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2021/08/31

芥川龍之介書簡抄133 / 大正一五・昭和元(一九二六)年五月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年五月一日消印・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・五月一日 鵠沼西海岸塚本八洲氣附 芥川龍之介(葉書)

 

拜啓、君或は君の奧さんに頂戴した栗は非常にうまかつた。但し食ひすぎて胃中の酸が殖ゑ、翌朝非常に難流した。健全なる君はあれを試みて見給へ。實にうまいよ。ここにゐると割合に好い。齋藤溥士の診察によれば血壓百十故海岸も差支へなきよし。但しまだ疲れ易いのに弱る。目下散藥、水藥、注射藥幷用。定刻散步。屁も餘り出ない。

 

 

大正一五(一九二六)年五月九日・鵠沼発信・山本有三宛

 

冠省。御手紙ならびに高著ありがたう。あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり。頓首

 五月九日   鵠沼にて   芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「高著」山本有三の直近の刊行は大正十五年三月刊の「途上」。確認したところ、新全集の宮坂年譜でそう指示してあった。

「お禮」筑摩全集類聚版脚注に、『興文社から出した「近代日本文芸読本」に採録した作家へのお礼のこと』とある。

「口數」「くちすう」。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」によれば、「近代日本文芸読本」の収録作家は百十九人(収録作品は百四十八篇(短歌・俳句は数首・数句を纏めて一篇と数えて))に及んだ。同年譜のこの日の条に、『編集を務めた『近代日本文芸読本』で儲けて書斎を建てた、などという妄説に悩み、三越の「十円切手」を、遺族も含め、作品収録作家一一九名全員に分配したものと思われる』とある。

「義弟」塚本八洲。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十一日・鵠沼発信・平木二六宛(絵葉書)

おん句拜見、皆々近頃のおん句よりも面白く存候小生も句あり

   さみだれや靑柴つめる軒の下

   うららかに毛蟲わたるや松の枝

    二十一日       龍 之 介

 

[やぶちゃん注:平木二六(ひらきにろく 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人。東京市日本橋区横山町生まれ。東京府立三中卒。室生犀星を知り、詩作を始め、この大正十五年元日に犀星の序文と、芥川龍之介の跋文をつけた詩集「若冠」を発表し、同年、中野重治・堀辰雄らと『驢馬』を創刊した。戦後は『日本未来派』同人。ペン・ネームは「平木二六(じろう)」。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十二日(消印)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木ふさ樣(絵葉書)

 

又々栗を頂戴し何とも御禮の申上げやう無之候。佐々木君と二人にて仲よく食べ候間左樣御承知下され度候。今度は食ひすぎぬやうに氣をつけ居り候。頓首

 房子女史十才の像[やぶちゃん注:底本にはここに『〔繪葉書の草原に坐せる少女の姿を指す〕』と記す。絵は載らないが、市販のもので、芥川龍之介の自筆の絵ではないと推定される。]

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日頃に夫佐佐木茂索が、房子からとして栗を持って訪問したとある。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十四日・鵠沼発信・山本有三宛

 

拜啓、手紙をありがたう。そんなに心配して貰ふと、恐縮に堪へない。しかし吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる勇氣があればそれはもう病氣でも何でもない――と云ひたくなる位だ。中々そんな勇氣は出ない。しかし藥や溫灸はやつてゐる。それから何月號といふ約束はおやめ[やぶちゃん注:ママ。]にした。唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる。右御禮かたがた御返事まで。

    五月二十四日     芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「そんなに心配して貰ふ」例の「近代日本文芸読本」の一件。

「吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる」不詳。山本のある仕事場への行き来を指しているか、或いは、大正八(一九一九)年三月に再婚したはな(旧姓井岡)とのエピソードかも知れない。よく判らない。

「唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる」不詳。以降のこの年の発表作には戯曲やレーゼ・ドラマはない。但し、翌年まで広げて、シナリオ形式も含めるならば、翌年四月一日に発表される素敵に慄っとする「誘惑―或シナリオ―」(『改造』)と、私の特に偏愛する「淺草公園―或シナリオ―」(『文藝春秋』)がある。リンク先は孰れも私のもの。前者はオリジナル詳細注附き。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛

 

冠省御手紙拜見仕り候。上京するならば五月二十五日より六月中旬までに來給へ。その後は東京にゐないかも知れない。君の字變に角張つて來て、どうも愉快に眺められない。神經衰弱には毒だよ。今度からはもう少し柔かにしてくれ給へ。頓首

    二十五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

 

[やぶちゃん注:この手紙については、既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十九日・きくや二六君坐敷にて 芥川龍之介

 

冠省今平木二六の下宿に來てゐる 日本詩人所載野口米次郞の會の事を書いた萩原朔太郞君の文章を見て大いに感動した 敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ

     破調

   兎も片耳垂るる大暑かな

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月二十九日    龍 之 介

   室 生 犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:この芥川龍之介書簡の「敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ」は、龍之介の書簡中の一句として、しばしば引用される有名なものである。新全集の宮坂覺氏の年譜(或いはこの言い方を五月蠅く思われるかも知れない。しかし、私には必要なことなのである。私は、その新全集の年譜のコピーに拠って今まで語っているのであるが、私は別に一九九三年岩波書店刊の宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 附年譜」を持っているからである。そこには、新全集版のそれの原型となった、宮坂氏渾身の年譜があるからである。なお、恐らくこれを新し買おうという人は、まず、おるまい。何故なら、その「芥川龍之介全集」とは正字版の岩波旧全集を指すからである。しかし、岩波旧全集に拘る私は、この本に今も助けられている。この場を借りて宮坂覺氏に御礼申し上げるものである)によれば、この日の条に、『室生犀星に、萩原朔太郎「中央亭騒動事件」』(『日本詩人』大正十五年六月号の『靑椅子』欄初出。正確には表題は下に『(實錄)』が附く。なお、月刊雑誌等が実際の発行日よりもフライングして発行されるのは、今も昔も同じである)『を読み、感動したことを伝える。この事件は』、この五月十一日に『に行われた野口米次郎の『日本詩集』出版記念会』(以前からずっと気になっているのであるが、あらゆる研究書や年譜(筑摩書房の「萩原朔太郎全集」の年譜でも)でこの出版会を「『日本詩集』出版記念会」とするのだが、野口に「日本詩集」という詩集はない。これは、この日に、次号の「詩話會」の機関誌『日本詩人』の、この五月号が「野口米次郞記念號」として特集扱いで発行され、同時に詩人としての生活三十周年と満五十歳(野口は明治八(一八七五)年十二月八日生まれ)の誕生を祝賀する会が東京丸ノ内にあった「中央亭」というレストランで「詩話會」主催で多くの詩人らを集めて開かれたのである)『に出席した朔太郎が絡まれているのを見て』(正確には絡まれていると誤認して、である)『犀星が親友の危機と』早合点し、『椅子を振り回し』て、『加勢に駆けつけた』という一件である。この出来事は、萩原朔太郎の「中央亭騷動事件(實錄)」を読んで貰うに若くはない。「青空文庫」で、新字であるが、ここで読まれたい。因みに、そこでは朔太郎に絡んだかのように見えた、事件の発端の開いてしまった一人が、詩人岡本潤であったことも記されている。岡本潤(明治三四(一九〇一)年~昭和五三(一九七八)年)は本名保太郎で埼玉県生まれ。大杉栄・クロポトキンらのアナキズムに共鳴し、大正九(一九二〇)年に同年に結成された「日本社会主義同盟」に参加し、その頃から詩作を始めた。大正十二年には前衛詩運動に参加し、壺井繁治・萩原恭次郎らと、詩誌『赤と黒』を創刊した。昭和三(一九二八)年に処女詩集「夜から朝へ」を刊行、次いで昭和八年には第二詩集「罰当りは生きてゐる」を出したものの、発禁処分・押収となった。昭和一〇(一九三五)年十一月、治安維持法違反容疑逮捕され、翌年二月に釈放されるまで拘留された。昭和十一年一月に京都のマキノ正博による「マキノトーキー製作所」の陣容が発表されているが、岡本はその「企画部」のメンバーに名を連ねている。脚本を書いたようだが、当時のペン・ネームは不明で、同社は昭和十二年四月には解散している。昭和十五年に花田清輝らと『文化組織』を創刊、翌年には第三詩集「夜の機關車」を刊行、昭和十七年、大映多摩川撮影所に勤めている。戦後、敗戦から四ヶ月後の十二月二十七日公開の田中重雄監督の映画「犯罪者は誰か」の脚本家として「岡本潤」でクレジットされている。昭和二二(一九四七)年、アナキズムから共産主義へ転向している。

「きくや」不詳。可能性の一つとして、ひらがなの崩しで「ひらき」と書いたのを、編者が判読を誤った可能性がある。「飛」をもとにする「ひ」は「き」に、「良」をもとにする「ら」は「く」に似て見えるからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日・田端発信・薄田泣菫宛(転載)

 

拜啓過日は泣菫文集御惠投下され難有く存じます。裝幀が上等で紙が上等なのに驚きました。これからぼつぼつ拜見致します。なほちよつと鵠沼へ行つてゐた爲御禮狀が遲れ申譯なく存じて居ります

     鵠沼所見

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月三十日      芥川龍之介

   薄 田 樣

 

[やぶちゃん注:「泣菫文集」は大正十五年五月八日発行。無論、大阪毎日新聞社刊である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇視認出来る。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日」牛込區矢來町三新潮社氣附 木村毅樣・五月三十日 芥川龍之介

 

冠省。高著文藝東西南北頂戴いたし難有く存候。あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され恐縮に存候。Browning  Dramatic lyric が小生に影響せるは貴意の通りなり。これは報恩記のみならず「藪の中」に於ても試みしものに御坐候。尤も小生の南蠻小說などはいづれも餘り上出來ならず、唯小生はきりしとほろ上人傳だけは或は今でも讀むに足る乎と存じ居り候 頓首

    五月三十日       芥川龍之介

   木 村 毅 樣

 

[やぶちゃん注:「木村毅」(きむら き 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)は文学評論家・明治文化史研究家・小説家。岡山県勝南郡勝間田村(現在の勝田郡勝央町)生まれ。少年時代から文士を志し、『少年世界』や『文章世界』に投稿した。高等小学校卒業後、三年間、独学し、その後、早稲田大学英文科に入学、大正六(一九一七)年卒。当該ウィキによれば、『隆文館、次いで早稲田で同級だった植村宗一(直木三十五)らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も』詩人で宗教家であった宮崎安右衛門の「乞食桃水」や、宗教家西田天香「懺悔の生活」等のベストセラーを企画した。大正一〇(一九二一)年には、『『都新聞』に連載され』、『その後』、『私家版で書き継がれていた中里介山』の長篇時代小説「大菩薩峠」を『知り、出版を社長に提案し、宮崎安右衛門の紹介で介山と交渉して刊行したところ、大評判となった。関東大震災を機に』、『春秋社をやめ』、『評論』・『翻訳活動を行』うようになった。「小說硏究十六講」(大正一三(一九二四)年)は好評を博し、『川端康成に影響を与え、松本清張はこれを読んで小説家志望の念を固めた』という。『また』、『改造社の社長山本実彦』(さねひこ)『の依頼で』「現代日本文学全集」(大正一五(一九二六)年)を『編集し、その後』の『ブームとなる』所謂、「円本」の『嚆矢となった』(最後のそれは芥川龍之介が自死の前月まで宣伝講演で東北・北海道を巡回させられたそれである)。「明治文化研究会」『同人となり、のち第』三『代会長も務め』た。昭和三(一九二八)年には、『ヨーロッパへ渡り、デュマの遺跡探訪や、改造社の依頼でコナン・ドイルの翻訳権交渉なども行った』。小説・実録・『評論のほか、明治文化・文学を研究し』、『多数の著作を残す一方、日本フェビアン協会、労農党に参加。社会運動にも挺身した』。ここに出る「文藝東西南北」(大正一五(一九二六)年五月三十日刊)からの『明治・大正文学の研究は大きな業績で、この序文で内田魯庵は「木村君は東西古今に亘る多読家を以って知らる。就中明治文化に就いては夙に潜思して博渉最も力む。日に古書肆を採訪して露店までも漁って倦まず、往々意外の逸書を掘出して忘れられたる資料を捜り当てるあて第六感を持つてをる」と評された。また尾崎秀樹は「明治・大正文学研究をそれぞれの時代状況や社会の推移と照応させ、明治文化の全体像の中に位置付けようとした」「東西文化・文学との比較研究」「資料渉猟に基づく実証主義的な研究態度」「文学の社会的研究」をその評価、特色として挙げている』。戦後は、『早稲田大学百年史編纂委員、神戸松蔭女子学院大学教授を勤め』た、とある。なお、岡山県勝田郡勝央町(しょうおうちょう)にある勝央美術文学館の「文豪からの手紙」の「芥川龍之介と木村毅」のパンフレットPDF)が見逃せない。芥川龍之介の木村宛書簡(本書簡のそれもある)の写真も載る。必見!

「あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『『文芸東西南北』所収の「南蛮文学概説」で、木村は「南蛮小説」「芥川氏の独擅場」と評している』とある。

「Browning  の Dramatic lyric」イギリスの詩人ロバート・ブラウニング(Robert Browning 一八一二年~一八八九年)。本邦では、上田敏の訳詩集「海潮音」(明治三八(一九〇五)年)の中で愛誦される詩の一つにブラウニング「春の朝(あした)」がある。当該ウィキを見られたいが、そこには、ここで龍之介自身が記しているように、『芥川龍之介は自ら「ブラウニング信者」と称し、ブラウニングの』「指輪と本」を『意識的に下敷きにして』、かの「藪の中」(リンク先は私の古い電子テクスト。私の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』もお勧めである)『を書いたとされる』とある。

「報恩記」大正一一(一九二二)年四月『中央公論』初出。「切支丹物」。前掲書の石割氏の注に、『木村は「報恩記」に「ブラウニングの劇的抒情詩の様式の影響」を見た』と記され、また、『木村は、芥川の南蛮小説で「第一に好きな」作品とした』とある。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。「青空文庫」のこちらで、新字であるが、読める。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟

 

   ○古狸の筆蹟

世に奇事怪談をいひもて傳ふること、多くは狐狸のみ。貒、狢、猫の屬ありといへども、これに及ばず。思ふに狐の人を魅(バカ)す事、甚、害あり。狸の怪は、しからず。かくて古狸の、たまたま書畫をよくすること、世人の普くしるところにして、已に白雲子の蘆雁の圖は、寫山樓の藏にあり、良恕のかける寒山の畫は、蘐園主人、示されき。その縮本、今、載せて「耽奇漫錄」中に收めたり。これまさしく老狸の囮けるものにして、諸君と共に目擊する所なり。しかるに、その書をかけることを、予、甞て聞けるは、武州多摩郡國分寺村、名主義兵衞といふ者の家に、狸のかきたりし筆跡あり。三社の託宣にて、篆字、眞字、行字をまじへ、文章も違へる所ありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし、これは狸の、僧のかたちに化けて、此家に止宿し、「京郡紫野大德寺の勸化僧にて無言の行者」と稱し、用事は、すべて、書をもて、通じたり。邊鄙の事故、有り難き聖のやうにおもひて、馳走して留めたり、といふ。その後、武藏の内にて、犬に見咎められて、くひ殺され、狸の形をあらはしゝとのことなりし、とぞ。その頃、此事を人々にも語りしに、友人鹿山の、「同日の談、あり。」とて、いへらく、「予、往年、鎌倉に遊びしとき、川崎の驛に止宿し、問屋某の家に藏する所の『狸の書』といふものを見たり。『不騫不崩南山之壽』と書けり。その書體、八分にもあらず。眞行にもあらず。奇怪、言ふべからず。いかにも『狸の書』といふべし。問屋の話に、『鎌倉の邊の僧のよし』にて、其あたりを勸化せし事、五、六年の間なり。果は、鶴見・生麥の邊にて犬に食はれしよし、此事は、さのみ、久しき事にあらず。予が遊びし十年も前の事なり。」といふ。此二條、その年月を詳にせずといへども、今その墨跡の、現に、その家に存したれば、疑ふベからず。

[やぶちゃん注:以下の一段は、底本では全体が二字下げ。]

因に云、「五雜俎」曰、『狐陰類也。得陽乃成。故雖牡狐必托之女以惑男子也。』といへり。吾邦にも、むかしより、とかくに狐は婦人に化けたるためし、多かり。しかるに、狸は、いかなる因緣かありけん、茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや。

[やぶちゃん注:再び行頭に戻る。]

又、いとちかき年に、一奇事あり。或人の筆記に、文化四年丁卯、ある人のもとにて、狸のかける書といふものを見たり。

此書をもらひし書通、あり。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「宇兵衞樣」まで全体が二字下げ。]

此間、御話申上候たぬきの事、被仰下致承知候。則書付入御覽候。乍然是は此方にて願

 

Tanukinohisseki

 

[やぶちゃん注:底本の図を底本と同じ位置に配した。白抜きの大きな文字は恐らくは「竹」の崩しである(後に電子化する著作堂馬琴の附記を参照)。左下に「万十才」或いは「百十才」(後者か)「田ぬき」とある。長寿を言祝ぐものか。]

 

掛致候間、願之叶候と申事にも無之、あの方へ參り、直に、たぬきへ願申候と申事に御座候間、此段、篤と御相談被成候て、御願かけ可被成候。委細は左之通御座候。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

右之所に御座候。成田へ御參り候道より、餘ほどより候由、江戶より、廿二、三里、御座候由、成田之道にて承り候得共、人々存罷在候よし、

 先方へ參り候ても、みだりには、たぬきに逢候事、出來不申候。

  江戶藥硏ぼりにて みの田吉右衞門當時隱居 有甫

右之仁、如何の譯やら、たぬきと懇意之由。下谷之去る御屋敷方より、先日、人被遣候節、「右有甫より、手紙もらひて參り候。」と申事、御座候。是は、只一通り見物に參るにて、願かけには無御座候。咄之通、至て、奇怪之咄、御座候。近所之者抔は「病氣。」と申し、「願ひ參候ものも、見かけ候。」と申事故、御人にても、被遣候はゞ、右之有甫より手紙もらひ不申候而者、陣屋之事に御座候間、内へは入申間敷被存候。外に餘り知れ不申樣致し候よしに付、江戶より參候と申候而者、中々、たぬき殿へ逢せ候事、出來間敷候間、此段、態々、御考、御願かけ可被成候、やがて、神に祭り候と申事にて、「實見大明神」と申名を付候て、祭り可申と申事之由、咄承り申候。

 眞に右之通、御座候。右之名にて願掛可被成候。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

[やぶちゃん注:次の段は行頭から。]

右一條、いと近き事ながら、世上に知らるゝを嫌ひて、深く祕めかくしゝにや。噂をだに聞かざりし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、全体が最後まで二字下げ。]

附けて云、中橋にすめる醫生の、いとも、狸を好める癖ありて、みづから、名を「狸庵」としも、號のれる[やぶちゃん注:「なのれる」。]人ありて、書に、畫に、何くれのものにても、「狸。」とだに、いへば、求め得て、藏め、もたるよし、聞けり。且、「そのこと、しるしたる隨筆めくもの、あり。」といへど、予は、いまだ見るに及ばず。これらの事も載せたりや、しらず。

   文政乙酉[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]五月朔     山崎美成記

[やぶちゃん注:「貒、狢」先行する「むじな・たぬき」の私の注を参照されたい。

「白雲子」不詳。

「寫山樓」南画家谷文晁(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の号。

「良恕」後陽成天皇の弟で天台座主(就任は寛永十六年)となった良恕入道親王(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)和歌・書画に優れた。

「寒山の畫」伝承で実は狸が良恕に化けて描いたとする「寒山図」があった記録がある。サイト「浮世絵文献資料館」の「古画備考」こちらの「良恕」の条を見られたい。

「蘐園」(けんゑん)は荻生徂徠の別号。

『「耽奇漫錄」中に收めたり』これ(国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該図)。次の頁に短い説明が載るが、前注のリンク先にある「江州相原郡今益田村」(旧近江国野洲郡相原庄で、現在の滋賀県野洲市大篠原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を中心とした一帯か。しかし「今益田」も「上野原」も見当たらない)が一致する。こ奴も、以下のケースと同じく、後に、その村の近くの「上野トイフ原ニテ大」(=犬)「ニ喫殺」(くひころ)「サレテ其古狸ノカセシヿ」(こと)「ヲ知ルト云」とある。

「武州多摩郡國分寺村」現在の東京都国分寺市

「三社」伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社或いは春日大社。別に、「さんじや」で東京都台東区浅草の浅草神社の俗称。同神社は江戸時代まで「三社権現」「三社明神」と称していた。

「友人鹿山」不詳。

「不騫不崩南山之壽」所謂、「南山之壽」(なんざんのじゅ)。「南山」は終南山(陝西省にあり、一般的には秦嶺山脈の中央附近を指す。道教の発祥の地の一つであり、仏教の南山律宗・華厳宗・三論宗の発祥の地でもあって、宗教を超えた霊地として知られる)その終南山が永久に変らないように、「長寿がいつまでも続くことを願う」語とされる。原拠は「詩経」の「天保」の一節「如南山之壽、不騫不崩」(南山の壽のごとく、騫(か)けず、崩れず。)に基づく。「騫」はここでは「缺」の意。

「八分」(はつぷん(はっぷん))で、漢字の書体の一種の名である「八分体」。隷書の一種で、漢代に蔡邕(さいよう)が、或いは、秦代に王次仲が創り出したとされる。その書体が「八」の字が分散しているように見えるところから名づけられたとも、また、篆書が二分ほど、隷書が八分ほど混ざった書体であることから名づけられたとも言う。「八分字(はふじ)」「八分書」「八分体」とも呼ぶ。

「眞行」「眞」は楷書、「行」は行書。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻九「物部一」の以下の一節の部分。

   *

狐千歲始與天通、不爲魅矣。其魅人者、多取人精氣以成内丹。然則其不魅婦人、何也。曰、「狐、陰類也。得陽乃成。故雖牡狐、必托之女。以惑男子也。然不爲大害、故北方之人習之。南方猴多爲魅、如金華家貓、畜三年以上、輒能迷人、不獨狐也。

   *

この引用部は「狐は陰の類なり。陽を得て、乃(すなは)ち、成れり。故に、牡狐と雖も、必ず、之れ、女に托して、以つて、男子を惑はすなり。」であろう。

「茂林寺の守鶴」このために、急遽、本早朝より六時間ほどかけて「甲子夜話 卷三十五 十五 分福茶釜」を電子化注したので、そちらを見られたい。

「文化四年丁卯」一八〇七年。本発表は文政八(一八二五)年五月一日。

「書通」(しよつう)は「書簡の遣り取り」の意。

以下の地下文書の書簡は、一部が非常にまどろっこしく、意味がとり難い部分があるので、書き直しておく。書簡の切れと思う箇所に「*」を入れた。

   *

此の間、御話申し上げ候ふ「たぬき」の事、仰せ下されしは、承知致し候ふ。則ち、書付、御覽に入れ候ふ。然りながら、是れは、此の方にて、願(ぐわん)掛け致し候ふ間、之れ、願ひ叶ひ候ふと申す事にも、之れ、無く、あの方へ參り、直(ぢき)に、「たぬき」へ願ひ申し候ふと申す事に御座候ふ間、此の段、篤(とく)と御相談成され候ふて、御願(ごくわん)かけ成らるべく候ふ。委細は左の通りに御座候ふ。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

   *

この「香取郡大貫村」は現在の千葉県香取郡神崎町(こうざきまち)大貫。「忰」は猿山源兵衛の「せがれ」。若くて、見習い中なのであろう。「藤堂和泉守樣御陣屋」とあるのは、芭蕉に因みある伊賀国の津(藤堂)藩は、飛び地領として、元和三(一六一七)年に下総国香取郡の十四ヶ村三〇〇〇石を与えられていたことによる出先役所である。

   *

右の所に御座候ふ。成田へ御參り候ふ道より、餘ほどより候ふ由、江戶より、廿二、三里、御座候ふ由、成田の道にて承り候得(さうらえ)ども、人々、罷り在り存じ候ふよし。

 先方へ參り候ふても、みだりには、「たぬき」に逢ひ候ふ事、出來申さず候ふ。

  江戶藥硏ぼりにて みの田(みのだ)吉右衞門 當時 隱居 有甫(いうすけ)

   *

右の仁(じん)、如何(いかなる)の譯(わけ)やら、「たぬき」と懇意の由。下谷の、去る御屋敷方より、先日、人遣はされ候ふ節、「右、有甫より、手紙、もらひて參り候。」と申す事、御座候ふ。是れは、只、一通り、見物に參るにて、願かけには御座無く候ふ。咄(はなし)の通り、至つて、奇怪の咄、御座候ふ。近所の者抔は、「病氣。」と申し、「願ひ參り候ものも、見かけ候ふ。」と申す事故(ゆゑ)、御人にても、遣はされ候はゞ、右の有甫より、手紙もらひ申さず候ふては、陣屋の事に御座候ふ間、内へは入れ申すまじく存じ候ふ。外(そと)に餘り知れ申さず樣(やう)致し候ふよしに付き、「江戶より參り候」と申し候ふては、中々、「たぬき殿」へ逢せ候ふ事、出來まじく候ふ間、此の段、態々(わざわざ、御考へ、御願(ぐわん)かけ成らるべく候ふ。「やがて、神に祭り候ふ。」と申す事にて、『「實見大明神」と申す名を付け候ふて、祭り申すべし。』と申す事の由、咄、承り申し候。

 眞に右の通り、御座候。右の名にて、願掛け、成らるべく候ふ。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

   *

「中橋」(なかばし)は恐らく、日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、安永三(一七七四)年には既に埋め立てられて「中橋広小路」という町となっていた。『盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集ま』っていた場所という。現在の八重洲通りと中央通りの交差する附近こちらの解説に拠った)。]

甲子夜話 卷三十五 十五 分福茶釜

 

[やぶちゃん注:本話は、現在、電子化注の作業中である『曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟』(山崎美成の発表)の「茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや」の注を附すに、こちらを電子化するに、如くはなし、と考えたので、遙かなフライングであるが、電子化することとした。「つぶやき」も何時もと異なり、詳細な注とした。

 

35-15 分福茶釜

「池北偶談」に、僧の鶴に化して飛去しこと見ゆ。吾國にも上野の茂林寺にて貉の僧となりて、後に飛去りしことあり。始は僧にもせよ鶴の飛去るは有るべきが、貉の飛ぶは何なることや。この貉は人と化して名を守鶴と云ける。鶴と云こと飛に緣なきにあらず。世に謂ふ分福茶釜と云ふは、この僧の嘗て所持の釜なり。緣記[やぶちゃん注:ママ。]あり。こゝに附出す。今館林侯の領邑なり。

南昌府驛路精舍。去ルコトㇾ江不ㇾ遠。溪水𢌞繞、修竹萬个、風景淸幽。康煕初忽偉丈夫。襆披シテ來宿。貌甚雄奇ナリ。居止旬日、語西音。自カラ風土、欲ㇾ爲ントㇾ僧。難ㇾ之。曰。吾橐中有百金。盡以相付セン。但仰饘粥。於ㇾ此レリト矣。乃從ㇾ之。遂落髮。每日粥飯外、卽面壁シテ不ㇾ語。或竟夕不ㇾ臥。亦不ㇾ經ㇾ禪。如クナルコトノㇾ是六七年、初メヨリ不ㇾ解ㇾ衣。或窃ルニ兩臂、皆有銅圏ㇾ之。莫ㇾ測ルコト也。一日與儕輩江上。有數人ㇾ舟ㇾ岸。望シテ、趨前シテ揖スレバ、則揮シテㇾ手ムルㇾ之耳。語移シテㇾ時。戊申歲、忽沐浴シテㇾ佛、遍レテ寺僧云。明日當シト二涅槃。衆皆不ㇾ信。至ㇾ期ㇾ臺ㇾ坐。少頃ニシテ火自鼻中、煙焰滿ㇾ空。有白鶴頂中、旋空際。久フシテㇾ之始。大衆皆見。周伯衡時南昌憲副。述其事化鶴ノ記

往昔茂林寺に守鶴といふ老僧あり。應永年中、開山禪師にしたがつて館林に來り、茂林寺十世岑月禪師まで隨從す。此僧有德碩學にて又能書なり。茂林寺七世月舟禪師の時會下の衆僧千人にこへ、法幢さかんなること他にたくらぶるなし。然るに茶釜小さくして茶行わたらざるをなげきければ、守鶴いづくともしらず一ツの茶がまをもち來り茶をせんじけるに、晝夜くめどもつきることなし。人々ふしぎにおもひ其故を問。守鶴曰。これは分福茶釜とて何千人にてのむとも盡ることなし。殊に此釜八ツの功德あり。中にも福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は、一生かはきのやまひを煩ふ事なく、第一文武の德を備へ、物にたいしておそるゝことなく、智惠をまし諸人愛敬をそへ、開運出世し、壽命長久なるべし。此德うたがふべからずとなり。それより年月をへ、十世岑月禪師の代にいたり、或時守鶴一睡のうち手足に毛はへ、尾見えたりなど、たれとなくさゝやきければ、守鶴早くさとり、方丈に向つて曰。我開山禪師に隨しより當山にあること百弐拾餘年になりぬ。然るに今化緣つきてしりぞき侍る。我誠は數千載をへたる貉なり。釋尊靈就山にて說法なし給ふ會上八萬の大衆のかずにつらなり、それより唐土へわたり、又日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せしより、今に至るまで由來の高恩言語にのべがたし。今はなごりをおしまんため、源平八嶋のたたかいを今あらはして見せ申さんと、一つの呪文をとなふるうちより、寺内たちまちまんまんたる海上となり、源氏は陸、平氏は船、兩陳[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。「陣」。]たがひにせめたたかふ有樣、恰も壽永の陳中にあるがごとし。人々ふしぎと見るうちに、あとかたもなくきえうせぬ。又釋尊靈山會上說法のていを拜せ申さん。しかしかりの戲れごとなり、とふとしと思ひ給ふことなかれとて、又も呪文をとなふれば、庭上梢紫雲たな引、空に花ふり音樂きこえ、七寶のようらく、千しゆのせうごん、ありありと釋尊獅子の寶坐に說法あれば、あまたの御弟子羅漢たち、かふべをうなだれ聽聞のてい、今見ることのありがたさよと、皆一同にふしおがめば、守鶴今はこれまでなりと、正體あらはし貉となりて飛さりぬ。方丈はじめ一山の僧俗、みどり子の母にわかるゝごとく、なげきしたはぬはなし。其のち神に祭り、守鶴宮とて一山の鎭守となり、今にれいげんあらたなり。扨守鶴能書なりといへども、筆跡皆うせて直堂の札のみのこれり。今打碑して人にあたふ。是をかけおけば、惡魔をはらひよろづの災難をのぞく。信ずべし。又茶釜の茶にてねり丸する守鶴傳の妙藥あり。その功神のごとし。右にいふごとく守鶴むじなとなり、飛さるといへども、まことは是羅漢の化現なりといふ。實に左もあるべし。百有餘年のうちの善功善行、子弟をおしへ、俗をみちびく。皆よのつねの人のよくおよぶところにあらず。とうとむべし、敬ふべし。

          上州館林靑龍山茂林寺

■やぶちゃんの呟き

「分福茶釜」(ぶんぷくちやがま)と茂林寺についての学術的考証は、榎本千賀(ちか)氏の論文「茂林寺と分福茶釜」(『大妻女子大学紀要』一九九四年三月発行)がよい。こちらからPDFでダウン・ロード出来る。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。

「上野の茂林寺」群馬県館林市堀工町にある曹洞宗青龍山茂林寺(もりんじ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。公式サイトはこちら。以下、当該話は、巻二十五の「化鶴(くわかく)」で維期文庫のこちらで電子化原文が確認出来る。また、「中國哲學書電子化計劃」のこちらでは影印本の当該箇所が視認出来る。静山の写した漢文(かなり正確)を訓読しておく。不足していると私が判断した部分に独自の句読点・送り仮名を附し、一部は従わずに、私の読みで示した箇所がある。読みやすくするために段落を成形した。

   *

 南昌府[やぶちゃん注:現在の江西省南昌市。]驛路の旁らに精舍有り。江(かう)を去ること遠からず。溪水、𢌞繞(くわいねう)し、修竹(しゆちく)萬个(ばんこ)、風景淸幽たり。

 康煕[やぶちゃん注:一六六二年~一七二二年。]の初め、忽ち、偉丈夫有り。襆披(ぼくひ)して[やぶちゃん注:旅姿で。]來宿す。貌、甚だ雄奇なり。

 居止すること、旬日、語は西音を操る。自(みづ)から言ふ。

「此の地の風土を愛し、僧とたらんと欲す。」

と。

 之れを難ずるに、曰く、

「吾が橐中(たくちゆう)[やぶちゃん注:袋。]に百金の裝(さう)有り。盡(ことごと)く以つて相ひ付せん。但だ、饘粥(せんしゆく)を仰ぐのみ[やぶちゃん注:ただ、日々の斎料(ときりょう)の粥を頂戴したいだけである。]。此に於いて足れり。」

と。

 乃(すなは)ち、之れに從ふ。

 遂に落髮す。

 每日の粥飯の外は、卽ち、面壁して語(ご)せず。或いは竟夕(きやうせき)[やぶちゃん注:一晩中。]臥さず。亦、經を誦し、禪に參ぜず[やぶちゃん注:ここは連用中止法で、「経も読まず、~」である。]。

 是(か)くのごとくなることの、六、七年、初めより、衣を解かず。或いは窃(ひそ)かに兩の臂(ひ)を視るに、皆、銅圏有りて、之れを束(そく)す[やぶちゃん注:「両の腕に銅の輪があって、それでもってぎゅっと締めている」の意か。]。測ること莫し[やぶちゃん注:それら理由は推察してみてもさっぱり判らなかった。]。

 一日(いちじつ)、儕輩(せいはい)[やぶちゃん注:同じ修行僧ら。]と晩に江上(かうしやう)に立つ。數人有りて、舟を泊め、岸に登る。之れを望見して、大きに驚き、趨前して[やぶちゃん注:素早く前方へ進んで、]、揖(しふ)すれば、則ち、手を揮(き)して、之れを止むる[やぶちゃん注:この「揖」は「楫」(かぢ)の意ではあるまいか? 空舟が流れ出そうになったのを、舟に飛び乗り、楫を揮(と)って戻したのであろう。]。「語(こと)の移る時を耳(き)きたり。」とて[やぶちゃん注:ここは維期文庫のそれで訓読してみた。]、別れ去る。

 戊申(ぼしん)の歲、忽ち、沐浴して、佛に禮し、遍(あまね)く寺僧に別(れをい)ひて云はく、

「明日(みやうにち)、まさに涅槃すべし。」

と。

 衆、皆、信ぜず。

 期(とき)に至り、臺に登りて、坐を敷く。少頃(しやうけい)にして[やぶちゃん注:暫くして。]、火、鼻中より出で、煙焰(えんえん)、空に滿つ。

 白鶴有り、頂(うなじ)の中(うち)より、飛び出で、空際(くうさい)に旋繞(せんねう)す。

 之れ、久ふして、始めて沒す。

 大衆、皆、見る。

 周伯衡[やぶちゃん注:不詳。]、時に南昌憲副たり。其の事を述べて、「化鶴(くわかく)の記」を作る。

   *

これは仙道で言う「屍解仙」である。

「應永」一三九四年から一四二八年まで。

「開山禪師」茂林寺公式サイトのこちらによれば、開山は大林正通(だいりんしょうつう)で、応永三三(一四二六)年、『正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結び』、『応仁二』(一四六八)『年、青柳城主赤井正光(照光)は、正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号し』『た。正光(照光)は、自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務め』たとある。

「茂林寺十世岑月禪師」「しんげつぜんじ」。「信濃史料」に、「慶長二 後陽成天皇、高井郡常樂寺住持壽淸天庵ニ、岑月圓光禪師ノ號ヲ援ケラル」(ADEAC」の画像資料を視認した)とある。そのクレジットは慶長二(一五九七)年十月十八日であるから、百六十九年である。但し、以下の茂林寺公式サイトの解説では十世を天南正青とする。まあ、伝説であるから、齟齬や史実を云々するまでもあるまいと思う。

「茂林寺七世月舟禪師」月舟正初(げつしうしょやうしよ)。茂林寺公式サイトの「分福茶釜と茂林寺」に、『寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました』。『元亀元』(一五七〇)年、『七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました』。『その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます』。『人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから』、『百六十一年の月日が経っていました』。『後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」』(ぶんぷくちゃがま)『として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました』とある。リンク先の上にその茶釜の写真があり、現在も本堂北側の一室に安置されてあるとある。

「會下」「ゑげ」「ゑか」。「会座」(えざ)に集まる門下の意で、禅宗・浄土宗などで、師の僧のもとで修行する所を指す。

「法幢」(ほふどう(ほうどう))は、原義は「仏法」(仏法を敵を圧倒する猛将の幢(旗鉾(はたほこ)に喩えたもの)。禅宗では説法があることを知らせるために立てる幟(のぼり)の意もある 。

「たくらぶる」「た比(較)ぶる」。比べる。平安末期以降の用語。

「此釜八ツの功德あり。中にも」㊀「福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は」㊁「一生かはきのやまひを煩ふ事なく」㊂「第一文武の德を備へ」㊃「物にたいしておそるゝことなく」㊄「智惠をまし」㊅「諸人愛敬をそへ」㊆「開運出世し」㊇「壽命長久なるべし」で八つある。

「百弐拾餘年」自称の割に過小表現である。

「化緣」(けえん)は「衆生を教え導く因縁・化導(けどう)の因縁」或いは「仏菩薩の教化を受ける衆生の側の力・教えが説かれるためにもともと衆生の持っている機縁」の意。

「靈就山」(りやうじゆせん)は漢訳語は「靈鷲山」(りょうじゅせん:現代仮名遣)が一般的。インドのビハール州のほぼ中央に位置する山(この中央附近)で、大乗経典にでは、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山として知られる。サンスクリット語では「グリドラクータ」、パーリ語では「ギッジャクータ」。

「會上」「ゑじやう」。会座のほとり。場。

「唐土」「もろこし」と訓じておく。

「日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せし」数えで単純換算すると、西暦で六二七年で、本邦へ彼が渡ってきたのは、推古天皇三十四年となり、これは聖徳太子が亡くなった五年後、蘇我馬子の没した翌年に相当する。

「守鶴宮」現在、茂林寺境内に守鶴堂としてある。茂林寺公式サイトの境内案内のページを参照されたい(写真有り)。本堂の脇の建物には正通大和尚像と守鶴和尚の像もあるとある。

「直堂」(ぢきだう)は禅宗の寺院で衣鉢を看守する当番のこと。或いは僧堂の守り役を示すもの。この「札」の現存は、不明。

「打碑」拓本にすること。

「ねり丸」練(ね)り丸薬(がんやく)。

「その功神のごとし」「その功(こう)」(効能)たるや、「神」妙(しんみょう)なるに似たり。

「化現」仏・菩薩などが世の人を救うために姿を変えてこの世に現われること。

「實に」「げに」。

2021/08/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事

 

[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖草加屋安兵衞娘之事】」とある。「一錢職分由緖」は前に分離して出した。短歌は底本では三字下げであるが、引き上げた。]

 

○兩國藥硏堀うなぎや草加屋安兵衞は、紀名虎が末流のよし、娘は松平越中守殿につかへけるが、あるとしの冬の夜、此娘、御側に侍りける時、折ふし、あられ、降り來りければ、守の殿、此音を聞き給ひて、「かゝるさむけき夜も、今、泰平の御代に生れあひぬれば、寒き事も、おぼえず。かく、ゆたかにあるこそ、實に有りがたき事なれ。」と仰せられて、

こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく

と詠み給ひて、「其方も、紀氏の末流なれば、卽詠せよ。」と仰せありける時、此むすめ、

あつぶすまかさねても猶さむき夜に道ゆく人の聲ぞきこゆる

後に此娘、御いとま給はりて、牛込御納戶町近江屋半三郞といふ者のかたへ嫁すべき時に、殿の御歌、

一かたに心さだめよ小夜ちどりいづくの浦に浪風はなき

といへる御歌を給はりき、となん。此安兵衞の遠祖は、駿河大納言につかへ奉りて、其比、堀田三郞兵衞といひしよし。君、御生害の後、武州草加に、ゆかり、もとめて、百姓となり居たりしかば、今の安兵衞より三代まへの事なりと、いへり。

[やぶちゃん注:以下は底本では最後まで全体が三字下げ。]

右白川侯の御歌は、鎌倉の右府實朝公の御歌に、

武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原

「續後拾遺集」に見えたり。此歌を思し召し合せ給ひて、よみたまひしなるべし。

先祖堀田三郞兵衞、大納言の君、御生害の後、追腹もきらず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衞に至りて「うなぎや」となりしは、先祖が腹をきらぬかはりに、今、うなぎの脊をさくも、をかし。

[やぶちゃん注:「兩國藥硏堀」小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋二丁目の両国橋西詰の付近にあった堀。日本橋付近の米・竹・材木などの蔵に物資を運送する水路として利用されたが、御米蔵の築地移転後に一部を残して埋め立てられ、その一帯の地名として残った。踊子と呼ばれた女芸者が多く住んでいた。また、付近には堕胎専門の中条流の女医者も多かった』とある。切絵図を見ると、現在の中央区立日本橋中学校敷地内の同地区と接する部分に「薬研堀」の名残が認められるから、この中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北から南西にかけての位置が狭義の薬研堀のように思われる。

「紀名虎」紀名虎(きのなとら ?~承和一四(八四七)年)は平安前期の官吏。娘の種子(たねこ)を仁明天皇の。静子を文徳天皇の更衣とし、惟喬親王を始め、多くの皇子・皇女の外祖父となり、承和十年は正四位下に進み、中務大輔(なかつかさのたいふ)を経て、翌年には刑部卿となったが、藤原氏との勢力争いに敗れ、要職には就かずに終った(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。系図を見ると、かの紀貫之の曽祖父の弟である。

「松平越中守」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。

「こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく」整序すると、

 籠手の上に降りし世知らで厚衾重ねて夜の霰をぞ聽く

か。「籠手」手首の保護に当てる武装具。

「牛込御納戶町」現在の新宿区納戸町

「駿河大納言」徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は駿河国駿府藩藩主。徳川第二代将軍秀忠の三男。第三代将軍家光の弟。母は秀忠の正室崇源院(於江与)。秀忠夫妻が才智に恵まれた忠長を寵愛したため、次期将軍になるという風評があり、危機感を抱いた家光の乳母春日局が、駿府の家康に嘆願し、家康の指示で、家光が世子と決定した(家康は元和二年没で、世子決定は元和年間とされるので、元和元年からそれまでの閉区間となる)。元和四(一六一八)年、甲斐国を領地として与えられ、同六年に元服、従四位下・参議に叙任された。寛永元(一六二四)年、駿府藩主となり、駿河・遠江両国五十五万石を領した。同三年八月には従二位権大納言に叙任されたので、世に「駿河大納言」と称された。同五年頃から、忠長の行動が荒れ、同八年に入ると、家臣を手討ちにしたり、仕えていた少女を殺害して唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始め、江戸で頻発していた辻斬りも忠長の仕業であると噂された。同年八月末、付家老の朝倉宣正の切腹を上訴したことから、秀忠は忠長を付家老鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させた。同十年九月、前年の一月の秀忠の死後、親政を行っていた家光が重病に陥ると、世間では「忠長与党の大名が反乱を起こそうとしている」という噂が飛び交った。そのため、危機感を抱いた家光は、病気回復後、忠長を安藤重長の領地上野高崎に移し、阿部重次を派遣し、自害を命じた。自害の場所は高崎の大進寺であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」の一首(三四八番)、

   霰

 もののふの矢並繕ふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

この「矢並」(やなみ)は矢を収納する胡簶(やなぐい)・箙(えびら)の中の矢並びを実戦に備えて整えること。

「續後拾遺集」「續(しよく)後拾遺和歌集」は後醍醐天皇の命になる勅撰和歌集。全二十巻。二条為藤・二条為定(為藤の甥で彼の死後を引き受けた)撰。正中三(一三二六)年撰進。十三代集の第八番。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 壹錢職分由緖之事

 

[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖草加屋安兵衞娘之事】」とある。「草加屋安兵衞娘之事」は次に分離した。]

 

   ○壱錢職分由緖之事

一職分之儀者、文永中

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 人皇八十九代御帝龜山院樣御宇、上北面にて

       北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿

故有之、流浪長門國下之關邊居住、子息三人有之。嫡子北小路大藏亮藤原基詮右四人流居之内、吉岡久左衞門以介抱渡世、大藏亮太物賣、兵庫亮染物師、采女亮儀は父基晴卿爲養育髮結職と相成、難ㇾ顯面體往來住宅、雨落より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡障子三尺寸法と相定致渡世の内、父基晴卿經年月死去之後、關東鎌倉繁花の時、居住桐ケ谷にて松岡と號し、采女亮七代之孫北小路藤七郞、從美濃國岐阜、元龜天正之比、流浪於遠江國比久間味方ケ原、東照大權現樣、甲駿信之押武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と御一戰被爲有、比者元龜三 壬申年十月十四日、東海道見附驛之間道一言坂より池田迄、及夕陽總御同勢共、濱松之御館へ御引揚被爲遊候時、其日大風雨にて、東海道天龍川滿水にて渡船難相成に付、渡守仕候者共、我家々へ引取り川端に壱人も不居合、御渡船難被爲游候。然る所に北小路藤十郞行掛候に付、奉蒙嚴命。尤水練功者之事故、奉畏川淺瀨踏に御案内奉申上候。右に付無御難。濱松之御城に御引揚相濟、御悅喜有之。以來諸國關所川々渡場等迄、無相違御通し下置候なり。尤其節、後殿之義、本多中務大輔忠勝殿被相勤候事、猶又其後三河國碧海郡原之鄕迄奉御供、其砌蒙嚴命、東照源大神君樣奉ㇾ揚御髮、當座之爲御褒美金錢一錢、御笄一對、榊原式部大輔康政殿御取次を以頂戴之。以來結髮之總名を一錢と可唱者也と蒙ㇾ仰、直に御暇被下置流浪して、一錢職分渡世致來候處、其後慶長八卯年關東武場へ德川樣御入國被爲有、其砌一錢職分繁七郞、東部繁花之地と相成候に付、武藏國芝口海手邊に罷出居住渡世致來候所、其刻預御召、先年之爲御褒美靑銅千疋、伊奈熊藏殿御取次を以頂戴之。愈益一錢職分致來候處、其後萬治年中、嚴有院樣御代、北小路藤七郞四代之孫北小路總右衞門、神田三河町へ引移居住、御府内一錢職分株敷御願申上候處、御糺の上、由緖有之に付御取立被爲遊、御公儀樣御朱印被下置、株敷被成下。其上尙御燒印之御下札等頂戴之仕候に付、株敷補ひ一錢職分渡世相續致來候處、其後享保年中、有德院樣御代、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ諸職人被召出、株敷有之者共、夫々之御役義被仰付、其砌一錢職分之者へは、先年神君樣天龍川御難儀之刻、淺瀨御案内奉申上候由にて、御役義御免と被仰出候得共、一錢職分之者共、一同株敷被下置候。爲冥加相應之御役義奉願上候に付、御聞濟有之、以來出火之砌、兩御町奉行所へ缺付、御記錄入御長持御役義相勤株敷渡世相續致來候事。

相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。]嫡男幸次郞依幼年、不ㇾ辨於職分由緖與ㇾ書者也。

 享保十二丁未年九月十二日 北小路宗四郞藤原基之

前書之趣に付、諸國諸武家落人百名以上之面々、虛無僧と一錢職分に相成、忍渡世にて先君へ召通し可相待者也以上。

 慶長八卯年

 大御所樣於御前本多上野介正純を以、東都酒井讃岐守殿へ仰渡置、此段道中奉行松浦越前守殿へ被仰達置候事。仍而如件。

 右髮結職と相成、鬢盥持參して渡世之事は、萬治元年八月十六日よりはじまりしといふ。

 

[やぶちゃん注:「壱錢職」(「分」か当該「職分」(地位・資格・公的約定の意)は「一錢剃(いつせんぞり)で近世の初め、道端に仮屋を構えて男の月代(さかやき)や髭を剃り、髪を結うことを職とした者の呼称。後の「髪結床」の前身。その料金が一人に付き一銭(一文)であったことによる。「一文剃り」「一銭職」「一銭」とも呼んだ。以下、全部の訓読を試みる。読点は返り点と本文挿入のひらがな以外は一切ないので、誤読も多いとは思うが、見た目、文意が通ずるように、勝手に送り仮名を添えておいたし、場所によっては返り点のない箇所でも返って読んだ。また、一部の助詞・助動詞でない漢字を読み易さを考えてひらがなにした。なお、先に私の後注(引用)を読んだ方が、理解しやすい

   *

   ○「壱錢職」分の由緖の事

一、職分の儀は、文永[やぶちゃん注:鎌倉時代で、一二六四年から一二七五年まで。天皇は亀山天皇・後宇多天皇。幕府将軍は宗尊親王・惟康親王。執権は北条長時・北条政村・北条時宗。]中、

 人皇八十九代御帝龜山院樣御宇[やぶちゃん注:在位は正元元(一二六〇)年から文永十一年一月二十六日(一二七四年三月六日)までであるから、弘長四年二月二十八日(一二六四年三月二十七日)の文永への改元から上記までの閉区間となる。]、上北面(しやうほくめん)にて[やぶちゃん注:「北面」は院の御所の北面にある詰所。四位・五位の諸大夫で北面の侍となって院への昇殿を許された者の詰所。]。

       北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿

故、之れ、有り。長門國下之關邊に流浪して居住せし、子息三人、之れ、有り。嫡子北小路大藏亮藤原基詮、右四人、流居の内、吉岡久左衞門、介抱を以つて渡世と爲し、大藏亮は太物賣(ふとものうり)[やぶちゃん注:「太物」は絹織物を「呉服」というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物の総称。]、兵庫亮は染物師、采女亮儀は、父基晴卿、養育爲して、髮結職と相ひ成り、面體、顯はれ難きやう、往來・住宅は、雨落[やぶちゃん注:屋根からの雨垂れが落ちる所。軒先の真下。]より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡・障子三尺寸法と相ひ定め致して渡世の内、父基晴卿、年月を經て死去の後、關東鎌倉、繁花の時に、居をうつし住み、桐ケ谷(きりがやつ)[やぶちゃん注:現在の鎌倉市材木座(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあったとされるが、限定不能。地形上からは南東部のどこかかであろうとは推測される。]にて「松岡」と號す。采女亮が七代の孫北小路藤七郞、美濃國岐阜より、元龜・天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七〇年からグレゴリオ暦一五九三年。]の比、遠江國比久間味方ケ原(みかたがはら)[やぶちゃん注:静岡県浜松市北区三方原町近辺。「比久間」は不詳。或いはここは「比久間・味方ケ原」で、三方ヶ原のかなり北ではあるが、静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間の誤りかも知れない。]に流浪す。東照大權現樣、甲・駿・信の押しにて、武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と、御一戰爲される有り、比(ころ)は元龜三壬申年十月十四日[やぶちゃん注:一五七二年。この年の秋に甲斐の武田氏による西上作戦が発動され、三河の徳川領を北・東の二方面から同時に侵攻が始まった。「遠江三方ヶ原の戦い」で家康が武田勢に大敗するのは十二月二十二日であった。]、東海道見附驛の間道一言坂より、池田まで、夕陽に及び、總ての御同勢ども、濱松の御館(みたち)へ御引き揚げ、爲され遊され候ふ時、其の日、大風雨にて、東海道の天龍川、滿水にて、渡し船、相ひ成り難きに付き、渡守仕り候ふ者ども、我が家々へ引き取りて、川端には、壱人も居合はせず、御渡し船、爲され難く游ばされ候ふ。然る所に、北小路藤十郞、行き掛り候ふに付き、嚴命を蒙り奉りて、尤も水練の功(たく)みなる者の事故、畏れ奉りながら、川の淺瀨を踏(ふむ)に、御案内奉り申し上げ候ふ。右に付き、御難、無し。濱松の御城に御引き揚げ相ひ濟み、御悅喜(およろこび)之れ有り。以來、諸國の關所、川の川渡し場等まで、相違無く御通し下さえ置き候ふなり。尤も其の節、後殿(しんがり)の義、本多中務大輔忠勝殿、相ひ勤められ候ふ事、猶、又、其の後、三河國碧海郡原之鄕まで御供奉り、其の砌り、嚴命を蒙り、東照源大神君樣の御髮を揚げ奉り、當座の御褒美金として、錢一錢・御笄(かうがい)一對、榊原式部大輔康政殿の御取次を以つて之れを頂戴し、「以來、結髮の總名を『一錢』と唱ふ者なり。」との仰せを蒙れり。直に御暇(おんいとま)、下され置き、流浪して、「一錢職」分の渡世致し來たり候ふ處、其の後、慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年。この二月十二日に徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府した。]、關東武場[やぶちゃん注:「武陽」の誤読或いは誤植。]へ德川樣御入國爲さるる有り。其の砌り、「一錢職」分繁七郞、東部繁花の地と相ひ成り候ふに付き、武藏國芝口の海手(うみて)邊りに罷り出で、居住し、渡世致し來たり候ふ所、其の刻(きざ)み、御召しに預りて、先年の御褒美として、靑銅千疋、伊奈熊藏殿、御取次を以つて之れを頂戴す。愈(いよい)よ、益(ますま)す、「一錢職」分、致し來たり候ふ處、其の後、萬治年中[やぶちゃん注:一六五八年から一六六一年まで。将軍は徳川家綱。]、嚴有院樣御代[やぶちゃん注:家綱の諡号。将軍在職は慶安四(一六五一)年から延宝八(一六八〇)年。]、北小路藤七郞四代の孫北小路總右衞門、神田三河町[やぶちゃん注:現在の千代田区内神田一・二・三丁目及び神田司町二丁目附近。]へ引き移りて居住し、御府内の「一錢職」分の株敷[やぶちゃん注:「かぶしきで、後注引用にある髪結いの共同組合のことか。]、御願申し上げ候ふ處、御糺(おただ)しの上、由緖之れ有るに付き、御取り立て爲し遊ばされ、「御公儀樣御朱印」下し置かれ、株敷も成し下されり。其の上、尙ほ、御燒印の御下札[やぶちゃん注:「おさげふだ」か。ここは幕府公認を示す焼き印を捺した営業許可証か。]等、之れ、頂戴仕り候ふに付き、株敷も補ひ、「一錢職」分の渡世、相續致し來たり候ふ處、其の後、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年から一七三六年まで。]、有德院樣御代[やぶちゃん注:吉宗の諡号。在職は正徳六・享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年。隠居して大御所となった。]、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ、諸職人、召し出だされ、株敷、之れ有る者ども、夫々(それぞれ)、御役義、仰せ付けられ、其の砌り、「一錢職」分の者へは、先年、神君樣、天龍川御難儀の刻(きざみ)、淺瀨御案内奉り申し上げ候ふ由にて、「御役義御免」と仰せ出され候得(さふらえ)ども、「一錢職」分の者ども、一同、株敷、下され置き候。爲めに、冥加相應の御役義、願ひ上げ奉り候ふに付き、御聞き濟み、之れ、有り、以來、出火の砌り、兩御町奉行所へ缺(か)け付け[やぶちゃん注:「驅けつけ」。]、御記錄、御長持入るる御役義、相ひ勤め、株敷の渡世も相續致し來たり候ふ事なり。

相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。「當」の誤字か。]嫡男幸次郞、幼年により、職分の由緖を辨ぜざれば、書を與ふる者なり。

 享保十二丁未年[やぶちゃん注:一七二七年。]九月十二日 北小路宗四郞藤原基之

前書の趣に付き、諸國・諸武家・落人(おちうど)、百名以上の面々、虛無僧と「一錢職」分に相ひ成り、忍べる渡世して、先君へ召し通し、相ひ待つ者なり。以上。

 慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年・]

 大御所樣、御前に於いて本多上野介正純を以つて、東都酒井讃岐守殿へ仰せ渡し置く。此の段、道中奉行松浦越前守殿へ仰せ達し置かれ候ふ事。仍つて件のごとし。

 右、「髮結職」と相ひ成りて、鬢盥(びんあらひ)持參して渡世の事は、萬治元年八月十六日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一六五八年九月十三日。]より、はじまりし、といふ。

   *

ここに示されたものは「一銭職分由緒書」としてかなり有名なものらしい。ウィキの「藤原采女亮政之」に以下のようにある(太字下線は私が附した)。日本に於ける「理美容業の祖」とされる人物に藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけ まさゆき ?~建武二(一三三五)年の旧暦四月或いは七月或いは十月十七日没)がおり、『昭和のはじめ頃まで』は、『全国の理美容業者は采女亮の命日である』十七『日を毎月の休みとした』。『功績により』、『従五位』が追贈された。『京都生まれ』で、『藤原鎌足の子孫である藤原晴基(或いは基晴の三男』。『亀山天皇の時代、京都御所の警備役だった』『晴基が宝刀の九王丸』(又は九龍丸)『を紛失、責任をとって浪人』『となる。長男元勝(反物商)次男元春(染物師)は京にとどまり』宝刀を『探したが』、『采女亮は探索のため』、『諸国行脚の旅に出る晴基』『に同行した』。文永五(一二六八)年、晴基は、宝刀の国外流出を防ぐために朝鮮半島に近い下関に下った。これは『元寇に備え』、『武士が集まっているとにらんだ』ことによるとする。『刀を捜し続ける一方、髪結職で高い収入を上げていた新羅人に親子で学び』、下関の『亀山八幡宮裏の中之町』(ここ)『に武士らを相手にした』『髪結所を開く。この店に床の間があり』。『亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから「床屋」と呼ばれるようになった』『といわれる』弘安元(一二七八)年、晴基は宝刀を見つけられぬまま没し、弘安四(一二八一)年に、『采女亮は鎌倉に移』した。建武二(一三三五)年に采女亮は没したが、彼の『髪結いの技術が』高く『評価され』、鎌倉『幕府』時代には『重宝されたという』なお、『下関 「床屋発祥の地」記念碑の碑文では』宝刀は『後に采女亮が発見』と記されてある。ここに出た「一銭職分由緒書」は、『江戸時代から各地に伝えられている』三種の『史料』があり、『この史料に「三男・采女亮政之とともに』『(中略)』『下関に居を構え、髪結業を営み』『(中略)』『これが髪結職の始めなり」とあり』、『采女亮が理美容業の祖と言われる根拠となっている。また、采女亮の子孫は代々』、『髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され』て『敗退』した『際』。十七『代目北小路藤七郎が天竜川を渡る手助けをしたことから』、『褒美と銀銭一銭を賜り』「一銭職」と『呼ばれるようになった(なお』、『理美容業の定休日が』十七『日だったのは家康の命日が』四月十七日『であるためという説もある』という)。その後、『「御用髪結」を務め』、二十一『代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を申請した』。『史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する』(本状がそれ)。

芥川龍之介書簡抄132 / 大正一五・昭和元(一九二六)年四月(全) 八通

 

大正一五(一九二六)年四月一日・田端発信・小穴隆一宛

 

けふ西田外彥氏夫妻並びに民子さんが來られた。西田氏夫妻の話を聞いて見ても、さう根深く君の緣談の邪魔をしてゐるとも思はれない。就いてはあの手紙は西田さんの手もとへ行かないやうにしてはどうか。それよりも若し必要があつたら、やはり西田さんと面談することにしてはどうか。右とりあへず當用のみ。どうも僕自身神經衰弱のせゐか、荒立てずにすめば何事も荒立てずに解決したいと思ふ。頓首

    四月一日        芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:全く進展しな状態がずるずると続く小穴の縁談話。これもまた、神経衰弱・鬱気分・不眠症状を亢進させる(以下書簡参照)一要因となってしまっており、最後のある種、もうこの問題とは正直、距離を置きたい気持ちが露わになっていることが判る。「芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通」参照。「西田外彥」は哲学者西田幾多郎の息子夫妻で、高橋民子が小穴の縁談の相手で、西田幾多郎の姪にして哲学者。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月五日・田端・渡邊庫輔宛

 

冠省、君に手紙書かずにゐてすまない。しかしその後あひかはらず神經衰弱はひどし、胃腸は惡いし、痔にも惱まされて鬱々と日を送つてゐる始末だ。君のゐた頃を何度もなつかしく思ふ。新聞まい度ありがたう。あれは齋藤さんからでも古今書院へ話して貰つてはどうか。この體では今どうにも出來ない。お父さんやお母さんによろしく。

    四月五日    床上にて   龍

   庫 輔 樣

 

[やぶちゃん注:門下生渡邊は恐らくは前年大正十四年の年初に父親の病気を理由に一時帰郷していた(四月十六日(採用していない)の修善寺からの書簡では『異國關係び歷史などいくらやつても語學の出來ぬ君に駄目』で、『精々長崎の』『無學なる』『考證家』になるだけだから、『一月に一度、二月に一度でも兎に角小說らしきものを書き、僕の所へ送つてよこせ』と一喝している)。なお、この十五年には再び上京して再び龍之介の通い書生となっている(五月下旬から六月中旬の間。後に示す五月二十五日附渡邊庫輔宛書簡に拠る)。しかし、父親が昭和二年年初に他界し、結局、龍之介の自死後は、長崎に帰って永住し、後、郷土史家として大成した。実際、龍之介が、堀辰雄を除いて、最も期待していた弟子であったともされる。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月九日・田端発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・四月九日夜 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省、いろいろお見舞の品を頂き、難有く存じ奉り候。いつも頂戴ばかりしてゐて申訣無之.さてアロナアル・ロツシユ、君は一錠にて眠られると言ひし故一錠のみし所、更に眠られず、もう一錠のみしが、やはり眠られず、とうとうアダリンを一グラムのみて眠りしが、アロナアルの効力は細く長きものと見え、翌日は一日懜々然[やぶちゃん注:「ばうばうぜん」。]として暮らしたり。右御禮かたがた御報告まで。頓首

    四月九日夜      芥川龍之介

   佐 佐 木 茂 索 樣

二伸 奧樣にもよろしく願ひ奉る。この頃下島さんに賴まれ、悼亡の句一つ。

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

 

[やぶちゃん注:先月十六日に肺炎で急逝した下島の養女で小学校六年生であった行枝(龍之介が可愛がっていた。因みに、龍之介は也寸志が生まれる前の書簡(採用せず)で、次は女の子は欲しいと漏らしている)への悼亡句はこの四日前の六日の午後に訪れた下島から依頼されて作ったもの。新全集宮坂年譜によれば、この句は、『芥川の筆跡で行枝の墓碑裏面に刻まれた』とある。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「下島医師の娘の死」には、下島の書いた随筆「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の中の「それからそれ」(目次を見るに少なくとも半分以上は芥川龍之介関連の追想である)の中の『娘行枝の死にまつわる回想を引いて』おられる。歴史的仮名遣が用いられているので、漢字も正字と推定し、ここでは、鷺氏の引かれたものを恣意的に概ね正字化して示す(一ヶ所ある振り仮名は歴史的仮名遣に直した)。下島勲氏の著作はパブリック・ドメインである。

   *

『墓のことで思ひ出すのは、大正十五年の春私の娘が十四歲で病死した。平常可愛がつた芥川氏をはじめ犀星氏や久保田氏が自分の子供のやうになげき悲しんでくれたのである。また告別式には菊池氏や菅氏なども來て下さるといふやうなわけで、何のことはない少女文藝葬のやうな觀を呈し、大いに面目をほどこしたことであつた。それにつけても當時、供物として脇本樂之軒氏から贈られた春蘭が、すがれながらに三つの蕾を孕んで、現に私の机の傍らに寂しい影をつくつてゐる。

 遺骨は鄕里信州上伊那郡中澤村字原區の、恰度[やぶちゃん注:「ちやうど」で切れる。]村の臍にでも相當する丘の裾の墓所に埋葬した。當時芥川室生久保田の三氏から贈られた悼亡句は、早速娘の晚年の手すさびに成る、刺繡の薔薇の花を配して帛紗[やぶちゃん注:「ふくさ」。]に染めぬき、學校の先生朋友知人そのほか緣故の方々へ記念として贈つたのであつた。その悼亡句は

 更けまさる火かけやこよひ雛の顏  龍之介

 うちよする浪のうつつや春のくれ    万

 若くさの香の殘りゆくあはゆきや   犀星

 その後私の考案になる墓碑を建てたのであるが、村は鄕里三峯川(みぶかは)產の堅質できめのこまかい光澤ゆたかな靑石を撰び、刻は久しく谷中天王寺前で修業したといふ石工の技術、表面の戒名は私の自筆、その裏面へ三氏の俳句を肉筆さながらに彫刻したもので、一寸類の尠ないハイカラな形ちと趣きを現はした墓碑だと思つてゐる』

   *

鷺氏は、『このユニークな墓碑は下島の記す通り駒ケ根市中澤の下島家墓地に現在も殘されている』とある。見てみたい。調べて見たが、位置が判らない。行枝さんの魂の安寧のためには、そっとしておくのが良いのだろう。

「アロナアル・ロツシユ」allonal roche。スイス・バーゼルのエフ・ホフマン・ラ・ロッシュ社製の非アルカロイド睡眠・鎮痛剤。大正一一(一九二二)年に本邦で市販許可がなされている当時は新しい薬である。宮坂年譜の四月上旬の条に、『湯河原で一時やめていたアダリンの服用がまた始まる。もはや通常の量では足りず、三倍以上の二グラム程度を服用した。佐佐木茂索からもらった』この『アロナール・ロッシュ』も、『この頃から時々服用するようになり』、『以後長く常用することとなった』とある。当時の医学会では薬物依存症への殆んど配慮がなかったと思われ、強い睡眠薬の市販も普通にされていた。また、龍之介は齋藤茂吉を含む親しくなった複数の医師から、かなりの量の薬物を入手しており、多量服用による副作用と耐性化が依存症への拍車をかけたといってよい。

「アダリン」既出既注

「懜々然」はっきりしないぼんやりした状態。

 この四日後の四月十三日に、病的な自身の怪奇談集「凶」(未定稿。生前には発表されず、死後の全集で公開された。リンク先は私のマニアック注附版)を脱稿している、と宮坂年譜にはある。

 翌々日の四月十五日、小穴隆一が来訪したが、小穴によれば、この日、芥川龍之介は彼に自殺の決意を告げた、とする。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照。

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十二日・田端発信・南條勝代宛(葉書)

冠省 御手紙拜見仕り候今日よりちよつと鵠沼へ養生に參り候間來月廿日以後にお出下され度願上候 頓首

    四月廿二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:宮坂年譜によれば、この二十二日に『文と也寸志を連れて、鵠沼の東屋(あずまや)旅館へ静養に出かけ』ている。既に述べたが、『当時、鵠沼には』結核症状が顕在化していた文の弟『塚本八州の療養のため、塚本一家が移住して』おり、『以後』、この大正十五年『年末まで、鵠沼が』(住居は同鵠沼の中で移動している)芥川龍之介夫婦と三男の『生活の主』な『拠点となった』とあるが、『鵠沼では』思いの外、『来客が多く』、逆に『疲労感をつのらせる』結果ともなり、この凡そ一ヶ月余り後の六月一日には(後に掲げる)、『鵠沼に一月ゐる間の客の数は東京に三月ゐる間の客の数に匹敵す』などと書き送って』いるありさまで、『来客中は元気に振る舞ったが、客が帰ると』、『額から脂汗を流し、縁側に倒れてしまうようなことがあった』とある。なお、この東屋旅館は明治三〇(一八九七)年頃(本誌の発行の前年)から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館で、多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や、斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 東屋」及び『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 鵠沼の図』に掲げた挿絵を見られたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十三日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)

 

「馬の脚」の出てゐる新潮二册蒲原の來る時に託されたし。間に合はねば小包みにて送られたし。以上

    二十三日       龍 之 介

二伸伯母さんの健康に氣をつけられたし。

又カラカミの本棚の一番上の段に山路愛山著孔子論並びに何とか氏著孔子とその徒ありそれもついでに送られたし。

 

[やぶちゃん注:「馬の脚」前年大正十四年一・二月発行の『新潮』に発表されたもの。単行本未収録。最後の作品集「湖南の扇」に載せるつもりがあったものか。ロケーションからは腑に落ちる。

「蒲原」通い書生の蒲原春夫。

「伯母さん」芥川フキ。

「カラカミの本棚」唐紙障子の引き戸のついた本棚。

「山路愛山著孔子論」評論家・歴史家・思想家であった山路愛山(元治元(一八六五)年~大正六(一九一七)年:本名は彌吉。独特な思想家で、元は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示して、独自の国家社会主義思想を標榜したことで知られる)の「孔子論」(明治三八(一九〇五)年民友社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「何とか氏著孔子とその徒」安藤円秀(生没年確認出来ず)著「孔子とその徒」(大正一二(一九二三)年日本堂刊)であろう。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。著者は「農学事始」「諸経随筆」などの著作があり、また、僧侶で、愛知県碧南市にある浄土真宗大谷派龍蓬山安専寺第四十一世住職として、こちらに名が揚っている。別な資料では、東京帝国大学教授でもあったとある。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十三日(年次推定)・鵠沼発信・芥川比呂志同多加志宛 (絵葉書)

コレハヂビキアミデス。ヒロシハミテシツテヰルデシヨウ。タカシノビヨウキハドウデスカ。

    二十三日       龍 之 介

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛(底本注に、封筒に『一人にて見るべし』との断り書きある旨の附記がある)

 

冠省。この間君のことで武川君が來た。君の手紙も見た。僕が永見よりも君を重んじてゐる事は君自身も知つてゐる筈だ。破門されたなどと莫迦なことを言ふものには僕の手紙を見せろ。僕はまだ體惡く弱つてゐる故、長い手紙は書けない。僕は時々君がゐれば好いにと思つてゐるぞ。右當用のみ。頓首

    四月二十五日     芥川龍之介

   渡邊庫輔樣

二伸 僕は女房や子供と鵠沼の東屋へ來てゐる。好學心もなければ性欲もなし。鬱々たるばかりだ。

 

[やぶちゃん注:人物は判っているが、どうもそれらの関係がはっきりとしないために、今一つ、状況がよく判らない。次の書簡によれば、この日の朝には胃酸過多で吐きそうなったとある。

「武川君」作家武川重太郎(むかわじゅうたろう 明治三四(一九〇一)年~昭和五五(一九八〇)年)山梨県出身。「アテネ・フランセ」に学び、少年時代に小栗風葉に師事し、上京して玄文社記者となり、その傍ら、この前年の大正十四年より、『不同調』同人として創作活動に勤しんだ。後、『富士の国』を主宰した。]

 

 

大正一五(一九二六)年四月二十六日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(葉書)

 

冠省 伊藤さんは時々來てくれるか? 猿山の卓の如きものは預つておいてよろし。きのふの朝ひどい胃酸を叶きさうになつた。又昨日蒲原が來て夕がたかへつた。お前の風は如何。文子曰多加志の病氣は如何?

    四月二十六日     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「伊藤さん」伊藤和夫(?~昭和四〇(一九六五)年)は龍之介の三中時代の同級生。

「猿山の卓の如きもの」不詳。]

2021/08/29

伽婢子卷之八 歌を媒として契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は、状態のよい、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)をトリミング補正(原画の汚損、及び、読み取り時に不要な影が写り込んでしまったため、清拭をしたが、そのために一部の枠や雲形の一部を恣意的に除去してある)して用い、私が適切と判断した箇所に挿入した。]

 

   ○歌を媒(なかだち)として契(ちぎ)

 

 永谷(ながだに)兵部少輔といふ人あり。一條戾橋(もどりはし)のほとりに居住す。年廿一歲、極めて美男のほまれあり。色好みの名を取り、才智、人に越え、常に學問を嗜み、三條坊門の南萬里小路(まてのこうぢ)の東に、北畠昌雪(きたはたけしやうせつ)法印とかや儒學に長ぜし人の許(もと)に行通ふて、學業を勤め、講筵につらなる。

 神祇官のわたりに、富裕の家あり。其かみは、山名が一族なりしに、武門を出て、都に居を占め、名を隱して、密かに身を修め、すべて、大名高家に通路を致さず。

 娘、たゞ一人、持ちたり。牧子(まきこ)と名づく。年、十六、七ばかり、顏かたち、世にたぐひなく、繪書き・花結び・たちぬふことに、手、きゝて、しかも、よろしかねども、哥の道に心を懸け、情の色、深く、花にめで、月にあくがれ、紅葉の秋、雪の夕べ、折にふれ、事によそへて、哥よみ、嘯(うそふ)きて、心を痛ましむ。

 ある時、兵部、書を懷ろにして、萬里小路に、まうでける。

 

Makiko1

 

 道のついで、牧子が家のつい地のもとに休みて、少しくづれたる所より、内を覗きければ、時しも春のころ、柳の糸、枝たれて、櫻の花、綻(ほころ)び、ひわ・こがら、爭ひ囀づり、其の傍らに、座敷、しつらひ、簾(すだれ)掛けたるを、半ば、まきあげ、ひとりの女、はし近く居て、小袖縫ひけるが、針をとゞめ、打ち傾(かたふ)きて、

 ほころびてさく花ちらば靑柳の

   糸よりかけてつなぎとゞめよ

兵部、其姿を見て、此歌をきくに、限りなくめで惑ひ、心も空になり、足元、たどたどしく、思ひの色、深く染みて、堪へかねたるあまり、暫し、立休らひて、覗き居たりければ、牧子は、是れをも知らず、庭に下りたちて、つい地のもとにめぐり來て、兵部と目を見合せしかば、又なく、あてやかなる美男なり。

 牧子、是れを見るに、心移りて、此人にあらずは、誰にか、枕を並びの岡、時雨に染(そむ)る紅葉《もみぢ》ばの、色に出つゝ、かくぞ、云ひける。

 我が門のそともにさける卯の花を

   かざしのために折るよしもがな

兵部、いよいよ堪へかね、聞書(きゝかき)のため、もちたる矢立、取出し、哥二首を雜紙(ざつし)に書つけ、小石につなぎ添へて、投け入れ侍べり。

  いのちさへ身の終(をはり)にやなりぬらむ

   けふくらすべき心地こそせね

 入《いり》そむる戀路はすゑやとほからむ

   かねてくるしき我かこゝろかな

牧子、これを取りあげ、二返し、三返し、詠みて、いつしか、心あこがれ、短册(たんざく)取出し、哥を書き、石につなぎて、投げ出し侍べり。

 あぢきなし誰もはかなき命もて

   たのべばけふの暮れをたのめよ

兵部、これを取りて、家に歸り、其の夕ぐれを待けるぞ、久しけれ。

 夜にいりて、かの方に赴き、つい地をめぐりて見れば、櫻の枝一つ、つい地より、外にさし出て、花田の打ち帶一筋、繩のやうなるを、懸け置きたり。

 兵部、心得て、これを手(た)ぐり、築地を越えて、下り立《たち》ければ、春の物とやおぼろの月、東の山の端(はし)に出て、花の影、庭にうつり、そら薰(だき)の匂ひにあわせて、いとど、しめやかなり。

『是は、そも、人間世(にんげんせい)の外(ほか)、三(みつ)の嶋、十(とを)の洲(くに)に來にけるか。』

と、怪しみながら、忍ぶ夜の習ひ、身の毛よだちて、凄(すさま)じくも覺ゆ。

 女は、宵より、木のもとに待ち侘び、兵部を見て、

 うつゝともおもひ定めぬあふ事を

   夢にまがへて人にかたるな

兵部、とりあへず、

 また後(のち)の契りはしらず新まくら

   たゞ今宵こそかぎりなるらめ

と、いひければ、牧子、打ち恨みて、

「『君と契り初(そ)め侍べらんには、千歲(ちとせ)ののち、こん世も、同じ契り、絕ゆまじ。』とこそ思ひ侍べれ。如何に、かく賴みなくは、おぼす。みづから、命かけて、心を餘所(よそ)に移すことは、夢、あるまじきを、親のいさめて、みづからを責め給ふとも、君ゆゑ、死なば、恨みは、あらじ。

 たのまづばしかまのかちの色を見よ

   あひそめてこそふかくなるなれ

と、俊成卿の詠み給ひけん歌の心を、思ひ給へ。」

といふ。

 

Makiko2

 

[やぶちゃん注:庭にあるのは蘇鉄か。]

 

 宮仕への女(め)わらはに仰せて、酒、取りよせて、兵部にすゝめたり。

 巳に、夜、更け、人、靜まりて、物音も聞えず。

 兵部、密かに、

「こゝの家は、誰人《たれひと》にておはする。」

と、問ふ。

 女、物語しけるは、

「二人の親は山名の支族にて侍べり。久しく武門を離れて、財賽、ゆたか也。一族の中、大名多く侍べれ共、交りちなむ事も、なし。只、身を修め、名を隱して、世を打ち過し給ふ。みづから、たゞ一人娘にて、又、兄弟、なし。甚だ、いとほしみ深く、別(へち)に、この花園をこしらへ、部屋をしつらひ、春の花、秋の月に、心を慰め給ふ。親のおはする所は、少し隔りて侍べり。」

など、いふに、兵部、少し、心、寬(ゆる)やかに覺ゆ。

 世にもれむ後の浮名を歎くこそ

   逢ふ夜も絕えぬおもひなりけれ

女、返し、

 ながれては人のためうき名取川

   よしや我か身はしづみはつとも

かやうに語らひつゝ、かたしく袖の新枕(にゐまくら)、交はすほどだに有明の、つきぬ言の葉とりどりに、はや、告げ渡る鐘の聲、うちしきる鳥の音(ね)に、起き別れゆく露淚(《つゆ》なみだ)、雲となり、雨となる、陽臺(やうたい)のもとぞ、思はるゝ。

 兵部、

 ちぎりおくのちを待つべき命かは

   つらき限りの今朝のわかれぢ

女、返し、

 くらべては我か身の方や勝るべき

   おなじわかれの袖ななみだは

 兵部は、櫻の枝を傳ふて、朝まだきに、家路に歸りても、心そゞろに、學道も身にしまず、暮《くる》るを「おそし」と出て、夜每に通ふ。

 或日、兵部が父、問ひけるやう、

「汝は、學文(がくもん)に、物憂き心の付き侍べるかや。朝(あした)に家を出て、暮(ゆふべ)に歸り來る事は、是れ、學文を勤めて、其道を行はむ爲なり。然るを、汝、此頃は、日暮になれば、家を出て、曉方(あかつき《がた》)に立歸る。是れ、何事ぞや。必ず、輕薄濫行(けいはくらんぎやう)のたぐひを求めて、人の壁(かべ)をこぼち、墻(かき)を踰(こ)して、正(まさ)なき拳動(ふるまひ)するか、と覺ゆ。その事、顯れ侍べらば、身は、生きながら、泥淤(どろどぶ)に沈み、名は、それながら、塵芥(ちりあくた)に汚がされ、世になし者と、なり果つべし。若(も)し、又、語らふ女、定めて、高家の娘ならば、必ず、汝が爲に門戶(もんこ)を汚され、其の身、淺間(あさま)しくすたれ給はんのみならず、罪科(ざいくわ)は、定めて、我が門族(もんぞく)に及ばむ。其事、極めて大事也。今日よりして、門より外に出《いづ》べからず。」

とて、一間(《ひと》ま)の所に押し籠めて、殊の外に戒めたり。

 女は、ゆふべ、ゆうべ、花苑(《はな》ぞの)に出て待けれ共、廿日餘り、更に、音づれなし。

 女、思ふやう、

『飛鳥川(あすか《がは》)の淵・瀨(せ)さだめず、變り易きは、人の心なれば、又、ゆきかよふかた有て、我をば、思ひ捨てたるにや。又は、病に臥して、いたはりつゝ侍べるやらむ。』

と、童(わらは)を遣はして、密かに聞(きか)せしかば、

「かうかう、押し籠められ侍べりて、出入《いでいる》ともがらも、こととひかはす事、かなはず。」

といふ。

 女、聞きて、歎きに沈み、重き病ひになりつゝ、思ひの床(ゆか)に起き臥し、湯水をだに聞入れず、時々は思ひ亂れし言葉(ことば)の末、物狂(《もの》ぐる)はしきこともあり。

 肌へ、かじけ、色、衰へて、物悲しく、只、淚をのみ、流す。

 さまざま、藥を求め、神佛(かみほとけ)に祈れども、露ばかりも、しるし、なし。

 今はこの世の賴みもなく見えしかば、ふたりの親、歎きて、

「思ふ事、ありけるや。」

と、問へども、定かに答へも、せず。

 箱の底に、兵部が哥、ありけるを見出して、大きに驚き、童(わらは)を近づけて、問ければ、有りのまゝに語る。

 

Makiko3

 

[やぶちゃん注:上記のシークエンス。縁にいるのが牧子お付きの女の童で、座敷内の男が牧子の父、その左に右を立膝(これが当時の中世の正式な女性の座り方)した女性が母。彼女の頭部に白っぽいものがあるのは、真綿を広げて作った被り物で、主に防寒用であった置き綿帽子である。「被 (かず) き綿」「額 (ひたい) 綿」とも呼び、これが後に新婦の角隠しとなったともされる。]

 

 親、きゝて、

「たとひ、如何なる人にもあれかし、いとおしき娘の、思ひ懸けたらむには、何か苦しかるべき。」

とて、やがて、なかだちを以つて、

「かうかう。」

と、いはせければ、兵部が父のいふやうは、

「我子、已に、器用(きよう)あり。學を勤めて、官(くはん)につかへ、親の跡をつがすべき者也。妻、求めて、身を、くづをらすべきや。其の事は、いまだ、遲からず。」

といふ。

 牧子が親、重ねて云ひ遣はすやう、

「日比に聞及ぶ兵部少輔は、今、わづかに潜み隱るゝ共、終に、これ、池にあるべきたぐひならず。されば、我が一人娘に緣(えん)を結ばれんには、我が家、又、誰か、その跡を望まん。殘りなく、讓りて、兵部を、子とせむ。」

とて、はや、吉日を選びて、兵部を呼びて、聟とす。

 娘、心地、をどり立ちて、惱み、已に、怠りぬ。

 兵部、

 いのちあればまたも逢瀨にめぐりきて

   ふたゝびかはす君が手まくら

女、限りなく嬉しくて、

 初月(みかづき)のわれて見し夜も面かげを

   有明までになりにけるかな

  かくて、比翼のかたらひ、今は忍ぶる關守の恨みもなかりし所に、細川・山名の兩家、權(けん)を爭ひて、應仁の兵亂、起こり、京都の大家・小家、皆、燒け亡び、諸國の武士、都に集まり、亂妨・捕り物・狼藉、いふばかりなし。

 女をば、藥師寺の與一が手に捕り物にして、その顏かたちの美しきを以つて、犯し汚さんとす。

 牧子、大に呼ばゝりけるは、

「みづから死すとも、田舍人(ゐなかうど)の穢(きたな)き者には、なびくまじ。たゞ、殺せよ。」

といふに、軍兵(ぐんびやう)等、怒りて、女をば、刺し殺しぬ。

 兵部は、兎角して、逃(のが)れ隱れ、其の年の冬、暫く、京都、靜まりければ、都に歸り來れば、家は、やけて、跡、なし。

 妻が家に行て見れば、人も、なし。

 父は、山名が手に屬(しよく)して討ち死し、母は、盜賊に、はがれて、殺さる。

 兵部たゞ一人、牧子が部屋にたゝずみ、淚にくれて居たりしに、その夜、夢の如く、牧子、歸り來る。

「是れは。如何に。」

とて、手を取り組み、淚を流す。

 女、いふやう、

「みづから、君と別れ、ちりぢりになり、武士(ものゝふ)の手にかゝり、あへなく、殺され、尸(かばね)を道のほとりに曝し、『憐れ』と見る人も、なし。みづから、貞節の義に死せし事を、天帝、憐れみ給ひ、君が心ざしに引かれて、今、現れ參りたり。」

といふに、兵部、悲しき中に、なき人に逢ふ事の嬉しさを取り加へて、淚は、雨の降るが如し。

 夜もすがら、語らふ。

 曉方(あかつきかた)になりければ、兵部、なくなく、

 思はずよまためぐりあふ月かげに

   かはるちぎりをなげくべしとは

女、返しとおぼしくて、

 行末をちぎりしよりぞ恨みまし

   かゝるべしともかねて知りせば

そゞろに泣き焦(こが)れて、別《わかれ》をとり、影の如くになりて、うせにけり。

 兵部は、是れより、發心して、東山の寺に籠り、幾程なく、病ひに取ち結びて、終に、はかなくなりぬ。

 人みな、聞傳へて、『憐れにも奇特(きどく)の事』に思へり。

 

[やぶちゃん注:作品内時制は「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年勃発)の勃発直前から直後。

「永谷(ながだに)兵部少輔」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の脚注には、『不詳。架空の人だが、西洞院兵部少輔あたりがモデルか』とある。「西洞院兵部少輔」というのはよく判らないが、「応仁の乱」以前に亡くなっている、西洞院に邸宅を持っていた赤松兵部少輔左京大夫満祐(弘和元/永徳元(一三八一)年~嘉吉元(一四四一)年)のことか。

「一條戾橋(もどりはし)」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。嘗て安倍晴明が式神を塒とさせていたことで知られる心霊スポット。

「三條坊門の南萬里小路(まてのこうぢ)の東」この附近

「北畠昌雪(きたはたけしやうせつ)法印」不詳。

「神祇官」前掲書注に、現在の『中京区西洞院通りに、神祇官官舎があった(『京雀』)』とあり、「新日本古典文学大系」版脚注では、推定比定地として『中京区西洞院通丸太上ル夷川町』に狭めてある。ここ

「山名」「応仁の乱」の足利義尚を奉じた西軍の大将山名宗全(応永一一(一四〇四)年~文明五(一四七三)年)。名は持豊。宗全は法名。同乱の陣中で病死した。

「通路を致さず」一切の交流を持たずにいた。

「花結び」「伽婢子卷之二 狐の妖怪」で既出既注

「たちぬふこと」「裁ち縫ふ事」。裁縫。

「よろしかねども」下手乍らも。

「萬里小路に、まうでける」師である北畠昌雪法印のもとに行くので敬語「詣づ」を用いた。

「つい地」「築地」。

「ひわ」「鶸」。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。本邦の種は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」の注を見られたい。

「こがら」「小雀」。スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ亜種コガラ Poecile montanus restrictus 。同じく「和漢三才圖會第四十三 林禽類 小雀(こがら) (コガラ)」を参照されたい。

「ほころびてさく花ちらば靑柳の糸よりかけてつなぎとゞめよ」前掲書の高田氏の注に、『「ほころびて」は、開花と小袖をかけたことば。花の散るのを惜しみ、自己の小袖縫いのわざに託して、この春の美景が少しでもながく続くことを望んだ歌』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、「古今和歌集」の巻第一の「春歌上」の紀貫之の一首(二六番)、

 靑柳の糸よりかくる春しもぞ

   みだれて花のほころびにける

に基づくとし、『「花ほころぶ」とい』ひますが、『衣ならば』、『ほころびを針でもってつぎを当てもし』ましょうが、『桜の花の場合は散らないように青柳の糸をよってつなぎとめるのがよいでしょう』と訳しておられる。

「枕を並びの岡」高田氏注に、現在の『右京区御室にある丘陵』双岡(ならびがおか)の『地名と「枕を並べ」のかけことばとして用いた』とある。

「我が門のそともにさける卯の花をかざしのために折るよしもがな」高田氏注に、『「垣の外の卯の花を私のかざしにするために折りとる方法があるといいのだけれど」。外にいる男に思いをつたえる歌』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、『垣間見する美男の兵部を卯の花に喩える』とする。

「雜紙(ざつし)」雑記を記すためのメモ紙。

「いのちさへ身の終(をはり)にやなりぬらむけふくらすべき心地こそせね」「新日本古典文学大系」版脚注に、浅井が今までもしばしば原拠とした、『「題林愚抄・恋二・昼恋・隆信朝臣(六百歌合・昼恋)』とする。この歌集は安土桃山から江戸前期の成立で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その第七巻(PDF)だと、「37」コマ目の右丁の終りから4行目で、異同はない。

「入《いり》そむる戀路はすゑやとほからむかねてくるしき我かこゝろかな」「新日本古典文学大系」版脚注に、やはり『「題林愚抄・恋一・初恋・後法性寺入道関白(続古今集・恋)』とする。同前で、その第七巻(PDF)だと、「5」コマ目の左丁の和歌提示の5首目で、異同はない。

「あぢきなし誰もはかなき命もてたのべばけふの暮れをたのめよ」全く同前で、『「題林愚抄・恋一・契恋・定家朝臣(六百歌合・契恋)』とする。同前で、その第七巻(PDFだと、「16」コマ目の右丁の後ろから2首目で、異同はない。

「花田の打ち帶」「花田」は「縹」で色名。高田氏注に、『薄い藍色の紐で編んだ帯』とある。

「春の物とやおぼろの月」「新日本古典文学大系」版脚注に、『春こそわが季節と我がもの顔の』朧月が、とある。

「三(みつ)の嶋」中国で不老不死の神仙が住むとされた想像上の三つの島。蓬萊・方丈(方壺)・瀛州(えいしゅう)で東方の三神山とされ、渤海湾に面した山東半島の遙か東方の海上にあるとされた。徐福伝説を記した司馬遷の「史記」の巻百十八「淮南衡山列傳」にも記されてある。

「十(とを)の洲(くに)」漢の武帝が西王母から教えられたとされる、八方巨海の中にある同じく仙人の住むとされる十の大きな想像上の大陸。祖洲・滅洲・玄洲・炎洲・長洲・元洲・流洲・生洲・鳳麟洲・聚窟洲を数える。

「うつゝともおもひ定めぬあふ事を夢にまがへて人にかたるな」同前で、『「題林愚抄・恋二・忍逢恋・前大僧正聖兼(新後撰集・恋三・忍遇恋を)』とする。同前で、その第七(PDFだと、「22」コマ目の右丁の4首目で、異同はない。「まがへて」は「鈖へて」で「夢だと思い違いになって」の意。

「また後(のち)の契りはしらず新まくらたゞ今宵こそかぎりなるらめ」「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」で萩原の歌として使用済みの一首の使い回し。そちらの「また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)たゞ今宵こそかぎりなるらめ」の私の注を参照。同じく「題林愚抄」「恋二」の「初遇恋」の国冬の歌。

「みづから」自称の一人称代名詞。

「たのまづばしかまのかちの色を見よあひそめてこそふかくなるなれ」高田氏の注によれば、これは「新續古今和歌集」の巻十三に載る藤原俊成の一首とする。

 初逢戀の心を賴まずは

    飾磨(しかま)の褐(かち)の

   色を見よ

      あひそめてこそ

            深くなりぬれ

で、「新日本古典文学大系」版脚注では、『「しかまのかち」は、播磨国名産の褐色染』(かちいろぞ)めのことで、『「飾磨のかちん」とも』呼び、『墨色に下染めしてから』、『藍染め』をし、『深い色になる』ものを指す旨の記載がある(飾磨は地名。姫路市南部の飾磨区として現存する)。また、一首について、『この恋の行末に不安があるなら』、『飾磨の褐を見てみるがよい。藍染めにすると深い色となるように、恋もまず』、『逢ってみれば、次第に情が深まろうというものよ』と訳しておられる。因みに、これも『「題林愚抄・恋二・初遇恋・俊成(新続古今集・恋三)』からの孫引であるとする。同前で、その第七(PDFだと、「21」コマ目の左丁の4首目である。

「宮仕への女(め)わらは」この「宮仕へ」は、単なる身分の高い人にお仕えする者の意で、年少の侍女。

「別(べち)に」別荘として。

「世にもれむ後の浮名を歎くこそ逢ふ夜も絕えぬおもひなりけれ」同じく『「題林愚抄・恋二・忍逢恋・瓊子内親王(新千載集・恋三・忍逢恋といふ事を)』とある。同前で、第七(PDF)だと、「22」コマ目の右丁の5首目で、異同はない。

「ながれては人のためうき名取川よしや我か身はしづみはつとも」同じく『「題林愚抄・恋一・惜人名恋・式部卿久明親王(新千載集・恋一・惜人名恋といへ心を)』とある。同前で、その第七(PDF)だと、「13」コマ目の右丁の一首分削除の白枠の後で、異同はない。

「雲となり、雨となる」男女の仲が睦まじいことの喩え。「手を翻せば、雲となり、手を覆せば、雨となる」が原拠。楚の懐王が、昼寝の夢の中で、神女と契りを結び、別れ際に彼女が、「朝には雲となり、夕暮れには雨となってお慕いします」と言ったという故事による。次の注も参照。

「陽臺(やうたい)」「やうだい」は現在の四川省巫山県の城内の北の角にある山。巫山の女神がこの山の上に住んでいたと伝えられる。「文選」の宋玉の「高唐賦」の「序」の中に書かれているのが前注の話。サイト「今日の四字熟語・故事成語」の「朝朝暮暮」を読まれたい。

「ちぎりおくのちを待つべき命かはつらき限りの今朝のわかれぢ」同じく『「題林愚抄・恋二・契別恋・平清時(続拾遺集・恋三・契別恋といふことを)』とある。同前で、その第七(PDF)だと、「24」コマ目の右丁の7首目であるが、

 ちきりおくのちを待へき命かはつらきかきりのけさのわかれに

と末尾が異なる。

「くらべては我か身の方や勝るべきおなじわかれの袖ななみだは」原拠は不詳か、浅井のオリジナルか。

「泥淤(どろどぶ)」泥水。「淤」は「溝(どぶ)」・「澱(おり)」の意。

「世になし者」世に無用な者。

「飛鳥川(あすか《がは》)の淵・瀨(せ)さだめず」「古今和歌集」の巻第十八の「雜歌下」巻頭にある、読み人知らずの一首(番)、

   題知らず

 世の中はなにか常なるあすか川

   きのふのふちぞけふはせになる

を受けたもの。

「出入《いでいる》ともがらも、こととひかはす事、かなはず。」「家中に出入りを許された知れる者たちでも、会話をすることさえ、許されておらぬとのことです。」。

「湯水をだに聞入れず」食べ物は勿論、湯水さえも受けつけようとはしない

「肌へ、かじけ」「悴(かじ)く」は、第一義は「手足が凍えて自由に動かなくなる・かじかむ」であるが、ここは「瘦せ細る」或いは「衰え弱る」の意。

「なかだち」正式な仲人。

「器用(きよう)」心身ともに優れた技量。

「遲からず。」「急ぐ必要などない!」。

「池にあるべきたぐひならず」前掲書の高田氏の注に、『池から出る昇竜のごとく必ず立身するだろう』とある。

「娘、心地、をどり立ちて」ここは底本は「娘心地を取立ちて」とあるが、表記は元禄版を用いて表記した。高田先生の岩波文庫版は後者を採り、「新日本古典文学大系」版脚注は「をどりたちて」と総て平仮名表記としており、注もない。私はここは「踊り立ちて」として、劇的採り、さればこそ「惱み、已に、怠」(おこた)「りぬ」(「を」は歴史的仮名遣の誤り。「怠る」には「病気がよくなる・快方に向かう」の意がある)と続くのである。無論、「心地を」正常な状態に「取り立ちて」で、「娘は、そこで、一気に正気を取り戻して」の意で採ることは出来るものの、それでは、読んでいて、インパクトに大いに欠けるので、私は採らない。

「いのちあればまたも逢瀨にめぐりきてふたゝびかはす君が手まくら」岩波文庫の高田氏の注に、「続後拾遺和歌集」の巻十四所収の、

 命あれば又も逢ふ夜にめぐり來てふたたび鳥の音をぞ恨むる

に依るとされる。「新日本古典文学大系」版脚注はこれを挙げない。

「初月(みかづき)のわれて見し夜も面かげを有明までになりにけるかな」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『激しく恋こがれた末にあなたに逢えたのは三日月のころ、その面影を再び確かめることができた今夜、月はもう有明にまで押し移っていました』と通釈され、またしても原拠は『「題林愚抄・恋二・日比隔恋・為家(玉葉集・恋二)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の後ろから二行目であるが、

 みる月のわれてあひみし面影の有明まてになりにけるかな」

である。

「細川」管領細川勝元。

「亂妨・捕り物・狼藉」物資の強奪、婦女の凌辱目的の掠奪、暴力や殺人行為諸々。

「藥師寺の與一」細川京兆家の重臣で後に摂津国守護代となった薬師寺元長(?~文亀元(一五〇二)年)。細川勝元に仕えて、その偏諱を賜り、元長と名乗った。通称は与一。「応仁の乱」では東軍の首魁勝元に従って摂津を転戦し、丹波国の西軍と戦った。その功績で摂津守護代に任命され、勝元の死後は政元に仕えた。政元のもとでも細川家の重鎮として摂津の統治を任されており、細川家に反抗的な摂津国人の茨木氏や吹田時通らの追討で功績を挙げている。その後、正式なものではなかったが、実弟の薬師寺長盛に権限の一部を分け与え、長盛は「奥郡守護代」とも称せられた(当該ウィキに拠った)。

「はがれて、殺さる」衣服を剝がれて丸裸にされた上(凌辱を受け)、殺されていた。

「思はずよまためぐりあふ月かげにかはるちぎりをなげくべしとは」同じく原拠は『「題林愚抄・恋二・寄月絶恋・後醍醐院(新千載集・恋五)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の後ろから四行目であるが、

 おもはすよ又めくりあふ月をみてかはる契をかこつへしとは

で、第三句・第五句に変更が加えられてある。

「行末をちぎりしよりぞ恨みましかゝるべしともかねて知りせば」同じく原拠は『「題林愚抄・恋二・恨恋・前関白太政大臣』(二条兼基)『(新後撰集・恋)』からとある。同前で、その第七巻(PDF)だと、「31」コマ目の右丁の四行目。

「奇特(きどく)の事」不思議な出来事。]

芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通

 

大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛

 

冠省。聖書けふ頂きました。難有く存じます。今山上の垂訓の所を讓みました。何度も今までに讀んだ所ですが、今までに氣づかなかつた意味を感じました。右とりあへず御禮まで。

    三月五日       芥川龍之介

   室 賀 文 武 樣

 

[やぶちゃん注:底本の旧全集には、この二通しかない(新全集には最低でも四通あるようである)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、この二日前の三月三日の条に、『古本屋で祈禱書を買い求め、感心しながら読む。室賀文武が来訪し』たので、『知人に貸して手元にないので聖書を送ってもらえるよう』室賀に『依頼した』とある。

「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし、明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まるこことがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。

「山上の垂訓」「マタイによる福音書」の第五章三節から第七章二十七節までに記されているイエスの説教。「山」に登り、そこから語りかけるという設定であるため、この名称が生まれた。「ルカによる福音書」第六章十七~四十九節にも、これとよく似たイエスの説教があるが、語られた場所は「平地」となっている(二つの福音書に見られるこのような変化は、おのおのの福音書記者が共通の資料を用いながら、自らの考えに基づいて編集を行ったことを示すものである)。「山上の垂訓」は、「平地の垂訓」よりも遙かに長く、「マタイによる福音書」全体の構成に於いても重要な位置を占め、説教の内容は、「地の塩・世の光」「主の祈り」「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」など、一般によく知られた主題や句を含んでおり、、後代の文化の諸領域に大きな影響を与えてきた。そこではユダヤ教の倫理が批判されているが、最終的には、それは決して廃棄されるのではなく、寧ろ、徹底化されている。イエスの意図は、人間が道徳的理想を達成し得るかのように考える楽観主義を超越し、神の要求の徹底的性格を明らかにすることにあった。ここまでは小学館「日本大百科全書」の解説に基づくが、以下、「ブリタニカ国際大百科事典」を部分引用すると、この「山上の垂訓」は、まさに『イエスの説教の集』大『成』というべきもので、『旧約聖書の律法や預言を廃するためではなく』、『成就するために来たものとしてイエスが説いた中心テーマは』、『神の国の義についてであった。ここでイエスはまず』、『祝福の辞を与え』、『次いで「地の塩」「世の光」としての弟子の道を説き』、『彼らの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるべきであるとして』、『旧約聖書の』六『つの戒めに再解釈を施し』、『それを徹底化し』、『真の義』、『真の敬虔について教えている』。衣・食・財・『健康などについての一切の人間的な思いわずらいを捨て』、『「まず神の国と神の義とを求めなさい」とすすめるイエスの言葉は』、『「狭い門からはいれ」との言葉どおり』、『きわめて厳格な要求であった。この説教をイエスの福音との関係においてどう解釈するかは』、『キリスト教各派ないし時代によって相違があり』、『神学上の問題となっている』とある。マタイの方のWikisourceにある「明治元訳新約聖書」(大正四(一九一五年版文語訳)の第五章をリンクさせておく。]

 

 

大正一五(一九二六)年三月十一日・田端発信・杉本わか宛

 

拜啓、わざわざ御見舞を頂き難有く存じます。蔓性[やぶちゃん注:ママ。]の神經衰弱故徐ろに快復を待つ外はありません。別封の品は御返しまでに差上げます。お氣に入らぬかも知れませんがどうか御落手下さい。頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   杉 本 わ か 樣

二伸 けふ午後永見君が來ることになつてゐます。逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります。

 

[やぶちゃん注:「杉本わか」名は「ワカ」のカナ書きが一般的。長崎の丸山遊廓の芸妓「照菊(てるきく)」の本名。大正一一(一九二二)年五月の長崎再訪の際、五月十八日に渡邊庫輔・蒲原春夫と丸山の待合「たつみ」で初めて呼んで出逢った。サイト「ナガジン!」の「コラム:長崎が舞台の小説を読んでみた」によれば(龍之介の河童図では最大の力作として知られる、この照菊に描き与えた河童銀屏風「水虎晩歸圖」と呼ばれている「萱草も咲いたばつてん別れかな」彼女への餞別句を添書(「萱草」は「くわんざう(かんぞう)」。現在は長崎歴史文化博物館所蔵。)の写真や彼女の写真も有り、必見要保存)、『芥川は、「堂々としていて立派」「東京に出て来ても恥ずかしくない女」と照菊のことを大変気入り、滞在中の宴席にたびたび呼んでいます。照菊の願いに応じて、二枚折の銀屏風に河童の絵を描き与えました。照菊(本名 杉本ワカ)は芸妓の籍を抜いた後、昭和』八(一九三三)年に、『本古川町に「料亭菊本」を開業し、女将を務めました』とある。

「永見君」既注であるが再掲すると、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)。芥川龍之介は二度の長崎行で非常に世話になっている。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム記事によれば、永見は、この『大正一五年』に『上京し、戯曲集や南蛮研究書を出』したとあり、龍之介の「逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります」というのは、それらの出版を永見が龍之介に頼った可能性、龍之介は或いはそれらの原稿の内容をてんで評価していなかった可能性などが想起される。なお、鷺氏の解説には、永見は『戦後に没落し、自殺した』とある。

 この月の書簡が少ないのには、以前として体調が優れなかったことの他に、友人としても親しくしていた芥川家主治医下島勳の養女が急逝したことが挙げられる。宮坂年譜によれば、三月十六日午後一時十五分、『下島勲の養女行枝(当時小学校六年)が肺炎のため死去。前日までは小学校に通っていたが、帰宅後、四二度の発熱をして肺炎に罹り、徹夜の看病もかなわなかった。行枝を大変可愛がっていた芥川は、知らせを受けて驚愕』し、『下島家には、芥川をはじめ、やはり下島と交わりのある『室生犀星、久保万太郎らが駆けつけた』とあり、翌十八日の午後十二時に行われた行枝の『葬儀に、菊池寛、室生犀星、久保田万太郎らとともに参列する。列席者は百数十名に及んだ』とある。翌月四月九日の佐佐木茂索宛書簡に出るが、その頃に下島に頼まれて、龍之介は、行枝への追悼句として、

   *

   悼亡

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

   *

の一句をものしている。また、月末の三月二十九日には、文と也寸志を連れて鵠沼に静養(恐らくは老舗東屋旅館であろう)に出かけている(鵠沼には当時、塚本八州の療養のために、塚本一家が移住して住んでいた)が、三十一日には龍之介自身の体調がよろしくなくなったために、急遽、『夜、鵠沼から田端の自宅に戻』っている。]

2021/08/28

芥川龍之介書簡抄130 / 大正一五・昭和元(一九二六)年二月(全) 二十一通

 

大正一五(一九二六)年二月二日・消印三日・湯河原発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・二月二日 相州湯河原中西内 芥川龍之介

 

冠省。御手紙拜見仕り候。西田さんから、どう言ふ意見を求められる乎わからぬ故、何とも唯今は申上げ兼ね候ヘども小生の所存だけは勿論申しのべるつもりなり。君の手紙と一しよに高橋文子女史からいつかへるかと言ふ手紙が來た故 十五日―二十日間にかへるつもりのよし返事をさし上げ候。僕はそんなことなら、この間ちよつと歸つた時、君に會へばよかつたと思つて後悔してゐる。文子女史の手紙はいつものやうだが、君の手紙には 興奮を感ずる故、どうも多少氣がかりだ。僕の神經衰弱、胃腸病共に依然たるものあり。欝々として消光罷在候。

    二月二日       芥川龍之介

   小穴隆一樣

二伸 月末のお金御不足ならば御遠慮なく文藝春秋出版部からとつてくれ給へ。僕の印税からでも何でも繰り合せはつくから。

 

[やぶちゃん注:前月分の一月二十一日附小穴隆一宛の私の注で完全に注は不要と思う。相変わらず、ぐだぐだして二人の縁談は一向に進展しないのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月五日・湯河原発信・齋藤茂吉宛

 

冠省、御手紙拜見仕り候。いろいろ御親切に預り、難有く存候。煙草は早速節すべく候。それから神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候(コレハ本當ニ御次手ノ節ニテヨロシク候)なほ又神保さんのお名前も伺ひたく存候。土屋君と當地へお出でのよし承り居り候へども、その後如何に相成り居り候や。小生は十五日より二十日までの間に歸京仕らん乎と存じ居り候。書きたきものも病弱の爲書けず、苦しきことは病弱の爲一層苦しみ多し、御憫笑下さるべく候。頓首

    二月五日       芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「神保さん」内科専攻の医学博士神保孝太郎(明治一七(一八八四)年~昭和一三(一九三八)年)。d.omura編集になるサイト「歴史が眠る多磨霊園」のこちらに、『山形県出身。東京帝国大学医学部卒業。医学博士。同郷のアララギの歌人で精神科医の斎藤茂吉と友人』。大正二(一九一三)年に『東洋毛様線虫』線形動物門双腺綱円虫目毛様線虫科トウヨウモウヨウセンチュウ(東洋毛様線虫:「様」を付けない表記も見かける)トリコストロンギルス属 Trichostrongylus orientalis  はヒトの小腸上部に寄生し、毛状で♂の体長は四~六ミリメートル、♀は五~七ミリメートル。主として経口的にヒトに感染する。多数の寄生が起これば、腹痛・下痢・全身倦怠などを引き起こす。日本(嘗ては東北・北陸地方で多く確認された)・中国・朝鮮半島・台湾などに分布する]『を発見発表した。東京大学内科教室においてアンチホノレミンとエーテルを用いる独自の集卵法により入院患者、病院使役人および院外者』百四十六『名を調べて、十二指腸虫卵と誤られつつある』一『種の寄生虫卵を』四十九名(検査全体人数の三十三・六%)から『検出して、その形状を記載した。引き続き』十三遺体の『主として十二指腸内容物を調べ』十九対(保持検体の十六名は女性)の『成虫を採集し』、『その形態を詳細に観察。人間への寄生虫である東洋毛様線虫として発表した』。『芥川龍之介著の『病中雑記』によると、芥川龍之介の神経衰弱から来る不眠症を対応していた齋藤茂吉の紹介で、神保孝太郎は芥川龍之介の診察をした。診察内容は神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー』(胃下垂に同じ)『等の診断を下し、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」と申し渡したそうだ』。『斎藤茂吉著の『島木赤彦臨終記』によると神保孝太郎は胃腸病院の内科医として、斎藤茂吉の診察をしたとされる』とある。因みに、引用しておいて何なんだが、芥川龍之介の『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』(まさにこの大正十五年二月及び三月発行の『文藝春秋』初出。リンク先は私の詳細注附きサイト版)には、上記引用にあるようなことは書かれていない。或いは、誰かが私の以上のリンク先の冒頭注で、『この頃、不眠と痔に悩まされ、1月15日から2月19日まで湯河原中西屋旅館で湯治。更に、齋藤茂吉の紹介で内科医神保孝太郎の診断を受けたところ、神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー等の診断を下され、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」を申し渡された(同年2月8日付片山廣子宛旧全集一四四四書簡)。なお、小穴隆一によれば、この年の4月15日に芥川は自裁の決意を彼に伝えたとする』と記してあるのを見て、ちゃんと本文を読まず、安易に芥川龍之介の「病中雜記」に書かれいる、などといい加減なことを書いた誰彼の記事を見て誤られたものかと存ずる。

 さて。それにしても、この書簡、どうも気になる。「神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候」の部分である。今現在、芥川龍之介は湯河原中西屋旅館にいるのである。新全集の宮坂覺氏の年譜でも、突然、二月五日頃として『神保孝太郎(内科医)の診察を受ける。神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニーと診断され』、『「この儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひ」などと言われた』(後出の二月二十日附佐藤春夫書簡の引用)。『この診断にはこたえたらしく、しばしば』書簡で『言及している』(後の書簡参照)とあるのだが、どこで診察を受けたのだろう? しかも薬の処方まで受けている。繰り返す。彼は湯河原の温泉にいるのである。「先月末の一月二十八日に一時帰宅しているから、その時、東京近辺のどこかの病院で診察して貰ったのでは?」という意見には、全く従えない。彼は「診察料、處方料とも」受け取っていないと言っており、更に龍之介はそれではあまりに悪いのでお返しをしたく思い友人である茂吉に「御宿所お知らせ下さ」いと言っている。正規の病院で診察を受けたのなら、「診察料、處方料とも」に受け取らないといのはあり得ないことである。しかも、手紙を送りたいのなら、細かな住所など書かずに、その病院気付で手紙を出せば済むことである。さて、そこで私は、以下のように考える。この時、たまたま湯河原に神保医師は滞在していたのではないか? 茂吉の友人でもあり(或いは前の茂吉の書簡で「丁度、今、神保君は湯河原に行っているとはずから、探して相談してみてはどうか」というような書面があったのかも知れない)親しくなり、自身の病状を語ったところ、以上の病名を確定的に告げ、電話で自身の勤める病院、或いは、町の病院、或いは、薬局に出向いて自身の身分を示し、処方を受け取り、龍之介に渡し、その直後に湯河原を発ってしまったという可能性である。有り得ぬことではない。

「土屋君」土屋文明。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月八日・湯河原発信・片山廣子宛

 

冠省、唯今宅より手紙參り、御見舞のお菓子を頂いたよし、難有く存じます。この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます。さもなければ、こちらへ頂戴いたし、この手紙をしたゝめる頃には賞玩してゐたらうと思ひますから。僕は神經衰弱の上に胃酸過多症とアトニイと兩方起つてゐるよし、又この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし、實に厄介に存じてゐます。何を書く氣も何を讀む氣もせず、唯德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史を讀んで人工的に勇氣を振ひ起してゐる次第、何とぞこのリディキユラスな所をお笑ひ下さい。(但し僕自身は大眞面目なのです。)湯河原の風物も病人の目にはどうも頗る憂鬱です。唯この間山の奧の隱居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に澁茶を飮ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。が、梅園のお婆さん(なもと言ふ岐阜辯を使ひます。)と話して見ると、この梅園を讓り受けるとして、地價一萬二三千圓、家屋新築費一萬圓、溫泉を掘る費用一萬圓、合計少くとも三萬二三千圓の遁世費を要するのを發見しました。その上何もせずに衣食する爲に信託財產七八萬圓を計上すると、どうしても十萬圓位入用です。西行芭蕉の昔は知らず遁世も當節では容易ぢやありません。さう考へたら、隱居梅園も甚だ憂鬱になつてしまひました。いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉體的並びに精神的病狀を申し上げます。

   道ばたの墓なつかしや冬の梅

    二月八日       芥川龍之介

   片山廣子樣粧次

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。数少ない旧全集元版時に廣子から提供された一通(提供書簡はたった四通)である。「この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます」とあるから、湯河原へ行く直前か、湯河原からの発信があったのであるが、それは提供されていない。私は既に「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡15」で本書簡を電子化注済みであるが、今回、零から電子化した。以下の注は、そこでやった注の表記を少し変えて示した。

「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」前月分で注済み。

「リディキユラスな所」ridiculous。「おかしな・馬鹿げた・途方もない・嘲笑に値する」の意の英語。

「山の奥の隱居梅園と申す所」現在、湯河原の知られた梅園幕山公園の梅林は、非常に新しく、これではない。同定不能。郷土史研究家の御教授を是非とも乞いたい。

「修竹」長く伸びた竹の意。

「十萬圓」この書簡の六年前の大正九(一九二〇)年のデータで恐縮だが、内閣総理大臣の月給は一千円、国会議員月給二百五十円、公立小学校教員初任給五十円である。昭和元年とあるデータでは、白米十キログラムの値段が三円二十銭から二円五十二銭であるから、十万円というのは、これ、途方もない巨額である。この叙述――その不可能なこと――即ち、廣子と一緒になること――を暗に示す叙述のようにも読めるが……豈図らんや、廣子がその気なら――彼女にはその気は十分にあったと私は思っているが――それを叶えるだけの財力も決心も覚悟も――彼女には――あった――と、私は思っている――。

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)

固形スウプありがたう。はたきを送つた後で落手。頂戴ばかりして汗顏の至りなり。久米をピカ一と言ふ、按ずるに合評會のくづれに花をひきしならん。(サイコアナリシスの手腕驚くべし。)大橋さんへは月末參上仕るべし。どうもまだ僕の神經は弱つてゐる。夜など時々思ひ出していかん。頓首

    九日         龍 之 介

  奧さんによろしく。

 

[やぶちゃん注:「はたき」湯河原の土産物屋で買い送ったそれか。私も佐渡で買った藁製の机上叩きを人に贈ったことがある。

「くづれ」久米正雄が自らを「ピカ一」と自慢する不審な手紙をよこしたが、これは恐らくは文芸合評会がそのままただの歓談酒宴となり、さらに「花」(花札)賭博となって、久米が大勝ちをしたことを謂っているのだろう、と龍之介が推理しているのであろう。

「サイコアナリシス」psychoanalysis。精神分析学。ここは花札賭博での他の連中の意識を巧みに察知分析して勝ったという意であろう。

「大橋さん」前月分で既注の、夫が「變死」した、佐佐木模索の妻の姉で養母の大橋繁のこと。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・蒲原春夫宛(絵葉書)

 

御手紙拜見。いろいろ御苦勞さま。三人となると、三人だけのこすのは殘念な心もちもする。乙字は碧童さんにこちらから問ひ合せよう。美妙、篁村、わかる方法なきや。それから加能君から借りた本、訂正をすませたら、加能君へ返却してくれ給へ。大阪よりまだ返事なきや。右こちらも要件だけ。

    九日             龍

 

[やぶちゃん注:結局、芥川龍之介は最も厭な仕事を書生の蒲原春夫に殆どやらせていることが判る。ちょっと厭な感じだ。

「乙字」俳人大須賀乙字。大正九年に没している。例の「近代日本文藝讀本」に所収した彼の著作権料を払うべき遺族・著作権継承者が判らないのであろう同「讀本」第四集には彼の俳句「春月や」其の他が収録されてある。

「碧童」小澤碧童。既出既注の芥川龍之介の最も年齢の上の友人で俳人。因みに、彼の作品も第一集に「冴え返る」其の他が収録されてある。

「美妙」小説家山田美妙。明治四三(一九一〇)年没。同第一集に「嗚呼廣丙號」が収録されている。

「篁村」小説家饗庭篁村(こうそん)。同書第四集に「與太郞料理」が所収。

「加能君」小説家(評論・翻訳もこなした)加能作次郎(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年)。石川県羽咋郡西海村風戸(現在の志賀町西海(さいかい)風戸(ふと)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中の明治四四(一九一一)年四月に「厄年」を『ホトトギス』に発表して作家デビューし、大正七(一九一八)年十月に『読売新聞』紙上で連載を開始した「世の中へ」によって作家としての地位を確立、自然主義の流れを汲む、人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入ってからは低迷した(当該ウィキに拠る)。同第三集に小説「祖母」が所収されており、これは金星堂から大正一一(一九二二)年に刊行されているので、或いは、所収分のそれに誤植があったのを、当人から借りた原本で訂正作業をしていたものかとも思われる。

「大阪よりまだ返事なきや」不詳。『大阪毎日新聞』には一月三十一日附で「虎の話」を発表している。それに関わる何かかも知れぬし、新たな原稿依頼への体調不良を理由とした断りへのそれかも知れぬ。判らぬ。なお、この後の三月八日には同誌の系列紙『東京日日新聞』に『「輪𢌞」讀後』を発表してはいる。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・谷口喜作宛

 

冠省、今日お菓子澤山頂き、難有く存候。小生は目下神經衰弱の外にも胃酸過多症とアトニイとを倂發致し居り候へば少々づつ食後に頂戴仕る可く候。當地の風物、孟宗は黃に梅花は白く既に春意を帶び居り候へども病人の目には憂鬱に相見え、快々と日を暮らし居り候右とりあへず御禮のみ 頓首

    二月九日       芥川龍之介

   谷口喜作樣

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)

 

   山襞の雪消えにけりいたづらにきのふもけふも君を待ちつつ

モウ一二首速成シヨウト思ウタガ面倒故ヤメニスル。コノ頃沈丁花ノ莟大イナリ。來レバイイニ。僕ハマダ不眠ダ。

    九日      中西うち 龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年二月九日・消印十日・湯河原発信(推定)・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント 小穴隆一樣

 

冠省、その後御變りなく御淸光の事と存候。この間遠藤光子孃來られたれど、不幸にもまはり合せ惡く 一度も拜顏の機を得ず大いに殘念に存候。それからけふは兎屋居士よりお菓子を澤山頂き、大いに恐縮に存候。どちらも御次手の節よろしく申上げてくだされたし。又小峯よりも手紙參り、裝幀出來のよし伺り[やぶちゃん注:ママ。] 難有く存候。小峯へは既に當方より手紙を遣し居り候間お小遣ひ御入用の節は御遠慮なく御徴發下され度候。伯母は十二三日頃に來るよし さすれば小生も二十日前には歸らるるや否やわからず、しかしなる可く二十日までには歸らんと存居り候。この頃も不相變不眠にて弱り居り候。但しアダリンを用ひぬだけ幾分快方に迎ひしならん乎。數日前佐佐木茂索遊びに參り、二泊して歸り候。滯在中大いに小生の不養生を苦諫致しくれ、澄江堂主人一言も無之仕義に立ち至り候 實はかかる駄弁を弄しながら高橋さんの一件氣がかりなり。尤もこれは神經の弱り居る爲かも知れず、遠藤君の手紙によれば、每日元氣に御制作中のよし、そんな事を考へて多少の安心を强ひ居り候。匆々

    二月九日       龍 之 介

   隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:「遠藤光子」不詳。筑摩全集類聚版脚注も新全集の「人名解説索引」も同じで、後者には、新全集でも、この書簡にしかこの姓名は載らない旨の記載がある。しかし、小穴宛にこう書いていることから、小穴がよく知っている人物であることが判るから、或いは小穴が、一度、龍之介に逢わせた知人の女流画家なのかも知れない。

「アダリン」既出既注

「高橋さんの一件」「127」「129」で既出既注。

「遠藤君」俳人で蒔絵師の遠藤古原草。既出既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十二日・湯河原発信・里見弴宛

 

冠省、高著緣談窶[やぶちゃん注:「えんだんやつれ」。]を頂き、難有く存じます。東京から𢌞送して二三日前に落手しました。早速拜見するつもりです。なほこの頃滿潮を拜見しましたが、作者の滿潮を好まれないのは部分的の出來不出來を誇張して考へられるからではないでせうか?「惡き讀者」僕はやはり中々感心しました。右とりあへず御禮まで 頓首

    二月十二日      芥川龍之介

   里 見 弴 樣

 

[やぶちゃん注:「緣談窶」大正十四年十二月改造社刊の短編集(十一篇)。

「滿潮」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『大正十二年八』月から『十二月作』とある。里見自身は失敗作と公言していたのであろう割には、調べると、大正十四年に新潮社から単行本で出している。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十四日・湯河原発信・芥川比呂志宛(絵葉書)

 

コレハダルマダキトイフタキデス。コノタキハオトウサンノヰルトコロノスグソバニアリマス。

ヲバサンモ、オトウサンモ二十三チ[やぶちゃん注:ママ。]ゴロカヘリマス。タカシトケンカヲシナイヤウニ、オトナシクオアソビナサイ。

    二月十四日          龍

 

[やぶちゃん注:「ダルマダキ」「だるま滝」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ペンションはな」公式サイト内こちらに解説と写真がある。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)

 

御手紙拜見いろいろ御手數をかけ多謝。水滸傳所々拜見。思つたよりも上出來なり。裝幀もそんなに惡くないぢやないか? 近世日本史もう皆讀んでしまつた。頭の具合惡く當分仕事は出來さうもない。

        湯河原中西  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「水滸傳」調べてみると、蒲原春夫現代語全訳として、興文社(例の「近代日本文藝讀本」の出版社である)から前編がこの大正十五年に刊行されている(後編はネット上では確認出来ない)。

「近世日本史」既出既注の「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」のこと。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)

 

この頃叔母東京より參り、一しよに暮らし居り候。胃腸の具合も神經衰弱も同じやうにて閉口致し居り候。

    二月十五日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、フキの来訪は二月十三日土曜日頃とする。

「叔母」芥川フキ。通常、龍之介は「伯母」と書くが、「叔母」でも誤りではない。実母フクから見れば「伯母」、であるが、養父道章から見れば「叔母」だからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

その後御淸適なるべしこの間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた。熱を出してゐた、この頃伯母東京より參り、一しよに入湯中、胃に未だ鈍痛あり春光太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]晴やかならず。頓首

    二月十六日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:前月分の最後の、一月二十八日附湯河原発信の菅虎雄宛書簡の私の注を参照されたい。「この間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた」とあるが、この当時、萩原朔太郎は実は、田端にはもういなかった。妻稲子の健康が優れなかったため、田端への転居から七ヶ月ほど後の、大正十四年十一月下旬に鎌倉町材木座芝原四八一番地(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番に移っていたのである(所持する筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」の、昭和五三(一九七八)年刊の初版第十五巻にある詳細年譜で確認した)。ここは菅虎雄の家とは、滑川を挟んで、丁度、対称位置にある。そうして、そこを正三角形の一辺とすれば、三つ目の頂点部分がズバり小町園のある場所なのである。されば、龍之介は先に朔太郎を訪ねて、午後四時に菅邸へ行ったと考えるが普通であろう(夕刻以降に萩原朔太郎を訪ねるのは少し失敬だと私は考えるからである)。さすれば、この言を素直に真に受けるならば、龍之介は菅から漱石の短冊の箱を受け取ったその足で、日暮れ時以降に湯河原へ帰ったことになる(江ノ電で藤沢に出る方法もあるが、藤沢までの時間がかかるから、横須賀線で大船で東海道本線下りに乗り換えて行く方法を採ったと思われる。孰れにせよ、夜にはちょっと面倒だねぇ、湯河原に帰らねばならない理由がないとなら、私だったら、断然、小町園に泊まるね)。しかし、私の疑惑は、それでも、少しも晴れないのである。則ち、やはり、一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたと断言出来ないことは変わりなく、一月二十八日に自宅へ戻るや、必要な口頭指示を家人らに伝え、最小限の必要な書物・物品を持って、すぐに自宅を出て、小町園に行き、泊まったとも考え得るからである。しかも、ここで犀星に朔太郎を見舞った事実以外は事実を語らなければならない理由はないわけだから、龍之介は菅邸から小町園に行って泊まり、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、同じように証明されないのである(なお、二月二日の午後に湯河原にいたという事実は先の小穴宛書簡で取り敢えずは真とし得る。但し、厳密には、その消印が湯河原管内であることを現認しないうちは私はそれも確実とはしないものであるが)。やはり小町園に五泊居続けしたかも知れないという私の疑惑は、そのままに残るのである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・眞野友二郞宛

 

冠省。度々御手紙難有く存じます。小生は先月以來當溫泉に靜養して居ります。今月末には歸京致しますから、畫帖はその節必ず何か書きなぐります。(前に送つて頂いた畫帖もそのままに相成り居り、厚顏なる小生もさすがに恐縮に存じて居ります。)小生の病はアトニイと酸過多[やぶちゃん注:ママ。]と神經衰弱とのよし、日々藥を三つものまねばならず、不景氣な顏をして暮らして居ります。右とりあへず、(お手紙は東京から轉送して來る爲、大分遲れましたが)御返事までにこの手紙をしたためました。頓首

    二月十六日      芥川龍之介

   眞野友二郞樣

 

[やぶちゃん注:「眞野友二郞」既出既注であるが、再掲すると、新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、旧全集で宛名書簡は十三通を数え、他の通信文から見ても、芥川龍之介の熱心な読者で、龍之介も丁寧に書簡で応じていた人物であったと考えて問題はないと思われ、また、既に示した彼宛の書簡では、薬物を送って貰っていることから、本業は医師である可能性もあるように思われる。而して、ここまで来て、私は、この愛読者は、やはり医師ではないか? と疑り始めている。芥川龍之介は医師と親しくなることで、ともかくも、普通は手に入らない薬物(自殺するための劇薬に限るものではない。催淫剤などだってあり得る。実際に龍之介は、この後、小穴にその入手(但し、表向きはあくまで自殺するための劇薬として)を頼んでいるのである。既注を入手する便宜を図ってもらおうとする傾向がかなり前からあったのではなかったか? と、疑り始めているのである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月十六日・消印十八日・東京市小石川區丸山町小石川アツパアトメント 小穴隆一樣(絵葉書)

 

一昨日小峯、拙著二種持參致候。裝幀澁くして上等なり。第一朱字のうまいのに驚嘆致し候。お禮はあの本より印税に致し度、爾今二分だけお納め申さす可く候。それからお尋ねの件、ポルトレエにてよろしく候。小生病狀依然。

十六日                龍

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜に、この二日前の二月十四日日曜日に『小峰八郎(文芸春秋社出版部部長)が湯河原を訪れ』、小穴隆一の装幀になる『再刊本『地獄変』『或日の大石内蔵之助』を見せられ』たとある。発行は二月八日であった。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月十九日・湯河原発信・鹽田力藏宛(絵葉書)

 

御手紙ありがたく拜見仕り候、仰せの旨菊池へ申し遣り候間返事有之次第、高敎を仰ぐ事も御座侯べくその節は何分よろしく願上げ候右とりあへず御禮まで

    十九日  相州湯河原 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「鹽田力藏」(しおだりきぞう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年)は陶磁器研究家。陸奥国福島出身で、福島師範学校(現在の福島大学)卒。明治三一(一八九八)年に岡倉天心が日本美術院を創立した際に学術部に参加し、以後、日本及び中国の陶磁器の研究・啓蒙に尽した。著書に「陶磁器工業」「寂円叟―陶雅新註支那陶器精鑑」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「菊池」は菊池寛であろうが、話の内容はよく判らない。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省改造社の人に聞けば君のお父さまの御病氣の爲君も國へ行つたよし御容態如何かと思ひ、この手紙をしたゝめ候僕の病は君の奧さんの御料理の所爲ならば幸福だが酸過多とアトニイと神經性消化不良と併發しこの儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひと云ふのだから往生した目下詩も何も作る勇氣なし況や小說をや何だかお父樣の御病氣見舞の手紙に駄辯を弄して相すまぬがこの前の手紙に返事を書かなかつた故それを兼ねたものと勘辨してくれ給へ 草々

    二月二十日      龍 之 介

   春 夫 兄 侍史

二伸 僕の叔父腦溢血にて半身不隨になり、その爲に咋日湯河原から歸つた

 

[やぶちゃん注:この前日の二月十九日に亡き実父新原敏三の弟細木元三郎(ほそきもとさぶろう)万延元(一八六〇)年~昭和六(一九三一)年)が脳溢血で倒れたという急報が入ったため、龍之介は、急遽、フキとともに田端へ戻っている。予定では二十三日頃まで滞在する予定であった。ここで一言言っておくと、この細木元三郎は、無論、元新原姓であったのだが、彼は、実は、幕末の大通で俳人でもあった、

細木香以(ほそきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の孫娘(香以(本名は藤次郎)の実子桂次郎の一人娘)であった「ゑい」に婿養子として入って細木姓となった

である。則ち、

芥川龍之介の実母フク及び継母に当たるフクの妹フユの孰れもが、香以の直孫細木ゑいは義理の叔母に当たる

ことになるのである。しかし、

実はそれに留まらぬ細木香以との多重的関係が龍之介にはある

のである。それは、

養母の芥川儔(とも)の母親が――これまた――細木香以の妹――須賀である

という驚天動地の事実である。こうした系図関係は、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「系図」に拠ったが、恐らくは現在でも、この系図が、容易に見られて、しかも、信頼度も高い芥川龍之介に纏わる系図の一つである。手軽に見られるものでは、少し古いようだが、より緻密な新原家関係の系図では、森本修氏の論文「『芥川龍之介伝記論考』補遺――新原家をめぐつて[やぶちゃん注:ママ。]――)」PDFでダウン・ロード出来、そこに載る系図を見ても、新原家の方の関係は確認が出来る。則ち、しばしば見かける芥川龍之介の記載にあるところの「細木香以の姪がフク及びフユである」という謂いは(例えばウィキの「細木香以」には『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある)、

新原家系図だけを見ていたのでは、全く判らず、芥川家の儔(とも)の系図を辿ってみて、初めて判ること

なのである。実は、この関係表記は、こうした二家の交差を理解せずに書いたために生じた誤りが、以前からしばしば見られ、例えば、私の「宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1)」では、宇野は、

「芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(儔〔とも〕)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。」

と述べており、細木香以の直系の「実の孫」である「えい」を「細木香以の姪」とするとんでもない誤りを犯してしまっているのである。これらの誤解や錯誤の淵源は恐らく、森鷗外の「細木香以」にあると考えてよい。但し、そこには芥川龍之介も関係しており、そこに文壇情報屋的な厭らしい小島政二郎も絡んでいる。それを話し出すとキリがないので、私の「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい。なお、そちらでは注がゴタゴタするのが厭だったので、新原家の方からの細木香以との縁戚関係は敢えて触れていないことを先に申し上げておく。また、興味を持たれた方は、「芥川龍之介 手帳補遺」も強力にお勧めである。是非、読まれたい。謂わば、「孤獨地獄」の創作メモを含むものである。

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十一日・年次推定・田端発信・與謝野寬宛

 

冠省御手紙ありがたく拜見仕り候但し小生は舊臘來體を損じ居り月々の仕事も出來ず、難澁致し居り候間まことに恐縮には候へども講演の儀は當分御免蒙り度願上候なほ又末筆ながらこの間は奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし難有く御禮申上候右とりあへず御返事まで 頓首

    二月念一日      龍 之 介

   與 謝 野 樣

 

[やぶちゃん注:「舊臘來」「きうらうらい(きゅうりょうらい)」。昨年の十二月以来。

「奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし」與謝野晶子がどの作品を褒めたのかは不詳。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十三日・田端発信・竹中郁宛

 

冠省 黃蜂と花粉 を頂きありがたく存じますいつぞやお約束した「樹」はもう少々お待ち下さい右とりあへず御禮までにこの手紙をしたゝめました 頓首

    二月念三日      芥川龍之介

   竹 中 郁 樣

 

[やぶちゃん注:「竹中郁」(いく 明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は詩人。本名は育三郎。兵庫県神戸市兵庫区出身で、生家は裕福な問屋であったが、一歳の時に紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西(かんせい)学院大学文学部英文学科卒。中学時代から北原白秋に傾倒し、『近代風景』・『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としてスタートを切った。大正一三(一九二四)年の『日本詩人』(「新詩人號」)で詩壇に登場し、「海港詩人俱樂部」を結成、詩誌『羅針』を編集する一方、北川冬彦・安西冬衛らのグループ『亜』とも交流を持ち、モダニズムのスタイルの影響を受けている。この大正十五年に処女詩集「黄蜂と花粉」を発表した。昭和三(一九二八)年に渡欧し、二年間に及ぶパリ生活で、モダニズムの美と思想を満喫し、特にジャン・コクトーやマン・レイと芸術的交遊を結んだ。帰国後、『詩と詩論』にシネ・ポエムを発表し、衝撃を与え、昭和七(一九三二)年には、昭和詩史の詩的青春を飾るエスプリ・ヌーボーの記念碑的詩集「象牙海岸」を刊行した。『ドノゴトンカ』・『詩法』・『四季』に参加し、第二次世界大戦中は、「中等学生のための朗読詩集」(昭和七年・湯川弘文社)や「新詩叢書」(全十七巻・同社)を企画し、詩の危機を乗り越えた。戦後は、児童文学誌『きりん』を指導するなど、詩の社会化を志向した(以上は当該ウィキの頭と、小学館「日本大百科全書」をカップリングした)。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十六日・田端発信・室生犀星宛

 

咋日は失禮仕り候石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候なほ又女性六月號おかし下され候はば幸甚に御座候いつもいろいろ御厄介ばかり相かけ恐縮の外なし右あらあら當用のみ 頓首

    二月念六日          澄

   魚 先 生

 

[やぶちゃん注:「石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候」芥川家の石油ストーブが壊れたか? 前に犀星が予備のストーブを持っていることを聴いていたのかも知れない。

「女性六月號」芥川龍之介は前年の六月一日発行の『女性』に「溫泉だより」を執筆している。同小説を芥川龍之介は自死の直前の最後の作品集となる「湖南の扇」に収録していいる。或いは、同誌や原稿を紛失したかして、後の作品集収録のために、筆写・修正するために借りたものかも知れない(当該作は原稿用紙十六枚半)。因みに、初出と作品集「湖南の扇」では四ヶ所の相違がある。]

 

 

大正一五(一九二六)年二月二十八日・田端発信・南條勝代宛

 

冠省、御手紙拜見仕り候。來月四日午後二時にお出で下され候はば幸甚に御座候。但しまだ健康恢復せず、元氣無之候間碌な事はしやべられぬものと御覺悟なされ度願上候。頓首

    二月二十八日     芥川龍之介

   南 條 勝 代 樣

  二伸「お安じ」はいけません。「お案じ」です。

 

2021/08/27

芥川龍之介書簡抄129 / 大正一五・昭和元(一九二六)年一月(全) 二十七通

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の自死まで、一年と七ヶ月足らずとなった。以下、底本の岩波旧全集では二百五通を残すのみである(末尾に配された「年月未詳」書簡は除く)。されば、龍之介の自死に至る痕跡を書簡でも追って見たく感ずるので(それがはっきり見えると言っているのではない。痕跡を検証するための方途としての最低限の処理として、の意ある)、以下、この二百五通総てを電子化することとした。中には、ほぼ定式の挨拶や事務処理の内容も多いが、年初より、有意に身体と精神の著しい変調が綴られてあり、時に不定愁訴にも近いかとも思われる記述が見えることに気づくであろう。但し、今までのような、神経症的な注は附さないつもりである。悪しからず。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかない。なお、旧全集の日付で確認出来る狭義の昭和元年の芥川龍之介書簡は瀧井孝作一通(擱筆十二月二十五日・消印十二月二十六日)のみである。]

 

大正一五(一九二六)年一月一日・田端発信・石黑定一宛(年賀状(恐らくは印刷)に書き添え)

 

あなたも二人のお子さんのお父さんにおなりだと思ふと實際年月の流れるのを感じます

[やぶちゃん注:「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)は岩波新全集の「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺両氏編著)によれば、芥川がこの二年前の大正一〇(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人』で、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)卒で、当時は三菱銀行上海支店に勤務しており、後に『同行名古屋支店長をつとめた』とある。龍之介の「侏儒の言葉」の中の「人生」に唐突に「――石黑定一君に――」として名が出るので、知っている人も多いであろう。但し、『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生(三章)』で考察したように、この献呈の意味は特に明らかにされていないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月八日・田端発信・谷口喜作宛

 

冠省無精の爲御年始も申上げず失禮いたして居ります又昨日は結構なものを頂き、難有く存じます尤も小生目下胃腸を害し居る爲あの一口最中も一度に三つしか食べられず太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]殘念ですが如何とも致されません右とりあへず御禮まで 頓首

    正月八日夜       芥川龍之介

   谷口喜作樣

 

[やぶちゃん注:甘党の首魁芥川龍之介にして、新年早々、大好物であるはずの「うさぎ屋」の小さな一口最中さえ、ろくに食せないというのは、冗談ではなく、頗る深刻な様態と言える。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月九日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

謹賀新年

十二三日頃湯河原へ湯治に出かける筈、二三週間はゐる、君は來ないか? 奧さんにもよろしく

               芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:体調不良改善の目的で、芥川龍之介は、結果して、この一月十五日の午後に静養湯治のために湯河原に出かけ、中西屋旅館(「湯元通り」にあった老舗であるが、現存しない)に翌二月十九日まで、凡そ一月余り滞在した。南部が湯河原へ来た形跡はない。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十二日・田端発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省朶雲奉誦仕り候御令息にはいつも御厄介に相成り居り候次手を以てお父樣にもお禮申上候扨小生は小學時代より字は下手にていつも乙や丙ばかり貰ひ居り、今日も誰にも褒めめられたる事無之、小生自身も古今の下手を以て任じ居り候所思ひがけなくもお褒めにあづかり大いに嬉しく候へども汗顏千萬にも存じ居り候就いては御令息の御煽動により、大膽にも駄句を書きたる小帖一册お手もとにさし上げ候間御笑覽下され候はば幸甚と存候なほ末筆ながら寒氣きびしき折から御健勝のほど祈り上げ候 頓首

    一月十二日      龍 之 介

   佐 藤 樣

 

[やぶちゃん注:「佐藤豐太郞」(文久二(一八六二)年~昭和一七(一九四二)年)は医師であった作家佐藤春夫の父。佐藤家の家系は代々紀州の現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で医を業とし、父の豊太郎までに九代を数えている。豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもあり、鏡水を号した。春生は長男である。豊太郎は和歌山医学校で医学を修め、後に順天堂に学んで、新宮町登坂で熊野病院を開業していた(ここに移ったのは豊太郎の先代から)。

「駄句を書きたる小帖一册」龍之介が直筆で俳句(或いは絵も。以下の佐藤春夫書簡参照)を記した贈呈用画句帳と思われる。知られる刊本の「澄江堂句集」は、龍之介自死後の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月で、香典返しとして配られたものであるので、注意されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十三日・田端発信・東宮豐達宛

 

朶雲奉誦どうか御遠慮なくお譯し下さい名前はアクタガハリユウノスケであります なほ又どうかこれをお譯し下さいと申上げるほど自信のある作品もありません右とりあへず御返事まで 頓首

    一月十三日      芥川龍之介

   東宮豐達樣

 

[やぶちゃん注:「東宮豐達」(とうぐうとよたつ 明治二七(一八九四)年~昭和二(一九二七)年)は筑摩全集類聚版脚注によれば、東京帝大『医科卒のエスペランチスト』で、芥川龍之介の『「開化の殺人」などのエスペラント訳を試みた』とあり、新全集の「人名解説索引」には、『東京生まれ』とし、『父は神道の一派の教主であったが』、『本人はキリスト者』で、『海軍軍医をつとめた後』、『小田原・別府・長野県中野・広島県庄原などで病院長を歴任するかたわら』、『武者小路実篤の作品や『歎異抄』などのエスペラント訳を出している』として、この書簡のことが書かれ、龍之介が承諾した旨まで記されてあるが、『作品選定もなされ』、九『月頃には』翻訳作『業が始まったが』、『東宮の他界で実現はしなかった』とある。エスペラント(Esperanto)語はポーランド(出生当時はポーランドは帝政ロシア領)のビアウィストク出身のユダヤ人眼科医ルドヴィコ・ザメンホフ(エスペラント語:Lazaro Ludoviko Zamenhof 一八五九年~一九一七年:心臓病による病死)が一八八七年七月に‘Unua Libro ’(エスペラント語で「最初の本」)で発表した国際的人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、国際補助語としては最も世界的に認知されているもので、普及の成果を収めた言語となっている。「エスペラント」は同言語で「希望する人」の意である。ラテン系語彙を根幹とし、母音穂五、子音二十三を使用する。基礎単語数は千九百ほどで、造語法もあり、文法的構造は極めて簡単。日本では、明治三九(一九〇六)年に「日本エスペラント協会」が設立されている。私は感情表現に劣るという批判を聴いたことがある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十四日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省先達は御馳走さま、畫帖は小さいのを一つ君のお父さんに贈つたそれから堀口君に支那游記を送らんとするに「冥途」を送る次手あれば、君の所ヘ一しよに送る同君に獻上されたし僕胃を病み、腸を病み、更に神經性狹心症を病み、今夜か明日湯治に出かけるこれでもう雜用紛々の爲、三日も四日も延ばしたのだ、新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや「戀の歐羅巴」は奔放自在なる餘り却つて人をして憂鬱ならしむ、どうも僕の狹心症は多少あの本に祟られたやうだ 頓首

               芥川龍之介

   佐藤春夫樣

二伸 生田さんの會のこと僕の權利は全部君にまかせる適當に所理[やぶちゃん注:ママ。]してくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「支那游記」既出既注。前年の大正十四年十一月三日に改造社から刊行された中国紀行集成「支那游記」。

「堀口君」詩人でフランス文学者の堀口大學(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年:龍之介と同年)。春夫が明治四三(一九一〇)年上京して、生田長江に師事すると同時に、與謝野鉄幹の新詩社に入った際の同人に大學がおり、それ以来の友人であった。

「冥途」龍之介の友人で作家の内田百閒(明治二二(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)の処女作品集(大正一一(一九二二)年刊)。

「神經性狹心症」主にストレスに拠る自律神経失調症に起因する狭心症。心臓の血管が狭くなることから起こり、強い胸の痛みを伴うこともあり、場合によっては、心筋梗塞を引き起こすもの。

『新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや』原句知りたや。「佐藤春夫全集」には載っているだろうなぁ。

「戀の歐羅巴」これは佐藤春夫の作品ではなく、堀口大學の翻訳本。作者はフランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二年)と「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベスト・セラー作家となっていた(孰れも二年後に堀口が訳している)。「恋のヨーロッパ」(L'Europe galante)はこの前年一九二五年の発表で、十四篇から成る短篇小説集。堀口は同年大正十四十二月に早くも出版している。堀口のこの頃の翻訳は、原初の刊行から、あまり時を移さずに素早い。

「生田さんの會」「北さん」は生田長江(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)で既出既注。佐藤春夫は彼の直弟子であったが、この頃から、長江が罹患していたハンセン病が進行し、容貌の変容と失明にも至ったが、それでも活動は衰えなかった。この会もそうした弟子や作家仲間の激励会なのであろうが、春夫は立場上、音頭をとる役なのであろうけれども、春夫は実際には、かなり以前から彼の罹病を嫌って避けていたようである。「僕」芥川龍之介「の權利」というのは、よく判らない。ある種、病的な潔癖症でもあった龍之介は、この会には呼ばれても出る気は全くなかったことは明らかである。ハンセン病は当時(というより、今も)、差別的に忌み嫌われた病いであったのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省先日はいろいろ御厄介に相成り難有く存じ奉り候友人蒲原君に持たせ候品つまらぬものながらおん目にかけ候なほ伊藤左千夫先生の御遺族の宿所、蒲原君にお敎へ下され候はば幸甚に御座候 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

二伸 今日これより湯河原へ參り候 頓首

 

[やぶちゃん注:「蒲原君」既注だが、再掲する。弟子渡邊庫輔の友人で長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)。前回の長崎行で非常に親しくなり、渡邊と一緒に上京して龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして、多くの仕事を手伝った。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。

「伊藤左千夫先生の御遺族の宿所」これは推理に過ぎないが、既刊(この前年)の「近代日本文藝讀本 第五集」に『「天地の」其の他』として伊藤の作品が載っており、その著作権料を遺族に支払おうとしているのではないかと私は思う。次の次で著作権に触れて述べているが、前にも述べた通り、「近代日本文藝讀本」(興文社刊・芥川龍之介編集・全五巻・大正十四年十一月八日全巻同時刊行)の著作権や印税のトラブルは、徳田秋声の強烈な抗議を始め、この後もずっと続き、芥川龍之介を激しく悩ませる大きな一因となっていた。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・菅虎雄宛

 

冠省先生には不相變益御健勝の事と存候先達は又忠雄さんを煩はし箱書きのことを御願ひ致し、失禮の段不惡御ゆるし下され度候右夏目先生の短尺の箱はいづれ小生參上頂戴仕る可く候間それまで御手もとにおとどめ置き下され度候右我儘ばかり申し恐れ入り候へどもよろしく御取り計らひ下され度願上げ候小生目下胃腸を害し居りこれより湯河原へ避難する所に御座候 頓首

     一月十五日     龍 之 介

   菅 先 生

  二伸不相變惡筆無双なる事おわらひ下され度候

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、この日の午後に芥川龍之介は湯河原へ発った。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・湯河原発信・山本有三宛

 

冠省、その後胃腸は惡いし神經衰弱は强いし、痔は起るし、大いに閉口 唯今ここに半病人生活を送つてゐる。

扨著作權法の事なるが

㈠有報酬たると無報酬たるとを問はず作家の許可だけは請ふ事にしたし。これは若し請はれれば、テキストを敎ヘられるだけにても便宜なり。

㈡それから遺族は少し古くなると中々宿所わからず、その宿所錄を作る事も著作家協會の仕事としてよからん。

㈢それから「正常の範圖内にて拔萃蒐輯する事」と言ふのは如何にや。十七字の俳句、三十一文字の歌などは五六字づつとられるやうに聞えざる乎。拔萃は選擇とか何かした方よからん

㈣「正常の範圍内にて」も曖味なり。僕の讀本なども知らず識らず頁數殖えたれば正當の範圍を越えたるやも知れず。正當の範圍を越えたりとて罰せられればそれ迄なり。(勿論罰せられては困るが)何册何頁以下と制限する方よろしからん乎。尤も活字の號や行數によりてはそれも確かには行かなかるべし。

宿所錄を拵らへる事等の費用には僕の讀本の印税を當ててもよろし。

今日夕刊にて大橋さんの變死を知り、なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した。菊池は旅行中のよし保險會社の人に聞きし故とりあへず君にこの手紙を出す。

なほ上記四件は委員會へかける前に菊池に一應話して見てくれ給ヘ

    一月十五日      芥川龍之介

   山本有三樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介とは年上乍ら、山本有三は第四次『新思潮』の同人同志であり、菊池寛や芥川龍之介らと、「日本文藝家協會」を結成しており、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。ここは、より緻密な著作権法案を協会として、政府に示すための発議案の作成に伴うやり取りと推定される。「近代日本文藝讀本」でさんざん塗炭の苦しみを現に受けている芥川龍之介には、生身に染みた実作業上での重要な体験見解に基づく発言であると言える。

「大橋さん」芥川龍之介が媒酌をつとめた弟子の佐佐木茂索の夫人房子は、十一歳で実の姉であった大橋繁の養女となっていたが、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では、その養母で実の姉の『繁の主人が急逝した』とある。新全集の宮坂覺氏の年譜では房子の『実父が変死』とあるが、次の次の大橋繁宛書簡で前者の方が正しいことが判る。「變死」とは穏やかでないが、詳細は不詳。

「なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した」前記石割氏の注に、『佐佐木茂索と大橋房子の結婚、それに作家岡栄一郎と野口功造』(芥川龍之介の幼馴染みの親友)『の姪野口綾子の結婚に際しても媒酌をつとめたが、岡夫妻』の方はじきに『離婚した』とある。後者の件は既に注してある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

湯河原中西の二階に在り、ちよつと游びに來ては如何、梅は既に開きたれど、寒さは大して東京と變らず、(尤も女中に聞けば、これは今日だけのよし)

   栴檀の實の明るさよ冬のそら

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「栴檀」既出既注。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。実(み)は暖かな場所では、一月半ばでも落ちずに見られる。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・大橋繁宛

 

拜啓御主人御長逝の趣承り御哀悼の情に堪へず候小生自身も神經衰弱の爲、當地に養生致し居り候へば一層默然たるもの有之候 頓首

    一月十六日夜     芥川龍之介

   大 橋 樣

 

[やぶちゃん注:この文面から見るに、やはり、単なる病死ではないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)

 

昨夜ここへ參りました 地震で山が崩れたり、宿(中西)が全く別な所に移つてゐたりして甚だ有爲轉變を感じました どうかそのうちにお遊びにお出で下さい 頓首

    十六日 相州湯河原中西  龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)

 

織田時代上下篇なる可く早くお送り下され度候 こちらに參ると、何もする事なければ本を讀む速力早くなり候

それから書齋に赤松月船と言ふ人より送り來れる小包みあり、それも次手にお送りを乞ふ 頓首

    十六日

 

[やぶちゃん注:「織田時代上下篇」後の芥川道章宛書簡及び翌月の二月八日附片山廣子宛書簡から、民友社の徳冨蘇峰の「近世日本國民史」の「織田氏時代」と断定出来る。かつて調べた際、同前のシリーズの第一巻から第三巻の「織田氏時代」パートで、「織田氏時代前篇」が大正七(一九一八)年十二月に、「織田氏時代中篇」が 大正八年六月に、「織田氏時代後篇」が同年十月に初版が出ている。「上下」とあるが、これは、ただ、「中」を書き忘れただけであろう。

「赤松月船」(明治三〇(一八九七)年~平成九(一九九七)年)は詩人で曹洞宗僧侶。 岡山県浅口郡鴨方村(現在の浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、十三歳で得度し、大正三(一九一四)年から新居浜の瑞応寺で修行、大正五年より総本山永平寺で修行したが、大正七年に僧籍を離れ、上京して、生田長江に師事した。佐藤春夫・室生犀星らと交流して文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加した。昭和一一(一九三六)年に岡山県に帰り、僧籍に戻り、洞松寺(矢掛町)・善福寺の住職となった。後、曹洞宗特派布教師・正教師を歴任し、昭和六〇(一九八五)年には曹洞宗権大教正となっている(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十八日・湯河原発信・東京市小石區丸山町小石川アツパアト・メント内 小穴隆一樣(絵葉書)

 

每日退屈に日を暮らしてゐます。大橋女史のお父さんが變死したので又ぞろ少々憂鬱になりました。どうも小生の關係する緣談は皆惡い事を招くやうな氣がする。

君も精々氣をつけ給へ。どうもかう内外多事ではやりきれない。春陽會の畫出來つつありや否や。

    十八日            龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・下島勳宛(絵葉書)

 

こちらはさすがに暖く梅花も滿開に御座候但し胃の具合あひかはらずよからず、就いては散藥儀あます所二日半と相成り候へば、もう二週間分ほど頂戴仕り度候。尤も次手有之候へば、わざわざお送り下さらずとも宅より頂戴に出るものにお渡し下され候はば結構に御座候。

    一月二十日 湯河原    龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月二十日 湯河原中西 芥川龍之介

 

冠省。御手紙東京より同送し來りて拜見、尤もその前に大橋樣へはお悔み狀を差し上げ、(番地わからねど、三溪園近傍としたり)宅へは荆妻に大橋樣へお悔みに參るやうに申しつけ候。小生自身參上しなければならぬ所なれど、何分胃は惡し、腸は惡し、神經衰弱は甚しいし、大いにへこたれ居り候へば、歸京の節にても大橋樣へは參上仕るつもりに候。どうか右惡からず思つてくれ給へ。小生は二月近くの不眠症未だに癒らず、二晚ばかり眠らずにゐると、三晚目は疲れて眠るには眠るが、四晚目は又目がさえてしまふ。かかる間に大橋樣の訃に接し、すつかり神經的に參つてしまひ候。岡と云ひ、君と云ひ、僕の關係する緣談は悉不幸を齎すに似たり。實際ここに欝々と日を送つてゐると、(それも下島先生所方の胃の藥と齋藤茂吉所方の神經衰弱の藥とをのみつつ)遁世の志を生じ候。奥さんも定めし弱られ居るべし。どうかよろしく申にげてくれ給へ。兎に角生きてゐるのは樂じやない。正宗白鳥は國へひつこむよし、健羨に堪へず。右とりあへずお悔みかたがた御返事まで、頓首

    一月廿日       芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 高作「靑きを踏む」第一ならん乎。「ふるさとびと」も結構なれど少々書きかた不丁寧なり。僕の夢を冒頭に使つたのは前には唯「子供の病氣」あるのみ。「度々使つた技巧」には抗議を言ふよ。この頃サラアベルナアルのことを書いたメモアを一讀、これも遁世の念を生ぜしめただけだ。橫濱まで參らるる次手にちよつとここまで足をおのばしになることは出來ずや。世の中の憂きことどもの話をしたい。

 

[やぶちゃん注:「靑きを踏む」前掲書の石割氏の注に、『佐々木茂索の『女性』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「ふるさとびと」同前で、『佐々木茂索の『中央公論』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「子供の病氣」大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に掲載され、後に作品集「黄雀風」(大正一三(一九二四)年七月一八日刊行)及び「芥川龍之介集」に所収された。本作は次男芥川多加志の発病から入院、後に全快するという、大正一二年六月八日(金曜日)の朝から十一日(月曜日)深夜までの事実に基づく四日間を主に描いた小品である。この出来事は既に既注であるが、「子供の病氣――一游亭に―― 芥川龍之介 附やぶちゃん詳細注」を参照されたい。

「健羨」(けんせん)は「非常にうらやましく思うこと」の意。

「サラアベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)は天才として伝説化された、フランスの「ベル・エポック」時代を象徴する大女優として知られるフランスの大女優。パリ生まれ。本名はロジーヌ・ベルナール(Rosine Bernard)。演劇学校卒業後、普仏戦争前後が女優としてのキャリアの開始で、一八六二年に「コメディー・フランセーズ」(Comédie-Française)にデビューし、一八七五年には同劇団の正式座員となった。一八七九年には巨匠ヴィクトル・ユゴーの戯曲「リュイ・ブラス」(Ruy Blas )の女王役で評判となり、イギリス・アメリカを巡演し、世界的名声を得た。一八八〇年に退団して、私設劇場を転々としつつ、「椿姫」・「トスカ」などのロマン派的悲劇のヒロインを演じ、大成功を収めた。一八九九年、「サラ・ベルナール座」を設立し、「ハムレット」の男役ハムレットを演じた。愛国精神に富み、第一次大戦時には戦地慰問を行った。彼女は天性の美貌と美声に加えて、卓越した演技力で人気を博し、世紀末の演劇の華で、国葬の栄誉を受けた。ユゴーには「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持った。十九世紀フランスに於ける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられている。ジャン・コクトーは「聖なる怪物」とも呼んだ。キャリアの終りの頃は、初期の新興メディアであった映画が制作された時代と重なっているため、数本の無声映画にも出演している。社会史の観点からは、一つの文化圏・消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及される。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」(Art nouveau)という当時の新芸術運動の中心人物であった(以上は当該ウィキと日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」の記載を参考にした)。

「メモア」フランス語「mémoire」。追想記。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・湯河原発信・山本有三宛(葉書)

 

冠省 この間は秦へお金や雜誌をとどけて頂いて難有う。秦のお父さんからお禮狀を貰ひ大いに恐縮した。ここも毛の足袋を必要とするほど寒い。但し梅花は滿開。

    一月二十一日     芥川龍之介

二伸それからこの前書き落したが著作權法の「修身書及讀本」も變だね。「敎科書及副讀本」位ではどうかね?

 

[やぶちゃん注:「秦」芥川龍之介の友人秦豊吉。既出既注。やはり、私には芥川龍之介の彼へのこういう謂いは、かなり違和感がある。龍之介が、何故、彼にこれほど親密なのかが、今一つ、判らぬからである。

「秦のお父さん」東京府東京市牛込余丁町の裕福な薬商であった秦鐐次郎。秦家は元は三重県東員町(とういんちょう)長深(ながふけ)で土建業をしていた一家で、四日市北町で「寿福座」という芝居小屋も経営していた。明治一一(一八七八)年に豊吉の祖父専治が上京し、饅頭屋を経て、日本橋で生薬問屋「専治堂」を開業、豊吉の父親はその長男で、家業と祖父の名・専治を継ぎ、西洋雑貨なども扱った(以上はウィキの「秦豊吉」に拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・芥川道章宛

 

一、御手紙二通拜見、比呂志籤に通りたる段祝着に存候文子、佐佐木へ參り候事も名案に御座候。小生は大橋さんへ悔み狀を出し置きたり。歸りにでもちよつと寄るか、出直して悔みに參るべし。文子御苦勞樣に御座候。

二、女中力石にたのみやり候へば、そちらにても精々御さがし下され度候。

三、をばさんなる可く早くお出で下され度候。一人にてぽつねんとしてゐるのはやり切れず、今月中にお出で下されずは歸京する外は無之候。アダリンを使はず、夜中起きてゐる時などは實に閉口致し居候。

四、本の外に心を慰むるものなし。この手紙つき次第、蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册(合計九圓)至急お送り下され度候。先便お送りのはもう一册讀了いたし候。なほ又それをお送り下され候節、梁塵祕抄(これは書齋の床の間の側の芭蕉布の戸棚の中にあり)もお送り下され度候。本は義ちやんにもおたのみ下され度候。

五、小包みは二つ受けとり候一つは明石の原稿と近世日本國民史、一つは猪狩史山の女禍傳(大阪屋出版)に御座候。義ちやんより大雅堂の本を送りし由なれど、それはまだとどかず候。

六、胃の具合未だわるく、散藥缺乏につき、下島さんへもう二週間分願ひ候へども、御發送の手數をかくるは御氣の毒につき、本を送る中へ入れてお送り下され度候。

七、寒きうちは腦溢血患者多きよし、平生よりお酒すごさるる事禁物に御座候。おばあさんも炬燵にゐて風をひくべからず。

八、小生留守中は義ちやんも何かと不便多からん。よろしく御面倒を御覽下され度候。

九、也寸志の便祕なほりたりや。湯河原は下痢を直すのに特效あるせゐか、小生も便祕して困り居り候。(伯母さんお出の節ビオフェルミン一罎御持參下され度候。お送りには及ばず)比呂志、試驗に通るやうに存じ候へども親の慾目にや。

十、土屋の番地知らねば、小生宅氣附にて手紙を出し候間、ちよつとおとどけ下され度候。土屋のうちの位置は左の通り。

[やぶちゃん注:底本にはここに数ポイント落ちの編者注で『〔ペン書きの地圖あり〕』とあって、地図は載っていない。]

十一、當地は梅も開き居り候へば、幾分か東京よりも暖からん乎。宿は目下滿員にて朝夕は湯にはひるのに困り候。

    一月二十一日     龍 之 介

   父 上 樣

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「比呂志籤に通りたる段」筑摩全集類聚版脚注に、『小学校〔高師付属小学校〕』(東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)『の入学試験は抽選で銓衡』されたとあり、比呂志は、無事、試験も合格して、この年の四月初旬に同小学校に入学している。

「女中力石にたのみやり候へば」「力石」はこの当時は『改造』の記者をしてた、まさにこの神奈川県足柄下郡湯河原町出身の作家で龍之介の書生のようなこともしていた力石平蔵(明治三一(一八九八)年 ~昭和五〇(一九七五)年)は芥川龍之介作の「トロツコ」(大正十一年)・「百合」(同前)・「一塊の土」(大正一三(一九二四)年)の元となる作品を芥川に提供したことで知られる。但し、少なくとも「トロツコ」については、私は、龍之介が手直しして呉れる思って力石が渡した原稿を、龍之介が徹底的に書き換えて、自作として発表し、それを見た力石は、力を落して「私の作品ではなくなった」と妻に呟いた、という文章を読んだ記憶があり、かの名品「トロツコ」は正直、芥川龍之介による残念な盗作レベルの仕儀と断じてよいように考えている。確かに、或いは力石の作としてそのまま発表したら、衆目の眼に留まることはなかったかも知れないし(そういうことを芥川龍之介は力石に直接語ったという風にも私は聴いている)、「トロツコ」は芥川龍之介の作品の中でも一際光りを放っている珠玉の小品であるのは、芥川龍之介が彫琢した結果であるのかも知れない。にしても、盗作は盗作である。これは厳に言い添えるべきものと考えている。平三・平造とも書くが、本名は平蔵である。当該ウィキによれば、湯河原の実家の家業は石材業で、高等小学校卒業後(在学中はトップに近い成績で、読書好きであったとされる)は家業に従事したものの、十四歳の時に父が、十八の時に母が逝去してしまった。二十二歳の時、近くの二歳下の女性と親しくなったが、先方の親が交際に否定的であったため、二人で「駆け落ち」の体(てい)で上京した。相手も彼と同じく文学好きであったことから、たまたま彼が龍之介と知り合った結果、芥川家に出入りするようになった(後に二人は結婚している)。『芥川は書簡で』、『力三と思われる人物の就職斡旋を依頼したり』しており、また彼は『芥川が湯河原で湯治をする際の手配、芥川の自宅の家政婦の手配をするなど』(この書簡部分がそれ)、『両者は親しい関係を築』いたように傍目には見えたようである。『「トロツコ」の末尾の段落に「(主人公の)良平は(中略)校正の朱筆を握つてゐる。」とあるのは』、発表当時、『力石が出版社の校正係をしていたことに基くものであると見られている』。『本人の作品としては』大正一五(一九二六)年第一回『文藝春秋』懸賞小説募集に「父と子と」を「力石平三」の名で応募し』、『文藝春秋』の、まさにこの翌月の大正一五(一九二六)年二月号の『創作欄に掲載されているものがある』(恐らくは芥川龍之介が菊池寛に推薦したものと推察されるが、平然を装っていた龍之介も流石に「トロツコ」のそれについては、どこかで落とし前をつけてやらねばならないと考えていたのではあるまいかと私は推理している)。『戦後は横浜市の運輸会社に』、『一時期』、『勤務した後、子孫に囲まれて余生を送った』とある。

「をばさん」芥川フキ。

「アダリン」Adalin(ドイツ語)。一九一〇年にドイツの製薬会社バイエル社が製造し、催眠薬として発売した、微苦味を有する白色無臭の結晶性粉末。催眠・鎮痛剤の一種。「アダリン」は商標名で、一般名は「カルブロマール」(Carbromal:英語)で、化学名は「ブロムジエチルアセチル尿素」(2-Bromo-N-carbamoyl-2-ethylbutanamide)。日本では「日本薬局方」に掲載されていたが、昭和四六(一九七一)年の改正により、削除された。ここにある通り、龍之介や太宰治ら作家が好んで常用していたことでも知られる(当該ウィキ及び同英文ウィキ他を参照した)。

「蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册」先に注した徳冨蘇峰著のシリーズ「近世日本國民史」の第四巻から第十巻の「豐臣氏時代」パート。「豊臣氏時代甲篇」が大正九(一九二〇)年三月に初版が出て、以降、「豊臣氏時代 乙篇」(大正九年十二月)・「丙篇」(大正十年六月)・「丁篇 朝鮮役上卷」(大正十年五月)・「戊篇 朝鮮役中卷」(大正十一年一月)・「己篇 朝鮮役下卷」(大正十一年五月)・「庚篇 桃山時代槪觀」(大正十一年九月)に初版が発行されている。民友社の昭和十年刊でよければ、ここで「甲篇」から読める(乙・丁篇も続けて「後の巻号」で読める)。

「義ちやん」葛巻義敏。

「明石」(明治三〇(一八九七)年~昭和四五(一九七〇)年)は長崎県南松浦郡岐宿村出身の作家。慶応義塾大学普通部中退。同中退後、家業の酒造業を手伝ったが、それに馴染まず、上京して正宗白鳥、次いで、芥川龍之介に接近して教えを請うた(採用しなかったこの前の大正十四年四月十六日附の修善寺発信の渡邊庫輔宛書簡には、日曜面会日の常連の一人として出、龍之介は三百枚もの長篇を読まされたが、「相當に書けてゐる」と評価している)。この大正十五年に「父と子」・「半生」を発表したが(筑摩全集類聚版脚注では『のちにプロレタリア文学に転じた』とする)、十分な世評が得られぬまま、帰郷した。没年には「あのころの芥川龍之介」を発表している(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「猪狩史山」猪狩又蔵(いかりまたぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)は教育者・漢学者。福島県田村郡滝根村(現在の滝根町)出身。史山(しざん)は筆名。東京英語伝習所及び東京文学院哲学科卒(明治二六(一八九三)年)。商業との兼業農家の二男に生まれた。幼年時代から漢籍や書を学び、十四歳の時、福島市に養子に出されたが、不満が爆発し、養家を脱走したが、果せず、暫くは郷里で准教員を勤め、明治22(一八八九)年に、再度、出奔し、苦学しながら、東京文学院を卒業、日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)の教師となった。大正三(一九一四)年、杉浦重剛(じゅうこう)が東宮御学問所御用掛となり、御進講の「倫理」の草案づくりに着手すると、よき女房役として七年間、奉仕した。昭和八(一九三三)年から昭和一七(一九四二)年まで日本中学校校長を務めている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「女禍傳(大阪屋出版)」この大正十五年に大阪屋號書店から刊行されていることが、古書店の情報で判った。内容は不詳。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』としつつ、古代中国神話で人類を創造したとされる女神女媧の解説を「女禍」と表記してやらかしてあるのだが、それって「女媧」で「女禍」とは書かないぜ? まあ、龍之介が誤記した可能性は高いけれどね。

「土屋」恐らくは後に書簡がある土屋文明のことであろう。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・消印二十二日・湯河原発信・東京小石川區丸山町三十小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・一月廿一日夜 湯河原中西内 芥川龍之介

 

冠省、君の手紙を見てまた少しまゐつた。お腹立ちの事など何にもない。唯、この頃鬱々として日を送つてゐるものだから、大橋さんの變死に神經を起しただけだ。それから本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし。(これは改めんと思ひつつ、いつも忘れしもの)それから西田さんより同封の手紙來る。西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう。不眠は相かはらず。胃はまだ痛む。小康を得たのは痔だけ。實際くさくさしてしまふ。春陽會のハン入の節は御遠慮なく義ちやんを使つてくれ給へ。君の画の展覽される頃にはもう少し樂な氣になつてゐたい。

     一月二十一日        龍

   一 游 亭 樣

 

[やぶちゃん注:『本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし』小穴隆一が装幀を担当していた文藝春秋社出版部から刊行予定の再刊本作品集「或日の大石内藏之助」のこと。二月八日に同社同再刊本作品集「地獄變」とともに同日発売されたが、新全集宮坂年譜では、前者は守られたものの、後者は「之」が入ったままのようである。

「西田さん」西田幾多郎。以下の『西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう』は既に書いた通り、小穴と幾多郎の姪高橋文子の縁談が進展しないことを、龍之介が、気を揉んでいる小穴を慰める内容である。

「ハン入」作品の「搬入」。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)

 

冠省。每日無聊に消光、但し胃はあひかはらず惡い。不眠もなほらん。讀本の方はどうなりしか。氣になるゆゑ、ちよつと知らされたし。まだ皆すまずば、薰さんと協力し、お骨折りを得ば幸甚。神經衰弱は如何せしや。湯にはひるか、散步するか、つとめて血行をよくし、僕のやうにヒドイ目にあふことなかれ。

    相州湯河原中西内   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「讀本」例の「近代日本文藝讀本」のゴタゴタの後始末が全然終わっていないのである。

「薫さん」不詳。板元の興文社の担当編集者か?]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省、かかる紙にて失禮に候へどらも當地にはこの書簡箋の外無之候間これにて御免下され度候。御臥床中のよし、寒氣嚴しき折から何とぞ御大事に願上げ候。拙句惡書多少なりとも御病間を慰め候はば幸甚と存候。小生も若き癖に寒さに中てられ、胃を損じ、腸を害し、おまけに神經性狹心症さへ生じ今月半ばより當地に入湯罷在候。とりあへず御見舞まで 頓首

     一月廿二日     龍 之 介

   佐 藤 樣

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十三日(年次推定)・湯河原発信・塚本八洲宛(絵葉書)

 

その後御病氣は如何ですか僕はこの頃少し元氣を恢復しました。しかしまだ不眠症は癒らず、胃病も癒りません。ここはもう梅はさいてゐますが、寒氣は東京と同じ位です。少くとも同じ位の氣がします。いつもお母さんに何か送つて頂くのは恐縮故、今度は何もお送りないやうに願ひます。その代りに君の容態を知らせて下さい 頓首

          相州湯河原中西内 龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・南條勝代宛(絵葉書)

 

この間は病氣の爲不愉快な顏をしてゐてあなたまでも不愉快にしたらうと思つてゐますさうしてお氣の毒に思つてゐますわたしは來月中旬までこちらにゐようかと思つてゐます「思つてゐます」ばかりつづいて變ですが常用のみ。

    二十六日  中西にて 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)

 

朶雲拜誦來月十五日頃迄はゐるつもりだが、來月はじめには伯母が來るかも知れない。ぜひ來給へ。僕も體力恢復次第、仕事にとりかからうと思つてゐる

    二十六日  ゆがはら中西 龍之介

  二伸 待つてゐるよ。

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・東京府中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月廿七日 湯河原中西うち 芥川龍之介

 

冠省、やうかんお送り下され難有く存候。勿論奧さんの御厚意ならんと存じ居候。但しあれを食ひすぎ候せゐか咋今腹中異狀を生じ、屁も何も出ず、何やら鳴動致し居候。この宿のお上さんと病を語り候へば 何も彼も割り符を合はすやうにて 得體の知れぬ胃膓を患ふるもの小生一人のみにあらざるを知り、何やら天下を擧げて病人なる乎の感を生じ候。當地は梅など開き居り候へども寒氣中々きびしく(梅も唯習慣上開きしにや)これにも亦難澁致し居り候。この分にては來月もここにゐることとならん乎 思へば、思へば、云々のはがきを拜受したる頃はまだしも健康なりしの感に堪へず。ひそかに維洮曼靑居士と號さん乎と思ひ居り候 末筆ながら奥さんによろしく 頓首

    廿七日            澄

   藝 先 生

二伸 この前の手紙はゆきちがひになりたりと覺ゆ。御一遊の志なきや。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「云々のはがきを拜受したる頃」時期特定不能。前の一月二十日の佐佐木宛では「御手紙東京より同送し來りて拜見」とあるが、それではたった一週間前のことになり、おかしい。というより、この手紙、全体に、何やらん、奇体な印象を受ける。貰った羊羹のお礼で始めながら、それを食ってから、昨日から今日にかけて腹が異状を呈し、鳴っても、糞も屁も出ないと尾籠なことを述べた上、世を挙げて、一国、皆、病人なるか、という感じを持っていると言い、ちょっと前の君から手紙を貰ったあの時分、具合が悪いと感じていたのだが、実は「まだしも健康」だったのだと今更にひどく感じている、と言い、自分でしょうもない戯れの戒名(「維洮曼靑居士」「いてうまんせいこじ」の上の部分は「胃腸慢性(ゐちやうまんせい)」の語呂合わせである)をつけて興じているのも、何となく過ぎた躁的な演技も感じられる。少なくとも、軽度ではあるが、一種の不安神経症の症状を示しているようにも感ぜられるのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・佐藤春夫宛(絵葉書)

 

君のお父さんよりお禮狀を貰ふ。御病中のよし字も亦仰臥して書かれたらしかつた。ちよつと氣になり、このはがきを認む。どうか君からもよろしく。

  二十七日 相州湯河原中西 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十八日・湯河原発信・菅虎雄宛

 

冠省その後御淸適の事と存じます先達お願ひいたした箱書を來る卅一日の日曜の午後(四時頃になるかと存じます)頂戴に上るつもりでございます恐縮ながら御在宅を願へれば幸甚に存じます右とりあへず當用のみ 頓首

    一月廿八日夜     龍 之 介

   菅 先 生

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、芥川龍之介はこの日に、一度、田端へ帰宅している。そして、三十一日の午後四時頃、芥川龍之介は予告通り、鎌倉の菅虎雄邸を来訪している。そして、その足で再び、湯河原へ戻っているのである。但し、私はこの一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたとは断言出来ない気がしている(二十八日の条には、帰宅の件と、『帰途、萩原朔太郎を見舞うか』と年譜にはあるのみ。この朔太郎見舞いの件は後の二月十六日附室生犀星宛書簡で考証する)。さらに言えば、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、これまた、ない、ということに気づいた(年譜と書簡日付から)。何を言いたいかって? 鎌倉の小町園だよ! 最大で四、五日、彼は強く惹かれている女将野々口豊のいる小町園に泊まっていた可能性があることを示したかったからだよ! 「何でそんなに野々口豊にこだわるの?」だって? あんたも鈍感だね! この年の年末から翌昭和二年にかけて、「芥川龍之介の小さな家出」とも称される事件が起こるからさ! 龍之介が実家に確かには告げずに、小町園に居続けをして、彼女の世話を受けているのさ! この時、龍之介は、豊に心中を持ちかけたとする説さえもあるからさ! だ、か、ら、だよ!

「淸適」(せいてき)は「気持よく安らかなこと」。多く書簡文で相手の無事や健康を祝って言うのに用いる。]

2021/08/26

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 一

 

      「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理

 

         

 摸稜案の中には、三つの中篇小說があつて、そのうちの一つは、前囘に紹介した『縣井司三郞』の事件であるが、その他の二つは、いづれも女性の犯罪心理をうかゞふに足る物語であるから、左にその梗槪を紹介して、併せて作者馬琴の女性觀に就て述べて見たいと思ふ。[やぶちゃん注:底本では、次の段落は頭が二字下げになっており、以下、長い梗概部分全体が全部一字下げになっている。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本原本はここから。読みはそれに概ね従った。「池子」は現在は「いけご」であるが、原本に従った(現在は池子は逗子市であるが、鎌倉時代は御府内であった)。「しちりのはま」「はまぐりのかひ」等も同じである。]

 先づ『牽牛星(ひこぼし)茂曾七《もそしち》殺害事件』から始める。相模國鎌倉郡池子《いけこ》村に、牽牛星茂曾といふ農夫があつた。牽牛星といふのは綽名であるが、何故さういふ綽名をつけられたかといふに、家に牡と牝の上疋の牛を飼つて居たのと、妻り專女(おさめ)[やぶちゃん注:原本では「をさめ」。歴史的仮名遣では「を」が正しい。]が、年若い美人で機をよく織つたので、里人にねたまれたがためである。さほど富んでは居ないけれど、少しばかりの田畑があつて、近頃までは弟の曾茂八《そもはち》が同居して居たが、嫂のことで、兄と仲が惡くなり、腰越村の式四郞《しきしらう》といふ知己の家に身を寄せることゝなつた。

 妻の專女は、やはり近村の生れてあつたが、僅かの間に四人ほど亭主を持つて死に別れたので、その村では誰も彼女を貰ふものがなかつたのに、茂曾七は色ごのみの男であつたから、一目見て彼女を戀し、十五六も年下の女を妻として呼び迎へたのである。これを見た弟の曾茂八は至つて正直な性質てあつたから、世間で爪はじきされて居る女を貰ふことに極力反對したのであるが、兄は弟の諫言に耳を傾けずして專女を娶り、結婚後間もなく彼は、妻の讒言によつて、弟の曾茂八を體よく追ひ出したのである。

 曾茂八が身を寄せた式四郞は小動《こゆるぎ》[やぶちゃん注:腰越の七里ヶ浜と腰越漁港の間にある岬が「小動の鼻」であるのに掛けた名前。]といふ一人娘と暮して居たが、老年にもなつたことではあるし、曾茂八が實直に働くのを見て、聟にしたいと思ひ、その旨を曾茂八に告げると、喜んて承諾をしたので、一家はその後圓滿な日送りをすることが出來た。

 一方、池子村の茂曾七は前に述べたごとく年來、二疋の牛を持つ居て、そのうちの一つは黃牛(あめうし)で牡、今一つは靑牛(さめうし)[やぶちゃん注:「白毛の牛」或いは「両眼の縁の白い牛」或いは「虹彩の白い牛」を指す。]で牝だつたから、黃牛を弟に牽かせ、自分は靑牛を牽いて、田を耕やし、時には江の島詣での旅客を乘せて、駄賃を取つて居たが、弟曾茂八が居なくなつたので、黃牛を賣るのも惜しく、村はづれに字平《あざへい》といふ二十八歲の獨身の男があつたのを幸ひに、專女と相談して、雇ひ入れることにしたのである。字平は牛を牽くことが極めて上手で、頗る忠實に働いたので、大に主人夫婦の氣に入つた。

 さて、その年も暮れて春も彌生の末となつたある日、曾茂七は、靑牛を牽いて七里濱《しちりのはま》に赴き、江の島詣での客を乘せようと思つて、朝から晚まて海濱を徘徊したが、生憎その日は一人の客をも乘せ得なかつたので、非常に落膽して步いて來ると、忽ちうしろから『その牛に乘らう』と呼ぶ者があつた。茂曾七が振ろ向くと、それは若宮巷路《わかみやこうぢ》の賣卜者《うらやさん》『貝《かひ》の翁《おきな》』と呼ばれる人で、もとは鶴岡若宮の禰宜をして居たが、年老いたので賣卜を事とし、春になると貝を拾つて來ては、都人の土產に資’り、今日も、貝拾ひに來て、あまりに多く取つたので、牛を雇はうとしたのである。

 茂曾七は喜んで翁を乘せ、やがて若宮巷路へ來ると、翁は錢を與へて、ふと茂曾七の顏を眺め、『其許のたすけで、澤山の貝をうちへ持つて來ることが出來たから、その御禮に一寸話して置かう。其許の顏色を見ると、遠からず橫死する相がある。だから今のうちにその禍を除かねばならない』と告げた。茂曾七は大に驚いて、『その禍を除くにはどうしたら宜しいでせうか』といふと、翁は『外に術はない、たゞ、さめを捨てたらよい。』

と答へたまゝ、疲勞のためにその場で寢入つてしまつた。

 茂曾七はなほよく事情をきゝたいと思つたが、翁は熟睡したので、そのまゝ歸路についた。これ迄翁の言ふことはよく適中するといふ評判元なので、『さめを捨よ』といふ言葉をいろいろ考へた結果、さめとはこの靑牛のことであろうと考へ、然し捨てるのも惜しいから、誰かに賣らうと決心して延明寺《えんみやうじ》[やぶちゃん注:こんな寺は昔も今も鎌倉には存在しない。若宮大路下馬四つ角近くの延命寺のズラしであろう。]の辻のところへ來ると、思ひがけなくも、久し振りに、弟の曾茂八に出逢つた。

 兄弟同士のことゝて、二人はたちまち、親密に話し合つたが、やがて弟は、家の牛が病死したので、今日戶塚の牛市へ出かけ力が、思はしいのがなかつたと告げた。これをきいた兄は大に喜んで理由あつてこの靑牛を賣りたいからこれ牽いて行かないかといふと、弟も非常に嬉しく思ひ、その價を問ふと、まあいゝから牽いて行き、序の時に錢を屆けてくれと言つて、その儘靑牛を渡してやつた。

 茂曾七は心にかゝる靑牛を弟に渡して、ホツとしながら家に歸り、事の一次第を專女と字平につげると、二人は口を揃へてあざ笑ひ、ことに、專女は、弟曾茂八に賣つたことを難じて、恐らく、牛の代金は吳れまいから、明日は取りかへしに行つて來なさい、と勸めた。然し茂曾七は易者の言が氣になるので、たとひ弟から代金を屆けなくても[やぶちゃん注:ママ。]、身の禍さへのがれゝばそれでよいと言つて肯《き》かず、黃牛一つになつたから、明日から字平には暇を出さうと言ひ出した。これをきいた專女は大に驚いて、字平を解雇することに極力反對したが、茂曾七は一旦言ひ出したからには後へ引かずニケ月分の給金を與へて、たうとう字平をかへしてしまつた。

 とろこが、專女の豫言が當つたのか、十日あまりを經ても、曾茂八の方から何のたよもなかつたので、ある日茂曾七は牛の代金を受取り、かたがた弟の家をたづねようと思ひ、この旨を妻に話し、酒一瓢《ひとひさご》と、乾魚《ほしうを》一籠とを黃牛の背につけて、午の貝吹く頃、わが家を立ち出でたのである。

 丁度その同じ日、貝の翁は、いつものやうに海濱に赴きあちらこちらを徘徊して居ると、はるか彼方の浪打ち際に溺死人が浮き沈みして居るので、驚いて駈け寄り、渚に引き揚げて、用意の定心丹《ぢやうしんたん》[やぶちゃん注:原本にあるが、不詳の漢方薬。]を口中に塗りつけ、頻りに呼び活《いか》したけれども、多量の水を飮んで居るらしいので、何とかして先づ水を吐かせようと思ふと、突然彼方から一疋の主なき牛が來たので、大に歡び『死骸を牛の背中に、うつむきに橫はらせたなら、水を吐くだらう』と思ひ、牛を巡れて來て死人を抱き上げ、よく見ると、その人もその牛も、先日、自分のところへ來たものたちであつたから、自分の豫言の當つたことを不憫に思ひ、息を吹き返したら手當をしてやらうと覺悟して、再たび貝を拾ぴにかゝつたが程なく頭をあげて見ると、牛の姿が見えなかつたので、はつと思つて由比が濱の方へたづねに走つたけれども、もはや、何處にも見つからりず、そのまゝ、若宮巷路の我家に歸つた。

 話變つて、腰越村の曾茂八は、兄から讓つて貰うた靑牛を牽いて我家にかへり、養父式四郞と妻小動に事情を話すと、二人とも大に喜び、早速明日にても牛の代金を持つて行くがよいとすゝめたので、あくる日は朝から土產物などの用意をしたが、式四郞は曆を見て、來る二十八日は丑の日で『よろづよし』とあるから二十八日にせよといつたので、その言菜に從つたが、二十七日の夜に突然式四郞は卒中で半身不隨となり、そのため、思はず日數を過してしまつた。

 ところが、兄から讓り受けた靑牛は、どうかすると繩を脫け出して、東の演邊へ二三度も行ったが、その都度曾茂八は追ひ留めた。牛でさへ、故主の恩を慕つて歸らうとするに、自介が恩義を忘れては相すまぬと、心ははやつても病人を殘して出ることもならず、又兩三日を送ると、靑牛は再び繩を拔け出し、その一日に限つて病人の容態がわるかつたので、曾茂八夫婦は少しもそれに氣附かなかつたのである。

 夕方になって、雨が降り出したので小動が牛小屋へ見に行くと、牛の居らぬのに大に驚き、良人に事情を告げた。曾茂八は、直ちに簑笠とつて打かつぎ、濱邊を東に追つて行くと、向ふから主なき牛が一疋こちらへ步いて來た。さては靑牛かと喜んで近よつて見ると、意外にも見覺えのある黃牛て、鞍の前輪に、酒と乾魚とを附けて居た。よつて多分兄の茂曾七が後から來るにちがひないと、暫らく待つて居たけれども、その姿が見えぬので、一先づ黃牛を我家に牽いて來てつなぎ、小動に事情を話して、兄の來訪を待つのであつた。

 あくる日になつても何の音沙汰もないので、曾茂八は兄の家を訪ねようと思つたが、養父の病が、急に重つたので出拔け難く、雇ふべき人足もないので心配のうちに夜になつてしまつた。すると五更[やぶちゃん注:午前四時或いは午前五時前後。]のころ、捕手の兵士が五六人、字平を先に立たせて、曾茂八の家に窺ひより、彼の在宅を見つけ、門の戶を破つて亂れ入り『兄を殺して牛を奪つた曾茂八、索《なは》にかゝれ』と呼んで召し捕らうとした。曾茂八は大に驚き、少しも身に覺えのないことだと言ひ譯すると、捕手の兵士はこゝに證人があるといつて字平を指した。

 字平は進み出て、曾茂八に向つて言つた。            

『貴様は嫂に心をかけ、戀のかなはぬ意趣ばらしに、家の物をさらつて逐電し、式四郞の婿となつても、兄が物を返さず、剩へ、先日延明寺の辻で、兄をだまして靑牛を奪ひ、兄がそれを取り返すつもりで黃牛に酒肴を負はせて、この家へ來ると、一層の惡念を起して兄を殺し、死骸を靑牛に負はして、海底に沈めるつもりだつたらうが、天網はのがれ難く、靑牛は主の屍を負つて池子村へ歸つて來たのだ。そこで俺は、貴樣の所爲《しわざ》だらうと思つて、昨夜ひそかにこゝへ來て牛小屋の中をうかゞふと果して黃牛が居るではないか。だから俺は、汝の所爲だと思ひ、雇はれた恩義に報いるために、專女後家を助けて事の趣をおかみに訴へたのだ。』

 曾茂八は兄の橫死をきいて胸が塞がり、その上寃罪に陷れられたので、あまりのことに默つて居ると、兵士どもは程なく彼と黃牛と馳引き立てゝ文注所へ連れて來た。

 時に建治元年[やぶちゃん注:一二七五年。執権は北条時宗。]四月九日、靑砥藤綱は曾茂八を獄舍から引出させ、訴人の專女字平等を呼寄せて吟味を始めた。先づ曾茂八を近く召し寄せてたづねると、彼は、池子村を立ち去つた理由から、黃牛を我が家へ連れて來た顚末まで殘らず物語つた。藤綱はしづかにそれをきいて居たが、やがて曾茂八に向ひ、靑牛を兄から買つたとき何故貝の翁に吉凶を問はなかつたか、又十日あまり何故兄のところへ音づれをしなかつたか。汝の言ふ所には證據が更にないではないかといひ懲《こら》し、次に專女と字平とを近くに召し寄せ、專女に向つて、靑牛が良人の死骸を乘せて歸つたときの爲體《ていたらく》と靑牛を賣つた次第とをたづね、茂曾七の死骸の着て居た衣服をとりよせて檢査し、次に字平に向つて、汝は右の食指《ひとさしゆび》を布の片《きれ》で包んで居るがそれはどうしたのかとたづねた。すると字平は、先日鰹を切るとて刄《やいば》を走らし、傷をしたので御座いますと答へた。

 そこで藤綱は二人に向ひ、汝等の言ふ所頗る胡亂《うろん》である。茂曾七が貝の翁に諭されて靑牛を賣らうと思つたのならば、曾茂八がかたり取つたのではないぢやないか。又、昨日、汝等が訴へたとき、茂曾七はもはや療治が屆かなかつたかとたづねたら、死んで時がたつて居たので藥はのませなかつたと言つたが、今この衣服を見ると藥の匂がするのはどういふ譯か、なほ又、この衣服は雨に濡れただけならば一晚竿にかけて置けば半ばは乾くのに、今なほ大へん濡れて居るのは潮水につかつた證據である。して見ると、字平の推量とはちがひ、曾茂八は海へ沈めたものを再び引揚げて牛に負せたことになるが、それはどう說明したらよいかと詰問すると專女はもとより、字平も適當な說明を與へることが出來なかつた。

 そこで藤綱は、人を若宮巷路へ走らせて、貝の翁を呼ばしめようとすると、丁度その時貝の翁自身が出頭したので、藤綱が喜んで來意をたづねると、今日文注所で、しかじかの罪人の審問があるときゝ、罪を救ふために來ましたと答へた。

 『先日、あの牛飼の人相を觀ましたところ、女難の相があつたので、女房を捨てたらよいと思ひましたが、あからさまには言ひ難いのでさめを捨てよと申しました。さめの一字は添言葉でたゞ卽ち妻を捨てよといふ意味で御座いました。ところが、その後、海濱で貝を拾つて居ますと溺死體が打ち寄せられましたので、助かるものなら助けようと藥を口の中に塗りますと、舌の上に妙な物がありましたので、殺されものであらうと思ひ、後の證據に取り出して懷へをさめると、主なき靑牛が來たので、始めて先の牛飼であると氣づき、水を吐かせるつもりで牛に負はせましたが、をのうちに牛の行方がわからなくなりました。ところが今日、腰越村の曾茂八といふものが、兄を殺して死骸を牛へ乘せ海に沈ませようとしたことが發覺して吟味されるときゝましたので寃罪にちがひありませんから、曾茂八を救はうと思つて參りました。これが、死骸の口中にあつた物で御座います。』

 かう言つて貝の翁は蛤貝《はまぐりのかひ》の中へ入れたものを差出したので、藤綱が開いて見ると、人の指がはひつて居た。

 藤綱は直ちに左右のものを顧みて、字平と專女とを捕縛せしめると、字平は大に抗辯したが、食指の繃帶を解かしめたところ、果して嚙み切られて居たので、翁の持つて來た指が動かぬ證據となつた。然し中々實《まこと》を吐かぬので、先づ專女に鞭一百を加へると、苦痛に堪へず自白した。それによると彼女は去年から字平と密通して居たが、良人曾茂七を殺したことは字平一人の所爲で、私は知りませんと言つた。それから字平を鞭つて二百に及ぶと、彼もたうとう白狀した。その日彼は由井ケ濱に侍伏して、後から茂曾七の咽喉を絞めにかゝると、誤つて右の食指を彼が口中に突入れ、その際嚙み切られたが、遂に縊め殺して海に投げ入れ、茂曾七の家に行つて專女と樂みを取つて居ると、靑牛が死骸をのせて歸つて來たので、一旦は驚いたけれども、曾茂八に罪をきせるには好都合であると思ひ、曾茂八のところへ來て見ると、黃牛が居たので、專女をすゝめて訴へさせたといふのである。で、藤綱は次の宣告を與へた。

『……宇平はもとより、雇夫にて、主從の義なしと雖も、犯す所の罪、もつとも輕からず、又專女は字平とともに茂曾七を殺さずといふとも、既に字平と密通して、不義の情欲よlり事起りて、茂曾七を殺すに至る、その罪は字平と又何ぞ異ならん、これ亦決して赦し難し、此彼もろ共に、近日、由井濱(ゆゐのはま)に引出して、誅戮(ちうりく)すべきものなり…………』

 かくて、茂曾八の放免されたことはいふ迄もなく、養父の病さへ五六日が程に本復した。[やぶちゃん注:ここで梗概は終わって、行頭からに戻る。]

 以上の筋書を讀まれた諸君は、最後に至り茂曾七殺しに專女が關係して居ないことを知つて、頗る意外に思はれたであろうと思ふ。始めに、彼女の淫奔な性質を述べて、犯罪性に富んで居ることを暗示して置き乍ら、終りに至つて情夫のみの犯罪としたことは、頗る物足らぬ感がある。而も、字平については、實直に働いて主人夫歸の信用を博したと書かれてあるから、兪よ以て奇怪な感じを抱かせられるのである。作者馬琴は『靑砥藤綱摸稜案』に於ても、彼のもちまへなる勸善懲惡主義を鼓吹しようとして居るらしいから、犯罪者の性格などには重きを置かず、只管《ひたすら》事件の推移に心を懸けたのであらうが、若し、正直な字平が專女のために、だんだん深みへ行き入れられ、遂に專女にそゝのかされて、茂曾七を殺すといふ風に書かれてあつたならば、その方が遙かに自然であるやうに思はれる。尤も馬琴の書いたやうな事實が世の中に決して無いといふことは斷言出來ないが、それならば、そのやうに、物語の始めに暗示を與へて置くべきである。例へば宇平が專女との不義の現場を茂曾七に見つけられたならば殺害の動機は成立する。又字平が茂曾七の少しばかかりの財產に目をかけ、それを專女もろ共我がものにしようとするのでも殺害の理由にはなり得るのである。利慾を離れた純然たる性的犯罪ならば、女に敎唆されて大罪を犯すといふ風に書いた方が、どう考へて見てもいゝやうである。ことに、茂曾七が弟のところヘ出立することを知つて居るのは專女ばかりあるから、專女がそれを字平に知らせて、良人を殺させるやうにしたならば筋の通りも遙かに良い。[やぶちゃん注:ここは完全に不木に賛同する。茂曾七が專女と結婚する前、彼女は若いのに「四人(よたり)ばかり夫(をとこ)をかさねたるに、その夫どもみな短命なる」(原文)というのも、如何にも怪しい前提ではないか? それらもたまたまのことであったなどという完全受身形の「ファム・ファータル」(Femme fatale)なんどいいう設定は、これ、話にならぬ。]

 一般に馬琴の作物の中にあらはれる人物の性格は、あまりはつきりして居ない恨みがあつて、女性犯罪者のうちでも、八犬傳の船蟲などは比較的よく書かれては居るが、この物語の專女などは隨分ぼんやりした描き方だと思ふ。犯罪者にも善心があるといふことはこれ迄よく紹介されて居る所であるが、それは多くは男性犯罪者に適用することで、女性犯罪者ことに所謂毒婦と稱せられる女子には、善心は殆んど認められないといつてよいくらゐである。だから毒婦を描く場合には徹底した惡性を帶ばしむるのが適當であろうと思ふ。この一つの物語から馬琴の女性觀を判斷するのはもとより亂暴ではあるが、ことによると、馬琴は女性犯罪者には男性犯罪者と同じ程度の善心は必ず存在するものと考へて居たのかもしれない。[やぶちゃん注:男女の真正シリアル・キラー或いは連続殺人犯の、偶発的な良心の発露を女性には認めないというこの不木の犯罪学説は、現代では認め難い女性差別である。よろしくない。「船蟲」はウィキの「南総里見八犬伝」の「対牛楼(たいぎゅうろう)の仇討ち」以下を読まれたい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事

 

[やぶちゃん注:前と同じく文宝堂の発表。]

 

   ○駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事

江戶本鄕加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日、雪ふりたる所也。其雪、富士の形につもりたるゆゑに、其所へ淺間の宮を造立し、每年六月朔日、まつりをなす。其比、本鄕に桔梗屋何がし、水野兵九郞、源右衞門といふもの三人にて、萬の事を取りはからひけるとぞ。其後、右淺間の宮の所も、加州御やしきへ圍ひこみとなりても、以前のごとく參詣ありて、御屋敷の御門を出入しけるを、「いかゞしき。」とて、同所御弓町眞光寺へ淺間の宮を引き移されしが、「此地、不淨なり。」といふ夢の告ありしによりて、程なく駒込の原へ遷座あり。今の「駒込の富士」、これなり。駒込へうつされしは、寬永三戌年なり。享保二年六月朔日より、鐵砲洲船松町より每年五月晦日の夜、「かけ念佛」にて、駒込富士へ萬度を一本持ち來りて、これを納むる事、今にたえず。此事はいかなるゆゑにか。猶、たづぬべし。

  此一條、本鄕六町目駿河屋喜太郞話なり。

[やぶちゃん注:「江戶本鄕加州御屋敷」現在の東京大学本郷キャンパス相当。

「慶長八癸卯年六月朔日」グレゴリオ暦一六〇三年七月九日であるから、積もるほどの降雪というのは、ひどく稀れな異常気象である。

「加州御やしきへ圍ひこみとなり」徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開府したのは慶長八(一六〇三)年二月十二日であるから、この降雪の当時のこの場所は、加賀藩の氷室ではあったものの、未だ加賀藩上屋敷の敷地内ではなかったということになる。以下の「駒込の富士」の☜部も参考になる。

「いかゞしき」藩邸内に町人が自由に入るというのはいかがなものか。

「同所御弓町眞光寺」天台宗富元山瑞泉院眞光寺の寺自体は、現在は東京都世田谷区給田に移転しているが、墓地地と薬師堂及び露座の十一面観音像が旧地(東京都文京区本郷四丁目。グーグル・マップ・データ)に残されてある。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「御弓町」で、切絵図で旧寺域が確認できる。「天台宗東京教区」公式サイトの同寺のページ(現在地の地図有り)によれば、移転(東京大空襲により焼失)は戦後のことで、特に、この寺の薬師如来像は『「本郷薬師」と称され』、『多くの人々の信仰を集め、毎月』八日・十二日・二十二日の『縁日は江戸三縁日と呼ばれる程、賑わいました。この賑わいは、明治・大正・昭和初期まで続き、泉鏡花の「婦系図」、樋口一葉の日記にも賑やかな情景が描写されています。この薬師如来は、慈覚大師の一刀三礼の彫刻によるものと伝えられています』とある、非常に知られた寺であったことが判る。

「駒込の富士」現在の東京都文京区本駒込五丁目にある駒込富士神社。祭神は無論、木花咲耶姫。当該ウィキによれば、『建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚』『の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている』。『天正元』(一五七三)年、『本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した』寛永』五(一六二八)年、『加賀前田氏が屋敷(上屋敷になったのは明暦の大火』(明暦三年一月十八日~二十日(一六五七年三月二日~四日)『以降)』(☜)『をその地に賜る』(されば、富士型がここに移ったのも加賀藩が絡んでいると考えてよいだろう)『にあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町』『に移し、その後』、『現在地に合祀した』。『江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり』、『町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消の纏(まとい・シンボルマーク)を彫った石碑が数多く飾られている』。『初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった所、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた』。『「一富士二鷹 三茄子」は江戸時代中期の』享保一八(一七三三)年に『江戸で刊行された』節用集(日曜実用本)「悉皆世話字彙墨寶(しつかいせわじいぼくはう)」(儒学者中村平五三近子(なかむら へいご さんきんし 寛文一一(一六七一)年~元文六・寛保元(一七四一):幼時に山崎闇斎から直接に教えを受けている)著)に、『駒込富士神社にまつわる縁起物を詠った川柳「駒込は 一富士二鷹 三茄子」が文献上最古の記述として掲載されている。しかし、「一富士二鷹三茄子」を紹介する文献は同時代に数多く見られ、その中でこの時代より前』『に広く流布していたことが解説されている』。『縁日の山開き』(現在は六月三十日から七月二日まで)『では土産の駒込ナスが名物だったが、現在では周辺の宅地化により』、『茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている』。今は『駒込天祖神社が当社を兼務しており、授与品や朱印は天祖神社の方で行う。また、氏子地域も無い』とある。

「寬永三戌年」一六二六年。しかし干支は誤りで「丙寅」である。干支の誤りは、鈔的には著しく史料としては価値が減衰する、寛永の戌年は寛永十一年(甲戌)がある。

「享保二年」一七一七年。

「鐵砲洲船松町」(ふなまちつやう)は現在の中央区湊三丁目。駒込富士神社までは実測で八キロメートルはある。

「かけ念佛」念仏講などの講中で、鉦や木魚を叩き、高声で掛け声して念仏を唱えること。「かけねぶつ」とも読む。

「萬度」長い柄取り付けて捧げ持つ行灯(あんどん)のこと。祭礼などで四角な木の枠に紙を張って箱形に作り、「何々社御祭禮」などと大書し、その下に町名や「氏子中」・「子供中などと書き、これに花などを飾る。古くは棒の先に白幣を付け、その下に大神宮の一万度の御祓箱を結びつけたが、後には大きい傘に短い幕を廻したものなどもある。「万灯」(まんどう)とも呼ぶ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 夢の朝顏

 

○湯島手代町[やぶちゃん注:「てだいまち」或いは「てだいちやう」。現在の文京区湯島三丁目(グーグル・マップ・データ)。]に岡田彌八郞といひて、御普請方の出方をつとむる人あり。此人のひとり娘、名を「せい」とよびて、容儀もよく、殊に發明なれば、兩親のいつくしみふかく、しかも和歌に心をよせ、下谷邊に白蓉齋[やぶちゃん注:西島姓。]といふ歌よみの弟子となりて、去年十四歲にて朝がほのうたをよみしが、よくとゝのひたりと師もよろこびける。その歌、

    いかならん色にさくかとあくる夜をまつのとぼその朝顏の花

其冬、此むすめ、風のこゝちにわづらひしが、つひに、はかなく成りにけり。兩親のなげきいふべくもあらず。朝夕たゞ此娘の事のみいひくらしゝが、月日、はかなくたちて、ことし亥の秋、かの娘の、日頃、よなれし[やぶちゃん注:「世馴れし」。ここは普段から愛用していた、の意。]文庫の中より、朝顏の種、出でたり。一色づゝに、「これは『しぼり』」、あるは「るり」など、娘の手して、書き付け置きたるつゝみをみて、母親、猶更、思ひ出ゝ、「かく迄しるし置きたる事なれば、庭にまきて娘のこゝろざしをもはらさん。」とて、ちいさなる鉢に種を蒔きて、朝夕、水そゝぎざなど、したるほどに、いつしか、葉も出で、蔓も出でたれど、花は、一りんもさかざりければ、「すこし、時刻[やぶちゃん注:「じき」と当て訓しておく。]おくれにまきたるゆゑ、花のさかぬ成るべし。されども、秋に、秋草の花さかぬ事やは。」とて、さまざまにやしなひしが、さらに花の莟だに、なし。ある日、父彌八郞は、東えい山の御普請場へ出でたるあと、母は娘が事のみ、わすれかね、朝顏を思ひながら、うつらうつらと、ねむりたるが、娘の聲にて、「おかゝさま、花がさきました。」といふに、驚き、さめぬ。あまりいぶかしく思ひければ、朝顏のそばへゆきみれば、一りん、さき出でたり。いよいよ、『あやし。』と思ひて、夫彌八郞が歸るを待ちかねて、此よしをもかたり、花をも見せしよし、此はな、晝夜にさきて、翌朝までしぼまずしてあり、となん。

 右は文化十二乙亥年[やぶちゃん注:一八一五年。]の事なり。花のさきしは翌子年なり。

  文政乙酉孟夏朔    文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:とてもしみじみとしたいい話である。なお、本話は町人で粉屋を生業とした考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六一)年)が文化文政期の二十六年間の出来事・巷談を集めて綴った随筆「街談文々集要」の巻十五の「朝顏之奇怪」にも載るが、座敷浪人氏のサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学の壺」のこちらに現代語訳が載るものの、それは本文と原文が殆んど同一と読め、この「兎園小説」の本篇を転写したものに過ぎないと思われる。

「文政乙酉」文政八(一八二五)年。]

2021/08/25

「日本山海名産図会」内標題・序(木村蒹葭堂孔恭)・跋(作者事績不詳)・附記(絵師蔀関月の記名)・広告文・奥書/「日本山海名産図会」オリジナル電子化注~完遂!

 

[やぶちゃん注:「国立国会図書館サーチ」の本書書誌の「注記」によれば、『木村蒹葭堂の漢文序によれば、物産の学については、稲生若水の著書『採薬独断』があったが、秘書としたため』、『人間』(じんかん)『に伝わらなかったことを遺憾とし、同書に擬して『名物独断』数巻を編んだが、家の多難に遭い』(これは蒹葭堂が過醸の罪により寛政二(一七九〇)年から同五年まで、伊勢川尻村に退隠したことを指す旨の補注が入る。同人のウィキによれば、寛政二年五十五歳の時、『密告により』、『酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。酒造の実務を任されていた支配人宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で』、『大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう』とあり、『蒹葭堂は直接の罪は免れたが』、『監督不行き届きであるとされ』、『町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受け』、『伊勢長島城主増山雪斎を頼り、家名再興のため』、『大坂を一旦』、『離れ』、『伊勢長島川尻村に転居』したことを指す。但し、『二年の後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営』み、『その後、稼業は栄え』、『以前にも増して蒹葭堂は隆盛となった』とある)、『公にすることが出来ずにいたところ、書肆某が本書を携えて訪ね』、『序を請うた旨を記す』とある。この内容だと、「日本山海図会」の作者は木村蒹葭堂孔恭であるということになる。

 ところが、本書には最終第五巻の末尾に「跋」があり、そこには本文の著者は別人であるという記載があるのである。これについて上記「注記」では、「みち」或いは「ミち」或いは「三古」(?)なる『人物による難読難解の和文跋文には、「こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の下露を、みなの川波のかす++[やぶちゃん注:「++」は原文を見るに踊り字「〱」を変えたものと思われる。]になん、かきなかしぬる関月かいさほし也けり」「かくてまなひ子藍江その名残につきて、露けし袖の外に、ほころふるふしををきぬひ侍り、おのれ亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つゐによるせありて、いつもの花の五巻とはなりぬ」とあり、補世』、『つまり』、この「日本山海図会」は、『大坂の書肆作家、平瀬輔世(徹斎)こと』、『千種屋新右衛門』『の編著で』あって、『同人の没後、画工の蔀関月(千種屋一統の書肆千種屋柳原源二郎)が業を継ぎ、その没後には』、『関月門人の画工中井藍江が補い、跋者が解説を補』って『完成させたもの』と読める旨の記載があるとある。則ち、「日本山海図会」は大阪の書肆の主人で千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世(「すけよ」か)が原著者であるというのである。

 「朝日日本歴史人物事典」に拠れば、この真の著者とする平瀬徹斎(生没年不詳)は江戸中・後期の大坂の書肆「赤松閣」の主人で、名は「補世」(これだと「ほせ」か)、通称「千草屋新右衛門」、「徹斎」は号。各地名産物の生産・採取の技術を図示解説した「日本山海名物図会」宝暦四(一七五四)年に著した。他に「放下筌」(ほうかせん)などの著作がある(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原刊本らしきものが読める)。徹斎は大坂の金融業者平瀬家の一族ともみられているが、確証はない、とあり、講談社「日本人名大辞典」の「平瀬徹斎」には、やはり生没年未詳とし、江戸中期の版元で、大坂の人。「赤松閣」の主人。自身も「売買出世車」(恐らく国立国会図書館デジタルコレクションの「通俗経済文庫巻一」所収の東白著とある「米穀売買出世車附図式」が同じものである。書肆はここで平瀬の活動期と一致し、大阪での出版である)や「書林栞」(しょりんしおり:明和五(一七五八)年刊。国文学研究資料館のここで原本が視認出来る)などを書いている。編著に日本各地の産物の採取法,製法などを絵図でしめした「日本山海名物図会」(長谷川光信画)がある。宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に活躍した。名は輔世。通称は千種屋(ちぐさや)新左衛門、とある。 

 取り敢えず、「序」「跋」他を活字に起こすが、蒹葭堂の「序」は漢文であるが、日本漢文としては、やや破格部分が見られ、よく判らない人物になる「跋」に至っては、上記の書誌を書かれた方が述べる通り、判読さえ難しく、しかも文意が極めて採り難いものである。私の翻刻を信用せず、各々、原画像で挑戦されたい。

 底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、

内標題と「序」はここから(六丁に及ぶが、一丁目だけを内標題とともに示す)

「跋」はここから

であるが、一部、私には判読しかねた部分があるので、「序」と「跋」は総てを国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングして掲げた。どうか、御自身で判読された上で、私の誤判読や、判読不能字が読み解けた方は、どうか、御指摘願いたい。心よりお待ち申し上げる。

 なお、第一巻の表紙の題箋は、

山海名產圖會   一

で、ここだが、特に画像では示さない。

 「序」では字に横に圏点「◦」があるが、通常の句点に代えた。「■」は判読不能字。]

 


Jyo1

 

法 橋 關 月 画

 

                

 山海名產圖會

                

 


Jyo2

 

Jyo3

 

Jyo4

 

山海名產圖會序

中古人士之於物産也。率本於本草。而山產海錯。認而無遺漏者。自向觀水稲若水松怡顏彭水之徒。才輩實不匱焉。余預其流。于今既費數十年之苦心。見人之所未見。辨人之所未辨。實爲索隱探竒之甚焉。曽聞。稲氏若水著採藥獨斷。示平生所深致意也。然終爲幃中禁秘耶。抑成蔵諸名山奥區耶。竟不傳人間。上可惜也。余不勝慕藺。因竊擬其意。著書數巻。號曰名物獨斷。愈勤愈詳。猶泉源袞々出而不休焉。故其名物品類之無窮。亦隨四序節。蔵蓄之冝。奥造釀之法。然及藁甫脱也。値家多難。災厄兼到。幾流離塗炭。在今固爲一憾事矣。間者書肆某。携一部画册。殷勸徵序文。題曰山海名產圖會。取而繙之。輙擧吾 [やぶちゃん注:字空けはママ。]東方各従其地產。竒種異味。而特名者。一一見之図。乃至其制作之始末事實之證據。則後加附釋。雖婦児輩。使通知之。頗似有酬余之始顚者。畫上成於亡友蔀關月手。於是乎不可以不序。因備。論辨之本意。而及此書緣起如此。嗟乎雖芥珀磁䥫。其理皆出于自然。不可得而強也。天地間產類千万以辨博爲要。否則自百藥物。而至瑣瑣食品。不免謬採焉。况於君子藏天地之韞匱。與天下共者乎。

寬政戊戌午臘月旦浣

      木邨孔恭識

        [落款][落款]

 

[やぶちゃん注:以下、「序」「跋」等は本文で加工用に使用させて貰った「ARC書籍閲覧システム 検索画面 翻刻テキストビューア」にも電子化されておらず、私は一切の参考に出来る補助資料を持たない。されば、全くの我流のみで訓読する。

   *

「山海名產圖會」序

中古の人士の物産に於けるや、本(もと)を本草に率(よ)りて、山產・海錯、認めて、遺漏の無き者なり。自ら向ふは、觀水・稲若水・松怡顏・彭水の徒なり。才輩の實、匱(とも)しからず。余、其流に預り、今に既に數十年の苦心を費す。人の未だ見ざる所を見、人の未だ辨ぜざる所を辨ず。實(まこと)に索隱探竒の甚しきを爲す。曽つて聞く、稲氏若水「採藥獨斷」を著すと。平生、深く意を致す所を示せるなり。然れども、終(つひ)に幃中(ゐちゆう)の禁秘と爲すや、抑(そも)、諸名・山奥の區々(くく)たるを蔵(かく)し成すや、竟(つひ)に人間(じんかん)の上に傳はらざる、惜しむべきなり。余、慕藺(ぼりん)[やぶちゃん注:優れた人を慕い敬うこと。]に勝へず、因りて、竊(ひそ)かに其の意を擬(なずら)へ、書數巻を著はす。號づけて曰はく、「名物獨斷」。愈よ、勤め、愈よ、詳かにす。猶、泉源、袞々とし出でて、休まず。故に、其の名物・品類、窮み無し。亦、四つの序節に隨ひ、蔵蓄の冝(ぎ)、奥(おくぶか)き造釀の法、然も、藁甫脱[やぶちゃん注:意味不明。稲穂の実を採る方法か?]にも及べるなり。家、多難に値(あ)ひ、災厄、兼ねて、到れり。流離塗炭すること、幾(いくば)くぞ。今に在りて、固(もと)より、一つの憾み事と爲れり。間者(このごろ)、書肆某、一部の画册を携へ、懇ろに、序文を徵(しる)さんことを勸む。題して曰はく、「山海名產圖會」、取りて之れを繙(つまびら)けば、輙(すなは)ち、擧げて、吾が東方の、各(おのおの)の其の地の產により、竒種・異味、而して、特に名あるをば、一一(いちいち)、之れを見、図し、乃(すなは)ち、其の制作の始末・事實の證據に至れり。則ち、後(あと)に釋(しやく)を加へ附す。婦児の輩(はい)と雖も、通じて之れを知らしむ。頗る、余の始顚に酬ひる者有るに似たり。畫上(ぐわじやう)[やぶちゃん注:「上」は語素で、漢語名詞に付いて「~に関する」の意を示す。 ]、亡友蔀關月が手に成れり。是れに於いてか、不可以つて序せざるべからず、因つて、逑(あつ)むる所の牚(はしら)を備へ、論辨の本意、而して、此の書の緣起に及ぶこと、此くのごとし。嗟乎(ああ)、芥(あくた)・珀(はく)[やぶちゃん注:宝石。]・磁[やぶちゃん注:磁器。]・䥫(てつ)と雖も、其の理(ことわり)、皆、自然より出づ。得べからずして強なり。天地が間の產類、千万、以つて博(ひろ)く辨じて要と爲せり。否、則ち、百藥物より、瑣瑣たる食品に至れるも、謬りて採ることを免かれず。况んや、君子の天より藏するの地の韞匱(うんい)[やぶちゃん注:「韞」は「藏」に同じで「収蔵する」の意で、「匵」は「箱」の意。]に於いてをや。天下に與(くみ)して、共(きやう)する者なり。

寬政戊午臘月旦浣(たんくわん)[やぶちゃん注:寛政十年戊午十二月一日、或いは、十日、或いは、その間の意。グレゴリオ暦では、この十二月一日は、既に一七九九年一月六日である。

      木邨孔恭(きむらこうきやう)識

        [落款][落款]

   *

「邨」は「村」の異体字。落款の上のものは「木孔龔」(本名の孔恭の別字であるが、「龔」の歴史的仮名遣は「きよう」となる)、下のものは「木世肅」(蒹葭堂の別号)と思われる。孰れも唐風名である。

【2021年8月26日:本文及び訓読の修正と追記】早速、私の古参の教え子S君がFacebookで、末尾の判読不能の一字と私の誤判読(数字有り)の指摘とともに、末尾部分を現代語訳して呉れた。以下に示す。『天地の千万もの産物を弁別して役に立てる。さもないと、百薬の類から瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ。ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも(間違いが生じてしまう)。(だからこの著作を)天下に対(与)して、共(供)するものだなあ! 』。心より感謝申し上げるものである。なお、これに伴い、注の一部も修正してある。【2021年9月2日:本文及び訓読の修正と追記 】今朝、同じS君が上記全文について、判読と以上の全訳を試みて呉れた。やはり複数の誤判読があったので、即刻、訂正した(訓読も修正した)。また、S君の現代語訳は非常に判り易いので、少し私が割注を入れたものを以下に示す。

■S君の現代語訳(一部の表現に私が手を加えた。S君の了解を得てある)

 一昔前の人が物産に対するに、「本草綱目」に導かれ、山海の夥しい産物を認識して、漏らすところがなかった。向観水(こうかんすい)にはじまり、稲若水(とうじゃくすい)・松怡顔(しょういがん)・島彭水(とうほうすい)などの人々は、まことに秀でたもので、物産を網羅するに欠けるところがなかった。

[やぶちゃん注:「向観水」向井元升(むかいげんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)は江戸前期の医師・儒学者。肥前国神崎(かんざき)生まれ。初名は玄松で、晩年に元升と改めた。号に観水子があり、ここはその唐風名。二十歳で医業を始め、筑前の黒田侯や皇族の病気を治療して、名声を揚げた。私塾「輔仁堂」を開き、堂内に孔子の聖廟を建てて、儒学を教えた。門人に貝原益軒がいる。松尾芭蕉の高弟向井去来は彼の次男である。

「稲若水」初名は稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は江戸中期の本草学者。名は稲生正治或いは宣義で、号を若水としたが、後に唐風に稲若水を名乗りとした。父は淀藩の御典医稲生恒軒で、江戸の淀藩の屋敷で生まれた。医学を父に学び、本草を福山徳順に学んだ。元禄六(一六九三)年に金沢藩に儒者役として召し出され、壮大な本草書「庶物類纂」の編纂を命ぜられた。同書は三百六十二巻で未刊に終ったが、後に丹羽正伯が引き継ぎ、一千巻とした。著書はほかに「食物伝信纂」・「炮灸全書」・「詩経小識」・「本草綱目新校正」などがあるが、ここで蒹葭堂の言及する「採薬独断」という書は、調べても、見当たらない。現存しないものと思われる。

「松怡顔」松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は江戸中期の本草家で京都出身。名は玄達。別号の怡顔斎(いがんさい)で知られ、ここはそれと姓と結合した唐風名。儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に、本草を前に注した稲若水に学んだ。享保六(一七二一)年、幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した。門弟に、かの小野蘭山がいる。

「島彭水」津島恒之進(つねのしん 元禄一四(一七〇一)年~宝暦四(一七五五)年)は江戸中期の本草家。越中国高岡の酒屋照成の三男として生まれた。名は久成で、後に恒之進と変えた。彭水は号の一つで、ここは姓との結合縮約した唐風名。京都に出て、先に注した松岡恕庵に入門し、その塾頭となった。宝暦元(一七五一)年頃から、毎年、大坂に下り、本草会を開催している。この会は数年しか続かなかったが、後に本草家によって、江戸や関西各地で開かれる「薬品会」(物産会)の先駆けとなり、「薬品会」は自然物の展示のみに留まらず、広い意味での知識の交流、啓蒙の場となり、明治中期まで続いた。門下から、この木村蒹葭堂や「雲根志」で知られる石フリークの木内石亭らが出た。以上の注は総て信頼出来る辞書や資料を、複数、見て、合成した。]

 私は、その伝統を預かり、今まで、数十年の苦心を費やし、人がまだ見たことのない物を見、人が判断したことのない物を判断し、まこと、隠れた道理と、世の不思議の探求を極めたのであったよ。

 聞くところによると、稲氏若水(とうしじゃくすい)は「採薬独断」を著したという。平生から深く思いを致し、最終的に帳の内深くに隠され、秘書とされたのだった。

 そもそも、あらゆる物が山奥に秘匿され、人の世に伝わらないというのは、実に惜しいことだ。

 私は先人たちを慕う心に堪え切れず、彼らのやり方を密かに真似て、数巻の書を著し、「名物独断」と名付けたものの、勉めれば勉めるほど、事実は複雑で、泉のように滾々と湧き出でて、これ、尽きることがないがゆえに、産物の名を挙げきることは、できなかった。

 また、四つの序節に於いて、保存の方法、発酵させる方法、さらには脱穀の方法にまで記述が及んだ。

 しかし、まさに家が多難を受け、災厄が立て続けに襲い来たって、幾度、塗炭の境遇に落ちたことか! 今、その一事を、甚だ、遺憾に思うのである。

 そうしている頃に、書肆某が、画帖一部を携えて現われ、

「序文を、ものしてくれ。」

と求めてきた。

 その題は「山海名産図会」というものだった。

 これを繙いてみれば、吾が東方の産物や、奇種や、特産品などを挙げ、新たに名付けたりしている。

 一つ一つの図を見てみれば、その制作の成り行きの実際の証左となっており、注釈までつけて、相手が婦女子や子供であっても、これを知らしめるようにしてある。

 ここには、すこぶる、私自身の取り組みに報いてくれるものがあるようだし、さらに言えば、絵は、今は亡き友の蔀關月の手になるものなのだ。そうであってみれば、序文を書いてやらぬ手はない。

 冊子に添えて支えとするものとして、思うところを論じてやった。この書の縁起は斯様なものである。

 ああ! 塵芥(ごみ)も宝石も磁器も金属も、みな、自然から来たったものであり、それだけで永遠に存在する強い物では、ないのだ!

 天地の千万もの、産物を弁別して、役に立てるべきだ!

 さもないと、百薬の類から、瑣瑣たる食品に至るまで、誤って採取してしまうぞ!

 ましてや、君子が天地から得た貯蔵品にも間違いが生じてしまう!

 だからこそ、この著作を天下に対して、供するものである! 

 

 以下、「跋」と附記(絵師蔀関月の記名)及び広告文と奥書。「跋」は私には判読できない部分が多いが、力技でやっつけた(唯一、先の書誌情報のみが前半の判読の頼みの綱である)。画像と比較して読まれる読者のために、「□翻刻1」では底本通りに読点を打ち、改行も同じにした。意味は無論、ところどころしか判らないが、「□翻刻2」では、牽強付会の謗りを気にせず、ゴリ押しで意味の通りそうな部分を試みに読み換えてみた。

【2021年9月1日追記:今朝方、判読不能字を再度、検証し直してみた(現在まで援助者は上に示した教え子の一つきりである)。崩し字の判読によく使う「人文学オープンデータ共同利用センター」の「くずし字データベース検索」を利用し、判読不能字(私の勝手な判読でである)を一字だけにすることが出来た。】

 以下、「跋」。画像は後の絵師蔀についての補記と広告文を一緒に載せた。]

 

Batu1

 

Batu2

 

□翻刻1

 

こよ、補世ありしほとにおもひはしめにたる木の

下露を、みなの川波のかすかすになん、かきなかしぬる

関月かいさほし也けり、そも、遠つ國のことうかまは、

かこのよすかもとむなとしつゝとしこすのへおく

をめさるものにて、なとなとまうさんきはになん、あから

さまにあつめぬるか、ゝつ、おもはすかし云とそ聞ゝぬ、

かくて、まなひ子藍江その名殘につきて、露けし

袖の外に、ほころふるふしをきぬひ侍り、おのれ

亦かたはらのことかきをたちいらへつ、つひによるせありて、

いつもの花の五卷とはなりぬ抑むかし、高く好すに

しられ、をさして、寶のくにと聞ゝしはそかことや、あかれ

りしよの心のヿしらねと、そのかみ、とうへて、はちめし

らぬ、稲田のひえにて、もし、■にあらはし字は、なく、

人わろけにもやあらんかし、ましてかしこくも、なよたけ

恋よしになんふりにたる、みをくのあまりて、四民のとれる

なるわさにまれ、おのれまちにさらんと、みをつくし

ふかふかたとり、山の井とあさはかなる事たにつゆたらさる

時なし、さるは、人のくにの方物をは、ゝかにひえ田のあ

れのみなかかす事をへす、されはあめの下にして、

寶のくにといはんまて、こゝをおきて、いつれか、後つかふ、

蓬萊の玉の枝、つはめの巣の子やす貝なともいてき、

なを、此編のゝちのことことさふのて、あしふきのもく

さたるらん、

  寛政十嵗、むまのとし 勢都都、那尓波江

  迺、みち、しるす

 

□翻刻2(無理矢理に段落を成形し、推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。思うに、この筆者は原著者と言っている人物の妻かと思われる。但し、仮託の可能性を否定出来ない。)

 

 こよ[やぶちゃん注:「此世」或いは「今宵」か?]、補世[やぶちゃん注:「朝日日本歴史人物事典」では平瀬徹斎の名を「補世」とする。輔世と同じで、「すけよ」と読むか。]、ありしほどに、憶ひは、しめに[やぶちゃん注:「濕に」。]、たる木[やぶちゃん注:「垂木」「椽」。]の下露を、みなの川波の[やぶちゃん注:「みなの川」は「男女川」で現在の茨城県つくば市を流れる利根川水系の河川。筑波山から南流して、つくば市で桜川に注ぐ。「水無川」とも称し、歌枕として知られる。ここは「數々」を引き出すための枕詞。]、かずかずになん、かきながしぬる関月[やぶちゃん注:本書の絵師。]がいさほし[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「勳(いさを)し」。功績。この文は歴史的仮名遣の誤りもあって、何重にも読み難い。]也けり。そも、

「遠つ國のこと、うかまば[やぶちゃん注:「浮かまば」。]、かこ[やぶちゃん注:「浮く」に掛けた「水主」(船頭)であろう。]のよすがもとむ[やぶちゃん注:「縁(よすが)求む」か。]などしつゝ、としこすのへ[やぶちゃん注:「年越すの端」か。]、おくを、めざるものにて[やぶちゃん注:意味不明。]などなど、まうさんきはになん、あからさまに、あつめぬるが、かつ、おもはずかし。」

云ふとぞ、聞きぬ。

 かくて、まなひ子[やぶちゃん注:愛弟子。蔀関月の、である。]藍江、その名殘(なごり)につきて、露けし袖の外に、ほころぶるふしを、きぬひ侍り[やぶちゃん注:「絹地で補綴致しました」の意か。]、おのれ、亦、かたはらの、ことがきを、たちいらへつ[やぶちゃん注:この筆者が補注を「截(た)ち入れた」というのである。]。

 つひに、よるせ[やぶちゃん注:「寄る瀨」。「援助して呉れる人物があって」か。]ありて、いつもの[やぶちゃん注:書肆としての常の仕事として。]、花の五卷とは、なりぬ。

 抑(そも)、むかし、高く好ず[やぶちゃん注:「好事」。]にしられ、をさして[やぶちゃん注:「長」であろう。代表の先導者となって。]、

「寶のくにと聞ゝしは、そがことや。」

あかれりしよ[やぶちゃん注:意味不明。「上がれり書」で板行した本の意か。]の心のこと、しらねど、そのかみ、とう、へて[やぶちゃん注:「薹、經て」か。]、はぢめしらぬ[やぶちゃん注:「始め知らぬ」か。]、稲田のひえ[やぶちゃん注:「稗(ひえ)」か、]にて、

「もし、■[やぶちゃん注:「猥」(みだり)を想定してみたが、(つくり)の部分がしっくりこない。]にあらはし字[やぶちゃん注:「事」の可能性もあるが、崩しとしては「字」に分がいい。]は、なく、人わろげにもや、あらんかし[やぶちゃん注:転じて、謙遜で、『人によっては、「たいした作品でもなく、体裁や外聞が悪いね」とも感ぜらるるかも知れぬ。』という意か。]。まして、かしこくも、『なよたけ』、恋し。」[やぶちゃん注:全体に意味不明。「なよたけ」(細くしなやかな竹)が如何なる対象を指すか不詳。この筆記者を指す愛称ととると、腑には落ちる。]

よしになん、ふりにたる。

 みをく[やぶちゃん注:「身奥」で「内心の深い執着の思い」か。]のあまりて、四民のとれるなるわざにまれ、おのれ[やぶちゃん注:自然に。]、『まちにさらん』[やぶちゃん注:意味不明。]と、みをつくし、ふかぶか、たどり、山の井ど、あさはかなる事だに、つゆ、たらざる時、なし[やぶちゃん注:「みをつくし」は「身を盡し」に「澪標」を掛けて「山海」の「海」を匂わせ、「深々」とそこを辿って行くと、陸の水脈から「山の井戶」へと導かれて、「山海」の「山」に通ずるという趣向となっている。]。

 さるは、人のくにの方物[やぶちゃん注:その地「方」で知られる「物」産の意か。]をば、はかに、ひえ田のあれの[やぶちゃん注:「稗田阿禮」。「禮」の崩し字を縦覧したところ、悪筆の場合、「豐」だけの崩しとしたものに酷似したものがあり、更に「れ」の「連」の崩しの中にも酷似したものがあったので確定した。]、みな[やぶちゃん注:「皆」或いは「御名」か。孰れでも意味は通るから、掛詞かも知れない。]、かかす事を、へず[やぶちゃん注:「得(え)ず」の意であろう。かの「古事記」の筆録者とされる稗田阿礼に譬えた謂いである。]。

 されば、あめの下にして、「寶のくに」といはんまで、こゝを、おきて、いづれか、後(のち)、つかふ、「蓬萊の玉の枝」・「つばめの巣の子やす貝」なども、いでき。

 なを[やぶちゃん注:「猶」(なほ)。]、此編のゝちのことごと、さふのて[やぶちゃん注:意味不明。「双(さう)の手」か?]、あしふきのもくさ[やぶちゃん注:「足吹きの艾(もぐさ)」か? 枕詞「あしびきの」のパロディであろうが、何を言いたいのか判らぬ。「両の手足に灸を据えては、頻りに頑張ってはみるけれども。」の意か。]、たるらん[やぶちゃん注:「足るらん」。「効果があるかどうか?」の意か。全体に朦朧な表現だが、この掉尾の部分は本書の続編(後注参照)を出版する予定があったことを示唆しているようには読める。]。

  寛政十嵗 むまのとし 勢都都(せつつ)[やぶちゃん注:「攝津」。最初の字は「勢」の、最後の字は「都」の、それぞれの甚だしい崩し字に似ており、以下の「浪華江」の前にあるべきものでもある。] 那尓波江(なにはえ)[やぶちゃん注:「浪華江」。]迺(の)「みち」 しるす。[やぶちゃん注:当初、「しはす」で「師走」と判読していたが、どうもここで頭の年から離れて末尾に月を出すのはおかしいこと思い、よく見ると、この二つ目の字は「波」の崩しであることに気づいた。されば、「記す」で擱筆に相応しくなる。]

[やぶちゃん注:癖の激しい崩し字で、地下文書として見てもかなり難物である。筆者は総合的に見て、女性で、相応の和歌の知識なども持ち合わせている。素直に読むなら、千種屋新右衛門こと平瀬徹斎輔世にごく親密であった妻かとも思われてくるのだが、 女性とするのは、仮託の可能性もある。そもそも木村蒹葭堂が「序」の中で、この跋文に全く触れていない(それが唯一の本跋文筆者を明らかにする唯一の場所であるのに、である)ことが、大きな不審であり、蒹葭堂が販売促進のために(「不思議な一文が載ってるぜ」と噂が立てば、当然、売れ行きは上がる)知られた書肆主人の平瀬を想起させるようにでっち上げた文章である可能性も否定出来ないように思われる。

 

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 𤲿圖   法 橋 關 月 [落款]

 

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[やぶちゃん注:落款は蔀関月の名の「德基」である。

 以下、広告。解説部は字下げが行われてあるが、無視した。]

 

日本山海名物圖會 長谷川光信画全五冊

金銀銅鉄の仕製(しせい)、漁人の鯨をとるの擡功(だいこう)なる、有馬細工の竒巧なる、凡そ山川(さんせん)毎陸(まいりく)の產物を画圖にし、これに注釋を加ふ名產圖會となし、はせ見るへき、ひとへに世の宝とすべきの業(しよ)也。

 

[やぶちゃん注:酷似した書名であるが、全くの別物で、本書「日本山海名産図会」の真の作者ともされる平瀬徹斎著で長谷川光信画。「文化遺産オンライン」の当該書の解説に、『日本各地の産物の生産や捕採の技術を図示し』、『解説を加えた本。全』五『巻からなり』、一『巻に鉱山』、二『巻に農林系加工品』、三・四『巻に物産』、五『巻に水産に関することが記されており、その中には豊後の物産として「河太郎」(=河童)のことも紹介されている。所収された画図は全部で』九十三『図におよび、採鉱用の諸道具、製鉄用のたたら、樟脳製法の図などは技術史上貴重なものとされている。なお本書は』、宝暦四(一七五四)年の『初版から』、実に四十三年も経った、本書刊行の前年の寛政九(一七九七)年に『再版された』とある。その寛政九年版は国立国会図書館デジタルコレクションで全巻を視認出来る

 なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年版では、版組みが異なっていて、こうなっているが、そこには、この広告ではなく、「山海名産圖會 續編 近刊」とあり、本書の再版と思われる寛政十一年版の時点では、続編が予定されていた(これは「跋」の終りの部分にも仄めかされている)ことが判る。但し、実際には続編は刊行されなったものと思われる。

「擡功」高々と掲げるに足る鯨捕りの勇猛果敢さの謂いであろう。

「はせ見るへき」「馳せ見るべき」の意でとった。書肆に駆け込んで見るに値する本というキャッチ・コピーと読んだ。

「業(しよ)」読みは書(しょ)の当て訓。

 以下、奥書。画像はリンクのみとした。字の大きさは再現していない。]

 

寬政十一未年正月發行

 

               吉 田 松林堂

             梶木町渡邊筋

               播磨屋 幸兵衛

  浪華書林      心齋橋南久太郎町

               鹽 屋 長兵衛

             

               鹽 屋 卯兵衛

[やぶちゃん注:改丁。]

 

 和漢

   書籍賣捌所

 西洋

――――――――――――――――――――――――

    大阪心齋橋通北久太良町

  積 玉 圃  栁 原 喜 兵 衛

 

[やぶちゃん注:町名表記の違いはママ。おや? この「南久太郎町」は知ってるぞ! 芭蕉が最期を迎えた花屋仁左衞門の家のあったところじゃないか。偽書であるが、長く一級資料とされてきた私のPDF縦書版電子化注である文曉「芭蕉臨終記 花屋日記」を見られたい。4コマ目中央より少し前に出る。]

2021/08/24

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 虛無僧御定

 

[やぶちゃん注:以下底本では、各条の頭の「一」のみが行頭で、二行目以降に亙る場合は、一字下げになっている。「一」の後に字空けを行った。句読点は今まで通り、私の判断で読み易さを考えて追加・変更してある。疑問があれば、吉川弘文館随筆大成版を見られたい。標題は「こむそうお(ん)さだめ」。発表者は「文寶堂」である。]

 

   ○虛無僧御定

一 日本國中、虛無僧之儀は、勇士・浪人、一時之爲、隱家之[やぶちゃん注:底本ではここに『(本ノマヽ)』と傍注が付されてある。底本の現代の編者に拠るものか。]不入守護之宗つゝ、依之て、下々、家臣・諸士之席に可定之條、可得其意事。

一 本寺へ宗法出置たる其段、無油斷、爲相守可申候。若、相背者於有之は、末寺は本寺も[やぶちゃん注:底本ではここに『(マヽ)』と傍注が付されてある。同前。]、虛無僧は其寺より、急度、宗罪に可行事。

一 虛無僧之外、尺八吹申者於有之は、急度、差留可申事、尤、懇望之小寺は、本寺より免し出爲吹可申候。勿論、諸士之外、下賤之者へ、一切、尺八爲吹申間敷候。尤、虛無僧之姿爲致申間敷候事。

一 虛無僧多勢集り、逆意申合者於有之者、急度、遂吟味、本寺幷番僧に至迄、可爲重罪事。

一 虛無僧托鉢修行之者、同行二人之外、許不申候事。

一 虛無僧渡世之義、所々、專と仕之候。其段差免申候。一編修行之内、於諸國々法抔と申虛無僧、麁末慮外之體、又は托鉢等に障、六ケ敷義出來候はゞ、子細改、本寺へ可申達候。於本寺不相濟之義は、江戶奉行所へ可告來事。

一 虛無僧托鉢に罷出、或は道中宿往來所々何方にても、天蓋を取り、人に面を合せ申間敷事。

一 虛無僧托鉢之節、刀・脇差、幷、武具之類、一切、爲持申間敷候。總而、いかつかましきなり形、致間敷候。尤一尺下之刄物爲懷刀と差免可申事。[やぶちゃん注:「嚴がましき形(なり)・形(かたち)」で、「嚴(いかつ)し」(強い・乱暴な)の語幹に「望ましくない様子である」「不快な傾向を帯びた」の意味の形容詞を作る接尾語「がまし」を接続させたもので、「なり・かたち」は「姿・格好」。護身用の短い懐剣の所持は許容するというのである。]

一 虛無僧勇士之道、敵體尋𢌞國抔之義も有之、依而、芝居・渡舟等に至迄、往來自由に差免之事。[やぶちゃん注:料金を払わずともよいということらしい。]

一 似虛無僧於有之は、急度、宗法に可行候。若、又、賄賂を見遁し抔致候はゞ、番僧に至迄可爲重罪、總而、猥に無之外可申付事。

一 托鉢に罷出、下賤之者之痛を不顧、托鉢不可致、勿論、辯舌を以、遊興・賄賂預・饗應事、堅停止、總而、正道一己之情無之者、本則を取上可則申事。

一 虛無僧、自然、互に敵に候はゞ、還俗申付、於寺内勝負可爲致候、勿論、諸士之外一切、不差免之贔屓を以、片落なる取扱、堅、停止之事。[やぶちゃん注:「たまたま、仇討ちの当事者同士が虚無僧であった場合は、その場で二人に還俗(げんぞく)を申し付け、寺内に於いて勝負を致そうとする場合は勿論、その他の武家の虚無僧及びそれ以外の虚無僧らは、一切、本寺が許容していないところの、双方孰れかへの贔屓(ひいき)を以って、片方に不利になるような取り扱いをすることは、これ、堅く、禁ずる。」というのであろう。]

一 諸士、人を切、血刀、提、寺内へ逃込候共、留置、子細を改、不寄何事、武士之道に候はゞ、宗法に可仕候。科有る人は、一切、隱置申間敷候。若、隱置、後日に顯候は、難遁義に付[やぶちゃん注:「のがれがたきぎにつき」。]、早速、繩を掛、差出可申候事。

一 虛無僧に罷出敵討仕度者於有之候は、其段、子細相改、差免可申候、乍、倂、多勢相集申間敷候。同行一人は免可申候。諸士之外、一切、不差免事。

一 往來之節、馬・駕籠、一切無用、所之關所・番所に而は、無沙汰無之樣、本寺より之本則、往來出爲相改、通り可申事。

一 住所に離れ、他國所々、城下、幷、町、托鉢修行、滯留一日之外、堅無用。若、鳴物停止等、告來候は、宗門傳學之虛無僧之外、吹申間敷事。

一 虛無僧之義は、天下之家巨・諸士之席に相定候上は、常に武門之正道を不失、何時にても還俗申付候間、表には僧之形を學、内心には武者修行之宗法と可心得者也。爲、其日本國之内往來自由に差免置候樣、決定如件。

 慶長十九年戊寅正月  本田上野介 在判

            板倉伊賀守 在判

            本多佐渡守 在判

右上意之趣、相渡申候間奉拜見、會合之節、能々、爲申聞可爲守者也。

[やぶちゃん注:上の最終行のみは行頭から。

 以下は、画像中にも注を入れたが、底本の図版ページに従い、活字を新たに起こして、オリジナルに翻刻・作図したものを画像として取り入れ、それに底本の印形画像(原本の「文寶堂」に拠るキャプションを含む)の全部で六図十種(ソリッドに纏めてトリミングした数が「六」。実際の印形は十個)を合成したものである。従って、これは底本の編集権を侵害しない。なお、画像作成のために電子化した文字データを念のため(私は、その意味まで注する気はさらさらないが、普化宗を調べようとする人には価値があるやも知れぬので)、後に添えておく。なお、「天蓋」以下では底本では活字のポイントが落ちているが、読み難くなるだけなので、合成画像でも、ここでも、同ポイントで示した。

 

Komusou1

 

[やぶちゃん注:印形(「普化正宗■本■」。篆書は守備範囲外)のキャプションを電子化しておく。右側のそれは、右手に縦の長さで、

一寸三分

上部に、

白字

で、実際には、字が白で、周囲は朱ということであろう。而して、下部に横の長さで、

四分

とあり、左側のそれ(全く読めない)は、右に、

白字

二寸五分知四方

とある。

その左の印形(「金光■■金龍山之印」)は右に、

朱字

とあり、左側に、

二寸六分

ろある(四方長)。但し、「二」は「三」の欠字である可能性がないとは言えない。]

 

Komusou2

 

[やぶちゃん注:一番右の印形(「金龍■」)で、右に、

朱字

とあり、左に縦幅を示す記号の間に、

一寸五分

とあって、下部に、

■■五分

とある。「ヨコ」或いは「ココ」か。「一月寺」の下方には、印形(「■■月■」)とあって、右に、

八分

とし、下部に、

朱字

とある。

その左の上が、丸い印形(「桀秀」)の上に、

白字

とあって、左に、

八分

とし、下方の四角の印形(「看我」)で、左に、

七分五厘

とあって、下部に、

朱字

とする。

最後の三つの図は、上方右手の印形(「金龍山」)の右手に、

朱字一寸五分

とあって、左に、

ヨコ五分


か? その左の正方形菱形の印形(上は「佛」だが、他の三字は判読不能。右は「烙」に見えるも、字の順列も定かならず、判読不能)の右上には、

白字

で、左手に、

一寸二分四方

である。下部のそれは、印形ではなく、「掟書」の奉書の外包の封書と思しく、右手に、

本則の紙は、鳥の子、反切、丈、六寸七分。表包帋は粘入紙立二ツ折りニテ

とあって、表書に、

普化禪林[やぶちゃん注:「化禪林」は囲み字。]

 本則[やぶちゃん注:「則」は上を頂点とした四角で囲われてある。

とあって、下方の左に寄せて、

   授與

    何 某

と記す。]

 

普 化 常 於 街 市 搖 鈴 曰 明 頭

來 明 頭 打 暗 頭 來 暗 頭 打 四

方 八 面 來 旋 風 打 虛 空 來 連

架 打 臨  今 侍 者 去  纔 見 如

是 道 使 把 住 日 總 不 與 麽 來

時 如 何 普 化 托 開 曰 來 日 大

悲 院 裡 有 齋 侍 者 囘 擧 似 濟

濟 曰 我 從 來 疑 者 這 漠

尺 八

夫 尺 八 者 法 器 之 一 也 謂 尺 八

大 數 也 取 三 節 之 中 定 上 下 之

長 短 各 有 所 表 三 節 者 三 才 也

上 下 之 二 竅 者 日 月 也 表 裏 之

五 竅 者 五 行 也 此 是 萬 物 之 深

源 也 吹 之 則 萬 物 與 我 融 冥 而

心 境 一 如 也

 

天 蓋

  夫 天 蓋 者 莊 嚴 佛 身 之 具 也

  故 我 門 準 擬 之 也

          靈 山 一 月 影

           輝 萬 派

       普 化 孤 風 德

           馥 三 州

       下總國葛飾郡風早莊小金

           金龍山梅林院

               一  月  寺

             院 代

               傑 秀 看 我

文化八年辛未年五月

               授 與 何 某

 

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げで、曲名は九段組みであるが、一段で示した。]

        尺八曲名

無磚箇(ムカヒジ)

虛 空(コクウ)

靜 攬(スガヾキ)

瀑布音(タキオトシ)

休 愁(キウシウ)

厭 足(アキタ)

座 草(ヲクサ)

善 哉(ヨシヤ)

賤 子(シヅ)

意 子(イス)

雲 井(クモヰ)

興(キヨウ)

夕 暮(ユウグレ)

波 間(ナミマ)

獅子吼(シヽクルヒ)

盤 涉(バンシキ)

虛 靈(コク)

巢 鶴(スゴモリ)

         右十八曲

          倫 絕(リンゼツ)

          櫓 骨(ウチアヘ)

          鈴蒼挑(レイボウガシ)

      凡二十一曲、是を表組といふとぞ。

[やぶちゃん注:以下最後まで、底本では全体が二字下げ。]

此外に、猶、裏組もあるよしなれど、いまだゆるしなければ、しらざるよし。右十八曲の中に、「こくう」といへる名、二つあり。はじめにあるは、普化禪師相傳の曲にて、あとのは、後人の作りし曲なり、といヘり。

 文政八年正月朔     文寶堂 しるす

 

[やぶちゃん注:ウィキの「普化宗」を引いておく。同宗は本来は、禅宗の一つで、九世紀に、唐代、『臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い』、時代劇で『虚鐸』(きょたく:現在は尺八の異名。元は始祖普化禅師が鐸(大型の鈴)を振り鳴らしつつ、辻説法をするのを常とし、その音を慕った者が竹管でその鐸の音を模して吹奏し、その曲を「虚鐸」と名づけたのが濫觴とも言われる)『(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で』お馴染みである。建長六(一二四九)年、『日本から』南宋『に渡った心地覚心が、中国普化宗』十六『代目張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の』四『人の在家の居士を伴い』、建長六(一二五四)年に帰国したことで、『日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て』、『居所とした』四『人の帰化した居士は、それぞれ』四『人の法弟を教化し』て、十六『人に普化の正法を伝え』て、十六の『派に分かれ』『た。後に宝伏の弟子の』二『人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭』(ふれがしら:設置は後の室町時代で、江戸時代には幕府及び藩の寺社奉行の下で、各宗派ごとに任命された特定の寺院のことを指した。本山及びその他の寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った)『として支配下に入り』、『存続した』。『心地覚心の法孫にあたる靳全』(きんぜん)『(金先古山居士)がでて、北条経時』(北条氏得宗家一門で第四代執権となった)『の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺』百二十『あまりの触頭となった』。『普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである』。『江戸時代に』於いては、虚無僧集団が『形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した』。慶長一九(一六一四)年に『江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」』(☜この条に示されたものがそれであろう)『により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど』、『組織化され、諸国通行の自由など』、『種々の特権を持っていたため』、『隠密の役も務めたとも言われる』(☜時代劇は噓じゃないわけだ!)。『江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により』、明治四(一八七一)年に解体されてしまい、『宗派としては失われている。また、その後』、『一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし』、『尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上』、『重要な存在である。』。なお、昭和二五(一九五〇)年には、『宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された』ともあり、京都市東山区にある普化正宗総本山虚霊山明暗寺である。本尊は虚竹禅師(元は心地覚心の門弟寄竹)像で、尺八根本道場でもある。

「二つ」の「こくう」とは「虛空(コクウ)」と「虛靈(コク)」のことであろう。

 一日かけての迂遠な画像制作に、ほとほと飽きた。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 虹霓 伊勢踊 琵琶笛 奇疾

 

[やぶちゃん注:発表者は乾齋。雑駁なので、段落を成形した。]

 

   ○虹霓 伊勢踊 琵琶笛 奇疾

 虹霓[やぶちゃん注:「こうげい」ではなく、「にじ」と訓じておく。]の立ちて西に有るは、明日、必、雨、降り、東に見ゆるは、必、風、吹く。切れ切れに光り散るは、風、起る。日暮に東南に見ゆるは、天風なり。

 稻光の、坤[やぶちゃん注:「ひつじさる」。南西。]の方に見ゆるは、天氣、はる。乾[やぶちゃん注:「いぬゐ」。北西。]の方に見ゆるは、雨、降る。亂開するは、雨、晴れて、風も、なし。夏の風は、稻光の方より來る。秋の風は、光りの方へ向ひて吹くなり。

[やぶちゃん注:底本でも、ここは改行。後の半分は稲光の予兆で、虹ではないので、改行した。

「亂開する」雷電が一定方向ではなく、あらゆる方向に散乱するように発生することを謂うのであろう。]

 享保十四年[やぶちゃん注:一七二九年。]八月の頃、本所石原德山五郞兵衞中間八郞、俄に尻に犬の尾を生じ、五日の朝飯、食し兼ねしこと、ありき。摺鉢に食を入れ、與ふれば、快く食す。夫より、人相も、犬に變じ、全く、犬の如し。夜中、犬の聲を聞くときは、必、飛び出だす。「日ごろ、犬を殺しゝ崇。」と、皆人、傳へ云ひき。

[やぶちゃん注:妄想傾向の強い統合失調症、或いは、脳梅毒による精神異常であろうという気がする。]

 寬永元甲子[やぶちゃん注:一六二四年。]の歲二月上旬より、諸國に、自然と、「伊勢踊」、大に流行す。「泊舟」「傳馬」「人夫」[やぶちゃん注:総て湧いて出た神の名前。]と號し、太神宮を送り來る。耕作を妨げ、措生業一、費精力。此事達上聞ければ、則、吉田家に可相尋とて、子細を板倉勝重・同重家方へ嚴命有り、則、板倉より吉田家へ申し遣す。吉田某按諸傳。曰、「伊勢國度會郡内外の神を鎭めしより、四時の祭、禮不ㇾ怠。然るに、内外の神、何を以て、飛びたまはん。是等の事、諸民の兒戲、生者のものゝ、かずとする所に非ず。」と云ふ。將軍家、尙、御僉議あり。去る慶長十九甲子年[やぶちゃん注:一六一四年だが、干支は誤りで「甲寅」でなくてはならぬ。]年、「神踊」、京より始めて、駿州に至りぬ。東照大權現、嚴禁せられし所、程無くして、大坂兵亂。又、元和二丙辰年[やぶちゃん注:一六一六。]春の頃、「伊勢踊」、流行す。後、果して東照大權現、御他界あり。「先幾を考ふるに、皆、是、不吉の兆なり。」とて、御評定、一決して、彼邪神を野外に送り捨つ。於是、人馬の勞弊止む、といふ。

[やぶちゃん注:「伊勢踊」伊勢参宮信仰に伴って、近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり:中世の民間芸能の「風流」に起こり、現在も諸国各地の「念仏踊」・「太鼓踊」・「獅子踊」・「小歌踊」・「盆踊」・「綾踊」・「奴踊」などに伝わる集団舞踊。所謂、民俗舞踊の大部分を占める踊りを広く指す)の一種。庶民の伊勢参宮流行の歴史は、現在、承平4(九三四)年の記録まで遡ることが出来るが、慶長一一(一六一四)年、「大神宮が野上山に飛び移った」(本文で神道家の吉田が否定していることである)という流言が発生し、俄かに「伊勢踊」が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。寛永一二(一六三五)年に、尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した「伊勢踊」は、裏紅の小袖に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯に、晒の鉢巻をした姿で、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これは どこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われてある。慶安三(一六五〇)年(慶安3)に「お陰参り」が始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての「伊勢踊」の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。これは、所謂、幕末の「ええじゃないか」と同じ一種の集団ヒステリー、民俗学で言う「ペイバック」(payback)で、社会への大きな不安や大規模な自然災害(それが来るという流言)、或いは公的な禁忌・抑圧などが引き金となり、一時的に、有意な集団が、一斉に精神に変調をきたして躁状態となって踊り狂う民俗的現象である。

「措」「さしおき」と訓じておく。

 底本でも、ここは改行。]

 甞て、民間に、「琵琶笛」、流行し、其弊、郡下に、亦、流布せり。石厓と云ふ人、有ㇾ詩。又有ㇾ序。戲に記ㇾ之。

[やぶちゃん注:「石厓」不詳。

 以下は底本では、石厓の詩のみが行頭からで、他は全体が二字下げ。詩は句点打ちのベタだが、一段組みで句点を排除して示した。]

笛本津輕民間玩器。或呼爲津輕笛。近日都下童稺盛玩ㇾ之。其制鐵片三寸許。拗成成ㇾ環。環之兩端所ㇾ餘各寸餘。展成双股。削鋭如ㇾ錐。環内植ㇾ舌。精鋼薄片爲之舌。長於股三四分。少鈎上向。口橫銜吹ㇾ之。指※連鼓[やぶちゃん注:「※」=「月」+「主」。]。舌鼓與吹桐。成ㇾ音。其音錚々有ㇾ似琵琶。葢因以得ㇾ名云。文獻通考云。民間有鐵葉簧。豈簧之變伴歟。余因謂。琵琶笛鐵葉簧之又變者歟。戲作ㇾ詩詠ㇾ之。在昔武伯蒼汴州聞ㇾ角。詩曰。單于城上關山曲。今日中原總解吹。余則非必有此感而作也。

裂石餘聲尙可ㇾ尋

誰銜寸鐵龍吟

尖形半噤金鴉觜

巧舌全磨玉女針

風珮鏗鏘成急調

綿弓嘈囋送繁音

抹挑都在兒童口

解否潯陽曲理心

乾齋評ㇾ之曰。當今天下之害。莫ㇾ如於夷狄。嘗夷狄寇於海濱。知幾君子畏無ㇾ歎乎。夫琵琶笛者。軍中之所ㇾ用。今自然吹ㇾ之。有嚴命禁ㇾ之。宜哉。

 文政八年乙酉孟春朔   乾齋中井豐民識

[やぶちゃん注:我流で訓読してはみる。

   *

笛は、本(もと)、津輕の民間の玩器なり。或いは、呼んで「津輕笛」と爲す。近日、都下の童稺(だうち)、盛んに之れを玩(もてあそ)ぶ。其の制は、鐵片三寸許りにて、拗(ひね)り成して、環と成し、環の兩端の餘れる所、各々、寸餘り、展(ひろ)げて双股(ふたまた)と成し、削り鋭らすこと、錐のごとく、環の内、に舌を植(い)れ、精鋼の薄片、之れを舌と爲す。股まで長ずること、三、四分。少し鈎(かぎ)を上向にし、口の橫に銜へて、之れを吹く。指※、連鼓して[やぶちゃん注:「※」=「月」+「主」。]、舌鼓と吹桐と、音を成す。「其の音、錚々として、琵琶に似たる有り。葢し、因りて、以つて名を得。」と云ふ。「文獻通考」に云はく、『民間に「鐵葉簧(てつえふくわう)」有り。豈に簧の變に伴へるものか。』と。余、因りて謂はく、「琵琶笛は鐵葉簧の、又、變ぜる者か。戲れに詩を作り、之れを詠ず。在りし昔、武伯蒼、汴州(べんしう)に角(つのぶえ)を聞く。詩に曰はく、『單于(ぜんう)の城(しろ)の上 關山の曲 今日 中原 總て解かれえ吹かれたり』と。余、則ち、必しも、此の感、有りて、作るには非ざるなり。

裂石 餘聲 尙ほ尋ぬべし

誰(たれ)か 寸鐵を銜へて 龍吟を學ばんや

尖れる形は 半ば噤(つぐ)む 金鴉(きんわう)の觜(はし)

巧みなる舌(した)は 全き磨玉(まぎよく)の女針(ぢよしん)たり

風珮(ふうはい) 鏗鏘(かうさう)として 急調を成し

綿弓(めんきゆう) 嘈囋(さうさつ)として 繁音を送る

抹(こす)り挑(かか)げて 都(すべ)て 兒童の口に在り

解くには否(あら)ず 潯陽(じんやう)の曲の理(ことわり)の心を

乾齋、之れを評して曰はく、「當今、天下の害、夷狄に如(し)くは莫(な)し。嘗つて夷狄、海濱に寇(あだ)し、知んぬ、幾(いくばく)の君子、畏れ、歎くこと無かるかを。夫れ、琵琶笛は、軍中、之れ、用ひらる。今、自然(おのづ)と、之れを吹けり。嚴命の有りて、之れを禁ずるは、宜(むべ)なるかな。

 文政八年乙酉孟春朔   乾齋中井豐民識

   ?

「琵琶笛」江戸末期に流行した玩具楽器。細長い鋼鉄を笄(かんざし)のように二股に拵え、その間に針のような鉄を附けたもの。根元を口に銜(くわ)え、間の鉄を指で弾いて鳴らす。「きやこん」「くちびわ」「びわぼん」とも称し、所謂、アイヌの「ムックリ」に代表される「口琴(こうきん)」の一つである。

「津輕笛」現行のものは横笛である。サイト「津軽笛の会」のこちらを参照されたいが、石厓は明らかにアイヌの「ムックリ」のような口琴のことを指しているようにしか見えない。

「童稺(だうち)」児童・幼児。

「舌」ここは前の実際の「舌」ではなく、リードの意であろう。

「指※、連鼓して」(「※」=「月」+「主」)意味不明。

「舌鼓と吹桐と」意味不明。正直、漢字の誤字が疑われる気がする。

「文獻通考」上古から南宋の寧宗の開禧(かいき)三(一二〇七)年に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書。元の一三一七年に馬端臨が完成させた。

「鐵葉簧(てつえふくわう)」「簧」(コウ)は雅楽器の笙のリード。銅などの合金製で、竹管の下方に鑞(ろう:錫と鉛の合金。ハンダの類い)で取り付け、息を吹き込んだり、吸いこんだりして、それを振動させて音を発生させるもの。

「武伯蒼」中唐の宰相で詩人の武元衡(七五八年~八一五年)の字(あざな)。

「汴州(べんしう)」現在の河南省開封市(グーグル・マップ・データ)。

「角」角笛。

「單于」匈奴の君主の称号。

「風珮」その音が風を佩(は)いたように流れ渡るさまであろう。

「鏗鏘」金や石の鳴り響く音のさま。琴などの楽器の美しい響きのさま。

「綿弓」繰り綿を、打って、不純物を除き、柔らかくして、打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦は古くは牛の筋を用いたが、後、鯨の筋を用いた。弦を弾いて、綿を打つようになっている。「わたうちゆみ」「唐弓(とうゆみ)」とも呼ぶ。

「嘈囋」がやがやと雑然として五月蠅いさま。

「潯陽の曲」潯陽江は江西省北部の九江付近を流れる揚子江の異称であるが、ここは同名の邦楽の曲名。白楽天の「琵琶行」に基づいて作られた曲を指す。

 以下は底本では全体が一字下げで、下部は十一字上げインデント。]

               著作堂附記

琵琶笛、童稺、訛りて「ビヤボン」といふ。文政七年甲申[やぶちゃん注:一八二四年。]の冬十月上旬より、江戶中、流行す。春に至りて、彌、甚し。その製作、鐵をもてす。一笛の價、錢百文より銀五匁に至るものあり、といふ。大小の搨物[やぶちゃん注:「うちもの」或いは「すりもの」。]等、多く、これを擬したり。その他、新作の「おとし咄」も「駝駱」とゝもに、この事、多し。又、「小うた」にも作りて、うたへり。遂に、「風俗の爲よろしからざる」よしにて、八年乙酉の春二月、禁止せらる。いまだ、いくばくもあらずして、「松風こま」、流行し、同年夏四月に至りて、又、「雲雀こま」といふものを作り出だせり。「ひばりこま」は「眞ちう」をもて、これを作る。その價六十四文。「松風こま」は、はじめは、竹、或は、鯨の鰭にて作り、後には「ちりめん」の裂[やぶちゃん注:「きれ」。]にても、つくれり。その圖は「耽奇漫錄」中にあり。

[やぶちゃん注:「雲雀こま」不詳。

「耽奇漫錄」考証随筆。全二十集二十冊。山崎美成序・跋。文政七年から八年(一八二四年から一八二五年)の成立。美成のほか、谷文晁や曲亭馬琴らが、「兎園会」に先行して開いていた好古・好事の者の会合「耽奇会」に持ち寄った古書画や古器財などの図に考説を添えたもの。別に馬琴の序の五巻五冊本もある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで前者原本の記事を見つけたので、図を添えて電子化する(次の丁に左の紐の一部が切れて載り、記載者名が記されてある)。推定で句読点及び濁点を添えた。判読に誤りがあれば、御指摘戴きたい。

 

Matukazekoma

 

去年十月の頃より、「口琵琶」といふもの、大きに流行す。しかるに、今年二月のころに至り、公より、「風義よろしからず」とて、御停止[やぶちゃん注:「ごちやうじ」。]の儀、出づ。此三月のころより、又、この「こま」、流行す。竹にて作り、「くじら」にてもつくり、また、象牙、あるひは、鼈甲にてもつくるよし、きけり。こは、むかしより、ある所の「松風こま」にして、花のかたちなど、つくり、圖のごとく、「縮緬にしき」なんどにて、張ふり、そのこゑ、松風にさも似たるをもて、名づけたるものなり。童稺の翫物といへども、そのうつり換るを見れば、後の考えに、なるべきこともあんなれば、かゝることまでも、かきとめ置べきことぞかし。

   右、松蘿舘藏

   *

この後には、物を提供した「松蘿館」が、風聞宜しからざる故に処罰された譴責帰藩蟄居の別れが迫ったので、これを含めた三品の提示した旨の添書が載る。遂に彼は結局、江戸へ戻ることは出来なかったことを考えると、この短いそれには、何かしみじみとしたものを私は感ずるのである。]

2021/08/23

芥川龍之介書簡抄128 / 大正一四(一九二四)年(九) 五通(参考・一通/参考・河童図)

 

大正一四(一九二四)年九月二十五日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省、小病小閑を得、この手紙をしたためる。濱木綿の畫ありがたう。それから女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り、大いに恐縮した。君はもう書き了つたか。僕はまだ百枚ばかり殘つてゐる。この頃なる可くものを書かずに飯を食ふ工夫をしてゐるが、それは却つてものを書くより骨が折れる事になりさうにて所詮は賣文到死かと思つてゐる。目下支那游記の校正中。床の上にて校正の傍ら別紙抒情詩一篇を作る。御愛誦御隨意たるべし。この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ。夜來秋雨。墜葉處々黃なり。ワギモコによろしく。(夜長如年把燭寢顏を見よや。)

    九月二十五日     澄 江 子

   曾 枝 亭 先 生

 

   風きほふゆふべなりけむ、

   窓のとにのびあがりつつ

   オルガンをとどろとひける

   女わらべの君こそ見しか。

   男わらべのわれをも名をも

   年月のながるるままに

   いまははた知りたまはずや。

   いまもなほ知りたまへりや。

 

[やぶちゃん注:この抒情詩篇に登場する「女わらべの君」は明らかに吉田彌生の面影である。

「小病小閑を得」芥川龍之介軽井沢(九月七日帰京)で罹患した風邪の症状が思わしくなく、この五日前の二十日まで横臥していた。

「女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り」これにはちょっと説明がいる。しかも採用していない書簡をここで示さないと話がすっきりしてこない。されば、例外的にその書簡、四ヶ月前の佐藤春夫宛芥川龍之介書簡を、まず、この注の中で以下に電子化することとする。採用する気はなかったことは変わりはないので、注は本文に入れ込む(太字にした)。

   *

大正一四(一九二四)年五月十七日・田端発信・佐藤春夫宛

冠省ここに下山霜山[やぶちゃん注:「しもやまそうざん」(現代仮名遣)と読む。書画商。詳細事績未詳だが、共著で「新撰俳句大觀」(大正五(一九一六)年実業之日本社刊)があり、以下の謂いから見ても、俳句も捻ったらしい。]と言ふものあり。今度作家十二人に短尺を書かせ、大いに私腹を肥やさんとす。就いては君にも彼を儲けさせる一人になつて貰ひたきよし、僕から賴んでくれろと言ふ。それを引受けしはずつと前なれど、荏苒[やぶちゃん注:「じんぜん」。物事が延び延びになるさま。]として今日手紙を書くに至る。尤も小山内氏[やぶちゃん注:既出既注の小山内薫。]より前にちよつと手紙の行つたことと思ふ。正直に言へば、この擧は千枚や二千枚の短尺を書かされる事故、必しも樂ならざるべし。然れども君にはひつて貰へば啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]下山霜山の喜びのみにあらず、僕や室生犀星も同じ地獄に君と相見する底の[やぶちゃん注:「體(てい)の」に地獄の「底」を掛けた洒落であろう。]惡魔的歡喜あらん。君の外に書かされる連中は泉[やぶちゃん注:鏡花。]、德田[やぶちゃん注:秋声。]、永井[やぶちゃん注:荷風。]、里見[やぶちゃん注:弴。]、長田(幹)[やぶちゃん注:長田幹彦。]、久米[やぶちゃん注:正雄。]、小山内、久保田[やぶちゃん注:万太郎。]、上司[やぶちゃん注:小剣。]、室生、僕の十一人なり。書くものは俳句。何分よろしく願ひ奉る。下山むやみに急いでゐれば、電報位打つかも知れず。それも前以て斷り奉る。この頃田端に萩原朔太郎來り、田端大いに詩的なり。僕は軒前に竹三百竿を植ゑた。矢竹[やぶちゃん注:私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』の「矢竹」の注を参照。因みに「早川孝太郎の「猪・鹿・狸」には極めて好意的な芥川龍之介の書評「猪・鹿・狸」がある。]は三百竿二三坪にをさまる。風流下圖の如しと知るべし。頓首々々[やぶちゃん注:ここに底本(岩波旧全集)編者による『〔ペンの小さき畫あり〕』が、絵は省略されて存在しない。]

    五月十七日      芥川龍之介

   佐 藤 春 夫 樣

   *

次に、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注を見ると、「女性の隨筆で」という部分が明瞭となる。則ち、この月の雑誌『女性』の『九月号掲載の佐藤春夫』の随筆『「恋し鳥の記」は、「十二ケ月揃へ」た俳句を「短冊」に書くべく依頼された』という芥川の依頼した事実から『書き出されている』のであるが、実は以上の注で出した前の書簡では『「十二ケ月の事」は記』し忘れていた(以上で石割氏の注は終わり)ことを、この随筆を読んだ龍之介が思い出したのであった。しかも自分は、まだ、百枚も残っているというのである。恐らく、佐藤は下山から連絡が行き、「十二ケ月揃へ」の句という条件を理解していたのであろう。なお、新全集の宮坂年譜では、この短冊について、九月二十五日の条に『文士真蹟短冊頒布会の短冊』と記している。

「支那游記の校正中」既出既注だが、再掲しておくと、この凡そ五ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(「自序」の後、「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の構成配置となっている。私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。小穴隆一装幀。

「この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ」この言説は非常に興味深い。所謂、定型抒情詩へと恐るべき執拗(しゅうね)き思い入れを以って傾いてゆき、遂には『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』(リンク先は私のブログ・カテゴリ)の淵へと遠く去った龍之介の闡明であると思うからである。

「夜長如年把燭寢顏を見よや」中途半端なもので、こなれていないが、恐らくは、秋の「夜の長きこと 年のごとく 燭(しよく)を把(と)りて 寢顏を見よや」であろう。筑摩全集類聚版では『よながとしのごとくしよくをとつて』とルビするが、「夜長 年のごとく」は私には、それこそ龍之介ではないが、韻律に於いて甚だ戴けない。]

 

 

大正一四(一九二四)年九月二十五日・田端発信・中根駒十郞宛

 

冠省。先達渡邊君より尊臺御光來下さるやうに伺ひ居り候へば、御光來下さるものと相定め、この手紙したため申候。其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」古今同歎とはこの事なり。何とぞ御光來の節はお金三百圓ばかり御融通下され度願上候。文章倶樂部のゴシツプによれば千葉の海に命を失はむとなされ候よし、それは小生にお金を渡さざる祟りなり。今度のお金も御延引なされ候に於ては自動車か電車に轢かれ御落命の惧有之るべき乎。急々如律令。急々如律令。[やぶちゃん注:最後の繰り返しは「きふきふによりつりやう」と読む。]

    九月二十五日     龍 之 介

   駒 十 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「中根駒十郞」既出既注。「新潮社の大番頭」の異名を持った彼に芥川龍之介はひっきりなしに金を無心していることもそちらで書いた。あまりに度々なために、ここでは、いつもの低姿勢懇請型ではなく、とんでもない呪詛脅迫型を採っているが、面白いものの、やはりちょっと厭な感じが拭えない。龍之介は養父・養母・伯母フキ・妻文・子ども二人(後に三人)の生活を一手に支えねばならず、どうしても、金に対しては、ある種、「せこい」というか「ずる賢い」一面があった。そうして、そのせびる方法が、一種、慇懃無礼であったり、トリッキーに細かかったりして、相手を眩ませるのである(恐らく、実質的にこの時までに、本来は芥川龍之介自身が負担すべきものを多額に払わされたのは、大阪毎日新聞社であると私は思っている。特に中国特派では、巧妙な龍之介の要望を受け入たために、相当額の不要な支払いをしていると私は感じている。ただ、芥川龍之介の死後を考えると、芥川龍之介全集を遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)で破棄された新潮社が、結果して長期的展望から言って最大の損失者であったとは思う。それを受け入れた新潮社は大したものだと、心底、私は思っている。

「渡邊君」芥川龍之介の通い書生渡邊庫輔。

『其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」』これは「爐開(ろびら)き」の誤りであろう。私の柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 三」に(漢字を正字化した)、

  三年成就の圍に入

 爐開や汝をよぶは金の事   其 角

とあるからである。「圍に入」は「かこひにいる」で「爐開き」のこと。冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉を開いて用いること。茶の湯では、十月の終わりから十一月初めにかけて行う。また、その行事で、季題としては冬である。対する「爐塞(ろふさ)ぎ」の方は、冬の間、使ってきた囲炉裏を春になって塞ぐこと。茶の湯では、炉を塞いで、風炉(ふろ:茶の湯で釜の湯を沸かすための火鉢状の道具)にすることで、季題は春である。投函日は九月末であるから、後者に誤ったか、或いは意図的に季節を合わせるために季題を変えたかである。しかし、金がかかるのは、「爐塞ぎ」よりも、年末の掛け取りとダブって「爐開き」の方であろうから、この変更は無効である。

「千葉の海に命を失はむとなされ候よし」不詳。或いは、海水浴で溺れかけたというようなことか?

「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう:現代仮名遣)は、漢代の公文書で、本文を書いた後に、「この主旨を心得て、急々に、律令のごとくに行なえ」という意で、書き添えた語で、後に、転じて、道家や陰陽家の「咒(まじな)い」の詞(ことば)となり、また、「悪魔は速やかに立ち去れ」の意で祈禱僧が咒いの詞の末に用いた。その後、武芸伝授書の文末などにも書かれて、「教えに違(たが)う勿(なか)れ」の意を表わしたりもした。]

 

 

大正一四(一九二四)年十一月一日・田端発信・南條勝代宛

 

オケイコハサハリアル故コノ次ノ月曜日マデノバシテ下サイ

  (これは三十一文字の手紙です)

 十一月朔          芥川龍之介

南條勝代樣

 

[やぶちゃん注:完全な戯歌で、詩想も永遠なる零であるが、短歌形式である以上、採用した。

「南條勝代」(生没年未詳)新全集の「人名解説索引」によれば、二歳から十八歳までをヨーロッパで過ごした女性で、『如何なる経緯かは不明だが』、芥川龍之は大正一四(一九二五)年九月頃から、翌年の四月頃まで、彼女を自宅に呼んで、『日本文学一般についての個人教授をしている』とある。]

 

 

大正一四(一九二四)年十一月二十五日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省かまぼこ澤山ありがたう存じました河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました次手を以て河童の歌を一首御披露いたします 頓首

   ワガ愛ヅル河ノ太郞ヲ畫ニカケリコハクナクトモ少シコハガレ

    十一月二十五日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は、結果から言うと、最後まで一人長生きした夏目漱石の直弟子で大分県北海部郡臼杵町生まれの野上弥生子の弟である。弥生子の父角三郎(酒造業にして資産家で「第二十三国立銀行」監査役)の弟(弥生子の叔父)である小手川金次郎は「フンドーキン醤油」の創業者で、当主である兄角三郎の酒造の空いている時期の「麹むろ」を使用して、醤油・味噌の製造を手掛け、金次郎の次女のテツを角三郎の長男次郎(弥生子の異母兄)に嫁がせ(但し、後に離婚)、兄角三郎の次男武馬を養子に貰って、二代目金次郎とした、とウィキの「野上弥生子」にある。この二代目が、この宛名の相手である。生年は「名古屋大学大学院法学研究科」公式サイト内の「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」で確認した。

「野上さん」野上弥生子の夫で英文学者にして能楽研究者でもあった野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)。当該ウィキによれば、『大分県臼杵市出身。臼杵中学、第一高等学校を経て』、明治四一(一九〇八)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業』した。『同級生に安倍能成・岩波茂雄・藤村操が』おり、前二者とともに『夏目漱石に師事した』(藤村操は漱石が「君の英文学の考え方は間違っている」と叱った直後に自殺しており、それは後年の漱石の精神疾患の原因の一つとも言われている。また操の妹の夫となったのが安倍能成である)。『東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者とな』ったが、明治四二(一九〇九)年に『法政大学講師となり』、大正九年(一九二〇)年には『同大学教授とな』った。『予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘』するなどしたが、昭和八(一九三三)年に『学内紛争(法政騒動)で辞職』(但し、昭和一六(一九四一)年に復職している)、昭和一四(一九三九)年には『文学博士の学位を受け』た。『終戦直後の』昭和二一(一九四六)年、『法政大学総長に選ばれ、戦争で被害を受けた大学の復興にあたった。総長在任中』『に脳出血のため』、『世田谷区成城の自宅で死去』した、とある。

「河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました」「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にここで言っている河童図と指示するものをトリミングして以下に示す(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

 

Kappazu

 

ただ、カメラの寄りが近過ぎるか、冊子編集の過程で上下を少しカットしてしまったものらしく、特に上部は河童が押さえ込まれているようで、甚だ残念である。所持する二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」によれば(こちらで見られんことをお薦めする。カラーで、河童の肌の色や背負った葭の穂の墨痕も細部まで観察出来、全体に破綻なく絶妙で、その河童に表情は、一種、鬼気たるものをさえ感じさせる一枚である)、この河童図は現在は日本近代文学館蔵で、状態は紙本・軸装・墨書、サイズは二十八・五✕四十八・五センチメートル、署名は御覧の通り、「澄江堂」である。]

 

 

大正一四(一九二四)年十二月二十九日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省この間はかまぼこを頂き難有く存じます早速となりのいもじ秀眞先生に御裾わけして頂だい仕りました早速御禮申上げるつもりでしたが、新年號なるものにひつかゝり居候爲、ついつい今日に相成り甚恐縮に存じてゐます次手に河郞の歌を御披露します

   橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま

   わがめづる河の太郞を𤲿にかけり怖くなくとも少し怖がれ

御一笑下さい

    十二月二十九日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(2) / 日本山海名産図会 本文電子化注~了

 

釀酒★(さけのもと)【米五斗を「一★」といふ。「一つ仕𢌞(しまい)」といふは、一日、一元づゝ、片た付け行くを、いふなり。其余倚(よはい)余倚[やぶちゃん注:後者は底本では踊り字「〱」。しかし、「余倚」の意は不明。以下の述部を見るに、「その他にオプションで必要とする処理・作業」の謂いであろうか。]は酒造家(さかや)の分限に應ず。】[やぶちゃん注:「★」=「酉」+「胎」。酒造段階での隠語の漢字ではあろう。しかし、実際、この後でも前に出た判読不能字の「※」と同様に「もと」と読んでおり、読者の中には、『「※」と「★」は同じ「酉」+「胎」なのではないか?』と思われる方も多いかと思う。但し、「胎」の字の崩しを見たが、「指」のようになったものは、見受けられないことと、さらに言うなら、現在の底本頁を見て戴きたいのだが、右頁三行目の項名の「釀酒★(さけのもと)」や、割注のごく小さい「一★」の「★」は、はっきりと「酉」+「胎」であるのに、その解説文内の右頁後ろから三行目下から八字目の「※」は、明らかに「酉」+崩した「指」のような字体で彫られてあるのである。彫り師が違うならまだしも、どう見ても、同一人が彫った版木の中で、しかも同じ頁の中で、同じ字をこんなに違った彫り方をするとは、私には思えなかったのである。「字の大きさで違うんじゃない?」と言われるなら、「割注の小さな字は、何故、崩しでないのか?」と逆に問おう。しかし乍ら、叙述の内容からは、確かに、この「※」と「★」は同じ「もと」で別な「もと」とは思われない。しかし、私は本電子化では、あくまで表記には拘って濁音であるべきところも、清音のママなら、そうしてきた。されば、私は「※」と「★」を使い分けておくこととする。しかし、言っている傍から、「※」=「★」であることが証明される一字が出現してしまうのであるが。]

定(しやう)日三日前に米を出し、翌朝(よくてう)、洗らひて、漬(ひた)し置き、翌朝、飯に蒸して、筵へあげて、よく冷やし、半切(はんきり)[やぶちゃん注:「はんぎり」。「半桶」「盤切」とも書き、盥(たらい)の形をした底の浅い桶。「はんぎれ」とも呼ぶ。以下の「其三」に描かれた大きな丸い桶のことであろう。]八枚に配(わか)ち入るゝ【寒酒なれば、六枚なり。】。米五斗に麹一斗七升・水四斗八升を加ふ【増減、家々の法あり。】、半日ばかりに水の引くを期(ご)として、手をもつて、かきまはす、是れを「手元」と云ふ。よるに入りて、械(かひ)にて摧(くだ)く、是れを「やまおろし」といふ。それより、晝夜(ちうや)、一時に一度宛(づゝ)拌(か)きまはす【是れを「仕こと」ゝいふ。】。三日を經(へ)て、二石入の桶へ、不殘、集め収め、三日を經(ふ)れば、泡を盛り上(あぐ)る。是れを「あがり」とも、「吹き切り」とも云なり【此の機(き)を候(うかゞ)ふこと、丹練の妙ありて、こゝを大事とす。】。これを、復た、「※(もと)をろし」の半切二枚にわけて、二石入の桶ともに、三となし、二時にありて、筵につゝみ、凡そ六時許には、其の内、自然の温氣(うんき)を生ずる【寒酒は、あたゝめ、桶に湯を入て、「もろみ」の中へ、さし入るゝ。】を候(うかゞ)ひて、械(かい)をもつて、拌(か)き冷(さま)すこと、二、三日の間(あひだ)、是れ又、一時、拌(かき[やぶちゃん注:ママ。「かく」の誤刻か。])なり。是までを「★(もと)」と云ふ。

(そへ)【右※(もと)の上へ、米麹・水を、そへかけるをいふなり。是を「かけ米」、又、「味(あじ)」ともいふ。】

右の※(もと)を、不殘、三尺桶へ集め收め、其の上へ、白米八斗六升五合の蒸飯(むしはん)、白米二斗六升五合の麹に、水七斗二升を加ふ、是を「一★(=※)」[やぶちゃん注:これが「※」=「★」の証拠である。底本のここの左頁の四行目下から十二字目。この字は「酉」の右手(漢字の中央)に「子」の崩しのような字が挟まり、その右手には明らかに「台」があるからである。但し、以下でも字体の識別は行う。]といふなり、同じく晝夜、一時、拌きにして、三日目を「中(なか)」といふ、此の時、是れを、三尺桶二本にわけて、其の上へ、白米一石七斗二升五合の蒸飯、白米五斗二升五合の麹に、水一石二斗八升を加へて、一時拌(か)きにして、翌日、此の半ばを、わけて、桶二本とす。是れを「大頒(おほわけ)と云ふなり。同く、一時拌きにして、翌日、又、白米三石四斗四升の蒸飯、白米一石六斗の麹に、水一石九斗二升を加ふ【八升は「ほんぶり」といふ桶にて、二十五盃なり。】。是れを「仕廻(しまい)」といふ。都合、米・麹とも、八石五斗、水、四石四斗となる。是より、二、三日、四日を經て、氳氣(うんき)[やぶちゃん注:発酵による熱と蒸気。]を生ずるを待ちて、又、拌きそむる程を候伺(うかゞ)ふに、其の機發(きはつ)の時あるを以て、大事(たいし)とす。又。一時拌として、次第に冷まし、冷め終るに至つては、一日、二度、拌とも、なる時[やぶちゃん注:「馴る」か。攪拌しても、発酵が有意に怒らなくなる時か。]を、酒の成熟とは、するなり。是を三尺桶

 

S3

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(以下同じ)。キャプションは、

其三

★おろし

である。]

 

四本となして、凡、八、九日を經て、あげ、桶にてあげて、袋へ入れ、醡(ふね)[やぶちゃん注:この字は「酒を搾る」の意だが、ここでは入れ物の意で用いている。]に滿たしむる事、三百餘より五百までを度(ど)とし、男柱(おとこはしら)[やぶちゃん注:搾酒機の突き出た太い棒。「其五」の右上に雲の下に隠れて少しだけ見えるそれ。]に、數々の石をかさねて、次㐧に絞り、出づる所、淸酒なり。これを「七寸」といふ。澄(すま)しの大桶に入て、四、五日を經て、その名を「あらおり」、又、「あらばしり」と云。是を四斗樽につめて出だすに、七斗五升を一駄として、樽二つなり。凡、十一、二駄となれり。○右の法は、伊丹鄕中(がうちう)一家(か)の法をあらはす而已(のみ)なり。此の余は、家々の秘事ありて、石數(こくすう)・分量等(とう)、各(おのおの)、大同小異(たいとうしやうい)あり。尤(もつと)も、百年以前は八石位より、八石四、五斗の仕込にて、四、五十年前は、精米八石八斗を極上とす。今、極上と云ふは、九石余、十石にも及へり。古今、變遷、これまた、云いつくしがたし。○「すまし灰(はい)」を加ふることは、下米酒(しまひしゆ)・薄酒(はくしゆ)、或ひは*酒(そんじさけ)の時にて[やぶちゃん注:「*」=「罃」-「缶」+「酉」。行程を仕損じた酒の謂いであろう。]、上酒に用ゆることは、なし。○間酒(あひしゆ)[やぶちゃん注:初秋に造る酒。今で言えば、九月下旬の残暑の厳しい折りに醸造する酒を指す。乳酸菌の発酵が容易であるなどのメリットはあったが、強烈な臭気を放ったとされる。]は、米の増し方、むかしは新酒同前に三斗増なれども、いつの頃よりか、一★(もと)の酘(そへ)[やぶちゃん注:「そひ」とも読む。「添」の意で、清酒の醸造過程で、酴(もと)[やぶちゃん注:濁り酒。どぶろく。]を仕込んで、一定期間後に加える、蒸した白米と麹と水との総称。]、五升増、中(なか)の味(み)、一斗増、仕𢌞(しまい)の増、一斗五升增とするを、佳方(かはう)とす。「寒前」・「寒酒」、共に、これに准ずべし。「間酒」は、「もと入」より、四十余日、「寒前」は七十余日、「寒酒」、八、九十日にして、酒を、あくるなり。尤も、年の寒暖によりて、増減駈引(かけひき)・日數(かず)の考へあること、専用なり、とぞ。○但し、昔は「新(しん)酒」の前に「ボタイ」といふ製ありて[やぶちゃん注:ウィキの「菩提酛」に詳しい製法が記されてあるので見られたいが、非常に古い醸造法で、『平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質な清酒であった南都諸白のとりわけ奈良菩提山(ぼだいせん)正暦寺(しょうりゃくじ)で産した銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』を醸していた』。『時代が下るにつれ、やがて正暦寺以外の寺の僧坊酒や、奈良流の造り酒屋の産する酒にも用いられ』、『室町時代初期『御酒之日記』、江戸時代初期『童蒙酒造記』などにその名を残し、当時の日本酒の醸造技術の高さを物語っている』。『今日でいうザルの一種である笊籬(いかき)を使うことから「笊籬酛」とも呼ばれた』とあり、近年、再現に成功しているそうである。]、これを「新酒」とも云ひけり。今に山家(やまか)は、この製のみなり。大坂などゝても、むかしは、上酒は、賤民の飲物にあらず、たまたま嗜むものは、其家に、かの「ボタイ酒(しゆ)」を釀せしことにありしを、今、治世二百年に及んて、纔(わづ)か其日限りに暮らす者とても、飽くまで飮樂して、陋巷(ろうこう)に手を擊ち、「萬歲」を唱(との)ふ。今、其時にあひぬる有難さを、おもはずんば、あるべからず。

(こめ)

★米は地𢌞(ちまは)りの古米、加賀・姫路・淡路等(とう)を用ゆ。酘米(そへまい)は、北國(ほつこく)古米、㐧一にて、秋田・加賀等を、よしとす。「寒前(かんまへ)」よりの元は、高槻・納米(なやまい)[やぶちゃん注:前後から見ると、現在の大阪府内にあった地名と推理はするが、ネットでは全くヒットしない。]・淀・山方(やまかた)[やぶちゃん注:並列地名から見て、江戸時代から明治の初頭にかけて美作国大庭郡にあった村名か? 古見村が古見村山方と古見村原方に分村したとされる。ここは個人サイト「民俗学の広場」の「地名の由来」の『「やまがた」の地名』に拠った。]の新穀を用ゆ。

 

S4

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

其四 酘中大頒(そへなかおほわけ)

である。]

 

舂杵(うすつき)

酛米(もとまひ)は、一人、一日に四臼(ようす)【一臼(ひとうす)一斗三升五合位。】。酘米(そへまひ)は、一日、五臼、上酒(じやうしゆ)は四臼、極めて精細ならしむ。尤も古杵(ふるきね)を忌みて、これを継(つ)くに、尾張の五葉(ごよう)の木[やぶちゃん注:杵材には樫や檜が用いられるが、マツ類には五葉のものがあり、後者の檜は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae であるから、それか。]を用ゆ。木口(こくち)、窪(くぼ)くなれば、米、大きに損ず故に、臼𢌞(うすまは)りの者、時々に、是を候伺(うかゞ)ふ也。尾張の木質(きしつ)、和らかなるを、よしとす。

洗浄米(こめあらい)

初めに井の經水(ねみづ)[やぶちゃん注:漢字はママ。ここは滞留した古い汚れた水の意であろう。]を汲み涸(か)らし、新水(しんすい)となし、一毫(いちごう)の滓穢(をり)も去りて、極々、潔(いさき)よくす。半切一つに、三人がかりにて、水を更(か)ゆること、四十遍、寒酒は五十遍に及ぶ。

家言(かけ)[やぶちゃん注:醸造業者の専門用語の意であろう。]

○杜氏(とうじ)【○酒工(しゆこう)の長(てう)なり。また、「おやち」とも云。周の時に杜氏の人ありて、その後葉(こうよう)杜康(とこう)といふ者、よく酒を釀(かも)するをもつて、名を得たり。故に擬(なそら)えて号(なづ)く。】

○衣紋(ゑもん)【○麹工の長なり。「『花を作る』の意をとる」と、いへり。一說には、中華に麹をつくるは、架下(たるのした)に起臥して、暫くも安眠なさざること、七日、室口(むろのくち)に「衞(まも)る」の意にて「衞門(えもん)」と云ふか。】

釀具(さかだうぐ)

「半切」、二百枚余【各(おのおの)、一つ、「仕廻(しまい)」に充てる。】。○「酛おろし桶」、二十本余。○「三尺桶」、三本余。○「から臼」、十七、八棹。○「麹盆」、四百枚余。○「甑(こしき)」[やぶちゃん注:日本酒の原料米を蒸すための大型の、蒸籠(せいろ)に似た蒸し器。]は、かならず、薩摩杉の「まさ目」を用ゆ。木理(きめ)より、息の洩るゝを、よしとす。其の余の桶は「板目」を用ゆ。○「袋」は、十二石の醡(ふね)に三百八十位。○「薪」、入用は一酛にて、百三十貫目余なり。

製灰(はいのせひ)

「豊後灰」壹斗に、「本石灰」四升五合、入れ、よく、もみぬき、壺へ入れ、さて、はじめ、ふるひたる灰粕(はいかす)にて、「たれ水」を、こしらへ、「すまし灰」の、しめりにもちゆ。尤も、口傳あり。

なをし灰(はい)

「本石灰」壹斗に、「豊後灰」四升、鍋にて、いりて、しめりを加へ、用ゆ。○「圍酒(かこひさけ)」[やぶちゃん注:一般には、清酒を火入れの後、貯えておくこと。また、その酒を指し、仕込み期間の最後の火入れ工程の後に、一定期間「囲い酒」として貯蔵される。但し、以下の「入梅」とあることから、これは「夏囲(なつがこ)い」で、火入れをした清酒を夏期に貯蔵することで、当時は「夏囲い桶」という真新しい大桶に入れられたが、夏場の保存は困難を極めたであろう。]に火をいるゝは、入梅の前を、よしとす。

味醂酎(みりんちう)

 

S5

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

其五

もろみを拌(か)く

袋にいれて醡(ふね)に積む

酒「あげすまし」の図

である。]

 

燒酎十石に糯白米(もちこめ)九石貳斗、米麹二石八斗を、桶壹本に釀す。翌日、械(かい)を加へ、四日目、五日目と、七度ばかり、拌きて、春なれば、廿五日程を期(ご)とすなり。昔は、七日目に拌きたるなり。○「本直(ほんなを)し」[やぶちゃん注:味醂の醪(もろみ)に焼酎や酒精(アルコール)を加えて製した甘い酒。「なおし味醂」「柳陰(やなぎかげ)」などとも称した。]は、燒酎十石に糯白米貳斗八升、米麹壹石貳斗にて、釀法、味醂のごとし。

 

釀酢(すつくり)

黑米(くろこめ)二斗、一夜、水に漬たして、蒸飯(むしはん)を和熱(くわねつ)の侭(まゝ)、甑(こしき)より、造り桶へ移し、麹六斗、水壹石を投じ、蓋(ふた)して、息の洩れざるやうに、筵(むしろ)・菰(こも)にて、桶をつつみ纒(まと)ひ、七日を經て、蓋をひらき、拌(か)きて、また、元のごとく、蓋(ふた)して、七日目ことに、七、八度宛(づゝ)、拌きて、六、七十日の成熟を候(うかゞ)ひて後(のち)、酒を絞るに同し【酢は、食用の費用は、すくなし。紅粉(へに)・昆布・染色(そめいろ)などに用ゆること、至つて夥し。】これまた、水(すい)・圡(ど)、家法の品、多し。中(なか)にも、和刕小川[やぶちゃん注:現在の大阪府松原市小川か。]・紀の國の粉川(こかわ)[やぶちゃん注:和歌山県紀の川市粉河(こかわ)。]・兵庫北風(きたかぜ)[やぶちゃん注:後注参照。]・豊後舩井(ふない)[やぶちゃん注:不詳。大分県大分市府内町なら行ったことがあるが?]・相州・駿州の物など、名產、すくなからず。

[やぶちゃん注:「兵庫北風」これは地名ではなく、兵庫の海浜部一帯に上古より勢力を持った「北風家」一族の内の、最初に北国廻船(ほっこくかいせん)を開いた北風六右衛門家系の一属とその関係者のことであろう。ウィキの「北風家」によれば、第四十七『代良村の後、本家は』二『家に分かれ、宗家は六右衛門』を『嫡家は荘右衛門』『を代々』、『名乗った。宗家は酢の販売』(☜)を、『嫡家は海運業を主に取扱い、張り合いながら』、『繁栄した。今は生田裔神八社の』一『社とされているが、七宮神社は出自が敏馬神社か長田神社といわれ、元々会下山に北風家が祀っていた。また、菩提寺については』、『元々』、『西光寺(藤の寺)であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立』って、寛永一六(一六三九)年に『加賀藩の用命』を受けて、『北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』、慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である』(☜)(☞)『さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』、「北風酢颪」(きたかぜすおろし)という『看板を出す酢屋もあったという』(☜)とある。]

[やぶちゃん注:以下は底本では、有意な字下げが行われてある。発句を除いて、総て引き上げた。]

袋洗(ふくろあらひ)○新酒成就の後(のち)、猪名川(いなかわ)[やぶちゃん注:伊丹を南北に貫流する。]の流れに、袋を濯(あら)ふ。その頃を待ちて、近郷の賤民、此の洗瀝(しる)を乞(こ)えり。其の味、うすき醴(あまさけ)のごとし。これまた、佗(た)に異なり。俳人鬼貫、

  賤づの女や 袋あらひのみつの汁

[やぶちゃん注:死後刊行の明和六(一七六九)年刊の「鬼貫句選」に所収し(本「日本山海図会」は寛政一一(一七九九)年刊)、

     伊丹帒洗(ふくろあらひ)

   賤(しづ)の女や帒あらひの水の汁

とある。上島鬼貫(うえじまおにつら)は万治四(一六六一)年生まれで、元文三(一七三八)年に没している。]

愛宕祭(あたこまつり)○七月二十四日、「愛宕火(あたこひ)」とて、伊丹本町通りに、燈を照らし、好事(こうす)の作り物など營みて、天滿天神(てんまてんしん)の川祓(かわはらひ)にも、をさをさ、おとること、なし。この日、酒家(さかや)の藏立(くらたて)等(とう)の大(おほひ)なるを見ん、とて、四方より、群集(くんじゆ)す。是れを題して、宗因、

   天も燈に醉ていたみの大燈篭

[やぶちゃん注:俳人で連歌師の西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二(一六八二)年)は大坂天満宮連歌所の宗匠であった。]

酒家の雇人(ようにん[やぶちゃん注:当て読み。])、此日より、百日の期(こ)を定めて、抱(かゝ)へさだむるの日にして、丹波・丹後の困人、多く、愊奏(ふくそう)すなり。

[やぶちゃん注:「困人(きうしん)」ここは仕事がなく困っている人で、読みは「窮人(きゆうじん(きゅうじん))」を当てたもの。歴史的仮名遣は誤り。

「輻輳・輻湊」が普通。車の輻(や:放射状に出て車輪を支える部分)が轂(こしき:車輪の中央にある「輻」の集まる部分)に「集まる」の意から、「四方から寄り集まること・物事が一ヶ所に集中すること」を言う。]

 

[やぶちゃん注:以下、第一巻の最終頁。「伊丹莚包(いたみむしろつゝみ)の印(しるし)」の図版と、「池田薦包(いけだこもつゝみ)の印(しるし)」図版。それぞれ最後に「餘畧」とある。]

 

Smk

 

[やぶちゃん注:なお、後は本第一巻の標題と木村蒹葭堂孔恭の「序」、及び、第六巻掉尾の「跋」だけを残すが、判読が甚だ困難で(特に後者は難物な上に、文意も採り難い)、暫く、時間がかかる。悪しからず。]

2021/08/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 風神圖說

 

[やぶちゃん注:標題はない(上記のそれは目録から)。最後にある通り、好問堂の発表。段落を成形した。短歌と漢詩は引き上げ、漢詩は二段組を一段組にした。]

 

Huujinzu

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは、

 風神圖 一名「片輪車」とも云ふといへり。

である。]

 

 寬保[やぶちゃん注:一七四一年~一七四四年。]のころ、あやしきものを見たり。

 その形は、人にして、年の頃、廿あまりなるが、髮の結ひやう、首の際より、まげの末まで、壹尺五、六寸、伊達もやうの下着、袖口より、五、六寸計長く、羽織は、地を引くばかりに、五尺あまりの紐を附けたり。黑塗の下駄をはきたりしが、羽織の紐、ときどき、足駄の齒にからみて、是を、はづさんとすれば、髮のまげ木の枝にかゝり、袴は、下駄の齒のかくるゝばかりなりければ、行きなやみたる風情なり。

 脇指は、二尺五、六寸もあらんと覺ゆるに、刀のやうなるものを、わきばさみたれども、立てざまに差したれば、柄は脇の下にかくれて、見えず、棒やらん、刀やらん、おぼつかなし。

 手には、八尺あまりの煙管を持ちたり。そのあやしさ、いはんかたなし。家にかへりてこれを圖して、

「是は、何といふものぞ。」

と、人にとへども、さらにしる人、なし。

 異國の人か、化物か。鳥獸蟲魚の類ならば、「本草綱目」にやあらんと、醫師にとへども、

「斯る者は知らず。」

と答ふ。「三才圖繪」にやあらんと、普く尋ねもとむれども、似たるもの、更になし。

 或人、

「是は、世に云ふ『風の神』ならん。その故は、近年、「文金風」、あるひは「豐後節風」などいふ。前々よりも「辰松風」・「助六風」など、みな「風」の字を氏にして、「釆王」・「大王の風」・「庶人の風」と、いひし。庶人の中にも、至りて惡き風なり。若し、これに逢ふもの、風を引き、煩ふのみならず、心の臟に入りて、狂氣のやうになり。身を亡し、家を破る。」

と、なり。

 偖は[やぶちゃん注:「さては」。]、道にてあはんをさへ心うきに、家の内へ來らんことは、いと、心うかるべし。『かやうのあやしきものは、和歌にて鎭む。』と云ふこと、むかしより聞き傳へ侍りければ、一首の歌を詠じて、これをまじなひける。

道しらぬ友にひかるゝ小車のこれも片輪のたぐひなるらん

あはれぞと見るさへうしや小車のかたわとて世に引く人もなし

有レ人告ㇾ予曰。近時有風塵先生者。其容見ㇾ人矣。畫工圖ㇾ之以示於世。足下稍似ㇾ之。豈爲ㇾ士者之風俗乎。予聞此言。不ㇾ忍默止。賦以解ㇾ嘲。   無名人

枯楊蕭寂不ㇾ生ㇾ春

莫ㇾ道娼家對ㇾ酒人

縱有秋來俠名士

淸操豈得ㇾ混風塵

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

人、有りて、予に告げて曰はく、「近時、『風塵先生』なる者、有り。其の容(かたち)、人に見えず。畫工、之れを圖し、以つて、世に示す。足下、稍(やや)、之れに似たり。豈に士たる者の風俗か。」と。予、此の言を聞くに、默止(もだ)すに忍びず、以つて賦して、嘲りを解く。

枯れし楊 蕭寂として 春に生ぜず

道(い)ふ莫かれ 娼家 酒に對せる人

縱(たと)ひ 秋來つて 俠名の士 有れども

淸操 豈に風塵を混ずるを得んや

か。]

 この一條は、よしなきことながら、當時の手ぶりをまのあたり見る心地にて、うつし出でぬ。その中、「文金風」・「辰松風」などいへるは、いづれもみな、髮の結ひやうを、いへるものなり。「文金風」といふは、元文元年[やぶちゃん注:一七三六年。]より、上方、上るりの大夫の髮の風を學び、油にて、かため、毛筋、われめなく、元結、少し卷き、入れ髮をいれ、「宮古路風」ともいへり。又、「辰松風」といへるは、享保[やぶちゃん注:]のころ、辰松八郞兵衞と云ふ人形遣、この風にゆふをもてなりとぞ。

 いでや、何ごとにまれ、今よりして古を見る時は、ことたらはぬことのみなりけり、と疑はるゝもの、多かり。

 むかし、蠟燭のながれを、油にとき、ゆるめ、文七元結もなくて、こよりにて、結びたりしことも、なほ、なき世の人は、飛蓬[やぶちゃん注:「ひほう」。髪が乱れたさまの喩え。]の如くにやありけん。此後、「伽羅の油」[やぶちゃん注:「きやら(きゃら)のあぶら」は近世初期に京都室町の「髭(ひげ)の久吉」が売り始めた鬢付け油の一種。胡麻油に生蝋蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。]といふもの、いできたりしより、髮結わざも、おのがさまざまになり行くめり。婦人の髮は、そのゆひざまの異なれば、おのおの、其名のわかるゝも、ことわりなれど、男子の髮は、もろこしの「斷髮束之」といひけんごとく、いかにもせんやう、なかるべきに、「蟬折」・「なましめ」・「をし鳥」・「本田」・「いてう」・「引出し」・「二つをり」・「まるまげ」など、くさぐさの名目ありと、きけり。あな、ことわざしげき世にてぞある。

  文政八年四月朔     好問主人謾書

[やぶちゃん注:正直、絵を見た瞬間、「これって、平賀源内でしょ?」って思ったが、彼は享保一三(一七二八)年生まれで(讃岐国)、江戸に来たのは宝暦六(一七五六)年だから、植木等の「お呼びでナイ!」というわけ。にしても、「風神」と言い、「片輪車」と言うも、私のよ~うく知っておる妖怪「片輪車」とは、これまた、全く話にならないくらい全然全く一致しない(私の電子化した怪奇談には多く見られるが、「一昨日きやがれ!」って感じで、話にならないほど違う。絵姿も如何にも洒落たつもりが、ドン臭いありさまで、「即刻退場!」でしょ? 注を附する気にもならんわ! 当世、傾奇者(かぶきもの)ってか? 上方の義太夫が嘗てしていた髪型まで言い及んで、古い髪型尽くし、これはもう、明らかに、馬琴への挑戦、見え見えでんな! 「古い御仁は、基本、新しい文化・知識は想像だに及ばぬでしょう?」という嫌味もあるか?(美成は馬琴より二十九も年下である) 或いは、この条全体が、とんでもない何物(馬琴自身か或いは幕府の政策等)かへの壮大なカリカチャアを含んででもいるものか? 私には判りまへんわ!]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 暗號解讀

 

      暗 號 解 讀

 暗號がしばしば探偵小說の題材となつて居ることは今更言ふ迄もなく、すてに、鎌倉比事の中にも取り扱はれて居ることは前に述べた所である。摸稜案の中にも暗號解讀に似たやうな『遺言判讀事件』があるから、それをこゝに紹介して置かうと思ふ。

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館デジタルコレクションの「前集 卷之四 藤綱六波羅に三たび獄(うつたへ)を折(さだ)むる事」の冒頭の話がそれである。「折(さだ)む」とは「判決を下す」の意。読みはなるべく原本の読みに従った。]

 これは靑砥藤綱が北條時宗の命を受け、京都に赴いて裁判した三ツの事件の一つであつて、短篇小說の形になつて居る。三條の醫師山道《やまぢ》某が死んで庶子《てかけのこ》の加古飛丸《かこひまる》とその姉聟の鏡岱《きやうたい》との間に遺產相續の爭ひが起つた。加古飛丸は母と共に法廷へ出たが、母の陳述するところによると、山道は年五十に至るも本妻との間に子がなかつたので、彼女を妾《をんなめ》として加古飛丸を擧げた。山道は大に喜んで加古加古と呼んで大に愛したが、本妻の手前さすがに家へ出入はさせなかつた。ところがいつの間にか本妻はこれをきゝ出して、嫉妬のあまり良人にすすめて自分の姪を養女として長ずるに及んで鏡岱を聟に迎ヘたのである。然し五年前本妻が死んでからは本宅に出入りするやうになつたが、どういふ譯か鏡岱夫婦はそれを喜ばず、いつも不快な思をせねばならなかつた。すると去年山道が病氣にかゝつたので、加古飛丸母子は看病したく思つたが鏡岱夫婦が之を許さず、やがて山道が死んでも、遺言狀を楯に葬式にも列することを許さず、況んや一文の財產も分ち與へなかつたが、何分遺言狀があるので度々訴へても御取り上げがなかつたといふのである。

 そこて藤綱は、法廷に呼び出した鏡岱夫婦に向つて、何故に加古飛丸母子を近づけないで、山道の實子であるにも拘はらず財產を別ち與ヘなかつたかと詰《なじ》ると、鏡岱の言ふには、それは、全く父親の意志であつて、彼は臨床の時に鏡岱を呼んで、加古は實を言ふと自分の子ではない。加古の母は淫奔な性質で他に情夫を拵らへて居るらしい。それ故、自分が死んでも決して財產を分與する必要はないと言つてその通り讓り狀を書いたから、たゞ父親の意志に從つたに過ぎないと答へた。

 そこで靑砥藤綱は、然らばその讓り狀なるものを見せよといつたので、鏡岱が恐る恐る差出すと、藤綱は暫らく讀んで居たがやがてにこにこと笑つて、『この讓り狀を見ると、加古飛丸こそ、山道の家を繼ぐべき者である。汝等は實に、思ふに似合はぬしれものである』と叱つた。

 これをきいた鏡岱は、決してそんな筈はありませんと言つたので、藤綱は然らばこゝで讀んで見よといつて讓り狀をさしつけた。その文句は次のやうに書かれてあつたのである。

    可家業相續讓受資財事

  加古非吾兒家財悉與吾女婿外人不可爭奪者也仍如件

   年 月 日       山 道 判

 これを鏡岱は次のやうに頂んだ。『家業相續して資財を讓り受くべき事。加古は吾が兒に非ず、家財悉く吾が女婿に與ふ。外人爭奪すべからざるもの也。仍て件の如し。』

 藤綱はこれをきいて頭を左右に振る、この讀み方はちがつて居る。かう讀むのが正しいといつて、次のやうに讀んだ。

『加古非は吾が兒なり、家財悉く與ふ、吾が女婿は外人、爭奪すべからざるもの也、仍て件の如し。』

 藤綱はなほも言葉を續けた。『思ふに、汝等は父に迫つて、汝等の都合のよいやうに讓り狀を書かせたのであらう。だから父は斷ろ兼ねて、加古飛の飛を非にかへて、汝に讓るやうに見せかけだのだ。さすがに醫師だけあつてその頓才《とんさい》[やぶちゃん注:臨機応変に機転を効かせる才能。]には感心すべきである。どうだそれにちがいなからう。さすれば、財產は加古飛に皆與ふべきである。』

 かういつて藤綱は鏡岱夫婦を追放の刑に處し、加古飛丸に山道家を相續せしめたのである。純然たる暗號ではないけれども、遺言狀の讀み方が主になつて居るだけに頗る興味が多いやうに思はれる。この外、藤綱が六波羅で行つた裁判事件の中に、今一つこれに似たやうな事件があるけれど、あまり長くなるからその紹介を省略する。

[やぶちゃん注:ここで不木が指すのは、続く、「六波羅の中(ちう)」である。禅僧の偈の読み換えである。]

 以上私は、馬琴の、探偵小說材料の取扱ひ方について述べたから、次には、摸稜案にあらはれた犯罪心埋、ことに女性の犯罪心埋について考へ見たいと思ふのである。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 耳の垢取

[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]

   ○耳の垢取

 慶長年中、唐山の漂流船一艘、水戶の浦に着きたり。

「異國の者か。」

と問ひければ、

「大明太原縣の者なり。」[やぶちゃん注:山西省太原市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となるが、不審。とんでもない内陸である。]

とて、七人、乘組なり。

このよし、威公[やぶちゃん注:常陸水戸藩初代藩主にして水戸徳川家の祖徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)の諡。彼は慶長一四(一六〇九)年末に常陸国水戸二十五万石に転封され、慶長十六年中に元服して頼房と称した。慶長二十年七月十三日(一六一五年九月五日)に元和に改元しているから、凡そその五年半の閉区間の出来事となる。]に申し上げ、かく、そのものどもに尋ねさせ給ふやう、

「汝等、國に歸りたくおもはゞ、送り遣るべし。此國に居りたくば、置くべし。」

と仰せ下されければ、御國に居りたきよし、願ふ所なり、と申すにより、みな、江戶に召して、藝能をたづねさせ給ひければ、王春庭三宮[やぶちゃん注:ママ。後で「三官」と出る。そっちが正しかろう。]といふもの、

「按摩・導引をなす。」

と申す。

「さらば。」

とて、御側勤のものに試みさせ給ふに、

「妙手なり。」

と申すにより、威公、御自ら、療をさせ給ふに、無比類[やぶちゃん注:「ひるゐなき」。]名人なり。

 殊に、

「御耳の垢をとり、内を掃除する事、これまでなき術なり。」

とて、大に、おぼしめしにかなひ、日每に昵近して奉りければ、

「永く御舘にめしつかはるべし。然るうへは、此國の風俗になれ。」

とて、月代をそり、衣服を改め、遠藤氏の女をめとりて、「遠藤勘兵衞」と改めたり。

 さて、男子出生しければ、名を賜はりて「造酒之助」[やぶちゃん注:「みきのすけ」の読んでおく。]と稱す。

 是より、代々、當主は「勘兵衞」、總領は「造酒之助」といふ。

 この造酒之助、成長せしかば、

「何役にても望み候へ。」

と仰せ下されしより、いかゞおもひけん、能役者を願ふ。

 ねがひのごとく、仰せ、かうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。

 六世孫迄は嫡流にて有りしが、部屋住にて歿し、男子、なかりしかば、其弟を總領にして家をつがせしに、それも、男子、なかりしかば、從弟を養ひて、つがせたり。

 英一蝶がかける「耳の垢とり」は、此乘組の内歟。もしは、王春庭が弟子にても有りしなるべし。

 二代造酒之助、家督をとりて「勘兵衞」と改めけるは、義公の御代なり。

 或時仰せ有りける家[やぶちゃん注:底本に編者傍注して『にカ』とある]は、

「汝が親は、太原の王氏なるに、『遠藤』をなのりて、『藤の丸の紋』付くるは、和漢の故事に、かなはず。今より、『太原』とかきて、『おほはら』と、なのるべし。紋も

Waukoji

如此、あらためよ。これ、「王」の字の古文なり。」

と仰せられしより、今に至るまで、これを用ふ。[やぶちゃん注:底本からトリミングし、清拭した。一ヶ所、汚れか、小さな点か不明な部分があったが、「王」の字の古字を一覧したところ、そのような点を有するものがなかったので、底本の汚損と考え、消去した。但し、ここに出るような「王」の古字体は見当たらない。]

 王春庭、身まかりしかば、伊東子長應寺の後山に葬る。

 その時、遺言にまかせて、衣服および隨身の器物を、のこらず、墓にうづめたりとて、家につたはるものは、琥珀の觀音一體有るのみなり。

 五世の孫も長生にて、予が、わかゝりし時、八十有餘なりき。

 すこぶる好事にて、

「我ならば、おやの遺言、そむきても、遣愛の物をうづめずして家に傳ふべきを。」

とて、常に歎息せしなり。

 予、かつて、そのはかじるしを摺てたり。

「大明國王春庭三官」

と題せり。この文字は次の耽亭[やぶちゃん注:「耽奇會」の会合。]に出だすべし。

   乙酉四月           輪 池

[やぶちゃん注:「王春庭三宮」「三官」は判らないが(字(あざな)や通称にはある)、山崎美成の随筆「海錄」の十五の四百十七に「明歸化人王春庭の事」があり、随筆「道聽」(作者は鯖江侯お雇いの儒者信齋大鄕良則)の三の三十六に「王春庭の碑」なるものがあると、こちらの「随筆索引」PDF。岡島昭浩氏の電子化画像)で判った。前者は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で当該部が確認でき、そこでは「兎園小説」のこの記載を指示しつつ、『且、卜幽軒稿に、王春庭に代りて唐土へ贈る文一篇を載す、そのこと甚奇なり、可併錄』とあり、後者も「道聽塗說」が正式書名で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で活字本でここで読むことが出来、概ねこの本文と同じ内容が記されてある。ただ、作者大郷良則の菩提寺が以下の長応寺であることから、石碑を実見している点で確かなものである。ただ、そこには「三官」の名はない。

「高安」能の流儀の一つ。当該ウィキによれば、ワキ方と大鼓方があり、『ワキ方高安流は金剛流の座付として活動した流儀で、河内国高安の人高安長助を家祖とし、子の与八郎が金剛座の脇の仕手であった金剛康季(後に十世宗家となる)の養子に入って、家芸を興した。その後、初世高安重政(高安寿閑)が金春流のワキ方春藤友尊の女婿となって修行し、流儀を確立した。一説には春藤友尊を芸祖ともし、寿閑によって下掛りの芸風が完成され、本格的なワキ方の家として活動を行うようになったらしい』とある。

「伊東子長應寺」この寺は目まぐるしく日本中を移転した特異な寺で、現在は東京都品川区小山一丁目に現存している日蓮宗の寺であるが、江戸時代には寛永一二(一六三五)年から、ずっと、芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)にあったから、この「東」は誤記か誤判読か誤植と思われる。品川区が作成した「品川区史跡めぐり」のこちらのパンフレットPDF)を参考にした。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代觀音

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]

   ○身代觀音

 善光寺如來の、百姓幸助が身代にたゝせ給ひし事は、あまねく、しる所なり[やぶちゃん注:「百姓幸助身代り如來の事」。]

 享和年中[やぶちゃん注:文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]、淺草觀音の影像、身代の事を、きけり。そのさま、幸助が事に、さも、にたり。

 ある田舍人【名所はよく糺すべし。】、靈嚴寺の塔頭に逗留して、日每に江戶見物にいでけるが、七月中、淺草觀世音にまうで、還向[やぶちゃん注:「げかう」。神仏に参詣して帰ること。]して、新吉原の燈籠を見、かヘり、二更[やぶちゃん注:亥の刻。午後九時或いは午後十時からの二時間を指す。]過ぐる頃、歸路に趣きし所、土手にて、酒狂人、有り。白刃を振り、群集の人々、あわて、さわぎけるに、かの田舍人、あやまちて、刃にあたり、たふれふしたり。

 かたへの人は、まさしく、

「殺害。」

と見たり。當人も、

『きられたり。』

と覺えつゝ、倒れて、氣絕しけり。

 そのひまに、酒狂人は、行方しれず、人々、寄りて、是を見るに、刄傷の樣子にも、なし。

「いづ方の人にか。息たえたれば、尋ねとはんやうもなく、とやせん、かくや。」

と、いひあへる折から、一人がいふ、

「この者、晝のほど、觀音境内の何屋といふ茶店にて、見しものなり。」

と、いひければ、

「いでや。」

とて、駕籠にのせて、其家に、つれ行き、

「いづ方の人にか。」

と問ひけるに、茶店のあるじも、

「あからさまに立ちよりし人なれば、住所もしらず。」

といふ。

「こは、いかゞせん。」

と、當惑しける折から、ふと、いき出でたり。

 よつて、其住所をたづねければ、

「そこそこ。」

と、こたふ。すなはち、深川の旅宿に、つれ行きたり。

 宿坊にては、深更に及びてもかへらねば、

「いづこにか、やどりつらん。」

とて、戶かぎをしめて、ねたり。さるに、曉に及びて、音づるゝにより、さしつる戶をあけて、

「たぞ。」

とゝへば、

「某[やぶちゃん注:「なにがし」。]、歸りたり。」

と云ふ。

「いかにして、おそかりし。」

と、いへば、

「しかじか。」

と答ふ。

「『まさしく切られたり』とおもひしかども、身の内に、きず付きし痕も、なし。」

「さらば、尊き守りにても、かけたりや。」[やぶちゃん注:「守り」は「お守り」のこと。]

とゝへば、

「さる物もゝたず。懷中に有る者とては、淺草觀世音の御影のみなり。」

とて、取り出でゝ、ひらき見れば、不思議なるかな、紙にすりし御影、きれて、有り。

「さては。我が身がはりにたゝせ給ひしならん。」

とて、渴仰の淚、おきあへず、頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、上のくだり、ゑがゝせ、ゆゑよしを、しるして、觀音堂の内に揭げて有りしを、享和年中、檜山坦齋、まのあたり見たりといへり。「今はなし」とぞ。

[やぶちゃん注:「檜山坦齋」(ひやま たんさい 安永三(一七七四)年~天保一三(一八四二)年)は国学者。名は義愼(よしちか)。書画の知識が深く、鑑定に優れ、裏千家の千柄菊旦(ちがら きくたん)に学んで、茶人としても知られた。渡辺崋山とも親しかった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 建治の古碑武市兄弟

 

   ○建治の古碑武市兄弟  海棠庵 記

武州埼玉郡戶が崎村の農家道祖土(サイト)三郞右衞門といふ人あり。こは、余が相知れる友なり。三郞右衞門、過ぎし文化十年癸酉[やぶちゃん注:一八一三年。]の正月、その住居の西なる山をほるとて、大なる杉の丈餘ばかりとも思はるべき根に、掘り當てたり。とかくして、ほり起すこと、六尺あまりにして、忽、古井あり。水、いと淸冷なりけるが、石塔婆めくものをもて、おほひありける。取り上げてきよめみれば、阿彌陀佛供養の碑にして、則、「建治二年丙子十一月日。願主敬白」となん、刻みたる、今を距ること、五百四十年、古木の下に埋もれしも、いく星霜をか、經にけん。そのゆゑよしをしらねばとて、井をば、そがまゝ、又、埋め、碑は藏弃なせしとて、摺りて、贈りぬ。案ずるに、建治は、後宇多帝の御宇、鎌倉惟康親王【北條七代時宗執權たり。】の時に當る。三郞右衞門云、「餘が祖先は道祖土下總守長之とて、惟康親王に屬して、一方の大將たりき。もしくは、供養せられしものにや。そは、その舘の跡さへ、詳ならねば、いかにとも、さだめがたし。」となり。二月の會に、北峯子[やぶちゃん注:「北峯」は山崎美成の号の一つ。]の出だされし多摩郡なる古碑[やぶちゃん注:「武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話」。]と、年號もはるかに、四、五年の違にて、又、掘出せるも十年を隔つるのみ。かくて、同じ武州の内にして、あまりによく似たることのありしも、奇といふべし。

土州候の臣武市兄弟のもの、去りし文政七年[やぶちゃん注:一八二四年。]の秋、父を農民禮作なる者に打たれ、復讐のねがひ立てゝ、侯より、公に告げ給ひ、今年正月、本國を立出しことよし、書けるを、この頃、その藩士より得て讀むに、彼の小田原侯なる淺田兄弟の志に繼くべく思へば、そがまゝしるして、後の忘に備ふ。その本懷を達せん日、また寫し添へて、終始全からんことをまつにこそ。

[やぶちゃん注:「建治」文永の後で、弘安の前。一二七五年から一二七八年まで。なお、碑銘の「建治二年丙子十一月」とあるが、同年十一月は、月の後の方が、西暦ではユリウス暦も換算されたグレゴリオ暦でも一二七七年になる。

「武州埼玉郡戶が崎」現在の埼玉県三郷市(みさとし)戸ヶ崎(グーグル・マップ・データ)。

「道祖土(サイト)下總守長之」変わった姓で興味が惹かれるが、不詳。

「小田原侯なる淺田兄弟の志」個人ブログ「大佗坊の在目在口」の「小田原 浅田兄弟敵討」に、『浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元』(一八一八)年『七月、小田原藩足軽浅田唯助は』、『乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年』、『水戸願入寺領磯浜村祝町』(現在の茨城郡大洗町)『にいた万助を討取った』一件とあり、『浅田兄弟は敵討ちの成功により』、『下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された』とある。

 以下は底本では「今日、申渡事。」までは全体が一字下げ。また、それぞれの上申書の冒頭の肩書は、ブラウザでの不具合を考え、下方を改行した。]

 

   公邊へ之屆書

    松平土佐守家老山内昇之助組付

       一領具足門田力右衞門厄介

          武市善次郞 二十三歲

          同 爲次郞  十三歲

右之者父武市琢八義、當申閏九月九日、土州高岡郡於宮内村百姓禮作致無禮及爭論、禮作義、琢八を棒に而打候處、琢八義、右疵に而、翌十日、相果申候に付、禮作、其村役人共より番人を付置、右之趣、城下へ及、注進候に而、禮作義、番人を散々致打擲、逃去候に付、國内は勿論、隣國迄も嚴敷尋申付候得共、行方相知不申候、右に付、衯[やぶちゃん注:底本の右に原本のものと思われる『本ノマヽ』の傍注がある。]善次郞・同弟爲次郞、御府内幷何國迄も相尋、親の敵打留申度段、願書承屆、仍之見[やぶちゃん注:「これによつてみるに」か。。]、逢次第打留候はゝ、其所之役人等へ相斷可申段申渡候に付、御帳へも披付置候樣致度候、此段以使者申入候。

 十一月

     松平土佐守使者     宮井守衞

 土州候にて被申渡候書付

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人

        門田善次郞事 武市善次郞

        門田爲次郞事 武市爲次郞

右之父敵追放者霊作行方相尋打果申度段、願出、達御聽候處、神妙に被思召、公儀御帳にも付候間、勝手次第可致出達候。且、爲御介補東[やぶちゃん注:「東」では読めない。何かの字の誤記か誤植ではないか?]三拾兩被告下置候、首尾能打果候はゝ、其所之役人へ始末相屆、御作法之通被計、御國幷京、大坂江戶之内、最寄之御屋敷へ可相屆、其節檢使被差立候間、諸事麁勿之振舞無之樣、急度可相心得候。

  正月廿日

 右於御目付方に仰付之

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人 門田善次郞

                 同 爲次郞

右之父之敵追放者禮作行方相尋打果申度願書差出、於江戶御詮義有之候處、鄕士之名前に而者差閊[やぶちゃん注:「さしつかへ」。]候を以、一領具足より御屆に相成、且、本姓武市を唱候樣に仰付候。

公義御帳にも、「一領具足門田力右衞門厄介武市善次郞・同人弟爲次郞」と被付置候。

 右之通彼被仰付、今日、申渡事。

[やぶちゃん注:以下二行は行頭から。]

一京都御築地之内、江戸御曲輪之内、兩山などは可致遠慮、其外、右に準候場所者憚候而可然事。

一禮作病死之趣等、急度相分候はゝ、慥成證據以立戾可申事。

    御差添         足輕 五左衞門

                同   萬十郞

                下番  惣九郞

    御雇御賄方使番          宋平

  文政八年乙酉夏四月朔   海棠庵 錄

日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(1)

[やぶちゃん注:非常に長い(第一巻全部)ので、分割する。語注も、もう、精神的に疲れたので、手取り足取りはやめた。悪しからず。]

 

   ○造釀(さけつくり)

酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず。日本(にほん)にては、「酒」の古訓を「キ」といふ。是れ、則ち、「食饌(け[やぶちゃん注:二字へのルビ。])」と云ふ儀なり。「ケ」は「氣」なり【字音をもつて和訓とすること、例(れい)あり。「器(き)」を「ケ」といふがごとし)。】。神に供し、君に献(たて)まつるをぱ、尊(たつと)みて、「御酒(みき)」といふ。又、「黑酒」(くろき)・「白酒(しろき)」といふは、「淸酒」・「濁酒(だくしゆ)」の事と、いへり。○「サケ」といふ訓儀は、「マサケ」の畧にて、「サ」は助字、「ケ」は、則ち、「キ」の通音なり。又、一名(いちめう)、「ミワ」とも云。是れは、「酒を造る」を「釀(かも)す」といへば、「カ」を畧して「味」の字に冠(かんむ)らせ、古歌に、「味酒(うまさけ)の三輪(みわ)」、又、「三室(みむろ)」といふ枕言(まくらことば)なりと、「冠辭考」には、いへり。されども、「味酒(うまさけ)の三輪」・「味酒の三室」・「味酒の神南備山(かみなみやま[やぶちゃん注:「備」にはルビがない。以下のルビ配置から見て、「び」は前の「み」に吸収されている。]」とのみ、よみて、外に用ひて、よみたる、例、なし。神南備(かみなみ)・三室とも、これ、三輪山の別名にて、他(た)には、あらず。是れによりて、おもふに、「萬葉」の「味酒神奈備(うまざけかみなみ)」とよみしを、本歌として、三輪・三室ともに、神の在(いま)す山なれば、「神(かみ)」といふこゝろを通じて、詠みたるなるべし【「ちはやふる神」と云うを、「ちはやぶる加茂(かも)」「ちはやふる人(うち[やぶちゃん注:「氏(うぢ)」の当て訓。])」と、よみたる例のごとし。】。これによりて、「三輪の神(かみ)」・「松(まつ)の尾の神」をもつて、酒の始祖神とするも、その故なきにしもあらず。又、「日本紀」崇神天皇八年、高橋邑人(さとひと)「活日(いくひ)」をもつて、「大神(おほかみ)の掌酒(さかひと)」とし、同十二月、天王(てんわう)、「大田田根子(おほたたねこ)をもつて、倭大國魂(やまとおほくにたま)の神を祭らしむ。「大國魂」は「大物主(おほものぬし)」と謂ひて、三輪の神なり。されば、爰(こゝ)に掌酒(さかひと)をさだめて、神を祭りはじめ給ひしと見えたり【今、酒造家に帘(さかはた)にかえて、杉をば、招牌(かんばん)とするは、かたがた、其の緣なるへし。】。又、此の後(のち)、大鷦鷯(おほさゝき)の御代(みよ)に、韓國(からくに)より參來(まうき)し、兄曽保利(えそほり)、弟曽保利(おとほり)は、「酒を造るの才あり」とて、麻呂(まろ)を賜ひて、酒看良子(さかみいいらつこ[やぶちゃん注:「い」のダブりは恐らく衍字。])と號し、山鹿(やまか)ひめを給ひて、酒看郞女(さかみいらつめ)とす。酒看酒部(さかみさけべ)の姓、是れより始まる。是より、造酒(さうしゆ)の法、精細と成りて、今、天下日本の酒に及ぶ物なし。是れ、穀氣(こくき)最上の御國(みくに)なればなり。それが中(なか)に、攝刕・伊丹に釀(かも)するもの、「尤も醇雄なり」とて、普(あまね)く、舟車(しうしや)に載せて、台命(たいめい)[やぶちゃん注:貴人の命令。]にも應ぜり。依つて「御免」の燒印を許さる。今も遠國にては諸白(もとはく)をさして、「伊丹」とのみ稱し呼べり。

 

S1

 

[やぶちゃん注:底本からトリミングした(以下同じ)。キャプションは、

 伊丹酒造(いたみしゆさう)

 米あらひの圖

である。]

 

されば、伊丹は、日本上酒(じやうしゆ)の始めとも云うべし。是れ又、古來、久しきことにあらず。元は文祿・慶長[やぶちゃん注:一五九二年から一六一五年まで。]の頃より起こって、江府(かうふ)に賣り始めしは、伊丹隣鄕(りんごう)鴻池村(かうのいけむら)山中氏(やまなかうぢ)の人なり。その起こる時は、纔か五斗一石を釀して、擔(にな)ひ賣りとし、あるいは、二十石・三十石にも及びし時は、近國にだに、賣りあまりけるによりて、馬に負ふせて、はるばる江府に鬻(ひさ)き、不圖(はからず)も多くの利を得て、其の價(あたひ)を、又、馬に乘せて帰りしに、江府、ますます繁盛に隨ひ、石高も限りなくなり、富、巨萬をなせり。繼いで起こる者、猪名寺屋(いなでらや)・升屋と云て、是は伊丹に居住す。舩積(ふなづみ)運送のことは、池田滿願寺屋を始めとす。うち繼いで、釀家(さかや)、多くなりて、今は伊丹・池田、その外、同國西宮・兵庫・灘・今津などに造り出だせる物、また、佳品なり。其の余、他國に於いて、所々、その名を獲(え)たるもの、多しといへども、各(おのおの)、水圡(すいど)の一癖(いつへき)、家法の手練(しゆれん)にて、百味(ひやくみ)、人面(にんめん)のごとく、また、つくし述べからず。又、酒を絞りて、清酒とせしは、纔か、百三十年以來にて、其の前は、唯(たゞ)、飯籮(いかき)[やぶちゃん注:糯米を蒸したりする際に用いる竹製の米揚げ笊(ざる)。]を以、漉したるのみなり。抑(そもそも)、當世、釀する酒は、新酒(しんしゆ)【秋彼岸ころより、つくり初(そ)める。】・間酒(あいしゆ)【新酒・寒前酒の間に作る】・寒前酒(かんまへさけ)。○寒酒(かんしゆ)【すへて、日數も、後程、多く、あたひも、次第に高し。】等なり。能中(なかんつく)、新酒は、別して、伊丹を名物として、其の香芬(かうふん)、弥(いよいよ)、妙なり。是れは、秋八月彼岸の頃、吉日を撰(えら)み定めて、其の四日前に、麹米(かうしこめ)を洗ひ初(そ)める【但し、近年は九月節「寒露」[やぶちゃん注:秋分の後の十五日目、現在の新暦で十月八、九日頃。露が寒冷にあって凝結しようとするの意で、秋の深まりを意味する命名。]前後より、はしむ。】。

[やぶちゃん注:「酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず」中国由来の酒は天が人に与えたものとする「酒星酒造説」。「中国における酒文化の発展と酒市場の現状」(PDF・二〇一四年十月自治体国際化協会・北京事務所製作)によれば、『中国では古来より、酒は天の酒星が作ったという伝説がある。晋の歴史を記した『晋書』の中に「軒轅の右角南三星を酒旗と曰う、酒官の旗なり、宴饗飲食を主る」と、酒旗すなわち酒星に関する記載がある。なお、軒轅も星に付けられた名前である』。『酒旗星の発見は、今から』三千『年近く前に書かれた儒教経典の一つである『周礼』に記載があり、古代祖先はこの星が宴饗を司る星と考えたため、酒旗星という名を付けている』。『唐代の詩人、李白の『月下独酌・其二』に、「天若し酒を愛せざれば酒星天に在らず」と、天がもしも酒好きでなければ、天に酒星という星はなかったであろうという詩句がある』。『また、宋の時代の竇苹は『酒譜』の中で、「天に酒星有り、酒の作らるるや、其れ天地と并べり」と、酒造りは酒星に始まり、天地が誕生するとともに存在したと述べている』とある。

「松(まつ)の尾の神」古来、酒の神松尾神(由来不明。ウィキの「松尾大社」によれば、『松尾大社側の由緒では渡来系氏族の秦氏が酒造技術に優れたことに由来するとし、『日本書紀』雄略天皇紀に見える「秦酒公」との関連を指摘する』。『しかし、酒神とする確実な史料は上記の中世後期頃成立の狂言「福の神」まで下るため、実際のこの神格の形成を中世以降とする説もある』。『それ以降は貞享元年』(一六八四年)『成立の『雍州府志』、井原西鶴の『西鶴織留』に記述が見える。社伝では社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っている』とある)を祀る、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社(グーグル・マップ・データ)。小原隆夫氏のサイト内の謡曲「松尾」に解説に、『この社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれる。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林業を興したが、大宝元』(七〇一)年『に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平』五(七三三)年『に社殿背後より泉が湧き出たとき、『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。社殿には沢山の酒樽が寄進されている。また亀がこの社の神使とされ、松尾山から流れた渓流が「霊亀の滝」となり、霊亀の滝の近くに「亀の井」と名付けられた霊泉がある。酒造家はこの水を持ち帰り、醸造時に混ぜて使うという。また、この水は長寿の水として知られているようで、多くの人がこの水を汲みに訪れているようである』とある。

「鴻池村」兵庫県伊丹市鴻池。]

酒母(さけかうじ)【むかしは、麥にて造りたる物ゆへ、文字(もんじ)「麹」につくる。中華の製は、甚だ、むつかしけれども、日本の法は便(びん)なり。】

彼岸頃、※入定日(もといれじやうじつ)四日前の朝に[やぶちゃん注:「※」は判読不能。底本のここの左頁の五行目四字目。ただ、「もと」という読みから、酒母=「酛(もと)」と思われる。但し、「酛」の字の異体字には見あたらない。見た感じは、「酉」+「指」の崩し字のように見える。後の文に出る「★」の私の注も参照されたい。 ]、米を洗ひて、水に漬す(ひた)こと一日、翌日、蒸して、飯となして、筵にあげ、柄械(えかひ)[やぶちゃん注:「其二」の図の、右側中央の男が持って均すのに使っている長い柄で先が太い櫛状(恐らく五本櫛)になった木製具の名であろう。]にて拌(かきま)せ勻(なら)し、人肌となるを候(うかゞ)ひて不殘(のこらす)、槽(とこ)に移し【「とこ」とは、飯(めし)いれの箱なり。】、筵をもつて、覆ひ、圡室(むろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のうちにおくこと、凡そ半日、午の刻ばかりに、塊りを摧(くた)き、其の時、「糵(もやし)」[やぶちゃん注:次項参照。食べる「もやし」ではない。]を加ふ事、凡そ、一石に、二合ばかりなり。其の夜(よ)、八つ時分[やぶちゃん注:午前二時頃。]に槽(とこ)より、取り出たし、麹盆(かうじふた)の眞中へ、「つんぼり」と盛りて、拾枚宛(づゝ)かさね置き、明くる日のうちに、一度(いちと)、飜(かへ)して、晚景(はんかた)を待ちて、盆(ふた)一ぱいに拌(か)き均(なら)し、又、盆を、「角(すみ)とり」にかさねおけば、其の夜(よ)七つ時には、黄色(わうしよく)・白色(はくしよく)の麹と成る。

麹糵(もやし)

かならず、古米(こまひ)を用ゆ。蒸して飯(めし)とし、一升に欅灰(けやきはい)二合許[やぶちゃん注:「ばかり」。]を合せ、

 

S2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

 其二

 麹釀(かうじつくり)

である。]

筵、幾重(いくへ)にも包みて、室の棚へ、あげをく事、十日許りにして、毛醭(け)[やぶちゃん注:黴(かび)。酒や酢の表面にできる白黴。]を生ずるをみて、是れを麹盆(かうじぶた)の眞中へ、「つんほり」と盛りて後、盆、一はいに搔きならすこと、二度(と)許りにして、成るなり。

2021/08/21

芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通

 

大正一四(一九二四)年八月二十五日・軽井沢発信・東京市小石川區丸山町三十小石川アパアトメント 小穴隆一樣・二十五日 かるゐざはつるやうち 芥川龍之介

 

御手紙拜見仕り候。改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に存候。それから高橋文子女史より來翰、(田端へ)その中に西田さんの手紙も同封しあり。西田さんの手紙には「眞に人物がまじめにて將來發展の天分がたしかならば、今の所少し苦しくとも面白いとも思ひますが」云々の語有之候。いづれ歸京後は君も小生と共に得能さんに會ふ事と相成る可く、その段御覺悟ありて然る可く候。輕井澤はすでに人稀に、秋凉の氣動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日歸る筈、片山女史も二三日中に歸る筈。二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」小生も九月の始めにかへる筈、その頃七十五円を利用し、ちよつと一度御來遊ありては如何(七十五円とはケチ也 百圓くれるかと思つてゐた)但し前にて申上げ候如く既に避暑地情調は無之ものと御覺悟なさるべく候 頓首

    八月二十五日     龍 之 介

   隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭部は、芥川龍之介と小穴隆一の二人句集(各五十句で計百句)の「鄰の笛」の予告広告(公開は大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』)への不快感の表明である。同句集は新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、前月の七月二十七日に編集を開始し、八月十二日頃に編集を終えたとある。恐らく脱稿も、その直後であろう。なお、当該の合同句集については、ブログで『鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)』として公開してある。芥川龍之介はその後、八月二十日夕刻に軽井沢へ発ち、翌二十一日に到着し、前年に避暑したのと同じ鶴屋旅館に、翌九月七日まで滞在した。おかしいとは思わないか? 書面を見ても判る通り、軽井沢は秋の様相を呈しており、避暑するには遅過ぎ、十日もしない間に、友人の室生犀星も、片山廣子・總子母娘も帰京してしまっている(室生は八月二十五日に帰っているから五日だけ、片山母娘は推定で八月二十七日か二十八日の帰京(採用しなかった後の九月一日の軽井沢からの芥川龍之介の室生犀星宛書簡に『片山さんも二十七日か八日にかへつた』とあるのである。これ、帰った日を覚えていないのではなく、犀星に自分の内心が焦がれる如くに穏やかでないことを悟られないためのポーズと言えるのではなかろうか?)で八日ほど一緒だっただけである。これは実は、強い恋情を持ち続けている片山廣子との接触を、龍之介が意図的に避けるための苦渋の決断であったのである。それほど、龍之介の廣子への愁心は、自分で抑制しなくてはならぬほどに、反対に燃え上がっていたのである。

 なお、私はサイトの「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」でも「■書簡13 旧全集一三五八書簡 大正14(1925)年8月25日」として本書簡を電子化注している。そちらも見られたい。そこにも書いたが、この八月二十六日から二十七日の間で(新全集年譜に推定)、龍之介は堀辰雄と片山廣子・總子と追分にドライヴに行っており(運転は恐らく鶴屋主人佐藤不二男)、後に堀辰雄はこの時の経験を、多分、ほぼそっくり、「ルウベンスの僞𤲿」(昭和二(一九二七)年二月号『山繭』初出)に利用している。リンク先に該当箇所を引用してあるので読まれたい。

 そうして、一般の研究者の資料では、これが最後の軽井沢となった、とされるのである。

――しかし、私は実はその後

――自死の年の五月二十四日或いは二十五日から五月二十七日或いは二十八日の三日間若しくは五日間

――芥川龍之介は軽井沢にいた

と考えている。そうして

――彼は片山廣子と逢っていた

と思っているのである。それを元に、私は『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』を書いてサイトで公開している。是非、読まれたい。

 また、芥川龍之介には、この書信を書いた前日八月二十四日(この日に萩原朔太郎が妹のユキとアイを連れて室生犀星を訪ねて来たので、堀辰雄も交えて談話しており、このメモはその直後に書かれたものと推察される)の日録メモが実は存在する。私のサイト版の「芥川龍之介輕井澤日録二種」の「大正14(1925)年8月24日(月)芥川龍之介輕井澤日録〔やぶちゃん仮題〕」を見られたい。但し、これは、岩波版旧全集第十二巻の「雜纂」パートに「〔輕井澤日記〕」という編者の仮題のもとに納められているもので、その後記によると、元版全集では「手帳十二」として納められていたものを、公開を意図したものではない私的日録類として独立させたものである。人物は謎めいて殆んどがイニシャルにしてあるが、一人を除いて完全に実在する人名に還元出来る(その私が作成したリストも載せてある)。そこで「K」とあるのが、片山廣子である。

「高橋文子」筑摩全集類聚版脚注にも、更には、新全集の「人名解説索引」にも載らないが、新全集の翌大正十五年四月一日の条に、『西田外彦』(哲学者西田幾多郎の息子)夫妻と『高橋民子が来訪する。昨年から続いていた小穴隆一と高橋文子(幾多郎の姪)の縁談の件と思われるが、話がうまく進まずに苦慮する』とあるので、判明。正確には、高橋ふみ(明治三四(一九〇一)年~昭和二〇(一九四五)年)である。西田幾多郎記念哲学館の企画展「未完の女性哲学者―西田幾多郎の姪、高橋ふみ―」(PDF・写真有り)によれば、現在の石川県かほく市木津出身で、『母は哲学者・西田幾多郎の妹(すみ)。石川県立第一高等女学校、東京女子大学哲学科を卒業後、東北帝国大学法文学科へ入学。石川県女性として初の学士となります。宮城県立女子師範学校、自由学園などで教師を務めたのち、ドイツへ留学。ベルリン大学在学時には時事通信特派員としてベルリン』・『オリンピックの取材も行いました。フライブルク大学ではハイデッガーの演習に参加。伯父・西田幾多郎の哲学論文を独訳するなどしますが、戦争と病のため』、『帰国。ふるさとで療養し』、『幾多郎の死の直後に』四十三『才の若さで亡くなりました』とある。

「西田さん」西田幾多郎(明治三(一八七〇)年~昭和二〇(一九四五)年)。

「得能さん」哲学者得能文(とくのう ぶん 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。越中国生まれ。明治二五(一八九二)年、東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校(金沢大学の前身)・東洋大学・日本大学・東京帝国大学講師・東京高等師範学校教授を歴任した。四高嘱託教師時代に西田幾多郎の同僚で、学内の内紛で一緒に解雇されていることが、同じく西田幾多郎記念哲学館の企画展「西田幾多郎の就活」(PDF・解雇された際の送別会の二人の写真が有る)を見られたい。

『二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」』新全集年譜では八月二十三日頃と推定している。

「七十五円」『改造』の「鄰の笛」の小穴隆一分の稿料。]

 

 

大正一四(一九二四)年八月二十九日・輕井澤発信・塚本八洲宛

 

その後體は日にまし好い事と思ひます。こちらもお客はもう大抵かへり、宿もがらんとしてしまひました。餘り颱風が來たり何かする故、わたしも碓氷あたりで生埋めにならぬうちに歸ることにしようかと思つてゐます。二三日前文子より手紙參り、オバルチンを送つて頂いた事を知りました。どうも難有う。文子の手紙に曰「自分が病氣にかかつてゐる爲でせう私の事まで氣を揉むで居ると見えます。何となくやしまがかわい(=ノ「ワ」ノ字原文ドホリ)さうになつてしまひました。」文子の爲にも勉强して早く丈夫におなりなさい。目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、こい間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿(シユク)はづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別莊を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツグに近い豪傑です。これが大の輕井澤通(ツウ)で、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勸誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をする事は受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。けふは幸ひ晴天です。しかし雨がふると、セルに袷羽織を重ねなければなりません。桔梗が咲きつくつく法師がなき、あたりの風光はもう殆ど秋です。九月にはひればわたしの外に滯在客は一人もゐなくなるかも知れません。右いろいろ暇つぶしまでに。

               芥川龍之介

   八 洲 樣

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、妻文の弟は結核を患っており、この年の五月と六月には芥川龍之介が彼を転地療養させようと、転地先を自ら探して出向いて調べたりしていた。

「オバルチン」Ovaltine。当該ウィキ(日本版の他、英語版も参照した)によれば、スイスの製薬会社ノバルティス(Novartis International AG)の関連会社ワンダー・アーゲー(Wander AG)が開発・製造する粉末麦芽飲料のブランド。現在、Ovaltineの商標権はイギリスにある多国籍企業アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズ(Associated British Foods plc)が所有している。スイスの化学者で薬剤師のアルベルト・ワンダー博士(Albert Wander 一八六七年~一九五〇年:これはドイツ語版の本人のページを参照した)が配合を考え、一九〇四年に「オボマルチン(Ovomaltine)」の商標で発売された。ラテン語で卵を意味する「Ovum」と英語で麦芽を意味する「malt」を入れ込んだ造語で、元々の主要成分を表わしている。スイス・フランス・ポルトガルなど、国によっては現在も「オボマルチン」の商標が使われているが、成分は麦芽・ココア・砂糖などに変わっている。調整ココアとは異なり、冷たい牛乳にも溶けやすい工夫がされている。一九〇九年にイギリスで製造発売するに当たって、英語として言いやすい「オバルチン」の商標が使われた。アメリカ合衆国では一九一五年に製造が始まり、本邦では昭和一一(一九三六)年頃の雑誌に広告が掲載されており(この部分は不審)、また、カルピス食品工業(現在のカルピス)が販売権を取得し、一九七〇年代から一九八〇年代に販売したが、現在、日本では、一部輸入品を除いて、販売されていない、とある。

「馬をさへながむる雪のあしたかな」松尾芭蕉の最初の紀行文「野ざらし紀行」(「甲子吟行」とも呼ぶ。貞享元(一六八四)年八月、門人苗村千里を伴って、深川の芭蕉庵を出立し、東海道を上って伊勢・伊賀・大和を経て、以後は単独で吉野へ行き、九月下旬に美濃大垣から桑名・熱田・名古屋を経て後、伊賀上野に帰郷して越年し、翌春の大和路を辿って京へ出、近江路から江戸への帰るという凡そ八ヶ月に亙る紀行を題材とした句文集。刊本は元禄一一(一六九八)年の芭蕉撰・風国編「泊船集」に所収されたが最初。掲句は、名句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」に始まる「名護屋に入(いる)道の程(ほど)、風吟ス。」という前書の四句目に、

   *

  旅人をみる

馬(うま)をさへながむる雪の朝(あした)哉

   *

と出るのが初出。熱田での吟である(熱田の閑水邸で熱田連衆とともに巻かれた四吟歌仙の発句)。屋内から街道筋を眺めた体(てい)で、雪中を馬に乗って行き過ぎる旅人の旅愁から、眼目は小さくなってゆく馬の姿へと凝集し、自らが孤独で苦しい馬となっている。名句である。この医学博士は語るに落ちた大阿呆である。病気の八洲を慮って悪口を言っていないが、龍之介はこの医者を心底、軽蔑し、甚だ不快に感じていた。その証拠を示そう。芥川龍之介の例の片山廣子への恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」の「二」にある、

   *

腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。

馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。

   *

の「醫者」がこいつなのだ。こいつが、鶴屋旅館で廣子と一緒にいるところに割り込んでくるのを、龍之介は激しく憎んでいたのだ。私の記事『無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス』がよかろう(あの池内のトンデモ誤謬本はまだ売られているらしいなあ。げっそりだぜぃ!)

 

 

大正一四(一九二四)年八月三十一日・軽井澤発信・芥川比呂志宛(絵葉書)

 

コレハアタゴヤマトイフ山デス。アタゴヤマニハセイヤウジンノベツサウガタクサンアリマス。ソレカラ多加志ニヤツタノハウスヒタウゲノトンネルデス。イマハキクワンシヤハツカズ、デンキキクワンシヤガキシヤヲヒイテヰマス

 

[やぶちゃん注:「多加志ニヤツタノ」私が所持している二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」には、それが表裏ともに写真版で載っている(岩波旧全集に所収いないのは、そもそも書信がないからである)。それは、表書は、上面に(印刷で上部に右から左で「郵便はがき」、「壹錢五厘」切手(消印同月同日)の下に左上を上にして小振りで「UNION POSTALE UNIVERSELLE」、その下に有意に大きく、「CARTE POSTLE」(洒落てるね、フランス語だぞ)と印刷してあるある。

東京市外

田端四三五

 芥川夛加志樣

とあるだけで、下方の罫線下の書信パートは空白である。

Usuibasi

裏は写真絵葉書で、右上の空の部分に右から左で「碓氷トンネル碓氷橋」とあり、その直下に「The Usui Tanal Usuibashi.」と印刷されてあり、下方からのアオリの写真で、トンネル入り口の一部が左の方に見え、三連アーチの大きな橋が架かっている。その橋上に、芥川龍之介が、トンネルから出てきた蒸気機関車が煙を靡かせて客車を四両引いている絵を描き添えているのである(但し、比呂志宛にある通り、当該路線は既に電化されていた)。微笑ましい仕儀であるが、しかし、多加志は大正九(一九二〇)年十一月八日生まれであるから、もう満四歳と九ヶ月であったから、「何か書いてやればいいのに」とも思わぬでもない。ところで、私が現物画像に当たって正確に示した以上の裏(碓氷トンネル碓氷橋の写真)の写真が、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に画素が甚だ粗いが、掲載されていることに気づいた。こちらには、五月蠅い複写禁止の注意書きはない。というより、何度も言っている通り、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解であるので、せめても、龍之介が多加志のために描き添えた機関車のタッチだけでも味わって戴こうと、上に掲げておいた。]

日本山海名産図会 第一巻 造醸 目録・「酒樂歌」の図

 

[やぶちゃん注:これより、残っている冒頭の第一巻に戻って、電子化注を行う。本書全体の標題・見開き・序は最後に電子化する。]

 

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日本山海名産圖會巻之壹

 

   〇目 録

 

  攝刕伊丹酒造(せつしういたみさけつくり)

 

 

             藍江■

[やぶちゃん注:画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングした。非常に雅趣のある竹の絵。「藍江」は本書の挿絵全部を担当している蔀関月の弟子の絵師中井藍江(らんこう明和三(一七六六)年〜天宝元(一八三〇)年)と思われる。大阪出身の画家で、関月に日本画を学んだ。他に詩文を中井竹山に学び、茶の湯も嗜んだ。署名の下に落款があるが、判読不能。但し、藍江の名は「直」又は「眞」であり、その孰れかと推察する。「直」の方がそれらしい。]

 

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[やぶちゃん注:底本からトリミングした。以下、キャプション。]

 

酒 樂 歌(さかほかひのうた)

 

此の御酒(みき)を釀(かも)す人人は、其の鼓臼(つゞみうす)に立てて、うたひつゝ、釀すれるも、舞ひつゝ、釀すれかは、この御酒のみ、

あやに、轉(うた〔[やぶちゃん注:下の「楽」に引かれて「うたた」を脱字してしまったものか。])、楽(たの)し。サヽ

 

[やぶちゃん注:以下は画像の通り、底本では全体が前の文よりも一字下げ。]

 

是れは應神天皇、角鹿(つのか)より還幸(かんかう)の時、神功皇后(しんくうかワウこう[やぶちゃん注:ママ。])、酒を釀し侍りて、いはひ奉り、哥(うた)うたはせ給ふあり。武内宿祢(たけうちすくね)、天皇に代はり奉り、荅(こた)へ申歌なり。是れを「酒楽(さけほかひ)の歌」といふて、後世、大嘗會の米(こめ)、舂くにもうたふと也。

   右、「古事記」。

 

[やぶちゃん注:「古事記」のそれは、原文ではとても私には読み切れないので、加藤良平氏の「上代におけるヤマトコトバの研究論文集」という副題を持つブログ「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の『「酒楽の歌」とは』を読まれたい。驚くべき詳細な解説が載り、およそ、私の如き「古事記」に冥い人間には注を附す資格がないほど凄い。なお、以上の部分は加工データとしているARC書籍閲覧システム」の翻刻(新字)にはないので、総て底本を視認して作成した。]

2021/08/20

芥川龍之介書簡抄126 / 大正一四(一九二四)年(七) 三通

 

大正一四(一九二四)年五月七日・田端発信・赤木健介宛

啓、咋日修善寺より歸京。今朝この手紙を書きます。但し君の宿所がわからぬ故(君の手紙には書いてなかつた)學校宛にして出すことにします。君のやうに感激したり苦しんだりしたものは古來何干萬人もあつたのです。しかしその中から逞しい魂の持ち主になつたものは一パアセントにも足りなかつたのです。これは殘酷な事實ですが、兎に角事實には違ひありません。この事實を目前に据ゑて、君自身の實力をお鍛へなさい。「我笛吹けども汝等踊らず。」笛を吹いてさへ踊らない彼等は笛も何も聞かないのに踊る筈はありません。それを彼等に期待するのは期待する方が間違つてゐます。何を措いてもあなた自身笛の吹けるやうにおなりなさい。その後でなければ「汝等踊らず」の歎を放つ資格は出來ないのです。君はマテリアリストでせう。それならばこそ勇敢にこの殘酷な事實をお認めなさい。カラマゾフを讀んだのは甚だよろしい。小生もカラマゾフをドストエフスキイの作中の第一位に數へてゐます。その外のドストエフスキイの作品も暇があつたら讀んでごらんなさい。それから小生はせつかちな革命家には同情しません。(あなたは若いから仕かたがないが)ブルヂョアジイは倒れるでせう。ブルヂョアジイに取つてかはつたプロレタリア獨裁も倒れるでせう。その後にマルクスの夢みてゐた無國家の時代も現れるでせう。しかしその前途は遼遠です。何萬人かの人間さへ殺せば直ちに天國になると言ふ訣には行きません。あなたはコンミュニズムの信徒でせう。それならば過去數年來、ソヴィエト・ロシアが採つて來た資本主義的政策を知つてゐる筈です。又資本主義的政策を採ることを必要としたロシアの、――少くともレニンの衷情を知つてゐる筈です。我々は皆根氣よく步きつづけなければなりません。あせつたり、騷いだり、ヒステリイを起したりするのは畢竟唯御當人の芝居氣を滿足させるだけです。尤も小生自身にしても、悠々迫らずなどと言ふ大自在は得てゐません。まづ多少役立ち得る齒止めを具へた馬車位の極小自在を得てゐるだけです。しかしまあ餘り癇をたかぶらせずに步いて行きたいとは思つてゐます。あなたも息切れのしない爲にはやはり氣長になる工夫が必要でせう。現に西洋の革命家も存外短兵急ばかりではないやうです。あなたはさうは思ひませんか?

これから每日の仕事にとりかかりますから、この手紙をやめることにします。なほ小生の筆不精は今後あなたに對しても返事を怠らせることが多いかも知れません。それは豫め承知してゐて下さい。以上

    五月七日       芥川龍之介

   赤木健介樣

 

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版では、宛名を『赤木寿』とする。それが正しいのではないかと思う(以下参照)。ウィキの「赤木健介」によれば、赤木健介(明治四〇(一九〇七)年~平成元(一九八九)年)は詩人・歌人・編集者・歴史家。本名は赤羽寿(ひさし)。青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代(恐らくはこの書簡当時、満二十歳であるから、ここに在学中である)から『アララギ』に投稿、昭和三(一九二八)年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身、昭和七(一九三二)年には「唯物論研究会」に属し、日本共産党に入党したが、翌年、検挙され、投獄。昭和十年に出獄し、渡辺順三らの『短歌評論』に参加したが、昭和一三(一九三八)年、一斉検挙に遭った。昭和十六年に判決が下り、下獄した。この間の昭和十五年に発刊された「在りし日の東洋詩人たち」で第四回透谷文学賞を受賞している。敗戦後の昭和二十年十月に連合軍により解放され、戦後は、「民主主義科学者協会」に所属、翌年、再び日本共産党に入党し、昭和二四(一九四九)年には『アカハタ』編集部文化部長となった。「新日本歌人協会」に所属し、また、雑誌『人民文学』にも関わり、昭和二六(一九五一)年には同編集長に就任した。昭和三一(一九五六)年から昭和五五(一九八〇)年までは、春秋社に勤務した。『左翼として戦後』に『活躍した赤木だが、伊豆公夫』(きみお)『名義で』昭和一七(一九四二)年に出版した歌集「意慾」では、『太平洋戦争開戦を礼讃する「決戦」という歌が掲載されていた。戦後の赤木は』、『古本屋を廻って』は、『この本を買い集め、自宅で焼いたと噂されて』おり、『この』七『首の短歌について』は、『「私の戦時中のレジスタンスの汚点」「終生の汚辱」と』、『のちに述べ』ている。また、昭和二九(一九五四)年に刊行された詩集「スターリン讃歌」の『編集も務めており、同書には、彼の詩も収録されている』とある。

「マテリアリスト」materialist。唯物論者。

「カラマゾフ」「カラマーゾフの兄弟」の注をしようというのではない。あなたも知っている、ある有名な美人女優の愛読書も同書だったことを、あなたは知っているか? と記したかっただけさ! あの全裸で変死した(謀殺された可能性が大)Marilyn Monroe(一九二六年六月一日~一九六二年八月五日)さ!

 

大正一四(一九二四)年五月二十二日・田端発信・麹町區下六番町二十六 泉鏡太郞樣・五月二十二日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省先だつては何とも彼とも言はれぬものを頂戴いたし難有くうれしく家内中にて天下の春を舌の先におしみし次第、何とぞ奧さまによろしくおんつたへ下され度願上候 實は今日拜趨仕る可く存居候所急に下町へ出かける用事出來いたし候ままとりあへずこの手紙をしたゝめ候

   箸あげてしんとんとろりとけふも食へる木の芽草の芽の味のよろしさ

                     頓首

    五月二十二日       芥川龍之介

   泉 先 生

 

 

大正一四(一九二四)年八月十一日(年次推定)・渡邊與四郞宛

 

ウツシ身ハ恙ナケレド汗ニアヘテ文作ラネバナラヌ苦シサ

君ガ讀ミシ高須ノ朝臣梅タニノ議論モヨマズ事ノシゲサニ

サマザマノ氣モチヲ持テバソノ中ニホ句ニスベキヲホ句ニス我ハ

ココニ書ケルハ歌ニハアラズ返リ事ヲ三十一文字ニツヅリタル文

 八月十一日           芥川龍之介

渡邊與四郞樣

 

[やぶちゃん注:短歌でないと芥川龍之介は言っているが、戯歌も総て拾ってきたため、採用した。なお、この凡そ一ヶ月前の七月十二日には、三男也寸志が生まれている。命名は例によって盟友恒藤恭の名を訓読みして漢字を当てたものである。

「渡邊與四郞」不詳。

「高須ノ朝臣梅タニ」文芸その他の評論家高須梅溪(たかす ばいけい 明治一二(一八八〇)年~昭和二三(一九四八)年)。大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。「為替貯金管理所」への勤務から明治三一(一八九八)年に上京し、早稲田大学文学部英文科を卒業。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行し、また、佐藤義亮(新潮社創立者で芥川龍之介とは関係が深い。同社とは、遺書で、死後の全集の刊行の約束を破棄し、岩波に変えたことが知られる)が創刊した『新声』の編集に加わって、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄などがいた。その後、『国民新聞』・『東京毎日新聞』・『二六新報』などの記者を務めた。明治三四(一九〇一)年に刊行した「文壇照魔鏡」では、与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられている。後に明治文学史や水戸学の研究に専念したが、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った(以上は当該ウィキに拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第三集) 七ふしぎ

 

[やぶちゃん注:以下の条は著作堂馬琴のもの(但し、「馬琴雑記」には見当たらないので、吉川弘文館随筆大成版を加工底本とした)。段落を成形した。] 

   ○七ふしぎ

 あやしき事のかさなれるを、俗に「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水[やぶちゃん注:漢字ルビ。])」・「土中の火」・「三度栗」など、他鄕にはなき奇しき事の、七つまで、あればなり。そは、只、越後に限れるのみ。一時、

『怪異の、なゝつまで、かさなる事の、あるべしやは。』

と、かねては、思ひおきてたりしに、寬政のあはひ[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]に至りて、予が視聽を經たるもの、ふたゝびまで、ありければ、けふのまとゐの草紙料に、かきしるすこと、左の如し。

[やぶちゃん注:以上の序は、底本では全体ベタで二字下げ。

『「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水)」・「土中の火」・「三度栗」』たまには、こういう、「昔、やっといて、ほんと! 良かったな!💛!」と思うことがなきゃ、やってらんねえわ! 私のカテゴリ「怪奇談集」の「北越奇談」(越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆)の、

北越奇談 巻之二 七奇辨

北越奇談 巻之二 古の七奇

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート4 其三「鎌鼬」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート5 其四「四蓋波」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート7 其八「湧壷」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート8 其九 「塩井」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート9 其十 「逆竹」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート10 其十一 「即身仏」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート11 其十二 「七ツ法師」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート12 其十三 「八房梅」) 

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート13 其十四 「風穴」)

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート14 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」)

を、どうぞ!

 以下は行頭から。]

寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]亥年、甲斐國に「七奇異」あり【甲斐に「六奇異」あり。遠江に「一奇異」あり。合して「七奇異」とす。】。當時、ある人の消息に云く、

一、甲州善光寺の如來、當春、二、三月、汗、かき、寺僧兩人づゝにて、日夜、拭ひ候事。

一、甲州切石村百姓八右衞門家の鼠、大さ、身一尺餘、爲猫之聲候事。

一、右村より一里許山に入、石畑村に而、馬爲人話候事、尤、一度切にて、後、無其事。

一、同八日市場村・切石村・荊澤村にて、牝鷄、各、化爲牡鷄候事。

一、同東郡一町田中邊、三里四方許之間、五月、雹、降り、深さ三尺餘、鳥獸、被打殺候事。

一、同七面山嗚御池の水、濁渾[やぶちゃん注:「にごりまぢり」と訓じておく。]候事。

一、遠州豐田郡月村百姓作十郞方の鍬に草生候事、乃、先より三寸、一本枝、十六本、如杉形、三日にて花を開、似櫻花。枝・木・花、共に皆、鍬のかねなり。

[やぶちゃん注:以上の項目が二行に亙る場合は二行目は一字下げ(但し、底本では、二行に亙っているのは、一行字数の関係上、実際にそうなっているのは最後の一条のみである。

「甲州切石村」現在の山梨県南巨摩郡身延町切石(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。富士川右岸。

「石畑村」「今昔マップ」で発見した。

「八日市場村」切石の南の山梨県南巨摩郡身延町八日市場

「荊澤村」富士川の上流の甲府盆地内に山梨県南アルプス市荊沢(いばらざわ)がある。

「東郡一町田中」山梨県山梨市一町田中(いっちょうたなか)。

「七面山嗚御池」「七面山」は山梨県南巨摩郡早川町赤沢のここにある(国土地理院図)。「嗚御池」というのは、地図上で見る限り、東北の尾根上にある日蓮宗敬慎院の「一ノ池」しかないように思われる。公式サイトの記載に、七面大明神がお住みなっている御池とある。但し、「嗚御池」(「なきおいけ」か)という呼称は現在はないようである。

「遠州豐田郡月村」静岡県浜松市天竜区月(つき)。

 以下、クレジットまでは、底本では全体が一字下げ。]

 大人星[やぶちゃん注:不詳。]出づる年は、怪しき事有りといへり。當年、星合、これにあたる、といふ。且、「五穀無實・兵動」と申事に御座候。

 右之外、越後高田、大風雨、人、多、死す。信州松本、大地震之由。

   寬政三年七月

[やぶちゃん注:以下、割注の「なくて、やみにき。」までは全体が二字下げ。]

 這個の一通は、寬政十年の冬、家兄羅文の遺筐中に得たり。解云、唐山の歷史中、必、「五行志」あり。そのこと、漢魏六朝より京房・管給・郭璞等にまじはりて[やぶちゃん注:底本は「まじ」の右にママ注記。「はじまりて」の誤りであろう。]、隋唐の時、いよいよ、盛に、諸子百家の書に至るまで、禎祥妖孽、書せざることなく。禍福吉凶、推ざる[やぶちゃん注:「はからざる」。]ことなし。その不幸にして當れるもの、十に、七、八なり。君子はこゝに於て、愼み怕れ、小人は是において、喋々たり。豈、多端ならずとせんや。もし、房・璞のともがらを、今の世に在らしめて、この寬政の怪異を示さば、渠[やぶちゃん注:「かれ」。彼。]、將これを何とかいはん。しかれどもこの時に當りて、五穀、倉庫に充ち、四境、兵疫の愁をしらず。[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]

 國家の動きなきこと、五嶽をかさねたる如く、四海安靜なること、三春の風なきに似たり。國道あれば、鬼、亦、鬼ならず。妖の盛德に勝たざること、只、寬政中のみならず、二百年來、すべて、かくの如し。仰ぐベし。亦、歡ぶべし【翌年壬子の夏、米穀高直につき、江戸中、「粥をたべよ」と、町ぶれ、有りけり。しかれども、粥をくらふものは、なくてやみにき。】。

[やぶちゃん注:「這個」「しやこ(しゃこ)」と読み、「這箇」とも書く。「這」は宋の俗語で、指示語の「此」(これ)の意で、「これ・これら」。

「家兄」馬琴(本名興邦)には長兄興旨と次兄興春がいたが、孰れも他家に移り、馬琴より先に亡くなっている(次兄の急死は天明五(一七八五)年の実母の門の死後まもなくか)。ここは「羅文」(らぶん)から寛政十年に亡くなった長兄興旨のこと。長兄は俳諧を好み、俳号を東岡舎羅文と称した。

「五行志」独立した書名ではなく、記載内容の呼称で、中国の正史の中の「志」の中の特殊な記載でさまざまな災異とそれについての解釈を記した部分を総称する。「漢書」の「五行志」にはじまる。

「京房」(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。

「管給」不詳。三国時代の占い師であった管輅(かんろ 二〇九年~二五六年)の誤記か編者の誤判読或いは誤植ではないか?

「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。

「禎祥妖孽」(ていしやうえうげつ(ていしょうようげつ))は「めでたいしるし(吉兆)と、不吉なことが起こる前触れ(凶兆)」。

「喋々たり」「てふてふたり(ちょうちょうたり)」。互いに無駄な議論し合ってただ五月蠅いこと。

「多端」物事が(無駄に)煩瑣なこと。多事。

 以下、行頭から。]

 寬政十一年[やぶちゃん注:一七九九年。]己未の夏、江戸馬喰町に、亦、七奇異あり【馬喰町に七奇異あり。岡附鹽町に一奇異あり。合して七奇異とす。】。彼町人等は、予が相識のもの、多かり。當時、その人々に聞ける趣をもて、しるすこと、左の如し。

[やぶちゃん注:「馬喰町」日本橋馬喰町一・二丁目。南東で以下の日本橋横山町に接する。

「岡附鹽町」サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、伝馬塩町・小伝馬下町(後の通塩町)の俗称とし、名の『由来は』、『馬に野菜を積んでくる近郷の者が塩を積んで帰ったため』とあり、現在の中央区日本橋本町四丁目・日本橋横山町・日本橋馬喰町一丁目相当とする。ここのかなり広域

 以下、冒頭の「一」のみ行頭からで、二行目以下は底本では一字さげ。]

一 寬政十一年夏六月、馬喰町なる板木師金八にて、ある夜、あやしき獸をとらへ得たり。そのかたち鼠に似て、常の鼠より、甚、大きく、胸より腹に至りて、虎斑あり。もとも非常の獸なれば、翌日、將て[やぶちゃん注:「いて」。持ち連れて。]まゐりて官府に訴ふ。當時、その獸の名をしるもの、なし。或は「『まみ』ならん」といひ、或は「雷獸にや」といへり。その言、みな、非なり。おもふに、蝦夷鼠の類なるべし。

[やぶちゃん注:「蝦夷鼠」蝦夷に拘るなら、北海道にのみ棲息する複数の動物種を考え得るが、当時の江戸に蝦夷地のそれらが、夏場の暑い時期に、木材や荷の中に迷い込んでやってくるというのは可能性としては極めて低いと思う。だいたい、そうした北海道にしかいない特別な種群に馬琴が詳しかったとも思えず、これは巨大なドブネズミミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus )を指しているのではないかと思う。私は一九六五年前後に家のそばの崖下の溝に尻尾を含めずに有に三十センチメートルはある死にかけた巨大ドブネズミを見たことがある。それは、汚れかも知れぬが腹部の毛が斑を呈していた。殆んど化け物だった。しかし、以下のより詳しい実況記載によれば、オランダ渡り(途中のユーラシア大陸のどこかで手に入れたものであろう)の本邦にいない獣であることが記されている。しかし、生態記載が少な過ぎて、私には同定出来ない。当時のオランダとの通好記録などを見れば、ヒントはあろうが、そこまでやる気は全くない。悪しからず。

 以下は底本では、「一」別項の前まで二字下げ。]

 この事、金八が家の向ひ長屋に、おうな隱居、住めり。ある宵に、行燈[やぶちゃん注:漢字表記は底本のママ。「灯」ではない。]の油を舐ぶる[やぶちゃん注:「ねぶる」。]もの有りけり。此おうな、

『鼠ならん。』

と、おもひつゝ、蚊屋の内より、これを追へども、驚き走らず。

 あやしみて、つらつら見るに、いとおそるべき獸なれば、おうなは、いたく、うち騷ぎて、

「妖怪あり。」

と叫びしかば、板木師金八、その隣人と、もろともに、走り來て、うちに入る程に、件の獸は、はやくも逃げて、金八が家に入りぬ。

 金八等は、又、にぐるを追うて、蠟燭に火をともしつゝ、

『先、そのかたちを見ん。』

とせしに、件のけもの、飛びかゝりて、その蠟燭を啖ふこと、兩三度に及びけり。既にして、けだものは隱れて、竃の下にをり、金八等、はか(相計[やぶちゃん注:漢字のルビ。])らひて、米櫃のからなりしを、橫さまにしつゝ、追ひこめて、やうやくに、とらへたり。後に聞くに、かの獸は、ある人、長崎より求め來て、このごろ家にかひおきたるに、箱鐵網を咬ひ破りて、急に逃げたるなり。しかれども、異國の獸を私に[やぶちゃん注:「ひそかに」と訓じておく。]かひける故にや、とらへられしを知りながら、そのぬしはしらず貌して、終に、いふよし、なかりけり。官府にては、件のけものを、しばらく留めおかれしのみにて、そがまゝ返し給ひにければ、憗に[やぶちゃん注:「なまじいに」。敢えて。]はなちも、やられず、その餌かひ[やぶちゃん注:「ゑかひ」。「餌飼ひ」。]には、日每々々に、油揚の豆腐、十五、六枚を、くらはする事にしあれば、金八は困じ果て[やぶちゃん注:「こうじはてて」。]、後悔しつ、と聞えたり。扠[やぶちゃん注:「扨」(さて)に同じ。]そのゝちは、いかにかしけん。後々までは知らず。

[やぶちゃん注:以下は総て、底本では、条の本文が二行目に亙る場合は一字下げが基本(附記がある箇所は二字下げ)。]

一、同年同月、おなじ町なる布袋屋といふ商人の裏借屋に住める人の女房【その良人の名を忘れたり】、卵を產みけり。これも、「まさしき事なり」と、その隣なる人の話なり。しかれども、卵にはあるべからず。そは「ふくろ子」のたぐひなるべし【布袋屋のうちにて、「袋子」をうみたるも、名、詮、自稱歟[やぶちゃん注:「な、せんずるに、じしやうか」。家主の屋号に洒落たつもりの厭な感じの評言である。]。】。

[やぶちゃん注:奇形胎児であろうか。]

一、又同月、同町壱丁目なる木戶際にて、一疋の牝犬に、二疋の牡犬、同時につるみたり。これを觀るもの、堵[やぶちゃん注:「かきね」。垣根。]の如し。

一、又同月、同町にて、四つになりける小兒、水溜桶におちいりて死にき。

[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]

 こは、商人の店の前におくなる、天水桶といふものなり。夏の日の事なれば、その桶の水、涸れて、なかばゝかりに、たゝへたり。しかるに、その小兒、手にもてる人形を、件の桶におとしゝを、「取らん」としつゝ、あやまちて、さかさまにおちいりしを、あたりに人の見るものなくて、たすけ出さんともせざりしかば、そがまゝに、死したるなり。

「天水桶に入水して、はかなく命をおとしゝは、一奇事なり。」

といふもの、多かり。

一、又、同月、同町に、若き者共の爭論あり。仲人、和睦をとり結ばせて、酒くみかはしなどせし後に、そが相手のもの、湯がへりを、したまちして[やぶちゃん注:「下待ちして」。秘かに待ち伏せして。]、したゝかに斫りてけり[やぶちゃん注:「きりてけり」]。手疵、廿五ケ所なり。この他、手負、猶、あり。

「和睦して後に斫りしは、是もめづらしき事なり。」

といへり【これらの人の名、みな、忘れたり。】。

一、又同月三日、馬喰町と鹽町のあはひなる「三日月井戶」を晒しける日、綱曳のものども、鬪爭して、遂に出訴に及びしに、次の月の三日に至りて、やうやくに和睦しつ。まうしおろして[やぶちゃん注:「申し下(降)して」。互いに、相手に願い出て、取り下げさせて。]、事、をさまりぬ。

[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]

 「三日月井戶」は、井の水中に、板を建てゝ、左右の「しきり」にせしものなれば、そのかたち、半輪のごとし。よりて「三日月井戶」と呼びなしたり。初、この井を掘りしとき、双方の地主、こゝろを合せて、共に雜費を出だしゝに、後に、迭に[やぶちゃん注:「いれかはるに」か。当事者の誰彼が抜けて、他の者と代わったところが。]、不足起りて、遂に鉾盾[やぶちゃん注:「あらそひ」と訓じておく。]に及びしかば、所詮、井をしきらんとて、井の中に界[やぶちゃん注:「さかひ」。]を立て、南なる店子どもは、南のかたなる「しきり」の内の水を汲むのみにして、界の外へ、吊桶を卸すことを免されず。北なる店子も亦、かくの如し。今は、さまでにあらねども、「三日月」の名の高かるに、

「百日咳を愁ふるもの、この井に、しばしば祈るときは、應驗あり。」

と、いひもて傳へて、朝、とくまゐるものゝあれば、井に立てたりし「さかひ木」は、今もなほ、とり除かで、もとのまゝにて有りと、いへり。しかるに、その月、三日のあらそひ、「三日月井戶」より、事、起り、又、月の三日に至りて、和睦しけるも、奇なりといヘり。

一、これも又、おなじ年の夏の比、馬喰町に相隣る岡附鹽町なる旅人宿庄兵衞が客なりける、奧州のたび人鳥海何がし、しばらく江戶に遊歷して、更に又、鎌倉に赴きつゝ、御靈の社にまゐりし折、左の眼、にはかに失けり[やぶちゃん注:「うせけり」。眼が見えなくなった。]。その人、江戶にかへりて來て、庄兵衞等に告げていふやう、

「某[やぶちゃん注:「それがし」。]、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]鎌倉にて、御靈の神を、をがみし折、譬へば、豆を彈くが如く、左の眼中、ハツシと音して痛むこと、甚し。

「こは。いかに。」

と、驚きあわてゝ、神前をまか出つゝ、かくして、雪の下なる旅宿にかへりて、人に見せしに、めのたま(目子[やぶちゃん注:漢字のルビ。])、既に碎けたり。初、かの、みやしろは、何等の神を祭れりとも、しらずして、をがみしに、かくなりて後に、聞けば、『鎌倉權五郞景政を祭る。』と、いへり。故こそあらめ、某は彼景政が眼を射て、答の箭[やぶちゃん注:「とうのや」。応じて射た矢。]に命をおとしゝ鳥海の彌三郞が後裔なり。數ふる年の後にして、某が身に及ぶまで、今なほ、神怒のさがなる、いとおそるべき事なり。」

とて、頻に嘆息したりとぞ。この一條は、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]のころ、件の庄兵衞、予が爲に、いへり。こは「池北偶談」に載せたりける。宋の秦會が後裔秦某、明朝に仕へしとき、みづから、嶽飛を廟に祭りて、血を吐きて死せし事と、日をおなじくして、かたるべし。

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。]

 愚息琴嶺、興繼、この稿本を閱して云、

「景政の神靈、誣ふ[やぶちゃん注:「しふ」。罪のない人を有罪に陥れる。]べからずといへども、彼鳥海生が一眼の瞽[やぶちゃん注:「めしひ」。]せし事、その「風眼」のわざなるべし。大約[やぶちゃん注:「おほよそ」。]、「風眼」の病たる、にはかに、瞳子[やぶちゃん注:「どうし」。瞳。]の破るゝ事、あり。その破るゝとき、必、音あり。譬へば、豆を彈くが如し。渠も病症といふときは、神靈を誣ふるに似たり。又、神罰といふときは、病症に欵ひ[やぶちゃん注:「疑ひ」の誤記か判読の誤りであろう。]あり。この書、本日披講の後に、諸君の批評を聞かまほし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで一字下げ。]

 解云、予、寬政中には、上にしるしゝ馬喰町なる「六奇異」を聞きしのみにて、いまだ、鳥海が事をしらず。後に彼庄兵衞に、その事を聞くに及びて、歲月時日を敲きしに[やぶちゃん注:「ききしに」と訓じておく。]、

「これも寬政十一年夏、四、五月の事なりき。」

と、いへり。しからば、上の「六奇異」と同年同時の事にして、前件は馬喰町第一・第二の町に在り。後の一條は、相摸なる鎌倉にての事なれども、そが旅宿は、これも亦、馬喰町の隣町なり。こゝに至りて、同年同所に、又、「七不思議」ありしを知れり。抑、寬政兩度の「七奇異」、就中、鍬の鐵より花卉を生じ、二牡犬、同時に一牝犬に合したることなどは、もとも奇中の奇といふべし。前記を藏めし[やぶちゃん注:「をさめし」。]家兄は、さらなり、後の「七奇異」をつげ(報[やぶちゃん注:漢字のルビ。])たる人も、多く鬼籍に登るものから、今も、彼町々にて、四十歲已上の人は、記隱したるも、なほ、あるべし。筆錄の際、懐舊に、得、たへず、こゝにすぎ來しかたを思へば、ほとほと、三十許、年なり。

  乙酉夏孟朔𪈐齋老人書于著作堂南窓綠樹深處

[やぶちゃん注:「鎌倉」「御靈の社」とは、現在の鎌倉市坂ノ下にある御霊神社のこと。祭神である鎌倉權五郞景政や、ここで語っている失明事件等については、「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の私の注を見られたいが、私はこの事件については、鎌倉の郷土史研究を始めた十代の終りから、よく知っている話なのである。さらに附言しておくと、ここでは、わざわざ松前藩医員であった息子の興継の見解を直接話法で附しているが、これは馬鹿親父解(とく:馬琴)の息子の知力の巧妙な宣伝行為なのである。しかも、興継がそう言ったというのも、実は馬琴自身がそう考証したことを、息子の手柄として書いた可能性が極めて高いのである。

「風眼」(ふうがん)今の若い連中は知らない病名だろうが、所謂、性病の淋病の淋菌が眼に入ることによって発生する急性の眼疾患の俗称で、盲目になるケースもあった。正式には、淋菌性結膜炎(gonorrheal conjunctivitis)という。感染経路が判らなかったことから、古くは、風や空気が原因で、発症するとされたことから、非常に古くから、この名で呼ばれた。淋菌によって起こる結膜炎であるが、強い眼瞼及び結膜の腫張と、大量の膿様眼脂(目ヤニ)を伴い、病変は、しばしば角膜にも達し、角膜穿孔を起こし、或いは白い癒着白斑を残す。耳前リンパ節は疼痛を伴い、腫張する。潜伏期はごく短く、数時間から三日程度で突然、発症する。私は医学書で感染した幼児の古い写真を見たが、両目の瞼が卵大に腫れていた。この病気は、高校時代に保健体育の授業で高齢の男の先生が詳しく説明して下さったのを、昨日のことのように記憶している(四十九年も前なのに)。「淋菌がどうして眼に入る?」ってか? 銭湯さ! 近代以前の銭湯(江戸では「湯屋(ゆうや)」と呼んだ)湯の温度が低く、しかも、湯の入れ替えも杜撰で、非常に汚れていた。「あやしき少女の事」で注したが、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、湯が汚いことは入っている客には、まるで判らなかったのだ。而して、四角い湯舟の場合、温度が下がり、しかも細菌類が集まり易いのは、内側の角の部分だった。大人ならば、そこに顔をつけることはまずないが、子どもは、違う。そして淋菌が眼に入ったのだ(授業では先生は湯舟の図を描いて細かく説明されていた)。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。

「宋の秦會」「秦檜」(一〇九一年~一一五五年)が正しい。南宋の宰相。金との講和を進め、和議を結んだが、その過程で、岳飛(一一〇三年~一一四二年)ら抗金派の政府要人を冤罪を負わせて謀殺した。

「𪈐」音「ライ」。鳥の名という以外に情報なし。「𪈐齋」は馬琴の号の一つ(「只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注」を参照されたい)で、この最後の端書は、「文政八年乙酉(一八二五年)の夏の孟朔(旧暦四月一日)、𪈐齋老人が著作堂として書いた。南の窓の綠樹の深き處にて。」という意味であろう。]

2021/08/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) むじな・たぬき

 

[やぶちゃん注:底本標題は「むじなたぬき」で「・」はない。太字は底本では傍点「ヽ」。段落を成形し、直接話法を改行した。]

 

   ○むじな・たぬき    海棠庵 記

 ある人のいふ、

むじなたぬきは、雌雄にて、雌をむじなといひ、雄をたぬきといふ。」

と、かたりき。

 されど、さだかならぬことにて、いと心得がたく思ひしに、このごろ、羽州由利郡の農民與兵衞といふもの、來にけり。[やぶちゃん注:「由利郡」は「ゆりのこほり」。出羽国にあった郡。現在の由利本荘市、及び、にかほ市の全域と、秋田市の一部に相当する。この中央の南北附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 この與兵衞は、むかし、獵人[やぶちゃん注:「かりうど」。]にて、南部より出づるといふ免狀てふものまで所持して、をさをさ、巨魁なりしと、聞えければ、まねきよせて、むじなたぬきまみなど、問ひしに、答へていふ、[やぶちゃん注:「巨魁」「きよくわい(きょかい)」。荒々しい猟師集団の中でも頭目・親分格と畏敬された存在であったことを言っている。]

むじなたぬきまみ、皆、よく似たるものなれど、各[やぶちゃん注:「おのおの」。]、別種にて、みな、雌雄あり。まみむじなとは、毛いろも、肉の肥えたるも、わきがたきまで、よく、似たり。只、その別なるところは、まみは四足ともに、人の指の如く、方言に熊の『あらし子』【落胤といふが如し。】といふ。むじなは四足犬に類す。狸は、あくまで、瘦せて、胴のわたり、長し。やつがれ、十七歲より山がつの業になれて、はや、六十餘歲に及び、獸の事は、よく知り侍る。」

など、かたりぬ。

 「和名鈔」にも、「狢」・「狸」・「猯」、おのおの、わかちあれば、

『「むじな」・「たぬき」、雌雄なり。』

といふ俗說は、固より、とるには足らねど、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]曲亭ぬしの「まみ考」の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]もあれば、そゞろに聞きしまゝにしるすのみ。

[やぶちゃん注:以下の海棠庵の署名までは、底本では全体が二字下げ。]

 彼[やぶちゃん注:「かの」。]與兵衞いふ、

「熊に『つきのわ』とて、咽喉の下に白き毛あり。形、月の輪の如くなれば、しかいふ。」となん。さるに、そのつきの輪に不同あり。圓なるあり、半輪あり、纖月[やぶちゃん注:「ほそきつき」と訓じておく。]のごときあり。また、『つきのわ』のなきあり。こは、その熊の生るゝ日、十五日なれば、輪圓なり。晦日なれば、輪、なし。餘は月の盈缺[やぶちゃん注:「みちかけ」。]によりて准知すべし。」[やぶちゃん注:「准知」(じゆんち(じゅんち))は「或る対象・状態を目安にして他のものを理解すること」を指す。]

といふ。一奇事なり。[やぶちゃん注:底本でもここは改行している。]

 佛庵老人の云、

「日光鉢石町の人の話に、『黑猫にも、月の輪めきたるものありて、月の盈闕[やぶちゃん注:同前で読む。]によりて、あると、なきと、あり。』と、かたりしが、今、熊の事につきて思ひ出だしぬ。」

と、かたられき。[やぶちゃん注:「鉢石町」「はついしまち」と読んでおく。現在の栃木県日光市の中鉢石町(なかはついしまち)。日光東照宮参道前の大谷川右岸のメイン・ストリート周辺。]

  乙酉三月         海 堂 庵

 

[やぶちゃん注:前の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「まみ穴」・「まみ」といふけだもの和名考 幷に 「ねこま」・「いたち」和名考・奇病 附錄 著作堂 (1)』及び「同(2)」を参照されたいが、そこでもはっきりと示した通り、私は、

本邦の「狸」は、

亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus は地理的亜種である)

であり(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)」を参照)、

「狢(むじな)」と「猯」は、孰れも、

本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 

でよいと述べた。この見解は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」、及び、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」、更に、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 (くわん) (同じくアナグマ)」もご覧になれば、お判り戴けると思うのだが、少なくとも、江戸前期から、殆んどの本草学者でさえも、これらをずっと、別個な生物種と誤認し続けてきたのである。いや、近代に至っても、大正一三(一九二四)年に栃木県上都賀郡東大芦村(現在の鹿沼市)で発生した狩猟法違反事件「たぬき・むじな事件」(リンク先は当該ウィキ)に見るように、専門の狩猟者でも、「タヌキ」と「ムジナ」は別種という弁別混乱(法律用語で「事実の錯誤」)が平然として「あった」のである。因みに、

私の以上の見解は、この事件の大審院判決(無罪)の「狸」=「貉」規定とは異なる

のである。何故か? 大審院の判定は「貉」が全国に於いて一律にタヌキの別名であったと認定しているのではなく、当該事件に於ける被告の個別認識に於ける錯誤を指摘するために持ち出した非民俗学的・非動物学的な個別事例判断に過ぎない、と考えているからである。私は、

近代以前の「狸」がイコール「貉」「狢」であったとは全く考えていない

のである。言おうなら、民俗学的には、

「小泉八雲の名編“ MUJINAを読んで、あなたはこの巧妙に人を化かした相手が「狸」=ホンドタヌキだと自信を持って名指して言えるか?」

と私は問いたいのである。則ち、

「貉」「狢」には、そうした妖獣としての得体の知れない仮想動物像が、非常に古くから有意にダブってしまっており、その正体を外延へと致命的に浸潤させてしまっている

と考えるのである。この場合、

「外延」とは、まさしく似て非なる動物であるニホンナマグマのことを私は指している

のである。さればこそ、グチャグチャ同義文字をクロスして指摘せずに、

『「狸」のみを真正のホンドタヌキとし、その他は総てニホンアナグマであると疑え。』

というのが、最も誤謬・誤認を起こしにくい言説(ディスクール)と心得ているからである。

「熊」「月の輪」食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)の胸部の三日月形、或いは。「V」字状の白い斑紋は、この斑紋が極薄くて有意な形に見えない場合や、全く斑紋がない個体さえもいるので、ここでの変異の話は、何ら驚くに値しない。因みに、北海道に棲息するクマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis の頸部や前胸部に、長方形や縞状に白色帯がある個体がおり、現代でも、そのヒグマを「月の輪」と呼ぶことを知っている人は、それほど多くないと思うので、追記しておく。

「南無佛庵」書家中村仏庵。既出既注

『「和名鈔」にも、「狢」・「狸」・「猯」、おのおの、わかちあれば』一部を既に出したが、別々に示すのが面倒なので、ここで一括して示す。源順の「和名類聚抄」(「鈔」とも書く)の巻十八の「毛群部第二十九」・毛群名第二百三十四に、先に、

   *

狢(ムジナ) 「說文」に云はく、『狢【音「鶴」。「漢語抄」に云はく、『無之奈(むしな)』。】は、狐に似て、善く睡むる者なり。

   *

があり、「野猪(クサヰナキ)」を挟んで、以下二つが並んで出る。

   *

狸(タヌキ) 「兼名苑」に云はく、『狸【音「𨤲」。和名「太奴木(たぬき)」。】は、鳥を摶(うち)て粮(らう)と爲す者なり。

猯(ミ) 「唐韻」に云はく、『猯【音「端」。又、音「旦」。和名「美(み)」。】は、豕(いのこ)[やぶちゃん注:猪。]に似て肥えたる者なり。』と。「本草」に云はく、『一名「獾㹠(くわんとん)」【「歓」・「屯」二音。】』と。

   *

 以下は、目録では「猫虎相似附録 好問堂」とするもの。]

 

 美成云、右佛庵翁の黑猫と熊と似たる話、世人のかつてしらざる事にて、いと珍らし。又、猫と虎とは、形狀も、よく似て、歌にも猫を「手がひの虎」など、よめり。しかるに、その所爲も亦、おなじき事あり。「無寃錄」【卷下八十二丁。】云、『虎咬死』云々。『一云。月初咬頭頂。月中咬腹脊。月盡咬ㇾ足。猫咬ㇾ鼠亦然。』。これら、うきたることにあらず。奇といふべし。

[やぶちゃん注:「手がひの虎」「手飼ひの虎」。飼猫のこと。「古今六帖」の「第二 山」に、

 あさぢふの

     をののしのはら

   いかなれば

     てかひのとらの

          ふしところみる

   *

とある。

「無寃錄」(むゑんろく)は元の司獄官王与が一三〇八年に編述した法医学書。同系の専門書は既に南宋の理宗の撰述になる「洗冤録」(一二四七年)や、同時代の「平冤録」があったが、本邦ではこの「無冤録」が最も読まれた。特に元文元 (一七三六) 年に河合甚兵衛がこれを抄訳して「無冤録述」を著わし、これが明和五(一七六八)年に刊行されて以来、明治三四(一九〇一)年頃まで、再三、増刊され、死体検案などの実地面でのマニュアル的書物として広く活用された。「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで、嘉永七(一八五四)年版の状態の非常にいいものが視認でき(67コマ目)、そこでは読み下してあるので、それを参考に以下に訓読しておく。因みに、「虎咬死」は標題で、「ココウシ」と読みが振られており、大陸には虎がいるので、それに咬まれて死んだ遺体検分が原書らしく、上記訳本では、「此方ニハ虎ハ無キモノナレ𪜈熊狼の類ノ猛獸ニ害セラレタ時ノ考ニモ成ベキモノナレハ此ニ譯ス」とある。則ち、虎が、人間のどの部分をいつ噛むかという末尾に附言した一説である。一部で字を補足・変更してある。

   *

一つに云はく、「月の初めには、頭(かしら)・頂(いただき)を咬み、月の中比(なかごろ)には腹・脊を咬み、月の末には足を咬む。猫(ネコ)の人を咬むも、亦、然り。

   *

 以下は、目録では「猫虎相似の批評 著作堂」とするもの。]

 

 解云、象と熊とは、その膽、四時にしたがひて、その在る所の異なるよしさへ、古人、辯じおきたれば、右の「月の輪」の說なども、ことわり、或は、さるよし、あらん。しかれども、猫と熊とは、おなじかるべくも、おぼえず。めのをんなの、わかゝりし時、好みて黑猫をかひしこと、年ごろをふるまゝに、その年々にうませし子も、多くは黑猫なるをもて、これらのうへは、予も、よく知れり。しかるに黑猫每に、胸のあたりに月の輪めきたるもの、あるにあらず。稀には、あるもあれど、そは黑白のぶちなれば、熊の月の輪に類すべからず。いかにとなれば、熊はすべて雜毛なく、猫には雜毛多ければなり。かゝれば、鉢石なる人の說も、ひたすらには、うけがたく、「無寃錄」に載せたる說も、必と、すべからず。虎は皇國になきものなれど、猫の事は知り易かり。大約、猫の鼠をとるに、必、先、その吭(ノドブエ)を拉きて[やぶちゃん注:「ひしきて」。ひしぎて。噛んで押し潰して。]半死半生ならしめつゝ、弄ぶこと、半時ばかり、既に啖はんとするにおよびて、必、鼠の頂より啖ひはじめて、扨、全身を盡くすものなり。或は巢たちせし雛鼠などをば、只一口にくらふこと、あり。或は、多くとり得し時、又は、大鼠にして、飽く時は、その

頭頂より啖ひはじめ、その足より啖ふことは、絕えてなし。こは予が、さかりなりし時、凡、はたとせあまりの程、いくたびとなく見し事なれば、遠く書をあさるに及ばず。もし、疑ふ人もあらば、ためし見て、予が言の誣へざる[やぶちゃん注:「しへざる」か。欺いていない。]を知りねかし。

[やぶちゃん注:以下の一段は底本では全体が一字下げ。]

 附けていふ、猫の純黑なるものは、尤、得がたし。その純黑と見えたるも、その毛をわけてよく見れば、必、白き「さし毛」あり。よしや、「さし毛」なきものは、或は、その爪の白く、或は、あなうらの白きあり。かの藥劑に用ふといふ眞の純黑の得がたきこと、かもの如し[やぶちゃん注:「がもの(の)ごとし」。「求めても、まず、手に入らないから、意味がないので、同じように無意味ことだ。」の意か。]。かゝれば、黑猫の胸の白きは、偶然たる「ぶち」にして、熊の月の輪と異なり。

[やぶちゃん注:「象と熊とは、その膽、四時にしたがひて、その在る所の異なるよし」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 象(ざう/きさ) (ゾウ)」に「象の膽〔(きも)〕【苦、寒。微毒。】目を明らかにし、疳を治す【其の膽、四時に隨ふ。春は前の左足に在り、夏は前の右足に在り、秋は後ろの左足に、冬は後ろの右足にあるなり。】。」とあり、また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)」に「膽、春は首に近く、夏は腹に在り、秋は左足に在り、冬は右足に在る。」とある。

 次の一行のみ行頭からで、後は全部が一字下げ。]

 

 木村默老云ふ、

 「熊膽、四時によりて、其在所をことにす。」と云へるは、聊、受けがたし。小子も初、「本草綱目」抔を見て、

「信なり。」

と存ぜしに、後に隣國阿波祖谷[やぶちゃん注:「いや」。]の深山中、久保と云ふ所の獵師八郞なる者、小子が宅ヘ一隻の熊を、一昨日、鐵砲にて打ちたるを、齎來て[やぶちゃん注:「もたらしきたりて」。]、安達了益と云ふ醫と、同時にて解體せしめて、膽をも獲たり。其時は秋なりしが、膽の在所、本草の如くには非ず。猶、右の八郞も疑問せしに、

「是迄、おのれ等が取りたる熊に、四時によりて、膽の在所かはることは、覺えず。」

と答へき。

 且、其以前、是も祖谷より齎來りし熊を、高原通玄なる醫、解體せし事あり。是も、膽の在所、替はることなし。故人の說、いかゞにか。

[やぶちゃん注:正直、最後の木村氏の部分だけが正当で、私には他の前の記載は悉く、「どうでもええわ!」って感じやね。

「阿波祖谷の深山中、久保」現在の徳島県三好市東祖谷久保。]

ブログ1,580,000アクセス突破記念 梅崎春生 流年

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年九月・十月合併号の『小説界』に初出。単行本には未収録。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 誤解があるといけないので、若い読者のために断っておくが、本作品内の短い冒頭部分での時制は戦前で、「高校」は旧制高校である。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、つい数秒前、1,580,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021819日 藪野直史】]

 

   流  年

 

 椎野貫十郎は二十歳のときに初恋をした。彼が田舎の高校生のころで、相手は下宿のとなりの家の女医学生であった。思いはだんだんつのって、ついにはその女医学生の姿をちらと見るだけでも、彼は緊迫感のため全身から汗が流れ出るようになった。どうにかしなければならない、と若い貫十郎はかんがえたが、どうにもいい方法が思い浮ばなかった。恋文を書くには文章に自信がなかったし、往来でいきなり話しかけるには、失敗して元も子もなくなる危惧(きぐ)があった。そして彼はやっと彼らしいひとつの方法を思いついた。それは自分の戸籍謄本を女に手渡すことであった。自分がこういうものであるということ、決して怪しいものでないということを、この行為は示すだけでなく、それ以上に、ふかい信愛の念を女に伝えることができるものと、彼は信じた。自らの出生の経緯を知らせること、しかも権威ある公の書類によってそれを示すことほど、適切な信愛の表現が他にあるだろうか。

 そして彼はある夕方、封筒に入れた戸籍謄本を、隣家の門口で女医学生に手渡すことに成功した。門燈をかすめて蝙蝠(こうもり)が飛んでいて、女医学生はどこからか戻ってくるところだった。彼女は不審気な顔でそれを受取ったが、貫十郎はその瞬間、非常に重々しいものが自分を満たしてくるのを感じた。小走りで家の中に入ってゆく女を、彼はへんに緊張した、すこし傲(おご)りの色をうかべた表情で見送っていた。女の姿が見えなくなると、彼は気負ったような、また幾分さびしそうな歩き方で、自分の家にもどってきた。

 しかしこの恋愛は失敗に終った。

 女医学生に手渡した戸籍謄本が、いつの間にか、彼の保証人の教授に回送されていて、彼はその教授に呼びだされて、散々注意をうけたのである。そのあとで教授は、すこし顔をゆるめて、それにしてもどういうつもりであんな物を渡したのか、と彼に訊ねた。自分の気持をうまく説明できそうになかったから、両掌を膝につぎ、うなだれて彼はだまっていた。

 それで彼は女医学生のことはあきらめた。やはり嫌われたのだとは思ったが、あの行為によるためだとは思えなかった。彼はときどき鏡を出して、自分の顔をうつしてみた。色白な顔に、眉毛が茫々とふとく映っていた。眉毛の色は濃いというのではなかった。うすく、幅ひろく、眼の上にかかっていた。この眉の形が、彼のきわだった特徴になっていた。上下を剃りこんで細い眉にすれば、いい形になるかも知れないとも思ったが、彼はそうしなかった。彼の父親も祖父も、同じ眉毛をもっていた。祖父の例をみても、この眉毛は白毛になると見事になるのであった。

 それから十数年経(た)った。兵隊にとられたり、色々なことがあったりして、彼はもう三十歳をこしていた。古本屋をひらいて、その主人になった。初恋のことなど、遠く彼の脳裏からうすれかかっていた。あの頃からみると、身体もすこし肥り、世の中のこともあれこれ判るようになった。店頭に坐っていると、すくなくとも四十歳以上には見えた。まだ独身で、兵隊にいた頃から、酒をすこし飲むようになっていた。酒もべつだん種類をえらばなかったし、場所もどこでもよかった。店を閉じると、彼はよく行き当りばったりに、飲屋に入って飲んだ。酒の量は多くなかったが、酔うと低声で歌をうたう癖がついた。それも歌おうとおもって歌うのではなく、自然と文句が唇に出るからであった。歌は古い歌にかぎられていた。明治時代の、「ああ世は夢か」とか「妻をめとらば」とか、唇にのぼるのはそんな歌詞ばかりだった。それらは皆、子供時分に、家にいた老婢が彼に教えた歌であった。[やぶちゃん注:「ああ世は夢か」サイト「心に残る家族葬」のこちらが異様に詳しく音源動画もある。聴けば、「ああ、あれか。」と誰もが知っているメロディである。原曲は「美はしき天然」或いは「天然の美」という題で、小・中学校で盛んに歌われていた唱歌である。明治三五(一九〇二)年に発表され、作詞は国文学者で詩人の武島羽衣、作曲は佐世保海兵団学長を務めた田中穂積である。但し、この曲の再ヒットが超弩級の猟奇事件(犯人は野口男三郎)と関係があるので、読まれる際には自己責任でお願いする。

「妻をめとらば」「人を戀ふる歌」。与謝野鉄幹作詞・奥好義(おく よしいさ)作曲。通称「若き支那浪人の歌」として、明治・大正・昭和の初期にかけて、特に学生たちを風靡した愛唱歌である。歌詞とミディ音源がこちらから手に入る。]

 彼が民子を初めて見たのも、そんな飲屋の一軒であった。民子は細い身体にゆるやかな上衣を着て、料理場から酒をはこんだり肴(さかな)を持ってきたりしていた。焼跡にたてられた貧しい構えの造りで、軒にあげられた看板は、去年の大風で曲ったままになっていた。二坪ほどの土間で、壁には「氷アズキ」「氷イチゴ」などと書いた紙が剝がれかかって揺れていた。古本市の帰りに、彼は偶然そこに寄ったのであった。

 どこかで見たような顔だと、ちらちら民子を眺めながら飲んでいたが、丁度(ちょうど)二本目を飲み終えたとき、貫十郎は突然おもい当った。それは十数年前の、あの女医学生に似ていたのである。顔立ちの、また身体つきの、どこが似ているというのではない。ただ、ある感じが、この女の身のこなしにあらわれていて、それが彼の胸のなかで、女医学生の記億と突然つながったのであった。思いがけないことだったので、彼は思わず盃(さかずき)をおいて、女の動きをみつめた。料理場に通じるのれんの処に、女はかるく腕を組んで立っていた。ゆるく束ねた毛髪が額にななめにかぶさり、いくぶんきつい感じの眼が彼を見下していた。うすい肩が、裸電燈の光のしたで、稚(おさ)ない影をつくっていた。その感じを胸に手探るように、彼はちょっと瞼を閉じたが、すぐ眼をひらいて、卓を指でたたいた。そして新しくお酒を注文した。新しい酒がくると、それを盃に受けながら、彼は女に聞いた。

「名前は、何というの」

「民子」

 澄んだ、抑揚のない肉声であった。その感じを耳にたしかめながら、彼はかさねて訊ねた。

「そして歳は?」

「十九よ」

 そう言って民子は笑った。断ち切るようなごく短い笑い声であった。あまり短い笑いなので、さげすむような感じが伝わった。徳利をおくと、そのまま民子は彼から離れた。

 十九といえば、あの女医学生もそうだった、と彼は思いながら、民子の方をちらちらと眺めていた。むこうの方の椅子にもたれて、民子は無関心な横顔をみせていた。ときどき立ち上って、料理場へ入ったり、何かもって出てきたりした。光線が民子の顔にかげる具合で、ひどく子供っぽい表情になったり、高慢そうな印象になったりした。灰色がかったゆるやかな上衣で、袖は肩のところでひろく断ちおとしてあったから、ふとしたはずみに鳶色(とびいろ)の脇毛が見えた。女医学生の俤(おもかげ)は彼の記億から消えていたが、あの時の自分の感じは酔いとともに強く、彼の身体によみがえってきた。

 いつもの色のわるい顔が、酒とともにうす赤くなって、幅のひろい眉を動かしながら、彼は盃をなめたり、民子の方をながめたりした。

 いつもより余計酒がはいったが、身体が熱っぽくなるだけで、ほんとに酔ったような気持にはならなかった。そのくせ、眼はちらちらして、帰途を彼はよろめきながらあるいた。その夜、彼は寝つきが悪かった。寝がえりをうつたびに枕が鳴って、いつまでも眠れなかった。

 

 三日経って、彼はその店にふたたび行って酒を飲んだ。それから二日して、また行った。その翌日も、すこし早目の時刻に出かけていった。

 客はまだ誰もきていなかった。なんとなくあたりを見廻しながら彼はいつもの卓にかけた。酒をもってきた民子が、ふと驚いたように言った。

「あら。ほこりのような臭いがするわね。あなた」

 彼は民子の顔を見上げた。民子の顔は無邪気な笑みをきざんで、へんに平たく見えた。

「古本の臭いなんだよ」

「あら。本屋さんなの」

 民子は壁側の椅子にかけて、小指で髪をかきあげる仕草をした。指は細く反って、透き通っていた。

「私も本は好きなのよ。毎晩読むわ」

 赤い造花を頭につけていて、それが民千を子供っぽくみせた。あたりに残った黄昏(たそがれ)の色のせいなのかも知れなかった。盃をふくみながら、彼はぽつりぽつりと話を交した。彼が自分の店の場所を話したとき、民子は短い声をたててそれをさえぎった。

「知ってるわ。曲角から二軒目の家でしょう。ああ。あれがあんたの店なの」

 民子の口調が急になれなれしくなったように思ったが、彼はむしろ荘重な顔になって黙っていた。自分の店さきに、この民子を坐らせることを、ふと彼は思っていたのである。そうするとある重々しいものが、胸を満たしてくるのを彼は感じた。彼はしばらくして言った。

「読みたかったら、貸してあげるよ」

 民子はまた短い笑い声をたてた。この笑い方は彼女の癖であるらしかった。笑い声が急に断(き)れると、民子はかなしそうなぼんやりした顔になるのであった。

 この感じなんだな、と彼は思いながら、つめたくなった酒を唇にはこんだ。女医学生の俤(おもかげ)も、十数年来彼の胸に死んでいたが、このようなかなしそうなぼんやりした感じだけは、確実に尾を引いて彼にのこっていた。民子を見て、似ていると感じたのも、このせいに違いなかった。すると身体が裏がえしになるような遙かな感じが、遠く彼におちてきた。

 逢(あ)うたびにだんだん苦しくなる、と帰り途(みち)に彼はかんがえた。店にいる間は心のどこかが緊張して、すっかり酔い切れない感じなのに、外に一歩出ると酔いが一時に廻って、ひとつことばかり彼は考えているのであった。

「妻をめとらば才たけて……」

 低声でそんなことをぶつぶつ呟(つぶや)きながら、彼はよろよろ歩いた。この五六日、夜の眠りが浅くて、酔いがひどくこたえるのであった。さっき店の中で、この歌を口吟(くちずさ)んだとき、民子がそれを笑った響きが、なお彼の身体にのこっていた。彼の酔態をさげすむような響きも帯びていたが、それはむしろ彼に快よい韻律(いんりつ)となって残っていた。――自分の心が民子にとらえられていることを、彼はそのとき確実に知った。

 

 民子を妻にむかえて店頭に坐らせることを、彼は本気で空想しはじめていた。その気持は一日一日強くなった。

 民子の店へは、彼は一日おき位に出かけて行った。酒をのみながら、ちらちらと彼女を眺めたり、ときには話をしたりした。そして民子の挙止や話し振りを、その度に印象にとどめた。民子の話し振りは、気易くなれなれしい時と、妙に高慢な感じがする時とがあった。またそのふたつを、同時に感じさせる場合もあった。それは民子がまだ稚ないせいだと、彼は思ったりした。民子の内部がまだ熟していなくて、それがそんな形であらわれるものらしかった。――民子の顔もなにか不均衡で、美人とは言えなかった。眼はかたく強すぎたし、顎(あご)のへんが野卑な感じさえうかべていた。それにも拘らず、その全体として民子はつよく彼を引きつけるようであった。引きつけられている自分を理解できないまま、彼は彼女の店にかよっていた。そうしてだんだん彼はくるしくなってきたのであった。

 自分の気持を民子につたえようと考えると、彼は高い飛込台から青ぐろい海を見下すような気分におそわれた。このような甘い切なさは、十数年来彼の情感のなかに死んでいたものであった。古本屋の店に坐っているとぎも、彼はぼんやりして、民子の細い身体のことなどを考えていた。しかしそれを抱く自分は、想像のなかで実感はなかった。彼はときどき店頭にかけられた鏡を横目でにらんだ。幅広い眉をもった肥った顔が、鏡のなかから彼をにらみかえした。中年という言葉がいちばんぴったりするような顔だと思うと、彼はなにかあせる気持で胸がいっぱいになった。そして古雑誌をよみふけっている若い店員を意味もなく叱りつけたりした。

 ある朝、店を店員にまかせて、彼は身仕度して出て行った。区役所の建物の前にくると、立ちどまって入って行った。そして三十分経って出てきたときは、右手に戸籍謄本を持っていた。

 その夕方、彼は民子の店の卓にひとりで坐っていた。客はまだ誰もきていなかった。徳利をもってきた民子は、卓の上にのせられた封筒に、ふと眼をとめた。その封筒からは、和紙を綴った部分がすこしはみ出していた。

「それはなに?」

 民子は酒を注ぎながら聞いた。掌を膝にのせてかけていた彼は、そうなるまいと努力しながら、かえって物々しい口調になって答えた。

「上げるよ。これ」

「本かしら」

 民子は卓から取り上げたが、ちょっとそれを引きだしてみて、失望したような顔をした。

「本じゃないのね。あら、なぜ変な顔してるの」

「君にいちど話したいことがあるが」

 彼はすこし普通の声になって言った。

「どこか外で逢えないかね」

 民子は妙な表情になったが、突然さげすみに似た短い笑い声をたてた。そして自分の笑い声を恥じるように、幾分うす赤くなって、封筒をもったまま、彼の卓から離れて料理場の方に入って行った。

 大風が身体の内を吹きぬけたような気持になって、彼は味のうすい酒を口にふくんだ。それから二三人、油障子を引きあけて、お客が入ってきた。料理場から再び出てきたとき、民子は何でもないような稚ない表情をしていた。それを追う彼の眼は、据傲(きょごう)と寂寥(せきりょう)とをないまぜたような光を帯びていた。ふしぎな力に駆られて、十数年前と同じことをしてしまったことを、彼は考えていた。

 その夜、彼はいつもより一本余計に飲んだ。そして歌もうたわず、割合たしかな足どりで、家へ戻ってきた。

 それから二三日、酒場に行かず、彼は家にじっとしていた。四日目の昼過ぎに、彼が店頭に坐っていると、表の方に人影がして、見ると民子が入って来た。そして民千は本棚のかげから、目顔であいさつをした。

「本を見にきたのよ」

 素直な声でそう言った。それから彼女は本棚を順々に見てあるいた。ただ背文字を見てあるくだけであった。ぐるっと廻って駄本を積みかさねたところへ来ると、今度はひっくりかえして丹念にしらべ始めた。長いことかかって一冊えらびとると、それを彼のところへ持ってきた。

「これ、下さいな」

 受取って見ると、講談本の水戸黄門漫遊記であった。民子は無邪気ににこにこしていた。

「こんな本なら、只であげるよ」

「貰うのはいやだわ。借りるか買うかよ」

「じゃ貸してあげるよ」

 民子の着ているゆるやかな灰色の上衣は昼間見ると古びていて、処々すれているのが眼についた。彼の視線に気づくと、民子は急にきつい眼をした。

「こんな講談本が、好きなのかい」

「講談でも、水戸黄門だけよ」

「どこが好きなのかね」

「どこって――何となく、気持がすっとするのよ。水戸黄門ってえらい人でしょ。それが身分をかくして、いよいよの時まで、じっと辛抱してるでしょう。そんなところなの」

 しやべっているうちに、民子は彼の横に腰をかけた。ふと思いついたような顔をして、彼は言った。

「二三日のうちに、多摩川一緒に行こうか」

「多摩川で何かあるの?」

「何もないけどさ。川を見にゆくんだよ」

 民子はまぶしいような顔になって、彼を見た。そして黙っていたが、急に立ち上って、頭を下げた。

「お店にもいらっしゃいね」

 逆光線になっているので、民子の胸の線がふとしたはずみに透いて見えた。彼は包み紙を出して、水戸黄門漫遊記をていねいにつつんでやった。

 

 それから三日経って、彼等は多摩川に行った。風のつよい日で、遊歩には適当でなかった。だから川から外れて、にぎやかな道をあるいた。

 民子は今日は水色の服を着て、白いバンドを腰にしめていた。残暑という程ではなかったが、あるいていると汗がすこしにじんだ。民子は道をあるくのに、いっこう落着きがなかった。露店をみつけると、寄って行って、しきりにチョコレートや飴を買いたがった。そして買い求めると、ポケットに収めて、少しずつ出して食べた。

 道ばたにデンスケ賭博にむらがっている群があった。そこに足をとめると、民子はなかなか動こうとはしなかった。彼等はしばらく勝負をながめていた。あたしもやってみたい、と民子は彼にささやいたが、彼は聞かないふりをしていた。それから歩き出しても、民子はきょろきょろして、遠足にきた千供のように落着かなかった。[やぶちゃん注:「伝助賭博」移動しやすい台(これを「デンスケ」と呼ぶ)を使って街頭で行うイカサマ博奕。煙草の箱を使う「ピース抜き」・「モヤ返し」、円盤に回転する針を仕掛けておき、その円周上の文字に賭けさせ、針を回して、回転が止まって針の指したところが「当り」となる「ドッコイ・ドッコイ」、そのほか、「モミダマ」・「赤黒」など、多数ある。孰れも手捌きで誤魔化したり、仲間の「サクラ」に「当り」をとらせたり、時には暴力沙汰にも及ぶイカサマ賭博である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 にぎやかな場所をぬけると、彼等は川の方にあるいて行った。昼をすこし廻っていたから、土堤のかげに、風を避けて弁当をひらいた。遠くの方では川水が光って、子供たちが泳いだり走ったりしているのが見えた。

「あなたの名前は、まるで悪代官なのね。椎野貫十郎だなんて」

 民子の境遇を遠廻しに訊ねかけたとき、民子はそんな事を言い出して笑った。それで彼も黙ってしまった。民千はそれから言葉をついで、この間の水戸黄門漫道記の話を、彼に話してきかせた。そのなかに貫十郎という代官が出てくるというのであった。民子の様子はたのしそうで、笑い声もいつもと違って高かった。その笑い声も、時に調子を外れて、ヒステリックな響きを立てることがあった。

 ――どういうつもりで今日此処にきたのだろう。遠くの河面をながめながら、彼はぼんやりそんなことを考えた。昨夜あの飲屋で、彼は民子に多摩川行きを誘ってみたのであった。そのつもりでは、民子のことをよく知りたいと考えていたのだが、いまは彼は妙に疲労して、勢を失っていた。だから斜面にころがって、後ろ手に頭を支え、河の方を眺めたり眼を閉じたりした。なんだか不安定な感じで、彼は暫(しばら)くそうしていた。女とふたり連れだってあるくことは、彼にも始めてであったが、それがこんなに疲れることとは予想もしていなかった。

 彼の視野のはしに、白いものが見えていた。それは民子の脚であった。民子も彼と同じように斜面に背をもたせて、寝ているらしかった。ときどきその脚はかるく動いて、組合わさったりした。風の音が聞えたり止んだりして、身体ごと、土堤のなかに沈下してゆくような気がした。遙かなむなしい感じが、すこしずつ彼にひろがってきた。

「あなた、お父さんいるの?」

 頭の方から民子のそんな声がした。近くにいるのは判っていても、なんだか遠くから聞えてくるような気がした。実体を失ったような素直な響きであった。

「いない」

 眼を閉じたまま、彼は答えた。

「おやじも、おふくろも、死んでしまった」

「あたしもひとり」

 少し経って民子がそう言った。それからしばらく、彼女は彼が問うままに、自分のことを話した。伯父の家にいたのだけれども、そこを飛び出して、間借りをしていることを、民子はぽつりぽつり話した。その部屋は四畳半で、ぼろぼろなところだということであった。彼は突然、その部屋を見たい衝動にかられた。

「遊びに行ってもいいかい」

「いいわ。きたないところよ」

「今日、いまから――」

 民子はびっくりしたように身体を起したらしく、脚がふいに動いたが、直ぐ短い笑い声が彼におちてきた。へんに乾いたような響きをのこして、それはすぐ止んだ。

 十分の後、彼等は立ち上って、土堤にそって歩いていた。疲れが収まったので、彼もいくぶん元気が出た。河のむこう岸を綺麗(きれい)な色の自動車が走っていたが、彼が指さしてやっても、民子には見えないらしかった。

「あたし眼が悪いのよ。ずっと前から」

「眼鏡かけた方がいいな」

「おお、いやだ」

 民子はわざとらしく、そう言ったが、語調をかえて、

「でも、眼鏡かげた人好きよ」

 そして民子は眼鏡をかけた女流名士の名前を二三挙げた。婦人雑誌ででも覚えたものらしかった。

「あたしも偉くなりたいわ。早く」

「そんな偉くならなくてもいいだろう」

「なりたいわ。馬鹿にされずにすむもの」

「今だって、馬鹿にしやしないだろ、誰も」

 民子は頸(くび)をふった。そして少し冗談めかした口調で言った。

「判らないわ。あなただって、あたしを馬鹿にしてるでしょ。飲屋の女だと思って」

 あとの方は真面目な調子になったので、彼は民子の顔をちらと見た。民子はきつい眼をしていた。

 駅まで来たら、果物屋があって、また民子はいろんなものを食べたがった。そこで林檎などを買って、電車に乗った。電車は混んでいて、自然彼は民子と身体を接して立たねばならなかった。くっついていると、民子の身体は肉が薄くて、ひよわな感じであった。丸いものが当ると思ったら、それは民子が手にした林檎であった。民子は首をまげて、窓の外をながめていた。かなしそうな、ぼんやりした民子の表情が彼の前にあった。虚しい哀憐の情が彼にあった。それは民子をあわれむのか、自分をあわれむのか、彼にもはっきりしなかった。そんな彼等をのせて、吹きぬける風の中を、電車は走って行った。

 民子の家は、ごみごみした家並の、露地の奥にあった。急な階段がついていて、そこは暗かった。民子の部屋は、二階の一間であった。あたりの家も不規則な建て方をしているのを見れば、ここらあたりは震災にも焼け残った地区らしかった。階段をのぼるとき、民子は階下に気がねするように、低い声で、あぶないのよ、とささやいた。

 民子の部屋は畳が古ぼけていて、襖(ふすま)にはいくつもつぎがあたっていた。貧しい調度があって、壁には見覚えのあるあの灰色の上衣がかけてあった。それを見たとき、彼の胸のなかで、民子がぐっと身近に寄ってくるのが感じられた。しかし民子は座布団を彼の方に押しやりながら、彼をここに連れてきたことをちょっと後悔するような表情をした。

「いい部屋だね。まったくいい部屋だ」

 彼はそう言った。そうして四辺(あたり)を見廻した。自分の言った言葉が大して意味はないにも拘らず、重い意味をもつものとして、彼におちてくるのが判った。しばらくいろんな会話をした。つまらない話題ばかりであった。民子は林檎の皮を剝き出した。

「この部屋にいつまでも住んで行く気かね」

「追い立てられてるのよ。ここも」

 民子は林檎の皮をむきながら、そう答えた。ゆるくたばねた髪が額にふさふさとかぶさって、民子はうつむいて一心にナイフを動かしていた。彼は視線を窓の方にむけた。窓は屋根屋根の風景を収めていた。窓硝子のひびの入ったところを、紙片で補綴(ほてつ)してあって、それが次に彼の眼に入った。引きの強い紙らしく、けば立って硝子に貼りついていたが、それに黒いインクで小さな文字が書かれてあった。彼はすこし顔を近づけてその文字を読んだ。

「……宮司村大字拾七番地椎野貫太郎長男トシテ大正参年弐月拾五日出生」[やぶちゃん注:梅崎春生はいい加減に村名をつけたのかも知れないが、梅崎春生の故郷である福岡県に宮司(みやじ)地区がある(全国的に宮地という地名は多いが、宮司はそう多くない)。福岡県福津市宮司があり、その周辺の接する地名の一部にも「宮司」がついている。春生の実家は福岡市内であるが、私はここでは、この地名を採ったもののように感じている。]

 読んでいるうちに、彼の頰は力んだような感じとなり、幅の広い眉のあたりが薄赤くなってきた。それはこの間手渡した戸籍謄本の切れ端にちがいなかった。汚れた硝子に貼りついて、窓の外の風景をさえぎっていた。

「とうとう切れなかったわよ」

 そのとき民子が甲高い声をたてた。民子の小刀から林檎の皮がくるくる巻いて、えんえんと垂れ下っていた。垂れている長さは三尺ほどもあった。民子は邪気のない眼で、うながすように彼を見た。

「僕と結婚しないか」

 とつぜん彼は言った。そしてあわてたように坐りなおして、両手を膝においた。

 民子もびっくりしたように、坐りなおした。林檎の皮は渦を巻いて、畳におちた。ナイフを掌にしたまま、民子は急に短い愚かしい声を立てて笑ったが、笑いやめると、押しひしがれたような惨めな表情になった。

「そんなことなの。どういうこと……」

 彼女は言いかけて口をつぐんだが、ぐっとあかくなった顔を立てて、こんどは早口に言った。

「そんなこと出来ないわ。まだわたしは若いし……それに馬鹿なんだから」

 そう言うと、民子の顔は急に堅く凝った[やぶちゃん注:「こごった」。]ようになり、どこか驕慢(きょうまん)な感じにもなった。

 その顔を見つめながら、彼は頭のなかを流れ去るいろんなものを感じていた。それは形もない、色彩もないものであった。自分がその中で微粒子のような位置にあることを、彼は意識した。彼はどもりながら、さっきの言葉をも一度くりかえした。

 

 二箇月経って、ふたりは結婚した。すると民子はすぐに身ごもって、まもなく子供を産んだ。男の子であった。民子は一日中、おむつを洗ったりお守りをしたり、家の用事をしたりした。忙がしいことには、あまり不平を言わないようであった。貫十郎はその点で民子に満足していた。

 貫十郎は少しまた肥って、時には本を買う客に愛想を言ったりした。酒は相変らず飲んだ。民子はそれにも不平は言わなかった。ふたりとも平凡に満足しているように見えた。

芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二四)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)

 

大正一四(一九二四)年五月二日・修善寺発信・東京市外田端四三八 下島勳樣・五月二日朝 修善寺新井うち 芥川龍之介 (明日歸る筈)・(絵図のみで書信はない

 

Syuzenjizukan

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。で掲げた佐佐木茂索宛の同「画巻」を完全に改稿したもの。キャプションは、標題は枠内で右上部に右から左へ、

 修 善 寺 画 巻

で、右から左に、右手に枠内で、

 澄江堂先生讀書之図

とあり、その簷の上に指示線附きで、

 コレハ鶺鴒

とあり、中央上に指示線附きで、

 コレハ

  修善寺ノ

  鐘ツキ堂

とある。その中央池中に指示線附きで、

 コレハ鯉

とあり、下方に右から左に枠内に、

 澄江堂先生散策之図

とあり、「澄江堂先生」の背後の壁に「へのへのもへじ」の落書きがあり、「澄江堂先生」のの前方に指示線附きで、

 蠅ニアラズ

   蝶々ナリ

と注意書きしている。

左最上部には、枠内で、

 鏡花先生喋々喃々之図

として、少し下方の玄関の間のところに指示線附きで、

 コレハ カバン

とある(初稿と同じく、向いが泉鏡花、背を向けて対座しているのが鏡花の妻「すず」)。「喋々喃々」(やや「喋」の字は書き方が雑である)「てふてふなんなん(ちょうちょうなんなん)で、「喃喃」は「小声で囁くさま」で、「小声で親しげに話しあうさま」であるが、特に「男女が睦まじげに語り合うさま」を言う。ちょっと気になるのは鶺鴒(せきれい)で、本邦種として知られるものでは、修善寺にいておかしくないのは、スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)・セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis ・セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea(九州以北)であり、これだけを見ると、全く以って疑問はないのだが、直前のスケッチと推定される初稿と比較すると強い疑念が生ずるのである。則ち、そちらでは、彼の部屋から見える位置に飛んでいる鳥を、カタカナで「ミソザザイ」と記しているからである。思うに、私は芥川龍之介は「みそさざい」を、この改稿版では、漢字で書こうとして、「鷦鷯」と書かねばならないところを、「鶺鴒」とやってしまったのではないかと考えている。二図は明らかに、同一のシーンのモザイク合成画であり、この鳥だけを「みそさざい」から「せきれい」に変える意味がないからである。だいたいからして新婚の佐佐木に送るなら「みそさざい」ではなく、伊耶那岐・伊耶那美に「みとのまぐはひ」の仕方を教えた「せきれい」こそ、寧ろ、相応しいではないか。相合傘なんぞより、ずっといいと思う。セキレイの博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)」を参照されたい。

芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二四)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」

 

大正一四(一九二四)年五月一日(推定)・佐佐木茂索宛(封筒欠)

 

Syuzenjiemaki

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。「初稿」としたのは、二日の下島勳宛(後で掲げる)でも同名のスケッチが載るが、明らかに改稿した絵であるからである。キャプションは、標題は二十枠内で、

 修善寺画巻

で、右から左に、中央と、その下(指示線附き)に、

 澄江堂先生閑居之図

 コノ本 片ヅイタコト ナシ

とあり、その左空中に指示線附きで、

 コノ鳥ハ

   ミソサザイ

とあり(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい)、その中央の池中に指示線附きで、

 コレハ鯉

とある。その中央最下部に指示線附きで、

 澄江堂先生散策之図

とあり、その「澄江堂先生」は吹き出しで喋っており、

「オソロロシイモノヂヤ ココマデ評判ヂヤ」

とあって、その視線の先の土塀には、相合傘(仐)に、右に、

 もさ

左に

 ふさ

と落書きされているのが判る。これは茂索(もさく)と妻のふさ(房子)のことである。二人は、この前月三月末に龍之介の媒酌で結婚しており、新婚ほやほやだったのである。その土壁の角の折れた左方には、

 バンガイ

とあって、左に「へのへのもへじ」の落書きもある。左上方には、

 鏡花先生同令夫人御幽棲之図

とある。向いが泉鏡花、背を向けて対座しているのが鏡花の妻「すず」である。

左下方には指示線附きで、

 蠅ニアラズ

    蝶ナリ

と注意書きしている。

 なお、以下の標題の「新曲」は、底本では、ポイント落ちで、右から左へ横書き。]

 

    【新曲】修善寺  いでゆもすみえ太夫作

思へば九月一日の、地震に崩れかかりたる、門や土塀を修善寺や、五分すすみし時計ゆゑ、六時五分は午後六時、君をはじめて御幸橋(みゆきばし)、酒のまぬ身のウウロン茶、カフエ、コカコラ、チヨコレエト、ヴィタミンCのありと言ふ綠茶はのめど忘られぬ君を藝者と菊屋にも、電燈ともる夕まぐれ、2×2=4(に にん が し)とは思へども、2×2=5六(に にん が ごろく)、七八度(ななや たび)、橋のたもとへ出て見たる、人の心も白糸の、瀧の英語はカタラクト、ラクトオゲンは滋養劑、自由にならぬ世の中の、波も新井屋わが宿に晝間來てゐる君見れば、ウタヒガタリあらかなしや、雪と見えしはおしろひの、剝げてわびしきエナメルやエナメルや額はビルディング千丈の壁を削り、眼(まなこ)凹(くぼ)める凄(すさま)じさはリフトの穴と申すべし、さりとはよもや賴家の墓もはかなき夕明り、ちらりと見たる崇りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける。

 

[やぶちゃん注:「御幸橋(みゆきばし)」修善寺温泉の入り口近くの、桂川に架かる橋の名であるが、前から「見ゆ」に掛けてある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。左手中央に現在もある新井旅館(桂川左岸)。

「コカコラ」現在のアメリカのThe Coca-Cola Companyの発売している「コカ・コーラ」(Coca-Cola)は、商品そのものとしては(最初の製造会社は全く別)、一八八六年(明治一九年)五月八日に販売を開始しており、日本では明治屋が大正八(一九一九)年に「コカ・コーラ」として発売を始めたのが、大々的な本格的普及の始まりのようである。但し、知られた高村光太郎の詩集「道程」(大正三(一九一四)年)に収録されている「狂者の詩」(明治四四(一九一一)年十一月二十一日のクレジットがある)に既に『コカコオラ』として銀座のカフェらしきところで飲んでいる場面が出るので、ハイカラな飲み物として明治末期には飲食店では既に供されていたことが判る。「国文学研究資料館電子資料館」の「近代画像データベース」のこちらで、当該詩集原本のその詩が読める。

「カタラクト」cataract 。但し、大きな瀧を指す語である。

「ラクトオゲン」英文綴りは Lactogen。粉ミルクの一種。北多摩薬剤師会」公式サイト内の「おくすり博物館」の「おき薬紹介シリーズ」のこちらに、本邦の古い新聞広告画像と説明があり、そこには『いわゆる人工栄養、人工乳は大正に入って発売されましたが、そのうち』、『オーストラリア・メルボルンから輸入していた製品にラクトーゲンがあります。その』大正一〇(一九二一)年三月二十日附の『大阪朝日新聞』(芥川龍之介は依然としてここの社友であるから、恐らくはこの広告を見ている)『の新聞広告の裏面を御覧下さい。 広告の描かれた表面は後日ミルク、哺乳瓶等と一緒に解説いたしますが、多分』、『ラクトーゲンを飲んで育った子供達の投稿写真と思われる顔写真であふれています』。『明治維新』『から約半世紀で』、『ずいぶんと子供達を取り巻く医療、衛生、経済』等『の環境が激変したことに驚かされる次第です。それにしても大正時代は戦争の影も少なく、現代と比べても』、『ずいぶんとモダンな子供達も多く大事にされていたことにも驚かされます』とある。

「新井屋」宿泊してい旅館の名に「荒い」を掛けたもの。

ウタヒガタリあらかなしや」「ウタヒガタリ」の文字は底本では「「あら」のルビのように打たれてあるが、これは浄瑠璃の調子を示すものであるから、前に上付きで示した。

「リフト」エレベーター。

「ちらりと見たる崇りかや、女を見るはゴオギヤンの、晝の光がかんじんと、悟つてみれば百八の、衆(しゆ)煩悩にも桂川、行なひすましてゐたりける」戯歌ながら、最後には、龍之介お得意の「煩悩即菩提」の片山廣子への切ない恋情が匂っている。佐佐木もそれを感じたに違いない。

芥川龍之介書簡抄123 / 大正一四(一九二四)年(四) 修善寺より小穴隆一宛 「歎きはよしやつきずとも 君につたへむすべもがな 越の山かぜふきはるる 天つそらには雲もなし」

 

大正一四(一九二四)年四月二十九日・修善寺発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・四月二十九日 靜岡縣修善寺町新井うち 芥川龍之介

 

原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行にかいてしまつた。勿論書けてゐるかどうか心もとない。今泉鏡花先生滯在中、奧さん中々世話やきにて、僕が仕事をしてゐると、「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」などと言ふ。屋前屋後の山々は木の芽をとほり越して若葉なり。一夜安來節芝居を覗いたら、五つになる女の子が「蛸にや骨なし何とかには何とかなし、わたしや子供で色氣なし」とうたつてゐた。大喝采だつた。うちの子も五つになるが、ああ言ふ唄をうたつて大喝采をうけぬだけ仕合せならん。この間又夜ふかしをして、湯がなくなつた故、溫泉で茶を入れたら、變な味がしたよ。ちよつと形容の出來ぬ、へんな味だ。その癖珈琲に入れると、餘り變でもない。僕はいつも溫泉へ來ると肥るのだが今度はちつとも肥らん。遠藤君によろしく。前の家だと尾張町だけでも手紙が出せるが今度はさうも行かない。又今樣を作つて曰く、

   歎きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな

   越(コシ)の山かぜふきはるる

   天つそらには雲もなし

    二十九日           龍

   隆   樣

 

二伸 惡錢少々同封す。支那旅行記の裝幀料と思はれたし。

 

[やぶちゃん注:室生犀星とこの小穴隆一、そして弟子格である堀辰雄の三人は、芥川周辺でも、廣子への龍之介の執心の核心を理解していた数少ない人々であった。無論、この書簡も「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡12」として採用しているが、ここで再掲する。これは私のカテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』に当然の如く掲げるべきものであったが、見落としていたようなので、そちらのカテゴリにもこの記事をリンクさせておく。

「例の大男の話」既注であるが、再掲すると、大正一四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『女性』に発表した修善寺の民話を素材とする「溫泉だより」を指す。作中に「丈六尺五寸、体重三十七貫」の大工萩野半之丞が登場する。「温泉だより」起筆は四月十六日。

「今樣」これも廣子への恋情切々なるを詠じた一首。

「遠藤」既出既注だが、再掲すると、遠藤古原草(明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年 本名清平衛)。俳人・蒔絵師。「海紅」同人。小穴を通した共通の友人で俳句仲間でもあった。

「支那旅行記の裝幀料」この六ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。装幀は小穴隆一。この時、既に小穴から装幀案が示されていたのものかも知れない。]

芥川龍之介書簡抄122 / 大正一一四(一九二四)年(三) 佐佐木茂索宛(修善寺での長歌并びに短歌)

芥川龍之介書簡抄122 / 大正一一四(一九二四)年(三) 修善寺にて通

大正一一四(一九二四)年四月二十九日・消印三十日・修善寺発信・東京市下谷區眞島町二ノ五號 佐佐木茂索樣・二十九日 しゆぜんじあらゐうち あくた川龍のすけ

 

  不可出於新聞長歌幷短歌

空ゆくや、照る日も見えず、湯けむりの、立ち立つむろに、さにづらふ、赤裸なる、二はしら、神のみことの、老いたるは、請負師かも、若かるは、官吏なるらし、二人とも、流しにゐまし、たるちしら、うら樂しけく、天ざかる、鄙の藝者に、惚れられし、話をすると、えらえらに、笑ひどよもし、ざぶざぶに、湯をあみませば、鴨じもの、わが沈みゐる、石ぶねの、湯ぶねの空ゆ、時じくに、雨ぞふりくる、ぬえ鳥の、なげかひ居れど、神えらぎ、やむときしらに、今しかも、醜(しこ)のつかひ湯、わが顏に、さとぞたばしる、ますらをと、おもへる我の、丸ビルは、海に入るとも、口つぐみ、あるにたへめや、湯の中に、い立ち上らひ、「おい、こら」と、雄たけびすれば、老いたるは 平にあやまり、若かるは、あつけにとられ、湯けむりの、千重(チヘ)に五百重(イホヘ)に、なびかへる、着ものぬぎ場へ、こそこそに、逃げてぞゆける、千早ふる、神わざならず、現し世の、人わざにして、二はしら、神のみことを、やらひたる、我はも美(は)しと、己(し)が姿、かへり見すれば、翠鳥(ソニドリ)の、靑き湯のへに、かなしもよ、天津麻宇羅は、ながながと垂れゐたるかも、

 二はしら神の命をやらひたる天津麻宇羅見らく愛しも  龍

 

   大 藝 先 生 梧右

二伸 一月ほど文藝欄を見てゐると、いろいろ面白い。廣津和郞先生は higher文學靑年だね。

 

[やぶちゃん注:「不可出於新聞」「新聞に出だすべからざる」。筑摩全集類聚版脚注に、『当時』、『佐佐木が時事新報に関係していたため』に断りを入れたものとする。ただの戯れの添え書きのようには見えるものの、先年初めの毎日新聞社馘首未遂事件(既注)などから、小品でも新聞系への自身の作品の掲載(しかもこれは依頼稿ではない)には神経を使っていたからでもあろう。

「むろ」所謂、岩窟風に造った岩風呂であろう。

「さにづらふ」連語「丹づらふ」。元は清音。元は「赤く照り輝いて美しい」の意で、転じて「色」「君」「我が大君」「妹」「紐」「紅葉」を形容することばとして用いられ、そうした「赤」を連想させる対象に広く掛かる枕詞となった。

「請負師」土木・建築工事などの請負を職業とする人。修善寺修復か温泉旅館のそれかも知れない。今一人が官吏だとすると、前者かも知れない。或いは、知人ではなく、たまたま風呂で一緒になっただけかも知れない。若い方がそそくさと出ているところからは、そっちか。

「たるちしら」筑摩全集類聚版脚注に、『足ることを知らず。「ち」は接尾語、「しら」は知らずの意味に用いようとしたのだろう』が、『正しくない用法』とする。

「鴨じもの」鴨のような。「じも」は接尾語で形容詞の活用語尾「じ」に形式名詞「もの」が附いたもので、名詞に付いて、「~のようなもの・~であるものとして」の意で、比喩的に言うもの。

「時じくに」時ならず。意想外に急に。

「ぬえ鳥」ズズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma だが(博物誌や伝承幼獣は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を参照されたい)、ここは、その荒涼にして悲しげな鳴き声から、以下の「なげかひ」(歎かひ)の枕詞(「うら歎(な)く」「のどよふ」「片戀ひ」などにも掛かり、万葉以来の用法である)。

「えらぎ」「ゑらぎ」の誤り。「ゑらぐ」は上代語で「楽しみ笑う」の意。

「翠鳥(ソニドリ)」鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis の古名だが(博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたい)、ここはその羽色から「靑き」の枕詞。修善寺にはおり(実見した)、ロケーションからもいい使用法である。

「天津麻宇羅」「あまつまうら」。自身の男根(芥川龍之介は巨根であったという)を戯れて呼んだもの。

「廣津和郞」(ひろつかずお 明治二四(一八九一)年~昭和四三(一九六八)年:芥川龍之介より一つ年上)は小説家。東京市牛込区(現在の新宿区)矢来町に硯友社の著名作家広津柳浪の次男として生まれた。大正二(一九一三)年、早稲田大学英文科卒業。在学中に葛西善蔵らと『奇蹟』を創刊し、評論活動を経て、小説に転じ、「神経病時代」(大正六年)が出世作となった。後に総合誌『洪水以後』の文芸時評欄を担当して評論でも名を上げた。敗戦後はカミュの「異邦人」をめぐる中村光夫との論争や、「松川事件」の政治性の闇と正面から取組んだ評論「松川裁判」などで知られた。

「higher」高級。]

2021/08/18

芥川龍之介書簡抄121 / 大正一四(一九二四)年(二) 芥川文・芥川富貴宛/修善寺関連スケッチ三品

 

大正一四(一九二四)年四月二十二日・修善寺発信・芥川文 芥川富貴宛

 

改造の紀行、文藝講座、文藝春秋、女性、とこれだけ書いた。今文藝講座をもう一つ書いてゐる。まだその外に鶴田の爲に「平田先生の飜譯」と云ふものを書いた。根本(女性)と鶴田の所の男とつききりだつた。泉さんの奧さん曰「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」

二階の壁ぬりや庭も出來つつあるよし、おぢいさんいろいろお骨折りの事と存ず よろしく御禮を申されたし。八洲の所へ行つたのなら、八洲の事をもつと詳しく書け。あちらから甘栗を貰つた。原稿ぜめでまだお禮も出さない。これと一しよに出す。但し栗はみんな食つてしまつた。

それから今客がなくて閑靜故、をばさん、おばあさん二人でちよつと遊びに來ないか。汽車は十二時キツチリの明石行にのると四時三十九分に三島へつく。三島へついたらプラットフォームの向う側に修善寺行の輕鐡がついてゐる故、それへ乘れば六時には修善寺へつく。修善寺驛から新井までは乘合自働車、人力車何でもある。時間がわかれば僕が迎ひに出る。

切符は東京驛より修善寺迄買つた方がよし。(三島迄買ふと又買ふと又買はねばならぬから面倒臭い、東京驛で修善寺までのを賣つてゐる)

 

Misimaeki

 

[やぶちゃん注:画像以下の二枚も含めて、底本の岩波旧全集からトリミング補正した。ここのキャプションは、右上に(下方に煙を吐く機関車と車列)、

 明石行 ←―――

中央囲みホーム部分と、その下部の外に、

          プラツトフォオム 三島

左に(下方上部に軽便鉄道車列。掛線のパンタグラフを左端に描いているので判る通り、電化されていた。最後の大仁(おおひと)と修善寺間が開業したのは、この前年の大正一三(一九二四)年八月一日であった)、

 修善寺行←―――

 以下は、底本で挿絵の下に活字だけで示されてあるもの。なお、この「三島駅」は現在のそれとは違う「三島駅」で、東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線の静岡県駿東郡長泉町(ちょうせんちょう)下土狩(しもとがり)にある下土狩駅=旧「三島駅」(現在の三島駅の西北西一・五四キロメートル位置にある)である。この修善寺までの路線も現在の伊豆箱根鉄道駿豆線ではなく、駿豆鉄道であった。

 

ツマリノリカヘハ

コノ□□[やぶちゃん注:底本は二字分の長方形。底本編者の判読不能字。]ヲ右カラ

左へ二三間[やぶちゃん注:三・六~五・五メートル。]步クダ

ケユヱ造作ナシ

 

來れば一しよに鎌倉まで歸る。修善寺も湯が昔から見ると、へつたよし。それでも唯今風景は中々よろしい。考えへてゐると億劫だが、汽車にのつて見れば訣なしだ。シヤ官や植木屋位文子にまかせておけばよろし。シヤ官はもうすんだらう

泉さんはあしたかへる。奧さん中々世話やきにて菓子を買つてくれたり、お菜を拵らへてくれたり、もう原稿はおよしなさいなどと云ふ。下齒が上齒よりも前へ出てゐるお婆さん也。泉さんは來て腹ばかり下してゐる。床をしきづめにしてごろごろねてばかりゐる。誰も來なければ月末にかへる。をばさん、おばあさん、ちよいと二三日お出でなさい。ここのお湯は

 

Yudono

 

[やぶちゃん注:ここにポイント落ちで『〔右下圖參照〕』とあり、この後の「この家も」の下にも『〔下圖參照〕』という割注があるが、これは恐らくは底本編者による挿入と私には思われるので、本文に入れなかった。こういうくだくだしいやり方は芥川龍之介はやらないわけではないが、好まなかったと思うからである。その代わりに、それぞれその絵を挟んでおいた。

 キャプション(反時計回りに。総て、指示線附き)。

コヒ[やぶちゃん注:鯉。]

ガラス窓
 [やぶちゃん注:何かを書きかけて、その一字分を潰した感じ。判読不能。]

ミシ[やぶちゃん注:「ミゾ」の誤字か。]

コレハ 湯]

 

言ふ風になつてゐて水族館みたいだ。これだけでも一見の價値あり。この家も

 

Niwatoike

[やぶちゃん注:キャプションは右側(上から下へ。以下同じ)に、

 ■霧[やぶちゃん注:意味不明。]

 水音ザアザア[やぶちゃん注:指示線附き。]

 木 沢山[やぶちゃん注:「たくさん」。]アリ

 月[やぶちゃん注:芥川龍之介が滞在している総室(棟)名。]

 玄関

中央に、

 山[やぶちゃん注:指示線附き。]

 池[やぶちゃん注:少し左。]

 島

 木 沢山アリ[やぶちゃん注:少し右。]

左に、

とある。]

と言ふ風に建つてゐる。僕は月の五番卽ち三階にゐる

 

[やぶちゃん注:「改造の紀行」後の六月一日発行の『改造』に発表された「北京日記抄」(リンク先は私の詳細オリジナル注附き一括版)。

「文藝講座」前年の九月から開始された菊池寛篇編になる講座叢書「文藝講座」の第一回配本分の「文藝一般論」の最終部の大正十四年四月二十五日発行分(「青空文庫」のこちらで新字正仮名なら読める)。

「文藝春秋」これは前の講座の発刊元を書いたものと考える。六月一日発行の『文藝春秋』の「尼提」(「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)があるが、それをこんなに早く脱稿するとは、とても思われない。

「女性」六月一日『女性』に発表された「溫泉だより」(「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)。

「文藝講座をもう一つ書いてゐる」同前の五月十五日発行分。

「鶴田」玄黄社及び国民文庫刊行会社主であった鶴田久作(明治七(千八百七十四)年~?)。筑摩全集類聚版脚注によれば、『平田禿木を中心に欧米の翻訳文学集たる国民文庫叢書を出していた』とある。

「平田先生の飜譯」恐らく現在まで初出誌未詳(新全集宮坂年譜も『未詳』とし、推定でこの年の四月の著作リストに入れてあるが、その根拠はこの書簡であろう)。筑摩全集類聚版脚注には、『大阪毎日新聞大正十四年三月に発表』とあるが、何かの間違いであろう。龍之介が修善寺に来たのは、四月十日であるし、所持する他の諸資料でも初出は全くの未詳である。

「根本(女性)」前の『女性』の原稿の居催促のために、出向いてきた同誌の編集者根本茂太郎。新全集の年譜では、十九日から来ていたように書かれてあり、原稿催促の電報がその十九日までに十本に及んだともある(と言っても、総て書簡根拠)。

「泉さん」泉鏡花。この四月二十日に鏡花は愛妻すずさんと一緒に修善寺を訪れ、同月三十日まで同宿した。龍之介は鏡花には深い敬意を持っており、鏡花も彼の理解者であった。龍之介の自死に際しての追悼文はまず素晴らしいものである。

「八洲」妻文の実弟塚本八洲。結核による喀血は注で既に述べた。

「一しよに鎌倉まで歸る」『何故、田端まででないのか?」って? だからね! 何度も言ってるでしょうが! 鎌倉の割烹旅館「小町園」に泊まって、愛する女将野々口豊と逢うためだっうの! 芥川龍之介は共時的に複数の人間へ強い恋愛感情を抱くタイプなのだ。それを否定したら、千年経っても、彼を理解することは出来ないぜ! 表向き「品行方正」な研究者さん、よ!

「月の五番」当時の新井旅館(三十年も前から行って泊まろうと思いながら、機会を逸している)の室号名。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 「摸稜案」の最初の物語

 

      「摸稜案」の最初の物語

 摸稜案の最初に收められた『縣井司三郞《あがたゐつかさぶらう》』の事件は、棠陰比事の最初の物語がその骨子となつて居るやうである。棠陰比事の物語は極めて短く事件も至つて簡單であるが、それを基として作つた『縣井事件』は極めて複雜で且巧妙に出來て居る。私はそれ故、馬琴が如何に想像力の發達した人であるかを示すために、先づ棠陰比事の物語を左に譯出しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、訳文は底本では全体が一字下げ。]

『丞相向敏中が西京《さいけい》といふ所の裁判官をして居た時のことである。一人の行脚僧が、ある村にさしかゝると、日がとつぷり暮れたので、ある家に一夜の宿を求めたところ、主人が許さなかつたので、せめて門外に休ませてくれと賴むと、主人は澁々ながら承諾した。すると夜中に、その家に盜人がはいつて、一人の女に澤山の財寶を持たせ、垣を越えて出て行つたので、行脚僧は自分に盜人の嫌疑がかゝつては困ると思ひ、夜の明けぬ先に出立して、野中をずんずん急ぐうち、誤つて古井戶の中に落ちこんだ。ところが、ふと、氣がついて見ると、先刻盜人と同行した女が、同じ井戶の中に切り殺されて居たので、はつと思つて逃げようとしたけれども、深い井戶のことゝて、どうすることも出來なかつた。そのうちに夜が明けると、件の家の主人は盜難に氣づいて追跡して來たが、やがて古井戶を發見して、中に居た僧を捕へ、役所に訴へ出た。行脚僧の衣の裾には生々しい血がついて居たので、役人たちが、嚴しく責め立てると、行脚僧はとても罪を免れることは出來まいと覺悟して、女と共に彼の家にしのび込んだが、發覺を怖れて女を殺し、井戶の中へ投げ込まうとした拍子に自分も誤つて落ちこんだと自白した。賍品《ぞうひん》[やぶちゃん注:「贓物」(ぞうもつ)におなじ。]と女を殺した刀とは井戶の傍へ置いたけれども、何人が持ち去つたか自分は知らないと說明したので、役人たちはそれを眞實の自白だと思つた。たゞ裁判官の向敏中だけが、賍品と刀の無いのに不審を抱いて、色々に僧を問ひつめると、僧も包み切れずに、何事も囚緣と諦めて無實の罪を背負ひ込んだ旨を告げた。そこて向敏中は部下の役人に意を含めて、眞實の盜賊の行方を搜させたところ、部下のものが、村の茶店に休憩して居ると、老婆が茶を出しながら、この頃捕へられた行脚僧はどうなりましたかと訊ねた。役人が僞つて昨日死刑に處せられたよと答へると老婆は嘆息して、若し本當の賊が出たらどうなりますかときいた。そこで役人は、僧が殺された以上たとひ眞犯人が出てもかまひなしだと告げると、老婆は、それならば申しますが、あの女を殺したのは此村の誰それですよと敎ヘた。役人は忽ちその者を捕へ、行脚僧は放免されたのである。』

 縣井事件では、この物語の趣向は、後の部分に出て來るだけであつて、中心となる事件は全く別の趣向である。

[やぶちゃん注:「棠陰比事」の原文は標題「向相訪賊錢推求奴」(目録は頭の「向相訪賊」)で「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらから次のページにかけてで、本文は僅か二百十二字である。因みに、岩波文庫の本訳版では、後に宋代の鄭克(ていこく)という法学者の評言が附帯しており、そこでは、裁判官はあくまでも「推定無罪」の立場で裁きに向かわねばならないという旨を記している。素晴らしい! また、以下の示される「靑砥藤綱摸稜案」の巻頭を飾る「前集 卷之一」の「縣井司三郞禍(わざはひ)を轉じて福(さひはひ)を得たる事」は国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系第十六卷」(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。但し、これ、第二巻を丸々「縣井の中」「縣井の下」として続けて終わる、これまた、非常に長い作品である。以下の読みはそれを見て附してある。]

 伊勢國鳥羽の湊に、縣井魚太郞《あがたゐなたらう》といふ商人があつて、毎年鰹節や茶や山田の塗折敷《ぬりをしき》などを持つて船で鎌倉に行商し、大小の武家を得意先として𢌞り乍ら、凡そ半年ほど逗留するのが例であつた。彼はその性質が至つて實直で商人に似合はず和漢の學に通じて居たが、少しもその才を誇ることがなかつた。

 ところが魚太郞と同鄕の商人に金剌利平二《かなざし りへいじ》といふ男があつた。この男もやはり、魚太郞と同じく鎌倉の行商に出たが、うはべは濶達に見せて居ても、心の中は非常に吝嗇で、魚太郞の商品よりも高かつたけれども、口先がうまいために商賣は繁昌した。そして魚太郞と同じく和漢の學に通じて居たので、人々は彼の話に釣り込まれ、いつとなく丸めこまれる程であつた。

 あるとき縣井魚太郞と金剌利平二とが同船して鎌倉に行く途中、魚太郞は何となく塞ぎ込んで居たので、利平二がその理由をたづねると、魚太郞の言ふには、實は自分には小太郞といふ男の兒があつたが、先年母の大病の時、佛菩薩に祈願して、母が平癒しますれば、小太郞を出家させますと誓つたところ、幸に母が平癒したので、小太郞が八才のとき寺に遣したが、程なく住持と共に筑紫へ行つてしまつて、今年で三年になるが何の音沙汰もなく、母は先年死んえ、女房は去年女の子を設けたが生れて間もなく死に、その後また女房は姙娠して、今八ケ月であるから、女房のことを思つて氣が勝れないといふのであつた。これを聞いた金剌は大に同情し、實は自分の女房も今八ケ月の身重であるから、思ひは同じである。かうして同じ商賣をして居る以上、いつそ生れる兒同志を許嫁にして親戚の緣を結ばうではないかといひ出したので魚太郞は大に喜んで、その場で親戚となることに決した。

 かくて二人が前後して鎌倉から歸ると、縣井の女房は男の兒を生み、金利の女房は女の兒を生んだので、男の兒を司三郞《つかさぶらう》、女の兒を十六夜《いざよひ》ともけて許嫁とならしめ、兩家はめでたく親威となつた。ところが司三郞、十六夜が七歲のとき、縣井魚太郞は重病にかゝつて、とても恢復の見込が立たなかつたので、金刺利平[やぶちゃん注:ママ。]を枕元に呼んで、鎌倉の得意先を讓り、司三郞のことをくれぐれも賴んで、程なく死亡した。利平二は約束を守つて魚太郞の遺族を親切に待遇し、司三郞に學問を授けたので、十一二歲の頃には司三郞は大ていの書物を讀むほどになつた。

 その頃鎌倉では北條顯時が、金澤なる稱名寺のほとりに文庫を建て、各方面の圖書を蒐集して學問所を開いたので、全國の各地から、多くの學徒が集つて來たが、適當な學頭がなくて困つて居たところ、金刺利平二は商人に似ず學問が勝れて居たので、顯時は利平二を召して、學頭になる氣はないかと話した。利平二は大に喜んでその場で御受けを致し、すぐさま鳥羽へ歸つて事情を話し、女房と十六夜と、老僕の繁市《しげいち》と、その娘の弱竹《わかたけ》とを連れて鎌倉へ參り、金澤文庫のほとりに大きな邸宅をかまへ、若黨十人あまりを召使つて金刺圖書の名を貰ひ學顛としての威嚴を示した。はじめ人々は、彼が商人であることを知つてあまり寄りつかなかつたが、上流の人々にぼつぼつ金を貸したりしたので、後には執權時宗にも見參し得る程の勢力となつた。

 これに引きかへ、縣井司三郞とその母は、金刺に去られてから、何の音沙汰もなかつたので、二人は苧《そ》を績《つむ》いだり、磯網を編んだりしてその日その日を貧しく生活せねばならなかつた。司三郞は母に孝行する傍、學問に餘念なかつたので、年を經るに從つて、金刺圖書などよりも遙かに上達することが出來たのである。かくて、司三郞が十八歲の時、母は我が子り將來を憂ひ、ある日司三郞に向つて、貯へた十貫文の金を渡し、鎌倉へ行つて金刺に身を任すやう勸めたので、司三郞は母と共に、鎌倉へ參り、一先づ旅宿に落ついて、翌日司三郞一人で、金刺圖書を訪問した。

 ところが圖書は司三郞の姿を見てあまり喜ぶ樣子もなく、今日は忙しいから、追て沁汰する迄宿に居るがよからうと告げて、すげなく歸してしまつた。圖書の妻はその時屛風の蔭から司三郞の姿を見ると、男振りもよく、動作も立派なので、司三郞が歸つてから、何故もつと親切にしてやらなかつたかと詰《なじ》ると、圖書は、娘十六夜を北條殿の一族のものへ與へたい願であるとて、却つて妻を叱るのであつた。

 一方司三郞は旅宿へ歸つて、圖書の不機嫌てあつたことを母に告げたが、母は圖書の内儀の心を信じて、まだ四五貫文の金が殘つて居るから、金刺圖書から呼出しのある迄待つやうにすゝめた。ところが三十日經つても圖書からは使ひが來ないので、司三郞は不安に感じ、每日、金澤文庫のほとりを徘徊して、學徒たちの講書の聲をきいて心を慰めて居た。

 ある日の夕方、彼が金刺の第宅《やしき》[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ九行目)に従った。国書刊行会版では『ていたく』とする。]の後ろを通ると、丁度、その時、十六夜は腰元の弱竹と二人で庭に出て居たが、弱竹に敎へられて、司三郞の姿を見て、大いに顏をあからめ、司三郞もその時十六夜の姿に心を奪はれてしまつた。で、その後司三郞は毎日金剌の第宅の裏をとほつて居たが、そのうちに弱竹の媒介で、ある夜人目をしのんで、十六夜の許に一夜を明し、あくる朝、別れ際に十六夜は、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》と、白銀《しろがね》の指環[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ後ろから二行目)は「ゆびのわ」だが、梗概だから「ゆびわ」でいいだろう。]を、生活の助けにもといつて司三郞に與へた。司三郞は、今後、每晚訪ねて來ることを約東して歸つたが、どうした譯か、十日ばかり姿を見せなかつた。

 話變つて、金剌圖書の第宅から百歩ぱかり東の坊に、一軒の質店があつた。主人は子母家利三郞《しぼやりくらう》と呼れて、裕福に暮して居たが、司三郞と十六夜とが會合してから丁度十日過ぎた夜、件の質店へ一人の行脚僧がたづねて來て、一夜の宿を求めた。小僧たちは夜も大分更けたことであるから、宿を斷ると、僧はせめて軒下でも貸して頂きたいと言つて其處にしやがんで朝を待つた。するとその夜二人の大男が質店に盜みにはひつたので、これを見た僧は大に驚いて、自分に嫌疑のかゝることを怖れ、あたふた軒端を逃げ出したが、あまり急いで野中の古井戶に落ちこんでしまつた。(この邊、棠陰比事の趣向である。)

 一方、金刺の裏庭では腰元の弱竹が、今夜こそは司三郞が來るかと、夜更まで待つて居たところ、垣の外に跫音がしたので、さては司三郞であろうと思つて呼びかけると、意外にも一人の大男がぬつとはひつて來た。弱竹は大に驚いて『盜賊《ぬすびと》、盜賊』[やぶちゃん注:原文では「賊あり、賊あり」(右ページ一行目)と叫んでいるが、その後(二行目以下に複数あり)で「盜賊」が出、それにかく読みが振られているので、それを採用した。]と叫ぶと、賊は刀を拔いて弱竹を切り殺し、次で十六夜の室にはひつて、衣栢調度を手當り次第に奪つて立ち去つた。

 やがて金刺圖書の家では大騷動となり、老僕の繁市は娘弱竹の死骸を抱いて歎き悲しみ、人々は盜賊の行方を搜したが、もとより知れる筈はなかつた。あくる日弱竹の葬式をすましてから、圖書は繁市に向ひ、自分はどうも司三郞が怪しいと思ふから、娘の菩提のためにも、司三郞の樣子をさぐつて見よと告げるのであつた。翌日繁市が司三郞の旅宿を窺はうと思つて出かけると、道て與野四郞《よのしらう》といふ小間物賣に出逢つたが、與野四郞が、頭に玳瑁の笄をさし、左手に銀の指輪をさして居たのに不審を抱き、かねて十六夜のものだと知つて居たので、繁市は與野四郞に向つて、それをどうして手に入れたかと訊ねた。すると與野四郞は、昨日ある旅宿の前をとほると、中から若者が出て來て之を買つてくれといつたから買つたのだと告げた。それを聞いた繁市はその若者が司三郞であることを知り、與野四郞を巡れて來て、圖書にその委細を告げた。

 金刺圖書目の前に十六夜の所持品を見て、弱竹を殺したのは司三郞にちがひないと思ひ、妻が諫めるのをもきかずに、鎌倉へ行つて、主の顯時に事の次第を告げ、文注所へ訴ヘたのである。

 靑砥藤綱は訴への文書を讀んで、圖書と與野四郞とに事情をたづね、彼等を退《のか》せてから、直ちに人を遣して司三郞の逮捕に向はしめた。かやうなこととは夢にも知らず、司三郞は十日前から母親が急病に罹つたので、晝夜その枕元に附きつて居たが、そのうちに旅費が盡たので、昨日、通りかゝつた小間物屋に、十六夜から貰つた笄と指環を賣り、今日その金で藥を買ひに出かけると、途中で捕手のために縛《から》められてしまつた。

 司三郞が文注所へ引張られて來ると同時に質屋利九郞が先頭になつて、一人の法師に繩をかけ、この法師は先夜私の家に泊めてくれと申して來ましたが、斷つたところ、その夜家内へしのび入つて、多數の品を持ち去り、行方不明になつて居ましたが、天罰を免れることが出來ず、三四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]彼方の古井戶の中に落ちて居ましたから、引き連れて參りましたと訴へ出た。

 藤綱は先づ司三郞を召し寄せて訊問し、この僧は多分汝の同類であろうときめつけた。そこで司三郞は自分の生立《おひたち》を始め、金刺圖書との關係や、笄と指環は十六夜から貰つたことなどを述べた。藤綱は之をきいて打ち笑ひ、然らばどうして十六夜に面會したかとつき込むと、司三郞ははたと返答に行き詰つた。

 そこて藤綱は一方の法師に向ひ、その身許をたづねると、法師がいふには、自分は筑前のもので景空《けいくう》と申しますが、此度《このたび》師父に別れて東國に行脚しましたところ、路銀がなくなつたため惡心を起し、質屋をはじめ、金剌の家にしのび入りましたが、その時女に見つけられましたので一刀のもとに切い殺しました。ところが逃げのびる途中で誤りて井戶に落ち、かうして捕へられましたが、すべて私一人の仕事で、こゝに居る若人とは關係のないことですから、どうかこの若人をゆるしてやつてくれと、意外な自白をした。

 これをきいた藤綱はにこにこと笑つて、然らばその賍品[やぶちゃん注:原本では「ぬすめるもの」と読んでいるが、ここは梗概だから、前の「ぞうひん」でよかろう。]と刀とは何處にあるかとたづねた。この質問に僧ははたと行詰つたらしかつたが、暫くしてから言ふには逃げ出して井戶へ落ちたときに落してしまつたと答へた。藤綱は利九郞たちに向つて、井戶の近所に何か落ちては居なかつたかときくと、この頭陀袋と菅笠一枚きりでしたと答へた。藤綱はその二つの品を手に取つて暫らく檢べて居たが、やがて打ちうなづいて利九郞等を一先づ退かせた。

 あくる日藤綱は司三郞を召し出して、十六夜との關係について詰問したので、司三郞も今は包み切れずに密通の次第を物語つた。そこで藤綱は金刺圖書を呼ぴ出して十六夜と司三郞との關係を告げたが、圖書は大に怒つて娘は決してそんな淫奔《いんぽん》なものではないと言ひ張つた。そこで藤綱はたうとう十六夜を呼び出して訊問したところ、十六夜は非常に恥かしい思ひをしながらも、事實のまゝを申述ベた。圖書はこれを聞いて、事の意外に驚いたが、如何ともする術なくたゞ、畏《かしこま》つて居るより外はなかつた。

 これで司三郞に罪のないことはわかつたが、法師の景空の自白が信じ難かつたので、藤綱は圖書父娘を鎌倉にとゞめ、司三郞と景空を文注所に居らしめ、その間に、雜色《ざふしき》二人に計略を授けて金澤へ遣して眞犯人を捜させた。二人の雜色がある茶屋に憩ふと、茶屋の老婆は、先日捕へられた二人の犯人はどうしましたかとたづねた。(この邊棠陰比事の趣向である。)二人はこゝぞと思つて、二人とも由井濱《ゆゐのはま》[やぶちゃん注:原文(右ページ六行目)に従った。]で首を刎ねられ左と告げると、老婆はしきりに念佛を唱へたので、二人がその理由をたづねると老婆は眞犯人が外にある旨を告げた。そこで二人が僞つて、もはや眞犯人の名を告げても罪にはならぬと語ると、老婆は、我來八《がらはち》と與東太《よとうだ》といふ無賴漢の仕業だらうと言つた。そこで、忽ちその二人を捕へて吟味したところ、彼等は包み切れずに何もかも白狀して、賍品を提供したのである。

 これでもう殘る疑問は景空の虛僞の自白であるが、それは藤綱が景空の頭陀袋の中にあつた度帖《どてふ》[やぶちゃん注:「度牒」が正しい。「度」は「得度」の意。寺や師僧が得度した僧に書き与える身分証明書。]を見るに及んではつきり解決された。卽ちこの僧こそは、司三郞の實兄で、祖母の病氣平癒と共に出家し、後筑紫へ行つた小太郞てあつた。近ごろ夢見が惡かつたので師僧に乞うて郡里へ歸つて見ると、母と弟とは鎌倉へ移つたとの事で、又もや遙々たづねて來ると、圖らずも文注所で弟の司三郞に逢つたので、それといはずに弟を助けるため、無實の罪を自白したのである。

 かくて事件はめてたく落着し、景空は法華堂[やぶちゃん注:現在の源頼朝の墓と称するものの階段下、左手にあった頼朝の本当の廟所のこと。]の別當に補せられ、司三郞は金刺圖書に代つて金澤文庫の學頭に任ぜられ、十六夜と結婚することになり、司三郞の母はうれしさのあまり、日ならずして、大病も癒えた。

 縣井事件の紹介が意外に長くなつたけれど、讀者はこれによつて、棠陰比事の短い物語を骨子として曲亭馬琴が如何に巧妙に、その筋を立てたかを知られたであろうと思ふ。摸稜案は、數多い彼の作物中で、さほど有名なものではないが、物語作者としての馬琴の腕は、こゝにも十分に認め得られると思ふ。

 

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 染木正信

 

   ○染木正信

御天守番飯島平次郞話。「予が相番に、染木某が祖先は、韓人にして、李氏なり。豐太闇の時に、童にて、姊とゝもに、片桐市正にいけどられて、皇國に來れり。市正、此二人に唐山の童子の衣服をきせて、臺にのせ、天樹院君にまゐらせたり。姊は成長して『早尾』といふ。弟は老女『染木』が養子になりて、染木八右衞門正信といひて、兩人ともに、生涯、つかへ奉り、その子を利右衞門正美といひて、是も、おなじ君につかへて、添番をつとめたり。然るに、實子なくて、血脈は絕えたりとぞ。家の傳ふる所は、族稱・本氏ともに『染木』なり。」と、いヘり。

  文政八三朔          輪  池

 

[やぶちゃん注:「染木正信」(そめきまさのぶ 生没年未詳)は織豊から江戸前期の武士。で朝鮮の人。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の際、片桐且元(かつもと 弘治二(一五五六)年~慶長二〇(一六一五)年:豊臣家直参の家臣で豊臣姓を許され、「関ヶ原の戦い」以降は家老として豊臣秀頼に仕えたが、「方広寺鐘銘事件」で大坂城を退出して徳川方に転じ、大和国竜田藩初代藩主となった。官位は従五位下・市正(ひがしのいちのつかさ)に捕らえられ、姉とともに日本に連行された。豊臣秀頼の妻千姫(号・天樹院の添番を、生涯、つとめた。本姓は李。通称は八右衛門(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「御天守番」は元来は江戸城天守を守衛する職名。当該ウィキによれば、『その創置は寛永』一四(一六三七)『年以前であるということ以外わからない。江戸城五重の天守は』、明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した「明暦の大火」で『焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた』ものの、『その職のみは存置された。人員は』四十『名、これを』四『組に分けた』。百『俵高』五『人扶持で躑躅間詰。天守下番』二十一『人とともに天守番頭』四『人が』、『それぞれ』一『組を支配した』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 山王靈聖

 

   ○山王靈聖       輪 池 堂

駱駝の故事、諸家の纂むる[やぶちゃん注:「まとむる」。]ところ、各、「網羅せり」と見ゆるに、「山王靈聖」とあがめて拜せし事と、その糞を線[やぶちゃん注:「すぢ」か。]にぬきて、頸にかけしことは、いまだ、いはざることにや。よりてこゝに錄す。「能改齋漫錄」、宋吳曾云、『李昉言、建隆初。王師下湖南。澧・湖[やぶちゃん注:同書の複数のデータを見るに、地名であるが、複数の州名で「澧・朗」が正しい。訓読では訂した。]之民。素不ㇾ識駱駝。隨ㇾ軍負荷。頗有此畜。村落婦女見而驚異。競來觀ㇾ之。有拜而祝者。曰山王靈聖。願賜福祐。及ㇾ見屈ㇾ膝而促。又走避ㇾ之。曰、卑下小人。不ㇾ勞山王返拜。軍士見者無ㇾ不大噱。又拾其所ㇾ遺之糞。以ㇾ線穿聯。戴子[やぶちゃん注:以下のリンク先では『於』。「于」の誤記であろう。]男女項頸之下。用禳兵疫之氣。南中相傳以爲突。』。[やぶちゃん注:底本には「突」に右編者注して『笑カ』とある。漢籍リポジトリ」の「能改齋漫錄」の巻十五の「駱駝」を見たところ、確かに「笑」であることが確認出来た。]

 

[やぶちゃん注:「駱駝」西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、

ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries

と、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、

フタコブラクダ Camelus ferus

の二種のみが現生種。ここは後者であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)」を見られたいが、糞のネックレスの話は、そこには載らない。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八九年平凡社刊)の「ラクダ」を参考に調べると、本邦への渡来の現存する初見は「日本書紀」で、巻第二十二の推古天皇紀に、推古天皇七(五九九)年秋九月の条に、「百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。」とあり、これが恐らくは初渡来と考えてよく、その後の推古天皇二六(六一八)年八月にも高麗の貢献品に『駱駝一疋』と見え、更に、巻第二十六の斉明天皇紀の斉明天皇三(六五七)年に西海使が百済より帰還した際、「獻駱駝一箇・驢二箇。」と見え、更に巻第二十九の天武天皇紀の下に、天武天皇八年の条に、新羅からの貢献品として『調物、金・銀・鉄・鼎。錦・絹・布。皮。馬。狗。騾。駱駝之類十餘種』とあって、上代には駱駝は貢献品として人気があったことが窺える。しかし、その後、一千百年余りの間は記録が全くなく、江戸時代の享和三(一八〇三)年になって、アメリカの船が交易を求めてきた船中にフタコブラクダ一頭が乗っていたものの、幕府は追い返しており、上陸さえしていないようである。しかし、この四年前の文政四(一八二一)年六月、オランダ船が長崎に雌雄一対二頭のヒトコブラクダを齎した(ペルシア産であったという)。この二頭は当時の出島の商館長ブロムホフが入手し、将軍徳川家斉に献上しようとしたが、家斉は断った。ブロムホフは、そこで、この二頭を馴染みの遊女糸萩に贈り物として与えたが、彼は糸萩と別れ、文政八(一八二三)年に帰国してしまった。この間に、糸萩は土地の者に身請けされ、駱駝の処置に困って、早々に香具師(やし)に売り飛ばしていた。かくして二頭は見世物とされて、九州・四国へ哀れな道行と相成ってしまう。文政六年四月に大坂、八月に京都、その翌七年八月には江戸両国・広小路と各地で興行に引き廻されたのであった。特に江戸では大評判となり、翌八年春まで引きも切らない大盛況を呈したといい、遊郭では「ラクダ節」なる小唄が流行り、駱駝に因んだ錦絵や玩具まで氾濫した。また、この二頭が非常に仲が良かったことから、上方では、街中を歩く二人連れを「ラクダ」と呼んで囃したともいう。この二頭の駱駝は、その後、東国から越前・加賀・尾張名古屋を回って、再び大坂で興行した後、またしても北国を巡るうちに、寒さのために亡くなったと伝えられるが、詳しい事実は判らないとする(高島春雄「動物渡来物語」(昭和三〇(一九五五)年学風書院刊を原拠とするとある)。荒俣氏も最後に悲哀の感懐を記されているが、まさにこれ、……灼熱のシルク・ロードならぬ……吹雪の越路(こしじ)の道行……そこに命を絶った二人は、これ、いかにも、哀れを誘う…………

「能改齋漫錄」南宋の官人で作家の吳曾(生没年不詳。七十三歳で病死)が一一六二年に板行した書で、見聞した史事や詩文・曲・名物・社会制度などを記録したもので、当時の知られた作家の逸詩・逸文も記し、唐宋両代の文学史的资料として第一級の物とされる。古い医処方や臨床例などの資料としても価値があるという。なお、彼は民衆を救うことを旨とした名官吏であったらしい。

 以下、漢文部を我流で訓読する。一部は返り点に従わなかった。

   *

 宋の吳曾、云はく、

『李昉(りばう)言はく、

「建隆の初め、王師、湖南に下る。澧(れい)・朗(らう)の民、素より、駱駝を識らず。軍に隨ひて、荷を負はせ、頗る、此の畜、有り[やぶちゃん注:多くの駱駝を軍事物資の運搬の役用に従軍させていたという意であろう。]。村落の婦女、見て、驚異し、競ひ來つて、之れを觀る。拜して祝ふ者、有りて、曰はく、

「山王靈聖(さんわうれいせい)たり。願はくは、福祐(ふくいう)を賜へ。」

とて、見るに及びて、膝を屈して促(うなが)すも、又、走りて、之れを避く。曰はく、

「卑下の小人(しやうじん)なり。山王が返拜をば、勞(いた)はらず。」

とて、軍士の見る者、大ひに噱(わら)はざるは無し。

 又、其の遺(のこ)せる所の糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね、男女、項頸(うなじ)の下に戴けり。用ふるに、『兵・疫の氣を禳(はら)ふ』となり。

 南中、相ひ傳ふ、

『以つて笑ひと爲(す)。』

と。

   *

「李昉」(九二五年~九九六年)は宋の学者で官人。「太平広記」や「太平御覧」といった膨大な類書(百科事典)の編集者の一人として知られる。「建隆」は北宋の太祖趙匡胤(ちょう きょういん)の治世、宋朝最初に用いられた元号で九六〇年から九六三年まで。「王師」皇帝直属の軍隊。「澧」「朗」は湖南にある二州の名で、前者は岳州府に、後者は常徳府に属したが、二州で武陵の桃源郷のあるとされた所として知られた。現在の湖南省常徳市桃源県(グーグル・マップ・データ)がある附近。「山王靈聖」不詳。土俗の考えた神の使者ということであろう。中国の幻獣的神像には駱駝をハイブリッドしたものがあるようである。「福祐」幸福や裕福。「糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね」ラクダの糞は黒い球状を成すので、それを紐で貫いて、数珠のようにして首に掛けたものと思われる。「兵・疫の氣」戦乱や疫病を起こす悪しき気の意であろう。]

甲子夜話續編 卷三 (「続」3―15 高松侯の臣に沼田逸平次と云あり……)

 

[やぶちゃん注:本話は、先程公開した『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高松邸中厩失火之事』(筑後国柳河藩士西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年:号は一甫(いっぽ))の発表)を調べるうちに、ここに同じ内容を記したものがあることを知ったので、遙かなフライングであるが、電子化することとした。なお、本巻は目録が本文と異なるため、標題を示すことが出来ないので、以上のような標題とした。リンク先で附した注で判ることは繰り返さないので、そちらを、まずは読まれたい。]

 

高松侯の臣に沼田逸平次と云あり。馬乘を役として、傍ら好事の人なり。古昔の圖書若干を藏して、己の著書も亦、有り。近年、侯邸の厩より、火を失して燒亡せしとき、初め、火の起りし折、馬添の者、狼狽して爲ん所を知らず。沼田、其子某と共に進で、炎中に入り、侯父子の乘馬に、皆、具を調へ、焰々を脫れ出、侯父子を騎せしめ、邸を立退しむ。因て、侯、危難をまぬかる。沼田、思へらく、『この如き急火、貯る所の物一も焚を免かれじ。』と。途中より、還て、火を視るに、刀箱、烟中に在て、火、既に遍く、木・鐵、皆、燃へ、その間に掛幅の如きもの、有り。忽、思ひ出すは、『是、侯家、常に敬藏する所の神祖の御畫眞歟。』と。廼、火中より引出すに、燒痕、なし。開て見れば、尊容、嚴然として故の如し。人皆、駭かざる者、なかりし、とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「爲ん所」「なさんところ」。

「進で」「すすんで」。

「立退しむ」「たちのかしむ」。

「貯る」「をさむる」。

「焚」「やくる」。

「刀箱」藩重宝の名刀を入れた箱であろう。

「神祖の御畫眞」神祖徳川家康公の御真影。「御畫眞」の読みは不明。「おんぐわしん」と一応、読んでおく。

「廼」「すなはち」。

「開て」「ひらきて」。

「駭かざる」「おどろかざる」。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高松邸中厩失火之事

 

[やぶちゃん注:長くはないが、全体にベタで続いている箇所が多く、だらだらして読み難いので、段落を成形した。太字は底本では傍点「ヽ」。]

    ○高松邸中厩失火之事 松羅舘記

 文化八年乙酉[やぶちゃん注:おかしい。文化八年は辛未である。文化八年が正しいなら一八一一年だが、最後に「文政乙酉」とあるから、元号の誤りである。文政八年乙酉は一八二五年。]二月廿三日の夜、小石川御門内なる高松の邸の厩より、失火せしよし、聞えしかば、沼田は【逸平次[やぶちゃん注:「いつぺいじ(いっぺいじ)」と読んでおく。]といふ馬役なり。】いかに燬[やぶちゃん注:「き」。火災。]をのがれし歟、

『書籍・卷物などは、いかにしけん。』

と思ひつゝ、ひと日、二日と過ごす程に、あちこちより、風說、聞えて、

「馬、あまた、燒殺せし。」

といふに、うちもおかれず、物なれたる人を遣して、その安否を問はせしに、家の内のものどもは、恙もあらず候へども、さきの日、

「見よ。」

とて、

「寄せられし鑣[やぶちゃん注:「くつわ」或いは「くつばみ」。]は、皆、燒けたり。」

とて、燒け殘りたる卷物の紙に包みて、返してけり。

 抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、

「わが此鑣は、古書に載せたることもありや、よく見て、考へ給ひね。」

とて、沼田に預けおきしなり。しれる人に問はまほしさに、今、圖する事、左の如し。

 木村默老云、

[やぶちゃん注:以下は、図の前までは、底本では全体が一字下げ。]

此銜[やぶちゃん注:「はみ」。]二つは、小子も以前藏弃[やぶちゃん注:「ざうき」。整理せずに所蔵していた。]せり。師傳にては、朝鮮國の調馬轡なりと云ふ。甞て乘馬にかけ試みしに、用ひ樣によりて、大に益あり。存するなり。

「唐山馬櫛」と云ふものも、疑ふらくは、非唐山之物歟。蘭人ケイヅルなる者の書ける書册中に、此物、見えたり。

全體、此沼田逸平次、國勝手へ申付たる節、在國にて委敷儀は不知ども、此書面とは相違のある樣に存ずるなり。

 

Kutuwakusi

 

[やぶちゃん注:図のキャプション(反時計回りで)。

この大輪を上にしたること、「月山のハミ」と云ひ、下にしたるを、「山月のハミ」といふとぞ。

櫛ノ「ウラ」。

鑣は此外にふたつあり、今、畧す。

唐山馬櫛。以鉄造之。

 なお、以下の「いひおこせり。」までは底本では行頭からで、字下げなし。]

 

 この時、沼田が口狀に、「和君も、はやく、柳川へかへり給へ。長居は、實に、おそれあり。われら、けふまで、江戶にあらずば、この災をのがるべきに。」と、かごとがましくいひおこせけり。

[やぶちゃん注:以下「いへるなり。」までは底本では一字下げ。]

 沼田は、おとゝし、家老の處分にて、

「國勝手たるべし。」

といひつけられしに、目黑にまします老君の聞こしめして、

「今、故もなく、逸平次を國勝手たらしめて、子どもが馬術の師範には、誰をかする。」

と問はせたまふに、老臣等は、閉口して、今に何の沙汰もなく、そがまゝ、江戶におかるゝなり。

 予も去歲[やぶちゃん注:「いんぬるとし」。]の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では「怪有なる事になん。」までは、行頭からべったり。]

 風說、とかくに定かならねば、

『みづから安否を問はん。』

と思ひて、其日の黃昏に、沼田がり、おとづれしに、宿所は、なほも、上屋敷にて、假住居なる玄關には、冑の鉢・鐙・挾箱の鐵物・藥鑵の類の燒けたるを、處せきまで、積みかさねたり。かくて沼田が子息源太郞、出で迎へて、

「かゝる仕合、賢察を給へかし。おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ。」

といふ。

 嘆息の外、なかりけり。

 そのとき、あるじ逸平次は、麻上下の下のみを着て、いそがはしく立ちいでつゝ、

「見給ふごとく、かゝる仕合、今朝しも、使を給はりしに、今、又、みづから訪はせ給ふ。おんこゝろばへ、淺からず。いとよろこばしく候。

といふ。

 物のいひざま、眼ざしさへ、怒りをふくめるやうに見えたり。

 逸平次、又、いふやう、

「きのふ、『見よ』とて、つかはされたる鑣も、殿[やぶちゃん注:「しんがり」。]に火中に入りぬ。今さらに面ぶせなり。殊さら、遺留物の唐鞍なども、灰になりて候はん。」

といふ。

「そは、ものゝ屑にも、あらじ。彼書籍・卷物なんどは、燒やしたる。」

と尋ねしに、

「さればとよ、非常の時の爲にとて、長櫃にいれたりしがまゝ、燒けて殘るものなり。只、これらのみならず、十二疋有りける馬を、馬は十疋、人、三人まで、燒殺して候なり。きのふ、高松へ飛脚を立たせて、一くだりは申しつかはし、けふ又、つばらに云々と申しつかはすべき爲に、飛脚の用意はしたれども、下役のものどもを、日に日によびて、問ひ質せども、そのたび每に、いふよし、たがひて、書きとゞむべくも、あらず。ほどほど、當惑至極せり。」

と、詞、せはしく、物がたれり。

「そは、やすからぬことなりけり。はや、その事を果し給へ。又こそ、來らめ。」

と別れを告げて、そがまゝに、まかりぬ。

 猶、問はまほしき事はあれども、さる、いとまある時ならねば、思ひながらに、默止せり。

 孔子の馬を問ひ給はざりしは、只、人畜輕重のわいだめ[やぶちゃん注:「辨別・分別」で「わきだめ」の音変化。古くは「わいため」とも。「区別・差別・けじめ」の意。]にこそあらめ。

 いまの諸侯の厩には、馬一疋に、或は二人、或は一人、隷かぬはなし[やぶちゃん注:「つかぬはなし」。]。そが爲に奉公せんもの、預かられたる馬を殺して、わが身に恙なければとて、人には、面を、むけがたかるべし。

 世の風說を傳へ聞くに、

「彼死したる三人のうちに、一人は馬の轡づらにすがりつゝ死してありし。」

といへり。これらは特に賞すべし。

 

 予、甞て馬を好む癖あり。その馬を預けおくものを「馬持」といふ。俗には「別當」とよびなせり。されば、この別當には、あだし中間・小ものより、一しほに心をつけて、折々、よびて、酒などのませ、馬の事を問ひなどして、

「手いれを等閑になせそ。」

といふ。則、これ、子につけたる乳母にひとしく、子を愛する情に、近し。そを、十疋まで燒き殺したる沼田が意中、いかにぞや。いとも怪有なる事になん。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 此頃、黑澤竹所より、よせられし簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]のはし書に、

「この比、高松藩失火之節、厩より出候事故、沼田逸平次、誠に丸燒、一向、諸道具等、持出し侯隙、無之候由、私も一兩度相尋申候、氣之毒成事仕候。殊に私は、貸置候書籍燒失、是非なき事なり。あなたよりも、貴藏の書、參り居候よし、如何候哉。多分、むづかしく候半と奉存候。」下略

 文政乙酉春三月朔       松蘿山人

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、会員の一人「松蘿館」西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年:号は一甫(いっぽ))は筑後国柳河藩士。幼少より江戸で生活し、定府藩士として、留守居役・小姓頭格用人などを勤めた。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に、後の「兎園会」にも参加したものの、この文政八(一八二五)年の翌月四月、驕奢遊蕩を理由としてか、「風聞宜しからず」によって、幕府から国元筑紫(柳河藩)への国元蟄居の譴責を受け、江戸を退去させられている。天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲して終わった(ここでは当該ウィキに拠った)。冒頭の大槻氏の序の解説を参照。

「小石川御門内なる高松の邸」この讃岐高松藩上屋敷でこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「沼田」「逸平次」讃岐高松藩大坪流馬術師沼田美備(びび)。この人物、かなり知られた馬術家で、馬術書「騎格順道」であるとか、地獄極楽を舞台に馬術を主題とした滑稽な読本「冥冥騎談」などの著作がある。後者は「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」には詳しい奇想天外な内容の梗概が載る。また、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでは、彼の肖像画さえ見られる。絵師は栗原信充で、左手に『沼田逸平次美備【嘉永元年七月廿二日【七十八】】』とある。

「默老翁」既出既注だが、再掲しておく。木村黙老(安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。砂糖為替法の施行や塩田開発などで藩財政を再建したことで知られる。馬琴と非常に親しくした友人で、馬琴との交際は江戸勤番中の、天宝年間から始まり、江戸詰が終わって高松に帰ってからも親交が続いた。蔵書家として知られ、浄瑠璃・歌舞伎・読本・合巻などの戯作に精通し、自身も大著の随筆「聞まゝ記」、戯作者の小伝「戲作者考補遺」などを書いている(以上は三宅宏幸氏の論文「木村黙老の蔵書目録(一) ―多和文庫蔵『高松家老臣木村亘所蔵書籍目録残欠』(上)」(愛知県立大学『説林』愛知県立大学国文学会編 ・二〇一八年三月)に拠った。PDFでダウン・ロード可能)。

「師傳」黙老の師匠の教え。

「唐山馬櫛」「たうざんばしつ」或いは「たうざんのむまぐし」か。「唐山」は中国の意。

「蘭人ケイヅルなる者の書ける書册」ハンス・ユルゲン・ケイズル(Hans Jurgen Keijser 一六九七年~一七三五年)は江戸中期に来日したオランダ人馬術家。本邦で最初に西洋式の騎法を公開演技した。享保一一(一七二六)年に来日、同年三月一日には将軍徳川吉宗の乗馬上覧に浴し、同十四年・十五年・二十年と四回に渡って実演した。「有徳院殿御実紀」には「幕府はケイズルを江戸に呼びよせて遊覧させ、また、斎藤盛安や馬役富田又左衛門らの幕士にも学ばせた」と記されている。約十年間の長きに亙って幕府と関係を持ち、オランダの馬術の紹介に努めた労として、彼のために江戸大川で花火が催されてもいる(ここまでは生年を除いて「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。講談社「日本人名大辞典」では上記の生年を明記し、来日した翌年には吉宗に洋馬を献上し、その後もたびたび江戸で洋式馬術を披露する一方、馬の飼養法・病馬治療法なども斎藤盛安らに教授したが、これを今村英生(えいせい)が「西説伯楽必携」として刊行したとあり、黙老の見たのも、この本であろう。なお、ケイズルは一七三五年十二月五日、日本からの帰国途上の船中で殺された(事件不明)とある。

「目黑にまします老君」高松藩江戸下屋敷は、現在の国立科学博物館附属自然教育園(旧白金御料地)にあった。「老君」は第八代藩主松平頼儀(よりのり 安永四(一七七五)年~文政一二(一八二九)年)は文政四(一八二一)年に婿養子頼恕(よりひろ:水戸藩第七代藩主徳川治紀(はるとし)の次男)に藩主を譲って、隠居していた。

「予も去歲の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり」これは発表者西原好和が、幕府からの譴責を受けて国元へ退去を命ぜられている事実を隠して、既に国元へ帰ることになっていたのだが、ちょっとした訳があって、遅れていたのを、来月に帰藩することに決めたものであると、誤魔化しているように感ぜられるが、如何?

「おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ」実際には三人と十頭が焼死しているわけだが、その事実を幕府に伝えれば、出火・消火・救助の管理が全く行われなかったとして、かなり重い処罰が担当者や藩に下されるためであることは言うまでもない。

「面ぶせ」「面伏(おもてぶ)せ」。恥ずかしくて顔を伏せるほどであること。不名誉。「おもぶせ」とも読む。「面目ない」に同じ。

「孔子の馬を問ひ給はざりし」「論語」の「郷党篇第十」の以下。

   *

廄焚。子退朝曰、「傷人乎。」不問馬。

(廄(うまや)焚(や)けたり。子、朝(てう)より退(しりぞ)きて曰はく、「人を傷(そこな)へるか。」と。馬を問はず。)

   *

「黑澤竹所」西原の知人らしいが、不詳。]

2021/08/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 安宅丸御船修造之節の漆の事

 

   ○安宅丸御船修造之節の漆の事

武州草加宿百姓大岡八郞右衞門といふ者、町奉行所より御差紙にて、御呼出し有之候。其趣。

「むかし、『安宅丸』御船出來之節、右、大岡先祖、此御船を塗りたるよし。其節の漆調合之法、今、以、書留有之哉。」と御尋なり。然るに、今、八郞右衞門事、「今は百姓なれば、一向、右樣之書物など、有無とも辨へず。いづれ相尋候上にて、御請可申上。」とて、夫より、家内に昔より持ち傳へたる簞笥等、吟味したるに、其中より、右「安宅丸漆塗之法書」等、其外、右に付きたる書物共、出でたれば、大によろこび、早速、上へ差し出だしたり。右書物にて考ふれば、平日、家内にて遣ふ、給仕盆三枚、硯箱壱つ、硯ふた一面とも、昔の漆のあまりにて、ぬりたるものゝよし、則、此三品をも差し出だしたれば、給仕盆一枚、とめおかれ、「殘の品は、隨分、大切に所持いたし候樣に。」と、被仰渡て下しおかれしとなり。

  此大岡氏は、本町藥店小西九郞兵衞の内緣あるものゝよし。

  右、小西かたにつとめたるものゝ話にて、これも文化子年の事なり【文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし。】[やぶちゃん注:頭書。]

   文政八三月朔   文 寶 亭 誌

 

[やぶちゃん注:「安宅丸」(あたけまる)は冒頭の目録で注した。但し、これは安宅丸を修理するためではない。安宅丸は天和二(一六八二)年に幕府によって解体されているからである。では、何のためか? 或いは、安宅丸なき後、幕府が将軍の御座船として幕末まで保有し続けた関船(中型軍用船)「天地丸」(てんちまる:寛永七(一六三〇)年六月に時の将軍徳川家光により試乗が行われた)の修理に際して、特定の箇所の修繕の参考にする必要があったのではなかったろうか?

「草加宿」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「本町」(ほんちやう)で旧日本橋本町か。現在の中央区日本橋本町附近

「文化は元年と十三年と子年ふたつあり」文化元年甲子(一八〇四年)に始まるが、文化十五年戊寅(一八一八年)まであるので、文化十三年丙子(一八一六年)がある。]

芥川龍之介書簡抄120 / 大正一四(一九二四)年(一) 三通 「また立ちかへる水無月の」の初出

 

大正一四(一九二四)年二月五日・田端発信・香取先生 侍史・龍之介

 

鴨ヲ難有ウ存ジマス

   たてまつる蕪の鮓は日をへなばあぶらやうかむただに食したまヘ

    二月五日       龍 之 介

   香 取 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介は満三十三歳になった。]

 

 

大正一一四(一九二四)年二月十四日・田端発信・與謝野晶子宛

 

冠省先達は御本をありがたうございました。病中床の上でゆつくり拜見しました。あの連作のお歌は地震のならば地震の、溫泉のならば溫泉のと言ふやうに別丁を一頁づつ入れて頂くと讀む方で大へん助かりますが如何ですか。それから假名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました。但し小生のは要するに啖呵を切つたやうなものですが。この手紙と同封して旋頭歌を少々御覽に入れます。御採用下さるのならば明星におのせ下さい。落第ならば御返送下さつても結構です。小生自身には大抵落第してゐる歌ですから。右とりあへず當用のみ 頓首

    二月十四日      芥川龍之介

   與謝野晶子樣

 

[やぶちゃん注:「御本」この年の一月十日にアルスから発行された與謝野晶子の第二十歌集「瑠璃光」。

「小生も改造に(三月の)惡口を書きました」芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」この翌月の三月一日発行の雑誌『改造』に発表された。私は彼の義憤に完全に賛同するものである。私はサイト版で、この「文部省の假名遣改定案について」の初出形を公開しているので、是非、読まれたい。

「旋頭歌」五・七・七・五・七・七の六句形式の歌で、「片歌」を繰り返した形である。上代に多く、記紀歌謡に見られ、「万葉集」にも六十二首があるが、平安になって殆んど姿を消し。「古今和歌集」「千載和歌集」などに数首あるに過ぎない。「旋頭」とは「頭句に還る」の意で,五・七・七の三句を繰り返す詩形の意であろうとされる。この時に晶子に送ったその旋頭歌群は採用され、同じく三月一日発行の『明星』で公開された。それこそが芥川龍之介が片山廣子に向けて捧げた恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」であったのである(リンク先は私のサイトの古い電子版であるため、漢字の正字化が不全であるが、許されたい。縦書もある)。なお、芥川龍之介の秘密の片山廣子のラヴァー・ネームについては、誰も確証を感じさせる答えを出していない。私は全くオリジナルに考えたものがある。興味のある方は、『やぶちゃんの片山廣子の「越し人」考』を読まれたい。

 

 

大正一一四(一九二四)年四月十七日修善寺から室生犀星宛

 

澗聲の中に起伏いたし居候。ここに來ても電報ぜめにて閉口なり。三階の一室に孤影蕭然として暮らし居り、女中以外にはまだ誰とも口をきかず、君に見せれば存外交際家でないと褒められる事うけ合なり。又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。

 

   散きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな。

   越のやまかぜふき晴るる

   あまつそらには雲もなし。

 

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

但し誰にも見せぬやうに願上候(きまり惡ければ)尤も君の奧さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。末筆ながらはるかに朝子孃の健康を祈り奉り候この間君の奥さんの抱いてゐるのを見たら椿貞雄の畫のとよく似た毛糸の帽子か何かかぶつてゐた。以上

    十七日朝       澄 江 生

   魚 眠 老 人 梧下

二伸 例の文藝讀本の件につき萩原君から手紙を貰つた。東京へ婦つたら是非あひたい。御次手の節によろしくと言つてくれ給へ。それから僕の小說を萩原君にも讀んで貰らひ、出來るだけ啓發をうけたい。何だか田端が賑になつたやうで甚だ愉快だ。僕は月末か來月の初旬にはかへるから、さうしたら萩原君の所へつれていつてくれ給へ。僕はちよつと大がかりなものを計畫してゐる。但し例によつて未完成に終るかも知れない。

 

[やぶちゃん注:以上の二首の内、後ろのそれは、恐らく芥川龍之介の定型詩の中で最も人口に膾炙した決定稿で、後に「マチネ・ポエティク」の連中が近代定型詩中希有の珠玉の一篇と持ち上げた、

   *

   相聞

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

   *

の、現存する中で最も最初の形である。公開の最初は大正一四(一九二五)年四月発行の『文藝日本』に掲載された歌謡六篇・短歌三首・俳句一句の計十作からなる「澄江堂雜詠」で、 その二ヶ月後の六月発行の『新潮』に掲載された同名異作の「澄江堂雜詠」にも含まれており、芥川龍之介が強い自信とともに、強い癒し難い恋情を以って公開していることが判る。無論、ここ「かなしき人」(愛しき人)とは、片山廣子その人以外の誰でもないのである。龍之介が、この一篇を犀星に最初に見せたことからも、それは判るのである。なお、この一篇については、私の『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇』で詳しく遷移を考察しているので、是非、読まれたい。なお、この書簡は「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡11」で既に電子化してあるが、片山廣子との関係で、非常に重要な書簡であることから、改めて零から電子化し、注も新たに附した。

「澗聲」谷川の流れる音。芥川龍之介はこの四月十日に病気療養(二月中旬に流行性感冒で臥せった予後、ずるずると病気がちであった。但し、それには精神的な負担も加わっていた。二月十八日に、以前に述べたが、仲人をした友人岡栄一郎夫妻が不仲になって、離婚話が持ち上がって(姑と妻の確執に基づくもので、結局、離婚した)、岡がやり場のない鬱憤を媒酌人の龍之介に向けたことや、同日夜に文の弟塚本八洲が三度目の喀血を起こし、以後、その見舞いなどで忙殺されたこと、幼馴染みの友人清水昌彦が結核で倒れたことを知ったりといったことが彼の神経をさらに擦り減らしたのであった)のために修善寺温泉の新井旅館で翌五月三日まで湯治していた。

「奥さん」とみ子。結婚は大正七(一九一八)年二月。

「朝子孃」犀星の長女。

「椿貞雄」(明治二九(一八九六)年~昭和三二(一九五七)年)は洋画家。

「文藝讀本」興文社から依頼を受けて芥川龍之介が編集した明治・大正の作家の作品を収録したアンソロジー集「近代日本文藝讀本」(全五巻)。関東大震災当日の午前中に同社から依頼を受け、この年の十一月八日に全巻を同時刊行した。今、そのライン・ナップを見ると、非常に優れた作品選びが行われているのであるが、刊行直後から、無断収録や印税分配問題が勃発し、龍之介個人への根拠のない誹謗なども発生し、そのトラブルのために永く悩まされることになった。

「萩原君」萩原朔太郎(明治一九(一九四二)年~昭和一七(一九四二)年:龍之介より六つ年上)。朔太郎は、この四月上旬に大井町(同年二月に前橋から上京していた)から田端に転居しており(同年十一月には鎌倉に転居)、既に彼と旧知の仲となっていた犀星を介して、恐らくはこの言い方からみて、この書簡以降に朔太郎と逢い、親交を結ぶことになったものと思われる。

「ちよつと大がかりなものを計畫してゐる」これ以降で、めぼしい中編作となると、「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』初出。リンク先は私のサイト版)だが、後過ぎる。思うに、これは実は、この年の一月一日発行の雑誌『中央公論』には初回を発表した、「大導寺信輔の半生 ――或精神的風景畫―― 」の続行を意味しているのではないかと私には思われる。同作は結局、単発で終わったのだが、その末尾には、

   *

 附記 この小說もうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。

   *

と明記しているからである。これは続けられたとすれば、「或阿呆の一生」の如き、万華鏡みたようなモザイク画の朦朧としたトリッキーな半生の擬似告白ではなく、相当に気骨に富んだものとなったであろうに。非常に惜しい気が私はしている。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事

 

   ○あやしき少女の事   文寶亭 錄

新肴町嘉兵衞店大工傳吉儀、先月廿五日朝五時比、七歲に罷成候娘「かめ」と申す者を連れ、弓町大助店忍冬湯と申す藥湯渡世致し候榮吉方へ入湯に罷越候處、十一、二歲位に相見え候女子、髮ゆひ候者、右女子同樣に入湯いたし居、右「かめ」と、友達の樣に、心やすく咄などいたし、傳吉歸り候節、娘「かめ」には、よきものを遣し可申間、殘し置候樣、申候に付、何の心も不附殘し置、傳吉、罷歸り申し候處、しばらく過ぎて、右之女子、「かめ」を連れ、傳吉宅へ參り。なれなれ敷いたし、右かめの髮など、ゆひ遣し、菓子抔、遣し候に付、住所相尋候得ば、右之「忍冬湯向米屋の娘」之由申聞、夫より、直に「かめ」をつれ。木挽町芝居に參り、歸りに。同人伯父のよし、同所二丁目裏屋へはいり、「かめ」へ古き丹後島の帶壱筋、木綿島子供前埀壱つ、黑縮緬おこそ頭巾壱、右三品を吳れ、相歸し申候。又候[やぶちゃん注:「またぞろ」。]、翌朝、德利へ、酒壹合程、入、持參、「母より遣候」趣、申候。卽刻、又々、酒少々、德利へ入れ、「めざし鰯」一くし持參、自分と、かんをいたし、たべ、傳吉方に有合候淺漬香の物を貰ひ、たべ、「是は何方にて何程に買ひ候哉」と承り、相歸り、又候、間も無之、右淺漬一本、調ひ、持參、自分、洗ひ、一寸位づつ、大きく、きり、不作法にたべ、相歸り申候に付、不思議に存じ、同夜、傳吉妻「いく」と申者、右之忍冬湯向米屋へ禮に參り候處、「一向相知れ不申」候。猶、又、翌朝、廿八日早朝に、右之娘、參候間、住所、再應、相尋候得共、彼是申し、紛し候に付き、右「いく」・同人忰兼次郞と申す十六歲に相成候者、兩人にて、「行先を見屆可申」と申合、右娘、歸り候節、跡をつけ參候處、南橫町より、西紺屋町河岸へ、足早に參候間、『見屆可申』と存候内、何方へ參候哉、見失ひ、一向行方相知れ不申候に付、右町内を、近邊とも、再應、承り合候處、右の少女、此節、處々へ參り、娘の子の髮など、ゆひ遣し候に付、宿を承り候へ共、家々にて、替り候名前のみ、申候」儀に付、全く、狐狸の成す業にも可有之哉。此節、專ら處々方々にて、右體の取沙汰御座候に付、此段申上候以上。

 子十二月十一日

  新肴町名主後見 西紺屋町名主 彌五右衞門

右書上げのまま寫し、こは、文化元甲子年の事なり。

 

[やぶちゃん注:私は既に、高校国語教師時代のオリジナル古典教材としての教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」によって、古典の授業で何度も実際に扱った。そちらでは、私の現代語訳も附して詳細注も施してあるが(但し、原文は高校生対象なれば、新字表記である)、今回はその注を元に、ブラッシュ・アップして、以下に注する。元は高校生向けの注なので、不要なものもあるが、私の教師時代の思い出として、項目はカットせずに示した。

「文寶亭」「兎園小説」の冒頭に添えた大槻修二氏の序によると、亀屋久右衛門、本名不詳。飯田町で薬種を商い、後に二代目蜀山人の号を継いだ、とある。

「新肴町(しんさかなまち)」現在の銀座三丁目の西。この中央の区画(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「店」(たな/ここでは連濁して「だな」)貸家。江戸時代、長屋全体には所有する大家の名前や通称地名等を付けて呼んだ。

「儀」(主に文章語として)人を示す体言に添えて、「それについて言えば」の意を示す。特に訳す必要はない。

「罷成候」(まかりなりさふらふ)町方役人に提出するための上申書であるため、全文が候文の丁寧表現であり、また、その殆んどの場面で、庶民の行動が謙譲表現になっている。この「罷る」は単に自己側の行動を卑下した謙譲表現である。「なる」は準公式文書の改まった表現であって、全体を訳すと「参りました」となる。

「弓町」(ゆみちやう)現在の中央区銀座二丁目三番から五番。新肴町の東北で道を介して接する。

「先月」十一月。末尾に「子十二月十一日」(「子」(ね)文化元年は以下に示されるように干支は甲子(きのえね/かつし)であるので、こう記載した。当時の年号記載では極めて一般的である。そもそも最近のことを記載し、それがアップ・トゥ・デイトに読まれるものであるならば、干支の十二支の部分をのみを記せば、まず誰も年を誤ることなかったからである)「文化元甲子年」のクレジットがある。グレゴリオ暦ではちょっとややこしい。上申書を差し出した「十二月十一日」は一八〇五年一月十一日であるが、事件の初回は旧暦十一月二十五日で、一八〇四年十二月二十六日に当たる。

「朝五時」「あさいつつどき」。「朝五ツ」は不定時法で、真冬であるから、丁度、冬至を過ぎた頃であるから、午前八時半前頃であろう。

「薬湯」(やくたう)薬風呂。薬草・薬石等を混入した風呂であるが、これは江戸期の湯屋(ゆうや=銭湯)であるので、蒸気の中に薫蒸した薬草等を入れたものである可能性もある。

「渡世」それを生業としていることを指す。営業。

「罷越候処」「まかりこしさうらふところ」。

「十一、二歳位に相見え」後にも多出する「相」(あひ)は漢文脈によく現れる用字で、ある動作や状態の場面において、何か対象が存在することを示しており、「互いに」という意味ではなく、訳す必要はない。

補説㊀

 ここでは「相見え」の部分に着目しておこう。この少女は実際には、子供っぽい顔であったのかもしれない。もっと年上の可能性が大きい。それは次の「髮ゆひ候者」という部分が根拠となる。これは当時の髪上げの習慣が十一歳が下限であったからこそ、このように述べていると考えられるからである。すなわち伝吉は専ら少女の髪形に引かれる形で年齢を推定をしているのである。

「居」(をり)これは、当時の湯屋の構造から、湯に膝まで浸かっていたか、板敷きに座っていたかの二様に取れるが、実際には、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、後者で取るべきである。

「咄」「はなし」。

「節」(せつ)は「折・時」の意。

「娘かめには、よきものを遣し可申間、残し置候樣」ここは少女の言葉の間接話法。

「遣す」(つかはす)は「やる・与える・贈る」。これは本来、尊敬語である(「遣ふ」未然形+尊敬の助動詞「す」)が、現代語の「あげる」(「やる」の尊敬語)同様に、江戸期には敬語の意味を喪失していた。

「可申間」(まうすべきあひだ)は「~しようとしておりますので」。この助動詞「べし」は予定・予想の用法。

「何の心も不附」(なんのこころもつけず)。「こころつく」は他動詞下二段なので(四段ならば、自動詞)、①「心をとめる・執心する」、②「注意する・警告する」であるが、ここでは②で、「気にかけない」の意味である。そうすると、伝吉が、何故、気にかけなかったのかが、問題となる。これは、彼が、この少女を、自分の知らない、娘「かめ」の知り合いの友達だと早合点したからである。でなければ、不用意に娘を託すはずがないからである。父は大工で、しかもこの子は女の子であるから、「かめ」と遊ぶのは、家内でのことで、実際の「かめ」の親しい遊び仲間などさえも、およそまるで知らなかったに違いない。

「なれなれ敷」(しく)。「敷」は形容詞の活用語尾。よくこのように漢字表記した。文章からは、余り、そのような印象を受けないが、事実は伝吉一家がびっくりするような馴れ馴れしい行動があったか、若しくは、後述の翌日の小娘らしからぬ行動等が、この文書作成時の証言に影響したものかもしれない。

「菓子抔遣し」「抔」は「等」の異体字。ここでは、少女が菓子を与えていることに注意しておきたい。以下、この少女、子供にも関わらず、物持ちで、大人びた余裕もあるのである。

「相尋候得ば」「あひたづねさうらふえれば」。尋ねて見ましたところ。接続助詞「ば」は順接の確定条件なので、とりあえず文法的に正しく、「得」は「うれ」と已然形で読んでおく。但し、実際にはこれは、当時は「さうらえば」と読んでいた。

「右之忍冬湯向米屋」「みぎの、にんとうゆ、むかひ、こめや」。

「夫」「それ」。

「直に」「ただちに」。「ぢきに」と読んでもよい。

「木挽町」(こびきちやう)は現在の銀座四丁目の歌舞伎座がある場所を中心に北東から南西にかけて、当時の三十間川(堀)沿いに南東へ長く存在した。上記の町名も含め、「古地図 with MapFan」で見るのが、実は手っ取り早い。

「裏屋」裏長屋。

「丹後島の帶」「島」は「縞」。丹後国(現在の京都府北部)与謝(よざ)地方から産出した縞の紬(つむぎ)織物。丹後産のものは最高級品である。

「前埀」(まへだれ)はエプロン。

「縮緬」(ちりめん)生地の表面に細かな縮(ちじみ)じわ(=しぼ(皺))のある絹織物。やはり、丹後が随一とされた。

「おこそ頭巾」方形の布に耳掛けの紐輪をつけたずきん。主として冬季、防寒のために着装したもので、上等品は「浜ちりめん」(滋賀県長浜市を中心に生産される高級絹織物の総称。「丹後ちりめん」とともに「ちりめん」の二大産地の一つ)で作ったという。黒縮緬の子供用ともなると、これはどうみても、大変な高級品ということになろう。

「持参」「もちまゐり」。

「遣候趣申候」「つかはしさうらふおもむき、まうしさうらふ」。『「母から、『持って行って差しあげるように、と言われました。』というような内容のことを、この少女が、申しました』。

「自分と」「おのづと」と読みたい。「自分から・勝手に」の意である。

「かん」酒のお燗。

「たべ」これは持参した目刺しの鰯を肴にして、酒を飲んだことを指している。見た目が十一、二歳の少女では、これはやはり、当時としても相当に奇異なものに見えたことであろう。

「有合」「ありあはせし」。あり合わせの物。たまたまあったもの。おかずの余り、ほどの意であろう。

「是は何方」(いづかたにて)「にて何程」(いかほど)「に買ひ候哉」「哉」は「や」で疑問の終助詞。

補説㊁

直接話法の記載が臨場感があってよい。その様子がありありとよく想起出来る。さて、ここで、是非、着目して貰いたいのは「何程に」という表現である。これは「どれくらい」という意味である。単に、この「おこうこ」(漬物)が気に入ったのならば「何方にて」で十分なはずである。伝吉や記載者である名主弥五右衛門が、わざわざ、この部分を直接話法で書いたのは、まさに「何程に」と、少女が言ったことが、いかにも奇異に感じたからに相違あるまい。即ち、この少女は、実は当たり前の「おこうこ」が、いかなる形状をしているかを知らないからこそ、「何方にて」「何程に」という頓珍漢な質問をしたのでないだろうか。「おこうこ」を知らない庶民の子はいない。さて? この子は一体、何者か?

「又候、間も無之」「またぞろ、まもなく、これ」。「之」は少女。「またしても、その日のうちに、間もなく、すぐやってきまして」

「調ひ」「ととのひ」。「準備する・そろえる」。

「自分」先と同じで「おのづと」或いは、これで「おのづから」と読ませているかも知れない。

「一寸」約三センチメートル。「おこうこ」の切り方としては、大変な厚さである。やはり、彼女は「おこうこ」を知らないのだ。

「不作法」「なれなれ敷」に次いで出現する批判的な言辞である。確かに――一日に二度も来訪し、「おこうこ」をどでかく切って、それをバリバリと食べ、酒を飲む、十歳余りの少女――は、これ、強烈である。

「一向」(いつかう)は副詞で、下に打消を伴って「全く(~ない)」の意。

「再応」(さいおう)は「再度・再び」。

「共」(ども)は逆接の接続助詞。よく漢字表記をする。

「忰」伜(せがれ)。

「見届可申」『「見届け申すべし」と申し合はせ』。「見届けるのがよかろうと話し合い。「べし」は適当の用法。

「南橫町」現在の神田岩本町が、嘗ての紺屋町二丁目横町を明治二年に合併していることまでは突き止めた(教案作成当時、「神田ふれあい通り商店会」公式サイト内の「神田の土地、町名の移り変わり 其の三」を参照したが、現在、このページは存在しないようである)が、現行の岩本町では、ロケーションが北に飛び過ぎるから、違う。正式な町名ではなく、一般名詞の「南」にあった狭い「橫町(よこちやう)」を抜けて、の意でとるべきであろうか。或いは南紺屋町が、次注のリンク先の北に道を隔てて接しているから、「南」紺屋町の「橫町」(よこちょう)から「西紺屋町」に抜けたというのを略したものかも知れない。

「西紺屋町」現在の中央区銀座二丁目二番・銀座三丁目二番・銀座四丁目二番にあった町の名。現在の有楽町駅の南東に北東から南西に、山下堀の堀沿いにあったことが、「古地図 with MapFan」で判る。

「河岸」(かし)は河川の舟から、人や荷物を上げ下ろしする場所。但し、「西紺屋町」は山下堀にしか面していないので、川ではない。ただ、北直近(南紺屋町)で京橋川と接続しているから、そこから舟は入ることが出来るので、西紺屋町の堀側には河岸があっても不自然ではない。

「哉(や)」前出の疑問の終助詞。

「近邊とも」「共」で、「右町内」だけでなく、その辺縁の近辺を何カ所も、という意であろう。或いは、「共に」の「に」の脱字で、『「いく」と兼次郎二人一緒に』の意味かもしれない。

「承り合」(うけたまはりあひ)は「謹んで(少女のことについて、二人で)聞き回って」。

「可有之哉」(これあるべきかな)の「哉」は「や」と読んで疑問の終助詞とも取れるが、風聞になっている内容を考えると、詠嘆の終助詞の方が、お上へのインパクトが強くてよいと思う。

「右體」(みぎてい)の「體」は名詞の接尾語的な用法で、「~のようなもの・~風な」。以上のような話が。

「此段申上候以上」「このだん、まうしあげ、さうらふ、いじやう」。地下文書の常套的な擱筆の措辞。

「名主」近世における村の長。「庄屋」「肝煎(きもいり)」等の称があり、一般的には東国では「名主」、西国では「庄屋」が多い。ここで「新肴町名主後見 西紺屋町名主」という名義になっているのは、新肴町名主が若いか、もしくは何らかの理由で不在・職務遂行不能なために、隣町の西紺屋町名主弥五右衛門が代理人となったということであろう。

補説㊂《狐狸妖怪か? はたまた、時空を越えたタイムトラベラーか? 少女の正体は?》

 この少女は何者であったのか?

 人々は狐狸の変化(へんげ)と捉え、その不可解さゆえに役所への上申さえ行っている。しかし、どうであろう、この少女は当時の法どころか、公序良俗に著しく反するような行為は何もしていないのである(敢えて言うなら、伝吉の家での飲酒や無作法・住所詐称していることを挙げることは出来ようが、それによって、誰かが大きな不利益を被っているわけでもない)。上申の意図は、まさに狐狸のような行い(あくまで「ような」である。人々は全部が全部、実際に「狐狸のしわざ」と思い込んでいたのではあるまい。何らかの悪党の大働きのための下調べのような人物(「引き込み」)として、彼女の行動を現実的に捉えてもいたのかも知れない)であるであるから、きっと、今に何かの悪事に繋がるであろうと考えて、何らかの探索や予防策を含めて、怪現象の終息を官憲に望んだのであろう。

 しかし、少なくともそれに繋がる異変は起こらなかったと見てよい。「兎園小説」成立の一八二五年まで、二十一年が経過している。もし、何らかの影響関係のありそうな事件が出来(しゅったい)しておれば、考証オタクの馬琴が黙っているはずがないからである。そんな、この怪しい話を面白くするような珍事件があれば、彼は真っ先に飛びついたはずだからである。

 狐狸妖怪の類いでないとしたら、どのような解釈が可能であるか。そのヒントは、やはり原文の中に見いだし得ると思う。

 補説㊁で述べたように、この少女は極めて一般的な下層庶民伝吉の家にあった粗末な浅漬けの香の物の実物さえ知らないのである。これは庶民ではあり得ないし、当時、差別されていた非差別民であった穢多・非人層等でも、なおのこと、あり得ないことである(因みに、話は外れるが、当時の江戸の穢多・非人層が我々の想像とはかなり違って、相当な生活レベルを維持しており、弾左衛門らを統率者として、ある種の組織的民主的とも言える生活を営んでいたことは是非知っておいて貰いたい)。

 この少女、気前がいい。七歳の「かめ」にお菓子をやるどころか、芝居を見に連れて行くわ(当時、子どもから観劇料を取ったかどうかは分からないが、取ったとすれば、少女が払ったとしか思えない)、その帰りには伯父と称する者の家に行き、目ん玉が飛び出るような高価な品々をプレゼントしているのである。因みに、この「かめ」に、その伯父の「裏屋」なるものが何処であったかを尋ねていないのが、甚だ、悔やまれる。

 そもそも、これは、七歳の「かめ」が語った言葉であり、訳した如く、本当に「裏長屋」であったのかどうかでさえ、私は疑わしいと思っている。しがない大工の七歳の子どもである。武家屋敷に裏から入ったり、武士や豪商の別宅や別荘のひっそりとした場所に連れて行かれても、正確にその場を表現し得たとは思われないのである。

 しかし、豪商の娘ならば、それなりに正体は、ばれよう。隠す意図を、本人が、まずは、持たないと思われるし、町屋ならば、人が聞き回り、噂になれば、自ずと特定されるからである。

 さて、現代からタイムスリップした少女といった超常現象や都市伝説を排除するならば、而して、この少女は、間違いなく、武家の、それも、相当な上流階級の娘なのではあるまいかというのが私の推測である。

 そうなると、これはもう、テレビの時代劇にありそうなエピソードを想起させる。どこぞの、やんちゃで、お転婆なお姫様が、日に日に、お忍びで、町へ出て、遊興する。気弱な家臣達は彼女に振り回され、言われるがままに、プレゼントの品を取り揃えておいたりしては、ご機嫌を取るしか、これ、方法が、ないのである(しかし、そこに遠山の金さんや、水戸黄門が現れて話をもっと面白くするというのは、私の夢想の埒外である)。

 さて、しかし、「そんな話が、これ、本当にあったのか?」って? 私も、勿論、類する実話を聴いたことは、ない。しかし、そんな事実は、どう考えたって、武家の恥であり、記録に残りようがないものであろう。しかし、だからと言って、「なかった」とは断言出来ない。否定するのなら、君は、どんな真相をここに打ち立てるか? 是非、私をうならせてくれる見事な仮説立ててくれ給え!

 言っておくが、もし、これが正式な上申書であったとしたら、「いたずら」なんかでは決してあり得ないということに気づかねばならぬ。そもそも、実在する地名・屋号・人名でなかったら、この話は版行されるはずがないのである。というより、万一、上申書を偽造し、噓の話で世俗を騒がせたとなれば、「兎園会」の全員が芋蔓式にしょっ引かれて、大目玉を喰らうことは明らかである。さればこそ、すぐに分かるようなレベルの嘘を、少なくとも、天下の戯作者馬琴と、その一党が、つくはずもないのである。そんな嘘なら、戯作として、あり得ないことがはっきりと判るように、幾らでも書ける(大名や幕府批判をして手鎖になったり、処刑されたケースもあることはご存知の通りである)。本話に散見される細部に渡るリアリティ、これはまさに――事実としてあった――と、私は確信している。

 ともかく、真相があるにせよ、ないにせよ、この少女、リアルでありながら、同時に極めてファンタジックだ。何より、まずは――必ず――妹のような幼少の子の髪を結い――好きなことをして――好きなことを言って――そして――忽然と――消えてしまう。それでいて――正真正銘――人を傷つけずに――ふっと――消えてしまう……こんな純粋な子って、今時、珍しくはないか? 私はこの少女に是非とも逢って見たい気がずっとしている。そうして……一緒に……ふっと……この少女と一緒に……消えてしまいたいような気も、するのである…………

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 於竹大日如來緣起の辯・勘解由に見あらはされ

 

   ○於竹大日如來緣起の辯  好問堂稿

安永六年丁酉[やぶちゃん注:一七七七年。]七月、江戶にて於竹大日如來の開帳あり【此より先にも開帳ありや、しらず。】その緣起に云ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では、「玄良坊」の署名まで全体が一字下げ。]

抑、當山の靈像於竹大日如來の權輿を尋ぬるに、文祿年中[やぶちゃん注:一五九三年~一五九六年。豊臣政権による最初の改元。]の頃、武江佐久間何某召し仕ふところの婢女に、「たけ」といふあり。深く三寶に皈依[やぶちゃん注:「歸依」に同じ。]し、雜染浮花[やぶちゃん注:「ざふせんふくわ」。一切の煩悩を増長するところの、上辺は華やかであるが、実質の乏しい現世の対象物。]世間の樂しみを、よしと、願はず。たゞ白淨信心にして、常に愼むところを見るに、日々三時、おのが喫歿する分量の喫食(シヨク)をとゞめて、困餓窮飢の者に施し、朝暮烹炊につき、自ら流れすたる所の粒飯(メシツブ)をおそれうやまひ、厨下流盤(ダイドコロナガシ)のすゑに茶袋を羅布(アミシキ)て、是に止まる淡薄の麁食[やぶちゃん注:「そしよく」。]を嘗めて、自活の料とし、專ら卑下柔順にして、慈悲、曾て怠ること、なし。その頃、同國比企郡に、湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ、此山にあゆみをはこぶこと、年、あり。ある夜の夢に、「汝、生身の如來を拜せんとならば、武江佐久間氏何某の下女を拜せよ。」とて、夢、覺めぬ。斯[やぶちゃん注:「かく」。]の如きの異夢、二度に及びければ、疑ふことなく、武城都下に尋ね來り、夢の告なるよしを語り、佐久間主人に物して、ひそかに竹女が面容を拜すれば、光明輝然として、十方をてらし、尊貌、紫磨[やぶちゃん注:「紫磨金(しまごん)」。紫色を帯びた純粋真正の黄金。]の全身なりければ、主客ともに驚嘆不思議の感淚に咽び、禮拜恭敬して、大悲難思[やぶちゃん注:「だいひなんじ」。大いなる無限の大日如来の慈悲が人間には論理的には理解出来ない不可思議なるものであることを言う。]の應用、末世の奇瑞、心肝に徹して、ふかく渴仰の思をなせり。不思議なるかな。如來は隨處應度[やぶちゃん注:仏が人の心や性格や素質などの違いを超えてそれぞれに応じて説法・教化を施す意。「隨類應同」が一般的。]の悲願に酬いて、難化利益[やぶちゃん注:「なんけりやく」。「け」「やく」はともに呉音。困難な、衆生を教えて善い方向に教化することを、仏があざやかに成就して与えること。]の機關を上人及び勘解由[やぶちゃん注:佐久間主人を指すのであろうが、不審。これは江戸時代は勘定方の異称であるからである。後に附された文を参照。]に見あらはされてや。咫尺の間[やぶちゃん注:「しせき」。ごく近くで。]、竹女が容、消然として[やぶちゃん注:ふっと消えてしまって。]、去るところをしらず。人々、驚愕し、悲慕搜索すれども、跡を認むべきなし。常に起臥せし小房をひらき見れば、只、靈香、馥郁[やぶちゃん注:「ふくいく」。]と薰じ、光明、まさに、眼裏にあるごときのみ。宜哉[やぶちゃん注:「よろしきかな」。]。擧家[やぶちゃん注:「きよか」「いへをあげて」。]、只、聚頭傷々とし[やぶちゃん注:皆々、悲しみ。]、如來お竹、年ごろ、馴親し[やぶちゃん注:「じゆんしんし」と音読みしているか。「なれしたしみ」。]、離情の切なるに、叫び、佛陀善巧の恩德に、なくのみなり。此に於て、勘解由、若干の負財を擲ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山靈場の麓に奉納し、永く靈像の檀那となり、黃金堂に安置し奉る所なり。星霜いまだ遠からず。此こと、人口に膾炙して、世人、おのづから「お竹大日如來」と稱しならはせり。【下略。】

       出羽國羽黑山麓別當 玄良坊

世にありとある神社・佛利[やぶちゃん注:「佛舍利」のことか。]の緣起といふものに、妄誕ならざるは、いと稀なり。此に載する緣起を、かゝるを、實にありと思ひて、疑はざるものあらんは、愚に近し、とこそいはめ。されど、あながちに無しとせんも、又、誣ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」ハ行上二段活用の「しふ」が室町頃に転じたもの。事実を曲げて言う。作りごとを言う。欺く。]に似たり。こゝに於て、今、この緣起を左に辯ぜん。

  文祿年中の比、武江佐久間何某召ふ[やぶちゃん注:「めしつかふ」。]ところの婢女に「竹」といふあり。

「玉滴隱見」に云、『江戶大傳馬町の名主の佐久間善八といひける者の召仕なる「竹」と云ひける下女、去年三月廿一日に死したり。此「竹」こと、主の善八は問屋にて有りければ、大勢の者の食餌にかゝづらひけれども、聊も穀三寶を麁抹にせずして非人を憐み、其雜火[やぶちゃん注:「ざふくわ」で余り物の謂いか。]の餘を以て、牛馬を飼ひ抔して、一生を送りしが、死して其儘、羽州湯殿山麓に金色[やぶちゃん注:「こんじき」。]の光り、一度の内にあらはして、「竹」は中尊裟婆[やぶちゃん注:「そは」でここでは大日如来のこと。胎蔵界大日如来に祈る際の真言は「阿毘羅吽欠裟婆呵」(あびうんけんそわか)であり、「阿毘羅吽欠」は「宇宙一切の生成要素たる地・水・火・風・空」を表わして大日如来の内証を表わす。但し、「裟婆呵」自体は呪言の結句に過ぎず、広義の「成就吉祥」の意である。]にて、主なりし佐久間夫婦は兩脇立と成りて今に有りと云々。此こと、彼御山の佐藤宮内と云ふ神人[やぶちゃん注:「じにん」。下級の神官。]語ㇾ之。また、淺草新寺町獅子吼山善德寺に、如意輪觀音の石塔あり。性岸妙智信女、延寶八庚申[やぶちゃん注:一六八七年。]天五月十九日と彫刻したり。是、「お竹が墓なり」と云ふ。此二條を倂せ案ずるに、「玉滴隱見」、何れの年、誰の撰と云ふこと詳ならねど、その書を閱するに、寬文ごろ[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の事、いと多く見えたれば、そのころのものと、しらる。扨、墓碑の延寶とあるに合へり。されど、その月日の違へるを思ふに、墓碑の正しきは論ずべくもあらず、書に記したるは、遠く出羽の人の傳聞なれば、もとより聊の違ひは、あるべきことなり。されば元祿[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]としもいはんは、さることなれども、文祿とするは、いと謬なり。再びおもふに、かゝること、いと近き世のことは、憚りなきにあらず。その比、忌むところありて、しか記したるも、しるべからざれば、强ひて咎むべきにあらずかし。【此墓碑の事、「溫故名蹟志」・「淺草志」等には漏らしたりき。】

  湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ云々。

此一條は、書寫上人の、生身の普賢を見奉るべきよしを祈請し給ひ、夢の告ありて、神崎の遊女を尋ね給ひし事【詳見古事談僧行篇。[やぶちゃん注:詳らかには、「古事談」の「僧行篇」を見よ。]】を附會したるものと思はる【「書寫上人」とのみにては詳ならず。「書寫山の性空」とあるべし。こは童蒙にいふのみ。】[やぶちゃん注:頭書。]

 

[やぶちゃん注:ウィキの「於竹大日如来」によれば、於竹大日如来(元和九(一六二三)年~延宝八(一六八〇)年)は『江戸時代の女性。名を竹(以降「お竹」)といい』、『周囲からは大日如来の化身とされ、尊崇を集めた』。現在の東京都北区赤羽西にある浄土宗獅子吼山専稱院善徳寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『境内にある墓石の脇には、高さ』五十センチメートル『ほどの石碑があり、以下の文言が刻まれている』。

 お竹大日如來尊影

  延宝八年五月十九日 上天せらる

『ただし、お竹の生没に関しては異説が存在する』。『お竹は現在の山形県庄内地方に生まれ』寛永一七(一六四〇)年、十八歳の『ときに郷里を離れ』、『江戸大伝馬町一丁目に居を構えていた伝馬役で名主の佐久間家に奉公に出た』。『お竹は、佐久間家が廃絶して役を返上するに伴い』、『佐久間家と姻戚関係にあり、同じく伝馬役年寄を務めていた大伝馬町二丁目の名主の馬込家に、他の奉公人とともに移ったものと推測されるが、小津清左衛門長弘(後述)が佐久間家から独立開業したのは』、承応二(一六五三)年と、お竹が三十歳に『なった』時『より』も『後のことである』。歴史学者『幸田成友によると、佐久間家と馬込家の姻戚関係は』『馬込家』三『代目当主の喜與(大給松平家よりの婿養子)が、妻・香の死去』(慶安四(一六五一)年)『後に、佐久間善八の娘を後妻に迎えたことに始まる』。「於竹大日如来井戸跡」の碑文によれば』、『「その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため』、『於竹さんのいる勝手元からは』、『いつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ』、『「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き』、『勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後』、『念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う」、暮らしぶりであった』。先立つ寛永二〇(一六四三)年三月、『後の小津清左衛門長弘は、佐久間家に奉公に出る』。『このとき、長弘は』十九歳、お竹は二十一歳であった。『現在の小津商店の礎を築いた創業者の長弘とお竹は、同じ佐久間家の奉公人として』十『年ほどの時を過ごしている』。承応二(一六五三)年、『小津長弘は佐久間家に隣接する紙商・井上仁左衛門の商売を受け継ぎ』、二十九『歳にして独立開業してほどなく多額の借財も返済し、現在の小津商店の礎を築いた』。『小津長弘は、佐久間家に奉公する以前に一度、呉服商での奉公のため江戸に出ているが、三年後に一旦帰郷しており、翌年には、佐久間家での奉公に出ている。長弘にとって、お竹との交流が如何なるものであったか、想像の域を出ないものの、何かしら特別な想いがあったとしても、不思議ではなかろう』。『お竹は』延宝八年五月十九日(一六八〇年六月十五日)に『逝去した』。『お竹の死後、小津家では、関東大震災で焼失するまで、高さ約』三『尺の於竹大日如来の木像を祀り、毎月』十九『日を命日として同像を開帳していた』とある』。現在は港区東麻布にある浄土宗心光院の『寺伝によると、江戸幕府』五『代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺内の心光院に堂宇を創らせ、お竹大日如来像と、お竹が使用したという流し板を寄進・奉納した。しかし、心光院は』昭和二〇(一九四五)年の戦災によって、『山門と本尊頭部を残して』、『すべてが焼失した。現在の『お竹堂』ほかは、戦後に再建されたものである』とある。なお、サイト「猫の足あと」の心光院の解説の中で、「麻布區史」を引いて、『當寺には節婦竹女(お竹大日如來)の遺物が藏されてゐる』とある。次の附録を参照。

「玉滴隱見」作者不詳。天正(一五七三年~一五九二年)の頃から延宝八(一六八〇)年に至るまでの種々の雑説を年代順に記したもの。 斎藤道三が土岐家を逐う出世話・「本能寺の変」・「関ヶ原の戦い」・「大坂の陣」・「島原の乱」・「慶安事件」・「伊達騒動」・密貿易事件、武将の逸話・幕臣や大名に係わる風聞、江戸を中心とした世上の事件・落書・落首までも収めている。]

 

  ○勘解由に見あらはされ

佐久間氏は勘解由にあらず。「玉滴隱見」に、善八と見えたり。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

「事跡合考」を案ずるに、佐久間平八といふものは元祿後、斷絕とぞ。『菩提所增上寺中心光院佐久間下女の「ながし板」あり』と見ゆ。佐久間氏の名、孰れか是なるを、しらず。けだし「合考」の方、實に近からん。

しかはあれど、「勘解由」と記したるは、「新著聞集」に、『佐久間勘解由』と誤りしによりしものなるべし。

  竹女が容消然として去るところをしらず。

是また、妄誕なること、辯をまたずしてしるものから、佛家にはかゝる奇瑞をいふこと、常なり。愚俗は、あざむくべし[やぶちゃん注:ママ。受身の誤りであろう。]。敢て識者を誣ゆべけんや。已にしるしたるがごとく、今、墓碑、現に存せり。且、「玉滴隱見」に、死をしるし、「新著聞集」に、『精進にして大往生をとげし』と見えたるを、倂せおもふべし。

  勘解由、若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山雲場の麓に奉納し、

「玉滴隱見」に、湯殿山麓に金色の光を顯したるよし、見え、「新著聞集」に、『近所のもの、湯殿山に詣うで竹にあひたりといへるを謬り傳へしものならんか。』。於竹がこと、右二書より外に、詳に、且、誕[やぶちゃん注:底本の吉川弘文館随筆大成版は、この字の右に編者によるママ注記を打っている。]ずべきものなし。されば、これをおきて、もとづくべきなく、その他は、みな、妄誕なること、論をまたず。

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

此會、かねて、けふをしも、「おのれが宅に。」と約したるに、「上巳[やぶちゃん注:上巳(じやうし/じやうみ)は旧暦の五節句の一つ。三月三日。「桃の節句」。]のまへは、ことしげゝれば。」とて、「節過ぎて後こそ、よからめ。」と、かたりあひしに、思はずも、曲亭子に促され、著作堂に集ふことになりければ、『何をか、しるさん。』と枕をわるの思ひなりしが、過し比、小梅村の南無佛庵をとぶらひける道のほどにて、この「お竹」がことをかたり出でたるに、「來れる月の『兎園會』にものせよ。」とありけるを、思ひ出でゝ、そのよしを記して、小說の料に充つと云ふ。

  文政八年乙酉春三月朔

 

[やぶちゃん注:「事跡合考」江戸中期の国学者柏崎具元(とももと ?~安永元(一七七二:本姓は北畠。名は要・具慶。永以などを号した。持明院基輔門人)が江戸開城の様子を述べた書。開幕の諸相を懐古の対象としながら、客観的な叙述に徹しており、大田南畝や山東京伝など、後々の考証家の間で広く読まれた。

「新著聞集」寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めている。 八冊十八篇三百七十七話。永く著者不詳とされてきたが、森銑三の指摘により、紀州藩士で学者の神谷(かみや)養勇軒が、藩主の命によって著したことが定説となっている。但し、厳密には俳諧師椋梨一雪の説話集「続著聞集」を再編集したもので、神谷は編者に過ぎないと考えられている。実際、他の説話集や怪奇談集からの丸ごと写しただけのものも有意に多い(私は怪奇談集で、先行する他者の作品に酷似した箇所を幾つも発見している。ここで挙げた当該条は、「往生篇 第十三」の以下(吉川弘文館随筆大成版を礼の仕儀で正字化した。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを入れた)。

   *

   ○佐久間の竹黃金宮に生ず

江戸大傳馬町、佐久間勘解由召つかひの下女竹は、天性仁慈の志ふかくて、朝夕の飯、我分は乞丐人(こつがいにん)[やぶちゃん注:乞食。]にほどこし、その身は、あがり膳のくひ殘し、又は、流しの隅に網をあて置(おき)、そのたまりし物を食し、つねに、口にまかせて、稱名してけり。ある時、頓死せしに、身も溫(あたたか)なりしかば、「若(もし)やは。」と、人々、守り居たるに、遂に蘇生したり。「いかに。冥途の事は。」と問ば、「されば、いづくともなく廣野を往(ゆき)しに、黃金(わうごん)の宮殿あり。佛、ましまして、『これは、汝が來(きた)る臺(うてな)なり。』と、しめしたまへり。」となり。扨、そのゝち、念佛、いよいよ、精進にして、大往生をとげし。近所のもの、湯殿山に詣(まうで)て、竹に逢(あひ)たり。竹が曰(いはく)、「我は安養世界に住(すみ)侍りし。おのおのも、かならず、念佛したまへ。又、他をめぐむ心あらせよ。」と云(いひ)て、うせしとかや。竹、つねに網をあてし「流し」は、今、增上寺念佛堂心光院の門の天井に、かけ有りけり。

   *

この話では「念佛」と言っており、心光院は浄土宗であるから、そこで唱え、彼女を救ったのも、大日如来ではなく、阿弥陀如来ということになる。

「小梅村」「今昔マップ」で調べたところ、現在の東京スカイツリー周辺であることが判った。

「南無佛庵」書家中村仏庵(宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。名は蓮・連。「南無佛庵」は号。身分は町人であったが、旗本格の待遇を受け、昌平坂学問所で学んだ。書に堪能で、特に梵字に才能を発揮し、仏教学の見識が広いことで知られていた。当代一流の文人たちとも交流があった。著書もある。]

2021/08/16

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(8)~完遂!

 

 文政元年戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬のころ、老侯、又、駿馬を求得(もとめえ)て、「錦帆(きんはん)」と名づけ給ふ。

 則、撫養(ぶやう)の方(かた)を替へて、其厩(むまや)に屋を葺かず、又、板をしも敷(しく)こともなく、只、その牧にありけん如く、馬の、まにまに、せられたり。

 かくて二年の春二月、

「錦帆馬(きんはんば)を試みよ。」

とて、長臣礪﨑氏(かきざきうぢ)【左兵衞廣晃。後に、あらためて「采女」といふ。】を乘せて鎌倉に遣し給ふに、其月の十四日・十五日の兩日に、往返(わうへん)、既に両度(りやうど)に及べり。こは、未曾有の事なれば、老侯、特に歡びのあまり、解に其記を求め給ひき。

「おのれは、わきて、漢文を、ようせず、能文(のうぶん)の儒者、おほかるに、この義は、ゆるし給へかし。」

と、頻に推辭(いなみ)まうしゝかども、

「あだし人には望みなし。とにもかくにも、綴りてよ。」

と、のたまはするに、免れがたくて、俄に創(そう)して、まゐらせたり。然るに、きのふ、ゆくりなく、その草稿を探り出しつ。いと、をこがましきわざながら、錄して、數(かず)に充(みつ)るのみ。

[やぶちゃん注:「礪﨑「左兵衞廣晃」「後に」「采女」不詳だが、蠣崎氏は松前氏とイコールで、戦国時代から蝦夷を本拠とした大名の氏族である。ウィキの「蠣崎氏」によれば、糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して「蠣崎氏」を称した家系があり、その子孫であるとの説がある。『江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き』、『蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある』とあった。

 以下の「駿馬錦帆記」の漢字の順列・返り点・句点位置は必ずしも底本に従わず(おかしなところが相当数あって訓点に従っても正常な訓読が出来ない)、吉川弘文館随筆大成版を参考に、私の判断でいじってある。必ず、底本と吉川弘文館随筆大成版を比較して見られんことを望む。

 

駿馬錦帆記

松前老侯使者副ㇾ予曰。吾老君性愛ㇾ馬。頃購得良馬因徵叟其記是以傳ㇾ命。予謹對曰。昔者秦少浮序八駿。杜甫賛韓幹馬。八駿韓幹卽𤲿馬也。若李伯樂相馬經及劉禹錫說驥。雖ㇾ云生馬。而非一馬爲ㇾ之者。解之寡聞。加ㇾ之昧于馭法何以能ㇾ之。然懇命不ㇾ可得而辭。敢問老侯之愛ㇾ馬。爲武備乎爲畋獵乎。又唯爲衣以文繡一。置以華蓋。席以露牀。啗以棗哺。以倣楚莊之顰乎。天下不ㇾ憂ㇾ無千里之駒。千里之駒。獨苦於不ㇾ遇伯樂。貴使所謂良馬者何也。曰四蹄疾如飛禽乎。曰三鬃𩭟如貞松乎。逸態稜々爲虎文者乎。駿骨超然擬神龍者乎。甞所ㇾ牽於大宛乎。抑所ㇾ出ㇾ自月支乎。願聞其詳矣。使者莞爾笑曰。僕也以ㇾ叟爲通達洒落之士。不ㇾ憶言之悖于此夫善騎者。知ㇾ驥而取ㇾ之。猶明君知ㇾ賢而用ㇾ之。安俟伯樂。然後求良馬之爲哉。齊景公馬有千駟。而孔子譏ㇾ之。楚莊王馬以士禮。而優孟諫ㇾ之。吾老君亦以爲話柄。大約馬之用。在載而馳。奔蹄速爲ㇾ良。遲爲ㇾ蹇。蹇驢服駕無ㇾ用。是以人々却ㇾ之。良馬武事有ㇾ用。是故人々求ㇾ之。雖則求ㇾ之。然良馬難ㇾ致。非良馬之難一ㇾ致。知ㇾ之之難也。骨法卓然。未ㇾ足以爲一レ良。毛色鮮明。未ㇾ足以爲一ㇾ良。飾以錦繡。置以銀鞍。非ㇾ所以愛一レ馬。加ㇾ之以衡扼。齊ㇾ之以月題非ㇾ所以養一レ馬。吾老君毫無ㇾ取焉。唯考其臧否。而擇ㇾ馬養ㇾ馬。厩櫪中如牧馬一般。蓋隨馬性也。是以馬力壯勇。驚馳如ㇾ意。褊藩甞有駿馬一瞬。得之薩摩侯封内喜入野。至享和元年五月九日斃。老君乃請山本北山其顚末。一瞬冢記是已。今之所ㇾ獲。不ㇾ讓於一瞬。名曰錦※[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]。是馬出於下總州葛飾郡小金原中野。其園人吉野嘉橘。養ㇾ之七八年矣。奔蹄神速。不群馬。村翁牧童。曽稱龍種。吾老君聞而徵ㇾ之。其牽來之日。初見ㇾ之。全身薄黃。卽騧馬也。其高勝常馬四寸。年紀八歲于此。左右稱ㇾ良。老君慾ㇾ試ㇾ之。卽命家臣蠣﨑廣晃。遠到于鎌倉。時二月十四日。廣晃跨錦※馬。曉天【寅三㸃。】出ㇾ邸。辰牌【辰鼓過六分。】到鎌倉。謁鶴岡神廟。是日申牌【申正鼓。】還ㇾ邸。明曉【十五日寅一㸃。】廣晃鞭錦※馬一。復赴鎌倉。巳牌【巳鼓過八分。】謁鶴岡神廟。進退如ㇾ昨。社人安田進吾。謂廣晃曰。江府騎馬之士。約往返一日而詣本宮者。爲ㇾ不ㇾ尠矣。其名簿歷々在於此。然同人同馬而連日造於此者。未之有也。宜竹帛以藏神庫。歎賞不ㇾ已【明日神主大伴氏、與廣晃書。以慶賀焉。】。此夕【戌二㸃。】廣晃還ㇾ邸。邸在江戶下谷三絃塹上。至相摸州鎌倉郡鶴岡八幡宮。坂東道一百里又二町。【天朝之制。揣里數段町。六十間爲一町。一町卽三十六丈也。昔者關東。六町爲一里。謂之坂東道。今則三十六町爲一里。坂東道一百里又二町者。今之十六里又二十六町也。下谷三絃塹至日本橋三十町。日本橋至品革驛二里。品革至河崎驛三里四町。此間有餘戶二十六町。加以爲云云。河﨑至程谷一里九町。程谷至戶塚驛二里。戶塚至鎌倉四里六町。土俗私以五十町一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】両日路程。無慮四百里而有ㇾ餘也【以今之里數。卽六十六里三十二町。】。而錦※馬。四蹄無一蹶。廣晃亦不敢曰一レ勞。其詰旦使於簑輪鄕某侯。亭午返命。進退自若。僕所聞見類如ㇾ此。敢請叟文ㇾ之則足也。夫予聞ㇾ之。瘦膝交進。不ㇾ覺灸痂之潰[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]喟然嘆曰。善哉老侯之愛ㇾ馬也。能養ㇾ士。然後養ㇾ馬。是以其食足矣。其食足。則其材美矣。非獨其馬有千里之蹄。其家臣亦有千里之能。可ㇾ謂士馬之養得其方矣。因語使者曰。解先人亦有馬癖。甞善一條駄法。解也不幸。髫歲喪ㇾ親。犬馬之齡。五十有三。不ㇾ知鞭駒爲何等之物。雖狗才愧驥德。將ㇾ始ㇾ自ㇾ隗。冀稱先人之遺志。使者欣然竟去矣。明日乃綴是記未ㇾ遑ㇾ易ㇾ稿。使者再來。誅求甚急。纔補誤脫以呈焉。文政二年己卯春三月飯台瀧澤解撰

 

[やぶちゃん注:底本も吉川弘文館随筆大成版も以上の訓点以外のものは附帯しない。全くの我流で訓読する。長いので、段落を成形した。一部に勝手に敬語を用いた。面倒なので、本文内に注を入れ込んだ。「じっくり読むのでないから、五月蠅い」という学ぶ気のまるでない御仁のために、下線を引いて、飛ばして読めるようしておいた(リンクを附したものには引いていない)。

   *

 

   駿馬「錦帆」の記

 

 松前老侯、使者を予に副(そ)へて曰はく、

「吾が老君、性、馬を愛す。頃(このごろ)、良馬を購(あがな)ひ得られ、因りて叟に其の記を徵(しる)すこと、是れを以つて、命じ傳ふ。」

と。

 予、謹んで對して曰はく、

「昔は、秦少游[やぶちゃん注:北宋の詩人で政治家であった秦観(一〇四九年~一一〇〇年)か、彼の字(あざな)は少游である。底本では「少浮」だが、全然、掛かってこないので、吉川弘文館随筆大成版の「少游」を採用した。]、「八駿」[やぶちゃん注:紀元前十一世紀頃の周王朝の穆王が所有していたとされる中国の伝説に登場する八頭の駿馬「穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)」を絵にしたものか。但し、秦観との関係は不明。思うに、知られたもので、柳宗元に「觀八駿圖說」があるんだがねえ?]を序し、杜甫は韓幹の馬を賛す[やぶちゃん注:韓幹(七〇六年頃~七八三年)は盛唐の画家で詩人王維に画才を見出されて王維は彼のパトロンとなった。人物画や鞍馬画に長けており、まさに馬の画法は後世に大きな影響を与えた。]。「八駿」・「韓幹」は、卽ち、𤲿(ゑが)ける馬なり。李伯樂が「相馬經」[やぶちゃん注:「伯樂相馬經」(はくらくそうばきょう)は伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。]及び劉禹錫(りゆううしやく)「說驥」[やぶちゃん注:中唐の知られた詩人劉禹錫(七七二年~八四二年)が書いた馬の飼育その他について書いた随筆。]のごとし。生きたる馬と云ふ雖も、一馬をして、之れを爲す者は非ず、解(とく)[やぶちゃん注:馬琴の本名。]は之れ、寡聞なり。加之(しかのみならず)、馭法に昧(くら)く、何を以つてか、之れを能くせんや。然れども懇ろなる命を、得て辭するべからず。敢へて問ふ、老侯の馬を愛さるるは、武備の爲めか、畋獵(てんれふ)[やぶちゃん注:狩り。]の爲めか。又、唯だ、文繡を以つて衣(ころも)とし、置くに華蓋を以つてし、露牀[やぶちゃん注:竹で作った涼しくするための床。]を以つて席とし、啗(くら)ふに棗(なつめ)・哺(ほじし)を以つて以つてし、楚莊の顰(ひそみ)に倣ひて爲(な)さんとせらるるか。天下は千里の駒の無きを憂へず、千里の駒は、獨り、伯樂に遇はざるを、苦しむのみ。貴使の、所謂(いふところ)の、「良馬」とは何ぞや。曰四蹄の疾すること、飛ぶ禽(とり)のごときを曰ふか。曰三つの鬃𩭟(たてがみ[やぶちゃん注:二字目の意味は不明。誤魔化した。])貞(ただ)しき松のごときなるを曰ふか。逸態[やぶちゃん注:素早く走る姿。]の稜々として虎の文を爲せる者か。駿骨の超然として神龍に擬せる者か。甞つて、大宛に牽かせるものか。抑(そも)、月支(げつし)[やぶちゃん注:中央・東・南アジアにかつて存在した民族月氏及びその国。]より出されしものか。願はくは、其の詳らかなるを聞かさせんことを。」

と。

 使者、莞爾として笑ひて曰はく。

「僕や、叟を以つて『通達洒落(つうたつしやれ)の士』と爲せり。憶せざる言は、此れに悖(もと)る。夫(そ)れ、善き騎者は、驥を知りて、之れを取る。猶ほ、明君の賢を知りて之れを用ふるがごとし。安(なん)ぞ伯樂を俟(ま)たんや。然る後に、良馬を求め、之れを爲さんや。齊景公、馬、千駟(せんし)[やぶちゃん注:四千頭。或いは四頭立馬車千台。]有り。而して、孔子、之れを譏(そし)る。楚莊王、馬に士の禮を以つてす。而して、優孟[やぶちゃん注:楚の荘王に仕えた倡優(しょうゆう:宮廷附きの道化師)の名(芸名であろう)。]、之れを諫む。吾が老君も亦、以つて、話柄を爲されり。

『大約、馬の用は、載りて馳せるに在り。奔・蹄・速の良を爲す。遲きものは、蹇(けん)[やぶちゃん注:足の具合が悪いこと。]と爲し、「蹇驢服駕(けんろふくが)」にて、用ふること、無し[やぶちゃん注:これは「楚辭」の王褒「九懷」の「株昭」の一節を用いたものである。「蹇驢服駕」とは「足を引きずっている驢馬を車に繫ぐこと」を意味する。因みに吉川弘文館随筆大成版では「服」を「股」とするが、誤りである。]。是れを以つて、人々、之れを却(す)つ。良馬は武事に用有り。是の故に、人々、之れを求む。則ち、之れを求むと雖も、然かなる良馬は致(まね)き難し。良馬の致き難きには非ず。之れを知るの難なり。骨法は卓然たり[やぶちゃん注:真の奥義というものは恐ろしゝ頭抜けたものである。]。未だ以つて良と爲(す)るに足らず。毛色の鮮明も、未だ以つて良と爲るに足らず。飾るに錦繡を以つてし、置くに銀の鞍を以つてするも、以つて馬を愛す所に非ず。加之(しかのみならず)衡扼(かうやく)を以つてす[やぶちゃん注:「衡軛」は牛馬の頸を結びつけるための横木。]。之れを齊しく、月題を以つてす[やぶちゃん注:「月題」が判らない。月ごとにしか厩を掃除しないことか。或いは、月に一度しか馬を厩から出さないことか。]。馬を養ふ所以(しよい)に非ず。』

と。吾が老君、毫(ごう)も取ること無し。唯だ、其の臧否(ざうひ)を考へらる。而して馬を擇(えら)び、馬を養ふ。厩櫪(きゆうれき/むまや)の中(うち)、牧の馬(むま)の一般に同じ。蓋し、馬の性(しやう)に隨ふなり。是れを以つて、馬、力、壯勇たり。驚馳(きやうち)すること、意のごとし。

 褊藩(へんぱん)[やぶちゃん注:領地が狭い藩。]、甞つて、駿馬「一瞬」有り。之れ、薩摩侯の封内の喜入野より得たり。享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月九日に至りて斃(たふ)る。老君、乃(すなは)ち、山本北山に請はれ、其の顚末を識させしむ。『「一瞬冢(いつしゆんづか)」の記』、是れのみ。

 今、之(ここ)に獲(え)し所のもの、「一瞬」に讓らざるなり。名は「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。仮に「きんぷう」と読んでおく。]と曰ふ。是の馬、下總州(かづさのくに)葛飾郡(かつしかのこほり)小金原の中野より出づ[やぶちゃん注:千葉県松戸市小金原(グーグル・マップ・データ)。]。其の園人は吉野嘉橘(かきつ)。之れを養ひて、七、八年たり。奔蹄・神速にして、群馬とは俱(とも)にせず。村翁・牧童、曽つて「龍種(りゆうしゆ/たつのこ)」と稱せり。

 吾が老君、聞きて、之を徵(ちゃう)さる。其の牽き來れるの日、初めて之れを見らる。

 全身薄黃、卽ち、騧馬(くわば)なり[やぶちゃん注:口先が黒く、黄色い毛色の馬。]。其の高(たけ)、常馬より勝れて、四寸(よき)[やぶちゃん注:一メートル三十三センチメートル。「寸(き)」は馬の背丈(文字通り、頸の後部の跨る背の前部まで)を示す専用の助数詞で、標準の高さを四尺(一・二一メートル)とし、それよりも一寸(すん)高い物から一寸(ひとき)と数えていった。因みに、中世までの日本産の馬の大きさは想像以上に小型であった。例えば、義経の「鵯越え」の発案に、畠山重忠は反対しているが(大事な馬の脚が折れる危惧があるという理由である)、決行された。その際、重忠は自分の愛馬を背負って徒歩で崖を下っているのである)。]。年紀、此のとき、八歲なり。

 左右、「良き。」と稱せり。

 老君、之れを試みんと慾され、卽ち、家臣蠣﨑廣晃(かきざきひろあき)に命ぜられ、遠く鎌倉に到らせらる。

 時に二月十四日、廣晃、「錦※馬」に跨り、曉天【寅の三㸃[やぶちゃん注:午前四時頃。]。】、邸(やしき)を出づ。辰の牌(こく)【辰の鼓(こ)の過ぎ六分。[やぶちゃん注:午前八時六分か。]】、鎌倉に到る。鶴が岡の神廟(しんべう)を謁し、是の日の申の牌【申の正鼓。[やぶちゃん注:午後四時。]】、邸に還る。

 明くる曉(あかつき)【十五日の寅一㸃。[やぶちゃん注:午前三時。]】、廣晃、「錦※馬」に鞭(むちう)つて、復た、鎌倉に赴き、巳の牌【巳鼓過八分。[やぶちゃん注:午前十時八分か。]】鶴岡の神廟に謁し、進退、昨(きのふ)のごとし。

 社人安田進吾、廣晃に謂ひて曰はく、

『江府の騎馬の士、約(およ)そ、往返(わうへん)一日にて、本宮(ほんぐう)に詣(まう)ずる者は尠(すくな)からず爲(な)せり。其の名簿、歷々、此(ここ)に在り。然るに、同人・同馬にて、連日、此れを造(な)せる者は、未だ、之れ、有らざるなり。宜しく、竹帛(ちくはく)に錄し、以つて神庫に藏(をさ)むるべし。』

と、歎賞、已まず【明日(みやうじつ)、神主大伴氏、廣晃に書(ふみ)を與へ、以つて慶賀せしむ。】。此の夕(ゆふべ)【戌二㸃。[やぶちゃん注:午後七時。]】、廣晃、邸に還る。邸は江戶下谷三絃塹(さんげんぼり)上(うへ)に在り[やぶちゃん注:俗称「三味線堀」。現在の台東区台東二丁目附近であろう。御徒町駅の南東直近。]。相摸州(さがみのくに)鎌倉郡(かまくらこほり)の鶴岡八幡宮に至るまでは、坂東道(ばんどうみち)[やぶちゃん注:「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称し、古い特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、以下で馬琴も説明している通り、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いたものと思われる。]にて、一百里、又、二町なり[やぶちゃん注:六十五・六一八キロメートル。]。【天朝の制は、里數を揣(はか)るに、段・町を以つてし、六十間を一町と爲す。一町は、卽ち。三十六丈なり。昔は關東にては、六町を一里と爲せり。之れを「坂東道」と謂ふ。今、則ち、三十六町を一里と爲す。坂東道の「一百里」、又、「二町」とは、今の「十六里」、又、「二十六町」なり。下谷三絃塹より、日本橋に至れるは、三十町。日本橋より品革驛(しながはえき)は、二里。品革より河崎驛(かはさきえき)は、三里四町。此の間、餘(よ)の戶(こ)[やぶちゃん注:行政区分としての町。]は二十六町、有り。加以(しかのみならず)云云(しかじか)と爲す[やぶちゃん注:「それだけではなく」としつつ、以下の町の間は、くだくだしくなるだけで不要なので略す、という謂いであろう。]。河﨑(かはさき)より程谷(ほどがや)に至りては、一里九町。程谷より戶塚驛に至るは、二里。戶塚より鎌倉に至るは、四里六町。土俗、私(わたくし)に、五十町以二一一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】[やぶちゃん注:試みに、三味線堀附近から、ここに示された宿駅を考慮して、鶴ヶ岡八幡宮までを比較的旧道沿いに実測してみたところ、五十六キロメートルはあった。経過時間が確認出来る二つの内、一番早かった一日目の往路が僅か四時間であるから、時速十四キロメートル、二日目の往路が七時間で時速八キロメートルであったことになる。馬は現在のサラブレッドで最大時速六十~七十キロメートル出せるが、これは数分間しか維持出来ない。通常歩行では時速約十三~十五キロメートルであるが、それもまた維持出来るは一時間程度とあるから、この馬は並の速さではない。しかも延べ二百キロメートルもの距離を二日に分けて走っているのである。]両日の路程は、無慮(おほよそ)四百里にて餘り有るなり【今の里數を以つては、卽ち、六十六里三十二町なり。[やぶちゃん注:二百六十二・六九キロメートル。]】。而して「錦※馬」は、四蹄(してい)、一つの蹶(けつ)[やぶちゃん注:躓くこと。]も無し。廣晃も亦、敢へて勞りを曰はず、其の詰旦(きつたん)[やぶちゃん注:翌朝。]、簑輪鄕の某侯へ使ひし、亭午(ていご)[やぶちゃん注:正午。]に返命せり。進退、自若にして、僕[やぶちゃん注:使者の自称。]の聞見さるる類ひは此くのごとし。敢へて請ふ、叟(さう)[やぶちゃん注:相手の馬琴を指す。]、之れを文(ふみ)よ。則ち、足れるなり。」

と。

 夫(それ)、予、之れを聞き、

瘦せし膝を交(あは)せて進み、灸の痂(あと)の潰るるを覺えもせず[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]、喟然(きぜん)して[やぶちゃん注:溜息をついて、]、嘆じて曰はく、

「善きかな、老侯の馬を愛すや、能く、士を養ひ[やぶちゃん注:ここは特にその家臣の内でもこの見事な説得を述べた使者(後で「長尾友藏」と出る)の磨かれた才智を讃えているのである。]、然(しか)る後、馬を養ふ。是れを以つて、其の食、足れり[やぶちゃん注:私の心の内は感動で盈ちたというのであろう。]。則ち、其の材の美なり。獨り、其の馬千里の蹄(ひづめ)の有のみに非ず。其の家臣も亦、千里の能(のう)有り。『士馬の養(やしな)ひ』の、其の方(はう)を得たると謂ふべし。」

と。

 因りて、使者に語りて曰はく、

「解(とく)の先人も亦、馬癖有り。甞つて一條の駄法を善くす。解や、不幸にして、髫歲(うないがみのとし)[やぶちゃん注:七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの。]に親を喪(なく)す。犬馬の齡、五十有三。鞭(べん)・駒(く)の何等の物たるかを知らず、狗才(くさい)の驥德(きとく)に愧(は)ずと雖も、將に、隗(くわい)より始めんとす。冀(ねがはく)は、先人の遺志を稱さん。」

と。[やぶちゃん注:「先人」瀧澤馬琴解(とく)の実の父のことを言っている。旗本であったが、馬琴が九歳の時に亡くなった。]

 使者、欣然として竟(つひ)に去る。明日、乃(すなは)ち、是の記を綴れり。未だ、稿を易くする遑(いとま)あらず。使者、再び來りて、誅求(ちゆうきふ)、甚だ急なり。纔かに誤脫を補ひ、以つて呈せり。文政二年己卯(つちのとう/きばう)春三月飯台瀧澤解撰[やぶちゃん注:「飯台」「飯台陳人(はんだいちんじん)」。馬琴の号の一つ。]

   *]

 

 この記文(きぶん)の事、その年の春三月十六日に、老侯の使者【長尾友藏。】來訪して命を傳(つとふ)るにより、同月十八日に創しつゝ、廿日に、これを、まゐらせにき。駿馬の名、はじめは「錦帆」と書かれしを、予がこの記を綴るに及(および)て「帆」を「※」に作れり。使者、この義を詰(なじ)りしかば、予、答へて、

「『※』は『帆』と通ふ義あり。且、字書に、『水行曰ㇾ「帆」。陸行曰ㇾ「※」』とも候。駿馬の爲(ため)には、舟帆(しゆうはん)の『帆』たらんより、その字、『馬』に從はんこそ、勝(まさ)れるやうに覺え侯。いかゞ侍るべからん。」

といひしを、使者、やがて歸りまゐりて、

「云々。」[やぶちゃん注:「しかじか」。]

と申しゝかば、老侯、領き給ひしとぞ。

 かくて次の年にやありけん。聊(いさゝか)、所要の事有て、書肆(ふみや)より、「淵鑑類函」両三帙(ちつ)を借りよせつ。是彼(これこれ[やぶちゃん注:ママ。])と披閱(ひえつ)せしそが中に、第四百三十三卷「獸の部」、「馬の三」に、「古今註」を載せて、『曹眞有駛馬【駛、音「史」。卽。「駿」也。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はこれを頭書とする。]。名驚帆。』といふよし、見たり。かゝれば、唐山(からくに)にて、魏の時、はやく、「馬」の名に「帆(ほ)」をもて、しつることは、ありけり。これによらば、「錦※」も、はじめのごとく、舟帆の「帆」に作るも、よしなきにあらず。拙文のうち、この故事を引きもらしたりしのみ、今しも堪(たへ)ぬ恨(うらみ)にぞありける。【右、「二馬」之二。】[やぶちゃん注:この割注は底本にはない。吉川弘文館随筆大成版で挿入した。以下の「追錄」というのは全体が一字下げ。なお、この「追錄」は吉川弘文館随筆大成版には後の「第六集」の中にほぼ同内容の追記として出てくる。少し表現が異なるので後にそれを示しておいた。]

 

追錄。「宛委餘篇」云、『呂布玉追。曹眞驚帆。曹洪白鶴。』。又、云、『驚帆、魏曹洪所ㇾ名駿馬也。馳馬吳孫權所ㇾ名快船也。二事正相及而又相對。出一時甚竒。』。この條の曹洪とあるは、曹眞の誤なるへし。駿馬(ときむま)に「帆」をもて名づけ、快船(はやふね)に馬をもて名づけし事、共に三國鼎立(ていりつ)にあれば、實に竒也。

□曲亭馬琴「兎園小説」正編第六集所収の「五馬 三馬 二馬の竒談」への附記

  前々會拙編中補遺附錄

「宛委餘篇」云、「呂布有赤兎。張飛有玉追。曹眞有驚帆。曹洪有白鶴。又云、驚帆魏曹洪所ㇾ名駿馬也、馳馬吳孫權所名快舫也。二事正相反。而又相對出一時甚奇【見第三八丁右。】。」。この條の「曹洪」とあるは、「曹眞」の誤なるべし。とき馬に「帆」をもて、名づけ、「はやふね」に「馬」をもて名づけし事、共に三國鼎立の時にあれば、實に奇なり。この事、季春の集合に出だせし拙編「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]の條にいふべかりしを、うち忘れたりければ、追うて、こゝにしるしおくのみ。六日のあやめ、十日の菊、おくれて、いまだ遠くもあらぬを、見かへる人もあらんかとてなり。  解   再識

[やぶちゃん注:「宛委餘篇」明の官僚王世貞の著になる随筆。漢文部を訓読して見る。

   *

呂布に「赤兎」有り、張飛に「玉追」有り、曹眞に「驚帆」有り。曹洪に「白鶴」有り。又、云はく、『「驚帆」は、魏の曹洪が名づくる所の駿馬なり。馳(と)き馬にして、吳の孫權の名づくる所は「快舫」なり。二つの事、正に相ひ反す。而れども、又、相ひ對して、一時に出ずるも、甚だ奇なり。』と。

   *

南船北馬の中国ならではの馬のネーミングとして甚だ腑に落ちる。

「三國鼎立」中国の蜀・魏・呉による時代区分の一つで、三国が鼎立した二二二年から、蜀漢が滅亡した二六三年までを指す。]

 

[やぶちゃん注:以下の本条全体の跋は吉川弘文館随筆大成版にもある。但し、最後の馬琴の「著作堂解識」は底本にはないので、同版で補った。]

 

右「五馬」・「三馬」・「二馬」の拙編、おもひしよりは、ことの多くて、紙の數は、かさなりぬ。世にいふ「下手(へた)の長談義」なるべし。文政八年乙酉三月朔 著作堂解識

[やぶちゃん注:「長尾友藏」サイト「伊達の香りを楽しむ会」の「箱崎村の松五郎とその遺愛の馬、忠孝の名馬」(「五馬」の一の話の梗概と馬琴に伝わるまでの話が読みやすく記されてある)に『家臣長尾友蔵(所左衛門)』とあった。他に、「五馬」の二の話も「飼い主を噛殺した狂馬の話」として略述されてある。]

 

2021/08/15

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(7)

 

〇かさねていふ、松前の老侯は、をさをさ、馬を好み給へば、「乘(のり)くら」のかへなども、大かたならず、と聞えたり。さればにや、寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、鍾愛の駿馬あり。老侯、みづから、これに名づけて「一瞬」といふ。蓋(けだし)、「一瞬」は『瞬目(またゝく)の間(ま)に走ること、いくばく里にか、及ぶ』の義なるべし。この馬は前薩摩侯(さきのさつまこう)【中將重豪公[やぶちゃん注:島津重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)。]。】より贈られし。その封内(ほうない)なる「喜入野(きいりの)の牧(まき)」より出でしものなりとぞ。かくて、亨和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]の夏、「一瞬」、病(やみ)て、死せり。實に五月九日也。老侯、則、その尾をもて、拂子(ほつす)とし、又、その鬣(たてがみ)を駒籠(こまごめ)なる吉祥禪寺に送りて葬らしめ、その上に碑を建つるに及びて、碑文を山本北山子に徵(もと)め玉ひき。かの寺の學寮のうしろなる「一瞬冢(いつしゆんづか)」、是、のみ。江戶にて、駿馬の碑を見ること、いとめづらかに覺ゆれば、錄すこと、左の如し。

駿馬一瞬碑文

良馬世多有。然傳爲者無ㇾ幾何也。非良主其能。不ㇾ得其力而盡其用、主亦或有爲ㇾ之輝揚威悳於一代。關侯赤兎。翼悳玉追是也。若能傳ㇾ後長存者。在辭以文ㇾ之。漢武蒲稍以樂府。楚項烏騅依悲歌。享和元年五月初九。松前老侯愛馬一瞬。病死于廐櫪。侯雅善ㇾ騎。無二駿稱ㇾ意。聞薩摩國出良馬。求之薩摩重豪(シゲヒデ)[やぶちゃん注:前の二字へのルビ。]。辭云。吾不敢欲少年輩所ㇾ愛。鬃毛如ㇾ油。髀項如腴。步驟恊聲律。馳驅合曲度。唯神速若掣電流星則足矣。至旋毛古凶。尾鬣疎密。毛色驥黃。皆非ㇾ所拘論云。公壯ㇾ之。贈封内喜入野所ㇾ出駿馬。一瞬是也。亡ㇾ論眼如ㇾ鈴。蹄如ㇾ鐵。形色大小。不更細說。人望知其爲神駿。自薩摩江戶。路程數千里。跋涉嶮岨力不少罷蹄不少損。精神自若。無ㇾ異常日。於ㇾ是乎侯喜可ㇾ知也。試其能。繫紅練於尾後。驅而奔ㇾ之。一匹練長引不ㇾ墮。如紅虹絰ㇾ天。脚下颼颯。只聞風聲。瞬目間盡調馬上。力猶有ㇾ餘也。侯鍾愛之。朝夕撫養以爲ㇾ樂。及其死。不ㇾ能ㇾ割ㇾ愛。乃取其鬃。瘞于江戶駒込吉祥寺後山。取其尾拂子。朝夕手執ㇾ之。寓愛惜之意。又欲北山信有辭。以傳于後。嗟呼。一瞬遇良主。幸也夫。

  享和元年辛酉夏五月北山信有撰

文化の末にやありけん。老侯、ある日、興繼に告げてのたまはく、

「我、曩(さき)には、只、馬に乘るゆゑをのみ知りて、馬を養ふみちを知らず。さるにより、彼(かの)『一瞬』に乘る每(ごと)に、色衣(いろきぬ)なんどを引かするに、その絹の地に着(つ)かで、いと長くひるがへるを、興あることに思ひしは、甚しき誤なりき。若(もし)、さる事をせざりせば、彼の馬をば、殺すまじきに。今に至りて、三折(さんせつ)の效(かう)を悟るも、甲斐なし。」

とて、いとをしみ玉ひしとぞ。

 此ごろ、使者をもて、予に、「馬尾(ばび)の拂子」を見せさせて、

「いまだ、この拂子の箱、書(かき)つけ、なし。何とか、かゝすべき。」

と問はせ給ひしかば、

「『驥拂(きふつ)』とや、あるべき。『孟反拂(もうはんふつ)』なども、しかるべからん歟。」

と答へまうしき【右、「二馬」之一。】。

 

[やぶちゃん注:駒籠(こまごめ)なる吉祥禪寺」曹洞宗諏訪山吉祥寺(きちじょうじ)は東京都文京区本駒込三丁目に現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、ネットで調べる限りでは、「一瞬塚」はないようだし、碑が残っているかどうかも判らない。ただ、サイド・パネルを開くと、大きな碑が数枚立っている画像があり、或いはこの中に現存しているのかも知れない。いつか、行って調べてみたい。

「封内(ほうない)」領国内。

「喜入野(きいりの)の牧(まき)」鹿児島県鹿児島市喜入町(きいれちょう)はあるが、ここかどうかは判らない。

「山本北山」(宝暦二(一七五二)年~文化九(一八一二)年)は儒者。信有は本名。二十代から三十歳代の著作「作文志彀」(さくぶんしこう)・「作詩志彀」で古文辞学の詩文観を批判し、清新性霊の説を唱えて、漢詩文界に大きな影響を与えた。博学で天文・兵学・医卜などにも通じた。「寛政異学の禁」では、異学の五鬼の一人に挙げられたが、自説を曲げなかった気骨の人でもある(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「駿馬一瞬碑文」「重豪」のルビ以外は返り点のみである(吉川弘文館随筆大成版も同じ)。我流で訓読してみるが、一部で返り点の掟破りをしている。読み易くするために段落を成形した。

   *

 

    駿馬「一瞬」碑文

 

 良馬は世に多く有り。

 然れども、傳へ爲(な)す者は、幾何(いくばく)も無きなり。

 良き主(あるじ)に遇ひて其の能を知るには非ずして、其力を奮して、而(しかれ)ども、其の用を盡くすことを得ず。

 主も亦、或いは、威悳(いとく)[やぶちゃん注:威厳と勇猛なることを誇示すること。]に於いて、一代を輝揚し、之れを爲さしむるは有り。

 關侯の「赤兎」、翼悳の「玉追」、是れなり。

 若(も)し、能く、後に傳へて、長く存する者は、辭に以つて、之れを文にする在り。

 漢の武蒲、稍(やや)、「樂府(がふ)」を以つてす。

 楚の項(こう)、烏(う)にて、騅(すゐ)、悲歌に依(よ)せり。

 享和元年五月初九、松前老侯愛馬「一瞬」、病みて、廐櫪(きうれき)に死す。

 侯、雅(が)にして、騎を善(よ)くし、駿が意を稱(はか)ること無し[やぶちゃん注:「駿馬の意志を探らなければならないということは一度もなかった」の意で採った。]。

 薩摩國に良馬の出づるを聞き、之れを、薩摩重豪(しげひで)公に求む。辭に云はく、

「吾れ、敢へて、少年の輩より愛せるは、鬃毛(そうまう)、油のごとく、髀(はい)[やぶちゃん注:太腿。]・項(うなじ)、腴(ゆ)[やぶちゃん注:脂(あぶら)。]のごとく、步驟(ほしゆう)せば、聲律を恊(あは)せ、馳驅(ちく)すれば、曲度に合はせるがごときをは、欲せず。唯、神速にして、掣電流星(せいでんりゆうせい)のごとき「則足」なり。旋毛、古くして凶(あらあら)しく、尾・鬣(たてがみ)の疎密にして、毛色は驥黃(きわう)に至れば、皆、拘論する所に非ず。」

と云ふ。

 公、之れを、

「壯(さう)なり。」

とし、封内「喜入野」に出づる所の駿馬を贈る。

 「一瞬」、是れなり。

 眼(まなこ)の鈴のごとく、蹄(ひづめ)の鐵のごときは、論、亡く、形・色・大小、更に細說せず。

 人、望めば、其れ、「神駿」たるを知れり。

 薩摩より江戶に至るに、路程、數千里。嶮岨を跋涉して、力、少しも罷(つか)れず、蹄、少しも損ぜず、精神、自若として、常の日と異なること無し。

 是れに於いてや、侯の喜び、知るべし。

 其の能を試むれば、紅(べに)の練(ねりぎぬ)を尾の後(うしろ)に繫ぎ、驅けて、之れを奔(はし)らせば、一匹の練、長く引きて、墮ちず、紅(くれなゐ)の虹(にじ)の天(そら)を經(ふ)るがごとし[やぶちゃん注:「絰」では意味が通らないので、ここは吉川弘文館随筆大成版の『経』に代えた。]。脚下の颼颯(さうさつ)、只、風の聲と聞けり。瞬目の間に、盡く、馬上にて調(てう)して、力、猶、餘り有るなり。

 侯、之れを鍾愛し、朝夕、撫でて養(か)ひ、以つて、樂しみと爲す。

 其の死に及んで、愛(かな)しみを割(た)つこと能はず、乃(すなは)ち、其の鬃(たてがみ)を取り、江戶駒込吉祥寺の後山に瘞(うづ)み、其の尾を取りて、拂子(ほつす)と爲し、朝夕、手にて之れを執り、愛惜の意を寓(よ)す。

 又、北山信有が辭を求め、以つて、後に傳へんと欲す。

 嗟呼(ああ)、「一瞬」、良主に遇ふ。幸ひなるかな。

  享和元年辛酉(かのととり/シンユウ)夏五月 北山信有 撰

   *

正直、言おう。この訓読は楽しかった。

『關侯の「赤兎」』曹操が関羽を懐柔するために与えた「赤兎馬」(せきとば)。「三國志」及び「三國志演義」に登場する馬で、「演義」では西方との交易で得た「汗血馬」といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる。ともかくも「赤兔馬」自体は固有名詞でなく、そうした種群を指す一般名詞である。詳しくは参照したウィキの「赤兎馬」を見られたい。

『翼悳の「玉追」』同じく民間伝承で、張飛の愛馬の名前が玉追であるとネットにあった。張飛の字(あざな)は「翼であるとあるから、恐らく、この誤記であろう。

「漢の武蒲」不詳。ただ、漢の武帝は宮中の音楽署「楽府」を創設し、そこで盛んに楽府が製作された。しかし「帝」の誤記にしてはおかしい。

「楚の項(こう)、烏(う)にて、騅(すゐ)、悲歌に依(よ)せり」項羽は最後に烏江に追い詰められ、愛馬「騅」だけを渡し場の亭長に託して郷里楚へ帰そうとした。しかし、項羽が川岸で討ち死にするや、騅は、一声嘶き、舟から烏江へ身を投げて死んだ。「悲歌」は垓下で虞美人と別れるに臨んで彼女と騅を詠んだ有名なあの一篇を謂う。私は漢文であの烏江の最期のシークエンスを教えると、つい涙が出そうになるのを常としていた。詩は、

   *

 力拔山兮氣蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可奈何

 虞兮虞兮奈若何

   *

である。

「文化の末」文化は十五年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に文政に改元している。

「孟反拂(もうはんふつ)」「論語」の「雍也第六」にある「子曰孟之反不伐章」に基づくか。「Web漢文大系」の当該部を参照されたい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(6)

 

〇附ていふ、文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。干支は「みづのえむま」。]の春閏正月十六日、戲作者式亭三馬、死す。享年四十七歲なり【三馬は江戶の人、名は太助。板木師菊池茂兵衛が子なり。】。同年の夏六月二日、鳥亭焉馬(うていえんば)、死す。享年八十歲。【焉馬も江戶の人、名は和肋。はじめは大工なり。後に商人となりて、足袋を鬻げり。】。同年月日、錦馬(きんば)、死す。享年七十許歲(ばかり)なるべし【錦馬は、富本豐前太夫が俳名なり。その實名を「午之助」といへり。よりて、その親しきものは、渠を「午」とのみ呼びしとぞ。】。識者、戲れにいへること、あり。今茲(ことし)は、支干、「壬午」に當れり。「壬」は「水」なり。逝(ゆき

てかへらぬ象(かたち)あり。

「この春、三馬が死せしより、焉馬・錦馬も亦、死せり。かくて、「三馬」の名の數の、空しからぬも、竒なり。」

とぞ。ある人、これを予に報(つげ)て、

「和君(わぎみ)も、用心し給へかし。」

といはれしに、予答へて、

「いな。その數には入るまじ。錦馬は、素より、識る人ならず。焉馬・三馬等とは、この年來(としごろ)、絕えて、親しく交(まじは)らず。忌嫌(いみきらは)るゝこと、聞えしに、いかでかは伴ふべき。且、そのわざは似たれ共、行ひさまの異(こと)なるを、閻王は、よく、しろし食(めし)けん。かゝれば、氣づかひ、あるべからず。」

と、うち戲れたりければ、ある人、いたく、笑ひにけり。これらは要なき事ながら、そゞろに筆の走ればなん【右、「三馬」。】

 

[やぶちゃん注:「式亭三馬」(安永五(一七七六)年~文政五年閏一月六日(一八二二年二月二十七日))は本業として薬種屋を営み、作家で浮世絵師でもあった。滑稽本「浮世風呂」や「浮世床」などで知られる。本名は菊地泰輔とするもの、名は久徳で字が泰輔とするものもある。浅草田原町(現在の東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師菊地茂兵衛の長男として生まれた。

「鳥亭焉馬」(寛保三(一七四三)年~文政五年六月二日(一八二二年七月十九日))は戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖ともされる。本名は中村英祝。本所相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務め、大工と小間物屋を営んだ。大田南畝宅を手がけた他、足袋・煙管・仙女香(白粉(おしろい)の商品名。江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋で売り出した。歌舞伎役者三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」に因んで名づけられたもので「美艷仙女香」とも称した)も扱った。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自らも浄瑠璃を書いた。四代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」・「太平樂卷物」・「碁太平記白石噺」などがある。

「錦馬」「富本豐前太夫が俳名」富本節の太夫の名跡の二代目富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう 宝暦四(一七五四)年~文政五年七月十七日(一八二二年九月二日))江戸出身。初代富本豊前掾(初代は本名が福田弾司で、宮古路豊後掾の門弟。「富本豊志太夫」と名乗って富本節を興し、後に富本豊前掾藤原敬親、次いで筑前掾となっているが、実際にはこの「富本豐前太夫」は名乗っていない)の実子。初名を富本之助という。幼くして父と死別し、明和三(一七六六)年夏、中村座で「文月笹一夜(ふみづきささのひとよ) 下の卷」で床に登った。明和七年に父の名二代目豊志太夫、安永六(一七七七)年に二代目豊前太夫として襲名。文化一四(一八一七)年には受領して「富本豊前掾藤原敬政」と名乗った。面長な顔から「づら豊前」と言われ、美声で人気を誇った(以上はウィキの「富本豊前太夫」に拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(5)

 

〇又、一奇事あり。松前の藩中にて、しかるべき輩(ともがら)は、馬、一、二疋をもたぬは、なし。

 しかるに、ともすれば、夜中(やちう)に、熊の厩(むまや)に入りて、馬を啖(くら)ふこと、あり。殊にすぐれし大熊は、まづ、その馬をくらひ殺して、おのが背(そびら)に引かけつゝ、走りて、山にもてゆく、とぞ。

 これにより、おのもおのも、厩の戶鎖(とざし)を固くして、その害を防ぐこと、夜盜(よたう)を禦(ふせ)ぐに異ならねども、これらは、常の事なれば、彼の地の人は、何とも、おもはず。

 それにも、まして、めづらかなりしは、文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。]の春のころ、松前の家臣何某(なにがし)が【その姓名をわすれたり。】、厩の馬、ある夜、頻りに狂ひ騷ぎて、いと苦しげに嘶(いなゝ)きたり。

 あるじは、これに驚き寤(さめ)て、

「厩に、熊や、入りにけん。みな、とく起きよ。」

と呼び覺(さま)して、下部(しもべ)に紙燭(しそく)をとらせつゝ、出(いで)て、厩にゆきて見るに、戶ざしは元のまゝにして、物の入りたるやうにも、あらず。

 戶を推(おし)ひらきて、内を見るに、目にさへぎるものも、なし。

 されども、馬は苦しげに嘶くこと、はじめの如し。

 こゝろ得がたく思ひしかば、紙燭を高くあげさせて、猶、あちこちを、つらつら見るに、あやしむべし、ひとつの鼬(いたち)、馬の項(うなぢ)にうちのぼりて、その鬣(たてがみ)を啖破(くひやぶ)りつゝ、血を吸ふてぞ、をれりける。

「さては。彼奴(かやつ)がわざなりけり。要こそ、あれ。」

と、持ちたる棒を取りなほさんとする程に、鼬は、はやく、飛下(とびくだ)り、袂(たもと)の下を潛ると見えしが、ゆくへもしらず、なりにけり。

 げに、繫(つなが)れたる馬のうなぢを、鼬に啖れては、せん方なきも、ことわりなり。そのきずは、いと深くて、拳(こぶし)も入るべきばかりなるを、酒にて洗ひ、藥を傅(つけ)て、とりどり、すれども、久しく癒(いえ)ず。

 凡、ニヶ月あまりにして、漸く、おこたり果てしかど、その處にのみ、鬣、なくて、疵物にこそ、なりにたれ。

「鼬の馬を啖ひし事は、松前にても珍らし。」

とて、人みな、舌を卷(まき)しとぞ。

 この一條(ひとくだり)は、礪﨑(かきざき)生【字[やぶちゃん注:「あざな」。]は三七。】、その年文月の初めつかた、我庵を訪はれし日、云々(しかじか)と話せられたり。おのれ、是を打聞(うちきゝ)ておもふに、

『天智(てんぢ)の帝(みかど)の御宇、高倉の御時に、鼠が、馬の尾に憑(つき)て、巢(す)をくひけるは、事はふりにたり。新奇に走る今の世には、鼬が鼠に代るべく、亦、その尾にはつかずして、鬣をこそ、くひつらめ。』

と、あからさまに答へしかば、礪﨑生は、手をうちならして、ほとほと、笑評(ゑつぼ)に入りにけり【右、「五馬」之五。】。

 

[やぶちゃん注:「鼬」既出既注。ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(日本固有種。本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入によるもの))。博物誌は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。

「礪﨑(かきざき)生【字は三七。】」松前藩家老で画家としても知られた蠣崎波響(宝暦一四(一七六四)年~文政九(一八二六)年)がいるが、流石に家老を「生」呼ばわりはすまい(いや、馬琴ならやりかねないか?)。その縁者か?

「天智(てんぢ)の帝(みかど)の御宇、高倉の御時に、鼠が、馬の尾に憑(つき)て、巢(す)をくひける」前者は日本書紀の天智天皇元(六六二)年四月の条に出る、鼠が馬の尾の中に子を産んだ事件。

   *

夏四月。鼠產於馬尾。釋道顯占曰。北國之人將附南國。蓋高麗破。而屬日本乎。

(夏四月、鼠、馬の尾にて產(こをう)む。釋(はうし)道顯(だうけん)占ひて曰はく、「北國の人、將に南國を附せむとす。蓋し、高麗、敗れ、日本に屬せむか。」と。)

   *

後者は「平家物語」巻第五にある「馬の尾に鼠巢食ふ事」(「物怪之沙汰」とも)の一節。清盛の馬の尾に鼠が巣を作った事件。

   *

 また、舍人(とねり)あまたつけて、ひまなく撫で飼はれける馬(むま)の尾に、一夜がうちに、鼠、巢をくひ、子をぞ產みたりける。

「これ、ただごとにあらず。」

とて、七人の陰陽師に占はせられければ、

「重き御愼み。」

と申す。

 この馬は、相摸の國の住人大庭(おほば)の三郞景親が、

「東(とう)八箇國一の馬。」

とて、入道相國に參まゐらせたりけり。黑き馬の、額の少し白かりければ、名を「望月」とぞつけられたりける。やがて、陰陽頭(おんやうのかみ)泰親(やすちか)にぞ賜はりける。

 昔、天智天皇の御宇に、『寮の御馬の尾に、鼠、巢をくひ、子を產みたるには、異國の凶賊、蜂起したける。』とぞ、「日本記(につぽんぎ)」には記されたる。

   *

 以下は「五馬」の馬琴による纏め。辛気臭いものである。]

 

 すべてこの「五馬」の奇談は、いぬる文政二年より五年までの事にして、予が聞く所、かくの如し。されば、宇宙の廣大なる、かゝる事は、いくらもあらん。よりて竊(ひそか)に評すらく、

「かの箱﨑なる農家の馬は、神にして、且、義烈なるもの。又、簗川(やなかは)の近村なる農夫の飼(かへ)るは、『惡馬(あくば)』なり。これらは、上に論じたり。川越なるは、『靈馬』にして、高輪なるは、『狂馬』なり。又、松前の家臣の馬は、是を『痴馬(ちば)』ともいふべし。しかれども、身を絆(はん)【音「牟」。】に繫(つなが)れては、虎狼なりとも、いかゞはせん。譬(たとへ)ば、人の利祿(りろく)に繫れ、或は、妻子に繫がれつゝ、愛惜嗜慾(あいじやくぎよく[やぶちゃん注:「ざ」はママ。])[やぶちゃん注:「あいじやくしよく」が普通。ある対象や状態を大切にして手放したり、傷つけたりするのを惜しむことと、欲するままにある行動をしようと思う欲求。]に榮衛(えいえい)[やぶちゃん注:漢方用語だが、正常な生命体としての個体の維持の意で採ればよかろう。]を滅却せらるゝものに似たり。利祿・妻子は緣なり。愛惜嗜慾は鼬の如し。これを『火宅(くわたく)の煩惱』といふ。かゝれば、人の賢不肖・禍福・得失・寵辱(ちようじよく)・榮枯、皆、この『五馬』の中にあり。『莊子が一馬』、『禪家の十牛』、及(また)、『劉安が塞馬』の言(こと)も、よに、この外は、あらずかし。

 

[やぶちゃん注:「莊子が一馬」「莊子」(そうじ)の「斉物論第二」の一節。論理派のソフィストのチャンピオン公孫龍の「白馬非馬論」(「白い馬」とは「馬」ではないとする詭弁)を念頭に置いてそれを喝破したもの。

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以指指之非指。不若以非指喩指之非指也。以馬喩馬之非馬。不若以非馬喩馬之非馬也。天地一指也。萬物一馬也。

(指を以つて、指の指に非ざるを喩(さと)[やぶちゃん注:「諭」と同義。]すは、指に非ざるを以つて、指の指に非ざるを喩すに若(し)かざるなり。馬を以つて馬の馬に非ざるを喩すは、馬に非ざるを以つて馬の馬に非ざるを喩すに若かざるなり。天地は一指なり。萬物は一馬なり。)

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「禪家の十牛」禅宗の「十牛圖」(じゅうぎゅうず)のこと。悟りに至る階梯を十枚の絵図と詩で表したもの。「真の自己」を「牛」にシンボライズし、「真の自己」を求める「自己」は「牧人」の姿で表わされる。最初の作者は北宋の臨済宗楊岐派の禅僧廓庵(かくあん)とされる。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「劉安が塞馬」誰もが漢文でやった「塞翁が馬」のこと。同話は前漢の皇族で学者であった淮南王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)の「淮南子」(えなんじ)の「人間訓」に載る。]