芥川龍之介書簡抄132 / 大正一五・昭和元(一九二六)年四月(全) 八通
大正一五(一九二六)年四月一日・田端発信・小穴隆一宛
けふ西田外彥氏夫妻並びに民子さんが來られた。西田氏夫妻の話を聞いて見ても、さう根深く君の緣談の邪魔をしてゐるとも思はれない。就いてはあの手紙は西田さんの手もとへ行かないやうにしてはどうか。それよりも若し必要があつたら、やはり西田さんと面談することにしてはどうか。右とりあへず當用のみ。どうも僕自身神經衰弱のせゐか、荒立てずにすめば何事も荒立てずに解決したいと思ふ。頓首
四月一日 芥川龍之介
小穴隆一樣
[やぶちゃん注:全く進展しな状態がずるずると続く小穴の縁談話。これもまた、神経衰弱・鬱気分・不眠症状を亢進させる(以下書簡参照)一要因となってしまっており、最後のある種、もうこの問題とは正直、距離を置きたい気持ちが露わになっていることが判る。「芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通」参照。「西田外彥」は哲学者西田幾多郎の息子夫妻で、高橋民子が小穴の縁談の相手で、西田幾多郎の姪にして哲学者。]
大正一五(一九二六)年四月五日・田端・渡邊庫輔宛
冠省、君に手紙書かずにゐてすまない。しかしその後あひかはらず神經衰弱はひどし、胃腸は惡いし、痔にも惱まされて鬱々と日を送つてゐる始末だ。君のゐた頃を何度もなつかしく思ふ。新聞まい度ありがたう。あれは齋藤さんからでも古今書院へ話して貰つてはどうか。この體では今どうにも出來ない。お父さんやお母さんによろしく。
四月五日 床上にて 龍
庫 輔 樣
[やぶちゃん注:門下生渡邊は恐らくは前年大正十四年の年初に父親の病気を理由に一時帰郷していた(四月十六日(採用していない)の修善寺からの書簡では『異國關係び歷史などいくらやつても語學の出來ぬ君に駄目』で、『精々長崎の』『無學なる』『考證家』になるだけだから、『一月に一度、二月に一度でも兎に角小說らしきものを書き、僕の所へ送つてよこせ』と一喝している)。なお、この十五年には再び上京して再び龍之介の通い書生となっている(五月下旬から六月中旬の間。後に示す五月二十五日附渡邊庫輔宛書簡に拠る)。しかし、父親が昭和二年年初に他界し、結局、龍之介の自死後は、長崎に帰って永住し、後、郷土史家として大成した。実際、龍之介が、堀辰雄を除いて、最も期待していた弟子であったともされる。]
大正一五(一九二六)年四月九日・田端発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・四月九日夜 市外田端四三五 芥川龍之介
冠省、いろいろお見舞の品を頂き、難有く存じ奉り候。いつも頂戴ばかりしてゐて申訣無之.さてアロナアル・ロツシユ、君は一錠にて眠られると言ひし故一錠のみし所、更に眠られず、もう一錠のみしが、やはり眠られず、とうとうアダリンを一グラムのみて眠りしが、アロナアルの効力は細く長きものと見え、翌日は一日懜々然[やぶちゃん注:「ばうばうぜん」。]として暮らしたり。右御禮かたがた御報告まで。頓首
四月九日夜 芥川龍之介
佐 佐 木 茂 索 樣
二伸 奧樣にもよろしく願ひ奉る。この頃下島さんに賴まれ、悼亡の句一つ。
更けまさる火かげやこよひ雛の顏
[やぶちゃん注:先月十六日に肺炎で急逝した下島の養女で小学校六年生であった行枝(龍之介が可愛がっていた。因みに、龍之介は也寸志が生まれる前の書簡(採用せず)で、次は女の子は欲しいと漏らしている)への悼亡句はこの四日前の六日の午後に訪れた下島から依頼されて作ったもの。新全集宮坂年譜によれば、この句は、『芥川の筆跡で行枝の墓碑裏面に刻まれた』とある。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「下島医師の娘の死」には、下島の書いた随筆「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の中の「それからそれ」(目次を見るに少なくとも半分以上は芥川龍之介関連の追想である)の中の『娘行枝の死にまつわる回想を引いて』おられる。歴史的仮名遣が用いられているので、漢字も正字と推定し、ここでは、鷺氏の引かれたものを恣意的に概ね正字化して示す(一ヶ所ある振り仮名は歴史的仮名遣に直した)。下島勲氏の著作はパブリック・ドメインである。
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『墓のことで思ひ出すのは、大正十五年の春私の娘が十四歲で病死した。平常可愛がつた芥川氏をはじめ犀星氏や久保田氏が自分の子供のやうになげき悲しんでくれたのである。また告別式には菊池氏や菅氏なども來て下さるといふやうなわけで、何のことはない少女文藝葬のやうな觀を呈し、大いに面目をほどこしたことであつた。それにつけても當時、供物として脇本樂之軒氏から贈られた春蘭が、すがれながらに三つの蕾を孕んで、現に私の机の傍らに寂しい影をつくつてゐる。
遺骨は鄕里信州上伊那郡中澤村字原區の、恰度[やぶちゃん注:「ちやうど」で切れる。]村の臍にでも相當する丘の裾の墓所に埋葬した。當時芥川室生久保田の三氏から贈られた悼亡句は、早速娘の晚年の手すさびに成る、刺繡の薔薇の花を配して帛紗[やぶちゃん注:「ふくさ」。]に染めぬき、學校の先生朋友知人そのほか緣故の方々へ記念として贈つたのであつた。その悼亡句は
更けまさる火かけやこよひ雛の顏 龍之介
うちよする浪のうつつや春のくれ 万
若くさの香の殘りゆくあはゆきや 犀星
その後私の考案になる墓碑を建てたのであるが、村は鄕里三峯川(みぶかは)產の堅質できめのこまかい光澤ゆたかな靑石を撰び、刻は久しく谷中天王寺前で修業したといふ石工の技術、表面の戒名は私の自筆、その裏面へ三氏の俳句を肉筆さながらに彫刻したもので、一寸類の尠ないハイカラな形ちと趣きを現はした墓碑だと思つてゐる』
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鷺氏は、『このユニークな墓碑は下島の記す通り駒ケ根市中澤の下島家墓地に現在も殘されている』とある。見てみたい。調べて見たが、位置が判らない。行枝さんの魂の安寧のためには、そっとしておくのが良いのだろう。
「アロナアル・ロツシユ」allonal roche。スイス・バーゼルのエフ・ホフマン・ラ・ロッシュ社製の非アルカロイド睡眠・鎮痛剤。大正一一(一九二二)年に本邦で市販許可がなされている当時は新しい薬である。宮坂年譜の四月上旬の条に、『湯河原で一時やめていたアダリンの服用がまた始まる。もはや通常の量では足りず、三倍以上の二グラム程度を服用した。佐佐木茂索からもらった』この『アロナール・ロッシュ』も、『この頃から時々服用するようになり』、『以後長く常用することとなった』とある。当時の医学会では薬物依存症への殆んど配慮がなかったと思われ、強い睡眠薬の市販も普通にされていた。また、龍之介は齋藤茂吉を含む親しくなった複数の医師から、かなりの量の薬物を入手しており、多量服用による副作用と耐性化が依存症への拍車をかけたといってよい。
「アダリン」既出既注。
「懜々然」はっきりしないぼんやりした状態。
この四日後の四月十三日に、病的な自身の怪奇談集「凶」(未定稿。生前には発表されず、死後の全集で公開された。リンク先は私のマニアック注附版)を脱稿している、と宮坂年譜にはある。
翌々日の四月十五日、小穴隆一が来訪したが、小穴によれば、この日、芥川龍之介は彼に自殺の決意を告げた、とする。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照。]
大正一五(一九二六)年四月二十二日・田端発信・南條勝代宛(葉書)
冠省 御手紙拜見仕り候今日よりちよつと鵠沼へ養生に參り候間來月廿日以後にお出下され度願上候 頓首
四月廿二日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:宮坂年譜によれば、この二十二日に『文と也寸志を連れて、鵠沼の東屋(あずまや)旅館へ静養に出かけ』ている。既に述べたが、『当時、鵠沼には』結核症状が顕在化していた文の弟『塚本八州の療養のため、塚本一家が移住して』おり、『以後』、この大正十五年『年末まで、鵠沼が』(住居は同鵠沼の中で移動している)芥川龍之介夫婦と三男の『生活の主』な『拠点となった』とあるが、『鵠沼では』思いの外、『来客が多く』、逆に『疲労感をつのらせる』結果ともなり、この凡そ一ヶ月余り後の六月一日には(後に掲げる)、『鵠沼に一月ゐる間の客の数は東京に三月ゐる間の客の数に匹敵す』などと書き送って』いるありさまで、『来客中は元気に振る舞ったが、客が帰ると』、『額から脂汗を流し、縁側に倒れてしまうようなことがあった』とある。なお、この東屋旅館は明治三〇(一八九七)年頃(本誌の発行の前年)から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館で、多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や、斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 東屋」及び『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 鵠沼の図』に掲げた挿絵を見られたい。]
大正一五(一九二六)年四月二十三日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)
「馬の脚」の出てゐる新潮二册蒲原の來る時に託されたし。間に合はねば小包みにて送られたし。以上
二十三日 龍 之 介
二伸伯母さんの健康に氣をつけられたし。
又カラカミの本棚の一番上の段に山路愛山著孔子論並びに何とか氏著孔子とその徒ありそれもついでに送られたし。
[やぶちゃん注:「馬の脚」前年大正十四年一・二月発行の『新潮』に発表されたもの。単行本未収録。最後の作品集「湖南の扇」に載せるつもりがあったものか。ロケーションからは腑に落ちる。
「蒲原」通い書生の蒲原春夫。
「伯母さん」芥川フキ。
「カラカミの本棚」唐紙障子の引き戸のついた本棚。
「山路愛山著孔子論」評論家・歴史家・思想家であった山路愛山(元治元(一八六五)年~大正六(一九一七)年:本名は彌吉。独特な思想家で、元は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示して、独自の国家社会主義思想を標榜したことで知られる)の「孔子論」(明治三八(一九〇五)年民友社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。
「何とか氏著孔子とその徒」安藤円秀(生没年確認出来ず)著「孔子とその徒」(大正一二(一九二三)年日本堂刊)であろう。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。著者は「農学事始」「諸経随筆」などの著作があり、また、僧侶で、愛知県碧南市にある浄土真宗大谷派龍蓬山安専寺第四十一世住職として、こちらに名が揚っている。別な資料では、東京帝国大学教授でもあったとある。]
大正一五(一九二六)年四月二十三日(年次推定)・鵠沼発信・芥川比呂志同多加志宛 (絵葉書)
コレハヂビキアミデス。ヒロシハミテシツテヰルデシヨウ。タカシノビヨウキハドウデスカ。
二十三日 龍 之 介
大正一五(一九二六)年四月二十五日・鵠沼発信・渡邊庫輔宛(底本注に、封筒に『一人にて見るべし』との断り書きある旨の附記がある)
冠省。この間君のことで武川君が來た。君の手紙も見た。僕が永見よりも君を重んじてゐる事は君自身も知つてゐる筈だ。破門されたなどと莫迦なことを言ふものには僕の手紙を見せろ。僕はまだ體惡く弱つてゐる故、長い手紙は書けない。僕は時々君がゐれば好いにと思つてゐるぞ。右當用のみ。頓首
四月二十五日 芥川龍之介
渡邊庫輔樣
二伸 僕は女房や子供と鵠沼の東屋へ來てゐる。好學心もなければ性欲もなし。鬱々たるばかりだ。
[やぶちゃん注:人物は判っているが、どうもそれらの関係がはっきりとしないために、今一つ、状況がよく判らない。次の書簡によれば、この日の朝には胃酸過多で吐きそうなったとある。
「武川君」作家武川重太郎(むかわじゅうたろう 明治三四(一九〇一)年~昭和五五(一九八〇)年)山梨県出身。「アテネ・フランセ」に学び、少年時代に小栗風葉に師事し、上京して玄文社記者となり、その傍ら、この前年の大正十四年より、『不同調』同人として創作活動に勤しんだ。後、『富士の国』を主宰した。]
大正一五(一九二六)年四月二十六日・鵠沼発信(推定)・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(葉書)
冠省 伊藤さんは時々來てくれるか? 猿山の卓の如きものは預つておいてよろし。きのふの朝ひどい胃酸を叶きさうになつた。又昨日蒲原が來て夕がたかへつた。お前の風は如何。文子曰多加志の病氣は如何?
四月二十六日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「伊藤さん」伊藤和夫(?~昭和四〇(一九六五)年)は龍之介の三中時代の同級生。
「猿山の卓の如きもの」不詳。]