猪。]に似て肥えたる者なり。』と。「本草」に云はく、一名『獾㹠(くわんとん)【「歓」・「屯」二音。】』と。

   *

ここに出る「本草」とは平安中期の医師であった深根輔仁(ふかねのすけひと 生没年不詳:欽明天皇の頃に百済を経由して渡来した呉の孫権の末裔と称する医家の一族の後裔。本邦に来てからは和泉国(現在の大阪府)大鳥郡蜂田郷に住んだので「蜂田」、医を業としたので「薬師」を名乗ったが、仁明天皇の承和元(八三四)年に深根宿禰の姓を賜った家が出て、分家した。輔仁は深根宗継を祖父とし、典薬頭菅原行貞の門徒として右衛門医師・権医博士・大医博士と累進し、名医として知られた)が延喜一八(九一八)年頃に著した、現存するわが国最古の本草書(漢和薬名辞書)「本草和名」。但し、中世以降、永く所在が不明であったが、江戸後期の幕医多紀元簡(たき もとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)が紅葉山文庫で写本を発見し、寛政八(一七九六)年に刊本にされて日の目を見た(原本写本はその後行方不明となった)。

『只野必大が「本朝食鑑」』「只野」は「平野」の誤り。思うに、気になっていた只野真葛の姓と勘違いしたものと私は思う。医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの。私はブログ・カテゴリで『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』を作ったものの、永く六年も放置したままである。やらなくては。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここだが、前には「狢」もあり、これを附録扱いにしている必大は、食用の動植物に限るという限定が作用してはいるが、いもしない動物を書き入れることへの抵抗感は、ある意味、学術的には非常にプラスに影響していると言えると私は思う。

「鼯鼠」『「鼯鼠」は和名「モミ」、一名は「むさゝび」なり』哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、

日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

であるが、また、同一種と誤解している方も多い(寧ろ、江戸時代まで区別されていなかった)と思うのだが、本文でも「モモンクワァ」と一緒くたにしている、別種で形態は似ているが、遙かに小さい、

リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga

も挙げておかねばならない。「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。

『「萬葉集」第三』「むさゝびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも」志貴皇子(?~霊亀二(七一六)年)の一首(二六七番)だが、現在は、

 むささびは

     木末(こぬれ)求むと

   あしひきの

       山の獵夫(さつを)に

           逢ひにけるかも

と訓読されている。

「をさをさ」明確に。きっちりと。

「モモンクワァ」残念ですが、馬琴先生、モモンガは鳴き声由来とする説が強いです。

「高老」は歴史的仮名遣で「コウラウ」で「クワァ」の音通とは言えませんよ、馬琴先生。

『小兒を㩲(オド)すに、「もんぐわあ」といふ。「鼯鼠」の狀は、いとおそるべきものなればなり』「ももんぐゎあ」「ももんがあ」「もんもんが」「ももんじい」「ももんが」等の呼称があり、モモンガ(誤認されたムササビも含む)が由来の幻獣。特に毛深い化け物・妖怪を指すとされた。また、目・口などを指で広げて舌を出し、恐ろしい顔をしたり、或いは、着物を頭から被って、肘を張って広げて実際よりサイズを大きく見せ、ふざけて子供などを脅したりする時に発する語である。夜行性で、実際の姿形が知られておらず、音もさせずに、空中を夜に滑空し、かなり奇体な多様な声で鳴く。夜の山中で知らずに聴けば、かなり薄気味悪い。されば、実態から離れて妖怪に仲間入りするのは、容易かったと思われる。

「のほきり」ウィキの「日本の鋸」によれば、『古代日本では、鋸の和名は「ノホキリ」と読み』、「新撰字鏡」(平安時代の昌泰年間(八九七年~九〇〇年)に僧昌住が編纂したとされる現存する漢和辞典としては最古のもの)には、『「乃保支利(のほきり)」と表記し』、「和名類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)の編纂)でも、『「能保岐利(のほきり)」と記されている』とある。

「わたゝび」小学館「日本国語大辞典」に、『植物「またたび(木天蓼)」の古名』として、出典には先に出した平安前期に成立した「本草和名」を挙げてある。

「しかるに、本草者流は、その物をこそ、よく辯ずれ、多くは古言に疎く、和名にくはしからねば、「貒」、又、「獾」を「マミ」と訓ぜしのみ。そを、「當れり」と、すべからず。」吉川弘文館随筆大成版では、『よく弁ずれ。』となっているのは、編集者が古文に「くはしから」ぬことを露呈している。ここは「こそ……(已然形)、~」の逆接用法だぜ? こんなところを見ると、結構、馬琴の誤字と思っていた部分は、ママ注記もなく、或いは、みんな、翻刻者の判読ミスか、校正の杜撰な結果であるような気がしてきたぜ!

『麻布なる「まみあな」を、眞名には「鼺鼠穴」と書くべし』だめですね、馬琴先生、ホオジロムササビもニホンモモンガも完全な樹上生活者で、巣は樹洞です。前に示した「江戶砂子」を見て下さいよ、「狸穴」坂には樹木に穴が一杯あったなんて書いてありませんよ。これはどう考えても、タヌキかアナグマの土中の巣穴ですよ。私の家の近くでも、昭和三十年代には、よく狸が車に轢かれて死んでいましたし、横浜緑が丘に勤務していた頃には、こんなこともありましたよ(私の怪奇談蒐集「淵藪志異」の「十」)。

   *

 一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室橫入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絶えたらんか。これこそ誠あはれなれ。

江戶の地名を誌しゝものに、かばかりの考だもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。

   *

全くの私の感じに過ぎませんが、麻布には、ホオジロムササビもニホンモモンガよりも、ホンドダヌキやニホンアナグマ の方が似合うし、実際の棲息可能性もそっちの方が高いと思いますがねぇ。

「安永七年」一七七八年。

「夏、信濃なる善光寺の阿彌陀如來、囘向院にてをがまれ給ひし」善光寺の出開帳でも空前の人出を記録した回向院でのもの。「回向院」公式サイトのこちらによれば、六十日に亙って行われ、実に一千六百三万人の参詣があったとも云われているとある。典拠は太田南畝の「半日閑話」とある。所持するので調べてみたところ、確かに「巻十四」に「善光寺如來開帳」の条はあるものの、この数字は記されてはいないので、注意されたい。ネット上には、この数字が南畝によって記されている思い込んで転写している人が複数いる。

『小狗に類して、毛は短く、薄黑に褐色を帶びたり。喙、尖りて、狸の如く、四足は「鼢鼠」に類して、人の手の指に似たり。その物、鐵の條もて、繫がれたるが、いと疲勞(ツカレ)たるやうにて、頭だも得擡げず。築山の如くに積みたりける砂の上に、臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは「鼢鼠」には、あらず、まことは「猪獾」にして、「貒」なること、疑なし』やりました! 馬琴先生! 大当たりです! これは総ての条件が、ニホンアナグマ Meles anakuma に当て嵌ります! 僕は少年の馬琴先生の目になって、その情景が髣髴しました!!!

「こもはや四十八年のむかし語になりけるなり」発表の時制は文政八(一八二五)年の二月八日で、曲亭馬琴は明和四年六月九日(一七六七年七月四日)生まれ(没したのは 嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日))であるから、「四十八年前」は安永六(一七七七)年か翌安永七年である。とすれば、馬琴は満で十或いは九歳の頃の記憶である。

『松蘿館の「つくしだち」』「筑紫立ち」。会員の一人「松蘿館」西原好和は、風聞宜しからずによって幕府から国元筑紫(柳河藩)への国元蟄居の譴責を受け、この年の四月に江戸を退去している。冒頭の大槻氏の序の解説を参照。]

2021/08/11

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑 好問堂

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑

   ○好問質疑

宋之愚人得燕石藏ㇾ之以爲ㇾ寶。周客聞而往觀掩ㇾ口、笑曰。此燕石也。主人大怒藏ㇾ之愈固。[やぶちゃん注:訓読してみる。『宋の愚人、燕石を得て、之れを藏して、以つて、寶と爲す。周の客、聞きて、往き、觀るに、口を掩ひて笑ひて曰はく、「此れ、燕石なり。」と。主人、大きに怒りて、之れを藏すること、愈(いよい)よ、固し。』か。]

 美成、かつて、此故事の來處を搜索するに、「淵鑑類凾」に、「荀子」を引き、「佩文齋韻府」に、「韓非子」を引けり。故に、本書につきて檢するに、二書、ともに、載せず。また、「瑯琊代醉篇」に、「鬫子」といへるものを引きて、證とすれども、「鬫子」といふ書名、他書にも引用のものありやしらねど、「四庫全書總目」、又、古今の叢書に、名目だに見えざれば、其書いづれの世、誰の撰といふこと、さだかならず。また、此故事をのせて、「湘中記」、「書言故事」を引くといへども、古書にあらざれば、證とするに足らず。こゝに於いておもふに、隋珠和璧の如きは、古書に多く見えたり。此故事、古書に見えざれば、疑らくは、後世、類書、ひとたび、謬りて、しるしゝより、遂にその謬を襲ひ[やぶちゃん注:「ならひ」。「倣ひ」に同じ。]來りて、世人も亦、みだりに、その書名によると、のみ、おもひたれど、「文心雕龍」を閱するに、『魏氏以夜光怪石。宋客以燕礫寶珠。』[やぶちゃん注:「魏氏、夜光を以つて怪石と爲す。宗客、燕礫(えんれき)を以つて寶珠と爲す。」であろうが、後者は「鬫子」の誤読である。]の二事を引きてもて喩とす。此書は梁の劉勰[やぶちゃん注:「りゆうけふ(りゅうきょう)」。]が撰する所なれば、その來れるも、亦、ふるしと云ふべし。魏氏が故事は、「尹文子」にいでたり。されば、此故事も、梁よりあがれる世のものに載せたる事は、疑ふべからず。いまだ、何れの書に出づといふ事を、しらず。正月十四日。此「兎園會」をひらきし日、海棠庵にて、曲亭子、ものがたらふ事の次に、此故事をあげていへらく、「足下、燕石雜志の撰あり。おもふに、その來處を詳にし給ふべし。願くば、示し給へ。」といひしが、後廿一日、書牘の返しに、「山海經」を鈔出して贈らる【解、追て按ずるに、燕石の故事は、「後漢書」「應劯傳」[やぶちゃん注:「わうしよでん」。]に出でたり。「正字通」、「胡」字注にも、「應劯傳」を引きたるなり。多貪の學生、あまりに深く求めて、「後漢書」を忘れしは、いかにぞや。】[やぶちゃん注:頭書。]。實に、忠告の志、いと、うれしうなん。されど、宋人の寶とする故事には、あらず。おのれ、委しくも、物がたらず、勞し奉るの本意なさに、今、おもふよしを、右にしるし侍る。

[やぶちゃん注:冒頭のそれは、完全な一致を見るわけではないが、美成の言っているように「鬫子」(けんし)という書物に載るようである。その書誌は判らないが、宗の李昉(りごう)らによって編纂された類書(百科事典)「太平御覧」の「地部」に、

   *

「闕子」曰、「宋之愚人、得燕石於梧臺之東歸西、藏之以爲大寶。周客、聞而觀焉。主人端冕玄服、以發寳華匱十重縱巾十襲。客見之盧胡而笑曰、『此燕石也。與瓦甓不異。』。主人大怒、藏之愈心。」。

   *

とあるから、宋よりも前代にあった書であることは確かである。「中國哲學書電子化計劃」こちらの影印本画像の三行目から視認して活字に起こした(リンク先の右にあるのは機械判読したもので、誤りが多い)。小学館「日本国語大辞典」の「燕石(えんせき)」について、『燕山から出る、玉(ぎょく)に似て玉でない石。まがいもの』とし、転じて、『宋の愚人が燕石をたいせつにしたという』、この「太平御覧」の「鬫子」の故事から、『価値のない物を宝として誇ること。小才の者が慢心するたとえ』とし、さらに、『燕石を裹(つつ)み玄圃(げんぽ)を履(ふ)み魚目(ぎょもく)をおびて漲海(ちょうかい)に遊(あそ)ぶ』という故事成語を示し、上に示した「闕子」の抄録をした後、『「玄圃」は崑崙』『山上にあるという仙人の居所。「漲海」は南海のこと。すなわち』、『宝石や真珠の本場』で、何の価値もない『燕石や魚の目を宝と思いこんで、本物の宝石や珠玉が多い所へ持っていって自慢すること』で、転じて『自慢してかえって恥をかくことのたとえ』とある。

「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書。一七一〇年成立。

「佩文齋韻府」「佩文韻府」(はいぶんいんぷ)。清の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。百六巻。補遺である汪灝ら撰の「韻府拾遺」百六巻と合わせて用いられる。前者が一七一一年、後者が一七二〇年に成立した。「佩文」は康熙帝の書斎名(当該ウィキに拠った)。

「瑯琊代醉篇」「琅琊代醉篇」が正しい。明の張鼎思(ていし)が、さまざまな漢籍から文章を集めて編纂した類書。一五九七年序。全四十巻。延宝三(一六七五)年に和刻され、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」(文化一一(一八一四)年初編刊)を始め、複数の浮世草子等が素材として利用している。

「古書にあらざれば、證とするに足らず」などと美成はブイブイ言っているのだが、調べてみたところ、二宮俊博氏の論文「津坂東陽『社律詳解』訳注稿(十五)」(PDFでダウン・ロード可能)の中で、この故事について、注の中で『『文選』巻二十一、三国魏・応璩「百一詩」の李善注』『に引く』とある。李善(?~ 六九〇年)は初唐の学者であり、彼のそれは立派な古書である(大学一年の時、一年間、つき合わされた)。しかも、類似した誤読として示されているとしか思われない「文心雕龍」(後注参照)は、それよりもさらに前である。思うに、初めから美成は古い故事だと知っていたのであろう。実は写本・伝聞による後世の誤謬を論(あげつら)わんがための「ためにする」謂いであったように思われてならない。非常に厭な感じだ。【二〇二一年八月十五日改稿】後注で改稿した御指摘とともに、T氏から、『好問質疑の最初の条は「宋之愚人得燕石藏ㇾ之以爲ㇾ寶」の考証を書いているが、正月十四日以下は前段を書いた経緯を説明している。『足下、「燕石雜志」の撰あり。おもふに、その來處を詳にし給ふべし。願くば、示し給へ』に対して、「山海經」を回答してきたが、今回の好問堂の「前半部分程度は回答してもいいだろう」とのディスリである。応じた馬琴の頭書は、集めた会合の各位の本文または写しに、著作堂が好問堂の底意を察知し、『「後漢書」を出せばいいのに、出さないは手抜かり』と応じた、嫌味である。これは、翌月の「耽奇会」で始まる「けんどん争い」の前哨戦で、上方落語で云う「牛のおいど」[やぶちゃん注:牛の鳴き声「モウ」の「おいど」=「尻」で、「もうのしり」→「物知り」。]を誇る著作堂に対する、若い好問堂の「牛のおいど」競争である。この「好問質疑」の前半は、著作堂に対するもので、他の会合参加者には無縁なのである』と頂戴した。ここで既に山崎好問堂美成と瀧澤著作堂解(馬琴)の、「兎園會」会員そっちのけの論戦が開始されていたというわけなのであった。大いに納得。

「隋珠和璧」(ずいしゆくわへき(ずいしゅかへき))は「この世の中に二つとない宝玉」で「貴重な宝物」の意。春秋時代の隋侯に助けられた大蛇がお礼として持ってきた珠(たま)と、楚の卞和(べんか)が山で見つけた原石から作った璧(へき:宝玉)のこと。「随珠」とも書く。出典は「淮南子」の「覧冥」。

「文心雕龍」(ぶんしんてうりよう(ぶんしんちょうりょう))は詩文評書。六朝の梁(五〇二年~五五七年)の劉勰(りゅうきょう)の撰で、中国における最初の体系的文章論とされる。前半は当時の文学各ジャンルの性格と発展を跡づけた各論で、後半は創造・鑑賞・修辞・批評などの論述から成る。冒頭に原理論、巻末に著作意図を示す序文をもつ。空海の「文鏡秘府論」に影響を与えたとされる。

「尹文子」(いんぶんし)は戦国時代の斉の学者尹文 (紀元前四世紀) の著と伝えられる思想書。人君は名分を正し、外物に煩わされず、戦争反対と寡欲とを旨とし、衆人の意見をいれるべきであると説く。道家・墨家・名家の思想が混在するが、現存本は後世の偽作と推定されている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「燕石雜志」【二〇二一年八月十五日改稿】不詳としていたが、単に私の本文の表記の誤りで、いつも情報を戴くT氏より御指摘を戴いた。当該ウィキによれば、『滝沢解』(とく:曲亭馬琴の本名。『馬琴は複数の筆名を用途に応じて厳格に使い分けており、一般に知られる「曲亭馬琴」は戯作に用いた戯号で』、『本書は、本名である滝沢解(瑣吉)の名義で出版している』)『が著した随筆』。文化八(一八一一)年刊。全五巻六冊『古今の多岐にわたる事物を、和漢の書籍によって考証した作品で』、『「日の神」「鬼神余論」「古歌の訛」「俗呪方」など』五十九『編』『の考証を収める。とくに日本の伝承(桃太郎、舌切雀、猿蟹合戦など)や古風俗について、精緻な考証に基づいた馬琴独自の見解が示されている』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本を総て見ることが出来る。というか、私は吉川弘文館随筆大成版で本書を持っていた。而してその「序」を読むに、馬琴はこの書名の「燕石」を、ここで美成が問題にしている故事成句に引っ掛けて名づけているらしいことが判る。さればこそ、美成は「当然、ちゃんとすっきり判るように出典を御指摘して下さるものと思うておりましたが……ちょっと期待外れでした」と慇懃無礼に応じているわけであることも知れた。T氏に感謝申し上げる。

「書牘」(しよとく(しょとく))の「牘」は文字を記す木札で、転じて「手紙」の意。書簡・書状。

「山海經」(せんがいきやう(せんがいきょう))は中国古代の幻想地理書。戦国時代から秦・漢(紀元前四世紀~ 紀元後三世紀頃)にかけて、徐々に付加・執筆されて成立したものと考えられている現存最古の地理書とされる。巻三に、

   *

北百二十里、曰燕山。多嬰石【言石、似玉有符彩嬰帶、所謂燕石者。】燕水出焉、東流、注于河。

   *

とあるのを指す。

「後漢書」「應劯傳」「楊李翟應霍爰徐列傳」(名は「ようりたくおうかくえんじょ」(現代仮名遣)か)であろう。「中國哲學書電子化計劃」で検索すると、「宋愚夫亦寶燕石」が見出せる。]

 

徹書記のころは、こと外、亂世なりしに、たはふれ歌をよみ給ひしより、さすらひ給ふとなり。その歌に、

 なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月

此うたの心は、いまの世の政事、あしきにより、世がみだれし、禁裡にうゑ置く桐は、鳳凰の來儀をまたん爲なるに、このやうなるまつりごとにては、鳳凰の來るねんは、なし。桐の葉を打ちおとして、秋のよの月をさはりなくながめたるが、よし。「見ぬもろこしの鳥」は鳳凰なり。此歌の底意は、君を、そしれる歌なるにより、さそらひし、となり。去る程に、書記の謫處へ、歌友達、見まひけるに、七月十四日の歌、とて、かたり給ひしうた、

 なかなかになきたまならばふる鄕にかへらんものをけふの夕くれ

この歌の心は、命あるが、つれなし。死にたらば、しやうりやうになりて、この夕には、かへるべきものを、と、ふる里を戀ひしく思ひつる心ざし、いと、あはれ、ふかし。扨、この歌、禁裏へきこえしかば、あはれに思しめして、めしかへされけり、となり。

[やぶちゃん注:以下、「いへるにあはず。」まで、底本では全体が一字下げ。]

美成、按ずるに、この故事、人、常にいひ傳へ、「日本古今人物史」にも、「徹書記傳」に、『曾以一首諷詠、而左遷洛外山科之地。又因一首之愁吟、而逢歸洛之喜。』[やぶちゃん注:「曾つて一首の諷詠を以つて、而して洛外山科の地に左遷せり。又、一首の愁吟に因りて、而して歸洛の喜びに逢ふ。」か。]と、いへるも、この「なかなか」の歌を、さして、いヘるなり。又「和歌詞德抄」にも見えたり。「草根集」には、此歌、見えず。出處を考ふるに、「百物語」・「月苅藻集」などに載せたれど、この書の時代をおもふに、「百物語」に、烟草の禁ぜられしを、このころのやうに書きたれば、元和の撰といふべし。「月苅藻集」のはじめに、『于時寶永庚寅春書之。佚本寬永午春。』とあり、と、しるしたれば、寬永の比の記と、おもはれたり。再び、おもふに、「百物語」は、やゝふるし、と、いへども、俗書なり。「月苅藻集」は、世人、曾て、しるべきものに、あらず。いづれも、來處は定めがたし。又、「膽(ニギハヒ)草」に、この事を載せて、〽四の海をさまりがたきしるしにや雲の上までのぼる白波 招月内裏へ盜人の入りたる時、よめり。この類にて、左遷せらる。〽なかなかになき身なりせばふるさとへかへらんものをけふの夕ぐれ 流罪の内に、盂蘭盆によめり。叡聞ありて、あはれに思し召し、召し歸さるとわるは[やぶちゃん注:ママ。「あるは」の誤記であろう。]、異なる傳にて、初め、罪を得し歌、かはり、次の「なかなかに」の歌も異同あり。此書をあらはしたる佐野紹益は、本阿彌光悅が聟にて、縉紳家へまゐりしものなれば、傳へ來れるものありしや。これにては世にいへる「なかなか」の歌にて、罪を得、「なかなか」の歌にて、召しかへさる、といへるに、あはず。

[やぶちゃん注:「徹書記」室町中期の臨済宗の歌僧正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)のこと。備中(現在の岡山県)生まれ。俗名は正清。石清水八幡宮に仕えた祀官一族の出身。正徹は法号。京の東福寺栗棘庵(りっきょくあん)に入り、書記となったことから、徹書記とも称する。幼時より和歌を能くし、冷泉為秀に師事した。草庵の火災により、詠草二万数千首を焼失したが、歌集「草根集」に、なお、多くの歌を残している。著書に「なぐさめ草」「徹書記物語」などがある。

「なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月」不詳。

「なかなかになきたまならばふる鄕にかへらんものをけふの夕くれ」和泉屋楓氏のサイト「絵双紙屋」の「吾妻曲狂歌文庫」の翻刻の中の本歌に、『正徹 翁草』として、

 なかなかになき魂ならばふる鄕に歸らんものをけふの夕暮れ

と載る。この一首は、いい。

「百物語」不詳。

「月苅藻集」(つきのかるもしふ)は江戸前期に成立した説話集。編者未詳。

「膽(ニギハヒ)草」江戸初期の豪商佐野紹益(じょうえき 慶長一二(一六〇七)年~元禄四(一六九一)年)著になる随筆。彼は灰屋紹益とも称し、京の上流層の町衆の代表的人物であった。名は重孝、通称は三郎兵衛、紹益は号。父は佐野紹由、一説に本阿弥光益とも。南北朝以来、藍染の触媒に用いる灰を扱う紺灰屋を家業とし、紺灰問屋を支配したことから、家号を灰屋という。但し、既に父紹由のころから、家業はやめており、家号だけが存していたともされる。和歌・俳諧を烏丸光広・松永貞徳に、蹴鞠を飛鳥井雅章に,書を本阿弥光悦に、茶の湯を千道安に学ぶなど、あらゆる芸能に精通し、光悦を中心とする文化人グループに加わり、後水尾上皇を始め、公卿・大名・武士・美術家・茶人・僧侶など、その交際範囲は極めて広かった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。寛永八(一六三一)年に、六条柳町の遊里の名妓吉野太夫を公卿近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話は有名。

「招月」旧暦月の異名と思っていたが、不詳。

「本阿彌光悅が聟」不審。灰屋紹益は本阿弥光悦の甥光益の子ともされるから、「甥」を聞き間違えたものか? だとしたら、それこそ、美成よ、あんたが言ってるそばから、口の干ぬ間だぜ?

「縉紳家」「笏」(しゃく)を「紳」(おおおび:大帯)に搢(さしはさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。]

 

附けて云、來處、誤まれるもの、世に多かり。鳥鵲橋の事、「淮南子」に出づ、とし、池魚の災といふ事、「風俗通」にあり、と記したれど、いづれも本書には見えず。又、世にあまねく用ひ來りて、本據なき文字あり。佛典每に「紫雲」の字、見ゆれど、大藏五千卷、如來金口の說、甞[やぶちゃん注:「かつて」。]いはざる所、大人、常に「紅楓」の字をつかふといへど、本唐三百年、名家詩聖の集、此字、あること、なし【解、追記。近世の詩に、「紅楓」の字をつかふは、近世の歌に、「もみぢ」を「紅葉」とかくに倣ひしなり。然れども「萬葉集」には、「紅葉」と書きたるもの、なく、ふるくは「黃葉」と書けり。】[やぶちゃん注:頭書。]。おもふに初學、前人の誤を襲ひ、是等の事、ゆるかせにすべからず。古人の文をかける、一字といへども、來處なきもの、あらず。『讀書看確萬卷。下ㇾ筆如ㇾ有ㇾ神。』[やぶちゃん注:「讀書せば、確かに萬卷を看る。筆を下さば、筆、神の有るがごとし。」か。]。けだし、虛語に、あらず。予、生來、問ふ事を好むによりて、「好問」をもて、堂に扁す。しかれども、あへて大舜の德を慕ふには、あらねど、切に問ひ、近く思ふは、學者の急にする所ならずや。故に一疑を得るごとに、これを人に質し、其得るにあたりては、手の舞、あしの踏を、しらず。猶、その本據を得ざるもの、大約、一百條、題して「好問質疑」とす。明の陸儼山が「傳疑錄」、吾邦の貝原益軒の「大疑錄」に似るべうもあらねど、しるして、博洽の君子に問はんとす。しかれども、いまだ、稿を脫することを得ず。今、こゝに、その一隅をあぐるのみ。

  文政八年乙酉春二月八日 山崎美成識于好問堂北窓之下

[やぶちゃん注:「鳥鵲橋」「うじやくけう/うじやくのはし」言わずもがな、陰暦七月七日の夕、牽牛星と織女星が会うとき、カササギが翼を広げて天の川に渡すとされる橋。「烏」? 当然ですよ! 鵲(かささぎ)はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea ですから! 博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。「淮南子」には載らないと美成は言っているが、現行、多くの記載が「淮南子」にあるとし、「烏鵲、河を塡(うづ)めて橋を成し、織女を渡らしむ」とあるとする。ある記載では、『「淮南子」佚文には』とするので、古原形にはあったのかも知れない。

「池魚の災」「池魚(ちぎよ)の殃(わざはひ)」。災難の巻き添えをくうこと。特に類焼に遇うことを指す。池の中に落ちた珠(たま)を取るために宋王が池の水を搔き出させたところが、珠は見あたらず、池の魚はみな、死んでしまったという「呂氏春秋」の「孝行覧」の故事から。また、楚の国で城門の火事が起こった際、火を消そうとして、池の水を用いたために、魚が全部死んだ、という故事によるともされる。

「大舜」中国の理想の聖王舜のこと。

「手の舞、あしの踏を、しらず」歓喜雀躍、鼓腹撃壌するということ。

「陸儼山」(りくげんざん)は明の学者(祭酒)陸深(一四七七年~一五四四年)。科挙を優秀な成績で通過し、弘治年間(一四八八年~一五〇五年)に官に就き、要職を歴任した。文に優れ、収蔵にも富んだが、書を最も得意とした。強い筆力と緊張感のある書を残し、知られた諸家からも高い評価を受けるほどの書名を誇ったが、現存する作品は少ない。

「傳疑錄」現物の影印を中国サイトで見たが、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。話の展開からは、諸疑問・不審点を掲げて、考証する内容なんだろう。

『貝原益軒の「大疑錄」』貝原益軒が最晩年に纏めた朱子学批判の書。正徳三(一七一三)年に成立した。青年期に朱子・陽明兼学を志した益軒は、福岡藩主黒田光之に仕え、約十年間、京都へ遊学させられた。在京中の三十六歳の時、明の陳清瀾の陽明学批判書である「學蔀通辨」(がくほうつうべん)を読み、朱子学一途に進む決意を表明した。しかし、その後、伊藤仁斎との出会いや、益軒自身の博物学的研究を介して、朱子学の持つ観念性への疑問を募らせ、明の修正朱子学派であった罹整庵の「困知記」、呉蘇原の「吉斎漫録」などによって、それを確かめ、本書を書き上げるに至った。益軒は「理気合一論」、さらに「気一元論」をとり、古学派に近い立場であった。本書は彼の没後、半世紀を経た明和四(一七六七)年、徂徠派によって出版されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「博洽」(はくかふ(はっこう))は「遍く行き渡ること・広く種々の学問に通じていること・博学・博識」の意。]

芥川龍之介書簡抄117 / 大正一二(一九二三)年(三) 七通(旧全集最古の堀辰雄宛一通を含む)  

 

[やぶちゃん注:この年の九月一日十一時五十八分三十二秒に関東大震災が発生、南関東及び隣接地で大きな被害を齎した。死者・行方不明者は推定十万五千名で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となった。芥川龍之介は書簡では、特に本震災についてのやり取りが少ないので、既に『「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に』として八篇の文章をここで電子化しておいたので参照されたい。]

 

大正一二(一九二三)年九月十八日・田端発信・葛巻義敏宛

 

この間は手紙を難有う。けふ士官の人が來てお前からのことづけを聞いた。

東京は地震後の火事の爲 大半燒野原になつてしまつた。その慘害の程度は到底見ないものには想像出來ない。西川、新原、薪屋、皆全燒した。西川の一家は江州へひきこむと云つてゐる。地方から來た人は續々ひき上げる。もう百三萬人去つたよし。東京の人口二百萬の半分だ。大變なことになつたものだ。

さう云ふ始末故 お前も今かへつたにしろ、どうすると云ふ當ては全然ない。「新しい村」からは何とも云つて來ず、又武者が出て來てゐるにしろ、この大騷ぎぢや居どころもわからない。その他の口も灰搔きとか郵便配達とかの外は見當りさうもない。今も靑池が來て山口さんの所から出された始末を話してゐる。これもどうかしなければならぬのだが、どうする訣にも行かない次第だ。だからお前も當分は北海道に止る外はない。

もう少し交通機關でも恢復すれば「新しい村」の便りもあるかも知れない。又もう少し燒け跡にバラックでも出來れば、何とか外に衣食の途があるかも知れない。今は皆それぞれの食ふ食はぬの問題と戰つてゐる。兎に角お前はさし當り北海道に尻を据ゑなければ駄目だ。こちらでは「ヨツチヤンダケ今度ハ運ガヨカツタ」と云つてゐる。新原、西川、薪屋、皆死傷はない。しかし本所の伊藤(お條さんと云ふ頭に毛のない女の人を知つてゐるだらう)は二人とも燒け死んでしまつたらしい。上野へ出ると、淺草のお堂や兩國の鐡橋が見える。その間みんな燒けたからだ。丸善も文房堂も神田の古本屋も全部燒けた。本も買へない。畫の具も買へない。僕等みんな大弱りだ。燒け死んだ人も澤山ある。本所の被服廠には三萬五干人の屍骸がある。大川やその他の川も土左衞門だらけ。僕の見た燒死者だけでも三百以上ある位だ。田端は幸ひに燒けない。しかし放火や泥捧が多いから、每日僕と渡邊とかはるがはる夜警隊に加はつてゐる。戒嚴令を敷かれた結果、軍隊も步哨を立ててゐるし、靑年團や在鄕軍人會は總出だし、まるで革命か戰爭でもあつたやうだ。

あとはいづれ又。何にしろ當分はそちらに置いて貰ふやうにおし。こつちは文字通り大騷ぎだ。

   九月十六日       芥川龍之介

  葛卷義敏樣

 

[やぶちゃん注:「しっかりした震災報知の書簡があるじゃないか!?」と言われそうだが、実はこれは岩波旧全集には載っていない。底本は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)を用いた。恐らくは新全集には収録されているようで、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に載っている。龍之介の姉ヒサの先夫葛巻義定(離婚。但し、前に述べたように西川豊と再婚したものの、西川が自殺して、実はヒサはその後に義定と再々婚している)との間の長男で、龍之介の甥であった葛卷義敏は大正一一(一九二二)年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学したものの、在学中に白樺派のコミューン「新しき村」への参加を望み家出していた(後に芥川家で龍之介の書生として働くことになった。東京高等師範学校附属の方はこの大正十二年に中退している。この辺りは当該ウィキに拠った)。前掲書の石割氏の注には、『実父の理解を得るため』、この時は『北海道に赴いていた』とある。義定は獣医であったから、父が北海道にいたというのは腑に落ちる。

「けふ士官の人が來てお前からのことづけを聞いた」恐らくは、震災による戒厳令発布により、北海道に配備されていた陸軍軍人が東京に派遣されたのであろう。父義定の仕事関係(軍馬が考えられる)か何かで、その士官とコミット出来たのであろう。

「西川」前掲の姉の再婚した弁護士西川豊との住居。

「新原」芥川龍之介の亡き実父新原(にいはら)敏三の新原家。

「薪屋」不詳。新原家との縁戚か。

「江州」西川豊は滋賀県生まれ(明治大学法科卒)。

「渡邊」芥川龍之介の書生をしていた既出の渡邊庫輔。

「戒嚴令」ウィキの「関東大震災」によれば、震災直後、『内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出して』おり、根も葉もない『不逞鮮人』による放火・掠奪の流言が広がった。七日には、『緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」』『が出された』が、まさに『これがのちの治安維持法の前身』となった。八日には、『東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表し』ている。しかし、『震災後』一『か月以上が経過した』十月二十日、『日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある』。『一部の流言については正力松太郎が』ずっと後の昭和一九(一九四四)年の『警視庁での講演において、当時の情報が「虚報」だったと発言している』。時間を震災直後に戻す。『警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した』。『これを受け』て、震災翌日の九月二日には、『東京府下』五『郡に戒厳令を一部施行し』、三『日には東京府と神奈川県全域にまで広げた』。『陸軍は、戒厳令のもと』、『騎兵を各地に派遣し』、『軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは』、『人々に安心感を与えつつ』も、先の根拠のない朝鮮人についての『流言が事実であるとの印象を与え』、『不安を植えつけたとも考えられる』とある。『軍・警察の主導で関東地方に』は、実に四千余りもの『自警団が組織され、集団暴行事件が発生し』、『これら自警団』や一部の強迫観念的な民衆集団によって、暴行やリンチが行われ、『朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た』とある。より詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

 

大正一二(一九二三)年九月二十八日・田端発信・中根駒十郞宛

 

拜啓御手紙拜見しました成程印紙は燒けちまつたらうと思ひます八十三圓殘金の旨も承知しましたしかし小生の親族共燒け出されの爲、お金入用なのですが今月卅日ごろまでに百圓程御都合下さいませんか、「夜來の花」の縮刷印税を前借と云ふ事にして、甚勝手がましい御願ひですがどうかよろしく御取計らひ下さい御都合によりお金は使をさし上げても、下すつても結構です 勿論御斷り下すつても好いのですがなる可く御ひきうけ下さい右とりあへず當用のみ 頓首

    九月廿八日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:底本を岩波旧全集に戻す。

「中根駒十郞」(明治一五(一八八二)年~昭和三九(一九六四)年)は新潮社支配人。愛知県矢作(現在の岡崎市)生まれ。明治二八(一八九五)年、郷里の小学校を卒業後、上京して神田の大鳴学館に学んだ。明治三十一年、義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(後の新潮社)に入り、以後、佐藤の片腕となり、新潮社の発展に尽くした。昭和二二(一九四七)年、支配人を退き、顧問となった。夏目漱石・島崎藤村・芥川龍之介ら作家たちの信頼も厚く、その多彩な交誼の逸話は「駒十郎随聞」に残されている(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。ここでは被災後で無理もない申し出であるが、龍之介はこの翌年の五月二十八日にも、京都旅行で持ち金を使い果たし、彼へ無心を頼んでいる。こういうところは、私は龍之介の都合のいい(金を呉れそうな相手を選ぶところ)ちょっと厭な感じがしている。

「夜來の花」この二年前の大正十年三月十四日、中国特派直前に新潮社から出した第五短編集であるが(初版が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全部読める)、その縮刷版の刊行は震災前から契約していたものと思われ、大正十三年五月十日に出版されている(震災で刊行は遅れたものと推定される)。その縮刷版も国立国会図書館デジタルコレクションにある。

 

 

大正一二(一九二三)年十月十八日・田端発信・堀辰雄宛

 

冠省原稿用紙で失禮します詩二篇拜見しましたあなたの藝術的心境はよくわかります或はあなたと會つただけではわからぬもの迄わかつたかも知れませんあなたの捉へ得たものをはなさずに、そのまゝずんずんお進みなさい(但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。ですからわたしの言を信用しろとは云ひません信用するしないはあなたの自由です)あなたの詩は殊に街角はあなたの捉へ得たものの或確さを示してゐるかと思ひますその爲にわたしは安心してあなたと藝術の話の出來る氣がしましたつまり詩をお送りになつたことはあなたの爲よりもわたしの爲に非常に都合がよかつたのです實はあなたの外にもう一人、室生君の所へ來る人がこの間わたしを訪問しましたしかしわたしはその人の爲に何もして上げられぬ事を發見しただけでしたあなたのその人と選を異にしてゐたのはわたしの爲に愉快ですあなたの爲にも愉快であれば更に結構だと思ひます以上とりあへず御返事までにしたためましたしかしわたしへ手紙をよこせば必ず返事をよこすものと思つちやいけません寧ろ大抵よこさぬものと思つて下さいわたしは自ら呆れるほど筆無精に生れついてゐるのですからどうか今後返事を出さぬことがあつても怒らないやうにして下さい

    十月十八日      芥川龍之介

   堀 辰 雄 樣

二伸なほわたしの書架にある本で讀みたい本があれば御使ひなさいその外遠盧しちやいけません又わたしに遠慮を要求してもいけません

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集で最初の芥川龍之介の晩年の高弟とも言うべき堀辰雄宛書簡である。それにしても、これ、一読、夏目漱石の「こゝろ」の「先生」の遺書の一節と見紛うものであり、龍之介も確信犯で言葉をわざとそうなるように選んでいるとしか私には思われない(私は「こゝろ」のフリークである。この書簡をこっそり「先生」の遺書の佚文だと言ったら、信じてしまう人はかなり多いはずだ)。しかし、この返事を貰った堀が完全に舞い上がったことは想像に難くない。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、震災のあった九月の下旬に、『室生犀星に師事して詩を書いていた堀辰雄(当時一高生)を紹介され、以後』、『親交を結ぶ』とある。堀は大正一四(一九二五)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学したが、芥川龍之介の自死後、岩波元版芥川龍之介全集の編集者の一人を勤め、大学は昭和四(一九二九)年三月に卒業したが、その卒業論文は、ズバリ、「芥川龍之介論」であった。

「但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります」これは詩稿を送ってきた堀への謙遜の挨拶に過ぎない。芥川龍之介は自らを秘かに詩人であると生涯、自負していた。だからこそ、後年、萩原朔太郎に「彼は詩を熱情してゐる小說家である」と評された際、自ら出向いて、朔太郎に詰め寄っているのである。私の古い電子化である萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「10」以下を読まれたい。

「街角」筑摩全集類聚版脚注には、『堀辰雄全集になし。のち』に『すてた草稿か』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年秋・田端の自宅にての置き手紙・葛卷義敏宛(全て青鉛筆で書かれてある)

 

コノ手紙ヲ書イタオ前ハ好イ子ナリ、好イ甥ナリ。 カンシヤク叔父

 

[やぶちゃん注:再び葛巻の「芥川龍之介未定稿集」より。「編者註」があり、そこに、

   *

「若シ明日、朝ネテヰル内ニ誰カ來タラ起シテモイイ。起シテハイケナイ。――ソノドチラカニ、記シヲ付ケテ、置イテ。『起シテモイイ。起シテハイケナイ。』」と云う編者の「置手紙」への返事として編者の枕元へ。

   *

とある。年譜類には記載がないが、このクレジットに誤りがないとなら、この年の十月辺りには、葛巻義敏は北海道から東京へ戻り、芥川龍之介の書生として田端の家に住んでいたことが推定出来ると思われる。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月十六日・田端発信・室生犀星宛(渡邊庫輔と寄書)

 

竹垂るる窓の穴べに君ならぬ菊池ひろしを見たるわびしさ

遠つ峯(ヲ)にかがよふ雪の幽かにも命を守ると君につげなむ

秋たくる庭たかむらに置く霜の音の幽けさを君知らざらむ

  詩の御返事

靈芝にまじる菫の凍りけり

  震災後に芝山内をすぎ

松風をうつつに聞くよ古袷

  久しぶりに姪にあひ

かへり見る頰の肥りよ杏いろ

 十二月十六日        芥川龍之介

室生犀星樣

 

[やぶちゃん注:底本を再び岩波旧全集に戻す。

「芝山内」筑摩全集類聚版脚注に、『東京都港区芝(当時は芝区)増上寺の境内』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月十六日・消印十八日・田端発信・金澤市上本多町川御亭三十一 室生犀星樣・十二月十六日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省 先達てお菓子を難有う存じました新年號やら何やら忙しい爲、つい御禮も出さず失禮しました又この間は菫の詩をありがたうこれも次手にお禮を申上げます(僕は今度小說の如きもの四つも書きましたその爲大へん忙しかつたのです)やつと仕事も片づいた故けふの夜大阪へ參らんと存じてゐます大阪で思ひ出し候へども大阪每日のサンデイの隨筆にちよつと君の事を書いた、活字になつたらよんで下さい君の家には今酒井眞人の一家が住んでゐます菊池はねあの敷石を綺麗に拭つておき、離れと書齋との往來は跣足でしてゐました以下卽席に歌を作ります

   君がたびし菓子やくひけむ吾子(アコ)の口赤き涎を垂らしてゐたり

 

[やぶちゃん注:「大阪每日のサンデイ」大阪毎日新聞社の発行していた雑誌『サンデー每日』のこと。

「菫の詩」前の書簡にも出ているが、不詳。筑摩全集類聚版にも注さない。

「隨筆にちよつと君の事を書いた」大正一三(一九二四)年一月六日及び同月十三日発行の『サンデー毎日』に書いた「野人生計の事」の「二 室生犀星」のこと。「野人生計事 芥川龍之介 附やぶちゃん注」を参照されたい。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月三十一日・田端発信・下島勳宛(奉書紙に認め袴を包みて)

 

たてまつるこれの袴は木綿ゆゑ絹の着ものにつけたまひそね

 大つごもり         龍 之 介

 

[やぶちゃん注:歳暮に添えた挨拶の一首。]

芥川龍之介書簡抄116 / 大正一二(一九二三)年(二) 三通

 

大正一二(一九二三)年八月九日消印・田端発信・東京市外田端三四八 下島勳樣・(絵葉書・小穴隆一・渡邊庫輔と寄書)

 

Matuakutagawa

 

庭 前 小 景

 

描電線者渡邊庫輔、描藤棚者小穴隆一、描松者芥川龍之介

   藤棚の空をかぎれるいきれかな(夏書藤返り咲けるに)

   不自由の一游亭は松葉杖に闇の夜も步くと君おぼしめせ

                         庫

      ○

   松風や紅提灯も秋どなり (我鬼)

 

[やぶちゃん注:三人が共作して描いた完全な一枚の彩色画というのは珍しい。「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。]

 

 

大正一二(一九二三)年八月十三日・鎌倉発信・谷口喜作宛

 

冠省鎌倉に來てうまいお菓子なく困り居り候閒お手製のお菓子お送り下され度願上候お菓子は

 

Usagiyaate

            牛皮   餡也

【図】 橫カラ見タ所   【図】  割つた所

                風味あり

とまん中に胡桃のついてゐるお菓子になされ度これを二折にて五圓におこしらへ下され度候なほその外に最中我々の食べる分だけよろしく御見つくろひおん送り下され度候なほお金は勝手ながら歸京の節差上ぐ可く候間送り狀御封入下され度願上候右當用のみ 頓首

    八月十三日      芥川龍之介

   Usagiya

   閑 心 亭 御 主 人 おんもと

  おん送りさき 相州鎌倉停車揚前平野家内 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:菓子図は底本の岩波旧全集のそれを図と指示線のみを使用し、活字になっているキャプション部分は消去し、改めてソフトを用いて文字を私が挿入した。宛名の前にある画像は、その芥川龍之介御用達の和菓子屋で谷口喜作が営む「うさぎや」の屋号を示すもの。同じく底本からトリミングした。実際にはこんなに大きくはない。活字より二回りほどの大きさである。公式サイトでも判るが、サイト「GONZO SHOUTS」の白玉氏の記事「湯島・本郷散歩 老舗和菓子屋 うさぎや(どらやき)編が判りやすい。解説も充実している。

 この鎌倉避暑については、まず、『小穴隆一「二つの繪」(48) 「鵠沼・鎌倉のころ」(2) 「鎌倉」』がよい。そこで私は、龍之介が滞在した旅館について小穴の記した「平野屋(京都の平野屋の支店)」に以下のように注した。『現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。宮坂年譜によれば、小穴隆一は芥川龍之介が来鎌する以前(大正一二(一九二三)年八月一日以前)から平野屋別荘に滞在しており、龍之介が平野屋へ来るのは山梨での夏期講座講師の仕事を終えた同月六日から九日までの間と推定されている。在鎌(日帰りで東京に出たりはしている)は十五日ほどに及び、同月二十五日に田端に戻った。』と書いた。但し、現在の京都の「平野屋」が本当に私の名指している「平野屋」かどうかは、未だ確認出来てはいない。しかし、この鎌倉の「平野屋」については、元は旅館ではなく、料亭であった。染谷孝哉著「鎌倉 もうひとつの貌」(一九八〇年蒼海出版刊)によれば、鎌倉の平野屋は当初は料亭で、『ここは京都に本店がある旅館の東京支店の、またその別荘のような出店であった』が、『商売が思わしくなかったので、その年から、秘書客のために貸間をしていた。その一九二三(大正一二)年夏』(まさにこの書簡時制を指す)、『岡本かの子、一平夫婦が滞在していた。たまたま芥川龍之介の同宿していた』として、龍之介の死後に書かれた龍之介をモデルとしたこの滞在中の様子を小説化した「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文学界』発表)の一節を紹介している(芥川龍之介は『麻川莊之介』といういかにも名で出る)。但し、私は「鶴は病みき」に漂っているある種の奇怪にして不審な芥川龍之介の行動様態は、自殺した芥川龍之介の精神的な変異を、この親しく接した自死四年前にまで恣意的に引き上げるために作話した箇所がかなりあるように感じている。恐らく、この和菓子依頼のお茶目な書簡に鬱状態や死の影を感じる者は誰もいないだろう。ともかくも大の甘党芥川龍之介の真骨頂の書簡である。

「谷口喜作」既出既注

「送り狀」荷物送付確認照合のための荷内容の明細書。]

 

 

大正一二(一九二三)年八月十三日・鎌倉発信・東京市外田端四三五 芥川ボクチヤン・八月二十三日(小穴筆の絵葉書・小穴隆一と寄書)

 

Bokutyanomote

 

Bokutyane

 

[やぶちゃん注:以下、宛名と下方の書信。最上部と一番下には印刷で右から左にそれぞれ、『郵便はがき』・『東京榛原製』とある。「榛原(はいばら)」は現在の東京都中央区日本橋に本社を置いている老舗の和紙舗(わがみほ)である。]

 

東京市外田端

四三五

 芥川ボクチヤン

 

     八月二十三日

[やぶちゃん注:一錢五厘の切手の消印は「鎌倉12 8 23」(時刻は「后0 ― 0」か。]

――――――――――――――――――――

二十五日マデニ

カヘリマス 二十日ニ

ハ和田ヤ永見ト話

シコミ、ステーション 

ホテルニ 泊ラセラ

レタ(汽車ニ乘リオ

クレ)ケフ菅先生

ニアツタ 勢子今朝

橫濱ヘカヘツタ キノ

フ泳イダ 下島サンニ

ヨロシク 龍 以上

[やぶちゃん注:「龍」は○印がついている。]

 

[やぶちゃん注:以下、裏の絵に添えられたキャプション的小穴隆一の書信。言わずもがなだが、泳げないのは義足であるため。]

 

        ワタシハ

        ウミニハイ

            レ

            ナ

ボク          イ

チヤンノ        ノ

オトウ         デ

サン          ス

            ナ

セイコ         ハ

チヤンノ        マ

オバ          デ

サン        ミテイ

          マス

           オアナ

 

[やぶちゃん注:以上は知られた民間の出版社のページで拾った画像である。そのページは敢えて示さない。画質がひどく悪いが、これは日本近代文学館所蔵のかなり古くに撮影したそれであることは百%間違いない。そのサイトでは「日本近代文学館」の公式サイトを出所としてリンクまでしてある。しかし現在の「日本近代文学館」の公式サイト内にはこの書簡の画像はない。しかも、驚くべきことに、その拾ったサイトには『掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます』とある。では、何故、「日本近代文学館」から公的に許可を得て写真を掲げていることを正しく胸張って明記していないのか? こういうアンバランスな仕儀が、文化のユビキタスをメディア自らが断ち切ってダメにする元凶なのだと言える。実は私は二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」を所持しているが、以上の現物に改行等を可能な限り合わせた翻刻は、そこに載る本葉書の表・裏の鮮明な大判画像を視認して電子化したものである。しかし同書にも、恐ろしく詳細な五月蠅い複写禁止注意書きがある。――但し、これは逆に法的には無効である。前に示した通り、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影した単体写真には著作権は発生しないからである。美術館で写真が撮れないのは、世界的に見ても日本だけぐらいなものである。本邦の美術館はただそのまま写した絵画写真に著作権を主著しているが、こんな馬鹿なことを大々的に公的にやっているのはやはり日本だけである。こういう馬鹿げた禁忌を設けているから、日本の文化・芸術は閉鎖的で前時代的なのである。文化よりも金儲けしか頭にないから、出版界が国立国会図書館にデジタルコレクションを公開するななどとんでもない理不尽を捻じ込むのだ。まるでヤクザだね――閑話休題。されば、電話して許可とってなんどという面倒な仕儀は、さらさらやる気はない。どうぞ、図書館か、一万九千八百円(税込)払って買って、有難く拝見拝読されたい。因みに、私はこの時の由比ヶ浜での龍之介や小林と岡本夫妻の映った写真を確かに見た記憶があるのだが、所持品には見当たらない。僕の妄想だろうか?

「芥川ボクチヤン」この宛名のみは筆跡の墨痕が異なるが、これは「芥川龍之介の書画」の解説にもある通り、小穴隆一の筆になるからである。これはまず間違いなく、龍之介の次男「芥川多加志」宛である。既に前の書簡で示した通り、彼の名は小穴の「隆」を訓じて龍之介が名付けたのであり、されば、この小穴の言う「ボクチヤン」とは一般名詞の少年を呼ぶ「僕ちゃん」に「芥川家の子の、僕自身である多加志ちゃん」の意を掛けた小穴の愛情表現である。当時、多加志は満二歳五ヶ月であった。

「和田」筑摩全集類聚版脚注に、龍之介が作品集も出している出版社『春陽堂主人和田俊彦か』とある。

「永見」永見徳太郎であろう。既注(「大正八(一九一九)年五月八日・長崎発信・南部修太郞宛(絵葉書、菊池寛と寄書)」の冒頭注内)。

「勢子」小林勢以子(せいこ 明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)谷崎潤一郎の先妻千代夫人(離婚して佐藤春夫夫人となった)の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。なお、龍之介と彼女について関係を疑う向きには、私の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その5』の私の注を読まれんことをお勧めしておく。筑摩全集類聚版脚注には、『行動のはでな女性で、文士連中とまじわりがあった』とある。]

2021/08/10

芥川龍之介「鸚鵡 ――大震覺え書の一つ―― 」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(8)――追加――

 

[やぶちゃん注:作成意図は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。これを以って「芥川龍之介書簡抄」のインターミッションは終わりとする。

 本作は大正十二年十月五日発行の『サンデー每日』に掲載された(単行本には未収録)。

 底本は岩波旧全集を用いた。但し、加工データとして「青空文庫」の新字旧仮名版を使用させて貰った。太字は底本では傍点「ヽ」。]

 

 鸚  鵡

     ――大震覺え書の一つ――

 

 これは御覽の通り覺え書に過ぎない。覺え書を覺え書のまま發表するのは時閒の餘裕に乏しい爲である。或は又その外にも氣持の餘裕に乏しい爲である。しかし覺え書のまま發表することに多少は意味のない譯でもない。大正十二年九月十四日記。

 

 本所橫網町(よこあみちやう)に住める一中節の師匠。名は鐘大夫(かねだいふ)。年は六十三歲。十七歲の孫娘と二人暮らしなり。

 家は地震にも潰れざりしかど、忽ち近隣に出火あり。孫娘と共に兩國に走る。攜へしものは鸚鵡(あうむ)の籠かごのみ。鸚鵡の名は五郞。背は鼠色、腹は桃色。藝は錺屋(かざりや)の槌(つち)の音と「ナアル」(成程の略)といふ言葉とを眞似るだけなり。

 兩國より人形町(にんぎやうちやう)へ出(い)づる間にいつか孫娘と離れ離れになる。心配なれども探してゐる暇なし。往來の人波。荷物の山。カナリヤの籠を持ちし女を見る。待合の女將かと思はるる服裝。「こちとらに似たものもあると思ひました」といふ。その位の餘裕はあるものと見ゆ。

 鎧橋(よろひばし)に出づ。町の片側は火事なり。その側(がは)に面せるに顏、燒くるかと思ふほど熱かりし由。又何か落つると思へば、電線を被(おほ)ほへる鉛管(えんくわん)の火熱の爲に熔け落つるなり。この邊(へん)より一層人に押され、度たび鸚鵡の籠も潰つぶれずやと思ふ。鸚鵡は始終狂ひまはりて已まず。

 丸の内に出づれば日比谷の空に火事の煙の揚がるを見る。警視廳、帝劇などの燒け居りしならん。やつと楠(くすのき)の銅像のほとりに至る。芝の上に坐りしかど、孫娘のことが氣にかかりてならず。大聲に孫娘の名を呼びつつ、避難民の間を探しまはる。日暮(ひぐれ)。遂に松のかげに橫たはる。隣りは店員數人をつれたる株屋。空は火事の煙の爲、どちらを見てもまつ赤なり。鸚鵡、突然「ナアル」といふ。

 翌日も丸の内一帶より日比谷迄まで、孫娘を探しまはる。「人形町なり兩國なりへ引つ返さうといふ氣は出ませんでした」といふ。午ごろより饑渴(きかつ)を覺ゆること切なり。やむを得ず日比谷の池の水を飮む。孫娘は遂に見つからず。夜は又丸の内の芝の上に橫はる。鸚鵡の籠を枕べに置きつつ、人に盜まれはせぬかと思ふ。日比谷の池の家鴨を食くらへる避難民を見たればなり。空にはなほ火事の明りを見る。

 三日は孫娘を斷念し、新宿の甥を尋ねんとす。櫻田より半藏門に出づるに、新宿も亦燒けたりと聞き、谷中の檀那寺を手賴らばやと思ふ。饑渴愈(いよいよ)甚だし。「五郞を殺すのは厭ですが、おちたら食はうと思ひました」といふ。九段上へ出づる途中、役所の小使らしきものにやつと玄米一合餘りを貰ひ、生のまま嚙み碎きて食す。又つらつら考へれば、鸚鵡の籠を提げたるまま、檀那寺の世話にはなられぬやうなり。卽ち鸚鵡に玄米の殘りを食はせ、九段上の濠端よりこれを放つ。薄暮、谷中の檀那寺に至る。和尙、親切に幾日でもゐろといふ。

 五日の朝、僕の家に來たる。未だ孫娘の行く方(へ)を知らずといふ。意氣な平生(へいせい)のお師匠さんとは思はれぬほど憔悴し居たり。

 附記。新宿の甥の家は燒けざりし由。孫娘は其處に避難し居りし由。

芥川龍之介「古書の燒失を惜しむ」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(7)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 

 古書の燒失を惜しむ

 

 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に殘念に思ふ。表慶館に陳列されてゐた陶器類は殆ど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措き古書のことを考へると黑川家の藏書も燒け、安田家の藏書も燒け大學の圖書館の藏書も燒けたのは取り返しのつかない損害だらう。商賣人でも村幸(むらかう)とか淺倉屋とか吉吉(よしきち)だとかいふのが燒けたからその方の罹害も多いにちがひない。個人の藏書は兎も角も大學圖書館の藏書の燒かれたことは何んといつても大學の手落ちである。圖書館の位置が火災の原因になりやすい醫科大學の藥品のあるところと接近してゐるのも宜敷くない。休日などには圖書館に小使位しか居ないのも宜しくない、(その爲めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、從つて貴重な本を出すことも出來なかつたらしい。)書庫そのものゝ構造のゾンザイなのも宜敷くない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大學が古書を高閣に束(つか)ねるばかりで古書の覆刻を盛んにしなかつたのも宜敷くない。徒らに材料を他に示すことを惜んで竟にその材料を烏有(ういう)に歸せしめた學者の罪は鼓(こ)を鳴らして攻むべきである。大野洒竹の一生の苦心に成つた洒竹文庫の燒け失うせた丈だけでも殘念で堪らぬ。「八九間雨柳(はつくけんやなぎ)」といふ士朗の編んだ俳書などは勝峯晋風(かつみねしんぷう)氏の文庫と天下に二册しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一册になつてしまつた譯だ。

 

芥川龍之介「震災の文藝に與ふる影響」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(6)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 震災の文藝に與ふる影響

 

 大地震の災害は戰爭や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に與へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生觀を一變することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。

 災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動搖を與へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を經驗した。在來、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない。勿論もちろんその感情の波を起伏させる段取りには大地震や火事を使ふのである。事實はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。

 また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために我我は在來のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か樂みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更にそれを强めるであらう。つまり、亂世に出合つた支那の詩人などの隱棲の風流を樂しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事實として豫言は出來ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。

 前の傾向は多數へ訴へる小說をうむことになりさうだし、後の傾向は少數に訴へる小說をうむことになる筈である。卽ち兩者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと斷言しがたい。

 

芥川龍之介「廢都東京」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(5)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 廢 都 東 京

 

 加藤武雄樣。東京を弔ふの文を作れと云ふ仰せは正に拜承しました。又おひきうけしたことも事實であります。しかしいざ書かうとなると、匇忙の際でもあり、どうも氣乘りがしませんから、この手紙で御免を蒙りたいと思ひます。

 應仁の亂か何かに遇つた人の歌に、「汝(な)も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる淚は」と云ふのがあります。丸の内の燒け跡を步いた時にはざつとああ云ふ氣がしました。水木京太氏などは銀座を通ると、ぽろぽろ淚が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな氣もちなしにと云ふ斷り書があるのですが)けれども僕は「落つる淚は」と云ふ氣がしたきり、實際は淚を落さずにすみました。その外不謹愼の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事實であります。

 「落つる淚は」と云ふ氣のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した爲であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に餘り愛惜を持たずにゐました。と云つても僕を江戶趣味の徒と速斷してはいけません、僕は知りもせぬ江戶の昔に依依戀戀とする爲には餘りに散文的に出來てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の步いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖ふえない、もつと一體に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麥稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失うせたのですから、同じ東京とは云ふものの、何處か折り合へない感じを與へられてゐました。それが今焦土に變つたのです。僕はこの急劇な變化の前に俗惡な東京を思ひ出しました。が、俗惡な東京を惜しむ氣もちは、――いや、丸の内の燒け跡を步いた時には惜しむ氣もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその邊はぼんやりしてゐます。僕はもう俗惡な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな氣がしますから。つまり一番確かなのは「落つる淚は」と云ふ氣のしたことです。僕の東京を弔ふ氣もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる淚は」、――これだけではいけないでせうか?

 何だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか惡しからず御赦し下さい。僕はこの手紙を書いて了ふと、僕の家に充滿した燒け出されの親戚故舊と玄米の夕飯を食ふのです。それから提燈に蠟燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです。以上。

 

芥川龍之介「東京人」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(4)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 東 京 人

 

 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未だ嘗て愛鄕心なるものに同情を感じた覺えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。

 元來愛鄕心なるものは、縣人會の世話にもならず、舊藩主の厄介にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩れない。兎角東京東京と難有さうに騷ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舍者ものに限つたことである。――さう僕は確信してゐた。

 すると大地震のあつた翌日、大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」。「芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 四通」で既出既注。]の野口君に遇つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は氣樂さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端の空さへ濁らせてゐる。野口君もけふは元祿袖の紗の羽織などは着用してゐない。何だか火事頭巾の如きものに雲龍の刺つ子[やぶちゃん注:「さしつこ」。刺し子に同じ。厚手の綿布を重ね合わせて、一面に細かく刺し縫いをしたもの。消防服・柔道・剣道の稽古着などに用いる。]と云ふ出立ちである。僕はその時話の次手にもう續續罹災民は東京を去つてゐると云ふ話をした。

 「そりやあなた、お國者はみんな歸つてしまふでせう。――」

 野口君は言下にかう云つた。

 「その代りに江戶つ兒だけは殘りますよ。」

 僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心强さを感じた。それは君の服裝の爲か、空を濁らせた煙の爲か、或は又僕自身も大地震に悸えてゐた爲か、その邊の消息ははつきりしない。しかし兎に角その瞬間、僕も何か愛鄕心に似た、勇ましい氣のしたのは事實である。やはり僕の心の底には幾分か僕の輕蔑してゐた江戶つ兒の感情が殘つてゐるらしい。

 

芥川龍之介「大震に際せる感想」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(3)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 大震に際せる感想

 

 地震のことを書けと云ふ雜誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に應じ難ければ、思ひつきたること二三を記しるしてやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿なかれ。[やぶちゃん注:「まうらう(もうろう)」。とりとめのないこと・いいかげんなこと。]

 この大震を天譴と思へとは澁澤子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙むる所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は[やぶちゃん注:漠然とした不特定多数の一人称。]妻子を殺し、彼は家すら燒かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、――當世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。

 自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と潑皮を分たず。自然の眼には人間も蚤のみも選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は眞實なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり[やぶちゃん注:「くらはしめたり」。]。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獸の如く人肉を食ひしやも知るべからず。[やぶちゃん注:「潑皮」(はつぴ)は「無頼の者・ならず者・愚連隊・不良」の意。「トウルゲネフの散文詩」「自然」であろう。私の古い電子化である「ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯」を参照されたい。私のブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」で中山氏のものも含めて、他の訳者のもの三種でも読める。

 日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の慘は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獸心なりと云ふは、――惹いては[やぶちゃん注:「ひいては」。]一切人間を禽獸と選ぶことなしと云ふは、畢竟意氣地なきセンテイメンタリズムのみ。

 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事實を輕蔑すべからず。人間たる尊嚴を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尙餘力あらば、風景を愛し、藝術を愛し、萬般の學問を愛すべし。

 誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは兩脚の疵、殆ど兩脚を中斷せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の聲を擧ぐる能はず。唯姉弟の家を燒かれ、數人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絕望すべからず。絕望は死と暗黑とへの門なり。

 同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中學生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す[やぶちゃん注:「なす」。]所以は、澁澤子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが爲なり。されどかならずしもその爲のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以來の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。

 

芥川龍之介「大震日錄」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(2)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 大 震 日 錄

 

 八月二十五日。

 一游亭と鎌倉より歸る。久米、田中、菅、成瀨、武川など停車場へ見送りに來る。一時ごろ新橋着。直ちに一游亭とタクシイを驅り、聖路加病院に入院中の遠藤古原草を見舞ふ。古原草は病殆ど癒え、油畫具など弄び居たり。風間直得[やぶちゃん注:「かざまなほえ」明治301897)年生まれで没年不詳。東京出身の俳人。本名は山本直得。河東碧梧桐門下で「ルビ俳句」の提唱者として知られる。]と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服裝等、淸楚甚だ愛すべきものあり。一時間の後のち、再びタクシイを驅りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端へ歸る。

 八月二十九日

 暑氣甚だし。再び鐮倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮より惡寒。檢溫器を用ふれば八度六分の熱あり。下島先生の來診を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母、妻、兒等、皆多少風邪の氣味あり。

 八月三十一日。

 病聊か快きを覺ゆ。床上「澀江抽齋」を讀む。嘗て小說「芋粥」を艸さうせし時、「殆ど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽齋」を讀めば、鷗外先生も亦また「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能はず。

 九月一日。

 午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、將に茶を飮まんとすれば、忽ち大震の來るあり。母と共に屋外に出づ。妻は二階に眠れる多加志を救ひに去り、伯母は又梯子段のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既にして妻と伯母と多加志を抱いて屋外に出づれば、更に又父と比呂志とのあらざるを知る。婢しづを、再び屋内に入り、倉皇[やぶちゃん注:「さうくわう」。慌ただしく。]比呂志を抱いて出づ。父亦庭を囘つて出づ。この間家大いに動き、步行甚だ自由ならず。屋瓦の亂墜するもの十餘。大震漸く靜まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。土臭殆ど噎ばん[やぶちゃん注:「むせばん」。]と欲す。父と屋をの内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるのみ。

 圓月堂、見舞ひに來きたる。泰然自若じじやくたる如き顏をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力つとめて圓月堂[やぶちゃん注:不詳。後で芥川家の親戚回りなども頼んでいるから龍之介御用達の使い勝手のよい人物らしく、最後には龍之介の代わりに自警団の徹宵警戒の役もかって出ている。]と近隣に住する諸君を見舞ふ。途上、神明町の狹斜を過ぐれば、人家の倒壞せるもの數軒を數ふ。また月見橋のほとりに立ち、遙かに東京の天を望めば、天、泥土の色を帶び、焔煙の四方に飛騰する見る。歸宅後、電燈の點じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蠟燭米穀蔬菜罐詰の類を買ひ集めしむ。

 夜また圓月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鑛爐を見るが如し。田端、日暮里、渡邊町等の人人、路上に椅子を据ゑ疊を敷き、屋外に眠らとするもの少からず。歸宅後、大震の再び至らざるべきを說き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戶を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり。

 この日、下島先生の夫人、單身大震中の藥局に入り、藥劑の棚の倒れんとするを支ふ。爲めに出火の患ひなきを得たり。膽勇、僕などの及ぶところにあらず。夫人は渋江抽斎の夫人いほ女の生れ變りか何かなるべし。[やぶちゃん注:「いほ女」は「澀江抽齋」の最後の四人目の妻五百(いほ)。抽斎が襲われそうになった折り、湯に浸かっていた五百は腰巻一つ身に著つけただけの裸体で、口に懐剣を銜えて夫の前に立ち、三人の狼藉者を追い払った賢婦烈女であった。「青空文庫」の「渋江抽斎」の「その六十」と「その六十一」を読まれたい。]

 九月二日。

 東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る。圓月堂に請ひ、牛込、芝等の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又橫濱竝びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず。薄暮圓月堂の歸り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土と化せりと云ふ。姉の家、弟の家、共に全燒し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。

 この日、避難民の田端を經へて飛鳥山に向ふもの、陸續として絕えず。田端も亦延燒せんことを惧れ、妻は兒等の衣をバスケツトに收め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素より窮まりなしとは云へ、存外又あきらめることも容易なるが如し。夜に入りて發熱三十九度。時に○○○○○○○○あり[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は、『不逞』『鮮人暴動の噂か』とする。]。僕は頭重うして立つ能はず。圓月堂、僕の代りに徹宵警戒の任に當る。脇差を橫たへ、木刀を提さげ[やぶちゃん注:「ひつさげ」。]たる狀、彼自身宛然たる○○○○なり[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は、『不逞鮮人か』とする。]。

芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――

 

[やぶちゃん注:現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」は大正一二(一九二三)年に突入しているが、書簡自体の興味深いものや面白いものが私の感覚では有意に少ない感じがしている。しかし、この年は関東大震災が襲った年である。しかし、そのカタストロフを伝えるに足る書簡は一つの短いもの(採用しない)を除いて皆無と言ってもよい(無論、芥川龍之介自身が被災者であったのだから、それは無理もないことではある)。しかし、芥川龍之介は、当時の惨状を綴った「大震雜記」と「大震日錄」等を翌月に発表しており、これらをそこに宛がうと、書簡の貧しさが補えると考えた。そこで、それをここに挟むこととする。

 底本は岩波旧全集に拠った。但し、「青空文庫」のこちらにある新字正仮名の「大正十二年九月一日の大震に際して」(これは私も所持している「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集」第四巻(昭和四六(一九七一)年筑摩書房刊)にあるもので、上記の「大震雜記」(大正十二年十月一日発行『中央公論』初出)と「大震日錄」(同クレジットの『女性』初出)と、以下、「大震災に際せる感想」(同クレジットの『改造』初出)、「東京人」(初出未詳。後の随筆集「百艸」(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)にここに記した前後の作品とともに収録)、「魔都」(大正十二年十月六日発行『文章俱樂部』初出)、「震災の文藝に與ふる影響」(初出未詳。同前で「百艸」に収録)、「古書の燒失を惜しむ」という、別々に発表された、震災関連の芥川龍之介のドキュメント・随想を、どういう訳か、一纏めにしてしまって(「百艸」にセットで載るから判らぬでもないが)、連続した一作品のように掲げてあるもので、私はちょっと奇異な感じを持つものではある)を加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。但し、私は本来の発表のように三作品を別々に正字正仮名で電子化する

 「芥川龍之介書簡抄」のインターミッション的な仕儀であるので、原則、必要最小限の注に留めた。]

 

  大 震 雜 記

 

       

 

 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行ゆき、平野屋別莊の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重やへの山吹も花をつけてゐる。

    山吹を指さすや日向ひなたの撞木杖 一游亭

    (註に曰、一游亭は撞木杖をついてゐる。)

 その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。

    葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ   一游亭

 藤、山吹、菖蒲と數へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も眞に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寬が弱氣になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。

 僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。

 「あの時は義理にも反對したかつたけれど、實際君の豫言は中つたね。」

 久米も今は僕の豫言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白狀しても好い。――實は僕も僕の豫言を餘り信用しなかつたのだよ。

 

       

 

 「濱町河岸の舟の中に居ります。櫻川三孝。」

 これは吉原の燒け跡にあつた無數の貼紙の一つである。「舟の中に居ります」と云ふのは眞面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と賴んだ幇間の姿を髣髴した。江戶作者の寫した吉原は永久に還つては來ないであらう。が、兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脫の氣を示した幇間のゐたことは確かである。

 

       

 

 大地震のやつと靜まつた後、屋外に避難した人人は急に人懷しさを感じ出したらしい。向う三軒兩隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡邊町、田端、神明町、――殆ど至る處に見受けられたものである。殊に田端のポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戰いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも樂しさうに打ち解とけてゐた。

 これは夙にクライストが「地震」の中に描ゑがいた現象である。いや、クライストはその上に地震後の興奮が靜まるが早いか、もう一度平生の恩怨が徐ろに目ざめて來る恐しささへ描いた。するとポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人もいつ何時(なんどき)隣の肺病患者を驅逐しようと試みたり、或は又向うの奧さんの私行を吹聽して步かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。

 

       

 

 僕も今度は御多分に洩もれず、燒死した死骸を澤山見た。その澤山の死骸のうち最も記憶に殘つてゐるのは、淺草仲店の收容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎に燒かれた顏は目鼻もわからぬほどまつ黑だつた。が、湯帷子[やぶちゃん注:本来は湯に入る際に着た「ゆかたびら」であるが、ここは、そこから轉じた「ゆかた」と訓じていよう。焼死遺体の着ているものだから「浴衣」の字を使うのを憚ったのであろう。]を着た體や瘦せ細つた手足などには少しも燒け爛れた痕はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ爲ばかりではない。燒死した死骸は誰も云ふやうに大抵手足を縮ちぢめてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣か、燒け殘つたメリンスの布團の上にちやんと足を伸してゐた。手も亦覺悟を極めたやうに湯帷子の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶えた死骸ではない。靜かに宿命を迎へた死骸である。もし顏さへ焦げずにゐたら、きつと蒼ざめた脣には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。

 僕はこの死骸をもの哀れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の燒けたのでせう」と云つた。成程さう云はれて見れば、案外そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の爲に小說じみた僕の氣もちの破壞されたことを憎むばかりである。

 

       

 

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寬はこの資格に乏しい。

 戒嚴令の布かれた後、僕は卷煙草を啣へたまま、菊池と雜談を交換してゐた。尤も雜談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人の暴動か』と推定している。]。すると菊池は眉を擧げながら、「譃だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人か』と推定している。当然、次の伏字もそれ。]。菊池は今度は眉を擧げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自說(?)を撤囘した。

 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし萬一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顏つきを裝はねばならぬものである。けれども野蠻なる菊池寬は信じもしなければ信じる眞似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警團の一員たる僕は菊池の爲に惜しまざるを得ない。

 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。

 

       

 

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。此處を通るのは二度目である。この前來た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覺えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには藥硏なりに石垣の崩れた處がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は靑芝の上に不相變松をうねらせてゐる。其處にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は醉興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描ゑがいた水浴の油畫か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。

 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり步みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の聲が起つた。歌は「懷しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に聲を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

 藝術は生活の過剩ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剩である。僕等は人間たる尊嚴の爲に生活の過剩を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剩を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剩をあらしめるとは生活を豐富にすることである。

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。けれども僕の目に觸れたのは猛火も亦燒き難い何ものかだつた。

芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 四通

芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 通

大正一二(一九二三)年一月六日・消印七日・田端発信・神田區お茶の水順天堂病院五十五號室 小穴隆一樣・六日 市外田端四三五 芥川龍之介 渡邊庫輔

 

その後經過よろしきよし重疊に存候僕齒はいたし風をひきて熱はあり、又又心よわり居り今夜庫輔伽をしてくれ候ままやや氣がろ[やぶちゃん注:ママ。]になり候

   山々を枕にしきぬみの蒲團

あとは庫輔こと双車樓先生にゆづり候

               我   鬼

[やぶちゃん注:以下、渡邊庫輔氏の書信部分は底本ではポイント落ちだが、同ポイントで示した。渡邊氏の文章はパブリック・ドメインである。]

あれから停車場へ行き人力車で田端へかへり申候車上太だ寒く手足もしびれ申候我鬼先生と句を鬪はすれど勝たず四戰四敗大童に相成候拙句一二お目にかけ申侯

 ○ありあけの布團はまろき旅ね哉

 ○月の宵水ふき上げよ花あやめ

 ○身ごころも切なき旅の芒かな

近日中に又出かけ可申候おからだ御大切になさるべく祈願仕候

               庫   輔

ゆうべ大彥まゐり君の事を話したところ大彥の出入の紺屋やはり足を切り候へども今は行步自在にて電車の飛乘りや二階を走り下りる早さ、とても大彥は及ばぬよしに候さうならねば駄目故せいぜい足の御敎育をなさる可く候又春服は僕の怠惰と本屋の春休みの爲まだ裝幀の仕事にかゝらぬのに候そんな事御心配なく御養生專一になさる可く候 頓首

    春王正月陸日     芥川龍之介

   小穴隆一樣侍史

[やぶちゃん注:この年の元旦、菊池寛が『文藝春秋』を創刊、その巻頭には盟友芥川龍之介が「侏儒の言葉」を寄せ、これ以降、大正一四(一九二五)年十一月発行の同誌まで三十回、ほぼ毎号の巻頭に配され続けた(大正十二年九月号・十月号(記載はないが、関東大震災による欠号か)と大正十四年十月号には不載で(但し、同号には「侏儒の言葉――病牀雜記――」を掲載している。リンク先は私の「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」とは別立ての電子テクスト)、大正十三年五月号は休刊)。なお、私は別にブログ・カテゴリ「芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)」を完遂しており、その記念すべき第一回のそれは「星」で、こちらである。なお、この年で芥川龍之介は満三十一であった。

 小穴隆一は既に述べた通り、この二日前の一月四日に脱疽の再手術を受け、右足首を切断した。この時も前回(前年十二月十八日)同様、芥川龍之介が立ち会っている。以後、小穴は義足を附けることとなった。

「大彥」「だいひこ」と読む。筑摩全集類聚版の別な書簡の脚注によれば、『日本橋の』老舗の『呉服屋』で、主人は『野口切造で若主人である』とし、さらに『その弟真造は芥川と小学校以来の親友』であるとある。「東京国立博物館」公式サイト内の『呉服商「大彦」の小袖コレクション』に、『「大彦(だいひこ)」は、大黒屋・野口彦兵衛(のぐちひこべえ』弘化5・嘉永元(1848)年~大正一四(一九二五)年)が明治八(一八七五)年、東京日本橋橘町に創業した呉服商』とあり、先代の当主であった彼は、『ただ小袖を蒐集したのみにとどま』らず、』『現代のファッション雑誌ともいうべき江戸時代の「小袖模様雛形本(こそでもようひながたぼん)」や蒐集した江戸時代の小袖を元に、その模様の時代様式や染織技法に関する分類を試みていたことが、コレクションに付属する自筆の紙札から』窺え、『野口による小袖模様の研究は、明治期から大正期の呉服業界で取り上げられてきた「加賀染」「御殿模様」「御所模様」「御祝儀模様」といったデザイン様式をベースにした、独自のもので』あったと評価し、彼は『学者というよりも』、寧ろ、『呉服商として、江戸時代の小袖研究に独自の考証を試みた』人物であったとする。

「春服」既出既注であるが、再掲すると、芥川龍之介の第六作品集。この大正一二(一九二三)年五月十八日になってやっと春陽堂から刊行された。小穴隆一の装幀である。

「春王正月」筑摩全集類聚版脚注に、『春正月というのに同じ。王の字は王者の天下の意をあらわす』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年一月二十二日・田端発信・松岡讓宛(写し)

 

冠省 手紙ありがたう年賀狀は出したのだよ 君の家の不幸には驚いた 僕もこの春は病院と警視廰と監獄との間を往來して暮した娑婆界にあり經るのは樂ぢやないネいつか遊びに來ないか 頓首

    正月廿二日      芥川龍之介

   松 岡 讓 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「君の家の不幸」不詳。但し、ウィキの「松岡譲」を見ると、「家族・近親者」の項に不審がある。まず、『長男は酒乱であったためか』、『情報が隠されている』とあり、また、長女の明子は大正八(一九一九)年生まれとしながら、没年が不明である。年齢的に後者の長女に関係があるのかも知れない。

「この春は病院と警視廰と監獄との間を往來して暮した」「病院」は既に述べた前年末からこの年初にかけての小穴の二度の足切断手術の立ち合い人と見舞いを指すが、「警視廰と監獄」というのは、実姉が再婚していた相手の弁護士で義兄となる西川豊(明治二八(一八九五)年生まれ:芥川龍之介より三つ年下)が偽証教唆罪で逮捕され、市ケ谷刑務所に収監されていた事件の対応・面会のためである。芥川龍之介「冬と手紙と」(昭和二(一九二七)年七月發行の『中央公論』に掲載。リンク先は私の電子化)の「一 冬」に刑務所での面会の様子が描かれている。因みに、この西川豊は龍之介が自死した昭和二(一九二七)年の年初の一月四日に西川の家が焼けたが、直前に多額の火災保険がかけられていたことから、西川自身に放火の嫌疑がかかって、取り調べられたが、その二日後の二月六日に西川豊は千葉県山部郡土気(とけ)トンネル付近で鉄道自殺を遂げている。遺書には自らの潔白を示すための自殺と記されてあったが、死後に高利の借金があることも判明し、芥川龍之介は当該事件疑惑・火災保険・生命保険などの事後処理に東奔西走せねばならなくなり、甚だしく精神をすり減らすこととなった。龍之介の自死の一因に数えてよい出来事である。

 なお、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この二月二十一日の条には、『渡辺庫輔、秀しげ子が来訪し、皆で午後』十『時頃まで談笑する』とある。秀しげ子はあくまで芥川龍之介から離れなかったのであることが、この記載で窺われよう。]

 

 

大正一二(一九二三)年三月五日・田端発信・杉浦翠子宛

 

ツイデ持チ話シ置キタレバ玉稿ハ波多野秋子ニ送リタブベシ

キミモ亦婦人公論ノ女記者波多野秋子ヲ知リタマフラン

アガ歌ヲヨシト見ルキミハ口ヒビクカミラモハシト食(ヲ)ハセザラメヤ

               澄江堂主人

 杉浦翠子樣粧次

二伸

 コノ次ニミ文タブペクハ三錢ノ切手ヲ中ニ入レタマヒソネ

               我   鬼

 杉 浦 樣

 

[やぶちゃん注:「杉浦翠子」(すいこ 明治一八(一八八五)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より七つ年上)は歌人。埼玉県川越生まれ。旧姓は岩崎翠。日本のグラフィックデザインの礎を築いた多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水の妻。参考にした当該ウィキによれば、結婚後、『翠子は北原白秋に入門、大正五(一九一六)年には』、『アララギ』に『入会、さらに斎藤茂吉に師事する。新進デザイナーと新鋭歌人という経済的に恵まれた夫婦は「モボ・モガ」としてマスコミで持て囃され時代の寵児となった。翠子は情熱的な作品を発表し続けた』が、『激情的な翠子はアララギの編集兼発行人・島木赤彦らに疎まれ、翠子は』、大正一二(一九二三)年に、『アララギを退会、社会性・批判精神を欠如したアララギの短歌を批判した』(まさにこの書簡の年であり、内容もそうした匂いが漂っているように思われる)。後の昭和八(一九三三)年には、歌誌『短歌至上主義』を『創刊(装幀は非水)、主宰者として主知的短歌を唱える歌風に転じた』とある。

「波多野秋子」(明治二七(一八九四)年~大正一二(一九二三)年六月九日)は中央公論社の『婦人公論』の記者で、有島武郎(妻安子は肺結核のために大正五(一九一六)年に没していた)の愛人(秋子は人妻)で、この四か月後に決行された心中の相手であった。軽井沢の別荘で縊死を遂げたが、七月七日に別荘の管理人によって発見されたが、梅雨の時期、一ヶ月の経過から、遺体は激しく腐乱が進んでおり、遺書の存在によって本人らであることが確認されたとされる。発見の翌日、その事実を知った芥川龍之介は「大いに憂鬱」となったと、宮坂年譜にある。

「口ヒビクカミラ」筑摩全集類聚版脚注に、『口が刺激されてひりひり痛む』ところの、『韮(ニラ)』とある。

「ハシト食(ヲ)ハセザラメヤ」筑摩全集類聚版脚注に、『おいしいといつて食べはしないだろうか。(反語)』とある。]

 

大正一二(一九二三)年四月十四日・湯河原発信・南部修太郞宛(絵葉書)

とつ國に「四月の莫迦」と云ふならひありてふことを君は知らずや

かぎろひの春の四月のついたちにわが書きし文まことと思ひそ

谷川に佐佐木も落ちず我も亦佐佐木を負ひてかへりしことなし

 十四日           龍 之 介

 

[やぶちゃん注:この書簡は、先立つこの四月一日、エイプリル・フールとして、「佐佐木茂索が怪我をした」という嘘の手紙を南部に書き送って、南部がそれを真に受けて、見舞いの手紙を送ってきたことから、エイプリル・フールの嘘であることを短歌形式で認めた書簡。龍之介の過ぎた茶目っ気が窺われる。

 なお、宮坂年譜では、この翌五月十一日の条にも、『秀しげ子が来訪する。夜、下島勲も加わり、皆で談笑する』とある。

 また、六月八日、夜になって、次男多加志(丁度、生後五ヶ月後)が消化不良を起こし、下島が往診、翌九日になっても病状が良くならず、下島はこの日、三度も往診した。十日の午前、多加志を宇津野病院に入院させ、日曜で龍之介の定めた面会日であったため、室生・成瀬・渡邊の他、四、五人の面会者と応対し、午後九時頃に、多加志の見舞いに行っている。「澄江堂日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注」によれば、その翌十一日の条に、

   *

 早朝、多加志の容體稍よろしとの電話あり。薄暮、病院に至る。又一游亭を訪ふ。座に古原草君あり、話熟、深更に及ぶ。再び病院に至れば門既に閉ぢたり。唯多加志の病室の燈火を見しのみ。

   *

とある。多加志はこの六月中旬に退院出来た。芥川龍之介は、この多加志の病気騒ぎの顚末を「子供の病氣――一游亭に――」として一気に書き上げ、七月三日に脱稿、大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に載せた。同作は私の詳細注附きのサイト・テクストを読まれたい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蚘蟲圖

 

Kaityu

 

[やぶちゃん注:底本では標題他、キャプションと画像を挿入しているため、それらが標題を含め、活字化されていない。以上にそれを底本からトリミング補正と清拭を行って掲げた(この画像は以上の通り、立項標題の代わりをなしており、示さないことには、本文を再現出来ないのである)。それを視認して、以下に電子化する。なお、発表者は前に同じく好問堂山崎美成である。「蚘蟲」は江戸時代から現在までは、概ね、回虫=線形動物門双腺綱 旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目カイチュウ上科カイチュウ科カイチュウ亜科カイチュウ属 Ascaris ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類を指した(私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」を参照されたい)。既に平安時代に「蚘蟲」で「あくた」と読み、「人の腹の中に寄生する長い虫・腹の虫」の意があった。源順の「和妙類聚抄」の巻之三「形體部第八」の「病類第四十」に、

   *

蚘(カヒ)虫(アクタ[やぶちゃん注:二字に対して左にルビする。])【「寸白」[やぶちゃん注:「すはく」でヒト寄生虫の古い異名。]の名。】 「唐韻」に云はく、『蚘【音「回」。「蛕」「蛔」、并びに同じ。】人の腹中の長虫なり。』と。「病源論」に云はく、『蚘虫【今、案ずるに一名「寸白」。俗に云ふ「加以(かひ)」、又、云ふ、「阿久太(あくた)」。】白酒[やぶちゃん注:濁り酒。]を飲み、生栗等を食ひて、成る所なり。

   *

と、既に記されているから、平安時代に知られていた。江戸時代には想像を絶するほどに多量の寄生虫が寄生していた人が多くあり、「逆蟲(さかむし)」と言って、胃の中に多数のそれが寄生した結果、虫体を口から吐き出す人もいたほどであった。]

 

 蚘蟲圖 奥州南部領

       蒲野沢村

           兵八

          申三十九歲

此頸の長五寸位。

八寸位。

是より、一尺

五、六寸有之。

末程、細ク、蛇

の如し。

色、黒く、腹、うす

色。牛の膽を用

ひ候処、右之通

可有之哉

 

[やぶちゃん注:キャプション。右から左へ。]

此所、口ニ

   有之哉。

 

足ノ廽り大指位

長サ三寸程

 

皮厚キこと、鮏の塩引の

皮よりあつく、とゞめ、

やうやく、さす。

 

[やぶちゃん注:以下、本文。]

右兵八、文政六未年二月比より相煩、同七申年五月十七日、晚より、悉痛甚敷、六月二十日朝、右之通之異物、相出候。尤五月六日、狂氣のごとく相成候。後、水、七、八升吞候由。[やぶちゃん注:「悉痛甚敷」は「悉(ふつく)に痛み甚敷(はなはだしく)」と読んでおく。「悉に」は「すっかり・すべて・ことごとく」の古語。]

別 紙

一 當夏、蒲野澤村書面之者、長々相煩居候而[やぶちゃん注:「にて」。]、別紙の通り、之者、相出に、今、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]不宜。此比[やぶちゃん注:「このごろ」。]、脇野澤元良[やぶちゃん注:医師の名。]抔、之療治を請申度[やぶちゃん注:「たき」。]由に而、此元へ罷出候に付承り候處、右樣之物、いまだ、左之臍より下に有之由。元は左右に在し處、右は下り候趣。其病へ、鍼を、四、五本、相立候へば、病人、くるしみ、鍼拔候得者[やぶちゃん注:「鍼(はり)、拔きさうらえば」。]、病ひ、脊中之方へ隱れ候由に御座候。先生方へ爲相見[やぶちゃん注:「さうけんのため」。]御承り可披成候。又、一つ、珍敷事は、三上左五兵衞殿、覺居候。「てうまん病」に御座候。當三月朔日より、初は風邪に而引籠、夫より次第に、腹、大きく相成込り居候處、當八月十一日比より、臍、出、へその樣にはり出居、同月二十日七時、ほそ[やぶちゃん注:「臍」。]、相破れ、濁酒色の水へ、くらげやうのもの加り、あるひは玉子の「ふはふは」の樣のものも加り、其日、一升ほど、翌日、三、四升、翌、日二升ほど、追々、出候處、既に八升餘、九升ばかり相出、右ほその破れ候處、聢と直り不申居候。是又、爲御知[やぶちゃん注:「おしらせなし」。]申候得は、先生方へ被相咄[やぶちゃん注:「あひはなされ」]、御承り可然候。

  右奇病二條、乙酉正月二十八目友人堀尙平に得たり。 美 成 識

 

[やぶちゃん注:前の奇体な外部寄生虫はさっぱり分からない。寄生バエの日和見感染にしては、虫体が大き過ぎる。当初は、臍の下方の左右にあったが、右は落ちたという。何らかの皮膚疾患や悪性新生物(癌)にしては、病態推移がそれらしくなく、形状が明らかに動物的であり、出現部位から見ても、ヒトの消化管内から出現した寄生虫ではない(臍が近いのは気になる。何らかの生物が日和見感染で臍から侵入することはないとはいえない)。虫体の下方に下がっている脚状のものが最も奇体で、これがなければ、全体は、環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Hirudidae Haemadipsa 属ヤマビル亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica が私には直ちに想起された。私は山岳部の顧問をしていたが、山中で驚くべき長大なヤマビルを何度も目撃した。私は幸いにして襲われたことはないが、生徒の中には知らないうちに吸着・吸血された者もいた(登山靴の靴下の中で。以下の引用を参照)。当該ウィキによれば、『体長は二・五~三・五センチメートルで、伸び縮みが激しく、倍くらいまで伸びる』とあるが、私は十センチメートル以上に延伸した個体を見た。『神奈川県の報告書によると、弾力に富み、且つ丈夫で、引っ張ってもちぎれず、踏んでもつぶれないと表現されるほどである』。『体は中央後方で幅広く、前後に細まるが、おおよそ円柱形で多少とも腹背に扁平。おおよそ茶褐色で栗色の縦線模様がある。背面の表面には小さなこぶ状の突起が多い。体は細かい体環に分かれているが、実際の体節はその数個分である。第二節から五節までと八節目の背面に丸く突き出た眼が一対ずつある。後方側面に耳状の突起がある。吸盤は前端と後端にあり、後端のそれがずっと大きい。口の中の顎には細かな歯がある。肛門は後方の吸盤の背面にある』。『人間であれば、その衣服の中に入り込んで吸血することもある。靴下など、目が粗ければ』、『頭をその隙間から突っ込んで吸血する例もある。キャラバンシューズにとりついたものが靴下に潜り込むまで』三十『秒という測定もある』。『雨の時には活動はさらに活発になり、樹上に登って枝葉の先からぶら下がり、動物のより高いところにもくっついてくる。ビニールのカッパは張り付きやすいため、足下から首まではい上がるのに』一『分程度と』言うとある。しかし乍ら、「一尺五、六寸」(四十八センチメートル半)というのは、あまりにも長過ぎ、本種ではない。恐るべき長大さ(通常で一メートル、延伸して数メートルになる種もいる)では、扁形動物門有棒状体綱三岐腸目結合三岐腸亜目チジョウセイウズムシ上科リクウズムシ科コウガイビル亜科 Bipaliinae のコウガイビル(真正のヒル類ではない)がいるが、彼らがこうして人体に食いつくことはない(誤飲などで、一定期間、人体内で生存して偽寄生虫として振る舞うケースは稀であるが、ある。当該ウィキを見られたいが、しかし、それはこのような箇所にこのように出現することは絶対にあり得ないと私は保証出来る)。とすると、他に何が考えられるか? 長さを問題にしなければ、発生部位・複数いたことから、現実的には、時に激しい痛みを伴う、おぞましい皮膚跛行症(皮下を虫体がうねうねと這うのが見えるのである)で知られる線形動物門双腺綱旋尾線虫目ガッコウチュウ(顎口虫)科ガッコウチュウ(顎口虫)属ニホンガッコウチュウ(日本顎口虫)Gnathostoma nipponicum の感染が疑われる。ただ、同種がヒトに感染して、自身が臍の下部から二匹も頭を出すというのは、どうなんだろう? 私はやはりちょっと考え難いことではないかと思うのである。他に同定候補があるとなれば、是非、御教授あられたい。

 次に、文書の後半に出る「てうまん病」は「脹満病」で、重症の腹水症状である。MSDマニュアル家庭版」の「腹水」を参照されたい。さて、この異常な腹水は前の奇体な虫よりは、遙かに容易に腹水の犯人候補を挙げることが出来る。肝硬変を引き起こし、身動きができないほどの腹水がたまる症状が出て、死に至るケースがあった本邦の風土病であった「片山病」である。扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱有壁吸虫目住血吸虫科住血吸虫属ニホンジュウケツキュウチュウ Schistosoma japonicum がヒトに寄生(通常は経皮感染による)することによって発症する寄生虫病(人獣共通感染症)である日本住血吸虫症(かつての他の流行地であった山梨県甲府盆地に於いては固有病名として「地方病」、佐賀県筑後川流域では「佐賀流行病」などと呼称され、さらに古く江戸以前には「水腫脹満(すいしゅちょうまん)」「腹張(はらっぱ)り」「積聚(しゃくじゅ)の脹満(ちょうまん)」などと記されてある。但し、最初に述べておくが、本感染症は日本国内では一九七六年以来、新感染者はおらず、二〇〇〇年までに撲滅されている)。「生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(13) 五 縁組(Ⅰ) 日本住血吸虫」の私の注を参照されたい。但し、この報告地が当たらない。本邦の日本住血吸虫症の流行地は関東以南だからである。当該ウィキを参照されたい。但し、同感染症ではなく、肝硬変や肝癌の末期には腹水が貯留するから、そちらととって問題はないし、そもそもが、『濁酒色の水へ、くらげやうのもの加り、あるひは玉子の「ふはふは」の樣のものも加り』と書いて、前の奇体な「蚘蟲」に引かれて、腹水病変組織の乖離した繊維や腐敗した組織断片が、そののように(虫のように)見えたと言いたいような(実際にはそう明確に言ってはいない)誤認しやすい表現である。例えば、実際に腹水中にニホンジュウケツキュウチュウの虫体がいて視認出来るとは私には思われない。

「奥州南部領蒲野沢村」現在の青森県下北郡東通村蒲野沢(グーグル・マップ・データ)。]

2021/08/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 隱語(かくしことば)

 

   ○隱語(かくしことば)

唐土に市語[やぶちゃん注:漢籍が出典なので、「しご」と読んでおく。市街の特定の職業に従事する集団内で用いられる特殊な隠語のようである。]あり。「委巷叢談」に見えたり【なほ彼邦に隱語・謎語あれど、予が「猜彙」に載せたれば、こにしるさず】。吾邦の工商、おのおの、その職業によりて隱語あり。屋根屋にて、熱き飯と冷飯とを、まじへしを、「ふる板まぜ」といひ、縫はく屋にて、から汁に、むきみを入れたるを、「雪に千鳥」といへり。これに似て非なるものあり。忌詞といひ、謎語といひ、方言といひ、記號といふ。是なり。今、その、一、二をいはゞ、忌詞は、「延喜式」に、神言の内外の七言を載せたれば、いとふるし。今も雨を「おさくり」【「滑稽雜談」。】、寢るを「いねつむ」【「世事談綺」。】といふは、正月の忌詞なり。謎語は鑷子(ケヌキ)を「南方」といへば、「不毛」の意なり【「毛吹草」】。豆腐に紅葉を付くるは、「かうえうに」との、こゝろなり【「堺鑑」。】。方言は出羽にて、アヰペチヤ、コイチヤ、ゴサモセチヤといひ、大和にて、テイテイゴザレ、ソウハツチヤカタツカ、ケンズイ、ヱソマツリといへる類にて、なほ詳には越谷吾山の「物類稱呼」に、諸國にいへるを載せたり。この因に[やぶちゃん注:「ちなみに」。]いはゞ、都下にて無賴の徒の常言を目してセンホウと云、愚なるを「はね」と云ひ、錢なきを「ひつてん」といへるなど、擧ぐるに遑あらず。これ、一種の方言ともいひつベし。記號は荒ものに、

Kakusi1

(ダイ ヤマ ウロコ ツゲ カタリ ウシヤク ヌケ キウ[やぶちゃん注:画像は底本のものをトリミング清拭した。読みは推定で記号に合わせて切ってみた。以下も同じ。])。茶及び烟草店に、

Kakusi2

(ノ ツレ マル ホウ キチ メ マウス)。これらの記號をもて數目をしるす。此類、藥種屋、紙屋にても異なり。俗に是を「通りふてう」[やぶちゃん注:「通り符牒」。]と云ふ。商家、各、別に記號あるをもて、なり。大路を魚、或は、野菜など荷ひ鬻る[やぶちゃん注:「ひさぐる」。]ものゝ云ふもの、一をソク【ヨロヅともいへり。】、二をブリ、三をキリ、四をダリ、五をガレン【又、「め」ともいへり。】、六をロンジ、七をサイナン、八をバンドウ、九をガケといひ【この中、ヤミを漏せり。】[やぶちゃん注:頭書。]、一緡(ヒヤク)を一万石、二緡五十錢を「奴」ともいへり。商賈は、もと利をもて、問わたる業とするものなれば、さる隱語も、いで來るは、自らの[やぶちゃん注:「おのづからの」。]勢にて、和漢ともに人情の常なりけり。僧徒に隱語あるは、又、ふるし。「東坡志林」に、『僧謂ㇾ酒爲般若湯、魚爲水梭花、雞爲鑽籬菜。』といへり。また、「一休はなし」に、一休和尙の、蛸を、もとめられて、「千手觀音蛸手多」と云ふ頌を作られしも、その比の隱語なるべし。今も酒を「唐茶」といひ、蛸を「天蓋」といひ、妓童を「善男子」、衣服のなきものを「誕生佛」ともいへり。去りし比、山岡明阿の話とて、きけるは、甲斐の身延山の僧徒の隱語に、女の事を「花」といへり。ある時、一寺の門前を女の通りけるを、僧の見て、「よき花の、とほるは。」といへば、一人の僧、「たてぬか。」といふ。答へて、「花甁がない。」といひけるとかや。「花甁」とは「金」の事なりとぞ。かねなくては、心にまかせぬ、といへることなるべし。また、盜賊の隱語とて、ある人のかたれるは、土藏を「娘」といひ、犬を「姑」といへり。たとへば、「某の所によき娘あり。見ずや。」といへば、一人の賊、いへらく、「しかなり。おのれ、さいつ頃、ゆきて、あたり見んとおもふに、しうとめの、いとやかましういひければ、『折わろし』とおもひて、やみぬ。」など、いへるとぞ。これらは作りまうけしものにもやあらんかし。されど、これらの事、あへて、なき事とも、いひがたし。物に見えたるは、「臥雲日件錄」に、『盜賊中有隱語。曰止湯、曰合沐、曰二錢湯。銭湯者不ㇾ論貴賤各領ㇾ所ㇾ盜。曰合沐者、諸賊等分其財。曰止湯者。不ㇾ論多少所ㇾ盜歸賊中首也。』とあるを見れば、その來れることも亦、久しと云ふべし。また、劇場にては、趣向を「世界」といひ、意地わろきを「皮肉」といふ。茶屋にては、物を小がひにするを、「久松」といひ、鹽を「行德」といへり。また、遊女の隱語あり。「ぬし」とは客人を始め、敬する人をいふ。「さとゝ」は「やぼ」と同意、「さはり」とは「月の不淨」を云ふ。今は、大かた、「行水」といふ。「げびさう」とは「さもしき事」、「おかん」とは「正月中の節の[やぶちゃん注:「せちの」。]食もの」なり。「まがき」とは、廛(ミセ)と落間[やぶちゃん注:「おちま」。他の部屋よりも床が一段と低くなった部屋。]のあひだに、立格子戶の所をいふと、寫本「洞房語園」に見えたり。「武野俗談後篇」に、契情遊女は、その家々にて、「かくし詞」・「相詞」、又は、「ふてう辭」などありて、昔より、客の聞きしらぬことを、女郞同士は、いひさやぐことにて、外へは何といふこと、しれわからぬやうにすることなり。松葉屋にては、聊も鄙しき[やぶちゃん注:「ひなしき」。]「ふてう辭」をつかはずして、瀨川が作意にて、「源氏六十帖なり」といふ。風流の事なり。今にかはらず、その通りなり。その一、二をだに、しるす。「はゝき木」とは、「間夫」を云ふ「ふてう」なり。『ありとは見えてあはぬ君かな』といふ歌の心なり。「かゞり火」とは、「やりて」といふ事なり。心の火を燒きたり、消したり、ものおもふ、と云ふ心なるべし。「蓬生」とは、「たばこ」の事なり。「夕顏」とは、「うらに來る客」の事、『よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見ゆる花の夕顏』といふこゝろなるべし。「朝顏」とは、「後[やぶちゃん注:「きぬぎぬ」。]の朝」のこと、「雲隱れ」とは、「きれた客」の事、「唐衣」とは「きのしや」[やぶちゃん注:]の事、「葵」とは、「錢」のことなり、とあり。柳里恭の「獨寢」といふ隨筆に、女郞仲間にて、「こよひは、よい客じや、あしき客じや。」などいひて、物がたるに、「唐音にて云ひたきものなり」といひしなり。長崎にては、「内になしや、此ごろは、こちのおもはくは、何してやら、すつきり、おとづれさへ、なく、さりとは、權平、ごんにやく、しんとがりじや、やらひやうあどないはなしにて、すまして置けり」とぞ[やぶちゃん注:どこで切れるのか自信がないし、意味も不明である。]。その次に、皆さまがた、客の前にて用ひ給うて、よき唐音のかたはし、記して、こゝに、おく。嫖子(ヒウツウ)、「けいせい」のことなり。面的不好(メン テ ホ ハウ)、これは「きつう顏ばせのわるい」となり。看々(カンカン)、「あれと見よ」といふこと。弇茶來(ナツサウライ)、「茶をもてこい」と云ふこと。酒兒(ツエンウ)、「酒」の事。老臉皮(ラウレンヒイ)、「つらのかはの厚い」こと。未曾去(ウイツヱンチユイ)、「まだかへらぬ」といふこと、など、しるされし。また、閨中の隱語に、「をしのふすま」・「羽をならぶる鳥」・「鶴のあさり」・「帆引ぶね」・「つながぬ舟」・「月ごもり」・「さやの中山」・「甲斐がね」・「碓氷の山越」・「よろぎの磯ぶり」など、いへることのありとしもきゝたれど、そのよし、辨ふ[やぶちゃん注:「わきまふ」。それぞれ何を指すのかを説明すること。殆どが性行為の体位の呼び名であろう。]べからず。詳なる事は、有職者に就きて問ふべし。此くだりは戲れに同じ類ひを記しつけて、けふのまとゐに、諸君の笑具に充つと云ふ【今俗の隱語に、遣漏あまたあり。かぶ伎ものゝ、「ハネル」・「ヒヤメシ」・「クニヲキル」、人形づかひの「左平次」・「トン兵衞」・「ボツトセイ」、幇間は、「とがり」と云ふ。「カミ」・「セメ」・「シハラ」。鳶のものゝ、「テンボウ」・「オモタカ」・「鼠根ツキ」、大工の「ヒヤカス」など、猶、いくらもあり。閨中の隱語の、わきまへがたきにはあらず。さればとて、人前にて披露すべきをりは、是等はこゝにのせずも、あれかし。】[やぶちゃん注:頭書。これは曲亭馬琴のおせっかいなそれと推定される。]。

  文政八年乙酉春二月八日

             好 問 堂 記

 

[やぶちゃん注:「委巷叢談」明の田汝成撰になる小説集。全一巻。

「猜彙」「せいい」か。書誌情報不詳。

「滑稽雜談」(こつけいざうだん)は。京都円山正阿弥の住職で俳人でもあった四時堂其諺(しじどうきげん)著の俳諧歳時記。正徳三(一七一三)年八月成立。写本二十四巻。四季の時令・行事・名物等を月順に配列して二千二百八十六項目を収録。説明は類書中でも最も詳密で、広く和漢の書を典拠とし、著者の見聞を加えて考証してある。「おさくり」とあるが、「おさがり」の誤り。ここに出ている(国立国会図書館デジタルコレクションのトル大正六(一九一七)年国書刊行会刊の「滑稽雜談  第一」)。

「世事談綺」「本朝世事談綺」。「諸国里人談」(私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている)で知られる俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)の享保一九(一七三四)年刊の説話集。

「毛吹草」江戸初期の俳書。七巻五冊。松江重頼著。寛永一五(一六三八)年序、正保二年(一六四五)刊。俳諧の作法を論じ、句作に用いる言葉や資料を集め、句作の実例として四季に分けた発句二千句、付合百句を収録する、貞門の俳論の代表作。

『豆腐に紅葉を付くるは、「かうえうに」との、こゝろなり』「かうえうに」は「紅葉」(もみぢ)=「こうえふ」を「買ふやう」に掛けたもの。次注の引用を参照。

「堺鑑」衣笠一閑(宗葛)著になる堺についての最初の地誌。貞享元(一六八四)年。久次米晃氏の古板地誌研究会発行「堺鑑」底本の翻刻が、PDF縦書版で「堺地史資料・随想  アーカイブ」からダウン・ロード出来る。その末の「土産」の項に(漢字表記はママ。総ルビだが、一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママ。括弧類や一部の句読点は私が添えた。)。

   *

紅葉豆腐(もみぢどうふ)

何國(いづく)にも豆腐は有共(あれども)、別して當津(たうつ)のを勝(すぐれ)たりと古人(こじん)より云傳(いいつたへ)り。「紅葉」と云(いふ)名を加(くわへ)たることは、堺の櫻鯛(さくらだい)にも劣(おとら)ず味(あぢはひ)なれば、とて、角(かく)云(いへる)とぞ。花に對する紅葉の縁(えん)成(なる)べし。又、或人の云く、『「此豆腐を、人の能(よく)かふやうに。」と祝(いはふ)て、付(つけ)たる名。』共(とも)云(いへ)り。「買様(かうやう)」と「紅葉(こうえふ)」と音便成(なる)故歟。今、豆腐の上に紅葉を印す。詞に就(つい)て形(かたち)を顕(あらはす)成(なる)べし。買用(かふよう)も通(かよひ)てよし。

   *

「東坡志林」宋の蘇軾の著になる随筆で、小説や神異・志怪をも含む。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本の当該部の画像が見られる。最終行である。

「僧謂ㇾ酒爲般若湯、魚爲水梭花、雞爲鑽籬菜。」訓読するなら、

 僧、酒を謂ひて「般若湯」と爲し、魚、「水梭花」と爲し、雞、「鑽籬菜」と爲す。

であろう。

「千手觀音蛸手多」これが一休の作で隠語とするなら、私は極めて性的なニュアンスを感ずる。

「たてぬか。」表は「生け花して立てないか?」であろうが、勃起とコイツスのことも含んでいるように読める。

「花甁がない。」ここでは『「金」の事なり』と言っており、それでいいとは思うが、花を逆に勃起したファルスに転ずれば、花瓶は女性生殖器の喩えともなるであろう。

「臥雲日件錄」室町時代の京の臨済宗相国寺(しょうこくじ)の僧瑞渓周鳳の日記。書名は周鳳が「臥雲山人」と称したことに由る。現存するものは、相国寺の惟高妙安(いこうみょうあん)が永禄五(一五六二)年に抄録したものであるため,「臥雲日件録拔尤」ばつゆう)」とも称する。記事は文安三 (一四四六)年から文明五(一四七三)年に及ぶ。周鳳は南北朝期の先達であった義堂周信を慕っていたため、周信の知られた日記「空華日工集」(くうげにっくしゅう)に倣ってこの日記を記した。

「盜賊中有隱語。曰止湯、曰合沐、曰二錢湯。銭湯者不ㇾ論貴賤各領ㇾ所ㇾ盜。曰合沐者、諸賊等分其財。曰止湯者。不ㇾ論多少所ㇾ盜歸賊中首也。」我流で訓読するなら(読みは隠語の部分は適当に振った)、

盜賊の中に隱語有り。「止湯(とめゆ)」と曰ひ、「合沐(あひもく)」と曰ひ、「錢湯(せんたう)」と曰ふ。「銭湯」とは、貴賤を論ぜず、各々、「盜みせる所を領(らう)ず」[やぶちゃん注:現代仮名遣「ろうず」で、「自分のものにする」の意。]なり。「合沐」と曰ふは、諸賊等(ら)、「其の財を分かつ」なり。「止湯」と曰ふは、多少を論ぜず、盜みせる所の、賊中の首(かしら)の歸へるをいふなり。

か。

「洞房語園」同じ庄司勝富(生没年不詳:江戸中期の町人。江戸吉原の開祖庄司甚右衛門の第六代の後裔で、新吉原江戸町一丁目の妓楼「西田屋」を経営し、同町の名主を務める傍ら、俳諧や詩作に親しんだ)なる人物の書いた同名異本が二つある。一つは俳諧・漢詩文集・随筆。前集三巻・後集一巻。前集は元文三年(一七三八)刊。後集は享保一八年(一七三三)成立で、写本で伝わる。吉原の遊女屋主人である編者の作のほか、俳人・絵師・遊女などの吉原に関する句文を収める。今一つは、随筆。二巻。享保五年(一七二〇)成立。前の書と区別するために「異本洞房語園」と称されることが多い。江戸の遊里吉原の歴史を述べたもの。写本で伝わったため、転写の過程で増補記事を加えた異本が多数あり、代表的なものに、山東京伝の増補本や、江戸座の俳人石原徒流が増補した「北女閭起原」(「洞房語園異本考異」は増補記事のみを集めたもの)、寛閑楼佳孝著「北里見聞録」がある、と「朝日日本歴史人物事典」にあった。どちらであるかは、調べる精神的余裕が今はない。悪しからず。

「武野俗談後篇」主書名は「ぶやぞくだん」と読む。当世の名人奇人等の逸話を集めた江戸中期の講釈師で作家の馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)が、近世前期の名家逸話集である木村毅斎著「武野燭談」に倣い、当世の名人奇人等の逸話を集めた列伝。後篇は「名婦之部」。漢字かな交じり。馬場は本姓は中井。伊予出身で、江戸に出て、名を文右衛門と改め、文耕と号し、初めは易術で生計を立てていたという。諸家に出入りして、座敷講釈をする一方で、第八代将軍徳川吉宗を賛美するエピソードや、時事問題を題材とした実録小説を書き、貸し本屋に売って暮らしを立てていた。性、闊達で、豊かな学識を持っていたが、世に入れられぬ不満から、講釈中にも第九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗すること多く、宝暦八(一七五八)年九月、当時、御家騒動で有名だった美濃郡上八幡城主金森頼錦(かなもりよりかね)の収賄事件を「珍説もりの雫」と題して、話のなかに取り込み、さらに小冊「平かな森の雫」を公刊したため、捕縛され、幕政を批判した科(とが)で打首獄門となった。閲歴には不詳な点が多いが、吉宗に仕えた下級の幕臣であったとも言われる。

「松葉屋」妓楼の名。参照したサイト「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の上記書の書誌に、「名婦之部」に「松葉屋瀬川平沢流卜筮之事」とはある。

「ありとは見えてあはぬ君かな」「新古今和歌集」巻第十一「戀歌一」に坂上是則の一種として載る(九九七番)、

    平定文(たひらのさだふみ)家歌合に

 その原や

   ふせ屋におふる

  帚木(ははきき)の

     ありとはみえて

          あはぬ君かな

同歌合は延喜五(九〇五)年に行われたものか。「ふせ屋」は旅人のための無料宿泊所のこと。「帚木」(ははきぎ)は幻想上の樹木で、信濃の園原(そのはら)にあって、遠くからはあるように見え、近づくと消えてしまうという、箒(ほうき)に似た伝説上の木。転じて、「情があるように見えて実のないこと」、また、「姿は見えるのに会えないこと」などの喩えとされる。この一首は知られた和歌の中では、最初に「帚木」を詠んだものであるらしい。

「よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見ゆる花の夕顏」「源氏物語」の「夕顏」の帖で、夕顔の君がよこした扇に書かれた歌に、光源氏が返歌したもの。

 寄りてこそ

     それかとも見め

     たそかれに

         ほのぼの見つる

               花の夕顔

「柳里恭」(りうりきよう(りゅうりきょう)は文人で画家の柳澤淇園(きえん 宝永元(一七〇四)年~宝暦八(一七五八)年)の漢名通称。大老格で甲府藩主であったかの柳沢吉保の筆頭家老であった曽根保挌(やすただ)の次男として、江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれた。大和郡山藩重臣で儒仏・医学・書画など十六の芸に通じたとされる。特に絵画は精緻で、豊麗な色彩花鳥画のなどにも優れ、南画の先駆者の一人とされる。

「獨寢」(ひとりね)は柳澤淇園が享保九(一七二四)年二十四歳の時に執筆した随筆。同年に柳沢氏は大和国郡山への転封を命ぜられており、その直後から数年の間に記されたと見られている。文章は「徒然草」や井原西鶴・江島其磧の用語を取り入れ、和文に漢文体を混ぜていると評されている。内容は江戸・甲府における見聞で、特に遊女との「遊び」の道について記されていることで知られる。ほか、甲斐の地誌や甲州弁の語彙を記していることでも知られる。原本は現存せず、数十種の写本が知られる。

「唐音」これは恐らくは「からおと」で当時の中国語音写を指すものと思われる。

「面的不好(メン テ ホ ハウ)」推定で読みに半角を空けた。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話

 

   ○武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話

             好 問 堂 記

予が友なる沙門春登、ある時、訪ひ來りて、ものかたらふことの次に、いへるは、「去りし文政六年癸未三月、餘が隣村多摩郡貝取村[やぶちゃん注:現在の東京都多摩市貝取(かいどり)地区。この中央附近。多摩川右岸。]の百姓、雨後に家居のうしろなる山に登りて、薪を採らんとする處に、いかゞはしけん、片あし、土中におち入ること、その深さ、二、三尺ばかりなりければ、いとあやしみて、其所を穿ちくだること、大よそ、五、六尺ほどにして一大穴あり。空洞、縱橫二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]餘もあらんとおぼしく、その傍に小穴あり。亦、六、七尺ばかり、めぐりに、小溝をかまへて、漏水を通はす備とせり。その遺棄する埋樋、みな、石塔婆をもて、つくりまうけ、長、三、四間[やぶちゃん注:約四メートル半から七・二七メートル。]、その數、凡、四、五十基。みな、ほり出でたり。年歷を檢するに、弘安元年[やぶちゃん注:一二七八年。]より文明九年[やぶちゃん注:一四七七年。]に至る。今を距る[やぶちゃん注:「へだてる」。]こと、五百三十有餘年、しかれども、金字の梵箔、猶、存せり。惜らくは缺損の者、半に過ぎ、且、文字、磨滅、多くは、よむべからず。その中、全形のもの二基を摺打して、かへる。實に當時の質朴を見るに足るものなり。思ふに、當時、足利持氏、成氏等の爭、戰、止む時なき比なれば、此邊上州北越の官道にて、民家その亂妨をおそれ、資財雜具などをかくしゝ所ならんといへり。

 春登は、和學を好み、「萬葉用字格」をあらはしたり。

 

[やぶちゃん注:「春登」(しゅんとう 安永二(一七七三)年~天保七(一八三六)年)は時宗の僧で国学者・万葉学者。俗姓は山本、諱は輪丈(倫丈)。甲府勤番支配山口直郷の子として甲府城下に生まれ、七歳の時、甲斐吉田の西念寺にて出家し、十二歳まで同寺で修行したが、この間、本居宣長門人の小佐野和泉に国学を学んでいる。その後、藤沢の総本山遊行寺に移り、諦如上人に師事した。二十二歳の時、西念寺に戻り、住職となったが、三十二歳の時、三年間、江戸に遊学し、村田春海・狩谷棭斎・山崎美成らと交流した。以降、武蔵関戸の延命寺(ここ。本文に出る貝取の北直近である)の住職、京都二条の聞名寺の住職、京都七条の時宗学寮の学寮主、総本山遊行寺の役寮等を歴任した。晩年から示寂までの十年間は、吉田に帰って隠居し、著述に専念した。主な著作として、本草書などをもとに「万葉集」に出る動植物の同定(名物学)を論じた「万葉集名物考」や、万葉仮名の分類を論じた「万葉用字格」などがある(以上は当該ウィキに拠った)。

「摺打」「すりうち」か。落ちたその時であるから、薪用の鉈で叩き割ったことかと思ったが、彼の事蹟を見るに、常時、矢立とメモをとるための紙を持っていた可能性が高いから、拓本として摺り採ったことを意味しているものととる。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賢女

 

   ○賢女

天文方高橋作左衞門、その父作左衞門、もとは浪花の同心なりしが、天學に長ぜしかば、兼ねて登用せられしなり。いまだ浪花に在りし時、庭に大なる柹の樹あり。秋ごとにその實をうりて、若干のこがねを得しとぞ。然るに、その邊の若者ども、夜にまぎれて、ぬすむこと、數しらず。よりて、その守りに、あるじ、いもやすからで、夜もすがら、見めぐりなどす。ある時、番より歸りて見れば、さばかりの大木を根ぎはより、伐りたふしてあり。「こは、いかなることぞ。」と、おどろき、あはてければ、妻のいふやう、「わらはが、きらせぬるなり。」と、「何故に、さはせしぞ。」と咎めければ、「さん候。ぬしは天學にて、必、家をおこさせ給ふべききざし見え侍り。されば、夜ごとに屋根にのぼり、霄漢[やぶちゃん注:天空。]をうかゞひ、深更に至り、そのうへに、この樹の爲に精神をつひやし給ふは、びんなき事なり。此木あらずば、本業專一にて、よかるべし、と、おもひ、侍るによりて、かくは、はからひし。」と、いひけるとぞ。いにしへの何がしらが妻にもおとらぬ女とぞ思はるゝ。これ、今の作左衞門が母なり。さるに、夫のこゝにめされし比は、よみの國にまかりし後なりき。かなしとも、かなしき事ならずや。

  文政八年二月初八    輪    池

 

[やぶちゃん注:「天文方高橋作左衞門」天文学者高橋景保(天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)。作左衛門は通称。当該ウィキによれば、『天文学者である高橋至時』(よしとき 明和元(一七六四)年~享和四(一八〇四)年:当話に出る主(あるじ)当該ウィキによれば、天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。明和元(一七六四)年、大坂定番同心の家に生まれた。通称、作左衛門。安永七(一七七八)年、十五歳の時、父高橋徳次郎元亮の跡を継いで、大坂定番同心となった。天明四(一七八四)年、当話のヒロインである同心永田元左衛門清賢の娘志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保が生まれた。幼い頃より、算学に興味を持っていた至時は、天明六(一七八六)年頃、松岡能一に算学を学び、さらに暦学を学ぶため、天明七(一七八七)年、麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦一三(一七六三)年に起きた日食の予報を外してしまっていた。一方で、この日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いた上で、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、これが高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった。至時はこの剛立のもとで、同じ頃に入門した間重富(はざましげとみ)とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で、剛立や重富と暦学の議論を行うほどであったという。寛政七(一七九五)年、至時は重富とともに、幕府から、改暦を行うための出府を命じられた。至時は同年四月に江戸へ赴任し、四月二十八日に測量御用手伝、十一月十四日には遂に幕府天文方となった。一方で、十月には、妻の志勉が二十九歳の若さで死去している。志勉は下級武士で薄給だった時代の至時を支え、家計をやりくりしながら、至時の観測道具代を捻出しており、その良妻ぶりは後の世にも知られるようになる。至時は、この後、再婚することはなかった、とあり、この話の真実性が証明される。以後の事蹟はウィキを参照されたい)『の長男として大坂に生まれた』。文化元(一八〇四)年、『父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事』し、文化七(一八一〇)年には、『「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに』「大日本沿海輿地全図」を『完成させ』た。また、これより前に『ロシア使節ニコライ・レザノフが来日時に持参した満洲文による国書』の翻訳を幕府より命ぜられており、同年に『「魯西亜国呈書満文訓訳強解」を作成』している。『その後、満洲語の研究を進め、複数の著書を残し』た。文化一一(一八一四)年には『書物奉行兼天文方筆頭に就任した』が、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」(オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となっていたドイツ人フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)が国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが、多数、処刑された)『に関与して』、十月十日に『伝馬町牢屋敷に投獄され、翌年二月に獄死した。享年四十五であった。『獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政十三年三月二十六日、『改めて』遺体が『引き出され』、『罪状申し渡しの上』、『斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている』と、極めて悲惨な最後を遂げており、「かなしとも、かなしき事ならずや」という輪池堂屋代弘賢の台詞は、実は未来の彼にこそ与えられるべき台詞であると言えよう。『墓は上野の源空寺。高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の』「大日本沿海輿地全図」組三人頭の『墓地が並んでいる』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第二集) 神靈

曲亭馬琴「兎園小説」(正編)

   ○神靈       輪  池  堂

いぬる朔日、耽奇會に行かんとせし折から、若狹國の妙玄寺の住持釋義門、訪ひ來ぬ。『折あしくて、遲刻せしは本意なし。』とこゝろせかるゝに、何くれと、かたらふ内に、今日の料になるべきことを聞き得たれば、それにて、思ひ、のどめぬ[やぶちゃん注:落ち着かせた。]。そもそも、淺草報恩寺、もとは下總國飯沼に在り。開基を性信[やぶちゃん注:「しやうしん」。]上人と云ふ。常陸國鹿島郡の產にて、在俗の時は與四郞と云ひ、又、惡四郞といふ。十八歲になりし時、「法然上人に謁して佛敎をきかん」と請ふ。上人、親鸞をして敎化せしめられしかぱ、たちまち、發心して、剃髮染衣の身となり。親鸞左遷の時も、隨身して北國に在り。廿五年が間、かたはらを去らず。歸路に及びて、鸞師の命をうけて、飯沼にゆき、この寺を建立せり。そのとしの冬、老翁來て、聞法隨喜して、「我は是、飯沼の天神なり。師の爲に永く擁護すべし。」とのたまひき。天福元年[やぶちゃん注:一二三三年。]正月十日、天滿宮、禰宜が夢枕にたゝせ給ひ、「師恩の爲に、みたらしの鯉をとりて、報恩寺に贈るべし。」と告げ給ふによりて、鯉二口をとりておくる。性信聖人、これをうけて、鏡もちひ、二を、奉りしより、恆例となれるとは、物にも見え、世人も、しりたる事なり。然るに、飯沼よりこゝにおくること、用途、少からず。禰宜等、評議して、やめむ事をはかり、「二年申しおくりけるは、年ごとに、費用、たやすからず。其寺よりも初穗として、こがねにて備へ給へ。」といふ。寺僧のこたへに、「この費、神託より、おこりぬれば、さらに私の事にあらず。用途給しがたくば、やむるも、心に任せらるべし。」となり。禰宜等、謀りしことなれば、「さらば、やめん。」とて、やめたり。そのとし、祭禮の日に、大木、折れて、あやまちなど有り。池の鯉も絕えにたれば、「是、たゞ事にあらず。神怒のとがめなるべし。」とて、おとゝし【文政七年。】より、又、もとの如く、おくる事になりぬ。神威のいちじるきこと、あふぐにあまりあり。ことし正月十七日に、その鯉を料理せしとて、拙僧もまねかれて、賞味せし時、住持の、「歌、よめ。」と、こはれしかば、よめる、

    千代にこそたてまつらめと飯沼の神は契をたがへざりけり

となん有りける。

 

[やぶちゃん注:「耽奇會」この「兎園会」に先立って、文政七(一八二四)年五月十五日より、山崎美成が中心となって定期的に開催された(文政八年十一月十三日まで二十回を数えた)、珍奇な古書画や古器物を持ち寄って考証を加える会合(文政八年には本会と重なって行われた)。耽奇会の会員は曲亭馬琴・屋代弘賢・谷文晁などで、一部のメンバーは「兎園会」と重なっていた。しかし、出品された「大名慳貪(だいみょうけんどん)」という道具(饂飩箱は、本来は饂飩(うどん)を入れて出したり、それを運ぶのに用いる箱で、これは、その豪華なもの)の「慳貪」という語を巡って、中心メンバーであった美成と馬琴が書簡で激しく論争し、二人は文政八年三月に絶交するに至った。これも「耽奇漫録」として美成の序跋で文政七・八年に纏められたが、上記の経緯から、馬琴の序を持つ別本もある。

「淺草報恩寺」現在の東京都台東区東上野にある真宗大谷派高龍山謝徳院報恩寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「坂東報恩寺」と通称される。

「下總國飯沼」ウィキの「報恩寺」によれば、元は下総国横曾根(現在の茨城県常総市横曽根新田町がここにあるが、新町が気に入らない。以下で最後に跡地のことが出るので、それに従えば、茨城県常総市豊岡町のここである。なお、「飯沼」という名はリンクした地図の東端に流れる川名に残っているから、この一帯の古名であろう)にあった真言宗の荒れ寺であった大楽寺を、性信(後注参照)が念仏道場として再興したのが、浅草報恩寺の濫觴であった。その後、慶長五(一六〇〇)年に兵火によって焼失、寺を江戸に移した。当初は外桜田に移し、後の寛永二〇(一六四三)年に八丁堀へ移したが、明暦三(一六五七)年一月十八日に発生した「明暦の大火」により、浅草本願寺東門内の広沢新田に移転、さらに文化三(一八〇六)年三月四日の「文化の大火」で、浅草本願寺とともに焼失してしまい、文化七(一八一〇)年になって、この現在地に移っている。なお、横曾根の跡地は文化3(一八〇六)年に本堂が再建され、当初は聞光寺と号し、後に坂東報恩寺支坊となって、現在は下総報恩寺と通称されて現存する。さらに、この寺には「坂東本」と称される、元、坂東報恩寺が伝持してきた「顕浄土真実教行証文類」(親鸞著の重要な解釈書「教行信証」の正式な書名)があって、これは現存する唯一の真蹟本で、国宝の指定を受け、真宗大谷派に寄贈され、京都国立博物館に預託されている(「坂東本」という通称は坂東報恩寺が所蔵してきたことに由る)ともあった。

「性信上人」(文治三(一一八七)年~ 建治元(一二七五)年)は俗名を大中臣与四郎と称し、常陸国鹿島郡生まれ。親鸞二十四輩の筆頭の高弟。元久元(一二〇四)年、熊野へ参詣した後、法然に師事して浄土教を学び、後に親鸞の弟子となった。下総国横曾根に報恩寺を建立し、横曾根・飯沼を中心とする横曾根門徒の中心的人物となった。鎌倉時代前期の幕府による念仏弾圧への対応で活躍した人物である。

「天滿宮」現在の下総報恩寺の南東直近にある天満宮であろう。

「みたらし」御手洗。神社の近くに流れていて、参拝者が手を清め、口を漱ぐ川のこと。現在の下総報恩寺や天満宮は東に鬼怒川、西に利根川が流れ、池沼も多い。ここかどうかは判らぬが、天満宮の東直近に池がある。]

2021/08/08

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 百姓幸助身代り如來の事 / 第一集~了

 

[やぶちゃん注:読み易さを考えて、段落を成形した。]

 

   ○百姓幸助身代り如來の事

       信濃國水内郡久保寺村

        淸助事 百姓 幸助 申四十二歲

 この幸助が【幸助は太田氏なり。その淸助といひしは、文化中、江戶の高家につかへし時の名なり。よりて江戶にては淸肋とよべり。】叔父なりけるものゝ世にありし程、

『同村正覺院月輪寺【號紫慶山。善光寺の行願所なり。】へ「大般若經」を寄進せん。』

と思ひおこしつゝ、あちこちと券緣したれども、田舍の事なれば、事ゆかず、纔に、六、七卷を寄進せし程に、その身はまかりたり。[やぶちゃん注:「券緣」こんな熟語は聞いたことがない。原本を見られないのではっきりとは言い難いが、これは「募緣」の誤判読ではないか? 「募緣」は自社に対する財貨の寄付行為を指す(一般には寺社側の必要要請を受けて施行されることが多く、「勧進」「感化」「奉加」の呼称で呼ばれもする)。但し、江戸幕府はどうも寺社側の自主的な募縁は原則的に禁じていたようで、寺社外の個人や集団を含めて、行う場合には寺社奉行の許可を必要とした。その分、本来的には藩や幕府が修復費用などを援助したのである。]

 これにより、幸肋は、叔父の遣志を繼ぎて、彼經を券緣せん爲に、今、茲文政七年の秋、江戶に出でゝ、白壁町金八店[やぶちゃん注:「きんぱちだな」。]紙商人安兵衞といふものゝ家を旅宿にしつゝ、逗留、數日におよびけり。その故鄕を去るときに、善光寺へ參詣して如來を、をがみけり。

『某、云々の宿願あるにより、こたび江戶におもむかんとす。わが母は、齡、既に八十にあまれり。ねがふは、宿願成就してかへり來ん日まで、母のつゝがなからん事を守らせ給へ。』

と念じつゝ、すなはち、阿彌陀の畫像一幅を買ひとりたり。かくして、江戶に至りて、旅宿の棚に件の佛像かけ奉りつゝ、日每にをがみ、朝暮に燈明を揚げなどするに、その身、他にゆきて、かへりの遲き日は、

「必、御あかしをまゐらせ給へ。」

と、旅宿のあるじにたのみしかば、そのこゝろを得て、しかしてけり。

 かゝりし程に、九月晦日になりぬ。幸助はこの日、日本橋なる須原屋許(ガリ)赳きて、買ひとりたりける「大般若經」十卷ばかりを脊おひつゝ、なほ、

「元三大師の遷座を、をがまん。」

とて、東叡山に參る程に、はや申[やぶちゃん注:午後四時前後。]の時ばかりなりければ、參詣の郡集、みち、さりあへず、辛うじて、をがみ果てたるかへさに、雪踏[やぶちゃん注:「せつた」。雪駄に同じ。]の尻をふまれて、うつぶしに倒るゝ折、わがあとなりける武士の彼も、人におしたふされて臥したるうへに、まろばんとする程に、脇ざしの刀、鞘はしりぬけ出でゝ、幸助が肩のあたりへ、ひらめき飛びて、落ちたりけり。

 さりけれども、幸に身を傷けらるゝに至らずして、只、經卷をつゝみたる風呂敷の、左の肩にあたりたる所は切れたり。

『いと危かりき。』

と思ふものから、身に恙なかりしかば、ふかく恐れ、つゝしむまでもなく、又、そのかへさに、あちこちと、しる人がり立ちよりて、日くれて、宿に歸りにけり。

 その黃昏に、宿なるあるじは、彼幸助が阿彌陀の佛像に、御あかしをまゐらするとて、不圖、仰ぎ見つるに、佛像のかけもの、おのづからに、まろびおちて、橫たはりければ、いぶかりながら、いそぎ、あげ見るに、かけ物は、なかば斫られて[やぶちゃん注:「きられて」。]、佛の肩より、血、流れたり。

「こは。いかに。」

と、ばかりに、驚き怪むこと、限なし。

 さてあるべきにあらざれば、隣れる人々にも、つげしらせて、うちかたらふに、

「こは、幸助がうへに凶事ありけんを、御佛の示させ給ふならん。さればとて、迎の人をつかはさんにも、さして、ゆくへは、定かならぬを、いかゞはせん。なほも利益をねがふこそよかめれ。」

とて、ちかきほとりにをる法師を招きて、「阿彌陀經」を、よませなどする程に、幸助、かへり來にければ、人みな、その無異を祝して、

「云々。」

と告げ知らするに、幸助、聞きて、且、おどろき、且、たふとみて、感淚を拭ひあへず。

「けふ、上野にてありつる事、云々なり。」

と說き示せば、

「扨は。この御佛の、身がはりに立ち給ひしなり。」

とて、人々、はじめて、靈驗利益の合期したるを、さとりきとぞ。[やぶちゃん注:次は底本でも改行されてある。]

 いぬる十月十一日、神田平永町なる本屋山崎平八、あはたゞしく、わが隱居に來て、

「文化中、やつがれが手代なりける淸助といふもの、こたみ、信濃より來にたるに、一奇談、侍るなり。その故は云々なり。」

とて、上にしるしゝ趣を物がたりして、

「けふなん、彼御佛を、人々に、をがません。」

とて、淸助を招きよせたり。いざ、ゆきて見給へ。」

といふ。しかれども、おのれは、まことゝも思はざりしかば、まづ、こゝろみに、老婆と下女とを遣して、見せ、次にせがれをつかはしたるに、

「相違あらず。」

と、いへり。よりて、最後にゆきて見たるに、畫像は處々の俗家にある印行の佛像にて、三尊の彌陀なり、左右に觀音・勢至、下には月海長者夫婦の侍るもの、こは善光寺にて、三、四十文に賣り與ふといふ、田舍表具のかけ物なり。

 さてよく見るに、むかひて、右のかた、表具のはづれより、船護毫をかけて、阿彌陀の肩さきまで、よく切るゝ刃ものもて、切りたるごとく、はすに切れて、佛の肩より血のしたゝりし事、一寸弱、橫、三、四分なるべし。

 おのれが見つるときは、はや、十日ばかり經たれば、その血に、くろみあり。いかに見ても、血しほに紛れなし。奇なりといふべし。件のかけ物は、幸助が曩[やぶちゃん注:「さきに」。]に善光寺にて、三十六銅にて受けて、もて來ぬるものなれば、いと新らしく見えたり。幽冥の事は、得て[やぶちゃん注:「特に取り立てて~する」という代動詞的な意か。]論ずべくもあらぬを、かゝる奇特あるをおもふに、これ孝感[やぶちゃん注:孝行の徳が神人を感動させること。]のいたすところ歟。

 この事、彼此[やぶちゃん注:「ひし」。あちらこちら。]に聞えしかば、日每にもてあるきて、をがます程に、一日の賽錢、三、四貫文づゝあり。これによりて、「大般若經」のたやすく成就すべきいきほひなるに、なほ、十卷、二十卷の施主たらんといふもの、あまたあり。十一月に至りては、はや、三百卷あまり、買ひ得たりといふ。かゝれば、程なく全部すべし。彼幸助は、今なほ、江戶にあり。逗留、春をむかふといふ。うたがふものあらば、渠が[やぶちゃん注:「かれが」。]旅宿にゆきて、問ふべし。

  文政七年甲申十一月十五日燈下識 神田老逸 隱譽簑笠居士

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

幸助は甲申の冬より、旅宿を轉じて、神田鍛冶町繪の具あき人大坂屋庄八といふものに寓居す。又、はじめに「大般若經」劵緣の事を發起せし幸助が叔父を淨泉坊といふ。原是[やぶちゃん注:「もと、これ」。]、久保寺村正覺院の沙彌なりしとぞ。正覺院の現住を廣淐[やぶちゃん注:「こうしやう」。]いふなり。

[やぶちゃん注:「久保寺村」長野県の旧上水内(かみみのち)郡内に確かに久保寺町があったが、位置は不明。寺でも確認出来なかった。

「白壁町」現在の千代田区鍛冶町二丁目附近(グーグル・マップ・データ)。

「月海長者夫婦」不詳。

「船護毫」掛物或いは表具の部位の名称らしいが、不詳。]

芥川龍之介書簡抄114 / 大正一一(一九二二)年(五) 九通

 

大正一一(一九二二)年八月七日・田端発信・南部修太郞宛

 

拜啓 原稿用紙で失敬する。君の手紙は難有く讀んだ。君はあの手紙を書いて好い事をした。しかしもつと早く書いてくれるとなほ好かつた。僕のした事の動機は純粹ではない。が、惡戲氣ばかりでした事ではない。純粹でない爲にはあやまる。惡戲氣ばかりでない爲にはいつか君にわかつて貰ふ時が來るだらう。人生と云ふやつは妙なものだ。君と僕とはお互に何の惡感も持つてゐない。その癖かう云ふ事になるのだ。[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集には、ここに『〔五十九字削除〕』とある。]それだけは承知してゐてくれ給へ。交を絕つ絕たないは僕がきめるべき事ではない。君の判斷に一任すべき事だ。しかしお互の爲に計れば喧嘩なぞせぬ方がよいかも知れない。

結婚する事は小島に聞いた。君の爲にこの位喜ぶべき事はない。結婚後も君はあすこにゐるのか?

もし君が絕交すると云はなければ、君らしい物でも祝はうかと思ふ。わが友南部修太郞よ。結婚し、愛し、而して苦め。作家たる君に訣けてゐるのは、唯この甘酸窮りなきリアルライフの體驗ばかりだ。僕は今忙しい。每日原稿に追はれてゐる。おまけに僕の家は暑い。一方ならない苦しさだ。君の返事を待つてゐる

    七日         我   鬼

   南部修太郞樣

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂覺氏の年譜に、この八月上旬、『南部修太郎との関係が、絶交寸前になるほどこじれる』とある。秀しげ子との三角関係に絡んだ相互トラブルであることは、百%、間違いない。次の次の書簡も参照。]

 

 

大正一一(一九二二)年八月二十日・田端発信・岸浪靜山宛

 

金魚の御作ありがたう存じましたつとに御禮申上げるはずのところ多用のためうちすぎましたあしからず御かんべん下さい

このやうに目玉あぶなき支那金魚林黛玉も飼ひてゐにけり

藻がくりに光さし入る水の中金魚の腹のい照るかなしさ

 八月廿日       我   鬼

 靜 山 先 生 侍史

二伸 一度參上御禮申上げようと存じながら失腰して居りますこの頃板橋の本物を見わたしが長崎で貰つて來たのは贋だと申す事を知りました

 

[やぶちゃん注:「岸浪靜山」(明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年)は南画家。本名は正司。群馬県生まれ。

「林黛玉」「中国四大名著」の一つに数えられる、清朝中期に曹雪芹によって書かれた長篇白話小説「紅楼夢」のヒロインの美少女の名。

「い照る」「射照る」。]

 

 

大正一一(一九二二)年八月二十六日・田端発信・南部修太郞宛・大正十一年八月廿六日 田端奉行(封筒表に『南部家御執事』、裏に『田端奉行』とあり、その下に華押が記されていると、筑摩全集類聚版の書簡冒頭割注にはある)

 

Tabatabugyounanbuate

 

[印判]

      證

     南部修太郞

      渡世 賣 文

      生年 三十一

右者澄[印判]江堂ヘ

一宿致そう郞事實證

也その為一札如件

      證人

      芥川龍之介[印判㊞]

      渡世 講 学

      生年 三十一

      證人

大正壬戌  小穴隆一[印判]

八月廿六日 渡世 畫 工

      生年 二十九

 

南部家

   御家中

     皆々樣

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版に載る原書簡プリント画像を示し、それを視認して電子化した。印判はすべて異なるが、判読は出来ない。所持する「澄江堂句集」(復刻本)に印譜が載っているので、それで多分判るはずだと思ったのだが、書庫の底に沈んで見つからない。判ったら、追記する。「澄」の下方から「江」前面を覆っている四角の印判は或いは小澤碧童の刻になる「龍之介印」ではないかとも思われる。新全集宮坂年譜には、この八月二十六日土曜日、『関係が修復したのか、南部修太郎が一泊するか』とある。この書簡が、その証左というわけである。しかし、私は芥川龍之介は、結局、自死するまで、南部修太郎を心からは打ち解けて許してなどはいなかったものと思う。それは『小穴隆一 「二つの繪」(8) 「宇野浩二」』や、「小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』」を読むと、そう感じざるをえないのである。小穴隆一にはかなりエキセントリックで、一度、ある妄想的認識が生まれると、それにあくまで固執する特異性があるから、完全な事実として認めることは、かなり躊躇されるのだが、しかし、南部に関するこれらについては、概ね小穴の謂いは真実であったと見てよい。また、「南部との仲が、この時になって何故?」と思う人は多いだろう。前年の九月の衝撃の鉢合わせの直後でさえも、龍之介は自ら南部を誘って温泉に行っているのに、である。恐らくは、ちょっと考えれば判るが、この大正十一年年初に発表した「藪の中」が、芥川龍之介と南部修太郎と秀しげ子の三角関係を原材料として実に皮肉に書かれたものであることに南部が気づき、それを笑えない『惡戲氣』(いたづらっけ)として、龍之介に直接に指摘し、批難をした可能性が、その関係悪化のトバ口であったのではなかったか、と私は考えている。

 

 

大正一一(一九二二)年九月八日・田端(午前中)発信・眞野友二郞宛

 

冠省 度々御手紙難有うちよいと鎌倉へ遊びに行つてゐた爲に諸方へ御返事が遲れましたこの手紙と同時に沙羅の花を一部さし上げます原稿も御入用ならば送つてもよろしいしかしきたないものですよあなたのポプラアの風に吹かれる光景は愉快ですね西洋女が帽子につける駝鳥の羽根の飾りのやうですこの頃「山鴫」と云ふ小說を獨逸語に譯した人がありますうまいかまづいか私にはわからないが兎に角獨逸語でよむと西洋じみます末筆ながら奧さんによろしくわたしの所でも來月はお產です 頓首

   更くる夜を上ぬるみけり鰌汁

     小園日長

   晝深う枝さしかはす木立かな

    九月八日       芥川龍之介

   眞 野 先 生

二伸けふは二科會の招待日ですこんどは小穴君の描いたわたしの肖像畫(題は白衣)が出ました實物よりは餘程好い男になつてゐますこれから小穴君と見物にゆきます

オタンチンと云ふ言葉は貴家の女中の國から起つたのではありませんか

 

[やぶちゃん注:「眞野友二郞」新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、旧全集で宛名書簡は十三通を数え、本通信文から見ても、芥川龍之介の熱心な読者で、龍之介も丁寧に書簡で応じていた人物であったと考えて問題はないと思われ、また、後掲する彼宛の書簡に薬物を送って貰っていることから、本業は医師である可能性もあるように思われる。

「鎌倉」新全集年譜には、九月七日の条に、『数日間、鎌倉に遊び、田端の自宅へ戻る』とある。鎌倉でも宿泊先は間違いなく料理旅館「小町園」であり、彼はこれも間違いなく、女将野々口豊と逢うことこそが目的であったろう。文はここに書いてある通り、第二子(多加志)を妊娠中で、翌月が産み月であったのである。龍之介にとって危険がアブナい状態にあったと言える。

「沙羅の花」この前月の八月十三日に改造社から刊行された作品集。

「山鴫」既出既注

「小穴君の描いたわたしの肖像畫(題は白衣)」この時二科展に出品した、芥川龍之介をモデルとした肖像画「白衣」。本画の題は別に「在野の人」を意味する「処士」とも称される。なお、「白衣」は諸データにルビがないが、一般でしたり顔で言う連中がいる「びゃくえ」ではなく、「はくい」と読む。『小穴隆一「二つの繪」(51) 「月花を旅に」』で、作者の小穴自身が、芥川龍之介が「はくい」と読む、と言ったことが記されている。

 

Byakue

 

上に「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングして示した(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

「オタンチン」人を嘲る語。のろま。間抜け。特に寛政・享和(一七八九年~一八〇四年)頃の江戸新吉原で、特に厭な客を指して言った。「おたんこなす」も同じで、特定の地方の方言が元だとは私には思われない。]

 

 

大正一一(一九二二)年十一月十三日・田端発信・小穴隆一宛

 

拜啓その後御無音に打過ぎ中訣無之候これは家内男の兒を生み何かとごたごたいたし居る爲に候又一つは小生神經衰弱甚しく筆をとるも懶き爲めに候男兒には多加志の命名するつもりに候隆の字をかなよみにいたさせしに候この間の墨畫春服の裏繪にとの思召し結構に候唯あのにじみうまく版になるかどうかと存候新年號の小說皆書かねば伊香保へも行け神經衰弱なほる事も必定と存候へどもさうばかりも行かず弱り居り候又お金の儀は菊池よりすでに五十金受取り居り久米のとも合せぢきに御送金仕る可く候この頃松本松藏と言ふ金持の家にて大雅蕪村の十便十宜帖及竹田草坪數々見申候大雅の大は申すまでもなく候蕪村も竹田よりは一極上の畫人に候君が在京すればと惜しみ候又泰西名畫展覽會と言ふを見、西洋人も傑作を出すの容易ならざるを知り候いつぞやのルノワル(帽子をかぶつた)セザンヌの自畫像などやはりよろしく候外にモンテイチエリと申すもの、滴る如き味あるものに候贋物も少しはあるやうに見受け候別封「詩と音樂」「純正美術」御閑の節御らん下さる可く候(純正美術には十使帖の寫眞あり實物は着彩に候 又左句送別の爲作り候所家内ども緣起わるしと申し候故その節さしひかへ申候へども今は何と言ふ氣もいたさずなり候間書き添へ候

     送一游亭別情愴然

   霜のふる夜を菅笠のゆくへかな

    十一月十三日夜半   芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸「湯の花」まだこころ見ず候明日の湯に入れるよしに候君より「湯の花」香取先生より柿と鯉と同時に頂き候草堂の秋意嬉しきが如く寂しきが如くに候

               我 鬼 生

 

[やぶちゃん注:小穴は足の治療で伊香保温泉に湯治していた。この後の十一月二十日附の小穴宛書簡では、龍之介も体調が優れず、翌年の『新年號の原稿全部斷り、湯治に參る事と決心仕りました』と述べ(実際に短い随想商品が四種発表されているだけである)、『但し伊香保は非常にさむさう故南の方へ參らうと存ずるのですが君が歸京され次第一しよに參つてもよろしいと存じ居候』と述べている。しかし、その後、帰京した小穴は、診断の結果、最悪の脱疽に重症化していることが判明、足を切断する可能性が出てきたことを龍之介に伝え、自身の不調(風による発熱と、その服用薬によるものと思われる両手に包帯をするほどのピリン疹(解熱・鎮痛剤として用いられるアンチピリン・アミノピリン・スルピリンなどのピリン剤による薬疹。人によって副作用の症状が異なることがある。一定の部位に円形の紫赤色斑が発生し、ひりひりした感じを起させることが多いが、水疱を生ずることもあり、戦後にはアナフィラキシー・ショックによる死亡例もある)等)で小穴を訪ねられない中、龍之介は七月二十七日附小穴宛書簡で、その報知に驚き、脱疽の『切り遅れはいよいよあしきよしさりながら足切ると申すは容易の事にあらずどうすればよいやらまどふばかりに候』と途方呉れている様子が記されてある。既に述べた通り、龍之介の小穴の脱疽への悪い予感のそれは、正確に的中してしまうのであった。

「男の兒を生み」「男兒には多加志の命名するつもりに候隆の字をかなよみにいたさせしに候」多加志はこの十一月八日に生まれた。彼については既注

「春服」は芥川龍之介の第六作品集。この翌年の大正一二(一九二三)年五月十八日に春陽堂から刊行された。小穴隆一の装幀。

「大雅」池大雅。「十便十宜帖」を含め、既出既注

「竹田」田能村竹田(たのむらちくでん 安永六(一七七七)年~天保六(一八三五)年)は南画家。名は孝憲。詳しくは当該ウィキを見られたい。また、大正九(一九二〇)年九月発表の「雜筆」の冒頭の「竹田」も参照されたい。リンク先は私の電子化注。

「草坪」高橋草坪(そうへい 文化元(一八〇四)年~天保二(一八三五)年)は文人画家で、田能村竹田の高弟。天賦の才に恵まれたが、三十二歳で早世した。当該ウィキを参照されたい。

「モンテイチエリ」フランスの印象派に先立つ時期の画家アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリ(Adolphe Joseph Thomas Monticelli 一八二四年~一八八六年)。当該ウィキを参照されたいが、筑摩全集類聚版脚注には、『在世中殆んど無名に近かったが、死後認められた。独特の幻想をもった夢幻的作風で、技法的には印象派の端をなしたといわれる』とある。

「詩と音樂」「純正美術」孰れも当時発行されていた雑誌名。]

 

 

大正一一(一九二二)年十一月二十八日・田端発信・小宮豐隆宛

 

 冠省 芭蕉俳句硏究ありがたく拜受仕候

 邦讀後御禮申上げんと存候爲今日に相成り申譯無之候皆〻樣の御批評の中尊臺の御說一番ありがたく候これは御世辭には無之、「ここも三河むらさき妻」の御說「なほ見たし」(葛城の神の句)の御句などその外有益のもの多く候だめなるは太田水穗なりあの位かん所のわからぬ歌よみは古今に類まれなる可く候又安倍樣の御說我人とも疑問を持つやうな所を素直に述べられ、よろこばしく候一つ一つの句につき高說も伺ひ愚見も申度き事有之候へども寸楮意をつくさず拜眉の節を待つ可く候この頃風をひき手にはピリン疹と申すもの出來、筆をとるも不自由なる上夜は不眠症の爲なやまさるゝ事一方ならずこの手紙もしどろもどろなる次第、よろしく御判讀下され度願上候

     卽興

   初霜や藪にとなれる住み心

    十一月二十八日    芥川龍之介

    小 宮 豐 隆 樣 侍史

二伸 なほ申しのこし候ままつけ加へ候あの書中遺憾なるはどなたも句のしらべをあまり問題になされぬ事に候句は姿第一しらべ第二とてはせをの翁も申候へども一句のリズムも考へて見る必要ありと存じ候へども如何にや「年の 線香買ひに行かばやな」[やぶちゃん注:字空けはママ。]を三十棒なりなどと申候瓊音こそ三十棒を蒙る可きはさる事ながらそは阿部樣の御說の外にも耳に訴へる美しさに聾なる故も有之べく候かしこぶり不惡御見のがし下され候はゞ幸甚に御座候 頓首

 

[やぶちゃん注:「芭蕉俳句硏究」筑摩全集類聚版脚注に、『沼波瓊音・太田水穂・阿部次郎・阿部能成・小宮豊隆・和辻哲郎の芭蕉俳句の合評に幸田露伴が意見を書き加えた』単行本で、この年に刊行された。後に続・続々が出ている。

「尊臺」(そんだい)は相手に対する敬称の二人称人代名詞。貴台。男子が手紙などで目上の男子を敬って用いるもの。

「ここも三河むらさき妻」芭蕉の句としているが、句碑も立ち、ネットにも沢山載っているが、現在は存疑の部に入る句で、私の持つ芭蕉句集の殆んどでは、正真の句として採っているものは少ない。

   藤川

 ここも三河むらさき麥のかきつばた

で、「一葉集」(鬱兮・湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)に載り、伝真蹟短冊とするものがあり、そこでは、

 こゝもするかむらさき麥のかきつばた

であるが、私は芭蕉の句ではない駄句と断ずる。

『「なほ見たし」(葛城の神の句)』貞享五・元禄元(一六八八)年の作。「笈の小文」に載る。

  葛城山

 猶みたし花に明行(あけゆく)神の顏

は、「葱摺」(しのぶずり:等躬編・元禄二年)では、

  かつらき山の麓を通り侍る比(ころ)

 猶見たし花に明行神の顏

「泊船集」(異国編・元禄十一年)には、

  やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過るに、
  よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりた
  る明ぼののけしき、いとゞ艷(えん)なるに、
  彼(か)の神の、みかたち、あしゝと、人の口、
  さがなく世にいひつたへ侍れば

 猶見たし花に明行神の顏

と出るもの。

「太田水穗」(みずほ 明治九(一八七六)年~昭和三〇(一九五五)年)は歌人で国文学者。長野生まれで長野師範卒。本名は貞一。郷里での教員生活の後に上京、大正四(一九一五)年に歌誌『潮音(ちょうおん)』を創刊し、没年まで主宰した。象徴主義歌論を展開、大正九年に前掲の「芭蕉俳句硏究」のメンバーと芭蕉研究会を起こし、「新古今和歌集」の発展結果としての芭蕉の俳諧を短歌に奪回し、大正末から昭和初期にかけての『アララギ』の写生主義や新興無産派短歌に対抗し、「日本的象徴」を標榜、近代短歌に独特の地歩を確立したが、戦中は国粋主義に変質した。歌人四賀光子は妻。因みに私の父方の祖母で、母方の叔母である(私の父母はいとこ同士)藪野(旧姓笠井)茂子は『潮音』同人であった。

「安倍樣」安倍能成(よししげ 明治一六(一八八三)年~昭和四一(一九六六)年)は哲学者・教育者。愛媛県出身。一高・東京帝大哲学科卒。夏目漱石門下。岩波版「哲学叢書」の編集に加わる。昭和一五(一九四〇)年に一高校長、戦後の昭和二十一年には幣原内閣文相、後に学習院院長となった。

「寸楮」「楮」は「こうぞ」で「紙」の意・短い手紙。また、自分の手紙を遜って言語。

「拜眉」相手に会うことを遜っていう語。拝顔。

「年の 線香買ひに行かばやな」芭蕉の貞亨三(一六八六)年歳末吟。

 年の市線香買(かひ)に出(いで)ばやな

「続虚栗」(其角編・貞享四年刊)所収。

「三十棒なり」筑摩全集類聚版脚注に、『禅宗の言葉。罰を受ける際、棒で三十回たたかれる』修行を指すが、『この場合』、その『罰を受けるべき人、つまらないものをいうのに転じて使っている』とある。

「瓊音」沼波瓊音(ぬなみけいおん 明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人。本名は武夫。名古屋生まれ。東京帝大国文科卒。在学中に俳句団体「筑波会」に参加し、俳諧研究に努めた。明治四四(一九一一)年、雑誌『俳味』を主宰した。一時、信仰生活のために文筆を絶ったが、大正一一(一九二二)年、一高教授となり、俳諧史を講義した。大正十五年には、一高の関係者を結集して日本精神研究のための団体「瑞穂会」を創設した、強力な国粋主義者であった。私は彼が大嫌いである。

「阿部」阿部次郎(明治一六(一八八三)年~昭和三四(一九五九)年)は哲学者・美学者。一高・東京帝大哲学科卒。夏目漱石の作品批評によって評価を受け、漱石門下として小宮豊隆らと親しみ、明治四四(一九一一)年、その共著「影と声」を出版、反自然主義の論陣を張った。大正三(一九一四)年には、思索と精神的苦悩を基調とした自己省察の記録「三太郎の日記」を刊行、独自の理想主義を確立した。やがてそれは「人格主義」へと展開し、論壇の左右両翼から攻撃を受けたが、同書は大正教養主義の代表作品として学生・青年層の近代的自我覚醒の必読書となったとされる。東北帝国大学美学教授となり、ニーチェらの紹介に努め、連歌俳諧研究を始めとして、日本文化研究の業績も残している。昭和二九(一九五四)年には、私財を投じ、「阿部日本文化研究所」(後に東北大学文学部付属日本文化研究施設分館を経て阿部次郎記念館となった)を設立している。]

 

 

大正一一(一九二二)年十二月二日・田端発信・與謝野寬宛

 

拜啓 度々御手紙頂き大いに恐縮に存じて居ります小生支那旅行以前よりの文債山の如くその上新聞の紀行文も書かねばならずこの頃しみじみ責文糊口の難きを思ひ居る次第、尊命による隨筆風のもの二三枚したゝめましたが到底一段組にする程の代物にては無之どうか藻風先生や耿之介先生の六號二段組みの御仲間へ御入れ下さい明星では森先生の「古い手帳から」每號難有く拜見してゐます但しあの古い手帳の中には大分新しい書き入れもはひつてゐるのでせう小生もその内に奮發して諸先生をあつと云はせる程のものを書くつもりですそれから南部の歌不評のよししかしあれは南部としては一世一代の名作ですまづ嫌味のない素直な所だけお買ひ下さい 頓首

    十二月二日      芥川龍之介

   與謝野寬樣

 

[やぶちゃん注:一騒動あった南部修太郎の短歌を擁護しているのが面白い。

「藻風」竹友藻風(たけともそうふう 明治二四(一八九一)年~昭和二九(一九五四)年)は詩人で英文学者。本名は乕雄(とらお)。大阪市生まれ。同志社大学神学部を経て、京都帝国大学英文科選科修了。イギリス・アメリカに留学し、英文学を修め、東京高等師範学校・大阪大学などの教授を歴任。大正二(一九一三)年に詩集「祈祷」を刊行し、続く「浮彫」(大正四(一九一五)年)を経て、恩師上田敏や茅野蕭々・雅子との共著「鬱金草」(大正一〇(一九二一)年) で詩人としての地位を確立した。他に訳詩集「ルバイヤツト」(同年)・「ベルレエヌ選集」(同年)などがある。

「耿之介」日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)詩人で英文学者。長野生まれ。本名、樋口国登(くにと)。早大英文科卒。在学中から詩作を始め、西条八十らと詩誌『聖杯』(後に「仮面」に改題)を創刊して、大正期の象徴派新人として詩壇に登場、神秘的高踏的な詩風を確立した。詩集「転身の頌」「黒衣聖母」、詩史「明治大正詩史」などがある。

「森先生」森鷗外。

「古い手帳から」『明星』(第二期)に「M. R.」の署名で連載(大正一〇(一九二一)年十一月一日~大正一一(一九二二)年七月一日)された、短文考証物。「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 

大正一一(一九二二)年十二月十七日・田端発信・眞野友二郞宛

 

冠省 御見舞の御手紙難有く存じますお藥も確かに落手しました小生如き疎懶の人間にさうさう御親切になさる必要はどこにもありません今後もつとぞんざいにとりあつかつてよろしい尤も親切にして頂けば嬉しい事は事實であります朝鮮の護符は奇拔ですね小生の友人、いつも裝幀をしてくれる小穴隆一と云ふ人が今脫疽(?)で順天堂へはひつてゐますからあの通り書いて送つてやらうと思つてゐます年末或は年始に何處かへ湯治に行く筈ですが目下は寢たり起きたりぶらぶらしてゐますそれからあなたの句は進步しましたね萬年靑の句などは素直でよろしい小生もこの頃一二作りました次手にあなたへ吹聽します

     夜坐

   炭取の炭ひびらぎぬ夜半の冬

   炭取の底にかそけき木の葉かな

     閑庭

   初霜や藪に隣れる住み心(モウ一度書キマシタ 入レナイトサビシイカラ)[やぶちゃん注:これはポイント落ちの二行割注。]

   時雨るゝや犬の來てねる炭俵

     送別

   霜のふる夜を菅笠のゆくへかな

     長﨑より目刺をおくり來れる人に

   凩や目剌にのこる海のいろ

途中紙の切れてゐるのはそこだけ書き損じたのです失禮ですが御ゆるし下さい唯今北海道のホツキ貝と云ふものを食ひ、胃の具合怪しければ早速頂戴の藥をのんだところ

     卸興

   凩や藥のみたる腹工合

    十二月十五日     芥川龍之介

   眞野友二郞樣

二伸 數日前の小生の家族の健康如左

 主人 神經衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進、

 妻  產後、脚氣の氣味あり

 長男 虫齒(寂齦に膿たまる)

 次男 赤ン坊ナリ 消化不良

 父  膽石、胃痙攣

 母  足頸の粘液とかが腫れ入り、切開す

 これでは小說どころではないでせう

  十七日          我   鬼

 眞 野 樣

 

[やぶちゃん注:「萬年靑」「おもと」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica 。本邦には古くから西日本を中心に自生する。ウィキの「オモト」を参照されたい。

「ホツキ貝」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。]

 

 

大正一一(一九二二)年十二月二十九日・田端発信(推定)・香取先生・きのふの次の日 芥川龍之介

 

拜啓

咋夜は失禮いたしました明星まゐりましたから御目にかけます それからいつぞやの金鼓も抄しておめにかけます

森さんの歌は下手ですね 僕の方がうまいでせう すなはち

   秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらき居り吳竹のうらに

御一笑下さい

    臘末九        我 鬼 生

   香 取 先 生 侍史

    今昔本朝之部卷九讚岐國多度郡五位聞法師卽出家語第十四

其の後入道着たりける水干袴に布衣(ホイ)袈裟など替つ、持つたる弓胡錄(籙ノ誤か)などに金鼓を替へて、衣袈裟直く着て、金鼓を頭に懸て云く「我れは此より西に向て、阿弼陀佛を呼び奉て、金(カネ)を叩て答へ給はむ所まで行かむとす云々

  コレハ殺生好キノ武士ガ講師の說敎ヲキキ忽チ發心スル話デス

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「金鼓」「こんぐ」と読んでいよう。既出既注。「大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛」の私の注を参照されたい。

「森さん」森鷗外。

「今昔本朝之部卷九讚岐國多度郡五位聞法師卽出家語第十四」「卷九」は「卷十九」の誤り。同前で「大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛」の私の注を参照されたいが、そこで記した通り、これは芥川龍之介の「往生繪卷」(大正十年四月『國粹』発表)の原拠である。そこではスルーしたが、好きな一篇なので、ここで全文を示しておく。

   *

 

 讚岐國多度郡(たどのこほり)の五位、法(はふ)を聞きて、卽ち、出家する語(こと)第十四

 

 今は昔、讚岐國多度の郡□□の鄕(さと)に、名は知らず、源大夫(ぐゑんだいぶ)と云ふ者、有りけり。心、極めて猛くして、殺生を以つて業(わざ)とす。日夜朝暮に山野に行きて、鹿鳥(しかとり)を狩り、河海に臨むで、魚を捕る。亦、人の頸を切り、足手を折らぬ日は、少くぞ、有ける。亦、因果を知らずして、三寶を信ぜず、何(いか)に況や、法師と云はむ者をば、故(ことさ)らに忌みて、當りにも寄らざりけり。此(かく)の如くして、惡しく奇異(あさま)しき惡人にて有りければ、國の人も、皆、恐れてぞ有りける。

 而る間、此の人、郞等(らうどう)四、五人許りを相ひ具して、鹿共、多く取りせて、山より返る道に、堂の有ける。人、多く集まりけるを見て、

「此れは何事爲(す)る所ぞ。」

と問ければ、郞等、

「此れは堂也。講を行にこそ侍るめれ。『講を行ふ』と云ふは、佛經を供養する事也。哀れに貴(たふと)く侍る事也。」

と云ひければ、五位、

「然る態(わざ)を爲(す)る者有りとは、髴(ほのか)に聞きけれども、此(か)く目近くは見ざりつ。何なる事を云ふぞ。去來(いざ)、行きて聞かむ。暫く留(とど)まれ。」

と云ひて、馬(むま)より下(お)りぬ。

 然(しか)れば、郞等共も、皆、下りて、

『此は何(いか)なる事せむずるにか有らむ。講師(かうじ)なむ、掕(れう)ぜむずるにや[やぶちゃん注:酷い目に会わせようとするのか?]。不便(ふびん)の態(わざ)かな。』

と思ふ程に、五位、只、步(あゆ)びに步び寄りて、堂に入れるを、此の講の庭に有る者共も、此(かか)る惡人の入り來れば、

『何なる事せむずるにか有らむ。』

と思ひて、恐(お)ぢ騷ぐ。恐れて、出でぬる者も有り。

 五位、並み居たる人を押し分けて入れば、風に靡く草の樣に、靡きたる中を、分け行きて、高座の傍らに居(ゐ)、講師に目を見合はて云はく、

「講師は何なる事を云ひ居たるぞ。我が心に『現(げ)に』と思む許りの事を云ひ聞かせよ。然(さ)らずは、便無(びんな)かりなむ者ぞ。」

と云ひて、前に差したる刀を、押し𢌞(めぐ)らして居たり[やぶちゃん注:威嚇のために、もてあそんで振り回しているのである。]。

 講師、

『極めて不祥(ふしやう)にも値(あ)ひぬるかな。』

と恐ろしくて、云ひつる事の終始も思えで、

『引き落とされぬ。』

と思ひけるに、智惠有りける者にて、

『佛け、助け給へ。』

と念じて、答へて云はく、

「此(ここ)より西に、多くの世界を過ぎて、佛、在(まし)ます。阿彌陀佛と申す。其の佛、心廣くして、年來(としごろ)、罪を造り、積みたる人なりとも、思ひ返して、一度、『阿彌陀佛』と申しつれば、必ず、其の人を迎へて、樂しく微妙(めでた)き國に、思ひと思ふ事、叶ふ身と生れて、遂には、佛(ほとけ)となむ成る。」

と。

 五位、此れを聞きて云はく、

「其の佛は、人を哀れび給ひては、我をも惡(にく)み給はじなむ。」

講師の云はく、

「然也(さなり)。」

と。

 五位の云はく、

「然(さ)らば、我れ、其の佛の名を呼び奉らむに、答へ給ひてむや。」

と。

 講師の云はく、

「其れも、實(まこと)の心を至(いた)して呼び奉らば、何どか答へ給はざらむ。」

と。

 五位の云く、

「其の佛は、何(いか)なる人を吉(よし)とは宣ふぞ。」

と。

 講師の云はく、

「人の、他人(ことびと)よりは、子を哀れと思ふ如くに、佛も、誰(たれ)をも、※(にく)[やぶちゃん注:「※」=「忄」+「惡」。]しと思ぼさねども、御弟子(みでし)に成りたるをば、今、少し、思ひ給ふ也。」

と。

 五位の云はく、

「何(いか)なるを弟子とは云ふぞ。」

と。

 講師の云はく、「今日の講師の樣に、頭(かしら)を剃りたる者は、皆、佛の弟子也。男も女も御弟子なれども、尙、頭を剃れば、增(まさ)る事也。」

と。

 五位、此れを聞きて、

「然(さ)は、我が此の頭、剃れ。」

と云ふ。

 講師、

「哀れに貴き事には有れども、只今、俄かに何(いか)でか其の御頭(おほむかしら)をば剃らむ。實(まこと)に思ぼす事ならば、家に返りて、妻子・眷屬などに云ひ合せて、萬(よろづ)を拈(したた)めて[やぶちゃん注:万事、俗世のことを処理致して。]、剃り給べき。」

と。

 五位の云く、

「汝ぢ、『佛の御弟子』と名乘りて、『佛は虛言(そらごと)無き』と云ひて、『御弟子に成りたる人をば哀れと思ぼす』と云ひて、何(いか)に忽ちに舌を返して、『後(のち)に剃れ』とは云ふぞ。糸(いと)當らぬ事也。」

と云ひて、刀を拔きて、自(みづか)ら髻(もとどり)を根際(ねぎは)より切(た)つ。

 此(かか)る惡人、俄かに此く髻を切りつれば、

『何なる事、出で來たらむ。』

とて、講師も周(あわて)て、物も云はず、其の庭に居たる者共も、喤(ののし)り合ひたり。

 亦、郞等共、此れを聞きて、

「我が君は何なる事の御(おは)するぞ。」

とて、太刀を拔き、箭(や)を番(つが)ひて、走り入り來たり。

 主(あるじ)、此れを見て、大きに音(こゑ)を擧げて、郞等共を靜めて云はく、

「汝等は我が吉(よ)き身と成らむと爲(す)るをば、何(いか)に思ひて、妨(さまた)げむとは爲るぞ。今朝(けさ)までは汝等が有る上にも、『尙、人をもがな』と思ひつれども、此より後(のち)は、速かに、各(おのおの)、『行かむ』と思はむ方に行き、『被仕(つかはれ)む』と思はむ人に仕はれて、一人も我れには副(そ)ふべからず。」

と。

 郞等共の云はく、

「何(いか)に、此(かか)る態(わざ)をば、俄かに成さしめ給へるぞ。直(ただ)しき心にては、此る事、有らじ。物の託(つ)き給ひにけるにこそ有りけれ。」

と云ひて、皆、臥し丸(まろ)び、泣く事、限り無し。

 主、此れを止(とど)めて、髻を切りて、佛に奉りて、忽ちに湯を涌(わか)して、紐(ひも)を解きて、押し去(の)けて、自ら頭を洗ひて、講師に向ひて、

「此れ、剃れ。剃らずば、惡しかりなむ。」

と云へば、

『實に此許(かばか)り思ひ取りたらむ事を、剃らずば、惡しくも有けむ。亦、出家を妨げば、其の罪、有りなむ。』

と旁(かたがた)に恐れ思ひて、講師、高座より下(お)りて、頭を剃りて、戒を授けつ。

 郞等共、淚を流して、悲しむ事、限り無し。

 其の後、入道、着たりける水干袴に、布衣(ぬのぎぬ)[やぶちゃん注:麻布などで作った粗末な着衣。]・袈裟など、替へつ。持りたる弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う武具。]などに、金鼓(こむぐ)[やぶちゃん注:]を替へて、衣・袈裟直(うるは)しく着て、金鼓を頸に懸けて云はく、

「我れは、此より、西に向て、阿彌陀佛を呼び奉りて、金(かね)を叩きて、答へ給はむ所まで、行かむとす。答へ給はざらむ限りは、野山にまれ、海河(うみかは)にまれ、更に、返るまじ。只、向きたらむ方に行くべき也。」

と云ひて、音(こゑ)を高く擧げて、

「阿彌陀佛よや、おい、おい、」

と叩きて行くを、郞等、共に行かむと爲れば、

「己等(おのれら)は、我が道、妨げむと爲るにこそ、有りけれ。」

と云ひて、打たむと爲れば、皆、留りぬ。

 此(か)く西に向きて、

「阿彌陀佛。」

を呼び奉りて、叩きつつ行くに、實に云ひつる樣に、深き水とても、淺き所を求めず、高き峰とても、𢌞(めぐ)りたる道を尋ねずして、倒(たふ)れ、丸びて、向きたるままに行くに、日暮(ひぐ)れて、寺の有るに行き着きぬ。

 其の寺に有る住持の僧に向ひて云く、

「我れ、此く思ひを發(おこ)して、西に向きて行くに、喬平(そばひら)を見ず[やぶちゃん注:脇目も振らずにやってきた。]。況や、後(うしろ)を見返らずして、此(ここ)より西に高き峰を超えて行かむとす。今、七日(なぬか)、有りて、我が有らむ所を、必ず、尋て來たれ。草(くさ)を結びつつぞ、行かむと爲(す)る。其れを見て、注(しるし)として來たるべし。若し、食ふべき物や有る。夢許り、得(え)しめよ。」

と云ひければ、干飯(ほしいひ)を取り出だして與へたれば、

「多しや。」

と云ひて、只、少しを、紙に裹(つつ)みて、腰に挾み、其の堂を出でて行きぬ。

 住持、

「既に夜に入りぬ。今夜(こよひ)許りは、留まれ。」

と云ひて、留(とど)むと云へども、聞き入れずして、行きぬ。

 其の後(のち)、住持、彼(かれ)の敎への如く、七日と云ふに、尋ねて行くに、實に草を結びたる。

 其れを尋ねて、高き峰を超えて見るに、亦た、其(そこ)よりも高く嶮(さが)しき峰、有り。

 其の峰に登りて見れば、西に海、現(あらは)に見ゆる所、有り。

 其の所に、二胯(ふたまた)なる木、有り。

 其の胯に、入道、登いて居(ゐ)て、金を叩きて、

「阿彌陀佛よや、おい、おい、」

と、呼び居たり。

 住持を見て、喜びて云く、

「我れ、『尙、此より西にも行て、海にも入なむ』と思ひしかども、此(ここ)にて、阿彌陀佛の答へ給へば[やぶちゃん注:お答え下さったので。]、其れを、呼び奉り居たる也。」

と。住持、此れを聞きて、

『奇異(あさま)し。』[やぶちゃん注:ここは信じられずに不審に思っての意。]

と思ひて、

「何(いか)に答へ給ふぞ。」

と問へば、

「然(さ)は、呼び奉らむ。聞け。」

など云ひて、

「阿彌陀佛よや、おい、おい、何(いづ)こに御(おはし)ます、」

と、叫べば、海の中に、微妙(みめう)の御音(おほむこゑ)有りて、

「此(ここ)に有り。」

と、答へ給ひければ、入道、

「此れを聞くや。」と云ふ。

 住持、此の御音を聞きて、悲しく[やぶちゃん注:ここは、広大無辺の御慈悲に際会して激しく心打たれたの意。]貴くて、臥し丸び、泣く事、限り無し。

入道も、淚を流して、云はく、

「汝ぢ、速かに返るべし。今、七日、有りて、來たりて、我が有樣を見畢(みは)てよ。」

と。

「物や欲(ひ)しきと思ひて、干飯を取りて持ちたり。」

と云へば、

「更に物欲(ものほ)しき事無くて、未だ有り。」[やぶちゃん注:先に呉れたものを未だ持っておる。]

と。

 住持、見れば、實に有りし如くにて、腰に挾みて、有り。

 此くて、後の世[やぶちゃん注:後世(ごぜ)。往生後の来世。]の事を契り置きて、住持は返りぬ。

 其の後、七日有りて、行きて見れば、前の如く、木の胯に西に向きて、此の度は、死にて、居たり。

 見れば、口より、微妙(めでた)く鮮かなる蓮華(れんぐわ)一葉(ちえふ)、生(お)ひたり。

 住持、此れを見て、泣き、悲しび、貴びて、口に生ひたる蓮華をば、折り取りつ。

『引きもや、隱さまし。』[やぶちゃん注:御遺体を埋葬してやろうか。]

と思ひけれども、

『此(かか)る人をば、「只、此(か)くて置きて、鳥獸(とりけだもの)にも噉(く)はれむ」と思ひけむ。』[やぶちゃん注:やや意味がとり難いが、これは、「このような阿弥陀如来の慈悲に直接に触れた尊きお人は、御自身が、『ただ、そのままにしておいて貰って、鳥や獣たちに食われて消え去ろう』とお思いになったに違いない。」の意と私はとる。]

と思ひて、動かさずして、泣々(なくな)く、返りにけり。

 其の後、何(いか)にか成りにけむ、知らざりけり。

 必ず、往生したる人にこそ有(ある)めれ。

 住持も、正(まさ)しく阿彌陀佛の御音(おほむこゑ)を聞き奉り、口より生ひ出でたる蓮華を取りてければ、定めて、罪人には非ずと思ぼゆ。

 其の蓮華は、何(いか)にか成りにけむ、知らず。

 此の事、糸(いと)昔の事には非ず。□□の比の事なるべし。

 世の末[やぶちゃん注:末法の時代。本邦では永承七(一〇五二)年に入ったと考えられていた。]なるとも、實の心を發(おこ)せば、此(か)く貴き事も有る也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

2021/08/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) ひやうし考

 

[やぶちゃん注:本記事は、本カテゴリの冒頭注で示した「曲亭雜記」の活字本(渥美正幹編・明治二三(一八九〇)年刊)に載り、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来る。されば、ここではそれを底本として電子化し、画像も添える。読みは必要と判断したものだけを採用した。なお、比較すると、吉川弘文館随筆大成版とは、表記や文脈に微妙な違いがあることが判った。なお、図は吉川弘文館随筆大成版とは全く異なり、キャプションにも異同があるが、私は「曲亭雜記」所収のものが、遙かにいい出来であると考える。吉川弘文館随筆大成版の見開きにギュウ詰めになったそれを最後に掲げておく。なお、吉川弘文館随筆大成には、仰々しい複写についての但し書きが示されてあるが、これは孰れもパブリック・ドメインの相似類話の異なった画像を比較して戴くための引用であり、複写権に抵触するものではない。そもそもが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解であり、当該書のそれは、明らかに新たに近々に編集されたり、描き直されたものではないから、著作権自体が発生しようがない。向後、同書の画像を使用するケースが出てくるが、そこでは、これは繰り返さない。

   ○ひやうし考      著作堂手稿

定家卿「鷹三百首」、「武藏野の駒に付(つけ)つゝ引(ひく)繩の打(うち)ならびたる小鷹犬(こたかいぬ)かな」といふ歌の注に云、『關東は馬上にてつかふに、くつわの音、高ければ、鳥、よせぬゆゑ、「ひやうし」といふ木をあてゝ乘る。』となり。「引繩(ひくなは)」とは、犬の「やり繩」の事、口のとまりたる犬なれば、鷹にならべる、といふ歟と見えたり。【この書、「第一春」・「第二夏」・「第三秋」。右の歌は「小鷹の部」第二首めにあり。】此「ひやうし」といふものを、こゝろ得がたく思ひしに、奧の松前(まつまひ)にては、馬に轡(くつは[やぶちゃん注:ママ。])をもちひず、「ひやうし」といふものをかけて乘る、とありと、傳へ聞きしかば、このごろ、興繼(おきつぐ)をもて、松前老君に問(とひ)まつりしに、老君、すなはち、家臣船尾吉藏といふものに、「ひやうし」一具をつくらしつ、手筒(てかみ)一通を取そへて賜はせし、その書に云、

[やぶちゃん注:以下の書簡引用は底本では全体が一字下げ。]

此ひやうし拵(こしらへ)候は、舊領松前より西在(にしざい)、五里はなれ候て、ヱラマチ村の百姓なり。村役にて一年、中間奉公に出候。然處、築川(やなかは)へ引取候節より、故鄕へ不ㇾ歸(かへらず)。當年まで江戸屋敷に勤居候。下々(しもしも)ながら、志(こゝろさし)有ㇾ之もの故、當春取立、大小さゝせ候身分にいたし候。當時は船尾吉藏と中候。此もの、村方に居候時は、馬十二ばかり持(もち)、これを渡世にいたし候。當地へ參り候は、三十一歲のとき也。當年は四十歲になり候。古風の荒(あら)ものとて、馬に乘り候は、裸馬(はたかうま)、子供の時より、得もの也。山谷(さんこく)を馬塲(ばゝ)同樣にこゝろ得候もの也。此ものに拵させ候故、正眞なり。

「ひやうし」は、イタヤといふ木にて造る。綱はシナをよりて用ふ。イタヤもシナも、ここゝ許に無ㇾ之故、麻にて、よらせ候。【以上、手簡。】

「ひやうし」の事、これによりて、はじめて、つばらかなる說を得たり。今、そのものを展覽に備ふるをもて、こゝに圖せず。諸君、圖せんとならば、席上にても、うつし易かるべし。おもふに、馬に「ひやうし」をかくること、定家卿のころまでは、松前のみならで、關東にては、おさおさ、ありけんかし。よりて、又、按ずるに、「義經記」、「土佐坊夜打(ようち)の段」に、『草摺(きさずり)の、しころなる「ひやうし」、鎧(よろひ)の札(さね)、よきに』云々、といふこと、見えたり。「平義器談」【下卷。】に、これを引て、「ひやうし」・鎧、つまびらかならず。是は、譽(ほめ)たる詞(ことば)にて、威毛(おとしけ)などのことには、あらず。是は辨慶が、馬に乘りて、土佐坊を召しにゆくときの有樣をいふなり。草摺のしころなるといふによりて見れば、馬のあゆむにつれて、ひやうし、よく、草摺の鳴(なる)音あるを、いへるにや。古(いに[やぶちゃん注:ママ。])の鎧は、草摺の裏に、革をも、布をも、あてねば、馬のあゆむにつれて、草摺、おどりて、音、あるべしと、いはれたれども、此「ひやうし」も、馬の足搔(あかき)の拍子にはあらで、馬には「ひやうし」をかけ、さて又、鎧は札よきを着たる辨慶がありさまをいへるもの歟。さらずば、當時、鎧の草摺を、馬の「ひやうし」に模したる威しざま、ありて、それを「ひやうし鎧」といひしかも、しるベからず。いづれまれ、安齋翁は、馬に「ひやうし」かけたることを、しらずや、ありけん。そは、千慮の一失なるベし。扨、かの「鷹三百首」にも、「義經記」にも、「ひやうし」とのみありて、正字、詳(つはらか[やぶちゃん注:ママ。])ならず。眞名(まな)には「鑣子(ひやうし)」と書くべきにや。よのつねなるを、「くつわ」といひ、「木鑣(もくひやう/キノクツワ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])」を「ひやうし」【卽。「鑣子」なり。】といひけん。關東の方言なるべし。しかれども、軍陣夜討(ぐんじんようち)のをり、人すら枚(ばい)を含むといへば、馬には、必、この「ひやうし」は、關東にのみ限るべきにあらねど、關東は軍陣夜討の時ならでも、鷹狩などの折、多く、馬に是をかけたるなるべし。野作人(えぞひと)は、今も、裸馬に乘る故に、馬には「ひやうし」をかくると、いへり。當初、關東騎馬の形勢、これらによりてしるベし[やぶちゃん注:「鑣」は音「ヒョウ」(現代仮名遣)で、訓は「くつわ・くつばみ」で、馬の口に銜えさせる金具で、主には手綱を附けるのに用いる馬具の意。]。

 ついでにいふ、「南留別志(なるべし)」五に[やぶちゃん注:荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。]、『「火の用心」とよぶは、「火あやうし」といふことなり。「本朝文粹」に見ゆ。「拍子木」も「火危木(ひあやふしき)」なり。』と、いへり。夜行翁は【和名「火アヤフシ」。】、「和名妙」にも見えたれど、「ひやうし木」を「火危木」なりといはれしは、信じがたし。「易」「繫辭下傳」に、『重門擊ㇾ析、以待暴客。蓋レリ。』と見えたる。析(たく)は、「ひやうし木」なり、こは、唐山(からくに)の制度なるものから、天朝にも、いにしへより、かゝる例(ためし)あるべし。しかれば、「ひやうし木」を、夜行翁の擊つものとのみせんは、非なり。其(その)形、元來、馬の「ひやうし」に似たれば、やがて「鑣子木」といへる俗語ならん。物には「鑣子木」とも書り。これらは、後世、文字、ひらけしより、字を、あてたるなり。愚按も、必とはしがたけれども、こは試にいふのみ。

[やぶちゃん注:以下底本では「正月十四日なり。」まで、全体が一字下げ。]

右の考は、拙者「玄同放言」禽獸の部、名馬の條下に、しるしつけんとおもふこと、久し。しかれども、その書、いまだ、稿を續(つが)ざりければ、こゝに略抄す。遺漏、なほ、あるべし。早春、俗事、蝟集(いしふ)して、筆をとるいとまなきを、けふのまとゐに、ものせんとて、已牌(このとき)より、机案(きあん)にむかひて、亭午(まひる)には、はや、稿し果(はて)たり。かの『兵拙速。不ㇾ貴久而後ナルヲ。』と、いへることのこゝろにも似たらんかと、そゞろに自笑して毫(ふで)をとゞむ。時に乙酉春正月十四日なり。[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここの次行に「瀧澤解識」の識字が下方に打たれてある。]

鑣子の事、その圖なくば、この書を見ん人の思ひまどふこともあるべし。程經て、後興繼に畫(ゑがゝ)して、こゝに載するもの、左の如し。

一「ひやうし」の事、松前にてはイタヤをして造るといふ。

[やぶちゃん注:底本では以下の割注で終わるまでは全体が二字下げ。但し、『追考・「北海隨筆」に云……』以下の部分は、吉川弘文館随筆大成版では、全体の最後に配されてある。

イタヤは、漢名、いまだ考へ得ず。木蘭(もくらん)の和名、イタ井といへり。木蘭、卽、木蓮(もくれん)なり。これ歟。猶、たつぬベし。

「北海隨筆」に云、『楓(かへで)を蝦夷人(えぞひと)はタラベニと云ふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なりと、いヘり【下卷、「夷言」の條に見えたり。】。これにて、イタヤは、楓なるよしを、しるものから、猶、心もとなければ、此頃、松前の醫師牧村右門、訪來(とひき)し折、此一條を擧(あげ)て、質問せしに、牧村が云、「イタヤは、卽、楓の事也。その葉は、よの常の楓より大きく、その樹は松前に多くあり。蝦夷地には、いよいよ多かり。依て、松前にて薪にすなるは、皆、イタヤなり。」と、いへり。よりて、おもふに、「大和本草」に、その葉を圖したる大楓のたぐひなるべし。又、「ひやうし」の綱によるといふ、シナの事をたづねしに、牧村が云、「シナといへるも、木の皮なり。その皮をもて、索(なは)にすれば、麻よりも、つよし。シナは松前にて、文字(もじ)には「板」に作るものあり。當否はしらず侍り。」といふ。【今、按ずるに、「正宇通」、『极、音「桀」、驢背上木負ㇾ物也。「※」、卽、作ㇾ「笈」。[やぶちゃん注:「※」=「木」+(つくり:〈上〉「亠]+〈下〉「公」。但し、吉川弘文館随筆大成版では、『㭕』である。しかし、「正字通」を見たが、どこをどう引いたのか判らなかった。また、同版では「极」を「板」としてある。むちゃくちゃやな。]』と。かゝれば、シナの木に「极」とかけど、その義にかなはず。當に「拷」に作るべし。】

[やぶちゃん注:以下、底本では、サイズの割注までは全体が一字下げ。]

曲尺(かねじやく)にて八寸六分、横幅上にて一寸三分弱、下にて一寸六分、綱をとほすの穴、三、そのうち、上と中央(まんなか)の穴は、方なり。[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版ではここに割注があって、『中央の穴は、少し大きし。』とある]下の穴は圓なり。表は中を高くす。裏は平齊(たひら)なり。裏のかたは、馬の頰にあつればなり。但、木の厚【上の方は中にて五分なり。端にては二分五厘。下の方にては、中にて六分なり。端にては四分。】[やぶちゃん注:サイズの詳細部分は二行割注になっている。]。

一木環(もくくわん)二。造る所の木、左の如し。

[やぶちゃん注:以下の二つの解説は底本では全体が二字下げ。]

内一は、其形、半(なから)、扁(ひらめ)なり。長二寸一分。扁の肩あり。下まで一寸五分、綱をとほす穴の長一寸、横六分なり。

又、一は、其形、方、也。長二寸六分、横幅一寸六分[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『一寸二分』となっている。]、木の厚各五分、綱をとほす穴二、その穴の徑り六分、穴の四方を、クリて、なだらかにす。綱の摺れて、きれぬ爲なり。

一うなぢ綱、長二尺四寸餘。【これを、わがねて、ふたつにす。長各一尺二寸餘、むすびめ、二あり。】

一手綱(たづな)の長さ、木環(むくゝわん)より、別につくるもの、およそ七尺九寸。上の「ひやうし」を貫くもの、長一尺九寸許。これらの綱は一すぢづゝ用ふ。

[やぶちゃん注:ここに以下の五頁に亙る図が載る。キャプションを電子化した。]

 

Hyousi1

[やぶちゃん注:既に示した国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正し、かなり念を入れて清拭した(同書はパブリック・ドメイン)。キャプション。反時計回りで、続けて示す。

 「ひやうし」の圖

このところ、馬の花つらにあつるをもて、絹の裂(きれ)にて、まくなり。

この索は細し。下の索の、なかば、す。二すぢつゝ、用るゆゑ也。いづれも右に同し。

馬にかくるに、長ければ、引つめて、みじかけれは、のばすべし。盈編脩短、このところをすきて、自由にす。

このところ、馬の頂にかくる。

この索は、ふとし。二すぢ、共に、大てい、一寸めくり也。

「盈編脩短」は「えいへんしうたん(えいへんしゅうたん)」というのは恐らく、この部分を微妙に引き延ばしたり、短くしたり、修正することを言っているように思われる。]

 

Hyousi21

[やぶちゃん注:キャプション。

「ひやうし」を、馬にかくること、かくの如し。

 

Hyousi22

[やぶちゃん注:キャプション。「ひやうし」本体部は縦方向に示した。

 ひやうし寸尺細注【はかるに、曲尺をもてす。この他も、みな、これにならふ。】

厚サ中ニテ五分、端ニテ二分五厘。

此間ノアキ、五分弱。  長サ八寸六分。

            此穴、中央。

(「ひやうし」左下)此間ノアキ、六分。

(同真下左から右へ横書きのもの)横一寸六分。

(同下方右下)厚サ中ニテ六分。端にて四分。

(上に戻って反時計回りで)

左右へ、ひらくこと、三寸八分。

このところ、「ひやうし」のあなへ、入る。

これ、則、馬の鼻つらにあつるところ也。二すぢのつなをわけて、裂をあて、まくこと、かくのごとし。

 

Hyousi31

[やぶちゃん注:キャプション。上から下へ。

木環圖

厚サ五分弱。上下相同し。

(中央右)二寸一分。

(中央左)こゝより下まで、一寸五分。

(中央下・左から右へ横書きのもの)一寸二分弱。

(その下方)厚サ五分。

(最下方右)二寸五分。

(同左)穴ノ径リ六分。二ツ共ニ相同シ。但シ、四方ヲ、クリテ、ツナノ、スレ、キレヌタメニ、ス。

(最下部・左から右へ横書きのもの)一寸二分。

 

Hyousi32

[やぶちゃん注:キャプション。

同ウナヂ細寸尺

(上部)長サ「ひやうし」の穴まで、一尺二寸余。但シ、この長短は、馬の大小・肥瘦によりて、盈縮あるべし。

(下部右)この結ひ目の間、一寸。左右相仝じ。

(下部中央)この結ひ目の間、一寸六分。左右仝し。

 なお、ここで冒頭で言った通り、吉川弘文館随筆大成版の画像(見開きページで総てが収まっており、以上の図とは全くタッチの異なるものであり、キャプションも異同がある)を比較対照するために、参考図としてトリミング補正したものを掲げておく。

 

Yosikouhanhyousi

 

異同のあるキャプションであるが、書体は底本のそれよりも遙かに読み易いので、それらを改めて電子化するつもりはない。御自分で比較されたい。]

 

[やぶちゃん注:以下、底本では二行目以降が一字下げ。]

一上の方、「ひやうし」を繫ぐ綱は、古いき絹の裂(きれ)をもて、綱をわけて、是を、まく。【馬の鼻つらにあたるところなるによりてなり。】左右へひらくこと、三寸八分。この他は、すべて、圖中に見えたり。右の内、中二の木環(もくくわん)は、さのみ、必要のものに、あらず。こは、只、綱のむすぼれぬ爲、又、よりの、もどらぬ爲也、といふ。

然らは、是も、有用の物也。必、なくは、あるべからず。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

此「ひやうし」の圖說は、拙著「玄同放言」第三集に載(のす)べきもの也。是故に、しばらく、帳中の秘とすといへども、同好・親友の爲に、こゝにかさねて略抄す。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここに『諸君、ねがはくば、この義をもて、他見をはゞかりたまはせといふ。』という、くだくだしい注意書きが記されている。どこかの書店の但し書きと似ているが、こちらの方が遙かにフェアだね。]

    乙酉夏肆月初四   著作堂解再識

 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 神主長屋惣八が事

 

   ○神主長屋惣八が事   文 寶 堂

淺草元鳥越明神前に、「神主長屋」といふあり。此長屋をあづかり守れる惣八といふもの、年ごろ、多病なるにより、くすしの匙をつくせども、させるしるしのなかりしかば、ある人のすゝむるまにまに、俄に宗旨を改めて、日蓮になりてけり。このもの、元淨土宗にて、その菩提所は、淺草なる小揚町の淨念寺なりければ、ある日、病の間ある折に、淨念寺に赴きて、「やつがり、長病[やぶちゃん注:「ながやまひ」と訓じておく。]祈禱の爲に、日蓮宗にならばやと思ひさだめ候。しかれども、改宗は、只、わが夫婦のみにして、子どもらは、さる望もなし。かゝれば、かれらは、いついつまでも、貴寺を菩提にこそたのみ奉るなれ。この義を、うけ引き給へかし。」と、亦、他事もなくまうしゝを、住持は聞きて、「一議に及ばず。いはるゝ趣、こゝろ得たり。更に仔細あるべからず。」と答へられたりければ、惣八、ふかく歡びて、「しからば、今より、やつがりらは、何がし寺【寺號を忘れたり。】を菩提所にたのみ侍らん。」とて、まかり出にけり。是より、法華を信仰して、題目をのみ唱へしかども、病は、いよいよおもりつゝ、ふるとしベ【文政四年。】[やぶちゃん注:割注。]の大つごもりには、わきて、あやふく見えけるに、みづから淨念寺に赴きて、「過ぎつる比、しかじかと申して改宗したれども、病は、おなじやうに、侍り。かゝれば、いかで、はじめのごとく、みてらに葬り給はれかし。やつがり、くすしの力にも及ばず、今はよみぢに赴き侍れば、又さらに此事をたのみ奉らん爲に、病苦を忍びてまゐりぬ。」といひ果てゝ、いでゆきけり。住持は竊にあやしみて、そのゆふべ、人を遣して、惣八がりとはせしに、「惣八は、きのふ、夕つがたに、身まかりぬ。」と聞えけり。住持は聞きて、且、おどろき、「さては來るは、かの者のなき魂にこそありけれ。」とて、いとゞ不便に思ひつゝ、すなはち、かれが願のまにまに淨念寺に葬りぬ。こは今玆【文政八年。】[やぶちゃん注:割注。]正月二日の事にぞ有りける。

             文 寶 堂 識

 

[やぶちゃん注:この兎園会が開催された僅か十二日前に起こったとする出来たてほやほやの都市伝説である。

「淺草元鳥越明神」現在の台東区鳥越二丁目四番にある鳥越神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「淺草なる小揚町の淨念寺」現在の台東区蔵前四丁目に現存。浄土宗化用山常照院浄念寺。ここは古くは浅草小揚町(こあげちょう)内であった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 伊香保の額論

 

   ○伊香保の額論   松 蘿 舘 述

[やぶちゃん注:かなり長いので、読み易さを考え、段落を成形して、台詞・心内語なども改行を多く施した。その方が波状的な臨場感も出ると考えたからである。]

 文政六年の事なりき。上毛高崎のほとりを徘徊し、一刀流の劒術者に、千葉周作といふものあり。

「その伎、鬼神にひとし。」

と、いひもてふらして、弟子を集め、威を逞しくする程に、おなじ州なる引間村に、浦八といふものありて、これと交ること、淺からず。そが中には、念流破門の弟子さへあるを、かたらひつゝ、その年の四月八日に、

「伊香保の湯前の藥師堂に、門人等の姓名を悉く識したる額を、掛け奉らん。」

とて、しめしあはすること、ありけり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 この周作は、浪人なれども、實は若州小濱の家臣にて、由緖も正しく、且、劒術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて、諸國修行に出でたれば、此度、額奉納の事なども、

「御内意を受けたり。」

と、僞りけるとぞ。

 この事、同州馬庭の念流に、志、厚かりける若ものども、傳へ聞きて、恐るゝこと、大かたならず。

「こは、またく、念流を侮りたるこゝろより、かxるわざをばするならん。抑、馬庭村なる念流は、天正年中より相續して、師宗に、代々、達人出で、その術を學ぶもの、今もなほ、千人に下らず。他鄕より來つるもの、いかばかりの事やある。われわれが手なみの程を見しらせずば、あるべからず。」

と、竊に示し合はするのみ。師家【樋口十郞左衞門と云ふ。】へは、絕えて、この事をつげしらせず。その中にも、赤堀なる本間仙太郞は、その身のとり立てたる身子[やぶちゃん注:「みのこ」と読むか。弟子のことであろう。]、凡、六、七十人を將て[やぶちゃん注:「ひきいて」。]、伊香保の宿に推し登り、東は平塚・田部井の鄕黨榮八が子【名を忘る。】十五歲、なほ、少年なりけれども、このものを頭として、大竹新兵衞、つきしたがふ。この一むれは、四、五十人、おなじ所へ馳せつどふ。この餘、吾妻の里人等、向寄々々(モヨリモヨリ)に頭を立てゝ、みな、劣らじ、とぞ集りける。

 されば、この伊香保の宿に、湯亭、十二軒あるを、すべて「大屋」と唱へたり。その他、くさぐさの商人等は、彼十二軒の支配を受けて、世わたりをするとなん。その大屋なるものゝ、「小槫(ヲダレ)武太夫」と呼ばるゝは、こたび千葉周作が額奉納の宿なれば、只、この所をのみ、除きて、その餘の湯亭十一軒を、みな借り盡して宿とせり。

 このよし、馬庭に聞えしかば、樋口は、いたく驚きながら、今さらとゞめんよしのなければ、内弟子なんどを引きつれて、車の進退制止のため、伊香保をさしてゆく程に、これを見、これを聞くともがらは、

「すは。馬庭の先生も乘り出だし給ふは。」

とて、なほ、あちこちよりはせ出でゝ、いかほの宿に集まるもの、大凡、七百餘人に及べり。かゝりし程に、七日になりぬ。

 この日、千葉周作は、弟子どもをあまた將て、伊香保をさして來る程に、かの人、この體たらくを、その途にして聞きしかば、さうなくは、すゝみかねて、その夜は野宿したりとぞ。

 五日、六日のころよりも、罵り、さわぎし事なれば、岩鼻の御陣屋へも、大かたならず、聞えにけん、御代官より差紙もて新町宿なる本陣と宿役人を召しよせて、その顚末をたづね給ひ、又、伊香保なる周作が宿のあるじ、武太夫をも召しよせて、これ彼に問糺し給ひ、額奉納をとゞむべき旨を仰せわたされたりければ、事、忽に無異に屬して、鎭まるに似たれども、千葉かたにても、亦、怒りて、

「かくは、こたびの催を妨したる[やぶちゃん注:「さまたげしたる」。]樋口の奴原、捨ておくべきにあらず。」

とて、引間村なる浦八が宿所に、みなみな集りて、談合評議、區々なるよし、伊香保ヘ告ぐるものありければ、樋口も、

「今、この時に至りて、一あしも引くべからず。各、覺悟あるべし。」

とて、なほも伊香保の宿にをり、

「敵、推しよせて亂妨せば、擊ち果たさんこと、勿論なり。しかれども、こなたより、はやりて、手だしすべからず。」

と、いと嚴重に下知しけり。

 はじめは、只、穩便に制せられたるのみなりしに、今、この指圖をうけしより、おのおの、

「得たり。」

「かしこし。」

とて、先、一番に赤堀の仙太郞が、

「ぬば玉の夜の月しるしに。」

とて、白布の鉢卷におなじ色なる襷して、樽を牀几に尻うちかけて、わが弟子どもを左右に從へ、敵や寄する、と待ちたりける。

「その時の面、ほゝひげに一軍の大將めきて、いと物々しく見えたり。」

とて、人々、後にいひ出でゝ、互に笑ひけり、となん。

 かくて樋口を本陣として、各、すみとり紙をもてあひじるしとし、合圖を定め、列を正して、用意、とりどりなしける程に、その日も既にくれしかば、あちこちの山林に、鐵砲をうち響かせ、ほら貝を鳴らしつゝ、推しよせ來つべき勢あり[やぶちゃん注:「すみとり紙」「隅取り紙」。方形の紙の四隅を切り取ったり、折り込んだりしたもの。特に、両端を末広に畳み重ねて、根を串の先端に結び垂れ笠標(かさじるし)や指物(さしもの)としたもの。]。

「事、大變になりもやせん。」

と思はざるもの、なかりけり。

 かゝりける程に、岩鼻なる御代官所より人を出だし、制止を加へて、双方をおし鎭め、和睦させんとし給ふものから、大勢の事にして思ひ込みたる事なれば、速にうけ引かず、互に些もひかずして、八日、九日と過ごす程に、御代官より嚴密に制し給うて、しばしばなれば、双方、やうやく納得して、十日に伊香保を引き退きて、おのおの、家路にかへりきとぞ。

[やぶちゃん注:以下の「廣言を吐きしとぞ。」までは底本では全体が二字下げ。]

 因にいふ、伊香保の宿に、八左衞門といふものあり。「[やぶちゃん注:鍵括弧はママ。これに対応する閉じるはない。]こは、武太夫と同家なり。八左衞門は既に沒して、この時、後家もちの世帶なりしに、いとかひぐしき婦人なれば、手ばやく家財を取りかたづけて、みづから隙なく立ちめぐり、手代・下女等にいひつけて、手ごろの石を多く拾はせ、是を二階につみのぼせ、又、灰を紙に包みて、木鉢などにあまた入れおき、

「かゝる折には、間者などのしのびよることあるものなれば、みな、油斷すべからず。」

とて、庭の木の蔭、雪隱までも、うちめぐりけり、となん。

 又、阿久津村なる左市といふものは、去年十月、江戸四谷にて親の仇安兵衞を擊ちとりたる左市が養父なり。此ものも、樋口の弟子なりければ、かの日、伊香保のむれに、あり。そのとき、先生にむかひていふやう、

「此たびの先陣は、某に仰せ付けられ下さるべし。劒術未熟に候へば、先輩をうち越えて憚あるに似たれども、死にくらべをせん時に至らば、某に及ぶもの、一人も候はじ。」

とて、廣言を吐きしとぞ。

 抑[やぶちゃん注:「そも(そも)」、]、樋口念流の初祖は、應永のころ、相馬四郞義定より傳へ來て、七代、永祿のころ、友松兵庫頭氏宗の門人樋口又四郞定次、皆、傳へて、今の樋口定雄まで、九代、上毛馬庭村に在住して、世々、劒術をもて、家聲を落さず、世に稀なるべき名家なり。定雄は子と同甲子にて、今、玆、六十五歲、なほ矍鑠たり。予、甞て、この門に入りて劍法を學びし故に、件の事の趣は、上毛なる同門人より傳へ聞きたるをしるすのみ。

 今、この昇平[やぶちゃん注:「太平」に同じ。]の世に、輕薄浮靡のともがらの義を捨て、利に走れるも多かる中に、かゝる愉快の事もありきと、おろおろ思ひ出づるにも、老のねざめを慰めたり。

 さても、これらの事の趣は、そのはじめ、はげしかりしに、おもひしよりは、後、いと安く、萬死を出でゝ一生得たる果は、笑ひのたねにぞなりける。

 こは、初春のはなしには、めでたしくといふべからん。

  文政八年の春正月     梭江しるす

 

[やぶちゃん注:「千葉周作」(寛政六(一七九四)年~安政二(一八五六)年)は知られた剣術家。陸奥栗原郡(現在の宮城県内)生まれ。父から北辰夢想流を学び、小野派一刀流の浅利又七郎に師事し、後、江戸の宗家中西忠兵衛の門に入り、免許皆伝となった。北辰一刀流を唱えて、文政五(一八二二)年の秋、道場「玄武館」を江戸日本橋に開き、次いで、神田お玉が池に移した。後、常陸水戸藩主徳川斉昭に仕えた。文政八(一八二五)年当時は数え三十二歳であった。

「念流」(ねんりう(ねんりゅう)は剣術流派の一つ。応仁の頃、もと臨済宗の僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念を込める極意に達して創始したとも、また、僧慈恩(慈音・俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び、創始したともされる。馬庭念流(まにわねんりゅう)は現存で,原初的防具を伝える。ウィキの「馬庭念流」に、樋口家第十七代当主樋口定次が友松氏宗より学んだ念流を元に確立した、剣術を中心に長刀術(薙刀術)・槍術も伝える古武道の流派とあり、『馬庭念流樋口家が行った奉納額は』、寛政九(一七九七)年から安静四(一八五七)年までに、十四件が確認されていて、『地元上州から江戸・鎌倉、金刀比羅宮にまで拡大しており、馬庭念流の盛行を顕著に示している』とし、まさに文政六(一八二三)年四月、『伊香保温泉の鎮守伊香保神社の奉納額掲額をめぐって、北辰一刀流の千葉周作と』、『馬庭念流一門との間にあわや大乱闘という騒動が勃発、西原好和が』「伊香保額論」を『執筆し、これを曲亭馬琴が』、この「兎園小説」に『収録したため、馬庭念流の名前が世に知られることになった』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 吉兆

 

   ○吉兆       輪  池  堂

小田原候は、むかしより吉事ある每に、必、城の櫓に、鯛一打、すゑてあり。今の侯に至りて、あるとき、五、六寸の鯛二枚、あがりてあり。家臣、これを見て、「例の吉瑞なり」とて、とりおろして侯にたてまつりしかば、料理せしめてめしけるに、はたして、「めし狀」到來して、顯職を得給ひき。「是、人間わざにあらず。かの人の所爲ならん。」といへり。又、御先手頭山本原八郞は、家の紋、「鳥居に鳩」なり。吉事あらん前には、鳩の來集まるとあり。もとは新御番にてありしが、鳩一羽、家の内に飛び入りし事、有り。『いかなることにか』と思ひあやしみける程に、やがて組頭になりけり。そのゝち、又、五、六羽、庭上にゐたることあり。「吉兆なるべし。」と、いひあヘる程に、西丸小十人頭にすゝみたり。去年の冬、御先手になる前には、二十あまり來つゝ馴れたりといヘり。これをおもふに、「白澤圖」に、『野鳥入ㇾ屋、鬼名「不穴」【一作「白窟」。】』と見えて、怪とせしも、一槪には信じがたし。予は、はじめ、國鏡の手傳に出でし時は、母の忌日に、「めし狀」到來し、御加增のときも、母の忌日に、めしけるなり。この母は、予が十歲の時、身まかりしが、その遺言を守りて、日夜、觀ずをるゆゑ、相感ずる所ありしにや。この事を記しゝ文を、故(モト)の吉田候、見させ給ひて、感心のよし仰せ下されし。「されば、親の守りは、現世のみならず、なき後までも、かくあれば、おろかにな思ひそ。」と、わかき人に常にいひきかすことなり。

  文政八年正月十四日   弘 賢 識

 

[やぶちゃん注:「小田原侯」この文政八(一八二五)年当時の小田原藩藩主は大久保忠真(ただざね)。彼は文政元(一八一八)年に老中となっており、これはその直前の出来事考えられる。

「白澤圖」「白澤」(はくたく)は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現わすという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものは、この世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という。因みに、本邦では、江戸時代、この白澤の図像なるものが、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した

「國鏡の手傳」幕府御家人で右筆でもあった国学者屋代弘賢(やしろひろかた)は、他の学者や絵師などとともに、幕府によって各地に派遣され、古墳や遺跡・寺社などから出土・保管されていた古い銅鏡の調査を行っている。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 禁裏萬歲之御式

○禁裏萬歲之御式     好 問 堂 錄

[やぶちゃん注:以下、「小泉豐後」署名まで底本では全体が二字下げ。]

此時、所司代より警固出役等もなし。又、諸人拜見もならざりし故、彼地においても誰も存じ申すもの覺なし。此に記すも亦、その大槪のみ。

          萬歲 小 泉 豐 後

每年正月四日、紫宸殿の御庭にて舞ふ。

[やぶちゃん注:以下、「始には、」まで底本では全体が二字下げ。]

裝束は三位烏帽子【此烏帽子は、古へより給はりしよし申し傳ふ。】、大紋着【但し、下は半袴のごとく裾短し。】、脇は紅の兩面の小袖【尤、無紋。】、下に白無垢を着、小さ刀を帶す。舞ふ時は、兩人ともに脫劔なり。歲若(サイワカ)は、萬歲烏帽子、素襖を着【但、下は半袴の如く、裾、短し。】、縬(シヾラ)熨斗目【紋は丸の内に笹龍膽、則、小泉の家の紋なりとぞ。】を着、刀・脇差を帶す。扠[やぶちゃん注:「さて」。「扨」に同じ。]鞨鼓・中啓を持。【但、豐後は翔鼓を持ちて、手ににてこれを打つ。歲若はいづれも持たずして舞地なり。】唄ひものは、委敷[やぶちゃん注:「くはしく」。]はしれず。大かた三番叟の舞に似よりしか。始には、

「トウ、トウ、タラリ、タラリ、ラフ

[やぶちゃん注:鍵括弧の閉じはない。「〽」と同じ記法であろう。以下、「申し終りて、」まで底本では全体が二字下げ。]

其次に、一本の柱より十二のはしらと申す神々の御名を申し終りて、

德若に『御代萬歲』と、『枝も榮え益します』、愛敬ありける。『あら玉の年立ちかへる日の朝日より、水も若やぎ、木の芽咲き榮えけるは、誠に目出たう候ける。』。

[やぶちゃん注:以下、「【附たり、小さ刀を帶び、牀几を用ふ。】、」まで底本では全体が二字下げ。]

北面の武士、大紋長袴にて、御階の左にありて【附たり、小さ刀を帶び、牀几を用ふ。】、

『勇みませい』と大音にて申す。

[やぶちゃん注:以下、「御階の上にて、」まで底本では全体が二字下げ。]

其後、うたひ候は、空穗の猿の錄にうたひ申す唱に似より候樣に見ゆ。又、太子御誕生の事あり。

そのあとは、年々承り候[やぶちゃん注:底本には編者によるものと思われる『(本のまゝ)』とある。]事に承りし。

五位殿上人、中啓を持參候て、御階六段目【御階十二段あり。】にて北面へ御渡し、北面より豐後ヘ披下候。弓場殿【此所、土間ゆゑ、薦をしく。】にて休息仕、御料理御酒、御鏡餠頂戴仕。勘解由使、靑銅拾貳貫文、米一石持參にて、中啓と取替に相成るなり。

中宮樣へ參り候とき、御庭にて女嬬と見えて、由小袖に袴を着、檜扇にて顏をかくし御階の上にて、

『いさみませい』と大音にて申すと、

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

御翠簾の内、大勢の女中の聲にて笑ひ候事、御庭まで聞え、女嬬も、はやく、かけごゑ申すあり。頂戴ものは御翠簾の内より、段々紙に鳥目、其外、色々、ものを、なげ出だされ、頂戴仕候。その内に金壱分五つ、五色の糸にて、よくからみたる一つ、御座候。是は中宮樣より賜候歟。其外、院の御所がた、右之通りなり。宮方・公家方へは、御召御座候得共、御問これなきときは。まゐり不申候といへり。【附たり、素あしにて草履をはけり。】

右者、ある人の覺えし趣き書き付け侍りしとて、おこせたるをこゝにしるす。

 右一條、これを友人の筆記中に得たり。

 文政乙酉上元前一日     山崎美成錄

 

[やぶちゃん注:正月の門付祝祭芸である「萬歳」(まんざい)が内裏に呼ばれて行われた際の様子を記したもの。「万歳」は「千秋(せんず)万歳」とも称し、知られた三河万歳の他、尾張・秋田・会津・越前・加賀・伊予・豊後(以上は一九八〇年代時点で現存)・大和・江戸・仙台・伊六(いろく:明治末期から大正初期にかけて流行したもの。初代伊六は愛知郡笈瀬村(現在の名古屋市中村区)の出身とされ、知多万才などに雑芸を取り入れて伊六万才を称した。現在、復元されて継承されている)・沖縄のチョンダラーなどがあった。各万歳とも演目・扮装・楽器・演技などに特徴的差がある。基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の二人一組(才蔵は門付先による演目選択によって複数の場合もある)で、一般的に太夫は烏帽子に素袍(すおう)で扇を持ち、才蔵は門付には大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)、座敷の場合は、格式を尊び、侍烏帽子などに素袍で鼓を持つ。二人の掛け合いで口調・身振りも軽快に、万歳独特の寿詞(ことほぎ)を唱え、後に余興としてくだけた万歳を演じる。第二次世界大戦以前まではよくみられたが、昭和四五(一九七〇)年頃には、殆んど見られなくなった。嘗ては農山村民の正月の副職能としてあったが、現在は民俗芸能として余命を保っているばかりである。万歳は、一説には、奈良時代の宮中正月節会の「万年阿良礼(まんねんあられ)」と囃した踏歌(とうか:男女が集団で足拍子を踏んで祝福した正月の晩の歌舞。本来は中国西域の灯飾りの風も入った隋・唐の都市の民間行事で「観灯会」と言ったものが、本邦に伝わったもの。「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年正月十六日の条にその初見が見え、これ以後、次第に「踏歌節会」(とうかのせちえ)として宮廷の年中行事の一つとして定着したものらしい)を起源とするという。「万葉集」巻第十六の「乞食者詠歌(ほかひびとのうた)」は固有の寿詞の存在を示しているが、平安中末期には「源氏物語」などで見られるように、既にくだけた内容のものとなっており、平安期の猿楽でも「千秋万歳之酒祷(せんずまんざいのさかほかひ)」(「新猿楽記」)と、滑稽物真似が演じられていたことが判る。鎌倉時代には被差別民を集めた散所(さんじょ)の僧形神人(そうぎょうじにん)の職能であったが、宮中にまで参仕するまでになっていた(「明月記」)。これは、半ば恒例化して江戸幕末まで続き、「言立(ことだつ)」「枡舞(ますまい)」など、六演目の禁中千秋万歳が知られている。大和万歳の「柱立(はしらだて)」は「言立」の、チョンダラーの「御知行(うちじょう)」は「枡舞」の名残である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「縬(シヾラ)熨斗目」縬織(しじらおり:経緯(たてよこ)糸の張り方の不均衡によって表面に凹凸を表した織物)の熨斗目(腰の部分だけに縞や格子模様を織り出した絹織物の小袖を熨斗目小袖或いは単に熨斗目という。これは元来、武士が大紋・素襖(すおう)・裃(かみしも)の下に着用した小袖で、室町時代に始まったものとされる。「文化遺産オンライン」の「縬熨斗目小袖」を見よ。

「中啓」扇子の一種。親骨が要よりも外側に反った形をしており、折り畳んだ際に銀杏の葉のように扇の上端が広がるもの。

「女嬬」(によじゆ/めのわらは)は後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除や照明を灯すなどの雑事に従事した下級女官。「女孺」とも書く。

「由小袖」不詳。]

2021/08/06

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余録」・「兎園小説拾遺」/全十二巻)正字正仮名電子化始動 / 大槻修二解説・「兎園小説」正編目録・第一集「文政六年夏の末、沼津駅和田氏女児の消息」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説」は江戸後期の随筆。編者は瀧澤解(とく:曲亭馬琴の本名)。文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名(以下の大槻氏に解説に簡単な事績とともに全員が紹介されてある)の好事家を本会員として、江戸や諸国の奇聞・怪奇談・珍説・噂話を持ち寄って発表する「兎園会」と称する会合が持たれた。その全記録総計三百話に近い談話を提供者の名を明らかにして書きとめたものである。ジャンルは好古考証から、現在の「アーバン・レジェンド」(都市伝説)相当の妖しい話まで、多岐に亙る。

 私は既に、高校国語教師時代のオリジナル古典教材として実際に授業したものの教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」でも、本編の第十一集の琴嶺舎の「うつろ舟の蛮女」(琴嶺舎は馬琴の息子瀧澤興継(おきつぐ)の号。松前候の医員(宗伯と号した)であったが、病弱で、天保六年(一八三五)に三十八歳で若死にしている(死因不明)。馬琴は彼を偏愛し、医師としての評判を上げてやるために、自作の作品の中で宣伝をしたりしている。実はこの「兎園小説」の彼の提供したとされる話の幾つかも、残された原稿の一部から、実は馬琴が彼のために代作したということが森銑三によって明らかにされている)及び第三集の文宝亭「あやしき少女の事」(文宝亭は江戸飯田町の薬種屋主人亀屋久右衛門の号)を本文・語注・解釈・現代語訳を附して紹介している。十五、六年前それをやらかして以来、本集をいつか電子化したい思いをずっと抱いていた。但し、私の節として、正字で電子化したいという一点は譲れない。ところが、正編を除く、続編群は国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種 第四巻」(国書刊行会編大正二(一九一三)年)で正字表記を確認出来るのだが、不思議なことに、本邦の如何なる電子データ・サイトを見ても、正編のそれが見当たらない。一つだけ、「国文国文学研究資料館」のデータベース内に愛媛県の大洲市立図書館蔵の写本を画像を見つけたのだが、これは管見して見ると、実は「兎園小説」正編の中の「第九集」「第十集」「第十一集」だけが写されているものであった。このことは、もう半年ほど前に判ったことであったのだが、そこで、ちょっと足踏みしてしまった。しかし、その後もグーグルブックスの画像を調べたり、海外サイト(時に本邦の有名な作家の書籍が全画像化されていることがある)も調べたりしたが、無駄であった。神田に出向けば、古書で手に入るとは思うが、この状況下では、それをやる気は全くない(私は週に一度、買い出しのために大船の町に行くばかりで、殆んど外出しない)。……しかし、腕組みして佇立していても始まらない――ここでブログ・カテゴリ「兎園小説」を始動することとした。ただ、最初の解説で大槻修二氏が言及している馬琴が実際に担当したものだけを抜粋した「曲亭雜記」の活字本(渥美正幹編・明治二三(一八九〇)年刊)が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで確認が出来ることが判ったので、それも校合対象とすることとした。

 正編については、吉川弘文館随筆大成版(平成六(一九九四)年刊新装版。私は「兎園小説」は全編分を同新装版で所持している)を加工底本として、漢字を概ね恣意的に正字化して示すこととし、「第九集」「第十集」「第十一集」は上記の「国文国文学研究資料館」のそれと校合する。全篇は長いので、例の如く、私の神経症的な注を附していると、転生しても終わらないだろうからして、原則、私がどうにも意味が分からず、躓いて動けなくなった箇所にのみ限定して附すこととする。

 冒頭で実に要点を摑んで解説をされておられる大槻修二(弘化二(一八四五)年~昭和六(一九三一)年:修二は通称で、本名は清修。号の如電(じょでん/にょでん)が知られる)は学者・著述家。仙台藩儒者大槻磐渓の次男として江戸に生まれた。かの近代初の本格辞典「言海」の著者として知られる国語学者大槻文彦の兄である。家学から林家で漢学を学び、仙台藩藩校養賢堂では国学も学んだ。明治四(一八七一)年に海軍兵学寮の教官となり、後、文部省に勤務し、仙台藩から文部省に引き継がれた「新撰字書」編集事業に従事した。明治七(一八七四)年(年)、文部省を退官した後は、在野の学者として著述に専念し、明治八年には、家督を弟の文彦に譲っている。これは自由奔放な生き方をこととする自分よりは、弟に家を任せた方が適切だ、と考えたことによるという。和・漢・洋の学や文芸に通じ、多くの著作があり、また、祖父であった、かの大槻玄沢と親交のあった工藤平助(私が電子化している只野真葛の実父の医師)の小伝も著している。如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊・雅楽及び平曲から俗曲に至る本邦の伝統音楽に精通しており、「俗曲の由来」や、日本の雅楽研究の嚆矢となる「舞楽図説」を書いている。博識とともに、その奇行でも知られた(以上は当該ウィキに拠った)。没年からお判りの通り、彼の著作物はパブリック・ドメインである。同解説は明治二四(一八九一)年のクレジットであるから、当然の如く、本文同様に漢字を正字化した。

 目録部分の電子化は「国文国文学研究資料館」のそれを参考にした。大槻氏解説・目録・本文総てに於いて、句読点・記号は、一部、従わなかったり、追加したりした。頭書・割注等は【 】(判別のつくものはどちらであるか注した)で表記し、参考本に従わず、最も適切と思われる箇所に挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【二〇二一年八月六日始動 藪野直史】]

 

   兎 園 小 說

 

「兎園小說」は、瀧澤馬琴、山崎北峯等の發意にて、文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]乙酉のとし、同好の諸子と謀り、每月一囘互に奇事異聞を書記し來りて披講し、是年正月、海棠庵の發會より、十二月著作堂の集會に終る。每會の記事を輯めて一部十二卷となせるものなり。「兎園册子」といへること、「五代史」に見え、『鄕校俚儒、敎田夫牧子之所ㇾ誦也』とあり。この書の題名も、此意より取れる者ならんか。會合諸子は左の如し。

著作堂  瀧澤馬琴、嘉永元年十一月歿、年八十二、略傳既に出でたり。

好問堂  山崎美成、字は文卿、通稱は新兵衞、北峯と號す。下谷長者町の藥商なり。是年十月、海案庵の例會に馬琴と文學上の口論をし、兩人の間、永く絕交したりとぞ。文久三年七月六十七にて歿す。

海棠庵  關思亮は源吾と稱し、東陽と號す。書家關其寧の孫なり。天保元年九月歿す。年三十六。

輪池堂  屋代弘賢、通稱は太郞、のち銓文と改む。幕府の小吏なり。俸祿十五俵御臺所人より起り、十二年間に御右筆格となり、後、本役となりて祿百石を賜はる。天保十二年五月、八十四歲にて歿す。博識にして藏書に富めるは、世の遍く知る所なり。

松蘿舘  西原好和、通稱は新右衞門、立花侯の留守居なり。是年三月、其藩柳河に赴きしかば、四月以後は此會に出でず。元來、好事家にて、且、當時、留守居役の風習として、驕奢遊蕩を競ひしが、文化十二年四月、幕府より風聞不宜國元蟄居の譴責を受けて歸國し、天保のはじめ歿せりといふ。

麻布學究 大鄕良川、字は伯儀、通稱は金藏、信齋と號す。越前鯖江藩士なり。林祭酒に學びて、松崎退藏(慊堂)、葛西謙藏(因是)、佐藤捨藏(一齋)等と林門五藏の稱あり(一藏は其人を忘る)。文化の初め、師命を以て、學舍を麻布の古川端に開く。因て城南讀書樓と稱す。弘化元年十月歿す。

龍珠館  桑山修理、慕府旗下の士なり。祿千二百石にて、屋舖は本所三つ目通り冨川町にあり。此人は耽奇會の發起人なり。

文寶堂  龜屋久右衞門、本姓實名共に詳ならず。飯田町に住みて藥種を商ふ。後に二代目蜀山人の號を襲げり。文政十二年三月歿す。年六十二歲。

蘐園   荻生維則、字は式卿、本姓は淺井氏なるが、物徂徠の孫鳳鳴の養子となり。年二十餘にして郡山藩の儒官を襲ぎ、家の通稱惣右衞門を稱す。文政十年正月、徂徠百年忌に、大に都下の文學雅藻の士を會せしといふ。歿年未詳。

[やぶちゃん注:「蘐園」は「けんゑん」と読む。]

遯齋   淸水正德は、通稱俊藏、號を赤城といふ。上野の人にして經學及び兵學に通曉せり。嘉永元年五月、八十三歲にて歿す。案ずるに、林門五藏の一人若くは此人か。

[やぶちゃん注:許斐遯斎(このみとんさい 天明元(一七八二)年~弘化元(一八四五)年)は儒者。本姓は中村、名は氏苗。筑前福岡藩士。竹田復斎・梧亭兄弟に学び、後に藩校修猷館で教えた。]

乾齋   中井豐民は、太田錦城の門人なりといふ。其出處經歷いまだ詳ならず。後考を待つ。

[やぶちゃん注:「乾齋」は「けんさい」と読む。江戸時代後期の儒者。大田錦城に学び、三河吉田藩に仕えた。渡辺崋山・鈴木春山らと交わった。嘉永三(一八五〇)年刊の「古今絶句所見集」「周易晰義(せきぎ)」「周易比例考補」など多くの著作がある。「豐民」は名で、別に隆益とも。]

琴嶺   瀧澤興繼は宗伯と稱す。馬琴の男なり。松前侯の醫員にて天保六年五月歿す。年三十八。

[やぶちゃん注:以上の人物紹介は、底本では、各人の解説が二行目以降で字下げとなっている。しかし、似たような配置にして公開すると、ブラウザ上での不具合を生じたので、改行・字下げをせずに示した。底本の字空け(号の表記)などは再現していない。これは基本、以下の本文でも同じで、いちいち注しない。]

 以上十二人を本員とす。

靑李庵  角鹿氏京師人    晃樹  西原氏柳河人

 以上二人は客員なり。角鹿氏は著作堂の紹介にて、西原氏は松蘿舘の親族なりとぞ。この「兎園小說」は、本篇十二卷に「外集」・「別集」・「餘錄」を幷せ、總て二十卷を全本とす。其本書は著作堂に傳へたりしが、天保十四年の歲末に臨み、故ありて伊勢の人小津柱窓に金五圓にて讓りたりしよし、馬琴が日記に見ゆ。余が藏本は疊翠軒藏書の朱印あり。この藏主は、幕府旗下の士石川左金吾(祿三千石、麻布古川町に邸あり。)にて、馬琴と交り、殊に親しく、「八犬傳」第九輯の序に、琴籟閑人とあるは、卽ち、この人なり。天保十二年六月卒すと聞けば、柱窓に讓らざる以前に於て、全部を寫し置きたる者なるべし。余の藏書となりて既に十餘年なり。さて、此書は、抄略の本、まゝ世に傳はりたれど、全本のもの、いと稀なるよし、伊勢の本は、今尙、小津の家に存せりや否や、さだかならず。家藏の完本なるは、殊に珍らしとて、年ごろ、朋友の中にもてはやされたり。前年馬琴の外孫なる渥美正幹子に借し與へたりしが、子は全くこれを寫したりとぞ。又、書中にて、馬琴の手記にかゝる者を抄出して、同子が編纂せる「曲亭雜記」にも載せたり。此度、吉川より「百家說林」の中に加へたしと乞はれければ、曾て篇中諸子の傳記をも、見聞に隨ひ、書き留め置けるもの、詳略のまゝ卷首に揭げ、且、此書の來歷をも附記して授けぬ。

  明治二十四年七月

       如電居士  大 槻 修 二 誌

 

 

[やぶちゃん注:以下、底本では「目次」とするもの。先の写本から「目錄」とした。発表者名は標題下方に揃えてあるが、ブラウザでは字空けが一致せず、がたがたするだけなので、総て標題から二字下げで繋げた。]

 

   目錄

 

第一集【文政八年乙酉春正月十四日於海案庵發會】

文政六年夏の末、沼津驛和田氏女兒の消息  海棠庵

禁裏萬歲之御式  好問堂

吉兆  輪池堂

伊香保の額論  松羅館

神主長屋惣八が事  文寶堂

ひやうし考辨に圖說  著作堂

百姓幸助身代り如來の事  同

 

第二集【乙酉春二月八日於海棠庵集會】

神靈  輪池堂

賢女  同

武州多摩郡貝取村揭出の古碑  好問堂

隱語  同

蚘蟲圖  同

[やぶちゃん注:「蚘蟲」「かいちゆう」と読んでいるか。「蚘」は漢音「カイ」・呉音「ユウ」で、所謂、「回虫」で「はらのむし」とも訓ずる場合もある。異体字に「蛔」もある。但し、我々の知っている人体に侵入する寄生虫(狭義には線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒト回虫 Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類)とは異なることが、本文と奇体なその虫の図を見ると判る。そこで正体の考証はしてみる。]

好問質疑  同

「まみ穴」・「まみ」といふ獸の和名考に「ねこま」・「いたち」和名考奇病の評  著作堂

[やぶちゃん注:「に」の「に」が小さくないっていないのは底本のママ(後も同じ)。「附」は「つけたり」と読む。]

駿河町越後屋紋合印の事  文寶堂

銀河織女に似たる事  同

元文五年の曆のはし書  同

藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書  海棠庵

兩頭蛇辨圖  同

 

第三集【乙酉春三月朔於著作堂集會席上披講如例】

五馬 三馬 二馬  著作堂

於竹大日如來緣起の辯  好問堂

あやしき小女の事  文寶堂

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」で採り上げた。 ]

安宅丸御船つくられし時の漆の事  同

[やぶちゃん注:「安宅丸」は「あたけまる」と読む。寛永九(一六三二)年に第三代将軍徳川家光(建造命令を発したのは先代徳川秀忠ともする)が向井将監に命じて新造した当時としては超弩級の軍船艤装に絢爛豪華な装飾を施した御座船。寛永一一(一六三四)年に伊豆伊東で完成進水し、江戸湾に回航され、翌年六月二日に品川沖で家光が試乗、その後は江戸深川に係留された。しかし、あまりに巨大であったため、推進力不足で、実用性が全くなく、殆んど機動されたことがなかったとされる。維持費用が嵩み、奢侈引締政策の影響もあって、ここで語られた百四十三年も前の天和二(一六八二)年に幕府によって解体されている。参照したウィキの「安宅丸」に十九世紀に描かれた想像図ならある。]

高松邸中厩失火の事  松蘿館

山王雲聖  輪池堂

染木正信  同

「むじな」・「たぬき」辯に熊の月の輪  海棠庵

猫・虎相似附錄  好問堂

猫・虎相似の批評  著作堂

 

第四集【乙酉夏四月朔於海棠庵集會席上披講如例】

七ふしぎ  著作堂

建治の古碑に武市兄弟  海棠庵

[やぶちゃん注:「武市」「たけち」と読む。]

身代觀音  輪池堂

[やぶちゃん注:「身代」は「みがはり」。]

耳の垢取  同

風神圖說  好問堂

虹霓 伊勢踊 琵琶笛 奇疾  乾齋

[やぶちゃん注:「虹霓」は音は「コウゲイ」だが、自然現象の虹についての記載であるから、「にじ」と当て訓している可能性が高い。「虹蜺」とも書く。古代中国に於いて、虹を龍の一種と考え、♂を「虹」、♀を「霓(蜺)」としたことに基づく。]

虛無僧定法  文寶堂

夢の朝顏  同

駒込富士來歷【一錢職分由緖草加屋安兵衞娘之事】  同

 

第五集【乙酉夏五月朔於好問堂集會各披講了】

古狸の筆跡  好問堂

老狸の書畫譚餘  著作堂

家相の談 小野小町の辯 間違草の事  乾齋

定吉稻荷  輪池堂

稻荷の正一位  同

神童石川爲藏詠歌の事  文寶堂

葺屋町なる歌舞伎座の梁折れし事  同

町火消人足和睦の話  海棠庵

佐倉の浮田 安永以來のはやり風  著作堂

兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木  同

[やぶちゃん注:「美日」は「びじつ」で非常に天気が良い日の意。]

賀茂甲斐筆法の辯 著作堂客篇 京 靑李庵

花  同

松五郞が遺愛馬の考異  琴嶺舍

奧州平泉毛越寺路舞歌唐拍子  同

 

第六集【乙酉夏六月十三日於輪池堂集會席上各披講了】

土定の行者不死 土中出現の觀音  著作堂

[やぶちゃん注:「土定」「どぢやう(どじょう)」で地下に自らを封じて即身成仏して入定(にゅうじょう)すること。]

蛇化爲蛸  琴嶺舍

[やぶちゃん注:標題は本文に「蛇、化(け)して、蛸(たこ)と爲(な)る」とある。]

双頭蛇  同

奧州南部癸卯の荒餓  好問堂

身代り觀音補遺  同

狐孫右衞門が事  海棠庵

なら茸 乞兒の賢 羅城門の札  乾齋

新古原若松屋の掟  文寶堂

突といふ沙汰  同

松前の貞女  輪池堂

北里の烈女  同

 

第七集【乙酉秋七月朔於文寶堂集會各披講了】

古墳女鬼  文寶堂

金靈に鰹舟の事  同

[やぶちゃん注:「金靈」本文から「かねだま」と読んでいる。]

由利郡神靈  海棠庵

土中出現黃金佛  同

蛇崇  同

勝敗不ㇾ由多少之談  乾齋

腐儒唐樣を好みし事  同

養和帝遺事雨蛤竹筒  好問堂

[やぶちゃん注:「雨蛤」は音で「うがう(うごう)」か。「雨蛤」と名が書かれた(彫られた?)竹筒で出来た唐辛子入れ。]

自然齋和歌  輪池堂

野狐魅人  同

上野國山田郡吉澤村掘地所見石棺圖  同

石棺圖別錄  文寶堂

靈救水厄金像觀世音【ひやうし考再案附】  著作堂

松前大福米  琴嶺舍

平豐小說辯  著作堂

[やぶちゃん注:「平豐」は「へいほう」で本文から平清盛と豊臣秀吉のこと。]

 

第八集【乙酉秋八月朔於海棠庵集會各披講了】

鑿井出火  海棠庵

婦女產石像 貞享四年官令  同

變生男子  文寶堂

[やぶちゃん注:「へんじやうなんし」と読む。]

狐囑の幸  同

[やぶちゃん注:本文内容から「こしよくのさひはひ」と読んでおく。]

九姑課  好問堂

[やぶちゃん注:「九姑課」は「きゆうこか」で中国伝来の卜占術の名。]

夷言粉挽歌  輪池堂

物怪の濡衣  同

隅田河櫻餠  同

本所石原の石像  龍珠館

小右衞門火  同

天照太神を吳の太伯といふ辯  乾齋

獼猴與巨蛇鬪 客篇 京  靑李庵

[やぶちゃん注:標題は「獼猴(びこう)、巨蛇と鬪ふ」。「獼猴」は大猿(おおざる)。]

ほりこてふ  同

奇遇  琴嶺舍

根分の後の母子草  著作堂

[やぶちゃん注:標題は「ねわけののちのははこぐさ」で、孝子人情話の外題である。]

 

第九集【乙酉秋九月朔於乾齋集會各披講了】

蓮葉虛空に飜るの異  乾齋

藪に香の物の世諺  同

慶雲 彗星  好問堂

鍾馗  輪池堂

遊女高尾  同

奇夢  海棠庵

鼠の怪異  文寶堂

佛像腹籠の古書  同

[やぶちゃん注:「腹籠」「はらかご」。仏像の胎内が籠状になっており、そこから文書が出現したという話。]

窮鬼  琴嶺舍

双生合體  著作堂

一足の雞   同

双生合體追記  文寶堂

「ひなるべし」作者自序の辯 客篇  靑李庵

 

第十集【乙酉冬十月朔於輪池堂集會各披講了】

庫法門  好問堂

[やぶちゃん注:「くらほふもん」(仏教用語の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」ではなく「ほふ」である)と読んでおく。浄土真宗の異端(異安心 (いあんじん)と呼ぶ) の一種で秘事法門の代表的なもの。御庫秘事(おくらひじ)・土蔵秘事・御庫門徒・布団被り・内証講・御杓子講・隠念仏 (かくしねんぶつ) などの異名がある。土蔵の中で弥陀の本身を拝し、「在野の宿善の信徒だけに、親鸞が、特に、その子善鸞に伝えたという深義を説く」とされ、尾張名古屋一帯を中心に関東でも行われた(「ブリタニカ国際大百科事典」)。]

立石村の立石  海棠庵

掘地得城壘【石地藏圖附】  同

人の天降りしといふ話  文寶堂

[やぶちゃん注:「天降り」「あまくだり」。]

素馨花  輪池堂

[やぶちゃん注:「素馨花」は「そけいくわ」で、双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum 。花から採れる香油がお馴染みの「ジャスミン」である。]

濃州の仙女  同

鶴の稻供大人米考  同

[やぶちゃん注:「大人米」本文の引用が総て漢籍で、殆んどが仏典であるから、「だいじんべい」或いは「だいじんまい」と読んでおく。]

阿比乃麻村の瘞錢  琴嶺舍

[やぶちゃん注:早速、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」が役立った。ここに「あひのまむらのうづめぜに」とルビされてある。]

中川喜雲京童の序の辯 客篇  靑李庵

謠曲中の小釋  同

眞葛のおうな  著作堂

[やぶちゃん注:私がブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注しているその人のことである。]

 

第十一集【乙酉冬十月廿三日於海棠庵集會席上各披講了】

孫七天竺物語抄  好問堂

蝦夷靈龜  海棠庵

 蝦夷靈龜考異  著作堂

[やぶちゃん注:字下げはママ。]

佐久山自然石  海棠庵

狐の祐天  文寶堂

白猿賊をなす事  同

越後烈女  輪池堂

高須射猫  同

明善堂討論記  乾齋

其角が發句を辯ず  遯園

虛舟の蠻女  琴嶺舍

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」で採り上げた。 ]

品河の巨女  同

天台靈空是談靈空 客篇  靑李庵

丙午丁未  著作堂

消夏自適天明荒凶記附錄  同

 

第十二集【乙酉冬十二月朔於著作堂集會席上各披講了】

助兼  龍珠館

[やぶちゃん注:標題は「すけかね」で「後三年の役」の侍の名。]

參考「太平記」年歷不合【若鷹考附】  同

漂流人歸國  乾齋

大酒大食の會  海棠庵

風流祭 海棠庵客編  西原見樹

邪慳の親  文寶堂

犬猫幸不幸【養老長壽附】  同

瞽婦殺賊  遯菴

[やぶちゃん注:「瞽婦」は「こふ」で「目の見えない婦人」の意であるが、本文を見ると、瞽女(ごぜ)であることが判るのでここも「ごぜ、ぞくを、さつす」と読んでいよう。]

いきの數【えぞ鳥圖考三十一字附】  輪池堂

[やぶちゃん注:とあるが、本文では、蝦夷の鳥の図についての考証附記は、次の「麻布の異石」の後にあって、分離されている。]

麻布の異石  麻布學究

丑時參詩歌 客篇  輪池堂

文政乙酉御幸記  同

騙兒悔非自新  琴嶺舍

[やぶちゃん注:本文を見るに、「騙兒(へんじ)、非(ひ)を悔ひて、自(おのづか)ら新たむ」ではないかと思われる。「騙」は「だますこと・詐欺をすること」の意。]

破風山の龜松が孝勇  同

瑞龍が女兒  同

賀茂村の坂迎 客篇  靑李庵

希有の物好【古代の呼名附】  同

蒲の花かたみの上  著作堂

[やぶちゃん注:掉尾を飾る長篇の蒲生某の物語の外題。思うに「蒲」は「をばな」と読んでいるのではないかと思う。]

 

 兎 園 小 說

 

              瀧澤馬琴等編

 

   ○文政六年の夏の末、駿州沼津驛

    和田傳兵衞といふものへ、娘より

    遣しゝふみの寫      海棠庵 錄

 豆州岩地村と申す所の獵師の子、齋藤重藏と中すもの、十四歲のとき、兄と共に、なりはひのため、家出いたし、しひたけを作り、其商賣にて處々ありき侯處、おもひ候やうにもなく、兄は、三、四年すぎて、弟をすてゝ國に歸り、ふた親ともに暮しをりしは、三十年ちかき前の年に御座候。然るに、去年豐後國岡【中川侯の城下。】と申す所より、私方名あてにて、「金子廿五兩、岩地へ遣され候樣に」と、たのみこし候。私方にては、一切、存ぜぬこと故、はるばると豐後より岩地へ、「いかなる緣ある人にや」と、早速、書狀を出だし、飛脚をよび、相渡し遣申候處、その人のはなしにて始めて相わかり、十四歲のとき、家出いたしゝ重藏のよし、岩地村にては、三十年ばかり便なき人より、かく書狀幷に金子まで贈りし事なれば、夢かとばかり悅び、披き見ると、豐後國にいたり、椎茸の製作をしらぬ所へ、つくりかたを敎へ、「國益なり」とて、御領主の御かゝえになり、年每に七拾兩の金を賜はり、「岡の嶽山」と云ふ所にて、大造に家を建て、追々仕合よく、三百餘人、召つかひのもの、有之、日々、しひたけをつくり、串にさし、やきて、大城に出だし、春と秋とに二萬兩餘もとりいる身上になりし事、書載御座候よし、當年五月上旬、亦復、豐後より當地ゆきの金子百兩、私方へたのみこし候。いはち村は、至りて、邊土にて、家も、やうやく廿軒ばかりゆゑ、村中、こぞりて稱譽いたし候よし、只今は、重藏・母ばかりに御座候。當六月、右重藏、妻と共に母にあひに參り、氏神へ唐木綿の大幟をあげ候よし、誠にめで度珍しき事ゆゑ、あらあら申上候。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「和田たち」の署名まで、全体が二字下げ。]

かの重藏と申す人、當年四十三歲になり、只今にては、山の中へ家を建て、その家、つくりの大そう、三百餘の手人をつかひ、自身は日々椎茸を作り候所を見𢌞り候に、のりかけ馬にてあるき候よし、妻は阿州のものゝよし、領主より、苗字帶刀上下御免あり。まことに重藏、もとは獵師の子にて、細きけむりもたてかねし身の、わづかに二、三十年に、かくなり出で候事、天運にかなひ候ものに御座候。

              和 田 た ち

       せき御ふたかた樣

右傳聞、原本のまゝにしるしつ。

        乙酉孟春  關  思  亮

 

[やぶちゃん注:私が先日、電子化注した「日本山海名産図会 第二巻 香蕈(しいたけ)」の、サイト「旧特用林産研究室」の「シイタケの話(一)」を参照されたい。本話が紹介されてある。]

2021/08/05

譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事

 

○同年六月廿九日より、信州淺間山、震動して、沙石(させき)をふらし、晝夜、闇の如く、雷電、甚し。

 七月八日に及(およん)で、震動、しばらく、しづまりたるやうに覺えて、諸人、安堵の思ひをなし、男女(なんによ)、家業をはじめ、機(はた)など織(をり)かゝりたるに、翌九日巳の時に至り、俄(にはか)に山つなみ起りて、泥を卷來(まききた)る事、十丈ばかりにて、信州・上州、人家・田畑、赤地(あかじ)に成(なり)たる所、凡(およそ)橫八里に竪十八里ほどに及べりとぞ。

 八月中、御見分の御役人、被ㇾ越候節(こされさふらふせつ)のものがたりなり。

 此(この)泥津浪(どろつなみ)は、淺間より、七、八里、辰巳(たつみ)にあたりて「あづま山」といふ有(あり)、其(その)山、絕頂、燒出(やけいだ)し、半腹よりは、泥湯・硫黃の火炎を吹出(ふきいだ)して、かくの如く成(なる)わざはひに及(および)たる也。

 其(その)吹出したる泥土、東の方、上州に、一つの山となれり。あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ。卽(すなはち)、武州刀禰川(とねがは)の川上にて群馬郡(ぐんまのこほり)なり。その川を隔てて、南杢村・北杢村・川島村とて、三箇所の村、殘らず、おしながされ、南に「杢の番所」といふ、川より六丈程高き所にあるを、番所の役人ともに、をしながし、鳥有(ういう)に成たり。此番所は越前三國の海道也。橋も、はしくひ、なく、左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり。はしより、水面までは、二丈ばかりもありとぞ。其(その)川下、つなみの及ぶ所、人家、損亡して、人の死骸、手足、きれぎれになり、流れて、刀根川(とねがは)の川上を埋(うづ)め、かちわたりと成(なり)たり。硫黃(いわう)の氣に、川水、濁り變じて、川の魚、悉く死し、川水、外にあふれて、いく筋となく、えだ川、出來、又、そのながれに損ずる所の田畑、勝(かつ)て計(はかり)がたし。

 其硫黃の川水、中川より行德(ぎやうとく)へ押出(おしいだ)し、伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ、七月十八日、大南風(だいなんぷう)吹(ふき)たるとき、さし汐(しほ)にて、右のにごり、水を江戶へ吹(ふき)よせ、海の色、變じたるゆゑ、芝浦・築地・鍛炮洲邊にては、

「つなみ、おこる。」

とて、大(おほい)に騷動し、佃島の男女、殘らず、雜具をはこび、陸地に移り居る事、二日に及(および)て、はじめて、しづまりたり。

 信州・上州にて暴死のもの、凡(およそ)三、四千人、死骸、とね川をながれくだりて、房總・行德、所々のうらうらへよりたるを、其所(そこ)にて葬(はうふり)たる事、また數をしらず。

 同時(おなじとき)、淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり。是(ここ)は朝士、番町の住(ぢゆう)、伊丹兵庫介殿知行所也。

 上州高崎城下は、泥の雨、降(ふり)て、人家をおしつぶし、松平右京太夫殿領所、殘らず、不毛の地と成(なり)たり。

 江戶より信州・上州邊に知音(ちいん)有(ある)もの、そのかた、とぶらひに行(ゆき)たれども、高崎の川、晝夜、いわうの火焰ながれ、雷電、止(やま)ざるゆへ、おそろしく、みなみな、高崎限(かぎり)にて江戶ヘ歸りたり。

 信州[やぶちゃん注:「上州」の誤り。]安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。

 此(この)時節、江戶にても、六月晦日(みそか)比(ごろ)より、震動の樣(やう)に、時々、鳴(なり)ひゞき、七月八日は、戶障子へ、ひびく程に鳴たり。八日夜に入(いり)て、其音、聞えず、尤(もつとも)右兩日は、朝より、雲のいろ、赤くくもりて、日の光、うすく、北風にて、白き砂を吹(ふき)こし、軒端より、屋上にふり積る事、灰をちらしたる如し。晝過(ひるすぎ)より、南風に吹(ふき)かはりて、灰もふりこず、晚方は快晴に成たり。淺間の砂、關東に降(ふり)たる事、淺間より東は、おほかた、のこる所なく、海邊まで、みな、然り。奥道中は宇都宮邊に及ぶ。所によりて、厚薄(こうはく)あり、草賀(さうか)[やぶちゃん注:草加。]・越谷(こしがや)宿等は、一、二寸、下總小金邊は、三、四寸、上州御領所は、土砂、ならし、壹坪、三斗五升ほどありし、といへり。

 上州、所々、破滅せし故、かひこの種、うしなひたれば、來年は絹の類、貴(たか)かるべし、といへり。綿・麻等も、おびたゞしく損ぜしゆゑ、一倍の價(あたひ)に成たり。

 今年、江戶の米、金壹兩に、四斗二升までを商賣する事に成たり。

 全體、春二月より雨天つゞき、八月九日まで、くもりがちにて、關東の作、凶年に至り、別(べつし)て奥州、仙臺・南部・津輕は、地をはらひて、不作なるよし。奥道中、所々に、盜賊、橫行し、晝(ひる)、中(なか)の刻(こく)よりは、往還、なし。

 江戶にても、窮民、道路に立(たち)て食を乞ひ、人家に入(いり)て、飢(うゑ)を愁(うれ)ふるもの、白晝に絕(たえ)ず。往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり。

 冬に至り、町奉行御役所にて、大坂御買米(おかひまい)有(あり)、町々へ、七斗の相場にて分(わか)ち下され、夫より、少々づつ、米價も廉(れん)に成たる也。

 

[やぶちゃん注:前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に引き続いて、同時期の㐧天災であった「浅間山天明の大噴火」の記事であり、長いものでもあるので、同じように段落を成形し、句読点・記号も変更・追加した。まず、ウィキの「浅間山」より、当該部を引く。浅間山の大噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。同年旧暦(以下同じ)四月九日に『活動を再開した浅間山は』、五月二十六日・六月二十七日と、一ヶ月『ごとに噴火と』、『小康状態を繰り返しながら』、『活動を続けていた』が、六月二十七日のそれより、『噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した』。七月六日から三日間に亙った『噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約』三ヶ月『続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊』し、『これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。なお』、『爆発音は京都から四国付近、そして極めて疑わしいが』、『九州地方まで聞こえたとも言われる。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村』(かんばらむら)『(現・嬬恋村大字鎌原地域)』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ。浅間山はこの地区の南端にある)『と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり』、『大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は』千六百二十四『人(うち上野国一帯だけで『千四百』人以上)、流失家屋』千百五十一『戸、焼失家屋』五十一『戸、倒壊家屋』百三十『戸余りであった』。『最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明』三『年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている』。『長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった』。『最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明』三『年の噴出物は全体の』五『%ほどしかないことが判明』し、また、昭和五四(一九七九)年から『嬬恋村によって行われた発掘調査では』、三『軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し』、『溶結し』て『再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。二〇〇〇『年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認され』ており、『また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明』三『年の水害、天明』六『年の水害などの二次災害被害を引き起こし』ていたことが判っている。『この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約』十『万人の死者を出したと』、『長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に』一七七〇『年代から起きていることから』、『直接的な原因とは言い切れない。一方で』、『同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火』(天明三年三月十二日(グレゴリオ暦四月十三日))した『ばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火』・グレゴリオ暦六月八日)『とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇』し、『噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから』、『北半球に低温化・冷害をもたらした。このため』、『既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ』、『事態を悪化させた面がある』とある。最後の部分は異論もある。「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」の引用を参照されたい。標題の下方の「火出て燒る事」は「ひ、いでて、やくること」である。

「辰巳」南東。しかし、おかしい。次注参照。

「あづま山」これは当時の激甚被災地と距離から見て、群馬県吾妻郡嬬恋村田代にある四阿山(あづまやさん)か、群馬県吾妻郡中之条町山田にある吾妻渓谷直近の吾嬬山(かづまやま)の誤認ではないか。但し、前者は浅間山の北西、後者は北東であり、孰れも浅間山の噴火の際に同時に噴火した記録は全くない。津村の聴き書きの誤りであろう。津村は後で『あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ』と言っていることから、前者の「四阿山」を指してはいると思われる。この地図で、南東に吾妻川が確認出来る。

「東の方、上州に、一つの山となれり」浅間山の北北東の「鬼押出し」のことを言っていよう。

「刀禰川(とねがは)」利根川。以下の変字も同じ。

「南杢村・北杢村・川島村」孰れも確認出来ない。天明の大噴火で最大の被害を受けたのは、現在の鎌原地区の浅間山北麓の吾妻川右岸一帯であるが、鎌原・大前・大笹などの集落であったが、ここに書かれた村名に近いものは近代初期の地図(「今昔マップ」)を見ても見出せない。ウィキの「鎌原観音堂」(堂の場所はここ)によれば、この天明の大噴火で火口から北へ約十二キロメートルの位置にあった鎌原村は、『大規模な岩屑なだれ』『に襲われ』て『壊滅』した、この時、『鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り』、この『観音堂まで避難できた者、合計』九十三『名のみが助かった。この災害では、当時の村の人口』五百七十『名のうち』、四百七十七名もの『人命が失われた』。『現在、地上部分にある石段は』十五『段であるが、村の言い伝えでは』、『かつてはもっと長いものだったとされていた』。昭和五四(一九七九)年、『観音堂周辺の発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で』五十『段あったことが判明し、土石流は』三十五『段分もの高さ(約』六・五『メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性』二『名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』(私はこの時の発掘の特番映像を見た記憶がある。教員になった年で、私はテレビを持っていなかったから、夏季休業中に親元へ帰った折りに見たのであろう)。『また、この『噴火で流出した土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦』、『堰き止めてから決壊』し、『大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって』、千四百九十『名の人命が奪われる大惨事に及んだ』。『また、当時鎌原村にあった「延命寺(えんめいじ)」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字応桑字小宿)にあった「常林寺(じょうりんじ)」の梵鐘が、嬬恋村から約』二十キロメートル『下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約』百二十『年後』(昭和初期)『に発見され』ている』。『大噴火によって甚大な被害を受けて不安な日々を過ごす住民は、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めた。前年に東叡山寛永寺護国院の住職から、信州善光寺別当大勧進貫主に就任した等順が被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走、被災者一人につき白米』五『合と銭』五十『文を』三千『人に施し、念仏供養を』三十『日間施行した』。『その様子は、「数多の僧侶を従えて ほどなく聖も着き給い 施餓鬼の段を設ければ のこりの人々集まりて みなもろともに合唱し 六字の名号唱うれば 聖は数珠を爪ぐりて 御経読誦を成し給う」と』、「浅間山噴火大和讃」『として伝承されてきた』とある。大体、この前の二つの村名、こういう次第で、読み方が判らない。「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部」(左頁後ろから三行目)を見ると、そこでは「南木工村・北木工村」と書いてあるように見える。孰れにせよ、可能性としては、これらは「もくむら」と読むように思われる。この二村は或いは林業に従事する者たちが居住していたのかも知れない。

「杢の番所」不詳。前に注した通り、「もくのばんしよ」と読んでおく。ウィキの「嬬恋村」によれば、『大笹には関所が置かれた』とあるのが、それであろう。大笹はここである。

「六丈」十八・一八メートル。

「はしくひ」橋杭。

「左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり」猿橋のように、両岸に穴を開け、差込んだ「はね木」を重ねて橋を支えているものを指す。

「かちわたりと成たり」多量の土砂・崩落した建造物・死者の遺体で川が埋まり、徒歩渡(かちわた)りする状態になったというのである。

「中川」現在は利根川右岸を並走する細い中川があるが、それか。この川は現在は江戸川とは別に、海より少し手前で本流は荒川に合流し、残りが旧江戸川として東京湾に至っている。それが判る位置を示す

「行德」千葉県市川市行徳地区。利根川から分岐した江戸川河口附近の旧称。

「伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ」話の展開が急に長距離を駆け抜けて、ちょっと俄かには信じられない感じがするが、津村は、この当時、江戸に住んでいたはずだから、事実なのだろう。

「つなみ、おこる」「海の色」が「變じた」ことから、これが遠く浅間山の噴火によるものとは、誰も思わず、大津波の前兆と勘違いしたというのである。

「淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり」先の鎌原地区のことであろう。

「朝士」旗本ことだろう。

「伊丹兵庫介殿」調べれば判るのだろうが、労多くして、益がなさそうなので、調べない。悪しからず。

「松平右京太夫殿」当時上野国高崎藩主であった松平輝規(てるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。彼は従四位下右京大夫であった。

「信州安中驛」群馬県安中市中宿(なかじゅく)附近であろう。旧中山道が貫通している。

「深谷の宿」埼玉県深谷市深谷町のこの附近。実測で安中の手前三十六キロ以上手前である。

「草賀」草加のこと。埼玉県草加市

「越谷」草加の北の埼玉県越谷市

「下總小金」千葉県松戸市小金

「上州御領所」上野国の幕府領は多数あったので特定不能。

「土砂、ならし」降った土砂を綺麗に均(なら)しところ。

「晝、中の刻」所謂、朝でない午前八時・九時頃以降か。そもそも昔の旅人は未明のうちに出立し、午後遅くまで歩くことは稀れであった。

「往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり」行路死亡人は知らん振りをしていると、罰せられたので、必ず、見かけ次第、奉行所に届けなければならなかった(所謂、事件性が認められるからである)が、検死にやってきた奉行の世話や接待にかかる費用や食事は、皆、当該の町村が全部を負担しなくてはならなかったのである。落語にもあったかと思うが、そうした行き倒れの死体を、隣りの町境まで運んで、向こうへ放り出したところ、向こうも同じようにもとの町の方へどける、というような、実は笑えないひどいこともあったようである。]

譚海 卷之四 天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事

 

○天明三年秋、北國飢饉にて、南部・仙臺・津輕餓死に及べり。

 その秋、南部より、山ごしに、羽州秋田へ來れる同國の行者(ぎやうじや)、物がたりけるは、

『南部領を過(すぎ)し時、いづかたにも、白く、小山のごとく、積置(つみおき)たるもの、多し。

「何ぞ。」

と、みれば、みな、餓死人の死骸、二十、三十、集め置(おき)たるなり。扨(さて)、山中かゝり、日暮(ひくれ)ぬれば、大(おほい)なる家あるゆゑ、

「宿をからん。」

とて、入(いり)て見るに、ゐろりのそばに、老人一人、たふれふして有(あり)、其(その)外は、人氣なし。

「宿を、かしてたべ。」

と、いひければ、老人、

「安き事に侍れども、何もまいらすものとては、米一粒だに、なし。」

と云(いふ)。修行者、

「それは心づかひに及ばず、囘國(くわいこく)の事なれば、米は、たくはひ、もちたり、ただ、宿をかして玉(たまは)らば、うれしかるべし。」

といへば、老人、

「それならば、入てとまり玉へ、夜着・ふとんも、澤山にもちて侍る。」

とて、いりてかたるに、老人云(いはく)、

「われら、家内四十餘人侍(はべり)しが、今年、きゝんに、段々、死(しに)うせて、今日(こんにち)に至りては、我ら、一人、命、つれなく殘り、かく、孫子(まごこ)どもにおくれ、『哀(あはれ)、一日も早く死なばや。』と願ひ侍れど、いかなる惡業にひかれてや、猶、生(いき)とまり侍るが、うたてき事。」

と、かきくどき、かたりければ、修行者も哀(あはれ)を催して、

「敷日(すじつ)、もの、まいらであるは、不便(ふびん)なる事也、こゝに、少し、たくはひもちたる米も侍れば、今宵は此(これ)を參るべし、我等も、報謝のこころにて、まいらせ度(たし)。」

といへば、老人、

「かく、生殘(いきのこ)りたるが、つらし、とさへ思ひ侍るに、何によりてか、又、ものをくひて、一日(ひとひ)も生ながらへ、うきめを見侍るべき、しかじ。只、ものくはで、はやく、うえ死に成(なり)なん事を願ひ侍るのみ。」

とて、一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、修行者、

「さらば。力、なし。」

とて、自身の飯を、かしぎ焚(たか)んとて、井に行(ゆき)て、つるべをさげ、くむに、すべて、水なし。

 歸りて、老人に、とふ、

「又、こゝの外(ほか)に井は侍るや。」

と、いへば、

「少し遠けれども、そこにも有(あり)。」

と敎へければ、行(ゆき)て汲(くむ)に、さきの如く、すべて、水、なし。

 井に、何やらん、もののあたりて覺えければ、ともし火をもちて、井をてらしみるに、餓死に及(および)て、身をなげし人のかばねにや、かさなりて、有(あり)。

 はじめの井も、又、如ㇾ此(かくのごとく)、死人、みちて、水色も、わかず。

 せんすべなくて、田ある方(かた)に行(ゆき)て、やうやう、水口(みなぐち)より、わかるゝ水を、くみもちきて、飯をたきて、くひけり。

 夜ふけて、老人、いひけるは、

「我は、あすの命も計難(はかりがた)し。我等、家もまづしからず、金子も、おほくたくはへてあり、そこそこにあり。何とぞ、もちておはして、此(この)なきもの・我等がために、ぼたいにならん事をして、後世(ごぜ)をすくはせ給へ。」

と、いひければ、

「夫(それ)は、たふとき事なれども、加樣(かやう)に囘國する身にては、金など、もちありきては、かへりて、行脚の妨(さまたげ)になり侍れば、おもひもよらぬ事也。さほどにおぼさば、その金子(きんす)をもちて、われらと、いづくもおはして、米ある所に住(すみ)つきて、せめて、いきのび給へ。」

とすゝめけれど、老人、さらにうけひかず、

「われらは、かくて死(しな)ん事を願ふ外は、望み、侍らず。」

とて、聞(きき)いれず。

 しひて、老人、すゝめければ、鳥目(てうもく)壹貫文、もらひて、きぬる。』

とぞ。

『老人、

「是(これ)まで、段々、死(しに)うせ侍るものは、是(ここ)に、侍る。」

とて、一間(ひとま)を明(あけ)て見せければ、さながら、死人、一座敷(ひとざしき)に重りみちて、目もあてられず、くさき事、云(いふ)ばかりなし。

 夜あけて、こゝを立(たち)いでなんとする時、老人、あへなく、息絕(いきたえ)て、うせにし。』

とぞ。

『哀れなる事共を見つる。』

と、かたりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:特異的に(今までは殆んど読みを加えるだけで、底本をいじっていいない)段落を成形し、句読点や記号なども変更・追加して、凄惨な臨場感を再現することに努めた。また、一部、不審な箇所を「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(リンク先は開始頁)で確認し、修正した。具体には、「一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、」の箇所で、底本は「一向にうけひく氣色あらねば、」である。ここの右頁三行目下部が相当する。

 小学館「日本大百科全書」の「天明の飢饉」を引く(一部に語注を挿入しておいた)。「享保の飢饉」・「天保の飢饉」と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つ。天明年間(一七八一年~一七八九年)には連年に亙って飢饉が発生し、とくにここで語られる天明三(一七八三)年と、天明六年は惨状が甚だしかった。西日本、特に九州は天明二年に飢饉にみまわれたが、西日本の場合は、天明年間前半には収束していた。飢饉は、むしろ、東日本、特に東北地方太平洋側(陸奥国)・北関東一帯で猛威を振るった。津軽地方では、早くも安永年間(一七七二年~一七八一年)末期にも凶作の兆しがあったが、八戸地方では、天明三年の夏に「やませ」が吹いて、冷害となり、稲が立ち枯れ、東北飢饉の前触れとなった。そこへ、同年七月の上州浅間山の大噴火が重なり、噴火による降灰の被害は関東・信州一円に及び、その被害の甚だしかった北関東(上野・下野・信濃)では、凶作から、飢饉となった。かくて陸奥では「神武以来の大凶作」といわれた「卯歳(うどし)の飢饉」(天明三年は癸卯(みずのとう)年)となった。これは、霖雨(りんう)・低温・霜害・冷害などの自然的悪条件だけでなく、過酷な封建的搾取や分裂割拠の支配体制による津留(つどめ:荷留(にどめ)。領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。呼称は多くが津(港)で行なわれたことによる。室町時代からあったが、江戸時代には商品の移出入統制が物価調節・自領内産業の保護等、経済的な理由による場合が多くなり、自領と他領を連絡する水陸交通の要路には口留番所などを置いて、人や物資の自由な領外移出入を取り締まった)・穀留(こくどめ:同前の他領への米穀類流出を制限・停止をしたこと。同じく要所に穀留番所が置かれた)政策の犠牲という政治的・社会的原因が、飢饉の惨状を極度に悪化させた。このために津軽藩では天明三年九月から翌年の六月の十一ヶ月(天明四年は閏一月がある)、領内の人口のうち、八万一千百人余の飢餓・病気による死亡、八戸藩では六万五千人のうち、餓病死者三万人余と記録されており、また、陸奥辺境部各地では、人肉相い食(は)む凄惨な話が伝えられている。この飢饉の主因は天明二(一七八二)年から天明七(一七八七)年まで顕著に連続的に発生した気象異変であった。浅間山の噴火が原因とされているが、すでに天明二年から異常が現れているところから、噴火の影響があるとすれば、浅間山噴火以前の、例えば安永八(一七七九)年以来続いた桜島の大噴火などが関与しているものと思われ、さらに一七八三年(天明三年)は、世界的に見ても、著しい異常低温の夏であったが、欧州の場合はアイスランドにおける噴火が大きく影響していたが(ここまでが前記引用の主文)、近年の研究ではこのアイスランドの噴火も本邦の異常気象の要因であったとされている。また、当該ウィキによれば、『異常気象の原因は諸説あり、完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で』、一七八三年六月三日に発生した『アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と』、『同じくアイスランドの』、一七八三年から一七八五年にかけてのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の噴火である。これらの噴火は』一『回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を招いた。天明の飢饉のほか』、『フランス革命の遠因と』も『なったという。また』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が噴火』、八月五日には『浅間山の天明の大噴火が始まった。降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を悪化させた』。『なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は』十『年程度』は『続いたと考えられる』。但し、『異常気象による不作は』天明三(一七八二)年から続いており、翌年の『浅間山とラキの噴火だけでは』天明四(一七八三)年までの『飢饉の原因を説明』することは『できない』とある。また、しばしば語られる人肉食は、事実、発生しており、『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』「後見草」(のちみぐさ:事件や天災などを語った警世の書で、天明七(一七八七)年成立。上・中・下の三巻から成る)で『伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ』、『犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』(太字は私が附した)。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば』、『死者』は実に十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』安永九年から天明六年(一七八〇年~一七八六年)の間に実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。]

2021/08/04

芥川龍之介書簡抄《追加》(63―2) / 大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛(自筆絵葉書)

 

Tanimorinigioate

 

[やぶちゃん注:何となく「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の書簡類を見ていたら、気になるものがあった。大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛の自筆絵葉書とキャプションにある。

 この谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生で、私のこの「芥川龍之介書簡抄」では、「芥川龍之介書簡抄50 / 大正四(一九一五)年書簡より(十六) 谷森饒男宛」を電子化注(岩波文庫「芥川竜之介書簡集」から)してあり、彼についての注も附してあるが、実は彼の名は、旧全集では、恒藤恭宛書簡に多く彼の名を見出せるものの、岩波旧全集の一九七八年第一刷(これが私の所持するもの。最後の芥川龍之介の正字正仮名全集である)には、谷森饒男宛書簡は、同全集の書簡索引を見ても一通も掲載されていないのである。

 そこで、「もしかして!」と思った。

 私の所持する同旧全集の二刷が出た際(一九八三年三月)、同僚の国語教師がそれを買ったのを見せて貰ったところ、作品や書簡の一刷以後に発見されたものが、十六ページに亙る「拾遺」として追加されていることに気づき、それをコピーさせて貰って、ファイルに保存してあるのである。

 それを見たところ、あった。書簡の旧通し番号「一六四八」番である。

 私は実は、この書簡は以前に読んで知っていた。それは、孰れも字余りの変則的な俳句であるが、句として採り上げ、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」に挙げてあるのである。

 しかし、上記冊子の自筆絵葉書画像を見て、これが私の一刷の旧全集になかったことに気がつくのが、かくも遅くなったのであった。

 されば、ここで、追加して採り上げることとする。画像は前記冊子のものをトリミングした。なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である。

 本文は以上で述べた三十九年前のやや黄色くなりながらも、ちゃんとしているコピーと、上記画像を比較して現物通りに、活字化してみた。但し、書信の後半は恐らく、表書きのどこかに続けて書かれているものらしく、見えないので、コピーに従い、配置は前半に合わせて読み易くしておいた。後半は字空けの部分があるので、それが行末外にならないように配慮して改行してある。

 中央の砂山にあるのが、「濱菊」(キク目キク科ハマギク属ハマギク Nipponanthemum nipponicum )なのであろうか。およそそのようには見えないが――立体派なら――さもありなん、だ。

 因みに、この自筆絵葉書を書いた三日前の八月二十五日、龍之介は塚本文に例の求婚の手紙を出しているである。]

 

大正五(一九一六)年八月二十八日・千葉県一の宮発信・東京市牛込區弁天町 谷森饒男樣・千葉一の宮一宮館 芥川龍之介(自筆絵葉書)

 

先達は

手紙をあり

かたう

         立つ秋を

          濱菊ひよろ髙く

           さきにけり

         砂に蒸す午日や

           菊のしぼむ匀

 

 

        僕は久米と二人でここ

        でヴイ・ド・ポエムをやつて

        ゐる 海へはひる余暇には

        未來派の絵をかいたり 立体

        派の俳句を作つてゐる あまり

       だべるので隣の客がにげ出した。

       余程あてられたと見える

        もう少し僕等のヴイ・ド・

        ポエムを紹介するとねまきも

        おきまきも一枚で通している

        小便は一切寮雨 砂にしみこ

        むから宿屋のものに見つけら

        れる惧なし 夜は蚊帳に穴が

        あいてゐるので蚊やりせんこ

        うをどんどん蚊帳の中にいぷ

        す このせいか每朝おきると

        鼻の穴の中がいぷり臭い 九

        月のはじめまでゐるつもり

 

[やぶちゃん注:「ヴイド・ポエム」(「」は或いはうっかり「・」を打ってしまったものを慌てて潰してそれがデカくなってしまったもののように思われる)「ヴイ・ド・ポエム」はフランス語の‘vie de poème’で、「詩の生活」の意。

「寮雨」「れうう」。「寮」=宿(離れの一軒家)から直接に「雨」の如く、降らすことを言っているのである。]

芥川龍之介書簡抄113 / 大正一一(一九二二)年(四) 四通

 

大正一一(一九二二)年二月(年月推定)・田端発信(推定)・薄田泣菫宛(転載)

 

 怠けつつありと思ふな文債にこもれる我は安けからなく

 あからひく晝もこもりて文書けばさ庭の櫻ふふみそめけり

 去年の春見し長江の旅日記けふ書きしかばやがて送らむ

 旅日記とくかけと云ふ君の文見のつらければ二日見ずけり

 神經衰弱癒えずぬば玉の夢のみ見つつ安いせずわれは

二伸

マガジン・セクションヘはその中に何か書きます。何しろ方々の催促にやり切れぬ故、けふ鵠沼に踏晦[やぶちゃん注:ママ。]し、二三日靜養した上、紀行及びマガジン・セクシヨンヘ取りかかります。

              芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「文債」作家稼業上の負債。執筆契約をしていながら、それに応じていないこと。

「マガジン・セクション」『毎日新聞』の文芸誌批評欄か。

「踏晦」「韜晦」(たうくわい(とうかい))の誤記であろう。身を隠すこと。姿をくらますこと。]

 

 

大正一一(一九二二)年三月十九日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

お前は筆不精だと云ふがね僕は東京にゐると家に居る時間の大部分原稿紙に何か書かされるのだその外に筆を持つ苦しさは到底お前の想像するやうなものぢやない僕は漢口の人に二十圓、福田君に三圓借りてゐるし、島津君村田君にも何一つ御禮をしずにある甚良心に咎めるのだが病つゞきと多忙のため果さない[やぶちゃん注:ママ。]よろしく察して吳れ本もその内送る諸方の義理もその内すませる、それからブロオカア宮崎氏は何と云ふ名だね? 名なしの宮崎ぢあ本も送れない今日から長江游記を書き出した第一囘は西村貞吉と云ふ題だからそのつもりでゐろ東京は春暖梅白去つて桃紅來つてゐる又支那へ行きたくなつたが金がないこれだけ書くのでも大變なのだ僕はお前のレタア・ライテイングのキアパシテイには驚いてゐるレタア・ライテイングの本ばかり出す出版やへ紹介してやらうか僕は返事をかかされるのが嫌だからこの頃は來る手紙の封も切らないさういふ手紙が木鉢に一ぱいあるのだ但しお前の手紙はちあんと[やぶちゃん注:ママ。]拜見してゐる感心だらう返事をかくのは面倒だがお前の手紙を見るのは愉快なのだ又一月程たつたら手紙を出す頓首           芥川龍之介

   齋藤貞吉樣

二伸 年賀狀は僕は出さない方針なのだよ來年はもつと積極的に「私は年賀狀を出しませんあなたもおよしなさい」と云ふのを出す氣だ

Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ

     悼亡

   靜かさに堪へず散りけり夏椿

  夏椿は沙羅の異名と知るべし

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」既出既注

「漢口の人」「漢口」は中国語音写は「ハァンコォゥ」(Hànkǒu)。中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、一八五八年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の五ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。芥川は廬山を見た後、五月二十六日に漢口に着き、三十日まで滞在した。後の「雜信一束」の冒頭で、

   *

       一 歐羅巴的漢口

 この水たまりに映つてゐる英吉利の國旗の鮮さ、――おつと、車子(チエエズ)にぶつかるところだつた。

       二 支那的漢口

 彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。

 其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口の夏を感じたのは、――

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)

   *

と綴るのみである(語注等は「雜信一束」の私の注を参照されたい)。「漢口の人」は未詳。

「福田君」「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」の「九二二」の大正一〇(一九二一)年七月十一日附の『北京崇文門内八寶胡同大阪每日通信部内 鈴木鎗吉樣』宛『七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介』という書簡を参照。そこで私はこの「福田」なる人物を『大阪毎日新聞社の上海通信部の社員か。芥川が支払うべきであった何ものか(恐らく後に続く文から見て接待関連の遊興費用に関わるものであろうと推測する)を立て替えていたのであろう』と注した事実と符合する。

「島津君」島津四十起(しまづよそき 明治四(一八七一)年~昭和二三(一九四八)年)は出版人で俳人・歌人。明治三三(一九〇〇)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正二(一九一四)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした(戦後は故郷の兵庫に戻った)。龍之介の中国特派の際には上海到着時から協力し、「上海游記」「江南游記」を読むと、龍之介の各地の案内役をも買って出ている。思うに、次の村田孜郎とともに、中国で最も世話になった人物と言ってよい。

「村田君」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任した(上海で客死)。「上海游記」江南游記」を読めばわかる通り、やはり案内人となり、龍之介とよく同行している。また、上海での京劇観賞や役者との面会などは、殆んど彼の知識と人脈に拠ったものであった。

「ブロオカア宮崎氏」ブローカーは商取引の中継ぎ業者だが、「宮崎氏」は不詳。

「今日から長江游記を書き出した第一囘は西村貞吉と云ふ題だからそのつもりでゐろ」既に述べたが、「長江游記」(サイト一括版)は全一括で、この手紙から実に二年後の大正一三(一九二四)年九月一日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で発表された。貞吉もえらく待たされたもんだ。「前置き」を挟んで、本文の「一 蕪湖」(ブログ分割版)という題だが、しかし、その冒頭は、『私は西村貞吉(にしむらていきち)と一しよに蕪湖(ウウフウ)の往來を歩いてゐた』という一文で始まるから、まず、嘘ではなく、貞吉も度肝を抜かれたことであろう(西村は旧姓)。

「レタア・ライテイング」letter writing。手紙筆記術。

「キアパシテイ」capacity。ここは「能力」の意。

「Last but not least」「大事なことを、一つ、言い残したのだが」。

「お前の不幸」不詳。

「暗澹」

「夏椿は沙羅の異名」「沙羅」(木(ぼく))はツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名。既出既注。]

 

 

大正一一(一九二二)年三月三十一日・田端発信・塚本八洲宛

 

拜啓 その後皆樣御變りもありませんかお祖母樣の御病氣は如何ですか今度ちと御祖母樣に伺ひたい事があるのにつき、參上する心算でゐましたが、何か[やぶちゃん注:「何かと」の意。]忙しい爲上れさうもありません故この手紙を書く事にしましたどうか下の三項につき御祖母樣に伺つた上二三日中に御返事をして下さい

㈠明治元年五月十四日(上野戰爭の前日)はやはり雨天だつたでせうか

㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舍の方ヘ落ちるのにはどう云ふ服裝をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等の中どれが一番多かつたでせう?

㈢上野界隈、今日で云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遲くも戰爭の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念の爲に伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さい

かう云ふ點が判然しないと來月の小說にとりかゝれないのです 頓首

    三月三十一日     芥川龍之介

   塚本八洲樣

 

[やぶちゃん注:これは「お富の貞操」(初出は大正一一(一九二二)年五月九日発行の『改造』)の場面描写のために、妻文の弟八洲に、当時の江戸の惨劇前後を体験している塚本の祖母に訊ねているものである。

「上野戰爭」慶応四年(一八六八)五月一五日、江戸上野東叡山寛永寺に立てこもる彰義隊を薩長を中心とする征討新政府軍(長州藩大村益次郎指揮)が攻撃、壊滅させた戦い。詳しくは当該ウィキを読まれたい。なお、明治への改元は慶応四年九月八日(グレゴリオ暦一八六八年十月二十三日)であった。

「結ひ付け草履」筑摩全集類聚版脚注に、『ぞうりのはな緒にひもをつけて、かかとおよび甲に固定すること』とある。

「伊藤松坂」同前で、『松坂屋呉服店。現在の松坂屋デパート、上野広小路にある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三橋」現在の上野広小路から上野公園の不忍池東角の上野公園南口の間の旧称。中央の現在の上野四町目交差点の附近に江戸時代は不忍池から川が流れ出て、「三橋」という橋が架かっていた(「古地図 with MapFanがいい)。]

 

 

大正一一(一九二二)年四月(推定)・恆藤恭宛(名刺に通信文)

 

Meisinosyokan

 

啓 僕今度飛脚の旅行なり

明朝奈良へ参る筈 唯今木屋

町四條下ル富士亭にあり

    芥 川 龍 之 介

但し 今月末小生もう一度 京都へ

参る筈 その節 ゆつくり 御目にかゝ

りたし筍難有う  うららかな

たかんなの皮の流るる 東京市外田端四三五

 

[やぶちゃん注:底本にある画像をトリミングし、本文も活字化されたものではなく、示した名刺画像をもとに、電子化した。名刺の印刷部分は太字とした。既に述べた通り、四月一日に養母儔・伯母フキを連れての京都・奈良方面旅行の際のもの(四月八日帰宅)。思うに、二人への感謝の旅であるからして、恒藤には逢わなかったものと思われ、名刺に通信文という異例な書簡であるが、恐らくは、龍之介が宿で書き、裏に恒藤の住所或いは地図を書いて、宿の者に直接、家に届けて欲しいと頼んだものではないかと推察する。なお、やはり既に述べた通り(同前)、この四月二十八日には長崎へ行く途中で京都に滞在し、恒藤と逢っている。]

譚海 卷之四 羽州秋田・奥州南部境の事

 

○羽州秋田領より奥州南部へこゆる所を澤うちといふ、嶮岨の道也。澤うちをこゆれば南部領也。兩國のさかひに天狗橋といふあり、長さ十三間[やぶちゃん注:二十三・六三メートル。]を杉丸太二本にてわたしたる橋他。此はし十二三箇年程には朽(くち)る、くちれば其谷岸に代りになる程の杉二本づつ生立(おひたち)て、橋の用を缺(かく)事なし、ゆゑに天狗橋といふとぞ。橋を過(すぎ)て大日堂あり、九間[やぶちゃん注:十六・三六メートル。]四面の堂也。往古は是までも秋田領なりしを、南部にて押領せしとぞ。大日堂のかなもの、みな日の丸扇子の紋なり、二萬石南部へとりたると云り。又あけびといふ草あり、秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり、此をもちて境をたゞすにみな然り。此天狗橋より南部のをさる澤といふ銅山ヘ通ふ道なり。をさる澤の銅山と秋田阿仁の銅山と並びてあり。秋田の銅をほるとき岩をうがつに、頭上足下などに、南部の銅をほる音時々聞ゆる事ありといへり。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に、『秋田領から南部領にこえるところとあるのは、明らかに秋田県鹿角[やぶちゃん注:「かづの」。]郡地方で、現在の岩手県和賀郡沢内村ではない。米代川の上流の渓谷で、鹿角郡八幡平村のあたりをさしている。菅江真澄の「けふのせば布」には、小豆沢村の大日堂を過ぎて行くと、菱床橋の朽ち果てた跡に出た、昔、天狗がかけ初めたというので、天狗橋と呼び、また別のところに両岸から鈎の木を渡していたら夜明けになったので、そのままになったという跡もあり、そこを夜明け島というと、しるしてある(天明五年)[やぶちゃん注:一七八五年。]。これによると、天狗橋の位置はかなり南部領に入ってからの所である。尾去沢と阿仁の両銅山が並んでいるというのもおかしい。噂話の地理の不正確さである』とある。

 確かに、

現在の秋田県鹿角郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)

で、南に

鹿角市

がある。ところが、旧岩手県和賀郡沢内村は、

現在の岩手県和賀郡西和賀町の内で、ここ

で、鹿角地方からは四十キロメートル以上も南である。さて、

秋田県鹿角市八幡平小豆沢はここ

である。而して、ここに出る「大日堂」というのは、菅江の記載と位置関係から、

秋田県鹿角市八幡平長牛にある現在の大日神社

と推定され、その神社の北西直近に、ズバリ、

夜明島川

があり、右岸には「山渡」というそれらしい地名もある。なお、現行では、

天狗橋

があるものの、これは東北自動車道で、夜明島川が合流する米代川に架橋されてある。さらに調べたところ、この自動車道の「天狗橋」の近く、八幡平小豆沢碇と八幡平大地平の間で米代川に架橋している古い橋があり、それもまた、

天狗橋

と呼ばれていることが、鹿角の情報サイト「スコップの「湯瀬渓谷でアウトドアを楽しみませんか?だんぶり長者伝説縁の地!」の記事で判った。赤い擬宝珠のある、中央附近が有意に広がった独特の橋の写真が載っていた。そこに記されたルートを頼りに調べてみると、グーグル・マップ・データ航空写真で見るに(地図の方では橋はない)、恐らくは間違いなく、

ここが、その「天狗橋」

であると私は判断する。但し、孰れも、大日神社からは東北へ五キロメートルほどずれている。或いは、伝承の夜明島川にあった、その名を、孰れもここに移したものである可能性が高いように思われる。

 ただ、この鹿角郡が当時、非常に微妙な位置にあったことは確かで、当該ウィキによれば、旧同郡の『花輪出身の地理学者、佐々木彦一郎は、「鹿角郡の南部・秋田・津軽三国に対する関係は宛も独・仏の間に狭在するアルサス・ローレイン州の如き関係にあるところである」』『と記している』。『のちの鹿角郡の主要な資源は、天然杉と鉱産物であった』がm『この天然資源をめぐる領有権争いは、鎌倉時代の鹿角四氏(成田・奈良・安保・秋元(秋本)氏)の関東武士団の時代から存在し、鹿角四十二館が建設されて領内の守りが固まってからも変わることはなかった。室町時代後期、戦乱を経て、東の南部氏の支配が確立した。それでも、鹿角郡の地は、三藩境に存し』、天正一八(一五九〇)年の『豊臣秀吉朱印状により、鹿角郡は南部領と確定した。これにより、南部盛岡藩の軍事的拠点となり、津軽領への警戒を怠ることなく、秋田領との境界紛争も絶えることがなかった』。寛永一六(一六三九)年八月、「キリシタン山狩事件」が発生し、十二月には、『小坂と大館境の山中で、藩境の扱いを発端』として『両藩士の小競り合いが起きた』。延宝六(一六七七)年には、『幕府の検使により、評定所において秋田藩と南部藩との境界を記した絵図を作成して、それを決するに至った』とある。

「日の丸扇子」戦国大名時代の秋田氏が「扇に月丸」紋を使用している。「日の丸」はよくある誤認で、月が正しい。

「あけび」「木通」。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata

「秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり」「二葉」は不審。普通のアケビとアケビとミツバアケビの自然交配種ゴヨウアケビ Akebia × pentaphyllaの小葉は五枚、ミツバアケビ Akebia trifoliata は小葉が三枚である。「三」「二」は孰れも草書では「五」に誤読し易い。

「南部のをさる澤といふ銅山」秋田県鹿角市尾去沢(おさりざわ)獅子沢にあった南部藩の尾去沢鉱山。黄銅鉱を多く産出した。

「秋田阿仁の銅山」秋田県北秋田市阿仁町にあった秋田藩の阿仁鉱山。金・銀・銅が採掘され、特に銀鉱・銅鉱の産出が多く、享保元(一七一六)年には産銅日本一となり、長崎からの輸出銅の主要部分を占めた。しかし、御覧の通り、並んでなんかいない。尾去沢鉱山の三十二キロメートルも南西である。これは、竹内氏が仰る通り、総てが都市伝説並みの劣悪なトンデモ記載である。]

只野真葛 むかしばなし (33) オランダ渡りの調度品てんこ盛り!

 

 父樣、外へ御出被ㇾ成て、珍らしく書のとゞきたることを御はなし被ㇾ成しを、ある紙問屋《といや》居合(ゐあはせ)て、殊の外、感じ聞て、

「鹽入になりし書は、くちて用立(ようだた)ぬものなり。おしき事なり。是は私共かたの極(ごく)祕傳のことに候へども、珍らしき事故、おしへ申べし。其書をときほごして、さ水に入(いれ)て、一ひらづゝ糸に懸(かけ)て、かわかし、又、水をあらたにして、入ては、かけ、かけ、かくする事、三べん、三べんめの水に澁(しぶ)を少々入て、洗(あらひ)かけて、干上(ほしあぐ)れば、用立(ようだつ)物なり。あなかしこ、あなかしこ。」

とて、おしへたりし故、其ごとく被ㇾ成しに、よくなりて有し。さて、とぢる段にいたりて、

「かほど、厚き物をとぢるには、かならず、かやうの金物なくてはならず。」

と、御くふうにて、金物、うたせて、とぢさせしが、其後、ヲランダ人、來りし時、書物のとぢやう、きゝしに、やはり、御くふうのやうな金物にてとぢる、と、いひしとなり。

 其頃は、ヲランダ物、大はやりにて有し。

 桂川甫周樣など、日ごとのやうに御こし、其書をかさねる時など、ヲランダの、一、二を見分など被ㇾ成し。

 扨、幸作かたへ、其書の禮には、何をつかわされしや、しらず。是がヲランダものゝ、來始(きはじめ)にて、追々、珍らしき物、來りし。其次は毛織、國王の官服とて、三尺ばかり橫壱尺五寸ぐらい、高六、七寸の箱に入(いれ)て、上着と袴と、髮ざし・靴など一くだりのもの有し。靴は、上ぐつと、下ぐつも有し。上着、色は、すわう染(ぞめ)のやうなる赤地に、葉、靑く、花金にて、[やぶちゃん注:本文中に以下の挿絵。底本のそれをトリミング補正して使用した。底本では、文は、この絵を挟んで続いている。次も同じ。]

Hana

むかふ菊のごとくなる花なりし。ひしと、織たる物なり。地は、ぬめ[やぶちゃん注:「布目」か。]の樣にて、毛のたゝぬ物なりし。袴は、うこん地、花色と白の二分ぐらいの縱縞なり。ぬめの樣にて、糊なしの、地のよらぬ[やぶちゃん注:「縒らぬ」か。]、結構なる物なりし。後・前とも、さる布着(ぬのぎ)をくゝりしやうに、中に入(いれ)たる紐にて〆るものなり。其紐、きめうの物なりし。引(ひき)こきたる[やぶちゃん注:「扱(こ)く」か。]時は、三、四分ぐらいの巾(はば)にて、ひらきてみれば、五、六寸の巾にも成し。

兩はし赤、次、はな色、中は黃にて有し。

Tojime

ひらきてみれば、たゞ、糸を引(ひき)かけたるばかりにて、つよきこと、毛も、たゝず、切(きれ)そうにも、なき物なりし。髮指は、金の唐はな、靴は、ことに念入(ねんいれ)て組(くみ)たる物なりし。金糸は、糸に、のべがねを卷(まき)たる物にて、手にあたれば、

「ひやひや」

と、したりし。其ほどは何のわきまへもなかりし故、ようもしらねば、今、おもへば、其官服はあきなひに、もて來りしを、

「逗留中に、かた、付(つき)かね候故、いか程、あたひなら、拂被レ下(はらひくださる)。」と、父樣へ、幸作のたのみて、行(ゆき)しものなるべし。小ぎれにして、のぞみ手のあれば、つかわされしが、そのあたへ、思しよりは、よく有(あり)しなるべし。

 其次にはケルトルといふ物、來りし。ヲランダの酒盛道具なりし。是は勝(かつ)て、おもしろき物、前後に、聞しことも、見しことも、なき品なり。

「金百兩に拂たし。」

と、いひて、こしたりとぞ。上の一重は、盃と、肴入(さかないれ)品々、下は、酒、「角(かく)ふらすこ」に、一ぱい入(いれ)て有し。數、二十なり。「ふらすこ」のなかに、内を、「らしや」にてはる、肴入、金を、ほり付(つけ)て、光(ひかり)かがやくものなり。

 酒は、名(な)有(あり)、ぶどう酒は、ことに黑かりし。「金あらき」の「ふらすこ」をふると、金のうごくさま、火の粉のとぶやうにて、見事なりし。盃と肴入をならべてみれば、是ほどのもの、此箱には入(いり)そうはないとおもわるゝやうなり。盃もさかな入(いれ)も、二づゝ、同形のものなりし。

[やぶちゃん注:以下、以上の渡来品の挿絵とキャプション。底本では挿絵の各個の図中にキャプションがあるが、底本ではその各個キャプションが活字にされてしまっているため、日本庶民生活史料集成の当該画像(原本のママ)をトリミング補正して使用し、改めて判読して添えた。]

 

Hako1

 

Hakohurasuko

 

[やぶちゃん注:最初の画像の左のキャプションは、「二重、明(あけ)たるかたち。」。二枚目の画像は左のフラスコ左横の箱の蓋の裏側部分に、「『ふた』と『み』に、噐(うつわ)だけの合口(あひくち)あり」とあり、下方の箱の内側に、「盃と肴入」、左外に、「ふたを取(とり)し所」と状況キャプションがある。中央の閉じた箱の前方の絵には、上蓋(奥)に「弐尺五寸斗(ばかり)」とあり、手前の下方角に「二尺斗」、正面取っ手下方に「前」とある。なお、底本では、この箱の後部の横部分外に箱の幅を『二尺斗』とあるが、この日本庶民生活史料集成にはそれがない。左手のそれは箱の後ろ部分を描いたもの。四箇所の二重蝶番が描かれ、その間の下方に「後」と記してある。]

[やぶちゃん注:以下は挿絵の解説キャプション。]

 此中かくふらすこ廿(にじふ)入(いり)、みな、水晶ふき[やぶちゃん注:「葺き」。]、金物の所ばかり、「すゞ」なりし。金にて、もやう付(つけ)たり。内二(ふたつ)、すりかた[やぶちゃん注:「摺り型」か。]にて、模樣付(つけ)たるには、酒に、金を入れたり、こまかと、あらきと、二通(とおり)有し。

 内は惣(そう)たい、「紺羅しや」にて、はりたり。具合・手ぎわのよき事、いふばかりなし。「びいどろ」、きつと[やぶちゃん注:しっかりと。]、入(いれ)て、少しも、うごくこと、なし。後(うしろ)は蝶番(てふつがひ)なり。前のかなもの、やわらかにして、すき、なし。箱にしたる木は、一枚板なりし。木目は「しゆろ」[やぶちゃん注:「棕櫚」。]に似たり。色はねずみいろなり。

 

 聞(きき)つたいては、傳(つて)をもとめなどして、見に來る人、日ごとに、たへず、賑々(にぎにぎ)しきことなりし。ワ、九ばかりのことなりし。六ツ年、ぬす人とらへしことよりて、尾張町、藥みせ、出(いだ)しことなど、はきとおぼへたり。

 しばらく有て、大名がたより、

「御望(おのぞみ)。」

とて、上りたりし。其かわりに百兩の極札(きはめふだ)付(つき)たる作の、三所(みつどころ)もの、つかはされし。

 次にはびいどろの板にて、四方を張(はり)たる「かけあんどん」、來りし。是は、てもなきものなりし。中へ銀にて、[やぶちゃん注:本文中に以下の挿絵。底本のそれをトリミング補正して使用した。底本では、文は、この絵を挟んで続いている。]

Kakeandon

此やうな形に、火とぽしを二(ふたつ)、俄に御あつらへ被ㇾ遊て、ともしたれば、壱《ひとつ》が十二ばかりに見へたりし。元來、四方共に「びいどろ」の板にて、後は「びいどろかゞみ」なる故、相(あひ)てらしてうつり合(あふ)故、いくらともなく見へしなり。吳服屋のみせのやうなりし。「千疊敷かけあんどん」と名をつけられし。

 

[やぶちゃん注:オランダ製製品の紹介で只野真葛の真骨頂という感じで、非常に興味深い。

「珍らしく書のとゞきたること」前記事に出た「ドニネウスコロイトフウク」のこと。

「鹽入になりし書」海水に浸かってしまった書物。以下、再生処理法が興味深い。

「桂川甫周」既出既注

「其書をかさねる時」前の、再生したものを金物で重ねて綴じる際、の意であろう。

「すわう染(ぞめ)」「蘇芳染め」。

「花金」花模様を金糸で縫い出したものであろう。

「むかふ菊」挿絵から菊のような花(実際に菊かどうかは不明。多分、違う)を双生で縫いとりしてある模様を指している。

「ひしと」しっかりと。

「うこん地」鬱金(うこん)色の地布。

「糊なし」和服のような糊張りがなされていないことを言っていよう。

「髮指」不詳。「怒髮指冠」から、「毛羽立たせた箇所」の謂いか。

「唐はな」西洋花卉。

「金糸は、糸に、のべがねを卷(まき)たる物にて」金染めではなく、糸にごく薄く延ばした金を巻きつけたもので。恐るべし!

「ケルトル」不詳。英語の「ケットル」では薬缶だしなぁ。

「角(かく)ふらすこ」三角フラスコのことであろう。

「らしや」「羅紗」。

「金あらき」図のキャプションでは、「粗き」の意で用いているが、ここのそれは「金」粉入りの「アラック」のことではないか。「阿刺吉」「あらき」(オランダ語:Arak:アラック)で、オランダの火酒の一種である。そうなると、「あらき」には強烈なアルコール度の「荒き」の意も被る。私は北原白秋の「邪宗門」の一節から、直ちにそう連想したのである。私の『北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「古酒」』の頭に出て、注した経験からである。

「ワ、九ツ十ヲばかりのことなりし」またしても、珍しく時制が確認出来る。真葛は宝暦十三年(一七六三年)生まれであるから、これは明和八年(一七七一年)か翌明和九年(明和九年は十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元)ということになる。

「六ツ年、ぬす人とらへしことよりて、尾張町、藥みせ、出(いだ)しことなど」既出

「はきとおぼへたり」「はっきりと覚えている」。

 しばらく有て、大名がたより、

「三所(みつどころ)もの」刀装(拵(こしらえ))用の金具で、小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の三種を指す。小柄は刀の鞘に差し添える小刀(こがたな)の柄で、笄は刀の鞘に挟む箆(へら)状の金具、目貫は柄につける飾り金物である。目貫は太刀(たち)につ附属させ、小柄・笄は太刀を佩用する際に腰に差した腰刀(こしがたな:鞘巻(さやまき))に附属させるが、太刀にかわって打刀(うちがたな)が一般化した室町期には、打刀にも附属させるようになった。江戸初期までは目貫・笄の二所物で、小柄は含まれなかったが、やがて三所同作の揃い物が武家で尊重されるようになった。主に後藤家(後藤祐乗(ゆうじょう))の代々の工人によって造られたものが、将軍や大名家で貴ばれた。

「かけあんどん」「掛け行燈」。家の入り口や店先、又は、柱・廊下などに掛ける行灯。

「てもなきもの」たいして複雑なからくりではないことを言っているようである。

「千疊敷かけあんどん」所謂、三面鏡を閉じぎみにして物を写すと、無限に投影されているように見えるあれである。

 これらの物を、江戸で、見ている、満で八、九歳の少女真葛――何か、羨ましくも微笑ましくもなってくるではないか。

只野真葛 むかしばなし (32)

 

○父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり。三十にならせらるゝ頃は、はや、長崎・松前など、遠國より、高名をしたひて、「御弟子に」と、心ざして入來りし。

 吉雄幸作といひしヲランダ通詞、父樣、御懇意なりしが、其弟子のうち、三人まで、來りし人、有し。はじめは「幸てき」といひし外家、俗の時は「丹治」といひしが、外療は上手なりし。

 道樂ものにて、身の廻り、埒《らち》もなきてい、供袴などは、膝より下《しも》、なくなりたるなどを着て供(とも)せしに、大名の女隱居【小家なるべし。】[やぶちゃん注:原割註。]、癰《よう》などや、いでしなるべし、父樣、療治、御たのまれ被ㇾ成しが、外療下手と御覽有て、

「私、めしつれし供若黨、實は長崎より、このほど、參りし外家なり。巧者《かうしや》に候間、くるしからずば、御やう子、うかゞわせ、御りやうじ、仰付らるべくや。」

と仰上られしに、

「しからば。」

とて、急に、めされしとぞ。

 人がら・男ぶりなどは、よきものなりしが、袴をおろしてみた所が、貧乏神のごとくなり。

 赤面しながら出(いで)しに、

「兩側に、女中達、ならび居て、大迷惑仕(つかまつり)たり。」

と、かたりしを、おぼへたり。外りやうのこと、御おしみ被ㇾ成しに、不埒にて、身を持(もち)かね、御出入も、せざりし。

 次に來りしは樋口司馬なり。はじめは「のぼり」といひし。此人の事は、博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て、外家道具は申(まうす)におよばず、身のまわり、殘らず、海にはめて、命ばかりを、たすかり來りしなり。幸作より、こなたへ送りし『ドニネウスコロイトフウク』といふヲランダ本草、せううつしの繪入、厚四寸ばかりなる書と、「このものたのむ」という、そへ手紙をうけ取(とり)て來りしが、それも海に入(いり)て有しを、公儀御用物も、皆、海に入し故、浪、しづまりて後、さぐりものを、おろして、尋ねられしに、かゝりたる物は、みな、御取揚(おとりあげ)となる格なりとぞ。されど、たまたま、其書かゝりて上りしに、上表紙裏に、「工藤周庵樣吉雄幸作」といふ狀のうわ書、左字に、しみ付(つき)て有しを證據に、「のぼり」が手に入(いれ)しとなり。それを力に、袖ごひ同然のていにて、築地家敷まで、つきたりは、哀(あはれ)に珍らしきことなりし。鬼のやうなる男なれども、其頃は、海のあれしはなしをしては、淚、こぼして有し。

「船頭といふものは、殊の外、おごるものにて、舟のかゝり所へつけば、女郞など揚(あげ)て、金銀、をしまぬも、ことはり、まかりちがへば、命すてる覺悟なればなり。さて、西も東も北も南も、國も山も見へぬ所へ漕出(こぎいだ)しては、ちからのなきもの。」

といひし。

 博多浦(はかたのうら)にかゝりて、

「入日(いりひ)の樣子、あしき。」

とて、少しさわぎたりしが、朝、「にぢ」[やぶちゃん注:虹。]とか何とかを見て、いづれも覺悟したりとぞ。

 扨、だんだん、浪、あれて、船の中にたまられぬほどに成(なり)て、素人は、小舟にてのがれし、とぞ。船頭と名の付(つき)ては、舟を明(あく)ることは、ならぬものなり、とぞ。陸《くが》に上(あが)りて、沖をみやれば、大山のごとくなる浪のうへに、舟、上りて、一寸ばかりの人の、はたらく影、みゆるとおもへば、浪の下に入るさま、おそろしといふばかりもなし。覺悟といへば、皆、髮をみだす、とぞ。髮の結(ゆひ)ふしに物のかゝれば、それにて、命、うしなこと有(ある)故なり。

 荷、うち仕舞(しまひ)てのち、舟は、山の上へ上りたるやうに、たかく浪の成たる時、水に飛入(とびいる)とぞ。引(ひく)なみに入(いり)て、もしや、岡《をか[やぶちゃん注:ママ。]》に打上らるゝかと願(ねがふ)故なり。其(その)山のごとくなる浪、うちあぐる事、つねに水なき所一里ばかりへ、一息にくる時、仕合(しあはせ)よければ、木草のたぐひにとり付(つき)て、岡にとゞまりてたすかるとぞ。

 名なり「のぽり」は、高き所に上りて始終見たりしに、

「常に顏見あわす人々の、浪に打上られ、物に取付(とりつき)かねて、又、引(ひつ)たてられなどして、くるしむていを見れば、心もきえぎえと成て有し。」

と語(かたり)し。

「二度、打上(うちあげ)られて、物に取付かねて引(ひか)れ行(ゆき)し人、是(これ)かぎりならんとおもひしを、三度目に、からく、とゞまりて有し人も有(あり)、一度(ひとたび)打上られて引れ行てより、あがらぬも有(ある)などして、水練上手も下手もいらず、たゞ運次第のこと。」

ゝいひし。

「船中には、諸國の諸神諸佛をいはひ納(をさめ)てあれども、のがれぬ場にいたりては、せんかたなし。」

と、いひし。

 

[やぶちゃん注:この後半の樋口司(初名「のぽり」)の海難譚は、彼の直接話法をふんだんに加えて、実際の海嘯の恐るべき実写映像が髣髴して、すこぶる優れている。真葛の怪奇談好きの真骨頂と言える。

「父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり」工藤平助は享保一九(一七三四)年であるから、宝暦九、十年(一七五九年~一七六一年)頃。将軍は徳川家重。

「三十にならせらるゝ頃」宝暦一三(一七六三~一六七四)年。将軍は徳川家治。

「吉雄幸作」江戸中期のオランダ語通詞(幕府の公式通訳)で蘭方医であった吉雄耕牛(よしおこうぎゅう 享保九(一七二四)年~寛政一二(一八〇〇)年)。諱は永章、通称は定次郎、後に幸左衛門。幸作とも称した。耕牛は号。他に養浩斎など。吉雄家は、代々、オランダ通詞を務めた。長崎生まれ。幼い頃からオランダ語を学び、元文二(一七三七)年十四で稽古通詞となり、寛保二(一七四二)年に通詞、寛延元(一七四八)年には二十五歳で大通詞となった。年番通詞・江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府に随行)をたびたび務めた。通詞の仕事の傍ら、商館付きの医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学んだ。特に外科医であったバウエル(G.R.Bauer)や、ツンベリー(C.P.Thunberg:スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交を結び、当時、日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。オランダ語・医術の他に、天文学・地理学・本草学なども修め、また、蘭学を志す者に、それを教授した。家塾である成秀館には、全国からの入門者が相い次ぎ、彼が創始した「吉雄流紅毛外科」は楢林鎮山の楢林流と双璧をなす「紅毛外科」(西洋医学)として広まった。吉雄邸の二階にはオランダから輸入された家具が配され、「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物が溢れ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。吉雄邸を訪れ、或いは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽・大槻玄沢・三浦梅園・平賀源内・林子平・司馬江漢といった当時の一流の蘭学者は軒並み、耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば、門人は六百余名を数えたという。中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、二人が携わった「解体新書」に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また、江戸に戻った玄沢は、自らの私塾「芝蘭堂」で江戸オランダ正月を開催した。若くして優れた才覚を発揮していたため、上記に示した人物などには、彼より年上の弟子が何人も存在する。寛政二(一七九〇)年に、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、五年間の蟄居処分を申し渡されたものの、復帰後は同八年には「蛮学指南役」を命ぜられている。享年七十七で、平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没した。訳書に「和蘭(紅毛)流膏藥方」・「正骨要訣」・「布斂吉黴瘡篇」・「因液發備」(耕牛の口述を没後に刊行したもの)など。通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人にはかの高野長英がいる(以上は当該ウィキに拠った)。日本庶民生活史料集成の中山栄子氏の補註によれば、『工藤家と交際があり、弟子達を江戸まで遣わして工藤平助に弟子入りを頼んでいる』とある。綜合蘭学の研究ではなく、外科医としての実務修得を主とする希望で入門する者も多かったであろう吉雄にとっては、こうした関係は膨れ上がる弟子を整理するのには是が非でも必要であったに違いない。さればこそ、必ずしも技量全般に優れ、人品も保証出来るというわけにはゆかないことが、真葛の記載から窺える。

「供袴」不詳。平助の往診の際の付き添い医師としての供の際に穿く袴の意か。

「なくなりたる」擦り切れて、つんつるてんになって、脛が剝き出しになっているのであろう。

「癰《よう》」皮膚にある隣接した多くの毛嚢が化膿したもの。首筋や背部に多く発生し、硬く赤く腫れ上り、痛みが激しい。

「外療下手と御覽有て」入門以後の様子を窺っていると、どうも外科術は下手らしいと推察なされたによって、修業のために敢えて。

「袴をおろしてみた所が」貴人の女隠居の定期往診なれば、新しい袴を拵えて穿かせてみたところが。

「博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て……」考えてみれば、長崎から江戸に向かうのには、陸路でしかも煩瑣な関所や改め所を何度も通過せねばならぬのを思うと、公に認められた者であれば、船路で行く方が行程は楽である。無論、ここにあるように、天候さえよければの話である。

「ドニネウスコロイトフウク」オランダ(フランドル)の医師で植物学者のレンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens/ラテン語名:レンベルトゥス・ドドネウス Rembertus Dodonaeus 一五一七年~一五八五年)が一五五四年に刊行した本草譜「クリュード・ベック」(Cruyde-boeck :「植物誌」。綴りを見ると「コロイドブウク」と発音しそうだ)。早稲田文学図書館公式サイト内の「ドドネウス草木譜」によれば(石井当光らになる文政年間の訳書の画像有り)、ドドネウスの原著(オランダ語版)は一六一八年版・一六四四年版が日本に伝わり、長く用いられた。野呂元丈・平賀源内・吉雄耕牛らが翻訳を試みたが、何れも抄訳であった。これに対し、本篇より後になるが、松平定信が石井当光・吉田正恭らに全訳を命じ、文政六(一八二三)年頃、一旦、完成したが、江戸の大火で大部分が失なわれ,現存のものは十分の一の分量に過ぎないとされる。訳者石井当光(寛保三(一七四三)年~?)は長崎通詞出身で、後に松平定信に仕えた、とある。

「せううつし」「正寫し」。

「そへ手紙」底本は「すへ手紙」だが、日本庶民生活史料集成で訂した。

「さぐりもの」潜り者或いは底引き網。

「御取揚(おとりあげ)となる格なり」「福岡藩のお召し上げとなる部類であった。」。南蛮渡来で、一般人には禁書であったり、持っていてはいけない治療具や薬物であったりと、そうした禁制レベルの対象物(「格」)だったからである。 

「其書」「ドニネウスコロイトフウク」のこと。

「袖ごひ」乞食。

「舟を明(あく)ること」舟を捨てること。

「結(ゆひ)ふし」「結ひ節」。

『名なり「のぽり」』「のぼり」がひらがなで文を誤読し易いので、「彼の名であるところの」という意味で附したものか。]

2021/08/03

芥川龍之介書簡抄112 / 大正一一(一九二二)年(三) 自筆のアストラカンの帽子を被った「我鬼先生散策図」

 

大正一一(一九二二)年二月二十三日(年次推定)・田端発信・佐佐木茂索宛(封筒に『田端御ぞんじより』とあると底本の岩波旧全集の書簡標題(「九九九」番書簡)に注されてある)

 

Tikumahan

 

Iwanami

 


Mouhitorihan

 

Oanaakuiboku

 

あすとらかんの帽子を買ひ散策する所この畫の如し御笑覽に呈すと云爾

    二月二十三日     澄江堂主人

   大 芸 居 御 主 人 座右

 

[やぶちゃん注:三種の画像を示した。

 一番最初のかなりクリアーなそれは、筑摩全集類聚「芥川龍之介全集第七巻」(昭和四九(一九七四)年四刷)の書簡本文に中に組まれたものである。画素が粗いものの、最もはっきりと描かれた芥川龍之介が判る。但し、もとの絵筆のタッチは完全に失われている。頭部は完全に潰れてしまって、どこかの女将さんの頭のようにしか見えない。同書は紙の色がやや焼けかかっているので、かなり明るさの補正をした上で、清拭し、周囲を徹底的に白くしておいた。

 二番目のものは、底本である岩波旧全集第十一巻(一九七八年刊)の「九九九」書簡の下に配されてあるそれで、薄いものの、服の部分の筆の流れるようなタッチが、かなりはっきりと見え、被っている「あすとらかんの帽子」の細部(曰く言い難いモニャモニャした紋様のようなもの。後述)も現認出来る。

 三番目のものは、所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。これは左端に、

  二月

   □□

     三日     澄江堂主人

   大 芸 居 御 主 人

         座右

の文字が読めるのであるが、絵との間に、明らかな縦の線が見え、これは、封入されていた書簡の上に絵を置いて撮ったもののように見受けられる。則ち、岩波の活字にしている以上の文は、この絵の下に隠れているように感じられる。展示会で現物を見た記憶があるように思うのだが、どうもそうした細部は思い出せない。

 最後のものは、小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」(初版は昭和三五(一九六〇)年四月刊。私の所持するのは昭和五三(一九七八)年九月の再版のもの)からトリミングしたものである。最も状態がいい。思うに、前の「もうひとりの芥川龍之介展」のそれは、このモノクローム写真を転写したものに過ぎぬのではないかという気がしている)。そこの小穴の解説には、『杖は紫檀かなにか細身の物に、鐺(こじり)の金屬をかぶせた物、この杖は確か佐佐木君の意匠のやうに思つてゐる』とあり、最後には『佐々木茂索氏藏』とある。

「アストラカン」は中央アジア原産のヒツジの品種「カラクール」或いは「カラク」と呼ばれる種(ウズベキスタン・ブハラ州の村の名前に由来し、「カラクール」とはテュルク系の言語で「黒い湖」を意味する)の生後間もない子羊の毛皮が「アストラカン」と呼ばれる。漆黒の高級毛皮として世界的に有名で、転じて広義の「羊の高級な毛皮」の通称にもなっている(ウィキの「カラクール」に拠った)。グーグル画像検索「アストラカン」を見るに、模様と言うより、毛が模様のような襞状に見える。

「云爾」「いふのみ」。]

芥川龍之介書簡抄111 / 大正一一(一九二二)年(二) 二通

 

大正一一(一九二二)年二月十日・田端発信・薄田淳介宛

 

啓菊池の病氣や何かの爲江南游記掉尾の原稿遲滯を來たし御氣の毒に存じますさて同游記も廿九囘を以て一段落つきましたが今度は長江游記へとりかかる前に一週間程息つぎをしますしますといふよりさせて下さい一日四五枚書きつづけるのは中々樂ぢやありませんしかし讀者退屈とあらば何時までも延期してよろしい當方の考へでは長江游記、湖北游記、河南游記、北京游記、大同游記とさきが遼遠故これからはあまり油を賣らず一游記五囘乃至十囘で進行したいと思つてゐます 以上

    二月十日       芥川龍之介

   薄 田 淳 介 樣

 

 二伸 四百金難有く頂戴 丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた爲早速入用が出來ました あれは大阪から來た泥棒かも知れない

 

[やぶちゃん注:この中の「長江游記へとりかかる前に」、「一週間程」、「息つぎをします」。「します」、「といふより」、「させて下さい」。「一日」に「四」、「五枚」を「書きつづけるのは」、「中々」。「樂ぢやありません」。「しかし」、『讀者』「が」『退屈』だと言うので「あらば」、これ、「何時までも」、「延期して」、「よろしい」という尻(けつ)捲くりは、既に述べた通り、この紀行群を連続して書き上げることが、龍之介にとって、かなり負担であったことが判る。しかも、共時的に他から催促される複数の小説も書かねばならなかったのだから、頭を切り替えるのが恐ろしく大変だったということはよく判る。

「菊池の病氣や何かの」(後部は「や何やかの」の脱字であろう)「丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた」この前の一月二十七日、講演のために名古屋に向けて出発し、翌二十八日土曜日の午後六時半に、名古屋の椙山(すぎやま)女学校で行われた文芸講演会(新布陣協会主催・新愛知新聞社後援)に小島政二郎・菊池寛らと出席し、孰れも表現と内容の問題に関する講演をしている。ところが、夜、別のホテルに宿泊していた菊池が、睡眠薬のジャール(芥川龍之介が自死に際して用いたと公的に認められている二薬の内の一つ。今一つはベロナールだが、私は孰れも噓だと思っている。検死は芥川龍之介とツーカーであった芥川家主治医下島(空谷)勳である。私は睡眠薬や劇薬(阿片チンキ)を常用していた龍之介はかなりの薬物耐性を持っており、ベロナールやジャール如き睡眠薬で自殺を完遂させることは不可能であると考えている(自殺希望者は完遂するために睡眠薬の多量服用をするが、逆に嚥下してしまい、未遂に終わる場合の方が多い)。龍之介が渇望した通りの、確実に死ぬことの出来る劇物でなくてはならない。私は青酸カリが使用されたと睨んでいる。同一の見解と、その入手先(目と鼻の先にあったのである)まで推理した山崎光夫著「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成七(一九九五)年九月号『オール讀物』初出・単行本・平成九年六月文藝春秋刊)を、是非読まれたい)。を過剰に服用し過ぎて、人事不省に陥り、二日二晩昏睡を続けるという事件が起こっていた(様態は安定したため、三十日に菊池を残して芥川と小島は名古屋を発っている)。また、この書簡を書く直前の二月七日頃、芥川家に泥棒が入って、以上に書かれた品々などを盗まれた(以上は、新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。

「江南游記掉尾の原稿遲滯を來たし御氣の毒に存じます」この日に最終回を「二十九 南京(下)」を脱稿した。

「當方の考へでは長江游記、湖北游記、河南游記、北京游記、大同游記とさきが遼遠故」芥川龍之介の中国紀行は、これで(最初のリンクは私のサイト一括版で、後方のリンクはブログ分割版へのそれである。私の芥川龍之介の電子化注では、最大にして、誰にも負けない注釈附きである。古い教え子で当時は中国に住んでいたS君の協力も得て、当時、龍之介が歩んだ場所の検証と、現在の当地の画像などもふんだんに用いてある。私の偉そうな謂いに、「片腹痛いわ」とほくそ笑む御仁は、どうぞ、二〇一七年八月十八日発行の近代文学研究者であられる山田俊治氏(現在、横浜市立大学名誉教授)の編になる「芥川竜之介紀行文集」を立ち読みされたい。その山田氏の解説の最後(393ページ)を見られたい。参照先行文献の一覧の最後の最後に――天下の岩波版「芥川龍之介全集」(新全集)がずうっと並んだその終りに――『および、藪野直史「Blog鬼火~日々の迷走」』と書いてあるから。私のブログ記事「岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)」を読まれるが、よかろうぞ)、

   *

「上海游記」(大正一〇(一九二一)年八月十七日~九月二十一日の期間の中で、二十一回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊及び『東京日日新聞』に連載)・【ブログ版】

「江南游記」(は大正一一(一九二二)年一月一日~二月十三日の期間の中で、二十八回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載)・【ブログ版】

   *

が既発表及びこれより発表されることとなっているわけだが、ここで龍之介はさらに続いて「長江游記」・「湖北游記」・「河南游記」・「北京游記」・「大同游記」という五つの紀行群をも、ものす予定だと、ぶち上げているわけだが、実際には、後は、

「長江游記」(大正一三(一九二四)年九月一日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で一括掲載で、同誌は大阪毎日新聞社とは無関係)・【ブログ版】

「北京日記抄」 (大正一四(一九二五)年六月『改造』に一括掲載。言わずもがな、同前)・【ブログ版

「雜信一束」初出未詳。大正一四(一九二五)年十一月三日改造社刊の単行本紀行文集「支那游記」に「自序」の後、「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」そして本作を掉尾に構成配置した)

の三作で終わっているのである。則ち、厳密に言えば、「湖北游記」・「河南游記」・「大同游記」の三篇は書かれず、「北京游記」というのは「北京日記抄」でお茶を濁した恰好になったのである。以上の後半の三作は、その分量も、ぐっと減っており(「「上海游記」は原稿用紙百一枚、「江南游記」は百五十枚であるのに対して、「長江游記」は二十枚半、「北京日記抄」は二十二枚、 「雜信一束」に至っては、後期の龍之介が好んだアフォリズム風の短章群で、しかも僅か七枚である)、「正直、いい加減、書くのに、飽きた」ということであろう(原稿枚数は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。]

 

 

大正一一(一九二二)年二月十五日(年次推定)・田端発信(推定)薄田泣董宛(転載)

 

     卽席歌

原稿を書かねばならぬ苦しさに瘦すらむ我をあはれと思ヘ

雪の上にふり來る雨か原稿を書きつつ聞けば苦しかりけり

「甘酒」の終は近し然れども「支那旅行記」はやまむ日知らに

さ庭べの草をともしみ椽にあれば原稿を書く心起らず

作者、我の泣く泣く書ける旅行記も讀者、君にはおかしかるらむ

赤玉のみすまるの玉の美(は)し乙女愛で讀むべくは勇みて書かなむ

支那紀行書きつつをれば小說がせんすべしらに書きたくなるも

小說を書きたき心保ちつつ唐土日記をものする我は

原稿を書かねばならぬ苦しさに入日見る心君知らざらむ

のんきなるA・K論をする博士文章道を知らず卑しも

薄曇るちまたを行けば心うし四百の金も既にあまらず

               澄江堂主人

二伸

一體ボクの遊記をそんなにつづけてもいいのですか。讀者からあんな物は早くよせと言ひはしませんか。(云ヘばすぐによせるのですが)評判よろしければその評判をつつかひ棒に書きます。なる可く評判をおきかせ下さい。小說家とジヤナリストとの兼業は大役です。

 

[やぶちゃん注:実際には歌群は全体が三字下げ、二伸以下は二字下げだが、総て引き上げた。底本の岩波旧全集の第十二巻「書簡 二」の「後記」によれば、この転載元は昭和五(一九三〇)年一月発行の『スバル』に薄田泣菫(淳介)によって『「芥川氏の即[やぶちゃん注:ママ。]興歌」として掲載され、昭和六年十月十日創元社發行の單行本『樹下石上』に收められた』とある。

「甘酒」は、この大正十一年一月に『大阪毎日新聞』夕刊に連載された里見弴(とん 明治二一(一八八八)年~昭和五八(一九八三)年)の小説。同作は一月五日から始まって三月二十二日に終わっている。里見は、しかし、この小説に、結構、てこづったらしい(小谷野敦氏のサイトの「里見弴・詳細年譜」に拠る)。

「のんきなるA・K論をする博士」不詳。]

芥川龍之介書簡抄110 / 大正一一(一九二二)年(一) 五通

 

大正一一(一九二二)年一月十三日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

冠省 先達は失禮しましたそれからカステラを難有う手紙も難有うその後小生は風を引いたり原稿を書くのに追はれたりしてつい御禮狀を出すのが遲くなりました尤も元來筆無精だから特別な事情がなくとも怠り勝ちなのですどうかなる可く怒らずに下さい 今日は御惠送の長崎新聞落手あなたの序文を拜見しましたあなたはわたくしと書きますね小生はあなたの說通り小說の中の一人稱はわたしとする事にきめてしまひました それからこの間新小說の編輯人が切支丹文明の事につき筆者の相談に來ましたから林若樹氏や何かと一しよにあなたを推しましたどうか暇があつたら何か書いてやつて下さい但し林氏なぞは個人的に知らないから煽動、あなたは知つてゐるから紹介した事になるのです 明星に觀潮樓主人の奈良五十首が出てゐるのを讀みましたか五十首とも大抵まづいですねこの春京都にしばらくゐた後長崎へ行きたいと思ひますそれまでに何かゆつくり小說を書きたい新年の小說は皆不出來です 蒲原君にもよろしく

    一月十三日      我 鬼 生

   渡邊與茂平樣

  二伸 この歌わかりますかあらたまの中の歌です

   あらはれむことは悲しもたまきはる命のうちに我はいふべし

 

[やぶちゃん注:「渡邊庫輔」(くらすけ 明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。

「林若樹」(はやし わかき 明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は好古収集家。本名は若吉。東京府東京市麹町区生まれるが、早くに両親を失い、叔父の旧幕臣で外交官・政治家となった林董(ただす)に養われた。祖父の旧幕府奥医師であった林洞海から最初の教育を受けた。病弱であったため、旧制第一高等学校を中退するが、その頃から遠戚にあたる東京帝国大学教授坪井正五郎の研究所に出入りし、考古学を修めた。遺産があったため、定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古したり、狂歌・俳諧・書画を嗜み、かたわら古書に限らず、雑多な考古物品を蒐集した。明治二九(一八九六)年には、同好の有志と「集古会」を結成して幹事となり、雑誌『集古』の編纂を担当した。次いで、人形や玩具の知識を交換し合うために、明治四二(一九〇九)年には「大供会」をも結成し、「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的な自由な集まりを通じて、大槻文彦・山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・三田村鳶魚・内田魯庵・寒川鼠骨・森銑三・柴田宵曲といった人々と交流を重ね、自らの収集品を展覧に任せた(当該ウィキに拠る)。但し、彼は切支丹研究家というわけではない。

「明星に觀潮樓主人の奈良五十首が出てゐるのを讀みましたか五十首とも大抵まづいですね」この大正十一年一月一日発行の『明星』に発表された。原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで、全五十首が読める。実はこの歌群は森鷗外最後(彼はこの半年後の七月九日に委縮腎及び肺結核で満六十歳で没した)の創作作品であるが、今回、改めて所持する岩波書店の「鷗外選集」版で通読したが、芥川龍之介の言う通り、残念乍ら採るべきは一吟たりとも、ない。

「この春京都にしばらくゐた後長崎へ行きたいと思ひます」この三ヶ月後の四月一日に養母儔(とも)・伯母(実母フクから見て。養父道章を介すると叔母となる)フキを連れて京都・奈良方面の旅に出かけ、京都では「富士亭」に滞在し、「瓢亭」を訪れたり、花見や、都踊りの見物などし、京都からの書簡で『のんきなやうな忙しいやうな怪しげな日を送つて居ります』(四月六日附下島勳宛・採用しない)などと述べている。四月八日に帰宅している。而してこの帰宅した当日八日附の同じ渡邊宛(採用しない)で、長崎再訪の告知(『廿五日頃東京發二三日京都を低徊した上長崎にまゐるつもりです(宿はどちらでもよろしいあなたの選擇に一任します)』)をしている。事実、この四月二十五日の朝に長崎再訪の旅に発ち、京都に赴き、二十八日には盟友恒藤の家や、知人の日本画家小林雨郊の家を訪ねたり、祇園で遊んだりし、都合、十一日ほど過ごして、五月五日、六日頃に京を経ち、五月十日までには長崎に到着している。長崎滞在は十八日余りに及び、長崎を発ったのは、五月二十九日であった(新全集宮坂覺氏の年譜に拠る)。

「それまでに何かゆつくり小說を書きたい」この一月から四月の長崎出発の間に執筆された(創作途中のものも含む)と思しい小説は(後で見る通り、中国紀行群の執筆がダブっていた。随筆は入れない)「トロツコ」・「報恩記」・「仙人 オトギバナシ」・「お富の貞操」そして、かの「河童」である。

「新年の小說は皆不出來です」新年号に発表されたものは既注

「蒲原君」渡邊の友人で長崎出身の小説家蒲原春夫(かんばらはるお 明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)。前回の長崎行で非常に親しくなり、龍之介に師事して、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして、多くの仕事を手伝った。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。

「あらたま」この前年一月に齋藤茂吉が刊行した第二歌集「あらたま」(春陽堂刊。作歌期間は大正二年から六年のもの)。

「あらはれむことは悲しもたまきはる命のうちに我はいふべし」大正六年作。「春光」の中の一首。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部を見られたいが、そこでは、

   *

あらはれむことは悲(かな)しもたまきはるいのちのうちに我(われ)はいふべし

   *

の表記である。

「渡邊與茂平」は短歌を齋藤茂吉に師事しており、茂吉から貰った雅号が、この「與茂平」であった。因みに、龍之介は彼に「風中」という号を与えている。而してここで茂吉の歌を彼に示すというのは、これ、かなり失礼だと思うかも知れぬが、実は、前で「この歌わかりますか」とあるのは、龍之介にはこの歌の意味が今一つ摑めないので、渡邊に教えを乞うているのである(次の書簡参照)。]

 

 

大正一一(一九二二)年一月十九日・田端発信・渡邊庫輔宛

 

冠省 新小說へ御執筆下されし由今日も編輯者まゐり大よろこび「戲作三昧」に關する高說拜承僕の馬琴は唯僕の心もちを描かむ爲に馬琴を假りたものと思はれたし西洋の小說にもこの類のもの少からずさう云ふ試みも惡しからずと思ふ但しそれでも事實を曲ぐるは不可となれば又辯ずべきものもあらむなほ現在の僕は短歌も俳句も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず

爾來「わたし」御用ひのよし珍重、文章の道豈そんな事に遠慮の入るものならむや鷗外の「わたくし」非か與茂平の「わたし」是か棒喝の間に決する位な意氣ごみを持たれても然るべしと思ふ長崎へ參るは早くも四月中旬なり尤も大した御心配には及ばずやど屋住ひにても差支へなし唯俗客來らず骨董屋でもひやかす餘裕あれば結構なり

今日天陰閑庭所々殘雪擁爐閱書心意蕭索君も啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]身體と云はず君自身を大切になされたし大器を粗末にとり扱ふのは天に罪を得る所以なる可く候 頓首

    一月十九日      我   鬼

   渡 邊 先 生 蒲下

  二伸茂吉の歌わかるのなら御敎示を乞ふ僕には曖昧模糊たるものなり(あらはれむ事は悲しも云々の歌)

 

[やぶちゃん注:「新小說へ御執筆下されし由今日も編輯者まゐり大よろこび」可能性としては、三月三十一日の渡邊宛書簡(採用しない)の一節に、

   *

玉稿今日落手しました新小說ならば直に頂戴する事と思ひますがその前に中央公論へ見せる事にします あれは中々面白いですね唯あなたの文章の中には文章語法[やぶちゃん注:気になるそれを指す。]が時々あります「松飾り立ち並ぶ町々」とか「こもる霞の中」(コレハ直シテアリマスガ)とか云ふ類ですかう云ふ語法は永井荷風氏も使用しますがわたしはやはり「松飾文ち並ぶ」とか「霞こもる」とかしたいのですあなたは同感できませんか

   *

とある(太字は底本では傍点「◦」)。これについて、筑摩全集類聚版脚注では、この「玉稿」は、結局、『大正十一年六月の中央公論にのった「絵踏」の原稿などであろう』として、大正十一年四月二十二日附の渡邊宛書簡(採用しない)を参照するように書かれてあり、そこで龍之介が仲介して、渡邊の作品「繪踏」を『中央公論』に、同「去來」を『新小説』に、同「双車樓」を『人間』に送った旨の記載があるから、これら、或いは、これらの内の孰れかの原案を指しているものと推定される。

「戲作三昧」は五年前の大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日まで『大阪毎日新聞』に連載され、後の大正八年一月刊の作品集「傀儡師」に収録された。渡邊は、或いは「傀儡師」を龍之介から贈呈され、そこで改めて通読し、感想を述べたものかとも思われる。

「現在の僕は短歌も俳句も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」この一節は重要な発言である。則ち、芥川龍之介は、ストーリー・テラー=物語作家=狭義の小説家を自任しているだけではなく、「詩歌・和歌・俳諧をものす確かな詩人でもある」という強い自負心の表明だからである。一部の研究家は、龍之介の詩や短歌や俳句は「余技であった」と述べているが、それはこれで完全否定されるからである。

「珍重」目出度い。まことに結構である。

『鷗外の「わたくし」非か』私なら――漱石の「わたくし」――としたいところ。芥川龍之介もそうだろうが、「非か」という時、師と慕う漱石を出したくはなかったのであろう。

「棒喝」「ばうかつ(ぼうかつ)」と読んでいよう。筑摩全集類聚版脚注に、『禅家の問答に、悟りを開かぬ者をどなりつけて棒で打つ修行』とある。

「今日天陰閑庭所々殘雪擁爐閱書心意蕭索」仮に訓読すると、

 今日(こんにち) 天 陰(くら)く 閑庭 所々 雪を殘す 爐(ろ)を擁(よう)し 書を閱(けみ)して 心意(しんい) 蕭索(せうさく)

か。

「茂吉の歌わかるのなら御敎示を乞ふ僕には曖昧模糊たるものなり(あらはれむ事は悲しも云々の歌)」先に引用した三月三十一日の渡邊宛書簡の一節に、

   *

何時ぞやの茂吉氏の歌わかるだらうと云はれゝばわかるやうな気もするのですしかし連作の場合でもあれは無理ではないですか

   *

と述べている。確かに。禪の公案みたようで、私は短歌としてよく出来ているとは思わない。]

 

 

大正一一(一九二二)年一月二十一日・消印二十二日・田端発信(推定)・小石川區小日向水道町四十二 佐々木茂索樣・一月二十一日 芥川龍之介

 

拜啓 いきどほり消えしよし結構なり 平生心にさへなればどんな事をしても後悔少かる可く候 若冲の画評判よろしく我鬼先生大得意なり

けふ天眞堂主人の來駕を請ひ自笑軒主人雲泉一幅を購ひ候 鐡心先生は百三十円のよしもちろん買ふのを見合せた

紀行文を書く事面倒にて閉口、茶を喫し香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、若冲のゑを見て溫然と消光したし

     となりのいもじ秀眞にあたふる書

   若冲の木兎のゑ見に來 久方の雪茶を煮つゝわが待つらくに

    二十一日       芥川龍之介

   大 芸 先 生

 

[やぶちゃん注:「いきどほり」不詳。

「若冲」私の大好きな江戸中期の画家伊藤若冲(正徳六(一七一六)年~寛政一二(一八〇〇)年)。京都錦小路の青物問屋桝屋源左衛門の長男。名は汝鈞、若冲は居士号で、彼が崇敬した相国寺の大典禅師が命名。生来、俗事には関心を示さず、四十歳の時、家業を次弟に譲り、生涯独身で画業に熱中、初め、大岡春卜に師事し、春教と号していたが、満足できず、後に相国寺を始め、京坂の名刹にある宋・元・明の名画を熱心に模写し、また、身近にある動植物を、日々、観察し、写生に努めた。「動植綵絵」三十幅は、「釈迦三尊像」三大幅とともに相国寺に寄進されたもので、若冲の悲願がこめられた生涯の傑作である。濃艶な彩色と、彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形が、美事に調和して、特異な超現実的とも言える世界を創出している。天明八(一七八八)年の大火で家を焼失、晩年は京都深草の石峰寺の傍らに居を構え、水墨略画を同寺のために多く描いた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。博物画としても群を抜いており、幻想的超現実的でさえある天才・鬼才である。龍之介が若冲を高く評価しているは、私にはとても嬉しいことである。二〇一三年九月には福島まで見に行った

「天眞堂主人」佐々木忠一の屋号。佐々木茂索の実兄で、骨董屋「天眞堂」を営んでいた。芥川龍之介の古玩の助言者・相談役であった。

「自笑軒主人」田端の芥川家の近くにあった料亭「天然自笑軒」の主人宮崎直次郎。龍之介と文の披露宴が行われたのもここ。養父芥川道章の一中節仲間でもあり、田端への芥川家の転居も彼の紹介であった。田端文士村の拠点ともなった。

「雲泉」釧雲泉(くしろ うんぜん 宝暦九(一七五九)年~文化八(一八一一)年)は江戸後期の南画家。名は就。肥前島原の出身。幼年、父と長崎に遊び、来舶清人について中国語と画を学び、父を亡くした後、諸国遍歴の生活を始めた。江戸に出て、寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の三十代には、備中・備前を中心に中国・四国地方を遊歴、大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に居住し、海保青陵・大窪詩仏などの芸文界の人々と交流した。文化三(一八〇六)年以降は、しばしば越後に遊び、越後出雲崎で客死した。「座ニ俗客有レバ則チ睨視シテ言ヲ接セズ」、「畫人ヲ以テコレヲ呼ベバ白眼視シテ答ヘズ」と伝えられ、文人意識が強かったが、現実には画家として生計を立てていたものと思われる。作品には様式的な幅があるが、寛政年間の若描きのものが、清新な画風で推される。代表作は「風竹圖」・「秋深江閣圖屛風」がある。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画人であった。号の雲泉は雲仙岳に因んだものである(以上の主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「鐡心先生」小原鉄心(おはらてっしん 文化一四(一八一七)年~明治五(一八七二)年)であろう(筑摩全集類聚版脚注に拠る)。名は忠寛。美濃大垣藩士。儒者斎藤拙堂に学び、天保一三(一八四二)年に城代となり、以後、三代の藩主に仕えた。「戊辰戦争」では、一時、幕府軍に従った藩を新政府に帰順させている。彼は詩文や書画も能くした

「紀行文を書く事面倒にて閉口」優れたものであるが、中国紀行群の執筆は、龍之介には精神的にも物理的にも重荷であった。それは、中国特派をさせて呉れた大阪毎日新聞社への義理が大きくのしかかかっていたからである。

「百三十円」(「円」はママ)国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの大正十年の現在価値換算に従えば、六万八千九百九十一円。

「溫然と」穏やかなさま。落ち着いたさま。

「消光」光陰を自然に送ること。月日を過ごすこと。

「となりのいもじ秀眞」田端の隣家で友人に彫金師香取秀眞(かとりほつま)。「いもじ」は「鋳物師(いもじ)」で「いものじ」「いものし」。鋳造物を造る職人のこと。

「雪茶」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、これは漢方茶の名前であろう。地衣類の一種とされる、子嚢菌門チャワンタケ亜門チャシブゴケ菌綱ピンタケ亜綱センニンゴケ科ムシゴケ属ムシゴケ(虫苔) Thamnolia vermicularis Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「むしごけ(虫苔)」に、『わが国の各地をはじめ、南北両半球に広く分布しています。高山帯の地上に生え、地衣体は直立または臥位して、高さは』十二センチメートル『までになります。地衣体は白色で管状、幅はふつう』一~二ミリメートルで、『多少』、『屈曲して回虫状となり、先端はとがります。中国の一部の地域では、「雪茶」という名前のお茶として一般的に使用されています。それは炎症を打ち消すと信じられており、長い期間にわたって伝統的な漢方薬として使用されてきました』とあり、漢方サイト「1 中屋彦十郎薬舗にも載っている。そこには「ゆきちゃ」或いは「せっちゃ」とあるが、まあ、「ゆきちや」と読んでおきたい。]

 

 

大正一一(一九二二)年一月二十一日・市外世田ケ谷池尻三七二 大橋房子樣・一月二十一日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

おとぎばなしの本ありがたう もつと早く御禮を申上げる筈のところ風をひきのどを腫らした爲遲れましたごめんなさい

   ベテレヘムの宿よみをれば大人われも心なごみ來るを君につげなむ

                  頓首

    一月二十一日     芥川龍之介

   大 橋 房 子 樣 粧次

  二伸 日曜でもおあそびにおいで下されたく候

 

[やぶちゃん注:大橋房子(明治三〇(一八九七)年~昭和二四(一九四九)年)は東京市公園課の造園技師長岡安平の娘として生まれ、十一歳で実姉である大橋繁の養女となり、青山女学院卒業後、「婦人矯風会」のガントレット恒子の秘書を経て、作家となった。断髪洋装で、渡欧経験もあるモダン・ガールで、大正一二(一九二三)年には欧州に遊学し、結婚前には山田耕筰との恋仲が噂された。というより、先に言っておくべきだったか、彼女はこの三年後の大正一四(一九二五)年に芥川龍之介の媒酌で佐々木茂索と結婚している(以上はウィキの「佐佐木茂索」に拠った)。なお、ウィキの表記が「佐佐木」となっているのは、龍之介が「々」は日本の記号であって漢字ではないから、中国では通用しないと脅されて(事実。現在は「々」の記号を中国でも日本の繰り返し記号として認知はしているものの、一般には使用されないし、書籍では使用されることはないそうである)、改字したものであろう。底本の岩波旧全集でも中国旅行から帰った後の書簡では、わざわざ『佐佐木』と記している。

「おとぎばなしの本」大橋の物語集と考えて、「ベテレヘムの宿」やベツレヘムを組み合わせて書誌情報がないか調べてみたが、未詳。

「ベテレヘムの宿よみをれば」「ベテレヘム」はキリストが誕生したとされるユダヤの町ベツレヘム。ウィキの「キリストの降誕」によれば、『イエスの降誕は』、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」『のみに書かれている。それによれば、イエスは、ユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたという』。前者「マタイ」では、『ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていないが』、「ルカ」の『場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダヴィデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言』(「ミカ書』五・一)『があった』。後者「ルカ」では、『ベツレヘムの宿が混んでいたため』、『泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる』とある。なお、筑摩全集類聚版脚注でも、これを『大橋著のおとぎ話の一つであろう』と推理している。]

 

 

大正一一(一九二二)年一月二十一日・消印二十二日・本鄕區東片町亙二十四 小穴隆一樣・一月二十一日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

足の傷よりバイキンはひりし由僕の先見明かなるに感服いたされ候事と存候但し無理に雪中我鬼窟まで御出での祟りならばお氣の毒にたへず候夜半亭の屛風望みかなはざるよしせんなき事なり屛風などはどうでもよろしければ足の傷の手當て肝要になさる可く候屛風もいろいろお骨折りは難有く存じ奉り候若冲眞物まぎれあらざるよし秀眞空谷兩老人いづれも耳木兎に敬礼いたされ候君にもらひし墨臺 秀眞老人に見せし所、面の龍は蠟型にとりしもの、壊れしやうなるは鑄し時の失敗、支那の模倣にてはなく日本人の工夫、時代は德川末期のよし判明さすがに専問家[やぶちゃん注:ママ。]は詳しきものと存じ候くれぐれも足の手あて怠るべからず怠ると跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]になる 頓首

    一月廿一日      澄江堂主人

   一 游 亭 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:この小穴の怪我と、その後の悪化による、後の右足首切断については、前回の最後の部分で既出既注。厳密に言うと、この年末に右足の薬指を切除したが、既に脱疽がそれ以上に進行していたため、翌年一月に右足首総てを切断した。龍之介はその手術にも付き添っている。

「夜半亭」与謝蕪村の号の一つ。

「墨臺」(ぼくだい)は「墨床(ぼくしょう)」とも言い、摺りかけた墨を載せる小さな台のこと。

「澄江堂主人」この龍之介が晩年に偏愛した号(書斎名も「我鬼窟」から「澄江堂」に変えている)は、現存するものでは、この書簡で初めて使用されたものである。

2021/08/02

芥川龍之介書簡抄109 / 大正一〇(一九二一)年(四) 五通

 

大正一〇(一九二一)年十月三十一日・田端発信(推定)・空谷先生 侍史・十月卅一日 芥川龍之介

 

先程は結構な柿を澤山ありがたうございました

   君がたぶ十あまり五つの甘し柿あな尊とぞこやりつゝ見る

   君がたぶ十あまりの柿赤ければ赤きをめでき食(を)しがてぬかも

   この柿のなり居るところ山川の水を淸しと人住むらんか

   君がたぶ柿のこゝだく枕べに赤きを見ればものも思はず

   柿の實を畫に描くべくは黃と赤と墨とを融きて描くべかりけり

   そがひなるあるはもろむく柿の實のみながら赤く照りにけるかも

   ひとり見ても嬉しき柿の甘柿のこゝだ赤きを母と二人見つ

   柿の實の赤きにしるき山國の秋を懷しみくへど飽かぬかも

   建御名方神の命も柿食ふと十握の劍捨てたまひけむ

思ふ事を皆に歌にしました 御笑ひさい[やぶちゃん注:ママ。]

それから神經が昂つてゐて睡りにくゝて困ります 睡られる御藥を少し頂けますまいか 熱も少々はあるやうです 頓首

    十月卅一日      病 我 鬼

     空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:「あな尊とぞ」「あなたふとぞ」。字余りで感動を示している。

「こやりつゝ」横になりながら。未だ体調がよくないことが判る。熱と言っているものの、過半は例の衝撃による心身症的なものであると私は考えている。

「こゝだく」「幾許」。副詞。指示代名詞「こ」の系統に属する上代語。かくも多く。たいそう。

「融きて」「ときて」。

「そがひなる」背を向けてひっくり返っているさまを言う。

「もろむく」「諸向く」。一定せず、あちらこちらと、てんでばらばらにいろんな方向を向いている。龍之介のデッサン的なイメージが非常に効果的に使われている一首である。私は好きな一首である。

「建御名方神の命」「たけみなかたのかみのみこと」「古事記」に登場する神。地上の支配者である大国主神の子。「たけ」は「勇壮」の、「みなかた」は「宗像」の転とも、「南方」の意ともされる。地上の支配権を譲り受けるために、建御雷(たけみかづち)が高天原からやってきたとき、大国主の子である八重言代主は、その交渉に応じたが、今一人の子である彼は、これに応じず、建御雷に力くらべを挑んだ。しかし、建御雷の力に圧倒されて、信濃の諏訪まで逃げ、国土を譲り渡すことに同意した後、その地に鎮座したと伝える。贈られた柿の産地が諏訪であったのであろう。

「十握の劍」「とつかのつるぎ」。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十一月八日・田端発信・金子歌子宛

 

拜啓 栗をたくさん難有うございますあんな大きな栗は東京では滅多に見られません殊に私は胃酸過多の爲醫者に栗を食べる事をすゝめられてゐますそれだけ餘計難有かつたわけです右とりあへず御禮までにこの手紙を認めました次手ながら何時も頂戴物ばかりして恐縮に存じてゐる事も申し添へます 頓首

   さごろものをつくば山の甘し栗ここだもたびし君はうれしも

   ぬばたまの月をすがしみこのよひをひたちの山の栗落つらむか

    十一月八日      芥川龍之介

   金 子 歌 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:金子歌子(明治二二(一八九九)年~昭和二四(一九四九)年:龍之介より三歳年上)は茨城生まれで、芥川龍之介の年下の友人中西秀男(既出既注)の実姉。新全集の「人名解説索引」によれば、『幼い頃からの文学少女で』、『弟の中西秀男との縁で芥川と手紙のやり取りを持ち』、『栗や初茸などを送った。茨城県石岡市の金子呉服店の女主人として店を切り盛りし』、『弟の秀男はよく遊びに出かけたという』。『最後まで文学を愛した女性であった』とある。新全集の彼女宛書簡は五通に及ぶ。

「さごろもの」「緖(を)」の枕詞。「おつくば山」で「お」は美称の接頭語と思われ、それを「を」に音通させたのであろう。

「ここだも」先の「こゝだく」と同じ。こんなに沢山も。係助詞「も」は「ここだ」によく付随する。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十一月十日・消印十一日・速達印有り・田端発信・京橋區鍋町時事新報社内 佐々木茂索樣・十一月十日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓 別封原稿、時事の文藝欄の一隅に御揭載下さるやう歎願します 著者及この文の作者に賴まれたのです どうかよろしく御取り計らひ下さい

   自轉車にまたがる男ペダルふまずまむかに坂をひた下し來る

   車ひき車ひきつつ自(し)が頸に古肩掛の毛布かけたり

                  頓首

    十一月十日          芥川龍之介

   笹 木 さ ま まゐる

 

[やぶちゃん注:「別封原稿、時事の文藝欄の一隅に御揭載下さるやう歎願します 著者及この文の作者に賴まれたのです」誰の何んという原稿か、不詳。掲載されたかどうかも、不明。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十一月二十一日・田端発信(推定)・空谷先生・十一日 芥川龍之介

   みすゞ刈る科野の國の大玉菜ふたつたびたる君はうれしも

   みすず刈る科野の國に西洋の玉菜いつより作りそめけむ

    十一月廿一日   了 中 庵 主

  空 谷 仁 兄 侍史

 

[やぶちゃん注:「みすゞ刈る」「しなの」(「科野」=信濃)に掛かる枕詞。但し、近世の万葉研究による誤認識である。

「玉菜」キャベツ。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十二月三日・消印五日・田端発信・長野縣中央線洗馬驛志村樣方 小穴隆一樣 十二月三日・東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

その後親戚のごたごた燃ひろごり新年號の原稿と共に愈小生を多忙になし居り候この頃睡眠は不足食慾は滅退、憐むべき狀態なり 井月の短尺目つかりしや否や井月は木曾へは少くも三度行つてゐるよし探がせばきつと何處かにあるべし

   元日や手を洗ひ居る夕心

   秋の日や榎の梢の片扉き

いづれ入谷尊老に叱られる句か今日中央公論の〆切なりこれにて擱筆、勉强し給ヘ

それから何か欲しいものあらば遠慮なしに申越されたし女房に命じ直ちに送らせる事とする故

     河童の画に

   橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿(カブロ)のあたま

                 頓首

  臘初二        了 中 庵 主

 二伸 君の句「山鷄のかすみ」「木枯に山さへ」「手拭を腰にはさめる」三句うまいと思ふ

 一遊亭先生 蒲下

 

[やぶちゃん注:「親戚のごたごた燃ひろごり」詳細は不詳だが、この前月十一月下旬頃に発生し、容易に片が付かなかったようである。

「新年號の原稿と共に……」翌大正十一年一日に発表されたのは、「藪の中」(『新潮』)・「二種の形式を執りたい」(『新潮』)・「草花、體操、習字、創作など」(『新潮』)・「俊寬」(『中央公論』)・「將軍」(『改造』)・「神々の微笑」(『新小説』)・「パステルの龍」(『人間』)・「LOS CAPRICHOS」(『人間』)・「本の事」(『明星』)・「いろいろのものに」(『主婦之友』)・「ほのぼのとさせる女」(『婦人公論』)・「英米文學上に現はれたる怪異」(『秀才文壇』)であった。

「入谷尊老」小澤碧童。

「今日中央公論の〆切なり」「俊寬」であるが、実際にはこの日には脱稿出来ていない。上記の内のめぼしいもの七篇ほどは、結局、十二月二十日の脱稿であった。恐らくは雑誌社は芥川龍之介以上にイライラしていたはずである。

「山鷄のかすみ」以下の句の初期形であろう。

   *

山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

   *

以上は後の「鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」に所収する。

「木枯に山さへ」同前で、

   *

  厠上

木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

   *

であろう。小穴には、上記二人句集に、別に、

   *

  澄江堂主人送別の句に云ふ 

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

  卽ち留別の句を作す

木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

   *

という、龍之介の名句に応じたそれがあるが、この留別吟は、翌年の大正十一年一月に右足に怪我をして細菌感染をこじらせ、同年十一月に伊香保に療養に立った際の送別吟であって、これではない。なお、小穴の症状は最悪となり、同年十一月二十七日に脱疽と診断され、翌年、右足を足首から切断し、以後、義足を使用するようになった。

「手拭を腰にはさめる」同前で、

   *

手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

   *

であろう。]

只野真葛 むかしばなし (32)

 

〇父樣御弟子は元長・元察・元丹・元隨・其外御弟子と名の付(つき)し人數(にんず)しらねど、ことごとくは、かゝず。

 其内、元長は、ぢゞ樣のゆづり弟子。

 元察は、まことの御取たての御弟子なりし。一さかりは、新橋の門家敷(かどやしき)にりつぱに普請をして、目だちたる町醫なりしが、妻をなくし、火事に逢、子どもは、なし、老母、長命にて工面あしくや、末、をとろへて有し。

 元隨といひしは、仙臺者にて有しが、大人役(おとなやく)の人、無(なき)時にて、玄關しまりに中間(ちゆうげん)に寢(いね)たりしに、夜中、枕もとを、ひそかに、さがすもの有しを、其頃は、かごのもの、手人(てびと)なりし故、下人多かりしかば、ふと聞付て、

『たしかに。中元どもの、うちかきて、はした錢をさがしとなるべし。とらへて、「泥棒」とよばはりて、たわむれん。』

と、せしを、はづして、机の下へ、かくれたり。

「よし。おもしろし。」

と、

「ひた」

と、おさへて、

「どろぽう、どろぼう。」

と、聲たてしかば、にわかに、ふしたる男ども、五、六人、

「ばらばら」

と、かけおりる。家内、目をさまして、あかしもちいでゝ見たれば、まことの盜人にて有し。一向、平氣にて、かゝりし故、ことなく、組(くみ)とめしなり。脇坂の家中の人足にて、よほど、ことかうじたる盜人(ぬすびと)なりしとぞ。上へ達して、番人など付(つけ)て二夜ばかり有しが、脇坂へわたしたりし。

「是れを組(くみ)とめし弟子は、いかなる人か、見たきもの。」

と、いひしとぞ【長庵二、ワ、六の年なりし。】[やぶちゃん注:底本に以上は『原頭註』とある。]。父樣にも、餘りむかふみずの仕方と御しかり被ㇾ成しに、

「はじめより泥棒と存じて、いたせしことには、あらず。『内のものゝうちならん』と心にきわめし故、たわむれにと、存(ぞんじ)たること。」

とて、みづから、おそれて有りしなり。仕合(しあはせ)に、刄物、持(もた)ざりしことなり。外(ほか)にて、脇差をぬすみ、とぎにやりて、置(おき)し、となり。

「それなどあらば、おめおめと、からめられじ。」

といひしを聞て、猶、おそろしくなりしとぞ。かやうのたぐひ、有ことなり。

 むかふ、築地、桂川の弟子に「甫(ほ)ちん」といひし人は名代(なだい)の「かべゑ」なり【「おどけゑ」を、よく書(かき)て、名を取(とり)し人。】[やぶちゃん注:底本に以上は『原頭註』とある。]。近目(ちかめ)にて有しが、

「桂川の門前通(もんぜんどほり)のまがり角へ、おひおどしが出る、出る。」

と、大評判のこと、有し。甫ちん、夜更(よふけ)て外より歸りしが、折ふし、雨ふり、しづかなる夜、小提燈(こぢやうちん)をさげて、門前ちかくへ來りし時、二人づれの男、ぬき身をさげて居(をり)たりしを、ちか目にて、はやく見付(みつけ)ず、一間ばかり、ちかよりし時、ぬき身を、

「ひらり」

と、鼻の先へだしてみせしを、

『内の者どもが、此頃の評判のまねをして、ちか目を笑(わらは)んと、はかりしこと。』

と心得て、

「おつと、ふるし、ふるし。」

とて、小提燈を、鼻の先へ、さし出(いだ)したれば、二人とも、にげうせたり。

「さてこそ。勝《かち》を、とりし。うれしや。この雨ふりに夜中、とんだあそびをすること。」

と、心おかしくおもひながら、うちに入(いり)て見しに、寢しづまりて、みな、うちの人は、そろひて有し、とぞ。

『さては。今のは誠(まこと)のおひをどしか。』

と思ひしかば、夜着《よぎ》かづくに、膝、ふるひし、といふ、はなしなり。

 

[やぶちゃん注:「新橋の門家敷」江戸切絵図を見ると、仙台藩上屋敷の東北隣りの龍野藩上屋敷の東北の、汐留橋(蓬萊橋)の南詰に「三角屋敷」と呼ぶ町屋地がある。ここであろう。「古地図 with MapFan」で確認されたい(現在の新橋駅の東直近である)。

「大人役(おとなやく)の人」正式に医師助手として認められていた一人前の者のことか。

「玄關しまり」玄関の用心の見張り役のことであろう。

「中間(ちゆうげん)」長屋門の中間部屋か。

「かごのもの、手人(てびと)なりし故」往診などに用いる駕籠舁き人足さえも、専従の手下として雇っていたほどであったから、の意か。

『たしかに。中元どもの、うちかきて、はした錢をさがしとなるべし。とらへて、「泥棒」とよばはりて、たわむれん。』「きっとこうだぞ。――中間どもが、中間部屋の中を手探りして、部屋に落ちている鐚銭(びたせん)なんぞをあら捜ししているのに違いない。とっ捕まえて、『泥棒!』と呼ばわって、戯れてやろうじゃないか!」。

「はづして」その相手の体の一部を元随が摑んだのだが、そやつがそれを外して。

「脇坂」当時の実務担当であった幕府の目付の姓か。決裁は若年寄であるが、若年寄一覧には脇坂姓はない。私邸とは言え、藩医の屋敷に侵入したのであるから、仙台藩が処断していいわけだが、仙台藩の上位の家臣の中に脇坂姓はないようである。

「ワ、六の年なりし」珍しく時制が確認出来る。真葛は宝暦十三年(一七六三年)生まれであるから、これは明和五年(一七六八年)ということになる。

「むかふ、築地、桂川」只野の私邸の向いの築地の桂川(かつらがわ)という医師、の意であろう。この時はまだ、十七歳ほどであるが、後の医師で蘭学者として知られる第四代当主桂川甫周(かつらがわほしゅう 宝暦元(一七五一)年~文化六(一八〇九)年)がいる(彼の弟は蘭学者で戯作者でもあった森島中良である)。彼は第三代当主桂川甫三の長男で、この時制内の当主は甫三である。桂川家は第六代将軍徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(本名は森島邦教)以来、代々、将軍家に仕えた幕府奥医師であり、特に外科の最高の地位である法眼を務め、そのため、蘭学書を自由に読むことが許されていた。甫筑は大和国山辺郡蟹幡に生まれ、平戸藩医嵐山甫安にオランダ外科を学び、甫安より桂川の姓を受け、甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)の侍医を経て、幕府医官から法眼に上り詰めた。ここでの当主桂川甫三は前野良沢・杉田玄白と友人であり、「解体新書」は、実に、この甫三の推挙により、将軍に内献されている。息子の桂川甫周は、二十一歳の時、その「解体新書」の翻訳作業に参加するとともに、後にツンベルクについて外科術を学び、やはり、江戸幕府の医官となった。桂川の屋敷は現在の東京都中央区築地一丁目十番地(グーグル・マップ・データ)内にあったから、まさに只野の屋敷の向いに当たる(位置特定はサイト「Tripadvisor」のこちらの中央区教育委員会の解説版画像に拠った)。

「かべゑ」「壁繪」で寺社などの壁画を描くことか。

「おどけゑ」「戯(おど)け繪」か。滑稽な絵か。

「近目(ちかめ)」近視。

「おひおどし」「追ひ脅し」で「追ひ剝ぎ」に同じ。通行人を脅し、金品や衣類を奪い取ること。

「一間」約一・八二メートル。

「ふるし。」「ちゃらかしてやることにしちゃあ、いかにも旧式だぜ。」。

「二人とも、にげうせたり」お「追ひ脅し」の二人は、とんだ手練れの者と勘違いして、恐れて、逸足出して、逆に逃げてしまったのである。この話、実に面白い!]

只野真葛 むかしばなし (31)

 

 色々もの入(いり)して、御世話被ㇾ成しが、主なしにて藥もうれず、その店はつぶして、かすかに九尺口にしつらひて、繪草紙・たばこ入(いれ)など、うりて、お秀は、ゑびすやの仕立物などして、すごしてありし。

 娘子はよき養子の口有てつかわすといふことなりしを、誠かと思ひしに、實は深川のむすめにうりしとなり。其時にげてお秀が所に來りしが、いかにかくれて有りしか、段々とわりもつきて後、切どほしの右近樣の奧へ御奉公に上(あが)りてより、今もおなじ所につとめて有。

 順治は、どうしても、惡黨にて、筋あしきことばかりして、終に、こむそう寺へ入しと聞しが、後、しらず。半右衞門も前髮有時、養子にもらひたしといひし人有しが、侍をきらいて、ならず、町人にて有りしなり。

 末子とら次郞は、門ならびのほてい屋といふ糸屋、其頃は、しごく富家にて有し故、たのもしくおもわれしを、不仕合のむかひしことは是非もなし、「鍋島樣」と、だまされて、用金を出し、返濟なき故、つぶれて、みせも人手に渡し、むすこ夫婦は、かすかの糸屋となり、親は鍋島より、扶持《ふち》給金を被ㇾ下、一生は、樂隱居のごとく、御長屋内にひとりずみして有りしが、とら次郞、幼年より、おもき恩をうけし人故、はなれかね、其隱居につきて、かんがくし、廿五、六まで居たりしが、隱居死後、かへつて見た所が、世わたりのわざ、何もしらず、大ぶら付(つき)ものなりしが、いかゞなりしや。

 

[やぶちゃん注:真葛のそれは、話が突然飛んで、よく意味が判らないところが多い。これも「お秀」という名からは、先の石井家に嫁いだ「お秀」としか読めない。とすると、お秀の夫石井宇右衛門の親は薬種屋を営んでいたものが、親が亡くなって、こうした顚末になったということになるのか。

「深川のむすめにうりし」深川芸者として売ったということであろう。

「わりもつきて」深川芸者置屋からの逃げた結果のごたごたに仲裁が入ったものか。

「切どほしの右近樣」不詳。「奥」への「御奉公」とあるから、大身の旗本か大名家か。

「順治」石井宇右衛門の先妻の長子。

『「鍋島樣」と、だまされて』「大身の鍋島藩だから、返済は安心してよい」と「だまされて」、金を都合したが、結局、返済されず、ということであろう。それを懐柔するために、親だけは、何がしかの扶持を与え、鍋島藩邸の使用人の長屋で楽隠居をさせたということか。

「かんがく」「勸學」。

「何もしらず、大ぶら付(つき)もの」世間知らずの、度を越した遊び人或いは不良か。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (11) 靑砥藤綱の「裁判」に對する態度

 

      靑砥藤綱の「裁判」に對する態度

 

 摸稜案の卷頭に『靑砥左衞門尉藤綱傳』が物されてあることは既に述べたが、この中に作者馬琴は、藤綱の性格を述べると同時に、藤綱の裁判時に於ける態度を記して居る。その態度は裁判心理學の立場から見て、極めて合理的であるから左に原文の儘引用しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では、全体が一字下げ。前に示した国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここから(厳密にはこの前のページの末尾から)。読みはそれを参考に補った。]

『……されば藤綱は、訴陣《うつたへのには》に臨みて、理非を沙汰する每に、始終眼《まなこ》を閉《とぢ》て、訴人の面《おもて》を觀ることなし、人みなその意をしらず、ある人言《こと》の序に、その故を問しかば、藤綱答ヘて、さればとよ、人の容止《かほかたち》と心とは似ざるものにて、はじめ、うち見るより、いと憎さげなるあり、又あはれらしきあり、信《まこと》らしきあり、頑《かたま》しきあり、その品《しな》多くして、いくばくといふ數《かず》を知らず見るところの眞《まこと》らしきと思ふ人のいふことは何事も實《まこと》と聞え、頑しと見ゆる人のいふ事は、何事も僞りと見ゆ、又哀らしき人の訴は誣《しひ》られたる事ある如く思はれ、憎さげなる人の爭ふは、巧《たくみ》ていひなすならんと見ゆ、これらの類《たぐひ》は、わが見る所に心も移されて、彼此《かれこれ》いまだ言葉を出さゞる先に、はやわが心のうちに、彼は邪《よこしま》ならん、此は正しからん、是《よか》らん、非《わる》からんと、わが心を師として思ひ定むる程に、訟《うつたへ》の言藥を聽くに至りてはわが思ふ方に引れて、聞誤つこと多かり、訴陣に臨みては、哀らしきに憎むべきものもあり、憎さげなるに憐むべきことあり、眞らしきに僞りあり、頑しきに直《すなほ》なるあり、此さかひ特に多し、人の心の知り難き、形貌《かたち》をもて定むこと稱《かな》ふべからず、古の訴《うつたへ》を聽ものは、氣色《けしき》によりて聽ことあるよし、物には見えたれど、それは聊も覆《おほは》るゝなき賢人のうへにこそ、藤綱が如きは、常に覆るとこと多し、この故に、始終眼を閉て、訴人の面を見ず、只そのいふ所を聞わかちて、埋非を定むるのみ、むかし、八幡殿(義家)を評して至極の惡人なりといひしとぞ、げに義家朝臣は、弦《ゆづる》を鳴らして、物の怪を消伏《せうぶく》したる勇將にをはせしかば、武備面に見《あらは》れつゝ、いと逞しくこそありつらめ、婦幼《をんなわらべ》の目をもてこれを見ば、惡人とも見えたるなるべし、色好みなる心より、惡人ならんと見られたる、義家の氣性、媚《こび》ず、へつらはず、武をもて朝廷のおん衞《まもり》となり給へる、その人となり、思ひやらるゝかし、又、訴陣に出るもの、誰《たれ》かおそろしと思はざらん、しかるを、まうす事の理《り》にたがへりとて、頭人《とうにん》[やぶちゃん注:鎌倉幕府にあって所領関係の訟訴を管轄した「引付(ひきつけ)衆」の長官。]いたく、彼を罵り懲《こら》すときは、そのものますます戰慄《ふるひをののき》て、逡に情を得《え》述《のべ》ず、その情を得述べざるときは、理にして非とせらるゝもあるべし、又、心しぶとく、言を巧《たくみ》て、まうし掠《かす》めんとするものをば、いかばかり罵懲《ののしりこら》すとも、姑《しばら》くは口をもつぐめ、眞實に歸伏《きふく》するは稀なり、こゝをもて、藤綱訴陣に理非をわかつ每に、威をもて懲すことをせず、只理を推《おし》て彼にその非を知《しら》せんと思ふのみ、辭《ことば》を安寧《やすらか》にして、民を安《やすん》ぜよと、曲禮《きよくらい》にも本文《ほんもん》あるにあらずや、といひしかば、問者《とふもの》坐《すずろ》に感淚を流して退《しりぞ》きけり。』[やぶちゃん注:「曲禮」「礼記」(らいき)の冒頭にある編名で、その巻頭「曲禮上」の最初に『「曲禮」曰、「毋不敬、儼若思、安定辭。」。安民哉。』とある。]

 更に藤綱は、最明寺時賴の諾國行脚を難じて[やぶちゃん注:前文にほぼ続いて出る。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ一行目から)。]『むかし最明寺段の諸國を行脚したまひしは、只その目を賴み耳を憑《たの》み給ふ、おん誤《あやまち》とこそ思ひ候へ、凡そ人の目は物として見えざることなけれども、紙一重隔つれば絕て見えず、耳は聲として聞ざることなけれども、數町の外は聞えず、よしや國々を遍歷し給ふとも、見る所と聞く所に限りあり』と斷言し、なほ『只目に見、耳に聞く所をもて、政《まつりごと》を天下に有んと思召すは、管《くだ》もて蒼天《あをぞら》を窺ふより猶疎(おろそか)なるべし』と建言して居る。

 これ等の言葉は今の裁判官にとつても甚だ尊い敎訓である。『人相によつてある程度までその人の心を窺ひ知ることは出來るが、それは賢人のことで、自分ごときものは、却つて人相のために誤解を生じやすいから、法廷では眼をふさぐ』とは、實に心得たものである。グロースの『犯罪心理學』の中にも誤斷に陷り易い條件として五つをあげ、そのうちの第一にこの自然的先入見 Natural prejudice を數へて居る。而もかやうな先入見は極めて去りにくいものであつて、ハルトマンも『感覺から生ずる偏見といふものは、之を消すことが至難であつて、例へば地上に出かけた月も中天にある月も同じ大《おほき》さであると、何百遍注意をして見ても、依然として、地上に出かけた月は中天にある月よりも遙かに大きく見える。』と言つて居る。そしてかやうな偏見は裁判の際、裁判官に甚だ起り易いのである。前揭の文の中には、ある女が八幡太郞義家の顏を見て極惡人だと言つた話があげられてあるが、西洋でも誤認の例として、ある女が馬を見た話がよく引用されて居る。それは卽ち、ある百姓の女が長さ五六間[やぶちゃん注:約九メートル強から十一メートル弱。]ほどの厩の前の入口から一疋の馬が頭を出し、後ろの入口から他の馬が尻毛を出して居るのを見て、毛色が同じてあつたため、同一のもの頭と尻尾だと見誤り『なんて胴の長い馬だらう!』と叫んだといふ話である。これに類した誤認は百姓女ばかりでなく誰にもあり得る話である。だから、裁判官は偏入見に左右されないで、只管に理に從つて裁判を行はねばならないのである。[やぶちゃん注:「グロースの『犯罪心理學』」オーストリアの刑事法学者・犯罪学者で、現在の「犯罪プロファイリング」の創設者とされるハンス・グロース(Hanns Gross 一八四七年~一九一五年)が一八九八年に刊行した‘Criminalpsychologie ’。 因みに、彼はプラハ大学で教鞭を執ったが(法学部長となった)、その学生の一人にフランツ・カフカがいた。彼の「城」や「流刑地にて」に見られる法律的部分はその影響下にあるとされる(ドイツ語の彼のウィキに拠った)。「ハルトマン」ドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン(Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)か。最も知られた著作は一八六九年出版の「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewußten )である。]

 摸稜案に書かれた藤綱はこの先入見を恐れると同時に、人間の威疊の賴みにならぬことをよく知つて、理智によつて、獄を斷じようとした人である。彼が如何に『道理』を愛したかは、嘗て夜分、川の中へ十文の錢を落したとき、五十文の松明を費して搜し出させたことでもわかる。ある人が彼のこの行爲をあざ笑ふと、藤綱は、川へ落ちた十文は捨てゝ置けば永久失はれてしまふが、自分の費した五十文の錢は商人の手に渡つて、永く使用されるから、つまりは天下の利益ではないかと反駁した。よく考へて見ると、少し變であるけれども、理窟はとほつて居る。又彼は極めて淸廉潔白な性質であつて、ある時最勝園寺殿貞時が鶴岡八幡宮へ通夜した曉の夢に、一人の老翁があらはれて、靑砥左衞門を重用せよと告げたので、近國の莊園八箇所を藤綱に與へようとすると、藤綱はそのいはれを聞いてそれでは夢に、藤綱の首を切れといふ御告げがあつたならば、罪のない私の首を御きりになりますか?』と詰《なぢ》つて、それを受けなかつた。

 かういふ調子で彼は數々の事件を取り扱つたのである。以下、私は摸稜案に收められた二三の物語の内容を紹介しようと思ふ。

 

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (10) 曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

 

      曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

 

『靑砥藤綱摸稜案』は文化八年の冬から翌年にかけて出版されたものであるから、三比事の出版後凡そ百年を經過して居る。その間に文學の中心地は上方から江戶に移り、小說の形式も大《おほい》に變化した。從つて、同じく棠陰比事から材料を供給されたとはいへ、三比事と摸稜案とは、敍述の形式に於ても、材料の取扱ひ方に於ても全くその趣を異《こと》にして居るのである。三比事の物語が、殆んど皆、事件の簡單な說明であるに反して、摸稜案の物語は所謂『照應あり、波瀾あり』で、讀んで非常に面白く、こゝにも、物語作者としての馬琴の非凡な技倆を十分覗ふことが出來ると思ふ。

 摸稜案も三比事と同じく一種の裁判物語である。犯罪の顚末が先に述べられて、然る後事件の解決が裁判官によって行はれるといふ書き方は、三比事とその軌を一にして居るけれども、筋の立て方が極めて巧妙であるために、現今のこの種の歐米探偵小說に、頗る似通つた面白味がある。この書は前集と後集とに分たれ、前集には靑砥藤綱本傳の外に三つの中篇小說と三つの短篇小說とを收め、後集は一つの長篇小說から成つて居る。各篇を通じて、名判官靑砥藤綱の明快なる裁判振りが猫かれであるけれども、所所謂『事件探偵』の經路は比較的簡單に述べてあるばかりで、且つ又、『探偵』の要素として『偶然』がだいぷはひつて來て居る。

 この小說中の事件は、靑砥藤綱を出す關係上、鎌倉時代の出來事として描かれてあるけれども、その實、靑砥藤綱は江戶時代の名判官大岡越前守をモデルとしたものであつて從つて摸稜案の中には越前守の取り扱つた事件がかなり多く織り込まれてあるらしい。現に、後半に收められた長篇『蠶屋善吉の事件』は、大岡政談の中で、人口に膾炙されて居る『越後傳吉の事件』を書いたものである。靑砥藤綱はもとより實在の人物であつたけれども、その政談はあまり多く傳はつて居ない。だから、作者自身も、藤綱傳の終りに、

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では、全体が一字下げ。]

『……藤綱が潔白淸廉なること、すべてかくの如し、されば時宗、貞時二代に仕へて、久しく評定衆の上坐にありといへども、理世安民の政道正しく、後には主君を稱し、惡をば身に負ひて、民をして北條ぬしの、仁惠をしらしめつゝ、努々《ゆめゆめ》主の非をあらはして、わが名を取らんとすることなければ、萬民ますますその德を慕うて、これを思ふこと赤子の母を慕ふがごとし、夫《それ》必ず人にすぐれたる所あらん、惜哉《おしいかな》談記者筆を絕《たつ》て、その全行を見るに足らず、今僅に、太平記、北條九代記、鎌倉志、この餘軍記雜籍に藏する所を抄錄し、更に街談巷說を編纂して、これを摸稜案と命《なづ》けたり、蓋し摸稜は、蘇味道が故事を取るにあらず、作者摸稜の手に成すのみ、姑《しばら》く虛實を問はざれ。』

 と書き加へて居る。摸稜とは事を明白にしないで曖昧にしえおくことであつて、馬琴もなかなかうまい題名を見つけたものである。然し、題名は摸稜であつても、靑砥藤綱(卽ち大岡越前守)の裁判は決して摸稜ではなかつた。大岡越前守は常識を巧みに應用して裁判を行つたといはれて居るが、摸稜案に描かれた藤綱の裁判にも、常識と理知とが鋭く働いて居る。私は最初に、馬琴の描いや藤綱の『裁判』に對する態度について述べて見よう。

[やぶちゃん注:不木は「靑砥藤綱はもとより實在の人物であつた」と言っているが、現在、彼は架空の人物とされている。実際に史料に彼の実在を示すものは、全くない。モデルとなった人物はいたであろうが、鎌倉時代中期の理想的な気骨ある廉直なる武士像を造形した架空の人物である。

「靑砥藤綱摸稜案」国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」(国民図書株式会社編昭和四(一九二九)年刊)の第十六巻でここから全篇が活字で読める。私は、いつか、これを電子化したく思っている。

「北條九代記」「牡丹燈籠」の最初期の傑作を含む怪談集「伽婢子」(現在、ブログで全電子化注の最中)で知られる浅井了意が作者と考えられている、執権北条時政から貞時に至る北条氏得宗全九代の間の事件を物語風に記した史書。延宝三(一六七五)年刊。全十二巻。私はブログで全電子化注をとうの昔に完遂している(一部はサイト版もある。私の「心朽窩旧館」を参照されたい)。「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」及び「北條九代記 卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談」で藤綱への言及がある。

「鎌倉志」「新編鎌倉志」。徳川光圀が編纂させた鎌倉地誌。全八巻。延宝二 (一六七四) 年に光圀が鎌倉を旅行した際(水戸黄門の行脚物語は全くの噓で、光圀の長旅は金沢八景及び鎌倉に旅した一度きりである)、名所・旧跡などの記録を取らせ、これを水戸藩彰考館の史臣河井恒久に命じて編修させ、松村清之・力石忠一らの補筆・校訂を経て貞享二(一六八五)年に出版したもの。鎌倉の概説・地名・旧跡・寺社などについて詳述したもので、概ね一巻分が約一日の行程にとってある。後に江戸幕府が「新編相模国風土記稿」を編纂した際、すでに本書があるという理由から、鎌倉郡の部分が簡略化されることとなった。私は既に遙か昔に全篇の電子化注をサイト版で完遂している。私の「心朽窩旧館」を参照されたい。また、そこにリンクさせてあるが、その原拠となった光圀の鎌倉への旅の記録である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」(サイト一括版。ブログ分割版もある)もある。藤綱への言及は、「新編鎌倉志卷之二」の「滑川」の条に、知られたエピソードで不木も後で記す、十文の銭を川に落として、五十銭で松明(タイマツ)を買って探し出したという話が載る。

「蘇味道が故事」既注。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (9) 兩用心記に書かれた詐欺方法

 

      兩用心記に書かれた詐欺方法

 

 凡そ、他人の意志に反して、他人に屬するものを奪ふ方法に四種碩ある。第一は所謂强盜であつて、暴力を以て他人を無力にして奪ふ方法をいひ、第二は所謂窃盜であつて、他人の居ないところ、又は他人の意識の全然働かない時間を選んで奪ふ方法をいひ、第三は所謂掏摸《すり》であつて、他人の意誠にスキの出來たチヤンスをねらふか、或は他人が意識しない程の早業によつて奪ふ方法をいひ、第四は所謂騙盜詐欺であつて、他人に接し他人をだまして行ふ方法をいふのである。このうち强盜は尤も野蠻な方法であり、窃盜、掏摸、詐欺は段段進化した方法だといふことが出來る。何となれば掏摸は窃盜よりも腕の熟練を要し、詐欺は掏摸よりも頭の働き卽ち智慧を要するからである。

 同じく詐欺のうちにも、亦、下等な方法と上等な方法がある。たとへば人をだまして、そのあげくに言ひがかりをしたり、先方の弱點に乘じて脅喝を行ふのは下等な方法であり、チヤンスを利用して詐欺を働くのも、比較的下等な方法であるが、之に反して、先方の慾心に乘じたり、迷信に乘じたりするのは比較的上等であり、こちらを十分信用させて然る後悠々として詐欺を働くものは最も上等な方法であるといつてよからうと思ふ。又、同じくチヤンスを利用する詐欺にも色色の階段があつて、例へば『杜騙新書』の中に、豚を四頭曳いて行く百姓に向ひ、その中の二頭を買ひたいと言つて、その豚を近づけて檢査する風をして、わざと手を放し、豚が逃げ出すのを百姓が追ひかけて居る隙に、殘りのうちの二頭をもつゝ放し、一頭を奪つて去るといふ話があるが、これなどは、掏摸とあまりちがはぬ方法である[やぶちゃん注:「第一類 脫剝騙」にある「明騙販豬」。「中國哲學書電子化計劃」のここから原本影印本で読める。]。然し、同じ書に、ある町で、澤山の兩替屋が椅子と机を出して換錢《かへせん》を行つて居たところ、そのうちの一人の机は頗る古びて、錢を入れた箱がこはれかけて居たが、その男が隣りの兩替屋に賴んで、晝支度をしに行つて居る留守に、一人の詐欺師が大工に化けてその兩替屋から修繕を依賴されたやうに裝ひ、机をかついで行つて、その中の錢を奪ふ話があるが、これなどは、同じくチヤンスをねらふ詐欺でも、前のよりは優れた方法であると言へる[やぶちゃん注:同じ「第一類 脫剝騙」にある「詐匠脩換銭虎厨」。「中國哲學書電子化計劃」のここから原本影印本で読める。]。

 さて、晝夜、世間、兩用心記に記された詐欺方法に就て調べて見ると、詐欺手段の殆んど全體を網羅して居ると言つて差支へなく、そのうち最も多いのは、チヤンスをねらふ詐欺であるが、細かに分類すれば、一、先方の弱點に乘じて言ひがかりする詐欺、二、チヤンスをねらふ詐欺、三、共謀詐欺、四、迷信に乘ずる詐欺、五、先方の慾を利用する詐欺、六、こちらを充分信用させて後行ふ詐欺等にわけることが出來るのである。今左に、この一々の詐欺の例證を兩用心記から取り出して順次にならべて見ようと思ふ。

 、先方の弱點に乘じて言ひがかりする詐欺。晝夜用心記にこんな話がある。本町の現銀吳服店は頗るよくはやる店であつた。あるとき一人の侍が中間をつれて紅絹を買ひに來たが、店員の目を盜んで左の袖口から一疋懷へ入れた。店目付がこれを見つけて、その侍のそばに寄り先刻懷中された紅絹を御出しなさいときめつけた。侍はぞんな覺えはないといふ。彼此議論するうち、店の者が無理に侍の懷へ手を入れて取り出し、これさへ取戻せば用はないから御歸なさいと突き出した。すると侍は中間に命じて二丁目の絹布《けんぷ》屋和泉屋與助を呼ばしめ、受取證を出し、最前その方の家で買つた紅絹を懷へ入れて居たら、こちらのものを盜んだといふ話だから、鑑定してくれといつた。與助は檢印まで捺しましたから間違ひありませんといつて、見ると、いかにも檢印が捺してある。なるほどこちらの店でもよく調べて見ると紅絹は紛失して居ない。これは誠に相濟みませんとわびると、侍は盜人よばはりされた無念に、店員を殘らず斬つて自分も切腹しようと、たけり出した。そんなことをされてはたまらないと番頭は侍に五兩握らせたところ侍は案外にもにこりとして中間を連れて去つた。全く初めからたくらんだ仕事であるとはわかつても、店がふさがる損にかへられないので、番頭が氣轉[やぶちゃん注:ママ。]をきかせたのであつた[やぶちゃん注:不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの同書は第四巻が欠損しているので、そこに入っているか。以下、見当たらない場合は注をしない。悪しからず。]。

 次に世間用心記にこんな話がある。中ぬき町に堀江屋新四郞といふ小判市《こばんいち》のやりくり問屋が出來、大げざな賣買を始めた。ある夜寄手が大ぜい集つて、小判十萬兩の賣買をし、間金《あひだきん》[やぶちゃん注:小判の国内相場と輸出価格の差額。]貳百兩を預けて歸り、翌日の相場を案じて來て見ると、亭主が留守で、どこへ行つたか更にわからず、午後になつても歸つて來ぬので、これはてつきり、亭主が間金を持ち逃げしたにちがひないと、戶棚の錠をねぢきつてあけて見ると、二百兩たしかにあるので、扨は不思議と話し合つて居ると、ふらりと亭主が歸つた。戶棚の錠のねぢきつてあるのを見て大に驚き、自分は親戚に病人が出來たので見舞に行つたが誰が一たい戶棚をあけた? なに、みんなしてあけたと? これはしたり、みんなの間金の外に自分の持金を三百兩入れておいたが、それをどうして吳れた? 知らぬとは言はせぬぞ返してくれねば訴へるぞとおどかしたので、たうとうみんなが頭割にして金を出さねばならなかつた。

 、チヤンスをねらふ詐欺。晝夜用心記に凡て十種、世間用心記に五六種ある。先づ晝用心記から始めるならば、『世の中の婆といふ婆』では、三條の橋詰に居た乞食婆を、自分の母親だとあがめて宿へ迎へて來、よい着物を着せて吳服屋へ行き、澤山の品物を買ひ入れ、同役の氣のに見せたいから一寸借りて行く、その代り母親を殘して置くから、あとで、よい品柄でも見定めてもらつて下さいといつて、まんまと逃げてしまふ[やぶちゃん注:同書巻頭の一篇。国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『萬《よろづ》見通しの御印《おしるし》』では、萬病をなほす祈禱をやるとふれて、ある富豪の女房の難病を水神の御とがめであると判定し、川の中へ壇を設けて、金拾兩御出しになれば七日の間に必ずなほす、若しなほらなければ必ず御返しするといつて、拾兩を身につけ、夜分祈禱最中に、どぶんと川の中へとびこんで、何處としなく逃げてしまふ[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『松茸は平家の侍』では、あき家に陣取つて大盡暮しをし、諸方から色冷のものを選ばせ、潮時を見はらかつて、品物を持つて逃げてしまふ[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『晝の白藏主』では、出家の風を裝つて弟子をつれ、扇屋や衣屋で澤山の品物を註文し、手代に持たせて來る途中て、手代を他の店へ使ひにやり、その間に、扇子や衣のはひつた箱を石や瓦をつめた箱と摺りかへ手代をまいて逃げてしまふ[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『女護島とは爰』では、ある行商人の留守中、妻女が、辻井戶へ水を汲みに行つたあとへしのびこみ、手早く蒲團を裏返しにたゝんで背負ひ、玄關に立つて、妻女の歸つて來るのを見て、蒲團を買つてくれませんかといふ。妻女は見知らぬ男から蒲團を買つては氣味が惡いから、いらぬといつて斷る。すると、さやうならばと悠々と去つてしまふ[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『嫁入前の染絹屋』では、一人の老婆が下女をつれて、吳服店に立寄り、姪が嫁入するからといつて澤山の品を買ひ、一應本人に見せたいので、橫町の宅まで手代衆に行つてもらひたいと、下女に手代を伴はせてつかはし、やがて二人はある家にはひる[やぶちゃん注:ママ。]。手代が入口に待つて居ると下女が出て來で、七十匁ほど負けてもらひたいとのことだから一走り行つてきいて來てくれといふ。程なく手代が返事をもつてかへつて來て、只今の女の人に逢はせてくれといふと、髭男が出て來て染絹を賣りに來た女ならもう歸つたといふ。さてはと店に戾つて待つて居る老婆をきめつけよう[やぶちゃん注:ママ。「とひつめよう」の誤植か?]とすると、最前、便所を借りたいといつて奧へ行つたまゝ戾らぬとの事、搜して見るともぬけの殼。その實、こやし取る男が來て、肥たごの中へ老婆を入れて去つたのである[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『世界は一夜の乘合船』では、旅へ出た人の留守へ行き、飛脚を裝つて、御主人が途中で卒中を起されたからといつて告げ飛脚賃をかたる[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『御緣日は淸水北野』では、天滿宮の祈禱所に多分の金を寄附して娘の安產の祈禱を賴み、明日御洗米を垣頂きにくると言つて歸り、扨翌に位置祈禱所にあがり込んで居ると、絹屋が註文の羽二重を持つて來る。今、取こみ中疑だから後程代金を取りに來てくれと手代をかへす。扨手代が後に祈禱所へ代金を取りに來ると、そんな品は註文した覺えがないといふ。扨は祈禱を賴みに來た男はかたりだつたか。『割附銀は長老迷惑』では、寺町通りの白蓮寺が破損修理の奉賀をすゝめて居ることをきいて、室町の某ですが、大門を私一人で寄附させて貰ひたいと申出る。住持は大に喜んで男を招じ入れると、男の連れて來た大工は門の測量にかゝつた。あくる日川原町の古木屋の人足が澤山來て門をこはしかけたので、驚いてきいて見ると、昨日檀家總代から門を買受け、代金まで支拂つたといふ。『思ひの外の御能筆』では、ある兩替屋へ西大名の使者男が供をつれてやつて來て、金子百兩を銀て買ひたいといつた。金子は大德寺ヘ施物にするのだから包みの上書を立派に書いてほしいとの事。手代たちが上書をしても中々うまく書けぬので、どうか御自分で御書きをとの事。筆を取つて書くと、中々の能筆。で、供の者に向つて銀の包を出せと命ずると、供は銀箱を取り出して包みを四つ五つ出したが、こりやいかぬ、この銀箱ではなかつた、間違つたから取り替へて來い。はいといつて、包みをもとにもどす拍子に、兩替屋の金を包んだのまで入れる。これ粗忽をしてはいけない、これは御店の金だよ。さうでしたかと供は頭をかいてかへす。かへす拍子に持つて來た包の方を出す。同じ男の上書だから、誰にも氣附かれない。さて取りかへに歸つた供は中々戾らぬので、使者男は、よろしく賴んで一先づ歸るが、兩替屋では二三日待つても音沙汰がないので、包を開くと中から出たのはにせ小判[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから。]。『東山に於て無菜の食』では、東山へ遊山に來た人たちの留守へ、旦那から羽織を取つて來いでしたといつて、かたり取る詐欺が書かれてある。

 次に世間用心記の物語から、チヤンスをねらふ詐欺を選ぶならば、『子供でねぶらした千年飴』では、福島屋の子太郞市が盾て逍遊んで居るのを見て、なれなれしく近寄つた一人の女が、太郞市に玩具を買つてやり乍ら、抱いて香具屋へ行き鼈甲の櫛を買ひ、福島屋のものですから、あとで代金を取りに來て下さいといふと、こちらでは太郞市を知つて居るので何氣なく渡す。それから女は、福島屋へ行き香具屋のものですが、坊ちやんが、遠あるきして居られたからつれて來ましたといつて置いて行く。あとで、香具屋の手代が代金を取りに來て、福島屋の内儀との間にとんちんかんな會話の初まつたことは言ふ迄もない[やぶちゃん注:同書巻頭の一篇。国立国会図書館デジタルコレクションの原本はここから。但し、国立国会図書館デジタルコレクションには、別に明四〇(一九〇七)年富山房刊の活字本(第一巻のみ)もあり、それはここから。]。『高蒔繪のさげ重』では、芝居小屋の雜沓に乘じ、荼屋の手代が客の棧敷に置いて行つたさげ重をすぐ後から、間違ヘたから取り替へて來ますと持つて行く[やぶちゃん注:同前で、国立国会図書館デジタルコレクションの原本はここから。富山房活字本はここから。]。『三の膳の祝言ぶるまひ』では、料理屋で集つて飮んで居る席へのこのこあがり込み、客の間を取り持ち、客には料理屋の手代と思はせ、料理屋に客の供人と思はせ、客のぬぎ捨てた羽織を盜む[やぶちゃん注:これは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の巻之二PDF)の「13」コマ目から原本が視認出来る。]。『悋氣《りんき》の藥ちがひで』は、夜半に醫者の家をどんどん叩いて急病だから來てくれと言つておびき出し、いゝ加減の場所へつれて行つて追剝をする[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの巻之三のここから。]。『衣の袖にくらべたる羽二重』では、質屋八右衞門方へ立寄つた坊さん、弟子二人をつれ、下町の吳服屋六右皆門方へ行くのだが、どうにも暑いから、小袖を脫ぐによつて一時預つてほしい、おつつけ割符を持つて吳服屋から取りによこすからといつて、法性寺と紙に書さ、半分にちぎつて一つは質屋の手代へ渡し、あとの一つは自分に懷中して、禮を言つて立ち出で、それから吳服屋へ行き、加賀絹をどつさり誂らへ、小袖に仕立てゝほしいから、手本をとりに、宿の質屋へ行つてほしいとて割符を出して先刻の小袖を取寄せ、さて、も一人の同役に相談したいから、この品を一時貸してほしい、代金は明日質屋へ取りに來てくれといつて、自分の小袖を殘し、吳服屋の品物を持つて、いざさらば[やぶちゃん注:これは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の巻之四PDF)の「7」コマ目から原本が視認出来る。]。

 讀者は世間用心記よりも、晝夜用心記の方に、遙かに多くの珍趣向のあることを知られたであろうと思ふ。

 、共謀詐欺。晝夜用心記の中には、『金子貳兩と品玉』として、穴藏屋をかたる話がある。穴藏を作るとて、供を建れた中小姓が來て、手づけ金として二兩渡したのに喜んで、穴藏屋が御馳走すると、折しも吳服屋が表をとほつたので呼び入れ、澤山の品を註文して、相役のものに見せて置きたいからとて、供と吳服屋の手代とに品物を持たせて相役のところへ使ひにやる。あとで三人が酒をのんで居ると、中小姓は腹痛がするからといつて便所に行く。長い間經つても便所から歸らぬのに不審をいだいて居ると、吳服屋の手代が、品物をかたられたといつて飛んて來る。扨はと思つて便所へ行つて見ると侍は居ない。吳服屋は怒つて穴藏屋はきつと共謀にちがひないと攻めつけ、品物の代を出せとねだる。たうとう公儀へ訴へると、不思議にもその吳服屋をしばれとの事。果して吳服屋は中小姓と共謀になつて穴藏屋から金を奪ふつもりだつたと白狀した。『一盃喰うたる伊丹諸白』では、伊丹の酒家へ西國の旅人が伊勢參宮の途次立寄つて、酒をのんだところ、勘定の段になつて財布をすられたことに氣附さ、腰の物を預け、なほ三兩借りて、戾りに立寄るといつて去つた。主人がその腰のものを見ると、目もさめるばかりの拵らへ、なまやすいものではないと思つて居ると、本阿彌の何某が通つたので鑑定してもらふと千兩の値打はあるといふ。日ならずして先の旅人が立寄つたので、手放しともなかつたのを百兩で買ひ、さて京の本阿彌家へ見せに行くと百文の物でもないといふ。卽ち鑑定した男と、旅人との共謀詐欺であつた[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから。]。

 世間用心記の中には、『疝氣のむしを頂いた五拾兩』と題してこんな話がある。須田町の酒屋に杉といふ下女があつた。よく働らいて、一粒の米もおろそかにせず、慈悲心深くて世間の評判となつた。ある日、羽黑山の山伏が二人すぎ樣に逢ひたいといつて酒屋へ來たので、主人が驚いてわけをたづねると、湯殿山で大日如來に願かけしたところ、滿願の日に、大日如來の仰せには、われを拜まうなら、須田町の酒屋のすぎといふ下女を拜めとの敎だつたから、拜みに來たとの事であつた。で、いやがる杉をつれて出ると二人は疊に頭をすりつけて拜んで出て行かうとしたので、湯殿山の話をきかせてくれといつてとめると、それではといつて山伏は色々話をし酒屋商賣は米を粗末にするから酒屋地獄へ落ちるが、あなたもたしかに地獄へ落ちる運命になつて居る。もし地獄へ落ちたくなければ千人の僧を供養なさい。五六十兩御出しになれば私たちが代つて供養してあげようと告げた。主人は喜んで早速五十兩を出すと二人は供養を引受けて歸つた。あとで主人は杉を呼び、『べおい杉うまく謀つたな。山伏の一人は兄で一人は良人だらう。顏見合せた時の眼付でわかつたよ。さあひまをやるからいそいで出て行つてくれ、今頃、二人の山伏は小判が溫石《おんじやく》となつて居るのに驚いて居ることだらう。それにしても酒屋地獄とはうまいことを言つたものだははゝゝゝ。』[やぶちゃん注:これは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の巻之四PDF)の「12」コマ目から原本が視認出来る。]。

 、迷信に乘ずる詐欺。晝夜用心記には、『駿河に沙汰ある娘』と題しこんな話がある。藪井笹右衞門といふ竹細工商の娘が十八で死んで、兩親の淚のうちに西空寺へ葬られた。四十九日に近い比、十六七の美男が來て、住持に向ひ娘と戀中てあつたことを語り、悲みの果、墓で自害しようとしたので、住持は墓を掘つて死骸の腐敗した有樣を見せたら戀もさめるであらうと思うて、下男に墓を掘らせると死骸にだきついてなげき、然し、自害はせずに歸つた。話變つて、藪井方では四十九日の法要をねんごろに營んで居ると一人の法師が來て、御宅の娘さんが夢にあらはれ、惡道に沈んで居るから、懇ろに供養してほしいとの事、目がさめて見ると枕もとに、この短刀があつたといつて見せると、笹右衞門は大に驚き、これは娘の死骸と共に葬つた國次の守刀、さては貴僧の仰せは尤もと、澤山の金を出して供養を賴むのであつた[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの活字本でここから。]。『仕出し菓子屋』では、ある菓子屋へ、時々惣髮の男が來て、菓子を買つては、錢を過分に置いて行く。亭主が不審に思つてある日手代に跡をつけさせると、男は稻荷山の奧の穴へはひつたが、穴の中には公家めいた四五人が喜んで菓子をたぺかけた。よく見るといづれにも尾がはへて居るので、手代はびつくりして歸り、このことを告げると、扨は幸福にも御稻荷さんに見つけられたんだ。早速、御まつりをするがよいと、燈明をあげたり、油揚をそなへたたりして居ると、果して五人が御いでになつたので大喜び、大御馳走を振舞ふと、何でもよいから望みを申せとの事。主人はかしこまつて、七百兩稼ぎためましたが早く千兩にしたう御座いますといふ。うむ、それは易いこと、その七百兩を出しなさい、千兩にしてあげるからと、亭主に七百兩を出させ、紙に包んで壇にならべ、祈禱をして歸つた。あとで包みを開いて見ると、七百兩はみんな僞金とすりかへられて居た[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの活字本でここから。]。

 世間用心記には『去年からの清盲《あきめくら》』と題して、こんな話がある。善光寺の開帳の前にAといふ男が急に眼が見えなくなる。開帳のとき、供物をあつくして祈願すると不思議に眼が見えるやうになつた。これをきいたBといふ男は、いざりを連れて來て、澤山の供物をAに渡し、どうか一しよに祈願してくれといふ。Aは、自分が受取るべき筋ではないといつて拒んだが無理に押しつけて歸つたところ、不思議にもいざりの腰がたつた。これを傳へきいた世間の人々は、Aのところへ澤山の供物をもつて來て、病氣を祈つた。卽ちAとBといざりとは共謀だつたのである[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの原本でここから。]。

 、先方の慾を利用する詐欺。晝夜用心記には『妻子分別の種』と題して次の話がある。ある男が妻子を養はんために一儲けしようと思つて奸計をめぐらした結果、出入の豪家から黃金の香爐を借り受け、これをある有德人のところへ持つて行つて、この眞鍮の香爐は重代の寶物てすけれど、賣り拂ひたいと思ふがどでせうかといつて見せた。見ると黃金だから、つぶしにしても二百兩のものはある。多分持主は知らずに眞鍮だと思つて居るだらうから、七十五兩に賣れと言ひ出した。男は兎にも角にも承知して一且持つて歸り、御幸町の細工師のところで、色から形から、全く同じの眞鍮の香爐を二兩二步で作らせ、それを有德人へ屆け、原物は豪家へ歸した。後に有德人が眞鍮であることを發見して男を責めると、はじめから眞鍮だといったではありませんかと空嘯《うそぶ》[やぶちゃん注:二字で。]いて居た[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの活字本でここから。]。『始めの囁き後悔千萬』では、ある兩替屋へ度々來る男が本當の金を見せて、これは自分の作る贋金だといつて兩替屋をそゝのかし、兩替屋に澤山の資金を出させてそれを奪つてしまふ。兩替屋は訴へることもならず泣寢入になった[やぶちゃん注:同前でここから。]。

 世間用心記には、先方の慾心を利用する詐欺物語の適當な例は見當らない。

 、こちらを充分信用させて後行ふ詐欺。これは兩用心記の中に三つばかづつあるがあまり長くなるから一つづ例を擧げることにする。晝夜用心記には『利易の金貸屋』[やぶちゃん注:「利安の金貸屋」の誤り。]としてこんな話がある。ひらた町に美津屋德四郞といふ町人があつた。細君は非常な美人であつたがその素性知れず、三年前にことし十一になる男の子を殘して死んだ。ある時、男の子が手代をつれて凧あげから歸ると、途中で、供をつれた立派な服裝をした男が、そばへ寄つて、この子の母の名はこれこれで三年前になくなったゞらう。どうも妹の顏そつくりだといつて、罌粟銀七八十粒を渡して去つた。手代が歸つて德四郞に告げると、德四郞は早速その男をたづね、それから段々懇意になり、近所に借家を見つけてやると、細君の兄といふその男は豪奢な生活をした。ある時その男が小聲で、實は自分は大阪の穢多村の吉六の金貸を賴まれて、五萬兩自分一手で引受けて居る、薄利で貸せるから借り手を周旋してほしいとの事。德四郞が之を言ひふらすと、兩替屋、萬問屋など凡そ七八十人爭つて申込んだ。で、何月何日、各々三ケ月分の利子を持つて來てほしいとの事に、當日、皆々が集ると、早朝來るべき金が晝過ぎになつても來ない。飛脚を出すと夕方には來るとの話、迎ひ旁々東山燈明庵で夕飯をあげたいからとて打連れ立つて行くと、酒宴半ばにその男の姿が見えない。扨はと皆々が、男の借家に歸つて見ると錠が下りて居る。つまりみんなが利子として持つて來た金を全部かたり取られたのである[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの活字本でここから。この話、全体に厭な感じがして、私は好かん!]。

 世間用心記には、『樽《たる》肴《さかな》持つて急度《きつと》御禮』と題し、次の話がある。月代屋《つきしろや》秋右衞門といふ男が、金を拾つたから、落し主は自分のところへ申出て貰ひたいといふ高札を出したら、世間の人は正直な人もあるものだと感心した。その年の暮に、家主が秋右衞門をたづねると頗る當惑さうな顏をして居る。どうしたのかとたづねると、この暮に到著すべき國元の金が正月二十日頃でなくては手に入らぬことになつたので困つて居るのだと答へた。それならいつそ拾つた金を開いて一時借りて使つてはどうだといふと、いや、年の暮のことであるから落し主が來たら申し譯がない、でも、あなたが證人になつてくれるならつかつてもよい。では證人になつてやろう。それならばといつて開くと六十兩ばかり出たので、早速それをもつて諸方の支拂を濟すと、ひよつくり落し主が來てどうしても返してくれといふので、家主は證人になつた以上一時取りかへて、秋右衞門から落し主へ手渡した。後に家主から秋右衞門に返濟を請求してもいつかな返さない。返さないも道理、それは秋右衞門がはじめから企んだ仕事であつた[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここから。]。

2021/08/01

伽婢子卷之八 邪神を責殺

 

Jyasin1

 

Jyasin2

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は最も状態が良い、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)のものをトリミング清拭して使用した。]

 

   〇邪神(じやじん)を責殺(せめころす)

 

 常州笠間郡(かさまのこほり)の野中に小社(ほこら)あり。

 後(うしろ)は、筑波山の嶺、しげりて、日影、くらく、前には、澤(さは)、水底(《みな》そこ)、深くして、藻、はびこれり。常に、雲、覆ひ、小雨、ふりて、凄(すさ)まじければ、人皆《ひとみな》、

「此の神の靈(りやう)、はなはだ、猛し。」

とて恐れ仕(つか)へて、此社の前を通る者は、散米(さんまい)・御供(ごくう)・神酒(みき)なんどを、此の村里にして、求め携へて、神前に供へて、打ち通る。

 若(も)し、さもなければ、忽ちに、雨風、荒く、雲霧(きり)、おほひて、神、則ち、祟りをなす。

 明德年中に、濃州(てうしう)谷汲寺(たにぐみ《じ》)の僧、性海(しやうかい)とて、學業を勤るに、心ざし深く、兼ねては、

「北陸を修行し、相模の國足利の學校に行ばや。」

と、思ひ立《たち》て、寺を、出《で》つゝ、越路(こしぢ)に赴き、巳に常州の地に至り、此の社(やしろ)の前に休む。

 本より、諸國行脚の僧なれば、袋に一物(もつ)の貯へも、なし。

 只、禮拜誦經(じゆきやう)して法施(ほつせ)奉り、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかり過《すぎ》行きける所に、道に踏み迷ひ、かなたこなたせし間《あひだ》に、俄かに、大風、吹き起こり、砂を揚げ、石を飛ばし、黑雲(くろくも)、覆ひ、霧、立《たち》こめ、うしろより、物の追ひかくる心地しければ、怖ろしく覺えて、見かへりけるに、異類異形の者、二百ばかり、頻りに追《おひ》掛くる。

 此僧、

『扨は、ばけ物のため、只今、死すべし。力及ばぬ事。』

と思ひ、一心に「觀音普門品(ふもんぼん)」を誦(じゆ)し、足に任せて、走り逃げゝれば、風、止み、雲、收まり、空、晴れて、追ひかけし者も、見えず。

 辛うじて、鹿嶋(かしまの)明神の社へ、かゝぐり付《つき》たり。

 神前に跪き、「般若心經」七返、「普門品」三編を誦して、神に祈るやう、

『先の社(やしろ)に法施(ほつせ)奉りしをば、受けずして、却つて、怨(あた)をなさんとせしは邪神(じやじん)の社か、如何なる子細なるべき。又、是れ、我身に誤りありて、神の咎め給ふや。願くは、明神、此の事を示し給へ。』

と念願して、日暮れて、身も勞(つか)れければ、傍らに臥したり。

 その夜の夢に、神殿の内陣、ひらけ、錦の斗帳(ごちやう)をあげ、玉の簾(すだれ)を中(なかば)捲(ま)きて、内に明神、坐(ざ)し給ふ。

 左右には、末社(まつしや)の神、位に隋ひて、その所々に坐(ざ)す。

 大灯明(だいとうみやう)、内外に輝きて、白晝の如し。

 性海、恐れて、庭に下り、頭(かうべ)を地に付けて禮拜す。

 俄かに、一人、朱(あか)き裝束して、鳥帽子、引こみ、きばはしに出《いで》て曰《いはく》、

「汝、神前に法施奉る。神威高く、神慮快く受け給ふ處也。然るに、汝、今、神前に訴へ奉る處、速く裁斷あるべし。」

とて、内に入《いり》たり。

 暫らくありて、數十人、空を翔りて行く、と見えし。

 白髮の翁、一人を、召して來《きた》る。

 黑き帽子、被り、靑き袴、着たるを、庭の面《おもて》に引きすゑたり。

 奧より、仰せありけるやう、

「汝も、一方(はう)の神なり。何ぞ、國家人民を守護せざる。剩(あまつさ)へ敬ひをなす道ゆき人をなやまし、みだりに禍ひを現はし、然(しか)も、此道人、法施を以つて、神に囘向す。是れ又、何の供物といふとも、すぐる物、あらんや。却つて、迫(せめ)おびやかしころさんとす、惡行(あくぎやう)のくはだて、甚だ、法に過《すぎ》たり。其の科(とが)、のがるべからず。」

と、あり。

 官人、出て、斷わり誡(いま)しむるに、老翁、かうべを地に付けて、言上しけるやう、

「それがし、實(まこと)に野社(のやしろ)の神なりと雖も、大蠎虵(《だい》まうじや)の爲に押領(あうりやう)せられ、久しく社檀(しやだん)を奪はれ、わづかに傍らなる樹の根を、すみかとす。我《わが》力(ちから)、いたりて弱く、かの大虵を制する事、かなはず。世を護り、人を護(まも)るべき職を忘れ、只、我身の置き所だに、なし。されば、此年ごろ、雲を起こし、雨を降らし、霧、蔽ひ、風、荒く、災ひをなして、人の供物を求むる事は、皆、大虵のしわざ也。某(それがし)のとがに、あらず。」

といふ。

 官人、責めて日はく、

「さやうの事あらば、何ぞ、速く、此所に訴訟せざるや。」

と。

 翁、答へていふ、

「此大虵、世にある事、年久し。或る時は、妖(ばけ)て、形を現はし、人を惱まし、或る時は、居ながら、災ひをなす。其の通力(つうりき)、自在成(な)る事、いふばかりなし。山中に棲む鬼神(きじん)、野邊に留(とゞ)まる惡靈(あくれう)、みな、是れに力を合はせ、毒虵・魑魅(こだま)、みな、是れに隨ふ。某、こゝに參りて訴へせむとすれば、捕へて、押し入れ、更に、すみかの外に、頭(かしら)をも出させず。只、今、めしければこそ、是れまでは、參り侍べれ。」

と。

 其の時、神殿より、勅、有《あり》、

「官人、はやく、かしこに至りて、其の大虵を召し捕りて來れ。」

と也。

 翁申すやう、

「妖怪、通力、巳に備り、是れに力を合はする者、多し。官人、赴くとも、物の數(かず)と、すべからず。たゞ、神兵(しんへい)大軍を差向けられ、攻め伏せ給はずしては、たやすく從ひ奉(たてまつ)るべからず。」

といふ。

「さらば。」

とて、大將の神に、軍兵五千を差しそへて、野社に向けられたり。

 三時(《さん》とき)ばかりの後、數(す)十の軍鬼(ぐんき)ども、大木を以つて、白虵(はくじや)の首を舁(かき)て、庭に來《きた》る。

 その大《おほい》さ、五石ばかりを入るゝ甕(かめ)の如し。

 兩の角、尖りて、二つの耳は、箕(み)のごとし。

 鬣(たてがみ)、亂れて糸の如く、口は、うしろまで裂けて、怒れる眼(まなこ)は、鏡の面(おもて)に朱を指したるに似て、ふさがずして、死したり。

 官人、すなはち、性海に向ひ、

「忝(かたじけな)くも、當社明神は、當國第一の神司(かみつかさ)として、汝の訴へ、よく、裁許し給へり。とく、とく。」

とて、座を立たしむ。

 性海、禮拜して座を立《たつ》、と、覺えて、夢、さめたり。

 身の毛よだち、汗水になり、奇特(きどく)の事に思へり。

 夜明けて、また、彼(か)の道に赴きて、其の所を見れば、社も、鳥井も、燒き倒(たふ)れて、塵灰(ちりはひ)となり、あたりの木草、皆、碎け折れて、荒れ果《はて》たり。

 あたり近き村に立寄りて問ふに、村人、皆、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、雷電(らいでん)、おびたゞしく、風、ふき迷い、雨、落ちて、其の中に、軍(いく)さする聲、きこゆ。怖ろしさ、限りなし。黑雲(くろくも)の内に、火、もえ出でて、やしろ・鳥井、一同に燒け崩れ、ちり灰となり、一つの白き虵、其の長(たけ)廿丈ばかりなる、死して、かうべ、なし。其外、五丈・三丈の虵共《ども》、數(かず)を知らず、重なり死して、臭き事、限りなし。」

といふ。

 是れを考ふれば、今宵夜半に、夢に見たる時分なり。

 性海、それより、相州足利に行《ゆき》て、物語せしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「常州笠間郡(かさまのこほり)」現在の茨城県笠間市及びその北の旧西茨城郡七会村(ななかいむら)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後(うしろ)は、筑波山の嶺、しげりて」前記の地区からは筑波山は南西に当たる。

「散米(さんまい)」神仏や墓所に詣でた際、歩いは祓いを行う際に撒き散らす米。「うちまき」「おひねり」「さんく」などともいう。「おひねり」はその包み紙を拈(ひね)ることからの称であるが、「さんく」は「散供」であって、散らす御供物の意味。但し、御供物はもともと散らすべきものではなく、専ら、奉るべきものであった。それを「散らす」と言ったのは、その対象が、この場合、人よりも下位の精霊(せいれい)に当たると判断した結果であった。則ち、散米は本来、荒ぶる怨霊や疎(うと)む対象のそれらが来たった際に、それ与えて満足させて去らせるという神道儀礼としての「道饗(みちあえ)」、或いは、仏教儀礼としての「施餓鬼(せがき)」と同趣旨のものであった。それが後に混乱し、神霊なるものを対象として与え供える米であれば、すべてこれを「打ちまき」とも「散供」とも称するように変じたものである(以上は小学館「日本大百科全書」を参考にした)。

「御供(ごくう)」御供物(おくもつ)。特に食べ物を指す。

「明德年中」一三九〇年~一三九四年。室町時代。室町幕府将軍は足利義満。初め、天皇は北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇であったが、この元中九/明徳三(一三九二)年に、北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して「南北朝合一」(「明徳の和約」)が遂げられて、元号もこの明徳に統一されている。本書の話柄の中では特異的に古い時制に属する。

「濃州(てうしう)谷汲寺(たにぐみ《じ》)」岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積(たにぐみとくつみ)にある天台宗谷汲山(たにぐみさん)華厳寺(けごんじ)。西国三十三所第三十三番札所にして満願結願の寺院で、西国三十三所の札所寺院では、唯一、近畿地方以外にある寺である。

「性海(しやうかい)」不詳。なお、この語は仏教用語で、真如の世界、仏の悟りの総てである真如の深く広いことを海に喩えた語としてしられる。

「兼ねては」加えて。その上さらに。

「相模の國足利の學校」不審。足利学校ならば、下野国である。「相模」というと、相模にあったとうっかり思ってしまう金澤文庫と混同した誤りか(鎌倉幕府絡みで創立されたことから、素人はてっきり相模国にあったと思いがちであるが、実際には金澤文庫があったのは、武蔵国久良岐(くらき)郡である)。足利学校を目指していたとすれば、この笠間郡を通ったとすると北陸路を辿ったわけだから、越後から猪苗代を経て、太平洋側を南下したものととれるが、足利学校は御覧通り、現在の笠間市の六十三キロメートルも正しく西方にある。恐怖のあまり、方向を誤って反対の南東方向に逃げたと言えばそれまでであるが、最後でも浅井は「相州足利」を確信犯のように記しているところからは、やはり、金澤文庫と考えた方が分(ぶ)があるようにも思える。ただ、この壊(こぼ)たれた社が、笠間郡のごく東部にあったとなら、最後のシークエンスで、その後を検証し、やおら、西の足利学校に向かったというのも不自然ではない。

「越路(こしぢ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」の高田衛氏注に『北陸道の古称。若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の七カ国』とする。行脚を兼ねているから、北陸路を辿って遠回りであっても不審はなく、寧ろ、自然とさえ言える。

「鹿嶋(かしまの)明神の社」茨城県鹿嶋市宮中にある常陸国一之宮である鹿島神宮。ここは笠間市中央附近からは、直線で計測しても、五十四キロメートルはある。まあ、知らず知らずのうちに、鹿島の神に呼ばれたといえば、何も言えぬが。鹿島神宮の祭神は、しかし、本話柄にはもってこいで、荒ぶる神である建御雷大神(たけみかづちのおおかみ)である。ウィキの「鹿島神宮」によれば、その出自について、「古事記」では、伊邪那岐命が火之迦具土神の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神の内の一神とし、また、「天孫降臨」に先立つ葦原中国の平定においては、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とともに活躍したとし、その後の「神武東征」に際しても、彼は神武天皇に神剣を授けている。但し、記紀には実は『鹿島神宮に関する言及はないため』、建御雷大神と『鹿島との関係は明らかでない』。一方、「常陸国風土記」では、『鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す』『しかしながら』、同書にも、その神が建御雷大神であるとする『言及はない』。『神宮の祭神が』建御雷大神『であると記した文献の初見は』、大同二(八〇七)年に成立した「古語拾遺」にある、「武甕槌神云々、今常陸國鹿島神是也」という『記述である』。ただ、それより後の延長五(九二七)年成立の「延喜式」の「春日祭祝詞」の中に「鹿島坐健御賀豆智命(かしまにいますたけみかづちのみこと)」と見えるのだが、この「春日祭祝詞」自体は、実は『春日大社の創建といわれる神護景雲』二(七六八)年にまで『さかのぼるという説がある』のである。『以上に基づき』、八『世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に』、『中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか』、『中央の国譲り神話自体も』、『常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある』とある。ともかくも、鹿島『神宮の祭神は』、建御雷大神が『国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという』「風土記」の『説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている』。『特に別称』である「たけふつ」や「とよふつ」に関して、「ふつ」という『呼称は神剣の』「ふつのみたま」(布都御魂/韴霊)の『名に見えるように』、『「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある』。『鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては』、平安末期の「梁塵秘抄』の中に「關より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という『歌が知られる』。また、『一方、船を納めさせたという』「風土記」の『記述から』、『航海神としての一面や』、『祭祀集団の卜氏が井を掘ったという』「風土記」の『記述から』、『農耕神としての一面』を持つという『指摘もある』ことから、『以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある』。『一方で』、建御雷大神と『中臣氏の遠祖である天児屋命』(あめのこやねのみこと)『を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも』、『雷大臣命・雷大臣命』(孰れも「いかつおみのみこと」と読む)『など』の『「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)』『など』、『雷に関わる神名が見られることから、雷神としての』建御雷大神を『中臣氏本来の神と見る説もある』とある。

「かゝぐり付《つき》たり」前掲書の高田氏の注に『やっとの思いで到着する』とある。

「斗帳(ごちやう)」同前で『垂れ幕』とある。

「朱(あか)き裝束して、鳥帽子、引こみ、きばはしに出《いで》て曰《いはく》」は、明神の側近の神。「鳥帽子、引」(ひき)「こみ」とは、烏帽子を目深に被って、の意であろう。

「法施」先の読経を指す。神仏習合であるから、問題ない。

「神威高く、神慮快く受け給ふ處也。然るに、汝、今、神前に訴へ奉る處、速く裁斷あるべし。」「神威高くある、鹿島の我れなる御神は、その御神慮に於いて、快くそれ(読経)を受け取り遊ばされたぞよ。然ればこそ、汝が神前に訴え奉ったるかの一件は、速く、裁断されねばならぬ。」。自敬表現をそのままに訳しておいた。

「數十人」老婆心乍ら、「すじふにん(すじゅうにん)」と読む。

「一方(はう)の神」「新日本古典文学大系」版脚注に、『一地方の地と民とを委ねられた神』。産土神。村落の鎮守の神。

「道ゆき人」「みちゆきびと」と訓読しているようだが、意味は「道行人(だうぎやうにん)」のそれで、仏道修行をする行脚の僧の意である。

「法に過《すぎ》たり」正法(しょうぼう)を根底から破っている。

「官人」ここでは、鹿島明神の下でその命を受けて伝奏をする者の意。二枚目の挿絵の左幅の跪いている性海の前に立っている人物であろう。

「斷わり誡(いま)しむるに」「理(ことわ)り」を以って「誡しむる」で、明神の仰せに従って、道理を以って、誡めたところが。

「野社(のやしろ)」野中の小さな社(やしろ)。

「居ながら」姿を見せずに。

「魑魅(こだま)」木霊(こだま)・魑魅(すだま)。自然界の最小単位の善悪を問わぬ妖怪・精霊の総称古称。

「すみか」悪龍によって押し込められていた大木の根のこと。

「三時(《さん》とき)」約六時間。

「軍鬼(ぐんき)ども」二枚目の挿絵の右幅の上部(下方にあるのは悪龍の首を刎ねられた胴体の骸(むくろ)である)に三人いる蓬髪の鬼面で帯刀している者たちがそれ。

「五石」九百一・八リットル。ドラム缶で凡そ四本半分。

「箕(み)」米などの穀物の選別の際に、殻や塵を取り除くために用いる竹で編んだ容器。これ当該ウィキの写真)。

「神司(かみつかさ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『神司は』『神に仕える者をいうが、ここは邪正曲直の裁きを勤めとする神』自身の意とある。

「とく、とく。」同前で、『満足したであろう、これにて早々』に『立ちませい』とある。

「鳥井」鳥居。

「廿丈」約六十メートル六十センチメートル。ちょっと長過ぎじゃないかい?]

芥川龍之介書簡抄108 / 大正一〇(一九二一)年(三) 湯河原湯治前後 十一通――表面上は何でもない書信群――しかし――この時――芥川龍之介に何が起こっていたか?――

 

大正一〇(一九二一)年九月九月二十日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

拜啓君はまだ御在京にやボク四五日中に湯河原へ行かんと思ふ御同行如何但し外に伴れを誘ふ可らず僕閑靜を愛する故なり 以上

 

[やぶちゃん注:南部修太郎は複数回既出既注ここでは実は背景で最も重要人物となる。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十三日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

朶雲奉誦僕は二十七日か八日でないと出られぬその前二十四日にあひたい同日午後二時丸善に來られたし(二時より三時)

 

[やぶちゃん注:太字「丸善」は底本では傍点「◦」附き。

「朶雲」「だうん」と読む。五色の垂雲の意で、他者の書簡の敬称。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十四日・田端発信・下島勳宛

 

拜啓 いちじく沢山に頂戴致し難有く御禮申上候

     卽興

   これやこの子規のみことが痔をわぶとうまらに食せし白無花果ぞ

   井月も痔をし病めらば句にかへて食しけむものをこれの無花果

                  頓首

  九月廿四日

 空 谷 先 生

二伸 院展ちよと覗き候へども碌な畫は無之、大觀、溪仙、浩一路、古徑なぞ僅に見るに足るべく候はむか それよりも美術協會の參考品に山雪の眞鶴の幅ならべあり候これは立派なものに候

 

[やぶちゃん注:この書簡は何時書かれたものか。或いは、二十四日の午前中に書かれたものかも知れないと考えている。翌日には年譜で下島が龍之介を訪れているからである。下島の家はごく近く、郵便ではなく、家人に託して送ることが多かったようである。――何故、そんなことを気にするのか?――今回の公開記事の最後を見られたい。こんな呑気な礼書を――二十四日の夜に――芥川龍之介が書き得たとは、私にはどうしても、思えないからなのである。

「痔」芥川龍之介も慢性的に悩んでいた病いであった。

「院展」第八回院展はこの九月一日から二十九日まで開催されていた。龍之介が鑑賞に赴いたのは、私は二十三日以前と考えている。

「溪仙」冨田溪仙(明治一二(一八七九)年~昭和一一(一九三六)年:本名は鎮五郎(しげごろう))は福岡県博多生まれの日本画家。初め狩野派・四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた(当該ウィキに拠った)。

「浩一路」近藤浩一路(こういちろ 明治一七(一八八四)年~ 昭和三七(一九六二)年:本名は浩(こう))は山梨県生まれの水墨画家・漫画家。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「古徑」小林古径(明治一六(一八八三)年~昭和三二(一九五七)年:本名は茂(しげる))は新潟県高田生まれの日本画家。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介が並べた作家の中では、今もよく知られているのは彼であろう。

「山雪」狩野山雪(かのうさんせつ 天正一八(一五九〇)年~慶安四(一六五一)年)は江戸初期の九州肥前国生まれの狩野派絵師。京狩野の画人狩野山楽(光頼)の婿養子で後継者。本姓は秦氏。諱は光家。鳥を好んで描いた。当該ウィキに、鶴の襖絵ならある。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十六日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

拜啓出發日廿八日の所卅日に御延期下さるまじくやごへんじなくば卅日お存候(汽車は十一時何分にや?)

 

[やぶちゃん注:太字「卅日」は底本では傍点「◦」附き。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月三十日・消印十月一日・田端発信・支那北京崇文門内八寶胡同大阪每日通信部内 松本鎗吉樣・九月三十日 日本東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

度々御手紙難有う いつも早速御返事さし上ぐ可きのところ北京以來の腹下し未に恢復仕らず 寢たり起きたり致し居候爲失禮ばかりしてゐます何事もずぼらの小生故不惡御寬恕下さい陳先生の書確に落手いろいろ難有うございましたなほ南宗畫集一册さし上げますから 何卒陳先生へ御屆け下さいそれから僕の枯木の圖御仕立ての由恐縮ながら嬉しく存じてゐますもう一度北京へ行つてその表裝を見たいが腹下しが少々恐しい 君は北京に住みながらちつとも腹を下しませんか(僕のゐた内にやつたのは腹下しプロパアとは認めません 此處に質問する腹下しとは二週間以上の腹下しであります)小生の紀行御よみ下さる由 面白かつたら本社へ向けオモシロイオモシロイと電報を打つて下さい 本社では旅行服米國記も僕の紀行も同じだと思つてゐるやうですお松さんは健在ですか波多野君はやはり「紙上の建築」を樂しんでゐますか僕もこの頃書齋でも造らうかと思つて「紙上の建築」を時々試みてゐます中野先生は相不變肥つてゐるでせうナ辻さんとは例の原稿の爲二三度書面を往復しました

   ぬば玉の黑き扇に鼻をよせ、臭しと云ひし鎗吉なれは。

   大寺の丹塗りの梢仰ぎつつ、餓了と云ひし鎗吉なれは。

   初夏の夜をすかしみ、鎗吉は乃木將軍をほめやまずけり。

   燕京に秋風立てば鎗吉も、白きズボンを脫ぎにけらずや。

     乃木夫人を憶ふ

   いにしへの賢き妻がいばりせし、狹山の小萩今かちるらむ。

   鎗吉はますらをなれば聽戲にも、馬前撥水を愛すと云へり。

   なれ故に無賴の客も燕京を、美(ハ)しと見にきとなが妻に云へ。

   なが妻をいまだ見ざれば礼(ヰヤ)のべむ、心甲斐なしとなが妻に云へ。

これは手紙代りに三十一字を並べたものと御思ひなさい 今になると僕も山東を見なかつたのは心惜しい 波多野先生によろしく 頓首

    九月三十日      芥川龍之介

   松本鎗吉樣

 

[やぶちゃん注:「松本鎗吉」大阪毎日新聞社北京支局員(北京通信部所属)であること以外は不明。岩波版新全集の人名索引に載る人物であるが、旧全集の芥川書簡にはこれを含めて彼宛の二通(「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈)」の岩波旧全集書簡番号「九二二」書簡。天津発信)のみがあるだけで詳細事績は未詳。但し、リンク先の今一通を読んでも、芥川が北京滞在中に極めて好感を持って接することが出来た人物であったのであろうことは窺われる。なお、ネット検索では、ここにも登場する波多野乾一との共著になる論文「支那政党史稿」(東亜同文会調査編纂部編『支那』第八巻第十五号・大正六(一九一七)年・東京・東亜同文会刊)や、「支那問題の解剖 」(昭和一七(一九四二)年・東京・興亜書院刊)、同年刊行の「支那の新姿」(弘道館)、戦後も「毛沢東伝」昭和二一(一九四六)年高山書院刊)、「中国人の特性と生活」昭和二二 (一九四七)年明倫閣刊)等の多数の著作をものしていることが判る。

「陳先生」不詳。

「腹下しプロパア」proper。ここは気候や食物(特に食用油の違い。フィリピンではヤシ油によるそれを「ウェルカム・バゥワー」(歓迎の腹下し)と称する)或いは急変した環境に一時的に適応出来ないことによって生ずる「固有な・厳密な・限定的な下痢」の意であろう。

「旅行服米國記」不詳。

「お松さん」不詳。

「波多野君」波多野乾一(明治二三(一八九〇)年~昭和三八(一九六三)年)は大阪毎日新聞社北京支局員(特派員)。後に北京新聞主幹・時事新報特派員等を歴任した。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた中国人も吃驚りの京劇通で、「支那劇五百番」「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ名優梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のサイトの江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読である。

「中野先生」中野吉三郎(明治二二(一八八九)年~昭和二五(一九五〇)年)は中国民俗研究家。福岡生まれ。号は江漢。大正三(一九一四)年(翌年という記載もあり)に二十六歳で北京に定住、北京連合通信社を設立して、約三十年間、在中した。「北京日記抄 四 胡蝶夢」で芥川も語っている支那風物研究会を主宰し、『支那風物叢書』を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた一九一〇年代から一九二〇年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全三巻(大正一一(一九二二)年~大正一四(一九二五)年刊)や、古書店の梗概に合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬を解説、とある発禁本「回春秘話」(昭和六(一九三一)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作が多数ある。昭和一四(一九二九)年には玄洋社(明治一四(一八八一)年に総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。

「辻さん」辻聴花。中国文学者辻武雄(慶応四・明治元(一八六八)年~昭和六(一九三一)年)の号。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方が頗る多い。上海游記 十 戲臺(下)」参照。

「例の原稿」筑摩全集類聚版脚注に、『辻聴花の「支那芝居」の原稿であろう。芥川の斡旋によって、支那風物研究会から出版の運びとなった』とある。やはり、北京日記抄 四 胡蝶夢」を参照されたい。

「餓了」中国語。「ウァラ」。「腹が減った」。

「燕京」(えんけい/えんきょう)は北京の古称。「安史の乱」の首謀者の一人史思明がこの地を「燕京」と称したが、五代の後晋の時、契丹に割譲され、遼は「燕京析津府 」(せきしんふ)と称し、「南京」と号した。遼末、宋は燕京攻撃に際して「燕山府」と改称、この地を実際に占領した金の譲与を受け(一一二三年)、一時、保有したが、すぐに金に奪われ、金は再び「燕京析津府」と改称して「中都」と号し、城域を拡大した(一辺約 五キロメートルの方形)。現在の北京の南西部に相当する。元代には「大都」と称されて首都となり,明は「北平」、後の成祖永楽帝の時(一四二〇年)に「北京」と改称され、清にもそれが受け継がれた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

に秋風立てば鎗吉も、白きズボンを脫ぎにけらずや。

「いばり」小水。

「狹山」不詳。乃木希典の妻静子(安政六(一八五九)年~大正元(一九一二)年九月十三日)の生まれは薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)生まれ。明治五(一八七二)年の数え十四歳の時、海外留学から帰国した長兄定基に呼び寄せられる形で、家族揃って東京赤坂溜池の湯地定基邸に転居し、麹町区の麹町女學校(現在の千代田区立麹町小学校)を卒業、数え二十歳で乃木希典と結婚した。

の小萩今かちるらむ。

「聽戲」観劇。

「馬前撥水」不詳。

 この書簡を書いた翌日の十月一日に南部修太郎とともに湯河原へ静養に出かけた。九月二十八日出発を三十日に変更後、さらに再度この日に変更している。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、『湯河原では、中西屋旅館に滞在し、湯に入ったり、散歩、読書、句作、さらには楽焼などをして気ままに過ごした』とあり、四日夕刻には、龍之介が事前に誘っていた『小穴隆一、小沢碧童が訪れ、六日まで滞在』した。この時に撮った写真が二枚あるが、孰れも龍之介は口をやや強くつぐんで、表情が暗い。『体調は徐々に回復していたが、神経衰弱』(芥川龍之介の自称。後の書簡を参照)『のせいで熟睡するには至らなかった』(十月八日の条)とある。湯河原から南部とともに東京へ帰ったのは十月二十五日頃であった。――神経衰弱?――その元凶は何か?……

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十日・湯河原発信・齋藤貞吉宛(絵葉書)

 

その後引つゞき病氣のため湯河原へ湯治に來て居ます僕は元來筆不精の處病氣になつた爲餘計怠けるすまないが勘忍して呉れ給へ 頓首

    十月十日           龍

   吾(ア)を待つと小夜のハルクに立ちわびし汝を思ひかなしむ吾(アレ)は

   押し照るや月を愛(カナ)しみ吾(ア)と共に草路を行きし貞吉なれは

お前の文章をよんだどうも難有うあれは中々うまい御世僻でも何でもなく中々うまいお前は新聞記者になつても飯が食へるちよいと感服した

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」既出既注

「ハルク」hulk。水上に浮かぶ機能は持っているが、水上の本格的航行はできない船のこと。ここでは貞吉を安徽省蕪湖唐家花園に訪ねた際(「長江游記 一 蕪湖」の冒頭を参照)、大型旅客船と桟橋を結ぶ中継ぎの小舟のことであろう。

「押し照る」一面に照る。照り渡る。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十日・湯河原発信・湯河原発信(推定)・岡榮一郞宛(絵葉書、南部修太郎と寄書)

 

湯にはひり樂僥きをやき本を讀み煙草をすひてをるぞと思へ。

時々は念佛も申す湯の中に南部ののろけ聞き居る時は。

 柚の本の島麻呂トハカリ名マコトハ 我鬼山房主人

骨ばめる我鬼の裸形(らぎやう)を見る時は我はも悲し病ひ身なれども

榮一郞先生 梧右           修太郞再拜

田端なる我鬼の聖人(ひじり)は旅出して榮一郞も寂しかるらん

 

[やぶちゃん注:南部修太郞はパブリック・ドメイン。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十二日・湯河原発信・塚本八洲宛(絵葉書)

 

每日湯にはひつたり本をよんだりしてくらしてゐます體は大體好いやうです唯神經衰弱が癒らないのに困つてゐますこちらは今日やつと日の目を見ました柿はやや赤らみ蜜柑はまだまつ靑です今山の方へ散步に行つて歸つて來ました 頓首

         中西内   我   鬼

   かぎろひの夕澄み渡る薄明り靑垣山はなかぞらに見ゆ

コレハ實景デス景色ハ中々ヨロシイ

                     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「塚本八洲」妻文の実弟。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十二日・湯河原発信・香取秀眞宛(絵葉書)

 

拜啓每日湯にひたつてゐます甚泰平です但神經衰弱は容易に癒りさうにも思はれません暇つぶしに畫を描いたり樂燒を試みたりしてゐます樂僥の一輪ざしなぞは琅玕洞に出品すればまづ安くとも二十七圓五十錢位ですナ 頓首

   世の中のおろかのひとり自がやける樂の茶碗に茶をたうべ居り

   世の中のおろかのひとり翁さび念佛すと思へ湯壺の中に

 

[やぶちゃん注:「琅玕洞」(らうかんどう(ろうかんどう))は明治四三(一九一〇)年に東京の神田淡路町に開店した日本初の画廊。参照したサイト「ジャパンアーカイブズ」のこちらに昭和三二(一九五七)年に正宗得三郎が描いた絵が載る。

「自が」筑摩全集類聚版脚注では「しが」と読んで、「己(おのれ)が」の意である旨の記載がある。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十三日(年月推定)・湯河原発信(推定)・東京市本鄕片町百三十四 小穴隆一こと一游亭樣・十月十三日(絵葉書)

 

「ホラ、アンナニ水ガ流レテルネ、赤イ花ガ、オヤ 鷄ガカケテキマシタ 岩ガ澤山アルネエ」――これは廊下に母親の子供をだましてゐる言葉です 実際の景色は室内の僕には見えません唯これを聞いてゐると 僕の想像には奇體な風景畫が浮かびます 御なぐさみ迄に 頓首

               我   鬼

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十月十六日・湯河原発信(推定)・東京市本鄕片町百三十四 小穴隆樣・十月十六日 我鬼(絵葉書)

 

紙どうもありがたう僕その後おひおひ健康恢復、但し未に安眠出來ぬのに苦しみ居ります仕事は全然せず唯秋の深くなる山色を眺めてゐるばかり湯河原の主よりもよろしくとの事 頓首

 

[やぶちゃん注:最後に述べる。この、

九月二十四日の午後五時或いは六時過ぎ、芥川龍之介は衝撃的な事実を目の当たりにした

のであった。

 まず、高宮檀「芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る」(彩流社二〇〇六年刊)から引く。

   《引用開始》

 小島政二郎(まさじろう)『長編小説 芥川龍之介』は《芥川が支那から帰って来たのは、確か夏だったように覚えている。だから、秋だったろう。どこで落ち合ったのだろうか、芥川と南部(なんぶ)と私と三人で、どこかで飯を食うつもりで逢った。が、まだ晩飯を食うには、時間的に早い午さがりだったので、芥川の云い出しで、丸善へ入った》と述べている。

 芥川が四ヶ月におよぶ中国旅行から田端の自宅へ帰ったのは、大正十(一九二一)年七月二十日ころである。そして同年九月二十三日付けの芥川の南部宛ての葉書に《僕は二十七日か八日でないと出られぬその前二十四日にあひたい同日午後二時丸善に来られたし(二時より三時)》とあることから、三人が落ち合ったのは九月二十四日午後二時ころであったことがわかる。

 小島と南部修太郎は当時、佐佐木茂索や瀧井孝作らとともに「龍門(芥川龍之介の門下の意昧)の四天王」と呼ばれた、慶応出身の作家であった。以下に小島の回想をつづける。

 本探しに熱中している芥川に、南部が「ちょいと買い物をしてくるから――」と言って、階段を降りて行った。丸善から出た芥川と小島のふたりは、日本橋のうまい物屋が軒を並べている細い横町(通称「食傷新道(しょくしょうじんみち)」)にある中華亭という、店名とは裏腹の日本料理屋へ入った。

 《二人とも透き腹にうまい物を食べて、いゝ気持になって梯子段を降りて行くと、下の奥の座敷から、南部と○○子(しげ子のこと――高宮注)とが肩を並べて現れた。(中略)

 芥川も流石に意表を衝いたこの出会いに表情を変えた。南部も○○子も、表情を変えたことは云うまでもない。が、芥川は表情を堅くしたが、それ以上ではなかった。

 しかし、南部の方は顔の色を変えて、見ていられないくらいヘドモドした。目のやり場に困っていた。○○子は南部の蔭に姿を隠してしまった。私が南部の次ぎに彼女を見た時には、彼女は視線を落としていた。》

 小島は同時代人の目撃証言として芥川としげ子、南部の三角関係を記している。

 小穴隆一は《「藪の中」は芥川龍之介みづから彼自身のこころの姿を写したものだ》(「『藪の中』について」『芸術新潮』昭和二十五年十一月)と述べている。その《こころの姿》とは、この小穴の随筆や瀧井孝作「純潔―『藪の中』をめぐりて」、前掲の小島の小説などから、前述の三角関係にたいする芥川の苦悩であると解されている。

   《引用終了》

以下、高宮氏は後の「藪の中」を解析して、同作が芥川龍之介が知らぬうちに、南部修太郎と秀しげ子を共有していたことを元にした小説であることを述べておられる。「藪の中」の「金澤武弘」の名が南部修太郎のアナグラムであるという説には、やや留保したいが、高宮氏の探索は微に入り、細に入って、非常に面白いので(例えばそこでは「藪の中」の「眞砂」という名の真相をも明らかにしておられ、これは驚天動地の内容である)、以前にも述べたが、是非、一読をお勧めしておく。

 さて、私は高宮氏が引いた小島政二郎の「長編小説 芥川龍之介」(昭和五二(一九七七)年読売新聞社刊)の初版を所持しているので、やや長くなるが(小島の著作権は存続している)、重要な記載なので、以下に引用する。同書の「二十八」章、芥川龍之介の女性関係を語る途中からである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   《引用開始》

 私は時を別にして、芥川の方からも彼女[やぶちゃん注:秀しげ子のこと。以下の『□夫人』は彼女のことである。]のことを聞いている。しかし、彼女の手前勝手の二三については聞かされたが、それも、女房の手前勝手にサンザン手を焼いていた私には、芥川が云う程には思えなかった。アカの他人の私と、そうでない人に対してとは、そこに大変な違いがあったろう。

 それに、芥川は私と違っていゝ奥さんを貰い当てていたから、□夫人の手前勝手の受げ取り方が相当開きがあったのだろうと思う。兎に角、□夫人の手前勝手には相当悩まされていた。もう一方の動物的本能[やぶちゃん注:芥川龍之介の「或阿呆の一生」の秀しげ子について記した「二十一 狂人の娘」を参照。リンク先は私の古いサイトの電子化。]については、小穴に向ってのようには私には一ト言も口にしなかった。

 しかし、彼女の動作を見ていて、芥川好みではないかも知れないが、世間並みの口舌(くぜつ)なら相当面白い女だろうと想像していた。いろいろ手が込んでいて、飽きずに、いろいろ纒わり付いて来る私との会話から想像して――。肉体的にも、一ト息で参らなさそうな、よさを持っていそうな気がした。

 私はそんな風に二人の仲を想像していた。よもや芥川が小穴に訴えたような意味で持て余しているとは思わなかった。

 小穴の手記によると、芥川は「支那へ旅行するのを機会にやっと夫人の手を脱した。モの後は一指も触れたことはない」と云っている。彼が支那へ行ったのは大正十年の春だった。その後いつのことだったか、

「僕は〇〇子を南部に譲ったよ」

 芥川がそう云ったのを聞いた。その時の彼の表情を私は覚えていない。なぜ、そんな事を私に云ったのか、それも分らない。私と南部とは、同じ三田出の友達というに過ぎない。 思うに、□夫人が南部の彼女になった以上、二人が連れ立っているところを私が見ることが屢々あるだろう。その時、余計な心配を私にさせないためだったのだろう。

 芥川が支那から帰って来たのは、確か夏だったように覚えている。だから、秋だったろう。どこで落ち合ったのだったろうか、芥川と南部と私と三人で、どこかで飯を食うつもりで逢った。が、まだ晩飯を食うには、時間的に早い午(ひる)さがりだったので、芥川の云い出しで、丸善へ入った。

 芥川の本の買いッぷりの激しさを見たこれが二度目だった。私は二三冊欲しい本を買ってしまうと、もう用はなかった。芥川は棚から本を技き出すと、パラパラとぺージをめくって五六行読んで、興味がないと、もとの棚へ返す。面白いのにぶつかると、一定の場所へ置いておく。忽ち十冊、十二冊と本の山が出来て行った。それでも、まだ止めようとしないで、次の棚の前へ移って行く。

 南部はシビレを切らして、

「ちょいと買い物をして来るから――」

 そう云って、階段を降りて行った。私も途方に暮れたが、外に仕様もないので、芥川のあとに付いて本棚の中の本を覗いていた。しかし、もう買いたい本もないし、二時間以上も立ち詰めだから疲れて来た。

 ハッキリしないが、丸善には腰を掛けるところがなかったように思う。幸い二階のどこかに風月堂のパーラーがあったので、そこで紅茶とケーキを食べて一ト休みしていると、五時だか六時だかの、閉店のベルが鴫り出した。

 芥川の傍へ行って見ると、店員が遠慮しながら、本の並べてある台の上へ白い掩(おお)いを掛けている。芥川の見ている棚だけ残して、あとの棚のガラス戸に鍵(かぎ)を掛けていた。

 やっと芥川の本選(えら)びが終わった。凡そ二十冊ぐらい積み上げてあったろうか。

 外(そと)はまだ明るかった。待っている筈の南部は、丸善の前にはいなかった。

「要領の悪い奴だな」

 暫く立って待っていたが、現われなかった。

「どこで買い物をすると云っていた?」

「さあ、何とも云っていませんでしたぜ――」

 しょう事なしに、二人は京橋近くまで丸善側を探して歩いた。その辺から、高島屋側に移って、また丸善の前あたりまで戻って来た。

 結局、南部とは逢えずじまいだった。正直、お腹は減って来たし、夕方の風は寒くなって来たし、跡味はよくなかったが、二人だけで飯を食うことにした。

 白木屋と西川蒲団店との間に、細い横町があって、そこを食傷新道(しょくしょうじんみち)と云っていた。大小さまざまのうまい物屋が軒を並べていた。中に、中華亭という、有名な日本料理屋があった。

 そこへ上がった。

 二人とも透き腹にうまい物を食べて、いゝ気持になって俤子段を降りて行くと、下の奥の座敷から、南部と○○子とが肩を並べて現われた。[やぶちゃん注:ここで「二十八」が終わり、以下、「二十九」。章番号をカットし、一行空けで続ける。]

 

 この時の、二人の――芥川と南部の態度の違いを、私は咄嵯に、非常な興味を以って見ないではいられなかった。

 芥川も、流石に意表を衝いたこの出合いに表情を変えた。南部も○○子も、表情を変えたことは云うまでもない。が、芥川は表情を堅くしたが、それ以上ではなかった。

 しかし、南部の方は顔の色を変えて、見ていられないくらいヘドモドした。目のやり場に困っていた。○○子は南部の蔭に姿を隠してしまった。私が南部の次ぎに彼女を見た時には、彼女は視線を落していた。

 四人は足を留めたまゝだった。こっちは一ト足先きに出ていたから、そのまゝ玄関に出て、雪駄の上に足を卸(おろ)した。考えて見れば、中華亭ほどの料理屋が、二タ組の客を同時に帰すという法はなかった。

 そのまま私達は振り返りもしず、大通りへ出た。変な出合いだから、南部を待ち合わす気にもならず、私も、芥川も、何か口を利く気分になれないまゝに日本橋を渡った。

 私はソッとうしろを振り返って見たが、南部達の姿は見えなかった。察するに、彼等は食傷新道を私達とは逆に、裏通りの方へ出て行ったのだろう。

「それにしても、南部の何という知恵のなさだろう」

 と私は胸のうちで思った。どうせ目本橋界隈(かいわい)で飯を食うなら、私達が贔屓にしている中華亭を選ぶなんて、どうかしている。

 洋食よりも日本料理の好きな芥川が、ここを選ぶのは知れているのに――

 南部は山の手生まれだから知らないにしても、○○子なら、近くに春日(かすが)もあれば大和(やまと)もあることぐらい知っているだろう。芥川に逢って、あんなにドギマギするくらいなら、中華亭へ来るべきではなかった。第一、私達が日本橋で食事をするのは分り切っていたのだから、銀座なり築地なりヘ避けるべきであった。

 丸善で私達を騙(だま)しているのだから、どこで○○子と逢う約束をしたのか知らないが、逢ったらさっさと日本橋をあとにするのが常識だろう。それとも、ハッキリ譲られたのだから、譲られた証拠を芥川に見せて置きたかったのだろうか、偶然のようにして――

 それにしては、あの狼狽ぶりは何であろう。まるで罪の現場を見られたような態度だった。私には解せなかった。

 解せなかったのは、芥川の態度にもあった。芥川は田端へ、私は上根岸へ帰るのだから、中華亭を出てからずっと一緒だった。電車に乗る気にならなかったのは芥川の方だった。芥川としては珍らしく不機嫌になってしまった。久保田万太郎の句に、「忠七、老いたり」という前書きがあって、

 

  永き日や機嫌のわるきたいこもち

 

 というのがある。忠七というのは、吉原の幇間(たいこもち)だ。「たいこもち」は商売柄客に不機嫌な顔を見せてはならないものだ。まして忠七ほどの一流の「たいこもち」は、猶更であろう。その忠七が不賎嫌なのは、年を取って病気か何かで――恐らく死病を煩(わずら)っていて、不機嫌だったのだろう。そういう意味で、「あわれ」である。芥川はこんな時、不機嫌になる人ではなかった。普通の時より一倍も二倍もお喋りになって、心中をそのまま表に現わさない人だった。その彼が、不機嫌になってプツリとも喋らなくなってしまったのだ。こんなことは、長い付き合のうちでないことだった。

「○○子は南部に譲ったよ」

 と私に云ったのは、相当前のことだった。噓だとは思わなかった。南部に芥川のものを取る度胸があるとは思えなかった。

 譲ったというのは、事実だと私は信じている。変な話だが――。でも、譲った女が、相手と仲よくしているのを見れば、未練が沸くものなのだろうか。私は女を譲った経験がないから、その辺の気持は分らないが――

 譲ったということは、愛情がなくなったことだろう。愛情のなくなった女が何をしようと、私なら未練も感じなければ嫉妬も感じないだろう。だから、その晩の不機嫌になった芥川の気持が私には分らなかった。

 しかし、不機嫌になったことは間違いなかった。しかし、そう云っては何だが、○○子が、知能と云うか、相当以上の教養と云うか、その種のものを持っていたとは思えない。これは噂に過ぎないが、この前長々と技萃した芥川の推敲に推敲を重ねて、一詩も得なかった彼の詩[やぶちゃん注:「二十六」で部分引用した『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.のこと。リンク先は私の詳注附きのサイト版。]に歌われた女性は、アイルランドの「シング戯曲全集」を翻訳した松村みね子[やぶちゃん注:片山廣子がアイルランドの作品翻訳に使ったペン・ネーム。]だと云われている。これは噂で、事実かどうか私は知らない。同じ軽井沢で何年も過ごしていながら、私は彼女を見たこともなかった。「彼と才力の上でも格闘出来る女」だと芥川自身書いている。

   《引用終了》

以上から、この衝撃的な邂逅はこの日付けで誤りはないと考えてよい。また、高宮や小島が述べている小穴隆一の記事も、既に「小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』」としてブログで電子化注している。

 芥川龍之介の中国への旅は、一説に、不倫後に急速に冷めて、嫌悪すら感ずるようになりながら、執拗につき纏ってくる(龍之介の自死直前まで続いた)秀しげ子と距離を置くためであったともされる(但し、彼の中国旅行願望は、しげ子と出逢う以前から強くあったし、中国特派自体は社員(芥川龍之介は「社友」と言っている)であった大阪毎日新聞社側からの慫慂であったのだから、そうした「逃避」という意味合いはあったとしても、それは偶然的で副次的なものであったと私は考えている)から、秀しげ子への思いはこの時点で既に殆んど冷め切っていたと私は考えてはいる(小島も引用の中でも、この鉢合わせ事件の前に龍之介の冷めた気持ちは示されていたと述べている)。

 にしても、芥川龍之介の生涯の中で、この、友にして弟子とも認知していた南部修太郎との思いもかけない三角関係の偶発的暴露は、秀しげ子との不倫が彼女の夫に知られて、北原白秋のように姦通罪で訴えられることへの恐怖を抱いたこと(立証資料はないが、彼女の夫に事実を告白して示談にしたという説もある)と並ぶ、龍之介生前の危機的衝撃事件のピークの一つであったことは、最早、疑いようはないのである。彼のここでの神経衰弱とは、まさにこの事件によって、致命的に増悪した結果なのである。

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