芥川龍之介書簡抄111 / 大正一一(一九二二)年(二) 二通
大正一一(一九二二)年二月十日・田端発信・薄田淳介宛
啓菊池の病氣や何かの爲江南游記掉尾の原稿遲滯を來たし御氣の毒に存じますさて同游記も廿九囘を以て一段落つきましたが今度は長江游記へとりかかる前に一週間程息つぎをしますしますといふよりさせて下さい一日四五枚書きつづけるのは中々樂ぢやありませんしかし讀者退屈とあらば何時までも延期してよろしい當方の考へでは長江游記、湖北游記、河南游記、北京游記、大同游記とさきが遼遠故これからはあまり油を賣らず一游記五囘乃至十囘で進行したいと思つてゐます 以上
二月十日 芥川龍之介
薄 田 淳 介 樣
二伸 四百金難有く頂戴 丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた爲早速入用が出來ました あれは大阪から來た泥棒かも知れない
[やぶちゃん注:この中の「長江游記へとりかかる前に」、「一週間程」、「息つぎをします」。「します」、「といふより」、「させて下さい」。「一日」に「四」、「五枚」を「書きつづけるのは」、「中々」。「樂ぢやありません」。「しかし」、『讀者』「が」『退屈』だと言うので「あらば」、これ、「何時までも」、「延期して」、「よろしい」という尻(けつ)捲くりは、既に述べた通り、この紀行群を連続して書き上げることが、龍之介にとって、かなり負担であったことが判る。しかも、共時的に他から催促される複数の小説も書かねばならなかったのだから、頭を切り替えるのが恐ろしく大変だったということはよく判る。
「菊池の病氣や何かの」(後部は「や何やかの」の脱字であろう)「丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた」この前の一月二十七日、講演のために名古屋に向けて出発し、翌二十八日土曜日の午後六時半に、名古屋の椙山(すぎやま)女学校で行われた文芸講演会(新布陣協会主催・新愛知新聞社後援)に小島政二郎・菊池寛らと出席し、孰れも表現と内容の問題に関する講演をしている。ところが、夜、別のホテルに宿泊していた菊池が、睡眠薬のジャール(芥川龍之介が自死に際して用いたと公的に認められている二薬の内の一つ。今一つはベロナールだが、私は孰れも噓だと思っている。検死は芥川龍之介とツーカーであった芥川家主治医下島(空谷)勳である。私は睡眠薬や劇薬(阿片チンキ)を常用していた龍之介はかなりの薬物耐性を持っており、ベロナールやジャール如き睡眠薬で自殺を完遂させることは不可能であると考えている(自殺希望者は完遂するために睡眠薬の多量服用をするが、逆に嚥下してしまい、未遂に終わる場合の方が多い)。龍之介が渇望した通りの、確実に死ぬことの出来る劇物でなくてはならない。私は青酸カリが使用されたと睨んでいる。同一の見解と、その入手先(目と鼻の先にあったのである)まで推理した山崎光夫著「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成七(一九九五)年九月号『オール讀物』初出・単行本・平成九年六月文藝春秋刊)を、是非読まれたい)。を過剰に服用し過ぎて、人事不省に陥り、二日二晩昏睡を続けるという事件が起こっていた(様態は安定したため、三十日に菊池を残して芥川と小島は名古屋を発っている)。また、この書簡を書く直前の二月七日頃、芥川家に泥棒が入って、以上に書かれた品々などを盗まれた(以上は、新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。
「江南游記掉尾の原稿遲滯を來たし御氣の毒に存じます」この日に最終回を「二十九 南京(下)」を脱稿した。
「當方の考へでは長江游記、湖北游記、河南游記、北京游記、大同游記とさきが遼遠故」芥川龍之介の中国紀行は、これで(最初のリンクは私のサイト一括版で、後方のリンクはブログ分割版へのそれである。私の芥川龍之介の電子化注では、最大にして、誰にも負けない注釈附きである。古い教え子で当時は中国に住んでいたS君の協力も得て、当時、龍之介が歩んだ場所の検証と、現在の当地の画像などもふんだんに用いてある。私の偉そうな謂いに、「片腹痛いわ」とほくそ笑む御仁は、どうぞ、二〇一七年八月十八日発行の近代文学研究者であられる山田俊治氏(現在、横浜市立大学名誉教授)の編になる「芥川竜之介紀行文集」を立ち読みされたい。その山田氏の解説の最後(393ページ)を見られたい。参照先行文献の一覧の最後の最後に――天下の岩波版「芥川龍之介全集」(新全集)がずうっと並んだその終りに――『および、藪野直史「Blog鬼火~日々の迷走」』と書いてあるから。私のブログ記事「岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)」を読まれるが、よかろうぞ)、
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「上海游記」(大正一〇(一九二一)年八月十七日~九月二十一日の期間の中で、二十一回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊及び『東京日日新聞』に連載)・【ブログ版】
「江南游記」(は大正一一(一九二二)年一月一日~二月十三日の期間の中で、二十八回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載)・【ブログ版】
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が既発表及びこれより発表されることとなっているわけだが、ここで龍之介はさらに続いて「長江游記」・「湖北游記」・「河南游記」・「北京游記」・「大同游記」という五つの紀行群をも、ものす予定だと、ぶち上げているわけだが、実際には、後は、
「長江游記」(大正一三(一九二四)年九月一日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で一括掲載で、同誌は大阪毎日新聞社とは無関係)・【ブログ版】
「北京日記抄」 (大正一四(一九二五)年六月『改造』に一括掲載。言わずもがな、同前)・【ブログ版】
「雜信一束」(初出未詳。大正一四(一九二五)年十一月三日改造社刊の単行本紀行文集「支那游記」に「自序」の後、「上海游記」・「江南游記」・「長江游記」・「北京日記抄」そして本作を掉尾に構成配置した)
の三作で終わっているのである。則ち、厳密に言えば、「湖北游記」・「河南游記」・「大同游記」の三篇は書かれず、「北京游記」というのは「北京日記抄」でお茶を濁した恰好になったのである。以上の後半の三作は、その分量も、ぐっと減っており(「「上海游記」は原稿用紙百一枚、「江南游記」は百五十枚であるのに対して、「長江游記」は二十枚半、「北京日記抄」は二十二枚、 「雜信一束」に至っては、後期の龍之介が好んだアフォリズム風の短章群で、しかも僅か七枚である)、「正直、いい加減、書くのに、飽きた」ということであろう(原稿枚数は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。]
大正一一(一九二二)年二月十五日(年次推定)・田端発信(推定)薄田泣董宛(転載)
卽席歌
原稿を書かねばならぬ苦しさに瘦すらむ我をあはれと思ヘ
雪の上にふり來る雨か原稿を書きつつ聞けば苦しかりけり
「甘酒」の終は近し然れども「支那旅行記」はやまむ日知らに
さ庭べの草をともしみ椽にあれば原稿を書く心起らず
作者、我の泣く泣く書ける旅行記も讀者、君にはおかしかるらむ
赤玉のみすまるの玉の美(は)し乙女愛で讀むべくは勇みて書かなむ
支那紀行書きつつをれば小說がせんすべしらに書きたくなるも
小說を書きたき心保ちつつ唐土日記をものする我は
原稿を書かねばならぬ苦しさに入日見る心君知らざらむ
のんきなるA・K論をする博士文章道を知らず卑しも
薄曇るちまたを行けば心うし四百の金も既にあまらず
澄江堂主人
二伸
一體ボクの遊記をそんなにつづけてもいいのですか。讀者からあんな物は早くよせと言ひはしませんか。(云ヘばすぐによせるのですが)評判よろしければその評判をつつかひ棒に書きます。なる可く評判をおきかせ下さい。小說家とジヤナリストとの兼業は大役です。
[やぶちゃん注:実際には歌群は全体が三字下げ、二伸以下は二字下げだが、総て引き上げた。底本の岩波旧全集の第十二巻「書簡 二」の「後記」によれば、この転載元は昭和五(一九三〇)年一月発行の『スバル』に薄田泣菫(淳介)によって『「芥川氏の即[やぶちゃん注:ママ。]興歌」として掲載され、昭和六年十月十日創元社發行の單行本『樹下石上』に收められた』とある。
「甘酒」は、この大正十一年一月に『大阪毎日新聞』夕刊に連載された里見弴(とん 明治二一(一八八八)年~昭和五八(一九八三)年)の小説。同作は一月五日から始まって三月二十二日に終わっている。里見は、しかし、この小説に、結構、てこづったらしい(小谷野敦氏のサイトの「里見弴・詳細年譜」に拠る)。
「のんきなるA・K論をする博士」不詳。]
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