日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(1)
[やぶちゃん注:非常に長い(第一巻全部)ので、分割する。語注も、もう、精神的に疲れたので、手取り足取りはやめた。悪しからず。]
○造釀(さけつくり)
酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず。日本(にほん)にては、「酒」の古訓を「キ」といふ。是れ、則ち、「食饌(け[やぶちゃん注:二字へのルビ。])」と云ふ儀なり。「ケ」は「氣」なり【字音をもつて和訓とすること、例(れい)あり。「器(き)」を「ケ」といふがごとし)。】。神に供し、君に献(たて)まつるをぱ、尊(たつと)みて、「御酒(みき)」といふ。又、「黑酒」(くろき)・「白酒(しろき)」といふは、「淸酒」・「濁酒(だくしゆ)」の事と、いへり。○「サケ」といふ訓儀は、「マサケ」の畧にて、「サ」は助字、「ケ」は、則ち、「キ」の通音なり。又、一名(いちめう)、「ミワ」とも云。是れは、「酒を造る」を「釀(かも)す」といへば、「カ」を畧して「味」の字に冠(かんむ)らせ、古歌に、「味酒(うまさけ)の三輪(みわ)」、又、「三室(みむろ)」といふ枕言(まくらことば)なりと、「冠辭考」には、いへり。されども、「味酒(うまさけ)の三輪」・「味酒の三室」・「味酒の神南備山(かみなみやま[やぶちゃん注:「備」にはルビがない。以下のルビ配置から見て、「び」は前の「み」に吸収されている。]」とのみ、よみて、外に用ひて、よみたる、例、なし。神南備(かみなみ)・三室とも、これ、三輪山の別名にて、他(た)には、あらず。是れによりて、おもふに、「萬葉」の「味酒神奈備(うまざけかみなみ)」とよみしを、本歌として、三輪・三室ともに、神の在(いま)す山なれば、「神(かみ)」といふこゝろを通じて、詠みたるなるべし【「ちはやふる神」と云うを、「ちはやぶる加茂(かも)」「ちはやふる人(うち[やぶちゃん注:「氏(うぢ)」の当て訓。])」と、よみたる例のごとし。】。これによりて、「三輪の神(かみ)」・「松(まつ)の尾の神」をもつて、酒の始祖神とするも、その故なきにしもあらず。又、「日本紀」崇神天皇八年、高橋邑人(さとひと)「活日(いくひ)」をもつて、「大神(おほかみ)の掌酒(さかひと)」とし、同十二月、天王(てんわう)、「大田田根子(おほたたねこ)をもつて、倭大國魂(やまとおほくにたま)の神を祭らしむ云云。「大國魂」は「大物主(おほものぬし)」と謂ひて、三輪の神なり。されば、爰(こゝ)に掌酒(さかひと)をさだめて、神を祭りはじめ給ひしと見えたり【今、酒造家に帘(さかはた)にかえて、杉をば、招牌(かんばん)とするは、かたがた、其の緣なるへし。】。又、此の後(のち)、大鷦鷯(おほさゝき)の御代(みよ)に、韓國(からくに)より參來(まうき)し、兄曽保利(えそほり)、弟曽保利(おとほり)は、「酒を造るの才あり」とて、麻呂(まろ)を賜ひて、酒看良子(さかみいいらつこ[やぶちゃん注:「い」のダブりは恐らく衍字。])と號し、山鹿(やまか)ひめを給ひて、酒看郞女(さかみいらつめ)とす。酒看酒部(さかみさけべ)の姓、是れより始まる。是より、造酒(さうしゆ)の法、精細と成りて、今、天下日本の酒に及ぶ物なし。是れ、穀氣(こくき)最上の御國(みくに)なればなり。それが中(なか)に、攝刕・伊丹に釀(かも)するもの、「尤も醇雄なり」とて、普(あまね)く、舟車(しうしや)に載せて、台命(たいめい)[やぶちゃん注:貴人の命令。]にも應ぜり。依つて「御免」の燒印を許さる。今も遠國にては諸白(もとはく)をさして、「伊丹」とのみ稱し呼べり。
[やぶちゃん注:底本からトリミングした(以下同じ)。キャプションは、
伊丹酒造(いたみしゆさう)
米あらひの圖
である。]
されば、伊丹は、日本上酒(じやうしゆ)の始めとも云うべし。是れ又、古來、久しきことにあらず。元は文祿・慶長[やぶちゃん注:一五九二年から一六一五年まで。]の頃より起こって、江府(かうふ)に賣り始めしは、伊丹隣鄕(りんごう)鴻池村(かうのいけむら)山中氏(やまなかうぢ)の人なり。その起こる時は、纔か五斗一石を釀して、擔(にな)ひ賣りとし、あるいは、二十石・三十石にも及びし時は、近國にだに、賣りあまりけるによりて、馬に負ふせて、はるばる江府に鬻(ひさ)き、不圖(はからず)も多くの利を得て、其の價(あたひ)を、又、馬に乘せて帰りしに、江府、ますます繁盛に隨ひ、石高も限りなくなり、富、巨萬をなせり。繼いで起こる者、猪名寺屋(いなでらや)・升屋と云て、是は伊丹に居住す。舩積(ふなづみ)運送のことは、池田滿願寺屋を始めとす。うち繼いで、釀家(さかや)、多くなりて、今は伊丹・池田、その外、同國西宮・兵庫・灘・今津などに造り出だせる物、また、佳品なり。其の余、他國に於いて、所々、その名を獲(え)たるもの、多しといへども、各(おのおの)、水圡(すいど)の一癖(いつへき)、家法の手練(しゆれん)にて、百味(ひやくみ)、人面(にんめん)のごとく、また、つくし述べからず。又、酒を絞りて、清酒とせしは、纔か、百三十年以來にて、其の前は、唯(たゞ)、飯籮(いかき)[やぶちゃん注:糯米を蒸したりする際に用いる竹製の米揚げ笊(ざる)。]を以、漉したるのみなり。抑(そもそも)、當世、釀する酒は、新酒(しんしゆ)【秋彼岸ころより、つくり初(そ)める。】・間酒(あいしゆ)【新酒・寒前酒の間に作る】・寒前酒(かんまへさけ)。○寒酒(かんしゆ)【すへて、日數も、後程、多く、あたひも、次第に高し。】等なり。能中(なかんつく)、新酒は、別して、伊丹を名物として、其の香芬(かうふん)、弥(いよいよ)、妙なり。是れは、秋八月彼岸の頃、吉日を撰(えら)み定めて、其の四日前に、麹米(かうしこめ)を洗ひ初(そ)める【但し、近年は九月節「寒露」[やぶちゃん注:秋分の後の十五日目、現在の新暦で十月八、九日頃。露が寒冷にあって凝結しようとするの意で、秋の深まりを意味する命名。]前後より、はしむ。】。
[やぶちゃん注:「酒は、これ、必ず、聖作(せいさく)なるべし。其の濫膓は宋の竇革(とくかく)が「酒譜」に論じて、さだかならず」中国由来の酒は天が人に与えたものとする「酒星酒造説」。「中国における酒文化の発展と酒市場の現状」(PDF・二〇一四年十月自治体国際化協会・北京事務所製作)によれば、『中国では古来より、酒は天の酒星が作ったという伝説がある。晋の歴史を記した『晋書』の中に「軒轅の右角南三星を酒旗と曰う、酒官の旗なり、宴饗飲食を主る」と、酒旗すなわち酒星に関する記載がある。なお、軒轅も星に付けられた名前である』。『酒旗星の発見は、今から』三千『年近く前に書かれた儒教経典の一つである『周礼』に記載があり、古代祖先はこの星が宴饗を司る星と考えたため、酒旗星という名を付けている』。『唐代の詩人、李白の『月下独酌・其二』に、「天若し酒を愛せざれば酒星天に在らず」と、天がもしも酒好きでなければ、天に酒星という星はなかったであろうという詩句がある』。『また、宋の時代の竇苹は『酒譜』の中で、「天に酒星有り、酒の作らるるや、其れ天地と并べり」と、酒造りは酒星に始まり、天地が誕生するとともに存在したと述べている』とある。
「松(まつ)の尾の神」古来、酒の神松尾神(由来不明。ウィキの「松尾大社」によれば、『松尾大社側の由緒では渡来系氏族の秦氏が酒造技術に優れたことに由来するとし、『日本書紀』雄略天皇紀に見える「秦酒公」との関連を指摘する』。『しかし、酒神とする確実な史料は上記の中世後期頃成立の狂言「福の神」まで下るため、実際のこの神格の形成を中世以降とする説もある』。『それ以降は貞享元年』(一六八四年)『成立の『雍州府志』、井原西鶴の『西鶴織留』に記述が見える。社伝では社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っている』とある)を祀る、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社(グーグル・マップ・データ)。小原隆夫氏のサイト内の謡曲「松尾」に解説に、『この社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれる。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林業を興したが、大宝元』(七〇一)年『に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平』五(七三三)年『に社殿背後より泉が湧き出たとき、『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。社殿には沢山の酒樽が寄進されている。また亀がこの社の神使とされ、松尾山から流れた渓流が「霊亀の滝」となり、霊亀の滝の近くに「亀の井」と名付けられた霊泉がある。酒造家はこの水を持ち帰り、醸造時に混ぜて使うという。また、この水は長寿の水として知られているようで、多くの人がこの水を汲みに訪れているようである』とある。
「鴻池村」兵庫県伊丹市鴻池。]
酒母(さけかうじ)【むかしは、麥にて造りたる物ゆへ、文字(もんじ)「麹」につくる。中華の製は、甚だ、むつかしけれども、日本の法は便(びん)なり。】
彼岸頃、※入定日(もといれじやうじつ)四日前の朝に[やぶちゃん注:「※」は判読不能。底本のここの左頁の五行目四字目。ただ、「もと」という読みから、酒母=「酛(もと)」と思われる。但し、「酛」の字の異体字には見あたらない。見た感じは、「酉」+「指」の崩し字のように見える。後の文に出る「★」の私の注も参照されたい。 ]、米を洗ひて、水に漬す(ひた)こと一日、翌日、蒸して、飯となして、筵にあげ、柄械(えかひ)[やぶちゃん注:「其二」の図の、右側中央の男が持って均すのに使っている長い柄で先が太い櫛状(恐らく五本櫛)になった木製具の名であろう。]にて拌(かきま)せ勻(なら)し、人肌となるを候(うかゞ)ひて不殘(のこらす)、槽(とこ)に移し【「とこ」とは、飯(めし)いれの箱なり。】、筵をもつて、覆ひ、圡室(むろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のうちにおくこと、凡そ半日、午の刻ばかりに、塊りを摧(くた)き、其の時、「糵(もやし)」[やぶちゃん注:次項参照。食べる「もやし」ではない。]を加ふ事、凡そ、一石に、二合ばかりなり。其の夜(よ)、八つ時分[やぶちゃん注:午前二時頃。]に槽(とこ)より、取り出たし、麹盆(かうじふた)の眞中へ、「つんぼり」と盛りて、拾枚宛(づゝ)かさね置き、明くる日のうちに、一度(いちと)、飜(かへ)して、晚景(はんかた)を待ちて、盆(ふた)一ぱいに拌(か)き均(なら)し、又、盆を、「角(すみ)とり」にかさねおけば、其の夜(よ)七つ時には、黄色(わうしよく)・白色(はくしよく)の麹と成る。
麹糵(もやし)
かならず、古米(こまひ)を用ゆ。蒸して飯(めし)とし、一升に欅灰(けやきはい)二合許[やぶちゃん注:「ばかり」。]を合せ、
[やぶちゃん注:キャプションは、
其二
麹釀(かうじつくり)
である。]
筵、幾重(いくへ)にも包みて、室の棚へ、あげをく事、十日許りにして、毛醭(け)[やぶちゃん注:黴(かび)。酒や酢の表面にできる白黴。]を生ずるをみて、是れを麹盆(かうじぶた)の眞中へ、「つんほり」と盛りて後、盆、一はいに搔きならすこと、二度(と)許りにして、成るなり。
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