曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(2)
〇こは、又、其次の年、同州(おなじくに)おなじ郡(こほり)、梁川の近村なる貧民の、駄馬一疋を、もてる有り【その人の名をわすれたり。】。
かくて、あら田をかへす日も、この馬をもて資(たすけ)とし、又、耕作の暇(いとま)ある日は、薪(たきゞ)を負(おは)せ、旅客(りよかく)を乘せて、駄賃をとること、大かたならぬに、その馬、素より柔順にて、主のこゝろに隨ひければ、世に亦二(に)なきものに思ひて、年來(おしごろ)を歷(ふ)る程に、その年【文政三年。[やぶちゃん注:一八二〇年。]】の夏の頃、ある日、又、物を負はして、近鄕に赴きつ、足(そく)を獲(え)てかへるさに、家路も近くなりし時、その馬、忽ち、くるしげに一聲高く嘶(いなゝ)きしを、『見かへらん』とするほどしもあらず、馬は、はやくも、走りかゝりて、その肩さきに、くらひ着きけり。
「こは、そも、いかに。」
と、驚き叫びて、牽放(ひきはな)さんと、すまひしかば、ひとへ衣(きぬ)もろともに、しゝむらを、啖(くひ)とられけり。
さばれ、しばしは、苦痛を忍びて、とり鎭(しづめ)んとしつれども、かなふべくもあらざれば、林の中に逃げ走りしを、馬は透(すか)さず、追ひかけ來(き)て、仰(あふのけ)さまに噬倒(かみたふ)し、又、胸さきにくらひ着(つき)て、頻(しき)りに、その血を吸(すふ)程に、ぬしは、忽ち、息絕えけり。折から、旅ゆく獨(ひとり)の武夫(ぶふ)【足輕體のものなりしといふ。】、そのありさまを見てければ、林の中にわけ入りて、絆(ほだし)のはしを取りあげつゝ、牽(ひき)はなさんとしたれども、馬は、そがまゝ、ちつとも、動かず、眼中、血、はしり、人を射て、鬼燈(がゞち)の如く、赤かりける氣色、寔(まこと)にすさまじきを、すてゝゆかんは、さすがにて、その刀をもて、鞍ながら、馬の尻を擊(うつ)ほどに、終には𩋡(さや)をうち摧きて、したゝかに砍(き)りてけり。きられて、すこし肘怯(ひる)みし馬を、やうやくに牽(ひき)のけて、絆(ほだし)を取(とり)つめ、樹の幹に繫ぎ留めんとする程に、あたりを過(よぎ)る里人等(さとびとら)、追々に來にければ、件(くだん)の武夫は、初(はじめ)より見しありさまを告(つげ)しらせて、馬を里人にわたしつゝ、林を出でゝ、ゆきにけり。
後に聞くに、この武夫は二本松の藩中にて、何がしといふものなりとぞ。
さる程に、農夫の子は、里人等がしらせによりて、あわてまどひて、走り來つ。
領主に訟(うた[やぶちゃん注:ママ。])へ、撿使を請うて、親の亡骸を葬むるものから、猶、そのうらみのやるかたなさに、馬は、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、その處に、生(いき)ながらに、これを埋めて、竹槍をもて、思ひのまゝに刺殺したり、といふ。
こは、當時、松前家の領分の事なりければ、老君の、興繼に物がたらせ給ひしを、おのれも傳へ聞きしかど、書きしるさんともせざりしかば、今は、その農夫の名も、村の名も、みな、忘れたり。こは、文政二年、三年と打續(うちつゞ)きたる事にして、おなじ郡の百姓の貧富、おのおの、異なれども、等しく愛せし馬なるに、松五郞が遣愛の馬は、古主の爲に賊を禦(ふせ)ぎて、鄕(さと)に「忠義」の譽(ほまれ)を得たり。又、この農夫が愛せし馬は、故(ゆゑ)なく、主(ぬし)を啖殺(くひころ)して、「五逆」に漏れれぬ罪を釀(かも)せり。おもふに、この件(くだん)の馬は、その途中より、ゆくりなく、疫熱(えきねつ)の疾(やまひ)をうけて、狂亂したるものなるべし。人にも亦、かゝる事、あり。牛馬にのみ限るにあらねど、畜生は、猶、測りがたかり。されば、牛・馬・猢猻(さる)をもて、世をわたるもの、多かれども、やすきに馴(なれ)て、用心に憚り、動(やゝ)もすれば、その害にあふものも亦、すくなからず。それ、身の爲には、この一條を警(いましめ)とすべきのみ【右、「五馬」之二。】
[やぶちゃん注:これは間違いなく、馬が突然、狂ったように暴れ出して、即死するケースもある怪異「頽馬(たいば/ぎば)」である。「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」の本文と私の注を参照されたいが、実際に発生する。そこで真犯人として最も私が疑っているものは、『虻(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera に属する一群の総称)のような吸血性昆虫を原因とする伝聞も』あり、『確かに』、『それらが耳・鼻などの奥に侵入して吸血行為を行ったなら』、『狂騒する可能性は高いが、それだけで致命的な死に至ることがあるという点では疑問が残る。但し、そうした中でも、馬伝染性貧血は注目しておく必要があるであろう。これは馬伝染性貧血ウイルス(レトロウイルス科レンチウイルス亜科レンチウイルス属(EIA: Equine infectious anemia virus )に分類されるRNAウイルス)による感染症で、ウイルスを含む血液が虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans )などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類(奇蹄目ウマ形亜目ウマ上科ウマ科 Equidae)にのみ感染するもの』である。
「二本松の藩」二本松藩。現在の福島県二本松市郭内にあった。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第三集) 五馬 三馬 二馬の竒談(1) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(3) »