曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第四集) 七ふしぎ
[やぶちゃん注:以下の条は著作堂馬琴のもの(但し、「馬琴雑記」には見当たらないので、吉川弘文館随筆大成版を加工底本とした)。段落を成形した。]
○七ふしぎ
あやしき事のかさなれるを、俗に「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水[やぶちゃん注:漢字ルビ。])」・「土中の火」・「三度栗」など、他鄕にはなき奇しき事の、七つまで、あればなり。そは、只、越後に限れるのみ。一時、
『怪異の、なゝつまで、かさなる事の、あるべしやは。』
と、かねては、思ひおきてたりしに、寬政のあはひ[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]に至りて、予が視聽を經たるもの、ふたゝびまで、ありければ、けふのまとゐの草紙料に、かきしるすこと、左の如し。
[やぶちゃん注:以上の序は、底本では全体ベタで二字下げ。
『「七不思議」といふなるは、越後よりおこれるにや。彼地には、「くさうづ(臭水)」・「土中の火」・「三度栗」』たまには、こういう、「昔、やっといて、ほんと! 良かったな!💛!」と思うことがなきゃ、やってらんねえわ! 私のカテゴリ「怪奇談集」の「北越奇談」(越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆)の、
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート10 其十一 「即身仏」)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート11 其十二 「七ツ法師」)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート12 其十三 「八房梅」)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート13 其十四 「風穴」)
北越奇談 巻之二 俗説十有七奇(パート14 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」)
を、どうぞ!
以下は行頭から。]
寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]亥年、甲斐國に「七奇異」あり【甲斐に「六奇異」あり。遠江に「一奇異」あり。合して「七奇異」とす。】。當時、ある人の消息に云く、
一、甲州善光寺の如來、當春、二、三月、汗、かき、寺僧兩人づゝにて、日夜、拭ひ候事。
一、甲州切石村百姓八右衞門家の鼠、大さ、身一尺餘、爲猫之聲候事。
一、右村より一里許山に入、石畑村に而、馬爲人話候事、尤、一度切にて、後、無其事。
一、同八日市場村・切石村・荊澤村にて、牝鷄、各、化爲牡鷄候事。
一、同東郡一町田中邊、三里四方許之間、五月、雹、降り、深さ三尺餘、鳥獸、被打殺候事。
一、同七面山嗚御池の水、濁渾[やぶちゃん注:「にごりまぢり」と訓じておく。]候事。
一、遠州豐田郡月村百姓作十郞方の鍬に草生候事、乃、先より三寸、一本枝、十六本、如杉形、三日にて花を開、似櫻花。枝・木・花、共に皆、鍬のかねなり。
[やぶちゃん注:以上の項目が二行に亙る場合は二行目は一字下げ(但し、底本では、二行に亙っているのは、一行字数の関係上、実際にそうなっているのは最後の一条のみである。
「甲州切石村」現在の山梨県南巨摩郡身延町切石(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。富士川右岸。
「石畑村」「今昔マップ」で発見した。
「八日市場村」切石の南の山梨県南巨摩郡身延町八日市場。
「荊澤村」富士川の上流の甲府盆地内に山梨県南アルプス市荊沢(いばらざわ)がある。
「東郡一町田中」山梨県山梨市一町田中(いっちょうたなか)。
「七面山嗚御池」「七面山」は山梨県南巨摩郡早川町赤沢のここにある(国土地理院図)。「嗚御池」というのは、地図上で見る限り、東北の尾根上にある日蓮宗敬慎院の「一ノ池」しかないように思われる。公式サイトの記載に、七面大明神がお住みなっている御池とある。但し、「嗚御池」(「なきおいけ」か)という呼称は現在はないようである。
「遠州豐田郡月村」静岡県浜松市天竜区月(つき)。
以下、クレジットまでは、底本では全体が一字下げ。]
大人星[やぶちゃん注:不詳。]出づる年は、怪しき事有りといへり。當年、星合、これにあたる、といふ。且、「五穀無實・兵動」と申事に御座候。
右之外、越後高田、大風雨、人、多、死す。信州松本、大地震之由。
寬政三年七月
[やぶちゃん注:以下、割注の「なくて、やみにき。」までは全体が二字下げ。]
這個の一通は、寬政十年の冬、家兄羅文の遺筐中に得たり。解云、唐山の歷史中、必、「五行志」あり。そのこと、漢魏六朝より京房・管給・郭璞等にまじはりて[やぶちゃん注:底本は「まじ」の右にママ注記。「はじまりて」の誤りであろう。]、隋唐の時、いよいよ、盛に、諸子百家の書に至るまで、禎祥妖孽、書せざることなく。禍福吉凶、推ざる[やぶちゃん注:「はからざる」。]ことなし。その不幸にして當れるもの、十に、七、八なり。君子はこゝに於て、愼み怕れ、小人は是において、喋々たり。豈、多端ならずとせんや。もし、房・璞のともがらを、今の世に在らしめて、この寬政の怪異を示さば、渠[やぶちゃん注:「かれ」。彼。]、將これを何とかいはん。しかれどもこの時に當りて、五穀、倉庫に充ち、四境、兵疫の愁をしらず。[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]
國家の動きなきこと、五嶽をかさねたる如く、四海安靜なること、三春の風なきに似たり。國道あれば、鬼、亦、鬼ならず。妖の盛德に勝たざること、只、寬政中のみならず、二百年來、すべて、かくの如し。仰ぐベし。亦、歡ぶべし【翌年壬子の夏、米穀高直につき、江戸中、「粥をたべよ」と、町ぶれ、有りけり。しかれども、粥をくらふものは、なくてやみにき。】。
[やぶちゃん注:「這個」「しやこ(しゃこ)」と読み、「這箇」とも書く。「這」は宋の俗語で、指示語の「此」(これ)の意で、「これ・これら」。
「家兄」馬琴(本名興邦)には長兄興旨と次兄興春がいたが、孰れも他家に移り、馬琴より先に亡くなっている(次兄の急死は天明五(一七八五)年の実母の門の死後まもなくか)。ここは「羅文」(らぶん)から寛政十年に亡くなった長兄興旨のこと。長兄は俳諧を好み、俳号を東岡舎羅文と称した。
「五行志」独立した書名ではなく、記載内容の呼称で、中国の正史の中の「志」の中の特殊な記載でさまざまな災異とそれについての解釈を記した部分を総称する。「漢書」の「五行志」にはじまる。
「京房」(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。
「管給」不詳。三国時代の占い師であった管輅(かんろ 二〇九年~二五六年)の誤記か編者の誤判読或いは誤植ではないか?
「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。
「禎祥妖孽」(ていしやうえうげつ(ていしょうようげつ))は「めでたいしるし(吉兆)と、不吉なことが起こる前触れ(凶兆)」。
「喋々たり」「てふてふたり(ちょうちょうたり)」。互いに無駄な議論し合ってただ五月蠅いこと。
「多端」物事が(無駄に)煩瑣なこと。多事。
以下、行頭から。]
寬政十一年[やぶちゃん注:一七九九年。]己未の夏、江戸馬喰町に、亦、七奇異あり【馬喰町に七奇異あり。岡附鹽町に一奇異あり。合して七奇異とす。】。彼町人等は、予が相識のもの、多かり。當時、その人々に聞ける趣をもて、しるすこと、左の如し。
[やぶちゃん注:「馬喰町」日本橋馬喰町一・二丁目。南東で以下の日本橋横山町に接する。
「岡附鹽町」サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、伝馬塩町・小伝馬下町(後の通塩町)の俗称とし、名の『由来は』、『馬に野菜を積んでくる近郷の者が塩を積んで帰ったため』とあり、現在の中央区日本橋本町四丁目・日本橋横山町・日本橋馬喰町一丁目相当とする。ここのかなり広域。
以下、冒頭の「一」のみ行頭からで、二行目以下は底本では一字さげ。]
一 寬政十一年夏六月、馬喰町なる板木師金八にて、ある夜、あやしき獸をとらへ得たり。そのかたち鼠に似て、常の鼠より、甚、大きく、胸より腹に至りて、虎斑あり。もとも非常の獸なれば、翌日、將て[やぶちゃん注:「いて」。持ち連れて。]まゐりて官府に訴ふ。當時、その獸の名をしるもの、なし。或は「『まみ』ならん」といひ、或は「雷獸にや」といへり。その言、みな、非なり。おもふに、蝦夷鼠の類なるべし。
[やぶちゃん注:「蝦夷鼠」蝦夷に拘るなら、北海道にのみ棲息する複数の動物種を考え得るが、当時の江戸に蝦夷地のそれらが、夏場の暑い時期に、木材や荷の中に迷い込んでやってくるというのは可能性としては極めて低いと思う。だいたい、そうした北海道にしかいない特別な種群に馬琴が詳しかったとも思えず、これは巨大なドブネズミミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus )を指しているのではないかと思う。私は一九六五年前後に家のそばの崖下の溝に尻尾を含めずに有に三十センチメートルはある死にかけた巨大ドブネズミを見たことがある。それは、汚れかも知れぬが腹部の毛が斑を呈していた。殆んど化け物だった。しかし、以下のより詳しい実況記載によれば、オランダ渡り(途中のユーラシア大陸のどこかで手に入れたものであろう)の本邦にいない獣であることが記されている。しかし、生態記載が少な過ぎて、私には同定出来ない。当時のオランダとの通好記録などを見れば、ヒントはあろうが、そこまでやる気は全くない。悪しからず。
以下は底本では、「一」別項の前まで二字下げ。]
この事、金八が家の向ひ長屋に、おうな隱居、住めり。ある宵に、行燈[やぶちゃん注:漢字表記は底本のママ。「灯」ではない。]の油を舐ぶる[やぶちゃん注:「ねぶる」。]もの有りけり。此おうな、
『鼠ならん。』
と、おもひつゝ、蚊屋の内より、これを追へども、驚き走らず。
あやしみて、つらつら見るに、いとおそるべき獸なれば、おうなは、いたく、うち騷ぎて、
「妖怪あり。」
と叫びしかば、板木師金八、その隣人と、もろともに、走り來て、うちに入る程に、件の獸は、はやくも逃げて、金八が家に入りぬ。
金八等は、又、にぐるを追うて、蠟燭に火をともしつゝ、
『先、そのかたちを見ん。』
とせしに、件のけもの、飛びかゝりて、その蠟燭を啖ふこと、兩三度に及びけり。既にして、けだものは隱れて、竃の下にをり、金八等、はか(相計[やぶちゃん注:漢字のルビ。])らひて、米櫃のからなりしを、橫さまにしつゝ、追ひこめて、やうやくに、とらへたり。後に聞くに、かの獸は、ある人、長崎より求め來て、このごろ家にかひおきたるに、箱鐵網を咬ひ破りて、急に逃げたるなり。しかれども、異國の獸を私に[やぶちゃん注:「ひそかに」と訓じておく。]かひける故にや、とらへられしを知りながら、そのぬしはしらず貌して、終に、いふよし、なかりけり。官府にては、件のけものを、しばらく留めおかれしのみにて、そがまゝ返し給ひにければ、憗に[やぶちゃん注:「なまじいに」。敢えて。]はなちも、やられず、その餌かひ[やぶちゃん注:「ゑかひ」。「餌飼ひ」。]には、日每々々に、油揚の豆腐、十五、六枚を、くらはする事にしあれば、金八は困じ果て[やぶちゃん注:「こうじはてて」。]、後悔しつ、と聞えたり。扠[やぶちゃん注:「扨」(さて)に同じ。]そのゝちは、いかにかしけん。後々までは知らず。
[やぶちゃん注:以下は総て、底本では、条の本文が二行目に亙る場合は一字下げが基本(附記がある箇所は二字下げ)。]
一、同年同月、おなじ町なる布袋屋といふ商人の裏借屋に住める人の女房【その良人の名を忘れたり】、卵を產みけり。これも、「まさしき事なり」と、その隣なる人の話なり。しかれども、卵にはあるべからず。そは「ふくろ子」のたぐひなるべし【布袋屋のうちにて、「袋子」をうみたるも、名、詮、自稱歟[やぶちゃん注:「な、せんずるに、じしやうか」。家主の屋号に洒落たつもりの厭な感じの評言である。]。】。
[やぶちゃん注:奇形胎児であろうか。]
一、又同月、同町壱丁目なる木戶際にて、一疋の牝犬に、二疋の牡犬、同時につるみたり。これを觀るもの、堵[やぶちゃん注:「かきね」。垣根。]の如し。
一、又同月、同町にて、四つになりける小兒、水溜桶におちいりて死にき。
[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]
こは、商人の店の前におくなる、天水桶といふものなり。夏の日の事なれば、その桶の水、涸れて、なかばゝかりに、たゝへたり。しかるに、その小兒、手にもてる人形を、件の桶におとしゝを、「取らん」としつゝ、あやまちて、さかさまにおちいりしを、あたりに人の見るものなくて、たすけ出さんともせざりしかば、そがまゝに、死したるなり。
「天水桶に入水して、はかなく命をおとしゝは、一奇事なり。」
といふもの、多かり。
一、又、同月、同町に、若き者共の爭論あり。仲人、和睦をとり結ばせて、酒くみかはしなどせし後に、そが相手のもの、湯がへりを、したまちして[やぶちゃん注:「下待ちして」。秘かに待ち伏せして。]、したゝかに斫りてけり[やぶちゃん注:「きりてけり」]。手疵、廿五ケ所なり。この他、手負、猶、あり。
「和睦して後に斫りしは、是もめづらしき事なり。」
といへり【これらの人の名、みな、忘れたり。】。
一、又同月三日、馬喰町と鹽町のあはひなる「三日月井戶」を晒しける日、綱曳のものども、鬪爭して、遂に出訴に及びしに、次の月の三日に至りて、やうやくに和睦しつ。まうしおろして[やぶちゃん注:「申し下(降)して」。互いに、相手に願い出て、取り下げさせて。]、事、をさまりぬ。
[やぶちゃん注:以下の附記は底本では、全体が二字下げ。]
「三日月井戶」は、井の水中に、板を建てゝ、左右の「しきり」にせしものなれば、そのかたち、半輪のごとし。よりて「三日月井戶」と呼びなしたり。初、この井を掘りしとき、双方の地主、こゝろを合せて、共に雜費を出だしゝに、後に、迭に[やぶちゃん注:「いれかはるに」か。当事者の誰彼が抜けて、他の者と代わったところが。]、不足起りて、遂に鉾盾[やぶちゃん注:「あらそひ」と訓じておく。]に及びしかば、所詮、井をしきらんとて、井の中に界[やぶちゃん注:「さかひ」。]を立て、南なる店子どもは、南のかたなる「しきり」の内の水を汲むのみにして、界の外へ、吊桶を卸すことを免されず。北なる店子も亦、かくの如し。今は、さまでにあらねども、「三日月」の名の高かるに、
「百日咳を愁ふるもの、この井に、しばしば祈るときは、應驗あり。」
と、いひもて傳へて、朝、とくまゐるものゝあれば、井に立てたりし「さかひ木」は、今もなほ、とり除かで、もとのまゝにて有りと、いへり。しかるに、その月、三日のあらそひ、「三日月井戶」より、事、起り、又、月の三日に至りて、和睦しけるも、奇なりといヘり。
一、これも又、おなじ年の夏の比、馬喰町に相隣る岡附鹽町なる旅人宿庄兵衞が客なりける、奧州のたび人鳥海何がし、しばらく江戶に遊歷して、更に又、鎌倉に赴きつゝ、御靈の社にまゐりし折、左の眼、にはかに失けり[やぶちゃん注:「うせけり」。眼が見えなくなった。]。その人、江戶にかへりて來て、庄兵衞等に告げていふやう、
「某[やぶちゃん注:「それがし」。]、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]鎌倉にて、御靈の神を、をがみし折、譬へば、豆を彈くが如く、左の眼中、ハツシと音して痛むこと、甚し。
「こは。いかに。」
と、驚きあわてゝ、神前をまか出つゝ、かくして、雪の下なる旅宿にかへりて、人に見せしに、めのたま(目子[やぶちゃん注:漢字のルビ。])、既に碎けたり。初、かの、みやしろは、何等の神を祭れりとも、しらずして、をがみしに、かくなりて後に、聞けば、『鎌倉權五郞景政を祭る。』と、いへり。故こそあらめ、某は彼景政が眼を射て、答の箭[やぶちゃん注:「とうのや」。応じて射た矢。]に命をおとしゝ鳥海の彌三郞が後裔なり。數ふる年の後にして、某が身に及ぶまで、今なほ、神怒のさがなる、いとおそるべき事なり。」
とて、頻に嘆息したりとぞ。この一條は、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]のころ、件の庄兵衞、予が爲に、いへり。こは「池北偶談」に載せたりける。宋の秦會が後裔秦某、明朝に仕へしとき、みづから、嶽飛を廟に祭りて、血を吐きて死せし事と、日をおなじくして、かたるべし。
[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。]
愚息琴嶺、興繼、この稿本を閱して云、
「景政の神靈、誣ふ[やぶちゃん注:「しふ」。罪のない人を有罪に陥れる。]べからずといへども、彼鳥海生が一眼の瞽[やぶちゃん注:「めしひ」。]せし事、その「風眼」のわざなるべし。大約[やぶちゃん注:「おほよそ」。]、「風眼」の病たる、にはかに、瞳子[やぶちゃん注:「どうし」。瞳。]の破るゝ事、あり。その破るゝとき、必、音あり。譬へば、豆を彈くが如し。渠も病症といふときは、神靈を誣ふるに似たり。又、神罰といふときは、病症に欵ひ[やぶちゃん注:「疑ひ」の誤記か判読の誤りであろう。]あり。この書、本日披講の後に、諸君の批評を聞かまほし。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで一字下げ。]
解云、予、寬政中には、上にしるしゝ馬喰町なる「六奇異」を聞きしのみにて、いまだ、鳥海が事をしらず。後に彼庄兵衞に、その事を聞くに及びて、歲月時日を敲きしに[やぶちゃん注:「ききしに」と訓じておく。]、
「これも寬政十一年夏、四、五月の事なりき。」
と、いへり。しからば、上の「六奇異」と同年同時の事にして、前件は馬喰町第一・第二の町に在り。後の一條は、相摸なる鎌倉にての事なれども、そが旅宿は、これも亦、馬喰町の隣町なり。こゝに至りて、同年同所に、又、「七不思議」ありしを知れり。抑、寬政兩度の「七奇異」、就中、鍬の鐵より花卉を生じ、二牡犬、同時に一牝犬に合したることなどは、もとも奇中の奇といふべし。前記を藏めし[やぶちゃん注:「をさめし」。]家兄は、さらなり、後の「七奇異」をつげ(報[やぶちゃん注:漢字のルビ。])たる人も、多く鬼籍に登るものから、今も、彼町々にて、四十歲已上の人は、記隱したるも、なほ、あるべし。筆錄の際、懐舊に、得、たへず、こゝにすぎ來しかたを思へば、ほとほと、三十許、年なり。
乙酉夏孟朔𪈐齋老人書于著作堂南窓綠樹深處
[やぶちゃん注:「鎌倉」「御靈の社」とは、現在の鎌倉市坂ノ下にある御霊神社のこと。祭神である鎌倉權五郞景政や、ここで語っている失明事件等については、「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の私の注を見られたいが、私はこの事件については、鎌倉の郷土史研究を始めた十代の終りから、よく知っている話なのである。さらに附言しておくと、ここでは、わざわざ松前藩医員であった息子の興継の見解を直接話法で附しているが、これは馬鹿親父解(とく:馬琴)の息子の知力の巧妙な宣伝行為なのである。しかも、興継がそう言ったというのも、実は馬琴自身がそう考証したことを、息子の手柄として書いた可能性が極めて高いのである。
「風眼」(ふうがん)今の若い連中は知らない病名だろうが、所謂、性病の淋病の淋菌が眼に入ることによって発生する急性の眼疾患の俗称で、盲目になるケースもあった。正式には、淋菌性結膜炎(gonorrheal conjunctivitis)という。感染経路が判らなかったことから、古くは、風や空気が原因で、発症するとされたことから、非常に古くから、この名で呼ばれた。淋菌によって起こる結膜炎であるが、強い眼瞼及び結膜の腫張と、大量の膿様眼脂(目ヤニ)を伴い、病変は、しばしば角膜にも達し、角膜穿孔を起こし、或いは白い癒着白斑を残す。耳前リンパ節は疼痛を伴い、腫張する。潜伏期はごく短く、数時間から三日程度で突然、発症する。私は医学書で感染した幼児の古い写真を見たが、両目の瞼が卵大に腫れていた。この病気は、高校時代に保健体育の授業で高齢の男の先生が詳しく説明して下さったのを、昨日のことのように記憶している(四十九年も前なのに)。「淋菌がどうして眼に入る?」ってか? 銭湯さ! 近代以前の銭湯(江戸では「湯屋(ゆうや)」と呼んだ)湯の温度が低く、しかも、湯の入れ替えも杜撰で、非常に汚れていた。「あやしき少女の事」で注したが、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、湯が汚いことは入っている客には、まるで判らなかったのだ。而して、四角い湯舟の場合、温度が下がり、しかも細菌類が集まり易いのは、内側の角の部分だった。大人ならば、そこに顔をつけることはまずないが、子どもは、違う。そして淋菌が眼に入ったのだ(授業では先生は湯舟の図を描いて細かく説明されていた)。
「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。
「宋の秦會」「秦檜」(一〇九一年~一一五五年)が正しい。南宋の宰相。金との講和を進め、和議を結んだが、その過程で、岳飛(一一〇三年~一一四二年)ら抗金派の政府要人を冤罪を負わせて謀殺した。
「𪈐」音「ライ」。鳥の名という以外に情報なし。「𪈐齋」は馬琴の号の一つ(「只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注」を参照されたい)で、この最後の端書は、「文政八年乙酉(一八二五年)の夏の孟朔(旧暦四月一日)、𪈐齋老人が著作堂として書いた。南の窓の綠樹の深き處にて。」という意味であろう。]
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