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2021/08/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 隱語(かくしことば)

 

   ○隱語(かくしことば)

唐土に市語[やぶちゃん注:漢籍が出典なので、「しご」と読んでおく。市街の特定の職業に従事する集団内で用いられる特殊な隠語のようである。]あり。「委巷叢談」に見えたり【なほ彼邦に隱語・謎語あれど、予が「猜彙」に載せたれば、こにしるさず】。吾邦の工商、おのおの、その職業によりて隱語あり。屋根屋にて、熱き飯と冷飯とを、まじへしを、「ふる板まぜ」といひ、縫はく屋にて、から汁に、むきみを入れたるを、「雪に千鳥」といへり。これに似て非なるものあり。忌詞といひ、謎語といひ、方言といひ、記號といふ。是なり。今、その、一、二をいはゞ、忌詞は、「延喜式」に、神言の内外の七言を載せたれば、いとふるし。今も雨を「おさくり」【「滑稽雜談」。】、寢るを「いねつむ」【「世事談綺」。】といふは、正月の忌詞なり。謎語は鑷子(ケヌキ)を「南方」といへば、「不毛」の意なり【「毛吹草」】。豆腐に紅葉を付くるは、「かうえうに」との、こゝろなり【「堺鑑」。】。方言は出羽にて、アヰペチヤ、コイチヤ、ゴサモセチヤといひ、大和にて、テイテイゴザレ、ソウハツチヤカタツカ、ケンズイ、ヱソマツリといへる類にて、なほ詳には越谷吾山の「物類稱呼」に、諸國にいへるを載せたり。この因に[やぶちゃん注:「ちなみに」。]いはゞ、都下にて無賴の徒の常言を目してセンホウと云、愚なるを「はね」と云ひ、錢なきを「ひつてん」といへるなど、擧ぐるに遑あらず。これ、一種の方言ともいひつベし。記號は荒ものに、

Kakusi1

(ダイ ヤマ ウロコ ツゲ カタリ ウシヤク ヌケ キウ[やぶちゃん注:画像は底本のものをトリミング清拭した。読みは推定で記号に合わせて切ってみた。以下も同じ。])。茶及び烟草店に、

Kakusi2

(ノ ツレ マル ホウ キチ メ マウス)。これらの記號をもて數目をしるす。此類、藥種屋、紙屋にても異なり。俗に是を「通りふてう」[やぶちゃん注:「通り符牒」。]と云ふ。商家、各、別に記號あるをもて、なり。大路を魚、或は、野菜など荷ひ鬻る[やぶちゃん注:「ひさぐる」。]ものゝ云ふもの、一をソク【ヨロヅともいへり。】、二をブリ、三をキリ、四をダリ、五をガレン【又、「め」ともいへり。】、六をロンジ、七をサイナン、八をバンドウ、九をガケといひ【この中、ヤミを漏せり。】[やぶちゃん注:頭書。]、一緡(ヒヤク)を一万石、二緡五十錢を「奴」ともいへり。商賈は、もと利をもて、問わたる業とするものなれば、さる隱語も、いで來るは、自らの[やぶちゃん注:「おのづからの」。]勢にて、和漢ともに人情の常なりけり。僧徒に隱語あるは、又、ふるし。「東坡志林」に、『僧謂ㇾ酒爲般若湯、魚爲水梭花、雞爲鑽籬菜。』といへり。また、「一休はなし」に、一休和尙の、蛸を、もとめられて、「千手觀音蛸手多」と云ふ頌を作られしも、その比の隱語なるべし。今も酒を「唐茶」といひ、蛸を「天蓋」といひ、妓童を「善男子」、衣服のなきものを「誕生佛」ともいへり。去りし比、山岡明阿の話とて、きけるは、甲斐の身延山の僧徒の隱語に、女の事を「花」といへり。ある時、一寺の門前を女の通りけるを、僧の見て、「よき花の、とほるは。」といへば、一人の僧、「たてぬか。」といふ。答へて、「花甁がない。」といひけるとかや。「花甁」とは「金」の事なりとぞ。かねなくては、心にまかせぬ、といへることなるべし。また、盜賊の隱語とて、ある人のかたれるは、土藏を「娘」といひ、犬を「姑」といへり。たとへば、「某の所によき娘あり。見ずや。」といへば、一人の賊、いへらく、「しかなり。おのれ、さいつ頃、ゆきて、あたり見んとおもふに、しうとめの、いとやかましういひければ、『折わろし』とおもひて、やみぬ。」など、いへるとぞ。これらは作りまうけしものにもやあらんかし。されど、これらの事、あへて、なき事とも、いひがたし。物に見えたるは、「臥雲日件錄」に、『盜賊中有隱語。曰止湯、曰合沐、曰二錢湯。銭湯者不ㇾ論貴賤各領ㇾ所ㇾ盜。曰合沐者、諸賊等分其財。曰止湯者。不ㇾ論多少所ㇾ盜歸賊中首也。』とあるを見れば、その來れることも亦、久しと云ふべし。また、劇場にては、趣向を「世界」といひ、意地わろきを「皮肉」といふ。茶屋にては、物を小がひにするを、「久松」といひ、鹽を「行德」といへり。また、遊女の隱語あり。「ぬし」とは客人を始め、敬する人をいふ。「さとゝ」は「やぼ」と同意、「さはり」とは「月の不淨」を云ふ。今は、大かた、「行水」といふ。「げびさう」とは「さもしき事」、「おかん」とは「正月中の節の[やぶちゃん注:「せちの」。]食もの」なり。「まがき」とは、廛(ミセ)と落間[やぶちゃん注:「おちま」。他の部屋よりも床が一段と低くなった部屋。]のあひだに、立格子戶の所をいふと、寫本「洞房語園」に見えたり。「武野俗談後篇」に、契情遊女は、その家々にて、「かくし詞」・「相詞」、又は、「ふてう辭」などありて、昔より、客の聞きしらぬことを、女郞同士は、いひさやぐことにて、外へは何といふこと、しれわからぬやうにすることなり。松葉屋にては、聊も鄙しき[やぶちゃん注:「ひなしき」。]「ふてう辭」をつかはずして、瀨川が作意にて、「源氏六十帖なり」といふ。風流の事なり。今にかはらず、その通りなり。その一、二をだに、しるす。「はゝき木」とは、「間夫」を云ふ「ふてう」なり。『ありとは見えてあはぬ君かな』といふ歌の心なり。「かゞり火」とは、「やりて」といふ事なり。心の火を燒きたり、消したり、ものおもふ、と云ふ心なるべし。「蓬生」とは、「たばこ」の事なり。「夕顏」とは、「うらに來る客」の事、『よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見ゆる花の夕顏』といふこゝろなるべし。「朝顏」とは、「後[やぶちゃん注:「きぬぎぬ」。]の朝」のこと、「雲隱れ」とは、「きれた客」の事、「唐衣」とは「きのしや」[やぶちゃん注:]の事、「葵」とは、「錢」のことなり、とあり。柳里恭の「獨寢」といふ隨筆に、女郞仲間にて、「こよひは、よい客じや、あしき客じや。」などいひて、物がたるに、「唐音にて云ひたきものなり」といひしなり。長崎にては、「内になしや、此ごろは、こちのおもはくは、何してやら、すつきり、おとづれさへ、なく、さりとは、權平、ごんにやく、しんとがりじや、やらひやうあどないはなしにて、すまして置けり」とぞ[やぶちゃん注:どこで切れるのか自信がないし、意味も不明である。]。その次に、皆さまがた、客の前にて用ひ給うて、よき唐音のかたはし、記して、こゝに、おく。嫖子(ヒウツウ)、「けいせい」のことなり。面的不好(メン テ ホ ハウ)、これは「きつう顏ばせのわるい」となり。看々(カンカン)、「あれと見よ」といふこと。弇茶來(ナツサウライ)、「茶をもてこい」と云ふこと。酒兒(ツエンウ)、「酒」の事。老臉皮(ラウレンヒイ)、「つらのかはの厚い」こと。未曾去(ウイツヱンチユイ)、「まだかへらぬ」といふこと、など、しるされし。また、閨中の隱語に、「をしのふすま」・「羽をならぶる鳥」・「鶴のあさり」・「帆引ぶね」・「つながぬ舟」・「月ごもり」・「さやの中山」・「甲斐がね」・「碓氷の山越」・「よろぎの磯ぶり」など、いへることのありとしもきゝたれど、そのよし、辨ふ[やぶちゃん注:「わきまふ」。それぞれ何を指すのかを説明すること。殆どが性行為の体位の呼び名であろう。]べからず。詳なる事は、有職者に就きて問ふべし。此くだりは戲れに同じ類ひを記しつけて、けふのまとゐに、諸君の笑具に充つと云ふ【今俗の隱語に、遣漏あまたあり。かぶ伎ものゝ、「ハネル」・「ヒヤメシ」・「クニヲキル」、人形づかひの「左平次」・「トン兵衞」・「ボツトセイ」、幇間は、「とがり」と云ふ。「カミ」・「セメ」・「シハラ」。鳶のものゝ、「テンボウ」・「オモタカ」・「鼠根ツキ」、大工の「ヒヤカス」など、猶、いくらもあり。閨中の隱語の、わきまへがたきにはあらず。さればとて、人前にて披露すべきをりは、是等はこゝにのせずも、あれかし。】[やぶちゃん注:頭書。これは曲亭馬琴のおせっかいなそれと推定される。]。

  文政八年乙酉春二月八日

             好 問 堂 記

 

[やぶちゃん注:「委巷叢談」明の田汝成撰になる小説集。全一巻。

「猜彙」「せいい」か。書誌情報不詳。

「滑稽雜談」(こつけいざうだん)は。京都円山正阿弥の住職で俳人でもあった四時堂其諺(しじどうきげん)著の俳諧歳時記。正徳三(一七一三)年八月成立。写本二十四巻。四季の時令・行事・名物等を月順に配列して二千二百八十六項目を収録。説明は類書中でも最も詳密で、広く和漢の書を典拠とし、著者の見聞を加えて考証してある。「おさくり」とあるが、「おさがり」の誤り。ここに出ている(国立国会図書館デジタルコレクションのトル大正六(一九一七)年国書刊行会刊の「滑稽雜談  第一」)。

「世事談綺」「本朝世事談綺」。「諸国里人談」(私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている)で知られる俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)の享保一九(一七三四)年刊の説話集。

「毛吹草」江戸初期の俳書。七巻五冊。松江重頼著。寛永一五(一六三八)年序、正保二年(一六四五)刊。俳諧の作法を論じ、句作に用いる言葉や資料を集め、句作の実例として四季に分けた発句二千句、付合百句を収録する、貞門の俳論の代表作。

『豆腐に紅葉を付くるは、「かうえうに」との、こゝろなり』「かうえうに」は「紅葉」(もみぢ)=「こうえふ」を「買ふやう」に掛けたもの。次注の引用を参照。

「堺鑑」衣笠一閑(宗葛)著になる堺についての最初の地誌。貞享元(一六八四)年。久次米晃氏の古板地誌研究会発行「堺鑑」底本の翻刻が、PDF縦書版で「堺地史資料・随想  アーカイブ」からダウン・ロード出来る。その末の「土産」の項に(漢字表記はママ。総ルビだが、一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママ。括弧類や一部の句読点は私が添えた。)。

   *

紅葉豆腐(もみぢどうふ)

何國(いづく)にも豆腐は有共(あれども)、別して當津(たうつ)のを勝(すぐれ)たりと古人(こじん)より云傳(いいつたへ)り。「紅葉」と云(いふ)名を加(くわへ)たることは、堺の櫻鯛(さくらだい)にも劣(おとら)ず味(あぢはひ)なれば、とて、角(かく)云(いへる)とぞ。花に對する紅葉の縁(えん)成(なる)べし。又、或人の云く、『「此豆腐を、人の能(よく)かふやうに。」と祝(いはふ)て、付(つけ)たる名。』共(とも)云(いへ)り。「買様(かうやう)」と「紅葉(こうえふ)」と音便成(なる)故歟。今、豆腐の上に紅葉を印す。詞に就(つい)て形(かたち)を顕(あらはす)成(なる)べし。買用(かふよう)も通(かよひ)てよし。

   *

「東坡志林」宋の蘇軾の著になる随筆で、小説や神異・志怪をも含む。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本の当該部の画像が見られる。最終行である。

「僧謂ㇾ酒爲般若湯、魚爲水梭花、雞爲鑽籬菜。」訓読するなら、

 僧、酒を謂ひて「般若湯」と爲し、魚、「水梭花」と爲し、雞、「鑽籬菜」と爲す。

であろう。

「千手觀音蛸手多」これが一休の作で隠語とするなら、私は極めて性的なニュアンスを感ずる。

「たてぬか。」表は「生け花して立てないか?」であろうが、勃起とコイツスのことも含んでいるように読める。

「花甁がない。」ここでは『「金」の事なり』と言っており、それでいいとは思うが、花を逆に勃起したファルスに転ずれば、花瓶は女性生殖器の喩えともなるであろう。

「臥雲日件錄」室町時代の京の臨済宗相国寺(しょうこくじ)の僧瑞渓周鳳の日記。書名は周鳳が「臥雲山人」と称したことに由る。現存するものは、相国寺の惟高妙安(いこうみょうあん)が永禄五(一五六二)年に抄録したものであるため,「臥雲日件録拔尤」ばつゆう)」とも称する。記事は文安三 (一四四六)年から文明五(一四七三)年に及ぶ。周鳳は南北朝期の先達であった義堂周信を慕っていたため、周信の知られた日記「空華日工集」(くうげにっくしゅう)に倣ってこの日記を記した。

「盜賊中有隱語。曰止湯、曰合沐、曰二錢湯。銭湯者不ㇾ論貴賤各領ㇾ所ㇾ盜。曰合沐者、諸賊等分其財。曰止湯者。不ㇾ論多少所ㇾ盜歸賊中首也。」我流で訓読するなら(読みは隠語の部分は適当に振った)、

盜賊の中に隱語有り。「止湯(とめゆ)」と曰ひ、「合沐(あひもく)」と曰ひ、「錢湯(せんたう)」と曰ふ。「銭湯」とは、貴賤を論ぜず、各々、「盜みせる所を領(らう)ず」[やぶちゃん注:現代仮名遣「ろうず」で、「自分のものにする」の意。]なり。「合沐」と曰ふは、諸賊等(ら)、「其の財を分かつ」なり。「止湯」と曰ふは、多少を論ぜず、盜みせる所の、賊中の首(かしら)の歸へるをいふなり。

か。

「洞房語園」同じ庄司勝富(生没年不詳:江戸中期の町人。江戸吉原の開祖庄司甚右衛門の第六代の後裔で、新吉原江戸町一丁目の妓楼「西田屋」を経営し、同町の名主を務める傍ら、俳諧や詩作に親しんだ)なる人物の書いた同名異本が二つある。一つは俳諧・漢詩文集・随筆。前集三巻・後集一巻。前集は元文三年(一七三八)刊。後集は享保一八年(一七三三)成立で、写本で伝わる。吉原の遊女屋主人である編者の作のほか、俳人・絵師・遊女などの吉原に関する句文を収める。今一つは、随筆。二巻。享保五年(一七二〇)成立。前の書と区別するために「異本洞房語園」と称されることが多い。江戸の遊里吉原の歴史を述べたもの。写本で伝わったため、転写の過程で増補記事を加えた異本が多数あり、代表的なものに、山東京伝の増補本や、江戸座の俳人石原徒流が増補した「北女閭起原」(「洞房語園異本考異」は増補記事のみを集めたもの)、寛閑楼佳孝著「北里見聞録」がある、と「朝日日本歴史人物事典」にあった。どちらであるかは、調べる精神的余裕が今はない。悪しからず。

「武野俗談後篇」主書名は「ぶやぞくだん」と読む。当世の名人奇人等の逸話を集めた江戸中期の講釈師で作家の馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)が、近世前期の名家逸話集である木村毅斎著「武野燭談」に倣い、当世の名人奇人等の逸話を集めた列伝。後篇は「名婦之部」。漢字かな交じり。馬場は本姓は中井。伊予出身で、江戸に出て、名を文右衛門と改め、文耕と号し、初めは易術で生計を立てていたという。諸家に出入りして、座敷講釈をする一方で、第八代将軍徳川吉宗を賛美するエピソードや、時事問題を題材とした実録小説を書き、貸し本屋に売って暮らしを立てていた。性、闊達で、豊かな学識を持っていたが、世に入れられぬ不満から、講釈中にも第九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗すること多く、宝暦八(一七五八)年九月、当時、御家騒動で有名だった美濃郡上八幡城主金森頼錦(かなもりよりかね)の収賄事件を「珍説もりの雫」と題して、話のなかに取り込み、さらに小冊「平かな森の雫」を公刊したため、捕縛され、幕政を批判した科(とが)で打首獄門となった。閲歴には不詳な点が多いが、吉宗に仕えた下級の幕臣であったとも言われる。

「松葉屋」妓楼の名。参照したサイト「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の上記書の書誌に、「名婦之部」に「松葉屋瀬川平沢流卜筮之事」とはある。

「ありとは見えてあはぬ君かな」「新古今和歌集」巻第十一「戀歌一」に坂上是則の一種として載る(九九七番)、

    平定文(たひらのさだふみ)家歌合に

 その原や

   ふせ屋におふる

  帚木(ははきき)の

     ありとはみえて

          あはぬ君かな

同歌合は延喜五(九〇五)年に行われたものか。「ふせ屋」は旅人のための無料宿泊所のこと。「帚木」(ははきぎ)は幻想上の樹木で、信濃の園原(そのはら)にあって、遠くからはあるように見え、近づくと消えてしまうという、箒(ほうき)に似た伝説上の木。転じて、「情があるように見えて実のないこと」、また、「姿は見えるのに会えないこと」などの喩えとされる。この一首は知られた和歌の中では、最初に「帚木」を詠んだものであるらしい。

「よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見ゆる花の夕顏」「源氏物語」の「夕顏」の帖で、夕顔の君がよこした扇に書かれた歌に、光源氏が返歌したもの。

 寄りてこそ

     それかとも見め

     たそかれに

         ほのぼの見つる

               花の夕顔

「柳里恭」(りうりきよう(りゅうりきょう)は文人で画家の柳澤淇園(きえん 宝永元(一七〇四)年~宝暦八(一七五八)年)の漢名通称。大老格で甲府藩主であったかの柳沢吉保の筆頭家老であった曽根保挌(やすただ)の次男として、江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれた。大和郡山藩重臣で儒仏・医学・書画など十六の芸に通じたとされる。特に絵画は精緻で、豊麗な色彩花鳥画のなどにも優れ、南画の先駆者の一人とされる。

「獨寢」(ひとりね)は柳澤淇園が享保九(一七二四)年二十四歳の時に執筆した随筆。同年に柳沢氏は大和国郡山への転封を命ぜられており、その直後から数年の間に記されたと見られている。文章は「徒然草」や井原西鶴・江島其磧の用語を取り入れ、和文に漢文体を混ぜていると評されている。内容は江戸・甲府における見聞で、特に遊女との「遊び」の道について記されていることで知られる。ほか、甲斐の地誌や甲州弁の語彙を記していることでも知られる。原本は現存せず、数十種の写本が知られる。

「唐音」これは恐らくは「からおと」で当時の中国語音写を指すものと思われる。

「面的不好(メン テ ホ ハウ)」推定で読みに半角を空けた。]

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