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2021/08/31

芥川龍之介書簡抄133 / 大正一五・昭和元(一九二六)年五月(全) 九通

 

大正一五(一九二六)年五月一日消印・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・五月一日 鵠沼西海岸塚本八洲氣附 芥川龍之介(葉書)

 

拜啓、君或は君の奧さんに頂戴した栗は非常にうまかつた。但し食ひすぎて胃中の酸が殖ゑ、翌朝非常に難流した。健全なる君はあれを試みて見給へ。實にうまいよ。ここにゐると割合に好い。齋藤溥士の診察によれば血壓百十故海岸も差支へなきよし。但しまだ疲れ易いのに弱る。目下散藥、水藥、注射藥幷用。定刻散步。屁も餘り出ない。

 

 

大正一五(一九二六)年五月九日・鵠沼発信・山本有三宛

 

冠省。御手紙ならびに高著ありがたう。あのお禮は口數が多いので弱つた。興文牡から少し借金した。編サンものなどやるものぢやない。唯今當地に義弟のゐる爲、しばらく女房と滯在してゐる。催眠藥の量はふえるばかり。頓首

 五月九日   鵠沼にて   芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「高著」山本有三の直近の刊行は大正十五年三月刊の「途上」。確認したところ、新全集の宮坂年譜でそう指示してあった。

「お禮」筑摩全集類聚版脚注に、『興文社から出した「近代日本文芸読本」に採録した作家へのお礼のこと』とある。

「口數」「くちすう」。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」によれば、「近代日本文芸読本」の収録作家は百十九人(収録作品は百四十八篇(短歌・俳句は数首・数句を纏めて一篇と数えて))に及んだ。同年譜のこの日の条に、『編集を務めた『近代日本文芸読本』で儲けて書斎を建てた、などという妄説に悩み、三越の「十円切手」を、遺族も含め、作品収録作家一一九名全員に分配したものと思われる』とある。

「義弟」塚本八洲。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十一日・鵠沼発信・平木二六宛(絵葉書)

おん句拜見、皆々近頃のおん句よりも面白く存候小生も句あり

   さみだれや靑柴つめる軒の下

   うららかに毛蟲わたるや松の枝

    二十一日       龍 之 介

 

[やぶちゃん注:平木二六(ひらきにろく 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人。東京市日本橋区横山町生まれ。東京府立三中卒。室生犀星を知り、詩作を始め、この大正十五年元日に犀星の序文と、芥川龍之介の跋文をつけた詩集「若冠」を発表し、同年、中野重治・堀辰雄らと『驢馬』を創刊した。戦後は『日本未来派』同人。ペン・ネームは「平木二六(じろう)」。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十二日(消印)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木ふさ樣(絵葉書)

 

又々栗を頂戴し何とも御禮の申上げやう無之候。佐々木君と二人にて仲よく食べ候間左樣御承知下され度候。今度は食ひすぎぬやうに氣をつけ居り候。頓首

 房子女史十才の像[やぶちゃん注:底本にはここに『〔繪葉書の草原に坐せる少女の姿を指す〕』と記す。絵は載らないが、市販のもので、芥川龍之介の自筆の絵ではないと推定される。]

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、五月二十日頃に夫佐佐木茂索が、房子からとして栗を持って訪問したとある。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十四日・鵠沼発信・山本有三宛

 

拜啓、手紙をありがたう。そんなに心配して貰ふと、恐縮に堪へない。しかし吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる勇氣があればそれはもう病氣でも何でもない――と云ひたくなる位だ。中々そんな勇氣は出ない。しかし藥や溫灸はやつてゐる。それから何月號といふ約束はおやめ[やぶちゃん注:ママ。]にした。唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる。右御禮かたがた御返事まで。

    五月二十四日     芥川龍之介

   山 本 有 三 樣

 

[やぶちゃん注:「そんなに心配して貰ふ」例の「近代日本文芸読本」の一件。

「吉祥寺から市ケ谷まで五箇月も通ひつめる」不詳。山本のある仕事場への行き来を指しているか、或いは、大正八(一九一九)年三月に再婚したはな(旧姓井岡)とのエピソードかも知れない。よく判らない。

「唯今芝居を一つ製造せんとしてゐる」不詳。以降のこの年の発表作には戯曲やレーゼ・ドラマはない。但し、翌年まで広げて、シナリオ形式も含めるならば、翌年四月一日に発表される素敵に慄っとする「誘惑―或シナリオ―」(『改造』)と、私の特に偏愛する「淺草公園―或シナリオ―」(『文藝春秋』)がある。リンク先は孰れも私のもの。前者はオリジナル詳細注附き。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛

 

冠省御手紙拜見仕り候。上京するならば五月二十五日より六月中旬までに來給へ。その後は東京にゐないかも知れない。君の字變に角張つて來て、どうも愉快に眺められない。神經衰弱には毒だよ。今度からはもう少し柔かにしてくれ給へ。頓首

    二十五日       芥川龍之介

   渡 邊 庫 輔 樣

 

[やぶちゃん注:この手紙については、既注。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月二十九日・きくや二六君坐敷にて 芥川龍之介

 

冠省今平木二六の下宿に來てゐる 日本詩人所載野口米次郞の會の事を書いた萩原朔太郞君の文章を見て大いに感動した 敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ

     破調

   兎も片耳垂るる大暑かな

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月二十九日    龍 之 介

   室 生 犀 星 樣

 

[やぶちゃん注:この芥川龍之介書簡の「敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ」は、龍之介の書簡中の一句として、しばしば引用される有名なものである。新全集の宮坂覺氏の年譜(或いはこの言い方を五月蠅く思われるかも知れない。しかし、私には必要なことなのである。私は、その新全集の年譜のコピーに拠って今まで語っているのであるが、私は別に一九九三年岩波書店刊の宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 附年譜」を持っているからである。そこには、新全集版のそれの原型となった、宮坂氏渾身の年譜があるからである。なお、恐らくこれを新し買おうという人は、まず、おるまい。何故なら、その「芥川龍之介全集」とは正字版の岩波旧全集を指すからである。しかし、岩波旧全集に拘る私は、この本に今も助けられている。この場を借りて宮坂覺氏に御礼申し上げるものである)によれば、この日の条に、『室生犀星に、萩原朔太郎「中央亭騒動事件」』(『日本詩人』大正十五年六月号の『靑椅子』欄初出。正確には表題は下に『(實錄)』が附く。なお、月刊雑誌等が実際の発行日よりもフライングして発行されるのは、今も昔も同じである)『を読み、感動したことを伝える。この事件は』、この五月十一日に『に行われた野口米次郎の『日本詩集』出版記念会』(以前からずっと気になっているのであるが、あらゆる研究書や年譜(筑摩書房の「萩原朔太郎全集」の年譜でも)でこの出版会を「『日本詩集』出版記念会」とするのだが、野口に「日本詩集」という詩集はない。これは、この日に、次号の「詩話會」の機関誌『日本詩人』の、この五月号が「野口米次郞記念號」として特集扱いで発行され、同時に詩人としての生活三十周年と満五十歳(野口は明治八(一八七五)年十二月八日生まれ)の誕生を祝賀する会が東京丸ノ内にあった「中央亭」というレストランで「詩話會」主催で多くの詩人らを集めて開かれたのである)『に出席した朔太郎が絡まれているのを見て』(正確には絡まれていると誤認して、である)『犀星が親友の危機と』早合点し、『椅子を振り回し』て、『加勢に駆けつけた』という一件である。この出来事は、萩原朔太郎の「中央亭騷動事件(實錄)」を読んで貰うに若くはない。「青空文庫」で、新字であるが、ここで読まれたい。因みに、そこでは朔太郎に絡んだかのように見えた、事件の発端の開いてしまった一人が、詩人岡本潤であったことも記されている。岡本潤(明治三四(一九〇一)年~昭和五三(一九七八)年)は本名保太郎で埼玉県生まれ。大杉栄・クロポトキンらのアナキズムに共鳴し、大正九(一九二〇)年に同年に結成された「日本社会主義同盟」に参加し、その頃から詩作を始めた。大正十二年には前衛詩運動に参加し、壺井繁治・萩原恭次郎らと、詩誌『赤と黒』を創刊した。昭和三(一九二八)年に処女詩集「夜から朝へ」を刊行、次いで昭和八年には第二詩集「罰当りは生きてゐる」を出したものの、発禁処分・押収となった。昭和一〇(一九三五)年十一月、治安維持法違反容疑逮捕され、翌年二月に釈放されるまで拘留された。昭和十一年一月に京都のマキノ正博による「マキノトーキー製作所」の陣容が発表されているが、岡本はその「企画部」のメンバーに名を連ねている。脚本を書いたようだが、当時のペン・ネームは不明で、同社は昭和十二年四月には解散している。昭和十五年に花田清輝らと『文化組織』を創刊、翌年には第三詩集「夜の機關車」を刊行、昭和十七年、大映多摩川撮影所に勤めている。戦後、敗戦から四ヶ月後の十二月二十七日公開の田中重雄監督の映画「犯罪者は誰か」の脚本家として「岡本潤」でクレジットされている。昭和二二(一九四七)年、アナキズムから共産主義へ転向している。

「きくや」不詳。可能性の一つとして、ひらがなの崩しで「ひらき」と書いたのを、編者が判読を誤った可能性がある。「飛」をもとにする「ひ」は「き」に、「良」をもとにする「ら」は「く」に似て見えるからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日・田端発信・薄田泣堇宛(転載)

 

拜啓過日は泣堇文集御惠投下され難有く存じます。裝幀が上等で紙が上等なのに驚きました。これからぼつぼつ拜見致します。なほちよつと鵠沼へ行つてゐた爲御禮狀が遲れ申譯なく存じて居ります

     鵠沼所見

   さみだれや靑柴つめる軒の下

    五月三十日      芥川龍之介

   薄 田 樣

 

[やぶちゃん注:「泣堇文集」は大正十五年五月八日発行。無論、大阪毎日新聞社刊である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇視認出来る。]

 

 

大正一五(一九二六)年五月三十日」牛込區矢來町三新潮社氣附 木村毅樣・五月三十日 芥川龍之介

 

冠省。高著文藝東西南北頂戴いたし難有く存候。あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され恐縮に存候。Browning  Dramatic lyric が小生に影響せるは貴意の通りなり。これは報恩記のみならず「藪の中」に於ても試みしものに御坐候。尤も小生の南蠻小說などはいづれも餘り上出來ならず、唯小生はきりしとほろ上人傳だけは或は今でも讀むに足る乎と存じ居り候 頓首

    五月三十日       芥川龍之介

   木 村 毅 樣

 

[やぶちゃん注:「木村毅」(きむら き 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)は文学評論家・明治文化史研究家・小説家。岡山県勝南郡勝間田村(現在の勝田郡勝央町)生まれ。少年時代から文士を志し、『少年世界』や『文章世界』に投稿した。高等小学校卒業後、三年間、独学し、その後、早稲田大学英文科に入学、大正六(一九一七)年卒。当該ウィキによれば、『隆文館、次いで早稲田で同級だった植村宗一(直木三十五)らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も』詩人で宗教家であった宮崎安右衛門の「乞食桃水」や、宗教家西田天香「懺悔の生活」等のベストセラーを企画した。大正一〇(一九二一)年には、『『都新聞』に連載され』、『その後』、『私家版で書き継がれていた中里介山』の長篇時代小説「大菩薩峠」を『知り、出版を社長に提案し、宮崎安右衛門の紹介で介山と交渉して刊行したところ、大評判となった。関東大震災を機に』、『春秋社をやめ』、『評論』・『翻訳活動を行』うようになった。「小說硏究十六講」(大正一三(一九二四)年)は好評を博し、『川端康成に影響を与え、松本清張はこれを読んで小説家志望の念を固めた』という。『また』、『改造社の社長山本実彦』(さねひこ)『の依頼で』「現代日本文学全集」(大正一五(一九二六)年)を『編集し、その後』の『ブームとなる』所謂、「円本」の『嚆矢となった』(最後のそれは芥川龍之介が自死の前月まで宣伝講演で東北・北海道を巡回させられたそれである)。「明治文化研究会」『同人となり、のち第』三『代会長も務め』た。昭和三(一九二八)年には、『ヨーロッパへ渡り、デュマの遺跡探訪や、改造社の依頼でコナン・ドイルの翻訳権交渉なども行った』。小説・実録・『評論のほか、明治文化・文学を研究し』、『多数の著作を残す一方、日本フェビアン協会、労農党に参加。社会運動にも挺身した』。ここに出る「文藝東西南北」(大正一五(一九二六)年五月三十日刊)からの『明治・大正文学の研究は大きな業績で、この序文で内田魯庵は「木村君は東西古今に亘る多読家を以って知らる。就中明治文化に就いては夙に潜思して博渉最も力む。日に古書肆を採訪して露店までも漁って倦まず、往々意外の逸書を掘出して忘れられたる資料を捜り当てるあて第六感を持つてをる」と評された。また尾崎秀樹は「明治・大正文学研究をそれぞれの時代状況や社会の推移と照応させ、明治文化の全体像の中に位置付けようとした」「東西文化・文学との比較研究」「資料渉猟に基づく実証主義的な研究態度」「文学の社会的研究」をその評価、特色として挙げている』。戦後は、『早稲田大学百年史編纂委員、神戸松蔭女子学院大学教授を勤め』た、とある。なお、岡山県勝田郡勝央町(しょうおうちょう)にある勝央美術文学館の「文豪からの手紙」の「芥川龍之介と木村毅」のパンフレットPDF)が見逃せない。芥川龍之介の木村宛書簡(本書簡のそれもある)の写真も載る。必見!

「あの中には小生の南蠻小說の事をもお引用下され」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『『文芸東西南北』所収の「南蛮文学概説」で、木村は「南蛮小説」「芥川氏の独擅場」と評している』とある。

「Browning  の Dramatic lyric」イギリスの詩人ロバート・ブラウニング(Robert Browning 一八一二年~一八八九年)。本邦では、上田敏の訳詩集「海潮音」(明治三八(一九〇五)年)の中で愛誦される詩の一つにブラウニング「春の朝(あした)」がある。当該ウィキを見られたいが、そこには、ここで龍之介自身が記しているように、『芥川龍之介は自ら「ブラウニング信者」と称し、ブラウニングの』「指輪と本」を『意識的に下敷きにして』、かの「藪の中」(リンク先は私の古い電子テクスト。私の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』もお勧めである)『を書いたとされる』とある。

「報恩記」大正一一(一九二二)年四月『中央公論』初出。「切支丹物」。前掲書の石割氏の注に、『木村は「報恩記」に「ブラウニングの劇的抒情詩の様式の影響」を見た』と記され、また、『木村は、芥川の南蛮小説で「第一に好きな」作品とした』とある。

「きりしとほろ上人傳」『新小説』大正八(一九一九)年三月、及び、「續きりしとほろ上人傳」として、同じ『新小説』の同年五月が初出。「青空文庫」のこちらで、新字であるが、読める。]

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