大正一一(一九二二)年八月七日・田端発信・南部修太郞宛
拜啓 原稿用紙で失敬する。君の手紙は難有く讀んだ。君はあの手紙を書いて好い事をした。しかしもつと早く書いてくれるとなほ好かつた。僕のした事の動機は純粹ではない。が、惡戲氣ばかりでした事ではない。純粹でない爲にはあやまる。惡戲氣ばかりでない爲にはいつか君にわかつて貰ふ時が來るだらう。人生と云ふやつは妙なものだ。君と僕とはお互に何の惡感も持つてゐない。その癖かう云ふ事になるのだ。[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集には、ここに『〔五十九字削除〕』とある。]それだけは承知してゐてくれ給へ。交を絕つ絕たないは僕がきめるべき事ではない。君の判斷に一任すべき事だ。しかしお互の爲に計れば喧嘩なぞせぬ方がよいかも知れない。
結婚する事は小島に聞いた。君の爲にこの位喜ぶべき事はない。結婚後も君はあすこにゐるのか?
もし君が絕交すると云はなければ、君らしい物でも祝はうかと思ふ。わが友南部修太郞よ。結婚し、愛し、而して苦め。作家たる君に訣けてゐるのは、唯この甘酸窮りなきリアルライフの體驗ばかりだ。僕は今忙しい。每日原稿に追はれてゐる。おまけに僕の家は暑い。一方ならない苦しさだ。君の返事を待つてゐる
七日 我 鬼
南部修太郞樣
[やぶちゃん注:新全集の宮坂覺氏の年譜に、この八月上旬、『南部修太郎との関係が、絶交寸前になるほどこじれる』とある。秀しげ子との三角関係に絡んだ相互トラブルであることは、百%、間違いない。次の次の書簡も参照。]
大正一一(一九二二)年八月二十日・田端発信・岸浪靜山宛
金魚の御作ありがたう存じましたつとに御禮申上げるはずのところ多用のためうちすぎましたあしからず御かんべん下さい
このやうに目玉あぶなき支那金魚林黛玉も飼ひてゐにけり
藻がくりに光さし入る水の中金魚の腹のい照るかなしさ
八月廿日 我 鬼
靜 山 先 生 侍史
二伸 一度參上御禮申上げようと存じながら失腰して居りますこの頃板橋の本物を見わたしが長崎で貰つて來たのは贋だと申す事を知りました
[やぶちゃん注:「岸浪靜山」(明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年)は南画家。本名は正司。群馬県生まれ。
「林黛玉」「中国四大名著」の一つに数えられる、清朝中期に曹雪芹によって書かれた長篇白話小説「紅楼夢」のヒロインの美少女の名。
「い照る」「射照る」。]
大正一一(一九二二)年八月二十六日・田端発信・南部修太郞宛・大正十一年八月廿六日 田端奉行(封筒表に『南部家御執事』、裏に『田端奉行』とあり、その下に華押が記されていると、筑摩全集類聚版の書簡冒頭割注にはある)
[印判]
證
南部修太郞
渡世 賣 文
生年 三十一
右者澄[印判]江堂ヘ
一宿致そう郞事實證
也その為一札如件
證人
芥川龍之介[印判㊞]
渡世 講 学
生年 三十一
證人
大正壬戌 小穴隆一[印判]
八月廿六日 渡世 畫 工
生年 二十九
南部家
御家中
皆々樣
[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版に載る原書簡プリント画像を示し、それを視認して電子化した。印判はすべて異なるが、判読は出来ない。所持する「澄江堂句集」(復刻本)に印譜が載っているので、それで多分判るはずだと思ったのだが、書庫の底に沈んで見つからない。判ったら、追記する。「澄」の下方から「江」前面を覆っている四角の印判は或いは小澤碧童の刻になる「龍之介印」ではないかとも思われる。新全集宮坂年譜には、この八月二十六日土曜日、『関係が修復したのか、南部修太郎が一泊するか』とある。この書簡が、その証左というわけである。しかし、私は芥川龍之介は、結局、自死するまで、南部修太郎を心からは打ち解けて許してなどはいなかったものと思う。それは『小穴隆一 「二つの繪」(8) 「宇野浩二」』や、「小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』」を読むと、そう感じざるをえないのである。小穴隆一にはかなりエキセントリックで、一度、ある妄想的認識が生まれると、それにあくまで固執する特異性があるから、完全な事実として認めることは、かなり躊躇されるのだが、しかし、南部に関するこれらについては、概ね小穴の謂いは真実であったと見てよい。また、「南部との仲が、この時になって何故?」と思う人は多いだろう。前年の九月の衝撃の鉢合わせの直後でさえも、龍之介は自ら南部を誘って温泉に行っているのに、である。恐らくは、ちょっと考えれば判るが、この大正十一年年初に発表した「藪の中」が、芥川龍之介と南部修太郎と秀しげ子の三角関係を原材料として実に皮肉に書かれたものであることに南部が気づき、それを笑えない『惡戲氣』(いたづらっけ)として、龍之介に直接に指摘し、批難をした可能性が、その関係悪化のトバ口であったのではなかったか、と私は考えている。]
大正一一(一九二二)年九月八日・田端(午前中)発信・眞野友二郞宛
冠省 度々御手紙難有うちよいと鎌倉へ遊びに行つてゐた爲に諸方へ御返事が遲れましたこの手紙と同時に沙羅の花を一部さし上げます原稿も御入用ならば送つてもよろしいしかしきたないものですよあなたのポプラアの風に吹かれる光景は愉快ですね西洋女が帽子につける駝鳥の羽根の飾りのやうですこの頃「山鴫」と云ふ小說を獨逸語に譯した人がありますうまいかまづいか私にはわからないが兎に角獨逸語でよむと西洋じみます末筆ながら奧さんによろしくわたしの所でも來月はお產です 頓首
更くる夜を上ぬるみけり鰌汁
小園日長
晝深う枝さしかはす木立かな
九月八日 芥川龍之介
眞 野 先 生
二伸けふは二科會の招待日ですこんどは小穴君の描いたわたしの肖像畫(題は白衣)が出ました實物よりは餘程好い男になつてゐますこれから小穴君と見物にゆきます
オタンチンと云ふ言葉は貴家の女中の國から起つたのではありませんか
[やぶちゃん注:「眞野友二郞」新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、旧全集で宛名書簡は十三通を数え、本通信文から見ても、芥川龍之介の熱心な読者で、龍之介も丁寧に書簡で応じていた人物であったと考えて問題はないと思われ、また、後掲する彼宛の書簡に薬物を送って貰っていることから、本業は医師である可能性もあるように思われる。
「鎌倉」新全集年譜には、九月七日の条に、『数日間、鎌倉に遊び、田端の自宅へ戻る』とある。鎌倉でも宿泊先は間違いなく料理旅館「小町園」であり、彼はこれも間違いなく、女将野々口豊と逢うことこそが目的であったろう。文はここに書いてある通り、第二子(多加志)を妊娠中で、翌月が産み月であったのである。龍之介にとって危険がアブナい状態にあったと言える。
「沙羅の花」この前月の八月十三日に改造社から刊行された作品集。
「山鴫」既出既注。
「小穴君の描いたわたしの肖像畫(題は白衣)」この時二科展に出品した、芥川龍之介をモデルとした肖像画「白衣」。本画の題は別に「在野の人」を意味する「処士」とも称される。なお、「白衣」は諸データにルビがないが、一般でしたり顔で言う連中がいる「びゃくえ」ではなく、「はくい」と読む。『小穴隆一「二つの繪」(51) 「月花を旅に」』で、作者の小穴自身が、芥川龍之介が「はくい」と読む、と言ったことが記されている。
上に「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングして示した(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。
「オタンチン」人を嘲る語。のろま。間抜け。特に寛政・享和(一七八九年~一八〇四年)頃の江戸新吉原で、特に厭な客を指して言った。「おたんこなす」も同じで、特定の地方の方言が元だとは私には思われない。]
大正一一(一九二二)年十一月十三日・田端発信・小穴隆一宛
拜啓その後御無音に打過ぎ中訣無之候これは家内男の兒を生み何かとごたごたいたし居る爲に候又一つは小生神經衰弱甚しく筆をとるも懶き爲めに候男兒には多加志の命名するつもりに候隆の字をかなよみにいたさせしに候この間の墨畫春服の裏繪にとの思召し結構に候唯あのにじみうまく版になるかどうかと存候新年號の小說皆書かねば伊香保へも行け神經衰弱なほる事も必定と存候へどもさうばかりも行かず弱り居り候又お金の儀は菊池よりすでに五十金受取り居り久米のとも合せぢきに御送金仕る可く候この頃松本松藏と言ふ金持の家にて大雅蕪村の十便十宜帖及竹田草坪數々見申候大雅の大は申すまでもなく候蕪村も竹田よりは一極上の畫人に候君が在京すればと惜しみ候又泰西名畫展覽會と言ふを見、西洋人も傑作を出すの容易ならざるを知り候いつぞやのルノワル(帽子をかぶつた)セザンヌの自畫像などやはりよろしく候外にモンテイチエリと申すもの、滴る如き味あるものに候贋物も少しはあるやうに見受け候別封「詩と音樂」「純正美術」御閑の節御らん下さる可く候(純正美術には十使帖の寫眞あり實物は着彩に候 又左句送別の爲作り候所家内ども緣起わるしと申し候故その節さしひかへ申候へども今は何と言ふ氣もいたさずなり候間書き添へ候
送一游亭別情愴然
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな
十一月十三日夜半 芥川龍之介
小穴隆一樣
二伸「湯の花」まだこころ見ず候明日の湯に入れるよしに候君より「湯の花」香取先生より柿と鯉と同時に頂き候草堂の秋意嬉しきが如く寂しきが如くに候
我 鬼 生
[やぶちゃん注:小穴は足の治療で伊香保温泉に湯治していた。この後の十一月二十日附の小穴宛書簡では、龍之介も体調が優れず、翌年の『新年號の原稿全部斷り、湯治に參る事と決心仕りました』と述べ(実際に短い随想商品が四種発表されているだけである)、『但し伊香保は非常にさむさう故南の方へ參らうと存ずるのですが君が歸京され次第一しよに參つてもよろしいと存じ居候』と述べている。しかし、その後、帰京した小穴は、診断の結果、最悪の脱疽に重症化していることが判明、足を切断する可能性が出てきたことを龍之介に伝え、自身の不調(風による発熱と、その服用薬によるものと思われる両手に包帯をするほどのピリン疹(解熱・鎮痛剤として用いられるアンチピリン・アミノピリン・スルピリンなどのピリン剤による薬疹。人によって副作用の症状が異なることがある。一定の部位に円形の紫赤色斑が発生し、ひりひりした感じを起させることが多いが、水疱を生ずることもあり、戦後にはアナフィラキシー・ショックによる死亡例もある)等)で小穴を訪ねられない中、龍之介は七月二十七日附小穴宛書簡で、その報知に驚き、脱疽の『切り遅れはいよいよあしきよしさりながら足切ると申すは容易の事にあらずどうすればよいやらまどふばかりに候』と途方呉れている様子が記されてある。既に述べた通り、龍之介の小穴の脱疽への悪い予感のそれは、正確に的中してしまうのであった。
「男の兒を生み」「男兒には多加志の命名するつもりに候隆の字をかなよみにいたさせしに候」多加志はこの十一月八日に生まれた。彼については既注。
「春服」は芥川龍之介の第六作品集。この翌年の大正一二(一九二三)年五月十八日に春陽堂から刊行された。小穴隆一の装幀。
「大雅」池大雅。「十便十宜帖」を含め、既出既注。
「竹田」田能村竹田(たのむらちくでん 安永六(一七七七)年~天保六(一八三五)年)は南画家。名は孝憲。詳しくは当該ウィキを見られたい。また、大正九(一九二〇)年九月発表の「雜筆」の冒頭の「竹田」も参照されたい。リンク先は私の電子化注。
「草坪」高橋草坪(そうへい 文化元(一八〇四)年~天保二(一八三五)年)は文人画家で、田能村竹田の高弟。天賦の才に恵まれたが、三十二歳で早世した。当該ウィキを参照されたい。
「モンテイチエリ」フランスの印象派に先立つ時期の画家アドルフ・ジョゼフ・トマ・モンティセリ(Adolphe Joseph Thomas Monticelli 一八二四年~一八八六年)。当該ウィキを参照されたいが、筑摩全集類聚版脚注には、『在世中殆んど無名に近かったが、死後認められた。独特の幻想をもった夢幻的作風で、技法的には印象派の端をなしたといわれる』とある。
「詩と音樂」「純正美術」孰れも当時発行されていた雑誌名。]
大正一一(一九二二)年十一月二十八日・田端発信・小宮豐隆宛
冠省 芭蕉俳句硏究ありがたく拜受仕候
邦讀後御禮申上げんと存候爲今日に相成り申譯無之候皆〻樣の御批評の中尊臺の御說一番ありがたく候これは御世辭には無之、「ここも三河むらさき妻」の御說「なほ見たし」(葛城の神の句)の御句などその外有益のもの多く候だめなるは太田水穗なりあの位かん所のわからぬ歌よみは古今に類まれなる可く候又安倍樣の御說我人とも疑問を持つやうな所を素直に述べられ、よろこばしく候一つ一つの句につき高說も伺ひ愚見も申度き事有之候へども寸楮意をつくさず拜眉の節を待つ可く候この頃風をひき手にはピリン疹と申すもの出來、筆をとるも不自由なる上夜は不眠症の爲なやまさるゝ事一方ならずこの手紙もしどろもどろなる次第、よろしく御判讀下され度願上候
卽興
初霜や藪にとなれる住み心
十一月二十八日 芥川龍之介
小 宮 豐 隆 樣 侍史
二伸 なほ申しのこし候ままつけ加へ候あの書中遺憾なるはどなたも句のしらべをあまり問題になされぬ事に候句は姿第一しらべ第二とてはせをの翁も申候へども一句のリズムも考へて見る必要ありと存じ候へども如何にや「年の 線香買ひに行かばやな」[やぶちゃん注:字空けはママ。]を三十棒なりなどと申候瓊音こそ三十棒を蒙る可きはさる事ながらそは阿部樣の御說の外にも耳に訴へる美しさに聾なる故も有之べく候かしこぶり不惡御見のがし下され候はゞ幸甚に御座候 頓首
[やぶちゃん注:「芭蕉俳句硏究」筑摩全集類聚版脚注に、『沼波瓊音・太田水穂・阿部次郎・阿部能成・小宮豊隆・和辻哲郎の芭蕉俳句の合評に幸田露伴が意見を書き加えた』単行本で、この年に刊行された。後に続・続々が出ている。
「尊臺」(そんだい)は相手に対する敬称の二人称人代名詞。貴台。男子が手紙などで目上の男子を敬って用いるもの。
「ここも三河むらさき妻」芭蕉の句としているが、句碑も立ち、ネットにも沢山載っているが、現在は存疑の部に入る句で、私の持つ芭蕉句集の殆んどでは、正真の句として採っているものは少ない。
藤川
ここも三河むらさき麥のかきつばた
で、「一葉集」(鬱兮・湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)に載り、伝真蹟短冊とするものがあり、そこでは、
こゝもするかむらさき麥のかきつばた
であるが、私は芭蕉の句ではない駄句と断ずる。
『「なほ見たし」(葛城の神の句)』貞享五・元禄元(一六八八)年の作。「笈の小文」に載る。
葛城山
猶みたし花に明行(あけゆく)神の顏
は、「葱摺」(しのぶずり:等躬編・元禄二年)では、
かつらき山の麓を通り侍る比(ころ)
猶見たし花に明行神の顏
「泊船集」(異国編・元禄十一年)には、
やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過るに、
よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりた
る明ぼののけしき、いとゞ艷(えん)なるに、
彼(か)の神の、みかたち、あしゝと、人の口、
さがなく世にいひつたへ侍れば
猶見たし花に明行神の顏
と出るもの。
「太田水穗」(みずほ 明治九(一八七六)年~昭和三〇(一九五五)年)は歌人で国文学者。長野生まれで長野師範卒。本名は貞一。郷里での教員生活の後に上京、大正四(一九一五)年に歌誌『潮音(ちょうおん)』を創刊し、没年まで主宰した。象徴主義歌論を展開、大正九年に前掲の「芭蕉俳句硏究」のメンバーと芭蕉研究会を起こし、「新古今和歌集」の発展結果としての芭蕉の俳諧を短歌に奪回し、大正末から昭和初期にかけての『アララギ』の写生主義や新興無産派短歌に対抗し、「日本的象徴」を標榜、近代短歌に独特の地歩を確立したが、戦中は国粋主義に変質した。歌人四賀光子は妻。因みに私の父方の祖母で、母方の叔母である(私の父母はいとこ同士)藪野(旧姓笠井)茂子は『潮音』同人であった。
「安倍樣」安倍能成(よししげ 明治一六(一八八三)年~昭和四一(一九六六)年)は哲学者・教育者。愛媛県出身。一高・東京帝大哲学科卒。夏目漱石門下。岩波版「哲学叢書」の編集に加わる。昭和一五(一九四〇)年に一高校長、戦後の昭和二十一年には幣原内閣文相、後に学習院院長となった。
「寸楮」「楮」は「こうぞ」で「紙」の意・短い手紙。また、自分の手紙を遜って言語。
「拜眉」相手に会うことを遜っていう語。拝顔。
「年の 線香買ひに行かばやな」芭蕉の貞亨三(一六八六)年歳末吟。
年の市線香買(かひ)に出(いで)ばやな
「続虚栗」(其角編・貞享四年刊)所収。
「三十棒なり」筑摩全集類聚版脚注に、『禅宗の言葉。罰を受ける際、棒で三十回たたかれる』修行を指すが、『この場合』、その『罰を受けるべき人、つまらないものをいうのに転じて使っている』とある。
「瓊音」沼波瓊音(ぬなみけいおん 明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人。本名は武夫。名古屋生まれ。東京帝大国文科卒。在学中に俳句団体「筑波会」に参加し、俳諧研究に努めた。明治四四(一九一一)年、雑誌『俳味』を主宰した。一時、信仰生活のために文筆を絶ったが、大正一一(一九二二)年、一高教授となり、俳諧史を講義した。大正十五年には、一高の関係者を結集して日本精神研究のための団体「瑞穂会」を創設した、強力な国粋主義者であった。私は彼が大嫌いである。
「阿部」阿部次郎(明治一六(一八八三)年~昭和三四(一九五九)年)は哲学者・美学者。一高・東京帝大哲学科卒。夏目漱石の作品批評によって評価を受け、漱石門下として小宮豊隆らと親しみ、明治四四(一九一一)年、その共著「影と声」を出版、反自然主義の論陣を張った。大正三(一九一四)年には、思索と精神的苦悩を基調とした自己省察の記録「三太郎の日記」を刊行、独自の理想主義を確立した。やがてそれは「人格主義」へと展開し、論壇の左右両翼から攻撃を受けたが、同書は大正教養主義の代表作品として学生・青年層の近代的自我覚醒の必読書となったとされる。東北帝国大学美学教授となり、ニーチェらの紹介に努め、連歌俳諧研究を始めとして、日本文化研究の業績も残している。昭和二九(一九五四)年には、私財を投じ、「阿部日本文化研究所」(後に東北大学文学部付属日本文化研究施設分館を経て阿部次郎記念館となった)を設立している。]
大正一一(一九二二)年十二月二日・田端発信・與謝野寬宛
拜啓 度々御手紙頂き大いに恐縮に存じて居ります小生支那旅行以前よりの文債山の如くその上新聞の紀行文も書かねばならずこの頃しみじみ責文糊口の難きを思ひ居る次第、尊命による隨筆風のもの二三枚したゝめましたが到底一段組にする程の代物にては無之どうか藻風先生や耿之介先生の六號二段組みの御仲間へ御入れ下さい明星では森先生の「古い手帳から」每號難有く拜見してゐます但しあの古い手帳の中には大分新しい書き入れもはひつてゐるのでせう小生もその内に奮發して諸先生をあつと云はせる程のものを書くつもりですそれから南部の歌不評のよししかしあれは南部としては一世一代の名作ですまづ嫌味のない素直な所だけお買ひ下さい 頓首
十二月二日 芥川龍之介
與謝野寬樣
[やぶちゃん注:一騒動あった南部修太郎の短歌を擁護しているのが面白い。
「藻風」竹友藻風(たけともそうふう 明治二四(一八九一)年~昭和二九(一九五四)年)は詩人で英文学者。本名は乕雄(とらお)。大阪市生まれ。同志社大学神学部を経て、京都帝国大学英文科選科修了。イギリス・アメリカに留学し、英文学を修め、東京高等師範学校・大阪大学などの教授を歴任。大正二(一九一三)年に詩集「祈祷」を刊行し、続く「浮彫」(大正四(一九一五)年)を経て、恩師上田敏や茅野蕭々・雅子との共著「鬱金草」(大正一〇(一九二一)年) で詩人としての地位を確立した。他に訳詩集「ルバイヤツト」(同年)・「ベルレエヌ選集」(同年)などがある。
「耿之介」日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)詩人で英文学者。長野生まれ。本名、樋口国登(くにと)。早大英文科卒。在学中から詩作を始め、西条八十らと詩誌『聖杯』(後に「仮面」に改題)を創刊して、大正期の象徴派新人として詩壇に登場、神秘的高踏的な詩風を確立した。詩集「転身の頌」「黒衣聖母」、詩史「明治大正詩史」などがある。
「森先生」森鷗外。
「古い手帳から」『明星』(第二期)に「M. R.」の署名で連載(大正一〇(一九二一)年十一月一日~大正一一(一九二二)年七月一日)された、短文考証物。「青空文庫」のこちらで読める。]
大正一一(一九二二)年十二月十七日・田端発信・眞野友二郞宛
冠省 御見舞の御手紙難有く存じますお藥も確かに落手しました小生如き疎懶の人間にさうさう御親切になさる必要はどこにもありません今後もつとぞんざいにとりあつかつてよろしい尤も親切にして頂けば嬉しい事は事實であります朝鮮の護符は奇拔ですね小生の友人、いつも裝幀をしてくれる小穴隆一と云ふ人が今脫疽(?)で順天堂へはひつてゐますからあの通り書いて送つてやらうと思つてゐます年末或は年始に何處かへ湯治に行く筈ですが目下は寢たり起きたりぶらぶらしてゐますそれからあなたの句は進步しましたね萬年靑の句などは素直でよろしい小生もこの頃一二作りました次手にあなたへ吹聽します
夜坐
炭取の炭ひびらぎぬ夜半の冬
炭取の底にかそけき木の葉かな
閑庭
初霜や藪に隣れる住み心(モウ一度書キマシタ 入レナイトサビシイカラ)[やぶちゃん注:これはポイント落ちの二行割注。]
時雨るゝや犬の來てねる炭俵
送別
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな
長﨑より目刺をおくり來れる人に
凩や目剌にのこる海のいろ
途中紙の切れてゐるのはそこだけ書き損じたのです失禮ですが御ゆるし下さい唯今北海道のホツキ貝と云ふものを食ひ、胃の具合怪しければ早速頂戴の藥をのんだところ
卸興
凩や藥のみたる腹工合
十二月十五日 芥川龍之介
眞野友二郞樣
二伸 數日前の小生の家族の健康如左
主人 神經衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進、
妻 產後、脚氣の氣味あり
長男 虫齒(寂齦に膿たまる)
次男 赤ン坊ナリ 消化不良
父 膽石、胃痙攣
母 足頸の粘液とかが腫れ入り、切開す
これでは小說どころではないでせう
十七日 我 鬼
眞 野 樣
[やぶちゃん注:「萬年靑」「おもと」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica 。本邦には古くから西日本を中心に自生する。ウィキの「オモト」を参照されたい。
「ホツキ貝」斧足綱異歯亜綱バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense の北海道での異名。現行、異名の方が流通では圧倒的に幅を利かせている。「柳田國男 蝸牛考 初版(15) 語音分化」の私の注の「松毬」を参照されたい。芥川龍之介にも言及してある。]
大正一一(一九二二)年十二月二十九日・田端発信(推定)・香取先生・きのふの次の日 芥川龍之介
拜啓
咋夜は失禮いたしました明星まゐりましたから御目にかけます それからいつぞやの金鼓も抄しておめにかけます
森さんの歌は下手ですね 僕の方がうまいでせう すなはち
秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらき居り吳竹のうらに
御一笑下さい
臘末九 我 鬼 生
香 取 先 生 侍史
今昔本朝之部卷九讚岐國多度郡五位聞法師卽出家語第十四
其の後入道着たりける水干袴に布衣(ホイ)袈裟など替つ、持つたる弓胡錄(籙ノ誤か)などに金鼓を替へて、衣袈裟直く着て、金鼓を頭に懸て云く「我れは此より西に向て、阿弼陀佛を呼び奉て、金(カネ)を叩て答へ給はむ所まで行かむとす云々
コレハ殺生好キノ武士ガ講師の說敎ヲキキ忽チ發心スル話デス
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。
「金鼓」「こんぐ」と読んでいよう。既出既注。「大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛」の私の注を参照されたい。
「森さん」森鷗外。
「今昔本朝之部卷九讚岐國多度郡五位聞法師卽出家語第十四」「卷九」は「卷十九」の誤り。同前で「大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛」の私の注を参照されたいが、そこで記した通り、これは芥川龍之介の「往生繪卷」(大正十年四月『國粹』発表)の原拠である。そこではスルーしたが、好きな一篇なので、ここで全文を示しておく。
*
讚岐國多度郡(たどのこほり)の五位、法(はふ)を聞きて、卽ち、出家する語(こと)第十四
今は昔、讚岐國多度の郡□□の鄕(さと)に、名は知らず、源大夫(ぐゑんだいぶ)と云ふ者、有りけり。心、極めて猛くして、殺生を以つて業(わざ)とす。日夜朝暮に山野に行きて、鹿鳥(しかとり)を狩り、河海に臨むで、魚を捕る。亦、人の頸を切り、足手を折らぬ日は、少くぞ、有ける。亦、因果を知らずして、三寶を信ぜず、何(いか)に況や、法師と云はむ者をば、故(ことさ)らに忌みて、當りにも寄らざりけり。此(かく)の如くして、惡しく奇異(あさま)しき惡人にて有りければ、國の人も、皆、恐れてぞ有りける。
而る間、此の人、郞等(らうどう)四、五人許りを相ひ具して、鹿共、多く取りせて、山より返る道に、堂の有ける。人、多く集まりけるを見て、
「此れは何事爲(す)る所ぞ。」
と問ければ、郞等、
「此れは堂也。講を行にこそ侍るめれ。『講を行ふ』と云ふは、佛經を供養する事也。哀れに貴(たふと)く侍る事也。」
と云ひければ、五位、
「然る態(わざ)を爲(す)る者有りとは、髴(ほのか)に聞きけれども、此(か)く目近くは見ざりつ。何なる事を云ふぞ。去來(いざ)、行きて聞かむ。暫く留(とど)まれ。」
と云ひて、馬(むま)より下(お)りぬ。
然(しか)れば、郞等共も、皆、下りて、
『此は何(いか)なる事せむずるにか有らむ。講師(かうじ)なむ、掕(れう)ぜむずるにや[やぶちゃん注:酷い目に会わせようとするのか?]。不便(ふびん)の態(わざ)かな。』
と思ふ程に、五位、只、步(あゆ)びに步び寄りて、堂に入れるを、此の講の庭に有る者共も、此(かか)る惡人の入り來れば、
『何なる事せむずるにか有らむ。』
と思ひて、恐(お)ぢ騷ぐ。恐れて、出でぬる者も有り。
五位、並み居たる人を押し分けて入れば、風に靡く草の樣に、靡きたる中を、分け行きて、高座の傍らに居(ゐ)、講師に目を見合はて云はく、
「講師は何なる事を云ひ居たるぞ。我が心に『現(げ)に』と思む許りの事を云ひ聞かせよ。然(さ)らずは、便無(びんな)かりなむ者ぞ。」
と云ひて、前に差したる刀を、押し𢌞(めぐ)らして居たり[やぶちゃん注:威嚇のために、もてあそんで振り回しているのである。]。
講師、
『極めて不祥(ふしやう)にも値(あ)ひぬるかな。』
と恐ろしくて、云ひつる事の終始も思えで、
『引き落とされぬ。』
と思ひけるに、智惠有りける者にて、
『佛け、助け給へ。』
と念じて、答へて云はく、
「此(ここ)より西に、多くの世界を過ぎて、佛、在(まし)ます。阿彌陀佛と申す。其の佛、心廣くして、年來(としごろ)、罪を造り、積みたる人なりとも、思ひ返して、一度、『阿彌陀佛』と申しつれば、必ず、其の人を迎へて、樂しく微妙(めでた)き國に、思ひと思ふ事、叶ふ身と生れて、遂には、佛(ほとけ)となむ成る。」
と。
五位、此れを聞きて云はく、
「其の佛は、人を哀れび給ひては、我をも惡(にく)み給はじなむ。」
講師の云はく、
「然也(さなり)。」
と。
五位の云はく、
「然(さ)らば、我れ、其の佛の名を呼び奉らむに、答へ給ひてむや。」
と。
講師の云はく、
「其れも、實(まこと)の心を至(いた)して呼び奉らば、何どか答へ給はざらむ。」
と。
五位の云く、
「其の佛は、何(いか)なる人を吉(よし)とは宣ふぞ。」
と。
講師の云はく、
「人の、他人(ことびと)よりは、子を哀れと思ふ如くに、佛も、誰(たれ)をも、※(にく)[やぶちゃん注:「※」=「忄」+「惡」。]しと思ぼさねども、御弟子(みでし)に成りたるをば、今、少し、思ひ給ふ也。」
と。
五位の云はく、
「何(いか)なるを弟子とは云ふぞ。」
と。
講師の云はく、「今日の講師の樣に、頭(かしら)を剃りたる者は、皆、佛の弟子也。男も女も御弟子なれども、尙、頭を剃れば、增(まさ)る事也。」
と。
五位、此れを聞きて、
「然(さ)は、我が此の頭、剃れ。」
と云ふ。
講師、
「哀れに貴き事には有れども、只今、俄かに何(いか)でか其の御頭(おほむかしら)をば剃らむ。實(まこと)に思ぼす事ならば、家に返りて、妻子・眷屬などに云ひ合せて、萬(よろづ)を拈(したた)めて[やぶちゃん注:万事、俗世のことを処理致して。]、剃り給べき。」
と。
五位の云く、
「汝ぢ、『佛の御弟子』と名乘りて、『佛は虛言(そらごと)無き』と云ひて、『御弟子に成りたる人をば哀れと思ぼす』と云ひて、何(いか)に忽ちに舌を返して、『後(のち)に剃れ』とは云ふぞ。糸(いと)當らぬ事也。」
と云ひて、刀を拔きて、自(みづか)ら髻(もとどり)を根際(ねぎは)より切(た)つ。
此(かか)る惡人、俄かに此く髻を切りつれば、
『何なる事、出で來たらむ。』
とて、講師も周(あわて)て、物も云はず、其の庭に居たる者共も、喤(ののし)り合ひたり。
亦、郞等共、此れを聞きて、
「我が君は何なる事の御(おは)するぞ。」
とて、太刀を拔き、箭(や)を番(つが)ひて、走り入り來たり。
主(あるじ)、此れを見て、大きに音(こゑ)を擧げて、郞等共を靜めて云はく、
「汝等は我が吉(よ)き身と成らむと爲(す)るをば、何(いか)に思ひて、妨(さまた)げむとは爲るぞ。今朝(けさ)までは汝等が有る上にも、『尙、人をもがな』と思ひつれども、此より後(のち)は、速かに、各(おのおの)、『行かむ』と思はむ方に行き、『被仕(つかはれ)む』と思はむ人に仕はれて、一人も我れには副(そ)ふべからず。」
と。
郞等共の云はく、
「何(いか)に、此(かか)る態(わざ)をば、俄かに成さしめ給へるぞ。直(ただ)しき心にては、此る事、有らじ。物の託(つ)き給ひにけるにこそ有りけれ。」
と云ひて、皆、臥し丸(まろ)び、泣く事、限り無し。
主、此れを止(とど)めて、髻を切りて、佛に奉りて、忽ちに湯を涌(わか)して、紐(ひも)を解きて、押し去(の)けて、自ら頭を洗ひて、講師に向ひて、
「此れ、剃れ。剃らずば、惡しかりなむ。」
と云へば、
『實に此許(かばか)り思ひ取りたらむ事を、剃らずば、惡しくも有けむ。亦、出家を妨げば、其の罪、有りなむ。』
と旁(かたがた)に恐れ思ひて、講師、高座より下(お)りて、頭を剃りて、戒を授けつ。
郞等共、淚を流して、悲しむ事、限り無し。
其の後、入道、着たりける水干袴に、布衣(ぬのぎぬ)[やぶちゃん注:麻布などで作った粗末な着衣。]・袈裟など、替へつ。持りたる弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う武具。]などに、金鼓(こむぐ)[やぶちゃん注:]を替へて、衣・袈裟直(うるは)しく着て、金鼓を頸に懸けて云はく、
「我れは、此より、西に向て、阿彌陀佛を呼び奉りて、金(かね)を叩きて、答へ給はむ所まで、行かむとす。答へ給はざらむ限りは、野山にまれ、海河(うみかは)にまれ、更に、返るまじ。只、向きたらむ方に行くべき也。」
と云ひて、音(こゑ)を高く擧げて、
「阿彌陀佛よや、おい、おい、」
と叩きて行くを、郞等、共に行かむと爲れば、
「己等(おのれら)は、我が道、妨げむと爲るにこそ、有りけれ。」
と云ひて、打たむと爲れば、皆、留りぬ。
此(か)く西に向きて、
「阿彌陀佛。」
を呼び奉りて、叩きつつ行くに、實に云ひつる樣に、深き水とても、淺き所を求めず、高き峰とても、𢌞(めぐ)りたる道を尋ねずして、倒(たふ)れ、丸びて、向きたるままに行くに、日暮(ひぐ)れて、寺の有るに行き着きぬ。
其の寺に有る住持の僧に向ひて云く、
「我れ、此く思ひを發(おこ)して、西に向きて行くに、喬平(そばひら)を見ず[やぶちゃん注:脇目も振らずにやってきた。]。況や、後(うしろ)を見返らずして、此(ここ)より西に高き峰を超えて行かむとす。今、七日(なぬか)、有りて、我が有らむ所を、必ず、尋て來たれ。草(くさ)を結びつつぞ、行かむと爲(す)る。其れを見て、注(しるし)として來たるべし。若し、食ふべき物や有る。夢許り、得(え)しめよ。」
と云ひければ、干飯(ほしいひ)を取り出だして與へたれば、
「多しや。」
と云ひて、只、少しを、紙に裹(つつ)みて、腰に挾み、其の堂を出でて行きぬ。
住持、
「既に夜に入りぬ。今夜(こよひ)許りは、留まれ。」
と云ひて、留(とど)むと云へども、聞き入れずして、行きぬ。
其の後(のち)、住持、彼(かれ)の敎への如く、七日と云ふに、尋ねて行くに、實に草を結びたる。
其れを尋ねて、高き峰を超えて見るに、亦た、其(そこ)よりも高く嶮(さが)しき峰、有り。
其の峰に登りて見れば、西に海、現(あらは)に見ゆる所、有り。
其の所に、二胯(ふたまた)なる木、有り。
其の胯に、入道、登いて居(ゐ)て、金を叩きて、
「阿彌陀佛よや、おい、おい、」
と、呼び居たり。
住持を見て、喜びて云く、
「我れ、『尙、此より西にも行て、海にも入なむ』と思ひしかども、此(ここ)にて、阿彌陀佛の答へ給へば[やぶちゃん注:お答え下さったので。]、其れを、呼び奉り居たる也。」
と。住持、此れを聞きて、
『奇異(あさま)し。』[やぶちゃん注:ここは信じられずに不審に思っての意。]
と思ひて、
「何(いか)に答へ給ふぞ。」
と問へば、
「然(さ)は、呼び奉らむ。聞け。」
など云ひて、
「阿彌陀佛よや、おい、おい、何(いづ)こに御(おはし)ます、」
と、叫べば、海の中に、微妙(みめう)の御音(おほむこゑ)有りて、
「此(ここ)に有り。」
と、答へ給ひければ、入道、
「此れを聞くや。」と云ふ。
住持、此の御音を聞きて、悲しく[やぶちゃん注:ここは、広大無辺の御慈悲に際会して激しく心打たれたの意。]貴くて、臥し丸び、泣く事、限り無し。
入道も、淚を流して、云はく、
「汝ぢ、速かに返るべし。今、七日、有りて、來たりて、我が有樣を見畢(みは)てよ。」
と。
「物や欲(ひ)しきと思ひて、干飯を取りて持ちたり。」
と云へば、
「更に物欲(ものほ)しき事無くて、未だ有り。」[やぶちゃん注:先に呉れたものを未だ持っておる。]
と。
住持、見れば、實に有りし如くにて、腰に挾みて、有り。
此くて、後の世[やぶちゃん注:後世(ごぜ)。往生後の来世。]の事を契り置きて、住持は返りぬ。
其の後、七日有りて、行きて見れば、前の如く、木の胯に西に向きて、此の度は、死にて、居たり。
見れば、口より、微妙(めでた)く鮮かなる蓮華(れんぐわ)一葉(ちえふ)、生(お)ひたり。
住持、此れを見て、泣き、悲しび、貴びて、口に生ひたる蓮華をば、折り取りつ。
『引きもや、隱さまし。』[やぶちゃん注:御遺体を埋葬してやろうか。]
と思ひけれども、
『此(かか)る人をば、「只、此(か)くて置きて、鳥獸(とりけだもの)にも噉(く)はれむ」と思ひけむ。』[やぶちゃん注:やや意味がとり難いが、これは、「このような阿弥陀如来の慈悲に直接に触れた尊きお人は、御自身が、『ただ、そのままにしておいて貰って、鳥や獣たちに食われて消え去ろう』とお思いになったに違いない。」の意と私はとる。]
と思ひて、動かさずして、泣々(なくな)く、返りにけり。
其の後、何(いか)にか成りにけむ、知らざりけり。
必ず、往生したる人にこそ有(ある)めれ。
住持も、正(まさ)しく阿彌陀佛の御音(おほむこゑ)を聞き奉り、口より生ひ出でたる蓮華を取りてければ、定めて、罪人には非ずと思ぼゆ。
其の蓮華は、何(いか)にか成りにけむ、知らず。
此の事、糸(いと)昔の事には非ず。□□の比の事なるべし。
世の末[やぶちゃん注:末法の時代。本邦では永承七(一〇五二)年に入ったと考えられていた。]なるとも、實の心を發(おこ)せば、此(か)く貴き事も有る也けり、となむ語り傳へたるとや。
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